白波を切り裂いて船は紺碧の海を行く。吹き抜ける風の爽やかさとは裏腹にジュリアンは陰鬱になる一方だった。
 原因は知れている。幸先の良い一歩を進み、そろそろ声をかけてもいい段階になったかと思ったのに、アクアレイア人たちの態度に少しも変化がないからだ。いや、それどころか以前にも増してピリピリとしたオーラを放たれている。とりあえず一つ、海賊に攫われた被害者の奪還という問題には片が付いたはずなのに。
(なんでだろう? ブルーノさんもレイモンドさんもどんどん話しかけにくい雰囲気になっているような……)
 船縁にもたれ、何をするでもなく佇む二人を帆柱の陰からこそこそと覗く。いつ見ても彼らはむっつり黙り込んでいて、剣士が場所を変えると槍兵がそれに追従するという繰り返しが続いていた。
 喧嘩でもしたのだろうか。だとしたら早く仲直りしてほしい。このままでは謝礼金の額を決められないまま父のもとに帰りついてしまう。
 マーチャント商会の丸形帆船がパトリア海に出て早二週間、数カ所の寄港地を経て一行はカーリス共和都市圏内に入っていた。北を向けば陸の起伏が青い影となって映り、馴染みの景色に気が逸る。
(ああ、僕はただ受けた恩を返したいだけなのに)
 そもそもカーリス人がアクアレイア人にそんな願いを抱くこと自体無謀なのだろうか。そのうえ自分は敵対都市の人間というだけでなく、憎い仇敵の息子なのだし。
(最悪オリヤンに銀行証書を渡しておいて、二人のために使ってほしいと頼むしかないか……)
 ふうと重い息をつく。背後から浮かれた声をかけられたのはそのときだった。
「どうしたんです、お坊ちゃん? 思い詰めた顔しちゃってえ! もう少しで待ちに待ったカーリスですよ?」
「…………」
 またお前か、とは口には出さずに目を逸らす。信用は地に失墜しているのにパーキンは性懲りもなく手を揉みながら近づいてきた。毎日毎日ご苦労なことだ。同乗している他の商人たちにも同じく媚びへつらっているのだから、永遠にそちらにかかりきりでいればいいのに。
「まーだあんなアクアレイア人たちを気にかけてらっしゃるんですか? 謝礼なんかいらねえっつってんですから、放っておいてもバチは当たらないと思いますがねえ」
「こういうことは求められたからするというものじゃないだろう。僕はあの人たちに自分のできる最大限の返礼をしたいんだ」
「ヒュウ! 見上げた心がけですね! あの小汚ねぇ人形遣いの親子にも気前良く大金をくれてやってましたし、こりゃボクも期待せずにいられませんや! へっへ、ローガンの旦那によろしく言ってくださいよ? 借金帳消し! 商売道具は持ち主に返却ってね!」
 馴れ馴れしく肩を抱かれ、ジュリアンは金細工師の手の甲をつねった。「痛ぇッ!」と情けない声をあげ、パーキンは涙目で飛びすさる。
「な、何をなさるんですジュリアン様!」
「お前が厚かましいことを言うからだよ! こっちは迷惑料を取りたいくらいなのに、よく自分も何か報いてもらえると思えるな?」
「えっ!? ええっ!? だ、だってボクがあいつらに坊ちゃんを助けてくれって頼んだんですよ? 救出に失敗してたらボクだって無事じゃ済まなかったんですし、見返りがあったって」
「だから事の発端はお前が僕を騙してラザラスの船に乗せたことだろう!? お前に感謝する理由はこれっぽっちもない! もちろん謝礼を出すつもりもだ!」
 ぴしゃりとはねつけ、ジュリアンはそっぽを向いた。なんだってこんな調子の良い人間を信用してしまったのだろう。馬鹿な己にほとほと溜め息が出る。
「ま、待ってください! 考え直してくださいませんか!? ボク、ボクは、アレを返してもらえなかったら人生設計の全てが狂って……ッ!」
「鬱陶しいからくっつくな! さっさと僕から離れろ!」
「お願いですってジュリアン様ァ!」
 振りほどいても振りほどいてもパーキンは腕や肩にすがってくる。あんまり騒がしくするとブルーノたちの怒りを買いそうで怖いのだが、自分本位なクズ男の頭にはそんな考えは露ほども浮かばないようだった。
「ど、どうすりゃいいんですか!? ボクはどうすりゃお坊ちゃんに感謝していただけますか!?」
