夜気を吸い込む呼吸の音が次第に荒くなっていく。はあ、はあ、と息切れしながら、一歩ごとに破れそうになる心臓の痛みも無視してジェレムは山を駆け下った。
 武装したマルゴー兵の気配はまだそこら中にしている。仲間の悲鳴や抵抗の声が響いてくる。
 助け出すにはあまりにも力の差がありすぎて、できることと言えば一人でも多く奴らの手から逃れられるように祈ることだけだった。額を打ちすえる蔦や小枝を払いのけ、皮膚を切り裂く灌木の茂みを掻き分け、獣道をひた走る。
(ちくしょう)
 ――ちくしょう、ちくしょう。動物みたいに狩りやがって。
 振り向けば鬱蒼とした森には松明の火がいくつも浮かび上がっていた。頭上の樹冠が一瞬途切れたその瞬間、近くまで迫っていた追手が「あそこだ!」と声を張り上げる。月光はロマの味方ではなかったらしい。
 捕まったらどうなるか知っていたわけではなかったが、幸せな場所に連れていかれるはずがないのはわかっていた。憂さ晴らしになぶり殺されるか、そうでなければ父や祖父、大勢のロマが追いやられてきた鉱山の穴にぶち込まれるに違いない。
「おい、そっちに一匹向かってる! 足止めしてくれ!」
 応援を呼んだ兵士はジェレムを挟み撃ちにしようとした。完全に距離を詰められる前に、逃げ場を求めて更に深い茂みに駆け込む。
(誰が奴隷になんてなるかよ)
 木の根に足を取られても執念で前に進んだ。だが兵士たちもしつこい。何をしたわけでもない、ただアルタルーペを越えるべく通りがかっただけのロマを上等の獲物同然に追ってくる。
(くそ……ッ!)
 崩落が起きたのはそのときだ。何か変な地面を踏んだと思ったら、ガラガラと大きな音が足元に響き、気づけばジェレムは空高く投げ出されていた。後ろを気にして逃げていたせいで崖を見落としていたらしい。
「……っ!」
 眼下に広がるのは深い谷。暗闇に光る川面と黒々とした大岩が目に入った。
 ジェレムは崩れた土と一緒に谷底へ落下していく。間もなく強い衝撃とともに水の弾ける音が響いた。
(ぐ……ッ!)
 呼吸を奪われ、上下も左右もわからなくなる。必死になってもがいたものの、疲弊した四肢はたちまち力衰えた。
 だがあまりじたばたできなかったのが却って功を奏したらしい。ジェレムの身体は息尽きる前に再び水面に浮かび上がってくれた。
「っはあ、……はあっ」
 岸から出っ張った岩の先を掴んでジェレムは流れに抗った。最盛期を過ぎて久しい肉体はさっさと水から上がれと急かすが、崖の上でさっきの兵士が見ていると考えるとあまり大きな動きは取れない。
 逡巡し、ジェレムは抉れた岩盤が屋根のようになっている川べりに移動した。しばらくここに隠れていれば連中もこっちが流されたものと勘違いしてくれるだろう。
「…………」
 時間は刻々と過ぎていく。晩秋の夜風が冴え冴えと川面を吹き渡っていく。凍えるのは冷気のためか、かすかに聞こえる絶叫のためか、ジェレムには判別できなかった。
 何もできない。握った拳の行き場はない。誰も助けてはくれないのだ。偉大なロマの先祖たちも。
 マルゴー兵の笑い声は夜明けとともに遠ざかった。ジェレムはようやく岸に上がり、峠道を引き返すことができた。
 ――誰かいないか。俺以外に逃げのびたロマは。
 咳き込みながら仲間を探す。濡れた身体をずっと風に晒していたせいか、熱が出て足元がふらついた。激しい頭痛と眩暈を堪え、樹木のうろや崖のくぼみ、あらゆる暗がりを覗き込む。けれど望む人影はなかった。
「はあ……、はあ…………っ」
 熱はますます高くなる。寒気と吐き気でどうしようもなくなってジェレムは枯葉の山に突っ伏した。これ以上体温を奪われまいと、なんとかその中に潜り込む。
 昏々と眠った。目が覚めたとき、何時間過ぎたかわからないほど。
 熱はまだ少しも引いていなかったが、ジェレムはすぐに歩き出した。周辺を徘徊し、疲労に耐え切れなくなるとまた枯葉の山に埋もれ、何度も何度も。
 肺から妙な音がしていた。それでも仲間を探し続けた。
 やっとロマに会えたのは数日後。「ジェレム、ジェレム」と呼ぶ声に重い瞼を開いたら、脇に幼女を守ったトゥーネが必死に落ち葉を掻き分けていた。
 再び合流できたのは結局この二人だけだ。十四人もいた他の仲間は今もどこにいるのか知れない。
 それが多分、人生で二番目に最悪な出来事だった。




 ******




 夕刻、アルフレッドは村人たちが「よく盗賊を退治してくれた!」と貸してくれた宿の一室で目を覚ました。眠り自体は浅かったものの、柔らかいベッドに横になれたおかげで休養はたっぷり取れた。「一泊ぐらいして行きゃいいのに」と引き留める主人に礼を述べ、村外れの森に向かう。
 出発は明日の昼過ぎ。ジェレムはそう言っていたけれど、ロマの心は変わりやすい。もしかしたら自分のいない間に旅立ちたくなっているかもしれないし、襲撃のあった翌晩に彼らだけで野宿させるのも心配だった。
 だが実のところ、これ以上単独行動を続ける気になれなかった本当の理由は腰の違和感に耐えがたくなったためである。ジェレムに預けた片手半剣を早く定位置に戻したかった。慣れた鞘に触れていなければおちおち眠れもしないのだから。
(手入れはもう済んだかな?)
 そわそわしつつ北門をくぐる。ブナが葉陰を落とす森に踏み入ればロマ一行は大地にどっかとあぐらを掻き、首飾りや腰飾りを伸ばしているところだった。彼らには財布を持つ習慣がないので稼いだ金は紐で繋いで全部アクセサリーにしてしまうのだ。二重になった装飾品を見るに、実入りは大きかったらしい。今度舞い踊るときはさぞ見事に銀貨や銅貨がきらきら輝くことだろう。
(さて、俺のバスタードソードは……)
 アルフレッドは作業の邪魔をしないように愛剣を探した。そこらの幹にでも立てかけてあるかなと思ったが、ジェレムの側には古いリュートしか置かれていない。ぐるりと一帯を見渡してみてもトゥーネが使うガラス球の他には水筒や手ぬぐいといったわずかな日用品しかなく、「あれ?」と思わず首を傾げた。
 もしや研ぎ師に任せたのだろうか。ジェレムの口ぶりでは自分でやってくれそうだったのに。
「すまない、そろそろ剣を返してもらえるか?」
 多少訝りながら尋ねる。しかし老ロマの返事はなかった。まるで何も聞こえなかったかのように無視される。尾を引く長い静寂に、黙々と貨幣に紐を通すしわだらけの指先に、嫌なざわつきが胸を襲った。
「……ジェレム、聞こえなかったか? 俺の剣を返してくれ」
 極力穏やかに呼びかける。だがジェレムはなお無反応だ。フェイヤもそっぽを向いたままで、一瞬だけでもこちらを見たのはトゥーネの視線のみだった。アルフレッドが丸腰なのに気づいた彼女は瞬きし、次いで老ロマを一瞥する。
 焦燥を振り払おうと「おい、聞こえているんだろう?」とつい荒っぽい声を出してしまう。するとジェレムは口元を押さえて吹き出した。プッというその笑い方が完全に人を小馬鹿にしたものだったため、アルフレッドの平静はますます遠くに追いやられる。
「剣はどこだ?」
 苛立ちの滲む四度目の問いにジェレムはようやく返事した。「良い値で売れたよ」と信じがたい言葉を吐かれ、「は?」と口角が引きつる。
 何を言っているんだこの男は。売っただなんて冗談でも口にしてほしくない。
「行商人に見せる前に念入りに研いだおかげかな」
 アルフレッドの示す不快感など気にも留めずに老ロマは喋り続けた。得意げに「俺の腕もまだまだ現役でいける」などと自慢され、笑う余裕もなくなってくる。
「ふざけるのはやめろ。自分で取りにいくから早く――」
「そっちこそ、笑えない冗談はよせよ。よこせと言われてお前は了承したじゃないか。あの剣は俺が貰い受けて、こうして金に換えたんだ。今になって返せと言われても困る」
 さも心外そうに肩をすくめる仕草に目の前が暗くなった。
 意味がわからなさすぎる。本当に、彼は一体何を言っているんだ?
「……預けただけだ。手入れしてくれると言うから」
 震える声で反論するがジェレムの態度はどこまでも素っ気ない。
「預かるなんて俺はひと言も口にしてないぞ」
 とんでもない詭弁に絶句した。カーリスの悪徳商人だってもうちょっとましな言い訳を考える。少なくとも自分の連れを罠にかけるなんてことはない。
「……騙したのか?」
 アルフレッドは首飾りの出来映えを確かめている老ロマに詰め寄った。「勝手に誤解しておいて酷い言い草だな」などと嘆かれ、勢い掴みかかりそうになる。
 だがそれはなんとか堪えた。そんな乱暴を働けばカロに会える唯一の方法がなくなってしまうから。
「誤解させるような言い方をしたのはあんたじゃないか……!」
 かろうじて口にできたのはそれだけだった。だがジェレムは、アルフレッドの悲しみや怒りなど些細なことだと言わんばかりに吐き捨てる。
「どんな名剣だろうと親指を切られりゃ使えなくなるんだ。どうせお前は騎士として駄目になるんだから、後生大事にあんなもん持ってたってしょうがないだろ?」
 なけなしの冷静さも消し飛んで、頭の中が真っ白になった。激昂し、老ロマの胸倉を掴み上げる。
「あれは俺の尊敬する人がくれた……っ!」
 そこまで叫んでアルフレッドは手を離し、ただちに村に引き返した。
 くだらない言い争いをしている場合ではない。すぐに剣を取り戻さなくては。
 よりによって行商人に売り渡すなどなんてことをしてくれるのだ。もし既に旅人が出発していたら――。
 想像して血の気が引く。森を抜け、簡素な門をくぐり直すとアルフレッドは舗装されていない円形広場に駆け込んだ。
(どこだ? 剣はどこにある?)
 重い剣を買い取るような商人なら馬なりロバなり連れているはずだ。しかし馬留めや水飲み場にそれらしき荷獣は見当たらない。宿という宿を片っ端から訪ねてみても、小さな宿場村のどこにも行商人など宿泊していなかった。そうして最後の頼みと扉を叩いた酒場で全ての希望を断たれてしまう。

