老ロマの、ひからびた細い喉から、虚空に向かって鋭く歌声がほとばしる。砕かれた城壁の、瓦礫の下で兵士があげる呻きに似た、或いは息絶える寸前の病人が、懸命に振り絞る囁きに似た、言葉にならない哀切のこもった叫びだ。
 ジェレムは全身が一つの楽器であるかのごとく、痩せて尖った肩を震わせ、しきりに胸を上下させ、腕を振り、大地を踏み、知らない国の言葉で歌った。苦しげにわななく声は途切れそうで途切れない。脆弱な生命の有する力強さに聴き入って、アルフレッドはそっと目を閉じる。
(ああ、やっぱりすごいな)
 浴びせられる音楽にただ圧倒された。他には何もできず、何も考えられず、だというのに全てを感じ、全てが満ち足りていく。こんなものは他に知らない。
「――……」
 ジェレムが歌い終わっても、余韻は長らくその場を支配し続けた。フェイヤはうっとり息をつき、トゥーネは黒い目を潤ませる。だが誰にも増して喜びに呆けていたのは当の老ロマ自身であった。
「……ちゃんと歌いきれた。なんだこれ。一度も咳き込まずに声が……、あー、あー」
 もう一度高い音域を出そうと試すジェレムにアルフレッドは「無理をしちゃ駄目だ」と首を振る。
「治ったのとは違うんだ。症状をやわらげただけだから、油断すると前よりもずっと悪くなる。何日かおきに歌う程度に留めたほうがいい」
 忠告を聞いて老ロマは即座に歌声を引っ込めた。素直な患者でホッとする。回復するや否や、もう以前と同じ生活ができると勘違いするせっかちは多いのだ。
 くだらないことで素晴らしい歌を失ってほしくない。それに彼にはまだまだ元気でいてもらわねばならなかった。
「すごいね、アルフレッドは何をしたの?」
「昨日寝る前に薬湯を処方しただけだよ。材料はまだあるし、しばらく続けてみようかな。肺のほうはちょっと俺の手に負えないが、喉の炎症や痰を抑えるくらいならなんとかできそうだ」
 フェイヤの問いに答えながら手持ちの薬を思い浮かべる。大したことはしていないのにやたらキラキラした瞳で見られて少々気恥ずかしかった。
「けど薬って貴重なんじゃないのかい?」
 と、トゥーネが心配そうに尋ねる。イヴェンドたちに子供のための餞別だと首飾りも腰飾りもやってしまったので一行は現在文無しに近かった。
 仲間に対し、やはり彼らは気前がいい。露ほどのためらいもなく持てる全てを差し出してしまう。カロがイーグレットに示す献身も、おそらくロマであるがゆえの特性でもあるのだろう。
「これくらいどうってことないさ。それにアクアレイア人も出し惜しみしないってところを見せておかなきゃな」
 笑って気にする必要はないと答える。トゥーネはまだ胸に引っかかりの残る様子だったが、「俺がやりたくてやってるんだよ」と言えば「ありがとうね」と微笑んだ。
 さあ、そろそろリュートの初稽古を始めてもらおうとジェレムを見上げる。すると老ロマは何が気に入らなかったのか、焚き火の前に座すアルフレッドの横に荒々しく腰を下ろした。
「うわっ」
 無駄口を叩きすぎたろうかとおそるおそる老人を見やる。しかし彼の口から出てきたのはいつもの皮肉や小言の類ではなかった。
「……その、色々悪かったな。また歌えるようになるとは考えてもみなかった。どんな風に礼を言えばいいのか……」
 殊勝な台詞に目を瞠る。薄い唇はこれ以上なく突き出され、眉間には今までで一番深い皺が刻まれていたが、それはジェレムが言葉どころか表情すら選びきれなかった結果だというのはアルフレッドにもよくわかった。
 知らず知らず頬が緩む。トゥーネとフェイヤも優しい眼差しで老ロマを見ていた。「別に礼なんていらないよ。俺は頼まれ事を果たすのに、そのほうが効率いいと思って薬湯を出しただけなんだぞ」とうそぶけば、ジェレムはますます顔をしかめる。
「それでもこれはお前のおかげだ。……ありがとうくらい言わせてくれ」
 肩の荷が下りたというように老ロマは深々と息をついた。そんなジェレムにアルフレッドも目を細める。
「さて、それじゃ早速リュートを貸してもらえるか? 半時間ほど練習したら出発したい。早くカロの居場所を掴みたいからな」
 差し出した手に弦楽器の柄を握らされる。見よう見まねでリュートを構え、ものは試しと爪弾いた。早くも隣から「そうじゃない」「手の位置はこうだ」と気難しい老人の声が飛んでくる。
 森を見下ろす空は美しく晴れていた。澄みきった青を見ていると、このままどこまでも行けそうだった。




 ******




「名案を思いついたんですよ!」
 力強く腕を広げ、パーキンは船長室で慎ましい朝食を取る亜麻紙商に何度目かになる商談を持ちかけた。
「本は確かに印刷するのに時間がかかります! 費用もべらぼうに高いです! なのでですね、旦那様には護符作りのスポンサーになっていただけないかなと! ちょいと北へ行きゃ主神パテルのお守りは飛ぶように売れますんで!」
 どうですか、悪い話じゃないでしょう、と己の食事も放置して隣の男を説得する。「北辺民と取引のある旦那様なら今が千載一遇の大チャンスだってことはおわかりでしょう!?」とゴリ押しすれば、オリヤンは「うーん」と考え深げにうなった。
(クソ! 『うーん』じゃねえっての。いいからさっさとハイって言えよ!)
