冬には深い雪に埋もれ、海から見える湖も凍りついていた最果ての島は、点々と白っぽい苔に覆われた岩肌を天にさらしていた。
 季節は夏。とはいえ北風は痛いほど冷たく、降り注ぐ日射も弱い。着岸作業に追われる船員たちは汗一つ掻いていなかった。隣のイーグレットに至っては毛皮の上からケープまで着込んでいる。
 寒がりの友人と船縁に並び、カロは厚板が渡されただけの不格好な船着場を眺めた。錨はすぐに下ろされて、手の空いた者からぞろぞろと上陸を開始する。熊頭の船長に「おーい、お前らもついてこいよ」と手招きされ、二人で桟橋に降り立った。
「半年ぶりか。夏じゃオーロラは出ないかな」
 薄水色の空を見上げ、残念そうにイーグレットがこぼす。カロも「そうだな」と呟いた。
 この島に来るのはこれで二度目だ。一度目はイェンスの『墓参り』とやらに付き合って、生贄時代の彼が閉じ込められていたという古い洞窟神殿を拝んだ。あのときは世にも美しい天の光が迎えてくれたが、今日は荒れがちな波の音と潮風が響くばかりである。
 辺りをぐるりと見渡すも、極北の地に街や集落の類はない。視界に映るのはなだらかに隆起しながら断崖へ連なる苔むした丘だけだ。樹木は一本も生えておらず、雪解け水で土は湿り、湖畔は静まり返っていた。鏡のような湖で泳ぐ魚の影を横目に一行は岬を目指す。
 ――イェンスが皆をこの島へ連れてきたのは祈りではなく別れのためだった。引退すると決まった十名の中にはカロとイーグレットの音楽仲間もいて、もう一緒に歌えないのかと思うと少し寂しい。イェンスが言うには「将来のために必要な別れ」だそうだから、未練がましい態度を取る気はないけれど。
「やれやれ、まさかトナカイ野郎どもを討伐してきた俺らがトナカイを飼って暮らす羽目になるとはなあ」
 複雑そうに肩をすくめ、刺青ずくめの戦士がぼやく。
「仕方ねえって。軍務が終わればお払い箱にされるのは目に見えてたんだしよ」
「そうだとも、行き場がなくなるよりかマシさ。地上でも力を合わせて生きていこうぜ。なあ兄弟!」
 この頃やっと聞き慣れてきた北辺語にカロはそっと耳を澄ませた。イェンスたちの事情はよくわからないが、一時は相当危ない状況にあったらしい。国に船を返却させられるかもしれないとか、解散命令を出されるかもしれないとか、皆戦々恐々としていたようだ。どうしてカーモス族を追い払った彼らのほうが怯えるのか、カロにはさっぱり理解できなかったが。
「しかしイーグレットはいい提案をしてくれたよ。こんな北までは政府も食指を伸ばさない、カーモス族の抜けた穴のどれかを新しいねぐらにできるんじゃないかというのは。さすが未来の国王様だな」
 と、すぐ後ろで感心しきった声が響く。振り返れば副船長のオリヤンが古傷のある両目をにこやかに細めていた。
「いや、私は思いつきを言ったまでだよ。実際にトナカイを飼っていた船員がいなければ使えない案だったのだし、この先どんな苦労があるかわからない。誉めてもらってありがたいが、少し気が早いんじゃないか?」
 友人はやや照れ臭そうに、しかし真面目な顔で返事する。対するオリヤンは「それでも未来の苦難を想定して動けるようになったのは、君が我々の商売を手伝ってくれたからさ」と首を横に振った。
「パトリア語の読み書きができるようになって以来、パトリア人のでたらめな契約書に騙されることもなくなったし、蓄えも潤ってきた。本当に頭が上がらないよ。あいつらも、二人が希望をもたらしてくれたことは絶対に忘れないと言っていた」
 オリヤンは列の中ほどに目を向ける。今日でイェンスの船を去る男たちの、堂々とした後ろ姿にイーグレットも表情を引き締めた。
 カーモス族討伐に片がつき、イェンスたちは軍属の特殊部隊ではなくなったらしい。もう新しい船員が補充されることはないし、船や武器が傷んでも取り換えてもらえないそうだ。自分たちの力で生きていかなくては。皆が老いた先のことも考えておかなくては。イェンスはこの頃しきりにそう唸っていた。
 十名だけを最果ての島に残すのは未来への布石だという。彼らがトナカイの放牧生活に慣れてきたら、水夫としては衰えすぎた仲間の面倒を見てもらおうという計画なのだ。
「我々は誰も故郷に帰れないからね」
 自分たちで新しい家を建てないと、と囁くオリヤンの声音には多少不安の色が滲む。彼もまたいずれはどこかに隠居して、仲間を引き取るなり仕送りするなり恩返しに励むつもりらしかった。
 カロには住み家を欲しがる彼らが不思議で仕方ない。今の場所にいられなくなったら次の場所に移るだけではないのか。土地への執着なんて持ったら生きにくくなるばかりだろう。ロマはずっとロマの力だけで生きてきたし、どこかの国を頼りにしたこともなかった。彼らなら同じ生き方ができそうなのに。
「これからいくつかそういう拠点を増やせるといいな。そのほうが、きっと皆も安心できる」
 そう返事したイーグレットは、カロよりよほどイェンスたちを理解している様子だった。
 彼がロマとは違っているのを感じるとき、酷く堪らない気持ちになる。その差異が、いつか自分たちを引き裂きそうで。けれどもしイーグレットがロマと同じ考えの持ち主だったら、この呪われた右眼は受け入れてもらえなかったに違いない。
「おおーっ! いたぞ、トナカイの群れだ!」
 不意に前方で歓声が上がった。どうやら早くもカーモス族の置き土産が発見されたようである。響いてきた声によれば、冬にはいなかったトナカイが岬のあちこちで苔をついばんでいるとのことだった。
「……!」
 イーグレットは目を輝かせ、早足になった。「行こう」と手を伸ばされてカロは奇妙な違和感を覚える。最近どこかで同じ彼を見た気がしたのだ。
(――ああ、このときの記憶だったのか)
 現実の思考が混ざった途端、夢はぐにゃりと大きく歪んだ。イーグレットも、オリヤンも、北の岬も遠のいて消える。全て深淵の闇の中に。
 次にカロが目を開けたとき、眼前にあったのはアルタルーペの山々だった。




 峠を越え、長く険しい山道を下り、麓の村を通り過ぎたのがつい昨日。カロは北パトリアとの国境に近いマルゴーの森で眠っていた。
 朝というにはまだ暗く、景色は青い薄衣をまとっている。辺りには濃い霧がかかっており、視界は不明瞭だった。
 身を委ねていたブナの根元から起き上がり、カロは目つきを鋭くする。鳥のさえずる声とは別に何者かの息遣いが聞こえていた。
 獣ではない。それならもっと単純な殺気を漂わせる。一人でもない。二人、いや三人、こちらの逃げ道を塞ぐように少しずつ近づいてくる。
(山賊か)
 そう断じ、幹を背にして立ち上がった。
 ロマはしょっちゅう人狩りに遭う。イーグレットは「西パトリアの奴隷制度は廃止されたはず」と言っていたが、こっそりと人身売買に励む商人や鉱山で奴隷を働かせる領主は今も大勢いるらしい。
 腰のナイフに手をかけた直後、「大人しくしな! そうすりゃ命だけは助けてやる」としゃがれ声が響いた。霧の向こうから現れたのは予想通りのならず者。悪党らしく三人とも目元までよれよれのフードを下ろしている。
「へへ、怪我したくねえだろ? 抵抗しないほうが身のためだぜ」
 頭目と思しき無精髭の男が剣をちらつかせる。他の一人はクロスボウを構え、もう一人は荒縄を手に下卑た笑みを浮かべていた。目当てが路銀だけでないのは明らかだ。
 こちらが何も言わないのを怖気づいたと受け取ったのか、山賊どもは悠々と薄汚い手を伸ばしてくる。眉をひそめることもせず、カロはナイフを閃かせた。
「うぎゃああッ!」
 最初に悲鳴を上げたのは顎のしゃくれた縄男だ。顔面に切りつけられ、賊はその場に屈み込んだ。
「て、てめえ!」
 続いて矢を放とうとした癖毛の男に足元の小石を蹴りつける。射手の姿勢が崩れたために矢はまるで見当違いの方向に飛んでいった。弩兵が狼狽した隙に間合いを詰め、ナイフを握ったままの拳で顔面を陥没させる。
「おぶうっ」
 返す肘で背後に忍び寄っていた頭目にも一発お見舞いした。「うがっ」とよろめいた男の喉に鋭い刃を突きつければ、実力の差を悟った賊どもは「クソッ!」「覚えてやがれ!」とお定まりの文句を吐いて逃げていく。
 手応えのない連中だ。カロはナイフを懐に収め、ぱんぱんと服に着いた埃を払った。復讐の肩慣らしにもなりやしない。
「――」
 と、もう一つ視線に気づいてカロは森を振り返った。朝もや漂うブナの木立からいつもの白い影が覗く。
「イーグレット」
 呼びかけると彼は嬉しそうに駆けてきた。返り血のついた右手を心配そうに見つめてくるので「これくらい大丈夫だ」とズボンでぬぐう。すると若い友人はほっと安堵の笑みを浮かべた。
「さあ、行くぞ。イェンスに会うにはまだまだ北を目指さないといけない」
 イーグレットはこくりと頷く。声は一度も発さないが、意思の疎通には困らなかった。
(まるで生きているみたいだな)
 影を作らず、少しの物音も立てないで動く以外は。
 思い出と重なる部分は多いものの、この亡霊が己の生み出した幻だとはカロには到底思えなかった。友人は無念を残して死んだのだと、本当はまだ生きていたかったに違いないと、確信は日ごとに強まる。ルディアへの殺意もだ。
(あの女を探し出すのにイェンスの力を貸してもらえれば……)
 何年かかろうと構わない、命は命で償わせてやる。そう胸中に呟いてカロは北パトリアに続く街道を歩き出した。
(ああそうだ、イェンスになら今のイーグレットが視えるかもしれないな)
 自分だけの妄想でなければいいと願いつつ、森を跳ねる白い影の後に続く。この一ヶ月後、カロを追ってアルフレッドやジェレムたちが同じ場所へやって来ることはまだ知る由もないままに。




