「お父さんだよ」と示された男を見ても、レイモンドにはさっぱり状況が飲み込めなかった。オリヤンがイェンスと呼んだ金髪碧眼の海賊は――本当は毛皮商人だそうだが、一見したところ海賊にしか思えなかった――確かに己とよく似ていたが、レイモンドには父に会う気などこれっぽっちもなかったし、今更対面するなどと夢にも思わなかったから、まったく虚を突かれてしまったのだ。
 ひと言も口にできず、ただぽかんと見つめ返す。北辺人特有の長い手足と、半裸に熊皮のマントという前時代的ないでたちと、いわくありげな刺青や傷痕に覆われた顔を。
 あちらも半ば息を詰め、しばらくピクリともしなかった。薄い水色の双眸がレイモンドに向けられて、頭の天辺から爪の先まで辿り尽くす。それが終わると男はくぐもった声で呟いた。
「タッウ……、ハーヤ……、ヘヌンサリーヤウビレレフ……!」
 知らない外国語にどきりとする。長い髪を振り乱し、イェンスは桟橋に崩れ落ちた。
 波の音に低く嗚咽が入り混じる。とめどなく涙を流し、跪いた男は天に祈りを捧げていた。まるで感謝の意でも表すかのように。
(なんだこれ……)
 嫌悪感がせり上がり、レイモンドは顔を歪める。傍らではオリヤンが「北辺語じゃ通じないよ」とイェンスに手を差し伸べていた。助言にはっとして熊皮の北辺人が立ち上がる。
「すまん、嬉しくて動揺した。まさか本当にこんな日が来るなんて……!」
 今度は流暢なアレイア語だ。喜びに浸り、少なからずはしゃぐ二人を一瞥し、レイモンドは不快感を強める。目の前で繰り広げられている光景が茶番にしか見えず、吐き気がした。
 嬉しい? 何がだ? その涙はなんなのだ?
「……どういうこと?」
 尋ねた声は自分のものとは思えないほど荒んでいた。すぐにオリヤンが振り返り、的外れな返事をよこす。
「ああ、レイモンド君。さっきイェンスが言ったのはね、君が無事に十八歳を迎えられて良かったと――」
「いや、そうじゃなくてさ。なんなのこれ?」
 いつもの愛想笑いはできなかった。オリヤンには何から何まで世話になっているというのに。
 最初から俺の父親が誰か知っていた? だから北へ向かう船に乗せたのか? 親切心でもなんでもなく。
「あ、ええとだね……」
 亜麻紙商はやっとレイモンドの不機嫌に気づいたようだ。寝ぼけた顔の男を脇になだめる素振りを見せてくる。それさえ許容できなくて、肩に伸ばされたしわくちゃの手を振り払った。
「裏でこそこそこんなお膳立てしてたのかよ……!」




 商船のはしごを降りたルディアは荒々しいレイモンドの声に瞠目した。港に戻ってきたオリヤンをひと足早く迎えに飛び出した槍兵は、何故かその亜麻紙商を激しく睨みつけている。青筋を立て、頬を強張らせ、険のある形相だった。かつて見たことがないほどに。
(なんだ? どうしたんだ?)
 レイモンドが怒りを露わにするなど滅多にない。否、これが初めてなのではなかろうか。軽い不平不満ならいくらでも口に出すけれど、どんなときも彼は持ち前の天真爛漫さを忘れないのだから。
(大商館で問題でも起きたのか?)
 歩を早めようとしたルディアの腕が後ろからグイと引っ張られる。思いきりつんのめる羽目になり、「おい!」と金細工師を怒鳴りつけた。
「なんの嫌がらせだ。さっさと離せ!」
「ま、マズいって。あ、あいつイェンスじゃねえ? 近づいたら災難に遭うぞ!」
「はあ? イェンス?」
 パーキンが震えながら指差したのはオリヤンと連れ立って現れた長身の男である。おそらく窃盗容疑をかけられていた亜麻紙商の友人だろう。
 何が災難だ馬鹿馬鹿しい。拘束を振りほどき、ルディアはレイモンドのもとへ急いだ。臆病者はそのまま埠頭に置いていく。
「……!」
 驚いたのは直後だった。毛皮のマントに熊の頭がついているくらいで動揺はしなかったものの、人間の頭のほうには狼狽を禁じ得なかった。レイモンドと対峙していたのは槍兵と血縁関係にあるのが一瞬で知れる男だったのだから。
「黙っていてすまなかった」
 ルディアには目もくれず、オリヤンが年若い友人に謝罪する。レイモンドは眉間に濃いしわを寄せ、亜麻紙商の言い訳を聞いていた。
「悪気はなかったんだよ。ただ本当に君たち親子を引き合わせられるかわからなかったから……。急に父親なんて言われて戸惑うかもしれないが、イェンスは事情があって君と一緒に暮らせなかっただけなんだ。ずっと君の身を案じていたんだよ。だからどうか、気を悪くしないでほしい」
(ち、父親だと? このイェンスとかいう男がレイモンドの?)
