大変なことになったねえ、と古狸が言う。脂ぎった頬にとめどなく吹き出す汗を拭いつつ、いつも以上にぎょろつく目玉で彼は仲間の表情を窺った。
 人払いした天幕には余程の行事がない限り集うことのない面々が顔を揃えている。広大なジーアン帝国の、各々の管轄地を守る将軍たち――通称ジーアン十将だ。その一角を担うウァーリもまた絨毯の上で膝を抱え、暗澹たる心地でいた。自慢の長髪をいじる気にも、磨いた爪を眺めて悦に浸る気にもなれない。アクアレイアを我が目にしてきたラオタオに、王国湾には線虫タイプの蟲しかいなかったと聞かされた直後では。
「あそこがレンムレン湖とは違うってのはホントだと思う。ハイちゃんのふりしてた奴も、なんかウゾウゾ毛が生えてて気持ち悪かったし」
 車座の中央で狐は細い眉をしかめた。普段の人を食った態度はどこへやら、しゅんと肩をすぼめて申し訳なさそうにしている。
「俺さ、見慣れない蟲が出てくると思うけど気にするなって言われてたんだ。皆を驚かせたいから報告もしなくていいって。ハイちゃんが落ち着き払ってるもんだから、俺も今回はこういう演出なんだなってすっかり思い込んじまって……」
 ごめんと手をついて詫びられて一同は顔を見合わせた。舌打ちの音は響くも彼をねぎらう者はいない。この状況では当たり前だが。
 ヘウンバオスが呼び集めた蟲たちに余命幾許もない旨を告げたのは十日前のことだった。てっきり皆で祝杯を挙げ、新しいレンムレン湖へ繰り出すのだと思っていたから面食らったどころではなかった。あれからバオゾはずっと葬式状態で、荒んだ空気が漂っている。散々な真相に失望した同胞の中には「もうジーアンのために働けない」と言い出す者まで出る始末だ。悲嘆と憤りの声は特に第九、第十世代――蟲たちの四分の三を占める若い世代に波紋を広げつつあった。それ以上に問題なのは、事態を打開するべき男が何もかも放り出したまま新妻のもとに引きこもっていることなのだが。
「それではお前はハイランバオスの造反に関与していないと誓えるのだな?」
 重い声が幕屋に響く。問いかけたのはヘウンバオスに仕えて八百年の重鎮だ。皆から「熊さん」と慕われる百戦錬磨の豪傑も、今日ばかりは毛深い日焼け顔に陰鬱と憂慮が見て取れた。
「うん。天帝陛下にも言ったけど、ハイちゃ……いや、ハイランバオスとグルだったんならとっくに一緒に逃げてるよ。っても疑われてもしょうがない立場なのはわかってるし、降格だろうと禁固だろうと皆の決めた通りにする。俺も身の潔白は証明したいもん」
 ラオタオは両手を上げて無抵抗の意を示す。つい三十年前にハイランバオスから分裂したばかりの彼が信頼を勝ち取るのは難しいだろうなと思えた。蟲は普通、記憶の大部分を共有する直近の「親」に強い愛着を持つからだ。予測に違わずラオタオに向けられた目は厳しかった。
「ふーん、新種の蟲と遭遇したのを故意に隠したのは事実なんだ?」
「共謀したという証拠はないが、共謀していないという証拠もないな。いや、そのアンバーとかいう蟲をハイランバオスに引き渡してしまったあたり、限りなく疑わしいと言える」
 この十日、鬱憤を溜め込んでいた猫と蛇が冷たい声を浴びせかける。若狐と仲の良い虎は「だからこいつは疑いを晴らすためならどんな命令でも従うって言ってんだろ!?」と庇ったが、二人は聞く耳持たなかった。
「よくぞのこのこ顔を出せたよね。アクアレイアに気を逸らされてなきゃ他にもっと領土を広げて探索地域を増やせてたのにさ」
「ああ、準備期間も含めて五年は無駄になった。今の我々には長く貴重な時間だよ。あの国の対岸にいた貴様が違和感の一つでも覚えていれば、こんなことにはなっていなかっただろうに」
「だからホントに悪かったってば。俺だってあの人相手じゃなかったら全面的に信じるなんてしなかったし、隙だらけだったのは認めるよ。けどさ、お前らだってそうなんじゃないの? あの人が俺たちを裏切るなんて、これっぽっちも想像してなかっただろ?」
「うるさい! 話を誤魔化すな!」
「そうだ! 今は我々が貴様を尋問しているのだ!」
 口喧嘩が掴み合いに変わるまで大した時間はかからなかった。誉れ高き十将とは到底思えぬ見苦しさにウァーリは「ああもう!」と立ち上がる。
「あんたたち、仲間同士でやめなさいよ! 今は言い争いしてる場合じゃないでしょ!?」
 そう声を張り上げたら殺気立った猫と蛇に「色ボケ爺はすっこんでろ!」と怒鳴り返された。あまりの無礼に思考が一瞬停止する。次いでおしろい塗りの頬がぴくぴく引きつった。
「……ちょっと、それどういう意味か『お姉さん』に教えてくれる?」
 指先まで整えた手で若造たちの喉を掴む。二人は焦って抵抗したが問答無用で締め上げた。輪を乱し、礼節まで忘れた阿呆にかけてやる慈悲などない。
「やっちまえ、サソリの姐さん!」
 若虎からの声援を受け、ウァーリは二人を絨毯に叩きつけた。「ぎゃーっ!」と痛そうな悲鳴が重なる。
「やれやれ、まったくお前たちは……」
 程度の低い争いに嘆息したのは老練な龍と猿だった。ウァーリよりもずっと長生きの本物の爺たちは冷めた目でこちらを見やると心底どうでも良さそうに呟いた。
「狐っ子が黒か白かなどこの際大した問題ではないわい」
「ああ、アクアレイアが我々の求めていた故郷とは別物だったということもな」
 老賢人らの発言に「そうだのう」とまとめ役の大熊も頷く。
「あの方もそんなことでは今更足を止めるまい」
 項垂れたまま皆の前を去ったヘウンバオスを思い出し、ウァーリはぎゅっと胸を押さえた。
 おそらく今、皆を鬱々させているのは「ジーアンの蟲には先がない」という預言者からの宣告だろう。永遠に尽きぬ命と信じていたから自分たちはこんな遠くへ来られたのだ。あるかないかもわからない湖の幻を追いかけて。
「…………」
 長老たちが口を閉ざすと若者たちも黙りこくって拳を下ろす。さっきの騒ぎが嘘のように幕屋はしんと静まり返った。
 嫌な沈黙だ。誰も彼も耐えて飲み込むしかできない。いつまでこんな時間が続くのだろう。いつか皆で約束の地に辿り着けると夢見ていたのに。
 そのときだった。一匹狼のダレエンが思いがけない台詞を吐いたのは。
「なんにせよ厄介なのはヘウンバオスの無気力ぶりだな。あの男、ジーアンはもうおしまいだとぴいぴい喚いている連中を処罰する気がないどころか、何かやりたいことがあるなら残った人生は好きに使えとほざいていたぞ」
 皆が目をぱちくりさせる。何故そんなことを知っている、いつ天帝と話したのだと。
 ウァーリはさっと青ざめた。まさか、いやいや、いくらこの男でも最低限の常識くらいわきまえているはずと念じつつ、帝国随一のマイペース馬鹿を振り返る。
「あ、あんた女帝の寝所ぶち破ったとか言わないわよね?」
 ダレエンはいつもの淡々とした口ぶりで「呼んでもあいつが出てこないから強行突破したが」とのたまった。どうやらノウァパトリア宮のどこかに大穴が開いたのは間違いなさそうだ。
「も、もおお! 何やってんのお!?」
「このまま待っていたところでヘウンバオスの命令は下るまい。ラオタオの話も聞いたし、俺はそろそろハイランバオスとコナーを探しにジーアンを出るぞ。寿命の話は本当なのか、アークとやらはなんなのか、吐かせたいことは山ほどあるからな。お前たちも動く気があるならさっさと動いたらどうだ? 時間というのは何もしなくても過ぎるんだぞ?」
「ばッ、馬鹿ァ! 無視すんじゃないわよ! 勝手に出て行こうとしないでったら!」
 立ち上がった男の足を咄嗟に掴んで引き留める。ウァーリを引きずったまま出口に向かうダレエンを「ちょっとちょっと!」と古狸がたしなめた。
「わかった、わかったから早まらないでおくれ! 確かにダレエンの言う通りだ。こうしてじっとしてたって始まらない。でもどうせなら皆でちゃんと方策を練ろう? そのほうがきっと実のある行動を取れるよ。ねえ、熊さんもそう思うよね?」
「うむ。あの方のお心が定まるまでは、我ら十将が力を合わせて乗りきらねばなるまい。ともかく最優先は現状を悪化させないことだ。ダレエン、今しばし留まってくれるな?」
「ああ、話が先に進むんだったら」
 問いかけに狼男は快諾を示す。絨毯に落ち着き直した同僚を見てウァーリはほっと息を吐いた。危なかった。ダレエンを野放しにしたら向こう十年は連絡が取れなくなるところだった。
「皆で方策を練ろうって、それもしかしてラオタオも?」
 と、しかめ面で猫が噛みつく。「信用できるものなのかね」と蛇も疑念を露わにした。
 天幕内にはまたピリピリと険悪な雰囲気が満ちてくる。大熊は肩をすくめてきかん坊たちに向き直ると、将というより父親の声で言い聞かせた。
「お前たち、一旦ラオタオへの怒りは収めろ。今のところラオタオがハイランバオスの真意を知っていたか否か判断できる材料はないんだ。天帝の許可なしには将軍職から降ろすこともできん。感情的になるのも仕方ないが少々堪えてくれんかの? お前たちならできるだろう?」
 猫と蛇は不服げに唇をひん曲げる。だが駄々っ子に思われたくはないらしく、「熊さんがそう言うなら……」と渋々反発を引っ込めた。その代わり、二人は同世代の蟲たちに訴えられたという軟弱な要望について苦言する。
「だけど方策を練ったところで本当に実行できるわけ? 『先行きは短いし、故郷は見つかりそうにないし、自分のために余生を送ってもいいんじゃないか』なんてほざいてる連中は十人や二十人じゃないんだよ? あいつら与えられた職務を放棄して、帝国から賜る退職年金で快楽を貪る暮らしがしたいんだそうだ」
「今まさに天帝陛下が浸っているのと同じ救いが求められているのさ。確かに現状維持は大切だ。しかしどうやって彼らの心を繋ぎ止めるのかね?」
 問われて大熊はううんと唸る。
 目指す地も、導き主も沈黙し、蟲たちの絆は解けつつあった。ウァーリにも我欲に走ろうとする同胞を止められる気がまったくしない。誰だって積年の夢が破れれば代わりの何かで空虚を満たしたくなるものだ。
「ウァーリ、お前さんはどう思う?」
「えっ!? あたし!?」
 藪から棒に話を振られ、ウァーリは声をどもらせた。己もまだ平常心に欠け、大した意見を表明できそうにないのだが。
 だがわざわざ名指しで尋ねたからには何か意図があるのだろう。逡巡ののち、ウァーリは赤い唇を開いた。
「そうね、あたしは休みたい子は休ませてあげたほうがいいと思うわ。そりゃ蟲の間にも上下関係はあるわよ? だけど押さえつけて無理矢理従わせるためにそうなってるんじゃないでしょう? 今は説得したって反感を買うだけじゃないかしら。皆それだけショックを受けてるんだもの」
「ふむ、ダレエンはどうだ?」
「俺もウァーリと同意見だ。やる気のない奴と一緒にはやれん。だがお優しいお前のことだ、どうせ抜けたがっている連中のことも手放したくないんだろう。ならいっそ一箇所に集めて面倒を見てやったらどうだ? 少なくともこっちの目の届く場所には囲っておけるぞ」
「おお、その手があったか」
 狼男の提案には複数の将が頷いた。一時的に組織の力が落ちることになるが、無用の摩擦は避けられる。それに兵が思い直してくれたときも現場に復帰させやすい。
「しかしそうなると費用がかさみそうじゃな」
「確かに。それにバオゾや旧都のような主要都市では堂々と遊ばせられん」
「よし、ではこうしよう。離脱希望者はラオタオに預ける」
「へっ!? ええっ!?」
 指名された狐が驚いて飛び上がる。「お前のところは西の端だし、美女も美酒も揃っておるだろう。諸々の処分の代わりだ」と鮮やかに厄介を押しつけられ、ラオタオはみるみる意気消沈した。
「いいよ、いいよ。俺は一人ででかいガキどものお守りをしてればいいんだろ。そんで皆はどうすんの? コナーたちを追っかける? それともレンムレン湖を探しに余所へ行ってみる?」
「うむ、そうだな。我々は三手に分かれるか。第一の者は帝国を守る。第二の者は帝国内でレンムレン湖の存在を見落としておらんか洗い直す。第三の者はハイランバオスとコナーを捕らえる。これで異論はないな?」
 重鎮の指示に否を唱える声はない。ウァーリにはダレエンと同じ第三の任務が与えられた。大熊曰く、上司の長期不在には二人の部下が一番慣れているとのことである。
「ああ、俺は普段から副将に任せきりだからな」
「あんたねえ、そう得意げに言うことじゃないでしょ」
「お前はあれだろう。男の尻を追いかけ回して季節が変わるまで戻ってこないとか聞いたぞ」
「失恋とヤケ酒と傷心旅行までワンセットなのよ! ほっといてよ!」
 ウァーリは長い爪を立てて狼男の頬を引っ掻いた。だがダレエンはどこ吹く風だ。
「捜索部隊と、西パトリアをうろつくための器が必要じゃな。用意はこちらでしておこう。お前さんたちはいつでも出発できるようにしておけ」
 龍爺の声に「わかったわ」と頷いた。動くと決まれば多少気分も落ち着いてくるものらしい。冗談だと思いたいことばかりだが、しばらくは忘れていられそうだった。
「なんだ、結局まだ待たないといけないのか」
「あんたそのジーアン人丸出しのなりで西パトリアに入るつもりだったの? 思いつきだけで行動するのやめなさいよね」
 ダレエンはウァーリの忠告など耳にも入れず「なるべく早く頼むぞ」などと龍爺に注文をつけている。まったく、これだから最初の器が動物だった獣脳は。

