――タムナ、この子は本当にしっかりした声で泣くな。きっと将来すごい歌うたいになるぞ。
 麻布の袋越しに赤ん坊をあやすジェレムに妻は曖昧な笑みを返す。難産ではなかったものの、産後崩れた体調は良くなる兆しがまったく見られず、案じたジェレムが「俺がおぶろう」と言ってもカロを離そうとしない彼女はますます痩せこける一方だった。
 ――もうじき生まれて一年か。皆に見てもらう日も近いな。
 なんの悪意もなく話しかける。最初にどの歌を教えてやろう、踊りはいくつで覚えるだろうと。その全てに彼女は心をすり減らし、命を縮めていたというのに。
 宿営地に選んだのは緑深く美しい渓谷だった。清らかな急流が段々になって滑り落ちる荘厳な滝を隣に眺め、切り立つ丘でささやかな宴を始める。杯にはなみなみと酒がつがれ、祝いの歌とリュートの音色が重なり合って空に響き、晩冬の太陽は輝かしい赤子の未来を約束するかのようだった。
 タムナは仲間に「早く、早く」とせがまれるまでカロを隠したままでいた。渋る彼女に業を煮やして「いい加減にしろ」と叱ったのは誰だったか。いずれにせよ、それが災いの箱を開く鍵となったに違いない。
 麻袋はただちに破られ、魔除けの布に巻かれた赤子が抱き上げられた。待ち望んだ我が子との対面にジェレムは胸を高鳴らせる。目元はなお一枚の薄衣に覆われていた。ふっくらした唇や丸い頬にはタムナの面影が、まっすぐな鼻筋にはジェレムの面影が見て取れる。眼差しは誰に似ているのか楽しみだった。
 一切はまだ希望に満ち溢れていた。ジェレムは幸福の中にいて、たとえ青春の古傷の痛む日はあっても耐えきれないほど重い何かを背負わされる予感など少しも感じてはいなかった。
 薄衣を剥ぎ、閉じられていた赤子の瞼が開くのをじっと見守る。言い尽くせない愛と歓喜を胸に抱いて。
 何度も同じ夢を見る。自分はもうこれから起こるあらゆる災難を知っているにも関わらず、懲りもせず同じ過ちを繰り返す。
 息を飲み、我が子の右眼を覗き込んだ。光り輝く黄金には世界で一番まぬけなロマが映っていた。




 ******




 陰鬱な眠りから目を覚まし、ジェレムがそっと顔を上げると、焚き火の前でトゥーネとフェイヤが並んで丸くなっていた。近くに寄るなと言ったのに話を聞かない女たちだ。おまけに守ってもらっているつもりなのか、隣には片膝を立てたアルフレッドまで寝かせている。
 眉間に深くしわを寄せ、ジェレムは即刻立ち上がった。
 気分が悪い。むしゃくしゃする。ここはロマの――同胞だけの居場所だったのに。
(どれだけ奪えば気が済むんだ、アクアレイア人め)
 行くぞとの声もかけずにジェレムは一人街道を歩き出した。背後では早くも一つ減った気配に勘付き、騎士が瞼を擦っている。足を早め、できるだけ距離を稼いだ。もっとも多少急いだところですぐ追いつかれるのはわかっていたが。
(トゥーネもフェイヤもなんだってあんな奴に尻尾を振る?)
 忌々しさをぶつけるように土を蹴る。
 若くて腕が立つからか。それとも綺麗ごとを並べ立てるのが得意だからか。そうやってこちらが心を開いたその途端、道理の通らぬ常識を押しつけてくるのが奴らなのに。
(それでも俺よりまともな男と見なされたわけだな)
 自嘲の笑みがこみ上げた。うすら寒い朝霧を突っ切ってジェレムはひたすら歩き続ける。
 本当はわかっているのだ。二人がアルフレッドについたのは、自分が尊敬に値するロマではなくなったせいだということ。
 昔は何もしなくても周りが勝手についてきた。揉め事を仲裁するのはいつも自分の役目だった。己の信じる道義に従い、仲間を褒めたり叱ったり、疑問も持たずによくやれたものだ。今ではすっかりそんな力は失くしてしまった。
(どこまで落ちぶれるつもりなんだい、か)
 トゥーネの台詞を思い出し、どこまでだろうなと自問する。戻れるものなら己とて昔の自分に戻りたかった。カロのあの眼に出会う前に。
「…………」
 邪視は混乱と不幸を呼び寄せ、最後には一族を破滅させるという。
 酷い耳鳴りにジェレムはしわ深い顔を歪めた。「どぼん」とどこかで女が滝壺に飛び込む音がする。
(もう疲れたな)
 連れ立って歩き始めた三人を肩越しに見やり、ジェレムはひとりごちた。
 疲れてしまった。老い衰えた我が身でも残された仲間を守ろうとやってきたのに、女たちには己よりあのアクアレイア人が正しいと言われて。たとえそれが事実だろうと自分には到底受け入れられないのに。
(もう疲れた……)
 虚勢を張るのも己を奮い立たせるのも、一人ではなかったからできたことだ。そろそろ休んでもいいんじゃないかと声がする。フェイヤが一人前になるまでは何年かまだ踏ん張らなければならないだろうが、今は少しだけ休んでも、と。
(何が駄目だったんだろう)
 努力なら人の倍以上してきたし、心を広く持とうともした。そうしたら全部裏目に出てこのざまだ。
 路傍の小石を蹴り飛ばそうとしてジェレムはふくらはぎに力をこめた。だがすぐに虚しくなってやめにする。物に当たるようになったのは、ホリーに拒絶されたあの日からだと思い出してしまったから。
(俺だって父親に胸を張れる立派なロマでありたかったさ)
 ぐっと拳を握りしめ、ジェレムは己を責め立てるいくつもの声を振り払った。
 カロが普通のロマの子だったら。タムナが生きていてくれれば。
 考えても仕方がないのに掴めなかった幸せの夢想は尽きない。それは同時に自分がどん底にいる証明にほかならなかったけれど。