 誰からも否定の声は上がらない。火を見るよりも明らかだということもあるだろうが、どうもそれ以前にオリヤンがレイモンドの出自を知っていた風だ。タダで船に乗せてくれるなど随分太っ腹だなと思っていたら、彼は彼で思惑があったらしい。
 ルディアはちらりと隣の槍兵を見上げた。張り詰めた横顔は強い拒絶の色を帯びている。日頃能天気なこの男がきっぱり「会いたくないし知りたくもない」と言っていた相手だ。心中は察するに余りあった。
「レイモンドって言うんだな。パトリア風だが、いい名前だ」
 と、無言の息子にイェンスが笑いかける。親しげに近づかれ、レイモンドは今にも男を突き飛ばしそうだった。これはまずいとルディアは咄嗟に間に割り込む。
「オリヤン、場所を変えて詳しく説明してもらえないか? できれば船で、我々だけで」
 背に槍兵を庇いつつ亜麻紙商に問いかけた。オリヤンも、レイモンドの反応が芳しくないのを見取って「あ、ああ」と頷き返す。どうやら彼は親子の対面がもっと喜ばしいものになると考えていた様子だ。
「悪い、イェンス。混乱させたみたいだし、一度きちんと話してくるよ。また後で落ち合おう」
「わかった。いつも通り北辺海まで来るんだよな? 俺も皆に釈放されたって伝えてくるわ。濡れ衣着せられそうになって心配してるだろうし」
 提案は通ったらしい。イェンスが一歩引いてくれてほっとする。
「大丈夫か?」
 レイモンドを振り仰ぐと「お、おう」とどもりがちな声が返った。額は酷く青ざめて、唇も固くなっている。もう少し落ち着かせたほうが良さそうだなとルディアは槍兵の腕を引いた。
「とりあえず船に戻ろう」
 イェンスと物理的な距離を取るべく歩き出す。けれど気遣いはあまり意味をなさなかった。さっさとこの場を離れさせたかったのに、真摯な声に呼び止められて。
「――なあ、レイモンド、先に一つだけ謝らせてくれないか」
 槍兵の足がたちまち凍りつく。振り返ろうとしない息子にイェンスは続けた。
「軽はずみな真似をして、女にも子供にも酷いことをしたとずっと悔いてきた。だけど今、お前がこんなに大きくなって涙が出るほど嬉しいよ。……本当に、本当にすまなかったな」
 そう言って男は深々と頭を下げる。他人のルディアにも父親としての愛情が汲み取れるほど深々と。
 抱いていたイメージと違って困惑した。我が子を捨てた人でなしだと聞いていたのに。
「…………」
 盗み見た槍兵の目は冷たかった。
 とにかくこれが、レイモンドと彼の父の、初めての邂逅となったのである。




 ******




 いつも和気あいあいと食卓を囲む船長室は気まずいムードに包まれていた。常の明るい彼らしくなく、レイモンドはにこりともせず席に着く。
 どうやら自分は段取りをしくじったらしい。眉をしかめた青年の前に腰かけ、オリヤンは胸中で溜め息をついた。たとえこうなるとわかっていても、やはり彼には何も告げずにここまで来たに違いないが。
「さて、何から話したものか……。とりあえず、私とイェンスの関係についてかな?」
 問いかけるもレイモンドの反応はない。こじんまりしたテーブルに肘をつき、そっぽを向いているだけだ。そんな彼を隣に座るブルーノが心配そうに眺めていた。普段はどちらかと言えばブルーノが心配される側なのだが。
 機嫌を取っても無駄だなと早々に諦めをつけ、オリヤンは話を進めることにした。喋れば耳には入るだろう。知れば反発も減じるはずだ。彼はイェンスの呪いを恐れているわけではないのだから。
「……二十年ほど前まで私はイェンスの船で副船長を務めていた。陸に下りて、リマニの街で暮らし始めてからも仲間であることに変わりはなかったよ。私が商会を運営しているのはイェンスたちのためさ。儲けの半分を仕送りしているんだ。彼らだけでやっていくのは正直難しいからね」
 レイモンドの膨れっ面がじわりと悪化する。繋がりを隠していたのがよほど気に入らないらしい。険しい額には「騙された」と書いてあった。
「我々が縄張りにしていたのは北の海――いわゆる北辺海と北パトリア海だ。西パトリア海以南に下ることは少なかったんだが、ある年アクアレイアに用事ができてね。皆で漕ぎ出すことになった。あいにく私は熱病にかかり、王国を見る前に下船したんだが、イェンスたちはついでにアレイア地方を回ったり、ノウァパトリアまで足を延ばしたり、未知なる海域を楽しんでいたよ。一年はゆっくりしていたんじゃないかな」
 二十歳を迎え、王位を継ぐべく故郷に戻らねばならないというイーグレットを皆で送っていった夏。オリヤンがトリナクリア島で豪商の娘に熱烈な看病をされていた頃、イェンスは東方巡りをして過ごした。そして周遊ののち、彼は若き王の栄華を拝むべくアクアレイアを再訪したのだ。
「……イェンスが君の母親に会ったのは十一月の精霊祭だった。仮面の魔力に惑わされ、一夜の恋に落ちたものの、なんてことをしたのだろうと冬中怯えて暮らしていたよ。君も噂で聞いた通り、イェンスが神に呪われた、不吉な存在だというのは偽りない真実だからね」
 神だの呪いだの、突然話がオカルトめいたせいで若者たちが面食らう。だがオリヤンに嘘ではないと力説する気は起きなかった。疑ったり笑ったりできるのは最初だけだとわかっているから。そのうち嫌でも信じざるを得なくなる。イェンスが普通の人間ではないということ。
 彼の周囲には時々薄ら透けた人の右手が浮かび上がることがある。イェンスにはそれが当たり前に「視えて」いるようだった。オリヤン自身、何度か目にした覚えがある。嵐の海で、街の市場で、血飛沫の舞う戦場で。
「しばらくすれば君たちにもわかるだろう。だがその前に、どうしてイェンスがそんな身の上になったかだけは伝えておこう。彼は同情を欲しがる人間ではないし、自分のためには何も話さないだろうからね」
 本題はここからだった。オリヤンは北方に馴染みの薄い二人のため、ひと昔前の情勢について話し始めた。パトリア人には北辺の野蛮人として一緒くたにされがちな、二つの部族の因縁を。
「ルスカ族、カーモス族の名を聞いたことがあるかい? 昼を支配するルスカ神を信奉するのがルスカ族、夜を支配するカーモス神を信奉するのがカーモス族だ。両者は長いこと憎み合い、争い合ってきた。祖父の代くらいまでは勢力も拮抗していたみたいだが、北部の開拓に進出してきたパトリア人とルスカ族が手を組むや、カーモス族は東の荒れ野に追い詰められていったんだ。我々の若い頃は、カーモス族討伐が大詰めに差しかかったところだった」
 博識なブルーノが小さく頷く。彼は辺境の歴史までよく学んでいるらしい。教育にせよ、商業にせよ、アクアレイアはよほど進んだ都市なのだろう。ほんの少年だったのにイーグレットも物知りで、しばしば手助けしてくれたことを思い出す。