 内心イラつきながら返答を待つ。パトリア聖王ともローガン・ショックリーとも交渉決裂した今となってはオリヤンの営むマーチャント商会だけが頼みの綱だった。
 とにかく印刷は金を食う。だが初期費用さえ調達できれば商売が軌道に乗るのは確実なのだ。なんとしてもこの船にいる間に彼を頷かせねばならない。
「北辺民は自分たちの古い神を捨て、新しい神々にすがろうとしています! でも連中は改宗によって古い神の怒りを買わないか極度に恐れてもいるんですよ! だから死後、冥界での安寧を保証するパテルの護符に殺到するんです!」
 パーキンは需要に対していかに供給が追いついていないか、印刷機がいかに人々の役に立つかを熱弁した。「今この瞬間も護符を得られずに死んでいく哀れな北辺民がいるんですよ!?」と訴えるとオリヤンも「そうだな」と腕を組み直す。
「うむ、護符だけなら考えてみても……」
 好感触を示す彼にパーキンはやったと秘かに拳を握った。これで長らく頭を悩ませてきた資金問題に片が付けられる。しかし喜びも束の間、思わぬところから待ったがかかった。
「そう言えば少し気になっていたんだが、五芒星には書き順があるだろう? 印刷機ではそれを無視して刷り上げるわけだから、神殿が正式な護符であると認可してくれないのではないか?」
 パーキンはぎくりと肩を強張らせる。テーブルの向かいに座したブルーノを見やり、余計なことを言うんじゃねえよこのクソガキと睨みつけた。
「五芒星に書き順?」
 オリヤンも「そうなのか」と詳しい話を聞きたがり、雲行きが怪しくなってくる。
「ああ、左回りに描けば力の解放、右回りに描けば封印の意味を持つ。たとえ版木に左回りでインクを塗りつけたとしても紙の上では鏡映しになるわけだし、神学的に相当な論争を招きそうだぞ」
 一般庶民のくせに妙な学識持ちやがって。もうちょっとでオリヤンを口説き落とせそうだったのに、なんてことしてくれやがるのだ。
「いやいや、大丈夫です。どっち周りの五芒星かなんて後から見たってわかりませんし、神殿には全部手書きだって言えばいいだけじゃないですか」
 亜麻紙商の気が変わらないようになんとか言いくるめようとする。だが儲けのためにモラルに反する気のないオリヤンには「詐欺じゃないか」とばっさり切って捨てられた。
「さ、詐欺じゃないですよ! 詐欺って言うなら五芒星には書き順があるって話のほうが詐欺なんじゃないですか!? 俺聞いたことありませんもん!」
 ブルーノの指摘自体が誤りであると主張するも、レイモンドに「いや、祭壇前で印を切るとき左回りに皆やってるじゃん。書き順ってあれのことだろ?」と言われて敢えなく惨敗する。白を切ろうとしたせいでオリヤンの態度は更に冷ややかなものに変わった。
「危うく騙されるところだった。ありがとう、ブルーノ君、レイモンド君」
「いや、感謝されるほどのことではない」
「オリヤンさんが北辺出身で神殿作法にうといからって、めちゃくちゃ言うぜ」
「う、ううーッ」
 朝食の席がたちまち針のむしろと化す。だがパーキンは諦めず、「じゃあほらあれだ! 五芒星じゃなくて別の護符にしますんで!」と食い下がった。
「別の護符?」
「えーと、たとえば『火廻安全』『夫婦円満』『無病息災』『子孫繁栄』とかいうありがたい呪文の書かれた……」
 ちらとオリヤンの顔色を窺えば「ふむ」と関心が舞い戻ってきた様子である。パーキンは食いつけ、食いつけと念を送った。資金さえ手に入れられれば何を何部刷ろうがこちらの自由だ。高く売れるパテルの護符を黙って大量生産してやる。
「まじないなら聖印がなければ不完全だろう? お堅い神殿が胡散臭いお札に押してくれるとも思えんが」
「おいおい、まさか偽造する気じゃねーだろうな?」
 が、またしてもアクアレイア人の邪魔が入り、パーキンの計画は頓挫した。丸椅子に座ったまま地団太を踏み、「なんなんだてめえら! 俺を路頭に迷わす気か!?」と声を荒らげる。
「お前らもアホ聖王とおんなじだ! 便利な世の中になるっつってんのに聖印が必要だの手書きでなければ意味がないだの古臭い形式にこだわりやがって! 言っとくが、受け取る側の人間にとって大事なのは護符を手に入れたって安心感だけだぞ!? 偽物だろうとなんだろうと連中が満足ならいいじゃねえか! どうせ本物と偽物を見分けられる奴なんかいねえんだから!」
 魂をこめて叫ぶも周囲の反応は冷たい。レイモンドは「うわ、逆ギレだ」と眉をひそめ、オリヤンは「まったく君という男は……」と呆れ顔で嘆息した。ブルーノに至っては淡々とちぎったパンを咀嚼している。
(うう、護符さえ刷り始められれば大金持ちになれるのに)
 俺はなんて不幸なんだとパーキンはうなだれた。故郷に帰ってももはや自分に融資してくれる銀行家はいまい。商人たちも金を返せと吠えるだけだ。
(あーあ、せめて聖印が目の前に転がってきてくれればなあ)
 護符の量産を諦めきれず、パーキンはぐすぐすと鼻を啜る。いつになったら愛するアレキサンダー三号を存分に活躍させてやれるのだろう。道のりはまだ長く険しそうだった。