 ******




 アクアレイアを発っておよそ二ヶ月半が過ぎた。北へ北へと進んでいるため夏の到来はさほど感じられないが、暦の上ではもう六月、あっちこっちの商船が入れ代わり立ち代わり港を訪れる季節である。
 ロマとの旅は概ね順調に続いていた。トゥーネとフェイヤがアルフレッドを仲間の一人と認めてくれて以来、刺々しかった老ロマの態度にも少しずつ変化が現れている。
 この頃のジェレムはじっと物思いにふけり、黙り込んでいることが増えた。嫌がらせに石をぶつけてきたり、怒鳴り散らしたりもしない。そうかといって打ち解けようとする素振りもまったく見せなかったが。
 今日も今日とてジェレムは一人でぽつんと先を歩いている。不安になるほど背中は静かだ。
 何を考えているのだろうか。不機嫌とは違いそうなのに誰とも口をきこうとせず、沈黙は謎めいている。まさかまた良からぬことを企んでいるのでは、と疑念はふつふつ湧き上がった。
 預けた剣を勝手に売り払われたことはもう怒っていない。こちらにも「感謝してもらえる」という思い込みがあったのは確かだ。だから蒸し返す気は更々ないのだが、それとジェレムに対する信頼が損なわれたのはまた別の話だった。しかも彼は先導として、依然こちらにやり返せる立場にいるのである。
(もしカロがいるのと全然違う方向に歩かされていたら……)
 いやいやいやと首を振った。さすがにそれはないだろう。目的を果たすまでジェレムはずっと大嫌いなアクアレイア人を連れ回さねばならないのだから。トゥーネやフェイヤとだってすぐにも引き離したいはずである。
(完全に孤立状態だものな……)
「心配かい?」
 と、隣を歩く女ロマに尋ねられる。
「さっき分かれ道になってたし、細いほうに入ったからね。こっちの道で本当に合ってるのかって気になるんだろ?」
 人生経験豊富なトゥーネには若造の浅慮などお見通しらしい。「いや、まあ、少しだけ」と濁して返すアルフレッドに彼女はにこりと微笑んだ。
「約束は守ってくれるさ。あんたがはぐれさえしなきゃ平気だよ」
 一番派手に喧嘩していたのにトゥーネはジェレムに懸念を持っていないようだ。冗談めかして「不安なら占ってあげようか?」と問われ、アルフレッドはうっと仰け反る。
「あれは本気で信じそうになるからやめてくれ」
「あっはっは!」
 女ロマとは随分打ち解け、商売のからくりを教わるまでになっていた。歌や踊りは少々手抜きする程度だが、金物修理や動物の世話、予言の類はインチキにデタラメばかりだそうだ。なんと馬の首に針を刺し、若々しく見せる技まであるという。老人と女子供の三人連れではバレたときの危険が大きすぎるので今はやっていないそうだが。
「私たちもジェレムに置いていかれないように気をつけるけど、アルフレッドもちゃんとついてきてちょうだいね?」
 今度は反対側から少女に声をかけられた。険のなくなったフェイヤは大きな黒い双眸や褐色の肌のためか、どことなくアニークを彷彿とさせる。ポケットのピアスに触れながら「ああ、わかってるよ」とアルフレッドは頷いた。
 それにしても酷い景色だ。左手には深いオークの森、右手には緩やかな丘が広がる荒れた街道を見渡して溜め息をつく。広範囲で草が踏み倒されており、道幅を無視して大量の兵士が通過したのが見て取れた。大砲を引いて運んだと思しき轍もくっきり残っているし、あちこちに焚き火の燃えかすが放置されたままになっている。
 紛争の絶えない土地と言えば第一に思い浮かぶのはパトリア古王国であるが、北パトリアもなかなかどうして立派な危険地帯だった。不仲な小国が一つ所に固まっている以上、衝突は避けがたい運命らしい。
 だがこうして治安の悪い道を行くのは仕方ないことと言えた。安定した国や都市ほどロマの出入りを拒むからだ。気楽な旅は今後も望めないだろう。身辺にはよくよく気をつけねばならなかった。
(早くもっとちゃんとした剣を手に入れなくてはな)
 模造剣の柄を握り、アルフレッドは顔を上げる。
「次に向かうのはなんて街だ?」
 そう尋ねるとトゥーネから「フエラリウスってところだよ」と返事があった。知りたかったのは武器が売られているかどうかだったのだが、街の名前を耳にしてそれどころではなくなってしまう。「えっ?」と声を裏返し、アルフレッドは女ロマに問い返した。
「ほ、本当か? 本当にフエラリウスの街なのか!?」
 興奮を抑えきれず、つい鼻息が荒くなる。フエラリウスといえばプリンセス・オプリガーティオが暮らす小国のモデルとなった街ではないか。まさかそんな騎士物語所縁の地を通りがかるとは。
「そうだけど、知ってるのかい?」
 急に生き生きし始めたアルフレッドにトゥーネがぱちくり瞬きした。普段は出さない大声にフェイヤもびっくりした様子だ。
「ああ、子供の頃から好きな本に出てくる街なんだよ。一度行ってみたかったんだ」
 アルフレッドの返答を聞いて「本って何?」と少女が首を傾げる。きょとんとした顔を見て、そうだ、ロマには読み書きができないんだったと思い出した。文字を覚えようとせず、金の扱いも雑だったのがアクアレイア人とぶつかった原因の一つだと言われている。苦もなくペンを操って、一国の王と暗号文までやりとりするカロが特殊なのだった。
「ええと、本っていうのはこう、このくらいの紙の束に、フェイヤがトゥーネから聞くような昔話やためになる教えが書いてあるんだ。俺が何度も繰り返し読んだのは『パトリア騎士物語』という話なんだが」
 説明すれば説明するほどフェイヤは「?」と混迷を深め、まじまじと見つめ返してくる。困り果てたアルフレッドに助け舟を出してくれたのは「ふーん、前に聞いたことあるね。『パトリア騎士物語』ってあんたらのおとぎ話だろう?」と拳を打ったトゥーネだった。
「要するに絵芝居みたいなもんだ。フェイヤ、覚えてないかい? いつだったか、もっと北のほうの街で年取った男がやってたろう」
「あっ! もしかして四角い台に載せてたアレ?」
 彼女の言葉でフェイヤも腑に落ちたらしい。「そっか、本ってああいうのか」と感心しきって頷いている。アルフレッドの写本には挿絵などという贅沢品は一枚も入っていなかったのだが、余計なことを言うとまた少女を混乱させそうなのでやめておいた。
「ふうん、それじゃあフエラリウスってアルフレッドのお気に入りの話と関係ある街なんだ」
 フェイヤは頬を綻ばせ、「良かったね」とこちらを見上げる。
「私はあまり知らないけど、アルフレッドが嬉しそうで嬉しいよ。騎士物語に出てくる街なら剣とかいっぱい売ってるかも! 私も探すの手伝っていい?」
「ああ、是非頼みたいな」
 笑顔を向けるとフェイヤはぱっと双眸を輝かせる。歓声を上げた少女が踊りながら跳ねていくのを眺め、微笑ましさに口元をほころばせた。
「……本か。あたしらも文字を知ってりゃもっと違ったのかねえ」
 ぽつりと女ロマがこぼす。「ん? なんの話だ?」と問えばトゥーネは悲しげな声で先祖の過去を教えてくれた。
「昔のロマ――鉱山で奴隷にされてたあたしらの親は、ロマの言葉で喋るのを禁じられていたんだよ。それでも大切な歌だけはこっそり受け継いできたけどさ、意味のわかる歌は随分少なくなっちまった。話し言葉なんてもうほとんどあんたたちと同じだろ? 祝いの歌も、弔いの歌も、昔はきちんと歌われてたんだと思うとねえ」
「……!」
 思いがけない事情を明かされアルフレッドは息を飲む。どう見てもパトリア系の民族ではないロマたちが何故パトリア語やアレイア語を日常会話に用いるのか、ずっと疑問ではあったのだが、まさかそんな背景があったとは考えてもみなかった。危険と隣り合わせの暗い穴で酷使されてきただけでも耐えがたい苦難だったろうに。
「ま、今更嘆いたってどうしようもないことさ。気にしないどくれ」
 トゥーネはなんでもない風に笑う。アルフレッドが返す言葉に悩む間に彼女は「ちょっと、置いてくんじゃないよ!」とフェイヤを追いかけていった。
 自分たちの言葉を失うというのは、自分たちの故郷を失うのと同等の痛みを伴うのではなかろうか。そう考えるとジェレムの憎しみがああも苛烈に過ぎるのも当然のことかと思えた。その対象がパトリア人全体ではなくアクアレイア人に偏っているのは解せないが。
(アクアレイア人とは接する機会が多かったから、すれ違いも頻繁に感じたのかな)
 アルフレッドは女たちの更に前を行くジェレムを見やる。脳裏には「カロが生まれてからあんたはどっかおかしいよ!」とのトゥーネの台詞が甦っていた。
 何がきっかけでジェレムはアクアレイア人を嫌い始めたのだろう。もちろんモリスの母とは相応に揉めたのだと思うが、どうも他にも理由がある気がしてならなかった。でなければロマ狩りに対する報復の念は自分たちよりパトリア人に向けられるはずだ。
「……ん?」
 そんなことを考えていたらジェレムがふっと道を逸れ、森の中に踏み入っていった。あれ、フエラリウスの街に行くのではなかったのか、とアルフレッドは慌てて駆け出す。
「ああ、平気平気。この辺りは木こりの作った掘っ立て小屋が空いてるときがあるからね、泊まれないか見にいってみるんだろう」
 追いついたトゥーネの言に「なるほど」と頷いた。彼女は「ほら、こっちだ」とうねる木々の間をすいすいと歩いていく。フェイヤも軽い足取りで続いた。
 一歩森に踏み込むと、そこはもう別世界だった。天を突く逞しい大樹や細い枝を伸ばした若木が一斉にアルフレッドを見下ろしてくる。侵入者にびっくりしたリスが、ドングリに似たオークの実をしっかりと腕に守って茂みに逃げた。木漏れ日の中をしばらく行けばそれらしい小屋が見えてくる。ジェレムは小屋から少し離れた樹木の陰に立っていた。
「おい、あの中を見てこい」
 ぶっきらぼうな命令にアルフレッドは「わかった」と答える。刃の丸い模造剣しか持っていないのは不安だが、ロマたちに斥候役などさせられなかった。もしも野盗の類が潜んでいたら、彼らを見て悪い考えを起こすかもしれない。フェイヤたちをまたあんな危険な目に遭わせたくなかった。それなら自分が賊と対峙するほうがずっといい。
「――誰だ!」
 が、今回は扉を開けるまでもなくそんな人物はいないと知れた。外の気配に気づいて男が飛び出してきたからだ。褐色の肌に、黒い髪と黒い目を持つロマの男が。
「なんだお前は? ここらの兵士じゃなかろうな?」
 鼻先に鋭いナイフを突きつけられる。骨ばった顔つきの、三十路そこそこと思しきロマは妙に小屋の中を気にしながら警戒を強めた。
「いや、俺は旅のアクアレイア人で」
 腕を広げて相手をなだめつつアルフレッドは振り返る。
「ジェレム、ロマだ! あんたの仲間じゃないのか?」
 呼びかけると木陰に隠れていた一行が男の前に姿を見せた。見知らぬロマは最初に出てきた老人を見やり、驚愕の声をあげる。
「ジェ、ジェレム!」
 なごやかな再会のひとときが訪れるかと思いきや、男はきつく目を吊り上げ、耳まで真っ赤にして怒りだした。そのまま止める暇もなく彼はジェレムに掴みかかる。
「おい、カロはあんたが西パトリアから追い出したんじゃなかったのか!? あいつこっちに戻ってきてるぞ。どうしてくれる! あいつの邪眼に見られたかもしれない……!」
 早口に捲くし立て、男は乱暴に老ロマを揺さぶった。前触れもなく出てきたカロの名に、止めに入ろうとしたのも忘れてアルフレッドは瞠目する。
(この男、カロに会ったのか!?)
 すぐにも話を聞きたかったがジェレムを睨む双眸は鋭く、口を挟める雰囲気ではなかった。しかも老ロマが「そうか、そいつは悪かったな」と厭味も皮肉もなく詫びたため、驚愕のあまりアルフレッドの思考は一瞬真っ白になる。
(えっ……!? い、今、謝っ……!?)
 幻聴か、さもなくば聞き間違いかと疑ったが、どうやら現実だったようだ。しかし男は謝罪に不満だったらしく、いっそう老人にがなり立てた。
「謝って済む問題かよ! あの呪われた眼に近寄っちまったんだぞ!? 本当にあんた耄碌したぜ。昔はあんたより頼りになるロマはいないと思ってたのに。それにアクアレイア人と一緒にいるなんて……!」
 男がジェレムに詰め寄ると非礼に怒ったフェイヤがトゥーネの背後から飛び出す。
「何よ!? アクアレイア人と一緒にいちゃ悪い!?」
 甲高い声で叫び、少女は彼を突き飛ばした。横からの不意打ちに男はよろけ、コートの襟から手を離す。
「ジェレムのことも馬鹿にして! それ以上言ったら許さないから!」
「お、おお、こんな小さなお嬢ちゃんも一緒だったのか」
 彼はフェイヤを見た途端、どうしてか嬉しそうな顔をした。「アルフレッドはジェレムが道案内してるところなの! 変な人じゃないんだから!」と怒鳴る少女に「いや、すまない。俺もちょっと言いすぎたな」と四角い頭をへらへら下げる。
「……?」
 年長者に愛嬌を振りまくならともかく、何故フェイヤに愛想笑いなどするのだろう。アルフレッドは怪訝に眉を寄せた。男は更に掘っ立て小屋を指差して「折角会えたんだ。少し話さないか?」と一行を中へ促す。
「そうさせてもらおう。同胞からの誘いを断る理由はない」
 ジェレムが申し出を受けたのでトゥーネやフェイヤ、アルフレッドも老人の後に続いた。
 カロの所在を知るまたとないチャンスだ。よし、と気合を入れ直す。
 しかし結局中でカロの話をすることはなかった。待ち受ける新たな難問を、アルフレッドはすぐに目の当たりにすることになる。