「あのー、ところで俺どうしたらいいっすか? そろそろ誰かと入れ替わってほしいんすけど……」

 と、天幕の片隅で控えめに手と声が上がった。柱にもたれ、崩れきった姿勢で待ち疲れていたのは使い走りのウェイシャンだ。「すんませんねえ、もう顔面作るのも限界で」と青年はだらしなく聖預言者の尊顔を歪める。
「俺一応、ハイランバオス様が戻るまでの繋ぎ役だって聞いてたんすよ。でもなんか流れ的にあの人戻ってこない感じじゃないすか? もう信者の相手すんのもダルいし、俺のキャラと合ってないし、さっさと他の身体に移してもらいたいんですよ。忙しいとこホント申し訳ないんすけど、とりあえず先にお願いしていいっすか?」
 ウェイシャンはへこへこと頭を下げた。道化じみた仕草に聖人の威厳は雀の涙ほども感じられない。バオス教が深刻な風評被害を受ける前に一刻も早く彼を出してやったほうが良さそうだ。だが大熊はウェイシャンのたっての頼みに首を振った。
「すまんがしばらく動かせそうにない。これから何人兵が抜けるか予測できんのだ。場合によってはそのままハイランバオス役を続けてもらうやもしれん」
「ええッ!? けど俺どっちかっつうと離脱希望者なんすけど!? 悲しみも苦しみも忘れて最後の時間を楽しみたいんすけど!?」
「代役が見つかるまでの辛抱だ。聞き分けてくれ」
「それ絶対見つからないやつじゃないですかー! やだやだイヤだー! もうこの身体イヤだー!」
 騒ぐウェイシャンを押しつけられたのもラオタオだった。「できる範囲で満足させてやれ」との命令に狐は「だよねー」と乾いた声で笑う。畳みかけるように猫と蛇も怒声を飛ばした。
「この程度で済んだんだからありがたく思いなよ!」
「言っておくが疑いが晴れるまで貴様の一挙一動は私の部下に監視させるからな!」
 若将たちはハイランバオスの裏切りを見過ごしたラオタオをどこまでも許しがたいらしい。ウァーリはやれやれと息をついた。
 普段より責任の所在に敏感なのは焦りの裏返しだろうか。忍び寄る死の影に対する。
「ラオタオ、もう隠していることはないか?」
 最後の念押しに大熊が問うた。睨みを利かされた狐は「ないない!」と否定したが「あ、いや、一つだけ新しい報告が」と慌てて付け加える。
「コリフォ島でローガンにルディア姫を献上されたんだった。とりあえず天帝陛下がアクアレイアをどうしたいって言い出すかわかんないし、王都も姫君も変に苛めすぎたり持ち上げすぎたりしないように気をつけてるけど、当面そういう感じでいいよな?」
 ラオタオの統治方針を耳にして長老たちは是を示した。別種とはいえ王国湾には蟲がいる。対応には注意が必要だ。
「どうやら話はまとまった。皆、これよりしばらくは十将がジーアンの頭だ。あの方がまだレンムレン湖を探し求めるのか、或いはここで旅を終えるのかはわからんが、我々は我々の務めを果たして待とう。際限なき嘆きに溺れているよりはいくらか建設的だろう」
 ウァーリたちは互いの目を見て頷き合った。
 狐を怪しむ者はいても、狐がさらりとついた嘘に気づいた者はまだ誰もいなかった。