 船長室での食事の後、レイモンドはルディアと客室に引き揚げた。ガレー船と違い、帆船は風に翻弄されるという難点はあるものの、居室を作れるくらいには広々しているところがいい。乗員も少ないし、比較的静かに過ごすことができた。
「あー、食った食った」
 寝台を兼ねた長椅子にぽんと腰かけ、満たされた腹を撫でる。と、通路から「倍にして返しますんで! お願いします! お願いします!」と金細工師がオリヤンに拝み倒す声が聞こえた。
 パーキンの奴、まだしつこく亜麻紙商につきまとっているらしい。しょうがない男だなとレイモンドは足音の去っていくほうを見やった。
「オリヤンさんも災難だぜ。親切心が仇になってあんなババ引いちまうなんて」
 気の毒さを禁じ得ずに呟く。するとルディアは「性格は救いがたいが才能は本物だよ」と意外な言葉を返してきた。
「あの印刷機は途方もない発明だ。本格的に稼働するようになれば、いずれは世界のありようを根底から変えてしまうかもしれない。すごいことだ。心臓が震えるよ」
「えっ、そ、そんなに?」
 過大とも思える評価に驚いてレイモンドは反対側のベッドに座るルディアを見やった。ただ文字を並べてたくさんの紙に刷るだけの代物と思っていたのに、違ったのだろうか。
「あの男、なんとかしてアクアレイアに引き込みたいところだ」
「ええっ!? あ、あんな疫病神を!?」
 ルディアのあまりの発言に目が点になる。理解不能すぎて口をパクパクするレイモンドに彼女は至極冷静に問いかけた。
「お前は肉声と石板や紙に記された言葉の違いがわかるか?」
「へっ? え、えーと、どっかに片付けて残しておけるかどうか?」
「正解だ。そしてそこに計り知れない価値がある」
 ルディアは組んだ足の上に組んだ手を置き、真剣な表情で続けた。こちらを見ながら同時にどこか遠くを見つめる眼差しにごくりと息を飲む。
「我々はそれが失われてさえいなければ数百年前の記録を読むこともできる。パトリア圏の正式な書き言葉、古パトリア語は大昔から少しも変わっていないからな。けれど折角の英知の結晶である本も世界に一冊、写本を含めて十冊もないとすれば、どこかの城か神殿に埋もれたきりになってしまうだろう。印刷機が一度に千冊同じ本を生み出せるとしたら、我々が有益な書物に出会う機会は飛躍的に増えるに違いない。たった一回の印刷で賢者千人分に等しい働きをするのだ。私がすごいと言った意味がわかるか?」
「お、おう」
 確かにそれはすごそうだ。気圧されながらレイモンドは頷く。こちらが理解を示すと彼女は更に話を広げた。
「十五年前、パトリア古王国の社交界に彗星のごとく現れて、西パトリアから東パトリアに至るまで文字を嗜むあらゆる人間を魅了した本がある。『パトリア騎士物語』だ。この騎士道小説は完結に七年の歳月を要したが、最終巻の伝播速度は異常と言わざるを得なかった。アクアレイアに『完結したらしい』との噂が入ってきた三日後にはレーギア宮に写本が持ち込まれ、二ヶ月後には当時の東パトリア皇帝に話が通じるまでになっていたのだからな。政治的に重要な文書でもなかなかこうはいかないぞ? 印刷機はおそらくあのときよりもっと早く、大量に、正確に、情報の伝達を行うに違いない」
「お、おう?」
 騎士物語が大人気なのはわかったが「早く、大量に、正確に」がどうすごいのかはピンと来ない。レイモンドには少々難しい話だということはルディアも承知していたようで、「つまり」と噛み砕いて説明してくれる。
「本の売れる下地はあるということだ。そもそも商人階級やアクアレイア人が相手にしてきた東西パトリアの上流階級は識字率が高いから、こんなにうってつけの商品はない。印刷は塩と魚以外何も産出しないあの国の一大産業になり得る。パーキンを誘致できればアクアレイアは交易以外の強みを持てるのだ。もしそうなれば……!」
 天帝の脅しも恐れるに足りん。呟いた彼女の声には確かな熱がこもっていた。
 アクアレイアが独自産業を手に入れる。それは今なお困難な状況に置かれているだろう祖国にとってどれほど救いになるかわからない。レイモンドは王女の先見に恐れ入り、「それいいじゃん!」と胸を高鳴らせた。
「なんであいつに言わねーんだ!? 来てもらおうぜ、アクアレイア!」
 逸る気持ちを堪えきれずレイモンドは立ち上がる。だが客室を飛び出さんとした己を制したのもまた彼女の言葉だった。
「金がない」
 返答を耳にして足が止まる。ドアに伸びかけた手も引っ込んだ。
「私の財布もアクアレイアの財布も今は空っぽだ。あの男が乗ると思うか?」
「いや……。うん……そうだな……」
 説得力がありすぎて反論のはの字も出てこない。やはり人間いかなるときも先立つものがなくては何もできないようだ。
「しばらくはパーキンが鼻のきく金持ちと近づくのを邪魔するしかなかろう。こっちの思惑を悟られて、あいつにふっかけられても困る。それにもう一つの考えは絶対に他人に知られるわけにいかないのだ」
