要するに人望が足りてなかったんだ。そう言ってルースは笑った。だが彼の表情はぎこちなく、声の響きも悔しげで、そりゃ本心じゃないだろうと思ったことを覚えている。マルゴー人にしては明るいベージュの髪だったり、黒目の小さい透き通った瞳だったり、彼は決して自分の見た目を言い訳にしなかったが、離反の原因がそこにあることは自覚していたらしかった。
 あのとき俺はどんな話をしたのだっけ。ルースが苦笑するくらい彼の容姿に無頓着だったのは確かだけれど。
 ――しばらく世話になるよ、旦那。今日の借りを返すまでの間。
 昔からルースは口が堅かった。あいつが言わないと決めたことは何があっても喋らなかった。
 いつも隣にいたわけじゃない。心の底を見せ合ったわけでも。
 それでも俺は、俺たちは、どんな傭兵団よりも上手くやれてるって感じてたのに。

「……ほんとに俺だけ何も知らなかったんすか?」

 長い嘆息を吐きこぼし、慰めとも諦めともつかない声で老人が「そうじゃ」と答える。何に対する憤りかもわからずにグレッグは握り拳をわななかせた。
 マルゴー公爵ティボルトが明かした舞台裏は昨日ティルダに聞いた話と大差なかった。偽者の王女がジーアンの手に落ちた以上、ルディアを生かすことはできなくなった。チャドの目が届かない場所で彼女を殺そうと思った。それで前から裏方を任せていたルースとマーロンに始末を頼んだのだ――と、公爵はこちらが尋ねるより早く細かに事情を教えてくれる。
「なんであいつだったんです?」
 問いながらグレッグはティルダの弁明を思い出していた。
 ――誤解しないでほしいの。ルースは公爵家の犠牲になったわけじゃない、マルゴー公国のために死んだのよ。
 私欲のために利用したわけではないと、そんなことを言われたってグレッグには納得できなかった。ルース自ら志願したなら別として、ティルダがなんらかの圧力をかけていたのは明らかなのだ。「あの女には逆らうな」と、そう言い残してルースは息絶えたのだから。
「汚れ仕事を請け負う者なら他にもいる。たまたま今回はルースが頼みやすいところにいたというだけの話じゃ」
 ティルダとまったく同じ返答。続く台詞も示し合わせたようにぴったり一致していた。
「本来なら団長であるおぬしに依頼するんじゃがな、ルースに止められとったんじゃよ。グレッグには向いとらんからそういう役目は全部自分に回してくれと」
 公爵曰く、規模の大きな傭兵団には領民の暮らしを守るための「特別任務」が与えられるそうだ。多くの力を持つ者は多くの義務を負うのだと、もっともらしく語られる。ルースのおかげでお前は今まで苦労知らずだった、他の傭兵団長は多かれ少なかれ同胞殺しも経験している。そんなことを懇々と説かれていると怒りの冷めぬ自分のほうがおかしいのかと思えてくる。ルースを殺したのはティルダや公爵の指令なのに。
 ――清く正しく生きていけるほどマルゴーは豊かではないわ。
 感情を押し殺した公女の声が甦る。横たえられた騎士の赤毛を彼女はずっと撫でていた。己も懐刀を喪ったのだから平等だろうと言いたげに。
「憎むべきは我らを搾取するパトリア聖王じゃ! 忌々しい古王国から独立を勝ち取るその日まで、泥を啜っても力を蓄えねばならん。ましてジーアンとの小競り合いで消耗するなど愚の骨頂! ……じゃからグレッグ、堪えてくれ。もうじき悲願に手が届きそうなのじゃ。おぬしとて傭兵稼業を引退して故郷でのんびり暮らしたり、仲間に所帯を持たせてやったりしたいじゃろう?」
 公国が王国になりさえすれば夢が夢ではなくなると、そのための準備は前進しているのだとティボルトは切実に訴える。結婚や隠居に憧れながら、大半が戦場に散っていく傭兵の末路を思い、グレッグはかぶりを振った。
 ――そんな立派な理由じゃない。ルースが死んだのはそんな立派な理由では。
 そう思うのに折り合いをつけたがる理性は「さっさと頷け」とうるさかった。「反発してなんになる?」「誰が千人食べさせていくんだ?」「戻らない兵士になんかこだわるな」とルースの叱りつける声が。
「チャド王子はどこに消えちまったんですか」
 話を変えるのが今のグレッグにできる精いっぱいだった。責めるには公爵家との付き合いは長すぎたし、水に流すには悲しみが深すぎた。だってルースはただ死んだわけではない。自分の身代わりになったのだ。
「わからん。乳母と斧兵も見つからんし、もしかすると三人で逃げたのやもな。馬だけは利口にサールに戻ってきたが……」
 ティボルトはしわ深い顔を更に歪めて丸い肩を落とす。「捜索隊は出したから心配するな」と探しにいきたい気持ちに釘を刺され、「そろそろ休め」と退室を促された。どうやら自分はもう噛みついてこないものと思われたらしい。それが無性に腹立たしくて、情けなくて、気づいたら胸につかえたもやもやを吐き出してしまっていた。
「俺、言いくるめられてんじゃないですよね?」
 椅子に座したまま黙り込む老人を振り返る。演技達者なティボルトはいつものようにグレッグを騙してはくれなかった。
「……マルゴーは正しい国ではないよ。それでもここには多くの人間が生きているし、わしらは生かせる限りの人間を生かさねばならん。おぬしはルースを忘れずにいてやれ」
 マルゴー人の未来のためにひっそりと死んでいった者がいることを、と公爵はまたもティルダと同じ言葉を続ける。親子はきっと同じ覚悟を持っているのだろう。己が何をわめいたところで揺らぐことのない意志を。
 グレッグは宮殿を退いた。血なまぐさい事件のためにお流れとなった小旅行の護衛代は一ウェルスの減額もなく支払われていた。
(この金でパンを買うのか)
 そう考えると傭兵団を続けることが急に馬鹿馬鹿しくなってくる。だが他に、マルゴー人に許された生き方はないのだ。
 ――豊かになれば、今を耐えれば、戦わなくても暮らしていける国になるのよ。
 そうして初めてティルダたちが独立にこだわる意味に気がついて、グレッグはぽたりと涙をこぼしたのだった。




 ******




 馬車が最後の峠を越えると眼下には緑豊かな田園風景が広がった。見渡せば北方には紺碧の海が霞み、深い入江には帆を張った幾多の船が集まっている。城壁にぐるりと三方を固められた、長方形の湾港都市。そこはレイモンドたちが目指すトリナクリア王国の首都リマニだった。
「やったー! 着いた着いたー!」
 御者台のマヤが軽快に右腕を振り上げる。少女の包帯は一週間ほど前に取れ、今では馬の手綱も難なくさばいていた。
「まーだ見えただけだろうが! 街に入るまで気ィ抜くなよ、海だって近いんだぞ!」
 そんな娘をたしなめて人形遣いのタイラーが凄む。海辺で人さらいの襲撃を受けた彼には潮風も波も心地良く感じられない様子だ。
 だが親方の心配は杞憂に終わった。ここまで何事もなかった道中と同じく、首都近郊の農村を抜けた一行は無事にリマニの東門をくぐることができたのであった。