 ******




 二百名の人員がぎゅうぎゅう詰めで漕ぎ台に並ぶガレー船と比べ、風力のみで動く帆船は広々としている。船倉には荷物をどっさり積み込めるし、大型船でも乗り込む水夫は二十名で事足りた。余所者さえ降りてしまえば船内は静かなものだ。コンコンと客室の扉を叩き、ユリシーズは中の女に呼びかけた。
「『姫様』、お食事をお持ちしました」
 取りつけられた錠を外す。薄暗い部屋の奥では青い髪に青いドレスの別人が憔悴しきって椅子に身体を沈めていた。朝食のパンはそのままで、手をつけた様子はない。
 痩せ細って醜くなれば捨ててもらえると考えているのだろうか。だとしたら浅慮な女だとユリシーズは嘆息した。
「……無駄な抵抗だ。一日二日食べなかったところでなんになる? あの男が戻ってくれば無理矢理口に突っ込まされて終わりだぞ」
 こじんまりした丸テーブルに運んできた盆を置く。ジャクリーンはこちらが「王女」向きの態度を引っ込めたことに気づいて顔を上げた。
「今の状況をわかっているのか?」
 鋭い目で元ルディア付きの侍女を睨む。自分から代役を買って出たくせに何をやっているのかと。
「わかっています」
 ジャクリーンの渋い顔にも、到底そうとは信じられない返事にも苛立った。彼女がぐずぐずしているせいで危機はいつまでも去らないのに。
「お前の素性が明らかになれば本物の王女に追手がかかる。政府は追及を免れないだろう。そうでなくても『ルディア姫』が敵兵の慰み者にされたと不名誉な噂が立てば……」
「わかっています! ですがローガンのもとでは身動きもできませんでしたし、ここではラオタオに見張られております。私にどうしろと仰いますの?」
「今なら兵も将も出払っているではないか」
 ユリシーズは腰に帯びた幅広の剣に手をかけた。びくりと椅子ごと後ずさり、ジャクリーンは華奢な肩を強張らせる。
「いけません」
 青い顔で制してくるので「何故?」と問うた。命乞いをするような馬鹿なら切って捨てたほうがましかと頭の中で計算しつつ。
「あなたが私を殺めれば海軍全体、ひいてはアクアレイア全体の責任が問われます。名目上はもう私はあの将の持ち物です。ジーアンに反抗の意思ありなどと見なされてはイーグレット陛下のご忍従が水の泡ですわ」
「…………」
 どうやら分別を損なってはいないようだ。ユリシーズは抜きかけた刃を鞘に戻した。
「わかっているなら話は早い。連中が船に戻ってくる前にさっさと片をつけろ。そうすれば『ルディア姫』として手厚く葬ってやる」
 自害を促す声は我ながら冷ややかだった。オーウェン家の娘は「ですから!」と悔しげに歯噛みする。
「餓死か病死か、今の私に選べるのはせいぜいその二つくらいでしょう。喉を突くフォークも与えてもらえないんですもの」
 ふんとユリシーズは鼻で笑った。なるほど、それでパンを食べずにいたわけか。衰弱死を狙うなどまた気の長い話だが。
「腰紐一本あれば死ねるさ。結び方を知らないなら教えてやろうか?」
 手を差し伸べたユリシーズを見上げ、ジャクリーンは固まった。酷い男だと罵倒されるかと思ったが、意外に素直に頷かれる。
「……お願いします。それであの方がつつがなく暮らしていけるなら」
 拍子抜けする呆気なさで誘導は完了した。さすがは軍人の娘と言うべきか、ルディアの侍女と言うべきか。
 ユリシーズは細帯を受け取り、大きな輪っかと解けない結び目をこしらえた。黄泉に至る道の始まりを見つめる彼女の表情は硬い。
「何も天井にぶら下がる必要はない。縄さえたわまねば床に尻をついたままでも首は吊れる。例えばその寝台の脇でもな」
「寝台の……、これで良いのですか?」
 立ち上がったジャクリーンは助言通りに細帯を木彫りの頭板にくくりつけた。全ての準備が整ったのを見届けてユリシーズは踵を返す。いくら己でも若い女が息絶える一部始終など拝みたくない。
「遺言は?」
 扉の前で振り返り、旅立たんとする身代わりに問いかけた。娘の最後の言葉くらい、トレヴァー・オーウェンに伝えてやろうと思ったのだ。しかし彼女は小さく首を振っただけで、親不孝を許してほしいとさえ言わなかった。
「あなたが私を追い立てるのは国のためですか? それとも姫様のためですか?」
 代わりに尋ねられたのはそんなひと言。不意に胸の穴を突かれ、ユリシーズは言葉を失くした。まだ愛しているのかと、何度も何度も繰り返してきた自問が頭をぐるぐる駆け巡る。
 お前には関係ない。突っぱねかけて口をつぐんだ。別に意固地になる話ではない。まして明日には口もきけなくなっている女相手に。
「……あの方に、これ以上の災難が降りかからぬようにと願ってはいる。だが王家の名前が傷つく前に終わらせようとしているのは、アクアレイアの未来のためだ」
 ジャクリーンは細い指でドレスをぎゅっと握り込んだ。遠目にも彼女の震えが見て取れる。問いかけは、きっと背中を押してもらうためにしたのだろう。殉じるものは崇高なものだと、無駄な犠牲では決してないと、そう確信を強めたくて。
「お前の命に十万の民の運命がかかっている。彼女の守ろうとした全ての者の運命が」
 それだけ呟くとユリシーズは部屋を出た。誰も入れないように鍵をかけ、何も耳にしないように客室を離れる。後はジャクリーンに任せれば良かった。
 嘘はない。政敵でなくなったルディアに怒りも憎しみも失せたこと。故郷のためにと言ったこと。ただもう一つあった意図は隠したけれど。
 ユリシーズにはどうしてもわからないことがあった。アクアレイアに対するジーアンの消極的な態度である。あれだけ巧妙かつ入念に降伏まで持ち込んだくせに、連中はほとんど都に手をつけていないのだ。解体されると思っていた海軍も、評議会や元老院も、お飾り程度にラオタオがトップの名を冠しただけで、実際は今もアクアレイア政府が切り盛りしている。余所では連れ去られたという知識人や職人たちもそのままだ。
 変化がなかったわけではない。東パトリアとの交易では三割を超える関税と法外な年貢金を納めねばならなくなったし、長い不況と戦争でどん底に落ちた経済状況が回復する見込みはゼロだった。
 しかしそれだけなのである。ジーアンがアクアレイアから何を奪いたかったのか、或いはアクアレイアをどう使いたかったのか、目的がまったく読めない。商業拠点として盛り立てようとも、西パトリア攻めの要塞基地に作り変えようともしないのだから。何度も熟考してみたが、ユリシーズにはジーアンが手に入れた街を持て余しているとしか思えなかった。
 それで「ルディア王女」を使って確かめることにしたのだ。アクアレイアが連中からどの程度に見られているのか。
(王族の追放を要求しておいて、今更後継ぎを客人扱いなど変だ。もし天帝にアクアレイアの自治を認めるつもりがあるのなら……)
 カーリス共和都市をやり込めるチャンスはまだ残されているかもしれない。海に生きる商人として、アクアレイア人が栄光を取り戻す道は。