「私やイェンスはルスカ族に属している。いや、属していたと言うべきかな。イェンスは、幼くして神殿に召し上げられた未来の最高祭司だった。だが彼はカーモス族の襲撃に遭い、七つの歳からおよそ十年、夜の神の生贄になるべく監禁されて育ったんだ」
 おどろおどろしい話にレイモンドの肩がぴくりと揺れた。父親の不幸に彼が心を痛めてくれるのを期待してオリヤンは続ける。
「我々の神は激しく厳しい気性でね、不可抗力でも約束を破った人間や膝元を離れた人間を許さない。敵の手中となったイェンスはルスカ神の怒りを買い、見捨てられた身となった。それだけでなく成長した彼は、今度は対カーモス族の有用な『兵器』として奪還されたのさ」
 北辺の民にとって生贄の儀式は重要だ。かける時間が長いほど、流れる血が神に近いほど、成功したとき部族は多大な恩恵を受けられる。その逆に、失敗すれば峻烈な罰が待っていた。
「イェンスは十八歳の誕生日に殺されるはずだった。討伐軍が彼を救い出したのはその前夜だ。儀式を台無しにされたカーモス族は、以来イェンスを極度に恐れるようになった。カーモス神が彼を通して一族に『天罰』をもたらすからさ。だがそれでイェンスがルスカ族の仲間に戻れたわけじゃなかった。ルスカ神も、ルスカの神官でありながらカーモス神の気配を漂わせるイェンスを嫌悪した。だからルスカの民は自分まで神に見放されないようにイェンスに近づかなかった。彼の側にいても平気だとされたのは、初めからいない者扱いの不義の子とか、刑罰を受けた犯罪者とか、まあとにかく、何か問題のある人間だけだったんだ」
 私もその一人だとオリヤンは告げる。イェンスがいてくれたおかげで故郷を追放された後もなんとか生きてこられたのだと。
「イェンスのもとには様々な境遇の、だが似たり寄ったりの人間が集められた。一隻の船が与えられて、我々はカーモス族討伐軍の末席に加わった。他に生きられる場所がなかったからね、獅子奮迅の働きを見せたよ。そしてイェンスはますます人々に恐れられるようになっていった」
 オリヤンはイェンスの奇襲夜襲によってしぶとかったカーモス族もほとんど姿を消したことを語った。軍務が終わると毛皮の売買で生計を立てたこと、北パトリアの商人に幾多の辛酸を舐めさせられたことも。
「しかしイェンスにとって一番つらかったのは、いつまで経っても『呪われたイェンス』の名が消えなかったことだろう。決して口には出さなかったが彼も自身を恐れていた。イェンスが君と暮らせなかったのは、呪いを移さないためにだよ。少なくともレイモンド君が十八歳になるまでは、生贄を食らい損ねたカーモス神の目を逸らすために関わっちゃいけなかった。我が子だからこそ顔も名前も知ってはいけなかったんだ」
 ルスカ神でもカーモス神でもなく波の乙女の加護を受けるアクアレイア人であれば十八歳を過ぎれば会っていいはずだった。イェンスにできたのは、ただ耐えて待つことだけだった。
「イェンスは君を捨てたんじゃない。側にいたくてもいられなかったんだ」
 わかってくれただろうかとオリヤンはレイモンドの横顔を見やる。だがその眼差しは相も変わらず刺々しかった。
「……理由ってそんだけ? ま、別にどーでもいいけどさ」
 青年は乱暴に椅子を蹴って立ち上がる。そのまま船長室を出ていこうとするのでオリヤンは慌てて彼を呼び止めた。
「レイモンド君! イェンスは本当に、心から君を大切に思っているんだ! 私がイオナーヴァ島で君に会ったことを伝えたときも彼は」
「つーかさ、なんでオリヤンさんは俺にひと言も教えてくれなかったわけ? 俺が会いたがらないかもとか全然考えなかったの?」
 唇は笑っているが目は少しも笑っていない。イェンスの非業な生い立ちに露ほどの憐憫も示さないとは予想だにせず、オリヤンはたじろいだ。レイモンドなら父親を慮る優しさを見せてくれると思ったのに。
「……イェンスのほうが君に会うのを怖がるかもと思ったからだ。私が君より彼の気持ちを優先したことは恨んでくれて構わない。だが君を連れてきたのは私の独断で、イェンスには関係のないことだ。君も苦労したと思うが、どうか温かく接してやってくれないか? 君が考える以上に彼は呪いに縛られてきたんだよ。それだけはわかってほしい」
 優しい男なんだとオリヤンは友人を庇った。しかしいつまでも了承の返事はない。レイモンドはすっと脇を通り過ぎ、「俺、部屋に戻るわ」と船長室の扉を開けた。
「うわわっ!」
 と、そこに盗み聞きしていたと思しきパーキンが転がってくる。レイモンドはそれも無視して甲板をすたすた歩いていった。すぐにブルーノが後を追おうとしたけれど、もたつく金細工師に通り道を塞がれる。空気を読めない厄介者はえへへと曖昧な笑みを浮かべ、「だ、旦那様ってイェンスの仲間だったんですね?」などと尋ねた。
「……それがどうかしたのかな?」
 多少苛立ちながら応じる。身振りでどけと示したが、パーキンは気づかずに手を揉んでいた。
「い、いえ、前に仰ってた、人を殺したって話も本当なのかなって……」
 どこまでも不躾な男である。深々と嘆息し、オリヤンは浅薄も浅薄な問いに答えた。
「そうだよ、たった一人の肉親を殺したんだ」
 一瞬ブルーノが息を飲んだ。イメージを裏切ったかなと自嘲する。
「う、うはは、せ、性格に似合わないワイルドな過去をお持ちで……っ」
 真っ青になり、金細工師は脱兎のごとく逃げ出した。扉が開くとブルーノも目配せだけしていなくなる。多分「ついてくるな」という意味だろう。少しの間、レイモンドをそっとしておいてやれと。
 取り残された小さな部屋でオリヤンは肩を落とした。最初から上手くいくだなんて楽観視はしていなかったが、もうちょっとましな始まりになると踏んでいたのに。
(なんにせよ、こうして縁はできたんだ。親子なんだし、側で暮らせばきっとすぐ打ち解けられるはずだ)
 それこそが楽観視に他ならないとオリヤンが悟るのはもう少し先の話である。このときはまだイェンスに肩入れするあまり、事態の深刻さを少しも理解していなかったのだった。




 ******




 来たれ、我が軽舸に 誰が汝の明日在ることを知らん
 青春は麗し されど川のごとく過ぎ去る
 愉しみたければ今すぐに 今日は再び巡らぬものを――

 ずっと昔、イーグレットに教わったアクアレイアの抒情歌を口ずさみながらイェンスは広い商港の突き当たりを目指して歩いた。足取りは軽く、重石でもつけていないと宙に浮かびそうなほどである。今朝はなんて素晴らしさだ。俺は嬉しい。本当に嬉しい。
(レイモンド、レイモンドか)