 ルディアは意味ありげに声をひそめた。「もう一つ?」と尋ねて隣に腰かける。教えてくれないかもと思ったが、彼女はあっさり胸の内を明かしてくれた。
「実はコナー先生がアクアレイア建国史を執筆中でな。その完成原稿と印刷機を上手く使えば西パトリア各国で『ジーアンからアクアレイアを取り戻そう』という機運を高められるかもしれん。他国の軍事力を頼ることになるが、王国再建には希望が持てる」
 おお、とレイモンドは歓声をあげた。嬉しかったのはアクアレイアの未来に光が差したからというだけでなく、ルディアの前向きな意見を耳にすることができたからだ。彼女にはアクアレイア奪還の意志がある、心は今も王女なのだと思えたから。――しかし。
「お前にこの話をしたのは十人委員会に伝えてほしいからだ。私には帰る資格がない。どうかお前が印刷機をアクアレイアにもたらしてくれ」
 喜びは無残に打ち砕かれた。あんまりな頼みにレイモンドは声を失う。
「……任せとけ、なんて言うわけねーだろ? そんなもん自分で伝えろよ」
 苦い思いに耐えて返すとルディアは「そうだな。私の独り言だ。聞き流してくれ」と軽くかわした。そんなこと少しも思っていないくせに。
(あんたが死んだら俺もっつってんのに、用事押しつけてんじゃねーぞ)
 先んじて命じておけば言うことをきくと見越しているのだ。自分には彼女の願いを無下にできないと。
 さすがに文句を言ってやろうと口を開く。しかしそのとき、にわかに上方が騒がしくなった。「配置につけ!」「帆を下ろせ!」と忙しく走り回る水夫の声が天井から降ってくる。
「……次の港が見えたらしいな。我々も行こう」
 寝台から立ち上がり、止める隙もなくルディアは甲板に歩き出した。
 話はこれでおしまいらしい。嫌になる間の悪さだ。
(どうすりゃ思い留まってくれんのかな)
 ルディアの後を追いかけながら、レイモンドは答えの見えない問題に一人深々と嘆息した。




 ******




 帆船は広々と奥行きの深い湾に入る。港町――いや、湾港都市と言うべきか――はこれまた雄大な川の河口に位置していて、東西の岸と大きな中洲に赤い屋根の家並みをぎっしりと詰め込んでいた。中洲は一大商業区らしく特に立派な石造りの港が備わっている。しかも街には網の目のように水路が巡り、橋の多さも小舟の多さもアクアレイアを彷彿とさせた。
(うわっ、姫様大丈夫か?)
 レイモンドの心配をよそに「ここがクアルトムパトリアだよ」とオリヤンが教えてくれる。毎年の航海で彼の商会が必ず立ち寄る街だそうだ。
 クアルトムパトリア――または第四のパトリア。ありがたそうなその名前は一番古い居住区が聖都と同じく七つの丘に囲まれていることにちなんでつけられたという話である。堂々とパトリアを自称するだけあって繁栄ぶりは確かに見事なものだった。
(パトリアって本来は『故郷』って意味の言葉なんだっけ)
 思い出して頬が引きつる。波を越えて響いてくる威勢のいい水夫たちの声も全盛期の王都と重なった。ルディアのために中洲の港は避けてほしかったが、船は無情に湾の中央へ進んでいく。
「うん?」
 と、オリヤンが怪訝な声を立てた。パーキンが「旦那様、どうかしましたか?」と問うと「いや、あそこ」と亜麻紙商は船着場の一角を指差す。
 そこにあったのは美しく飾られた、とびきり豪華な帆船だった。船縁を覆う紅の飾り布も、船首を守る芸術的な女神像も、普通の商船にはまず見られないものである。おまけに望楼の頂にはパトリア大神殿とパトリア王家の聖なる旗が掲げられていた。
「ありゃ、なんか高貴な方がご滞在中っぽいですねえ」
 怖い人じゃなきゃいいですがと金細工師が肩をすくめる。そうこうするうちに商船は桟橋に取りつき、レイモンドたちはクアルトムパトリアの商港に降り立った。

「あんたたちついてるねえ。今この街には聖女パトリシア様がおいでになっているんだよ! きっと女神様のご加護があるよ!」

「高貴な方」が誰なのかは最初に入った税関でただちに知れた。年老いた役人が実に嬉しそうにニコニコと、何も聞かないうちから話してくれたからだ。
「へー、聖女パトリシア様?」
 誰だっけ、と思いつつ復唱する。名前を聞いても思い出せないということはきっと見たことがないのだろう。昔から人間に関する記憶力だけはいいのだ。知っていればすぐにわかる。
「パトリシア・ドムス・オリ・パトリア。パトリア王家の第七王女だな。月の女神ディアナに仕える筆頭巫女でもある」
「おお、なるほど」
 ルディアの耳打ちにレイモンドは拳を打った。それで大神殿の旗と聖王家の旗が並んでいたわけか。
「パトリシア様は何年も北辺で布教活動をなさっていたんだがねえ、ご結婚が決まったんで巫女の資格は返納して俗界に戻られるそうだ。聖女としてはこれが最後の旅になるんだよ。聖都に到着なさったらどこかの屋敷に引っ込められちまうかもしれないし、今のうちに尊いお姿をたっぷり拝んでおかなきゃね」
 オリヤンの船が積み荷のチェックを受ける間に老役人は愛想良く船主一行をもてなしてくれた。パトリシアの尽力でどれほど多くの北辺民が救われたか、またディアナの霊力が強まったか、わざわざ丸木椅子を引っ張ってきて語ってくれる。