「おおーっ!」

 広々と見渡しの良いメインストリートにレイモンドは歓声を上げる。リマニは区画整理の徹底した街らしく、東門から西門へ至る大通りと南門から商港へ至る港通りが中央広場で交差するのがよく見えた。上に伸びるしかない建物と曲がりくねった運河に視界を遮られ、迷宮じみたアクアレイアとは正反対だ。行き交う人々の表情も、四月半ばの空と同じに健やかで明るい。
「今日は三時の鐘鳴っちゃったし、組合には明日挨拶に行こうか」
「だな。レイモンド、ブルーノ、お前らこれからどうすんだ? ていうかそもそもリマニになんの用だったんだよ?」
 タイラーは道端に馬車を寄せつつ尋ねてきた。「知り合い探しにきたんだ」と言えば親切な親子は「なんだ手伝ってやろうか」と知人の名前を尋ねてくる。
「オリヤンって六十ちょい前くらいの商人なんだけど、知ってる?」
 問い返したレイモンドに二人は顔を見合わせた。「そりゃ両目にピエロみてえな縦傷のある?」「でも眼差しは優しげな金髪のおじさま?」とまさしくな特徴を挙げられて「おお、それそれ」と大きく頷く。
「もしかして有名人? だったらすぐに見つけられっかな?」
「いや、まあ、有名人っちゃ有名人だが」
「別に探しにいくまでもないっていうか……」
 ちらちらと背後を気にする親子にレイモンドは小首を傾げた。ルディアにも二人の態度がわからないようで「どうかしたか?」と訝しげに問いかける。
「あのねえ、オリヤンの家ってここなのよ」
「へっ?」
 マヤが親指で示したのは今入ってきた東門のすぐ横にそびえる大豪邸だった。四つ角に塔を備えた砦のごとき佇まいで、お国の建物に違いないと思っていたレイモンドは目を瞠る。おいおい、年季は入っているがちょっとした宮殿並みのでかさではないか。門には落とし格子までついているし、本当にこれが一般人の屋敷なのか。
「冗談はよせ。城にしか見えないぞ」
 疑わしげなルディアにタイラーが神妙に首を振る。
「いやいや、だからな、使わなくなった古い城を買い取ったのがオリヤンなんだって。王様は王様で最新式の居城をお持ちだし、港にも一つ要塞があるし、余ってたんだよ」
「余ってたからって買うかフツー!?」
 と、レイモンドの叫びに被せるように通りの向こうから一台の立派な馬車がやって来る。馬車はオリヤン邸の前で停車するや、黒塗りの扉をガチャガチャとけたたましく揺すり始めた。
「……ねえ、もしかして乗ってんじゃない?」
「声かけてみたらどうだ?」
 親子にそっと背中を押される。しかしこちらが呼び止めるまでもなく異国の知人は転げ出てきて「レイモンド君!」と満面の笑みを浮かべた。
 短く柔らかな金髪も、なかなか日焼けしない皮膚も、どういう経緯でついたのか不思議すぎる両目の縦傷も、全部記憶にあるままだ。オリヤンは顔をしわくちゃにして「ああ良かった!」と胸を押さえた。
「ずっと心配していたんだよ、アクアレイアに迎えを出そうか悩むくらい! 元気そうで何よりだ。背が伸びたね? いやまったく、すっかり逞しくなって」
「オリヤンさん、久しぶり。覚えててくれて嬉しいぜ!」
 互いに両手で握手をし、再会を喜び合う。オリヤンは少々白髪が増えたようだが健康的な身体つきで、質素な身なりも変わっていなかった。どこか眩しげにこちらを見るのも、毒のない朗らかな笑顔も初めて会ったときと同じだ。
「しかしリマニで君に会うとは驚いたなあ。いつから滞在しているんだね? この街へはどうやって?」
「今さっき着いたばっかりだよ。話せば長くなるんだけど、仲間と二人で旅の一座に送ってもらったんだ」
 ルディアたち三人を紹介するとオリヤンも丁寧に頭を下げた。「そうでしたか、レイモンド君がお世話になって」と大真面目に礼を述べられ、かちんこちんにタイラーが固まる。古城住まいの豪商から感謝されるなど思いもよらなかったらしく、恐縮しきった親方は目配せでレイモンドに助けを求めた。
「あのさ、実は俺、オリヤンさんに頼みがあって」
 門前でもたつくのもなんなので、さっさと話を切り出しにかかる。オリヤンは「おや、それじゃあ私に会いにリマニまで足を伸ばしてくれたのかい?」と頬を綻ばせながら馭者に格子を上げさせた。
「うん、一度同じ食卓でメシ食っただけの相手に厚かましいとは思うんだけど……」
「はは。困り事があればなんでも相談してくれと言ったのは私だよ。こうして実際頼ってもらえて嬉しいし、ほら門が開いたぞ、続きは中で聞くとしよう。お連れの皆さんも、さあどうぞどうぞ、遠慮は無用です!」
 歌でも歌いだしそうなほど上機嫌にオリヤンが手招きする。「ヒエッ! お、俺らは外で待ってますんで!」と完全に腰の引けているタイラーを引きずってレイモンドたちは敷居を跨いだ。来いと言うのに行かないほうが失礼だ。ここまで来てわざわざ不興を買いたくない。
「!」
「う、うわあ。やっぱり広―い」
「あわわ……、あわわわ……」
 一歩踏み込んで驚いたのは存外な庭の面積だった。どうやら住居に使用している主館以外は厩舎も兵舎も潰して更地にしたらしい。ほどよく刈り込まれた芝と仕切りの垣根、数種類の果樹の他には植えられた草木もなく、その代わり大きな臼と水瓶の列が整然と庭を埋めていた。その隙間を縫うように忙しなく働く人々は一人残らず褐色肌だ。やけに訛ったノウァパトリア語で話す彼らは年齢も性別もばらばらだったが、何人かは親族と判別できる顔立ちをしていた。
(トリナクリアの職人じゃなさそうだな? なんの工場だろ?)
 通りすがりに作業を眺めつつ「染物かな?」と推測する。それにしてはつきものの悪臭がしなかったが。
(姫様に聞きゃ一発でわかるんだろうけど……)
 肩越しにルディアをちらりと振り返る。
 鬱陶しい目で見るなと毒を吐かれて以来、王女様には話しかけにくくなっていた。普通に返事もしてくれるし、やり取りに不都合はないのだが、視線だけどうしても噛み合わなくて。
 そのうち元通りになるだろうか。時間が解決してくれるだろうか。側にいると気詰まりで仕方ない。姿が見えないと今度はしきりに気を揉むけれど。
「こっちだこっち。待っててくれ、美味しいお茶を用意させよう」
 若獅子の彫り込まれた美しい扉を開き、オリヤンは客を邸内に通す。外観のインパクトとは裏腹に中は普通の今風の屋敷だった。一階は商談の場でもあるのだろう、細かな模様の絨毯が敷かれ、これ見よがしに地図や甲冑が飾られている。
 すっ飛んできた使用人がレイモンドたちを広間の奥のテーブルに案内した。腰かけた椅子はふかふかで、タイラー親子には座り心地が悪そうだ。ルディアはと言うと豪華な内装にも動じず、一人落ち着き払っていた。
「さて、改めて自己紹介をしておきましょう。私はオリヤン・マーチャント、海を越えての交易に精を出す商売人の一人です。レイモンド君とは何年か前にイオナーヴァ島で親しくなりましてね、そのうち遊びにおいでと話していたんですよ。皆さんもそう固くならず、我が家と思ってお寛ぎください。所詮私は成金ですから、礼儀作法などわかりませんので」
 初老の男は愛想良く笑う。「で、頼みというのはなんだね?」と話を戻され、レイモンドは早速本題に移った。
「俺たちマルゴー公国に行かなきゃならねーんだ。ただアクアレイアを通らずに、できればパトリア古王国も避けられるルートだとありがたいんだけどさ、オリヤンさんいい道知らねーかな?」
 遠い山国の名にオリヤンは目をぱちくりさせる。「ここからマルゴー公国へ? しかも古王国やアクアレイアを通らずに?」とやや引き気味に念を押された。西パトリアの地理を知る人間なら当たり前の反応だ。マルゴーへ続く道は一つではないが、その二国を迂回するとなるとあまりに遠くなりすぎる。
「確かに今はどちらも政情不安だし、古王国に至ってはアクアレイア人を目の敵にしているからねえ……」
 オリヤンの視線が一瞬ルディアの青い髪に向けられた。レイモンドだけならともかく連れがこれでは心配だ、と無言のうちに語られる。たとえ一人旅でも年中内紛に明け暮れている聖王の膝元になど足を踏み入れたくなかったが。
「サールで他の仲間が待ってんだよ。今あんまり手持ちもなくてさ、オリヤンさんに旅費とかも借りたくって。とりあえずサールまで行きゃ金を返す当てはあるから」
「……ふむ。それではこういうのはどうだろう? 例年私は商用で北パトリアに出向くのだが、君たちも同じ船に乗らないかい? そうすればマルゴーから流れてくる大河を遡ってサールへ行ける。私にも商売があるし、多少回り道をしてもらうことにはなるが」
「へっ、北パトリア?」
 あまり馴染みのない地名にレイモンドは瞬きする。テーブルに地図を広げてオリヤンは詳しいルートを説明した。
 リマニを出たらパトリア海を西進し、海峡を越えて外海に出る。そこで今度は北に舵を切り、北辺部族の統治するパトリア圏外まで仕入れに向かう。その後マルゴー産の岩塩がもたらされる河口の都市に出向くから、そこで降りればいいと言う。
「えっ、いいの? 迷惑じゃね?」
「いや、私もレイモンド君と船旅ができるなんて願ったり叶ったりだ。費用も喜んで二人分持たせてもらおう。安心して任せなさい」
 なんて太っ腹な男だ。さすがに無償でお願いするのはどうかと思っていたのにありがたい。感激しつつ「だって、どうする?」と隣のルディアに窺うと、彼女も異論なく頷いた。
「助かります。思ったよりも早く仲間に会えそうで……」
 久々にほっとした様子のルディアを見やってレイモンドも胸を撫で下ろす。オリヤンのところへ来て良かったなと己の判断にこっそり拍手した。
「出航予定は五月だから、半月はリマニでのんびり過ごすといいよ。こっちに他の知り合いは?」
「いや、トリナクリア島じゃオリヤンさんしか知らねーな。親方たちとは随分仲良くなったけど」
「そうか、だったらブルーノ君だけでなくタイラーさんとマヤさんにも部屋を用意しよう。もし、急ぎの興行がなければしばし留まっていただけませんか? そのほうが彼も退屈しないで済むでしょうから」
「えっ!?」
 突然の申し出に親子は揃って慌てふためく。先に口を開いたのはマヤのほうで、彼女はいかにも少女らしく「こんな素敵なお城に泊めてもらっちゃってもいいんですか!?」と頬を赤くした。
「はは、寝泊まりするだけじゃないよ。一緒に夕食を取ってもらったり、たまにはゲームに付き合ってもらったりするかもしれない」
「ええっ!? た、大変だ、父ちゃんあたしらお客様扱いだよ!?」
「ヒエッ!? に、人形芝居を披露する代わりに庭の隅っこに馬車を置かせてもらうだけで十分なんですけども!?」
 卑屈な二人にオリヤンはいやいやと首を振る。
「私も昔は物乞いと変わらない身の上でした。自分の腕で食べていらっしゃる方々を下に置くなどできません。どうぞおもてなしさせてください」
 滲み出る徳の高さにタイラーたちは圧倒され気味に頷いた。とりあえずこれでサールに向かう目途は立ったようだ。レイモンドは改めて「ほんと助かる、ありがとな」と気前の良い知人に礼をした。
「気にしないでおくれ。君を見ていると若い頃を思い出して楽しいんだ」
 おそらく他意はなかったのだろう。だがその言葉はレイモンドの胸にある種の引っかかりを覚えさせた。なんとなしに顔を上げ、オリヤンのいつもすぼめられている双眸を覗く。そして「ああそうか、そういうことか」と納得した。
 黒目がちなパトリア人とは明らかに異なる薄い碧眼。だからオリヤンは最初から親切だったのだ。
(たまには役に立つんだな、この外国人くさい見た目も)
 皮肉なもんだ。レイモンドは顔には出さず苦笑した。
 パトリア圏より更に北に交易拠点があるということは、おそらくオリヤンはそこの出身なのだろう。イーグレットはレイモンドに北の人間と仲良くなれると言っていた。図らずも王の予言が実証されたわけである。
(まあいいや。今はとにかく姫様をマルゴーに連れてかなきゃなんねーし)
 同胞の代役にされてアクアレイア人であることを無視された、なんて嘆いても仕方がない。逆パターンよりよほどマシだ。大金を出してくれるのだから、くさくさせずにいなければ。
「長旅で疲れただろう。すぐに食事の支度をしよう」
 オリヤンは朗らかに皆をねぎらう。晴れない気分を胸の底に押し込めながらレイモンドは作り笑いを貼りつけた。