 声には出さず、大事な名前を何度も唱える。長い呪縛が消え去ったのを実感し、歓喜せずにはいられなかった。こんなところで踊り出せばまたパトリア人に通報されかねないのでどうにか鼻歌で紛らわせておくけれど。
「おーい、皆! 帰ったぞー!」
 船着場の最奥にひっそりと停泊中のコグ船に声を張り上げる。すると船縁に数人の老水夫が顔を出した。
「イェンス! おいお前ら、イェンスじゃ!」
「ああ、無事で良かった!」
 安堵の吐息を耳にして仲間がわらわら集まってくる。投げよこされた縄梯子を伝い、甲板に上がった船長を皆はぐるりと取り囲んだ。
「イェンス、戻ってこれたんだな!」
「ったくどうなることかとヒヤヒヤしたぜ」
「パトリアの嘘つきども、ふざけた言いがかりをつけおって! なーにが聖女パトリシア様じゃ!」
「ほんとほんと、ここまで来て詫び入れろっての!」
 憤慨する彼らを「まあまあ」となだめる。アミクスとの不仲は今に始まったことではない。化かし合いはお互い様だし、無罪放免となった今、イェンスに話を蒸し返す気はなかった。
「そんなことより聞いてくれ、この街にオリヤンが来てるぞ!」
 熱しやすい彼らには別の火種を与えてやる。一年ぶりの仲間の名前に「おお」と明るい声があがった。そこに「俺の子供を連れてきてくれたんだ。こーんなでっかくなっててさ! もういっぱしの男だったぜ!」と付け加えれば甲板は大いに沸き立つ。
「そりゃ本当か!?」
「そうか、ついに会えたのか!」
「ああ、しかもオリヤンが言うには俺が釈放されたのはレイモンドが――あ、息子がレイモンドっていうんだがな、裏で頑張ってくれてたおかげだそうだ。もう感無量でさ!」
「おおおお!」
 ろくな経緯も説明していないのに船上は早くもお祭り騒ぎだった。独り身の男ばかりで子供がいるのはイェンスだけだから、皆レイモンドがやって来る日を心待ちにしていたのだ。
 昨夏までオリヤンしか知らない隠し子だったとは思えない。皆自分のことのように手放しで喜んでくれて、感謝してもしきれなかった。肝心のレイモンドはなんだか不服そうだったけれど。
(やっぱ俺みたいなのが父親じゃ嫌だったかな? もっとこう、知的で都会的な父親が理想だったとか……。けどこればっかりは仕方ねーもんな。腹決めていい親父になれるように頑張らねーと)
 むんと拳に力をこめる。脳裏に息子の姿を描けば心はおのずと鼓舞された。何があってもきっと平気だ。最大の懸念は解消されたのだから。
(俺の祈りは呪いに勝った。あの首飾りは今も子供を守ってくれてる――)
 重大な罪を犯した精霊祭の三ヶ月後、どうしても気になって訪ねた三度目のアクアレイアでイェンスは例の娘と再会した。折しも王都はカーニバルの真っ最中、正体は隠したままで済んだ。
 家のドアを叩いたら身ごもっていると聞かされて、目の前が暗くなったのを覚えている。悪い予感が当たってしまった、取り返しのつかないことをしたと。けれどあのとき首に提げていたお守りだけは渡せて良かった。フサルク文字を刻んだ牙と、子供を産んでくれた女に改めて感謝しなくては。
「で、その息子はどこにいるんだ? まだオリヤンの船なのか? 早く俺たちにも会わせてくれよ! なんなら北辺海までこっちの船に乗せてやろうぜ!」
 と、興奮気味のスヴァンテに熊皮のマントを引っ張られる。オリヤンの引退後、最年少ながら副船長の座を継いだ武骨な男の提案に皆は揃って飛びついた。
「おお、そいつはいい! めいっぱい歓迎してやろう!」
「イェンスの息子はわしらの息子も同然じゃ! 可愛がってやらんとのう!」
「そうと決まれば、ほらイェンス、ぼさっとしてねえで呼んでこいや!」
「うわっ! こら! 押すんじゃねーって!」
 戻ってきたばかりなのにコグ船を追われ、イェンスは再度桟橋に下ろされる。困った顔をしてはみせたが胸は喜びに満ちていた。仲間たちも息弾ませて船縁から手を振ってくる。
「大急ぎで甲板片付けておくぜ!」
「酒とつまみもたっぷり用意しとくからな!」
「うわっはっは! 今日は宴会じゃ!」
「ったくお前ら……! ありがとな、任せたぞ!」
 年甲斐もなく頬を赤くしてイェンスは来た道を引き返した。初めこそ普通に歩いていたが、だんだん早足、駆け足になる。
(レイモンド……! レイモンドって呼んでいいんだ、これからは!)
 今朝はなんて素晴らしさだ。俺は嬉しい。本当に嬉しい。
 ずっと会いたかった。会えば災いを招くかもしれなくても、それでもずっと。
(俺たちどんな親子になれるだろう? レイモンドは、俺のことをなんて呼ぶかな?)
 抑え込んできた思いが溢れ、鼓動は逸るばかりだった。朝もやの晴れた海はきらきらと眩しかった。




 ******




 真面目くさった顔をして、呪いだのなんだの馬鹿馬鹿しい。そう胸中に吐き捨ててレイモンドは客室の扉を閉める。力を入れすぎたか激しい音が響いたが、そんなことはどうでも良かった。我慢できない苛立ちを何かにぶつけてやらなければ頭がどうかしそうだった。
 あまりに勝手ではないか。予告もなしに、この世で一番会いたくなかった男に会わせるなんて。
(大体なんであいつの身の上話なんか聞かされなきゃなんねーんだ? 可哀想だと思うなら納得しろって言いたいのか? 十八年もほったらかしだったくせに)
 ずっと君の身を案じていたんだという言葉がよぎり、気がつけば備え付けの長椅子を蹴り飛ばしていた。痛みでハッと我に返る。だが平静もさして長くは保てなかった。あの熊皮のマントのはためきがちらついて。
(くそっ……)
 一体どんな顔をすると思っていたのだろう。オリヤンも、父親だとかぬかす男も。
 むしゃくしゃする。とても冷静になどなれない。けれど部屋の外でノックをためらう気配があるのを無視することはできなかった。己が閉じこもっていたら彼女の休む場所がない。
「……入ったら?」
 極力いつもの声音を意識して呼びかけた。間もなくルディアがドアを開く。
「レイモンド」
 彼女にしては珍しく、気遣わしげな顔をしていた。話を聞いたほうがいいのか、しばらく一人にしておいたほうがいいのか、決めかねているのがわかる。レイモンドは片眉を下げ、へらりとルディアに笑いかけた。
「いやー、こんなことってあるんだな! 一杯食わされたっつーかなんつーか。まさか知らない間に親の友達と知り合いになってるなんて、普通は思わねーよなあ!」
「……レイモンド……」
 茶化して笑い飛ばそうとしたのに彼女がそれに合わせてくれない。たちまち空気は重くなり、気まずいことこのうえなかった。