 入口の低さに反して屋内は広かった。床板こそ張られていないが大人が五、六人ゆったりと足を伸ばせそうな土間がある。見たところ去年の薪を使いきり、今年はまだ伐採を始めていないという感じだ。木こり小屋という割に斧とか鉈といった道具はほとんど置かれていなかった。
「ふええ、ふえええ」
 突如響いた泣き声にアルフレッドはびくりと肩を跳ねさせる。一体なんだと思ったら中央の柱の陰で小さな男の子が涙ぐんでいた。まだ三つにもならなさそうな幼子だ。腰にはぐるりと縄が巻かれており、その一端は基柱にしっかり結びつけられている。
(び、びっくりした)
 心臓を押さえつつ薄暗い小屋の内部に目を凝らした。迷子紐かと思ったが、それにしては手触りの悪そうな荒縄だ。頭の形がそっくりだし、父親はさっきのロマだろう。母親はこの子を放って何をやっているのだろうか。そう思い、周囲を一瞥してみるもそれらしい女性は見当たらない。父子以外には他のロマもいなかった。
 アルフレッドがきょろきょろしている間にジェレムは土間にあぐらを掻く。老ロマに腕を引かれ、フェイヤがその横に腰を下ろした。
「顔を見せるのは初めてだったな。生まれて十年になった、フェイヤだ。名前はこの子の兄から貰った」
「……初めまして」
 露骨に不信を滲ませた上目遣いで少女は愛想のない挨拶をする。男のほうは「イヴェンドだ」と手短ながら笑顔で返した。
「あの坊主は?」
 ジェレムの視線が例の幼子に向けられるとイヴェンドと名乗ったロマは今頃気づいたような素振りで「ああ」と振り向く。そのまま彼は柱の隣に腰をかけ、嫌がる子供を無理矢理膝の上に乗せて老ロマ一行に披露した。
「こいつは息子のラクロ――だったが、少し前にシャボに改めた」
 へえ、改名の風習なんてあるのかとアルフレッドは興味深く聞き耳を立てる。だがすぐにそうではないということがわかった。ジェレムとトゥーネが揃って不審げに眉をしかめたからだ。
(うん? なんだこの空気?)
 状況を飲み込めないでいるアルフレッドにフェイヤがちょいちょいと手招きする。少女にこっそり「ラクロは『ロマじゃない男の子』って意味。シャボは『ロマの男の子』って意味だよ」と耳打ちされ、えっと幼子に目をやった。
「ふえええん」
 男の子は弱々しく泣きじゃくる。涙のために閉じられていた瞼が開いたその瞬間、視界に異なものが飛び込んでアルフレッドは瞠目した。
 瞳が青い。左右どちらも、普通のロマとは全然違うスカイブルーだ。
「どういうことだ?」
 問いかけたジェレムにイヴェンドは答えなかった。代わりに「さっきは無礼をしてすまない。俺とこの子をあんたたち一行に加えてもらえないか?」などと頼んでくる。
「そんな話はしてねえよ。どういうことだって聞いているんだ」
 強い語調で問い詰められ、男はうっと声を詰まらせた。しかし誤魔化しては何も進まないと判断してか、ぼそぼそと子供の出自を語り始める。
「シャボはパトリア人の女に生ませた……。だから目が青い……」
 返答にジェレムの表情は一段と厳しくなった。
「ラクロだったのをシャボにしたとか言ったが母親はどうしたんだ? 死んだのか?」
 老ロマは眼光鋭くイヴェンドをねめつける。冷や汗を垂らして背を丸め、男は勘弁してくれと言わんばかりだ。だがジェレムは追及の手を緩めなかった。
「おい、まさかとは思うがお前……」
 言い当てられそうになり、イヴェンドもついに観念する。彼は半ばやけくそで重大な犯罪行為があったことをぶちまけた。
「ああ、そうだ。母親はフエラリウスの街にいる。この子は俺が彼女のところから攫ってきた」
 衝撃的な告白にアルフレッドは息を飲む。攫ってきたとはどういうことだと我が耳を疑った。
 詰問するまでもなく男は言い訳を始める。ロマ狩りに遭って仲間が皆連れていかれてしまったこと、一族の血を絶やさないために一度は別れた妻子が必要になったこと、けれどパトリア人の彼女は旅立つのを拒んだこと。だから彼は強引に、子供だけ奪い去ってきたという。
「街の奴らはまだ誰も気づいてない。元々この子は家の奥に隠されてたみたいなんだ。だから……!」
 イヴェンドの発言にアルフレッドは思わず「だが母親は探し回ってるんじゃないのか?」と食ってかかった。関係ない奴はすっこんでろと言うように男はきつく睨んでくる。それでも余計な口を挟まずにはいられなかったが。
「その子だって家が恋しいはずだ。さっきからずっと泣いているじゃないか」
 そう言った後、アルフレッドはトゥーネやジェレムの反応を窺った。
 ロマは盗みに肯定的だ。余裕のある人間から分けてもらうのは当然のことと考えるのだ。その代わり金のあるときはけちらずに大盤振る舞いしてみせるし、所持品を壊された程度で怒ったり騒いだりしない。しかしこの場合はどうなるのだろう。
 元はラクロという名だったならこの子はそれまでパトリア人として暮らしていたということだ。ロマの問題に口出しするなと言われても、もし彼らがロマの理屈だけを押し通そうとするなら自分は――。
 幸いアルフレッドの憂慮はすぐに解消された。他でもないジェレムが「誰に生ませた子供だろうとロマとして育てるかどうか決めるのは母親だ」と言ってくれたからだ。
「お前のしたことはロマに相応しくない。シャボはラクロに戻してやれ」
 その声は初めて耳にする、賢人らしい落ち着きのある声だった。底意地悪く横暴な性格の目立つジェレムがこんな風に若いロマを諭すとは意外だ。モリスやトゥーネの口ぶりから、昔の彼が見事な男だったことは察していたが、今のジェレムにはその頃の片鱗が感じられる。残念ながらイヴェンドの胸には響かなかったようだったが。
「けどよ、母親が子供を不当に扱ってる場合はその限りじゃないだろ!?」
 もう開き直ることにしたらしく、彼は粘り強く主張してくる。声を張る父親の腕で男の子はまたしゃくり出した。片言さえ話せない幼子は見慣れぬ大人や荒っぽい言い合いに明らかに不安を増大させている。
「ほら、やっぱり家に帰してやったほうが……」
「これくらい女が抱けば泣きやむさ!」
 たしなめるアルフレッドの言葉をイヴェンドは撥ねつけた。「女が抱けば、ね」と前に出てきたトゥーネが子供を抱き上げる。しかし泣き声は一向に止まない。フェイヤの抱っこも無駄だった。しかし色の白いアルフレッドがあやしてやると、少しだけ落ち着いた様子を見せる。
「……お前には育てられないんじゃないか?」
 ジェレムに嘆息されるもイヴェンドは「この子は酷い扱いを受けてたんだ!」と頑なだった。曰く、女の手から子供をもぎ取ったとき、女の両親が「連れていかせろ!」「あれがいたんじゃ再婚もできないよ!」と女を押さえつけたそうだ。「今はまだ小さいからいいが、あの黒いのが大きくなって家の外にまで顔を出し始めたらどうするんだ!?」「家の蓄えもほとんど兵士に持ってかれたのに!」などという言葉も耳にしたそうだ。
「あんな家に帰したって子供が不幸になるだけさ! なあお嬢ちゃん、あんただって『片親がパトリア人なんだから街で暮らせ』と言われたら嫌だろう?」
 イヴェンドは同意を求めてフェイヤを惑わしにかかってくる。
「俺たちはたまにふらりとやって来る余所者でいたほうがいいんだよ! 連中と毎日顔を突き合わせて仲良くやっていくなんて無理だ!」
 そう訴えられ、今度はジェレムが返答に窮した。
「……それでも母親は無視できない。俺にも白い肌をした息子がいるが、母親に育てられないと言われたときはロマの一員として育てる決心はできていた」
 老ロマはきっぱりと言い切る。この台詞にアルフレッドはまたも驚かされた。今までは見えてこなかったジェレムの一面が、突然目の前に開けた気がして。
 恨んだり憎んだりするだけではないらしい。口汚いしひねくれているが、彼にも父親としての責任感や子供の幸せを考える心があるらしい。
「お前に全てを相手に任せる覚悟がなかっただけじゃないのか?」
 ジェレムは言う。イヴェンドの都合など妻子には無関係だ、と。
(ロマだからってなんでもかんでもロマの肩を持つわけじゃないんだな)
 そう実感し、アルフレッドはならばと静かに右手を挙げた。
「一つ提案があるんだが、いいか?」
 とにかく子供をこのままにはしておけない。自分もできる限り力になろう。
「一方の言い分だけを鵜呑みにして考えるのは間違いのもとだ。一人の人生がかかっているんだし、ここは公平な話し合いの場を設けるべきじゃないか?」
 アルフレッドは俺が母親を連れてくる、と宣言した。イヴェンドは断固拒絶しようとしたが、フェイヤとトゥーネに「逃げるつもり?」「息子のためだよ!」と迫られて頷かざるを得なくなる。
 珍しくジェレムもアクアレイア人のくせに出しゃばるなとは言わなかった。彼もまた泣きじゃくる幼子の今後を案じているようだ。
 口元を引き締めて、アルフレッドは老ロマに向き直った。
「問題なければすぐにでも行く。フエラリウスまでの道を教えてくれるか?」