 ******




 あんまり毎日お天気だから、泣こうとしても涙が出ないのではないか。
 そんなことを考えながらレイモンドは壁にもたれるルディアにこっそり目をやった。今日も今日とて無愛想な彼女と対照的に空は晴れやかだ。こんな建物の陰にいると、尚更その爽やかな青が際立つ。
「おやっさんたち遅いなー」
 呟きは独白と見なされたか、返事はおろか相槌の類もなかった。相変わらずルディアは深く沈黙し、伏し目がちに石畳を見つめている。
「……はあ……」
 オリヤン邸に着いた翌日、レイモンドたちはタイラー親子に連れられて街中へと繰り出していた。組合で用を済ませたらリマニを案内してやると、珍しく親方が大はりきりだったのだ。
 だがしばらくの後、マリオネットの看板がぶら下がる地下劇場から出てきたタイラーはすっかり意気消沈していた。力なく肩を落とし、眉間に深いしわを寄せ、オリヤンの歓待にはしゃいでいた朝の彼とは別人のようである。
「ど、どうしたんだよ?」
 レイモンドは思わず親方に駆け寄った。いつも元気なマヤまでしょげ返ってしまっており、さっぱりわけがわからない。同業者に挨拶をしてきただけではなかったのか。
「……家族のことで何か言われたのか?」
 神妙な声で尋ねたのはいつの間にやら隣に来ていたルディアだった。父娘は小さく頷くと悔しげに語り始める。
「半月以内に新しい徒弟をつけてやるから家内もせがれも諦めろとさ」
「探してくれって頼んだら神殿に行けって言われたよ。願いが届けば人さらいのところから脱走してくるかもしれないぞって。……やっぱりそれくらいしかできないんだねえ」
 こんなに暗い二人を見るのは初めてで、レイモンドは少し戸惑う。というか彼らに身内の話をされるのも初めてだった。海賊に連れ去られたのはルディアに聞いて知っていたが、改めて事実なのだと実感する。
「ああ、悪い。レイモンドには言ってなかったよな。俺らの一座がなんで人数足りてなかったか」
「いや、えっと、一応軽く小耳には」
 つらい経験を何度も話させるのは気の毒だ。身振りでタイラーを制止すると親方は「ん、そうか……」と重々しく黙り込んだ。
「……まあな、大親方の言ってることが正しいんだ。運良く二人が見つかったって買い戻す金なんかねえし、俺たちにはどうしようもない。それよりこの先ちゃんと暮らしていくために、マヤと生計立て直さねえとって……」
 弱気な父を物言いたげな眼差しでマヤが見上げる。しかし少女は結局何も口にしなかった。
 彼女にもわかっているのだ。不可能なものは不可能だと。本音では諦めたら本当に終わりだと叱咤したくとも。
「…………」
 何か力になれないかなとレイモンドは考えを巡らせる。記憶の底を引っ掻き回し、そうだと一つ思いついて「ちょっと広場まで戻ろうぜ」と提案した。
「え? 広場?」
 きょとんと親子は目を丸くする。よく似た顔には広場に一体何があるのだと書かれていた。
「さっき通りがかったとき、気になる張り紙があったんだよ。参加資格不問、優勝者には豪華賞金、みたいなトーナメント? なんかそんなやつ」
「ああ、あの不定期でやってる棒術大会ね。それがどうかしたの?」
「まさか俺に出場しろってんじゃないよな? 言っとくが俺には大した心得はねえぞ。大体あれはリマニの自警団が『訓練にも遊び心とボーナスの励みを!』って始めたことで、登録は誰でもできるが勝ち抜くのは……」
「違う違う! 出るのはおやっさんじゃなくて俺! 最初にマヤと約束した金まだ払ってなかったろ? 十位以内に潜り込めば結構貰えたはずだからさ」
 踵を返し、レイモンドは足早に来た道を戻り始める。慌てて追いかけてきた親子は「そんなのもういいよ! 一座の手伝いあんなにしてもらったんだし!」「そうだぞ? オリヤンさんのところにもしばらく世話になんだから」と首を振ったがレイモンドに引く気はなかった。
「契約は契約だ、借金残したままにするのは俺が嫌なんだよ。それに二人ともこれからのほうが絶対大変じゃねーか。もしどっかで家族が見つかったとき、まとまった金持ってりゃ直接交渉もできるしさ。その足しにしてくれよ」
「レ、レイモンドお前……っ!」
 親方が男泣きに涙ぐむ。マヤも大きな黒い瞳を潤ませて「ありがとうね」と繰り返した。だがそれよりも嬉しかったのはルディアの口から出た言葉だ。
「折角やるなら儲けは倍にしなくてはな。そのトーナメント、私も出場しよう」
 マルゴー行きが確定したことで心にゆとりができたのだろうか。告げられたのは彼女らしく頼もしい台詞だった。短い期間ではあるが親しく接してくれた二人にルディアも何かしてやりたいと感じたらしい。長らく握っていない武器を手に取る意気が湧いたようだ。
「ブルーノさん! ブルーノさんもありがとう……! ああ、ホントなら昨日あのままお屋敷の前でさよならしててもおかしくないのに、世の中捨てたもんじゃないねえ」
「ああ、ああ、拾った俺らのほうがよっぽど助けられてらあ!」
 笑顔を取り戻した親子にレイモンドは頬をほころばせた。そのまま中央広場へ引き返すと早速くだんの張り紙を探す。
 噴水きらめく広場は大勢の人々で賑わっていた。家畜に水をやる主婦や溌剌とした洗濯娘、客を求めて声を張り上げる荷物持ち、その活気はどんな都にも勝るとも劣らない。ちょうど港に大きな船団が入ったらしく、いかつい風体の船乗りたちもうろうろしていた。彼らのほうから「邪魔だ、どけッ!」と殺気立った声が響き、レイモンドはぎょっとして振り向いた。
「やだ、何あれ? 感じわるーい」
 嫌なものを見たとばかりにマヤが舌打ちする。いちゃもんをつけられたのは大荷物の通行人だったようだ。気の毒に、うろたえた男は何度もぺこぺこ頭を下げて詫びている。
「……カーリスの連中だな」
 と、眉をひそめてルディアがぼそりと呟いた。よくよく見れば確かに船乗りたちに紛れてコットンで肩やら胸やらを膨らませた複数の商人がいる。感情を抑えた声でルディアは親子に「見覚えのある奴はいないか?」と尋ねた。
 見覚えのある――つまり家族をさらった賊ということだ。タイラーもマヤも目を皿にして一団をくまなく凝視した。しかし簡単に手がかりを得られるほど世の中は甘くないらしい。しばらくすると二人は残念そうに首を振った。
「……そうか、すまなかったな。気を取り直して大会の登録へ行こう」
 淡々と詫びた声は硬い。煮えたぎるものを堪えているのは彼女も同じようである。カーリスの豪商ローガン・ショックリーがヘウンバオスと結託してさえいなければアクアレイアに逃げ道は残されていたし、イーグレットの死も避けられたはずなのだ。あの共和都市の人間というだけで憎悪が芽生えても仕方がない。
 関わり合いにならないようにレイモンドたちは遠回りで掲示板に近づいた。張り紙に目を通し、街の住民でなくても賞金の七割は手に入る旨を確認すると受付係と思しき青年に声をかける。
「はーい、出場予定は二人だね。頑張ってくれよ! 部外者が賞金ゲットしたときは俺ら下っ端もおこぼれにあずかれることになってんだ!」
 なるほどそれはいい仕組みだなと感心した。内輪だけのお祭りにしないのは毎回決まった人間が優勝してやっかまれるのを阻止するためでもあるのだろう。上位争いに加われずとも全員楽しみはあるわけだ。上手いことできている。
「部外者って結構いるのか?」
 レイモンドが尋ねると若者は名簿をパラパラめくりながら「うーん、そうだね。今回はカーリスの船乗りが多いかな」と答えた。
「ま、でもそれはいつものことさ! なんたってリマニにはカーリス人居留区があるし、あいつら普段から『ここは俺らの街だぜ』みたいなデカいツラして歩いてやがるから!」
「そ、そうなのか。大変だな」
「ああ、本当に大変だぜ! ま、平和を乱す馬鹿どものおかげで自警団は街の英雄だけどな! あっはっは!」
 たっぷり皮肉の込められた明るい笑い声が響く。さっきの一団に絡まれるのではないかとヒヤヒヤしたが、幸い聞き咎められなかったようだ。
「すまない。ついでに聞きたいことがあるんだが」
 話を逸らすようにしてルディアが二、三の質問をする。受付係はその全てににこやかに応対した。
「試合開始は明日の正午! 集合場所はこの広場! 見物客でいっぱいになるから楽しみにしといてくれよな!」
 快活な青年に礼を告げるとレイモンドたちは広場を後にした。青年の言った通り、親方たちと見物して回ったリマニの街の至るところをカーリス人は大手を振って闊歩していた。