 何を言われるんだろうか。会えて良かったじゃないかとか、悪い男じゃなさそうだぞとか言われたら、なんて返せばいいんだろう。お決まりの家族論など聞きたくない。それは自分にはなんの役にも立たないものだ。
「…………」
 しばらく身構えていたけれど、ルディアは黙ったままだった。静寂を破ったのも「言葉が見つからなくて、すまない」なんて台詞で拍子抜けする。
「何か気の紛れることでも言えればいいんだが……」
 ルディアがオリヤンの味方でなくて心底安堵した。吐き気がするほど嫌だということ、彼女はわかってくれているらしい。
「いや、いいって。十分助かったよ。いきなりすぎて頭真っ白になってたし、あのまま桟橋で話してたらオリヤンさんかあいつのどっちか殴ってたよ」
 助け舟に感謝を述べるとさっき蹴りつけた長椅子に腰を下ろす。「そうか」と呟いて彼女も向かいの寝台に腰かけた。
 また沈黙。まるでコリフォ島を出た頃みたいな雰囲気だ。何か話さなければと思うが何も言葉になってくれない。ただ息が苦しくて。
「横になったらどうだ? 昨日寝ていないだろう」
 同じく徹夜明けのルディアが休養を勧めてくる。
「いや、だったらあんたが寝ろって。俺こんなテンションじゃ絶対寝つけねーもん」
 首を振ると彼女は「寝つけなくても目を閉じていたほうが神経は休まる」とレイモンドをたしなめた。
「けどあんたも疲れてるだろ? パーキンのせいであちこち走り回ったし」
「私のことはいい。さっさと横になれ」
「でもさ」
「でもじゃない。わがままを言うな」
「ええー、わ、わがままって。気ィ回してんのにそりゃねーだろ?」
「うるさい。早く寝ろ」
「あっじゃあ子守唄とか歌ってくれたら」
「レイモンド!」
 軽口の応酬めいてきたところで目を合わせ、どちらからともなく吹き出す。「ありがとな」と今度は作り笑いせずに言えた。口角を上げたルディアのやれやれという表情が慕わしい。今なら少し休めそうかもとレイモンドは長椅子に足を上げた。そのときだった、通路からオリヤンの声が響いたのは。
「レイモンド君、ちょっといいかね?」
 やっといつもの調子に戻りかけていたのに努力は全て水泡と帰す。思いきり頬が引きつったが、なんとか「何?」と問い返した。ルディアも眉間にしわを寄せる。鍵などという大層なもののついていないドアはすぐに開け放たれた。
「イェンスが君を迎えにきてるんだ。北へ向かうのはどうせ同じことだから、しばらく船を乗り換えてくれないか?」
「はあー!?」
 思わぬ頼みにぞっとする。何を言っているのだこの人は。ついさっき怒りを示したばかりなのに、何も聞いていなかったのか。
「君が乗り気でないことはわかってるよ。しかし私もイェンスの友人として、彼がどんな男か知ってもらいたい。もしお断りだと言うのなら、悪いが君たちにはここで降りてもらおうと思う」
「なっ……!」
 持ち出された条件にレイモンドは絶句した。言うことを聞かねば放り出すぞと脅しているのだ、オリヤンは。こちらには他に頼れる知人がいないと承知で。
「約束と違うじゃねーか!」
 弱い反論に過ぎないのはわかっていたが責めずにはいられなかった。信じて身を寄せた相手にこんな仕打ちを受けるなんて。自分一人だったら「こんな船こっちから降りてやる!」と飛び出しているところだ。
「君にとっても悪い話じゃないよ。船の皆は君に好意を持っているし、きっと愉快に過ごせるはずだ。さあ、わかったら支度してくれ」
 オリヤンはレイモンドを急かし、立てかけておいた槍を手渡した。どうやら本気で拒否権を与えるつもりはないらしい。
「……あんたそういう人だったんだ?」
 苦々しく吐き捨てる。オリヤンは何も答えず、こちらを見もしなかった。彼はただ「イェンスと腹を割って話してほしい」と繰り返すだけだった。それで全部上手く行くからと言いたげに。
 ――冗談じゃない。余計なお節介はいい加減にしてくれ。
 そうはねのけられたらどんなに良かっただろう。わかっている。こんなときいつも、我を通せるのは金を持っているほうなのだ。
「……私も一緒に乗り換えていいか?」
 と、そのとき客室でもう一つ声が響いた。見ればルディアが「一人より二人のほうが気詰まりせずに済むだろう」と荷袋を手に立ち上がっている。
「行ってくれるのかい? 怖くなっても次の港までこっちに戻ってこられないよ?」
 意外そうに亜麻紙商が瞠目した。ルディアは事もなげに答える。
「迷信深いタチではないしな。それにくだんの呪いは北辺人以外に効果ないのだろう?」
「まあそうなんだが、イェンスの周りでは色々と不思議なことが起こるから、パトリア人にも忌避されているんだよ」
「問題ない。レイモンド、お前はどうだ?」
 迷惑でないか尋ねられ、一瞬返答に詰まる。
「そ、そりゃ一緒のほうが俺は嬉しいけど……」
 悩んだのは、イェンスの船はオリヤンの船ほど安全でないのではということだった。なにしろあちらは社会不適合の烙印を押された船員だらけだそうだし、姫君を乗せていいものか心配だ。たとえ別行動することになっても慣れた船に彼女を残すべきではないかと思える。
「いいのかよ? あんたにゃ居心地悪いだけなんじゃねーの?」
「構わんさ。お前には借りばかり作っているから、たまには返しておかんとな」
 微笑とともに青い双眸が伏せられる。ただでさえ心労のかさんでいる彼女をつまらない私的なごたごたに巻き込むのは気が引けた。そんなことを口にすればまた「わがままを言うな」とどやされそうだが。
「うん、それじゃそうしてもらおう。二人とも下に降りてくれ」
 ともあれ船主の意向には逆らえない。レイモンドたちはそれからすぐに古式ゆかしい横帆のコグ船に移ることになった。
 こうして忌々しい日々はその始まりを告げたのである。




 ******




 年々豪華になっていくオリヤンの船を見上げ、イェンスは感嘆の息をつく。製紙業というのはよほど儲かるものらしい。去年は三隻の船団だったのが今年は五隻に増えていた。停泊するのはどれも大きな新型帆船で、イェンスの船の倍くらいある。まったく驚くべき商才だ。この調子なら数年内にもう一、二隻増やしてしまうのではなかろうか。
(老後の心配いらねーなあ。本当に頼りになるわ、オリヤンは)
 誇らしい気持ちでイェンスはうんうんと頷いた。仲間内では一番の稼ぎ頭で、いつも親身に相談に乗ってくれて、おまけに息子とも会わせてくれるなんて。頭が上がらないとはこのことである。オリヤンがいてくれて本当に良かった。彼の励ましがなければきっと、自分は女を孕ませた後悔で海に身を投げていたに違いない。
(レイモンド、早く出てこねーかな。肉と魚どっちが好きだろ? 海育ちなら魚かな? アレイア海にはいなかったけど、タラとかニシンとか食うかな?)