「あー、つっかれたあ」

 明朝まで戻らないはずだったラオタオが港に姿を現したのは一時間後のことだった。甲板に上がってきた男はげんなりとやつれており、多忙な将軍というよりは安全圏に退避してきた負傷兵然としている。
 おそらく天帝宮に居場所がなかったのだろう。何があったのかは知らないが、十将軍議に出たくないあまり「難破したい。南の島まで流されたい……」などと口走っていたほどなのだから。
「はあ、お姫様の様子はどう? 元気してる? 食事拒否ったりとかしてないよな?」
 問われてユリシーズは「いえ、それが」と言葉を濁した。軟弱者め、帰ってくるのが早すぎるぞと舌打ちしたい気分は伏せて。
「朝から何も召し上がらないのです。心配いらない、一人にしてくれと仰って」
「えっ、熱でもあるの?」
「ご病気というわけではなさそうでしたが」
「そんじゃちゃんと食べさせてくんないと困るよー。この船のことは全部ユリぴーに任せてんだからさー」
 馴れ馴れしいうえに珍奇な呼称に眉をしかめる。だが一歩前を行くラオタオはこちらの苛立ちなど気に留めてもいなかった。ひょいひょいとはしごを下り、狐男は船室の並ぶ通路に着地する。
「ユリぴー鍵持ってる?」
 顎でジャクリーンの客室を示され、ユリシーズは懐の鍵束を取り出した。
「ルディア王女」にあてがわれた一室はこの船で三番目に上等だ。コリフォ島から彼女が乗船してきたとき、ラオタオは自分の部屋を移すなどしなかったし、副将もそうだった。ジャクリーンにはたまたま空いていた場所が提供されたにすぎない。しかし倉庫に雑魚寝の一般兵と比べれば破格の待遇である。もしもこの船にローガンが乗っていたら、やはり同じ部屋に通されたのではないかと思う。
「どうぞ」
 錠を外し、少しだけ扉を開いてラオタオを室内に促した。最初に響いたのは「あれっ?」という彼の声。いるはずの王女がいないので狐はきょろきょろと部屋を見回した。
「……!」
 ラオタオが顔色を変えたのは直後である。ベッドの向こうに女の足が覗いているのに気がついて、将軍は急ぎ駆け寄った。その一挙手一投足をユリシーズはつぶさに観察する。
「おい、しっかりしろ! 狸寝入りしてんじゃないぞ!」
 まだ決断しきれていないかと案じていたジャクリーンはきちんと首を括った状態で倒れていた。ラオタオは大焦りで彼女の鼻に手を添えると「息してなくない!?」と更に焦る。自ら膝をついて王女の身体を抱え起こし、心臓に耳を押し当てる慌てぶりはあたかも要人の一大事だった。
「何ボサッとしてんだよ! 早く医者連れてこいって!」
「あ、は、はい!」
 怒鳴り声に初めて緊急事態を悟ったふりをしてユリシーズは客室を飛び出す。高笑いを我慢するのには苦労した。
(やはり私の考えた通りだ! ジーアンはアクアレイアを軽んじてなどいない。やりようによっては帝国に付け入る隙を見つけられるかもしれないぞ!)
 船医を呼びに走る足にも自然力がこもる。野心はめらめらと燃え上がった。
 こんなところで終わるアクアレイアではない。必ず目に物見せてやる。
「『ルディア王女』が自害なさった! 衛生兵はただちに医務室の支度をしろ! そこの医員、私についてこい!」
 兵士たちの待機室に飛び込むなりユリシーズは大声で命じた。先日退役したディランに代わって部隊をまとめる軍医補が「ひいっ! わ、私ですか?」と身震いする。皆どこかで嘘がばれないうちにそうなってほしいと期待していたせいか、広がった動揺は大きかった。
(なんだ、肝の細い連中だな。あの詩人なら『なんて劇的な展開でしょう!』とか言って創作の一つでも始めていたところだぞ)
 薔薇色の頬の友人を思い浮かべ、ユリシーズは小者しか残らなかった衛生兵たちを嘆く。ろくな男ではなかったけれど、いないとなると味気ないものだ。家の名誉より愛息の安全を取った彼の父を責められはしないが。
(トレヴァー・オーウェンは私を恨むだろうな)
 ジャクリーンのもとへ駆け足で戻りつつユリシーズは顔を歪めた。
 誰も我が子の死など望まない。あの厳格なシーシュフォスさえそうだった。大佐もまた、無理と承知で政府に娘の救出を嘆願していたのだ。
(だがそれも、余計なことを知らされなければ生じぬ恨みだ)
 狭い通路に足音が冷たく響く。こんな温度に慣れてきた自分がユリシーズは少しおかしかった。