「最近は北パトリアの領主同士が派手にいがみ合っててね。この辺もいつ食うに困った連中が荒らしに来るかわからないからさ、馬もまだ元気だし、食事を取ったら先を急ぐって言ってたよ? もうとっくに一つ目の峠を越えた頃じゃないかい?」

 昼過ぎに見送ったからよく覚えてると恰幅のいい女将が言う。今夜この村に泊まるのはパトリア古王国を目指す巡礼たちだけだとも。
「…………」
 アルフレッドは愕然と立ち尽くした。それでは剣はもう自分の手の届かないところに行ってしまったのか。
 激しいショックは稲妻となって心を打ちのめした。どれくらいその場に突っ立っていたのだろう。気づけばアルフレッドは店を出て、山のほうにふらふら歩き出していた。
 正気を失くした状態で山門の外へ出る。だが見上げた峠道に行商人の姿などありはしなかった。夕闇迫る山肌は赤く燃え、ただ木々の黒い影だけが伸びている。
 追いかけても無駄だろう。わかっているのに諦めはつかない。もしかしたらどこかで足を止めているかも、急げばまだ間に合うかもと考えてしまって。
(不眠不休で歩けば明日の昼には戻ってこられる――)
 薄暗闇に一歩踏み出したときだった。誰かの腕に引き戻されたのは。
 ぐちゃぐちゃの頭で振り返ると中年の女ロマが険しい表情で首を振っていた。何も反応できずにいるアルフレッドに占い女は「ジェレムがもう村を出るって」と告げる。
「――」
 がつんと心臓を殴られた気がした。「出発は明日の昼過ぎじゃないのか?」と問う声は瀕死の病人かと思うほど弱々しい。
 けれどもはや体面を保つ余力はなかった。半分はロマの少女のために、半分は己のために、アルフレッドは声を荒らげる。
「怪我をした女の子に歩かせるなんて……!」
「あの子はジェレムが背負うんだと。だいぶ腫れも引いたから、今日だけ気をつけてりゃいけるってさ」
 そう言うとトゥーネは申し訳なさそうに目を伏せた。今までの無関心な彼女と違い、その眼差しには深い同情が滲んでいる。混乱したアルフレッドには、そんな変化を読み取ることはできなかったが。
「すまないね、あたしもさっき何があったか聞いたんだ。フェイヤがあんたのでっかい剣を怖がったから、ジェレムが売り飛ばしちまったらしい」
 女ロマの明かした事情も少なからず衝撃だった。
 盗賊たちならいざ知らず、どうして味方の自分が怖がられなければならないのだ。彼らのために戦って、不当な対価を要求したわけでもないのに。
「本当にすまない。まさかジェレムがこんな形で報いるなんて……」
 トゥーネの謝罪はほとんど耳に入らなかった。闇に沈みゆくアルタルーペの高峰を振り仰ぎ、アルフレッドは震える拳を握りしめる。
 息継ぎもままならず、足は動こうとしなかった。ロマについていかなければと思えば思うほど心は真逆の方向に囚われ、背中を伝う汗も酷くなる一方で。――だってあの剣がなければ俺は。
「剣を……、剣を取り戻したい。一日でいいんだ。どうにか待ってもらえないか?」
 声を詰まらせながら頼む。しかしトゥーネは首を縦には振らなかった。
「ジェレムはきっと待たないよ。すぐにでも国境の橋を渡ろうとしてる。とにかく行こう、あんたカロに大事な用事があるんだろう?」
 女ロマに手を引かれ、成す術もなく引っ張られる。一歩一歩が異様に重く、振り返るのをやめられない身体は二つに裂けるのではないかと思えた。
(あの剣は伯父さんが、努力できる人間の証明だって――)
 絶望的な心地で宿場村を去る。トゥーネには「あたしはあんたに感謝してる。あたしが隠れてる間、あんたがどれだけ頑張ってくれたか村の連中が事細かく教えてくれたしね」と礼を言われたが、その意味を取れるほど思考は回復していなかった。
 ぐるぐる回る頭の中で響いていたのはトゥーネではなく女将の言葉だ。どんなにいい顔されても連中を信じちゃ駄目だねえ、という。
 何故こんなことになったのだろう。
 わからない。どうして剣が手元にないのか。
 離れられないと足は無様にもつれたが、アルフレッドには進むしかなかった。カロのもとに辿り着くまでは、ジェレムとともに進むしか。