「知らないよ。もうあっちへ行ってくれ! 貴重な時間をお前なんかに費やしたくない」
「そ、そんなあ! やだやだ、お礼を約束してくれるまで離しません!」
 揉み合っているうちに懐の銀行証書がぽとりと落ちる。すぐに気づいて手を伸ばしたが、先に拾い上げたのはパーキンのほうだった。
「んん? なんですこの証書? 金額の欄が空白になってますけど……。あっ、もしかしてジュリアン様、あの二人にこれを渡して書かせようとタイミングを窺ってたとか!?」
 道徳的な気遣いはできないくせに、こういう頭だけは回るらしい。あっさりと言い当てられてジュリアンは返答に詰まった。素直に頷いたらおかしな事態になりそうな気がしたのだ。
「い、いやまあ、その通りだけど、声をかけるのは僕が自分で……」
「なーんだ、それならそうと早く仰ってくださいよお! ジュリアン様、側をうろうろするなって言われたもんだから近づくに近づけなかったんでしょ!? ふふふ、ここはボクがひと肌脱ぎますから、お坊ちゃんは大船に乗ったつもりでお待ちください!」
「は!? い、いやパーキン! 余計なことは――っておい、戻れ! 戻れってば!」
 話も聞かず、銀行証書を握りしめて金細工師は身を翻す。軽い足取りで甲板を跳ねていく彼をジュリアンには止めることができなかった。なんと説明するつもりだと不安でいっぱいになりながら、パーキンとブルーノたちのやり取りを帆柱に隠れてそっと見守る。
「……っ」
 予感に違わず雲行きは急速に怪しくなった。折り畳まれた証書を開いた剣士が眉間に深いしわを刻む。レイモンドも垂れ目を細めてパーキンを睨みつけた。鈍感に笑っているのは金細工師一人である。
(だ、駄目だ。あれは絶対に弁解しないと誤解を生むぞ)
 大焦りでジュリアンは駆け出した。結局一歩間に合わず、船上に轟く激昂の声に震える羽目になったけれど。




「こんな証書を私にどうしろというのだ!?」
 怒号と同時、金細工師が突き倒される。この頃不安定だっただけにルディアの怒りは凄まじく、荒くれ者には慣れているはずの水夫たちも度肝を抜かれた様子だった。
 だから関わるなと言ったのにとレイモンドは内心舌打ちする。すっかり青くなり、尻餅をついたまま「ひっ!」と後ずさりするパーキンを見下ろし、どうするべきか逡巡した。
 これほど空気の読めない男も珍しい。少し頭を働かせれば彼女が何を嫌ってジュリアンを避けてきたのかわかるだろうに。
「わ、悪かった! 良かれと思って聞いたんだ! 金はほら、いくらあっても困るもんじゃねえだろ!?」
「もういい。貴様に良識を求めたこちらが間違っていた」
「うわわわわっ!」
 逃げるパーキンをルディアは容赦なく追い詰める。ブーツの底にみぞおちを踏みつけられまいと金細工師はひたすら後退した。
「うわっ、うわっ! ……ジュ、ジュリアン様! お助けください!」
 背中をぶつけた相手を見上げ、パーキンは哀願する。証書の持ち主は困惑を隠しきれずにぴくぴくと頬を引きつらせた。
「た、助けろってお前」
 少年の額からは既に血の気が引いている。数歩先の距離に立ったルディアをおそるおそる振り仰ぎ、ジュリアンは「あの、これは」と言い訳を始めた。否、始めようとした。
「うぐっ!」
 止める間もなくルディアが子供の胸倉を掴む。まずいと足早に割り込もうとしたけれど、時既に遅かった。小柄で痩せ型の令息はあっさりと船縁を越え、海の真上に突き出される。
「ヒッ……!」
 ジュリアンは浮いた足をばたつかせ、必死に船に戻ろうとした。しかしその爪先は虚しく空を掻くのみである。
「お、おい」
 なだめようとして声をかけたが彼女の耳には届いていないらしかった。溺れ死にさせる気かと船上は騒然となる。
「わーっ! わーっ! 俺のせいじゃねえぞ!」
「どうした!? 何があったんだ!?」
 逃げたパーキンと入れ違いにオリヤンがすっ飛んできたものの、レイモンドと同じく手出しできない。少しでも変な力を加えたら子供は海に落っこちそうだった。
「……っ」
 なんとも思っていなかった風が、波が、急に強まった気がする。ルディアは怖いほどの無表情で、怯えるジュリアンにさっきと同じ問いをぶつけた。
「こんな証書で、お前から受け取った金で、私に一体どうしろというのだ?」