 ******




「だからさあ、ユリシーズだけじゃ駄目なんだって! 確かに派手だし受けはいいけど、村の人だって何回も同じ芝居見させられたんじゃ飽きちゃうよ! おひねりの額も最後は振るわなかったしさあ」
「いや、けどなあ。今は俺とレイモンドしか人形を操れる奴がいないんだぜ? 無理して別の話をやったって舞台がめちゃくちゃになるだけじゃねえか」
「それでもお客さんに『今の台詞ちょっと違ってたぞ!』なんて突っ込まれるよりマシだって! 子供らには『ユリシーズが巨人にやっつけられるパターンはないの?』とか聞かれる始末だし!」
「んなこと言われても俺は可愛い人形たちにみっともねえ動きはさせたくねえんだ! 話に飽きた、つまらねえってんなら観なきゃいいだけのことだろう! そこまで客に尻尾振ってやるつもりはないね!」
 深い山道にタイラー親子の口論が飛び交う。次第に白熱していくそれを馬車の陰から眺めつつレイモンドはそろそろ止めるべきだろうかと逡巡した。
 二人の意見が食い違うのは珍しくないものの、親方が頑として折れないのは珍しい。気の強い娘に押し切られるのが一座の常と思っていたから意外だった。
 まあ確かに、いくら味付けに飽きたと言われても食堂がまずい飯を出すわけにいかない。それでは却って店の評判を落としてしまうというものだ。マヤの主張もわからないではないけれど、醜態を晒すより面目を保ったほうが一座のためにはなる気がする。
「それじゃあ父ちゃん、次の村でもずっとユリシーズだけやるつもりなの? その次の村でも? 折角ブルーノさんのおかげで主婦の財布がガバガバになるってのに……」
「うっ! そ、そりゃ俺だって掻き入れどきを逃したくはねえけどよう」
 今朝も出発間際まで「また来てね」「絶対よ!」と色男が熱烈なアプローチを受けていたのを思い出したかタイラーがややたじろいだ。ルディア自身は馬の手綱を引きながら物も言わずに親子のやり取りを眺めている。
「演目増やすのはすぐじゃなくていい、けどいずれは必要になることじゃない。レイモンドやブルーノさんがいてくれるのはリマニまでなんだから。あたしは父ちゃんが心配なんだよ。前と同じにはどう頑張っても戻れないんだし、今のうちに芝居の幅を広げとかなきゃ」
 懸命に訴えるマヤに向けられたルディアの視線にはっきりした温度はない。どんな気持ちで父と娘を見つめているのか、胸の内を覗くことはできなかった。
 ――お前と話すとあの人少し楽になるみたいだ。
 ありがとうと、そう告げられた日の情景がふと眼前の親子に重なる。照れてそっぽを向いたルディアとイーグレットの穏やかな微笑み。他人の自分でさえ思い出すと息ができなくなるほどなのに、彼女はどうやってやり過ごしているのだろう。
「うーん、確かになあ。二人でできる新ネタは何か取り入れなきゃだよなあ」
 将来を案じる娘の言葉に揺さぶられ、タイラーがぼそりと呟いた。この機会をマヤが見逃すはずがなく「やっぱり父ちゃんもそう思うでしょ!?」とゴリ押しに入る。
「ねえねえレイモンド、登場人物少なめで面白い話知らない!? 恋物語でも神話でも怪談でもいいからさあ!」
 突然飛んできた質問にレイモンドは「へっ!?」と瞬きした。
「と、登場人物少なめで面白い話?」
 オウム返しに繰り返せばマヤは「そう! あちこち旅してるアクアレイア人ならそんな話の一つや二つ知ってるでしょ!」と地味にプレッシャーを高めてくる。
「いきなり聞かれても都合良く閃かねーって! ちょ、ちょっと待ってろよ」
 腕を組み、ううんと頭を悩ませるが芝居向きの話は一つも浮かんでこない。出てくるのは「金曜日に進水した船は難破する」とか「アーモンドの枝を舳先にくくりつけておくと嵐に遭わない」とか船乗りの好きな雑談ばかりだった。歌やまじないならゴンドラ漕ぎの手伝いをしていた時期に色々と覚えたのだが。
「お、面白い話……? 面白い話……??」
 疑問符を浮かべて考え込むレイモンドに「こりゃ駄目か」とマヤが嘆息する。少女は続いてルディアを見上げ、同じ問いを投げかけた。
「ブルーノさんはどう? うちの人形使ってできそうな話知らないかなあ?」
 期待のこもった目で見つめられ、ルディアはふむと息をつく。彼女のほうは何か思いついたらしく、「舞台上の人物が二、三人に収まればいいのだな?」と座長に確認した。
「だったら『パトリア騎士物語』の『王様の新しい服』という一篇が使えると思う」
「王様の新しい服?」
 なんだそれはという顔でタイラー親子が口を揃える。レイモンドはパトリア騎士物語の名に「その手があったか!」と拳を打った。
「パトリア騎士物語」はアルフレッドの愛読書である新米騎士と破天荒な王女の旅行記だ。あれなら上手く改変すれば今ある人形で間に合わせられるに違いない。
「何番目に行く国のやつだっけ。えーっと、確か衣装持ちの王様がペテン師に騙されて……」
「そうだ。しかしそのまま話すと芝居に使いにくいだろう。適当に省いて切りのいいところまで教えるから、どう料理するかはそっちで相談してくれ」
「おお、ありがとうブルーノ!」
「どんな話かワクワクしちゃう!」
 父と娘は瓜二つのドワーフ顔を輝かせた。ルディアはしばらく出だしの一文をどう取るか悩んでいたが、やがて馬車の車輪がカラカラ回る音を背後に静かな声で語り始める。隣でそれを聞くレイモンドの胸中はまったく穏やかなものでなくなったけれど。
「――ある国にとてもおしゃれ好きな王様がいたんだ。宝石を散りばめた外套だの、孔雀の羽根で飾った帽子だの、とにかく山ほど服を持っていた。そして珍しい布やボタンがあると聞くとそれを使った新しい衣装が欲しくて堪らなくなるという、まあ傍迷惑な類の君主だったわけだな。で、あるときこの王様の宮殿に詐欺師がやって来た。彼は世にも風変わりな絹と糸を持っていて、『実の子供にしか見えない服を作れます』と豪語する。王様は後継ぎである娘を我が子ではないかもと疑っていたから二つ返事で詐欺師に仕立てを頼んだのさ」
 耳に入った言葉にぎくりとする。レイモンドは思わずルディアを凝視したが、彼女は視線に気づいた様子もなく物語を紡ぎ続けた。
「詐欺師は早速街中に作業場を借りて機織りのフリを始めた。本当は絹も糸も存在していないのに朝から晩までこもりきりだ。今日は上着が完成したとか袖をつけるのに苦労したとか報告も怠らなかった。しかしふと王様にも詐欺師を疑う心が芽生えたのだな。自分に仕える家来のうち、一番信用の置ける大臣に詐欺師の作業場を訪ねさせて、どんな衣装が出来上がりつつあるか報告させることにしたのだ。さて、この大臣が命令通りに詐欺師の作業場にやって来ると非常に困った事態になった。『もうほとんど完成です。どうぞお手に取ってご覧ください』と差し出された服が全然見えなかったのだ。この国では地位や仕事や財産は親から継ぐことになっているから大臣には『はて、その服とはどこにあるのだ?』なんて聞けなかった。詐欺師はニコニコしながら言う。『どうです、星空と見まがう美しさでしょう。この絹は蜘蛛の巣よりも軽いので、服を着ていると感じないほどなのですよ』と。大臣は悩んで答えた。『そうか、これほど見事な衣装は見たことがない。きっと王様もお喜びになるだろう』と。正直に見えないと言えば身分を取り上げられ、城や家から追い出されるかもしれないのだ。彼には嘘をつくしかできなかった」
 淡々としたルディアの声が変に不安を掻き立てる。実の子供にしか見えない服の話など、今の彼女にさせていいのか心配になった。
 だって傷ついたんじゃないのか。父親を殺すなんて本当の娘ではないと責められて。
 レイモンドは止めようかどうしようか迷ってルディアに手を伸ばす。しかし彼女はそれを避けるように一歩前へ離れていった。
「戻ってきた大臣が『本当に素晴らしいご衣装でした』と誉めちぎるので王様はすっかり安心だ。もし王女に新しい服が見えなければ国外に追放してやろうとか、いやいや奴隷の身に落としてもいいなとか考えてはほくそ笑んだ。宮殿も街もこの話題一色で、不思議な召し物は三日後の朝の布告でお披露目されるとも決まった。さあ罪なき王女は大弱りさ。何しろ彼女は既に詐欺師の作業場を調べ、己にも腹心の騎士にもそんな服は見えないと確認済みだったのだから。だがそこに意外な救世主が現れる。王女の親友プリンセス・グローリアだ」
「ふんふん、それは一体何者なの!?」
 ルディアはマヤにグローリアと騎士ユスティティアの説明をする。大筋には関わらないので二人が旅に出た理由とプリンセスの豪胆な性格についてくらいだったが。
「『お父様は騙されていらっしゃるのです。旅人のあなたなら詐欺師の嘘を暴くことにためらいなどないでしょう。どうか三日後、王様は裸だと広場で叫んでいただけませんか?』そう王女は親友に頼んだ。グローリアは答える。『駄目よ、それじゃ意地になってありもしない服をあると言い張り続けるかもしれないわ。私に名案があるから任せてちょうだい』と。そして三日後の朝が来た。驚いたのは王様だ。何度目を擦っても自分には献上された服が見えないのに、周りの者は口々に新しい服を誉めそやすのだから。詐欺師も堂々と王様に服を着せるふりをするし、涙が出そうになってくる。『まさか自分が前王の嘘の息子だったなんて。もし民衆や臣下にばれたらどうすればいい?』胸の不安を押し殺して裸の王様はバルコニーに立った。そのときだ、グローリアによって広場に集められていた奴隷たちが大騒ぎを始めたのは。『やった、王様の服が見えないぞ!』『俺もだ! 俺にも見えない!』『奴隷の血を引いていないなら俺たちは自由の民だ!』彼らは我先に市門の外へと駆けていく。グローリアがすかさず言った。『こんなに多くの人間が実の子供ではなかったというの? ちょっとおかしいんじゃないかしら? ちなみに私にも陛下が裸でいらっしゃるように見えるのですけれど』と。奴隷を取り返したい貴族たちも王様は裸だと言い出したので詐欺師は逃げ出そうとした。こうなれば王様も堂々追及できるというものさ。最後には詐欺師以外、この服が見えると主張する者はいなくなって罪人は口を縫われたということだ」
 語り終えたルディアにタイラー親子が「おおー」と拍手を送った。二人には興味深い話だったらしく、早くも各場面に必要な小道具や削れそうな登場人物はいないか活発な議論が始まる。
 明るい彼らとは対照的にレイモンドの気は重かった。あの長ったらしい騎士物語から選ぶなら他にもっと穏やかな章があったろうに。めでたしめでたしで幕を閉じた空想話に対して神経質になりすぎかという気もしたが。
「結構いい感じじゃない? 王様と詐欺師の場面も王様と大臣の場面も大臣と詐欺師の場面も人形二体でいけるしさ、グローリアのお供の騎士も出さなくて問題ないでしょ」
「けどラストの奴隷たちはどうすんだ? 人数的に三体くらいは欲しいだろ」
「長い棒に糸をかけて一気に三体操れるようにするのはどう? 複雑な動きはいらないわけだし、なんだったら四体にも五体にも増やせるよ」
「おお!? マヤ、なんだお前賢いな!? うーん、ちょいと試したくなってきたぜ」
 ルディアを案じるレイモンドの胸中など知りもせず、タイラー親子は大盛り上がりだ。二人は熱が冷めないうちに考えをまとめようと言って馬車を道の端に止めた。
「あたしら舞台を組み立ててみるから、今のうちに馬に水を飲ませといてくんない?」
 少女の指示にルディアが「わかった」と頷く。荷台に繋がるベルトを解くと彼女は馬を連れて林の奥の渓流に下りていった。
「あっ、お、俺も行っていいか?」
 水筒が空になったと嘘をつき、レイモンドもルディアを追いかける。今なら二人でカロの話ができると考えたわけではなく、一人にさせたくなかったのだ。なんとなく、彼女が助けを求めている気がして。
 柔らかい黒土を抱いた木の根が緩やかな階段状になった坂を大股で駆け下る。前方のルディアは砂利の目立つ岸辺に馬を離したところだった。
「なんだ、お前も来たのか」
 そう言って彼女が振り返る。目が合ってレイモンドはあれっとなった。
 睨まれているのかと勘違いするほど眼光は鋭い。少なくとも弱りきった女のそれには見えなかった。
「ちょうどいい。言っておきたいことがあったんだ」
 余計な口を挟ませない語調に息を飲む。漂う空気がピリピリしていた。何か怒らせただろうかと首を傾げるが覚えはない。
「言っておきたいこと? 俺に?」
 知らず知らず身構えていたのは子供の頃からの癖だった。機嫌の悪い人間にはできるだけ近寄らないようにという。アクアレイア人には些細な災難でも、外国人には穴埋めできない災難というのは案外多いのだ。
 しかし今向かい合っているのはルディアである。背中で逃げ道を探す必要はないはずだった。
 レイモンドは乾いた砂利を踏みしめる。怖々と逸らしかけた視線を戻した。
「ああ、いい加減その鬱陶しい目をやめてもらえないかと思ってな」
「……えっ?」
 吐き出された苛立ちに全身が凍りつく。何を言われたか咄嗟に理解できず、間抜けな声を上げてしまう。
 頬に浮かんだ半笑いもやはり長年に渡って染みついた自己防御の反応だった。へらへらかわして他の話題に移ってもらおうとしたわけでもないのに。
「あからさまに気遣わしげに見ないでくれと言っている。確かに数日自失状態ではあったが、今は普通に食事も睡眠も取れているだろう」
「い、いや、けどさ」
「けどさではない。パトリア騎士物語を聞かせる程度でオロオロされては何もできん」
「お、俺はただあんたが無理してんじゃないかって」
「だからそれが余計なお節介だと言うのだ。私がお前に慰めてもらわなければ立ち上がることもできない無能だと見くびっているのか?」
 突き刺すような視線にたじろぐ。こんなにまっすぐ不快の念をぶつけられるのは初めてで。
 胃の辺りが急激に冷えた。彼女が何を考えているのかわからない。どうして鬱陶しいなどと容赦ない言葉で非難してくるのか。それは確かに、ずっと監視されているような気分にはさせたかもしれないが。
「俺だって大丈夫だって思えりゃ心配なんかしねーよ。だけどあんな――」
 あんなことがあった後に放っておけるわけないだろ。
 どうしても言葉を繋ぐことができずにレイモンドは押し黙る。
 まざまざと思い出させたくなかった。悲劇の最中に彼女を引きずり戻したくは。
「…………」
 沈黙をどう受け取ったのか、ルディアは眉間に濃いしわを寄せる。迷惑そうに溜め息をこぼした後で、グローリアより遥かに強情な王女はやっと少し表情を和らげた。
「……コリフォ島から連れ出してくれたことは感謝している。だが精神的援助までは結構だ。宮殿にいた頃はなんでも一人で考えたし、なんでも一人で実行してきた。今更誰かを当てにする気も更々ない。お前はお前の先行きを考えろ。私のことは私が考えるだけで十分だ」
 水を飲み終えた馬が満足してルディアのもとに帰ってくる。手綱を引いて坂を上っていく彼女を引き留めようとしたけれど、言葉は声にならなかった。
 もう一度聞きたかった「ありがとう」はこんなのじゃない。情けなさに唇を噛む。
(その鬱陶しい目をやめてくれないか、か)
 こんな風にはっきり壁を作られるとレイモンドにはもう踏み込めなかった。重い話題、暗い話題は徹底的に避けてきて、喜劇にしか顔を出してこなかった人間だ。
 否、自分にはそこしか息のできる場所がなかった。だからどうすればいいのかわからない。手を取って支えたくても、我慢するなと言いたくても、他人の苦悩に本気で寄り添った経験がないから。
(……馬鹿だな俺)
 本当に馬鹿だ。傷口に触れずに明るく振る舞うやり方しか知らないくせに、何ができるつもりでいたのだろう。アルフレッドみたいに迷いなく飛び込んでいけるわけでもないのに。
(お前ならどうするんだ、アル)
 遠い国にいる幼馴染に呼びかける。
 返事は聞こえるはずもなかった。




