誰かが背中を床にぶつける激しい音が聞こえてきたのは昼食のすぐ後だった。
「死にたくなければ私の側をうろうろするな!」
 間を置かず響いた声にレイモンドは慌てて食堂を飛び出す。応接間を兼ねた吹き抜けのホールでは今にも剣を抜きそうなルディアに睨まれ、尻餅をついたジュリアン・ショックリーが縮み上がっていた。
「あ、あの、僕」
「目障りだと言っているのがわからないのか? さっさと消えろ! 私が我慢できなくなる前に!」
 不愉快を隠しもせずに王女が怒鳴る。腰が抜けて動けない少年に舌打ちし、彼女は鞘ごとレイピアを投げつけた。
「!」
 止める間も、なだめる間もなくルディアは階段を上がっていく。追いかけるか少し迷ってレイモンドはその場に留まった。昨夜手を振り払われたのを思い出したのだ。
 隣にいたって何もできない。それに彼女も、一人でなければ泣くに泣けないだろう。
「おお、怖い怖い。ジュリアン様、大丈夫でしたか?」
 と、調度品の陰に隠れていたパーキンが出てきてジュリアンを助け起こす。いけしゃあしゃあと「お坊ちゃんに万一のことがあってはいけませんからね。お屋敷に帰るその日まで、誠心誠意この私めがお守りいたしますよ!」などとのたまう金細工師にレイモンドは冷ややかな視線を向けた。
「ああいう荒んだ人間には近づかないのが一番です! 折角ラザラスの手からお救いしたんですから、我々はなるべく安全に過ごしましょうねえ」
(ったく、こいつ誰のせいで姫様があんなに荒れてると思ってんだ?)
 パーキンを見ていると自分の心まで波立ってくる。金細工師も、ジュリアンも、しばらくはオリヤン邸で保護することに決まったのに。
 事件の夜が明けた翌日、目覚めたルディアが告げたのは「私とあの子供が顔を合わさないで済むようにしてくれ」のひと言だった。衝動的に振りかざしたレイピアの切っ先を逸らしたとき、彼女は既に悟っていたのだろう。ローガンの息子を傷つければオリヤンに甚大な不利益をもたらしてしまうと。
(大口の取引先だっつーんだもんなあ。オリヤンさんには北パトリアまで面倒見てもらうわけだし、手出しのしようがねーよ)
 はあ、と重い息をつく。オリヤンにシメられてぼこぼこになったパーキンの顔面を見ても心はちっとも晴れなかった。
 何しろ船が出る日までジュリアンたちと一つ屋根の下で過ごさねばならないのだ。しかもその後も、オリヤンは少年をカーリス共和都市に送り届けたいと言っている。
(いや、わかるけどな。リマニにいるのは基本ラザラス一派だから、人道的にこの屋敷から追い出しにくいっつーのはさ)
 親元まで無事に帰そうと思えば同じ船に乗せてやるのが一番良い。商売人としてのオリヤンの立場はレイモンドにも理解できた。どっちの味方をするんだなんて困らせる気も毛頭ない。だがしかし、感情の折り合いがつけられるかというとそれはまた別問題であった。
「あのもみあげ、我先にブルーノの剣が届かないところに逃げといてよく言うぜ」
「ほんとだよ、条件次第じゃラザラスの手先のままでいたくせにねえ」
 不信感たっぷりのひそひそ話がすぐ後ろでかわされる。振り向けばタイラー親子がレイモンド以上に冷めた眼差しでパーキンを見つめていた。
 北パトリアの金細工師はローガンに多額の借金をしているらしい。その負債を帳消しにしてもらうべく愛息を奪い返したかったそうだ。「ラザラスがあんなにケチじゃなきゃあんたらを騙すような真似しなくて済んだし、元はと言えばローガンが融資するふりをして俺の大事な商売道具を取り上げたのが悪いんだ」というのが彼の主張だった。他人に金を借りるときはそういうゴタゴタを見越して借りるべきだと思うが。
 とにかくパーキンがろくな人間でないことは確かである。敵味方をころころ変えて平気な顔でいるのだから。つい損得計算してしまい、どう立ち回るべきか頭を悩ませてばかりのレイモンドさえ引くレベルだ。そんな手合いが身近にいれば空気が悪くなって当然だった。
「なあ、あいつブルーノに謝ったのか?」
「んなわけないでしょ。いつも落ち着いてるブルーノさんがあんな風に叫ぶの見たことある? あたしにはパーキンが頭下げたとは思えないね」
「それもそうか。折角カーリス人にひと泡吹かせてやったと思ったのになあ」
 気の毒そうに親方が呟く。ルディアが親の仇の子供を助けてしまったことはもう二人も知るところだった。彼らにもオリヤンにも詳細を伝えてはいない。ただ王国の終焉にローガンが関わったのは事実なので、そういう風に説明したのだ。イーグレットが誰の剣に倒れたかは伏せたまま。
「…………」
 レイモンドはそっとホールの中央へ歩み出た。「ジュリアン様はボクの希望、ボクの未来の象徴です!」などと媚びへつらう金細工師に辟易している少年は無視して転がったレイピアを拾い上げる。
 昨夜はこれで生身の人間を相手にしたのだ。父親を殺した後でさえ、戦える精神力が却って痛ましい。