 ******




 カーリス共和都市が遠ざかる。紺碧の海と深緑の山岳の間を縫って広がった、明るく華やかな家々が。
 船尾に立って去りゆく街の景色を眺め、レイモンドは深々と溜め息をついた。ジュリアンと別れて船には平和が訪れたものの、気分は滅入る一方だ。
(結局説得できなかったな)
 悲壮なルディアの表情が脳裏をよぎり、また落ち込む。死ぬつもりだと打ち明けて以来、彼女は憑き物が落ちたように晴れやかな態度に戻っていた。
 それが良くない兆候なのは馬鹿な自分にでもわかる。平常心は覚悟が固まりきった証拠だ。これでますますルディアをカロに会わせられなくなった。今の彼女では進んで命を差し出すだけだろうから。
(陛下が悲しむぞって言っても『私は本当の娘じゃない』だもんな)
 ルディアがそう考えているのが一番つらいかもしれない。親子の間の愛情は確かに本物だったのに。それとも絆が深かったからこそ「最後まで騙したままだった」という罪の意識も強いのだろうか。
 ちらりと背後に目をやれば、風をはらんだマストの下で彼女は海を見渡していた。まるでこの世の見納めと言わんばかりで切なくなる。レイモンドは募る焦燥を散らすべく、左右にぶんぶんかぶりを振った。
(弱気になるんじゃねーぞ、俺。何があっても姫様を守るって決めただろ!)
 鼻息荒くルディアのほうへ足を向ける。明るく声をかけようとしたが、生憎それは叶わなかった。レイモンドが口を開く前にご機嫌な別の声が呼びかけてきたからだ。
「おっ、いたいた! ブルーノさん、ちょいと倉庫に来てくださいよ!」
 甲板下の船倉に続く梯子から上体だけ乗り出したパーキンが手を振ってくる。金細工師に名指しされたルディアは「なんだ?」と男を振り返った。
「へっへ、ローガンの野郎から取り返したアレをご披露しようと思いましてね! 本当はパトロン以外にゃ見せたくないんですが、アレが戻ってきたのはあんたのお慈悲のおかげなんで、今日だけ特別大サービスです!」
 もったいぶりつつパーキンが誘う。そう言えば何やら大掛かりな機械を積み込んでいたなと思い出し、レイモンドはルディアにそっと耳打ちした。
「見にいくのか? だったら俺もついてくけど」
 護衛役を買って出たのは下心あってのことではない。このもみあげ男が余計なトラブルばかり招くので警戒心が働いたのだ。ルディアも多少訝しみながら金細工師に頷いた。
「折角だ。二人で寄せてもらっても構わないか?」
「ええ、どうぞご遠慮なく! まあしがない一般庶民のお二人には俺のアレがどうすごいのか理解するのは難しいかもしれませんがねえ」
 小馬鹿にした口ぶりにレイモンドはムッと眉間のしわを濃くする。この男は媚びるか見くびるかしかできないのだろうか。オリヤンもよくまたこんなクズを乗船させる気になったものだ。
「それじゃさっさとお願いしますよ! 支度はすっかり整ってるんで!」
 金細工師はそう急かし、いそいそと階下へ降りていく。レイモンドは盛大に嘆息をこぼしてルディアと目を見合わせた。
「期待はできんが、ローガンが高い金を出して開発させた機械には違いない。ひとまず一見の価値くらいあるだろう」
「なるほど」
 その言葉で気を取り直し、レイモンドは彼女に続いて梯子を下る。
 さて、ランタンの灯る織物倉庫に着地すると先客が腰を下ろしていた。
「やあ。レイモンド君、ブルーノ君」
「あれっ、オリヤンさんも?」
 尋ねると亜麻紙商は「ああ」と頷く。
「どうやら私にアレを売り込むつもりらしくてね」
 オリヤンが示したのはレイモンドの身長より少し高い、大ネジ式のプレス機だった。ワイン作りの盛んな地域でよく見られる、ブドウ搾りの機械である。骨組みは木材で、実を押し潰す平板と極太のネジは重たげな鉄でできていた。だが何故か実を入れる樽と搾り汁の受け口がついていない。パーキンはこれをどうするつもりなのだろう。オリヤンの船に果実の類は積まれていないはずだけれど。
「ただのブドウ圧搾機にショックリー商会が融資したのか?」
 あからさまに胡散臭そうにルディアが尋ねた。彼女もローガンが卑劣な手段で我が物にした発明品の実物を見て拍子抜けしている。そんな彼女に金細工師は不敵な笑みを浮かべた。
「いいや、こいつはブドウ圧搾機なんかじゃねえ。もっとすんげえ代物さ!」
「ブドウ圧搾機ではない? ふむ。確かにここに用途不明の折り畳み式作業台が付属しているみたいだが……」
「おっ、なかなかいいところに気づいたな! そう、ここの作業台を展開することで無駄なく次の工程に進めるようになってんだよ!」
「ワイン用でないなら想像がつかないな。一体何をプレスするんだ?」
 バジルがいたらヨダレを垂らして微に入り細に入り機械を調べているところである。だがレイモンドにもルディアにも彼ほどの情熱はなかった。
「まあまあ、順を追って話してやっから」
 座るように促され、二人でオリヤンの隣に腰を下ろす。
「えー、皆様、本日はお集まりいただきましてまことにありがとうございます」
 着席するやパーキンが薄っぺらな前口上を始めた。たった三人の観客相手に金細工師は恭しくお辞儀までする。
「海原を行く船の中ということで、足元がこのようにぐらぐら揺れておりますけれども、わたくしパーキン・ゴールドワーカー、誠心誠意皆様に世紀の発明をご紹介させていただきたく」
「いいからさっさと本題に移れって」
 長引きそうな気配を察してレイモンドはヤジを飛ばした。「馬鹿! 二十年も費やしてようやく完成したんだぞ!? もっと喋らせろよ!」と怒鳴られたが右から左に聞き流す。
「私も帳簿のチェックがあるから早くしてもらえると助かるんだが」
「はいっ! 旦那様! 承知いたしました!」
 オリヤンの苦言にはすぐに頭を下げるのだからやっていられない。どこまでも調子のいい男だ。
「そういうことなら単刀直入に申し上げましょう! 実はこいつはボクが人生を賭して作った活版印刷機、その名も『アレキサンダー三号』なのです!」
 ああ、なるほど。アレキサンダーを略してアレと呼んでいたわけか。そこにそんな意味があったとは――ではなくて。
「カッパンインサツキ?」
 なんだそれはとレイモンドは眉をしかめる。ルディアとオリヤンもきょとんとしていた。名前を聞いてもなんの道具かわからないとはだんだん話が怪しくなってきたぞ。
「うーん、いいですね、その鳩が豆鉄砲食らったような顔! でもわからなくたっていいんですよ! これはまだ世界のどこにも存在していない新しい技術なんですから!」
 理解の進まないレイモンドたちを脇にしてパーキンは印刷機とやらの説明を始める。なんでも紙と型とインクを用意して『アレキサンダー三号』でプレスすれば型に塗られたインクが紙に転写されるそうである。
「なんだ、カッパンインサツって要するに版画のことか」
 馴染みのない呼び方をするからわからなかった。版画なら知り合いに職人がいるし、版木を見せてもらったこともある。木の板に絵が彫ってあって、何枚でも同じ絵が刷れるのだ。近所の工房の親方は「時々コナーから依頼がくる」と自慢していた。
「ちっちっち、版画とはちょーっとワケが違うんだなあ」
 しかしパーキンは人差し指を横に振って否定する。「まあ百聞は一見にしかずでしょう!」とアレキサンダーの裏から大きな木箱を取り出すと、金細工師はその蓋をぱかりと開いた。