 ******




 高山を滑り落ち、平原に達した川は、西から来る別の川とも合わさってより豊かな水を湛える。この川は他の河川とも次々に合流し、北のほうまでずっと続いているらしい。
 長い石橋を渡り始めたフェイヤはジェレムの背中でしきりに後ろを気にしていた。気の短いこの老人は、トゥーネがどこかへ行ったままなのにもう国境を越えてしまおうというのである。
 たもとの塔の両脇に篝火が焚かれたのを見てフェイヤは不安になってきた。日没を過ぎて関所が閉ざされてしまったら、本当に彼女が置き去りにされるのではないのかと。だが心配は無用だったようだ。こちらが石橋を渡りきる前にトゥーネは小走りで森を駆けてきた。余計な人間まで連れているのにはムッとしたが、ともかくひと安心だ。
(急にどうしちゃったのかな? あんな奴のこと放っておけばいいのに)
 フェイヤは先刻の彼女を思い出して眉をしかめた。顔色を変え、「あの騎士の剣を売り払った? なんだってそんなことしたんだい!」とジェレムに食ってかかった。
 トゥーネは酷く驚いていた。いつも平然と嘘の占いをする彼女には珍しく、本当に慌てて飛び出していったのだ。トゥーネだってパトリア人など好きじゃないくせに、よくわからないことをする。今だってあんな男の手なんか引いて――。
「フェイヤ」
 と、ジェレムに名を呼ばれ、フェイヤはハッと前を向いた。「何?」と聞くとそっと橋の上に降ろされる。関所を抜けるまでは自分で歩けということらしい。
 改めて眼前にした塔は高く、嵐にもビクともしなさそうに頑丈で、少し胸がどきどきした。渡河の経験はあるけれど、こんな大きな橋を渡るのは初めてだ。
 いつもなら通行料を巻き上げる兵士を避けて小舟を漕いだり泳いだりする。だが今日は思いがけない大金を稼げたし、足もまだ具合が悪いし、ジェレムが気遣ってくれたのだ。
 老ロマ曰く「ここらの番兵はごろつきと大差ない。金さえくれりゃ誰だって通してくれる」とのことだった。フェイヤは「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせながらジェレムの後についていく。からかわれたり難癖をつけられたりしないように、表情を冷たく凍らせて。
「おいおい、なんか汚ねぇのがお出ましだぞ」
 どっしりとした構えの塔に入るや否や、飛んできたのは侮蔑の言葉と数人の嘲笑だった。礼儀を知らない兵たちが早速ジェレムに群がって「金持ってんのか?」とポケットを叩く。フェイヤもじろじろ下品な視線に晒されて、不愉快極まりなかった。
「お前どうだよ?」
「小さすぎるぜ」
「もうちょっと肉がついてなきゃな」
 恥ずかしげもなく彼らはそんな品定めをする。追いついてきたトゥーネにも「なーんだ、ババアか」と暴言を吐くのでやり返したい気持ちを我慢するのに苦労した。こんなことには慣れっこのジェレムは至って平静だったが。
「これで三人頼む」
 老ロマはあらかじめ取り分けておいた人数分の銀貨を積む。コートのボタンをきっちり上まで留めているのは番兵から首飾りを隠すためだろう。ロマは金をけちるなどしないが、こいつらには渡したくないという相手はいる。
「銀貨三枚ねえ。どうしようかなあ、通してやろうかなあ」
 にやにやと嫌な笑みを浮かべて兵士は出口に立ち塞いだ。どうもこの額では満足できなかったらしい。わざとらしく槍を振りかざしたり、穂先をこちらに向けたりするのでジェレムは更にもう三枚銀貨を重ねる。それでようやく彼らは格子門を開いてくれた。
「行くぞ」
 フェイヤはジェレムと手を繋ぎ、屋外に出る。わずかな間に辺りはすっかり暗くなっており、強い風が吹きつけていた。広々とした平原は星明かりに照らされて、どこまでも遠く続いている。
「兄ちゃんも伯爵領にご用かい? 近頃小競り合いが多いから気をつけてな」
 と、背後からさっき聞いたのとはまるで違う親切な声が響いてきた。騎士は銀貨一枚分も払わずに関所を通過できそうな様子である。どの街道が通行止めになっていて、どの街道の治安が悪くなっているかなど教えてもらっている。フンと鼻を鳴らしてフェイヤは老ロマの背におぶさった。
「早く行こう」
 急かしたのはパトリア人などと並んで歩きたくなかったからだ。蛇行する川に沿い、北へ伸びる街道を三人で歩き出す。
 だがトゥーネの足取りは遅かった。明らかにあの騎士を気にして数歩ごとに立ち止まる。それだけでも腹立たしいのに彼女はアルフレッドが塔を出てくると露骨にほっとした顔をみせた。まったくロマにあるまじき態度である。
(トゥーネはどういうつもりなの? まさかあいつを善人だなんて思ってないよね? 血の繋がりがあれば話は別だけど、パトリア人なんてすぐに掌返すに決まってるじゃない)
 腹の立ってきたフェイヤはジェレムに「やっぱり降ろして」と耳打ちした。井戸水で日中ずっと冷やしていたし、さっきも普通に歩けていたし、多分もう平気だからと。
「フェイヤ、まだ無理しちゃいけないよ!」
 老ロマから離れ、三つ編みを揺らして歩き出したフェイヤのもとにトゥーネがすっ飛んでくる。案じる彼女に目を吊り上げ、フェイヤは小声で問いかけた。
「なんでわざわざ出発だって教えてやったの? 折角上手く追い払えるところだったのに」
 非難の言葉にトゥーネはたちまち表情を曇らせた。「なんでって、道案内する約束だろう」なんて返してくるのでこちらも眉間のしわを濃くする。
「確かにジェレムはそう言ったけど、あいつが最後まで私たちについてくるかどうかは別の問題じゃない。今は剣を持ってないから前より少しましだけど、あんなのに後ろを歩かれてたら落ち着かないわ」
 続いてトゥーネは苦々しく嘆息した。「お前ねえ、あの騎士に助けてもらったんじゃないのかい?」と聞いてくるので「皮袋から出してくれたのはジェレムだったよ」と冷めた声で答える。
「だから、ジェレムがそうできたのは盗賊どもをやっつけてくれた人間がいたからだろう?」
 それはまあそうだけど、と声には出さずに昨夜の騒動を振り返る。あの男のおかげで皆のもとに戻れたことはわかっている。だがフェイヤには騎士の振り回す剣が脅威に感じられたのもまた事実だった。
 マルゴー兵に仲間を奪われたあの夜を思い出して、トゥーネの姿が見えないことに怯えて、本当に怖かったのだ。たとえ昨夜はアルフレッドが自分たちを守ってくれたのだとしても。
「……私もジェレムも別に盗賊を倒してくれなんて頼んでないし」
 ほんの少しばつの悪さを感じつつ、フェイヤはあの騎士が勝手にしたことだと主張した。するとトゥーネは顔を真っ赤にして怒り出す。
「フェイヤ、お前ねえ……!」
「――うるさい!」
 怒鳴りかけたトゥーネを制したのはもっと大きなジェレムの怒声だった。
「直接見てたわけでもないのに又聞きの武勇伝なんぞ押しつけるな! どうせ実際よりもでかい話を吹聴されてるに決まってんだ! 村の連中に何があったか喋ったのはロマじゃなくあいつなんだからな!」
 数歩先からそうがなり立て、老ロマは鋭くトゥーネを睨みつける。その剣幕に彼女が身をすくませるとジェレムは前へ向き直り、鼻息を乱して一人足早に進んでいった。
「…………」
 トゥーネはしばし押し黙り、物言いたげに老人の痩せた背中を見やる。「ほら吹きが大事な剣をロマに預けたりするもんかね」とこぼした彼女にフェイヤは少なからず困惑した。それは常に年長者の意見を重んじてきた叔母らしからぬ反発だったから。
 なんだかおかしなことになっている。
 フェイヤはごくりと息を飲み、アルフレッドを振り返った。不協和音の元凶は亡霊じみた顔つきでふらふら後をついてきていた。




 いい気味だ。「ロマを救い出してやった」なんて上に立った気でいるからこうなるのだ。肩越しに青ざめたアルフレッドを振り返り、ジェレムはふんと鼻を鳴らす。
 モリスとの約束だから、カロのうろついていそうな辺りまでは連れていってやるけれど、それは息子を納得させるためであって決してアルフレッドのためではない。寧ろアクアレイア人には報復してやりたいくらいだった。自分たちの戦争に使うだけ使って追い出した、そのくせいまだにロマを便利屋扱いの、お前たちは一体何様のつもりなのかと。
 六年ぶりの道を行く。高い山が一つもなく、遥か彼方まで見渡せる大平原は以前とさほど変わりなかった。夜も更けつつあるというのに船の往来も活発だ。この辺りは流れがとても緩やかだから、雨にさえ降られなければ川任せに街道を下って安全なのだ。
 もっと仲間が多かった頃は、ジェレムもしばしば船旅の行商人たちに演奏を売ってやった。春になるとアルタルーペを越えて、季節労働者を求める村から村へと北上するのが通例で。こうしてこの道を歩いていると皆の笑顔や歌声が懐かしく甦る。
(もう二度と昔みたいには歌えない)
 かぶりを振り、ジェレムは満天の星を見上げた。紺碧の空は遠く果てなく、寒い国にまで続いている。
 カロがいた頃はこのルートしか通らなかったから、そう大きく進路を逸れてはいないだろう。どこの誰かまでは知らないが北方に懇意な者もいたようだし、十中八九そいつのもとへ行こうとしているに違いない。後は適当に出くわしたロマに一人旅のロマを見かけなかったか聞いていけば追いつける。
(アクアレイア王のために怒るなんて、あいつもロマから隔たったもんだな)
 ジェレムは皮肉な笑みを浮かべた。白い連中とばかりつるんで、くだらない義憤に駆られて、結局アクアレイア人に追われている。
 やはりロマはロマとだけつるむのがいいのだ。そうでなければ不幸を招く。ロマを襲うのはいつだってロマ以外の何者かだし、奴らがいい顔をしてみせるのはせいぜい最初だけなのだから。
 アルフレッドもそろそろ化けの皮が剥がれてくる。あの女がそうだったように。
「――」
 自ら古傷を引っ掻いてしまい、ジェレムはちっと舌打ちした。
 あの女――初めての妻にしてモリスの母、地味で大人しかったホリー。軽い気持ちでロマと付き合える娘ではなかった。いつも真面目で、いつも優しくて。だからこちらも彼女のためにロマの習慣にはない結婚式まで挙げたのに。
 神官一人が見守るだけの祭壇で彼女は「嬉しい」と泣いていた。「俺は仲間と旅に出るから年中一緒にはいられないぞ」と告げても「いいんだよ」と笑って答えた。「船乗りと結婚したってどうせ同じことだもの」と。
 当時ロマの大半は独立戦争後のアクアレイア人に失望し、彼らと距離を置き始めていた。そんな中、ジェレムは初代国王ダイオニシアスの戦友だった父に倣い、アクアレイアに随分好意的だったと思う。持てる以上を持ちたがる彼らを不思議に思いながら嫌悪を抱いてはいなかった。物に囲まれた暮らしぶりや、金はあるほどいいという考えにも何か意味があるのだろうと。
 ホリーといると楽しかった。自分たちは同じ歌に声を合わせて、同じ踊りを踊って過ごした。旅から帰ると真っ先に彼女を訪ね、土産話を山と聞かせた。ホリーはいつも朗らかだった。「ロマって素敵ね」と微笑む彼女が「私もロマになりたい」と言い出すことはなかったが。
 やがてホリーとの間に息子が生まれた。ロマがよその女に出産させた場合、赤ん坊をロマとして育てるか否か決めるのは母親だとされている。ジェレムにしても半分はロマとして、半分はアクアレイア人として育てるなど不可能だとわかっていた。だから彼女が「モリスは家で育てたいの」と言ったとき、母子ともどもロマ一行に加わってほしいなんてひと言も要求しなかったのだ。ロマでない女を好きになり、ロマでない子供が生まれた。ジェレムにとってはそれだけのことだった。
 とはいえ己も男として一族の歌や旅の知恵を受け継ぐ子供を得ねばならない。身を切られる思いでも、彼女とはこれきりにしなければならなかった。
 あのときもっとはっきりと別れの言葉を口にしていれば、もう少しこじれずに済んだのだろうか。「子供のために使え」と銀貨の首飾りを渡すとジェレムはいつもとまったく同じにホリーの家を後にした。それが最もロマらしいやり方だったから。
 十代の恋は去り、次に彼女と再会したのは十五年後のことだった。