「あ、あの、すみません、あの方にお礼を伝えていただけませんか?」

 と、立ち去ろうとしたレイモンドの袖をジュリアンのまだ子供子供した指が引っ張った。振り返りながら無愛想に「なんで?」と尋ねる。
「本来なら僕が直接謝意を述べるべきだと思うんですが、もうまったく、これっぽっちも耳を貸してもらえそうもないので……」
「だからなんで礼なんか言おうとするんだよ。そんなもん聞かされたら余計に気分が悪くなるじゃねーか」
 刺々しい口調を改める気にはなれなかった。ジュリアンはビクッと肩を跳ねさせる。表情から察するに、カーリス人を懲らしめるつもりが喜ばせた悔しさにこの少年は思い至っていなかったらしかった。「こらこら君!」とパーキンに割り込んでこられたが、相手にしないで少年に否を告げる。
「こっちは誰か知ってて助けたわけじゃねー。できればなかったことにしたいくらいなのに、あんま引っ掻き回さないでくれねーか? 俺だって、随分我慢して喋ってんだぜ?」
 少し目を吊り上げただけでジュリアンはみるみる萎縮してしまう。父親よりはまともな神経の持ち主なのか、感謝の気持ちは本物のようだが、それだけに迷惑このうえなかった。ローガンがアクアレイアに何をしたか、わかっているならルディアに近づかないでほしい。
「とにかく無事に帰りたきゃこっちの視界に入ってくんなよ。親方たちだってカーリス人には家族を酷い目に遭わされてんだ。その仕返しをお前にする気は今のとこねーけど、人間の心づもりなんてあっさり変わっちまうんだぜ?」
 わかったら行けと片手で追い払う。しかしジュリアンはしつこかった。
「ですが皆さん、僕がカーリス人だと――ローガン・ショックリーの息子だと知った後も、父には内緒で葬り去ろうとは仰らなかったそうじゃないですか。それなのにひと言もなく客室で安穏としているなんて、僕にはどうしてもできなかったんです……!」
 せめて謝礼を出させてほしいと床にひれ伏した少年を複雑な思いで眺める。レイモンドの手は無意識に、家を出るとき渡された首飾りの紐に伸びていた。
 目の前のカーリス人に悪意を抱ききれないのは、多分どこかで「父親がクズでも子供には関係ない」と考えているせいだろう。血が罪をも遺伝させるとはレイモンドには思えなかった。だが別に、それは感謝されるような話ではない。
「んんっ感心ですねえ、お坊ちゃん! 恩人に礼をということは、へっへっへ、ボクも何か所望できるということでしょうか?」
「パーキン! 大事な話をしているのに横入りするな!」
「つれないなあ、はっきり言ってボクがその気にならなけりゃジュリアン様はラザラスに囚われたままだったんですよ?」
「馬鹿を言え、お前のせいで誘拐される羽目になったんだろ!」
 しょうもない口論に嘆息し、無言のまま踵を返す。背中を向けたレイモンドに気づいてジュリアンは「あの!」と引き留めてきたけれど、これ以上会話を続けるつもりはなかった。
「何もいらねーし、頼むから関わらないでくれ」
 うんざりしつつ吐き捨てる。本人は完全に善意でやっているあたり、始末に負えない。もはやルディアの忍耐も綻びかけているというのに。
(気分転換に外でも出られりゃいいんだけど、ラザラスたちに顔見られてるしなあ)
 レイピアを手にホール脇の階段を上る。肩越しに振り返るとマヤが坊ちゃんに首を振っているのが見えた。どうやら少年はタイラー親子にも礼がしたいと申し出て断られた様子である。
(馬鹿じゃねーの。あの二人が『カーリス人』になびくわけねーじゃん)
 所属というのは意外に強固な属性なのだ。その強さに慣れきった者は、大抵無頓着でいるけれど。
(どうしたら姫様ちょっとは楽になるのかな)
 ここがアクアレイアなら、レーギア宮の彼女の部屋か防衛隊の誰かの家なら、そこらの壁や家具に当たり散らすこともできただろう。或いはルディアの今の身体が他人のものでさえなかったら、自堕落に酒を煽るなりなんなり現実逃避できたはずだ。
(……アルとはしょっちゅう手合わせしたっけ。嫌なことがあった日は)
 根深く暗い話題ほど、お互い口にしなかった。愚痴の代わりに刃をぶつけ、全部黙ったきりでいた。少しでも強くなりたくて、弱い心を鈍らせたくて。
(ああそうだ、ぶっ倒れるまで身体使えば何も考えずに眠れるんだった)
 コンコンと客室の扉をノックする。なんだと不機嫌な低音が聞こえた。その声に嗚咽の混じった様子はない。
(一人きりでも泣けねーんだもんなあ、うちの姫様は)
 気丈すぎるのも考えものだと眉をしかめる。できるだけ普段通りのヘラヘラ笑いを心がけ、レイモンドはルディアに呼びかけた。
「あのさ、暇ならちょっと付き合ってくれよ」
 大した力になれないと知っていながら結局側に戻ってしまう。どうして離れられないのだろう。いつからこんなに離れがたくなったのだろう。
 俺はいつ、どこで、こんなに。




