愛されて、優しくされて、初めてわかることがある。これまで自分はなんて寂しさに耐えて生きてきたのだろう。またそれを仕方ないことだと思い込んできたのだろう。
 「意外に頭が良くないね」と嘲った男がいた。人々は好奇の目で「あなたは何ができるの?」と値踏みしてくる。そして己が十人並みの人間でしかないと知ると、宝石と間違えた石ころを放り捨てて去っていくのだ。
 いつもそう。「ファーマー家の娘が才女でないはずない」「あの天才の妹なのだから」と勝手に価値を求められ、勝手に失望されてしまう。家の人間も出来の良い兄姉は持てはやしたが、愚鈍な末っ子に関心は薄く、いつしか奥の間に押し込められた。それでも己も家族の一員、威光に輝く兄や父に恥をかかせてはならないと、口数少なく慎ましく振る舞うことだけは覚えたのに――。
「どうしたんだ、ぼんやりして。ちょっと疲れさせちまったか?」
 耳元で響いた問いにコーネリアはハッと目を上げた。甘く掠れたルースの声がまだ熱い肌をくすぐる。情熱的に、それでいて優しく見つめられ、どきどき心臓が脈打った。薄い色の瞳には行きずりの恋に戸惑う女の赤面が映り込んでいる。
「喉は乾いてない? 何か持ってくる?」
 義務的でない気遣いが嬉しい。くしゃくしゃに乱れたシーツの上で首を振ると「それじゃもっとこっちにおいで」と誘う男に囚われた。
 彼の腕に抱かれているとほっとする。自分も愛されるに足る女だったのだ、認めてもらえるだけの努力はできていたのだと涙が滲んだ。
 二十五年の人生でコーネリアに一度たりともけちをつけなかった男はルースが初めてだ。家の名前も持ち出さず、神域の兄と比べもせず、ただ生身の己を健気で可愛いと言ってくれた。峠越えの足を引っ張っても、大切な赤子の世話さえままならずとも。
 ――君は頑張り屋さんだよ。
 ルースが誉めてくれたとき、最初は何を言っているのだろうとちっとも理解できなかった。優秀すぎる家族には誉められたためしなどなかったし、嫁ぎ先の夫や姑はもっと歯に衣着せなかったのだ。この愚図め、役立たずと罵られるのが普通の毎日。やっと授かった子供に先立たれたときは自分の生まれた意味や価値まで疑った。それからすぐに夫が戦死し、突き返された実家でも居場所なんて見つからなくて、ただただ情けないばかりで。
 乳母探しを始めた当初、堅実な父はコーネリアを避けていた。王家の小姫に付き添わせるには不出来な娘と見なしていたのだろう。何しろコーネリアには知恵も才覚も経験もない。すぐにぼんやりしてしまうし、要領も悪く不器用だ。結局他に母乳をやれる女が見つからず、妥協で「行ってくれるか」と頼まれたが。
 大任を果たせば自分もファーマー家の娘らしくなれるだろうかと期待した。一家の輪の中に自分も入れてほしかった。
 だがもういい。分不相応な望みに苦しむのはやめにする。無理に背伸びなどしなくてもいいと思えるようになったから。
「あーあ、また黙り込んで。駄目だぜ、俺以外のこと考えちゃ」
 大袈裟に拗ねたふりをするルースにコーネリアはくすりと笑う。「違います、あなたのことを考えていたんですよ」と打ち明ければ奔放な剣士は途端に表情を輝かせた。
「なになに? ルースさんって男らしくてとっても素敵だわって?」
「もう、いつも自信満々なんですから! そうではなくて、あなたのおかげで随分気持ちが軽くなったなと。家族の愚痴なんてアクアレイアでは誰にも話せませんでしたし……。本当に感謝しているんです。ありがとうございます」
 率直に告げたコーネリアをルースは茶化すことなく抱きしめてくれた。「役に立てたなら嬉しいよ」と真心のこもった返事を聞いて、こちらまでこそばゆくなる。ああ、大事にしてくれていると。
 モモは遊び慣れた男なんてろくなものではないと言っていたが、実際の彼は紳士そのものだった。コーネリアを馬鹿にしたり、わざと困らせたりしないし、盾になって守ってもくれる。彼が一切得をしない場面でもだ。
 アウローラの乳母役を降ろされたとき、彼が励ましてくれなかったらきっと立ち直れなかった。今でも「私はなんて駄目な人間なの」と自分を責めていたに違いない。もちろん彼としても王女の危機を見過ごした責任の一端は感じていたのだろうけれど。
(……モモさんには内緒のままでいいかしら。結果的にアウローラ姫には何事もなかったのだし)
 アルタルーペの峠村で過ごした嵐の一夜。あの日の不始末を思い出すと少々気が咎める。寝ている間に誰か訪ねてこなかったか問いただされ、コーネリアは咄嗟に嘘をついてしまったのだ。本当は明け方近くまでルースが一緒だったくせに、あらぬ誤解を受けるのを恐れて。
(お喋りしただけで他には何もなかったなんて誰も信じてくれないもの。あのときはまだ私、ファーマー家の末娘としてふしだらな女に思われたくなかったから……)
 言い訳なのはわかっている。しかし今更わざわざ自分の非を報告する気にはなれなかった。
 それに隠し事なら兄のほうがずっと酷い隠し事をしていたのだ。もし死んだのが王女ではなくコーネリアの子供だったら、コナーは秘薬があると言わずに見殺しにしようとしていたのだから。
(モモさんは何も言わなかったけど、ルースさんは許せないって怒ってくれた。たとえ遊ばれているのだとしても構わない。そんな風に味方になってくれた人がいることを心の支えに生きていきたいわ)
 いくら世間知らずの自分でも、約束も何もない関係が永遠に続くなど信じていない。それでも彼に会えて良かったと思う。抱いてもらえて幸せだったと。
 だから、そう、最後まで泣かずにいたかった。別れの時は近くとも。
「明日にはサールを出発か。二人でこうしていられるのも今夜限りだな。愚痴でも我侭でも今のうちにたっぷり吐き出しときなよ? 可愛い女のためにならなんだって聞いてやるからさ」
 暗い宿にひっそり響く温かな声に胸が痛む。
 時々でいいから私のことを思い出して。そう祈る以外、余所者のコーネリアにできることは何もなかった。