 ******




 アルフレッドがアイリーンの不在に気づいたのはアクアレイアに戻った翌日のことだった。さあ一緒にジェレムを訪ねようと研究室のある洞窟を覗いたら、書き置き一つだけ残して姿を消していたのだ。
「『やっぱり私が事の発端だったのだと思うと姫様や皆に申し訳なくて、カロを止める自信もなくて、勝手だけどアルフレッド君に同行しても邪魔になるだけだと判断しました。私はこのままハイランバオス様を探しにいこうと思います。あの人を捕まえることが私にできる唯一の償いだと思うので……。なんの相談もせずにごめんなさい。ディラン・ストーンは実家と繋がりの深い北パトリアの医大に旅立ったと聞きました。私もひとまずそこを目指します。アイリーン・ブルータス』……」
 ところどころインクの滲んだ置き手紙を読み上げてモリスと顔を見合わせる。参っているのは知っていたが、まさか一人でいなくなるとは。
「どうするね? まだそう遠くへは行っておらんと思うが」
 心配そうにモリスがちらちら窓の外に目をやる。少し悩んでアルフレッドは「いや」と答えた。
「アイリーンはそっとしておこう。死んでお詫びをと言っているわけでもないし、こっちも探し回ってやる余裕がない。それに多分、カロと俺たちの板挟みになるかもしれないのが怖いんだろう。無理に連れていくのは気の毒だ」
 ガラス工はううむと唸る。気がかりでも一応納得はしたらしい。畳んだ便箋を懐に押し込むとモリスは気持ちを落ち着けるように囁いた。
「さすらうのには慣れた子じゃ。きっと波の乙女の加護があるじゃろう」
 さすがに声は頼りない。一人息子まで囚われの身では仕方あるまいが。
「モリスさん、予定通り親父さんに会わせてもらえるか?」
 抱えた焦りを堪えて問う。解決すべき難題は山と積まれているけれど、今はとにかくカロを思いとどまらせるのが先決だ。時間を惜しむアルフレッドの心を汲んでガラス工は頷いた。二人並んで工房島の桟橋に歩き出す。
「この時期なら大体クルージャの丘近辺をうろうろしとる。ジェレムとカロは仲がこじれておるからのう、くれぐれも言葉は気をつけて選ぶんじゃぞ」
 実感のこもった助言に気圧されつつ了承した。若かりしカロがロマの一団を追い出され、東に流れた話は聞いた覚えがあるが、今でも根深い確執があるのだろうか。
 ゴンドラに乗り込むとアルフレッドは櫂を握った。小舟は浅い王国湾を南に進む。
 クルージャの丘はドナ・ヴラシィとの戦いで最激戦区になった地だ。最後は砦を逆包囲して奪い返した。あの岬に向かうのは二ヶ月少々ぶりになる。
 三時間半ほど漕ぎ続け、浜にゴンドラを引き上げたときには太陽はすっかり高くなっていた。穏やかに吹く春らしい潮風にアルフレッドは息をつく。付近にはまだ折れた矢の残骸が置き去りにされていた。
 ここにいると戦場の生々しさが甦る。勝っても負けても王国の運命に変わりなかったと知っていたら誰も殺し合わなかっただろうか。
 砂を踏み、草を掻き分けてアルフレッドは丘に登った。上はもっと惨憺たる有り様だろうと思ったのに、さんざめく平原に血まみれの剣や風雪に晒された白骨は見当たらなかった。その代わり、萌え出た緑に無数の墓標が十字の影を投げている。
 誰かが死者を弔ったらしい。どれもこれも枝を組んだだけの簡素なものだが墓には花まで供えられていた。遺品から察するに、埋まっているのは全てドナ人とヴラシィ人のようだ。
「…………」
 なんとなしにアレイア海を振り返る。すると航海に出る船の帆影が波の間にちらついた。何があってもこの海で生き抜こうとする人々の姿が。
(アクアレイアは死んでいない)
 ルディアさえ戻ってくればと強く念じる。彼女が折れてさえいなければと。
「おお、思った通りじゃ。近くにおるようじゃわい」
 と、両耳に掌を添えたモリスが嬉しそうに言った。耳を澄ませと小突かれてアルフレッドも彼を真似る。