「本当にね、北辺はあの方のおかげで文明開化したと言ってもいい。ディアナの巫女が現地入りするまでは、畑を耕すことも知らない野蛮人ばかりだったんだから」
 特にパトリアの神々を信仰しているわけではない亜麻紙商は笑っていたが、少々居心地が悪そうだった。だがそんなオリヤンも、「護衛団もすごいもんさ。北パトリア商業都市同盟『アミクス』が二十も武装船をつけてるんだ。それにここだけの話だが、北の海じゃあ名前を聞いただけで誰もが震え上がる、あのイェンスの船も来てる」――こう聞いてさっと顔色を変えた。
「えっ、本当か?」
 驚くオリヤンに老役人は「ああ、この港には停泊していないがね」と自分のことでもないくせに妙に得意げに答える。ルディアに「誰?」と尋ねると首を横に振って「知らん」と言われた。
「えっ? えっ? い、イェンスってまさかあのイェンス?」
 パーキンはイェンスなる人物について知っているらしい。見る間に青ざめ、ガチガチ歯を鳴らし始める。「どんな奴なんだ?」と問うレイモンドに金細工師は「知らないのか!?」と大声で怒鳴った。
「北辺の蛮族さ。熊みたいな男でな、海賊でさえ奴の船を見ると逃げちまう。いぇんすに近づくと古き神々の怒りを食らうって言われてんだ。実際これまで何人も呪いに当たって大怪我したり、頭がおかしくなったりしてて」
「はあー?」
 なんだそれは。蛮族? 古き神々の怒り? ということは異教徒ではないか。なんだってそんな男が聖女の護衛などしているのだ。
「御せるなら海賊よけにはもってこいの人材ということか。そいつもアミクスの一員なのか?」
 パーキンはルディアの問いにこくこく頷く。蛮族なのに北パトリアの組合に属しているとは一体どういうことだろう。危険人物かそうでないのかいまいち判然としなかったが、とりあえずその商業都市同盟とやらに宗教を理由とする加入制限がないのはわかった。
「俺の知り合いがイェンスとの取引で揉めた後、馬車に轢かれて右足切断したんだけどよ、そいつはイェンスに右足で蹴りつけたせいだっつってたんだ……」
 怯えるパーキンを見て老役人はフッフッフと急に人の悪い笑みを浮かべる。
「奴の船は湾のすぐ外に錨を下ろしてる。この港に入るまでに、西にも東にも北にも南にも動かないおかしなコグ船を見なかったか? 見たとしたらそれは……」
 恐怖を煽られた金細工師は「ヤダヤダ! 夜中一人で便所に行けなくなる!」とオリヤンに抱きついた。耳を塞ぐパーキンに老役人はなおおどろおどろしい口調で迫る。
「イェンスが護衛を務めるのはこの街までだそうだから、あんたたちこれから北パトリアへ向かうなら、しばらく同じ航路を行くことになるかもしれんなあ……」
「ギャー! イヤだー! いっそ殺せー!」
 税関の高い天井に金細工師のけたたましい悲鳴がこだまする。そろそろ黙らせたほうがいいなとルディアに目配せしたときだった。わっと人々の明るい声が響いてきたのは。
「んん?」
 ふと窓の外を見やれば聖歌を合唱しながら練り歩く行列が目に入った。誰も彼も陽気で楽しそうである。
「おおっ、あんたたち、パトリシア様がお通りだぞ!」
 その途端、老役人はイェンスのことなど綺麗に忘れ、大喜びで扉を開いた。




 好々爺の皮を被った税関役人はパーキンを脅かしたのと同じ口で「聖なる方に手を合わせていけ!」などとのたまう。自分の喋りたいことだけ喋って調子のいいクソジジイだ。これだから年寄りは嫌いなんだ。
 無遠慮に背中を押され、パーキンが石造りの大倉庫を出ると、水路脇の通りには人が溢れ返っていた。どうやら聖女様のお散歩に下々の人間が喜んで付き従っているらしい。
「うわ、すげーな。大人気じゃねーか」
 同じく表に押し出されたレイモンドが感嘆の声をあげた。隣ではブルーノが「第七王女は一般庶民から厚い支持を受けていると聞いた覚えがあるな」などとまた知識人ぶっている。
(ケッ、聖女っつってもあのアホ聖王の娘だろ? どうせブヨブヨのダサダサに決まってらあ)
 鼻を鳴らし、パーキンは行列の先頭に目をやった。そしてすぐ間違っていたのは己のほうだと気づかされることになった。何故ならそこに立っていたのはディアナの化身と呼んで差し支えない、たおやかで淑やかな美しい姫君だったのだから。
(グワーッ!)
 聖なる光に目を焼かれ、パーキンは両腕で頭を庇う。四十余年の人生で汚れきった自分には痛いほどの清廉さが襲いかかった。
 年齢は十七、十八歳であろうか。柔らかなベージュの髪を肩の上でさらりと流し、その人は優しいパトリアグリーンの瞳で周囲に集う女子供らを見つめている。唇にはふんわりと、胸が温かくなる可憐な微笑みを湛えていた。控えめな真珠飾りのついた青いケープ、同じ色の清楚なストレートドレス、神官職であることを示す縦長帽もよく似合う。
 彼女の一挙手一投足が慈愛と癒しを体現していた。我欲にまみれた己でさえパトリシアを見ているだけで心の澱みが薄らぐ気がする。
(す、すごいぜ。これが本物の聖女なのか……!)