 ******




「あーっもう! この忙しいのにルースさんはまた女のところかよ!? あの色狂い、休暇は今日でおしまいだってわかってんだろうな!?」
 溜めに溜め込んで頂点に達した苛立ちを金切り声でドブはぶちまけた。深夜の傭兵用宿舎には荷造りに追われる男たちの怒号が飛び交っている。「クソッ、なんで矢の数が合わねえんだ!?」だの「未登録の新入りはどこ行った!?」だの、千人仲良く雑魚寝できる大ホールに反響する声は荒っぽい。
 マルゴー公国の第一公女ティルダ・ドムス・ドゥクス・マルゴーがグレッグ傭兵団に護衛を依頼してきたのは今朝の話だった。なんでも侍女たちを連れて保養地に小旅行する予定なのだそうが、前日になって急に道中が不安になったらしい。実戦経験に乏しい親衛隊だけでは警備が心許ないので付き添ってくれないかと言うのである。
 楽できるうえに報酬も高く、傭兵団としては願ってもない仕事だった。ただ甘い汁を吸うためには大急ぎで首都を発つべく後片付けせねばならなかったのだが。
「ドブ、やべえ! 金獅子亭のおやっさんだ! 十日前の飲み代を取り立てに来やがった!」
「おおい、ドブ、こっちもいいか!? 出すもん出さなきゃ俺のあの子にもう会わせねえって脅してきやがる!」
「ドブ、そん次は俺の給料から差し引き頼む!」
「俺にも未払いの請求書が!」
「だーッ! うるせえ! 一列に並べええええ!」
 先刻からドブのもとには本来ルースが行うべき経理関係の処理がわんさかと流れてきていた。清算、清算、また清算、またまた清算、また清算だ。勘定はややこしいし、金額は誤魔化されそうになるし、ほとほと嫌気が差してくる。武器の研ぎ代や薬代はまだしも、なんだってうちの馬鹿どもは飲んで盛っての夜遊び代までツケにするのだ。給金を使いきるのは勝手だが、店の主人にどやされるのはこっちなんだぞ。
「すまねえなドブ、この中じゃお前が一番計算得意だからよお」
 見回りに来たグレッグにねぎらわれ、ドブはますます唇を尖らせた。悪いのは仕事を放置してコーネリアといちゃいちゃしているルースである。とはいえ副団長を御しきれていない団長にも問題を感じないではなかったが。
「グレッグのおっさん、悪いこた言わねえ。ルースさんはいっぺん躾け直したほうがいい。女が絡むと他のこと全部忘れちまうんだもん」
「ハハハ、まああいつのは半分病気だからな」
「そうやって流してるから変わらねえんだろ!? あんたと別行動してる間、あの人がどれだけやりたい放題だったか……! 規則破って女は連れ込むし、おかげで風紀は乱れまくるし」
「いやいやいや、お前はそこらへんの事情知ってるんじゃなかったか? ……アウローラ姫とその乳母を保護するつもりだったって聞いたぞ? だけど力になりきれなくてすまないって、あいつわざわざ俺に詫び入れにきたんだから」
「えっ」
 声を潜めたグレッグにドブは目を丸くする。完全にスケベ心だと思っていたから驚いた。あの女たらしにも公爵家や傭兵団に貢献しようなんてまともな頭があったのかと。
「……いや、でもさ、今あの人がコーネリアさんとただれた生活送ってんのはいつものスケベ心からだよな?」
 冷静になって突っ込むとグレッグもハッと真顔になる。
「あれ? い、言われてみればそうだな……」
 考え込む団長にドブは「やっぱり再教育が傭兵団のためじゃねえ?」と助言した。その前にグレッグの抜けっぷりをどうにかすべきという気はしたが。
「うーん、再教育ねえ。あいつがずっとうちでやってくつもりなら考えなくもねえんだけどなあ」
「えっ!? まさかルースさんって独立考えてたりする?」
 またも団長の発言にうろたえさせられる。いくら股の緩い副団長でもいなくなるのは嫌だぞと思いながら尋ねると、グレッグは「違う、違う」と首を横に振った。
「あいつ元々別の傭兵団の団長だったんだよ。百人くらいの、駆け出しに毛が生えた程度の規模だったけど。だからそのうちまた自分の団を持ちたくなるんじゃねえかなって」
「ええっ!? ル、ルースさんて団長やってたことあるんだ!?」
「おう。あいつと一緒になった頃はうちもやっと二百人になったかならないかでよ。思えばほんの六、七年で随分でっかくなったもんだぜ」
 千人隊まで成長したのは人集めの上手いルースのおかげだとグレッグは笑う。ドブはだが、スリや物乞いでその日暮らしをしていた自分が目の前の男に拾われた二年前を思い出し、集めた人間を離れさせずにいるのもそれはそれで才能ではないかなとひとりごちた。
(そうだったんだ……。でもルースさんが出ていくとしたら確実に百人単位で団員取られると思うけど、そこを気にした様子がないのはさすがだな……)
 ドブはちらりと団長を見上げる。馬鹿な男だからきっとまだ気づいていないに違いない。気づいたとしてもこのお人好しは「餞別だ」とか言って見送ってしまうのだろう。そんな未来図は簡単に想像がついた。
(まあルースさんがグレッグのおっさんから離れるわけねえと思うけど)
 あの無類の女好きが常の居場所としてはむさ苦しい男の隣を選んでいるのだ。ちょっとやそっとでこの傭兵団が変わるとは思えない。
「ドブー! 来てくれえ! 今度は銀竜亭の親父がー!」
「うわっ、まだ払い残しがあったのか!」
 支払いを迫られている団員に泣きつかれ、ドブは臨時会計の仕事に戻った。徹夜する羽目になっても明日からしばらくはチョロそうな案件で助かったなと息をつく。
 任務は徒歩で一日の距離にある山岳湖畔の別荘地――別名グロリアスの里にティルダを送り、現地でのんびり保養しもって護衛するだけ。この程度、休暇の続きも同然である。
 ドブは近づく惨劇についてなんの予感もしていなかった。この一行には秘かにアクアレイア王女が加わると知っていたグレッグも同様だ。傭兵団の男たちが陽気に笑っていられたのは、この日この夜までだった。




 ******




 やれやれ、いくらティルダ様の弟とはいえチャド様にも困ったものだ。明日は早いとわかっているのにこんな時間まで居座って、誰かの持ち込んだ災いの種が実をつけぬように忙殺されている姉君を少しはいたわってやればいいものを。
 胸中でそうぼやきながらマーロンは高貴なる糸目の姉弟に目をやった。他の臣下はとうに退出した深夜の公務室、重厚なマルゴー杉の用務机を差し挟んで二人は意見をぶつかり合わせている。
「ですから姉上、私は妻の側を離れたくないのです! 護衛の人数を増やしたから安心しろと言われても、はいそうですかと簡単に送り出せるものではありません! 同じ静養に私も加わる、それだけのことではないですか! 何故私だけサールで待たねばならないのです?」
「何度も言っているでしょう? あなたが彼女と一緒にいるところを見られて『王子はもしやアクアレイアの王女を連れて帰ってきているのでは?』なんて噂になりでもしたら、私たちはあなたのことも庇いきれなくなってしまうのよ。一生会えなくなるわけではないじゃない。彼女がマルゴー貴族の侍女となり、ゆくゆくは養女として引き取られ、アクアレイア人だった過去を消し去るまでは万難を排すべきだと言っているの」
「ですが姉上、私の娘は、可愛いアウローラは二度とこの手に抱けないままで死んだのです……! 離れ離れになっている間にルディアまでそうなったらと考えると……!」
「チャド、少し冷静におなりなさい。あなたにとっても彼女にとっても、大切なのは未来のはずよ。理性を損なったまま行動したのでは最善を選択できないわ。今のあなたがすべきことは何? 私に文句を垂れている暇があったら少しでも世間の目が妻に向くことのないように取り計らうべきなのではなくて?」
「仰ることは重々承知しております。私は私で彼女のために、来たる新生活の基盤を整えておくべきだ。しかし気持ちがついていかないのです。どうしてもルディアの側でなければ私は――」
 しつこく食い下がる弟に美しき女主人は嘆息した。恋は盲目と言うけれど、チャドのように聡明な若者が取り乱すさまは見ていて痛々しい。脇目も振らず一人の女性に身を捧げんとする姿勢は結構だが、現状では少なからず場違いだ。
「確かに最初、あなたには城に残ってもらうと言わなかったのは悪かったわ」
 かぶりを振ってティルダは詫びた。しかしすぐ「でもそれはこうしてあなたが自分勝手な主張を始めるのがわかっていたからよ」と強い語調でぴしゃりとやる。
「大臣たちは妻にべったり付きっきりのあなたの態度に不信感を持っています。第二王子はマルゴーよりもアクアレイアが大事なのかとね。こう言えばお姫様との別行動を勧める理由がわかるかしら?」
「……!」
 暗に公国の和を乱すなと叱責され、チャドは顔色を失った。よもや己の行動が味方の中に敵を作っているとは思わなかったのだろう。黙り込んだきり王子は何も言えなくなる。こうなればティルダが彼を言い負かすのはあっという間だった。
「いいでしょう、最後の安全地帯まで失いたいなら好きになさい。私にはただの心配しすぎに思えて仕方ないけれど」
 冷然とした物言いにチャドは拳を震わせる。この反対を押し切って無理に妻に同伴すればどんな不利益が待っているか、想像できない愚物ではないから彼はしばし苦悶した。眉間のしわは一層濃くなり、噛みしめられた唇が悔しげな返事を吐き出す。
「……わかりました。私も公爵家の男だ。堪えろと仰るなら一年でも二年でも堪えてみせましょう」
 やれやれ、ようやく折れてくれたか。態度には出さずにマーロンは胸を撫で下ろした。これで誰の妨害も案ぜず計画を実行に移せる。
「大丈夫、そんなに長く待たせはしないわ」
 数時間がかりの説得を終え、ティルダも穏やかな微笑を浮かべた。その表情は冷徹な公爵補佐官から弟想いの優しい姉に戻っている。
「ありがとう、わかってくれて。昔も今もあなたはいい子ね」
「いいえ、姉上がいつも私を正しく導いてくださるのです。……しかしどうか、明日見送りに立つことだけはご容赦ください。なるべく目立たぬように心がけますゆえ」
「ええ、その程度なら構いません。さあ、今夜はもう奥方のもとへ帰りなさい。遠く離れて過ごす間、互いの慰めになる思い出は今しか作れないのだから」
 頭を下げ、項垂れ気味にチャドは辞去した。続きの間の、そのまた続きの間に消えていく後ろ姿を見送ってマーロンは公務室の扉を閉じる。
 振り返れば疲れきった様子でティルダが椅子に身を沈めていた。伏せられた瞼の強張りにぎゅっと胸が痛くなる。
「……こういう嘘はまだ苦手ね」
「ティルダ様」
「可哀想に。あの子は私の言葉通り、愛しい王女との再会を信じるのだわ」
 室内に重い溜め息がこぼれた。苦しげにうつむく彼女を見ていられなくて、マーロンはつい浅薄な問いを投げかけてしまう。
「はっきり申し上げては駄目なのですか? ルディア姫には死んでもらわねば困るのだと。我が国の現状を知れば、何もあなたが泥を被らずともチャド様が自ら奥方とご縁を断ってくださるのでは……」
「無駄よ。あの子の軽率なまでの誠実さは生来のものだもの。それにできれば弟には汚れた舞台裏なんて見せたくない。チャドを綺麗な世界で生きさせると決めたのは私だもの。今度のことでは傷つけてしまうけれど、私だって公爵家の女です。黙ったまま一生堪えてみせるわ」
 公女としての強い意志に心打たれ、マーロンは全身をわななかせた。なんと潔く、なんと勇ましいのだろう。今更ながらティルダに仕える喜びが溢れる。やはりこの方は美しい。どんな地獄を選んで立っていようとも。
「馬鹿をぬかしてしまいました。どうか今の発言はお忘れになってください。私はあなたの忠実な剣として、あなたに災禍が降りかからないように務めます。たとえ我が身を返り血に染めても、私はあなたを永遠にお守りしたいと願っているのですから……!」
 感極まって彼女に近づき、白い長手袋に口づける。このまま椅子に被さってしまいたかったが、主人の視線がそっと天井画に向けられたので、跪いたまま同じ絵を見上げた。
 描かれているのはパトリア神話の英雄だ。悪を忌み嫌う師に代わり、君主の密命をこなして汚れる悲劇の魔術師である。最後には敬愛する師に破門を言い渡されてしまった――。
「……私たち全員似た者同士なのかもしれないわね。ルースだって恩人のために私の命令を拒めずにいるんだもの」
 不意に出てきた男の名前にマーロンの陶酔は呆気なく踏み散らされる。自分が一番主人の役に立っているという矜持、それを一瞬で粉砕するのは決まってあの下賤の傭兵だった。
「あのような不埒な輩と我々が似ているはずありません!」
 ルースの女性遍歴と卑猥な素行の数々が脳裏をよぎり、思わず声を荒らげてしまう。眉を吊り上げたマーロンにティルダは苦く微笑んだ。
「ええ、もちろん彼にあなたほどの気高さはないわ。だけどその分汚れ慣れている。やるとなったら彼は思いきりがいいでしょう? 明日はルースの段取りに合わせて、あなたは補佐に回ってちょうだい」
 とどめのように命じられ、マーロンは更に動転してしまう。
「ほ、補佐ですか? わ、私にあの男の指示に従えと……」
 しどろもどろに尋ね返した。腹心の地位を揺るがされることだけは我慢ならない。あの男に彼女の第一の部下として、一段上に立たれるのは。
「違うわ、マーロン。あなたはあくまで彼の監視役、必要なければ手を下す側に回らなくていいという意味よ。あなたの覚悟は私も重々承知しているけれど、やはり大切な人にはできるだけ潔白を貫いてほしいもの。それに悪事は悪事に適した人間にやらせるほうが賢いわ。私があなたに頼んでおいたアウローラ姫殺しを、あなたが彼に任せたようにね」
「お、おお、そういうことでしたか」
 詳細を受けてマーロンは合点する。ほっと息をつき、改めてティルダに頭を垂れた。
 どうもルースが話題に出るといけない。張り合おうとして逆に醜態を晒してしまう。
「あなたの出番は不測の事態に陥ったときだけでいいの。明日はきっと上手くやってくれると信じているわ」
 細い指がマーロンの髪を優しく梳く。甘い熱に浮かされながら「はい、必ず」と返事した。
 必ず使命を果たしてみせる。彼女の期待に応えてみせる。そうすれば柔らかな肢体に口づけられる日も近づくはずだ。
「ティルダ様……」
 夜明けは近づきつつあった。剣の柄を握る手に力は自然とこもっていた。




