子供の頃、行きたくても行けなかった場所がある。読み書きと計算を教えてくれる小学校、外国人など助ける気のない救貧院、王国民なら貧乏人でも診てもらえる病院だ。死にかけたときも、捨てられかけたときも、あの国は決して自分を守ってはくれなかった。安い賃金でしか雇ってもらえず、金貸しにさえ借金を断られ、何度己の生まれを呪ったか知れない。何度救いがもたらされるのを夢見たか。
 国籍を得るまでの十五年、人生は苦難の連続だった。あの時代、庇護と援助を最も必要とした少年期なら、差し伸べられた手の印象もまったく違っていただろう。長すぎた放置も許し、理解し、受け入れようと努めただろう。
 だがもう遅い。俺はとっくに一人の足で歩いている。吹く風によろけ、石につまずき、泥道に転んだ日々は過ぎ去ったのだ。
 俺はとっくに一人の足で歩いている。父親の手など借りずに。




 ******




「レイモンド、今日の飯はどうだ? 美味いか?」
 問うた男と問われた男を交互に見やり、ルディアはパンをちぎっていた手を止めた。乗り移ったコグ船のこじんまりした船長室は今日も今日とて気まずい緊張に張り詰めている。
 地図や帳簿類が押しのけられた食卓にはぎこちなく笑う父親と無言の息子、それを見守る他人が二人。先日の歓迎会より多少マシだというだけで居心地は最悪だ。
「えっと、レイモンド? ……まずかったか?」
 沈黙に耐えきれず、再度イェンスが尋ねた。槍兵はなお一切答えずに、静かにスープを啜っている。さっさと食べればそれだけ早く席を離れられるので、無駄話などしたくないと言わんばかりだ。
 二日ほどの風待ちののち、クアルトムパトリアを発って一週間が経つ。その間レイモンドの冷淡な態度は一貫して変わらず、むしろ悪化した観さえあった。初めの頃はまだ無愛想か不機嫌と言えなくもない反応だったのが、ここ数日はめげずに笑顔で接するイェンスにガンを飛ばしたり舌打ちしたり、嫌悪を隠さなくなっていた。一度など「俺はあんたと喋りたいことなんかねーんだけど?」と吐き捨てたほどだ。それでもどうにか会話を弾ませようとしてくるあたり、イェンスに諦める気はないようだが。
「……別に、普通」
 やっと答えた声は低く刺々しい。眉間に刻まれた濃いしわも「鬱陶しいから構うなよ」と言っていた。
 イェンスも壁と話しているほうがまだ報われるのではなかろうか。ルディアは彼ら親子の問題に口を挟める立場にないし、友人としてもレイモンドを諭す気など微塵もないけれど、こんな澱んだ重い空気を生み出しているのがいつも明るい彼であるのには胸が痛んだ。
 普段通りに振る舞えないのは誰より本人が苦しいだろう。会いたくなかった父親の前で、きっとよく耐えているのだ。
「あー……あんたはどうだ? 俺の作った昼飯はちゃんと口に合ってるか?」
 と、同席するもう一人の男がルディアに尋ねた。スヴァンテという、この船では若い部類の副船長だ。金髪碧眼で大柄な彼は特に北辺人らしい風貌をしている。羽織った毛皮も屈強な肉体も古代の戦士そのものだった。ついでに言えば、自信ありげに彼が示した魚介のスープも相当古風な――粗野で大味な一品だった。
「あ、ああ。……まあまあいける、かな」
 ドロドロになるまで煮込まれて、骨まで溶けた琥珀色の液体を匙ですくって舌に乗せる。飲み込むのに覚悟がいるほど奇怪な味わいではないものの、香辛料があればなという思いは否めない。どうも北辺人にとって味とは塩味を指すらしく、他の料理も皆こんな調子なのだ。ルディアはスープにちぎったパンを浸し、濃すぎる塩分を中和させた。
 毎度レイモンドが「別に、普通」としかコメントしないのはイェンスと慣れ合いたくないせいだけではないだろう。食堂の息子としては、お世辞でも誉めそやすなどできないに違いない。仄かな生臭みを嗅ぎつけるたび槍兵は目つきを険しくしているのだから。
「アクアレイアじゃ普段どんなメシ食ってるんだ? 俺は祝祭日に食えるものしか知らなくてさ」
 こちらの胸中に気づくこともなく今度はイェンスが別の問いを重ねてくる。レイモンドに話しかけても間がもたないためか最近はルディアに話を振られることが多かった。団欒の場を盛り上げて、なんとか親睦を深めたいのだろう。己を丸め込んだところで槍兵が心を開くとも思えないが、一応オリヤンの顔を立てるべく丁寧に応じる。船旅はこの先も一ヶ月、サールリヴィス川の河口を守るコーストフォート市まで続くのだ。あまり素っ気ない真似はできなかった。
「そうだな、魚なら酢漬けにしたり、油で揚げたりしたものをよく食べたよ。肉ならワインで煮込んだ仔牛とか、オリーブオイルで煮込んだチキンとか」
 ルディアの返答に北辺人たちは「えっ、酢漬け?」「酒や油で煮込むのか?」とどよめく。マリネとかフライの説明をしても彼らにはまるで想像がつかないらしかった。
「それって美味いのか? 酒は酒で飲んだほうがいいんじゃねーか?」
 まじまじと助言され、ハハと乾いた笑みが漏れる。塩味オンリーよりは断然美味いのだが。
「ごちそうさま」
 そうこうする間にレイモンドが食事を終えて立ち上がった。苛立つばかりの船長室から早くも引き揚げるつもりなのだ。待たせぬようにルディアも急いで残りのパンとスープを掻き込む。
 あと何回、こんな風にやり過ごさなくてはならないのだろう。イェンスの船に移って以来、レイモンドは極端に口数が減り、笑うこともなくなっていた。ルディアと客室にこもっているときでさえ彼はほとんど押し黙っている。息を潜め、身じろぎもせず、まるで自分という存在を薄められるだけ薄めているかのように。
 レイモンドは、きっとよく耐えているのだ。それだけに彼が今の状態を長く続けられるとも思えなかった。
「あっ、ちょっと待ってくれねーか?」
 引きとめる声がかかったのはルディアが匙を置いたときだった。いつもなら「これ以上こんな部屋にいられるか」という言外の拒絶に負けて息子を見送る父親が、今日は果敢に延長戦を挑んでくる。イェンスは干渉しすぎないように注意している風だったが、さすがに進展がなさすぎて焦れてきたのだろう。
「あのさ、そろそろ次の街に着くんだよ。ディータスってとこなんだが、その、良かったら俺と一緒に回らないか? この船古いし、お前好みのモンも揃ってねーみたいだし、色々買ってやりたいなって思ってて」
 ためらいがちな誘い文句に槍兵は扉の前で足を止めた。その背中の強張りに「あ、これはまずい」と予感がよぎる。
 レイモンドが喋らないのは無論喋りたくないからだろうが、不用意な発言を避ける意図もあるように思われた。彼とて損得の機微に通じたアクアレイア人なのだ。イェンスに噛みつきすぎて揉め事になればデメリットしかないことは百も承知のはずだった。
 とはいえそんな勘定はあくまで理性が行っているに過ぎない。そして理性は、それがいかに堅固なものであろうとも小さなきっかけで崩壊するという難点を有していた。
「別にあんたに買ってほしいものとかねーし、そういうのいらねーから」
 槍兵が振り向くや、部屋の温度が一気に下がる。底冷えする目に見据えられ、イェンスはがっしりと逞しい肩を凍りつかせた。
 まったく視線が合わないのも、まっすぐ目を見て否定されるのも、どちらも肝の冷えるものだ。侮蔑の眼差しを向けられたのは己ではないとわかっているのに身震いする。