「ああ、そうだな。確かに最近はタチの悪いのが急に増えた。あの共和都市でひと騒動あったのは知っているかい?」
 夕食の肉料理を切り分けながらオリヤンが言う。トリナクリアでは主人自ら給仕を務めるのが最大級のもてなしだそうだ。
 だが大盤振る舞いの食卓を前にしても街で見かけたカーリス人や一座を襲撃した連中を思い出すのか、タイラー親子は塞ぎがちだった。オリヤンの話に耳だけ傾け、味気なさそうに皿のパンをかじっている。
「ひと騒動って、えーっと、ショックリー商会と仲の悪いなんとかって一派が街を追放されたとかどうとか……?」
 レイモンドは前に聞いたルディアの推測を思い出して答えた。どうやら彼女の予想通りの事態が起きていたらしく、オリヤンが「そうだ」と頷く。
「追い出されたのは商売敵で政敵でもあるラザラス一派さ。彼らが荒れるのはわかるがね、今回は本当に酷いよ。トリナクリアの王妃がラザラスの従妹なのをいいことに、人身売買に手は出すし、街でも無茶苦茶ばかりする。現行犯で捕まえられればいいんだが、いつも治外法権の居留区に逃げられて地元住民が泣きを見てるんだ。ローガンが失脚するまでこの状態が続くと思うとうんざりだね」
 そう聞くと昼間の青年のあの態度も納得できた。もしかすると自警団が棒術大会を開催したのは「この街は俺たちが見張ってるんだぞ!」とカーリス人を牽制する意図があるのかもしれない。
「レイモンド、ブルーノ! もし対戦相手がカーリスの下衆野郎だったら思いきり叩きのめしてくれよ!」
「頼んだからね! あいつらきっと母ちゃんや兄ちゃんを連れてった奴らとも繋がってるに決まってんだ!」
 食事中だというのにタイラー親子はテーブルに手をついて立ち上がる。二人の顔は怒りで真っ赤だ。
「おう! 任せとけ!」
 そうレイモンドも拳を固めた。威勢良く決めた返事はオリヤンがロースト肉を切り損ね、ナイフで皿を削った音に相殺されてしまったが。
「えっ……? ま、まさかご家族がそういった災難に……?」
 ハッと我に返った父娘が「あっ、実は……」と畏まるとオリヤンは突然声を荒らげる。
「どうして昨日のうちに言わなかったんです!」
 怒鳴られたタイラーとマヤは驚いてその場に固まった。オリヤンは使用人を呼んで紙とペンを持ってこさせる。その紙に「名前は?」「年齢は?」「背格好は?」「被害に遭った時期は?」と質問の答えを書き込むと、また使用人に何事か命じて屋敷の外へ送り出した。
「あ、あのー……」
「二ヶ月経っていないなら遠くへ売られてはいないと思います。私なりに手を尽くしてみるので、あなた方はあなた方の精霊によくお祈りをしてください。とにかく見つかりさえすれば金銭で解決できる事例がほとんどですから」
 オリヤンは真摯な態度で二人に告げた。曰く、東パトリアの辺境には人買いや人さらいが集めてきた奴隷を一時的に収容する施設があるという。買い手がついてしまったら取り戻すのは困難だが、まだそこに留まってさえいれば必ず買い戻すと彼は明言する。
「えっ、えええ!?」
「あたしら昨日まで赤の他人だったんですよ!? な、なのになんで……」
 狼狽するタイラー親子にオリヤンはかぶりを振った。
「そんな話を聞いたら放っておけないではないですか。料理も喉を通りませんよ」
 豪商のあまりの聖人ぶりに親方はひれ伏し、マヤは両手を擦り合わせて拝み始める。二人ともすっかり頭が上がらない様子だ。
 事の成り行きを見守りつつ、レイモンドはやはりいざというとき物を言うのは財力だなと頷いた。オリヤンとて人が好いから人助けできるわけではない。金という余力があるから他人に手を貸せるのだ。
「本当になんて礼を言やいいのか……! ありがとうございます……!」
「お気になさらず、親方。私が勝手に決めたことです。それに適切な使い方をしないなら、いくら稼いだって全然意味がないでしょう」
「で、でもオリヤンさん、あたしらタカるつもりでここにいるんじゃ……」
「マヤさん、私には子供や親戚がいないんだ。死後は国に返すことになる財産を出し惜しみするほうがどうかしてると思わないかい?」
 人として完璧な受け答えに唸らされる。もはや星座になれるレベルだ。一体どんな人生を歩んだらこんな男が出来上がるのだろう。
「まあ二人はレイモンド君の恩人だから、特別扱いはしているけどね」
 軽く笑ってオリヤンは続けた。急に自分の名前を出されてレイモンドはぶっと吹き出す。
「いや、俺だって別にオリヤンさんと深い仲ではないと思うけど!?」
 なんだろうこれは。昨日は若い頃を思い出すとか言われたし、そういう向きのアピールではないだろうな。貞操を売る気はないし、迫られても本気で困るぞ。
「ああ、ちょいとわかりますよ。レイモンドはどこかしら息子みたいに感じるところがありますからねえ」
「確かにオリヤンさんとレイモンド、親子っぽく見えなくもないね」
 タイラーたちが当たり障りない着地点を示してくれてほっとしたが、それはそれで複雑な気分になる。もしオリヤンが父親だったらこの年になるまで我が子を放っておかなかっただろう。外見的に似ている部分があるだけに、なおのこと息子扱いなどしてほしくなかった。どうやらそれは余計な心配だったようだが。
「いやいや、親子だなんてそんな。前途有望な若者に夢を見るのは老人の悪癖でしょうが、私にとってはその相手が彼だというだけの話です」
 にこやかな笑みを見る限り、本当に邪念はなさそうだ。ぽんぽん財布を開くほど入れ込む価値が自分にあるのか疑問は大いに残るけれど。
「明日の大会は私も応援に行くよ。頑張っておくれ」
 ウインクされてハハハと乾いた笑みを浮かべた。やはり借りっぱなしでいるのは精神衛生上良くない。明日はなんとしても賞金を勝ち取って懐を温めよう。この先オリヤンが無茶を要求してこないとは言いきれないのだから。
 夕食後、ルディアと少し手合わせしてからレイモンドは床に就いた。眠りに落ちるまで試合中どう立ち回ろうか考える。だが本当の事件が待っていたのは棒術大会が終わった後のことだった。