 ******




 いい日和だ。空は青々と澄み渡り、柔らかな風と新緑の香りが快い。雪冠のアルタルーペを背負った白漆喰の街並みは城壁を取り巻く川の流れと調和して麗しいし、公女一行の護衛という栄えある任に傭兵仲間たちも歌い出しそうにご機嫌である。
 こんな日に若い女を三人も殺さなければならないとは運命の女神も残酷だ。せめて曇天なら太陽が明るすぎるなどと思わないで済んだのに。
(あーあ、ついにこの日が来ちまったか)
 ルースは長い石橋を埋める大名行列の最後尾で眉をしかめた。表向きは体調の芳しくない公女のための転地療養、裏では王女ルディアの極秘輸送となっている。しかし真実は哀れなお姫様とお供たちの葬送だ。味方のふりして背中をひと突き。いかにもあの女らしいやり口ではないか。
 世間の大抵の娘に甘い自分でもティルダだけは好きになれる気がしなかった。一度駒だと見なされたら二度と同じ人間だと思ってくれない。ボロ雑巾同然に擦り切れるまで使い潰される。そうして見かけの平穏を保つのが賢明な為政者だとあの女は信じているのだ。
(ごめんなモモ、コーネリア。最初はホントに守ってやるつもりだったんだよ)
 傍らの、要人を乗せた黒い馬車を見やってルースは肩を落とす。逃げ出すとでも思われているのか馭者台のマーロンがちらちらと振り返るのが鬱陶しい。
 先日もこの公女直属騎士様には辟易させられたばかりだった。チャド王子のご息女をお連れしていると伝えたら「ちょうど良かった。サール宮に入る前に殺せ」と汚れ仕事を押しつけられて。
 嫌だった。けれど引き受けるしかなかった。断ればティルダに「なら今後は直接グレッグと話をつけるわ」と言われるだけだったし、あの単純お節介が裏の要請などさばけるはずもないのだから。
 ――千人も団員を抱えていたら大変ね。公爵家直々の依頼が少し減っただけでもう冬を越せなくなるのではない?
 知ったことかと笑い飛ばせなかった若かりし自分が恨めしい。もっとも彼女には初めから見抜かれていたのだろう。「グレッグのためにならない」と脅せば簡単にマリオネットにできること。
(マルゴー人である以上、あの女からは逃げられねえ。無茶振りされたことは俺がやるんだ。旦那にはでかい借りがあるんだからな)
 ルースがグレッグに出会ったのは、あちこちの傭兵団から優秀な人材を引き抜いては将来有望な若団長として得意になっていた二十歳のときだ。たまたま同じ依頼主に雇われた、それだけの縁だった。
 初めルースはうだつの上がらないグレッグを見くびり、彼の団からも何人か使えそうな人材を奪い取ろうと考えていた。だが結局、泡を食うことになったのはルースのほうだったのである。さあ戦闘に出るぞという朝、ルースの部隊はルース一人だけを残して全員どこかに消えていたのだ。
 後で知った話だが、離反の首謀者はルースが特に目をかけていた副団長で、彼は「俺のほうがあいつよりずっと上手くやれる」と持ちかけて部隊を丸ごと乗っ取ったらしい。
 当時は本当に馬鹿だった。自分は余所から人も金も横取りしたくせに、自分が同じ手を食らうとは予想もしていなかったのだから。
 呆然と立ち尽くすルースにグレッグは事もなげに「混ざるか?」と聞いた。依頼主に要求された払い戻しもぶつぶつ言いつつ肩代わりしてくれた。彼には散々生意気な口を叩いていたにも関わらず、だ。そのときやっとルースにも、どうしてグレッグの団からは待遇のいい別の団へ移ろうとする者がいなかったのか身をもって悟れたのだった。
(あそこに旦那がいてくれなきゃ、俺は人買いにでも売られてた)
 殺意を鈍らせないために記憶を胸に刻み直す。グレッグには今のままでいてほしい。表沙汰にできない殺しになど関わってほしくない。
(公爵家の駒にされるのは俺だけで十分だ)
 跳ね橋が下りたのか、街を出る行列がのろのろと進み始める。ルースは懇意な部下たちとルディアの馬車をぐるりと囲んでしんがりを歩き出した。
 罪のない女たちだ。せめて絶望する前に殺してやらなくては。煙たがられて死んでいくのだと理解する前に。
(得意だろ。不幸な事故に仕立て上げるのは)
 アウローラも上手く殺した。嵐で冷えきった身体を温めてくれないかと夜中にコーネリアを不意打ちし、他愛無いお喋りに花を咲かせながら何食わぬ顔でうつ伏せに寝かせて。まだ首も据わっていなかった赤子は泣き声一つ漏らさずに死んでいった。朝になって息を吹き返したのには驚いたが。
 だがコナーのおかげで死んだことにはできたのだ。あんな風にまたティルダやマーロンの目を欺ければ何よりだが、さすがに今度は難しいだろう。だからできるだけ穏便に済ませられればそれでいい。可哀想なコーネリアがこちらの裏切りに気づきさえしなければ。
(大丈夫、ちょいと切ないお別れになるだけさ)
 車輪のついた大きな棺はガラガラとレクイエムを歌い、砂埃を立たせて進む。長い行列の先頭は早くも緑豊かな山道に差しかかっていた。
 この坂を進めば蒼く澄んだ湖を湛えるグロリアスの里がある。里の古い山城にはなんとかという騎士物語のプリンセスが住んでいたとかいないとか聞いた。海の国のプリンセスたちは、美しい風景を目にすることなく死んでいく運命だけれど。