 返答なんてあるはずがない。ジュリアンはルディアの腕にしがみつくだけで精いっぱいなのだから。それでも彼女は激しい怒りを、押し隠してきた悲しみを、ぶつけることをやめなかった。
「金貨や銀貨で何が買える? 何を取り戻せるというのだ? 死んだ者は二度と帰ってこないのに、お前は一体いくら払えば私が満足すると思ったんだ!?」
 荒ぶる声が問いかける。ルディアの瞳に暗い炎が燃えていた。敵だけでなく自分まで焼き尽くしそうに苛烈な炎が。
「この証書にローガンの命が欲しいと書けば、お前は私に奴の首を持ってきてくれるのか」
 遠目にもジュリアンが硬直するのがわかった。そんな要求をされるとは考えもしなかったのだろう。いたいけな少年はふるふると首を振る。
 蒼白な顔には「できない」と書いてあった。ルディアがその返事を聞くのは酷な気がした。
 だって彼女はできてしまった人間なのだ。彼女にとって父と恩人は同一人物だったけれど。
「…………」
 長い沈黙が訪れた。ジュリアンもルディアも、居合わせた誰も口をきくことができなかった。白い帆が風を受ける音と、船が波を切る音だけが永遠のように続く。
 だが地上の永遠は常に仮初のものらしい。しばらくの後、ちらりと覗き見た横顔は吐き出した熱の半分も残してはいなかった。何が彼女を冷静にしたのか、触れられないと思った炎は消えかかっている。
(大丈夫……かな?)
 ルディアにはもうジュリアンをどうこうする気はなさそうだった。今ならば振り上げた拳を下ろしてくれるかもしれない。そう思い、レイモンドは彼女の背後に回ると肩越しに少年に手を伸ばした。
「げほっ! げほっ!」
 特に抵抗されることもなく子供は無事に船に戻される。甲板には一瞬ほっとしたムードが流れた。
(ふう、やれやれ)
 このままジュリアンが大人しくしていてくれれば良かったのだが、揉め事というのはなかなか上手く収まらないものらしい。礼を尽くすのを諦めきれない少年は身を起こすなりルディアを見上げ、弱まった火に余計な油を注ぎ込んだ。
「……あ、あの、父様をというのは無理ですが、他に僕の家にできそうなことなら……」
 彼女の瞳が一瞬で凶暴さを取り戻す。物わかりの悪い子供を睨み、「ショックリー家でできそうなこと?」とルディアは鼻で笑い飛ばした。
「お前は馬鹿か? ローガンの一存でどうにかできることなんてたかが知れている」
「そ、それでも仰ってみてください! 努力します!」
「努力できるなら努力してみてくれ。あの男の手を通じて天帝のものになったものが、再びアクアレイアのものになるかどうか!」
「……!」
 大事なものは何も返ってこないとルディアの暗い目が語る。二の句を継げず、ジュリアンは黙り込んだ。ようやく己の考えの浅さを自覚してくれたらしい。
「あ、あのー、お取込み中すみません」
 と、そのとき、場違いを詫びる男の声が降ってきた。レイモンドたちが頭上に目をやると見張り台に立っていた水夫が恐縮する。
「カーリスの街が見えてきたんですけど……」
 ――最悪のタイミングでの入港だった。ルディアの激情はまだこれっぽっちも静まってはいない。こんな状態で共和都市に入ればもっと深刻な暴走も考えられた。
(おいおい、これ大丈夫か?)
 レイモンドはごくりと息を飲む。気がつけば周囲にはカーリスを目指す商船が増えていた。その中で乗員が静まり返っているのはレイモンドたちの船だけだった。




 ******




「港に着いたぞー! 錨を下ろせー!」
 緊張気味に声を強張らせた船長が着岸の指示を飛ばす。威勢の良い荷運びや船着場を駆け回る水夫らの声を聞きながら、レイモンドはジュリアンを睨んだままのルディアを見やった。
 船は桟橋に着けられたものの、彼女が微動だにしないので乗員は荷揚げ作業に移れずにいる。仕事を与えられた者以外、止まった世界を抜け出せた人間はいなかった。
 深い入江、迫る山岳、断崖を掘削して階段状に広がる街。カーリスの佇まいはどこかニンフィを彷彿とさせる。だが都市としての規模の差か、溢れる活気は段違いで、静寂の支配するこの場では耳が痛いくらいだった。
(ったく、どうすりゃいいんだよ?)
