さて、訪れた大商館は「大」とつくだけあって豪壮華麗な館だった。堅牢な城砦のごとく水路が敷地をぐるりと囲み、両開きの大きな門には武装した女性剣士が立っている。レイモンドたちが「かくかくしかじかで聖女様のお招きに預かりました」と話すと神殿騎士らしい門番はにこやかに応じてくれた。
「おお、ようこそおいでくださいました。今宵はあなた方をもてなすために、アクアレイア風の宴を準備させていただいております。どうぞこちらをお取りください」
 衛兵は控えていた小間使いに銀の大盆を差し出させる。盆の上にはすっぽり顔を覆い隠せる仮面がいくつも並べられていた。
「パトリシア様のコレクションです。道化型に医者型、スタンダードな純白のフルマスクもございます。どれをお選びいただいても結構ですよ」
 どうやらつけろということらしい。レイモンドは振り返り、ルディアと目を見合わせる。
「なるほどな。確かに気取った夜会ではなさそうだ」
 嫌がるのではないかと案じたが、彼女は事もなげに白のフルマスクを選び、耳の輪っかを引っかけた。オリヤンとパーキンもどこか不気味な仮面の笑みに怖気づきつつシンプルなデザインのものを装着する。
「うわっ、ハハハ。すげえ、旦那様まるで別人ですよ!」
「君も知らない人間みたいだ。なんだか不思議な感覚だな」
 未知の体験に二人は胸をどぎまぎさせていた。早くも魔法にかかったな、とレイモンドは年甲斐もなくはしゃぐ男たちを見やる。
 アクアレイア人が仮面をつけるのは貴族も平民も王族も神官も関係なく無礼講で楽しむためだ。祭りの日だけは誰もが日常生活を忘れ、自由に振る舞っていい決まりになっている。そこに身分だの立場だの無粋な言葉は存在しない。金持ちか貧乏か、美しいか醜いかさえ問題ではなくなるのだ。
 当然礼儀作法の類は真っ先に海に捨てられる。公序良俗も無事では済まない。神官は漁夫の娘を口説きにかかるし、ゴンドラ漕ぎは主人にオールを握らせる。刃傷沙汰でもない限り気にする者などいなかった。どうせ誰が何をしたかなど誰にもわかりはしないのだから。
(ま、それでうちの母ちゃんは貧乏くじ引いたわけだけど)
 銀盆に手を伸ばし、瞳の色を覆い隠すヴェールが張られた一枚を選び取る。苦笑いに仮面をかぶせ、レイモンドは目を伏せた。
 紛れ込んだ旅人と一夜の恋に落ちた母。ほどほどに楽しめば良かったものを子供なんか身ごもって、挙句に男には逃げられた。それでも母は保障の手厚いアクアレイアなら母子家庭でも暮らしていけるとのんびり構えていたそうだ。生まれてきたのはアクアレイアではまず見かけない、薄い瞳の赤子だったわけだけれど――。
「ではお庭のほうへお進みください。写本は一旦こちらでお預かりいたします」
 門番の声にはっとする。気がつけば商売の男神と航海の女神が彫り込まれた青銅の門扉が開かれていた。促されるままレイモンドたちは「アミクスに繁栄あれ!」の古パトリア文字をくぐる。
「おお、これは豪勢だな」
 庭に入ってすぐオリヤンが感嘆の息をついた。レーギア宮に勝るとも劣らぬ壮麗さにレイモンドも歓声をあげる。
 まず目を引くのは三段に渡る巨大な噴水、そこから溢れた水を受けて流れる装飾水路だ。水路には大理石の小さな橋がかかっており、磨き上げられた敷石が門から館の玄関までの案内役を務めていた。庭を取り巻くのは連続アーチの回廊である。五十本はあるだろう柱の一本一本に精霊や英雄が美しく勇ましく彫刻されていて、贅沢にも燭台として天に灯火を捧げていた。小さな炎は宵闇を暖かく照らし、ゆらゆらと揺れている。館そのものも優雅で洗練されており、北パトリア商業都市同盟はなかなか潤っていると見えた。
「うっひゃあ! こりゃウチの地元の市庁舎よりも金かかってるかもだ。石像全部売り払ったらいくらになんだろ?」
「やめろよ、絶対その辺のモンに触るなよ」
 レイモンドはモザイク壁画の貴石くらいなら平然と剥がしそうなパーキンに釘を刺す。幸い普段から不特定多数の出入りする建物だからかすぐ盗れそうなところには何も置いていなかった。招待客の手荷物なども全て衛兵が保管している様子だ。
「オホホ、嫌ですわ! ウンベルト様ったら、もう」
「そういう君こそ、オードリー嬢」
「オッホッホ」
「アッハッハ」
 レイモンドたちより早く来た客は既に庭のあちらこちらで歓談に興じていた。よくよく聞けばどのグループも知人同士で固まっている様子である。気持ちはわからないでもないが、これでは仮面の意味がないなとがっくりした。
(そうだよな、カツラも帽子も上げ底靴もなしだもんな。姫様は髪色で、俺は身長で部外者だってバレバレだし、非日常を味わえるとしてもオリヤンさんとパーキンだけかあ)
 やはりある程度礼儀正しく振る舞わなければならないらしい。堅苦しいのは苦手なのに。
 客はどんどん増えていったが状況はさして変わらなかった。積極的に一人で歩き回る者もなく、集まった百名前後の紳士淑女はどなた様もお行儀がいい。仮面姿になった途端、正気を忘れて踊りまくるアクアレイア人とは大違いだ。
(そろそろ日が落ちて一時間くらいかな)
 庭の隅でレイモンドは星のない曇り空を見上げた。さっさと始まってさっさと終わってくれと溜め息をつく。暑いというほどではないが、湿気を含んだ風がどうにも気持ち悪い。
 と、そのとき、ベルの音が鳴り響き、館の正面扉が開かれた。どうやら聖女がおでましになるようだ。
 最初に三十名ほどの衛兵が列をなして現れて、ざっざっと回廊を一巡した。次に昼間見たツインテールの女騎士が壇上の玄関口で「静粛に!」と命令する。言われるまでもなく客人たちは口を閉じていたのだが。
 仮面越しでも皆の期待が高まっているのが知れた。わくわくと弾む心臓の音が聞こえてきそうだ。あまりもったいぶったことはせず、聖女は間もなく姿を見せた。
「パトリシア様!」
「聖女様!」
「おお、なんと清らかでお美しい!」
 昼間となんら変わりない第七王女のいでたちにレイモンドは拍子抜けする。折角なんの垣根もなく民草と触れ合ういい機会なのに、神殿騎士も彼女も誰も仮面をつけてこないなんて。
「なーんだ、ほんとにアクアレイア『風』だな」
 がっかりして呟くと「防衛上の理由だろう。客も彼女に会いにきているのだし、当然だ」とルディアにたしなめられた。確かに彼女の言う通り、客人たちは嬉しそうだ。仮面の効果も多少はあるのかお上品な夜会に相応しくなく興奮過剰気味でもある。
「皆様、どうぞもっとこちらへおいでください」
 そう言ってパトリシアが数段の階段を降りると皆は我先に彼女を取り巻きに走った。少しでも聖女に近い特等席を占めようとして、早歩きはたちまち全力疾走に変わる。うわ、危ねえとレイモンドは顔をしかめた。
「パトリシア様―っ! すぐに参りますう!」
「あっ!」
 喜び勇んで駆け出したのはパーキンもだった。トラブルメイカーの金細工師を野放しにするわけにいかず、レイモンドたちも仕方なく駆け出す。軽やかなジャンプで装飾水路を越え、階段のすぐ脇のスペースを確保した。やれやれ、この位置なら何かあっても一応対応できるだろう。
「皆様、少しだけ輪を広げていただけますか? ええ、そうです。私が歩いて一周できますように、三列ほどに。皆様にお渡ししたいものがございますので」
 パトリシアはパーキン以外の人間とも様々な約束をしていたらしく、「護符をご所望の方がいらっしゃいましたね」「こちらは長寿の霊泉から汲み上げた聖水です」と次々にお札や小瓶の配布を始めた。全員に用意できる物は全員に用意してくれており、思いがけずお恵みをちょうだいした者たちは「ありがたや、ありがたや」と聖女を拝んだ。
 随分気前のいいことだ。彼女はもうじき神殿を下がるそうだが、この大放出は店じまい前の特価大セールといったところだろうか。パトリシアは今のうちにできるだけのことをしようとしているように見える。
 続いて聖女は女騎士にパーキンの本を広げさせた。「まあ、本当に美しい写本ですこと」と目を丸くしてパトリシアはペンを握る。革張りの表紙の裏に彼女は古パトリア語で「幸福は足元に――パトリシア・ドムス・オリ・パトリア」と書いた。近くにあっても見失いがちな大切なものを忘れないで、という巫女らしい言葉だ。更にその隣には世界で十二本しかないパトリア十二神の聖印を押してくれるというサービスぶりだった。
「早速今夜にも拝読させていただきますわ。この写本を持ってきてくださった方、お顔は覚えておりますので、明晩以降いつでも取りにお越しください」
 仮面の群れに聖女は穏やかな口調で述べる。パーキンの本は引っ込められ、今度出てきたのは木彫りの女神像だった。
 さっきので金細工師のための時間は終わったらしい。パーキンがパトリシアに無礼をしたら止めに入らねばと思っていたのでほっとする。
(良かった良かった。さすがは聖女様、軽く流してくれて助かったぜ)
 しばらくすると庭に給仕が現れて、美味そうな飲み物や料理、丸テーブルを運び込んできた。食事に目移りした客は一人また一人と混み合う人垣を離れていく。キョロキョロと知人を探し、見つからずにトボトボと歩き出す者もいて、ようやくアクアレイアの祭りめいてきたなとレイモンドは笑みを噛み殺した。このためにわざと密集させたのだとしたら、なかなかやり手の王女様だ。
「レイモンド君」
 不意にオリヤンに名を呼ばれ、レイモンドは声のしたほうを振り返った。と同時、仮面に黒チョッキを召した男が人の輪から離れさせようとレイモンドの袖を引いてくる。
「どしたの?」
 尋ねると亜麻紙商は「ちょっと話がしたいんだ」と人気のない回廊の一角を指差した。離れても大丈夫かなとルディアの青い頭を探す。見れば彼女は聖女の目に留まり、仮面についての質問を受けているところだった。パトリシアの御前を失敬するにはまだしばらくかかりそうな雰囲気である。
「うん、今ならいいぜ」
 快諾し、レイモンドはするりと混雑を抜け出した。庭の奥、他の柱像に背を向けた寂しげな英雄像がぽつんと立っている辺りまで足を伸ばす。他人の気配がなくなると亜麻紙商は「税関で聞いた話を覚えているかね?」と切り出した。
「へっ?」
 税関で聞いた話ってなんだっけ。思い出せずに首を傾げる。悩むレイモンドにオリヤンは「イェンスという男の話を聞いただろう?」と補足してくれた。
「あー、あのパーキンが怖がってた?」
「ああ。君はああいう、神々の呪いだとかなんだとかは信じるほうかい?」
「うーん、時と場合によるかなー。別に信じてるわけじゃねーけどさ、不信心な真似をしようとは思わないっつーか、縁起物があるならあやかっとくかって程度? 本気で神様に祈っても金は手に入らねーんだってことは十五のときに思い知ったしなー」
 何故そんなことを聞くのだろうと不思議に思いつつ答える。しかもオリヤンは「そうか……」と呟くだけでなかなか二の句を継ごうとしなかった。なんだなんだ、なんなのだ。この意味ありげかつ重い空気は。
「十五のときというのはアクアレイア国籍を得た?」
 問いかけに「うん」と頷く。
「こう見えて苦労してるんだぜ? アクアレイアにはこんな目の奴いなかったからな」
「そうか、そうだな……。苦労があって当然だとも」
 茶化し気味に答えたのにオリヤンはまたもや物思いに沈んでしまう。いつも穏やかで取り乱すことのない彼らしくない態度だった。レイモンドは狼狽し、とにかく元気を出してもらおうと明るく振る舞う。
「け、けどオリヤンさんは俺の目が自分と同じだから助けになってくれたんだよな!? だ、だったらその、苦労ばっかりでもないっていうか、得した面もあるっていうか、これも一つの縁っていうか、えーとその」
 自分でも何を喋っているのかよくわからなくなってきた。いつどこで得したんだよと冷静な自分がツッコミを入れる。とにかく思ってもいないことを口にするのはよろしくない。多少強引でも話を戻すことにする。
「どうしたんだよ。長旅で疲れでも出た? それともまさかパーキンみたいにイェンスって男にビビってる?」
「いや、そういうことではなくてだね」
「じゃあどういうことなんだよ?」
「…………」
 オリヤンは答えにくそうに口ごもった。完全に黙してしまった年上の友人にレイモンドはなるべく優しく「なんか食おうぜ? 俺も腹減ったしさ」と呼びかける。
「……そうだね、そうするかな。人生にはなるようにしかならないこともある、ということだね」
「うんうん! よくわかんねーけどきっとそうだぜ!」
 オリヤンの声音がいつもの調子に戻ってほっとする。亜麻紙商の肩を叩き、レイモンドは聖女の相手がひと段落したルディアのもとへと引き返した。気がつけば招待客は大多数が散り散りになっていた。