 痛い痛い! 一体なんなのだこの馬車は。卑しい身分の侍女として、荷物と一緒になってもらうとは聞いたが、ここまで揺れるとは聞いていない。仮にも王子の最愛の人を運ぶのだから、もう少しましな輸送手段を考えてくれたっていいのに。
「ちょっ、敷くもの敷くもの! モモのお尻が四つに割れちゃうよお!」
 小さく悲鳴を上げながらモモは適当なブランケットを硬い座面に引き下ろす。申し訳程度に備えられた長椅子は車輪が小石を踏むたびに身体が浮くほど強い衝撃を伝えてきた。馬車には小窓の一つさえなく、目を慰めてくれるのは板と板の隙間から忍び込む日光くらいだ。
「ひっどい三等席!」
 憤りを深めるモモを「まあまあ」とブルーノがなだめた。お優しい幼馴染はティルダが自分たちを匿ってくれるだけで十分じゃないかと言いたげだ。迷惑をかけているのはこちらのほうだと、そんなことはモモとて百も承知である。だが殊勝にしていようと横柄にしていようと乗り心地が最悪なのは変わらないのだ。せめて少しの悪態くらいつかせてほしかった。
「一日ずっとこの中にいなきゃなんでしょ? もうカツラ脱いでいいよね?」
 アクアレイア人ですと主張してやまないピンクの地毛を隠すための被りものを脇に放る。ブルーノは「外さないほうがいいんじゃない?」と顔をしかめたようだったが、車内の湿気に耐えかねて間もなく彼もモモに倣った。
 長かった王女の髪は肩につくかつかないくらいに短く切られてしまっている。「ルディア」だとばれないようにするためとはいえやるせなかった。真珠の粒がよく映える、波のごとき青髪だったのに。
(うーん、でもこれだけばっさり切っちゃっても、まだどっかブルーノってば女の子女の子してるんだよねえ)
 少々不思議だ。召し物こそ侍女服だが、一応彼は腰元にチャドに持たされたレイピアを差してもいる。もう少しもとの彼らしく見えても良さそうなものだけれど。
(やっぱ経産婦だからかなあ。自分の身体に戻れてもこれじゃ異質な層にモテちゃいそう……)
 心の中で頑張れと声援を送る。もう既にチャドに相当ほだされているきらいもあったが、そちらもやはり頑張れだった。両想いか片想いかはさておいて、つらい別れはせねばならないだろう。二度目の結婚を考えるほどにあの貴公子は妻を愛してしまったのだから。
「身分や出身を誤魔化すためにあれこれ用意してくださって……、グロリアスに到着したら改めてティルダ様にお礼を言わなきゃね」
 かつらを撫でつつ真面目な声でブルーノが呟く。暗闇に公女の朗らかな瓜実顔が浮かび上がり、モモはふうと溜め息をついた。
 最初に義妹を「マルゴー貴族の養女に迎えては」と提案したのはティルダである。そのまま彼女が中心となり、今日まで念入りに支度を整えてくれたわけなのだが、いまいちモモには公女が信用しきれなかった。
 理由は一つ、あの鼻持ちならないマーロンが彼女の直属騎士として四六時中べったりくっついているからだ。今日の馬車も彼が手綱を握っているようだし、背中がぞわぞわして仕方ない。
(モモの気にしすぎならいいけど……)
 実務に長けた、有能な公爵補佐官だから親切すぎると感じてしまうのだろうか。チャドの姉なら慈悲深いのも当然という気がするが、無論それだけで第一公女が務まるはずない。ルディアとて政治的配慮から獄中のユリシーズを助命しようとはしなかったのだ。単なる不憫な弟嫁にティルダがどこまで同情してくれているのか、やはり測りかねるものがあった。
(どうもチャド王子の澄んだ糸目とは趣を異にする糸目なんだよねえ)
 糸目評論家ではないので確信は持てないものの、兵としての勘が「警戒セヨ警戒セヨ」と鐘を鳴らし続けている。無事にグロリアスの里に降り立つまでは気持ちが落ち着かなさそうだ。
「ええと、コーネリアさん……でしたか? あなたは馬車の揺れは大丈夫ですか?」
 と、ブルーノが左隣の女に呼びかけた。姫君の気遣いを受けてコーネリアは「は、はい」と畏まる。そう言えばこの乳母も乗っていたのだったなとモモはぞんざいに暗がりを一瞥した。
「これから先の予定についてはお聞きになっていらっしゃいますか?」
「あ、はい。私はグロリアスの里からアクアレイアまで、親衛隊か傭兵団の方が送り届けてくださるそうで」
 コーネリアを見ていると心のどこかが急速に冷めていく。別にアウローラの一件でああだこうだ言いたいわけではない。男も女も配偶者に先立たれた者は一年喪に服すべしという法律を思い出し、彼女の浅薄さにムカムカするのだ。
 恋愛は自由だし、ちょっと火遊びをする程度なら喪に服している範囲内なのかもしれない。だがモモは、昔からけじめをつけられない人間が大嫌いだった。それが下の話となれば尚更だ。
「そうですか、気をつけて帰ってくださいね。ニコラス・ファーマーやお兄様にもよろしくお伝えください」
 恐縮気味にコーネリアが頷く。話が終わるや彼女は顔を横に向け、板の隙間から少しでも外を覗こうと張りついた。
 この馬車のすぐ外にはコーネリアのナイトがいるのだ。目を凝らしたところでほとんど何も見えないのにご苦労なことである。
(最初はもっとクールで理知的な人だって思ったのになあ)
 残念ながら見かけ倒しであったらしい。己もまだまだ人を見る目が足りないようだ。
(まあいっか。とりあえずコーネリアさんが乗ってればルースもやる気出して守ってくれそうだし、あの使者が嫌な奴だってことはよく知ってくれてるもんね)
 溜め息を押し殺し、モモは乳母の見つめる方向とは逆向きに顎を逸らした。登り道に入ったのか不快な揺れと響きはますます勢いを増していく。あまりにガタガタうるさいので早くも最初の休憩が待ち遠しくてならなかった。