 舌打ちを堪えて膠着状態の二人を眺める。先に口を開いたのは冷たい表情のルディアだった。
「どうした? ローガンを呼びにいかないのか? じきに帰ると連絡はつけてあるんだろう?」
 攻撃性の残る声に問われ、ジュリアンが口ごもる。怒れるアクアレイア人を前に、少年も父の迎えを頼む勇気は出ないらしかった。
 が、ためらいは無意味に終わったようである。間を置かず港の奥から複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。人違いであってくれと祈りつつレイモンドは甲板から桟橋を見下ろす。
「ジュリアン! そこにいるのか? ジュリアン!」
 大層な護衛団を率いて駆けつけたのはローガン・ショックリーだった。肩と胸にコットンを詰めたいつもの上着はしおれていて、厭味な口も高慢な笑みを浮かべてはいなかったが、あのチョビ髭を見間違えるはずがない。
 おそらく灯台かどこかからオリヤンの商船を見つけて飛んできたのだろう、船上に愛息の姿を認めるとローガンはやつれた顔を綻ばせた。
(クソ、何も今来ることねーじゃねえか)
 巡り合わせの悪さにレイモンドは唇を噛む。ルディアはちらと豪商を見やると腰のレイピアに手をかけた。
「……っ」
 まずい予感しかしない。彼女が「ローガンの首を持ってきてくれるのか?」と聞いたのはつい先程の出来事なのだ。下手をすれば血を見ることになりかねなかった。
「…………」
 冷や汗を浮かべたジュリアンが父とルディアを一瞥する。見守るレイモンドたちにも緊張が走った。剣の柄を握りしめる彼女の右手にはますます力がこめられていく。
 地上ではローガンが「何故アクアレイア人が同じ船に乗っているんだ?」と言いたげにこちらを見ていた。ルディアのほうも冷ややかに、本当に冷ややかに仇敵を見下ろす。
 一触即発の雰囲気だった。誰一人、指一本も動かせないほど。
「どうした? 降りないのか?」
 視線を前に戻した彼女がジュリアンに再度問う。少年は護衛団が船にかけた橋板をおずおずと振り返った。数秒のためらいの後、子供の足は慕わしい家族のもとへと走り出す。
「ジュリアン! おお、おお、無事で良かった!」
 愛息をひしと抱きしめたローガンにルディアが何を思ったかはわからない。だが少年の後を追い、自身も桟橋に降りた彼女を放っておくことはレイモンドにはできなかった。ルディアの足取りは夢遊病者のようだったし、彼女の手はなおレイピアを離していなかったからだ。
(まさか本気で手ェ出すつもりじゃねーだろうな?)
 殺気立ったルディアの背中のすぐ後ろに陣取って息を飲む。止めるべきか、味方するべきか、判断は難しかった。
 こんなところでローガンやジュリアンに剣を抜けば無事では済まない。だが仇敵に復讐するには千載一遇の好機だった。たとえ何も取り戻せないとしても、今なら刺し違えることはできる。
 止めていいのかわからなかった。彼女を苛み、苦しめている衝動を。
「あの、父様、この方たちが僕をラザラスの手から救い出してくれたんです」
「えっ!?」
 狼狽の声を発し、豪商が胡散臭げにルディアとレイモンドを見やる。大まかな経緯はオリヤンがカーリスへ送っておいた手紙から把握済みらしく「本当にアクアレイア人がお前を?」とローガンは声を潜めて息子に問い返した。
「ええ、本当です。危険を冒してカーリス人居留区に忍び込んでくださったんですよ」
 直々に説明を受けてもローガンには信じきれない様子である。頭の天辺から爪先までじろじろと値踏みされ、気分が悪かった。いつ会っても不愉快な男だ。
「それで僕、お二人に何かお礼をしなければと考えていて」
「れ、礼を。そ、そうか。まあそうだな」
 ジュリアンはまだ恩返しにこだわっているらしい。不要だと言っているのに、海に放られかけたくせに、それでも父に出せるだけ出させようとしているのが見て取れた。
「な、何が望みだね?」
 おっかなびっくりローガンが尋ねてくる。豪商は背中に息子を庇っていた。まるで誘拐犯とでも向かい合っているかのようだ。人質ならもうそちらに引き渡したではないかと毒づきたくなってくる。
「…………」
 問いかけにルディアの肩がぴくりと揺れた。表情は見えないが、殺気が強くなった気がする。このままでは本当に斬り合いになるのではと思えた。
 レイモンドは固唾を飲んで細い剣の行方を見守る。しかし彼女が動く寸前、突然の乱入者が場の空気を塗り替えた。