 ******




 穂先を外した槍の柄と木刀が競い合う。棒術大会の前日に肩慣らししたときより、よほどがむしゃらに、もっと言えば捨て鉢に、ルディアはレイモンドに向かってきた。
「じっとしてるよりは気が紛れるだろ」と提案した手合わせは、あれから数日、朝から晩まで飽きもせず続いている。オリヤン邸の広大な庭の片隅はすっかりレイモンドたちの陣地になりつつあった。
「っと!」
 ルディアの手からすっぽ抜けた木刀を咄嗟に上体を反らしてかわす。得物はそのまま勢いよく屏に当たって転がった。急所に食らっていたら危ないところだ。レイモンドはほっと胸を撫で下ろす。
「……すまん。大丈夫だったか?」
 肩で息をするルディアの問いに「ああ、平気」と返答した。休憩をほとんど入れずにやっているので時間が経つほど互いの技は精彩を欠き、この種の事故や怪我も増えた。どれも擦り傷や打ち身程度だが、気づけば全身生傷だらけである。
「ふー」
 大量の汗を拭い、弾んだ呼吸を落ち着けて、レイモンドは彼女の剣を拾いにいった。元々雑なこしらえだった模造武器はあちこち凹んでボロボロだ。握り部分も擦り減っているみたいだし、後でもう一つ作り直してやらなければ。
「続きは明日にしようぜ、だいぶ暗くなってきたし」
 真っ赤な空を見上げて言う。同意の返事もそこそこに、ルディアはその場に座り込んだ。立てた片膝に額を押しつけ、間もなく彼女は深く沈黙する。
「……はあ……」
 レイモンドは槍を背中のホルダーに戻し、物言わぬ王女を見下ろした。体力の限界が来て寝落ちたらしい。頬をつついても反応らしい反応はなく、寝顔は酷くぐったりしていた。起きそうにないなと判断し、自分よりひと回り小さな身体を抱き上げる。
「ブルーノさんどうしたの?」
 そう声をかけられたのは主館に戻ろうと庭をターンしたときだった。
「頭打ったとかじゃないよね? あたしも運ぶの手伝おうか?」
 同じく庭の片隅に陣取った馬車からひょこりとマヤが顔を出す。少女もまたジュリアンやパーキンと顔を合わせるのが嫌で、一人でずっと人形の手入れをしていたらしい。荷台を覗けば着々と作業が進んでいるのがわかり、ルディアが以前話して聞かせたパトリア騎士物語の一節が上演される日も近そうだなと感じた。
「おお、ありがとな。ドア開けてもらえると助かるぜ」
「ちょっと、レイモンドもふらふらじゃない。他にやることないのは知ってるけど、あんたたちもっと身体をいたわったほうがいいんじゃないの?」
 渋面のマヤにお小言をもらう。「そりゃ俺だって休めるもんなら休みたいけどさ」と返せば少女は更に眉をしかめた。
「……まあねえ、今はブルーノさんが自分を苛め足りないって感じだもんねえ」
 的確すぎる表現にハハ、と苦笑いを浮かべる。「許せないって気持ちわかるよ。あたしも腕折ってなきゃ無茶してたと思うもん」と少女は家族を奪われた際の心情を語った。
 耐えるのに慣れた、そのあっけらかんとした口ぶりはやはりどこかルディアと似ている。小さな背中に重い荷ばかり担がなくてもいいのにと見ているほうがつらくなる。
「……無事でいるさ。オリヤンさんも探してくれてるし、きっと見つかるよ。母ちゃんも、兄ちゃんも」
 レイモンドの励ましにマヤは曖昧な笑顔で頷いた。あんまり期待しすぎると叶わなかったときにつらいから、と暗い瞳が語っている。
「ほんっとカーリス人はろくなことしないね!」
 野太い声を張り、少女はさっさと他の話題に切り替えた。
「そういえば棒術大会のときも思ったんだけど、レイモンドたち強くない? どっかで修行でも積んでたの?」
 藪から棒に尋ねられ、「修行って」と小さく吹き出す。
「んな大層なことしてねーよ。幼馴染が騎士マニアでさ、ちゃんばらごっこに付き合わされてきたっつーだけ。まあそいつの伯父さんが偉い軍人だったからガキのお遊びにしちゃ高等な訓練だったかもしんねーけど」
「へえ、その騎士マニアってブルーノさん?」
「いや違う。幼馴染はアルってんだ。ブルーノは――この人は、全然別」
 どう説明するべきかわからずレイモンドは首を振った。深く尋ねてくれるなと示したつもりだったのに、マヤはふうんと話を続ける。
「確かにブルーノさんとは友達って感じしないよね。上官と部下っていうか、王子様と従者みたい」
 子供といえども女というのは勘が鋭い。「半分当たり」と呟いてレイモンドは腕に抱えた姫君を見つめた。
「仕えてたんだよ、二月まで。だけどこの人は身分も財産もなくなって、俺も新しい雇用主のところへ行く予定だったんだけど、なんでかほっとけなかったんだよなあ」
 マルゴー行きの船から飛び降りた日のことを思い出す。遠ざかるルディアの微笑を見ていられず、気づいたら走り出していた。あの頑固なアルフレッドでさえサール宮へ赴くことを渋々ながら受け入れていたのに。
「ああ、やっぱりそうだったんだ。ブルーノさんてすごく育ちが良さそうだし、レイモンドも時々お伺いを立てるみたいにするでしょ? ただの友達じゃなさそうだなって思ってたの」
 謎が解けてマヤは納得した表情だった。レイモンドのほうはいよいよ自分がわからなくなって困惑するばかりだったが。
「俺さ、借金の次にタダ働きが嫌いなんだわ」
 ルディアを起こさないようにできるだけゆっくり歩く。夕映えに照らされた芝草はこの日最後の光を受けてきらきらと燃えていた。何を目にしても彼女と眺めた蛍の群れを思い出すのは一体どういうわけだろう。
「そういうの、はっきり言って時間の無駄だし、共倒れとかマジ勘弁って考えだったはずなんだ。なのに今、一ウェルスにもならないってわかっててここにいる。それがわからねーんだよ」
 心配で、心配で、優しく慰めたかったけれど、ルディアは構うなと拒んだ。傷ついた心に寄り添う方法がわからない自分ではきっと彼女を救えない。もう一度「ありがとう」と言ってもらうのも無理だろう。
 いつもなら期待したものが手に入らないとわかった時点で自然に心も離れていた。解決できない問題にいつまでも関わろうとはしなかった。