 ちらちらと背後の景色を気にしながら無様に跳ねる心臓を押さえる。大丈夫、大丈夫だとマーロンは己に言い聞かせた。
 特別任務を果たす日はいつもこうだ。片が付くまで落ち着かなく、イライラしたり不安になったり、とても平常心でいられない。まだ自分では手を汚した経験がないからいつまでも不慣れなままなのだろうか。毎回隣で手際の良さを見せつけてくれる傭兵は初めから淡々と全てをこなしていたように思うが。
「えっ、それじゃあお前ついに告白したのか!?」
「でへへ、そうなんすよ。まあ俺は継ぐ家も持ってないんでそのうち捨てられちまうと思うんすけどね。今は幸せだからそんなことまあいいやって」
「馬っ鹿お前、そこまで持っていけたんなら所帯持つのも夢じゃねえって! 金貯めて二人で都会に出るとかさ、色々考えてみればいいじゃねえか!」
 行列のしんがりを見ればルースは若い仲間と恋愛話などに花を咲かせている。きゃっきゃと楽しげな彼らの様子は到底これから起きる「事故」を予測させるものではなかった。
「そりゃそうできたらいいっすけど、俺には学も才もないですし……」
「だから今からそこを鍛えるんだろ!? 読み書き計算くらいなら俺やドブにだって教えてやれるんだからさあ」
「おお、そうだぜお前、ルースさんの言う通りだ!」
「惚れた女のためにも頑張ってみてやれよ!」
 くだらない会話に耳を澄ませつつ眉をしかめる。ルースはティルダに「この程度の仕事は自分一人で十分」と話していたそうだが、どうやって場を整えるつもりなのだろう。よもやこの行楽気分の傭兵たちが王女暗殺に加担するとは思えないが。
(殺しの方法も崖から馬車を転落させるだけだと聞いたしな……)
 マーロンは再びちらりと傭兵団の副団長を振り返る。しかしルースは目配せに応じず、仲間とのお喋りを続けた。
「そうそう、惚れた女のためにと言えば、実は俺も一つ考えてることがあるんだ」
「お、なんすかなんすか?」
「その女ってもしかして、こいつに乗ってる黒髪美人のことですかい?」
「ったくお前ら、話が早くて助かるぜ。そうなんだよ、このままグロリアスの里に着いたらコーネリアとはお別れだろ? けどその前にもう一度二人で話がしたくてさ」
「ははーん! さては昨夜、別れるの別れないので大喧嘩になったんでしょ?」
「ルースさんのことだから相手を本気にさせすぎたんすね」
「もー、いっつも去り際モメるんすからー」
 部下たちにからかわれ、ルースは「いやいや、んな毎回でもないだろ?」と渋面を作る。だが説得力などあるはずもなく、弁解はブナの葉っぱよりも軽く流された。
「ともかくさ、ちょっと慰めてやる時間が欲しいんだ。じきに分かれ道に差しかかるだろ? そこでこの馬車だけ別ルートを走らせるのに、お前ら協力してくれないか?」
 なるほどとマーロンは合点する。傭兵団の人間でルディアの護送任務を知るのはごく一部の者だけだ。他の兵士は「送り届けるのはコーネリア及び数人の侍女」だと思っている。この状況ならルースの台詞はいつもの女遊びの延長としか見られないし、後々言い訳も立ちそうだった。
「ええっ! そんなことして大丈夫です? 確かに渋滞がちですし、ぱぱっと行って戻ってくりゃあ問題にはならんでしょうけど」
「平気平気、前もこの手で半時間ほど隊列を抜けたが誰にも気づかれなかったぜ。馭者様にはとっくにご快諾いただいてるしな!」
 どうだ流れはわかったかという視線にふんと鼻を鳴らす。「おお!? 親衛隊の騎士も色恋にはお情けを!?」と傭兵たちに見上げられ、マーロンは表情を険しくした。
「マルゴー公国もコナー殿には世話になっている。その妹君のためとあらば、多少の融通はきかせてやろうというだけの話だ。言っておくが馭者台まで譲る気はないぞ? 貴様のような遊び人を野放しにはできんからな。邪魔はしないが見張りはきっちりさせてもらう。私が先導を務めてやることを光栄に思うがいい!」
「おお……」
 下賤の傭兵どもは一気に白け顔になる。ルースだけは「恩に切ります。二人っきりにしていただけて!」とわざとらしく媚びてみせたが。
「そんじゃスムーズな離脱のために、今から遅れ気味に行きやすか」
「ルースさん、首尾はどうだったか後で聞かせてくださいよォ!」
 疑いもせず傭兵たちは「事故」の前準備に取りかかった。これでマーロンとルースはごく自然にルディアたちを一行から引き離せる。もしも誰かが異変を察知しても、しばらくは残った兵が「侍女さんたちはお手洗いで」とか言い訳してくれることだろう。
(まったく悪知恵の働く男だ)
 のろのろと馬に坂道を登らせながらマーロンは遠ざかる風景を振り返った。遥か眼下には額縁に収まりそうに小さくなったサールの街と灰色の城壁、王子が見送りにこもっている石橋の望楼がおぼろげに霞んでいる。
(ここまで来ればチャド様にも何もわかるまい)
 ほくそ笑み、今度は前方に目をやった。長い行列は左右に分岐する峠道の、なだらかなつづら折りを選んで左へ折れ曲がっていく。右側の、断崖に沿った急勾配の古道には誰の姿も見られなかった。
(あとは適当な高さからこの馬車を突き落とし、山賊に襲われたと証言すればいいだけか。実に簡単なことではないか)
 まだ脈は速いものの、心臓は少しずつ平常運転に戻ってきている。ティルダには任務成功の良い報告ができそうだった。




「なあ、ルースさんどっか行ってねえ?」
「へっ!?」
 ぐいっとドブに袖を引かれ、グレッグは目を瞠った。そのまま列のしんがりを見れば、確かに要人を乗せた黒塗りの馬車は影も形もなくなっている。
「あ、あれ!? なんで!?」
 我知らず声が裏返る。狼狽するグレッグに他の仲間が「どうした?」と声をかけてくるが事情を打ち明けるわけにいかず「い、いや、なんでもねえよ」と誤魔化した。ティルダやコーネリアだけでなく王女ルディアの護衛も頼まれていることは傭兵団幹部だけの秘密なのだ。公爵にも念入りに口止めされているし、おいそれとは口に出せない。
「一番後ろの馬車って例の乳母さんが乗ってたんだよな?」
 ひそひそ声で尋ねられ、こくこくと頷き返す。ドブは心底呆れた風に「あの色ボケ、もしかしてわざとはぐれたんじゃねえ?」と耳打ちしてきた。
「はああ!? わ、わざとって、そんなまさか」
「前にもこんなことあったんだよ。大慌てで探しにいったら女とイチャイチャしててさあ、何も見なかったことにしてスルーしたけど」
「そ、それマジか!? 初めて聞いたぞ!?」
「さっき道が分かれてたじゃん。悪路だけど近道できるし、後でしれっと合流するつもりなんじゃねえ? つーか絶対そう」
 確信に満ちたドブの声にグレッグはますます青ざめた。妙に張りきって自分がお姫様たちの警護を受け持つと言うので任せたが、もしかして初めからそういう魂胆だったのだろうか。いやしかし、いくらルースでも極秘任務と知っていてまさか。
「ほんっと病気じみてるよなー」
 少年はルースの自制のなさを餌箱を前にした豚に喩えた。それさえなければいい副団長なのにという嘆きがぐさぐさハートに突き刺さる。
「……すまん。ちょっと俺、あいつ連れ戻してくるわ……」
「おおっ!? ついにルースさんのこと教育し直す気になったのか!?」
「俺もここまでひでえとは思ってなかった。今まで好きにやらせすぎたみてえだ……」
 反省もそこそこにグレッグは移動の指揮を他の部下に任せてダッシュする。ティルダにばれる前になんとしても馬車を元通りにしなくてはならなかった。もしルディアに万一のことがあれば、怒らせたままのチャドとの和解も二度と望めないに違いない。




 牛車並の鈍足だった一頭馬車がガクンと激しく後ろに傾き、山を登る勢いを増したのは突然の出来事だった。
「キャアッ!」
「うわわわっ!」
 両端の二人が崩れた積荷に埋もれたのを、なんとか助け出してブルーノは身を起こさせる。
「だ、大丈夫? 二人とも」
 そう問うとモモとコーネリアは目を回しながら頷いた。「なんなのもう!」と荒い運転に少女は怒り心頭だ。
 闇に慣れた目で周囲を見回すが、閉ざされた馬車の中では状況がよくわからなかった。急に角度がついたのはともかく速度まで上がるなんておかしくないだろうか。さっきまであんなにノロノロしていたのだし、登り坂ではスピードダウンするのが普通なのだから。
「……なんか変じゃない?」
 モモも同じ違和感を覚えたらしく、怪訝そうに細い眉を寄せた。痛そうに腰を擦るコーネリアは「そうですか?」と首を傾げる。
 突き上げるような振動がガタンガタンと車体を揺らした。まるで前方に誰も歩いていないかのように馬はもう一段早足になる。訝しむ間にも身体は山上へ運ばれていた。
「もしかして、馭者が暴走してるとか?」
 モモの疑念に息を飲む。鞭を取るマーロンは彼女が「なんか怪しい」と認定していた公女の直属騎士だった。アウローラが災難に見舞われたのも彼と対面した直後であったと聞いているし、尚更嫌な感じがする。
「し、心配なさることはないと思いますが。その、外を守っているのはルースさんですし」
 上擦った声の乳母を無視してモモは一番大きな隙間から外の様子を窺った。だが見えるのは切り立った灰色の崖だけで、他は人影もないようだ。しばらくすると今度は更に速度が落ち、脈絡もなく馬が足を止めた。
「……」
「……」
 休憩にしては早すぎる。ブルーノはモモに目配せして、どうするべきか逡巡した。
 自分たちから顔を出し、「何かあったんですか?」と尋ねられれば簡単だが、緊急事態でもなさそうなのでためらわれる。賊に襲われている雰囲気であれば武器を手に取って戦うのだが。
「――あのさあ、モモの直感信じてくれる?」
 と、鳥肌の立った二の腕が手のひらに押しつけられた。冬でもないのにモモが青くなっているなんて、バジルがうっかり料理に毒キノコを入れてしまったとき以来だ。あのときは彼女が「やだ! なんか食べちゃダメな感じがする!」と突っぱねたおかげで皆助かったのだった。就寝時でも地震の前に目が覚めるタイプだし、動物じみた生存本能に頼もしさは感じてもその逆は有り得ない。
 ブルーノが頷くとモモはすっくと立ち上がった。何をするのかと思ったら、彼女は長椅子を乗り越えて鍵のかかった背扉に向かう。そしてそのまま愛用の双頭斧を振りかぶった。
「!? ちょ、ちょっと!?」
 慌てて止めたが間に合うわけもなく。瞬発力と度胸で生きている少女は既に全力で切っ先を打ち込んだ後だった。