 ふんふんふんとパーキンは鼻歌まじりにグラスを空ける。明日パトリシアのサイン入り神話集が自分のところに戻ってくると思うと天にも昇る心地である。飯は美味いしワインは濃いし、今日の夜会は言うことなしだ。これでうっかり本当に足元に幸せが転がってきたら女神ディアナの猛烈な信者になってしまうかもしれない。
(お高い服着た連中でいっぱいだし、腕輪とか財布とか落っこちてるかもしれねえな!)
 期待をこめてぶらぶら庭を歩き回る。しかし金貨や宝石はどこにもなく、時々何か見つかってもマナーの悪い客が捨てた鶏の骨くらいだった。
(あーあ、まだ肉がついてるじゃねえか)
 もったいないことしやがるぜ、と拾って最後までしゃぶり尽くす。用のなくなった残骸はまた暗がりに放り投げた。仮面をずらし、新しくついだワインをがぶ飲みし、王様気分で闊歩する。
(うーん、聖女様はまーだ囲まれてんなあ)
 階段の手前で足を止め、パーキンはしょんぼりと肩を落とした。話しかけるネタもないし、集まった馬鹿どもが身になる話をしているとも考えがたいので眺めるだけで済ませておく。
(土下座して頼んでも護符作りの協力はしてくれねえかなあ。パトリシア様はもう聖女引退するわけだし……)
 彼女が聖印を押して押して押しまくってくれたら確実にすごいことになったのだが。ああ、今度は誰の手にあの印章が渡るのだろう。たとえそれが世紀の聖人だとしても、己より有効な使い道を見つけられるとは思わないのに。
(ほんと世の中狂ってるぜ)
 チッと舌打ちし、パーキンは満腹の胃に追加の肉を送り込んだ。こんな豪勢な晩餐には今後ありつけないだろうという貧乏人根性から出た行動だ。しかしこの判断は間違いであったらしい。突如下腹部に鋭い痛みが走り、パーキンはその場に硬直した。
(う……ッ!? こ、これはッ……!)
 腹をさすり、左右に目玉を動かして、火急速やかに厠を探す。けれど美しい庭園にそんなものは存在していないようだった。目に入るのは煌びやかな噴水だの刈り込まれた庭木だのばかりで御手洗らしい離れはない。
(しょ、商館の中か?)
 普段ならその辺の水路で致すのになんの抵抗もないけれど、ここには金持ちが多すぎた。まだまだ飲み足りていないのに夜会から摘まみ出されたくはない。
(ぐぅ……ッ! 頑張れ俺! ファイトだ俺!)
 尻肉に力をこめ、できるだけ内腿をくっつけたままパーキンはひょこひょこ歩きで屋内に向かった。入館許可など求めている余裕はない。厠くらいは開放されているものと信じてヒイヒイ玄関口に上がる。
 正面扉の鍵は開いており、少し押せば簡単に開いた。衛兵も小間使いも庭に出払っているのか一階ホールはほぼ真っ暗だ。だが約束の地がどこにあるかはすぐに知れた。煌々と光るランタンの下、「御手洗は二階の突き当たりです」と案内の看板が立てかけられていたからだ。
(に、二階か! 持ち堪えてくれよ、俺のホーリーホール!)
 女神様、パトリシア様、どうか名誉と夜会服をお守りください。真摯に祈り、一段一段階段を上る。そうする間も内臓からは魑魅魍魎の怨念めいた鳴き声が轟き、永遠とも思える痛みがパーキンを苦しめた。
 脂汗がしたたり落ちる。だんだん意識が朦朧としてくる。俺はもう駄目かもしれない。いや、駄目だ、諦めるな。アレキサンダー三号がご主人様の帰りを待っているだろう。
(ウウウウウウ……ッ)
 なんとか気力を振り絞り、パーキンは長い道のりを歩ききった。願いは天に届いたらしく、L字に曲がった通路の果てで栄光の便器に迎えられる。やった、おめでとう、ありがとう。生きとし生ける全てのものに感謝を捧げ、パーキンは腰帯を解いた。
「ふう…………っ」
 どうやら危機は去ったようだ。真下を流れる街の水路に災厄の申し子たちが消えるのを見送って己が勝利を確信する。顎に伝う汗を拭い、しゃがんだ体勢から立ち上がった。
「ったくハラハラさせやがって……」
 このときまだパーキンは充足感で近づく足音に気づいていなかった。ついでに言えば、己が扉の鍵をかけ忘れるほど逼迫していた事実さえ頭からすっぽり抜け落ちていた。――そうしてズボンを上げる前に、最も出会ってはならない人物に出会ってしまったのだ。