 ******




 そんなわけでアルフレッドは単身フエラリウスの街にやって来た。他の面々を掘っ立て小屋に置いてきたのはロマが誘拐犯として手配されている可能性があったからだ。
 だがそんな気遣いは無用だったかもしれない。今のフエラリウスは犯罪者を捕まえる余力など持ち合わせていそうになかった。
「……酷いな……」
 ぼろぼろの小都市を見上げ、ぽつりとこぼす。大きな戦闘があったとは耳にしていたが、予想以上の惨状だった。城壁は穴だらけ、兵の姿はどこにもない。これならイヴェンドが忍び込むのも造作なかったはずである。
 元は騎士物語に登場したのと同じ、古風な石造りの城塞都市だったのだろう。崩れ落ちた望楼や胸壁の残骸は、今は重たく街にのしかかっていた。市民らは虚ろな表情で積み上がった瓦礫の隙間を縫って歩く。井戸は生きているらしく、なんとか日々を凌げているようだ。しかし中には荷車に家財道具を詰め込んで街を去ろうとする者たちもいた。
 ふと目を上げれば道の前方で一筋煙が昇っているのに気づく。行ってみると緋色の衣の神官や若い下級聖職者らが広場で炊き出し中だった。周囲には椀を持つ人々が長蛇の列を作っている。腹をすかせた彼らには鍋しか目に入らない様子だ。
 アルフレッドは辺りを見渡し、既に恵みを頂戴した人間を探した。暗がりでスープを啜る四人家族に近づいて「すまない、ちょっと聞きたいことがあるんだが」と声をかける。
「あ? なんだてめえは?」
「俺は旅の者だ。実はこの街に住む、ある女性のことを教えてほしいんだ」
 髭の濃い家長に答えつつウェルス銀貨を一枚差し出す。男ははたと黙り込み、次いで何食わぬ顔で謝礼をポケットに突っ込んだ。
「……どこの家のなんて女だ?」
 アルフレッドは西門の脇に立つ古い一軒家の特徴を伝える。シャボ――いやラクロの母親、ともかくイヴェンドの元妻が暮らす家だ。石造りの外観や近所に聖堂があることを話すと一家は「ああ、マチルダか」と腕を組み直した。
「あそこのお宅は親切な人ばかりよ。マチルダさんも、明るくて、男の人にもはっきりものを言えるし、とても頼りになるわ」
 最初に答えてくれたのは若い娘だ。街の集まりで何度か面倒を見てもらったという彼女はマチルダについて更に詳しい情報をくれた。なんでも代々神殿に聖像や聖印を奉納している職人の娘で、裕福とまではいかずとも何不自由ない暮らしを送っているらしい。
「まあまあ器量良しなんだがね、コブつきだから貰い手がないんだ」
 次に答えてくれたのは「とんでもない親不孝者さ」と肩をすくめる母親だ。子供の存在を匂わされたのでアルフレッドは「コブつき?」と素知らぬふりで問い返した。
「あんたさ、偉い殿方の命令であの娘の身辺調査をしてるのかい? だったら見初めたお相手さんには気の毒なこった。コブもコブ、薄気味悪いロマのガキだよ」
 彼女はこちらを貴族の家来か何かだと思い込んでいるようだったが、そこは特に否定せず話を続ける。「ははあ、そういう事情か」と早合点した一家は一気に饒舌になった。
「そう、そのロマの男ともまだ切れてねえみたいだぜ。この一ヶ月近く、街の側をウロウロしてやがったんだ。あれは絶対マチルダと会ってたに違いないね」
「俺も見た! 婚前の友達なんて、自分の恋人までたぶらかされるんじゃないかって気が気じゃなさそうだったよ。ロマってのはものすごい美声だからな。どうせなら奔放な女が来てくれりゃ歓迎したのに」
 父親がぺらぺら喋り出すと黙って見ていた息子も輪に加わってくる。初めはマチルダに好意的に見えた娘もロマの話題が出た途端、「ロマなんか捨てたって別に罪にもならないでしょうにねえ。仲良くしてる人たち皆、そこだけは本当に嫌がってるの」と眉をしかめた。
 どうやらマチルダが余所者の子を産んだことは街中に知られているようだ。しかも受け入れられている雰囲気ではない。「自分の腹からあんな黒いのが出てきて平気でいるなんて信じられない女だ」と彼らは一様に吐き捨てた。
「血が混ざりあうとろくなことがない。あんなガキがいるからこの街もこんな目に遭ったりするのさ」
 恨みがましく嘆く母親にアルフレッドはつい「領主たちのいざこざとロマは関係ないんじゃないか」と言ってしまう。迷信深さを注意され、彼女はキッと目を吊り上げた。
「いいや、本当にろくなことがないんだ。北のほうじゃ家畜や獣を犯した馬鹿がいるそうでね、夜な夜な人の顔をした化け物が出ると聞くよ」
 今度は怪談か、と嘆息する。北パトリアは船の行き来する都市以外、どこも百年遅れていると小耳に挟んだ覚えはあるが、これがかの賢明なプリンセス・オプリガーティオの治める民かと思うとつらくなってくる。現実と虚構を混ぜこぜに考えるなど、それこそ無教養な者の犯す過ちだけれど。
「ロマが家畜や獣と同じに見えるのか?」
 諭そうとするアルフレッドに家長は「なんだよ、あんた連中を庇うのか?」と舌打ちした。父親がこちらに背を向けるや否や、一家はつんとそっぽを向く。もう関わる気もなくしたらしい。アルフレッドは礼だけ告げて踵を返した。
 広場に戻ったアルフレッドは目立たぬように主婦や老人、若者や子供たちにそれとなく同じ話を振ってみた。だが反応は先刻の四人家族と大差ない。確かにこの街はロマの子供に優しくなさそうだなと感じる。
(でも俺だって、優しい街で育ったわけじゃないぞ)
 アルフレッドは己の幼少期に思いを馳せた。散々叩かれた陰口も、涙が出るほどの情けなさも、まだはっきりと思い出せる。生きづらい日々の中でも友達はできたこと、そして夢を見つけられたことも。
(幸不幸は環境だけで決まるものじゃないよな)
 第三者として冷静に子供の置かれた状況を見極めるつもりだったが、噂話を聞いたくらいでは答えなど出なさそうだった。寄り道はやめにしてマチルダの家に向かうことにする。
 暗くなってきたし急がなければ。そう思いつつ細い通りの角を曲がったときだった。大柄な、旅行者らしき厚化粧の女にぶつかったのは。

「やーん、大丈夫だった?」

 低音の声にぎょっとする。ばちんと熱いウィンクを送られ、アルフレッドは仰け反ったまま硬直した。
「ごめんなさいねえ、すーぐどっか行っちゃう連れがまたいなくなったから、キョロキョロしちゃって前方不注意だったわあ」
 女はシナを作って詫びてくる。女――いや、これは女装の男かもしれない。顔立ちは整っているものの、顎の産毛が濃すぎるし、頬に添わせた手はごつく、パフスリーブのロングドレスでも隠せないほど身体つきががっしりしている。
「だ、大丈夫だ。そちらは?」
 動揺を隠して問うと「あたし? あたしはタイプのお兄さんと触れ合えて、逆にハッピーよ」と彼女は頬を染めた。どうリアクションしていいかわからずに「なら良かった」とだけ返す。
「怪我がなくて安心した。こちらも以後気をつける」
「うふっ、ご丁寧にありがと」
 すごいインパクトの女性だな、と圧倒されつつ会釈して別れた。パトリア語のイントネーションも訛りのせいで習いたてのように独特で、肌の色が違ったら東方人と間違えていたかもしれない。
(なんにせよ、旅人がやって来るようになれば街の活気も回復してくる。早くオプリガーティオに相応しい都市が甦ってくれるといいな)
 アルフレッドは今度こそマチルダのもとに歩き出した。三つある街門のうち、一番小さな西門に近いのが彼女の家だ。
 同居の両親に見つかると連れ出すのが難しくなりそうなので、家の裏の栗の木に恋人たちが逢引き用に使っていたハンカチを結わえつける。あとは目印に気づいたマチルダが街外れまで出てきてくれるのを待つだけだった。
(ロマとパトリア人の子か。いつの時代もハーフは苦労させられるな)
 レイモンドも親の浅慮を嘆いていたっけと思い返す。幼馴染がアクアレイアの国籍を得るまでどれほどの試練があったか知れない。簡単な話ではないのだ。帰属する場所を選ぶことも、実際にそこで生きていくことも。
(生まれてきた以上は幸せになってほしいな)
 沈みゆく夕日を見送りながらアルフレッドは切石の家を後にした。