「……ッ!」

 眩い光に目が焼ける。痛みにつぶった瞼を開いたとき、ブルーノが見たのは護送されているなら有り得ない光景だった。
 馬車は高い崖のギリギリに停められ、少し押せば谷底まで一気に転落しそうである。繋がれていたはずの馬は何故か車から外されており、マーロンが焦り顔でこちらを見ていた。馭者の他に兵はルースしか見当たらず、急傾斜の古道は奇妙に静まり返っている。
「何やってんの!?」
 叫び声にハッとした。見れば荷物を押しのけてモモが外へと飛び出していく。想定外の状況になっているのは間違いない。ブルーノも剣を掴んで馬車を降り、注意深く二人の男に対峙した。
「これは一体なんの真似? 返答次第ではタダじゃ置かないけど?」
 問いただされたマーロンは強張った表情ですぐ横のルースを見やる。傭兵団の副団長はぽりぽりと後ろ頭を掻きながら「あーあ、仕方ねえな」と嘆息した。
「まず確実にお姫様だ。そっちは斧の嬢ちゃんを止めといてもらえますか」
「う、乳母はどうする?」
「戦力じゃない。最後でいい」
 穏やかでない打ち合わせにぞっとする。ルースの初動は早かった。迷うことなく抜いた長剣で彼はブルーノに切りつけた。
「ッ!」
 間一髪、膝を折って下方に逃れる。目標を逸れた刃は馬車を撫でて静止した。
「おっと、今のを避けられるとは。一撃で死んでくれればお互い楽に終われたのに」
 悪足掻きしないでくださいよ、と冷めた声に告げられる。転がりながら幾度も続く刺突をかわし、なんとか敵と間合いを取った。合間にモモに目をやるが、彼女は彼女でマーロンと睨み合っていて加勢など頼めそうもない。ブルーノは意を決し、レイピアを構えて身を起こした。
「誰に頼まれてこんなことを?」
「聞いてどうするんですか? 何も知らずに死ぬほうが幸せなんじゃないすかね?」
「……アウローラもあなたたちが?」
「だから聞いてどうするんですって言ってるじゃないですか」
 答える気はないらしい。ルースはじわじわ距離を詰めてくる。
 動きやすい侍女服を着ていてまだ良かったかもしれない。歴戦の傭兵相手にかさばるドレスでは抵抗も厳しかっただろう。
「ルースさん、悪い冗談はやめてください! 今すぐ剣を下ろしてください!」
 と、そこに馬車から出てきたコーネリアの叫びが響く。真っ青な乳母と男女の関係だったというルースは多少動じた素振りで彼女を振り返った。
「俺もさあ、冗談だよって言ってやれたら良かったんだけど。ごめんな」
 詫びるが早く剣士は攻撃に転じてくる。振り下ろされた長剣を、身をひねりつつ横跳びにかわすとブルーノは勢いルースの背後に回り込んだ。がら空きの背中めがけて突きを放つ。だが敵もさるもの、レイピアの細い刀身は厚い革のグローブに難なく振り払われてしまった。
「ふうん。箱入りの王女様かと思ったら、案外まともに戦えるんすね」
 興味深そうにルースが笑う。「こいつは手抜きできないな」との囁きに寒気がした。
 透けて見える余裕が憎らしい。体力でも腕力でも敵わないのは明らかだった。だからと言って好きにやらせるわけにはいかないが。
(姫様の大事な身体を守らなきゃ……!)
 少しでも優位に立つべく足を狙う。しかし軽いキルトアーマーを纏うルースは敏捷で、動きはまったく捉えがたかった。そればかりか彼はブルーノの細い剣を叩き折ろうと迫ってくる。
「くっ……!」
 まともに切り結べば耐久性の劣るレイピアではもたない。懸命に離れようと努力するが、激化する攻撃が逃げの一手を許さなかった。じりじりと押され、坂の上に後退していく。
(クソっ……!)
 悔しくて堪らない。もっと早く稽古を再開していればとか、もっと警戒心を持っていればとか、そういう悔しさだけでなく、ルースの殺意を感じるたびに心は千々に乱された。
 何故よりによって彼なのか。せめて刺客がマーロンだけならこんなに悲しくならないで済んだのに。
「どうしてグレッグ傭兵団のあなたが王子を裏切るようなことを……!」
 傷つくチャドの顔が浮かんでブルーノは思わず叫ぶ。一瞬ルースがすくんだ隙を突き、跳び下がって間合いを取り直した。
 長剣は追ってこない。ただ暗い双眸がこちらを睨むだけである。
 気圧されて息を飲んだ。ルースは静かに吐き捨てた。
「……うちの旦那も、傭兵団も、この件とは一切無関係だ」
 青ざめた彼の唇から先程の笑みは消えている。一瞬の踏み込みの後、眼前で刃が閃いて、ブルーノは咄嗟に上体を反らした。
 けれどそうやって避けることはルースも予測していたらしい。浮き上がった右手を剣の腹で強かに打たれ、レイピアを取り落とす。すぐ拾おうと手を伸ばしたが、斬撃を避けながらではバランスを取りきれず、転倒し、執拗な攻めに逃げ惑い、気づいたときには崖の縁まで追い詰められていた。
(もう後がない)
 眼下に映る岩場や林や草むらとの高低差に眩暈がする。足を踏み外せばどうなることか。
 かといって前方にも活路はなかった。とどめとばかりにルースは最後の一閃を放った。
「あ……ッ!」
 鋭い刃に上半身を撫で斬りされる。その衝撃でブルーノは真っ逆さまに緑の谷へと墜落した。




 コーネリアの絶叫にモモはハッと坂を仰ぐ。落ちる人影が見えたのは一瞬で、けれどそれだけで何が起きたか察するには余りあり、たちまち思考が真っ白になった。
(ブルーノがやられたの!?)
 こんなクソ雑魚に手こずっている間にと歯噛みする。目的の半分を達成し、マーロンは得意げに口角を上げた。
「守る相手がいなくなったな! お前も諦めたらどうだ?」
 斧は剣と相性が悪い。大振りしすぎてカウンターを食らわぬように注意して戦わねばならない。――なんて言っている場合ではなさそうだ。早くブルーノを助けにいかなくては。
(ああもう! モモがこいつらグルだったって見抜けてれば!)
 マーロンは初めから、ルースのことだって比較的早いうちから信用できない男だと感じていたのだ。何故二つの点と点を結びつけられなかったのだろう。二人が旧知の間柄なのも、ルースの言から知れていたのに。
(傭兵団はチャド王子の味方だって思い込んでたから……!)
 ドナ・ヴラシィ戦でも一緒で、亡命にも協力的で、ドブ以外馬鹿ばっかりで、でも皆仲が良くて。そんなの騙されるに決まっているではないか。今日だってグレッグたちが同行すると聞いてちょっと安心していたのだ。それを、それをルースは――。
「どうした、来ないのか? ならばこちらから行くぞ!」
 モモ以上に切り合いに慎重だった男が調子づいて攻撃に移る姿勢を見せる。きっと主君を亡くしたモモが虚脱していると誤解したのだろう、助走をつけたマーロンの長剣は高々と振りかざされた。
 斧は剣に対して不利。そうは言っても初撃さえやり過ごしてしまえば話は別だ。お粗末な一太刀をふわりとかわし、モモは騎士の懐に飛び込んだ。
「良かったね、即死じゃなくて」
 遠慮も慈悲もなく双頭斧を握った腕を振り抜く。重い刃は弧を描き、銀色の甲冑ごと腹部を破壊した。
「ぐあああッ!」
 内臓を抉られた男は網に捕らわれた魚のように跳ね転げる。血飛沫と肉片が古道を汚し、言葉にならない喘ぎ声が精霊に救いを乞うた。悔い改める時間は残してやったのに、どうも肝心の思考力が残っていなさそうだ。
「あっ……、あっ…………、」
 もはやマーロンは動けないと判断し、モモは下り坂を疾走した。無事でいるなんて期待はしていない。寧ろ死亡した可能性のほうが高い。だがブルーノは脳蟲なのだ。本体が出てくるまでに間に合えば、彼だけはまだ助けられるかもしれなかった。

「お嬢ちゃん、悪いがあんたもここまでだぜ」

 しかしどんなときでも邪魔者というのは存在するらしい。コーネリアが引き留めてくれるかと思ったのに、追いかけてきたルースを見やってモモはチッと舌打ちした。
「モモ急いでるんだけど!?」
 振り向きざまに駆け込んできた向こう脛に切りつける。剣士は慌てて後ろにジャンプした。甲高い金属音が虚空に響く。掠った斧に剣の先を弾き飛ばされ、ルースは目を丸くした。
「おいおい、なんだその怪力は」
 副団長は半笑いで岩壁に刺さった切っ先を振り返る。相棒を握り直してモモは低く呟いた。
「こんなにモモを怒らせて、楽に死ねると思わないでよ?」