「エッ?」

 キイと扉の開く音がしてパーキンは真横の出入口を振り返った。見ればそこにはぶらぶら揺れるモノを目撃し、凍りついたツインテールの女騎士が立っている。
「あっ、す、すみませっ……!」
 ヤバい、切り落とされる! そう直感して慌てて服を整えようとしたものの、焦って膝が曲がったままだったために引っかかってよろめいた。
「うわっ、うわっ、うわっ!」
 片足立ちのパーキンは呆然と立ち塞がるマーシャに突進してしまう。運悪く彼女の白く瑞々しい手にビタンとモノがぶち当たった。
「あっ……」
 その瞬間、パーキンの脳裏にかつて幾人もの人間に起こされた訴訟の記憶が甦った。借金まみれの夫に離婚を申し立てた妻、期限を過ぎても返済がないと怒り狂った銀行家。ああ、今度の裁判では聖女付きの騎士に対する猥褻行為で罪に問われるのか――。
「いっ…………、いっ…………、」
 顔面蒼白のマーシャは今にも「イヤアアアアアアアア」と絶叫しそうだった。叫ばれるのは本気でまずい。パーキンは咄嗟に彼女の口元を掌で塞ぐ。女騎士は抗い、なんとか人を呼ぼうとした。しかし「あ、まだ手ェ洗ってなかった」という呟きを耳にして何かが限度を超えたらしい。見る間に血の気を失って、白目を剥いて床に倒れた。
「ひええええッ」
 ガシャンガシャンと崩れ落ちた銀の甲冑が激しい音を響かせる。パーキンは恐れおののきながら下着とズボンをずり上げた。幸い仮面はつけたままである。このままそっと立ち去ればマーシャは誰に遭遇したかわからないし、追われる心配はないはずだ。
(落ち着け、落ち着け、ゆっくり行け)
 パーキンはおっかなびっくり足を踏み出す。するとその一歩目で何やら硬いものを蹴り飛ばした。
「ヒーッ!」
 半泣きで通路の壁際に弾かれたそれを見やる。聖女の予言が現実となったのはこのときだった。
「ええっ……!?」
 暗闇の中でもわかる輝きにパーキンは目を瞠る。翡翠の粒やアクアマリン、サファイヤで彩られた、手のひら大の薄い箱が拾ってほしそうに己を見上げていた。勘違いでなければ蓋の装飾はパトリア十二神の一柱、月の女神ディアナを表すものではなかろうか。パーキンは恐る恐る小箱を手に取り、その中身を確かめた。
「……!」
 我知らず息を飲む。何故ならそこに納められていたのは、先程自分のものになるべきなのではと夢想していたディアナの聖印だったのだ。
(な、な、なんつうラッキー! やっぱ時代は俺に味方してるんじゃ!?)
 小箱を懐に押し込むとパーキンは慎重に、そしてでき得る限り迅速に庭園に引き返した。間違っても用を足してきたなどとは思われぬように颯爽と。
(よし、このまま適当に庭を一周して、あの女が目を覚ます前に引き揚げるぞ!)
 夜もとっぷり更けたため、客はちらほら帰り始めていた。今なら怪しまれることはない。
 全精霊が自分のために動いてくれている気がした。さあ護符を作れ、お前のアレキサンダー三号を愚かな世間に見せつけてやれと。
「おや、お帰りですか?」
 何も知らずに尋ねてくる愛想の良い門番に「ひと雨来そうなんでね」と仮面を返す。実際雨の気配はしていた。月には暗く濃い灰色の雲がかかっていた。
「ああ、そうですね。それではお気をつけて。本日はありがとうございました」
 何事もなく関門をくぐり、パーキンは心の中でよっしゃと熱く拳を固める。知った声に呼びかけられたのはそのときだった。
「あっ、パーキン! 待ってたんだぞ、どこ行ってたんだ?」
 びくんと跳ねた肩を見てレイモンドがぎょっとする。ブルーノとオリヤンも両脇でパーキンの過剰な反応に驚いていた。
「そ、そんなびっくりしなくてもいいだろ? 確かにいつもの格好と違うけどよ」
 呆れた調子で着飾った若者が言う。「は、ははは、なんだ、旦那様たちか」とパーキンは極力なんでもないふりをした。
 この三人に嗅ぎつけられたら返してこいと叱られるに決まっている。絶対に知られるわけにいかない。
「今夜は陸に泊まることにしたんだ。どうも嵐になりそうだからね」
 宿はいつも使うところを取れたから、と重い灰色の夜空を見上げてオリヤンが告げる。どうやら三人はパーキンが誤って商船に戻らないように待っていてくれた様子だ。
「わあ、へへへっ、ご親切にありがとうございます! ちなみに何人部屋ですかね?」
 尋ねると亜麻紙商は「たまには君の営業から解放させてもらえるかな?」と苦笑した。どこでも一緒のレイモンドとブルーノはどうせ二人部屋だろうから、こりゃ個室だなとほくそ笑む。
(ここまで都合良く事が運ぶと膝が震えるぜ)
 宿に到着次第、調べられてもバレない場所に聖印を隠してしまおう。無事に故郷に帰り着いたらめでたく護符の大量生産に入れるぞ。ディアナの筆頭巫女が普段どんなお札を作っているか、見本もいただいてしまったし、やはり女神が後押ししてくれているに違いない。
(靴のかかとをくり抜いて、穴に聖印を押し込むか。箱ごと持ってきちまったけど、この大きさじゃ隠し場所がねえし、捨てるしかなさそうだな。あーあ、宝石の粒がキラキラ綺麗に散りばめられてるのにもったいねえ。けどしょぼい石ほじくって足がつくことになったら全部台無しだし……)
 まあいい、人生思いきりが肝心だ。パーキンは小箱のほうは海に捨てようと心に決める。自分にとって重要なのは聖印だけだ。他のことはどうだって構わない。
(ああ、本当にパトリシア様々だぜ! 素晴らしい贈り物をありがとうございます!)
 早く作業に取りかかりたくて仕方なかった。スキップしたり踊ったりしないように、パーキンは苦心してオリヤンたちの後ろを歩かねばならなかった。