「望みはこうだ! あんたが俺を騙してぶんどった大事なアレを返してもらえませんかねえ!? もちろん護符と聖典も一緒に!」
 響いたのは例のペテン師――否、金細工師の声だった。謝礼欲しさで静かにしていられなくなったのか、パーキンはどたどたと橋板を駆け下りてくる。
「返せねえってんなら坊ちゃんはこうだぜ!?」
 考えなしの男はその勢いでローガン親子に突進し、ジュリアンの首に短刀を突きつけた。当然のごとく護衛団に飛びかかられ、「坊ちゃんの命が惜しければ」とやる前に呆気なく取り押さえられたが。
「わーん! ジュリアンお坊ちゃん、恩人をこんな目に遭わせていいんですか!?」
「お前には呆れてものも言えないよ! 本物の馬鹿じゃないのか!?」
「ど、どうなってるんだジュリアン? まさかこの男もお前の救出に関わっているなどとは言わないだろうな?」
「いえ、父様、そいつはただの元凶です。無視してもらって構いません」
「酷い、酷い! ジュリアン様の鬼! 悪魔!」
 羽交い絞めにされてもパーキンは喚くのをやめない。息子だけでなく父親にまで「良心は痛まないのか! 職人が心血注いで作り上げたモノを横取りして利益を独り占めしようなんて、恥知らず!」と罵倒の言葉を並べ立て、護衛に喉を締め上げられる。
「人聞きの悪いことを言わないでくれたまえ。私は君に融資した。君は借金を返せなかった。だから私は損失を補填するために機材を頂戴した。それだけの話ではないか」
「ああそうさ、だがあんたは聖王がアレをお気に召さないと最初からわかってたんだ! 今にして思えば最初からアレを取り上げる腹だったんだろう!? だから俺が借金はアレで稼いで返すっつっても『返済期限は延ばせない』って取り合っちゃくれなかったんだ! あんたにはアレが金になるっていう確信があったから、自分たちでアレを使って儲けたほうが得できるって思ったから! これをあくどいと言わずしてなんて言うんだ!?」
「いやいや、そんな邪推をされたって困るよ。大体君とて納得ずくで契約書にサインしたのではないのかね? あの機材はもう私のものだし返す気もない。同じものが欲しいならまた作ればいいじゃないか。金さえあれば作れることは証明されているのだから」
「いくらかかったと思ってんだ!? またなんて無理に決まってんだろうが、この強欲! コットンデブ!」
「父様、そんな奴のこともう放っておきましょうよ」
 ジュリアンが首を振るや否や、護衛の一人がパーキンの口を押さえて桟橋に引きずり倒した。金細工師は哀れにも筋骨隆々の男たちに組み敷かれる。
 その間もルディアはじっと親子を見据えて立っていた。堪えようとしているのか、剣を抜こうとしているのか、どちらとも取れない構えのまま。
(……どう守りゃいいんだよ? もし姫様があいつらに斬りかかったら)
 背中の槍に手を回す。身を挺すれば逃げる隙くらい作れるだろうかと柄でもないことを考えた。自己犠牲の精神なんて持ち合わせてはいなかったのに。
 立ち込める緊迫感に気がついてローガンがこちらを振り返る。見過ごせないほど強い敵意を感じたということだろう。豪商はさっと右手を上げ、護衛団にレイモンドたちを囲ませた。
 彼女はまだ動かない。港の賑わいが嘘のように、この桟橋だけ静まり返っている。
「武器を取り上げ……」
「父様! 乱暴なさるおつもりですか!」
 警戒を強めたローガンを制したのはジュリアンだった。子供らしい純真さで少年は父に訴える。
「いくら父様でも何もされていないのに手荒な真似をしたら許しませんよ! その方々のおかげで僕は今ここにいるんですからね!」
「し、しかしジュリアン。話をするのにお互いに物騒なものは引っ込めようという配慮くらいは……」
「いけません! お二人にとってカーリスは敵地、武装解除するなら我々だけが礼儀というものです! 父様は僕を助けてくれた恩人に、取り調べを受ける容疑者同然の扱いをなさるというのですか!?」
「いやいや、そんな! きちんとお客様として遇させていただくよ。ただね、やっぱりほら、カーリス人とアクアレイア人は昔から、その、なんだ、いがみ合ってきたものだから」
「父様!」
 怒鳴り声にローガンがびくりと肩をすくませる。ジュリアンは頬を真っ赤にして熱弁を振るった。
「そんなこと僕だって承知しています! ですがお二人は僕がショックリー家の息子だと知っても公正に、憎しみに耐えてまでカーリスに戻れるように取り計らってくださったんです! 今だって僕を盾にして無茶を要求できたのを、何もせず父様のもとへ帰してくださったんじゃないですか! どうしてそんな人たちを信じられないことがあります!? 父様にはこの方々の見事な忍耐がわからないと言うのですか!? 僕がこの方々に胸打たれ、報いたいと思った理由がわからないと!?」