 ふるふるとパーキンは全身をわななかせた。その姿、いでたちだけで人心を救う存在がいるとは。なんだか生まれ直したみたいにさっぱりとした良い気分だ。おお、今、魂の蝋燭に聖なる炎が灯された。おお、聖女よ。月の巫女よ。
(あっそうだ! パトリシア様のお側に漂う清らかな空気を吸えば、イェンスなんて不吉な名前を聞いて穢れた耳が浄化されるんじゃ!? なんなら運気が上がるご利益もあったりして!?)
「パトリシアさまあ!」
 そう考えてパーキンは善は急げと駆け出した。行列をぶった切り、どかどかと大股走りで目当てのお姫様に近づく。――だが。
「無礼者!」
 突然目の前に刃が閃き、ヒッとパーキンは尻餅をついた。見れば聖女の護衛と思しき女騎士がこちらにレイピアを突き出している。
 ダークブラウンの髪をツインテールにした、まだ少女然とした娘だ。しかし身のこなしは俊敏で、パーキンが避けられるギリギリを突いて剣を振り回してくる。
「うわっ! 危ねッ! うわっ!」
 追い立てられたパーキンは尻を擦りながら後退し、あっさりと美しい人から遠ざけられた。
「パトリシア様は処女神ディアナに仕える処女巫女だぞ! 男が近づいていいと思うな!」
 女騎士は汚物を見る目でパーキンに忠告する。縮こまって「す、すみません」と詫びたものの、震えた足が彼女の銀の甲冑に触れてしまい、キッと睨みつけられた。
「男の邪気が染み込んだらどうしてくれる!? 私をパトリシア様の第一騎士と知っての狼藉か!?」
 真っ白なハンカチで接触した部分をごしごし拭かれ、あまつさえそれを道端に投げ捨てられ、ショックのあまり涙目になる。そんなパーキンの腕を掴み、レイモンドとブルーノが「何やってんだよお前!」「ほら、こっちへ来い!」と後ろに引きずった。
 聖女一行にしては対応が酷すぎないか。何も公衆の面前でどつき回した挙句怒鳴りつけることないではないか。
(そりゃ確かに俺は善良な市民ではないけどよお……)
 ぐすんと涙を飲み込んで心の中で「バーカ! ブース! 腐れ○●△!」と女騎士を罵倒する。そのとき人垣のほうからこの世のものとは思われぬ鈴の音のような声が響いた。
「マーシャ、やりすぎです。男性が近づいたくらいで処女性が損なわれるはずないでしょう。ごめんなさいね、私の騎士が乱暴をして。大丈夫ですか?」
 聖女は自ら膝を曲げ、地べたの男に真っ白な手を差し伸べてくる。慈しみに満ちた尊顔がただ自分にのみ向けられている現実に動転し、パーキンは一気に舞い上がった。
「お、おお、このくらいなんてこたないです! お手が汚れますので!」
 さっと自分で立ち上がり、恭しく頭を垂れる。この光景を遠巻きに見ていた者たちは「なんてお優しい方だ」「一国の王女だというのに全然偉ぶったところがない」と口々に彼女を誉めそやした。
(ああ、すごいぜ、この圧倒的な清らかさ、やっぱ聖女様は聖女様なんだ!)
 感動のあまりパーキンはパトリシアの面前で五芒星を切った。「おい、左回りだって知ってんじゃねーか」とレイモンドの突っ込む声が聞こえたが無視する。オリヤンも「普段悪さを働いている人間のほうがああいうお方に徳を感じるというのは本当だな」とこぼした気がするが、きっと聞き間違いだろう。
「お怪我がなくて良かったですわ。どうぞあなたにディアナの加護がありますように……」
 それではと愛らしくお辞儀してパトリシアは踵を返す。聖女が行ってしまうのが惜しく、思わず「あっ、お待ちください!」と叫んだ。この聖なる人との邂逅がこれっぽっちで終わりだなんてあまりにももったいなくて。
「どうなさいましたか?」
 振り返ったパトリシアは光り輝く笑顔を向けてくる。「あの、その、ええと」と引っ張るパーキンにマーシャとかいう女騎士が舌打ちした。
(ど、どうする!? 何か記念になるものが欲しいけど、なんて言やいい!?)
 おぐしをひと房いただけませんかと頼むには彼女の髪は短すぎるし、さっき「お手が汚れますので」と言った手前、握手を求めるのも気が引ける。何か、何かないかと必死に考えを巡らせた。
(あっ、そうだ! あれがあるじゃねえか!)
 ぽんと手を打ちパーキンは「あのう、パトリシア様はどちらにお泊まりなのでしょう? 実はお願いがあって、のちほど伺いたいのですが」と擦り寄る。女騎士が「宿泊先を貴様に教える筋合いはない!」と追い払おうとしてきたが、「パトリア神話の超絶美麗な写本を持ってるんですよ! そこに一筆いただけたらと!」と切っ先をかわしつつ訴えた。
「まあ、写本ですか?」
 興味深げな声とともにパトリシアの頬が紅潮する。
「私、神話を読むのも研究するのも好きなんです。一文字一文字書写生が丁寧に書き取った写本には無限の価値がありますわ! 一筆入れる代わりといってはなんですが、是非何日か、いえ、一晩だけでもお借りして読ませていただけないでしょうか?」
 主人がこう言うのでは生意気な女騎士も黙るしかない。パーキンは己の勝利に拳を握った。
「おい、パーキン」
 写本ではなく印刷本だと知っているブルーノたちは肘で小突いてきたけれど、素知らぬふりを決め込む。聖王が認めなかった印刷機を娘の彼女が認めるわけないし、これでいいのだ。
「そちらの方々はあなたのお連れですか?」
 と、パトリシアがブルーノ、レイモンド、オリヤンに顔を向けて問いかけた。「あっ、はい」と答えると「青い髪の、あなたはアクアレイアの方とお見受けしましたが」と聖女は青年剣士に呼びかける。
(あっ! 聖王家ってアクアレイアのこと毛虫みたいに嫌ってんじゃなかったっけ!?)