「これが『布教のためのパトリア神話集』で、これが『主神パテルの護符』! どっちも俺がアレキサンダー三号で作った印刷物です!」
 倉庫の床に置かれたのは、革張りの分厚い本が二冊と羊皮紙の札が十数枚。護符のほうはひと目で版画職人の作と知れた。正方形の真ん中に据えられた、ごちゃごちゃした古パトリア文字の五芒星はどれもまったく同じに見えたし、重ねて透かせばぴたりと一致したからだ。
(こいつ版画の最後の工程だけ機械化して世紀の発明とかほざいてんじゃねーだろな)
 不信感たっぷりにレイモンドはパーキンを見やる。大体版木をあんな鉄の板で押したらすぐ割れてしまうだろうに、自信満々なのも不思議だ。それに重いネジを手で回すくらいなら普通に刷ったほうが楽なのではなかろうか。
「……なんだこれは?」
 ルディアが声を震わせたのは、レイモンドが「何がすごいのかわかんねー」と言いかけたときだった。振り返れば彼女もオリヤンも瞠目し、食い入るように神話集を見つめている。
「筆跡に少しもブレがない。行間も揃いすぎなほど揃っているし、書き損じもないようだ。これを仕上げた書写生は悪魔に代筆でもしてもらったのか?」
 王女の驚愕ぶりに驚いて、レイモンドも余っていたもう一冊を手に取った。開いてすぐに「うわっ!」と仰け反る。神話の綴られたページには一糸乱れぬ神々しい文字がずらりと並んでいた。
 本は版画とは違い、全て手書きで量産される。文字数もページ数も多いから版木を彫るより写したほうが早いからだ。手仕事なので語句の誤り、文の省略は当たり前、酷ければインクの染みが読めないほどに散っていたり、書写生のヨダレの痕が残っていたりする。それなのにこの神話集は筆跡の美しさもさることながら、余白の輝きまで眩しかった。子供の頃、アルフレッドに読ませてもらった騎士物語とはまるで違う。
「これも版画、いや、北パトリアの職人が研究中だという木版かね?」
 続いて問いを発したのはオリヤンだ。パーキンは「おお、さすが亜麻紙商! よく木版技術をご存知で!」と歓声を上げた。
「けど外れです。木はすぐにすり減るので、いくら文字型を作っても本の印刷に耐えられないんですよ。特にこの神話集は三百ページ越えの大物ですしね! ボクも護符の五芒星は一部木版に頼りましたが、アレキサンダー三号の文字型は全部金属製なんです。どういうことかわかりますか!? 摩耗しにくい可動活字がどう画期的かわかりますか!?」
 これでもかと腕を広げ、血走った目でパーキンが尋ねる。鼻と鼻がくっつきそうなほど迫られて、オリヤンは「いや、ええと、私はあんまり本を読まないから」と首を振った。
「ちょッ、旦那様、本読まないってあんた富裕層でしょう!?」
「無教養の成金だからねえ。本は高くて手が出にくいし、なんなら人形芝居のほうが好きかな」
「ちょっとちょっとおおお!」
 当ての外れたパーキンが青ざめた。なんとか関心を呼び起こそうと金細工師は「北辺民の土地では今、パトリアの神々を崇める人間が爆発的に増えてるんです! 改宗のビッグウェーブが来てるんですよ! この『パトリア神話集』を出版すれば絶対に売れるんです!」と力説する。
「だが北辺民にパトリア語なんて読めないぞ? 印刷は確かに素晴らしい出来だが……」
「いや、だから、北辺民じゃなくてパトリア神官に売るんですって! 布教のために山ほど北に来てるんで! 神殿建てたら一冊は神話集を置いておきたいじゃないですか!? でも写本じゃ十年かかるんですよ! 護符だって手書きより印刷のほうが早くたくさん作れるわけですし!?」
「ああ、だったら買い手がつきそうだな」
 拳を打ったオリヤンにパーキンは「わかっていただけましたか!」と安堵の息をつく。続いて彼は開発に最も苦労したという大量の文字型を持ってきた。整然と箱に収められた小さな印形には一個一個アルファベットが刻まれており、信じがたいが総数にして五万個超だという。一ページにつき約三千個の文字を使うため、そんな膨大な数になったらしい。
 更にパーキンは特製インクを引っ張り出してきた。こちらはなんと水性ではなく油性だそうだ。乾きが早く、印刷に適したものを新しく調合したという。こちらのインクだけでもちょっとした商売になりそうだった。
 性格には難ありだが、職人としての彼の腕は本物らしい。すっかり感心したレイモンドは神話集をめくりながら「これって一冊いくらなの?」と質問した。
「うん? ウェルス銀貨なら百万くらいかな?」
 船倉に「はああああ!?」と絶叫が轟いたのは言うまでもない。パーキンによれば印刷費の他に羊皮紙代とアレキサンダーの開発費も含んでいるとのことだったが、それにしても有り得ない金額だ。庶民には手が届かないどころではない。
「けど亜麻紙商の旦那様がボクと提携してくださったらもっとリーズナブルにできますよ! ページ数も少なくして、主神パテルのエピソードだけに絞って、そしたら一冊十万ウェルスくらいですかねえ。あっ、十万ウェルスの本が百冊あるよりも一万ウェルスの本が千冊あるほうがいいってことでしたら、それもご相談に乗ります!」
 採算は取れる、絶対儲かると金細工師は繰り返す。だがオリヤンは及び腰だ。
「一ついいかい?」
「はい! なんでしょう!?」
 亜麻紙商の問いかけにパーキンは手を揉んで応じた。だがオリヤンとて百戦錬磨の商人である。甘い言葉やゴマすりを真に受けるはずがなかった。
「そもそも本を刷るためには、君がまとまった資金を持っているか、誰かからまとまった資金を借りるかしなければならないと思うんだが」
「はい、そうですね! ボクは旦那様に借り入れをお願いしたいなあと思ってます!」
「うん、なるほど。それはつまり、本が売れなかったときはもちろん、完成に至らなかった場合でも、私は君と共倒れになるという話だね?」
「……ッ」
 金細工師が返答に詰まる。オリヤンの冷めた瞳は「君に大金を渡したくない」と言っていた。当たり前の判断だ。商品の額が桁違いなだけに在庫を抱えた際の苦労は明らかだし、パーキンと運命共同体になるリスクなんて誰も負いたくないだろう。
「い、いや、あの、でも、」
「即金で払ってくれるなら君のところに亜麻紙を卸すのは問題ないよ」
「あの、旦那様、けどこれは製本さえちゃんとできれば絶対に売れる……」
「ああ、だろうね。私も商談を持ちかけてきたのが君でさえなければ真面目に検討していたよ。本当に残念だ」
 これ以上ない断りの返事にパーキンは砂と化す。「それじゃ私は帳簿の点検があるから」と梯子を登っていくオリヤンに譲歩の姿勢は見られなかった。
 しかしまあ、これは金細工師の自業自得というものだろう。日頃の行いさえ良ければ一考に値する儲け話ではあったのだから。
「俺らも上に戻ろうぜ」
 レイモンドはまだ神話集に釘づけのルディアに呼びかけた。オリヤンと違い、何故か彼女は倉庫を立ち去ろうとしない。真剣な表情で何やら深く考え込んでいる。
(……? 珍しい話でも載ってんのかな?)
 横からそっと覗いてみるが、ルディアが読みふけっている神話に目新しさは感じなかった。何に興味を引かれているのかよくわからない。
「悪い、待たせたな」
 そう言って彼女が本を閉じたのは随分経ってからだった。レイモンドがこのときの王女の考えを知ることになるのは更に後日の話である。