 とてもカーリス人とは思えないまっすぐさだ。ローガンは何も言い返せず、「さっさと下がれ!」と命じられた護衛兵もジュリアンに従った。こうなれば共和都市第一の豪商も形無しである。
「正直に言って、僕は父様の身内以外には卑劣なやり方が嫌いではありません。でもそれを恩ある人にまで行うなら、どんなに偉くなったとしても、金持ちになったとしても、なんの意味もないのではないですか!?」
 我が子の気迫に圧倒され、ローガンはショックに言葉を失った。ついに息子にも反抗期がと女々しく涙ぐみ始める。うつむく父を脇にして少年はこちらを振り向いた。
「あの、本当に、できることの少なさも、満足してもらえないこともわかってはいるんですが、仰ってみてください。なんとかやってみますので……」
 レイモンドはルディアを見つめた。無反応とも思える彼女の黙考は、しかし長くは続かなかった。
 何を思い、何を諦めたのだろう。指が柄から滑り落ちる。
 温度のない声で彼女は告げた。「パーキンにアレとかいうのを返してやれ」と。
「は、はあああ!? な、何故だ!? アクアレイア人にはなんの関係もないだろう!?」
 最初に叫んだのはローガンだ。豪商は心の底から嫌がっていたが、「父様!」と咎める声に結局は折れざるを得なかった。
 勝利の雄叫びを上げたのは幸運な金細工師である。完全なるおこぼれで宝物を取り戻せることになった男は兵士に押さえつけられたまま狂喜乱舞した。
「やったああああ! そんじゃローガン様、早速取りにうかがっても!?」
 遠慮もへったくれもなくパーキンは豪商を急かす。ジュリアンが「そんなのでいいんですか?」という視線を向けてきたが、さっさと行けとレイモンドが手を払うと少年は護衛団や父親と一緒に港を引き揚げていった。
「…………」
 ふう、と詰まった息を吐き出す。ともかく大事に至らなくて良かった。いや、ルディアの胸中を思うとそう断じてしまうのも早計だが――。
「も……もう大丈夫かね?」
 と、そこにオリヤンの当惑した声が降ってきた。年上の友人は万一の場合、一緒に逃げてくれるつもりだったらしい。見上げた船は一旦下ろした錨を上げ、いつでも出航できる状態になっていた。
「ああ、悪ィ、心配させて。荷揚げだの積み込みだの始めてくれ」
 レイモンドはルディアの袖を引いて船に戻ろうと促す。だが彼女は騒がしくなりだした甲板に上がろうとはしなかった。
 腕は冷たく振り払われ、気遣いには知らんふりを決め込まれる。けれどもう、そんなことはなんでもなかった。彼女がレイモンドを拒むのは、レイモンドのためなのだと気づいていたから。




 早く冷静にならなくては。熱くなった血を冷まし、平常心を取り戻さなくては。
 そう言い聞かせれば言い聞かせるほど足元が危うくなるのはどうしてだろう。ローガンもジュリアンもいなくなり、胸を掻き乱すものは全て遠ざかったのに。
 悪夢の中に取り残された気分でルディアは眼前の海を見つめた。王国湾より青い、深い、カーリス人たちの海。こんな港に立っていたら波に足首を掴まれそうに錯覚する。そうしてもはやどこにも行けなくなるのではないかと。
「――」
 ふらりと歩き出したのはまだ歩く力が残っているのか確かめるためだった。ざわめく船着場の反対に足を向け、誰もいない埠頭の先へと進んでいく。
 すると即座に足音が一つ追ってきた。初めはためらいがちだったのが、今はわずかの迷いもなく。
 来なくていいと突き飛ばしてやりたかった。心配無用だと言っただろうと。振り返ったら醜態を晒しそうで放っておくしかできなかったが。
(お節介め。お前だってアルフレッドを笑えないではないか)
 借りものの身体が重い。感じること、考えることをやめられない心も煩わしかった。
 粛々と、決めたことだけ遂行していれば良かったのだ。贖おうとして却って罪を増やすくらいなら。
(何故一人にしてくれないんだ)
 緩やかに湾口に伸びた防波堤の突き当たりで足を止める。打ち寄せる白波が砕け、また海に吸い込まれていくのを眺め、ルディアはそっと目を伏せた。
 レイモンドはすぐ隣に控えている。何も言わずに、相も変わらず心配そうにこちらの横顔を見つめながら。
 早く愛想を尽かしてくれればいいのに。なんという女だと呆れて、見下げて、何もかも忘れてくれれば。こんな先のない主君のことなど。