 一瞬冷や汗を掻いたけれど、彼女は別にケチをつけようとしたわけではないようだ。嬉しそうに掌を合わせ、大らかな聖女はブルーノたちに尋ねた。
「私、実はアクアレイアの精霊祭で用いられる仮面を集めるのが趣味なのです。本場の方のお話も伺いたいので、良ければ皆さんご一緒にアミクスの大商館にお越しになりません? ちょうど今晩、庭で夜会が催されることになっているのです」
 思いがけない誘いに一同はどよめく。気さくすぎる聖女にマーシャは「ちょ、パトリシア様!」と困り顔で声を荒らげた。
「良いではありませんか。城で開かれるような気取った夜会ではありませんし、私が自由にできる時間も残りわずかしかないのですから。あなたがどうしても駄目だと言うなら私も考え直しますが……」
 そう言われて女騎士はうっと詰まる。結局折れたのはマーシャのほうだった。
「ああもう、わかりましたよ、お好きになさってください!」
「うふふ、ありがとう。皆さんのご予定は大丈夫ですか?」
 パトリシアの問いに「は、はい。夕刻には荷揚げも終わっているかなと」としどろもどろにオリヤンが答える。行けると口にしてすぐ亜麻紙商はしまったという顔をした。
「良かった、それではお待ちしておりますわね。きっとお楽しみいただけると思います」
「アミクスの大商館はこの中洲の一番北の突堤だ。日没を過ぎたら一時間以内に来い!」
 物腰柔らかな聖女とは対照的に女騎士の案内はすこぶる高圧的である。だがそんなことは露ほども気に留めず、パーキンは猫撫で声で返事した。
「はあい! 必ず伺いますう!」
 媚びに媚びた態度で聖女を見送り、「さあて、そうと決まれば神話集を取りに一旦船に戻らねえとな! 旦那様、いいですか?」と振り返る。すると何故か三人同時に深々と溜め息をつかれた。
「はあ……」
 エッと驚いて見つめ返せば「君なあ、なんて厚かましいお願いをするんだ?」「俺ら夜会に出れるような服持ってねーだろ」「写本にサインなどと言うから、ある程度の地位と金はあるものと思われたな」と寄ってたかって責められる。
「ええっ!? 大丈夫だって! 都市同盟の商館だろ? 俺の故郷もアミクス同盟都市だけど、あそこに出入りする連中はピンからキリまでいるからさあ!」
「聖女直々のお招きとあってはみすぼらしい姿で訪ねられまい。恥をかくのがお前一人なら誰も文句はないのだがな」
 反論はブルーノにぴしゃりとはねつけられた。こちらのレイピア使いも先程の女騎士に負けず劣らず生意気だ。
「仕方ない。今更断るほうが失礼だし、本を取りに戻ったら急いで仕立て屋を探そう」
 オリヤンがそう促すとレイモンドとブルーノは「なんかごめんな」「無駄金を使わせてすまん」と詫びる。
「ええーっ、なんで俺が悪いみたいになってんだよ? 折角聖女様とお近づきになれそうなのに!」
 むすっと頬を膨らませたパーキンに返された反応は冷たかった。
「「「お前が悪いんだろうが!」」」
 ぴたりと揃った非難の声は青い空に吸い込まれていった。




 ******




 そんなこんなでレイモンドたちは運河沿いの通りに面した仕立て屋のドアを叩いた。
 たった一度の夜会のためにどうしてお高い衣装を新調しなくてはならないのだろう。本当に余計な真似ばかりする男だ。きっとこれまでもパーキンは行き当たりばったりの行動で借金を膨らませてきたに違いない。
「ええっ、パトリシア様の夜会に? に、日没までに四着ですか……。わかりました、善処いたしましょう」
 とんでもない無茶振りをされたのに、店の主人はそれでもパトリシアの客と知ると親切に応対してくれた。「型紙なんか取っていたらとても間に合いませんので、この中からお選びいただけますか?」と古い見本品を取ってきてくれる。棚と布と木製マネキンが人間よりも幅を利かせた店内でレイモンドたちは十着ほどの夜会服を吟味した。
「ふむ。これくらいのを着ていれば相応に見えるかな?」
 最初に見てもらったのはオリヤンだ。黒い絹地に金の刺繍が入ったチョッキスタイルで亜麻紙商は奥の小部屋から出てきた。
「おお、ラッキーぴったりサイズ!」
「いいんじゃないか?」
「お似合いですよ、旦那様!」
 称賛の声を浴び、オリヤンは頬を赤くする。一人だけいつもと違う服装なのが居た堪れなくなったのか、亜麻紙商はそそくさとお針子に直す箇所はないか尋ねにいった。
「うむ、まあこんなものか」
 続いて試着に呼ばれたのはルディアだ。宮廷育ちの彼女はさすがの着こなしで現れた。
 王女には布地の安っぽさが気にかかる様子だったが、群青の髪に濃紺がよく映えている。軍服風のすらりとした礼装なのも気品を更に引き立てて、本物は違うなと言わざるを得なかった。
「うわあ、どっかの王族みてえ」
 舌を巻くパーキンにレイモンドは胸中でうんうん頷く。この男にも華やかな衣装を通してなら彼女の高貴さが理解できるらしい。
「さて、そんじゃ次は俺が行ってくるかな」