 ――ライライライ、ライライライ……。

 風に乗って誰かの歌う声が聴こえた。いや、これは幾度も落命の瞬間を繰り返すという哀れな死霊の断末魔か。
 金切り音は痛ましく震え、哀切を増幅し、にわかに怯んだ鼓膜の奥へと侵入してくる。ぞっと背中を駆けた悪寒にアルフレッドは目を瞠った。
 なんなのだろう、この悲鳴じみた歌声は。否応なしに膨れた恐怖が早くここを離れるべきだと急き立てる。だがうろたえたのは一瞬だった。耳から入った異な音が心臓に達したその途端、世界は歌に覆い尽くされ、未知の感覚に一新された。

 ――ライライライ、ライライライ……。

 声が血肉に染みるにつれ、途方もない懐かしさ、慕わしさ、二度と戻れない悲しみが胸の底からせり上がる。剣をくれた伯父の姿が、幼い日の帰り道が、たくさんの船で賑わう商港が眼前に広がった。この歌がどんな歌なのか、誰に聞かずともすぐ知れた。
 亡び去った、或いは決して帰れない故郷への想いを乗せた歌だ。死の間際にある旅人が、それでも最後に口ずさむ。
 圧倒され、アルフレッドは立ち尽くした。歌が流れてくる間、指一本動かせなかった。
 ロマのことなら知っている、なんて愚かな考えは今ここで捨ててしまおう。それらは多分うわべだけの知識に過ぎない。
(これがロマの本領か。そこらへんの流行歌とは全然違うな)
 アルフレッドは瞼を閉じ、より深く歌の響きを味わおうとした。けれど無情にも激しい空咳が望郷の夢を霧散させ、どこからも追い払ってしまう。
「……ああ。ジェレムは年でな、病気なんじゃよ」
 残念そうにガラス工が呟いた。モリスが四十路を越えているから父親は七十近いだろう。放浪生活では肉体の衰えも早かろうし、死霊の断末魔という第一印象は当たらずとも遠からずだったかもしれない。
「行こう」
 促され、アルフレッドは足を踏み出した。鼓動を乱す緊張に新たにもう一種類が加わる。なんという歌うたいだと。
 墓標の群れを通り過ぎると半壊状態で放置されたクルージャ砦が近づいた。砲弾を受けた大穴の下には大小様々な瓦礫が積み重なっている。誰も来ないのをいいことに、ロマの一団はここを仮住まいにしているらしい。辺りには彼らが持ち込んだと思しき楽器や衣類が散らばっていた。
 だが肝心のロマは表に出てきていないようだ。アルフレッドは崩れかかった壁の向こうを覗いてみる。二度目の驚愕はその直後に訪れた。

「こいつはなんだ、モリス」

 切れ味鋭いナイフに似た男の声が間近で響く。首筋には本物の刃が押し当てられていた。思わず顎を仰け反らせ、バランスを崩したまま後ずさりする。
「ジェ、ジェレム! その若者はわしの連れじゃ!」
 慌ててモリスが間に割り込んだ。しかし壁に張りついて息を潜めていたロマはまるで警戒を解いてくれない。
 ガラス工の頭越しにきつく睨みつけられて、アルフレッドはまさかこの痩せぎすの老人がさっきの歌声の主なのだろうかと驚いた。灰色の髪と朽ちかけた体躯に不相応なほど荒々しい眼をしたロマは、到底あんな物悲しい節を歌う男に見えなかったのだ。
「なんだって俺のところにアクアレイア人なんか連れてくる? 気分が悪い。今すぐ帰れ」
 まだ少し咳き込みながらジェレムは怒りを露わにした。彼が陣取る城塔の奥では中年の女と長い三つ編みの少女が互いを庇い合っている。ジェレムが二人からアルフレッドを遠ざけようとしているのは明らかだった。
「い、いや、実は折り入って頼みがあってな。彼に道案内をしてやってほしいんじゃよ」
「はあ? 道案内だと?」
 ちらとこちらに向けられたしわ深い顔が胡散臭げに歪められる。見慣れない、しかも胸甲を着込んだアクアレイア人に対する不信感を彼は隠しもしなかった。
「ああ、アルフレッド君はカロを探しておるんじゃ」
 ぴくりとジェレムのかさついた下瞼が動く。「戻っておるのは知っておったんじゃろう?」と問われ、年老いたロマは不快げに目尻を吊り上げた。
「だからなんだってんだ? あいつのことも、そのアクアレイア人のことも、俺には一切関係ない」
 忌々しげに吐き捨てられる。カロとはこじれているという話も、筋金入りのアクアレイア人嫌いだという話もどうやら誇張ではないらしい。
「関係なくなどない。アルフレッド君はわしの友人じゃし、わしだってカロを見つけたいんじゃから」
「知らねえな。用があるなら自力で探せよクソガキ」
「できないから頭を下げにきたんじゃろう。別にあんたにまでカロに会えとは言っとらん。アルフレッド君を近くに連れていってもらえればいいんじゃ」
「お断りだっつってんだろう。なんで俺が、アクアレイア人なんかのために、わざわざあんな奴を探さなきゃいけないんだ? 息子だからってなんでもしてもらえると思ってんじゃねえぞ」
「そんな風には考えておらん! 本当に不測の事態なんじゃよ!」
「ふん、どうだか。お前はロマとは根本的に考え方が違うからな」
 雰囲気は険悪になる一方だった。偏屈とは聞いていたが、事前予測を上回る刺々しさで息が詰まる。親交のあるモリスまでこんな悪しざまに貶されるのか。
 だがなんと拒まれても引き返すわけにいかなかった。ここでジェレムの仲間に加えてもらえねばカロを追う手段は潰えてしまうのだ。
「……俺の部隊の人間がカロに命を狙われている。しかしそれは誤解というか、彼にも悪い思い込みがあるんだ。事が起こる前になんとか説得したい。どうかカロの行きそうな場所に連れていってもらえないか?」
 アルフレッドは正直に己の事情を打ち明けた。他にどう協力を乞えばいいかわからなかった。
 ジェレムは一瞬怪訝そうに眉をしかめたが、すぐに皮肉な笑みを浮かべる。
「ああなるほど、そいつがイーグレットを殺ったのか」
 ロマというのはどこまで噂を把握しているものなのだろう。王都の人間でも下手人が誰か知っているのはごく一部なのに、事実をぴたりと言い当てられてアルフレッドは息を飲んだ。だが誤魔化しても仕方がない。「そうだ」と返して拳を握る。
「カロとはずっと一緒にやってきた。俺たちはいい仲間だった。だけど今は、怒りに駆られて彼は自分を見失っている。カロのためにも、陛下のためにも、誰かが止めなくちゃいけないんだ」
 モリスがこらこらという顔をしたが時既に遅かった。縁を切った息子や入国禁止を命じたイーグレットに良い感情を持たないジェレムは「彼らのために」と耳にするや否や、それを鼻先で笑い飛ばした。
「だからお前やあいつの揉め事が俺たちロマにどう関係あるってんだ?」
 冷たい声に嘲られる。老いたロマはカロを同胞に数えていないらしい。息子じゃないのかと訴えても力を貸してくれそうになかった。世の中にはそういう父親が少なからず存在すると知っているから驚きはしないが。
「もちろん礼はさせてもらう。前払いは少額しかできないが、そちらの言い値で――」
 交渉の台詞を終えないうちに唾を吐かれた。「お前らのそういうところが信用できねえんだ」と舌打ちまで追加される。
 対価の話をしただけでどうして顔を歪められるのだろう。状況が理解できずにアルフレッドはたじろいだ。
「すまない。何か気分を害しただろうか」
 ロマの間でも金銭のやり取りは日常的に行われているはずだ。現にジェレムは首から貨幣の首飾りを提げている。報酬の半額分前払いすると言わなかったのがまずかったのだろうか。
「お前らは金さえ出せばなんでも言うこと聞かせられると思ってやがる。格下だって馬鹿にしてる相手には特にな。お前らみたいな連中が、俺たちの自由や、俺たちの命に、勝手な値段をつけてきたんだよ!」
 しかし彼が「信用できない」と言ったのはそういう意味ではなかったようだ。ぶつけられた怒りがあまりに想定外で、アルフレッドは思わず「アクアレイアは人身売買を禁じている」と反論してしまう。だがジェレムは「パトリア人もマルゴー人もアクアレイア人も皆同じだ」と切って捨てた。
「独立戦争が終わった後、俺たちを邪魔者扱いしたのは誰だった? 利用するだけ利用して国からロマを追い出したのは? アクアレイアを出たロマがどこで人狩りに遭ったかなんて頭があればわかるだろう。カロの居所を突き止めるくらいわけないが、お前らの手助けをしてやる気はまったくないね!」
 石礫を投げつけられ、「帰れ」と冷たく繰り返される。暗く黒い双眸には深いところで凝り固まった憎悪が色濃く滲んでいた。褐色肌の女たちも似たような目つきでアルフレッドを睨みつける。
(そんな、アクアレイア人全員がロマを蔑視しているわけじゃないのに)
 ひとまとめの恨みつらみが歯痒かった。ジェレムならカロを見つけ出せそうなのに頷いてもらえないなんて。
「……帰れない。カロに会って、ちゃんと話をするまでは」
 頑固に首を横に振る。老ロマは聞き分けのないアルフレッドに今度は拳ほどの大きさもある硬い瓦礫を投げつけた。
「ジェレム! なんてことをするんじゃ!」
 乱暴な父を咎めるモリスの声が響く。額に滲んだ血を拭い、アルフレッドは「どうすればいい?」とロマに尋ねた。
「教えてくれ、どうすればカロのところへ連れていってくれるのか。そちらの出した条件に従う」
 頼むと深く頭を下げる。これで聞き入れてもらえなければ後は座り込みしかなかった。だが時は一刻を争うのだ。ぐずぐずしているうちにカロがルディアを探し当ててしまうかもしれない。それだけは駄目だった。この人だと決めた主君を喪うなんて。まだほんの少しの武功しか立てていないのに。