「……ま、まあ、なんだ、そう言うなって。見てみりゃ何か気に入るかもしんねーだろ? 金のことなら気にしなくていいからさ。いつかお前に会えたときのためにって結構貯めてあるんだよ」
 イェンスはなおしつこく食い下がった。だが彼の気遣いは却って槍兵を逆上させたらしい。「は?」という声とともに青筋の立ったこめかみが引きつる。
「だからそういうのいいっつってんだよ。アレイア語わかる? パトリア語で言ったほうがいいか? 今まで何もしてこなかった奴に、今更何もされたくねーんだって!」
 荒々しい台詞ののち、部屋はしいんと静まり返った。イェンスもルディアも息を飲み、その場に釘づけになってしまう。
「……」
 長居すると言い合いになると断じてか、短い嘆息一つこぼして槍兵はドアに手をかけた。そんな彼をまた別の声が引きとめる。ここで退散させてくれればまだしも平行線を保てたものを。
「いやいやいや、そいつはちょいと聞き捨てならねえぞ。何もしてこなかったなんてこたねえよ。イェンスはちゃんと、子供のためにできることはしてきたんだから」
 反論したのはスヴァンテだった。船長を慕う副船長は席を離れ、いかめしい顔でレイモンドに近づく。たしなめる口調に槍兵は目を吊り上げた。
「できることはしてきた? 俺はなんにもしてもらった覚えはねーけど?」
「呪いの話は聞いただろ? お前がこうして生き延びてるのはイェンスがお前のために毎日祈りを欠かさなかったからだ。雨の日も風の日も雪の日も嵐の日も、こいつがこっそりまじないを続けてたの、俺らは皆知ってんだよ」
 レイモンドは「は?」と怪訝に眉を寄せた。おそらく本当にわからなかったのだろう、スヴァンテが何を言いたいのか。ルディアにもそれが真面目な弁護だとすぐには察せられなかった。あまりにも文化的背景が異なりすぎて。
「だから、お前がカーモス神の生贄にならねえようにイェンスはいつも祈ってたんだって。特別な月は肉断ちもしたし、でかい供物も捧げたし」
 聞けば聞くほど共感から程遠くなる。説得力ゼロの主張をレイモンドは鼻で笑い飛ばした。
「祈ってたって、なんだそれ? 北辺じゃそんなことが『してやったこと』のうちに入るのかよ?」
 スヴァンテもまさか一笑に付されるとは思いもよらなかったらしい。「そんなことだと?」と目を丸くして彼は槍兵に凄んだ。
「お前それマジで言ってんのか?」
 どうも厄介な事態になってきた。常識に差がありすぎてコミュニケーションが成立していない。これは仲裁役が必要そうだとルディアは椅子を蹴って立ち上がった。異文化理解もない状態で罵倒し合うなど愚の骨頂だ。とにかく一旦この場を収めねばならなかった。
「そんなことだろ。んなもんただの自己満足じゃねーか。ひょっとしてこれもあんたらの言うまじないのつもりで置いてったわけ?」
 が、ルディアが間に入るよりもレイモンドの切れるほうが早かった。槍兵は首の紐を手荒く掴むとセイウチの牙の首飾りを引っ張り出す。今にもそれを床に叩きつけそうな彼を見てイェンスがさっと顔色を変えた。
「レイモンド!」
「母ちゃんに渡されたから仕方なく持ってたけど、もう返すわ。意味なさそうだし、つけてても腹立ってくるだけだし」
 レイモンドはテーブルに引き返し、イェンスに首飾りを突き出す。「駄目だ」としきりに首を振る父親に冷めた目を向け、槍兵は「俺の好みじゃねーんだよ」と手を離した。
「――レイモンド!」
 瞬間、響き渡った怒号にビリビリと空気が揺れた。電光石火の速さで首飾りを引っ掴むとイェンスは我が子にそれをもう一度つけ直させる。
 鬼気迫る形相だった。分別を失くしかけていたレイモンドまで一瞬飲まれてしまうほど。
「これは駄目だ。気に入らなくても持ってなくちゃ駄目だ……! 頼むから、お願いだから外さないでくれ……!」
 ひれ伏すように崩れ落ち、イェンスは「頼むから」と繰り返す。か細い声の常軌を逸した震え方に槍兵はややたじろいだ。だがレイモンドは父親が迷信的であればあるほど憤りを覚えるらしい。すぐにまた顔を歪め、「馬鹿じゃねーの」と吐き捨てた。
「ビビって逃げて、遠くから祈ってただけのくせに、父親ぶろうとするんじゃねーよ!」
 スヴァンテを押しのけて槍兵は船長室を飛び出した。甲板を渡る足音はそのまま床下の倉庫へと消えていく。レイモンドを追いかけようとルディアも身を翻した。
「待ってくれ、ブルーノ!」
 が、外に出る直前にイェンスに呼び止められる。彼はもう起き上がり、長い髪を振り乱してこちらに迫っていた。
「あの子は呪いを恐れていないとオリヤンが言ってたが、まさか少しも信じていないのか!? どんなに危険な血を引いているか自分でわかっていないのか!?」
 あまり必死に尋ねてくるのでつい目を斜めに逸らしてしまう。信じていないのはルディアも同じだ。正直レイモンドが怒っている理由もわかる。恐れずともいいものを恐れた父親のために、彼は多大な辛苦を強いられる羽目になったのだから。
「アクアレイア人は商人だからな。ゲン担ぎで守護精霊は大事にするが、こういったオカルト話は胡散臭く響くというか……」
 ルディアの返事にイェンスはスヴァンテと目を見合わせた。交錯する視線が震える。どうする、まずいと逼迫した声が響いた。そんな船長に何かの同意を示す素振りで副船長が小さく頷く。
「ブルーノ、呪いは本物だ」
 神妙な面持ちでイェンスはこちらを振り返った。青ざめた唇が「パトリア人には疑われることもあるが、嘘じゃない」と真摯に告げる。
 そう言われてもとルディアは返す言葉に悩んだ。わかった信じると口にするのは簡単だが、それはそれで別の面倒を生みそうで。
「――」
 そのとき突然イェンスがルディアの左手首を握った。他人には触れないようにしていると言っていたのに、予告もなく、本当に突然。
 異変はただちに全身を襲った。左腕から波打つような悪寒が駆け、頭も胴も四肢も臓腑も凍りつかせた。
「……っ」
 ぞっとしたというだけならばこれほど驚きはしなかっただろう。ルディアが目を瞠ったのは、この世のものではないモノがイェンスの傍らに覗いたからだ。
 ――手だ。霧のごとく透けた白っぽい男の右手。それがイェンスの右肩の上に浮いている。
「な、ん……っ」
 指をほどけば幻は消えた。跳ねる心臓を押さえてルディアは後ずさりする。
「視えただろ? 視えたなら、どうかあの子にお守りを捨てるなと言ってくれ……!」
 イェンスは頼むと言って深く深く頭を下げた。まだ己の目にしたものを信じられず、ルディアは呆然と室内を見回す。けれどあの不可解な右手はどこにも見つけられなかった。種や仕掛けの類もだ。船長室は先刻とまったく変わらず、狭く雑然としている。
「大丈夫、ここにいるのはカーモス神でもルスカ神でもない。フスという何百年も昔の祭司だ。俺に悪さしなけりゃフスは大人しくしてるよ」
 説明を聞いてもさっぱり意味がわからなかった。亡霊ということなのだろうか。そんなものが存在するとしての話だが。
「いいか? 本当に頼んだからな?」
 イェンスもこれ以上教える気はないらしく、戸口に立って見送ろうとする。彼は一刻も早く息子に忠告してほしいようだった。
 促されるままルディアは船長室を出た。このときはまだ、フスが一体なんなのか、なんの予感も判断も持ててはいなかった。




 ハンモックに腰を下ろしたルディアの様子はどこか普段と違っていた。腕を組み、唇に人差し指を押し当てて、何やらじっと物思いに沈んでいる。