「……私は剣を抜かなかったんじゃない。剣を抜いてはならなかっただけだ」
 気づいたら口が勝手に喋り出していた。胸の底で暴れ狂っていた激しい嵐が理性の壁を打ち破り、震える喉を這い上がって。
 聞いてほしかったわけではない。慰めや励ましが欲しかったわけでも。ただもう耐えられなかったのだ。吐き出してしまわねば、内側から死に至りそうなだけだった。
「ジュリアンに手をかけなかったのも、ローガンと相討ちしようとしなかったのも、道徳心が殺意に勝ったからではなく、私にその資格が――報復の資格がなかったからだ」
 力ない声で懺悔する。胸の底に溜まった泥から一片一片硬い言葉が拾われた。
 純粋に憎み、純粋に恨むことができたら、偶然手に入れた仇敵の息子という駒を最大限利用しようとしていただろう。それができなかったのは、己こそが唾棄されるべき殺人者に成り果てていたからにほかならなかった。
 ジュリアンは誤解していたが、自分はいい人でもなんでもない。パーキンの願いを叶えてやったのはそれが一番ローガンを困らせてやれそうだったからだし、憂さ晴らしの私刑を要求しなかったのはオリヤンの商売に気を回したからではなかった。単に昔の自分とは、資格があった頃の自分とは、全てが違ってしまったというだけの話だ。
「――仇討ちをしてもいいのは本当の娘だけだろう?」
 隣の男に問う声は、途切れ、掠れて儚く風に散っていく。レイモンドは眉をしかめて「本当の娘って……」と呟いた。
「カロに言われたこと気にしてんのか? だけどあんたは、ずっと王女として育てられてきたんじゃねーか」
 優しい否定に苦く笑う。「私だってそれを根拠に自分こそアクアレイアの王女だと思ってきたさ」と言ってから、「でももう違う」と首を振った。
「あの人の意思を尊重するふりをしながら、私はカロの言ったように国のことしか頭になかったのかもしれない。あの人のためにやってきたことは、脳蟲の本能がさせたことだったのかもしれない」
「おい」
 話の飛躍をたしなめられる。だが自分でも止められなかった。自身に対する疑いは心に太い根を張っていた。
 たとえ万人が「あなたのほかにルディア姫はいない」と言ってくれても駄目なのだ。たった一人のあの人がそう言ってくれなければ。
 それなのにあの人は死んでしまった。愚者の剣に心臓を貫かれ、永遠に地上を去ってしまった。
「私は躊躇するべきだったのだ。あの人に生きてほしいと、逃げ延びてほしいと願って実行するべきだった! それだけが私とあの人を結びつける絆の証明だったのに、私は外も中も別物のくせに、他人のくせに、図々しくもあの人の命を終わらせたんだ……!」
 ひと息に言いきって、ぜえぜえと肩を上下させる。涙は勝手に滲んできた。
 泣くなんて傲慢だとしか思えない。せめてそれがこぼれないように上を向く。ただでさえ信用ならなくなった自分にこれ以上失望しないように。
 苦しかった。生まれたことを呪わないではいられないほど。
「……自分から娘の資格を捨てたのだ。私はもはや何者でもない。『ルディア』でないならアクアレイアには帰れない――」
 一粒だけ、ぽろりと滴が地に跳ねた。唇を噛み、深く息をする。
 青い海の彼方を見据えた。遠い、遠い、その果てを。
 立ち止まることは許されない。まだやらなくてはならないことが残っている。まだ一つ。それまでは。




 ルディアの最後の呟きを聞いて、ああ、とレイモンドはひとりごちた。
 今わかった。全部わかった。どうして自分がずっと彼女を気にかけていたか。
 王女様が王女様ではないと知ったとき、脳蟲とかいう人間ですらない生き物だと知ったとき、自分は彼女に期待したのだ。この人も、アクアレイア人の輪からはみ出した存在なんじゃないのかと。
 だけどルディアは筋金入りの王族で、国のためなら防衛隊を見捨てるとまで豪語するし、なんだとガッカリしたのである。そして自分は不機嫌になって、命まではかけられないぞと予防線を張り直し、蛍を見ようと誘ったときの仲間意識を捨ててしまった。もう一度、彼女がちゃんと自分を見ていてくれたことがわかるまで。
(……それじゃ俺、こんな姫様が見たかったのか?)
 何者でもない、アクアレイアにも帰れないと、悲嘆というよりは決意のようにルディアは語った。或いはどんなに願っても叶わない願いのように。
(俺は姫様が俺みたいに浮いてりゃいいって、ひとりぼっちだったらいいって思ってたのか?)