 ******




 ラザラスに渡された皮袋の中を覗き、パーキン・ゴールドワーカーは「えっ」と頬を引きつらせた。ずっしりと重みはあるが、何度見ても詰まっているのは銀貨だけだ。キラキラ光るあの祝福されし金属界の王者、黄金の貨幣は一枚もない。
(なんなんだ? ふざけてんのか、このコットン肩! あんな危ない橋渡らせといて報酬がこれっぽっちとはどういう了見だ? くそ、ニヤけた面して笑いやがって! てめえの三白眼には似合わねえその下まつげ、端から全部引っこ抜いてやろうか!?)
「何かな? まさか取り分に不満でも?」
「いやー、ハハハ! 滅相もない! あのう、だけどラザラス様、確かボク、借金を帳消しにできるくらいの報酬は出してやると言われた覚えがあるんですけども、これではちょっと清算しきれないと申しますか、つまりですね」
「おや、君は私の想定の上をいく負債者だったのか。よろしい、面倒をかけたことだし同じ金袋をもう一つ用意してやろう」
「わあー! ありがとうございます! ……あの、ですが、ちょっと申し上げにくいんですが、それでも全然あのハイエナへの返済額に届かな――」
「ほほう、まだ私に文句があると?」
 落ち目とはいえ今なお権勢を誇る豪商が問うと取り巻きの荒くれどもが一斉に剣を構える。ヒエッとパーキンは後ずさりし、刺激しないようにへりくだりながら「いやいや、これは文句ではなく最初の約束の確認で」と食い下がった。
「君は少し自分の働きを過大評価しすぎではないのかね? ただ我々を手引きしただけで他はおろおろ眺めているだけだったのに、これ以上を望むのは強欲というものだ。職人階級には十分な財貨だろう? 喜んで拝領して、さっさと北パトリアの田舎へ帰るのが賢明な選択だと思うがね」
 これ以上話すことはないとばかりにラザラスがパチンと指を鳴らす。するとパーキンは屈強な衛兵二人に肩を掴まれ、有無を言わさず第一商館の裏口から放り出された。
「いてッ!」
 強かに打ちつけた腰を涙目で擦る。遅れて投げよこされた金袋は二つとも腹に直撃した。しかし今は痛みに屈している場合ではない。
「ま、待ってくださいラザラス様! 俺ほんとにこんな額じゃ……ッ!」
 無情にも扉は目の前で閉ざされた。門番役の用心棒に「いらねえなら貰ってやろうか?」と報酬に手を伸ばされ、咄嗟に金を抱え込む。
「ふざけんじゃねえ! こいつは俺のもんだ!」
「なら持ち主不明の落とし物になる前にカーリス人居留区を出てくこったな。お前さんには不足でも、それだけありゃあ身を立て直せる乞食商人はわんさかいるんだ。ったく、金物職人ごときがどうすりゃ街一つ買えちまうほどの借金こしらえられるんだよ?」
「金物職人じゃねえ、金細工職人だ!」
「どっちでもいいっての。ほら、ぐずぐずしてっと囲まれちまうぞ?」
 愉快げに顎で通りを示されて、パーキンは背後を振り向いた。もう既に何人もの悪党どもが商館裏手に集まり始めている。リマニの裁判官が口を挟めない自治区内で乱暴を済ませてやる腹づもりなのだ。
「ッ……!」
 ゲッと思う間もなくパーキンは駆け出した。しかし重い銀貨を二袋も担いでいるので思うように走れない。厚顔無恥の泥棒たちは「ちょ、待てよ!」「その金で一緒に楽しもうぜ?」などと身勝手なことを叫びながら全速力でこちらに迫る。
「アホか! 多重債務者に奢らせようとしてんじゃねえ!」
「やかましい! そんだけ借金してりゃ二、三十万ウェルスくらい誤差の範疇だろ!」
「そうだそうだ、有効に使ってやるから俺らにその金よこしやがれ!」
 なんという滅茶苦茶な理屈だ。だが盗人どもの主張にも一理あった。確かに膨れ上がったこれまでの負債と比べたら銀貨一袋分程度どうということもないはした金である。
「よっしゃ、そんじゃ丁寧に拾いな!」
 右脇に抱えた金袋を豪快にぶちまけると身軽になったパーキンは鳥のように居留区の角を曲がった。予想通り追ってくる足音はしなくなり、悠々と危険域を脱出する。
(しかし弱ったな。一体これからどうすりゃいいんだ?)
 パーキンは裏町風情漂うカーリス人居留区を振り仰いでもみあげを掻いた。完璧な返済計画だと思ったのに、これでは借金のカタに持っていかれたアレを取り返せないではないか。
(当てが外れたぜ。ラザラスの下まつげ野郎がアレの価値をわかってねえから……)
 いや、わかっていたら今度はあの下まつげ馬鹿に奪われていただけか。ああ、本当にこの先どうすればいいのだろう。アレが手元に戻らなければ俺の人生はおしまいだ。
(諦めるな! 考えろ! まだ挽回のチャンスはあるはずだ!)
 うんうんと唸りながらパーキンは港通りを南に上った。とにかく今後は迂闊にカーリス人居留区に近づけまい。彼らに協力してやったのは事実だが、もう小金をせしめた余所者としか見てはもらえないだろう。切り札があるとすれば連中と共謀してさらった子供だけなのだが。
(てめえのガキと引き換えになら、どんな非情な金貸しだって借金の額なんざ忘れてくれるに決まってる。どうにかしてラザラスを出し抜いて、可愛い坊やをこっちの手に入れるんだ)
「――ん?」
 と、パーキンは異様な人だかりに気づいて足を止めた。埠頭からは遠く離れ、中央広場の辺りに来ているはずなのだが、わあわあきゃあきゃあ歓声を上げる人々が邪魔で進めない。
(なんだあ? 祭りでもやってんのか?)
 背伸びして前方を見やれば目鼻立ちの整った青髪の青年が鮮やかに筋骨隆々の巨漢を昏倒させたところだった。そのすぐ隣の土俵では金髪で長身の若者がカーリス人と思しき男をぶちのめしている。観衆の声に耳を澄ませるに、どうやら棒術大会とかいうのが佳境を迎えているらしい。今しがた十位入賞の確定した二人はリマニに来たばかりの旅人コンビだそうだった。
(ふうん、なかなかやるねえ。ありゃ軍人経験があると見た)
 なんとなく目を惹かれ、剣のように棒を操る青いほうの兵を見つめる。だが隙のない動きを見せていた彼は、何故か次の試合で早々と敗北してしまった。
(ありゃ? なんでいきなり手ェ抜いたんだ?)
 不思議に思って視線で彼の行方を追えば、賞金を貰った青年は何やら武骨な集団に受け取ったばかりの金を渡してしまう。二言三言の短いやりとりの後、真新しい金袋は他の財布が積まれた卓の一番上にドスンと置かれた。
(ああ、なるほどね。あそこが胴元の席なのか)
 こんな競技に賭け事は欠かせない。彼は賞金を元手にもっと荒稼ぎしてやるつもりなのだろう。自分も彼に倣ってみるかと考えたが、昔からギャンブルで勝てたためしがないのを思い出して踏みとどまった。そうこうする間に試合は進み、槍のごとく長い棒を構えた金髪の若者が次々と対戦相手を倒していく。
「…………」
 決勝戦が始まるまでに「強そうだな」という予感は確信に変わった。少なくともそこら辺のカーリス人よりはよほど剛の者に見える。何よりも、パトロン探しに尋常ならざる嗅覚を発揮する己の鼻が「あいつらだ!」と告げていた。あの旅人コンビはきっと今の苦境を打開する何かに利用できる、と。

「優勝はレイモンド・オルブライトだーッ!」

 拳を突き上げた男にリマニの民衆は惜しみない拍手を送った。ほとんど同時に三時の鐘が鳴り響き、健全に観戦を楽しんでいた者たちはぞろぞろと家路に着き始める。金銭の受け渡しがまだの者たちはそこここに集まってポケットに手を突っ込んだ。
 先程の青髪の若者は一点張りで大儲けしたようだ。「優勝したのとおんなじ額になってんじゃねえか!」と誰かの悔しがる声が響く。「時々ああいう利口なのがいるから面白いんだろ」と別の誰かが答えるのを耳にしてパーキンはバッと駆け出した。
(どうする!? なんて声かける!? ――よう、強いじゃないかお二人さん。しかも抜け目もないようだ。あんたらの腕を見込んで一つ頼みがあるんだが、どうだ、話を聞いちゃくれねえか? ――よし、これだ!)
「お待ちください、そこのお二方! ボクを、ボクを助けてもらえませんかッ……!?」
 涙混じりの情けない声で呼びかける。振り返った二人は鼻水を啜ってすがりついてくる未知の男にぎょっと目を剥いた。
「お願いします、事は一刻を争うんです……! こ、子供を、子供を誘拐してしまったんです……!」
 必死の形相で訴える。プライドなんてものは初めからなかった。パーキンはカーリス人に見咎められぬよう注意深く、救世主たちを影深い路地裏へと引き込んだ。