 客室に戻ってくるのも遅かったし、あの北辺人たちに何か言われたのだろうか。考えなしに声を荒らげた尻拭いを彼女にさせたのでなければいいが。
(姫様、呆れちまったかな)
 寝床から半身を起こしてレイモンドは溜め息をつく。あんな風に怒鳴る気はなかった。ルディアに迷惑をかけないようになるべく大人しくしているつもりだったのに。
(なっさけねー、あれくらいで余裕なくなっちまうなんて)
 もっと自分を抑えなくては。この船を降りるまで、一年も二年もかかるわけではないのだから。
「……レイモンド、お前さっきの首飾りどうした?」
 と、こちらを仰いでルディアが尋ねる。思わぬ問いにレイモンドはムッと唇を尖らせた。今しがたの反省も忘れ、守るべき王女に吠えてしまう。
「まだ持ってるけど、それがなんだよ?」
 何故そんなことを蒸し返すのだと不快感を露わにするとルディアは「いや、少し気になることがあってな」と曖昧に言葉を濁した。
「悪いがしばらく手放さないでほしい」
 理由も告げずに頼まれて反発と不信が芽吹く。急に彼女がイェンスの味方になった気がした。もしかしてさっきの騒動であの男に同情したのではないか。そんな不安がレイモンドを襲う。
「それってあいつのために言ってんじゃねーよな?」
 自分の声に自分で驚いてハッと息を飲み込んだ。常にない冷ややかな口ぶりにルディアも目を瞬かせる。気遣わしげににこちらを見やり、彼女は「違うよ。本当に引っかかることがあるだけだ」と弁解した。
「…………」
 八つ当たりだ。そう自覚してレイモンドはハンモックに逃げ込んだ。
 伏せた背中に向けられた視線が痛い。こんなみっともないところ、ルディアには見せたくなかった。しかも自分は、彼女を支えるために側にいるはずなのに。
「……ごめん、忘れて」
 なんとかそれだけ呟くと長い息を吐き出した。隣ではルディアが床に降りた足音が響く。板の軋みはそのままゆっくり近づいた。
「レイモンド、次の街で降りるか?」
 突然の提案にぎょっとする。起き上がってルディアを見れば真剣な眼差しと目が合った。
 このときレイモンドは彼女が船長室で見た例の手について知らなかったので余計びっくりさせられたのだ。後から聞いた話によれば、亡霊の件がなくともルディアは同じ問いかけをするつもりだったそうだが。
「な、なんで?」
「だって嫌なんだろう? 私としてもこれ以上、無用にお前を苦しめたくない。手持ちの金は少ないが、幸いコーストフォートまでは陸続きだ。辿り着くのも不可能ではあるまい。ディータスに船が入ったら雲隠れしてしまおう」
 辛抱させて悪かったなとルディアは詫びた。酷く申し訳なさそうに。
「あんたが謝ることじゃないだろ」
 咄嗟にレイモンドは首を横に振る。ついてきてくれただけでありがたいのに、そんな顔をされては堪らない。大体こうなるように仕組んだのはオリヤンではないか。
「じっとしてりゃ目的地には着くんだぜ? 陸続きって言っても街道には盗賊が出るし、この船なら海賊に襲われる心配はねーし、別に一ヶ月くらい俺」
 あんたのためならという言葉は飲み込んだ。ルディアに変な気を回させたくなかったから。
「私がお前を見ていられないんだよ」
 強がるレイモンドに彼女は優しく微笑みかける。囁きは胸にじんと染みた。
 ああ、自分はちゃんと一人の人間として尊重してもらっているのだ。それがわかって嬉しかった。そうしてますます承諾不可能になる。優先すべき第一はやはり彼女の身の安全だ。船を降りることはできないと。
「駄目だってば。陸路は危ねーっつってんじゃん」
「しかしな、レイモンド」
「つーかパーキンはどうすんだよ。あいつオリヤンさんの船に乗ってんだぜ? 俺らが逃げたら印刷機ともお別れだぞ」
 指摘に一瞬ルディアが喉を詰まらせる。「いや、その」としどろもどろになりながら彼女はレイモンドの説得を続けた。
「ア、アクアレイアに印刷産業を確立したいという話は、実現すれば儲けものだという感覚で言ったのだ。それに、なんだ、パーキン自身が出資者を求めて越境してくるかもしれないし」
「来るかなー? あいつ適当だから、約束してても別の金持ち見つけた途端になかったことにされそうじゃね?」
「来なかったら来なかったときだ。お前は気にせず自分のことだけ考えろ」
 そんな風に言われると尚更己の都合など後回しにしてしまう。折角見つけたアクアレイア復活の希望を北の地に置き去りにしたくもなかった。
「やっぱこのままコーストフォート市まで行こうぜ」
 レイモンドはきっぱりと告げる。ルディアはルディアで意地になり、語気を強めて反論した。
「だからお前一人が我慢することはないと言っているんだ。防衛隊は解散したんだぞ? 私やアクアレイアのために、自ら傷つかなくていい」
 そりゃ確かにそうだけど、とレイモンドは口ごもる。
 主君のためとかお国のためとか、そんな崇高な考えでここまで来たわけではない。自分はただ、好きだから離れられなかっただけだ。
「……わかった。そんじゃ我慢がストレスじゃなくなるようにご褒美くれよ」
「は?」
「そしたら俺も頑張り甲斐があるし、ここにいる価値もちょっとは見い出せると思う」
「いや、褒美と言われても私には金が」
「金じゃなくていいんだって。一ヶ月後ってちょうど俺の誕生日くらいだろ? 去年二人で蛍見たみたいにさ、コーストフォートでぱーっと楽しいことしようぜ。なっ、デートしよ」
 デートって、とルディアが呆れ顔で見上げる。思ったより元気じゃないかと白けた双眸が語っていた。
 こっちの彼女のほうがいいなと安堵する。謝罪なんかされたって焦るだけでちっとも嬉しくない。
「それでお前の気が晴れるならいくらでも付き合うが、本当に、無理しなくていいんだぞ?」
 しつこいまでの心遣いに頬が緩んだ。一人ではないと実感する。ルディアがいてくれるなら、一ヶ月の航海が二ヶ月、三ヶ月に伸びても耐えられるのではないかと思えた。いや、降りていいなら今すぐにでも降りたいが。
(どうせなら日給の出るガレー船の漕ぎ手になりたかったぜ。一ヶ月もありゃ結構稼げたはずなのに……)
 そうか、俺、こんなに消耗してるのに収入はゼロなのか。
 衝撃の事実に気づいてレイモンドは愕然とする。途端この時間の空費が馬鹿らしくなり、据えかねる怒りが湧き起こった。
「いっそ我慢すんのもうやめちまおうかな。この船にいる以上、絶対ストレスゼロにはならねーし」
 そうだ、大人しくしてやる義理などない。自制は全てルディアのためにしてきたことだ。断じてあの男のためではない。
「我慢をやめる? どういうことだ?」
 案じるルディアにレイモンドは「ああ、別に喧嘩しようってんじゃないぜ」と笑った。
「割り切って大人の付き合いするのもありかなってさ」
 疑問符を浮かべる彼女を避けてハンモックを降りる。頭に描いた考えが現状よりは己に利する点が多いのを認めると、レイモンドはぴしゃりと両手で頬を打った。
「うん、じゃあ早速行ってくるわ。あんたはここで待っててくれ」
 えっとルディアが声を裏返したが気にせず部屋を後にする。暗い船倉と客室を隔てる小さなドアを後ろ手に閉ざし、レイモンドは甲板に向かった。
 梯子にはまばゆい陽光が注いでいる。間の抜けた北辺語も響いている。
 無意識にポケットの記念硬貨を探っていた。見せてやるつもりなどない己の心をそこに封じ込めるように、強く、強く、握りしめる。
 なんてこたない。心にもない言葉くらい今までだって吐いてきた。せいぜい喜ばせてやればいいのだ。別に何が減るわけでもないのだから。
