「さて、さしもの英雄ユリシーズも三日続いた嵐にはすっかりくたびれ果ててしまいました。船はどこの島かもわからぬ岬に打ち上げられ、お腹はぺこぺこです。とにかく何か食べ物を探そうと家来と二人で森に入っていきました。と、そのときです。ユリシーズはごちそうの匂いに気がついて目を輝かせました。クンクンと匂いを辿り、見つけたのは深い洞窟。そっと奥を覗いてみれば噴水みたいに大きな皿に美味しそうな羊の丸焼きが乗っているではありませんか! ユリシーズたちは大喜びでムシャムシャ料理を頬張りました。羊の持ち主には後でお金を払えばいいと思ったのです。ところが戻ってきた主人を見て二人はもうびっくり! それもそのはず、なんと洞窟に住んでいたのは一ツ目の巨人サイクロプスだったのです!」
 巧みに抑揚をつけながら、少女にしては野太い声でマヤが聴衆に語りかける。裏で糸を引く親方も息ぴったりに人形たちを震え上がらせ、緊迫の場面を演出した。
 さすがに二人は年季が違う。感心しつつレイモンドは任されたサイクロプスを暴れさせた。この手の化け物は多少動作が大味でも様になるのがありがたい。おかげで人形芝居歴二週間の自分でもなんとか舞台に加われる。「『泥棒どもめ、俺の晩飯を食べたな!』」と吼えるマヤの声に合わせ、レイモンドはしっちゃかめっちゃかに怪物の腕を振り回した。
 人形遣いの一座は今、谷間の小さな村を訪れている。海賊が出るという海岸部からはなるべく離れ、島の中央を突っ切ってリマニを目指すルートを取ったのだ。
 正直いくつも峠を越えるより海沿いの平野を歩くほうがずっと楽だし早いのだが、雇い主の意向とあっては無視できない。それにルディアが親子を急かす様子もなかった。集落一つにつき四日は足止めされているというのに、文句も垂れず幕の上げ下ろしを手伝っている。
(あんまり先急いでねーのかなあ?)
 レイモンドはサイクロプスに家来の人形を襲わせながら舞台の横に屈む王女を盗み見た。確かにもう王国も王家も彼女の手からこぼれ落ちて、焦って守る必要のあるものはなくなってしまったのだが。
「うわっ、お供が巨人に食べられたぞ!」
 観客の声で芝居が進んでいるのに気づき、レイモンドはハッと舞台に視線を戻す。組み立てテーブルと布で拵えた人形用のステージでは、連れを食われた英雄が剣を抜くか迷っているところだった。慌てて怪物を英雄に向かわせると同時、マヤの語りが滔々と響く。
「まともに戦っても勝ち目はない。そう考えたユリシーズは一計案じることにしました。肩の荷袋に入れていた葡萄酒を差し出して『今はこれで許してくれ。死ぬ前にパテル神へ祈りを捧げたいから、私を食べるなら明日にしてくれ』と頼み込んだのです」
 タイラー親方は熟練の技で人形に荷袋を下ろさせる。お行儀良く飲み食いをさせる技術などないので、レイモンドのほうはサイクロプスに袋ごとグビグビやらせた。
「『おお、こりゃいい酒だ』と一ツ目の巨人は喜びました。『勝手に羊を食べたのは許せんが、名前くらいは覚えておいて、お前の墓標を作ってやろう!』と言ってきます」
 怪物が機嫌を直したように見せるため、操り糸を少しだけ緩める。古い伝説の英雄がどう知恵を絞るのか、集まった村人たちは固唾を飲んで見守った。
 この辺りはよほど娯楽が少ないのだろう。狭い広場は村中総出で詰めかけてきた老若男女に占拠され、盛り上がる場面になるとすぐに押し合いへし合いが始まる。座り見の客も背中を蹴られることしばしばで、きっちりとすり鉢状になったアクアレイアの劇場では考えられない荒っぽさだった。
「『それでお前の名前は?』と尋ねられたユリシーズは少し考えて答えました。『私の名はウーティスだ』と。これはトリナクリアの古い言葉で〈誰でもない〉という意味です。『へんてこな名前だな』と嘲って巨人は酒盛りを続けました。ユリシーズの飲ませた酒は本当に美味しかったので、あっという間に瓶は空になり、酔っ払った巨人はぐうぐう居眠りを始めました」