 ******




 船着場の一角を臨む白壁の宿に着くと同時、ぽつりぽつりと雨は降り出した。最初穏やかだったそれは瞬く間に激しさを増し、やがて視界に灰色のヴェールをかけるほどになる。上等な服を濡らさなくて良かったとレイモンドは窓辺でほっと息をついた。
(結構いい部屋だな。トリナクリア商人の準商館ってところかな?)
 簡素ながら必要なものがきっちり揃った室内を見回し、オリヤンがどこでも手堅く商売しているのを感じる。取り扱うのが帳簿をつけるには必須の亜麻紙だから、よほどのことがない限り彼が食いはぐれることはなさそうだ。
(今日のオリヤンさん、なんだったんだろ? あの後はずっと普通だったけど……)
 話がしたいと言っておきながら結局大した話はしなかった友人を思い出し、レイモンドは心配になる。詳しいことは知らないが北辺出身なのは確かだし、本当にイェンスとやらが恐ろしかったのかもしれない。だとしたらビビってるのなんて言って悪いことをしてしまった。
「とりあえず、さっさと服脱いでオリヤンさんに返しにいくか。こんな衣装、畳み方もわかんねーし」
 レイモンドはそう言って白手袋や紺の上着を脱いでいく。もし破いたら弁償だと思うといつものように乱雑にはできなかった。寝台を挟んだ向こう側ではルディアもごそごそ着替えを始める。平然とやるよなあ、となるべくそちらを向かないように注意しながらズボンをはきかえた。
(相部屋はほんとこれが気まずいんだよ)
 ルディアはあの通りの性格だし、王族だから見られるのに慣れているというのはわかるが、庶民の自分は居た堪れない。俺もパーキンみたいに個室にしてもらうべきだったか、いやでも姫様を一人にはしたくないし、とレイモンドは悶々とする。
 そのとき不意に後ろからルディアに「おい」と声をかけられた。
「着替え終わったならこっちを手伝ってくれ」
「へっ?」
 振り返れば奥の窓辺で姫君が白い絹地のシャツと悪戦苦闘している。二の腕と肩周りのすっきりした、スタイルよく見えるデザインなのだが、伸びが悪く突っ張る生地にどうしても肘が引っかかって彼女は腕を抜けずにいた。
「上から引っ張ってくれないか? 無理をしたら裂けるか伸びるかしそうだ」
 ルディアはそう言って万歳のポーズを取った。突然脱がせてほしいと乞われ、レイモンドは頭が真っ白になる。
「ええっ!? ぼ、ボタンついてねーの!?」
「ついていたら頼まない。着るときは楽だったんだがな」
 早くしろとせっつかれてレイモンドはいっそう動揺した。心の準備ができてねーよと胸中で叫ぶ。
「い、いや、でも頑張れば一人で脱げるんじゃ?」
「私の服ではないのだから綺麗に返さねばならんだろう。いいから手を貸してくれ」
 胸を押さえて問いかけるもルディアはこちらの心情に配慮などしてくれない。他意なくレイモンドの若い精神を追い詰めてくる。
「湿気と汗で張りついて気持ち悪い。とっとと脱ぎたい」
 不快感を訴えられ、やむを得ず彼女の立つ窓辺へと寄った。無だ、この一瞬無になるんだと掌で顔を覆って繰り返す。
「何をぶつぶつ唱えているんだ?」
 鈍感なお姫様はレイモンドが変なものでも食べたのではと心配そうだった。意を決し、俺はやるぞと目を閉じる。――しかし。
「ん? なんだあいつ、どこへ行くんだ?」
 ルディアが窓に身を屈めたため、レイモンドの腕はスカッと空を切った。「な、なんだよもー!」と怒ると彼女は宿の表玄関、雨の中へ駆け出さんとする男の背中を指し示す。
 見覚えのある夜会服はどう考えてもパーキンのそれだった。金細工師は三階から見下ろすこちらに気づいた様子もなく、港のほうへダッシュで走り去っていく。
「……?」
 ルディアと目を見合わせた。なんだってこんな豪雨の夜に、荒れる海なんかに。互いの顔にそう書いてある。
「……何か変だな。ちょっと廊下で張ってるか」
 言うが早くルディアはひらりと部屋を出た。レイモンドも彼女に続く。
 それからほんの十分足らずでパーキンは宿に戻ってきた。びしょ濡れの身体を犬みたいに震わせて水滴を払い、金細工師は意気揚々と玄関ホール横の階段を上がってくる。だが奥の通路に潜んでいたルディアが「何をしてきたんだ?」と問いかけると、最後の一段を踏み外して踊り場まで滑り落ちていった。
「うわわわ、見てたのか!?」
「ああ、海に何か金目のものでもあったのか?」
「べっ、別にそういうんじゃねえよ! あの、ほら、あれだ、部屋にゴキブリが出たんでな。捕まえて捨てにいってたんだ」
「はあー? んなもん窓から放せばいいじゃねーか」
「馬鹿! 俺はゴキブリが大嫌いなんだ! 戻って来るかもしんねえし、庭に捨てたくらいじゃ安心できねえんだよ!」
「この雨の中、わざわざ海に沈めにいくほど嫌いなのか?」
「嘘くせー」
 不信感たっぷりで返すレイモンドたちに金細工師は「嘘じゃねえって!」と力説する。が、どこか怪しい程度ではこちらも彼を詰問しきれず、パーキンはすぐ解放されることになった。
「まあいい、さっさと身体を拭け。布が駄目になってしまう」
 冷たくルディアが言い放つ。この素っ気なさではパーキンもまさか己が故郷に招きたい職人ナンバーワンの座についているとは考えもしまい。レイモンドはハハ、と乾き笑いを浮かべた。もっとも彼女も彼女なりに、この男に示せる最大限の敬意を示してこれなのかもしれないが。
「一人で脱げないなら手伝ってやるぞ?」
 ルディアの申し出を金細工師は「いらねえっての!」と一蹴する。
「そうか、それならいいんだが。私のはちょっと脱ぎづらいんだ。二人がかりでないと袖が破れてしまいそうでな」
 そうこぼす彼女に「ああ? なんだよ、こんなの万歳すればすぐじゃねえか」とパーキンは無遠慮に手を伸ばした。レイモンドがあっと思う暇もなく王女のシャツがすぽんと脱がされる。
「助かったよ、ありがとう」
 絹のシャツを受け取って半裸のルディアは金細工師に礼を告げた。パーキンは「じゃあなガキども。夜更かしすんなよ」とあてがわれた個室に戻っていく。
「ん? どうかしたか、レイモンド?」
 とてつもない脱力感に襲われてレイモンドは廊下の壁に手をついた。
「……なんでもねー……」
 そう返すだけで精いっぱいだ。折角勇気を振り絞ろうとしていたのに、あの大馬鹿クソゴミ豚野郎。
(いや、確かに脱がしたところで出てくるのはブルーノの身体なんだけどな!? それはわかってんだけどな!?)
 自分にとってはそれだけでもないというか、なんというか。相手がルディアであるということに大きな意味があるというか。
 客室に引き返しつつレイモンドはウウと唸る。肉体とは、心とは、存在とはなんなのだろう。自問は次第に哲学の様相を帯びた。
(もし俺が脳蟲だったら、とっくの昔にもっとアクアレイア人らしい器に乗り換えてただろうなあ)
 肉体に縛られている己の不幸を思ってすぐ、自分のものと言える肉体を持たない王女の不幸に気がつく。器も偽者、中身も偽者、それでも自分は彼女こそルディアだと思うけれど。
(陛下だってそう言うに決まってるのに)
 薄灰色の優しい眼差しを思い出す。レイモンドは一応ずっと身に着けているセイウチの牙の首飾りを引っ張り出して眉をしかめた。
(やっぱり陛下と姫様はちゃんと親子だよ)
 こんなものしか残さなかった男とは違い、二人はずっと一緒にいたし、心を通わせ合ってきたのだから。
(はあ……、なんか宿に入ってからのほうが疲れたな)
 夜会服をオリヤンに返却するとレイモンドたちは早々に寝台に横になった。鎧戸をきっちり閉めても吹きすさぶ風は凄まじく、雨音は夢の中まで響きそうに激しい。
 幸せは足元に、だったら不幸はどこに隠れているのだろう。どうすれば振り払えるのだろう。
 問いの答えは出ないまま、太陽はまた新しい一日を始めてしまう。




 ******




 嵐は夜のうちに去り、空はまた透明な青さを取り戻していた。レイモンドはうーんと縦長の窓辺で背伸びする。
 鳥のさえずりと波の音がなんとも耳に心地良い。クアルトムパトリアに到着する少し前にパトリア大海の海峡を過ぎたからか、朝の空気はしっとりとして今までとどこか違っていた。
「いつまでこの街にいんのかな?」
「さあ? とりあえずパトリシアがパーキンに神話集を返すまでは留まらねばならんだろうが」
 身支度を整えながらルディアが答える。見渡す穏やかな海といい、流れゆく白い雲といい、広がる光景は平和そのものだった。そう、このときまでは。
 事件が起きた――否、事件が発覚したのは小さな食堂で慎ましやかな朝食を頬張っていたときである。オリヤンやパーキン、ルディアとともにオムレツとサラダをつついていた手は突然の訪問者に止められることとなった。