(担がれたのが俺だけじゃ割に合わねーもんな)
 そう胸中に呟いてレイモンドは笑顔の仮面を貼りつけた。




 一方その頃、客人の去った船長室には穏やかならぬ悶着に気づいた乗組員らが集まっていた。十人も入ればぎゅうぎゅうになる船尾の一室は心配顔の水夫で戸口まで溢れている。口々に皆が嘆くのは岩のように硬く冷たい若者のことだった。
 愛すべき仲間に囲まれ、たくさんの励ましと慰めを受けてもイェンスの表情は晴れない。息子のことが気がかりで仕方ないのだろう。まさかこれほど呪いに対して無頓着とはスヴァンテも驚いた。イェンスの祈りについても、あってもなくても変わらない、無意味なものだと言わんばかりで。
「なあ、どうすりゃもっと危機感持ってもらえると思う? レイモンド、俺の話なんて全然聞こうとしねーのに」
 涙目で問われてウーンと首をひねる。さっきからイェンスは「首飾りを捨てられたらどうしよう」「フスを見せてやりたいけど、カーモス神に勘付かれるんじゃないか」と悪い想像を巡らせては神経をすり減らしていた。
 北辺の厄介者を一手に引き受け、長く見捨てずにいてくれる器の大きな男である。だがその器には最初からひびが入っていた。どんな嵐にも戦いにも平然としているくせに、呪いの恐怖にはすこぶる弱い。スヴァンテにとっても神は恐ろしい存在だが、生々しくその力を感じてしまうイェンスには、もっと凄まじい、もっと圧倒的な、血も凍りつく力の権化のようだった。
「せめてレイモンドが俺の言葉を信じてくれれば……」
「おい、イェンス」
「絶対にお守りを壊したり、遠くへやったりしちゃいけないぞって耳にたこができるまで言い聞かせるのに」
「おい、イェンスってば」
「たとえ十八を過ぎてても北辺をうろついてる間は危ないって――」
「イェンス、レイモンドだぞ! おい、イェンス!」
 戸外からの呼びかけにイェンスがエッと振り返る。すると混み合う船長室の出入口に神をも恐れぬ二代目が顔を現した。
「うおっ!? ど、どうした? 忘れ物でもしたのか?」
 食事に呼ばれたとき以外、出てこないものと思っていたのでスヴァンテも目を丸くする。普段と違うのはそれだけではなかった。なんとレイモンドは眉間にしわを寄せてもいなければ、こちらを睨んでもいなかったのだ。否、口元は笑ってさえいた。皮肉のきいた笑みではなく、ごく普通の朗らかさで。
「あー、その、さっきはさすがに言いすぎたなって……」
 青天の霹靂だ。飛び出した台詞にスヴァンテは耳を疑った。挨拶より舌打ちされた回数のほうが多いイェンスも目玉を剥いたまま固まっている。
 レイモンドは後ろ頭を掻きながら「ごめんな」と謝った。一体どういう心境の変化なのだろう。別人としか思えない豹変ぶりである。他の船員たちも皆、ついていけずにざわめいた。
 そんな周囲の反応は意にも介さずレイモンドはイェンスに近づく。テーブルの奥にサッと引っ込み、スヴァンテははらはらと親子のやり取りを見守った。
「く、首飾りは捨ててないな? 捨てちゃ駄目だぞ?」
「ああ、ここにさげてるよ。つーか俺、そんな話しにきたんじゃねーんだけど」
「わ、悪い! よ、よ、用件はなんだ?」
「じきにディータスとかいう街に着くんだろ? あんたが誘ってくれた買い物、その、行ってもいいかなと思ったから」
「え……っ!? ええっ!?」
 困惑しきったイェンスが助けを求めてこちらを仰ぐ。今まで我が子の機嫌を取ろうとするたびに冷たくはねのけられてきた彼だから、どう答えるのが正解なのか迂闊に返事できない様子だった。
「い……、行きゃあいいんじゃねえのか? 一緒に、二人で」
 掌を返してこないかレイモンドの顔をチラチラ見ながら助言する。だが予想に反し、二代目の態度に変化はなかった。
「い、いいのか? 本当に行ってくれるのか?」
「本当だって。そっちが嫌ならいいけどさ」
「嫌なわけあるか! わわ、わかった、一緒に行こう!」
 コクコクと頷くイェンスの目は嬉し涙に潤んでいる。仲間たちも大はしゃぎだ。あちこちで気の早い祝福の声が飛び交った。
(おお、こりゃブルーノが上手いこと言ってくれたかな)
 青髪の剣士の功績と推測し、スヴァンテは感謝を捧げる。他にレイモンドが歩み寄る気になった理由は思いつかなかった。きっとフスの手を視たブルーノが祈りの有効性を説いてくれたのだろう。それでレイモンドも少しばかり考えを改めたに違いない。
(険が取れたらなかなか好青年じゃねえか。オリヤンの言った通り、根はいい奴なのかもな)
 うんうんとスヴァンテは一人頷く。笑顔の裏の思惑には気づかないまま。
 ちょうどそのとき望楼から「港が見えたぞ!」と声が降ってきた。興奮したイェンスが右舷に覗く大陸の一角を指差して「ほら、あれがディータスだ!」と息子に教える。
 断崖に立つ灯台の向こうには深い入江と白い街並みが近づいていた。太陽は十分に高く、親子が街をうろつく時間はたっぷりとありそうだった。




 ******




 ディータスは新進気鋭の商人たちの街である。どの建物も新しく、住人は日を追うごとに増えている。天然の良港に恵まれており、昔から人は住んでいたらしいが、一度地震で崩壊したため長く捨てられていたそうだ。
 再びこの地に繁栄をもたらしたのは非アミクスの商人たちだった。閉鎖的な北パトリア商業都市同盟を嫌い、北辺や西パトリア、南パトリアからこぞって集まった結果である。幅を利かせているのは成金ばかりだし、どこを歩いても新参か余所者しかいないので、風通しはなかなか良かった。アミクスに在籍はしても阻害されがちなイェンスたちにとって、数少ない落ち着ける場所である。
「ってわけで、昔うちの船に乗ってた連中が何人か店構えてんだよ。入店拒否される心配もねーし、欲しいモンがあれば遠慮なく言ってくれ!」
 軽い足取りで港通りを歩みつつイェンスは息子に説明した。雑踏をなす人々はこちらに気づくとあからさまに距離を取るが、今日は少しも気にならない。物珍しげに周囲を見渡すレイモンドを見ているだけで胸が弾んだ。
 異国から来た若者には掘っ立て小屋やレンガの商店、漆喰塗りの木造家屋が入り乱れる下町が無秩序に思えるらしい。好き勝手に露店の出された市場を目にして彼は「誰がこの街管理してんの?」と顔をしかめた。
「道が舗装されてねーのはともかく、計画性なさすぎだろ」
「どんどん街が膨らんでるからなあ。今は小汚い安い家に住んでても、一年後には高台に邸宅持ってたりするんだよ。もう少し坂を上がったらまた雰囲気が変わってくるぞ。ある程度成功した奴らの店が並んでるから」
「治安とかやばくねーの?」
「良くはねーかな。儲けてる街にはどうしてもならず者が集まるし。けど俺と一緒なら平気だ。安心しろ」
 すごい。会話になっている。イェンスは感動に全身をわななかせた。こんなに自然に向き合えるようになるなんて、勇気を出して誘ってみて良かった。
「ふーん、ディータスってそんな急成長してんだ。なんか有名な産業とかあるのか?」
 まともな返事や相槌が嬉しくて「ああ、あるある!」と返答が高く上擦る。
「この街、腕のいい宝石職人が山ほどいるんだ。ダイヤもルビーもサファイアも原石は大抵ここに持ち込まれて、綺麗に加工されんだぜ。俺の仲間もそれで食ってる!」
 へえ、とレイモンドは少なからぬ興味を示した。「なら宝石見てみるのもいいな」と満面の笑みを向けられて、イェンスは「任せとけ!」と胸を叩く。