 レイモンドはもたれていた壁を離れ、試着室の仕切り布をめくった。選んだのはルディアのと似た軍服風の一着だ。しかし残念なことに、店主が頑張って着付けてくれたにも関わらず上下ともつんつるてんになってしまう。
「こ、これは……」
 はみ出した手首とにらめっこして他の服と取り換えるべきか思案した。「これより大きいのはないですよ?」と店主に首を横に振られ、ええっと叫ぶことになったが。
「ま、まじか!? これ股下もやばいんだけど!?」
 慌てる声は小部屋の外まで漏れていたらしい。「雰囲気だけでも見せてみろ」とルディアの声が飛んでくる。店主にも「一旦外でお待ちください」と言われ、嫌々ながら出ていったらパーキンに指を差されて爆笑された。
「うわっははは! なんだそりゃ!? ピッチピチじゃねえか!」
「笑うんじゃねーよ! 俺だっておかしいのはわかってるっつーの!」
 怒りを示しても道徳心の薄い金細工師に効果はない。「しょうがねえな、ここは一つ俺様がもっと素敵でダンディな装いを見せてやる」ともみあげ男は自信満々に試着室に入っていく。
「まあ丈は直してもらえばいいさ。それよりお前は猫背をなんとかしたほうがいいんじゃないか? でないと様にならないぞ」
 ルディアの助言にレイモンドは「いや、目立つの嫌だから」と眉をしかめた。
「アクアレイアに俺より背の高い奴っていなかったじゃん。もうこの姿勢が癖になってんだって」
「なんだそれは? 長身で他人に迷惑をかけたわけでもあるまいに」
「気になるもんは気になんだよ。手足長すぎてアクアレイア人に見えないって言われたこと何度もあるしさ」
 嘆息混じりに首を振った。自分の台詞で暗い記憶が甦り、余計に陰鬱な気分になる。
 あの聖女もレイモンドがアクアレイア人だということをわかっていなかった。外国人に外国人と思われるのはもう諦めているが、せめて己のテリトリーでは少しでも差を縮めたいではないか。たとえそれが意味のない努力に過ぎないとしても。
「だったら尚更まっすぐ立って胸を張らないか。罪を犯したわけでもなければお前のせいでもないだろう?」
 かけられた言葉にはっとした。顔を起こせば偽りのない眼差しがじっと己に向けられている。
「お前が卑屈になる必要はまったくない」
 そう諭され、レイモンドは肩をすくめた。
「……なーんかアルの言いそうな台詞だな」
 お節介で真面目な幼馴染を思い出し、自然と口元がほころぶ。つらいとき、苦しいとき、手を差し伸べてくれたのはいつもアルフレッドだった。その手を取るのが情けなく感じる日もあったけれど。
「そうか? 別に似せたつもりはないぞ」
 指摘を受けてルディアはやや戸惑いを見せる。首を傾げる彼女にレイモンドは笑いかけた。
「元々どっか似てるとこあるんじゃねーの? あんたはアルほど説教じみてはないけどさ」
 レイモンドがそう言った途端、何故なのか彼女は態度を急変させた。スッと冷めた顔つきになり、しばしの間沈黙する。どうしたのかと訝っていたら怒り半分呆れ半分の声で問われた。
「……説教じみていない? 防衛隊の中ではお前が一番私から小言を食らっていた気がするが、まさかお前、聞いていなかったと言うのではなかろうな?」
「……! い、いや、そんなことは!」
 しまった墓穴を掘ったかとレイモンドは大慌てで誤魔化そうとする。しかしルディアの目は疑わしげに細められたままだった。
「ほんとだって! 全部ちゃんと聞いてたって! た、多分」
「多分だと?」
「わーっ! え、ええとその」
 と、そのとき店の奥で「のわっ!」と大きな声がして、仕切り布が翻った。見ればズボンに足を引っかけたパーキンが破れた下着を丸出しにして片足立ちでぴょんこぴょんこと跳ねてくる。咄嗟にルディアを背に庇い、レイモンドは「きたねーモン見せてんじゃねーよ!」と怒鳴りつけた。
「ひーっ! 寸詰まりってこんな事態になるんだな!? さっきは馬鹿にして悪かったぜ!」
「いいからさっさとズボン上げろって! 見えちゃいけないものが見えてんだよ!」
「ひーっ、ひーっ」
 夜会服もパーキンに着られるのを嫌がっているのではないか。値の張りそうな黒ビロードの衣装なのに、この男が袖を通すと台無しだ。小言の件がぼやかされたのは助かったが。
「ひと通りチェックしましたので、これからすぐ寸法直しに入らせていただきますね」
 パーキンが腰帯を締めて出てくると同じ小部屋から巻き尺を手にした店主も戻ってくる。夜会まであまり時間がないため、直してもらうのはレイモンドの紺地の軍服だけになった。金細工師にはぴっちりした礼装で我慢させることにする。
 数時間後、仕立て上がった服を着て試しに少しだけ背筋を伸ばすと「うん、そのほうがずっといい」とルディアが褒めてくれた。俺って単純だなあと頬を掻きながらレイモンドは姿勢正しく店を出る。
 西の空ではまばゆい夕日が羊雲を朱に染めて、丘の彼方に沈もうとしていた。
 どうやら夜会には間に合ったようだ。









(20160930)