 たとえレイモンドが「やっぱ俺一人でアクアレイアに帰るわ」と言い出してもルディアは責めたり恨んだりしないだろう。長い付き合いの幼馴染と違って彼女には返す恩もない。
 だから本当にわからなかった。何故まだ自分がルディアを守ろうとしているのか。
「大切なんだね、ブルーノさんが」
 事もなげにマヤが言う。「最初さあ、男装の麗人かもって疑ってたんだよ」と面白そうに付け加えられ、レイモンドは顔をしかめた。
「なんだそりゃ?」
「だって、雑用とか危ないこととかなるべくさせないようにしてたでしょ? 男の人は自分のお姫様にそういう風にするじゃない?」
「はあー?」
 どういう誤解だと脱力する。少女は主従なら納得だと何度もうんうん頷いた。更にマヤは辿り着いた主館の扉を開きながら「で、他にお姫様はいないの?」と冗談まじりに問いを重ねてくる。
「俺に恋愛話を期待すんじゃねーって。彼女も恋人も婚約者もいねーよ」
「好きな人も?」
「ああ、アクアレイアの女とは夫婦になれる気がしねーからな」
 なんだか喋りすぎている。そう自覚しても疲労困憊した状態では頭がまともに働かなかった。自由気ままに舌は言葉を滑らせる。幸いマヤが節度を守り、根掘り葉掘り尋ねることはしなかったので不愉快な思いはせずに済んだが。
「あはは、モテない言い訳考えるのも大変だ」
「おいコラ、縁がないとは言ってねーだろ」
「大丈夫、男は顔より仕事ぶりだよ! レイモンドくらい働いてくれればうちはいつでも歓迎だからさ!」
「いてっ!」
 よたよたと階段を上がる背中を後ろから小突かれる。「ひとりぼっちで寂しくなったらトリナクリアに戻ってくれば?」と素直でない再会希望を告げられて「ばーか」と軽く受け流した。一座は確かに居心地がいいが、根を下ろしたい場所ではない。
(中途半端にアクアレイア人だからな、俺)
 いっそ離れてしまったほうが楽になれる気がするのに、どうしても後ろ髪を引かれてしまう。それはちょうど、今のルディアに抱いている思いと似ていた。分厚い壁に阻まれながら、己の無力を痛感しながら、それでも自分に気づいてほしくて諦めきれずにくっついている。
「うーん。ブルーノさん、しばらく起きそうにないねえ」
 客室まで戻ってきてもルディアの瞼は固く閉ざされたままだった。扉を開けつつ彼女の顔を覗き込むマヤに礼を言い、レイモンドはお姫様を寝台に下ろす。
「悪ィけどオリヤンさんに晩飯一緒できそうにねーって言っといてくれねーか?」
「うん。後でお夜食持ってきてあげるよ。レイモンドもちょっと休むでしょ?」
「おお、実はそろそろ倒れそう」
 大任を終えた肉体は寝かせてくれと訴えていた。「おやすみ」という少女の声とドアの閉まる音を耳に、もう一台のベッドに突っ伏す。
 ごろりと仰向けになる途中、薄目にルディアの寝顔を捉えて息を詰めた。汗で汚れた髪と額、生気のない頬と唇。早く元の彼女に戻れと切に祈る。
(大切なんだね、か)
 否定する気はなかったが、何故という疑問は消えなかった。金にならないということは自分にとっては死活問題だというのに。しかも今では精神的な報酬さえ得られそうにないのだから。
 ――大体お前は汚い金が嫌いだろう? いや、というより金を汚すのが嫌いなのかな。
 瞳を閉じればルディアの声が甦る。あのとき感じた言葉にならない喜びが。
 同時に嫌な、思い出したくない過去も一緒に掘り起こされてきた。
 忘れもしない十五歳の暑い夏。偶然聞いた、仲の良かった女友達の内緒話。
 ――レイモンドと付き合えばって? 冗談やめてよ、あいつ外国人じゃない。国籍取ろうと頑張ってるけど年末には法律変わっちゃうでしょう? 将来性がなさすぎるわよ。
 ゴンドラで通り過ぎた彼女は岸辺のレイモンドに気づいていない様子だった。声の響きに悪意はなく、あくまでそれが一般的なアクアレイア人の考えなのだと思い知る。同じ国に生まれ育った人間でも、余所者は余所者でしかないのだと。
 それは大評議会で「国籍取得の条件が甘すぎるのではないか」と議論になり、「王国に居住した年数が十五年ではなく二十五年になったら国籍の買い取りを認めよう」との結論が出された年だった。レイモンドは王国人になれるかなれないかの瀬戸際にいたのである。
 国籍を買うための五十万ウェルスはまだ半分も貯められていなかった。結局アルフレッドが伯父に援助を頼んでくれて金はなんとかなったのだが、あの頃刺さった小さな棘の数々は今も胸から抜け落ちずにいる。
 もしも間に合っていなかったら今頃どうなっていたかとか、所詮は中身より所属のほうに重きが置かれるのだなとか、そういう不信はふとしたときに頭をもたげた。そして冷や水を浴びせるのだ。国籍があったってお前は皆とは違うんだぞと。
 アクアレイア人になりたいと願い、そうなろうと努力すればするほど、彼らが自分を、自分が彼らを、信じきれていない現実をまざまざと突きつけられた。心の一番深いところは幼馴染たちにさえ隠した。
 本当はアクアレイア人になる前からわかっていたのだ。自分を守ってくれるのは金だけで、裏切らないのも金だけだと。この身に流れる血はどうやっても半分しか同じにはならないのだと。
(……だから嬉しかったんだよな。姫様が、どういう気持ちで俺が金を大事にしてるかわかってくれて)
 あのときまでは吹けば飛ぶような忠誠心しか持ち合わせていなかった。何か変わったとしたら、彼女のあのひと言からだ。
(だけどそれじゃなんで、俺はそれよりもっと前に、姫様と蛍を見たいなんて思ったんだ?)
 這い上がってくる睡魔に負けて思考は途切れ途切れになる。ルディアの笑顔を思い出すのも泣き顔を思い出すのも苦しくて、レイモンドはかぶりを振った。
(ここにいるのがアルだったらなあ)
 いつでも親身になってくれたお人好しの幼馴染。彼ならきっと王女を支えてやれただろう。
 俺は知らない。小銭稼ぎの方法や、他人に取り入る方法しか。
 それでいいと思っていたのに、それが自分の生き方だったのに、今更こんなにつらくなるなんて、本当に酷い話だ。