 やっと父親らしいことができそうだ。そう思うと気が逸った。大張りきりで昔馴染みの店に向かう。後に続くレイモンドもいつになく上機嫌に見えた。
「おーい、ヨアキム! やってるか?」
 目指す店には間もなく着いた。高級宝飾品ではなく、カットと磨きを施しただけの裸の石を売る店だ。三階建ての建物の一階部分を占めていて、奥の半分は倉庫である。小さいが取引は多く、見た目よりも繁盛していると聞く。
「おお、イェンスじゃないか。来てたのか」
 ブロンズ製の扉を開くとカウンターで帳簿と睨み合っていた白髪の男が嬉しそうに腰を上げた。目聡くこちらの連れに気づき、ヨアキムは碧眼を瞬かせる。猛戦士として鳴らした彼はためらいなく「誰だねこの子は。若い頃のお前さんに瓜二つじゃないかい?」と尋ねた。
 相変わらず率直な男だ。イェンスは隣のレイモンドを気遣いながら今までのいきさつを打ち明けた。
「えっ、それじゃあお前さん、アクアレイアで子作りなんかしてたのか」
 血の繋がった実の息子だと知るとヨアキムはしばし声を失った。更に詳しく話を聞いて、今度はしみじみレイモンドを一瞥する。見世物じゃないぞと怒るかと思ったが、レイモンドはにこやかに応じた。
「良かったなあ、十八になるまで生き延びられて。イェンスに感謝しろよ」
 そんなギリギリの発言もあったが目立った反発は見られなかった。祈りなどしてくれたことのうちに入るかと罵倒していたのに。
(いや、待てよ。笑ってるだけで同意はしてねーかも……)
 ハッと気づいてイェンスはヨアキムに問いかける。
「と、ところで商品はどこだ? この子に何か買ってやろうと思ってるんだが」
 やっと掴んだ絆を深めるチャンスなのだ。他人のうっかりでふりだしに戻りたくはない。蜂の巣をつつかれぬようにイェンスは話を逸らした。
「おっ、いいぞ。ちょうど縞模様の綺麗なメノウが入ったところだ。他の石もひと通り持ってこよう」
 気のいい元船員はさっと倉庫に向かってくれる。しばらくするとカウンターは並べられた宝石類でいっぱいになった。目を瞠るほど大きな石はないけれど、赤いのやら青いのやら、色とりどりの粒がきらめく。
「どうだ、どれか気に入ったか?」
 なんでも欲しいだけ買ってやるぞとイェンスは銀行証書を取り出した。「そうだなー」と陳列物を吟味するレイモンドに「本当に遠慮しないでいいからな」と念を押す。
 今まで何もしてこなかった人間に、今更何もされたくない。そう言っていたレイモンドがイェンスの願いを聞き入れてこうして同行してくれたのだ。己もできる限り懐の深いところを見せたかった。元より我が子に会えたそのときは望みの全てを叶えてやりたいと考えていたのである。レイモンドがどの宝石を望もうと断る選択肢はなかった。それでもやはり、彼の言葉には面食らったが。
「じゃあこのカウンターのやつ全部」
 思わず「えっ?」と聞き返したイェンスにレイモンドは笑顔で続ける。
「あっ、無理なら買えるだけでいいんだぜ。どれも小指の爪半分ないし、一つ五千ウェルスもしねーと思うんだけど」
 固まったのはイェンス一人ではなかった。今の今まで「一番いいのを選べよ!」と気さくにアドバイスしていたヨアキムも目を点にしている。
「ぜ、全部って、確かにうちの商品は金持ち向けのデカさも派手さもないけどな」
「うん。だからこういうのは量を持つのが一番いいと思って。それにあんまりお高い一点モノだと管理するのが大変だろ? なあ、あんたもそう思うよな?」
 無邪気に同意を求められ、イェンスは返答に窮する。そりゃあまあ、欲しいだけ買ってやるとは言ったが。
「……あれ? 駄目だった?」
 ふと声に冷淡な響きが戻った気がして「あ、いや」と首を振る。イェンスは慌てて店主に勘定を求めた。
「ヨアキム、いくらになるか計算してくれるか?」
「ええっ!? も、ものすごい額になるぞ。いいのか?」
「ああ、大丈夫だ。金はある」
 心配するなと言ってもヨアキムは疑わしげだ。「いいんだって、子供のために貯めてた金を子供のために使うんだから」と諭すとやっと仕事に取りかかってくれた。弾き出された数字が普通の買い物ではまずお目にかからない、殺傷力の高いものだったのは言うまでもない。
「……お前本当に大丈夫か?」
 銀行証書にサインする直前、ひそひそと北辺語で尋ねられた。言わんとすることはよくわかる。親子であるのをいいことにタカられているんじゃないかと伝えたいのだ。
「大丈夫だってば。子供の前で変なこと言うなよ」
 同じく北辺語で返し、イェンスは宝石の詰まった袋を手に取った。一括払いだから高額に感じるだけで、十八年分の小遣いと思えばどうということはない。自分はこの辺りの海では名の通った男なのだから、これくらい妥当な金額だ。
「そんじゃそろそろ次の店行こうぜ」
 と、そこに更なる衝撃が駆けた。まだ買うつもりかと驚愕に震えつつ息子を見やる。レイモンドは既に半分外に出て、ディータスの街巡りに戻ろうとしていた。「ほら、早く」と急かされて、立ち尽くすヨアキムに別れを告げる。
「悪い、また来る!」
 土地勘もないのに先に行ってしまった我が子を追ってイェンスは道を急いだ。ポケットに手を突っ込んだまま悠々とレイモンドは坂を上っていく。より上等な店が立ち並んでいるほうへ。
「いやー、さすがにこんだけ買ってもらうと少しは何かしてもらったって気になるな!」
 イェンスが追いつくなりレイモンドは明るく言った。ちょっと金遣いが荒いんじゃないかと注意するつもりだったのに、あっさり出鼻をくじかれてしまう。向けられた笑顔に完全に気圧されて。
「……あー、その、やっぱりお前の中で俺って『何もしてこなかった奴』なのか?」
「ははは、そりゃそうだろ? お祈りしたとか言われても、別にこっちは実感ねーし、養育費だって一ウェルスも貰えなかったわけだしさ」
 笑い声はぐさりと胸に突き刺さった。毎日真剣に祈ってたのにと悲しかったが、祈祷の成果など気づかずに暮らせるほうが幸せだ。文句を言う気にはなれなかった。
 と同時に、自分が試されていることに気づく。十八年間の埋め合わせをしてくれるかどうか、レイモンドは金銭で測ろうとしているのだと。
 出し惜しみなどすれば二度と歩み寄ってくれないに違いない。想像して肝が冷えた。
「で、他はどこに連れてってくれるんだ? できたら俺、またあんな宝石店がいいんだけど」
 にこにこと表面上は愛想良く問われ、イェンスは息を飲む。だがすぐに気を取り直した。
 金で埋められる溝ならば金で埋めればいいではないか。少なくとも前よりは会話も交流もできているのだ。誠実でいればレイモンドとて打ち解けてくれるはずである。
「あ、ああ、だったらそこを曲がった通りの突き当たりに昔の船員の店があるよ」
「へー、楽しみだな。今日だけで五十万ウェルスは使いそうだ!」
「……ウェルスって確か、アレイア海で流通してる銀貨だよな? パトリアの貨幣でいうとどれくらいなんだ?」
「ん? そうだな、パトリア金貨一枚で一千ウェルスってとこじゃねーの?」
「…………」
 脳内で必死に換算した結果、五十万ウェルスというのはイェンスのへそくりの三分の一に相当するらしいのがわかった。息子が心を開いてくれるとして、果たしてそれまで財布がもってくれるだろうか。
(ふ、船に帰ったら帳簿見直そう……)