「お願いです、どうか話を聞いてください」
 突然現れた四十絡みのもみあげ男にそう乞われ、ルディアは露骨に眉をひそめた。なんだこいつは? 何者だ? 誘拐とかなんとか不穏な言葉が聞こえた気がするが。
 無言で隣の槍兵を見上げる。レイモンドも困惑気味に「知らない奴だ」と首を振った。
「あ、怪しい者ではありません。ボクはパーキン・ゴールドワーカーという者で、金細工職人をやっております。実は、その、お恥ずかしい話なんですが、甘言に乗せられて悪党に手を貸してしまいまして……、ううっ、ボクのせいでいたいけな少年が……っ」
「は、はあ? 悪いけど余所当たってくんねーか? 犯罪に関わるのはごめんなんで」
 今さっき受け取ったばかりの賞金を庇って槍兵はしっしと男を拒む。こんなタイミングで接触されれば金狙いのペテン師と考えるのが当然だ。しかしこのパーキンとかいう自称金細工職人は「お礼ならできます! たんまり弾みますから!」とルディアたちに銀貨の詰まった皮袋を開いてみせた。
「!?」
「うわっ! オッサン俺らより持ってんじゃねーの?」
 男の手持ちはざっと見て十万ウェルスは下らない。これなら金に困っているということはなさそうだ。
 だが出所不明の大金によって胡散臭さは否応なしに増した。ルディアはいつでも逃げられるように周囲に気を配りながら不可解な闖入者を睨みつけた。
「事情は知らんが反省しているなら自首すればどうだ? ちょうどそこで自警団の連中が撤収作業中だぞ」
「それで解決できるならとっくにそうしてますってば! さらってきた子供はカーリス人居留区で監禁されているんです。助けるためにはあなた方のような強い騎士様のお力がどうしても必要なんです……!」
 後生ですからと土下座され、ルディアは槍兵と目を見合わせた。互いに顔をしかめているのは男の哀願に戸惑ったせいではない。突如飛び出したカーリス人居留区という語句のせいだ。
(この男、人さらいの海賊どもと繋がりがあるのか?)
 ひれ伏したままの金細工師を上から下まで一瞥する。縦縞以外飾り気のない服装といい、訛りの強いパトリア語といい、彼自身はカーリス人には見えないが、一体どういうことだろう。
「ちょ、ちょっと待てよ。つまりなんだ? 誘拐の主犯はカーリスの連中で、あんたはその手先かなんかだったわけ?」
「は、はい、そうなんです。でも今になって後悔して……」
「えーと、じゃあ悪い奴らとは手を切ってきたってこと?」
「はい。良心の呵責に耐え切れなくなり、飛び出してきてしまいました」
「ま、まじか……?」
 レイモンドがひそひそと「上手くやりゃおやっさんの家族を見つけられるんじゃね?」と耳打ちしてくる。ルディアのほうは彼ほど楽観視できなかった。売り飛ばした奴隷のことなど覚えている賊はいない。非道な手段で儲けを狙う一団が一つきりとも限らなかった。であればタイラーの妻や息子は近海一帯に顔のきくオリヤンに探してもらったほうが賢明だ。それよりルディアが放っておけないのは今まさにカーリス人に囚われているという少年のことだった。
(今なら新たな被害者を出さずに済むのではないか)
 連中を野放しにはできない。カーリス人に一矢報いてやりたいという気持ちもあった。
 踏みにじられた故郷を思い、王を思い、強く拳を握りしめる。先刻の試合で戦っていたときよりも、もっと苛烈に暗い炎が燃え上がった。
「子供の人数は? 拉致の目的は人身売買か?」
「ひ、一人です。売るためにさらったんじゃなくて、身代金を要求するんだと」
「なるほど、連中がよく使う手だ。アクアレイアもだいぶ煮え湯を飲まされた」
 パーキンは魔が差してとんでもない罪を犯したと嗚咽をあげる。大量の銀貨は子供を家に帰すための資金として盗んできたらしい。手伝ってもらえるなら全部差し上げても構わないと胸に金袋を押しつけられる。
「ブルーノさん、レイモンド、何かあった!? 大丈夫!?」
 と、そこに張り詰めたマヤの声が響いた。広場に姿が見当たらないので探し回ってくれていたようだ。続いてタイラーとオリヤンもばたばた路地裏に駆け込んでくる。
「なんだなんだ、絡まれてんのか!? やんなら加勢すっぞ!?」
「わーッ! おやっさん、違うから! そういうんじゃねえから!」
 腕を振り上げたタイラーを槍兵が慌てて止めた。怯えるパーキンを背に庇い、ルディアはオリヤンを振り返る。
「屋敷に彼を連れて帰っても?」
 さっぱり状況を掴めていない様子だったが、レイモンドにも「いいか?」と頼まれ、大商人はこくりと頷いた。金細工師の懺悔に彼らが顔色を変えるのはこのすぐ後のことである。




 ******




 ――曰く、パーキンは北パトリアでは名うての職人で、パトリア古王国へは聖王の注文品を届けるために来たらしい。だが気紛れな聖王に「やはり頼んだものは要らぬ」と支払いを拒否され、挙句その品も帰途のカーリス共和都市で騙し取られたのだという。
「故郷へ帰ろうにも一文無しでしたし、ラザラスの言いなりになるしかなくて……。だけど信じてください! これが初犯で、心から悔いてるんですよお! 俺はッ、俺は……ッ!」
「わかったから、少し落ち着け」
 濃い眉をこれでもかと寄せて号泣するパーキンにルディアはふうと嘆息した。ちゃんとした旅券と職人組合の発行する身分証明書も見せてもらったし、組織だった強盗ほどいざというとき罪を被せられる外部の人間を利用するものだ。とっくに彼への疑いは消えていた。問題はこちらに何ができるかであった。
「その子供、あたしらで助けてやろうよ! ねえ父ちゃん!?」
「ああ、売り飛ばされるわけじゃねえっつったって見過ごしちゃおけねえ! それに俺は、ずっと奴らをぶっ飛ばしてやりたかったんだ!」
 タイラー親子は興奮気味に席を立つ。オリヤンもひっきりなしに頷きながら「法的機関が当てにできん以上、他の誰かがやるしかないな」と腕をまくった。
「……そんであんたはどうすんだ? 俺はあんたの決めた通りに動くけどさ」
 おっかなびっくり槍兵が尋ねてくる。全面的に皆が協力してくれるなら断る理由は一つもなかった。「慎重に策を練ろう」とルディアは指を組み直す。
「お、おおっ!? お力添えしていただけるので!?」
 パーキンは狂喜して対面に座すルディアの両手を握りしめた。
「本当にありがとうございます! 本っ当にありがとうございます!」
「いや、そういうのいいからさっさと詳しい監禁場所を教えろよ」
 金細工師の無作法さにどことなくムッとした様子でレイモンドが催促する。パーキンは輝く笑顔で「はい!」と応じ、カーリス人居留区の立地から説明を開始した。
「カーリス人は入江の東に三十軒近い宿や銀行を持ってます。ラザラスの城は船着場の正面にある第一商館で、こいつは裏通りにも面してる馬鹿でかい建物です。今朝まで子供はそこに閉じ込められてたんですけれど、商館っつうのはお堅い人たちも大勢やって来るところでしてね。キャンキャン騒がれても誰も気にしない隣の娼婦宿に移されたんですよ」
 パーキンによればその娼婦宿は一階が酒場になっていて、カーリスと取引のある外国商人も食べたり飲んだりしているらしい。三十人も客が入れば超満員の面積で、本業を営んでいる二階から四階も多めに見積もって各階六部屋程度だろうとのことだった。
「しょ、娼婦宿かあ……」
 乗り込むのは難しそうだとマヤがうなる。この場合、道徳的な意味ではなく悪目立ちを懸念してのことだろう。
「うーん。私もすぐに足がついてしまうね」
 そう呟いたオリヤンもカーリス人居留区に忍び込むには顔が売れすぎていた。当然パーキンも連れていけない。金細工師が金を盗んで逃げたのはもうバレていてもおかしくないのだ。
「潜入できるとして私とレイモンド、タイラーの三人だな。土地勘があるのはタイラーだけか」
「お、俺だってカーリス人居留区に入ったことはないぜ?」
「街の地図を見てみるかい? 何かアイデアが浮かぶかもしれない」
 オリヤンが広げてくれた地図に見入り、ルディアはしばし思案する。
 リマニは歴史ある街だがこれまで何度も大きな戦禍に見舞われており、そのたび一から街を造り直してきたため、人口増加に伴って迷宮化するのが宿命の都市にしては珍しく整然とした街並みをしていた。表通りは綺麗に舗装されているし、馬車同士も余裕を持ってすれ違える。この点を上手く使えば逃げきることはできそうだった。
「……よし、それでは各々役割を決めよう」
 薄暗くなってきた一階広間の片隅にルディアの声が静かに響く。作戦会議が終わる頃には太陽も一日の責務を果たし、全てを真っ赤に染めながら西の海に沈みかけていた。