 ******




 暗くなってきたから宿舎に戻るよう褐色肌の職人たちに指示すると、ノウァパトリア語でわいわいやりつつ彼らは水瓶の並んだ広い庭を横切っていった。この調子なら五月頭には出航できそうだ。オリヤンはほっと息をつく。
(ブルーノ君の精神状態を考えると早めに海に出てあげたほうが良さそうだしな。前倒しにできそうなら予定をもっと……)
 そんなことを考えながら振り向くと、そのブルーノがレイモンドに抱えられ、主館に運ばれていくところだった。心配そうに二人を見上げるマヤと同じ表情でオリヤンも若者たちを遠目に見守る。
 最近彼らは庭の一角で無茶な鍛錬を繰り返しているようだった。多分邸内でジュリアンと鉢合わせるのを避けているのだろう。数日前にはブルーノが少年に剣を投げつけたと聞いたし、彼らなりに距離を取ろうとしているのは間違いない。同じ敷地内にいて頭から存在を消すのは難しかろうが。
(可哀想に。冷静な子だと思っていたが、随分我慢していたんだな)
 街ではラザラスが血眼になってジュリアンを連れ去った人間を探していた。ブルーノたちを門の外に出してやりたくても今はできない。この家を出るときはリマニの街を出るときだ。
「おや? 旦那様、今日の作業はおしまいですか?」
 と、背中で響いた男の声に振り返る。水瓶の列をひょいと飛び越え、庭の奥から歩いてきたのはパーキンだった。彼のせいで多くの人間が苦しんでいるというのに、金細工師は上機嫌に鼻歌など口ずさんでいる。
「へへへっ、ここって亜麻紙工場だったんですねえ。いやー皆さん手際の良いこと!」
 猫撫で声で擦り寄ってくるパーキンにオリヤンは眉をひそめた。この手の男がこういう口調で手を揉んでいるときは大抵ろくなことを考えていない。「それがどうかしたのかね?」と返して冷ややかな眼差しを向ける。
「そんな怖い顔なさらないでくださいよ、もしかしたら旦那様にめちゃくちゃ美味しい商談を持ってこれるかもしれないんですからあ」
「商談?」
「はい! ですが負債まみれのボクが何を言ったって今は信用ならないと思いますんで、詳しい話はまた後日!」
「負債額に関係なく、君を信用するのはかなり難しいんだがね」
「そんな意地悪仰らず! モノさえ見れば絶対にビッグチャンスだとおわかりになっていただけますんで!」
 商談の内容は不明確だがパーキンは妙に自信満々だ。「紙工場を経営しているような方にならわからないはずありません!」と卑しい垂れ目をギラつかせている。
「工場は私の持ち物ではないよ。国を追われて行き場のない職人たちに場所を貸しているだけだから」
「そうなんですか? けど連中から割安の値で買い付けてご商売なさってるんでしょう?」
「それはまあ、そうだけどね」
「だったら何一つ問題ないです! 旦那様みたいに情け深くって、見識豊かな大金持ちをボクはずっと待ってたんです! 世の中には先見の明のない無能な輩が多すぎますから! それに引き換え旦那様の扱う品々の未来はなんとまあ輝かしいことか!」
 おべっかもそこまで熱く語られるとこめかみがむず痒い。例の夜、パーキンを締め上げたのはオリヤンなのだが、よく自分を殴りつけた拳にそう恭しく掌を重ねられるなと感心した。あまりの調子の良さに北パトリアまで送ってやると約束したことが悔やまれてくる。
「君は私を誤解しているよ」
 舐められているのを感じつつ、金細工師を押し返した。数発殴った程度ではこの男は大人しくなってくれないらしい。また揉め事を起こされては堪らないし、今のうちにもっと太い釘を刺したほうが良さそうだ。
「私は辺境出身の無学な田舎者でね、財産の大半は亡くした妻のものなんだ。先見の明もなければ見識なんてものもない。それに情け深く見えるのも、過去の罪滅ぼしのためだ」
「へっ? 罪滅ぼし?」
「そう、私のこの顔の傷、どういう傷かわかるかい?」
 オリヤンは瞬きするパーキンにずいと顔面を近づけた。両瞼にはかつて刃を滑らされた痕跡が今もくっきり残っている。
「……えーっと、道化芝居でもなさってたんで?」
「違うよ、これは重罰を受けたんだ。北辺民の村では『人殺しの目は塞ぐ』と決まっていてね」
「えッ!? ひとごろ……い、いやー、はは、またご冗談を」
 信じようとしないパーキンににこやかに微笑みかける。釣られて愛想笑いを浮かべた彼の胸倉をやおら掴み上げ、厳しく睨むとオリヤンは低い声で脅しをかけた。
「もしまたお前が私の友人を苦しめるような真似をしたら、次は遠慮なく海に捨てさせてもらうからな……!」
 ひえっと叫んで金細工師は地面に逃げる。「大丈夫、大丈夫です! もう詐欺まがいのことはしません!」とひれ伏すパーキンを見下ろしながらやれやれと嘆息した。
 厄介な男を一行に加えてしまった気がしてならない。これ以上、誰も傷つけられなければいいけれど。




 ******




「どこへ行くのですか」と問いかけてもあの人は振り返らない。こちらに背中を向けたまま暗闇へと歩いていく。遠ざかる白い影に必死で追いつこうとするけれど、足は重い波に阻まれて、なかなか前へ進まなかった。
「どこへ行くのですか、陛下」
 イーグレットは答えない。こちらの声などまるで耳に入っていないかのように、静かに、まっすぐ、歩き続ける。
「お待ちください。陛下、行かないでください」
 我ながら悲痛な声だった。そんな呼びかけでは届かないとわかっていながら他にあの人を呼びようもなく、無意味な言葉を繰り返している。
 水面に映るのはアンディーンの化身と謳われた王女ではなかった。ブルーノの肉体をまとった己には「陛下」と叫ぶしかできなかった。「お父様」と呼べばきっと、あの人は振り返ってくれるのに。
 ――もう二度と、俺はお前をあいつの娘とは認めない……!
 夢はいつも同じ呪詛で締めくくられる。ルディアがルディアに戻ろうとするのをカロは決して許さなかった。
 そうして立ちすくんでいるうちに、イーグレットはどこにも見えなくなってしまうのだ。濃い血の臭いだけを残して。