 いくらまでなら己の裁量でなんとかなるか確認しておかなくてはとイェンスは唸る。まさか子供にこれほど金がかかるとは知らなかった。
「なあ、あんたさ、俺のために結構貯めたっつってたけど、それっていつから貯めてたの?」
 出し抜けにレイモンドが尋ねてくる。極力気にしないふりをしたが、値踏みするような質問でなんだか答えにくかった。
「え……えーと、お前がお腹にいるってわかった半年後くらいかな」
「へえ、それじゃさ、三年前ってどれくらい貯まってた? 五十万ウェルスはあった?」
「ん、そうだな。三年前ならその倍は貯まってたんじゃねーかな? 毎年七、八万ウェルスのペースで増やしてたから」
 さりげなく限度額を匂わせてみるも反応は薄かった。熱のない声が「ふーん」と呟く。
「な、なんでそんなこと聞いたんだ?」
「いや、別に? 意味とかねーけど?」
 穏便にかわされて、却って踏み込みにくくなる。結局そのまま何も聞けず、イェンスたちは次の店に入ることになった。
 その後もレイモンドは飽きることなく小粒の宝石を買い漁った。一つ一つはちょっとした贅沢品であり、悲鳴を上げるほどの値段ではない。だがしかし、塵も積もれば山となる。街が夕暮れに染まる頃、予告通りに五十万ウェルスが消えた。わずか数時間の出来事だった。




 ******




「あのフスとかいうのはなんなのだ?」
 そう問うたルディアにオリヤンはかぶりを振った。イェンスとは付き合いの古い亜麻紙商にも『右手』の正体は定かでないらしい。「なんなのだと言われても、遠い時代の祭司としか」と不足すぎる説明が返される。
 待っていてくれと言われて素直に待つ間にレイモンドが船を降りてしまったので、ルディアはコグ船に様子を見に訪れたオリヤンを客室で質問攻めにしていた。何か危険なものなのか、手品の類ではないのか、周りの者やレイモンドに悪い影響はないのか、矢継ぎ早の問いかけに亜麻紙商は押され気味だ。
「とりあえず普通にしていれば実害はないよ。あれ自体はそんな大それたことをしでかすわけじゃない。海の難所で航路を指し示したり、敵の足首を掴んで転ばせたりする程度だ」
 我々は一種の守護霊と捉えているとオリヤンは言う。あの右手が消えたとき、イェンスの命も尽きるのだろうと。
「どういうことだ?」
「私も詳しくは知らないが、昔のフスは鼻から下の全身が見えていたそうだよ。イェンスは彼のおかげで生き延びたと言っているし、フスがイェンスを守ってきたと考えるのが自然だろう。でなければあれほど重い呪いを抱えて何十年も過ごせまい」
 きっぱりと断言され、ルディアはしばし沈黙した。霊的なものの一切を否定するわけではないが、やはりどこか腑に落ちなくて。
 所詮神話など神格化された歴史に過ぎない。語り継がれるうちに誇張された話にいかほどの信憑性があるだろう。神々にせよ怪物にせよ、結局その正体は祀り上げられた古代の英雄か、さもなくば擬人化された自然の力のどちらかだ。そんなモノの呪いがどうとか言われてもすぐに信じる気にはなれなかった。
(大体レイモンドがあの首飾りをつけ始めたのはこの冬の話だぞ? それまでお守りが側になくても特に何事もなかったが)
 渋い表情のルディアを見やり、何か勘違いしたのだろう。オリヤンが優しい声で「怖くなったかい?」と尋ねてくる。
「君だけでも私の船に戻るかね?」
「いや、いい。別に恐れてはいない」
 顔色一つ変えずに断ると亜麻紙商はにこりと笑った。
「ブルーノ君は豪胆だな。パーキンなんてあんまりイェンスの船に近づくのはやめてくれとしょっちゅう泣きついてくるのに」
「あの金細工師、どうしている? 大人しくしているのか?」
「ああ、今までで一番大人しいよ。君たち二人を酷く気がかりにしている。『俺にアクアレイアの金持ちを紹介するまで無事でいてくれ』と」
 パーキンらしい台詞にルディアは苦笑いを浮かべる。とりあえず、イェンス怖さで縁を切られることはなさそうだ。
「ところでイェンスはレイモンド君と上手くやれているのかな? 二人で街に出かけたとスヴァンテから聞いたんだが」
「…………」
「おや? 私、変なことを言ったかい?」
 また黙り込んでしまったルディアを亜麻紙商が覗き込んだ。小さく首を横に振り、「いや、私もどうしてそうなったのかよくわからなくてな」と返す。
「スヴァンテにも言ったんだが、呪いを信じろとか父親と仲良くしろとか私は一度も口にしていないんだ。なのにどう気が変わったのか……」
「おお、ということは、レイモンド君は自発的にイェンスと仲良くしてくれているんだね!?」
 オリヤンは手を叩いて喜ぶが、ルディアにはとてもそうできなかった。我慢をやめるという槍兵の言葉がずっと引っかかっていて。
(妙な方向に暴走していなければいいんだが……)
「――ん?」
 甲板が騒がしくなったのはそのときだった。コグ船に誰か来たらしく、桟橋に梯子の渡される音が響く。オリヤンと顔を見合わせ、ルディアは狭い客室を出た。
 レイモンドたちが帰ってきたのかと思ったが、どうやら違ったようである。老水夫に囲まれていたのは商売人らしい白髪の北辺人だった。
「ヨアキム! ヨアキム、ウルサンマーエ!」
 親しげに北辺語で呼びかけて、亜麻紙商は初老の男のもとに駆け寄る。血相を変えた客人の一報はたちまち船上を騒然とさせた。
「デハスタ! ヒジェップ、イェンス! カンフェムティーミェーエ……! ヒジェップ、ヒジェップ……!」
 ルディアが聞き取れたのはそこまでだ。意味などまったくわからなかったが良くない報せであるのはわかった。どこの民衆もどよめくときは同じトーンでどよめくらしい。
 事情が説明されるまで余所者は長い時間待たなければならなかった。流暢なオリヤンのパトリア語で聞いてもそれはまるで理解できない話だったが。
「はあ? レ、レイモンドがイェンスに金を貢がせてる?」
 ヨアキムとかいう元船員曰く、信じられない高額を支払うように水を向けたそうである。わかりやすい恐喝が行われたわけではないが、あれは絶対にそうだったと。
 詳細を聞いてもレイモンドのことだと思えず「何かの間違いじゃないか?」と首を傾げる。すると横からスヴァンテが出てきて「こいつのところの宝石を根こそぎ買ってったらしい」と教えてくれた。
「ね、根こそぎ!? 一つ二つではなくて全部か!?」
「ああ、俺も最初は『何言ってんだ。イェンスが奢る気満々で誘ったんだぞ』と思ってたんだが……」
 どうやら高額というのは数万ウェルス程度の話ではないようだ。ルディアはごくりと息を飲み、「いや、やはり信じられん。あいつが脅して金をむしり取るような真似をしたとは……」と呟いた。そんな自分に水夫たちは白けた一瞥を投げてくる。
「おい、オリヤン。本当にレイモンドは『明るくて素直ないい子』なんだよな?」
 不信の眼差しは亜麻紙商にも向けられた。オリヤンは厳しい表情の副船長にレイモンドがトリナクリア島で人形芝居の一座を助けた話など、実例を挙げて擁護する。だがその甲斐もなく夕刻まで船はまったく静まらなかった。そして太陽の沈む頃、凄まじく目を引く皮袋を携えて戻ってきた親子を迎え、今度は水を打ったように静まり返ったのである。




 一見してイェンスとレイモンドの間に険悪な雰囲気はなかった。一緒に梯子を登ってきて、一緒に皆にただいまを告げて、ルディアに気づいたレイモンドのほうは手を上げて寄ってくる。先日までの槍兵の言動から考えて有り得ない光景だ。
(こ、この馬鹿……!)