 ******




 首都サールの玄関口である石橋の、番兵用の監視塔でチャドは「?」と首を傾げた。覗き込むのは昨夜モモから受け取った単眼望遠鏡である。「こういうのが便利なときもあるよねってモリスさんのをねだったんですけど、今は王子が持ってたほうが心安らかかなあって」と厚意で貸してくれたのだ。
 見送りしかできない自分にはありがたい品だった。これを使えば肉眼よりもずっと長く妻を見守っていられるのだから。
(……どうしてルディアの馬車だけあんなに鈍足なのだ……?)
 行列から離れつつある伴侶を見やってチャドは大きな不安に駆られる。宮廷内にルディア排除の動きが見られることもあり、少しの異常が変に目について心配で堪らなかった。
(いや、きっと馬の具合が悪いのだろう。全体の移動もゆっくりしているし、はぐれることはないはずだ)
 落ち着けと自分に言い聞かせる。だが次の瞬間、疑問は抑えきれないものに変わった。伴侶の乗る馬車だけが峠越えの別ルートに入ったからだ。
(!?)
 速度を上げて馬車は崖に沿う狭い坂道を登っていく。言い知れない胸騒ぎに身震いし、チャドはしばし立ち尽くした。
 迷った時間は、しかし数秒だっただろう。螺旋階段を駆け下りるとチャドはすぐさま栗毛の愛馬に飛び乗った。
「お、王子!? どこへ参られるのですか!?」
「遠乗りだ! 気にするな!」
 詰所の兵士を振り払い、石積みの塔を後にする。行くと決めたら全力だった。何事もないと確かめられたらまた帰ればいいのである。それに利用者の少ない古道ならティルダが懸念していた住民との遭遇もないだろう。
「よしよし、いい子だ。急いでくれよ!」
 子供の頃から乗り慣れた馬はあっという間に石橋を渡り、砂塵を巻き上げて激走する。山道でも足は緩まず、離れて暮らした一年間もよく訓練されていたようだ。景色は見る間に通り過ぎ、しばらくすると例の分岐路に近づいた。
(私の思い違いならそれでいい。彼女が五体満足でいてくれれば)
 異な人影を見咎めたのはそのときだ。左前方、つづら折りの新道を駆け足で逆走してくる男がいる。先にグレッグだと気づいたのは馬のほうで、嬉しそうないななきが付近一帯に轟いた。
「あ、あれ!? チャド王子!?」
「グレッグ、お前こんなところで何をしている!?」
「あっ、いや、じ……実はルースの馬鹿が女と別れがたいとか言って、勝手に俺らと違う道に行っちまったみたいで」
「はあ!?」
「最後にもういっぺんコーネリアと話がしたいとかなんとか……、す、すんません! すぐ連れ戻しますから!」
 傭兵団長はペコペコと頭を下げる。怒鳴りつけている時間が惜しく、チャドは「もういい」と声を荒らげた。とにかく今は馬車を追うのが先決だ。小言をくれている場合ではない。
 だが愛馬は何故か古道を登ろうとしなかった。背中にチャドを乗せたまま、茂みを越えて崖下の木立に駆けていく。チャドは慌てて手綱を引いたが、それでも馬は止まらなかった。
「わっ!? お、王子、どこ行くんすか!?」
 グレッグも驚いて後を追いかけてくる。谷底に血の臭いが広がったのは直後だった。

「……えっ……?」

 生い茂る樹木の向こう、唐突に現れた恐ろしい光景に息を飲む。ふらふらとチャドはその場に降り立った。
(違う、きっと人違いだ)
 木の根に足を取られかけながら、横たわる「それ」に恐る恐る近づいていく。
 新緑の上に散っているのは見覚えのある水色の髪だった。紺地の侍女服は朱に染まり、投げ出された手足はぴくりとも動かない。無残に折れた頸椎は高所からの落下を物語っていた。彼女が到底生きてはいないということも。
「ルディア……!」
 物言わぬ妻に走り寄り、ひざまずいて抱き起こす。割れた頭から血が滴り、その冷たさに呆然とした。
「何故……、どうしてこんな……っ」
 問いに答えられる者はいない。グレッグは頭上を見やり、かすかに響く剣戟に「襲われてんのか!?」と瞠目した。
「ちくしょう! やっと王女様も身を落ち着けられそうだったのに……!」
 荒々しく土を蹴り、グレッグは「俺行ってきます!」と踵を返す。
「ルースたちはまだ生きてるかもしんねえ! チャド王子、責めは後でいくらでも受けますから、今は、今はすんません……!」
 打ち震えるチャドを残し、傭兵団長は駆け去った。あまりにも突然な悲劇に頭がまったくついていかない。
 やはりあのとき一緒に行くと言わなければならなかったのか。公爵家失格と蔑まれようと、女のことしか頭にないのかと叱られようと。
「ルディア……嘘だろう? 頼むから嘘だと言ってくれ……!」
 何度呼びかけても彼女は少しも反応してくれなかった。瞼は固く閉ざされて、あどけない目が涙を溜めてこちらを見つめることもない。愛らしかった困り顔は見る影もなく凍りついている。
(こんなところで、たった一人で死なせてしまった)
 嘆きと悔いは後から後から溢れ出た。
 どうして何もできなかったのだ。守ると約束したくせに。どうして私は。
「……っ」
 唇を噛みすぎて血が滲む。精霊からも、世界からも、見放された気分だった。
 いっそここで自分も果ててしまおうか。最愛の人が戻らないなら。
 そう考えたときだった、ルディアの耳元で何かがもそりと動いたのは。
「……蟲……?」
 もう蛆が寄ってきたのかと怒りが湧く。払い落としてやろうとしてチャドはハッと妻の言葉を思い出した。
 ――もし私が死に至るようなことがあれば、そのときは死体の耳から出てきた蟲をすぐ塩水に浸して保管してほしいんです。
 よく見れば蛆だと思ったそれはどんな虫にも似ていない。強いて例えるなら透明なミミズを毛むくじゃらにした風体だ。湿り気のある頭部をもたげ、耳の奥からずるずると這い出てくる。きっとルディアが言っていたのはこれのことだろう。
(……蟲なんて取っておいてなんになる?)
 だが所詮、己には価値のわからない生き物だった。かぶりを振り、チャドは小さな線虫をねめつける。人の悲しみも知らずに蟲は無作法に王女の頬で長い身体を伸ばしていた。
(妻も娘もいなくなったのに、こんなものだけあったところで……!)
 高く拳を振り上げる。その叩きつけ方もわからずに、チャドは虫けらを睨み続けた。干乾びて、黒ずみかけたそれに涙が落ちるまで。