 ふんふんと鼻歌まじりにウァーリは剥がれた石畳を避けつつ歩く。さっきの赤髪の男の子、太い眉毛が生真面目そうで可愛かったわと思い出すにつけ頬が緩んだ。
(ああいう子って一途だし、からかうと照れるし面白いのよねえ)
 ジーアン十将にはいないタイプ、とニンマリする。蛇と猫はまだ尻が青いし、虎は情緒がなさすぎるし、狐に至っては嗜虐趣味、熊にも龍にも狸にも猿にもどうにも食指が動かない。やはり身内より外の男だ。堅物の若者を手練手管で篭絡するのがこの世で最も楽しい恋愛の一つなのだ。
「おい」
 と、空気を読まない狼が浮かれ気分に水を差してくる。声のしたほうに目をやってウァーリはぷうと頬を膨らませた。
「ちょっと、あんたどこ行ってたの? か弱い乙女をほったらかして!」
 こちらの不満など意に介した風もなく、すらりとしたパトリア人男性の肉体に入ったダレエンは「妙な噂が耳に入ったんでな。少し聞き込みしていた」と広場の一角を顎で示す。立っていたのは感じの悪い四人家族だ。なんでも彼らの話によれば、北のなんとかという街で恐ろしい怪物が目撃されたとのことである。
「人の顔をしたグリズリーだとか、頭を三つも持つ野犬だとか、楽しげな相手だろう?」
 そう問われ、ウァーリはがっくり肩を落とした。興味が湧くのはいいことだけれど、もう少し今がどんなときか考えてくれないものか、この獣頭は。
「あのねえ、あたしたち遊びにきたんじゃないのよ? 道草食ってる暇なんかないんだからね」
 苦言を呈するウァーリに対し、ダレエンは「もちろんそうだ。だがちょうど通りがかりそうな場所だったのでな」といつものマイペースで地図を広げる。「ここだ、ここ」と強引に覗き込まされて頭が痛くなってきた。本当に、蟲がいつ寿命を迎えてもおかしくないということをわかっているとは思えない自由ぶりだ。
 まあいいわとウァーリは説教を諦めて子牛皮の地図に目を落とした。見ればダレエンの立ち寄りたがっている街はディラン・ストーンが向かったと思しき大学都市のすぐ隣に位置している。これなら一日そこで休むくらいはできそうだった。
「だけど遊んでる場合じゃなくなってるかもしれないわよ、この辺りまで辿り着いたら」
 気を引きしめてかからなきゃとウァーリはダレエンに言い聞かせる。
 ハイランバオスは底の見えない男だ。天帝とは別種の威圧感がある。偵察に飛ばした部下からも「アイリーンを見た」という報告が入っているし、油断はできない。
「あまりガチガチに緊張するのも良くないだろう。本格的に対峙する前に身体はほぐしておくべきだ」
「そうねえ、それはまあ異論ないけど」
 果たしてあと何日かかるのやら、と地図に溜め息を落とす。夜は物騒だから宿に泊まらぬわけにいかないし、少なく見積もっても半月は要しそうだ。
「お前が馬を盗まれなければもっと早く進めたのにな」
 ストレートな物言いが心臓に突き刺さる。
「ちょ、ちょっと寝ぼけてただけよ! 草原ではいつも野放しだったでしょ!」
 言い逃れしようとするウァーリにダレエンはまるで聞く耳を持たなかった。百年に一度の真面目くさった面持ちで「まったく、お前は俺たちがいつ寿命を迎えてもおかしくないとわかっているのか?」などと非難してくる。
「うう、あたしが悪かったってば!」
 半べその謝罪でウァーリは無理矢理話題を終わらせた。せめて馬車を捕まえられればいいのだが、街がこの惨状では望むべくもないだろう。ああ、だから不慣れな土地は嫌なのだ。
 胸中で文句を垂れつつウァーリは今夜の宿を求めて大通りを歩き出した。




 ******




 待ち人が現れたのは深夜のこと。誰かが枝を踏む音を聞き、アルフレッドは面を上げた。
 ランタンも持たず、街外れの木立へと忍んできたのは二十歳くらいの細身のブロンド女性である。月明かりが彼女の強張った顔を照らし出していた。勝気そうな目をきょろきょろさせて、女は一番太いオークの側までやって来る。
「あなたがマチルダさんか?」
「ッ!」
 なるべく驚かせないように声をかけた。だが彼女は見知らぬ男の姿に臆して後ずさりする。そのまま身を翻して逃げようとするのでアルフレッドは慌てて彼女を呼び止めた。
「待ってくれ! 大丈夫だ、怪しい者じゃない。俺は旅のアクアレイア人で、アルフレッド・ハートフィールドという者だ」
 両手を上げて害意がないことを示す。マチルダはその場に留まってくれたが「どうしてアクアレイアの方が私の名前を?」と問う声は警戒心に満ちていた。さっさと本題に入ったほうが良さそうだなとアルフレッドは話を切り出す。
「イヴェンドというロマに聞いた。もしまだ彼と息子さんに会う気があるなら案内させてもらうつもりだ」
 申し出にマチルダは青い目を見開いた。
「二人がどこにいるか知ってるの!?」
 途端彼女の顔つきが鬼気迫ったものになる。目の下の隈も、痩せこけた頬も、疲労よりは寧ろ執念を感じさせた。「あの子は酷いことをされてないでしょうね?」と必死の形相で尋ねられ、アルフレッドは少々たじろぐ。紐で繋がれた幼子を思い浮かべつつ「まあ殴られてはいないかと」と口ごもり気味に答えた。
「会わせて! 早くラクロを返して!」
 マチルダは長いブロンドを振り乱して詰め寄ってくる。わかった、わかったとアルフレッドは彼女をなだめ、「この街にいるわけじゃない」と押し返した。
「街道沿いにオークの森があるだろう? そこの木こり小屋にいるんだ」
 そう告げるとまた不審そうな目を向けられる。「嘘をついて、私を人さらいに売りつける気じゃないでしょうね」という顔だ。まあ普通は信用しないよな、とアルフレッドは男の子のつけていたキルトのよだれかけを差し出した。
「あなたとイヴェンド、どちらが子供を引き取るかは話し合いで解決してくれ。俺は事情があって別のロマと一緒に旅をしているんだ。たまたまイヴェンドがあなたから子供を攫ったことを知り、捨て置けなくてここに来た。あらかじめ断っておくが、俺はあなたを案内する以上の助けにはなれない。だが俺も連れのロマたちも特にイヴェンドの味方ではないから、そこは安心してほしい」
 アルフレッドの説明にマチルダは眉を寄せた。「あの子を返してくれるんじゃないの?」と彼女は不満げだ。だがこちらが「イヴェンドは家の中に押し込められている息子が可哀想だと言っていたよ。向こうの言い分も聞いてやるべきなんじゃないか?」と返すと黙り込む。
「……この街で一緒に暮らそうって言っても聞かなかったくせに、今更……!」
 愛憎入り混じる響きでマチルダは吐き捨てた。小さく嘆息し、アルフレッドは「行こう」と暗い夜道を先導する。
(本当に、子供が可哀想だな)
 呟きは喉奥に飲み込んだ。通りすがりの人間の同情心など何にもならない。自分にできるのは彼女を案内してやること、そしてせめて子供の立場から夫婦の決着を見守ることだけである。