 ******




 水辺に来るとアクアレイアを思い出す。それが小さな泉でも、深いブルーにルディアの瞳が甦るのだ。
 彼女は今どこでどうしているのだろう。レイモンドはちゃんとついているのだろうか。こちらがカロに追いつくまで無事でいてくれればいいけれど。
「……ふう……」
 水筒に湧き水を汲んでアルフレッドは立ち上がった。新しい情報は一切なく、いたずらに時間ばかりが過ぎていき、つい気持ちが焦ってしまう。こんなことではいけないと己を叱咤してみるものの、心を落ち着ける材料は皆無だった。せめてジェレムたちと良好な関係を築けたら不安は一つ減るのだが。
「……また置いていかれたか……」
 誰の気配もない渓谷を振り返り、アルフレッドは肩を落とした。ロマ一行の声は聞こえず、付近には滝の音だけが轟々と響いている。一筋縄ではいくまいと覚悟はしていたつもりだが、こうも存在を軽んじられるとさすがにつらい。
 峠道にはまだ新しい三人分の足跡が残っていた。それを目印に下り坂を駆け急ぐ。
(追いつくのは簡単なんだが、そろそろまともに応対してほしいところだな)
 カロを探す旅を始めて早一ヶ月、アルフレッドはいまだロマの同行者未満であった。元々がアクアレイア人嫌いのジェレムはもちろん、中年太りの占い女トゥーネにも、幼い少女フェイヤにも、ほとんど無視され続けている。
 打ち解ける努力はした。積極的に話しかけたし、挨拶は今も欠かしていない。ジェレムのために喉の薬を出してもみたし、それを目の前で踏みにじられても耐えて忍んだ。女子供と老人には堪えるだろう重労働も自ら進んで引き受けている。だが冷遇は一向に改善される兆しがなかった。
 油断していると一人だけ置き去りにされる。今は一本道なので困っていないが、もうじきアルタルーペも終わりだ。山を下りても同じ調子でやられたら、はぐれやしないか心配だった。少し後ろを歩いていないと石を蹴りつけられるのも厄介である。どうやらジェレムは視界にちらちらとアクアレイア人が映るのが気に入らなくて仕方ないらしい。
(カロに会わせてもらうまでの辛抱だ。これも騎士修行の一つと考えよう)
 ジグザグに折れた山道を下りつつ、無理矢理自分を納得させる。いつも世話になっているモリスの親族だし、少なくともこちらから礼を欠く真似はしたくなかった。
「ん?」
 道の先に三人のロマを見つけたのはそのときだ。だが少し様子がおかしい。立ち止まり、何やら小声で話し合っている。
 もしかして自分を待ってくれていたのか。期待に胸を弾ませてアルフレッドは彼らのもとへ足を急がせた。悲しいかな、それはぬか喜びであったけれど。
「あそこに空き家が見えるだろう。ちょっと行って、中を調べてこい」
 不遜な物言いで頼まれたのはあばら家の探索だった。指を差された木立の奥に目をやれば、屋根まで蔓草に侵食された汚らしい木造家屋の存在に気づく。日暮れも近いし、ジェレムはあそこを今夜の寝床にしたいのだろう。
「……わかった、行ってくる」
 色々言いたい気持ちを抑え、アルフレッドは了承した。普段はいないものとして扱うくせに自分たちの要求したいことはするんだな、なんて文句を垂れても始まらない。ここは頼ってくれたことを黙って喜ぶべきだろう。使える人間だと思われたほうが置いていかれる可能性は下がるに決まっているのだから。
(もっと普通に信用されたいというのは贅沢な望みなんだろうか……)
 アルフレッドはがさがさと茂みを越えつつ嘆息した。
 ロマというのはいまいち何を考えているのかわからない。先導するのを許さなかったり、かと思えば斥候になれと命じたりする。ジェレムは常に不機嫌で、女たちは寡黙だった。多くを語らない彼らをいくら観察しても思考を読むのは困難だ。生まれ育った環境も、価値観も、何もかも違いすぎて。
 とはいえ十歳足らずの女の子にまで冷たい視線を向けられるのは悲しかった。見知らぬ大人に対する不信感というよりは、不埒な男ではないのかと疑われているような気がして。もしそんな誤解があるなら即刻弁解したい。自分は騎士を志す者で、誓って女性に乱暴はしないと。そんなクズは父親だけで、母親がきちんと育ててくれたと。
「ええと、入口はここか?」
 ともかくもアルフレッドは頼まれ事をやっつけにかかる。
 峠道からやや逸れた立地なのが引っかかるが、玄関と思しきドアの周りには蔦は絡まっていなかった。よくよく見れば雑草に埋もれて『銀柳亭』と傾いた看板もかかっている。
(中にマルゴー人がいるかもと思って俺に見てこいと言ったのかな?)
 であれば先程の指示も納得だ。ここが空き家ならロマにも寝泊まり可能だが、宿なら大抵叩き出される。無用な衝突を避けるためにはアクアレイア人の自分が下調べしたほうがいい。
「ごめんくださーい」
 立てつけの悪いドアを押し込み、アルフレッドは湿気漂う屋内に踏み込んだ。朝夕の霧にやられたのか、壁板も床板も黒ずんで、一部は腐りかけている。
「すみませーん、宿の方はおいでですかー?」
 異様にきしむ足元に気を配りながら声を張った。玄関を開いてすぐに見えるカウンターは無人、奥の食堂にも人はいない。階段は薄暗く、壊れた手すりも修繕されずにそのままだった。
 誰も住んでいなさそうだ。そう断じて踵を返す。
「――お泊りで?」
 突如響いた野太い声にアルフレッドは飛び上がった。心臓をどきどきさせて振り向けば、食堂の更に奥、薄暗い厨房から顎のしゃくれた中年男が現れる。たちまち酒の臭気が満ちて、アルフレッドは顔をしかめた。
「あ、いや、泊まりというか……」
 しまったなと態度には出さず身構える。どう見ても男は堅気の人間ではない。額に派手な切り傷があるし、これ見よがしにナイフなど携えている。こんな宿に一泊したら法外な値をふっかけられるか、身ぐるみ剥がれて売り飛ばされるかしそうだった。
「おお、アルタルーペを越えてきたのかい? おんぼろ宿だがウチでゆっくりするといいよ」
 なお悪いことに厨房から別の仲間まで顔を出す。獲物を逃がすまいとばかりに二人はアルフレッドの前後を塞いだ。
(これはさっさと逃げるべきだな)
 ここに泊まりたいわけではなく、道を聞きたかっただけということにしよう。そう決めてポケットの小銭を握る。少し弾めば穏便に見逃してくれるだろう。二対一だがこちらは帯剣しているのだ。
「実は麓の道のことで……」
 途中で言葉を飲み込んだのは、二番目に出てきた男が突然フードを下ろしたからだった。出し抜けに「お前もしかしてアルフレッドか?」と問われ、当惑に唾を飲む。尋ねた男のモモと同じ髪色は否応なしに胸をざわつかせた。
「なんだ、ウィル? 知り合いかよ?」
 しゃくれ顎の男が問う。ウィルという呼称に全身が総毛立った。
 ――なんでこんなところにこいつがいるんだ。
「おお、古巣に残してきたせがれだ! ハハ、おい、随分でっかくなったなあ!」
 無遠慮に肩を叩かれ、思わず払いのけてしまう。突然すぎる邂逅に頭の中は真っ白だった。
 男は「ああん?」と太い一文字眉を寄せ、酒臭い息を吹きかけてくる。食器の割れる音だとか、夫婦喧嘩の大声だとか、小さい頃の記憶が呼び起こされてぞっとした。
 この尊大で憎たらしい顔と声。十年前に比べて老けたが間違いない、大嫌いだった父ウィルフレッド・ハートフィールドだ。
「なんだてめえ、親に手ェあげるたぁ何事だ?」
 人違いだろうと誤魔化したかったが、咄嗟に嘘をつけるほどアルフレッドは器用ではなかった。何より己の顔色が血縁を証明してしまっている。
 不精髭を酒のしずくで光らせてウィルフレッドは呆然とする我が子に赤ら顔で喚き立てた。
「久々に再会した父ちゃんにそれはちょいと薄情じゃねえのか? 男親は敬うもんだって口酸っぱくして教えてきたろ?」
 嫌悪感が凄まじく、手も足も口も動かない。どうすればいいかわからずに、アルフレッドは硬直したままでいた。
「おい、だんまりかよ。ちゃんと父ちゃんにごめんなさいしろっての」
 冷静さを取り戻したのは襟首を引っ張られたときだった。自分のほうが背も高く、体格もいいと気づいたのだ。昔は母のいないところでしょっちゅう暴力を振るわれて、怪物じみて見えていたのに、今の下腹の出た父は街のごろつき以下に思えた。
「……贅沢な家に住んでるじゃないか。屋根付きなんて、あんたにはもったいないくらいだ」
 喉に張りつく声を無理矢理音にする。反抗の言葉にしゃくれ顎の男がぶっと吹き出した。
「嫌われてやんの! うはははは!」
 腹を抱えた仲間を睨んでウィルフレッドは「うるせえ!」と吠える。親に恥かかせやがってと言わんばかりの顔を向けられ、何かの糸がぷつりと切れた。
「とっくにどこかで野垂れ死にしたと思ってたよ。安心してくれ、母さんも弟も妹もあんたがいなくなってせいせいしてる。顔を見に帰ろうだなんて少しも考えなくていい」
 早口で言い終えるとアルフレッドは出口に向かう。一秒たりとも同じ場所にいたくなかった。だが扉を開こうとした腕は、ムキになったウィルフレッドに掴まれてしまう。
「てめえ、昔は拳骨見せただけですくんでたくせに生意気になりやがって」
「母親に似たんだな。あんたの血が薄くて助かった」
「なんだと!? もういっぺん言ってみろ!」
「あんたみたいなどうしようもない人間にならなくて良かったと言っているんだ!」
 力をこめて突き飛ばせばウィルフレッドはあっさり転んで尻餅をついた。「うっ、ちょっと飲みすぎたか」とか言い訳していたが鍛えていない証拠である。腕力で勝てないと悟るとウィルフレッドはころりと態度を変えてきた。気色の悪い笑みを浮かべ、猫撫で声で息子のご機嫌取りを始める。
「怒るなよ、アルフレッド。お前たちを置いてったのは悪かったと思ってる。ただ俺はもう、あのクソ女とやっていけなかったんだ。子供のことは愛してたんだぜ?」
 早く開けと念じながら歪んだ玄関のノブを引いた。アルフレッドは無反応なのに不愉快な空世辞は続く。
「お前、立派な男になったよなあ。さぞかし稼ぎもいいんだろうなあ。どうだ、父ちゃんに一杯奢ってくれないか? 息子と飲むのが昔からの夢だったんだよ」
 反吐が出そうな台詞だった。財布を探るつもりなのか、またしても薄汚い手が伸びてくる。「いい剣だ」と鞘に触れられ、苛立ちは頂点に達した。
「――近寄るな!」
 怒号で相手を怯ませた隙に力任せにドアを開く。追ってこられたくない一心でアルフレッドは床に小銭袋を叩きつけた。
「……これで満足だろう」
 そう吐き捨て、荒々しく宿を出る。再び閉ざした扉はそのまま動かなかった。本当に小金で満足したらしい。
 木立を越え、峠道に戻り、小さく重い息を吐く。「どうだった?」とジェレムに問われ、アルフレッドは見たままを正直に答えた。できるだけ平静なふりをしながら。
「盗賊宿だ。中にガラの悪いのがいたし、近づかないほうがいい」
 返答を聞き、ロマたちはすぐに歩きだす。礼も言わない素っ気なさが天使の振る舞いに思えるくらい酷い十数分だった。だがもうきっと、永久に会うこともないだろう。