「お食事中申し訳ありません。実は昨日の夜会で大変なことがありまして……」

 通されたのはアミクスの大商館で給仕をしていた若い小間使いだ。オリヤンが代理で宿の手配を頼んだ娘なのでよく覚えている。彼女は血の気のない唇を噛み、ぶるぶると震えながらその「大変なこと」とやらを説明した。
「――お、女騎士が襲われて、聖印が奪われた!?」
 レイモンドたちはショッキングすぎる事態に声を荒らげる。そうなんです、と小間使いはしょんぼりと項垂れた。
「犯人が男ということはわかっているのですが、なにぶん昨夜は皆さん仮面姿でしたし、有力な手がかりがなくて……。あの、ご不快な思いをさせてしまうかもしれないのですが、ひとまずどなたかお一人だけでも大商館にお越し願えませんか?」
 本当は招待客を疑いたくなどないのだという懸命なアピールを入れつつ彼女はぺこぺこと頭を下げる。「わかった、私が行こう」と食べかけのパンを置き、立ち上がったのはオリヤンだった。
「ありがとうございます! ありがとうございます! 皆様も、もし不審人物を見かけたとか、何か思い出したことがあれば大商館までお知らせください!」
 不審人物。そう聞いて真っ先に思い浮かんだのは、護符を大量生産するには聖印が必要とたしなめられてキレていた金細工師だった。夜会ではずっと単独で行動し、大雨の中、何故か高価な衣装のままで嵐の海に駆けていった。
「…………」
 凄まじく嫌な予感がして、レイモンドは斜め向かいに座したパーキンを振り返った。へえともふうんとも言わず、金細工師は異様にまっすぐ背筋を正して爽やかな顔で固まっている。そんな彼に疑いの視線を向けるのは隣のルディアも同じくだった。
「それではお邪魔いたしました! 失礼します!」
 小間使いがオリヤンと連れ立って出ていくとパーキンはあからさまに緊張を緩める。「さあ飯の続きにしようぜ!」ともみあげ男はほっとした様子で朝食を再開した。
「……パーキン、ちょっと来い」
「な、なんだよ?」
 カタンと椅子から立ち上がり、ルディアが金細工師の襟首を掴む。パーキンは嫌がったが、喉を締められる形になって渋々座面から腰を浮かせた。
「ちょ、離せって。まだ食ってる途中だぞ。いくらなんでも躾がなってな――」
「いいから来い!」
 有無を言わさぬ剣幕で彼女は怒号を響かせた。そのまま男を引きずって玄関横の階段を上っていく。レイモンドも金細工師が逃げられぬようにしっかりとしんがりを守って追従した。
「お前昨日、庭にいなかった時間帯があったろう。そのとき一体どこにいた?」
 パーキンを彼の客室に放り込むなりルディアが問いただす。いきなり核心を突かれて金細工師は「いやっ、俺は別に、普通にずっと夜会を楽しんでたけど」と後ずさりした。
「強い雨が降りそうだ、船上で夜を明かすのは危険かもしれないと話し合ってすぐ我々はお前を探したんだ。それなのにお前は見つからなかった! 服装はわかっていたし、拾い食いだのポイ捨てだのするお前の姿はイライラするほど目についたのにだ! それで先に門の外に出て待っていたわけだが、あのときも妙にビクビクしていたな? 宿に入ったら入ったで、すぐに着替えず雨の港に出向くなど――納得行くようにお前の奇行を説明してみろ!」
 凄むルディアにパーキンは「い、一度便所には行ったかな? うん、そんで海に行ったのは、昨日も言ったがゴキブリに遭遇したからで」と返す。青い額は汗ばんで、頬は引きつり、何か隠しているのは明らかだった。
「便所? ということは商館に入ったわけか?」
「あ、ああ、けどすぐに出てきたぜ? 他の連中もトイレくらいは使ってたし」
 怪しい。相当怪しいが、昨日と同じで厳しく追及できるレベルの怪しさではなかった。せめてもう一つ何か出てくれば繋がりそうな気はするのだが。
 港のほうで大きな声が響いたのはそのときだ。早朝にしては大変な騒ぎぶりにレイモンドは「なんだ?」と鎧戸を開く。すると神殿騎士らしい数名の兵が「どうして桟橋に聖印の小箱が!?」「中身はどこに消えたんだ!?」「まさか犯人は船で逃げたか!?」などと話しながらすぐ前の道をドタバタ通り過ぎていくところだった。
「ほう……? 桟橋に聖印の小箱だけが? そうかそうか、昨夜お前が雨の中出かけていた桟橋になあ、なるほどなあ」
 静かに頷きを繰り返し、ルディアは「お前の仕業か」とパーキンを振り向く。「なんでそれっぽっちのことで俺を容疑者にするんだよ!」と金細工師は反論したが、いかんせん日頃の行いが悪すぎた。出会いからして平然と悪質な嘘をついてきた男など信用できるわけがない。
 突っかかるパーキンにルディアはさっと足払いをかける。「ぶっ!」と四つん這いになった男にすかさずレイモンドが馬乗りになると彼女は金細工師の鼻先にバターナイフを突き出した。
「ヒッ!?」
 パーキンは仰け反って切っ先をかわそうとする。だがルディアは容赦しない。逃げ惑う男の顎をむんずと捕らえ、ナイフの腹で唇の上辺を撫でつけた。
(あっ、なんかこういうの見たことある)
 懐かしい記憶に顔が引きつる。レイモンドが見守る中、やはりというかなんというか、ルディアは拷問まがいの尋問を開始した。
「正直に喋らんと痛い目を見るぞ? うっかり手が滑ってナイフが鼻の奥まで入ってしまうかもしれんなあ」
 なんつう脅しだとレイモンドは思わず自分の鼻を庇う。食欲をそそる芳香の刃を鼻腔に押しつけられた彼は一瞬でルディアに屈した。
「わー! たまたま、たまたま拾っただけなんだ! 計画的な犯行じゃないんだー!」
 パーキンは引っ込められたバターナイフに怯えつつトイレでの出来事を説明する。鍵をかけるのを忘れていただの、勢いでモノをぶつけてしまっただの、聞けば聞くほど女騎士が不憫で仕方なく、思わず「最低だな……」と漏らしていた。穢れてはならない神殿の乙女になんて惨いことをするのだろう。
「で、聖印はどこにあるんだ?」
 ルディアの問いにパーキンはこの期に及んで「えーっと、どこだったかなあ」などと答え渋る。無言で剣を抜いた彼女を見上げて金細工師は「すみません! かかとです! 靴底に穴を開けました!」と白状した。
 レイモンドはただちにパーキンのブーツを脱がし、ぶんぶんと逆さに振る。耳を澄ませば確かに内部で何かの転がる異音がした。靴裏をよく見てみると、薄汚れた布切れで栓をされた穴がある。詰め物を抜き、奥の物を取り出して、レイモンドは深く重い溜め息をついた。
「……本物だわ……」
 より正確な鑑定のため聖印をルディアに渡す。彼女も顔をしかめて「まずい展開だな」とぼやいた。
「今更『僕が拾って保管しておきました』は通用せんぞ。正直に打ち明けても今度は連帯責任でオリヤンや私たちまで罰されかねん。穏便に返す方法を考えなければ……」
「か、返して旦那様に迷惑がかかるくらいならこのまま貰っちまったほうが」
「うるせー! ほんといい加減にしろよオッサン!」
 往生際の悪いパーキンに吠える。これまでも色々なタイプの人間に出会ってきたが、こんな無茶苦茶な男は初めてだ。
「小箱の見つかった辺りから出てくるのが一番いいんだが、港はしばらく人が引きそうにないな」
 窓からちらりと海を覗いてルディアが呟く。「なんでこんな馬鹿なことしたんだよ?」と金細工師に問えば「ううっ、聖印さえあれば護符が作れると思って……」と予想通りの答えが返された。頼むからもっと真っ当に生きてほしい。せめて周りに迷惑をかけずに。
「俺もうコイツやだ! 同じ船に乗ってたんじゃなきゃ今すぐ神殿騎士に引き渡したい!」
「うーむ、いざとなったらそうするしかなかろうが……」
「ヒッ! たたた助けてください! お願いします! 見逃してください!」
 金細工師にすがられてもルディアは顔色一つ変えない。だがレイモンドには彼女が印刷技術、即ちパーキン当人を惜しんでいるのが見て取れた。
(聖印をパクったままにするってのは多分なしなんだよな。ばれたらただじゃ済まねーだろうし、ばれずにこいつが護符作りで大儲けしても、それはそれでアクアレイアになびきにくくなるかもだし)
 最善の手はやはり「こっそり返す」らしい。どうやってだよとレイモンドは頭を抱えた。バジルがいれば妙な仕掛けや発明で元の鞘に収めてくれるのかもしれないが。
(大商館に放り投げる? けど人に見られたら終わりだぞ。きっと街中大騒ぎになってる。何かにくるんで捨てちまえばいいのかもしんねーけど、こういうのってちゃんと元通りに戻さなきゃ何も悪くない女騎士が責任問われて打ち首とかになるんじゃねーの?)
 しばらくうんうん唸っていたが、名案は思い浮かばなかった。隣のルディアも難しい顔をしている。
 そうこうする間に外ではまた新たな動きが起きていた。神殿騎士とアミクス関係者と思しき一団がわっと港に押し寄せてきて、一時間もすると引き揚げていったのだ。聖印が出てきたわけでもないだろうに、彼らは妙に得意満面で、まるで犯人をひっ捕らえでもしたかのようだった。
「どうしたんだろうな?」
「わからん。ひょっとすると犯人を閉じ込めるために港を封鎖したのかも」
「え、ええーっ! やめてほしいぜそういうの!」
「お前が言うなっつーの!」
 なんのひらめきもないままに時間だけが過ぎていく。顔面蒼白の亜麻紙商が戻ってきたのはそれから更に数時間後のことだった。