 そわそわしながら梯子の下で息子が降りてくるのを待つ。柄にもなく緊張し、一方では浮かれきって、平常心を保つのが難しかった。桟橋を行ったり来たりしてみたり、何度も船を仰いでみたり、勝手のわからぬ田舎者同然の振る舞いをしてしまう。
(落ち着け俺、こんなんじゃ威厳も何もあったもんじゃねーぞ)
 イェンスはそう自分に言い聞かせた。尊敬されたいのならもっと堂々としていなければ。ただでさえアクアレイアは豊かで進んだ街なのだから。
(でかくて綺麗な建物がいっぱいだったもんな。それこそオリヤンの船みたいにぴかぴかで――って、ん? 待てよ……?)
 そのとき不意にイェンスは重大な事実に思い当たった。レイモンドの乗ってきた元副船長の船に比べ、自分のコグ船は狭いうえにちょっとみすぼらしいのではないかと。これでは息子ががっかりするのではないかと。
(あれっ!? 乗り換えたら普通にグレードダウンになるんじゃねえ!?)
 自虐でも謙遜でもなくイェンスたちの船は古い。耐久性・操作性・居住性と三拍子揃った新型帆船を買う金がないわけではないのだが、いまいちその気が起きないのは「買っても長く使わないのでは」という疑念を消しきれないからだった。何しろ乗組員たちは高齢化が進みに進み、半数以上が六十歳を過ぎているのである。一番若いスヴァンテでさえ来年は四十だ。皆いつ陸に降りるかわからないのに大枚ははたけなかった。せめて新しい水夫が来るなら設備一新を検討できるのだが。
(つーか周りが年寄りばっかだと退屈させちまわねーか? しかもウチ、全員合わせても二十人ぽっちだし……)
 あれ、これまずいんじゃねーのとイェンスは息を飲む。できればレイモンドには船や仲間や自分のことを気に入ってほしい。そのためにできることはなんだってするつもりだ。しかし本当に好感を持ってもらえるか今更不安になってきた。自分にとっては当たり前の環境でも、もしかしてレイモンドにとっては――。
「おおーい」
 イェンスがぐるぐると悩み始めたちょうどそのとき、頭上で友人の声がした。見上げればオリヤンが梯子の途中で手を振っている。彼に続いてレイモンド、そしてもう一人先程も見た青髪の剣士が降り立った。
「イェンス、この子も君の船に乗りたいと言うんだが構わないかい? 名前はブルーノ・ブルータス、出身はアクアレイアで、レイモンド君の友達だ」
 紹介を受け、イェンスは青年を一瞥した。ブルーノとやらは礼儀正しく頭を下げてお辞儀する。物腰は洗練されており、どこか高貴ですらあった。しかし厭味な感じはせず、面差しはきりりと凛々しい。
 そうか、息子にはこんな立派な友達がいるのか。なんとも喜ばしいことではないか。
「ああ、もちろんいいぜ。つーか逆に助かるよ。ちょうど今、若いの一人じゃやりにくいかなって考えてたんだ」
 イェンスは快諾し、ブルーノによろしくと告げた。
「本来はパトリア式に握手するべきなんだろうけど、悪ィな、あんまり他人に触らないようにしててさ」
 そう詫びると青年は「わかった。よろしく頼む」と頷く。こちらを畏怖する素振りはなく、自然な受け答えだった。久々にまともなパトリア人ではないかと嬉しくなる。イーグレット然り、アクアレイア人とは相性がいいのかもしれない。
「まあ窮屈な船だけど、寛いでくれ。なんだったら居ついてほしいくらいだぜ。昔は生きのいい水夫が大勢いたんだが、年取ったり怪我したりで年々減ってく一方でな」
 勢いで勧誘してみると「すまない。我々は旅の途中だから」と首を振られた。ブルーノは申し訳なさそうに別れの予定を口にする。
「私とレイモンドはマルゴー公国を目指しているんだ。あなた方と同行させてもらうのはサールリヴィス川の河口までになる」
 えっとイェンスはレイモンドを振り返った。「本当か?」と問うも息子からの返事はない。ついと視線を逸らした彼の代わりに「ああ、実はそうなんだ」と答えたのはオリヤンだった。
「マルゴーで待ち合わせをしているらしくてね。まあだけど、今後は会おうと思えばいつでも会えるわけだし」
「そ、そっか。先約があるのか。そんならしょうがねーな」
 心底残念ではあったが納得して引き下がる。気持ちを切り替え、イェンスは小さくうんと頷いた。少しの間しか一緒にいられないのならその時間を大事にしよう。そう決意する。
「あのさ、遠慮せず甘えてくれよな。今まで側にいられなかった分も、色んなことしてやりたいと思ってるから」
 精いっぱい父親らしくイェンスはレイモンドに呼びかけた。だがまたしても息子の反応は返ってこず、おやっと首を傾げる。彼は唇を尖らせて、ポケットに手を突っ込んだまま足元を睨みつけていた。アレイア語、間違ってないよなと案じつつ「皆が歓迎会の準備してくれてんだ。行こうぜ」と再度話しかけてみる。
「…………」
 訪れた沈黙は長かった。最初に耐えられなくなったオリヤンが肘でこつんとレイモンドをつつく。すると息子は深い嘆息を吐きこぼし、やっと言葉らしい言葉を口にした。
「……行きゃいいんだろ。わかってるっつーの」
 投げやりに言い捨ててレイモンドは桟橋を歩き出す。慌ててその先導に回りつつ、イェンスはオリヤンの袖を引っ張った。
「な、なんか怒ってねーか? 俺もう既にやらかした?」
「いや、すまん。これは私の失策だ」
「えっ、ど、どういうこと?」
「唐突すぎたと言うべきか、強引すぎたと言うべきか……」
 後ろを歩く若者たちに聞こえないように北辺語で事情を問う。レイモンドはどうも父親に会いたくなかったようだと聞かされてイェンスは喉を詰めた。
「や、やっぱ俺みたいな呪われた人間が親っつーのはアクアレイア人でも受け入れがた」
「そうじゃなくて、なんと言うか、心の準備ができていなかったみたいなんだ。複雑な年頃だし、まだ戸惑っているんだと思う」
「と、戸惑って」
「ああ、私もできるだけサポートするが、そっちも早く親子らしくなれるように頑張ってくれ。ひょっとしたらこの航海が最初で最後のチャンスになるかもしれない。まあ、だけど、船に乗せてしまえばすぐに馴染んでくれるとは思うがね。レイモンド君はとても素直で楽しい子だし、うちの水夫連中とも一日で仲良くなっていたから」