 どうしたものかと悩んだ末にルディアはレイモンドの腕を掴んだ。そのまま無言で倉庫に降り、客室へと引きずっていく。今の今まで「まさか」と信じていなかったのに、ヨアキムの懸念通りだったらしい。
「レイモンド!」
 ルディアがバタンと扉を閉めると二つのハンモックが揺れた。「どうしたんだよ、そんな大声出して」と槍兵はこちらの剣幕にどこ吹く風だ。
「お前な、その皮袋はなんだ?」
「おお、これか? 戻ったら見せようと思ってたんだ。ほら、すごくね?」
 レイモンドは皮袋を逆さにして布張りのハンモックに戦利品をぶちまけた。山脈をなし、きらきら輝く宝石に頭が痛くなってくる。
「三流品ばっかだけど、これだけあるとゴージャスだろ?」
「レイモンド」
「こういう細かいやつなら換金しやすいかなと思って。コーストフォート市に着いてからも旅はまだまだ続くし、サールまではこれ路銀代わりにしてさ」
「レイモンド!」
 無理矢理話を遮るとルディアは槍兵をねめつけた。
「イェンスには何もしてほしくないんじゃなかったのか?」
 問いかけにレイモンドは目を逸らす。ごく静かに、落ち着き払った低い声で「うん、すげーやだ」と槍兵は頷いた。
「でもまあ、金に罪はねーじゃん? こっちが迷惑被った分くらい、賠償金として受け取りゃいいかと思うことにしたんだわ」
 返答に絶句する。いつものレイモンドらしくなかった。まったくいつもの彼らしくなかった。賠償金を正規の賠償金として受け取るのならともかく、人の気持ちを利用して儲けようなんてやり方は。
「……一体何をやっているんだ? お前はいつも、金にはもっと敬意を払っていただろう」
 レイモンドが実父と折り合いをつけられなくても何も言うつもりはなかった。彼がどうするかは彼の自由だと思っていたから。けれどこれは、こうなってはもはや見過ごせない。
「うん、でも先に騙したのは俺じゃねーし。オリヤンさんは俺にあいつのこと黙ってたんだし、あいつは母ちゃんに自分の事情黙ってたんだし、お互い様ってやつじゃねえ? 先のこと考えたらいくらあっても困りゃしねーんだからさ、くれるっつーもんは貰っとこうぜ?」
 また声を失った。レイモンドは詐欺まがいの行為をかけらも反省していないらしい。騙したという言葉には憎しみの響きすらあった。
「……なんかあんまり喜んでくれてねーのな。嫌な思いさせられてる分、金になりゃいいかと思ったんだけど」
 ハンモックの宝石を苦々しく見つめるルディアに気づいてレイモンドは肩をすくめる。しばし訪れた静寂は今までの居心地悪さの比ではなかった。
「……あのさ。俺が十五のとき、アクアレイア国籍買うのにいくら払わなきゃいけなかったか知ってる?」
 不意にレイモンドが尋ねる。こちらに背を向け、宝石を手に掴みながら。
「……五十万ウェルスだろう」
 ルディアがそう答えると槍兵は掌の宝石を握り込んだ。ガリッと貴石の擦れ合う不快な音が室内に響く。
「そう、さっき聞いたらさ、あいつ俺が喉から手が出るくらい金が必要だったとき、その倍は貯めてたんだってさ。笑っちまうよな。こっちは朝から晩までヘトヘトになるまで働いて、それでも全然足りなくて、真っ当なアクアレイア人ならしなくていい情けない思い、何度も味わったってのに」
 レイモンドは淡々と宝石を皮袋に戻していく。ハンモックの上が片付くと、槍兵は口紐を固く結んでそれを床に放り投げた。
「石を駄目にする気か」なんて叱ってもきっと意味がない。こんなとき、どうすれば支えになれるのか自分は知らない。宮廷には親しい友人などいなかったし、ユリシーズとも酷い別れ方をした。
 一体何が言えるだろう。父と思っていた人をこの手にかけた人間が。
「まあ、あんたが嫌だっつーなら今後は控えめにしておくよ」
 呟きは、重く、重く、沈み込んだ。力づけたかったけれど、やはりルディアには何も言えなかった。




 船長室はまたも集まった乗組員たちでぎゅうぎゅうになる。まるで裁判でも始まったような騒がしさだ。わあわあギャアギャア同時に喚かれ、最初は何も聞き取れなかったが、右肩の手が皆に混じったヨアキムを指差したので大方の想像はついた。なるほどこれからスヴァンテあたりに息子のことを詰められるらしい。
「――で、結局いくら使ったんだ?」
 予測に違わずイェンスの向かいに腰を下ろした副船長が今日の出費を尋ねてきた。「まあざっくり、百三十万レグネかな?」と北方の通貨で答える。するとたちまち室内は阿鼻叫喚に満たされた。大型の取引以外でそんな額聞いたことがないと皆パニックである。
「ひゃ、百三十万ってお前!」
「言っとくが船の金には手ェつけてねーぞ!? 全部この十九年で俺が貯めた俺個人の金だからな!」
 イェンスはヨアキムの店でしたのと同じ主張を繰り返した。我が子のための積立を我が子のために崩して何が悪いのだと。しかもこれは自分が質素倹約に努めてこしらえた貯蓄である。使い道にケチをつけられる筋合いはなかった。
「百三十万レグネが全部お前の金? ちょっと待て、そんなに貯め込んでたのか?」
「ある程度の額になったらそれを元手に投資して増やしてったんだよ。ちなみに今日出した分と合わせて四百万レグネだ。だからお前らが心配するこた何もねーんだって!」
 まだ動揺している仲間たちを落ち着かせるべく大丈夫だと繰り返す。先細りの船だから、金の話題には敏感だ。今コグ船に残っている連中はスヴァンテを除いて年寄りすぎたりなんの技術もなかったり、水夫しかできない老人ばかりなので余計そういう傾向があった。引退が決まれば以後彼らはイェンスの渡す年金でしか暮らしていけない。だから船の蓄えには絶対に触れてほしくないのだ。
「ほら、これが俺の個人帳簿だ。大損したときも皆の収支には一切含めてねー。気になるなら確かめてくれ」
 イェンスはテーブルの端に積み上げた帳簿の山から一番新しいのを引き抜き、副船長の前に投げた。スヴァンテはただちにそれと全体の帳簿を見比べ始める。
「……なるほど。老後の資金はちゃんと確保されてるな」
 そのひと言で高まっていた緊張が解けた。「なんだ、だったらいいじゃないか」「ヨアキムめ、人騒がせな」と一斉に安堵の息が漏れる。緩んだ空気に冷水を浴びせかけたのも、同じスヴァンテの言葉だったが。
「けどなあ、レイモンドがお前にいきなり百三十万レグネも使わせたのはまた別の問題だぜ?」
 鋭い声が釘を刺す。帳簿を閉じたスヴァンテは乱暴な態度こそ取らなかったものの、怒っているのは明らかだった。
「ヨアキムの言うみたいに、お前あいつに金ヅル扱いされてんじゃねえか? やっと息子らしくなってきたと思った途端これなんだぞ? 正直俺はいい気がしねえよ」
 船長室はしんと静まり返る。戸口に立っていたオリヤンが「スヴァンテ」と諌める口調で呼びかけたけれど、副船長は彼に見向きもしなかった。
「イェンス、俺は俺らに新しい家をくれたあんたに感謝してる。だから相手が誰であってもあんたが舐められるのは許せねえ。レイモンドは半分あんたの血を引いてるし、オリヤンの話も信じてえから今日はこれだけにしとくけどな、あんまりあいつが調子に乗るようならこっちもタダじゃおかねえからな」
 ひと息に言いきるとスヴァンテは立ち上がり、荒々しくテーブルを離れる。「おら解散だ!」とそこらの者の背中を押しながら彼は甲板に出ていった。
「イェンス」
 居残ったのはオリヤンだけだ。「すまない、まさかこんなことになるとは」と詫びる戦友にイェンスは首を振った。