「オリヤンさん、帰してもらえたのか?」
 亜麻紙商は食堂にも客室にもいないレイモンドたちを探してパーキンの部屋にやって来た。狭い個室に三人揃っているのを見て彼は不思議そうにしている。
「ああ、そこの港で聖印の箱だけは見つかったとかで、大商館がすごいことになっていてね。私にももう何がなんだか……」
 疲弊気味のオリヤンにレイモンドは「そ、そっか……」と返すしかなかった。このうえ更に彼を疲れさせるのは忍びなかったが、何も言わずに済ますわけにいかない。隣のルディアと頷き合い、「あのさ、ちょっと良くない報告があるんだけど」と告げる。「大きな声を出さないでくれるか?」と念押しし、ルディアが手の中の聖印を見せた。
「……ッ!?」
 オリヤンは度肝を抜かれて引っ繰り返る。大商館でディアナ印の外観は聞き及んでいたのだろう。あまりの衝撃に口もきけない有り様だった。
「なっ、なっ」
「馬鹿の仕業だ。誰にも自分がやったとは気づかれていないと言い張っているが、このままにはしておけん。謝罪に行ってもパーキン個人の問題では片付かないのはわかってもらえると思うが……」
 パーキンはえへっと笑い、「すみませえん、旦那様」とぶりっ子してみせる。その態度に温厚な彼も堪忍袋の緒が切れたらしい。立ち上がったオリヤンは、今度は顔を赤くして金細工師に飛びかかった。
「貴様だったのか……!」
 声は低く抑えられていたが、古傷が鮮やかに浮かび上がるほど目は血走っている。血管の盛り上がる腕で亜麻紙商はパーキンの胸倉を掴み、勢い床に叩きつけた。
「ちょっ、オ、オリヤンさん!」
 あまり乱暴すると他の部屋に響くと案じて止めに入る。金細工師にもう一発食らわせようとするオリヤンをレイモンドは羽交い締めにした。
「気持ちはわかるが落ち着いてくれ。殴るのは後だ」
 ルディアにもたしなめられ、オリヤンはフーフーと荒い鼻息を堪えつつ歯を食いしばる。次いで彼の口から飛び出したのは想定外の台詞だった。
「……君の不始末で私の古い友人が有力な容疑者として捕らわれた。昨夜の嵐を避けて港入りしていた彼の船が、たまたま小箱の見つかった付近に停泊していたからだ」
 ええっとレイモンドは目を瞠る。
「なんで!? 近くに錨下ろしてたってだけだろ!?」
「異教徒ゆえに偏見の目で見られているのさ。このままでは犯人に仕立て上げられるのは間違いない。一体どう責任を取ってくれるんだ?」
 オリヤンはまたもパーキンに掴みかかる。ルディアと二人がかりで彼を止め、「なんとか知恵を出し合おうぜ」と懸命に言い聞かせた。友達がそんなことになるなんて、なんという巡り合わせの悪さだ。
 オリヤンにも詳しい事情を知ってもらうため、ルディアはもう一度パーキンに事の経緯を話させた。何が悲しくて何度も他人のクソ話を聞かねばならないのだとうんざりしたが、レイモンドも解決の糸口を探すべく真剣に耳を傾ける。
「……本っ当に君という男は……」
 全容を聞き終えた亜麻紙商はがっくりと肩を落とした。もはや怒鳴る気力も湧いてこない様子だ。オリヤンの精神を保っているのはどうにか友を救わねばという使命感だけに見えた。
「そうか…………。厠で聖印をな…………、そうか…………」
 ふらふらと窓辺の丸椅子に腰を下ろし、亜麻紙商はうつむいたきり沈黙する。レイモンドは彼と彼の友人が気の毒で仕方なかった。まさかこんな形で事件に巻き込まれるとは予感もなかったに違いない。
「…………」
 静寂は重く垂れ込めた。事件の第一報を耳にしてから既に随分な時間が経過している。天の頂に達した太陽は西の空に下り始め、初夏の日差しをやわらげつつあった。
 こうしている間にも無実の罪で責められている人間がいると思うと心が痛む。悪いのはどう考えてもパーキン一人だけなのに。
(俺知ってるぞ、取り調べってのはキツいんだ)
 スパイではないかと疑われ、十人委員会に失礼極まりない尋問をされたことを思い出し、レイモンドは唇を噛んだ。オリヤンの友人がどんな人物かは知らないが、なるべく酷いことをされていないといい。
「……ときにパーキン君、その便所というのは便座に腰かけるタイプだったのかね?」
 藪から棒に飛び出した意味不明な質問にレイモンドはずるりと足を滑らせた。どうしたんだオリヤンさん、ついに壊れたのかオリヤンさんと亜麻紙商を凝視する。
「えっ? い、いや、しゃがむタイプの、床に穴が開いてるやつでしたけども……?」
 答えるパーキンも困惑気味だ。だがオリヤンはなお鬼気迫る表情で似たような問いを重ねた。
「ふむ、それじゃ下はどうなっていた? 肥溜めになっていたのかな?」
「いや、それも違います。運河です。天然の水洗トイレでしたよ」
「ほう、つまり建物のトイレ部分は水路の上に出っ張っていたと?」
「ああ、多分そうだと思います。商館なんで、搬入搬出の邪魔にならない辺りにこう、ぷりっといけるようにしてるんじゃないですか?」
「なるほど……だったらなんとかこじつけられるかもしれん」
 えっと室内にどよめきが走る。友人のために必死なオリヤンは「つまりこうだ」と解説してくれた。
「女騎士が気絶したところまでは単なる事故だと言えなくない。放って逃げたのも名乗り出ないのも恥ずかしかったからだと言い訳はできる。問題は聖印を持ち去ったことをどう誤魔化すかだが、彼女が倒れた拍子に小箱は便器に落っこちた――という風に話を持っていけないかね?」
「な、なるほど!」
 頭の回転が速いルディアが真っ先に拳を打つ。
「パーキンの捨てた小箱は波に打ち寄せられて桟橋に戻ってきたくらいだから、軽い素材でできていたに違いない。聖印のほうは金属製だし、厠に近い水路のどこかに沈ませておけば……」
「あっ! 小箱は海まで流されたけど、聖印は落としたところに残ってましたって感じにできる!?」
 レイモンドはそっと二人に目配せした。「いけるんじゃないか?」「いけると思う」「ああ、これだ。これしかない」と互いに頷いて手を取り合う。
「まず商用のふりして小舟を出すだろ?」
「ああ、そして大商館に近づき、人に見られないように聖印を水路に落とす」
「それから窃盗ではなく紛失だったのではないか、とパトリシア様に申し出てみる」
 完璧だ。これなら「犯人など最初からいなかったのだ」で終わらせられる。捕まっているというオリヤンの友人もきっと解放してもらえるだろう。
「よし、行くぞ。水路に落ちている可能性に気づいた神殿騎士がどぶさらいを始める前に!」
「一度探して見つからなかったとこから出てきたら怪しいもんな!」
「ああ、急ごう」
「ううっ、やっぱ返さなきゃ駄目ですかねえ?」
 嫌がるパーキンを三人で引っ張って宿を出る。聖印はどこで抜き打ちの検問があってもいいように金細工師のブーツに再度ねじ込んだ。
 飛び出した街は聖印盗難騒ぎで浮き足立っていた。船着場ではまだ都市同盟や神殿の関係者が「見つからない、見つからない」と祝福の神具を探していた。