「そ、そうか」
 性格がひねくれているわけではないのだなとひとまず胸を撫で下ろす。それならば酒でも酌み交わして親睦を深めよう。己とて問題児ばかりの戦闘集団をまとめあげ、荒波を越えてきたのだ。とっかかりさえ掴めればきっとなんとかなるだろう。
「ありがとな、オリヤン」
 イェンスは己の経験と嗅覚を信じた。我が子ながら、レイモンドはまったく一筋縄で行かない相手だったのだが。




 ――気持ち悪い。声にならない声で呟く。ストレスからは逃げるタイプだし胃の弱いほうでもないのに凄まじい不快感だ。
 背中が視界に入るだけで蹴り飛ばしたくなるから自然うつむきがちになる。気がつけばまた猫背に逆戻りだった。
 すっかり朝もやの晴れた港はレイモンドの心境に反して健全な活気に満ちていた。荷の積み込みに精を出す男たちの声が響き、帆を張った船は次々と出航していく。
 金があればあのうちのどれかに乗せてもらえたのだろうか。考えると悲しくなった。リマニで得た賞金はタイラー親子にほとんど渡してしまったし、残額ではとても二人分の旅費に足りない。ルディアのくれた記念硬貨を合わせても無理だった。これはもう、コレクターに売る気など更々ないけれど。
(姫様のこと困らせないようにしねーとな)
 ポケットのコインに触れながら隣を歩く彼女を覗く。ルディアはすぐに視線に気づき、レイモンドを仰ぎ見た。
「なんかごめんな」
 詫びるこちらに彼女は「気にするなと言っただろう?」と苦笑する。でもさと言いかけたところで船着場の端に着いた。「ホー、ホー」とかいうイェンスの呼びかけにコグ船の甲板がざわめく。多分「おおい」とか「帰ったぞ」みたいな意味だろう。
 黒ずんだ船縁に年老いた水夫たちがしわくちゃの顔を並べる。号令とともに船に上がる橋板が渡された。飛び交うのは聞き慣れない北辺語。彼らに応じるオリヤンを見ていると、そもそも彼は遠い異国の人間だったのだなと見切りもついた。
 ぐるりと辺りを見渡せばルディア以外は揃いも揃って薄い瞳の者ばかりだ。それなのにこれっぽっちも親近感が湧いてこないのは何故だろう。重い足取りで甲板に上がり、レイモンドは更に気が重くなった。温度差のある歓声と拍手に包まれて。
「喋れる奴はパトリア語使ってくれ! 北辺語、全然知らねーらしいんだ」
 盛り上がる仲間たちにイェンスが伝える。すると「よく来てくれた!」とか「よろしくな!」とか訛って聞き取りにくい言葉で熱烈に歓迎された。
 いつもの自分なら愛想良く「どうもどうも」と応じる場面である。だが今はとてもそんな気になれなかった。うきうきと返事を待つ彼らに対し、募るのは苛立ちだけだ。暴言を堪える代わりにレイモンドは沈黙した。花道を素通りし、オリヤンを振り返る。
「で、次は何すりゃいいの?」
 皮肉たっぷりの問いかけに年上の友人は顔を歪めた。願わくは、これは駄目だと見限って一旦降ろしてほしかったが、希望は無視されたようである。意外に食えない亜麻紙商は「歓迎会まで同席するよ。終われば私は自分の船に戻るけれど、君たちは皆とゆっくりしてくれ」と答えた。
「ダヘイテ、レイモンド。ダヘイテ、ブルーノ――」
 しばらくオリヤンは北辺語で古巣の仲間に何事か話し続けた。親切なことにレイモンドたちの紹介をしてくれているらしい。緊張気味だとか昨日の騒動で疲れているとかでっち上げでもしたのだろう。非礼に固まりかけていた乗組員の表情は少しやわらいだかに見えた。
 彼らが甲板に毛皮を敷き、車座になって腰を下ろすとレイモンドたちも座るように促される。両側をイェンスとオリヤンに挟まれて舌打ちした。心配せずとも逃げやしないのに。
「この酒は美味いぞ。こっちは今の時期しか食えない魚だ」
 勧められた酒と料理が目の前に積み上がっていく。ひと晩何も食べておらず、腹は空いていたのだが、ついに指を伸ばすことはなかった。ただ静かに、石像のごとく鎮座して、耐えがたきが過ぎるのを待つ。
「……ひと口だけでも食べてみないか? 好物はなんだ? 持ってくるぞ?」
 焦れたイェンスに尋ねられても聞こえなかったふりをした。オリヤンの目に咎められ、答えるだけは答えたけれど。
「別に、何も好きじゃない」
 悪い夢に迷い込んだ気分でレイモンドは無意味で無駄な宴会を眺める。北辺の老いぼれたちはなおしばらく盛り上がる努力を続けたが、それらは全て徒労に終わった。レイモンドはささやかな抵抗をやめなかった。
 根負けしたのはイェンスである。まったく親しみ合おうとしないレイモンドに乗組員が再び戸惑い始めた昼前、ようやく彼はお開きを宣言した。
「あー、まだ全然早いけど、昨日は色々あったしな。騒ぐのは、今日のところはこんくらいにしとこうぜ」
 白けた酒宴を惜しむ声など出るはずもない。「そんじゃ部屋まで案内してくるわ」と立ち上がったイェンスに連れられて輪を離れていくアクアレイア人たちに彼らはもう先刻の熱っぽい目を向けてこなかった。歓声も拍手も何もない。レイモンドにはそれで良かった。




 パタンと無機質な音を立て、大慌てで整えた客室のドアが閉ざされる。それきりうんともすんとも言わない扉を前にイェンスはがっくりと項垂れた。
 船を案内しがてら話をしようと思ったのに、挨拶はおろか目も合わせてくれなかった。「俺もブルーノも寝てないから」のひと言で一刀両断されてしまって。剣士のほうは、会釈だけはしてくれたけれど。
「なんなんだあいつ、イェンスに向かってあのふてぶてしい態度!」
「親を敬う気がねえのか!?」
「いや、違うんだ。普段はあんな子じゃないんだよ。怒らせたのは私なんだ」
 薄暗い甲板下倉庫から引き揚げると、皆とオリヤンが一日たっぷり騒ぐはずだった宴会の片付けをしつつレイモンドの不愛想さについて話し合っていた。いきり立っていた者たちも、騙すような形でここまで連れてきたということ、本来は人懐っこく気のいい若者であることを聞き、「ふうん、そうだったのか」と一応納得した様子である。