 ここで舞台上の英雄は洞窟の入口を見やる。唯一の脱出口は怪物が戸締りのために置いた巨岩で塞がれており、逃げるのは難しそうだった。このままでは彼もサイクロプスの餌食となるほかない。緊迫感に耐えかねたのか、最前列の少年少女が「ユリシーズ、死なないで!」と叫んだ。
 苦笑を堪えてレイモンドは次なる展開に備える。親方操る主人公はすらりと腰の剣を抜き、仰向けに転がった怪物に近づいた。
「『えい!』ユリシーズは巨人の一ツ目に輝く刃を突き立てます。激しい痛みに飛び上がり、サイクロプスはなんとかユリシーズにやり返そうとしましたが、潰れた目では何も見ることができません。闇雲に拳を振り回してもただ家の中が散らかるばかりです。そこへやって来たのが騒ぎを聞きつけた巨人族の仲間でした。『どうした!? 誰にやられたんだ!?』という彼の問いに馬鹿な怪物は大喜びで答えました。そう、『ウーティス!』と」
 英雄を洞窟の岩陰に引っ込め、タイラー親方がもう一匹の巨人を舞台に登場させる。巨岩をどけて入ってきた第二の怪物は友人の返事を聞いて「『なんだ、一人で転んだだけか』」と早々に去っていった。
「『違うんだ、ウーティスにやられたんだ!』サイクロプスが説明しても仲間は既にそこにはいません。巨人が岩を戻せないでいるうちにユリシーズはまんまと洞窟を逃げ出しました。盲目の巨人を振り返り、英雄は高らかに名乗ります。『私の名はユリシーズ! パテルの都、パトリアの王子ユリシーズだ!』これを聞いたサイクロプスの悔しさと言ったらありません。巨人は声の限り叫び、彼に呪いをかけました。『古き神々よ、我が願いを聞き届けたまえ! パテルの都、パトリアの王子ユリシーズに災いあらんことを!』――こうして彼の苦難の旅はまだまだ続くことになるのです。でもそのお話はまたの機会に!」
 マヤの合図で幕が下りるとパトリア神話の上演は拍手喝采をもって終了した。待っていましたとばかりに子供たちが簡易ステージを取り囲み、人形を見せろとねだってくる。商売道具を守るタイラーを後衛とし、レイモンドはちびっ子たちと対峙した。
「言っとくけど駄目だぞ! おやっさんの人形には指一本触れさせねーかんな!」
「ええーっなんでえ!? ちょっと触るくらいいいじゃんか!」
「馬鹿、意外と値が張るんだよあの人形! 糸も切れると直すの面倒だし!」
「壊さないように気をつけるから、あたしにマリオネット貸してえ!」
「俺も、俺も!」
「だから駄目だっつってんだろ!」
 威勢のいいのが飛び蹴りをかましてくるので足首を掴んで放り投げる。その隙にガードを掻いくぐろうとしたお転婆は脇をくすぐって諦めさせた。同時に向かってきた兄弟は同時に首根っこを捕らえる。そのうち手段と目的がごちゃ混ぜになってきたらしく、子供たちは舞台よりレイモンドに群がり出した。
「俺知ってる! こいつさっきサイクロプス操ってた!」
「悪い奴だな!? よし皆、やっつけるぞ!」
「こらこら! どっからどう見ても優しいお兄さんだろー!」
 ちびっ子軍団は軽やかに攻撃をいなすレイモンドが面白くて仕方ないようだ。束になってきゃあきゃあ言いながら襲いかかってくる。
 余計な邪魔が入らないうちにタイラーはせっせとステージを分解し、マヤとルディアは二人でおひねりを集めて回った。
 捕まえて振り回して、猛獣の真似をして威嚇して、子供たちが満足するまでどれくらいかかっただろう。そろそろ家に帰らなきゃと手を振られ、やっとの思いで撤収作業に戻ってくると後片付けはほとんど終わりかけていた。
「うわっ、おやっさん悪ィ! 一人でやらせちまって」
「ああ、構わねえよ。別に大した量でもないしな。それにああいう暴れん坊の相手をしてくれるのは助かるぜ」
「いや、けどさー」
「ははは、本当に気にすんなって。お客と喋るのも仕事のうちさ。ブルーノはブルーノでまた大変そうなのを引き受けてくれてるしな」