 ******




 山道の終わりは意外に近く、太陽が落ちる前にアルフレッドたちは麓の村に入ることができた。ブナの森に囲まれて、黒い木軸と白漆喰の可愛らしい家が並んでいる。村の人々は旅人の相手をして生計を立てているようだ。円形広場に集まった酒場や宿が活気を見せていた。
(早いな。もうあんなところにいる)
 二十棟もない小さな村の小さな広場に陣取ってリュートを奏で始めた老ロマを眺め、アルフレッドは瞬きした。
 人里にいるときはジェレムたちとは完全な別行動になる。彼らは彼らで金を稼がねばならないし、アルフレッドもその間に水や食料を調達しなければならなかった。
 さすがに今日は勝手に出発される心配もなかろう。なんでもないふりをしているが、三人とも相当足が鈍っている。しっかりした休息が必要なはずだ。
 本当に、子供と女と年寄りだけでよくアルタルーペの高峰を越えてくれた。思うところはあるにせよ、やはり感謝せねばなるまい。
「おい、旅芸人が来てるぞ!」
「やった! あの子とダンスできるかも!」
 ロマの周囲には気の早い人々が踊りを楽しもうと集まり始めていた。宿場村であるからか開放的な気風の住民は褐色肌の放浪者にも慣れた様子だ。
(良かった。ここなら村外れに一泊くらいさせてくれそうだな)
 アルフレッドはほっと胸を撫で下ろした。
 ロマの滞在を拒否する街は少なくない。それは彼らが詐欺や窃盗を働くせいだが、ジェレムたちはあまり警戒されずに済んだらしかった。年若い男のロマを連れていたらこうはいかなかったかもしれない。
(……ああ、相変わらずいい音色だ。どうせだったらあの曲を歌ってくれればもっといいんだが)
 ジェレムの演奏に耳を澄ませつつ、もったいないなと独白をこぼす。
 初めて彼に会ったとき、崩れかかった砦から響いてきた望郷の歌。今までも何度か村落に立ち寄ったが、ジェレムは決して仲間以外にあの歌を聴かせようとしなかった。アルフレッドも一度途中まで聴いたきりだ。パトリア人向けの軽快なメロディも、もちろん素晴らしいものだけれど。
(おっと、聴き入ってる場合じゃなかった。早いところ旅支度を整えないと)
 アルフレッドはきょろきょろと干し肉やパンの手に入りそうな店を探した。ちょうど表に出てきた女将と目が合ったので、その酒場に足を向かわせる。
「どうも。保存食は売ってるかな」
「いらっしゃい、お兄さん! ひと通り揃えてあるよ。何が欲しいんだい?」
 恰幅のいいハキハキとした女主人はカウンターの奥から商品リストを取ってきてくれた。わざわざ申し訳ないと思ったが、すぐに彼女がうわの空であるのに気づく。店内が暗いから気を回して軒先に出てきてくれたわけではなく、単に希少な音楽を聞き逃したくなかっただけのことらしい。
「ああ、いいねえ。夕暮れにリュートの調べ。ロマもああして音楽だけやってくれてりゃお互い幸せなのにねえ」
 うっとりと身をくねらせた女将が言う。彼女は耳では旋律を楽しみつつ、口では大いにロマの素行不良を嘆いた。
「あたしさ、この店を継いだばかりの頃、集団で食い逃げされたことがあって。そりゃもう大変だったのよ! どんなにいい顔されても連中を信じちゃ駄目だねえ。大損する羽目になっちまう」
 アルフレッドは苦笑いで注文を済ませる。こういう愚痴をこぼされるということは、自分は彼らの連れだと思われていないのだろう。
「この間ここを通っていったロマなんて、一人旅のくせにぶつぶつやかましくてさ。別に何かされたわけじゃないけど、あれも随分不気味だったわ」
 何気なく続けられた言葉に瞠目した。「一人旅のロマ?」と尋ね返すと詳しい話が返ってくる。
「ああ、背の高い男でね。こうやって顔を半分前髪で隠してて」
「!」
 右眼にかかる髪のうねりを指でクネクネ表現されて、カロなのではと疑念が強まる。聞けばそのロマが現れたのは一ヶ月ほど前だという。アクアレイアを旅立った彼がすぐにアルタルーペを越えたのだとしたら時期的にも合致しそうだった。
(すごい。ジェレムに任せておけばちゃんとカロに会えるんじゃないか?)
 ロマのことはロマに聞こうとモリスの言った通りである。まったくと言っていいほどコミュニケーションが取れていないので目的に近づいているのか不安だったが、己の杞憂だったらしい。
「うーん。あの爺さんの奏でるメロディ、なんだか心が明るくなるわ。踊りの女はちょいと年増だけど、女の子は色黒なりに愛らしいじゃないか!」
 女将の関心はまた広場の一団に戻っていた。過去痛い目に遭わされたらしいのに、彼女はにこにこロマたちを眺める。
 音楽は別と割り切れば彼らの来訪を心待ちにしている者は意外に多いのかもしれない。アルフレッドは少しほっとした気分だった。
「そうだな。村の人たちも楽しそうに踊って――」
 店先での立ち話が途切れたのは酒場の扉がキイと静かに開いたからだ。まだ日暮れ前なのに、肩に矢筒を提げた酔いどれがふらふら店を去ろうとする。
「ちょっと、お勘定は!」
 見世物に夢中だった女将の目つきがたちどころに鋭くなった。アルフレッドもその横で二人のやりとりを見守る。
「ああ? さっき払わなかったか?」
「貰ってないよ! 誤魔化そうとしたって無駄だからね! 魚料理とワインのお代、二十ペクニア置いていきな!」
「いやいや、やっぱり払ったって。皿を受け取るときに代金を渡すのがこの店のやり方だろ?」
「いちいち財布を出すのが面倒だから最後にまとめて請求しろってゴネたのはあんたじゃないか! いい加減なことを言わないどくれ!」
 女将の激しい剣幕になんだなんだと耳目が集まる。もじゃもじゃ頭の酔漢はチッと舌打ちしてポケットの小銭を数え始めた。
 何やら面倒そうな客だ。アルフレッドは酔っ払いが悪さをしないように睨みをきかせる。悪党はぶつぶつ文句を垂れながら代金を握った拳を振り上げた。
「ほらよ、クソババア! 二十ペクニアだ!」
 罵声とともに少額貨幣がばらまかれる。「ちょ、ちょっと!」と女将が小銭を拾い集め、アルフレッドがそれを手伝おうとした隙に男はさっと逃げ出した。
「あっ!」
「おい、釣り銭の計算がまだだぞ!」と声を張り上げる。しかしそんな言葉で男の足を止められるはずもなく、酔客はダンスの輪をぐちゃぐちゃにして道の向こうへ駆けていった。
 演奏を台無しにされたジェレムが露骨に眉をしかめる。気分良く踊っていた若者たちも興ざめした様子だった。小銭は全部合わせても十二ペクニアにしかならなかったらしい。女将は「やられた!」と地団太を踏んだ。
「大丈夫かね?」
「怪我しなかったか?」
 酒場の軒下には近所の住民と思しき老人や婦人が次々と集まってくる。その全員が口を揃えて「しょうがないねえ、銀柳亭の与太者どもは!」と憤慨するのでアルフレッドはぎくりとした。
(銀柳亭ってさっきの……)
 ウィルフレッドのいた宿だ。思わぬところで出てきた名前に小さく息を飲み込んだ。女将たちはこちらの動揺に気づいた風もなくぷりぷりと怒り続ける。
「ああもう、悔しい! 今日こそきっちり払わせてやろうと思ったのに!」
「あいつら小さな村だと思って舐めてるよ。ほんと早く余所の街に流れてってくれないかね」
「せめて伯爵様がちゃんと働いてくれればなあ」
 彼ら曰く、銀柳亭には何年か前から三人組の盗賊が住み着いているらしい。空き家で雨風を凌ぐくらい目くじらを立てることもなかろうと放っていたら、いつしか通りがかる旅人や村人をカモにするようになったそうだ。何度司法官に訴えても面倒がられ、討伐隊も出してもらえないという。もしかしたら裏で賄賂を受け取っているのかも、と人々は勝手な空想にまで腹を立て始めた。
「……盛り上がっているところすまない。そろそろ頼んだ品物を受け取ってもいいか?」
 これ以上聞くに耐えなくて、アルフレッドはそっと女将に申し出た。「あら、いけない!」と慌てて保存食一式を包んでくれた彼女に支払いを済ませると、足早に酒場を離れる。
(何をやってるんだあいつは)
 苛立ちを押し込めて長い息を吐く。歩調は自然と荒々しくなっていた。人の来ない場所に行きたくて、足は村外れの森に向かう。
(くそ、あんな奴のことさっさと忘れたかったのに)
 昔から人を人とも思わない言動は目立ったが、年取っていよいよ救いがたくなったようだ。盗賊宿と揶揄したこともあながち間違いではなかったらしい。マルゴーの司法官が動かないなら自分が牢にぶち込みたいくらいだった。
(引き返している暇があればな)
 アルフレッドはままならなさに歯噛みする。今は急ぎの旅の途中だ。とてもウィルフレッドなど相手にしていられない。
(あんな奴にかまけてる間にジェレムに置いていかれたら、それこそ目も当てられない)
 とにかく心を静めようと剣の柄を握りしめる。誰より尊敬するブラッドリーに譲られた、紋章入りのバスタードソード。ずっしりとした重みに意識を集中すれば気持ちは次第に落ち着いた。
 だが油断するとすぐ憎たらしい男の顔が脳裏をよぎる。残像を掻き消すようにかぶりを振り、アルフレッドは腰の剣をますます固く握りしめた。
(伯父さん……)
 薄灰色のブナの幹に片手をついて古い記憶を呼び起こす。そうして別のことを考えていないと父の宿に殴り込みにでも行きそうだった。