 ******




「アルフレッド遅いね」とフェイヤが何度も心配そうに小屋の表を覗き見る。「そんなに心配しなくてもちゃんと帰ってくるよ」とたしなめるのは水晶玉を磨くトゥーネだ。渦中の子供は泣きくたびれて柱にもたれて横で眠っていた。その父親はというと「こっちが正しいのは明らかなのに、なんだって話し合いなんかしなきゃいけないんだ」とぶつくさこぼしている。
 ジェレムは立てた片膝に肘を置き、静かにイヴェンドに目をやった。すると彼はハッと背筋を伸ばして座り直す。
 初めはこちらを軽んじていたはずなのに「お前に全てを相手に任せる覚悟がなかっただけじゃないのか?」と聞いてから、イヴェンドは明らかにジェレムに気後れしていた。或いは畏怖の念を抱いていると言えるかもしれない。そう、この態度はかつて仲間に向けられていたのと同じ、偉大なロマに対するものであった。
 おかしな話だ。自分はついこの間、トゥーネやモリスに「ロマらしくない」と嘆かれたところなのに。
(説教したつもりはないんだがな)
 萎縮したイヴェンドから目を逸らす。
 偉そうに何か言える人間ではもうなかった。尊敬されていたのも遠い昔だ。父と肩を並べる男でありたいと願い、行動できていた頃の。
 だが自分は道を踏み外した。ロマとして、してはならないことをした。そのために多くの仲間が犠牲になり、今では三人きりになってしまったのだから。
 罪には罰が与えられる。それでもトゥーネとフェイヤはなんとか守りたいと思っていたが、二人の心はすっかりあの騎士に惹かれているし、どうあってもアクアレイア人に寛容になれない己は見捨てられたも同然だろう。
 これが報いかと薄く笑った。何もかも失うさだめならもっと好きに生きれば良かったな、と。
「あっ、アルフレッドだ!」
 フェイヤが扉を開けたのはそのときだった。がさがさと茂みを掻き分ける音がして、間もなく騎士が一人のパトリア人を連れて入ってくる。
「遅くなってすまない。さあ、どうぞ奥に」
 通されたのは嫌な目つきの女だった。カロを育ててほしいとホリーに頼みに行ったとき、同じ眼差しに出会ったことを思い出す。剣を売り飛ばされた直後のアルフレッドもこんな眼光を宿していた。いつの間にかあの男は元に戻っていたけれど。
「……!」
 マチルダが踏み込んでくるとイヴェンドはさっと我が子を抱き上げた。「絶対に返さないぞ」と敵意剥き出しで彼は元妻を睨みつける。マチルダも負けてはいなかった。彼女はキッと目尻を吊り上げ、「渡しなさい!」と腕を突き出した。
 早くも修羅場の始まりだ。なお悪いことに大声と振動で幼子が目を覚ます。寝ぼけまなこに母を見つけ、男児は火がついたように泣き出した。
「うああああああああん! うああああああああん!」
 父母以外、全員両手で耳を押さえた。凄まじい騒音だ。鼓膜が震えてびりりと痛む。
 腕に凶器を抱いたイヴェンドはなんとか落ち着かせようと試みたが、母親を求めてもがく腕に顎を殴られて情けなくも返り討ちにされていた。そんな元夫にマチルダは早く子供を返せと繰り返す。
「この泣き声が聞こえないの!? 可哀想だと思わないなんて父親じゃないわ!」
 もっともな罵倒にイヴェンドは唇を噛み、渋々彼女に赤ん坊を差し出した。しかしその手は腰に巻きつけた荒縄までは放そうとしない。「ほどきなさいよ! 痛がってるじゃない!」と言われても擦り傷になっているのがわかるまで彼は要求を飲まなかった。
「うう、子供が泣き止んだからってあいつが正しいなんて思わないでくれよ? 俺だって時間をかければシャボに父親だとわかってもらえるはずなんだ!」
 そうイヴェンドはジェレムに訴える。どうやら己はこの一件の調停者に任じられたらしい。ジェレムはわかったと頷いてやり、興奮状態の女に向き直った。
「どうしてここに呼ばれたかはわかっているか?」
「そいつか私、どっちがラクロを育てるか決めるためでしょう? だけどどう脅されたって絶対に譲らないから!」
 マチルダは好戦的な返事を寄越す。子を奪うなら我が屍を踏み越えていけという顔だ。彼女を冷静にさせるべく、普通はどうするか教えてやる。
「ロマの掟では子供の処遇はその母親に一任するものとされている」
「じゃあ私が連れて帰っても……!」
 喜色を示すマチルダにジェレムは首を横に振った。
「だがお前はこの子を家の奥に隠しているそうだな。お前の親もロマを邪魔者扱いしていたと聞くし、正直子供を返すべきかわからない。だから話し合ってもらうことにした。お前が息子をひとかどの人間に育てられると証明できればそれでいいし、逆にイヴェンドはお前じゃいけないということを証明しなきゃならん。俺たちは立会人として中立を貫く。わかったら存分にやり合え」
 ひと息に言い聞かせ、ジェレムはイヴェンドを振り返る。「お前もいいな?」との問いに彼はこくりと頷いた。
「――……」
 しばしの間、父母は無言で火花を散らし合う。先に沈黙を破ったのは自信があるらしきマチルダだった。
「子供がこっちを選んでるのに、他にまだ理由がいるの? 私がこの数日間、どんな思いでいたかわかる?」
「その年齢じゃ母親にしがみつくのも無理ないだろう。分別がつけばこの子にだってどっちが自分の本当の仲間かわかるようになるさ!」
 対するイヴェンドも徹底抗戦の構えである。握り拳をちらつかせ、彼は暴力的な脅しさえかけた。
 シャボとしてもラクロとしても望まれるなんてあの子は幸せな子供だな、とジェレムはひとりごちる。
 ホリーに息子の養育を断られた後、ジェレムが再びカロを連れて帰ってきたときの非難は凄まじいものだった。面倒を見るのも押し付け合いで、殺せだのなんだの騒ぐ者もいざ武器を取ると怖気づいて。自然とカロは放置されるようになった。仲間たちは赤子を袋に提げて歩くジェレムをも遠巻きにした。
 邪視は全ての災いの源。孤独を、苦痛を、喪失を、その視線で撒き散らす。カロが物心つく頃にはジェレム自らも距離を置いた。父と呼ばせたことは一度もない。優しさは見せず、嘲笑うことで勇気を示し、皆に災いを近づかせまいと努めて。それでようやく仲間も納得してくれたのだ。ジェレムはカロをロマとは認めていないのだなと。
「私にはロマの生活がいいものだと思えないけど?」
 冷たい女の声が響く。
「俺にはパトリア人の生活が気詰まりとしか思えないよ」
 イヴェンドが言い返すと反論は即座になされた。
「少なくとも街で暮らせば飢えることも人狩りに遭うこともないわ!」
 だがイヴェンドは物ともせずに一蹴する。
「隣の領主に攻撃されて皆ヒイヒイ言ってるくせに! お前の両親が死んだらお前たちの世話は誰がしてくれるんだ? 金がなくなりゃお前らだってロマの真似事を始めるんじゃないのか?」
 これには一瞬マチルダも声を詰まらせた。
「た、確かに今は余裕がないけど、二人で食べていくくらいなんとかするわよ!」
 語気を強め、言い負かされてなるものかと彼女は父親の性格を責める。
「一度は任せたと言ったくせに、潔くないんじゃない? 本当に嘘つきね!」
 今度はイヴェンドがたじろいだ。ロマの世界では信頼する者同士で交わした誓いや約束は絶対だ。しどろもどろに彼は言い訳を始めた。
「し、仕方ないだろ。俺だって仲間を皆失う羽目になるなんて思わなかったんだ」
 こう聞いてマチルダは真っ赤になって怒り出す。
「減った人数を増やしたいだけならこの子じゃなくてもいいじゃない! 私は私の子供だから愛しいのよ! 一緒にいたいし手離したくないの!」
 だがイヴェンドも彼女の言い分に腹を立てたらしかった。
「愛しいだと? ずっとこそこそ育ててるくせに偉そうに。知ってるんだぞ、俺だって子供が幸せにやってるなら連れていくのは不憫だと思って色々調べたんだ! 街の連中はロマにいい感情を持ってない。結局奴らは肌の色しか見てないんだ! 何年街で暮らそうと、この子が本当に受け入れられることはないね。子供と離れたくないっていうお前の身勝手が結局この子を一番不幸にするんじゃないのか!?」
 イヴェンドの言葉にマチルダは絶句する。愛情が枷になっているという指摘は彼女に多大なショックを与えたようだった。
「なっ……! だから連れていくのを認めろって言いたいの!? ロマの子になったって別の不幸がつきまとうだけじゃない! いつもロマ狩りにビクビクして、雨に打たれて、寒さに震えて、どこへ行っても早く余所の街へ行けって言われてさ、それで最後はあんたみたいな男になるだけなのよ!?」
「ずっと家の中しか知らずに生きるよりましさ!」
「外に出さないのはこの子を守るためなの! 石をぶつけられたり笑われたりしないように! 私だって本当は街を見せてあげたいわ!」
「あげたいだけじゃ全然駄目だ! お前はこの子に何もしてやれてない!」
「そんなことない! そうよ、この子がもう少し大きくなれば一緒に出かけてみようと思ってるわ! それで満足!?」
「そして街中に蔑まれて家に逆戻りするんだろ!?」
「しないわよ! 適当なこと言わないで、人さらいのドブネズミ!」
「なんだとこの性悪!」
 舌戦はやまない。口論は次第に罵り合いじみてくる。
 そのとき熱くなったイヴェンドがアルフレッドに「おい、お前! 街でロマの子供がどう思われてるか聞いてきたんだろ? この女に現実を教えてやってくれ!」と頼んだ。入口の脇に立っていた騎士は神妙な面持ちでイヴェンドとマチルダを見やる。その視線は最後に母の腕で怯えている幼子に向けられた。
「……俺の耳にした限りでは、ロマとの混血児は不吉とされて、煙たがられている様子ではあった」
 アルフレッドの報告にイヴェンドは「ほら!」という顔をしてみせる。得意になって彼はマチルダに勝利を宣言しようとしたが、騎士の言葉はまだ続いていた。
「ただまあ、混血児が災いを招くなんて迷信に過ぎないからな。東パトリアの新女帝はロマと同じ褐色肌だが、それでもノウァパトリアは聖王の血統を守るパトリア古王国以上に繁栄を極めている。あそこの都は本当にすごいぞ。世界中からありとあらゆる人間と商品が集まってくるんだ。貴族も船乗りも学者も芸術家も胡椒も砂糖も絹も宝石も。街の人だってそういう具体例を知れば無闇に悪い悪いとは思い込まなくなると思う」
 イヴェンドはぽかんと目を丸くする。マチルダも「えっ、そうなの!?」と驚愕の声を上げた。
 騎士曰く、昔はアクアレイアでも皮膚や頭髪が真っ白な赤ん坊が生まれると悪いことが起きると信じられていたそうだ。だが大海に漕ぎ出すようになった国民は、やがて地域によってそれは神の子と見なされているとか、普通の子供と一緒くたに扱われているとか、逆に自分たちがありふれた存在と考えていた双子や三つ子のほうが恐れられているとか、多くの事例を知るうちに「真っ白な子供が不吉という説にはなんら根拠がない」と気づき始めたとのことである。
「例えばあんたが嫌がっていた左右色違いの目も、土地によっては精霊からの賜りものだと重んじられている。毎日怪我人や病人、老人がやって来て拝むんだそうだ。黄金の目に薬効があると信じて」
「――はあ?」
 まったく予期せぬ言葉が飛び出し、ジェレムはつい声を荒らげた。調停者の役目も忘れて話に割り込んでしまう。
「黄金の目が邪視じゃないだと? そんなわけあるかよ」
 そう突っかかるとアルフレッドは慌てた様子もなく返した。
「うちは薬屋だからな。あちこちの民間療法を勉強したんだ」
 その口ぶりがあまりにも普通すぎて困惑する。これまで邪視を恐れなかった者は誰一人としていないのに。
 ジェレムの動揺には気づかず、アルフレッドはまた話を本題に戻した。騎士はイヴェンドたちをひと睨みして「ところで一つ聞きたいんだが」と鋭く問いかける。
「な、なんだ?」
 身構えた白黒の男女は続く台詞に揃って顔色を失った。
「あんたたち、そもそも生まれてくる子のことを考えたうえで同じ床に入ったのか?」
 アルフレッドは硬直する二人を見つめ、冷ややかな沈黙でもって返答を待つ。
「いや、その、お、俺は、子供のことはできてから考えりゃいいかなと……」
 答える途中で居た堪れなくなってイヴェンドは目を逸らした。なんて馬鹿な男だとジェレムは深く嘆息する。だが正直に愚か者だったことを白状しただけまだましか。
 マチルダのほうは「真剣に考え始めたのは身ごもってからだけど、どんな子が生まれてきても決して側から離さないと決めていたわ」ときっぱり告げた。
「街の人たちがなんて言ったって関係ない。私はラクロを裏切らないし、一生ラクロを守っていく。それが母親というものでしょ?」
 だがこの答えにアルフレッドは賛同の意を示さなかった。むしろ先程よりも神妙な響きで厳しい言葉を投げ返す。
「ならもしも街で育てている間、あなたに何かあったときは、この子は敵地にひとりぼっちで取り残されるんだな」
「……!」
 マチルダは何も言い返せなかった。死はいつどんな形で訪れるかわからない。たとえ彼女が我が子を置いて死ぬことはないと誓ったとしても、それは単なる願望でしかなかった。
「あなたの愛情深さを否定する気はないが、あなたが本当に子供のために行動できているとは俺には思えない」
 ほぼ直接的に考えが浅いと非難され、マチルダは頬を真っ赤にして震える。見かねたトゥーネが「あんたが街を出て親子三人で旅するのが一番いいんじゃないかい?」と聞くと、彼女は「私はロマじゃない!」と首を振った。
「私はロマの音楽が好きだしいいところも知ってるけど、そうじゃない人間のほうが多いってことも知ってるのよ……!」
 マチルダは旅に出たくない理由を訴える。不快感を露わにし、イヴェンドは元妻を睨んだ。
「我が子の苦労と自分の苦労を天秤にかけて、我が子に苦労させる道を選んだってことか?」
「そうじゃないわ。さっきも言ったけど、ロマとして生きるにしてもこの街で生きるにしても、どうせ苦労するなら母親の側がいいって思ったのよ!」
「だからお前が俺と来ればこいつも母親と別れずに……」
「そんなこと言うけどロマはパトリア人の私を仲間として受け入れられるの? もし旅先で捨てていかれたら、私は息子だけじゃなく帰る場所まで失うのよ! そんなの耐えられないわ!」
 マチルダの主張にイヴェンドの怒りが爆発する。「今まさにそのひとりぼっちなんだよ、俺は!」と彼は大声で怒鳴りつけた。
「誰でもいいわけじゃない! 俺だって血を分けた息子だから引き取りたいんだ! 一族の血を、先祖を弔う歌を絶やしたくないってことが何故わからないんだ!?」
「それじゃ別の女を作ったらどう!?」
「仲間の女は皆連れていかれたし、ロマを相手にするような破天荒な奴はお前くらいしかいなかったよ!」
「そこに女の子がいるじゃない! あと四年もすればいくらでも産めるようになるわよ!」
「ああそうだな、あの子はシャボの嫁さん候補だけどな!」
 激しさを増す応酬に気づけば間に挟まれた子供が泣き出している。さっきは取り合いになるほど愛されて幸せだなと思った幼子は、今やまったく正反対の不幸な人物に見え始めていた。
 イヴェンドもマチルダも親として純粋な愛情だけ持っているのではなさそうだ。今になって息子が惜しくなったイヴェンドは虫が良すぎるし、マチルダも子供の都合よりは自分の都合を優先している節がある。二人とも今までの生活を変えたくないのだ。幼子は両側から二人に引き回されている。
「大体あんたが最初から私の頼んだ通り街に住んでくれていれば良かったのよ。ラクロと自分を秤にかけてラクロに別れを告げたのはあんたじゃない!」
 マチルダはそう声を張り、「あんたが街で働き口を見つけてくれるなら仲直りしてもいいのよ? できっこないでしょうけど!」と鼻で笑った。
「旅をしないロマなんてロマじゃない! 俺に誇りを捨てろってのか!」
 猛反発するイヴェンドに「じゃあ街を捨てられない私のことも悪く言わないで!」と女は怒号を響かせる。そこに子供の絶叫が加わり、木こり小屋は酷い騒々しさだった。
「よしよし、大丈夫だからねえ」
 と、隙間から腕を伸ばしたフェイヤが幼子の手を握る。そこで父母は我が子の号泣にはたと気がつき、いがみ合いをぴたりと止めた。
 少女が「いい子、いい子」と撫でてやっても子供はむずがるのをやめない。大人たちに運命を委ねるしかない小さき者を憐れんでフェイヤはこちらに助けを求めた。
「ねえジェレム、この子が幸せになる方法はないの?」
 ジェレムはしばし沈黙する。簡単には答えられそうもなかった。
 幸せになどなりようもない境遇に生まれつく人間は存在する。カロがまさにそうだった。アルフレッドは邪視を迷信だと言うが、実際カロが生まれてから様々な不幸が起こったし、皆あの黄金に怯えていた。
 悲しいが、どうしようもないことなのだ。目玉を入れ替えることができないように、子供の肌を白くしてやることはできない。母親の愛を受けてパトリア人の蔑みの中を生きるか、母親の温もりを失ってロマとともに漂泊に生きるか、二つに一つしか選べない。
「…………」
 フェイヤに伝える優しい言葉が見つからず、ジェレムはただ首を横に振ろうとした。だがそこで、またしてもアルフレッドが妙なことを言い出す。
「幸せなんて子供が勝手に探し始めるさ。親が邪魔さえしなければ」
 ――そんな意味不明なことを。