「へ?」
 親方の視線を追って振り向くと、広場の片隅に女だらけの人だかりができていた。よく見えないが中心にいるのはルディアだろうか。年齢層高めの女性陣に農作物やらワインやら持たされて――というより押しつけられているようだ。
「ブルーノさん見た目がイイから主婦の財布のヒモが緩いわあ。いや、あたしの目に狂いはなかったねえ」
 隣でマヤの得意げな声が響く。銅貨の重みで歪んだおひねり篭を見せられてレイモンドはなるほどと合点した。
「こりゃすげーな。そうか、そういう稼ぎ方があったのか」
「ああ、やっぱ男でも女でも綺麗どころがいるってのはいいねえ! 父ちゃんの出来とは無関係にたんまり弾んでもらえるんだから!」
「おい、よせマヤ、腕より顔だなんて悲しいことを言うんじゃねえ」
 タイラーの切なげな声が均されただけの土の上に落ちる。けらけらと明るく笑い、生意気娘は「ブルーノさんならずっといてくれてもいいなあ!」などとのたまった。
「どうせ残ってくれんなら俺はレイモンドのがいいや。ブルーノが悪いってんじゃねえが、ありゃどうも細かい動作が上達しそうに思えねえ」
「いやいや、顔の見えにくい人形使いに回しちゃいけない人材でしょ! 凄腕おひねり担当としてあたしが育ててみせるっての!」
 タイラー親子は互いの意見をぶつけ合う。二人とはこの二週間で随分と打ち解けた。初めは何か盗まれるんじゃないか警戒していた親方も、真面目に稽古に参加するこちらの態度に考えを改めてくれたらしい。今では荷馬車の見張り役を一任されるまでになっていた。
「っと、日が沈む前にもっぺん村長に挨拶しとかないとな」
「あっ本当。お金数えるのに夢中になってたらもうこんな時間。レイモンド、バラしたテーブルと垂れ幕と人形、荷台に戻しといてもらっていい?」
「ついでにブルーノにも引き揚げるように言っといてくれ!」
 暮れかけた空を見て父と娘はよく似た顔で慌てふためく。「おお、任せとけ」と返事すると二人はばたばた駆けていった。
(さーてうちのお姫様は、と)
 レイモンドは小さな広場を振り返る。もう黄昏が迫っているのに人だかりはまだ解散していなかった。ルディアはしつこいおばさま方を邪険にする風でもなく、贈り物への丁重な礼を述べている。
(見た目も確かにいいんだけど、育ちはもっといいんだよなあ)
 ぼろのケープを纏っていても隠しきれないものはある。気品の溢れる彼女の佇まいはこんな農村には不釣り合いで、素朴な田舎の住人がのぼせ上がるのも無理はないと思えた。中身が女だとわかったら、おばさま方は金を返せと喚くだろうか。
「おーい、そろそろこっち手伝ってくれー」
 ひと声かけるとルディアの顔がこちらを向く。大量の戦利品を抱え、彼女は輪から抜けてきた。名残惜しそうに見送る女たちに「私はこれで」と如才なく会釈して。
「荷物を運べばいいのか?」
「ああ、うん。全部馬車に片付けといてくれって」
 一番重そうな酒瓶だけひょいと奪って小脇に抱え直す。ルディアには「それくらい持てるのに」と難色を示されたが返却はしなかった。
「あんま無理すんなよ」
 複雑な心境をこめて呟く。女あしらいができる程度に元気になってきたことを、喜ぶべきか案ずるべきか迷いながら。
 ルディアは何も答えなかった。そっと一瞥した横顔はまた張り詰めたものに戻っていた。
 タイラーとマヤに拾われてから、あまり彼女とゆっくり話ができていない。まさか他人の耳に入る場所で込み入った内情をぶちまけるわけにいかないし、マルゴー公国を目指すこと以外、今後の方針はわからないままだった。
 さっさと聞いちまわないとなとレイモンドは折り畳みテーブルの片端を持つルディアをちらりと振り返る。
 こうして二人きりになれても切り出しにくい話題だった。アルフレッドたちと合流した後の予定はともかく、カロに会ったらどうするつもりかなんてことは。