 ******




 商船に積んだ六人乗りの小舟をロープで下ろしながら「夜会のワインに感動して、ワイン河岸に買い付けに出たという設定で行こう」とオリヤンが言う。運河の流れを見極めたら最も自然なポイントに聖印を落水させるのだと。
「なるべく目立ちすぎず、かといって埋もれすぎず、周囲に人気のない場所がいいな」
「昨夜は雨も風もきつかったし、ちょっとくらい大商館から遠くても平気だと思うぜ」
 とにかく手早く終わらせるぞと小舟に乗り込むオリヤンたちの最後尾でハアとパーキンは嘆息した。
(もうちょっとでアレキサンダー三号の出番が回ってくるところだったのに、なんでこうなっちまうかなあ)
 聖印さえあれば全部上手く行くというのにわからず屋どもめ。印刷機にカビが生えたらどうしてくれる。小舟に腰を下ろしつつ胸中で悪態をつく。
「俺漕ぐわ、ゴンドラで慣れてっし」
 そう言って櫂を手にしたのはレイモンドだった。自ら肉体労働を買って出るとはなかなか感心な若者だが今は余計なお節介でしかない。もうじきディアナの聖なる御印を手放さねばならないと思うと泣けてくる。
「どうしたんだね?」
 と、オリヤンの問いかけが響いてパーキンは「い、いえ、なんでも!」と首を振った。聖印の代わりに別のものを落として皆の目を欺けないか考えていたのがばれたのかと焦ったのだ。
 しかし亜麻紙商は己に尋ねたのではなかったらしい。彼の視線はパーキンのすぐ後ろ、船尾で櫂を構えるレイモンドに向けられていた。
「座らないのかい? レイモンド君」
「へっ?」
 気遣われているのに気づかず槍使いの青年は目を丸くする。ったくアホだなこいつはと呆れ半分にパーキンは「立ってたら危ねえだろうが」と付け足してやった。
 するとレイモンドは何やら合点した顔で「ああ、そっか。二人ともゴンドラ見たことない?」と聞いてくる。そのくせ彼はこちらが問いに答える前に街を貫く運河に向かってあらよっと漕ぎ出した。
「うおっ! 立ち漕ぎ!?」
 上手くバランスを取りながらレイモンドは悠然と櫂をさばく。大の男が四人も乗っているとは思えない軽やかさで小舟は波の上を駆けた。
「うん、快調快調!」
 風を切り、小舟は運河を遡る。他にも似たような手漕ぎ舟は浮かんでいたが、レイモンドと同じ漕ぎ方をしている船頭は誰もいなかった。
「よくよろけずに立っていられるねえ」
 感心しきってオリヤンが言う。ブルーノが「アクアレイアのゴンドラ漕ぎは皆ああやって漕ぐんだぞ」と説明すると亜麻紙商はふんふんと頷いた。
「なるほど、やはり生活というのは自然に染みつくものらしい」
「へえ、今までアクアレイア人だってこと半信半疑だったけど、マジなんだな」
 オリヤンとパーキンの反応にレイモンドは何故かポッと頬を赤らめる。若者は急にご機嫌になって「それじゃもっと優雅な漕ぎっぷりを見せてやるよ!」と太い運河から細い水路に船体を滑り込ませた。なんなんだ、その喜びようは。一体どういうテンションなんだ。
「大丈夫かあ? 橋があるぞ。他の舟とぶつかる前に戻ったほうがいいんじゃねえの?」
 大型船の行き来する運河と違い、住民用の生活水路は舟と舟がすれ違うのが精いっぱいの幅しかなかった。おまけにあちこちに停泊船や石橋という障害物が待ち構えていて通過は難しそうに見える。
 しかしレイモンドは「大丈夫、大丈夫」と聞く耳を持たなかった。スピードを緩めることなくスイスイと、橋の直前では船底にさっと膝をつき、あっさり難所を抜けてしまう。両岸に舫われていた他の船にも一切掠りもしなかった。
「おお! やるじゃねえか!」
「いや、素晴らしい腕前だ」
「なんだ、今日は頭をぶつけなかったな」
 称賛に混じって飛んできた野次にレイモンドは「こらこら!」と苦笑いする。「冗談だよ」と笑うブルーノにゴンドラ漕ぎは「ったくもー」と肩をすくめた。
 仲の良い若者たちに目を細め、オリヤンが「ワイン河岸はその次の角を右に曲がってまっすぐだ。アミクス大商館の正面だから、ワインを見るふりをして進もう」と告げる。
 そうだった、俺たちは聖印を捨てにいくんだった。つらい目的を思い出し、パーキンの心はまた深く沈み込んだ。
(ヤダヤダー! 聖印返したくないー! ヤダヤダー!)
 いくら胸中で暴れたところで無抵抗と同義である。悔しさにギリリと歯噛みする。
 そうこうする間にレイモンドは示された角を曲がり、少し広めの水路に出た。しかしここでも橋の低さは相変わらずで、漕ぎ手はたびたび身を屈める羽目になる。橋桁につきそうでつかない明るい金髪頭を見上げ、ハイハイ上手いもんだねとパーキンは投げやりな拍手をした。天才的な閃きが舞い降りたのはまさにその瞬間だった。
(……あれ? もしかしてこれワンチャンあるんじゃねえ?)
 すごいことに気づいてしまい、パーキンはきょろりと周囲を見渡す。立てば頭どころか胸まで打ちそうな石橋に、活気ある広場へ至る大通り。舞台は綺麗に整っていた。こんな都会なら大抵の店が揃っているに違いない。聖印をどうにかこうにかできる店も。
「…………」
 これはいける。少なくとも挑戦してみる価値はある。そう確信してパーキンはレイモンドに問いかけた。
「なあ、その屈んで通り抜けるやつって船首でも同じことできんの?」
「ああ、いけるぜ。ゴンドラって二人で漕ぐときは前後に立つから」
「へえー、見てみたいもんだなー」
 単純馬鹿の青年は「おお、だったらやってやるよ」と快諾する。たった二歩で船上を移動するとレイモンドは屈んで櫂を持ち直した。小舟はスッと太鼓橋の下に滑り込む。
(今だ!)
 パーキンはおもむろに立ち上がり、欄干に向かって垂直ジャンプした。




 いつになくレイモンドはこそばゆい思いで水を掻く。こんな舟を漕いでいるときは自分もちゃんとアクアレイア人に見えるらしい。
(へへへ、んなこと言われたの初めてかも)
 にやけそうになる顔を引き締め、「ゴンドラ漕ぎの本領発揮と行きますか」と小舟の舳先に足を置いた。どうせ船首に立つんだったらとびきり格好いい背中を見せてやろうと思ったのだ。だが折角の見せ場は思わぬハプニングで台無しになってしまった。
「うおっ!?」
 突然船体が後ろに傾き、船首が高く浮かび上がる。橋に頭を打ちそうになり、レイモンドは慌てて腕で押し返した。
「なんだ、どうした!?」
「何かに衝突したのかね!?」
 ルディアとオリヤンが同時に叫ぶ。前後に大きくぐらつきながら小舟は橋の下を抜け出した。気を抜けば転覆しそうな暴れ馬をなだめ、レイモンドは小舟を一時停止させる。
 一体全体なんだったのだ。流木にでも接触したのか。ぶつかりそうなものは何もなかったのに。
「悪ィな皆、びっくりさせて――」
 乗員が足りないことに気づいたのは何が起きたのか振り向いて確かめようとしたときだった。不測も不測の異常事態にレイモンドは慌てふためく。
「パ、パーキンがいねーぞ!」
 ルディアたちも即座に後方を振り返った。
「落ちたのか!?」
「いや、違う、あそこだ!」
 そう言って亜麻紙商が通り過ぎたばかりの石橋を指差す。見れば金細工師は欄干によじ登り、水路脇の道を逃げ出そうとしているところだった。
「あ、あんの野郎ッ!」
 まだ聖印が惜しいかとレイモンドは急いで小舟を岸に着ける。
「おい、行くぞ!」
 飛び出したルディアに続き、レイモンドも櫂を投げた。
「オリヤンさんはここで待っててくれ!」
 小舟の番に亜麻紙商を残して猛ダッシュする。パーキンは既に通りの向こうの曲がり角を曲がりかけていた。
 かかとに聖印を隠したままで逃げられるわけにいかない。なんとしてもふん捕まえなくては。
「こら待てテメエ!」
 叫んだ瞬間ルディアに「悪目立ちするからよせ!」と制された。そうだった、俺たちは注目を浴びてはいけないんだった。思い出して口をつぐむ。
 レイモンドは極力静かに疾駆した。歩幅の差か年齢の差か、距離はぐんぐん縮まっていく。これなら労せず捕らえられそうだと安堵したのも束の間、小癪なモミアゲ男は夕市で賑わう中央広場に駆け込んだ。
「あっ!」
 しまったと思ったがもう遅い。人混みを盾にされ、全速力で走れなくなってしまう。しかも金細工師の地味でありふれた茶色い頭はたちまち雑踏に紛れてしまった。
「くそっ」
 隣でルディアが舌打ちする。レイモンドもギリギリと親指を噛んだ。よりによってこんなところでパーキンを見失うとは一生の不覚だ。一刻も早く聖印を返さなくてはならないのに。
「あいつどこに逃げたんだ!? っつーか逃げてどうすんだよ!? 故郷まで帰る金がないからオリヤンさんに送ってもらうことにしたくせに!」
「わからん。このままこっそり街を出て、北パトリアまでは陸路を辿るつもりなのかも」
「だけどそれじゃアレキサンダー三号はどうすんだ? まだ商船に積んだままだぞ?」
「あっ、そうか! だったらもしかして……!」
 何か思いついたらしく、ルディアが身を翻す。一歩後ろに続きながら「港のほうに戻ったのかな!?」と問うと、「いや、違う。工房街を探せ! おそらく奴は鍵屋にいる!」と断言された。
「か、鍵屋?」
 なんでまたという疑問はあったが命ぜられるまま工房街を探して走る。確かバジルが「僕たちは作業音がやかましいから隅っこに追いやられがちなんですよ」と話していたなと思い出し、トントンカンカン聞こえてくる裏通りを中心に覗いた。
 この戦略はどうやら功を奏したらしい。ほどなくすると錠前型の看板が見つかった。工房の扉を叩こうとしていたパーキンと一緒に。
「貴様、やはり複製を作るつもりだったかッ!」
「うわわわわわっ」
 レイピアに手をかけて迫るルディアにおののいて金細工師は慌てて逃げ出す。広場方面に戻る道にはこちらが立ち塞がっていたのでパーキンはどんどん閑散とした裏町に入っていった。
 ここがアクアレイアならどこに追い込めば行き止まりかすぐにわかったんだけどなとレイモンドはひとりごちる。だが網の目に水路の入り組む大都市なら構造は似たようなものだろう。そろそろ袋小路に出るはずだと飛びかかる準備を始める。
 予想は当たり、パーキンの曲がった先は行き止まりになっていた。前方には短い桟橋があるだけで道はぷつりと途切れている。金細工師には泳いで逃げるか追手を倒すかの二択しかなくなった。
「うわわ、うわわわわ」
「うおりゃーッ!」
 考える暇は与えなかった。逃げ場を探して狼狽するパーキンにレイモンドは腕を広げてダイブした。
「お前なあ……っ、手間かけさせるのもほどほどにしとけよ……っ?」
 ゼエゼエと息を切らしつつ盗人の首根っこを締め上げる。
「わーん! 型ぐらい取らせてくれよォ!」
 パーキンは泣き喚いたが「駄目に決まってんだろ!」と一蹴した。
 はあ、と深い溜め息をついたのはルディアだ。先立つものがないから勧誘はまだしないと話していたのに、これ以上面倒を起こされては敵わないと断じてか、彼女は金細工師――否、印刷工に呼びかけた。
「お前が大人しくしているなら私がいいスポンサーを紹介してやる。カイル・チェンバレンとかマクス・ドジソンとか、アクアレイアの豪商では不満というならマルゴー公国のチャド王子はどうだ? 私が話せば殿下も真面目に聞いてくださる」
 突然出てきた貴人の名にパーキンは目を丸くした。
「へっ? ……お、王子? 王子って?」
「王子は王子だ。マルゴーは公国だから本来は公子と呼ぶべきかもしれないが」
「えっ!? あんた王子に話通せるレベルの人なの? い、いや、そんなお方だったんですか?」
 相手の身分によって露骨に態度を変えるパーキンは「それならそうと仰ってくださいよ!」とルディアにゴマをすり始める。「そうですよね! 昨日もあれほど見事に礼装を着こなしてらっしゃいましたもんね!」と納得顔でモミアゲ男は頷いた。
「……あの、ちなみにどういった経緯でチャド王子とお知り合いになったので?」
「我々は王宮に出入りがあったんだ。チャド王子とは個人的に何度も話をしているし、色々と頼っていただいてもいる。印刷機が画期的な発明であることはご聡明な殿下にならすぐにおわかりいただけるだろう」
「言っとくけどチャド王子の覚えめでたいのは俺もだからな!」
「ええっ!? レイモンド……さんも宮仕えだったので!?」
 大御所に繋がりがあると知った途端、パーキンは目の色を変えて飛びついてくる。「そうとわかれば鍵屋に用はありません! さあさあ、急いで小舟に戻りましょう!」と大喜びで背中を押してくる。本当にどうしようもない男だ。
「アレキサンダー三号を完成させたってこと以外、なんのキラメキもねークズだな……」
「レイモンド! シッ!」
 ルディアには諌められたが取り消す気は起きなかった。というか彼女は本気でこいつをアクアレイアに呼び込むつもりなのだろうか。一体祖国がどうなるか、はっきり言って不安しかない。それでもルディアがやると言うなら信じてついていくのみだけれど。