 ******




 かがり火の焚かれた酒場は雑多な喧騒に満ちている。階段の位置は確認した。壁の補修をするとかで四階が営業を取りやめていることも、長居の割に酔っていないごろつきグループがいることも。
 ルディアはじりじり焼け焦げそうな心をなだめて機を待った。当たり前だがどこを向いてもカーリス人だらけである。財産が許す限りのコットンを詰めた彼らの衣装を見ていると、冗談でなく眩暈がした。
 アクアレイアの命運が決まった日、天帝からの通告を持って現れたローガンの傲岸不遜な高笑いが甦る。王国を徹底的に潰すためにカーリスがジーアンと手を組んだのはあのときにわかっていた。仮にヘウンバオスが王家を見逃したとしてもカーリス人はそれを許さないだろうと。そして奴らは実際に、軍船を率いてコリフォ島を襲ったのだ。
 恨みをローガン個人に留めることはできなかった。ジーアンと接触したのがラザラスでも話はさして変わらなかったに違いないのだ。昔からカーリス人にとって外部の敵は内部の敵以上に目障りな存在なのだから。
(復讐がしたいのか)
 軽い水割りを煽りながら自問する。
 最初にタイラーから海賊の話を聞いたとき、襲撃されれば正当防衛になると思った。空の鞘しか持っていないくせに刺し違えても戦うつもりになっていたのだ。入っているのがブルーノの身体でなかったら自分から人さらいを探しに出向いたかもしれない。
 カーリス人が試合に登録していると聞いたときも、こんな大会なら死亡事故が起きたっておかしくないと考えた。受付に失格の例を尋ねたら「骨折以上の怪我を負わせることだ」と言われて抑えたが。
 王族として、いかなるときも激情に蓋をする訓練をされてきた。今も必死に堪えている。ともすればたやすく暴走を始めそうな殺意を。
(馬鹿者め。今の私の名前はなんだ? 言ってみろ)
 これ以上ブルーノの手を汚すつもりかと奥歯を噛む。腰には新しいレイピアを差していたが、衝動だけで切りつけるなと何度も自分に言い聞かせねばならなかった。
 ふと目を上げればサイクロプス用の付け髭で変装したタイラーが映る。その隣には前髪を下ろして別人状態のレイモンドも。ルディアはというと舞台の幕をターバンに、英雄人形に被せていたかつらを付け毛にテーブルで肘をついていた。
(『ウーティス』か――)
 誰でもない。そう名乗ることで危地を脱した古代の知恵者。マヤたちに騎士物語の一章を教えたのは、巨人退治の見世物を続けられるのが苦痛だったせいかもしれない。
 誰でもない。「ルディア」でもない。王国の名は消え去って、偽の王女ですらなくなった――それは他でもない己のことに思えたから。
(早くマルゴーに身体を返しに行かなくてはな)
 残った酒を一気に飲み干し、手酌で新たに注ぎ足す。だがこれ以上酔う気はなかった。夜はもうとっぷり更けて、テーブルに突っ伏した者や空席も目立ち始めている。
 待機中のマヤ、オリヤン、パーキンには零時にひと突きされる鐘が合図だと告げてあった。その音はまさに今、聖堂の鐘楼から夜の街に厳かに響き渡っている。
「……おい、今なんて言った?」
 酒杯を激しく卓に叩きつけ、ルディアは取り決めていた芝居を始めた。
 設定はこうだ。タイラーは詐欺師まがいの悪徳商人で、とある女にガラス玉のネックレスを宝石と偽って売りつけた。その成功談を肴に飲み交わしていたところ、ルディアは騙されたのが自分の妹だと気づく。そしてタイラーに金を返すか本物を持ってこいと迫るのだが、タイラーは騙された奴が悪いと一蹴、大喧嘩に発展するのである。
 ルディアが剣を抜いたらタイラーは即刻逃げ出す。酒場の出口にはこちらが立ち塞ぐので彼は上階に隠れるしかない。憎き詐欺師を探し回るふりをすれば自然に娼婦宿に押し入れるわけである。
 子供が見つかるまで店の亭主や他の客を止めておくのはレイモンドの役だ。「連れが迷惑をかけてすまない」と銀貨を握らせ、退路の確保に努めてもらう。事によっては隣の商館から援軍が駆けつけてくる可能性もあるし、臨機応変さが必要だった。レイモンドなら心配はないと思うが。
「へっ嫌だね! なんで俺が金を返さなきゃならねえんだ? 俺はただあの娘が綺麗な宝石を気に入ったみたいだったから、夢を壊すまいと黙ってやってただけじゃねえか! いくら払うか決めたのはあっちなんだ! びた一文だって返しゃしねえぞ!」
 さすが人形劇を生業としているだけあってタイラーの演技は様になっている。アンバーの役者ぶりには及ばないにせよ、期待したより遥かにいい。どうしたどうしたと穏やかでないテーブルに目をやり始めた酔いどれたちも不自然さは感じていない様子である。
「話のわからない男だな、今なら不問にしてやると言っているのだ! さあ、巻き上げた金を返せ! さっさとしろ!」
「わかってねえのはどっちだよ? 本物の宝石を買うより安く済ませてやったんだぜ? むしろなんて親切な男だと感謝してほしいくらいだね!」
「貴様、まだ言うか! ふん捕まえて裁判所に引きずってやる!」
「やってみろ、勝つのは俺だ! 契約書もろくに読めないあの女がどんな書類にサインしたかとっくり教えてやろうじゃねえか!!」
「お、おい、二人ともやめろよ。こんなところで熱くなるなって」
 睨み合うルディアとタイラーの仲裁にレイモンドが立ち上がった。そんな彼を振り払い、丸椅子を蹴り飛ばし、「なら裁判官に委ねるまでもなくここで決着をつけてやる!」とレイピアを振りかざす。怯んだタイラーの進行方向に回り込み、肩口ギリギリに刃を振り下ろせば、親方は後ろに跳んで身をかわした。そして反撃とばかり酒や料理の乗ったテーブルをこちら側に押し倒してくる。
(よし!)
 ワインボトルや皿の割れる派手な音は周囲の注意を上手く逸らした。逃げ場を求めて店の階段を駆け上がるタイラーを見送り、ルディアも「逃がすか!」と駆け出す。
「どこへ行った! 出てこい外道!」
 ここまでは作戦通りだ。後はこれが酔っ払い同士の揉め事だと勘違いされているうちに例の子供を見つけねばならない。営利誘拐なら見張りをつけているだろうし、そう長く化かせられはしないだろう。
(急がなくては)
「なんだテメエ、勝手に上がってくるんじゃねえ!」
 頭上で響いた荒々しい怒号にルディアは階段を上る足を速めた。タイラーは早くも四階に到達したらしい。「ヤバいのに追われてるんですって!」と危機を訴える彼の声が聞こえてくる。
「ほら、来ました! あいつです、あいつ!」
 タイラーと一緒にいたのは腕っぷしの強そうな二人の若い水夫だった。抜き身の剣を構えたルディアを目の当たりにし、彼らは慌ててナイフを向ける相手を変える。
 だがこちらのほうが一歩早い。ルディアは絶妙にタイラーを避け、大柄な男の腿を鋭い刃で突き刺した。
「ギャアッ!」
「あ、兄貴ィ! うがっ」
 やや小柄な弟分もたちまち戦闘不能状態に陥る。階段を転がっていった男の後頭部が妙にぐっしょり濡れていたので「?」と前に目を戻せば、タイラーがしれっと酒瓶を小脇に挟み直すところだった。
「て、てめえら! 騙しやがったな……ッ! おい、皆出てきてくれ!」
 負傷した足を抑えつつ、見張りが大声で助けを呼ぶ。屋内の敵はせいぜい四、五人と見ていたのに、四階の空き部屋から飛び出してきたならず者は想定の倍近かった。
「な……っ!?」
「げえっ!? こ、これはちょっと多すぎじゃ……っ」
 大きく開いた戦力差に一瞬たじろぐ。しかし今更引き返すわけにいかない。「下がってろ!」とタイラーを背後に追いやるとルディアは飛びかかってきた最初の男にターバンを投げつけた。
「フガッ!」
 幕が敵の視界を妨げている間に左手で硬い鞘を掴む。急所に一撃繰り出せば「ンゴオッ!」と悲鳴を上げたきり男はその場に動かなくなった。勢いだけで切り込んできた稚拙な動きの数人も、たちまち痛打の餌食となる。
「おい、あいつの髪見ろよ!」
「アクアレイア人がなんでこんなところに!?」
「あ、悪魔じみた攻撃しやがって……!」
 怒りをたぎらせた賊どもはルディアを袋叩きにしようとした。しかし通路の狭さが災いし、体格の良い彼らは肩をぶつけ合う。その隙を逃さずルディアは一人また一人と悪魔じみた攻撃とやらで床に沈めた。
「おぐぅ……ッ!」
「ギャーッ!」
「く、クソ! 下からも応援を呼べ!」
 リーダーと思しき男が焦って命じる。怒鳴りつけられた部下は奥部屋の扉にへばりついたまま真鍮の呼び鈴を打ち鳴らした。そのけたたましい音は建物中にこだまする。
「挟み撃ちにすりゃこっちのもんよ!」
「覚悟しな!」
 しまったとルディアは振り返った。この狭さで背後からも攻撃されたらひと溜まりもない。酒場のごろつきどもはレイモンドが抑えてくれているはずだが、もし二階、三階にもまだ仲間がいたとしたら――。
「どうした、ガキに何かあったか!?」
 無情にも展開は危惧した通りになってしまう。なんだって子供一人にこんな大層な見張り軍団をつけるのだと舌打ちしたい気分だった。新手はたかが二人だが、背中を取られた時点で脅威である。壁を背にルディアは左右を一瞥した。とにかく多少の痛手は負ってもどちらかを捻じ伏せるしかない。
(どうする? 今来た二人、同時に倒せるか?)
 もう一つ新たな足音が近づいてきたのはそのときだった。
「屈め!」
 飛んできた何かにハッと気づいてルディアはタイラーの足を払う。突如投げ込まれたのは葡萄酒の空き瓶で、それは二本とも賊の頭に命中した。タイラーが武器として構えていたのとは別の瓶のようだ。この加勢にはごろつきどものほうに動揺が走る。
「だ、誰だ!?」
「うるせー! てめーらに名乗る名はねー!」
 階段口から三本目の酒瓶を投げたのはレイモンドだった。槍兵は額に汗して「おい、急げ! 隣にラザラスを呼びにいった奴がいる!」とこちらを急かす。
 どうやらもたついている間に騒ぎが大きくなりすぎたらしい。ただちにここを引き揚げなくてはならなかった。
 槍兵のおかげで敵は四人に減っていた。一瞬の目配せの後、それぞれ自分の一番近くにいた男に一斉に飛びかかる。一対一なら日中の棒術試合よりずっと楽だった。切り崩し、昏倒させた水夫を置いてルディアは奥部屋に駆け急いだ。
「鍵を渡せ! 死にたくなければ今すぐに!」
 呼び鈴を握り締めてオロオロしている男に命じる。不能にされたくなかったか、青ざめた男はあっさり鍵を差し出した。ルディアが奥部屋を開けると同時、「はぐっ」と槍兵に意識を落とされた賊の情けない悲鳴が響く。
「んーっ! んーっ!」
 見渡せば目的の人物は狭い部屋の汚れた寝台に寝転がされていた。目隠しに猿ぐつわ、腕は後ろ手に縛られて、少しも身動きできない状態である。可哀想に、こんな格好でほったらかしにされていたとは。まだ十一、二歳くらいではないか。
「助けに来たんだ、暴れるなよ。ちゃんと親元に帰してやるからな」
 できるだけ安心させてやろうと囁くとルディアは少年を担ぎ上げた。「早く、早く!」と叫ぶレイモンドに引っ張られ、滑るように階段を下りていく。
 三階、二階では男も女も困惑していた。裸のまま扉の陰から顔を出し、階段を覗いて目をぱちくりさせている。一階の酒場では槍兵が派手にやったのか、大勢の野次馬が集まっていた。
「うぉりゃーッ! どけどけーッ!」
 槍の先で進行方向のカーリス人を追い払い、レイモンドは出口へと突き進む。ラザラスが来るまでに間に合ったかと思ったが、通りに出た途端ルディアたちは豪商率いる武装集団と鉢合わせた。戦争にでも行くのかというくらい大仰な甲冑騎士たちだ。それが二十人近くもいる。
「あいつらだ! ガキを取り返せ!」
 身構える間もなく貴族然とした下まつげの男が叫んだ。小隊にワッとなだれかかられ、思わずぎゅっと瞼を閉じる。
 くそ、万事休すか。奴らに吠え面をかかせてやるまでもう少しだったのに。