「おっ、イェンス! どうだった?」
 と、輪の真ん中にいたスヴァンテがこちらに気づき、短い金髪をなびかせて振り返った。副船長の問いかけにウッと胃を押さえ、イェンスは力なく首を横に振る。
「駄目だった……、多分ものすごく怒ってた……」
 連鎖する溜め息と皆の神妙な面持ちがつらい。「何がそんなに気に入らないんだ?」なんて聞いたら火に油を注ぐ気がして何も聞けなかったと吐露すると、ますます救いがたそうに唸られる。
「まあ黙ってたのは悪かったかもな。サプライズっつーのはこう、やっていいときと悪いときがあるからな」
「スヴァンテ、俺どうしたらいい!? スヴァンテがあれくらいの年だった頃、あそこまでギザギザにとんがってたか!?」
「落ち着け落ち着け!」
 すがりついた副船長になだめられても焦燥は消えない。イェンスは掌で顔を覆い、さめざめと己の運命を嘆いた。
「やっぱり呪われた身の上で、父親だなんて名乗ろうとしたのが間違いだったんだ……! 俺なんかがレイモンドに会っちゃいけなかったんだ……!」
「そ、そんなことはない! レイモンド君は呪いなんて気にしちゃいないよ!」
「そ、そうだぜ、聞いた限りじゃキレられてんのはオリヤンだろ? 元々会うつもりじゃなかったとしても、呪いは関係ねえんじゃねえか?」
 オリヤンとスヴァンテの励ましに他の乗組員らも頷く。イェンスのあまりの落胆ぶりに不憫の念を催したのか、仲間は口々に協力を申し出た。
「まああんたが子供によくしてやりたいっつうなら俺らもなるべく親切にするよ」
「ホントかどうか知らねえが、オリヤンの話じゃいい奴みたいだしな」
「お、お前ら……!」
 イェンスは感激に目を潤ませる。だがいかんせん誰もまともな家庭で育っていないため、どうすればレイモンドが心を開いてくれるのか打開案を示せた者はいなかった。
「ううっ、俺にできることはなんだ……?」
 苦悩するイェンスと一緒に仲間もううんと頭をひねる。
「めげずに声がけしていくとか?」
「シカトされても気にせず笑顔?」
 光明が差したのはそのときだ。最長老の船員がぽつり、「そりゃスヴァンテが荒れてた頃の対応だのう」と漏らしたのだ。
「なるほど、そうか、スヴァンテだ!」
 年嵩の老水夫らが一斉に拳を打つ。
「お前ここに来た頃めちゃくちゃ反抗的だっただろ? ありゃ一体どんな胸中だったんだ?」
 突然問われた副船長は屈強な身を丸め、「ええっ?」とその場で考え込んだ。
「……いや、あの頃は親に捨てられて不安定だったから……。うーん、大勢に構われるとうるせえってなってた気がすっから、無理に距離縮めようとしたり、あれこれ押しつけたりすんのはやめといたほうがいいんじゃねえかな。静かに心の余裕ができるのを待ってやるっつうかさ……」
 スヴァンテが喋れば喋るほどオリヤンが面目なさそうにしぼんでいく。彼は彼で良かれと思ってやってくれたことなのだが、今回はことごとく裏目に出てしまったらしい。
「なるほど、ゆっくりじっくりか」
「ああ、最初のうちは食事だけ一緒に取るとかして、それ以外は自由にさせておくのがいいと思う。食事が当たり前になってくりゃ、だんだん会話に応じる気にもなるだろ」
 おお、と前のめりになってイェンスは頷いた。さすがは最年少、若者目線でものを見れるなと皆も感心しきりである。
「へへ、四十前のおっさんによせやい」
 照れるスヴァンテにイェンスは「あのさ、俺とレイモンドとブルーノが食事するとき、お前も一緒にいてくれねーか? そんで色々アドバイスしてくれ」と頼んだ。情けない頼みだが、副船長は二つ返事で快諾してくれる。
「ああ、それいいな。二人きりよか抵抗も少なそうだし、四人なら多すぎねえし。なんならタイミング見て、なんで会いたくなかったか理由探ってみようぜ!」
 なんて心強い味方だろう。イェンスは「ありがとう、恩に着る」と無骨な手を握りしめた。「大袈裟だな」と笑われたが、スヴァンテはどこか誇らしげだ。
「ま、俺たちゃ皆あんたの味方だからさ」
 副船長が当然のように告げた言葉に船員たちはうんうんと頷いた。




 天井板の隙間から、高く、低く、ルディアの知らない異国の言葉がこぼれてくる。
 倉庫の隅の小さな部屋にはハンモックが二つ吊られているだけだった。その奥の一方に揺られながら、レイモンドは無言で背中を向けている。
 槍兵が疲れているのは見ればわかった。酷く余裕のないことも。
(やはりオリヤンを説得して、船を移らずにいるべきだったか)
 後悔がルディアの胸にせり上がる。己としてもレイモンドがここまで嫌がるとは考えていなかったけれど。
(初めてだ。こいつが人の輪に溶け込もうとしないなんて)
 多分レイモンド一人だったらここには来ていなかっただろう。我慢を強いてしまったとわかるのがつらいところだ。借りを返すなどと言って、結局少しもできていない。いつもいつも、こちらの都合を押しつけるばかりで。
(イェンスか……)
 しょんぼりと部屋を出ていった男の顔を脳裏に浮かべ、ルディアは以前の、コリフォ島でのイーグレットとのやりとりを思い返した。
 ――レイモンド君、ときに君は顔に落書きをされると不愉快かな?
 ――植物の汁で模様を描いてみてもいいかい?
 両頬に刻まれた二本の線、額の紋様、鼻にかかった大きな傷痕、どれもあのとき描かれたものに酷似している。オーロラの全貌を眺めることができるのも北辺海以北だけだ。
(もしかするとあの男は、あの人を知っているのかもしれない)
 そう考えると胸が震えた。仮に推測が当たっていたとして、何か話せるわけではないが。
(あの人を殺した私に、言えることなど何もない)
 今はそれよりレイモンドだとルディアは小さくかぶりを振った。簡単に受け入れることのできない何かが彼にはあるのだろう。せめて少しでもその苦しみをやわらげてやりたい。
(難しいものだな、親子というのは)
 北辺語の談笑は相変わらず容赦なく降り注いでいた。そっと耳を澄ませても、レイモンドの寝息はなかなか聞こえてこなかった。









(20161110)