「へえ、なんでもするのか?」

 返された質問に風向きが変わったのを感じた。アルフレッドはがばりと顔を上げる。
 冷ややかな眼差しがどこか愉快そうにこちらを見ていた。ジェレムはどうせできやしないと見下した素振りで代償を告げる。
「指一本切り落とすなら叶えてやる」
 老ロマは底意地悪く目を細めた。「痛いだろうが死にはしないぞ」と薄笑いが雄弁に語る。
 無茶苦茶な要求にモリスは頭を掻きむしり、「こりゃ駄目じゃ。一度出直そう」とアルフレッドに耳打ちした。冷静に考えればこれも「帰れ」とか「諦めろ」という意味だったのだろう。だがアルフレッドにはジェレムの突きつけてきた条件が唯一の希望に思えた。
「指一本でいいんだな?」
 まっすぐ尋ね返した声にモリスとジェレムが瞠目する。
「な、何言っとるんじゃ! あんな戯れ言を本気に……」
 ガラス工の制止を振りきって立ち上がった。グローブを放り、老ロマのもとへ近づき、晒した両手を崩れた壁の上に置く。
「好きなのを持っていけ」
 アルフレッドがそう言った後、砦にはしばし沈黙が訪れた。
 ジェレムは疑わしげにじろじろこちらを観察する。やがて彼の目が腰の剣を見つけると、澱んだ眼差しは酷薄な色を取り戻した。
「そうかそうか、それじゃ右の親指を貰おう」
「!」
 少しだけ心が波立つ。剣を握れなくなるのでは、と悪い想像が頭をよぎった。しかし今は些細な問題だ。主君を救う手がかりを得ることに比べれば。
「こ、これ、やめんかジェレム!」
 止めさせようとした息子をロマは軽々と突き飛ばした。衰えた細腕のどこにそんな力があるのか不思議だったが、これなら半端に痛い思いはしないで済みそうだ。
 覚悟を決めて右手をぐっと押し開いた。ルディアにはどやされるだろうなと苦笑する。
 騎士のくせに、彼女の側を離れた罰かもしれない。そう考えればこの程度の試練はなんてことないものだった。
「……何がおかしい?」
 訝る男に問いかけられる。アルフレッドは「別に」と小さくかぶりを振った。
「皆はもっとつらかったのに、俺は何をやっていたのかと思っただけだ」
 ジェレムはそれ以上何も聞かない。薄汚れたコートのポケットから柄の長いナイフを取り出すと、彼は鋭利な切っ先を軽く親指の付け根に滑らせた。
 瞼は閉じない。掲げられた刃の先をじっと見据える。修行不足で無心になることはできなかったが。
(姫様――)
 夢を追えと言ってくれたルディアの顔を思い出す。命を捧げる価値ある人だ。たとえ何があろうとも彼女を守り通さなければ。それが騎士として己の目指す生き方でもあるのだから。
 ヒュッとナイフが垂直に持ち上がった。ジェレムは狙った指の根元に正確に、勢いよく拳ごと得物を叩きつけた。
「……ッ!」
 振動が手の甲に響く。衝撃に一瞬混乱しかけたが、左手で右腕の痙攣を抑え込んだ。
 大丈夫。大丈夫だ。動じている場合ではない。早く出血を止めてしまおう。
(きっと綺麗に落ちたんだな。思ったより痛みが軽い)
 アルフレッドは残った力を奮い立たせて右腕を引き抜いた。――が。
「えっ、ど、どういうことだ?」
 何事もなかったようにくっついてきた親指に声が引っ繰り返る。確かに刃で貫かれたと思ったのだが血は一滴も出ていなかった。
 ジェレムを見ればつまらなさげに眉をしかめている。「よけたら笑ってやろうと思ったのに」と彼はナイフをモリスに放った。
「な、なんじゃ、見せ物用の小道具じゃったのか」
 どうやら力が加わると柄の空洞に刃が収納される仕組みになっていたらしい。力の抜けたガラス工はへなへなとその場に座り込んだ。彼を支え起こしながらアルフレッドは踵を返した男に問う。
「待て、どこへ行く? 俺はまだ指を渡してないぞ?」
「食えもしないお前の指なんて誰がいるか。からかわれたのもわからないとは見上げた阿呆だな。目障りなんだよ、帰れと言ったらとっとと帰れ」
 ジェレムは顎で女たちに場所替えを命じた。どこまでも応じるつもりはないようだ。
 この対応にプチンと切れたのはモリスだった。ガラス工は怒りで耳まで朱に染めて傍若無人な己の父を怒鳴りつけた。
「ジェレム、それでは話が違う! 指を落とせば頼みを聞いてやると言ったのはあんたじゃないか! アルフレッド君は差し出した! なのにあんたがわざと切らなかったんじゃろう!? だったら約束は約束として、きちんと果たすべきじゃないのか!?」
 吠え声にロマは「は?」と冷笑を浮かべる。
「アクアレイア人と約束? 俺がか? 面白い冗談だな」
「自分の口から出た言葉じゃぞ! あんたいつからそんなしょうもないロマになったんだね!?」
 モリスの非難にジェレムの薄笑いが引っ込んだ。どうも矜持を傷つける言葉だったらしく、たちまち一触即発の雰囲気になる。
 まずいんじゃないかとアルフレッドは身構えた。剣には手を伸ばさなかったものの、いつでもモリスを庇えるように間合いを取る。
「お前にロマの何がわかる? アクアレイアの女に育てられたくせに」
「それでも自分の親のことくらいわかるさ。あんたは決して虚言を口にする人じゃなかった。義理のために私情を殺すことも知っていた。しかし今は……!」
 今はとガラス工は嘆いた。ジェレムは少しもたじろぐことなく「俺がアクアレイア人を嫌ってるのは昔からだ」と吐き捨てたが。
「条件は満たしたじゃろう!? 後生だからアルフレッド君をカロに会わせてやってくれ! 足りないのならわしの指もくれてやる!」
 長い時間二人は睨み合っていた。互い以外には目も逸らさず、ひと言も口をきかず。
 根負けしたのは争いに慣れていない、優しい気性のモリスのほうだ。折れる気配をついぞ見せない父親にガラス工は肩を落とし、アルフレッドに「すまんのう」と詫びた。
 モリスはとぼとぼ緑の丘を引き返し始める。アルフレッドも後ろ髪を引かれながらその後を追いかけた。
 しわがれたロマの声が響いたのはそのときだ。

「そこまで言うなら連れてってやるよ」

 がば、と振り向く。ジェレムの目は依然変わらず悪意にまみれていたけれど、聞き間違いではなさそうだった。彼の連れである女が二人面食らっていたからだ。
「ただしあいつに会わせたら、指は本当に切り落とす」
 げほ、けほ、と咳き込みながら老ロマはそこらの荷物をまとめ始めた。どうやらすぐに出発するつもりらしい。
 アルフレッドはモリスに礼を告げて駆け出した。懐ではピアスと一緒に王の遺した二通の手紙が揺れていた。









(20160423)