 アルフレッドがブラッドリーの屋敷に通い始めたのは八つになった年のことだ。街から父が消えたのがその少し前で、「良かったじゃんか」とレイモンドが喜んでくれたのを覚えている。
 武勇の誉れ高い伯父はアルフレッドに強烈な憧れを抱かせた。威厳、風格、鍛え抜かれた鋼鉄の肉体。どれを取っても父親とは雲泥の差だった。生まれて初めてアルフレッドは「こんな風になりたい」と思える男に出会ったのだ。
 ブラッドリーのすることならなんでも真似したし、言いつけに背いたことは一度もなかった。伯父の愛読書であった「パトリア騎士物語」に惹かれたのも当然だ。気づいたときには幾多の騎士の活躍に魅了され、それは人生の教科書にまでなっていた。
「レイモンド、見てくれ! 伯父さんが『パトリア騎士物語』をくれたんだ!」
 十歳の誕生日祝いに贈られた分厚い写本をカウンターに広げる。「おお、まじか!」と食堂の片づけもそこそこに駆け寄ってきた幼馴染は椅子に上がるなり顔を歪めた。
「うええ、なんだこれ? 文字ばっかり!」
 挿絵がないと文句を垂れるレイモンドに「これは最速版だから」と説明する。ちゃんとした装丁の写本など待っていたら何年経っても読めないので、巷にはまず大急ぎで筆写された紙束が出回るのだ。先日ブラッドリーはそのちゃんとした「パトリア騎士物語」を入手したそうで、エピソードごとの簡易版を一冊にまとめて綴じてくれたのである。
「内容は同じだ。大体これくらいの文章を読めないでどうする? 将来食いっぱぐれたくないだろう?」
「でもこれインク飛び散りまくってるし、ヨダレまでついてるぜ?」
 最初どれだけ嫌がっていてもあっさり慣れるのがレイモンドのいいところだ。翌日工房島で会ったときには「サー・トレランティアの黙して耐えられる性格が素晴らしい」とか「俺はサー・セドクティオのニコニコ笑って難癖をかわすところが好きだな」とか語り合えるようになっていた。何度も何度も通読したアルフレッドと違い、幼馴染はもう曖昧にしか物語を覚えていないが。
「サー・トレランティアは本当に偉い。主君のためにいつも正しいことをする」
 熱弁しながら頭に思い浮かべていたのは海軍中将として王国に尽くす伯父の雄姿だった。ブラッドリーへの憧れはトレランティアへの憧れと入り混じり、どんどん強く育っていった。ハートフィールド家の不名誉を許せなくなるほどに。
 ――アルフレッド? ああ、ウィルフレッドの長男でしょう。あの子も今に悪さするようになるよ。血は争えないって言うからね。
 心ない言葉を耳にするのは父の蒸発後も相変わらずで、名高い伯父に申し訳なかった。自分が悪く言われると、彼の名前まで傷つく気がした。
 人並みでなく勤勉であらねばあの父親と同じに見られる。アルフレッドにはそれは到底我慢ならないことだった。もし叶うなら「ウィルフレッドの息子」ではなく「ブラッドリーの甥」と呼ばれたかった。
 毎日のように伯父の屋敷を訪ね、毎日のように稽古をつけてもらう。多忙なブラッドリーに代わり、普段は別の教師が剣術指南をしてくれた。すぐに手を抜きたがる従兄弟たちに比べ、生真面目なアルフレッドはよく誉めてもらっていたように思う。
 そんな生活は十五歳になるまで続き、晴れて成人の日を迎えた。
「おめでとう」とブラッドリーに渡されたのが、長い柄と鋭く重い両刃を持つバスタードソードだった。
「知っての通り、これは片手でも両手でも使える剣だ。多彩な攻撃が可能な分、使いこなすには日頃の鍛錬が欠かせない。お前が今日までそうしていたようにな」
 片手半剣で戦えるということは努力を怠らぬ人間である証明だ。伯父はそう言って滅多に見せない微笑を見せた。お前に相応しい剣だろう、と。
 あのときの感動を、アルフレッドはどう言葉にすればいいのかわからない。ウォード家の鷹紋が柄頭と鞘に彫られているのも、遠慮せずに親族を名乗ればいいと言われているようで嬉しかった。
(そうだ。俺は伯父さんやトレランティアみたいな騎士になるんだ)
 初心を胸に刻み直す。アルフレッドは剣を握る手を離し、赤々と燃える空を見上げた。
 ブナの影は遠く伸び、周辺の闇は深まりつつある。冷たい風の連れてきた霧は静かに森に広がった。リュートの音色はまだ響いているけれど、じきにロマたちも解散するだろう。彼らはあまりささやかな宴を長引かせない。交代要員がいないから、くたびれるのが早いのだ。
(今度サールに戻ったら、チャド王子に頼んで討伐隊を組んでもらおう)
 アルフレッドはようやく冷めてきた頭でそう決めた。やはり己の肉親が住民に迷惑をかけている現状を完全には捨て置けない。カロの件の後回しになってしまうが、何もしないよりはましなはずだ。
「はあ……」
 漏れた溜め息は重かった。アルフレッドは父が盗賊宿を構えるアルタルーペを振り返り、「伯父さんの子供に生まれたかったな」と呟いた。




 ******




「なんだと? 下の村にロマが来てる?」
「ああ、そうだ。ジジイとガキと中年女だ。今日はここらで野宿すると思う。宿場村の連中はロマに部屋を貸したがらねえしな」
 仲間の報告にウィルフレッドは口笛を吹き、手の中のカードを投げた。「あっ、てめえ! 俺のほうが勝ってたのに!」としゃくれ顎が文句を言うが「こっちの話のが大事だろ?」とかわす。
 偵察ついでに早い晩酌を楽しんできた弩兵は「いい獲物だぜ」と舌なめずりした。お気楽なことにもう縄をかけた気でいるらしい。確かにそんな三人連れなら苦もなく縛り上げられそうだが。
「こないだの野郎にはしてやられちまったからな。今度はビシッと捕獲して、人買いの親父に売り飛ばそうぜ」
 負けず劣らず楽観的にウィルフレッドも口角を上げた。
 流浪のロマが失踪したところで探す者などいやしない。そのうえ連中は貧乏だから護衛を雇っている危険もなかった。首尾よく三人手に入れられれば半年は遊んで暮らせる儲けになる。このチャンスを逃す手はあるまい。
「おい、お前ら支度しろ!」
 ウィルフレッドの呼びかけに盗賊仲間は「おう!」と応じた。久々に会った息子の態度と負け込んだカード遊びに半ばいじけかかっていたが、でかい仕事が入ってきてくれたではないか。
(もっと上手いこと引き留めて、あいつも売り渡してやりゃ良かったな)
 そうすりゃ親孝行させてやれたのに、もったいないことをした。
 ウィルフレッドはショートソードを腰に帯び、ボロ宿の外に出て準備運動を始めた。実に数週間ぶりの素振りだが、振り回すか突くかすれば様になる武器は楽でいい。
 奴隷商から報酬を受け取ったら何に使おうか。上等の酒も若い女も好き放題だ。
 そんなことを考えていたら、息子のことなど頭から綺麗さっぱり抜け落ちていた。