「これで全部か。今回は悪ガキに人形を蹴られずに済んで良かったな」
 村外れのレモン畑にとめていた一座の馬車に荷を積みながらルディアが言う。彼女のほうも今日まで一度もロマの名前を口にしていなかった。それどころかアクアレイアが今どんな状況に置かれているか、情報を集める素振りもない。あまりルディアらしくない気がして心配だった。単に外国商人の出入りしないど田舎で何を聞いても当てにならないと見なしているだけかもしれないが。
「この人形、普通に使ってても結構傷むもんなあ。ユリシーズなんてもう腕がもげちまいそうだぜ」
 幌つきの荷台に上がって道具類を整理しつつ、わざとらしくない声量で呟く。レイモンドは大きな箱から古代の英雄を取り出した。騎士の身なりをした人形は別の演目でも主役を務めることが多く、もはや崩壊寸前である。役名のせいでどうにも愛着が湧かないのだが、布でも巻いて馬車の揺れから守ってやったほうが良さそうだった。
「まさかトリナクリアであの野郎の名前聞くとは思ってなかったよなー。王国海軍も今頃どうなってるんだか。ヤケ起こして海賊なんかになってねーといいけど」
 自然な流れで本題に寄せていこうとしたところ、当のルディアに「ああそうだ、海賊といえば」と話の舵を奪われる。藪から棒に「タイラーたちの事情は聞いたか?」と問われ、レイモンドはきょとんと目を丸くした。
「おやっさんたちの事情? 海岸沿いは危ねーからでかい街にしか寄らないぞって言われたやつ?」
「違う、ここの一座が海賊の襲撃を受けた話だ。マヤの骨折もそのときのものらしい」
「えっ!? い、いや、聞いてない」
 驚いて首を振りつつ飛び上がる。うっかり天井の布を突き破りそうになり、レイモンドは慌てて長身を縮こまらせた。
「昨日タイラーに人さらいはどこに奴隷を売りにいくのか尋ねられてな。どうも旅の途中で奥方と長男が連れ去られたようだった」
「つ、連れ去られたって海賊にか?」
「ああ。奴隷狩りを目的にするような連中は武装船より陸の無力な人間を狙う。この頃急に物騒になったと言っていたから十中八九カーリス人の仕業だろう」
 カーリス人と耳にしてレイモンドは顔をしかめた。
「なんであいつらが奴隷狩りなんて危ない商売するんだよ? アクアレイアをやり込めて、今が一番勢いに乗ってんじゃねーのか?」
 そう問い返すとルディアは「いいや」と否定した。
「それはローガン派の商人だけだ。カーリス共和都市は有力家系の不仲が酷い。長らくショックリー商会と対立してきたラザラス派が街を追われ、近辺の海を荒らすようになったんだろう」
「え、ええ!?」
「敵対勢力の追放はカーリスのお家芸だ。トリナクリアとカーリスは地理的に近いし、港町には古くからのカーリス人居留区もある。人脈の広い男なら潜伏先にも人身売買のツテにも事欠くまい。それに海賊の着ていた衣装が間抜けな形をしていたとタイラーも言っていたしな」
「間抜け……? も、もしかしてあのコットンで肩と胸が異様に膨れた……?」
 ローガンのぱんぱんに張ったビロードの上着を思い出す。「あんなおかしな服が流行るのはカーリスくらいだ」と断言されては頷くしかなかった。
「けどそれが本当ならおやっさんの奥さんと息子はどこに売られたんだ?」
 この問いには無言で首を振られた。ルディアにも連れ去られた先までは特定できないらしい。
「探す方法はないでもないが、今の我々にはどうしようもない。見つけるにも買い戻すにも莫大な金がかかる。タイラーはそれでも諦めきれないという顔をしていたが」
「…………」
 訝りながらもレイモンドたちを同行させてくれたお人好しの親方が、力なく肩を落とす姿が脳裏をよぎった。どこへ行ってもろくな真似をしないカーリス人には怒りが湧く。政敵だからと同郷の人間を追い出したことも信じがたいが、追われた先で悪行三昧というのはもっと信じがたかった。アクアレイアなんて君主自ら民のために王都を旅立ったのに。