 たとえ赤の他人であっても夫婦喧嘩の金切り声を耳にするのは嫌なものだ。アルフレッドはそう胸中に呟いた。どうしても古い記憶の扉が開き、無関心でいられなくなる。
 子供は勝手に自分の幸せを探し始めると言ったのは己の過去を思い返しての台詞だった。母ローズは子供の教育に手を抜かなかったけれど、人々の心ない詮索や邪推から守ってはくれなかった。それはどんなに愛が深くても不可能なことだったからだ。母がアルフレッドにしてくれたのは固く門戸を閉ざすことではなく、アルフレッドが己の道を見つけるまで家庭に安らげる場所を作り、外へ送り出し、じっと見守ることだった。
 ブラッドリーのようになりたい、サー・トレランティアのような騎士になりたい。人生の目標が定まったとき、アルフレッドは後ろ指をさされても人前に出ることを恐れなくなった。自分の不幸がどうしようもないものだと思わなくなったから。
「守られすぎると弱くなる。今はこの子にも親の愛が必要だろうが、パトリア人として生きる道も、ロマとして生きる道も、他の何かになる道もあるんだと示してやれれば暗い時代が過ぎるまで耐えることはできるんじゃないのか」
 イヴェンドとマチルダはどういうことだと顔を見合わせる。胸の深くの言葉を汲んで、アルフレッドは思うまま話し続けた。
「自分の生き方くらい、この子が大きくなったとき自分で決めると言っている。問題は選択の自由があるか、選択する精神を持っているかどうかだ。その二つさえあれば子供は自分が幸せになれそうな道を歩いていくよ。父親を選ぶかもしれないし、母親を選ぶかもしれない。どちらも選ばず気の合う友達や恋人と別天地を目指すかもしれない。常に狩りを警戒しなければならないのも、常に誹謗中傷を浴びせられなければならないのも、どちらも幸せではないだろうが、そんなことを言い争うよりあんたたちがしてやるべきなのは、子供に不幸から脱却する力を与えることなんじゃないのか? ――そういう話が一切出てきていないのがこの子の一番の不幸だと思う」
 屋内がしんと静まり返る。アルフレッドは動じて固まった二人の顔をじっと見つめた。
 耳の奥には幼い頃のレイモンドの声が甦っていた。「俺も父親クズなんだ」とぎこちない笑みを浮かべていた。出自や階級にこだわらず、己を騎士に任じてくれたルディアの「今しばらく私に付き合ってもらうぞ」という声も。
「いつか自分と同じ苦しみを抱く誰かに出会える日も来るだろう。迷信なんかに惑わされずに信じてくれる誰かにも出会えるかもしれない。その未来のために今どうするべきか話し合わないでどうするんだ? それともこの子はあんたたちの願望を満たす道具に過ぎないのか?」
 問いかけにマチルダは小さく肩を震わせた。イヴェンドも気まずそうに息子を見やる。
 言いたいことは言ったのでアルフレッドは大人しく外野に引っ込んだ。最終的な決定権を持つのは彼らだし、子供のために骨を折るのも彼らだというのはわかっていた。
「……なあジェレム、あんたはどう思う? この子が大きくなったとき、ロマとして旅立つことを決めてくれたとして、ずっと一人でいたロマが正しいロマになれると思うか?」
 と、イヴェンドが老人に問う。ジェレムは皺深い顔に複雑な表情を浮かべて黙り込んだ。きつく眉根が寄せられて、薄く開いた唇はわななき、怒っているようにも迷っているようにも見える。
 アルフレッドには老ロマが何を考えているかわからなかった。ただ不思議と目を逸らすことができず、その姿を見つめていた。