 ――今更私たちになんの用なの?

 まるで親の仇に会ったみたいにホリーは醜く顔を歪める。ジェレムはやっと乳離れしたばかりのカロを抱いていた。同じロマだった二番目の伴侶タムナが死んで、けれど一行に邪眼を持つ赤子など置いておけなくて、預けられる女を探していたのだ。
 ホリーだったら信用できる。そう思って連れてきたのに彼女は荒れ狂うのみだった。長い間姿を見せなかったジェレムをなじり、自分の舐めてきた辛酸を語り、ロマなんかを信じたせいで不幸になったと罵った。
 ジェレムにすれば寝耳に水だ。モリスをロマにしないと宣言した時点で自分たちの夫婦関係は終わっていた。引き取った我が子を育てる苦労は彼女が自分で選択したものだった。
 アクアレイア人にはアクアレイア人のやり方があるだろう。そう思い、会うのも我慢してきたというのに何故責められなければならないのか。ジェレムには少しも理解できなかった。

 ――何を言っているのかわからない。アクアレイア人を育てるのにどうしてロマの父親が必要なんだ? ひとりぼっちでつらかったなら他の男を夫にすれば良かったじゃないか。

 そう返したジェレムにホリーは「離婚届けも出させてくれなかったくせに!」と泣き喚いた。自分から望んだ結婚式の不始末まで押しつけられ、またしても困惑する。
 アクアレイアのしきたりなどロマが知るはずないではないか。まったく説明しなかったくせに、わからないほうが馬鹿だなどと言われたくない。
 愛も思いやりも失って、その後は酷い口論になった。ホリーは銀貨の首飾りをはした金呼ばわりし、次の女と子供を作ったジェレムのことも嘘つきの浮気者だと罵倒した。カロの養育を頼むための来訪は、彼女にとっては信じがたい恥知らずな行為だった。
 ジェレムもホリーを考えなしと非難した。ロマのしきたりがわからないならどうして変だと思ったときに何も聞かなかったのだと。
 ジェレムには母親なしでも我が子を育てる覚悟があった。たまたまモリスは白い肌に生まれついたが、黒い肌の子が生まれれば手放す女が多いのは知っていたからだ。彼女が無責任という言葉を繰り返すたびにジェレムは腸が煮える思いだった。
 楽しかった思い出が一気に色あせていく。しまいにホリーは包丁を持ち出し、モリスが止めに入らねばならぬほど激しい癇癪を起こした。
 もし自分が彼女に頼ってこられたら、他の仲間がどう言おうと絶対に助けになっていただろう。それなのにホリーは困り果てているジェレムに対し、手を差し伸べようともしない。
 怒りが湧いた。ジェレムばかりかタムナまで悪し様に罵る彼女に。ホリーと別れてからずっと自分を支えてくれた妻を、生まれた我が子におののいて命を断った哀れな女を、「天罰が下って死んだのだ」などと嘲笑う彼女に。
(天罰――)
 記憶の蓋は次々に開いていき、今度は勝ち気で快活だったタムナが見る間に痩せ細っていった頃の情景が甦った。カロが生まれて、よちよち歩きを始めるまでの。
 彼女は決して誰にも赤子を抱かせなかったし袋からも出さなかった。魔除けのために乳児をぐるぐる巻きにするのは当たり前の習慣だったから、誰も疑問に思っていなかった。けれどいよいよ仲間に我が子の姿を披露する日がやって来たとき、タムナは皆のどよめきに耐えきれず、崖から身を投げたのだ。
 ジェレムの腕には魔の黄金を宿す忌み子だけが残された。そのときになってようやくジェレムは彼女が赤子に「カロ、カロ」と呼びかけていた真意に気がついた。
 カロとは黒を表すロマの言葉である。タムナは右眼が普通の色に変わるように、必死でまじないをかけていたのだ。
(――もうよそう。これ以上思い出すのは)
 ジェレムは再度かぶりを振った。
 なんの因果か今また足はあの災いのもとへ向かっている。恐ろしいあの邪視に近づいていると思うと気が重い。
(全部アクアレイア人のせいだ)
 ホリーがカロを預かってくれなかったから。自分を助けてくれなかったから。
 ジェレムは足元の小石を蹴った。草原に飛んでいったそれは、どこに落ちたのか少しの音も響かせなかった。




 ******




 酷いな、と思わず独り言を呟く。大砲で撃たれたと思しき穴だらけの城壁を見上げ、カロは次の街に入るべきか否か逡巡した。
 北パトリアには好戦的な領主が増えた模様である。荒れた街道に壊れた橋、灰塵と化した麦畑、付近でいくつも争いの爪痕を見かけた。極めつけが防備を丸裸にされたこの小都市だ。今は休戦中のようだが相当激しくやり合ったのが見て取れる。
 壁の機能を果たしていない街壁には小隊が苦もなく通れそうな大穴が開いていた。突破口は至るところに散見されるも補修に当たる兵士はいない。瓦礫を片付けるのは虚ろな目をした住人だけで街は廃墟さながらに静まり返っていた。通行料を払わずに済むのはありがたいが、この有り様では路銀すら稼げそうにない。
(まあいいか。何か金目のものが落ちていたら拾おう)
 気を取り直し、カロは目についた穴の一つからそっと街に踏み込んだ。敵の蹂躙を受けたのがひと目で知れる荒廃ぶりで、どこもかしこもめちゃくちゃだ。屋根の落ちた家もあれば外壁の崩れた家もある。大通りの石畳はめくれ上がり、砂埃が舞う以外には小銭一枚落ちていなかった。二十歩も進めば期待したものに出くわすのは難しいと知れる。いや、それどころかこちらのほうが金を無心されそうだった。
「…………」
 カロは瓦礫や建物の陰から余所者を見ている人々を振り返る。老人も子供も男も女も皆拗ねた目をしていた。日は高く昇りつつあるのに暗いムードが払拭される気配はなく、ただひたすらに感じが悪い。
 こういう土地では揉め事が多くなる。くだらない足止めを受けないために、歩調を早めてカロは街の出口に向かった。立ち寄ったばかりではあるが、もう少し見て回ろうかという気がまったく起こらない。