「……ッ!」

 ハッと目を覚ましたのは真夜中だった。息を殺して心臓を押さえ、汗だくの首筋を拭う。
 起こさなかっただろうかと隣のレイモンドを見やると槍兵は半ば眠ったまま、それでもルディアに「んん、どうかしたか?」と問うてきた。
 案じられると心苦しい。もう何もしてやれないのだから、さっさと見限ってくれればいいのに。同情なんかで財布の紐を緩める性格でもないくせに。
「…………」
 聞こえなかったふりをして、返事は口にしなかった。レイモンドも浅い覚醒だったらしく、すぐにまた夢の世界へ戻っていく。
 投げ出された長い手足はこのところの無駄な酷使でくたびれきっているように見えた。手合わせという名の八つ当たりがエスカレートしていることは彼も気づいているはずなのだが。
(文句も言いにくいほどに、今の私は無様で哀れということか)
 自嘲に唇を歪める。随分と落ちぶれたものだと薄く笑った。
 何が足りなかったのだろう。あのとき、最後の覚悟を決めたとき。何があれば正しい道を選び取れていたのだろう。
(……考えても仕方がない。あの日をやり直せたらなどと)
 ユリシーズの裏切りを知った日も、ジーアンに敗北を喫したときも、こんなに何度ももう一度なんて願わなかった。
 どうやら化けの皮が剥がれたらしい。何があろうと王女として毅然と立っていられると、誰を信じきれずとも、己を信じる心だけはいつも強く持っていたのに。
 両手を開いてじっと見つめる。何も守れなかった手を。それどころか大切な人を葬り去った馬鹿者の手を。
(早くブルーノに身体を返さなければ)
 堂々巡りしかしない思考は頭の隅に追いやって、冴えてしまった目を閉じた。
 オリヤンは五月に入れば船を出せると話していた。四月の暦は明日で終わりだ。じきにローガンの息子とも別れられる。もうすぐこんな葛藤も終わる――。
 いつしかルディアは深い眠りに落ちていた。今度は朝まで夢も見なかった。




 ******




 はあ、とついた嘆息が思いのほか大きく響き、ジュリアンは慌てて口を塞ぐ。聞き咎められなかったとは思うが念のため、身を隠した果樹の陰からブルーノたちの様子を窺った。
 今日も今日とて二人のアクアレイア人は鍛錬に明け暮れている。風さえ良ければ明日にはリマニを発つと言われているのに休む気配はまったくない。
 ラザラスの魔手を逃れて約二週間、ちゃんとした礼は今日まで一度もできずにいた。最悪の状態から救ってもらったのだから、感謝の意を述べるだけでは足りないだろう。もしあのまま自分が囚われていれば、ラザラスは一門に追放さえ命じていたかもしれないのだから。
(やっぱりあの人たちに何もしないでカーリスに帰れないよ……)
 日が経つにつれてジュリアンの罪悪感にも似た苦しさは強まった。ブルーノが態度を和らげてくれればレイモンドやタイラー親子も自分の話に耳を傾けてくれるようになるのでは、と思うのだが。
(死にたくなければ近寄るな、だもんなあ)
 浴びせられた怒鳴り声を思い返して身震いする。今度考えなしに接触すれば本当に剣を向けられかねなかった。レイピアの切れ味を想像すると膝が震える。
(実際よく殺さずに踏みとどまってくれたと思うし……)
 父ローガンのせいで肉親を亡くしたブルーノ、王家追放と同時に職を失ったレイモンド、タイラー親子もカーリス人に身内を攫われ、現在オリヤンに行方を探してもらっているという。
 聞けば聞くほど「助けたくなかっただろうな」としか思えなかった。彼らは皆、ショックリー商会と短くない付き合いの亜麻紙商に遠慮してジュリアンを放ってくれているのだ。この広い邸宅内ならいくらでもオリヤンの目を盗めるのに、誰も一度も暴力的な行為に及んでこないのは驚嘆に値した。
 その寛大さ、忍耐強さに申し訳なさが募るにつれ、お礼がしたい、いや必ずそうしなければという気持ちも熱く燃え上がる。しかしいざ彼らを前にすると張り詰めた空気に立ち入れない何かを感じ、身がすくんでしまうのだった。
(きっかけさえあればなあ。謝礼金だって潤沢に用意できるのに……)
 銀行証書を握りしめ、ジュリアンは打ち合いを続けるブルーノたちや旅芸人の馬車を見やる。どたばたと騒々しい足音が響いてきたのはそのときだった。