 ――正しいロマとはなんだった。拳を握り、ジェレムは必死で考える。自分がなりたいと思っていたのは、目指していたのは、一体どんなロマであったか。
(なんであいつを思い出すんだ)
 振り払っても振り払っても浮かんでくるのは十六歳のカロだった。恩知らずの王を庇い、甘んじて追放を受け入れた。
 母親がおらずとも、父親がおらずとも、あれは勝手に育っていた。姿形などに囚われず、友のためなら己がそしられることを厭わず、自分などよりよほどロマらしいロマに。
 ジェレムにはずっとそれが耐えがたかった。これは我々と違うものだと烙印を押したこと自体間違っていたのではないかと思えた。あのときにはもうやり直しなどきかなくなっていたのだけれど。
(置いていかれたのはどっちだったんだろうな)
 正しいロマになれなかったのは、俺かあいつか。
「……なりたいと思えば目指そうとするさ。案ずることじゃない」
 そう呟いてジェレムはそっと目を伏せた。鋭い痛みをやり過ごすために奥歯を噛む。
 わかっていた。とっくにわかっていたことだった。何が駄目だったかなんて。
「マチルダ」
 イヴェンドは決意した男の顔で元妻を振り返る。「隠さずに会わせてくれるんだったらこの子の小さい間はお前に預ける」と彼は言い切った。未練がましく手にしていた荒縄も放り捨て、「俺たち二人で、いや、三人でなんとかやってく方法を考えよう」と前向きに。
「……私、悪かったわ。ちょっと言いすぎたみたい」
 マチルダも反省の姿勢を見せた。二人ともアルフレッドの批判が痛烈に胸に響いたようである。
 和解した夫婦に礼を述べられ、騎士は「いや、別に俺は頭を下げられるほどのことは」とうろたえた。その傍らではフェイヤがににこにこ嬉しそうに頬を緩ませている。
「アルフレッドって、知らないロマの子供のことでも真剣に考えてくれるんだ」
 少女の言葉にトゥーネもうんうん頷いた。当のアルフレッドは居心地悪そうに後ろ頭を掻くばかりだったが。
「関わりを持てばロマとかパトリア人なんて分け方をしなくなるのは当たり前だろう? 俺にとってはフェイヤはフェイヤだし、トゥーネはトゥーネだし、この子にしたって同じだよ」
 心底不思議そうに騎士は言う。こういう男に女子供が懐くのは仕方ないことと思えた。
「おい、後はお前らに任せていいな?」
 ジェレムがイヴェンドたちに聞くと二人は「はい!」と返事する。その態度は見違えるほど改まり、これなら最後まで見届けてやる必要もなさそうだった。
「トゥーネ、フェイヤ、お前らはさっさと休め」
 疲れたろうと小屋の隅に女たちを促す。それから再度イヴェンドに「こんなときに人狩りに遭ったら目も当てられないからな。今夜は見張りに立ってやる」と声をかけた。
「お前も来い」
 アルフレッドにそう命じ、先に掘っ立て小屋を出る。騎士はすんなりついてきた。以前もこんなほっと緩んだ空気の中で、騙され、奪われ、こけにされたことも忘れて。もっともジェレムにもそんなことをする気は更々なかったが。
 ――聞かねばならないことがある。一つだけ、どうしても。
 月が見下ろす森に立つ。強い夜風が鬱蒼と茂る葉を揺らし、不気味な音色を奏でていた。
 星が瞬く。かつて赤子の瞳に見たのと同じ、金色の凶星が。
 今になってアクアレイア人に物を尋ねなくてはならない己の無様を笑いつつジェレムは騎士を振り返った。
「邪視が迷信というのは本当か?」
 できるだけなんでもない風に問う。話しかけられたことに困惑はしたものの、アルフレッドはやはり普通の、ジェレムよりもっとなんでもない声で返した。
「ああ、オッドアイは国や地域によってまるで扱いが異なるよ。あちこち旅をしていても、地域の人と深く交流しなければそこまで知る機会はないだろうが」
 簡単に明言されて腹が立つ。「嘘をつけ」とジェレムは騎士に反論した。
「現に災いを呼び込んだ奴もいる。そいつはどう説明するんだ?」
 だがアルフレッドは怯まない。まるで何も知らない子供に言い聞かせるようにこちらを説き伏せてくる。
「幸運にせよ不運にせよ、誰にだって訪れるものだ。身近に特殊な外見の人間がいると、その人に結びつけて考えやすくなるだけの話だろう」
「そんなわけあるか! でたらめほざきやがって」
「トゥーネの占いもそうじゃないか。例えば数日内に何か不幸が起こりますと言われたら、怪我をしたり物を失くしたり誰かに怒鳴られたりしたときに予言が当たったと思い込む。本当は何日も一度も嫌な目に遭わないなんて稀なことなのに、自分は未来を見透かされたと勘違いするんだ」
 ロマの行為を例に出され、ジェレムはハッと息を飲んだ。自身もよく使う手だ。からくりはよく知っていた。
「……本当に邪視とは違うのか……?」
「ああ、違う」
 それでも念を押すジェレムにアルフレッドは断言する。逆に「カロの右眼が邪視だから嫌ってきたのか?」と不意を突かれ、思わず本音が出てしまった。
「そんなんじゃない」
 声が震える。汗が滲む。「じゃあどうしてだ?」なんて言葉は無視してやれば良かったのにできなかった。
 長く、長く、心の底に押し込めていたそれは堰を切ったように溢れ出した。その濁流で、くだらない戯れ言は押し流さねばならなかったから。
「あいつを生んだ二番目の妻は、自分を責めて崖から身を投げた……!」
 血を吐くような叫びに騎士が目を瞠る。己の意思では止められず、ジェレムは苦い記憶に喋らされ続けた。
「急にロマ狩りが増えたのも、仲間が大勢連れていかれたのも、全部あいつが生まれてからだ。あいつがいたせいで俺たちは……!」
「だからそれは結びつけて考えているだけだ。奥さんが亡くなったのは気の毒だが……」
 アルフレッドはジェレムの言葉を否定する。それを否定し返したくて「嘘だ」「嘘つきめ」と喚いた。
 あの妖しい輝きが邪視でないなど有り得ない。なんの魔力も持たないなど。
「だったら俺の悔いてきたことはなんだったんだ!?」
 半狂乱のジェレムに騎士が瞬きする。「悔いてきたこと?」と問われるまま、ジェレムは誰にも明かさず死のうと決めていた秘密を口走ってしまった。

「俺があの眼を美しいと思ったから、皆苦しんだんじゃないのか……!」

 誰に何を話しているのかジェレムにはほとんどわからなくなっていた。月光も、星明かりも、冷たい風も、全部さっきのままなのに世界が引っ繰り返った気がする。
「俺が邪眼に魅入られたから。どうしてもあいつを殺せなかったから――」
 震える手でアルフレッドの肩を揺すると騎士は唾を飲み込んだ。ジェレムはなお言葉をぶつける。そうしていないと無慈悲な呪いに追いつかれそうだった。
「俺は、俺はあの眼を見て喜んだ自分を悔いてきた。全責任が自分にあるのが恐ろしくて、こうなったのも昔の女がカロを引き取ってくれなかったせいだとアクアレイア人を憎んだ。それなのにお前は、俺を苛んできたものを、俺たちを苦しめてきたものを、ただの思い込みに過ぎなかったなんて言うのか!」
 激しく咳き込み、ジェレムはその場に崩れ落ちる。喉の痛みより、肺の痛みより、胸が痛くて苦しかった。
 大地に拳を叩きつけ、握った草を引きちぎる。声にならない声で叫ぶ。――そして。
「だったら俺は、ちゃんと父親になれば良かった……」
 滴が頬を伝い落ちた。呪いは今、ジェレムの足首を捕まえた。
 こんなに時間が経ってから、老い先短い身になってから、こんなのあんまりではないか。全て取りこぼしたことを思い知って死ねというのか。




 小屋の扉が開く音に振り返り、アルフレッドは身振りで「大丈夫」と告げた。物わかりの良い少女はすぐ屋内に首を引っ込める。老人はまだ起き上がれず、顔も上げられないでいた。まだしばらく放心状態は続きそうだ。
 事情は飲み込めていない部分もあるが、ジェレムとカロにどんなすれ違いがあったかはなんとなく想像できていた。嘆きの深さも、おそらくは。
「……今からでも何かできるんじゃないか?」
 アルフレッドはジェレムの前に片膝をつく。実際の親子関係を知らないので大きなことは言えないが、気持ちがあるならやれるというのは本心だった。
「……今更合わせる顔があるかよ……」
 けれどジェレムは力なく首を振る。薄闇の中で艶のない白髪が揺れた。
「一度も何もしてやらなかった。憎んだのも本当のことだ。傷つけても知らんぷりだった俺に、あいつも何かしてほしいなんて望んじゃいないに決まってる。親ってのは、子供が親を求める時期に親でいないと意味がないんだ」
 もう会っても苦しめるだけだろうと老ロマは痩せぎすの肩をわななかせる。悪あがきしようとする自分に言い聞かせるように。
 やっと少し、彼という人間がわかった気がした。矛盾しているように見えた言動の根底に何があったのか。
 仲間思いで、責任感が強くて、だからジェレムは心を歪めるほど重い罪悪感を抱えることになったのだ。
「……やり直せるさ。会わなくてもいい、親しく話せなくてもいいんだ。何かの形で繋がることはできるはずだ」
 老人に訴えかけながら、アルフレッドは父との別れを思い返した。最後まで喚き散らし、呪詛を吐くのをやめなかったウィルフレッドを。
 せめてあの男が昔を悔やんでいてくれたら、尊敬に値する一面を見せていてくれたら、自分たちも何か変わっていたかもしれない。父は牢獄に入れられたけれどジェレムには自由がある。諦めるにはきっと早い。
「俺にできることがあれば言ってくれ。間を取り持つとか、伝言を預かるとか」
 またモモに甘いと叱られそうだなと思いつつ申し出る。けれどアルフレッドには目の前で苦しむ男を放っておけなかった。不幸な親子を見るのもできればこれきりにしたい。
「…………」
 ジェレムはしばし黙り込んだ。咳も次第に酷くなり、見ていられずに擦ってやる。すると老ロマは「おい」と低い声を発した。
「あ、悪い」
 アクアレイア人には触られたくなかったかと手を引っ込める。だがジェレムはその腕を掴んで引き留め、「頼まれてくれ」と呟いた。まだうつむき、草の上に座り込んだまま。
「お前に歌って聴かせるから、カロに会ったら俺たちの――ロマの歌を教えてやってほしい」
 知らないんだ、聴かせてやらなかったから。そうジェレムがこぼす。
 歌を教える。ロマにとって、そこにどんなに大切な意味がこめられているかは尋ねなくてもよくわかった。文字や故郷を持たない彼らにとって、歌だけが時間も距離も超越する唯一の絆なのだから。
「……引き受けたいのは山々だが、あまり期待しないほうがいいぞ」
 唇に笑みを浮かべて答える。するとジェレムは「なんでだよ」と顔を上げた。
「まさか騙し返したのか? お前がそんなことをする奴だとは」
「いいや、俺は音痴なんだ。正しく伝える自信がない。本当に酷いから」
 アルフレッドの弁解に老ロマはきょとんと目を丸くする。茶化したつもりはなかったのだが、「そうか、そりゃいけないな」と少し笑われた。
「ならリュートも一緒に教えるから、あいつに弾いてやってくれ。カロぐらい歌えりゃそれで十分だ」
 ジェレムの依頼にアルフレッドはこくりと頷く。けれどすぐに最初の約束と両立しないことに気づいて「いいのか?」と聞き直した。
「楽器をやるなら親指を落とせなくなるぞ」
 ほら、と右手を振ってみせると老ロマはつまらなさそうにそっぽを向く。
「お互い一つずつ頼み事をするんだから相殺だろう。アクアレイア人のくせにそんなこともわからないのか」
 厭味にはもう以前のような毒はなかった。ジェレムはすっくと立ち上がり、小屋の周りの警戒にずかずかと歩いていく。
 細い背中にはまだ動揺が窺えた。凝り固まっていたものが流れ出し、戸惑いも大きいのだろう。だが彼が再び馬鹿げた迷信に帰る心配はしなかった。
 気づけば東の空が白み、西から伸びたうろこ雲が淡いピンクに染まり始めている。黎明の美しい光景にアルフレッドは感嘆の息をついた。
 こうして長い夜は明けたのだった。









(20160917)