「――ファーラル!」

 だから歩みを止めたのは、相応の理由あってのことだった。懐かしいロマ語にカロはハッと周囲を見回す。既に市街地は通りすぎ、木立の生い茂る外縁部まで出てきていた。要するにロマが宿営地に選びたがるような寂しい場所だ。
ファーラル(兄弟)、カテインニャン(どこから来た)?」
 声の主はすぐに枝から降りてきた。自分よりも少し若い、角ばった顔つきの強情そうな青年だ。
「アルタルーペの南から」
 アレイア語で答えたカロに若者は矢継ぎ早に次の質問を投げかけた。今度はロマの言葉ではなくアレイア語の本家たるパトリア語で。
「一人なのか? 他のロマは?」
 まともに応じれば面倒なことになる問いだ。普通ロマは己の一族と旅をしている。元々一人だと言えば長ったらしい説明を求められるのは明らかだった。
「いない。そっちも一人か?」
 カロはさりげなく話を相手のほうに逸らす。すると彼は悔しそうに歯を食いしばった。怒りに震えた声が「狩りに遭った」と災難を告げる。「全員か?」と問えば小さな頷きが返された。それはまた、なんとも気の毒な。
「……なあ、どうだ? お前一人なら俺と一緒にならないか? きっとお互い助け合える。これからどうしたらいいのか途方に暮れてたところなんだよ」
 見知らぬロマの誘いにカロは首を横に振った。
「悪いが行かねばならないところがある」
 そう断ると男は「なんだよ! それくらい一緒に行ってやるじゃないか!」と食い下がる。「やめておけ」と言ってもまるで聞こうとしない。先に嫌になるのは確実に彼のほうなのに。
「このご時世にロマが一人でうろつくなんて自殺行為だぞ!」
 男は更に脅しめいた忠告をしてきた。だがそれも自分には意味のない助言である。二十年、ずっと一人であらゆることに対処してきたのだ。今更他人の手など借りるまでもなかった。
「心配はいらない。盗賊を返り討ちにするくらい簡単だ」
 これ以上関わり合いになっても仕方ないなと断じて歩き出す。ロマの青年は「返り討ち? すごいじゃないか」としつこくカロにくっついてきた。コートの袖を掴まれたので思いきり振り払う。よろけた男は「せめて名前だけでも!」と追いすがった。
「カロだ」
 途端に彼は身を引いた。「……み、右眼の?」と怯えた声で呟かれ、冷たく男を見つめ返す。こんなことで一々傷つきはしないけれど、ロマは昔とちっとも変わっていないらしい。
「…………」
 固まったまま動かない青年を置き去りにカロは小都市を後にした。傍らではイーグレットがむすっと唇を尖らせて後方のロマを睨んでいる。
「別にいい。気にしてない」
 その形相に吹き出しそうになりながらカロは若い友人を諌めた。彼だけだ。いつも変わらず全て受け入れてくれるのは。ロマの間に居場所などなくていい。イーグレットの仇さえ討てれば自分はそれで。
 カロは懐の小瓶を強く握りしめた。この脳蟲の水もそろそろ変えてやらねばなるまい。




 ******




 アルタルーペの峠を越え、川沿いの平原地帯に入って数日が過ぎた。やっとあの鬱陶しい挨拶をしてこなくなったなとフェイヤは赤髪の騎士を盗み見る。
 押し黙り、一行についてくるアルフレッドの表情は硬い。以前ならこちらが彼に目をやるとにっこり笑いかけてきたものだが、そんな馴れ馴れしさも消え失せた。
 いいことだとフェイヤは頷く。このまま自分たちの側からも消えてくれればなおいいが。
「せめて次の街で代わりの武器が手に入ればいいんだけどねえ……」
 と、同じく騎士を振り返っていたトゥーネが呟く。相手はパトリア人なのに甘い態度を見せる彼女にフェイヤは思わず眉根を寄せた。
「まだあいつのこと気にかけてるの? いい加減放っておいたらどう?」
 すぐ前を行くジェレムの背中を気にしつつトゥーネを睨む。アルフレッドがロマに媚びなくなったのは喜ばしいが、今度はトゥーネが普段の彼女ではなくなっていた。昨日も「そんなにあの剣が惜しいなら一人で引き返せばいいんだ」と言うジェレムに不満げな顔をしていたし、理解不能だ。老人の機嫌を損ね、仲間の輪を乱して何がしたいのだろう。
「あいつが来てから私たち一度もジェレムの歌を聴けてないんだよ? 特別な歌を教えてもらってるところだったのに」
 フェイヤは自分たちが被っている不利益をトゥーネに訴える。自分としては彼女の間違いを正してやるつもりだったのだが、返ってきたのは思いがけない非難の台詞だった。
「……お前がそんなことを言うロマに育つなんて悲しいね。妹に合わせる顔がないよ」
 溜め息に身が凍る。大好きだった母親の名を持ち出され、フェイヤは大いにうろたえた。
「な、トゥーネ、何を言って……」
「わからないのかい? 自分がどれだけ恥知らずなことを言っているか。確かに彼はロマじゃないさ。だけどあたしらの恩人じゃないか」
 トゥーネはきっぱりアルフレッドを恩人と言いきる。彼女が騎士に感謝しているのは知っていたが、そこまで大層に考えているとは初耳だった。
「お、恩人って。やめてよ、パトリア人なんかに」
 動揺を堪えて否定する。ロマの道を踏み外そうとしているのはどう考えてもトゥーネのほうだった。パトリア人がロマにどんなことをしてきたか、彼女は忘れてしまったのだろうか。そのうえ恥知らずだなんて、仲間になんてことを言うのだ。
 息を飲み、フェイヤは老ロマのコートを引っ張った。ジェレムならトゥーネに正しいことを言ってくれると思ったのだ。彼女はおかしくなっている。すぐ元通りにしてやらなくては。
「用事さえ済みゃあいつは出ていく。だったら最後まで油断しないほうがいいんじゃないか? 次に俺たちを人さらいの手に委ねるのはお前の言う『恩人』かもしれない。もしそうなったとき、お前責任取れるのかよ?」
 振り返ったジェレムはトゥーネを強くたしなめた。うん、うん、とフェイヤも老人の言に頷く。だがトゥーネは、もう真っ向からジェレムに逆らうつもりらしかった。
「生き延びるには疑いも賢さかもしれないが、せこい賢さだね。とてもロマのする計算とは思えない」
 一触即発の沈黙が流れる。「あ?」と凄んだ老人にトゥーネは少しも目をやらなかった。そうして更に厳しい口調で言い返す。
「あんたの父親が――ジャンゴが生きていた頃は、相手が誰であれ恩には恩で返したじゃないか。あんたは立派なロマだった。誰もがあんたを手本にしてた。それが今じゃどうだい? あんたジャンゴに胸張って、今の自分を見せられるのかい?」
 痛いところを突かれたという顔で一瞬ジェレムが口ごもる。初めて見るその表情にフェイヤはぎくりと身を強張らせた。
「お前に何がわかるんだ。あの頃は小娘以下のガキだったくせに」
「ガキの目にだって偉大なものとそうでないものの見分けくらいついたさ! 一体どこまで落ちぶれるつもりなんだい? 父親の名前に泥塗って、あたしはもうそんなあんたは見たくないよ!」
 老ロマは目尻を吊り上げて「知った風な口をきくな!」と叫ぶ。トゥーネはトゥーネで「そっちこそ、あたしらの尊敬してたジェレムはどこへ行ったのさ!?」と金切り声で応酬した。怒鳴り合いは瞬時に取っ組み合いに変わる。いきり立った二人はほとんど同時に互いの胸倉に掴みかかった。
「そりゃあモリスにしょうもないロマになったと嘆かれるはずだよ! ロマのために戦ってくれた男を苦しめてなんとも思わないとはね!」
「あいつが思い上がってただけだろうが! 助けた見返りがあって当然なんて考えてるから馬鹿な思い違いをしたんだ!」
 フェイヤは「やめて!」と間に割り込む。しかし聞く耳は持たれなかった。ジェレムなど喉をゴホゴホ言わせているのに苛烈に声を張り上げる。
「なんだってアクアレイア人の肩を持つ? 昔の男でも恋しくなったか?」
「侮辱する気かい!? 思い出なんて重ねちゃいないよ!」
 えっとフェイヤは目を丸くした。昔の男? どういう意味だ? トゥーネはロマ以外にも夫を持っていたことがあるのか?
 気になったが疑問を挟む余地はなく、二人の争いはますます熱を帯びていく。声というより身体をぶつけ合うように大人たちはいがみ合った。
「嘘つけ! お前はあちこちで色んな男に声をかけられてたからな! どうせその誰かに似てるってオチだろう!?」
「馬鹿、ジェレム! あたしはただ恩知らずになりたくないと言っているだけじゃないか! ロマじゃなくても信じられる奴はいる。あんただって昔はそう言ってただろう!? あのときから――カロが生まれてから、あんたはどっかおかしいよ!」
 この言葉に激したジェレムはトゥーネの長い黒髪を引っ掴んだ。彼女が殴り殺されるのではないかと案じ、フェイヤは再び絶叫する。
「やめて! やめて! ジェレム、お願いだから!」
 子供の力では暴力を止められず、必死に老人に呼びかけた。トゥーネも逃れようと暴れるが、怒り狂った男の腕をほどけずに右に左に振り回されている。制止の声が響いたのはそのときだった。
「何をしているんだ!」
 騎士は素早くジェレムの腕を引きはがし、トゥーネを己の背に庇った。一瞬今度はアルフレッドが老人を叩きのめすのではないかと焦ったが、そんなことは何も起きずに静寂が立ち込める。
「…………」
 睨み合いはしばし続いた。しかし胸甲だけとはいえ鎧を着込んだ若者相手に立ち向かうほど無謀にはなれなかったらしく、老ロマは鼻息荒く拳を下ろす。
 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、トゥーネが騎士に「ありがとう」などと礼を述べるのでフェイヤはまたハラハラしなければならなかった。言われたアルフレッドのほうは「いや、別に……」と暗い声で答えただけだったが。
「今日はこれ以上進まん。俺は一人で寝る」
 と、ジェレムが路傍の草むらに荷を投げてどっかりと横になる。えっ、えっ、とフェイヤが戸惑っているうちにトゥーネのほうも「ああ、それじゃあたしも好きにさせてもらうよ!」と騎士を連れ、離れた場所に焚き火の支度を始めた。ジェレムとトゥーネに歩み寄る気配はなく、険悪な雰囲気が見えない壁を作りだす。
(ど……どうしよう……)
 フェイヤは決裂した二人の間で途方に暮れた。まさか自分たちがバラバラになってしまうなんて。
「…………」
 少し迷ってフェイヤはジェレムの隣に腰を下ろした。追い払われたらどこに行こうかと思ったが、幸い瞼を閉じた老人はフェイヤに何も言わないでおいてくれる。
 空はいい天気なのに、吹く風はとても爽やかなのに、一帯は恐ろしい緊迫に満ちていた。
(ジャンゴってどんな人? トゥーネの昔の男って?)
 できるだけ大人しく座っていたが、頭の中はぐるぐる回って忙しない。
(二人にもパトリア人を信じていた頃があったの? 私何も聞いてないよ?)
 初めて知った大人たちの過去に受けた衝撃は大きかった。――けれど一番の衝撃は。
(……母さんに合わせる顔がないって、トゥーネは本気で言ったの? 本当に?)
 フェイヤはぎゅっと自分を抱きしめる。そんなわけないとかぶりを振った。
 だってトゥーネは日頃から「パトリア人に気をつけろ」と口を酸っぱくして言っていたではないか。もし親切を受けたらなおのこと注意しろ、と。
「……ねえ、ジェレム、私たち駄目なことしてないよね? パトリア人は全部信じちゃ駄目なんだよね?」
 怖々と尋ねると老ロマは「そうだ」と頷いた。
「あの男が俺たちを助けたのは案内役にいなくなられちゃ困るからさ。そこをトゥーネは全然わかってないんだろう」
 返答を聞いて安堵する。フェイヤはもう一歩ジェレムに近づき、自分も彼に寄り添う形で横になった。