 ******




 瞬く星々と半月が暗いブナの森を照らし出す。寝静まった宿場村の門の外、アルフレッドは眠れぬ一夜を迎えていた。
 昼間のことでまだ神経が高ぶっているらしい。疲れているのに全然寝つけず、数えた羊もそろそろ柵を破りそうだった。いつまでも気にしていたって仕方がない、どう対処するかも決めただろうと自分に言い聞かせてみるが、眠りの精はますます遠のくばかりである。
(今日は一睡もできそうにないな)
 諦めの境地に達し、せめて風邪を引かないように短いマントを被り直した。同じく村外れの森に休むジェレムたちのほうからはすやすやと気持ち良さそうな寝息が聞こえてくる。
(ロマも寝顔には刺々しさなんてないのにな)
 日暮れ過ぎ、集落を出てきた彼らに保存食の一部を譲ろうとして、徹頭徹尾無視されたことを思い返す。少女フェイヤは冷たい一瞥を投げかけた後、長いスカートを翻してジェレムの背中に隠れてしまった。占い女トゥーネの反応も似たものだ。首を横に振る意思表示さえもなく彼女はアルフレッドから離れていった。ジェレムの対応は言うまでもない。あの老人の場合、罵詈雑言を浴びせられなかっただけましだと考えねばならなかった。
(ジェレムの当たりは本当にきついからな。彼さえ態度を変えてくれれば色々と助かるんだが……)
 ブナの木に背を預け、アルフレッドは今日何度目かの溜め息をつく。普段は近くに寄りつかせてくれない彼らが隣にいさせてくれるだけでもありがたいと言えばありがたいけれど。
(隣とはいえあっちは根元、こっちは枝の上だ。視界に入れてもらえないのに変わりはない)
 嫌われぶりを嘆きつつ、斜め下で寄り添い合って眠るロマたちに目をやった。ジェレムとトゥーネは幹の左右にもたれかかり、間ではフェイヤが丸くなっている。少女の寝相はまるで大きな黒猫だった。尻尾の代わりに二本の三つ編みを垂れ下がらせ、よく跳ねるしなやかな両足をお行儀良く畳んでいる。骨太なトゥーネの膝を枕にした彼女の熟睡ぶりたるや、こちらに分けてほしいくらいだった。
(あの様子だと朝には体力も回復しそうだな。出遅れないように気をつけないと)
 どうせ眠れないのなら先に降りていたほうが賢明かとアルフレッドは夜空を仰ぐ。まだ白んではいないものの、東と西で闇の濃さは違ってきていた。一度引いた霧もまた川のほうから垂れ込め始めている。夜明けはもう間近だった。
「――」
 生き物の気配に気づいたのはそのときだ。やや荒い呼吸が耳に入り、熊か狼でも出たかと身構えるが、どうもそんな様子ではない。濃さを増す霧の向こうから、足音を殺して少しずつ何かが距離を詰めてくる。
(……なんだ?)
 アルフレッドはきょろきょろとブナの隙間に目を凝らした。だが暗闇はまだ深く、月明かりも霧のヴェールに遮られ、正体は掴めない。
(ジェレムを起こしたほうがいいか?)
 そう思って再び隣の木を見やったときには老ロマは起き上がっていた。鋭い目つきで周囲をぐるりと見渡して、女二人を静かに揺さぶる。リュートを担ぎ、フェイヤの手首を引っ掴むとジェレムはただちにその場を駆け去ろうとした。その逃亡は失敗に終わったが。
「――動くんじゃねえ!」
 しゃがれ声が一帯に響く。ロマを囲んで近づいてきたのはショートソードとクロスボウで武装した三人の強盗だった。逃げ道を塞がれて、ジェレムが走り出した足を止める。老ロマは女たちを庇いながら後退した。
(まずいぞ。どうする?)
 突然の襲撃にアルフレッドは息を飲む。枝から飛び降りればすぐに参戦可能だが、その前に賊の一人が構えている装填済みのクロスボウをなんとかせねばならなかった。着地に手間取っている間に攻撃されては致命傷になりかねない。ロマの誰かに当たっても大事だ。
「へへへ、逆らうんじゃねえぞ? 余計な大怪我したかねえだろ?」
 照準をフェイヤに合わせて弩兵が脅す。起き抜けの災難に少女は身を強張らせていた。トゥーネとジェレムは逃げる隙を窺っているが、剣を見せびらかす頭目と荒縄を持って迫る悪漢に成す術もない。このままでは捕まってしまうとアルフレッドは懐の財布に手を突っ込んだ。
(痛い出費だが人命には代えられん!)
 握った貨幣を弩兵の頭めがけて投げる。河原の石投げよろしくウェルス銀貨は美しい弧を描き、的にクリーンヒットした。
「あいたっ!」
 叫び声が響くと同時、ジェレムが賊に体当たりして道を開く。女たちは脱兎のごとく駆け出した。特にトゥーネの逃げ足は素早く、アルフレッドが地上に降りるわずかな時間に完全に危地を脱してしまう。
「ジェレム! ジェレムも早く!」
 と、そこに少女の必死な呼びかけがこだました。老ロマが弩兵に矢を放たせまいと応戦中であるのに気づいて踏みとどまったらしい。先に逃げてくれればこちらも逃げやすくなるものを、仲間を案じる気持ちが仇になったようだ。
「とっ捕まえろ!」
 頭目の命令に縄男が背中の大きな皮袋を掴んだ。二人の悪党は逃げ惑う少女を挟み撃ちにすると頭からその袋を被せてしまう。
「フェイヤ!」
 暴れもがく少女に気づいてすぐにジェレムが追いすがったが、皮袋を担いだ賊どもは霧の奥に見えなくなった。残った弩兵が老ロマにクロスボウを向けたのを、アルフレッドは慌てて背後から絞め上げる。
「……ウウッ……!」
 カクンと首を傾けて弩兵は意識を失った。フードが脱げたその瞬間、現れた特徴的なもじゃもじゃ頭に瞠目する。
(こいつ昼間の……!)
 盗賊宿の一味と言われていた男だ。ということは、さっきの二人のうち一人はウィルフレッドだったのか。
「フェイヤ! フェイヤ、どこだ! 返事をしろ!」
 動揺している暇もなく老ロマの怒号が響く。アルフレッドは「あっちだ!」とジェレムに叫んで走り出した。
 宿場村の出入口は二ヶ所しかない。一つは国境の橋へと続くこの北門、もう一つは峠道に続く南門だ。ウィルフレッドが関わっているならアルタルーペ側に逃げたと考えて間違いなかった。
(クソっ! あいつ本当にどこまでろくでなしなんだ!)
 怒りに頭が白むのを堪え、アルフレッドは全力疾走で広場を突っ切る。宿場村は寝静まっており、表には誰もいなかった。それなのに山門のほうから馬のいななきが聞こえてくる。
 堅牢な壁に囲まれているわけでもなく、夜間も開けっ放しの門を飛び出し、アルフレッドは弩兵から回収しておいたクロスボウを構えた。発射した矢は今まさに駆け出さんとしていた馬の後ろ脚に命中する。
「うわあああっ!」
 皮袋を抱えたまま盗賊たちは落馬した。膝を押さえてのた打ち回るのはあのしゃくれ顎の男だった。もう一人、ウィルフレッドと思しき頭目はなお這って逃げようとする。クロスボウを茂みに捨て、アルフレッドは愛剣に持ち替えた。
「逃がすか!」
 進行方向に刃を突き立てれば賊はぴたりと動きを止める。儚い望みをかけて仰向けに蹴り転がすも、父は予測を裏切ってはくれなかった。白み始めた空の下、無精髭と薄桃の髪が露わになる。
「何をやっているんだ、あんた……!」
「ア、アルフレッド!?」
 どうしてお前がロマと一緒にと尋ねられる。その後続いた言葉は最低なものだった。
「み、見逃してくれよ。ロマなんかいなくなっても困らないだろ? お前にもいくらか渡してやるからさ」
 根本的に考えが違う。他人から奪うなとか命を軽んじるなとか訴えたところで話が通じそうにもなかった。
 ジェレムがフェイヤを皮袋から助け出してやったのを見て「あ、てめえ!」とウィルフレッドは声を荒らげる。かけらの反省も見られぬ態度に眩暈がし、アルフレッドは目を伏せた。
「……ッ!」
 その直後、ガキンと金属音が鳴り響く。アルフレッドのバスタードソードがウィルフレッドのショートソードを弾く音が。転がされた姿勢のまま父は息子に不意打ちを加えてやろうとしたらしかった。
「当たるわけないだろう、そんな見え透いた攻撃」
 峠道に落ちた剣の、ろくに研がれてもいない刃を冷たく見やる。改心の可能性はなさそうだなと左の拳に力をこめた。
「なっ、おま、親になにす」
 台詞は最後まで聞かなかった。喋れば喋るほど溝は深まるだけと知っていたから。
 ウィルフレッドの顔面に埋まった拳骨を引き抜くとアルフレッドはまだ意識を残していた最後の賊に剣を向けた。
「ヒッ!」
 お慈悲をと乞われたが、人さらいに同情の余地などない。怯えてジェレムの胸にすがりつき、泣きじゃくるフェイヤの声を耳にしたら、余計許す気になれなかった。
「言い訳なら法廷でするんだな」
 喉元に切っ先を突きつける。老ロマに「こいつを縄で縛ってくれ」と頼むと今日ばかりはさすがのジェレムも協力してくれた。しゃくれ顎の盗賊は自分の用意した縄に戒められ、情けなさそうに項垂れる。ウィルフレッドも別の木に括りつけられた。
「ジェレム、トゥーネは?」
 まだ鼻をぐずらせながら心配そうに少女が問う。
「上手く逃げた。多分橋のほうにいるから探しにいこう」
 老ロマの返事にこくりと頷き、フェイヤはジェレムの手を握った。だが少女は歩き出すなりその場にへたり込んでしまう。
「あ、痛い……!」
「どうした? 怪我か?」
 アルフレッドは立ち止まり、二人のやりとりを見守る。どうやらフェイヤは馬から落ちた際に捻挫してしまったらしい。足首回りが腫れていて、しばらく安静にしていないと痛みが悪化しそうだった。
「動かしちゃ駄目だ。川岸まで連れていって冷やしてやるんだ。なんならうちの軟膏を塗れば……」
 薬屋の息子として助言するも、ジェレムにきつく睨み返される。一度窮地を救ったくらいではまだ仲間として認めてもらえないらしい。フェイヤのほうも顔を伏せ、礼など言ってくれそうになかった。
(う……うん、まあ、感謝されるためにしたことじゃないしな)
 一抹の寂しさに知らず乾いた笑みが浮かぶ。アルフレッドの胸中には関心を向けることもなく、ジェレムはフェイヤに「明日の朝までじっとしていろ」と言い聞かせた。
(明日の朝? だったら今夜はまたこの近くに泊まるわけか)
 よし、とアルフレッドは小走りに駆け出す。「村外れで伸びている奴も住民に引き渡してくる!」と一応ジェレムにひと言入れて、先に北門まで戻った。
 いくら怠惰な司法官でもここまでお膳立てしてやったら裁判を開くだろう。人間を売った金で暮らそうなんて性根の輩は一日も早く裁かれたほうがいい。それにウィルフレッドが牢獄に繋がれれば、今度こそこんな邂逅に苦しむこともなくなるはずだ。