 ******




 少々冷や汗を掻いたものの、ともかく聖印は大商館の厠が目視できる静かな水路の片隅に沈められた。このときにはもう夕闇が太陽を追いやりつつあり、人通りもほぼなくなっていたので誰にも見咎められなかったと思う。
「適当なワインを差し入れにして、それとなく水路はお探しになられましたかと進言してみるよ。君たちは先に港に戻っておいてくれ」
 そう言ってオリヤンが大商館に入っていくのを見送ると、レイモンドたちは無事に神具が聖女の手に戻りますようにと祈りながら引き返した。
 このまま近くに留まって事態の収束を見守れないのがつらいところだ。時間的に水路で捜索が始まるとしても明日の朝以降になるだろう。パーキンが余計な脱走を図らねばすぐにケリがつけられたのに、今夜は眠れぬ一夜になりそうだ。
 商船に戻り、使った小舟を元通り収納すると、レイモンドたちは甲板で船主の帰りを待つことにした。誰に聞かれるか知れないので聖印の話は出なかったが、カードをしても何をしても心は上の空だった。パトリシアやあの女騎士が盗難だと言い張れば、失せ物が出てきても犯人探しは終わらないのだから当然だが。
「へえー、王都防衛隊。それで平民なのに王子と打ち解ける機会があったわけですねえ。いいこと聞いちゃったなー」
「ああ、チャド王子は気取らないお方でな。自国の傭兵からも信頼が厚いのだ」
 もう解散した部隊とは告げず、巧みに話題を誘導しつつルディアがパーキンに答えている。レイモンドは話に加わる気になれず、船縁から街を眺めていた。
 東の空は既に明るい。中洲は朝もやに包まれて、しんと静まり返っていた。アミクスの大商館ではそろそろ衛兵がどぶさらいを始めた頃だろうか。昨日は物々しかった船着場に今朝はまだ一人も神殿関係者が来ていないのでそうだと思いたいけれど。
(早く聖印を見つけてくんねーと俺の胃がもたなさそうだぜ……)
 間違って無関係の人間が拾っていたり、水に流されて位置が変わっていたりしないか不安で堪らない。ディアナでもアンディーンでもなんの神様でもいいから丸く収めてくれますようにと五芒星を切っては空と海に手を合わせた。
(一応これにもお祈りしとくか)
 レイモンドはセイウチの牙の首飾りを服の下から引っ張り出し、オリヤンの無実の友を救いたまえと念をこめる。前にルディアが北のほうの装身具かもなと言っていたから効き目があるのではと思ったのだ。気休めに過ぎないことはわかっていたが、他に何もできない今はその気休めこそが重要だった。
「…………」
 朝焼けが目に眩しい。吹き込んでくる風が冷たく、ぶるりと身震いした。
 朝の早い漁夫たちはもう沖に小舟を漕ぎ出している。海鳥たちもクー、クー、と鳴き声をあげて飛びかった。日は徐々に高くなり、街を覆っていた霧も少しずつ薄らいでくる。
 ルディアたちを振り返り、レイモンドはよくそんなに平然としていられるなと感心した。胸をバクバクさせているのは自分一人のようである。確かに犯人として吊るし上げられる危険はほぼなくなっているけれど。
(俺もいつもならこんなにソワソワしてない気がすんだけどなー?)
 と、そのとき、朝もやの向こうから近づく人影に気づいてレイモンドは目を凝らした。体格のいい男が二人、こちらに連れ立って歩いてくる。ゆったりとした歩調から察するに、一人はどうやらオリヤンだ。とすると隣の男はもしや例の友人だろうか。
「おい、帰ってきたみたいだぞ!」
 話し込んでいるルディアたちに呼びかけてレイモンドは急ぎ桟橋に降り立つ。こちらの書いた筋書き通りに収拾はついたのか、容疑者の疑いは晴れたのか、早く知りたくて仕方がなかった。
「おおい、オリヤンさん! どうだった?」
 船着場に差しかかった亜麻紙商に大きく手を振る。オリヤンはレイモンドの姿を認めると更に大きく手を振り返した。
「ああ、もう大丈夫! 聖印はパトリシア様のお手元に戻ったよ! 事件ではなく事故だったのかと安心しておいでだった!」
 顛末を聞いてほっと胸を撫で下ろす。事は上手く運んだらしい。晴れやかなオリヤンの声が全てを物語っていた。何はともあれやっとぐっすり眠れそうだ。
「あー良かった。一時はホントにどうなることかと思っ……たぜ…………?」
 亜麻紙商に駆け寄って災難をねぎらおうとしたそのときだった。強い西風が朝もやを一気に吹き払ったのは。
 ――熊だ。熊がいる。そう思ったのはレイモンドの勘違いで、その男はただ灰色熊の頭がついたマントを被っていただけだった。
 たなびく金髪はどこかで見た色。長い手足にも既視感がある。
「イェンス、この子だよ」
 何故か無性に感慨深げにオリヤンが囁いた。
 武骨な指で野獣の前顎を持ち上げて、男は不可解な紋様と傷だらけの素顔を晒す。四十年後の自分を映す魔法の鏡があるとしたら、こんな男が映っているだろうという顔を。
「レイモンド君、君のお父さんだ」
 自分が何を言われたのか、すぐには理解できなかった。









(20161001)