「ええと……」
 狐に摘ままれた心地でアルフレッドは切株に腰を下ろす。一体何が起きたのだろう。確かにロマとて喧嘩くらいはするだろうが、よもや二対二に分裂するまで深い亀裂が入るとは。
「あっちはいいのか?」
 一応聞いてはみたものの、トゥーネは「いいんだ」と首を振るばかりだった。ぱちぱちと音を立てて揺らめく炎に草をちぎっては投げ入れて、なんとか平静を取り戻そうと努めているように見える。
「……本当はもっと早くこうしなくちゃいけなかったんだ。あたしも年取って臆病になってたのかねえ。もう三人しかいないんだから、よくまとまってなくちゃって」
 言葉の意味を汲みきれず、アルフレッドは首を傾げた。トゥーネは一体なんの話をしているのだろう。最初から聞いていたわけではないのでわからないが、ジェレムたちとは自分のことで口論になったのではないのか。
「でもやっぱり、これだけはちゃんと教えないとフェイヤが正しいロマになれないから」
 大義を確かめる口ぶりでトゥーネは何度も小さく頷く。恩知らずになっちゃいけないんだ、ジェレムの代わりにあたしが示してやらないと、と彼女は囁く語気を強めた。
 意図は飲み込めないままだったが、トゥーネが何か大きな決断をしてこちらに来たということだけは理解する。ロマも一枚岩ではないらしい。少なくとも彼女はアルフレッドの受けた仕打ちに憤ってくれていた。
「昔はジェレムもあそこまで頑なじゃなかったんだよ。アクアレイア人と結婚して、モリスが生まれるくらいにはあんたらに期待してた時期があったんだ。だけど色々ありすぎてね、もう敵と味方の区別もつきやしない。あたしだってパトリア人なんか大嫌いだけど、あんたみたいに身体張って山賊を追っ払ってくれた男を信じたい気持ちは残ってるよ」
 そう聞いて少し救われた気分になる。けれどまた、脳裏に女将の例の台詞がちらついた。
(どんなにいい顔されたってロマを信じたら駄目だ――)
 気を許せば今度はアニークのピアスやイーグレットの手紙まで奪われるかもしれない。疑心暗鬼が胸を襲う。黙り込むアルフレッドにトゥーネは物憂げな眼差しを投げかけた。
「……あんたのほうはもう駄目かい? 大事なものをめちゃくちゃにされて、もうロマを信じられなくなったかい?」
 問いかけに、静かに彼女を見つめ返す。不安げに揺れる黒い瞳。諦め半分の眼差しは、胸の底に押し込めた遠い日の記憶を呼び起こした。
「いや……、そんなことはない」
 気がつけばアルフレッドは横に首を振っていた。我ながら呆れた大馬鹿だと思ったが、他の答えは知らなかった。
 人を信じたい。そう願うのは、自分が人に信じられたいと願っている裏返しなのだろうか。親がどうだとか周りがどうだとか関係なく、自分を見てほしいと願っているから。
「あなたは俺のために怒ってくれたんだろう? だったら俺も、その気持ちに応えたい」
 トゥーネはほっと息をつく。「剣のこと、本当に悪かったね」と詫びられて胸はまだ痛んだものの、言葉には出さずにおいた。何も知らなかった彼女を責めたくない。
「あたしに何かできることはある?」
 気遣いは素直に嬉しかった。アルフレッドは黙考し、「それじゃ歌を聴かせてくれないか」と頼む。パトリア人やアクアレイア人の歌ではなく、本物のロマの歌をと。
 トゥーネは少々たじろいだが「あんまり上手くないよ?」と照れくさそうに咳払いすると背筋を正し、ふくよかな胸に掌を置いた。昼下がりの平原に、間もなく穏やかな歌声が響き出す。
 申告通り、彼女は確かに歌うたいとしては平凡な類だった。声は大して伸びなかったし、高音を歌うと途切れ、低音を歌うと掠れる。それでも歌は悲しみを包み、やわらげる力を持っていた。
 軽すぎる腰に手を伸ばす。
 いつか戻ってくるだろうか。自分があの剣に相応しい騎士でさえあれば。
「…………」
 優しい子守唄にまどろんで、アルフレッドはいつしか膝を抱えて眠り込んでいた。ジェレムの舌打ちにもフェイヤの戸惑いにも気づくことなく。