「気にすんなよ。一応収まったみたいだし、俺が四百万レグネ以上は使わねーように注意してりゃ大事にはならねーだろ。後でスヴァンテにもフォロー入れとくよ」
「ええっ!? 注意していないと超えそうな勢いでねだられたのか!?」
「あっ、いや、えーっと」
 どうやら墓穴を掘ったらしい。濁そうとするイェンスに「ふ、普段はそんな子じゃないんだ! 奢ってもらうにしても自分で線引きできる子なんだ!」とオリヤンが必死になって訴えてくる。
「私は二人なら素晴らしい親子になれると思ったからこそレイモンド君をここまで連れてきたのであって」
「おい、ちょっと落ち着けって! あのさ、俺わかったんだよ。レイモンドが俺に会いたくなかった理由!」
「え?」
「遠くで祈ってただけのくせに父親ぶるなって言われたんだ。アクアレイア人にとって、祈りって価値の低いもんらしい。俺は今まで一ウェルスの養育費も出さなかったから、何もしなかったも同然なんだと。そんで今更そんな奴には何もしてほしくないって、そういう風に考えてたらしいわ」
「なっ……! 会えなかったのも、養育費を出せなかったのも、理由あってのことじゃないか!」
 憤るオリヤンに「その理由がわかんねーならしょうがねーよ」と苦笑する。やるせなさはあるものの、八方塞がりなわけでもないからいいのだと。
「スヴァンテはああ言ったけどさ、俺はレイモンドがチャンスをくれたんだと思ってる。だって昨日までは好物聞いても欲しい物聞いても『別に』『ない』で終わってたんだぜ? 俺の財布使う気になってくれただけで進歩だろ? それに俺、神殿育ちで父親ってどんなもんかよく知らねーし、金出せば父親らしいと思ってくれんならそうしようと思って。まあ四百万レグネが限界だけどさ」
 認めてもらえるまでは金ヅルでも構わない。そんな思いが胸にあるのは口に出さずとも伝わったのだろう。オリヤンは困ったようにこちらを見つめた。
「心配すんなよ。レイモンドは『いい子』なんだろ? 一緒に過ごす間に俺のことちゃんと見てくれるようになるって」
 丸椅子から立ち上がり、イェンスは元副船長の胸を小突く。明るい振る舞いを見せれば見せるほどオリヤンの表情は深刻になったが。
「……できることがあればなんでも言ってくれ。私の連れてきた客だ。責任は私が取る」
 生真面目な声でそれだけ告げてオリヤンは自分の帆船に引き揚げていった。宵闇の船長室にイェンスはぽつんと一人残される。
 ふうと小さく嘆息し、テーブルに座り直した。引き寄せたランタンの灯りで個人帳簿のページを照らす。
(あーびっくりした……)
 イェンスはまだドキドキしている心臓を掌で押さえつけた。
 さっきスヴァンテに凄まれたとき、もし口論になっていたら、自分は仲間を顧みず息子を庇うところだった。皆とは三十年以上苦楽をともにしてきたのに。
(俺、自覚してたよりずっと子供のこと大切なんだな)
 会えない間も健康を祈り、幸運を祈った。それが生活の一部だった。名前も知らない、顔も知らない、性別さえもわからない我が子を思う祈りの時間が。
 不思議だった。長く罪悪感に苦しみ、一生会わずに死ぬことも考えたのに、レイモンドといると愛しいという思いしか湧いてこない。少しでも彼が幸せになるなら自分のことなど捨て置いて、なんでもしてしまいそうだ。
(駄目だ駄目だ。冷静にやらねーとあっと言う間にすっからかんだぞ。アクアレイア人は使うって決めたら百万、二百万レグネくらいドーンと使っちまうんだからな)
 ずっと昔、まだ軍務用の快速船を乗り回していた頃、同じ時を過ごした少年を思い出す。イーグレットは一般のパトリア文字だけでなく、重要な契約文書に使用される古パトリア文字、複式簿記のつけ方にアミクスと駆け引きをするコツまで教えてくれた。あの少年がいなければ自分たちは北パトリアの商人に潰されて生き残れなかったろう。アクアレイアを訪ねることも、レイモンドが生まれることもなかったはずだ。
(イーグレット……)
 アクアレイアでは情勢が一変し、王は命を落としたと聞く。事実なら悲しいことだ。再会が叶えば互いに子供の話を肴に酒でも酌み交わせたかもしれないのに。
(死んじまったら本当に何もしてやれねーんだよな)
 次の街でもレイモンドを誘ってみよう。健康に良さそうな、美味しいものをたらふく食わせてやろう。
 小窓に覗く白い月を見上げ、イェンスはひとりごちた。
 いつまでもそこにあるように思わせて、星も、人も、ある日突然息絶えるのだ。してやりたいことは全部、今のうちにしてやらなくては。




 ******




「イーグレット?」
 うつむきがちに歩く人々と荷車の間に白い影を見失い、カロはぐるりと辺りを見回した。既に日は落ち、街道は月明かりが照らすのみとなっている。老いぼれロバを引く裸足の男、積荷の重みで軋む馬車、切れ目なく続く荷担ぎの列。目を皿にして少年を探すがやはりどこにも見当たらない。
「!」
 不意にうっすら透けた手がにょきりと背後から伸びてきた。振り返り、「そこにいたのか」と安堵の息をつく。にこやかに微笑むイーグレットの、すぐ背に続いていた若い人夫は「は?」と怪訝に眉をしかめた。
「えっ、何? なんか用?」
「シッ! 構うんじゃねえ、そのロマ頭おかしいんだ」
 マジかと呟いて青年は連れとそそくさ馬車の陰に逃げていく。繰り上がってカロの後に並ばされた壮年の人夫は迷惑そうに顔を背けた。
「…………」
 どうも彼らにはイーグレットの姿が見えぬらしい。おかげでカロはすっかり不気味なロマとして定着していた。ここで仕事を始めてから、日に日に人との距離が開いている気がする。
(まあいいさ。遠巻きにされるのは慣れっこだ)
 小さく短い息を吐き、再び前に向き直った。
 長い、長い、荷物運びの行列は今朝商都セイラリアを発ったばかりである。これから一週間かけて、運搬人たちは北パトリア第二の都市コーストフォートまで歩く。
 パトリア圏最北の地に辿り着いたカロは、二つの都市を往復する期間労働に就いていた。セイラリア市は北辺海に通じ、コーストフォート市は北パトリア海に面する。夏はどちらかの海にいるイェンスの所在を掴みやすいと思ったのだ。
 彼には不思議な霊力が備わっている。頼めばきっと仇敵を探し当ててくれるに違いない。
(どこに隠れても無駄だ。必ず見つけ出して、俺がこの手で葬ってやる……!)
 ぐっと拳を握りしめ、カロは友人の返り血を浴びたルディアを思い浮かべた。憤怒の炎はいまだ衰えず、胸を焼き、血を沸騰させている。
 報復の他には、まだ何も考えられなかった。それはあまりに心に深く巣食いすぎていた。
 復讐を果たしたらどうするのか。どこへ行くのか。自分でもわからない。
(あいつの後を追ったって、ロマとアクアレイア人では行く先が違うものな)
 ロマの魂は空に還り、子孫の歌に導かれて時々地上に舞い降りてくる。だがパトリアに属する者は、死後その魂を冥府の神に引き寄せられ、地の底深くにもぐると聞く。真っ白なイーグレットは「きっと私は月の女神の側付きになるからロマと同じ空にいられるんじゃないかな」と笑っていたけれど。
(嘘つきめ。お前は月になど昇っていないではないか。冥府の番人に見つかれば、俺を残してお前はいなくなるんだろう)
 屈託なく覗き込んでくる白い幻影に目を細める。かぶりを振ってカロは肩の荷を持ち直した。
 まだいてくれ。まだそこにいてくれ。この火が全てを焼き尽くすまで。
 灰になってからのことは、今はまだ考えない。









(20161126)