「旦那様! 旦那様! 収容施設に送り出していた船が帰ってきました!」

 格子門の外側で使用人が大声を張る。彼は背後に一台の黒塗り馬車を留めており、開門作業もそこそこに庭の主人に呼びかけた。すいた紙を干す職人たちの仕事ぶりを見守っていたオリヤンが「何!」と血相を変えて振り向く。そのときにはもう門が開き、黒塗り馬車は敷地内に迎えられていた。
「えっ? 収容施設って、前にオリヤンさんの話してた!?」
「買い手がつくまで奴隷たちを集めておくっていうアレか!?」
 おんぼろ馬車からタイラー親子が飛び出てくる。進行方向にいたジュリアンは慌てて果樹の脇に引っ込んだ。二人に続き、ブルーノとレイモンドも眼前を駆けていく。
「親父! マヤ!」
 黒塗り馬車のドアを開けたのはタイラーそっくりの骨太短躯な若者だった。彼の後ろにはマヤとよく似た黒髪の中年女性が顔を覗かせている。
「兄ちゃん! 母ちゃん!」
「ふ、二人とも無事なのか!? 一緒に帰ってこられたのか!?」
 タイラー親子は諸手を挙げての大喜びだった。広い庭の真ん中で一家はひしと抱き合って再会の奇跡に涙する。一座の事情を知る召使いらも次々に集まり、その場はちょっとしたお祭り騒ぎになった。
「あんた、あんた!」
「うーっ! 良かった、良かった、もう離さねえぞ! これからは家族四人、どこへ行くのも皆一緒だ!」
「マヤ、俺たちを買い戻してくださったお方はどこだ? 見たこともない額をぽんと払ってくだすったんだよ。とにかくお礼をせにゃいかん」
「オリヤンさんならこっちに。兄ちゃん、母ちゃん、父ちゃんも!」
 祝福の輪を掻き分けてマヤが三人を引っ張っていく。首を傾げる亜麻紙職人たちに状況を説明していたオリヤンの前に出ると、人形遣いの一家は揃って額を地面に擦りつけた。
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
「おかげさまで離れ離れになっていた家族とまた会うことができました!」
 土下座する彼らにオリヤンは「お礼なんていいですから!」と慌てふためく。しかし彼ら、特にマヤの兄は頑として顔を上げようとしなかった。
「いえ、身代金にパトリア金貨三百枚も出してもらってそういうわけにはいきやせん。人形芝居の一座ごときじゃお返しするのに何年かかるかわかりやせんが、いずれ必ずこのご恩は……!」
「いやいや、それは私が勝手に出させてもらった金で、最初から返してもらうつもりでは」
「パトリア金貨三百枚!? そそ、そんなにかかったんですか!? んな話を聞いちまったら俺としても安穏としてられません。ちょ、ちょびっとずつでも返していくんでオリヤンさん、借用書なりなんなりと」
「いや、だから親方殿」
「けど、けど、そんな大金いただいたなんて、あたしら一生気に病んじゃうよ」
「マヤさんまで……」
「お願いです、オリヤン様、どうか私らに少しでもお礼をさせてくださいまし! 大したことはできませんけど、私ら本当に返せるだけは返したいって……!」
「お、奥さん」
 亜麻紙商に訴える一家の言葉を耳にしてピンと来る。なけなしの勇気を奮い、ジュリアンは「あの!」と彼らの前に歩み出た。今なら恩返しができるのではと思ったのだ。
「そのパトリア金貨三百枚、僕に肩代わりさせてもらえませんか? 誘拐犯の手から助けていただいたお礼に!」
 見ず知らずの子供が突然そんなことを言い出したので、タイラーの妻と息子はきょとんと目を丸くした。父娘は一瞬返答に詰まったが、案じていた家族の無事を確かめたことで心に余裕が生まれたらしく、「だったらまあカーリス人がカーリス人の尻拭いをしたってだけだし、俺らが気にすることは何もねえな?」「そうだね、それならパトリア金貨三百枚くらいは後腐れなく忘れられるね」と囁き合う。
 色よい返事が期待できそうでジュリアンは胸をどきどきさせた。黒塗り馬車の脇にいたブルーノが眉を険しくしたのにも気づかず。
「いいぜ、カーリス人から謝礼を受け取る気なんて更々なかったが、そいつがオリヤンさんの懐に入るなら貰ってやらあ!」
「ちょっと上乗せしといてよ! 収容施設までの船賃だってタダじゃなかったんだから!」
 ジュリアンはぱあっと目を輝かせた。ようやく二人が感謝の念を受け入れてくれて、喜びもひとしおだった。
「ありがとうございます! 確かにお約束します!」
 満面の笑みを浮かべて頭を下げる。この勢いでブルーノとレイモンドにもと思ったが、次にジュリアンが辺りを見回したときにはアクアレイア人たちは姿を消してしまっていた。
(あ、あれ? さっきまで庭にいたのに)
 もっとよく探そうとしたが、何故そんな大金を払ってくれるのか、どこの家の坊ちゃんなのかと捲くし立てるマヤの兄に捕まって動けなくなる。
 まあいいか、とジュリアンは二人を探すのを諦めた。ブルーノたちとは明日からも船で一緒なのだから、謝礼を渡すチャンスはまた得られるだろう。
(どれだけゼロを並べられても快くサインできるように、心構えはしっかりとしておこう)
 懐の銀行証書に手をやりつつ、ジュリアンは胸中で頷いた。