 ――それからアルフレッドは宿場村の長に山ほど証言を書き取ってもらった。司法官が内容を疑うようならサール宮に連絡してくれとチャドの印が押された旅券の写しも取らせて。
 気分がいいとは言えないまでも、身内の悪事を打ち止めにできて安堵はしていたと思う。あの父親との関係も多少なり清算できたと。
 それで気が緩んでいたのだろう。いつもなら絶対にしないことをした。




「銀柳亭の荒くれどもが捕まったぞ!」と喜びに沸く宿場村にリュートの音色が響いたのは昼過ぎ。危うく売られるところだったという話題性と相まって、ジェレムたちは普段の倍以上稼いだようだ。今日到着した行商人が不思議そうにロマと彼らを囲む村人を見ていた。なんだって踊りもしない子供にまで菓子や花輪をやっているのかと。
 裁判に必要だろう口述を終え、村長の邸宅を出てきたアルフレッドは広場にトゥーネが戻っているのを見て胸を撫で下ろした。彼女も無事に再合流できたらしい。これでまた旅を続けられそうだ。
「――おい」
 と、こちらに気づいた老ロマが立ち上がった。リュートを下ろし、ジェレムはアルフレッドのほうに歩いてくる。目が合うのも稀ならば、声をかけられるなど初めてで、一瞬目が点になった。
(えっ? 俺だよな?)
 思わず周囲を確認するが辺りに他の人影はない。ジェレムに「来い」と顎で示され、わけもわからずついて歩いた。事件の詳細を尋ねようと群がってきた村人たちも老人のひと睨みで退けられる。
「どうかしたか? なんの用だ?」
 村外れの森まで来てやっと立ち止まったジェレムに尋ねた。すると老ロマはこちらに背を向けたまま、小銭の詰まった小袋を突き出してくる。
「な、なんだ?」
「受け取れ」
 ぶっきらぼうに彼は小袋を押しつけてきた。盗賊退治の礼のつもりか、「いや、そんなのはいい」と断っても「お前の取り分だ」と言って聞かない。
「本当にやめてくれ。金が欲しくて助けたわけじゃないから」
 固辞に折れたのはジェレムのほうだった。老ロマは「本当にいいんだな?」と念押しして謝礼を懐に片付ける。ありがとうとは口が裂けても言いたくないらしく、それからしばらくジェレムはむっつり黙り込んだ。
「……」
「……」
 そよ風がブナの枝葉をざわめかせる。あまりにジェレムが何も言わないのでアルフレッドはもう行ったほうがいいのか踵を返しかけた。
 だが彼の話は終わっていなかったようだ。唐突に振り返られ、今度は空っぽの右手を差し出される。
「剣をよこせ」
「――は?」
 藪から棒に一体なんだと目を丸くした。だが老ロマは発言の意図をなかなか明かそうとしない。ただますますぶっきらぼうに「いいから」と眉をしかめるだけである。
「戦いに使わせてしまっただろう。手入れをしてやると言っているんだ」
 事情を知らない人間が聞けばジェレムは怒っているのかと勘違いしたはずだ。声の響きは辛辣な言葉を口にする普段となんら変わりなかったし、朗らかさや親しみなどというものは少しもこもっていなかったのだから。
 だがアルフレッドは彼がなんとか謝意を示そうと歩み寄ってくれている気がして嬉しかった。わかりやすい態度ではなくとも、自分が彼らを守ろうとしたことに心動かされてくれたのだと。
「研ぎ石は持っているのか?」
 問いかけに老ロマが頷いた。面倒そうに頭を掻きつつ「金物修理を請け負うときに包丁を研いでやることもある」と教えてくれる。それだったら安心だ、とアルフレッドはベルトにかけた鞘ごと剣を取り外した。
「任せるよ。ありがとう」
 本当は今から自分で研ぐつもりだったのだが、折角の申し出を断りたくない。これを機に彼らと仲良くなれれば御の字だ。信頼は深いほうが物事もスムーズになる。日常会話に支障なくなる程度には余計な壁は取り去りたかった。
(初めてだな。自分の剣を誰かに預けるなんて)
 ジェレムにバスタードソードを託すと軽くなりすぎた腕が違和感を訴える。剣が肉体の一部になっていることを実感し、アルフレッドはそんな己を誇りに思った。
「フェイヤがまだ歩きにくそうだから出発は明日の昼前にする。宿でも取って寝てきたらどうだ?」
 これまでのジェレムからは考えられないほど親切な気遣いにアルフレッドは口元を緩める。「そうさせてもらうよ、ありがとう」と再度礼を告げ、宿場村に引き返した。
 父親のことは残念極まりないけれど、いいこともあって良かった。――このときは心からそう思っていた。




 ******




 パトリア人は嫌い。大事な人を連れていってしまうから。
 パトリア人は嫌い。音楽に手拍子を打っておいて、次は拳で殴りつけてくるから。
 アクアレイア人も、マルゴー人も、パトリア人の仲間だとジェレムが言っていた。だから油断しちゃいけない。助けられたなんて思っちゃいけない。振りかざす刃を持つ人間は、いつでもそれを好きなほうに向けることができるのだもの。
「フェイヤ」
 しわがれた声に名を呼ばれ、フェイヤはハッと顔を上げた。見れば先刻騎士と広場を出ていったジェレムがすぐ側に立っている。
「喜べ。上手く運んだぞ」
 縁石に座るフェイヤの隣に老人は腰かけた。薄い唇には笑みを浮かべ、鼻歌まで口ずさんで。
 攫われかけて大泣きしたのを思い出し、フェイヤは気まずさで縮こまった。ロマの子は強くなければならないのに、なんて不格好。川でジェレムが足首を冷やしてくれる間も弱音ばかり吐いてしまった。剣が怖いよ、あれで脅されるかもしれないなんて。
「恐れるものはなくなった。これでもう大丈夫だな?」
 老いたるロマは手ぶらの両腕を広げてみせた。優しい手つきで頭を撫でられ、小さく頷く。
 占い業に精を出すトゥーネは客の相手に忙しく、こちらの会話など聞こえていない様子だった。どこぞの宿に潜り込んだのか、赤髪の騎士の姿もない。
 土埃を巻き上げて、行商の馬が慌ただしく南門をくぐっていった。フェイヤたちの越えてきたアルタルーペを彼らは逆から登るらしい。
 膨れ上がった彼らの荷の中に見覚えのある何かが混じっていた気がしたが、もう一度目を凝らすことはしなかった。フェイヤは腫れの引ききらない足首を擦り、老人の肩にもたれかかっていた。









(20160813)