 ******




 翌日も気まずい分裂状態は続いていた。辿り着いた次の街でフェイヤは一人小さく嘆息する。
 振り向けば道の遠くに二人分の人影が揺れていた。開きすぎた距離が怖くてジェレムの手を引いてみるものの、老ロマはさっさと門をくぐってしまう。
 訪れたのは申し訳程度の土塁と防壁に守られた小さな田舎街だった。簡素な聖堂の他には普通の家屋と大差ない宿と酒場、鍛冶屋と雑貨店くらいしかない。通行人には老人や女が目立ち、物々しい雰囲気だった。この辺りで小競り合いが増えているのと何か関係があるのだろう。すれ違った数人の主婦が「うちの亭主はいつ帰ってくるのかねえ」と嘆き合っている。どうも街の男たちは戦場に出ていってしまったらしい。
「踊れや騒げやって感じじゃねえな。路銀はこの間がっぽり稼いだし、食い物の調達だけしておくか」
 後で落ち合おうと言ってジェレムは一人で行ってしまった。老ロマの後ろ姿を見送って、フェイヤはくるりと踵を返す。
 街門脇ではちょうどトゥーネがアルフレッドに手を振っているところだった。騎士も用事があるらしく、彼女とは別行動を取る雰囲気だ。
 今ならトゥーネと二人で話ができるかも。意を決し、フェイヤは急ぎ彼女に近づいた。「来て!」と袖を引っ張るとそのまま誰もいないブドウ畑の裏に回る。
 聞きたいことは一つだった。昨日の信じがたい裏切り行為についてである。
「どうしてあいつにロマの歌を聴かせたの!?」
 答えてと迫るフェイヤにトゥーネはまたも悲しげに眉をしかめた。今までとまるで違う彼女にただ恐ろしくなる。本当に、トゥーネはどうしてしまったのだろう。
 フェイヤにはわからないことだらけだった。それなのに彼女が勝手な真似をやめないから不安は余計に膨らんだ。このままではトゥーネがジェレムに追い出されてしまうのではないか、自分たちは離れ離れになってしまうのではないのかと。
「ねえ、ジェレムに謝ってよ! 今ならきっと許してくれるから!」
 どうか仲直りしてくれと長いスカートにすがりつく。しかし彼女は自分から折れるのは不可能だと首を振った。
「ジェレムは恩を仇で返した。ロマとして、あたしはそれを許せない」
「だからその考え方がおかしいって言ってるのよ! 私たちに刃を振り下ろすかもしれないパトリア人から武器を取り上げて何が悪いの? あんな剣、ないほうがずっと安心できるでしょ?」
「恩人を騙してまで自分たちの安らぎが欲しいのかい? あたしが歌ったのはあんたたちの忘恩を償うためだよ。だけど悲しみは癒しきれなかった。まだ罪は残ったままだ」
 返答にフェイヤはますます混乱する。罪なんて犯した覚えはなかった。呆れられる筋合いはもっとだ。自分はいつも大人たちの言いつけを守ってきたし、トゥーネもなんていい子だとしばしば誉めてくれていたのに。
「悲しみ? 悲しみって何? あの騎士が何をどう悲しんでいたっていうの?」
 泣きそうになりながら怒りにも似た感情をぶつける。どうして彼女はこちらの話に耳を貸してくれないのだろう。もどかしくて気が変になりそうだ。
「騎士ってのは家族や恋人と同じくらい自分の剣を大切にするんだよ。そりゃあんな奪われ方をすれば悲しいに決まってるさ」
「嘘!」
「嘘なもんか。大体嘘ついてどうするんだね」
「絶対嘘だもん! だって私、パトリア人が悲しんでるところなんか見たことない!」
 フェイヤは叫んだ。「あいつらは私たちが泣いてるときでも笑ってるし、そうじゃなきゃ威張ってるか怒ってるかでロマとは全然違うじゃない! これ以上馬鹿なこと言わないで!」と。
 それを聞いたトゥーネはハッと瞠目する。また嘆かせるようなことを言ってしまったかと思ったが、今度彼女が見せたのは失望の表情ではなかった。
「……ああ、そうか、そうだよね」
 ぶつぶつと呟くとトゥーネは額を押さえてよろめく。
「そうだった。お前にはわからなくって当然じゃないか。人さらいを怖がって、あたしたちがお前をパトリア人やアクアレイア人から遠ざけてきたんだものね……」
 彼女の声には沈痛な悔恨の響きがあった。ひょっとして思い直してくれたのだろうかとフェイヤは台詞の続きに期待する。
「ごめんよ、お前がどんなに素直な子供かあたしは忘れてたみたいだ。お前がアルフレッドのことを心ない怪物だって思い込んでても仕方ないことだったのに」
 ジェレムほどではないにせよ、長い年月を生きてきた女ロマはすんなり己の非を認めた。しかし彼女の謝罪はフェイヤをますます戸惑わせる。トゥーネの口ぶりでは、まるでこちらが誤りを正しいと信じているかのようだったから。
「どういう意味? 思い込んでるって何?」
 尋ねると逆に「フェイヤはアクアレイア人のこと、どれくらいジェレムから聞いてるの?」と返される。パトリア人じゃなくてアクアレイア人の話だよと念押しされ、改めて考えてみたところ、ジェレムが彼らを特別嫌っていること以外ほとんど何も知らないと気づいて愕然とした。
「ア、アクアレイア人は、戦争の手伝いをしたロマを街から追い出しちゃったんでしょう?」
 それでも唯一耳にたこができるまで聞かされた深い恨み節を口にする。だがトゥーネには冷静に切り返されただけだった。
「どうしてロマが彼らを手伝っていたのかは?」
「……知らない……」
 フェイヤは正直に無知を明かす。するとトゥーネは今まで一度も聞いた覚えのない過去のいきさつを語り出した。
「あのね、昔のロマは穴掘りが得意だったんだ。ずっと遠くから横穴を掘って、敵城の壁の真下に火をつけてやることができた。そんな技術を持っていたのはロマがパトリア人の鉱山で長いこと働かされていたからさ」
 うん、とフェイヤは神妙に頷く。人さらいに捕まればどうなるか、ジェレムにもトゥーネにも散々脅されてきたから、そこに送られたロマが少なくないのは知っていた。フェイヤの母と兄もきっとどこかの鉱山で生き延びているのだと信じている。たとえ二度と会えなくとも。
「あたしらの親世代までは本当に酷い暮らしを強いられていた。一日中ずっと穴を掘り続けて、病気になっても休めないし、ろくに食べるものもない。ガスが出て大勢死ぬこともあったらしい。ロマの言葉を使うのも禁じられて、随分たくさんの歌が忘れられてしまった。完全なロマ語を話す人間もいなくなった。――そんなロマを暗い穴から助け出してくれたのが、アクアレイアの初代国王になったダイオニシアスって人なんだよ」
 えっとフェイヤは瞬きする。アクアレイアの名が意外な形で現れて、思わず疑いの眼差しを向けた。しかしトゥーネは訂正などせず話を続ける。
「ジェレムの父親でジャンゴという偉いロマがいてね、彼はダイオニシアスに恩を返そうと仲間を率いてアクアレイアに味方したのさ。だからロマが戦争を手伝ったこと自体、貸しでもなんでもないんだよ。それより寧ろ、戦場が海に移って役に立てなくなった後もぐずぐず立ち去らないロマばっかりで、却って迷惑かけたんだ」
 ジェレムも昔はそういう考えだったんだという呟きはフェイヤの心を激しく揺さぶった。そんなことは全然知らない、私は何も聞いていないと立ち尽くす。
「アクアレイア人のほうが先に掌を返したんじゃなかったの?」
 衝撃のまま口をついた問いにトゥーネは静かに首を振った。感謝を忘れたのはロマのほうだと言わんばかりに。
「ジャンゴとダイオニシアスは立場や見た目の違いなんて関係なく親しかった。あたしらもあやかりたいと憧れたもんさ。だけど今じゃアクアレイア人もロマを嫌っている連中が大半だ。それでジェレムも昔のことは黙ったままでいたんだろう。お前がアクアレイア人に親しみを持って近づいて、傷つくことのないように」
 ごめんねと再び詫びたトゥーネの顔を見つめ返し、フェイヤは身を震わせる。ジェレムやトゥーネに聞かされてきた忠告がいっぺんに耳の奥に甦り、憤りはいや増した。
 たとえまったくの嘘ではなかったにせよ、真実でもない言葉を自分は信じてきたのか。ロマに危害を加える者として、人さらいもアクアレイア人も同じだと考えてきたのか。――それでは自分は。
「でもジェレムは、パトリア人もマルゴー人もアクアレイア人も大差ないって……!」
 堪らずフェイヤは声を荒らげる。信じたくなかった。また何か大事なことを隠されているのだと思いたかった。けれどトゥーネは優しい言葉で騙してくれない。
「同じだし違うよ。ロマだって考えや性格はそれぞれだろう? アクアレイア人やパトリア人、マルゴー人の中にだっていい奴はいるさ。簡単には見つかりにくいだけで」
「でも、でも、ちょっと親切にされたくらいで信用するなってトゥーネが!」
「そりゃあ下心があるかないかわからないときは用心しなくちゃならないよ。だけどアルフレッドは下衆じゃない。自分の損得なんて考えないであたしらを助けてくれたんだ」
「そんなことない! ジェレムは道案内がいなくなると困るから助けただけだって言ってたもの! 信じていいかどうかなんてわからないよ!」
 躍起になって首を振る。フェイヤにはどうしてもアルフレッドが悪人でなければならなかった。善人だという確たる証拠を突きつけられてはならなかった。
 だってもしあの騎士がなんの罪もない存在なら、自分が彼にしたことは――。
「カロのところへ連れていくと約束したのはジェレムだけだろう? 案内役にあたしやお前がいなくたって何も困らない。……フェイヤ、あの騎士にはね、お前を見捨てることだってできたんだ」
 落ち着いた声で言い聞かされ、フェイヤは言葉を失った。
 そうだ、アルフレッドには道を知るジェレムさえいれば良かったのだ。今更そのことに思い至り、にわかに鼓動が早くなる。
「だってジェレムが……、剣が怖いならなんとかしてやるって…………」
 もう何を否定したいのかわからないままかぶりを振った。そんなフェイヤにトゥーネは囁く。
「あたしはね、アルフレッドがお前を取り戻してくれたと聞いたとき、なんて頼もしいんだと思ったよ。あたしはもうお前ともジェレムともこれっきりかと諦めてたから。ほんの短い間だけでも人さらいに怯えずに旅ができるんだって、そう思ったら嬉しかった。お前はそんな風には安心できなかったかい? あの騎士を信じてみたいと思わなかったかい?」
 トゥーネは屈み、温かい手でフェイヤの両手を握りしめた。けれどフェイヤには「だってジェレムが」と繰り返すしかできない。信じるな、裏切られるぞと呪いじみた老人の声が響いて。
「昔のジェレムは本当にアクアレイアが好きだったし、悪態をつく仲間からも随分庇ってやってたから、それだけ許せないでいるんだよ。アクアレイア人が絡むとジェレムはちっとも冷静じゃなくなるのにあたしの注意が足りなかった。ごめんねフェイヤ、結局はあたしらがお前を傷つけちまったね」
 優しい腕に抱きしめられ、フェイヤの頬を涙が伝う。
 どうしてもっと早く教えてくれなかったの。責める言葉は声にならず、胸で詰まって心臓を締めつけた。
 信じていい人もいるなんて知らなかったから。ロマにも悪いところがあったなんて知らなかったから。私は一体なんてことを。
「トゥーネ、どうしたらいいの」
 フェイヤはわっと彼女に泣きついた。
 剣はもう戻ってこない。自分が遠くにやってしまった。
 後悔してももう遅かった。愚かな自分は感謝すべき人を奈落に突き落としたのだ。