 まるで和解の場から逃げるように、或いは家族の再会から目を背けるようにして邸宅へ引き返したルディアを追い、レイモンドも館に戻った。いつもなら一人二人うろついている使用人の姿はなく、薄暗い応接ホールの片隅で彼女はぽつんと項垂れていた。
 青い顔、力ない背中、壁に寄りかかる上半身。見ていられずにかぶりを振る。レイモンドはさっとルディアに駆け寄った。
「おい、具合悪ィなら部屋で休んだほうがいいんじゃねーか?」
 肩を貸そうと手を差し伸べるも彼女は素直に頷かない。「心配するなと言ったはずだ」と目を吊り上げて頭から拒絶する。相変わらずの頑なさにレイモンドもいささか呆れた。苦しくて倒れそうなときくらい、こっちを頼ってくれればいいのに。
「悪かったな、言いつけ通り放っておいてやれなくて」
 ほとんどやけくそで言い返す。荒い嘆息がホールに響いた。「心配なんだから仕方ねーだろ?」とルディアの腕を強引に取るも、己以上に乱雑に、煩わしげに振りほどかれる。
「……っ」
 取りつく島もないとはこのことだ。弱っているのは確かなのに、少しの庇護もさせてくれない。寧ろこちらの憐憫を責めるように彼女はきつく睨みつけてくる。
「一体いくら貰える算段でお節介を続けるんだ?」
「はあ?」
 皮肉のこもった問いかけの意味を咄嗟に理解できなくて、レイモンドは聞き返した。ルディアはそのまま、憂さ晴らしに剣を振るうのと同じ調子でせせら笑う。
「私が支払い能力のない人間になったこと、お前全然わかっていないだろう? マルゴーでブルーノたちと合流できても私の金は一ウェルスだって増えないんだぞ? いい加減、無駄な点数稼ぎはやめにしたらどうなんだ」
「はあ!? む、無駄な点数稼ぎって……」
 酷い悪態に愕然とする。彼女には最初に、無給を覚悟でついてきたと伝えたはずなのだが。
 レイモンドが何も言えないでいる間に罵倒は更に激化した。「無駄でなければなんなんだ?」とルディアはわざとらしく肩をすくめる。
「お前まさか、私がアクアレイアを取り戻せると思っているんじゃなかろうな? そんな馬鹿げた期待を持っているなら今すぐ捨てたほうがいい。お前がいくら投資しようと利益の出る日は来ないからな」
 嘲笑的な物言いに、その鬱陶しい目をやめろと噛みつかれた日のことを思い出す。あの日もルディアは冷たかった。いつもの彼女らしくなくて、吐き出す言葉は悪意にまみれて。
「なんだよそれ、俺がいつ今のあんたに金銭を要求したってんだ?」
 思わず反論を口にする。しかしルディアの態度には少しの変化も見られない。
「言われなくてもお前が金稼ぎにどれほど情熱を注いでいるかくらいわかっているさ。私を相手にしたところで何も得られないのだから、親切を元手に一発当てる気なら他の者を狙ったほうがいいぞと助言したまでだ」
「んな……っ」
 ただ心配しているだけなのに、どうしてここまで言われなければならないのだろう。二の句も継げず、レイモンドは立ち尽くす。
 こんな言葉は本心ではない、腹立ちまぎれに口走っているだけだ。わかっていても聞いているのはつらかった。金を汚すのは嫌いだろうと、誠実を認めてくれたのと同じ口で真逆の中傷を受けるのは。
(……いくら荒んでるっつったって、姫様こんなこと言う人だったか?)
 唇を噛みながら見つめ返す。「反論しないということは図星か」と傷口を広げようとする彼女に違和感は強まった。
「なんでそんな……」
 どうもルディアは意図的にこちらを怒らせようとしているみたいだ。暴れる理由でも欲しいのだろうか。こんな屋内では調度品に傷をつけるかもしれないし、彼女が場所をわきまえていないとは思えないが。
(こういう違和感、前にもあった気がするな)
 レイモンドは感覚を頼りに記憶を辿る。甦ったのはアクアレイアで過ごした最後の日のことだった。
 防衛隊は解散だとルディアが皆に告げたとき、彼女はどこか不自然だった。本当は頼み事があったくせに、それを悟られまいとして、必要以上に平静に、高潔に、王族らしく振る舞っていたから。
 そう、本音とは正反対の態度を取って、しかも彼女は堂々としていたのだ。
「――」
 閃きは突如舞い降りた。不可解だったルディアの言動の一つ一つが、一本の線で繋がった気がした。
「わかったぞ、あんた何か隠してるんだな。だから俺を遠ざけようとしてるんだろう?」
 レイモンドはルディアの手首をぐっと掴み、己の側に引き寄せて問いただす。動じて揺れた青い目が推測の正しさを物語った。逃げ出そうとした彼女の腕をますます強く握りしめ、レイモンドは声を荒らげる。
「言えよ、何を秘密にしてるのか。あんたひょっとして……」
 言葉は最後まで紡げなかった。玄関扉の開く音と、嬉しげなマヤの声に邪魔されて。

「あっ! いたいた、二人とも! ねえねえ、母ちゃんと兄ちゃんを紹介していい!?」

 右手の力が緩んだ隙にルディアはあっさり拘束から逃れた。ようやく核心に迫れると思ったのに、幕は無慈悲に下ろされる。
「ああ、もちろんだ。家族が見つかって本当に良かったな」
「へへへっ! ブルーノさんやレイモンドには感謝してもしきれないよ。二人に出会ってなかったらオリヤンさんにも出会えてないし、あたしらきっと生き別れたきりだった。本当にありがとうね。あたし一生忘れないから!」
「一生? いくらなんでもそれは大袈裟すぎないか?」
「大袈裟なもんですか! この顛末は人形芝居に書き起こしてもいいくらいだよ!」
「はは、客が退屈するぞ」
 ルディアの台詞の空々しさにレイモンドは眉をしかめた。なんなんだ、その作り笑いはと無性に腹が立ってくる。本当は笑う元気などないくせに。
 庭に出ていた人々がどんどん邸内に戻ってきて、ホールは瞬く間にいっぱいになった。もう簡単に彼女と二人になれそうな雰囲気ではない。
 その晩オリヤンは心ばかりの祝いの席を設けてくれたが、ルディアは一度もレイモンドを見ようとはしなかった。夜は客室に戻ってこなかったほどである。彼女が何かはぐらかそうとしているのは火を見るよりも明らかだった。
(聞かれるってわかってて、聞かれたくないことがあるんだろうな)
 暗い屋敷のあちこちを探し回りながら、レイモンドはそれが何かを考えた。自分がルディアに聞こうとして、結局聞けずじまいなことを。
(そんなもん、カロに会ったらどうするかに決まってる)
 何故聞かれたくないのかは簡単に想像できた。理由がわかれば彼女の態度も行動も全部綺麗に納得できた。なんとかしなければという焦りはますます強くなる一方だけれど。


 翌朝、船は順風を捕まえて、予定通りリマニの港を出航した。タイラー一家が笑顔で手を振ってくれたが、レイモンドの気分はいつまでも晴れなかった。









(20160711)