 自問にぐっと拳を握る。涙なんて似合わないもの望んではいなかった。早く元気になってほしいと、また「ありがとう」と言ってほしいと望んでいただけだった。
 埠頭に強く風が吹きつける。ルディアの涙は散って乾いた。まるで最初から泣いてなどいなかったみたいに。
「……あんたさあ、カロに会ったらどうする気なんだ?」
 答えを承知で問いかける。久々に合った視線はすぐに海へと戻された。
 嘘や演技は見抜かれると悟ったらしい。彼女はもう下手な誤魔化しをしようとはしなかった。
「身体さえブルーノに返してくれるなら、あの男の好きにさせるよ」
 野蛮な方法で裁かれていいとルディアは言う。ロマに復讐を果たさせてやると。
 予想通りの返答だったが彼女の声で聞かされるのはつらかった。一度決めたことを覆す人間ではないと知っているから。
「ブルーノたちとの合流が先になったとしても、私は王女の器には戻らない。レイモンド、そのときはお前が私の『本体』をカロに引き渡してくれないか? 復讐の相手が知らない間に炭になっていたのではあの男も怒りのやり場がないだろう」
 ルディアは淡々とそんな依頼までしてくる。「すんなり殺されてやるのかよ?」と声を荒らげれば「それが一番丸く収まるではないか」と彼女は笑ってみせた。
 苛立ちに似た感情がふつふつと湧いてくる。なんで勝手に決めるんだとか、残された人間の気持ちも考えろとか、渦巻く思いはそのまま口をついて出た。
「ふざけてんじゃねーぞ。あんたを守るのが防衛隊の仕事だろ? どうなるかわかっててあいつに引き渡したりできねーよ!」
「部隊はとっくに解散した。これは個人的な頼み事だ」
 気持ちは固まっているらしい。ちょっとやそっとの説得ではルディアは聞き入れてくれそうになかった。「俺は嫌だ」と断固拒否しても「だったら他の者に頼もう」とかわされる。ここで頷いてもらうために、彼女の死に悲しみや責任を感じさせないために、冷たい態度で嫌われようとしていたくせに。
「……ッ」
 カロに会ったら、ブルーノに会ったら、どんな風に別れを告げられるか想像できて苦しくなる。きっと今みたいに落ち着き払って微笑んでいるに違いない。色々と世話になったな、ありがとうとか言って。
(冗談じゃねーぞ!)
 ルディアがいなくなるなんて考えただけでぞっとした。どうしても側を離れがたくてコリフォ島まで追いかけたのに、そんな結末受け入れられない。絶対に無理だ。
「あんたが死んだら俺も死んでやるからな……!」
 自分の言葉に自分で驚き瞠目した。無意識にルディアの手首を掴んでいた腕の存外な強さにも。
「……っ!?」
「ど、どうしたんだ? レイモンド?」
 あまりに普段の自分と結びつかない台詞に彼女も目を点にする。だがすぐに、ああ、と全て腑に落ちた。
「……本気だよ。それであんたが思いとどまってくれるなら、命なんざ惜しくない」
 いつも心のどこかで待っていた。金だけは裏切らないと言いながら、金より愛せる、信じられる何かを。何かを、誰かを、たった一人を、自分は長いこと待っていたのだ。
「レイモンド」
 困り顔でルディアが言う。「今の私にそこまで言ってくれてありがとう。だが決意を曲げるつもりはないよ」と。
「私はカロからあの人を永久に奪い去ってしまった。だからこれは、どうしても必要なことなんだ」
 喜びをくれたのと同じ口で彼女は悲しい言葉を紡ぐ。誰が素直に頷くものかとレイモンドはルディアを睨んだ。
(俺がこの人を守らなきゃ)
 トリナクリアに着いた日も同じことを考えた。ここには誰もいないのだから自分だけが頼りだぞと。今胸にある思いは、あの日とは比較にならない切実さを有している。
(ここにいるのがアルだったらとか余計なことはもう考えねー。この人は俺が止めなきゃ駄目なんだ)
 だってルディアを失いたくないのは自分なのだから。彼女の言葉を遠い日の思い出なんかにしたくないのは自分なのだから。
 ああ、わかってみればなんて簡単なことだったのだろう。金よりも、命よりも大切にできるものを、自分はとっくに見つけていたのだ。
(俺、姫様が好きなんだ)
 波は高々と打ち寄せていた。幾千の飛沫が光を受けてきらきらと輝く様は、やはりいつか見た蛍の群れを彷彿とさせるのだった。









(20160711)