 ******




 この街で一軒だけの鍛冶屋に赴き、並べられた装備品をひと通り眺め回してみたものの、どれもあのバスタードソードの代わりにはなりそうもなかった。主人曰く、領主同士の諍いが頻繁になって飛ぶように武器が売れ、ろくな品が残っていないとのことである。結局ここでは間に合わせの模造剣を購入したに過ぎなかった。
 手に馴染まない柄を握り、アルフレッドは鍛冶屋を出る。素振り稽古をするにしても前の剣と重さが違いすぎ、溜め息は飲み込みきれなかった。
「はあ……」
 陰鬱な気分を引きずって歩く。と、そのとき工房通りの向こうから見知った男がやって来るのに気がついた。
 我知らず眉をひそめてしまう。いつもみたいに避けてくれれば良かったのに、ジェレムは嘲笑を浮かべてこちらに近づいてきた。
「ふん、やっぱりお前もあいつらと同じ顔つきになってきたな。俺たちをいいように使って最後は見向きもしなかった、あのアクアレイア人たちと」
 棘のある老人の言葉に心が乱される。自分から不和の種をまいておいて何を言っているのだろう。それともジェレムにとってはこれが正当な報復なのか。裏切り者のアクアレイア人に対する。
「お前たちがロマを見捨てさえしなければ、俺たちが狩られることもなかったんだ」
 獰猛な双眸が噛みつくように睨んでくる。ロマの言い分は一方的で、彼だけが正しいとはアルフレッドには思えなかった。腹の底でくすぶっていた怒りももたげ、つい口答えしてしまう。
「どうしてそんなにアクアレイアを悪者にしたいんだ? 確かにアクアレイア人はロマを追い出したかもしれないが、ロマのほうだってそうなるまで勝手な振る舞いを続けたじゃないか。自分たちの行動に不幸を招く原因がなかったか、一度も考えてみたことはないのか?」
 問いかけにジェレムは眼光を鋭くした。対話しようという気はないらしく、老人は無言で唾を吐く。独りよがりなその態度にアルフレッドは強く拳を握りしめた。
 己とてあんなことさえされなければ、ロマに不信感など抱かなかったのに。
「…………」
 互いにきつく睨み合う。ここを譲ったら負けを認める気がして退けなかった。騎士としての志も、伯父への感謝も、有名無実な代物に腐らせてしまうような気がして。
 そのときだった。不意に誰かの泣き声が響いてアルフレッドは背後の坂道を振り返った。
 見れば丘のブドウ畑から別のロマたちが歩いてくる。占い女に手を引かれ、泣きじゃくる少女の姿にアルフレッドはぎょっと目を剥いた。
 また何かあったらしい。ロマは事件に巻き込まれやすいから、悪さをされたのかもしれない。ジェレムのことは一旦脇に置き、アルフレッドは急いで二人のもとに駆けつけた。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
 尋ねるや否やフェイヤは更に瞳に涙を溢れさせる。「ごめんなさい」と謝られ、わけがわからずトゥーネを見やった。女ロマは聞いてやってくれと頼むように少女のほうへ視線を向ける。
「ごめんなさい、私がジェレムに剣が怖いって言ったから」
 ああ、そう言えばトゥーネがそんなことを話していたっけとアルフレッドはひとりごちた。しかしどうして今になって。フェイヤはずっとジェレムに従順で、こちらには冷淡だったのに。
「新しい剣を買うお金、私が踊りで稼ぐから、だから」
 泣きすぎて少女の声は引きつっていた。「いや、その程度の持ち合わせはある」と断ると「でもそれじゃ……!」とますます涙を大粒にする。
 どうやらトゥーネが彼女に何か言ったようだ。だがこんなに激しく泣かれると困惑せざるを得なかった。路傍には興味津々の住民たちが群がってきているし、肩越しに感じるジェレムの視線も穏やかでない。
「だったら私も一番大事なものを捨てる。他にできること何もないもの」
 目尻を拭ってフェイヤは宣言した。一番大事なものってとアルフレッドは目を瞠る。謝罪の気持ちが本物なのはわかったが、そもそも少ない荷物の中からこれ以上何を捨てる気なのだろう。子供の彼女は貨幣のアクセサリーはおろか自分用の楽器すら持っていないのに。
「私がお兄ちゃんに貰った名前、二度と使わない。誰にも呼んでもらわない。だから――」
「な、何を言い出すんだ! そんなのはいい!」
 アルフレッドはぶんぶん首を横に振る。思ったよりも重い発言が飛び出して焦った。兄というのはおそらく狩りに遭ったロマだろう。ジェレム一行は以前にもたちの悪い賊に襲われたようだから、きっとそのときに。
「でも、でも、他に私…………」
 ひっくとフェイヤは嗚咽をあげる。言葉に詰まった少女に代わり、トゥーネがそっと耳打ちしてきた。曰く、フェイヤというのは男名で、兄妹はもし互いが引き裂かれてしまったときは名前を交換して片時も忘れないようにしようと約束し合っていたそうだ。
「そんな特別なものを……」
 固辞するアルフレッドにフェイヤは「いいの」と言い張る。「それくらいじゃないと釣り合わない」と彼女は断固たる決意の表情で答えた。
「私がフェイヤの名前を捨ててもお兄ちゃんとの約束まではなくならないもの。約束したということさえ忘れなきゃ、心は繋がったままでいれるよ」
 少女の台詞にアルフレッドは深く静かに打ちのめされる。「私が悪かったの。だからジェレムを怒らないで」と懇願され、何をしているんだ俺はと震えた。こんな小さな女の子でさえ大切なのは形ではないと知っているのに。
 仮にジェレムを言い負かすなり打ち負かすなりできたとして、果たしてそれがなんになったというのだろう。溜飲は下がったかもしれない。だがそれだけだ。己は危うく騎士ではなく、剣を騙し取られたただの男に成り下がるところだった。
「……いや、やっぱり遠慮するよ。もうフェイヤはフェイヤという名で覚えてしまったし、俺も少し執着心が強すぎた」
 ためらわずに首を振る。「どうして」と問われたが、彼女に名前を捨てさせる権利が自分にあるとは思えなかった。
「フェイヤの言う通りなんだ。貰ったという事実が大事だったんだ。それなのに俺は――」
 未熟者で嫌になる。サー・トレランティアにもブラッドリーにも程遠くて。
 長い息をつき、アルフレッドは少女の前に片膝をついた。「もう剣のことは気に病まない」と、己と彼女に、そして遠い地にいる主君に誓う。
 こんな損失はなんでもないことなのだ。もっと尊いものを失くすことに比べたら。
「フェイヤも気にしないでくれ。俺は今もフェイヤを助けて良かったと思っているから」
「……!」
 ロマの少女はアルフレッドがただの一度も怒りまかせの暴言を吐かず、感激したらしかった。「本当に?」と聞かれたので「本当だよ」と頷き返す。するとフェイヤは大喜びで老ロマのほうへ跳ねていった。
「ジェレム! アルフレッドはいいアクアレイア人――」
 道端に積まれていた薪が蹴り散らされたのはその直後だ。ガラガラと激しい音を立て、転がった材木は少女の足をすくませる。
 一切を拒絶するような、一切に見捨てられたような、底冷えする目で老ロマは女たちとアルフレッドを睨んだ。そのまま彼はものも言わず、こちらに背を向けて行ってしまう。
「な……なんで? トゥーネ、どうしてジェレムは……」
 蒼白な顔でフェイヤが振り返る。問われたトゥーネは何も答えられなかった。
 筋金入りのアクアレイア人嫌い。それは敵になびいた仲間にまで適用されてしまうらしい。
 老人が去った後も漂う空気は重かった。
 溝はまだ、少しも埋まっていなかった。









(20160907)