 ******




 正直ちょっと舐めていたと言うしかない。少女ごときに豪壮な斧を振り回し続ける持久力はないと。もう一つ言えば、すばしっこい小柄な的がこんな狙いにくいものだとも考えていなかった。
「くっ!」
 ルースは剣をかわした途端に視界から消えた少女を追う。斜め後ろの死角に潜り込んでいたモモは早くも攻撃態勢に移っており、振りかぶられた双頭斧を紙一重で避けるのが精いっぱいだった。
 彼女の武器が毒を塗ったナイフとか、もっと軽い棍棒だったらとっくにやられていたかもしれない。重心が偏っていてモーションの遅い斧だからまだ対等に渡り合えているのだ。
 なんて女だ。ここ一番でこんな剛の者を引き当ててしまうとはついていない。
(しかもこの子、だんだん速くなってねえか!?)
 せめて挟み撃ちにできたらと道端に転がったマーロンを一瞥する。絶命寸前の騎士はティルダの名前を呼ぶ以外何もしてくれそうになかった。コーネリアを盾にしてもおそらく意味がないだろう。さっきモモは彼女を放ってルディア救出に向かおうとしたのだ。生きた乳母より死んだ王女を優先するほど忠誠心が高いならそんな小細工弄するだけ無駄である。
(俺の剣もそこそこ大振りになっちまうしな。もっと素早く攻撃できれば――)
 目に留まったのはルディアが落としたレイピアだった。軽い剣であれば一撃の威力は低くとも当てるのは難しくないはずだ。とにかくこの少女の足を削らなければ勝機はない。よし、とルースは握った柄に力をこめた。
「おらあっ!」
 心臓めがけて一直線に長剣を投げつける。モモがそれをかわす間に大急ぎでレイピアを拾い上げた。彼女の太い斧と比べれば風が吹いただけで折れそうなお上品な代物だが、今はこれで十分だ。一対一なら速いほうが勝つ。もとより己は身軽さを好んで金属甲冑を纏わずいるのだ。スピードには自信があった。
「行くぜ、お嬢ちゃん!」
 突きの構えでルースは低く身を屈める。坂を下る勢いを刀身に乗せて勝負をかけた。
 ところが戦鬼はこちらを見やって唇に薄い笑みを浮かべる。
「へえ、そういうことするんだ?」
 じゃあモモも、と聞こえた気がした。垂直上方に斧が飛んだのは直後だった。
「えっ!?」
 意表を突かれ、一瞬空に視線を奪われる。その機を逃さず少女はなんと拳で殴りかかってきた。切っ先を向けたが時既に遅く、初撃はかわしてもみぞおちに神速の蹴りを食らってしまう。
(しまっ……!)
 胃液が逆流しそうな衝撃によろめいた。溜らずに後ずさりしたルースを追い越し、モモは落下してきた斧を悠々とキャッチする。
 激痛を覚悟しなければならなかった。――それ以上に敗北を。
「ッ……!」
 背中を縦に切り裂かれ、肉と臓腑が飛び散る痛みに仰け反る。
 なす術なくルースは地に伏せた。どくどくと熱い血が溢れる。目の前が白黒する。
「はっ……、はぁ……っ」
 身を起こし、レイピアを掴もうとしたが、手の甲は無残に踏みつけられた。頭上に冷えきった視線を感じる。これは死んだな。漠然と悟った。
「誰の命令か話す気ある?」
「…………」
 言えるはずない。団に迷惑をかけるわけにいかない。小さく首を横に振ると「そっか」と少女は武器を掲げた。
「待ってくださいモモさん! と、とどめなんか刺さなくたって……!」
 と、そこに物知らずな馬鹿女が割って入る。暗殺犯を庇うとはとんでもないねと苦笑した。
 ああそうか、彼女を甘言で引き込んで、モモの足を引っ張らせれば良かったのか。どうせ始末することになる女をそこまで利用し尽くす頭はなかったな。
「邪魔だよ、コーネリアさん」
 乳母は突き飛ばされたらしい。「やめて!」と金切り声が聞こえたが、モモは斧を引っ込めようとはしなかった。
(我ながらしょうもない終わりだぜ)
 衝撃に備えて歯を食いしばる。できればこことは別の戦場で死にたかったな。そう悔やみながら目を閉じた。刃はルースの心臓まで届かなかったけれど。

「……ッ、なんで仲間割れなんかしてんだよ!?」

 得物を弾く剣の音。耳に馴染んだ男の声。何が起きたかわからずにルースは無理矢理頭を起こす。
 霞む視界に目を凝らした。頭上の攻防を必死に追った。
 どうしてここにグレッグがいるのだ。
「この傷、お前がやったのか!?」
「だったら何? 先に騙したのはそっちでしょ?」
「はあ!? 意味わかんねえ、俺らがいつそんなことしたってんだ!」
「知らないふりしないでよ! 最初から姫様を殺すつもりだったくせに!」
 グレッグが固まったのが見なくてもわかる。ああついにバレてしまったかと眉をしかめた。
 けれど却って良かったのかもしれない。この深手ではもう自分は――。
「ルースお前、本当か……?」
 問いかけられても笑うくらいの力しかない。「わかったでしょ」とモモは怒りを露わにする。血塗れの斧は再び少女のしなやかな腕に構えられた。
「早く逃げて!」
「!」
 コーネリアが馬をけしかけたのはそのときだ。荷馬の体当たりを避けてモモが飛び退いた隙を突き、グレッグがルースを担いで走り出す。ティルダたちと合流して手当てする気なのだろう。戦士はまっすぐ古道の坂を駆け上った。
 モモが追ってくる気配はない。おそらく彼女はルディアのほうへ行ったのだ。グレッグまで巻き添えにしなくて済んで安堵した。ほっとした瞬間忘れかけていた苦痛が背中に甦ったが。
「……ッ」
「おい、大丈夫か?」
 呼びかけになんとか返事する。「ごめんな旦那」と呻いた声は思ったよりも弱々しかった。
「ティルダに知らせてくれないか……。依頼は半分片付けたが、賊の仕業にも事故にも仕立てられなかったって……」
「!? こ、公女様が噛んでるのかよ!?」
「そうだ、あんたもあの女には逆らうな……。傭兵ですらいられなくなったらマルゴー人は野垂れ死にするしかねえんだから……」
 公爵家が悪いのか、貧しさが悪いのか、それとも隠し通せなかった己が悪いのか。ルースにはわからなかった。ただひとつ言えるのは、この先グレッグが生きていくのにティルダの庇護下を抜けるのはまず不可能ということだった。
 ――代わってやりたかったのに。それがきっといつかの礼になると思ったのに。
「これからあんた、色々面倒頼まれるだろうけど……、無理すんなよ……」
 か細くなっていく声で伝える。瞼は鉛のように重く、もう目を開けていられなかった。
 財布はドブに任せられるから大丈夫だ。古参兵もわんさかいるし、何より皆グレッグを好いている。今更仲間の死に揺らぐほどやわな連中でもないし、誰がいなくてもすぐ慣れる。すぐ慣れる。
「ルース、しっかりしろ。もうちょっと行きゃ公女様に追いつくから! 医者だって連れてんだから! おい!」
 浮遊感のある暗闇に泣きそうな声が遠く響く。痛みの代わりに寒気が広がり、やがてそれも薄らいだ。
「皆と……よく、相談……して…………」
 欲を言えばもう少し一緒に馬鹿やっていたかったな。俺は本当に楽しかったんだ。楽しかったから守りたかったんだ。明るいものは明るいままで。
「ルース! おい、ルース!」
 指先から、爪先から、感覚が失われていく。眠りに落ちていくようにルースは意識を手放した。そしてそれが最後だった。




 ******




 馬車も乳母も置き去りにしてモモはブルーノのもとへと急ぐ。
 少し手間取りすぎたかもしれない。ルディアが溺れて仮死状態になったとき、脳蟲が出てきたのはどれくらい経ってからだったろう。
(お願いだからまだ生きててよ)
 茂みを掻き分け、木立を越え、崖に沿って谷を走った。ブルーノを見つける前に気がついたのは品の良さそうな栗毛の馬がいることだった。
「チャド王子!?」
 モモの叫びに糸目の貴公子が振り返る。王子は地面に膝をつき、首の折れた女の前で悄然と座り込んでいた。
 死んでいるのか聞く必要もないほどに遺体の損壊は凄まじい。おびただしい血液が赤黒くそこらの草木を塗り潰していてモモですら気分が悪くなった。
 だが脳蟲の所在を確かめぬわけにいかない。腹を決めて血溜まりの前に屈み込む。するとチャドが小さなガラス瓶を手にしているのが見えた。水に満ちたその内部では、なんとあの線虫がふよふよ遊泳しているではないか。
「あれっ!? お、王子が助けてくれてたんです!?」
 モモは勢いチャドの両手を包み込んだ。まさか自分の他にも脳蟲の取り扱いを心得た者がいたなんて。サールに留まったはずの王子が何故ここにいるのか知らないが、とにかく不幸中の幸いだった。主君の頼みを果たせなかったのは腹立たしいが、友人だけは命拾いできたようだ。
「……これは何か重要な生き物なのか? 私はただ、前にルディアに頼まれていたことをしただけなのだが……」
「へっ?」
 しかしチャドは脳蟲の正体が何か知らずに回収していたらしい。逆に質問を返されてモモは「えっと」と返答に詰まった。
「あ、あのー……それは、そのー、波の乙女の奇跡というか……」
 しどろもどろに言葉を繋ぐ。確実にブルーノを保護してもらうためにただの蟲ですとは言えなかった。きっと王子はこれが伴侶の耳から出るのを見たはずだ。上手いこと誤魔化しながら味方になってもらわなければ。
「平たく言うと魂の結晶? 要するにそれさえ無事なら肉体は変わっても復活の見込みがあるっていう、ありがたい感じの蟲なんですけど……」
 モモはちらりとチャドの反応を盗み見た。いくら信仰心のある者でもこんな話はまず信じない。案の定王子は胡散臭そうに、もっと言うと不愉快そうに眉を寄せていた。
「チャド王子、モモこんなときに冗談言うタイプじゃないです。すぐに信じてくれなくていいのでとりあえず行きませんか? モモたち多分、ここにいると危ないんで」
 極力真面目な顔で告げる。崖の上で起こった出来事について話すとチャドはにわかに顔色を変えた。親しく付き合ってきたグレッグ傭兵団から裏切り者が出たのである。そのうえ実姉の直属騎士まで陰謀に加担していたとなれば彼が動揺しないはずなかった。
「……それでは初めからマルゴーに安住の地などなかったというのか……?」
 亡骸に縋りつき、チャドは繰り返し「すまない」と詫びる。
 肉体を離れているときは普通の虫と変わりなくなる脳蟲は、それでも伴侶を慰めるように瓶の中でくるくる回り続けていた。









(20160513)