「ハイヨーーーーッ!」

 と、そのとき、深夜にあるまじき馭者の掛け声と馬車の騒音が近づいてきた。いつもぴたりと人形の動きに合わせて物語を紡ぐ少女が迎えに現れたのはこれ以上ない最高のタイミングだった。
「どいたどいたーッ! どかなかったら暴れ馬に轢かれちまうよーッ!」
 駆け込んでくる馬の勢いに驚いて騎士たちは尻餅をつく。着けた鎧が重い者ほど起き上がるのはひと苦労だった。
 レイモンドが店先のかがり火を蹴り倒す。タイラーが火中に酒瓶を投げ込む。勢いづいた炎が壁となっているうちにルディアたちは全員馬車に乗り込んだ。
「さあ飛ばすよッ! しっかり掴まってなッ!」
 夜でも迷いようのない単純なリマニの格子路を馬車は颯爽と突っきっていく。月明かりがオリヤン邸まで易々と導いてくれた。
 マヤがあまりに張りきりすぎたため、車内の揺れは凄まじかった。走行中は舌を噛まないように誰も口をきけなかったほどだ。
 落とし格子の両脇ではオリヤンとパーキンがルディアたちの凱旋を今か今かと待ちわびていた。決して短くはない距離を走りきってくれた一座の馬が庭に飛び込むや、門は固く閉ざされる。
 ここまで来ればひと安心だ。我々は安全地帯に戻ってきたのだ。
「はあ……、はあ……っ」
「つ、疲れた…………」
 車輪が止まり、鼓動もようやく落ち着いてくる。皆もうヘトヘトだ。
「お疲れ様! やったねえ!」
 馭者台からマヤの弾んだ声がした。「追手はかかってなかったよ!」との言葉にほっと息をつく。
「マヤ……、水、水が欲しい…………」
「うわっ屍! じゃない、父ちゃん!」
 安堵と疲労で脱力しきったタイラーは愛娘の肩を借り、喉の渇きを潤すべく井戸に向かった。幌の外ではパーキンたちの歓声が響いている。
 久々に胸のすく思いだった。小さなことだが一つ武功を立てられたと。
 少しだけなら自分を誉めてもいい気がした。少しだけなら。――けれど。

「んんーっ、んんー!」

 魔手から救った少年が唸っているのに気がついて、ルディアは「ああ、悪い」と身を起こす。時間がなくてそのまま連れてきてしまったが、拘束されたままでは彼も助かった気になれないだろう。暗闇の中、手探りで縄を切ってやり、目隠しと猿ぐつわも外してやる。
「あ、ありがとうございます! どこのどなたか存じませんが、本当に助かりました……!」
「――」
 上流階級の子供らしい丁寧な礼を受け、ルディアは微笑を凍りつかせた。声に聞き覚えがあったのだ。どこかあまり愉快でない場で、確かに耳にした記憶がある。
(誰だ……?)
 ひと仕事終えて静まったばかりの心臓にざわりと嫌な感覚が走った。月光に照らし出された少年に目を凝らし、ルディアはあげかけた悲鳴を飲み込む。
「……ッ」
 無意識に後ずさりした。何故こいつが、何故ここにと疑問はぐるぐる脳裏を駆けた。可哀想な被害者を救ってやるのだと思い込んでいた、己の愚かしさを悟るまで。
「このご恩は必ず返させていただきます! ラザラスに囚われたままでは父にとんでもない迷惑をかけるところでした。本当に僕としたことが、こんなドジを踏むなんて……」
 どうして考えつかなかったのだろう。カーリス人ならカーリス人を害すこともあるだろうと。ましてや彼らの対立は、一族郎党を追放するほど峻烈なものだったのに。
「あ、あのー……?」
 ルディアの右手が剣を掴んでいるのに気づき、子供はきょとんと首を傾げる。父親に――ローガン・ショックリーにそっくりな顔で。




 ******




 鞘から刃が抜かれるときの、あの独特の音がして、レイモンドは降りかけた荷台の奥を振り返った。
 レイピアの細い刀身がまばらに差し込む月光を反射させている。ゆらゆら、ふらふら、迷い蛍が尾を引いて舞うように。
 だからそれが小柄な人影に向かって振り下ろされるのを見たときも、現実感や差し迫った危機感を覚えてはいなかった。また姫様と蛍狩りに行けたらな、と楽しい記憶に思い馳せさえしたくらいで。
「ひっ……!」
 響いたのは小さな悲鳴。削られた板の音。静寂を乱す獣じみた息遣いに瞠目し、レイモンドは弾かれたように取って返す。
「何してんだ!」
 ルディアの剣を叩き落としながら怒鳴った。聞こえているのかいないのか、彼女は無言で助けた子供を見下ろしている。
「――」
 ぞっとした。亡霊のごとき横顔に。見開かれたまま堪えがたい憎悪と憤怒で歪む瞳に。
 知らないルディアがそこにいた。理性という分厚い仮面の剥がれかけた彼女が。
「……笑えるだろう?」
 一度もこちらに目をやらないで彼女が問う。
「少しでもあの人の無念を晴らしたかったのに、一番の敵に助力するなんて」
 かじかんだ声はルディアのものとは思えなかった。意志の力が欠けている。いかなるときも前進し、先を見据えて戦ってきたあの強さが欠けている。それこそがルディアのルディアたるゆえんだったのに。
 月が彼女の震える頬に冴え冴えと冷たい光を投げかけていた。肩も、腕も、凍えたようにわなないて、浅すぎる呼吸は最後の忍耐をも弱らせる。
「私はまた、愚かな間違いをしただけだった……!」
 ――初めてルディアが泣くのを見た。堅牢な精神の要塞が見る影もなく崩れ去り、嗚咽と嘔吐に苦しむ様を。
「……っ、うぇ……っ」
「お、おい」
 うずくまった彼女の背中に手をやるが、触れていいのかわからない。今までの彼女ならどんな不調時も放っておけと突っぱねたのに、それもなくて。
(一番の敵に助力? なんの話だ?)
 レイモンドは子供のほうに目を向けた。ルディアと距離を取ろうとして尻餅のまま後退していた少年は視線が合うやビクリと肩を跳ねさせる。
「あ……っ」
 その顔を見てやっと全てが繋がった。ラザラスが誘拐したのはただの金持ちの息子ではなく、どんな形勢逆転も望める政敵のアキレス腱だったのだと。
(こいつ確か、イオナーヴァ島でローガンの連れてた……。それじゃ俺たち、わざわざ苦労して陛下の仇の力になってやったってことか?)
「…………」
 呆然と立ち尽くす。悪い夢であってほしかった。折角少し元気になってきたところだったのに、こんなのあんまりではないか。
 胃の中のものを全部吐き戻してもルディアはまだ起き上がれないようだった。レイモンドがかける言葉を見つける前に彼女は意識を失った。









(20160527)