「トリナクリア島にはカーリスの没落貴族だけでなく、ジーアン帝国との統合を嫌って逃げてきた東パトリアからの移民も多いそうだ。元々あちこちの民族が入れ代わり立ち代わりで治めてきた国だしな。人種が入り乱れているうえにパトリア聖王の干渉もほぼない。善人悪人を問わず、今はここが一種の避難先になっているんだろう」
 自分も今は避難民の一人に過ぎないというようにルディアは呟いた。淡々とした響きの中に無力感を読み取ってレイモンドも黙り込む。
「とにかく世話になっていることだし、タイラーたちには良くしてやれ。お前はそういうの得意だろう」
 与えられた命令には少し戸惑った。「そりゃ親切には親切で返すけど」と答えつつ、あんたのほうが気がかりだよと目線を送る。だがレイモンドのすぐ横で人形を片付け始めたルディアにこちらを振り向く様子はなかった。
「――ウーティスか」
 関節の外れかかった英雄を布にくるんで彼女がぽつりと独白を漏らす。
「ん? ウーティスじゃなくてユリシーズだぞ?」
 レイモンドは騎士を指差して訂正した。ついでにもう一度アクアレイアに話を戻そうとしたところで「ただいまー!」と声が響く。マヤとタイラーが村長宅から帰ってきたらしい。
「ねえねえ、もう二、三日この村でお芝居続けていいって! これもブルーノさんのおかげだよ!」
「村の女がわらわら引き留めに来ててなあ! へへっ、久々にいい気分だったぜ!」
 滞在許可が延長されたと親子は嬉しげに報告する。「がっぽがっぽ稼ごうね!」と明るい少女に釣られてかルディアも硬い頬を緩めた。
「私は何もしていないよ」
「いやいや、ブルーノさんはいるだけで華があるんだって! うーん、きっと女にガツガツしてないところもウケてるに違いないわ!」
 身内が安否不明とは思えないほどマヤは元気だ。思うように動かない腕にも苛立ちを見せたことがないし、気丈なのだなと感心する。ルディアも我慢強いタイプだから、自然とマヤたちを案じてしまうのかもしれない。
(けどやっぱ、今はお姫様こそ一人にしておけねーよ)
 手狭になった荷台の奥でレイモンドは嘆息した。
 やはり一度、今後のことをきちんと話し合わなければ。次にまた二人になれたら。
(アイリーンがカロをなだめててくれたらなあ)
 頭に浮かんだ儚い希望は振り払う。気弱な彼女では役立たずだと言っているのではない。今のカロには誰の言葉も届く気がしないというだけだ。
 あの日をやり直せたらいいのに。それこそ願ったってどうしようもない願いだけれど。




 ******




 ぶんと風切り音を立て、模造斧の平らな刃が横一線に空を裂く。仰け反って攻撃をかわし、同時に木刀を振り上げると、身軽な妹は宙返りでこれを避けてすぐに体勢を立て直した。
「あっアル兄! 貰ったピアス落としてるよ!」
「えっ!?」
 出し抜けに背後の床を指差され、思わず振り返ってしまう。「隙ありッ!」と声が響いたのは直後だった。向かいくる少女に目を戻したときには木斧が腹部に迫っており、アルフレッドは痛烈な一打を食らってしまう。手合わせの結果はモモの勝利であった。
「おっ、お前な……っ、なんて卑怯な……っ」
 よろめきうずくまる兄に妹は憐みをこめた目を向ける。
「こんな古い手に引っかかるアル兄のほうがどうかしてるよ。さすがにモモも心配だよ。大丈夫? 強く乱世を生きていける?」
 失礼な物言いに「おい!」と声を荒らげた。まったくこいつは兄をなんだと思っているのだ。
「物が物でなきゃ俺だってそう焦りはしない。完全な球形をしたパトリア石がどれほど貴重か知らないのか? しかもこれは、東パトリアのアクアレイアに対する好意の証とも言えるんだぞ?」
「知ってるけどさー、モモならそもそも落としそうなところに入れておかないもーん」
「俺だって!」
「でも『落としたかも』って不安になったじゃん? アル兄のザーコ!」
「くそっ、もう一戦だ!」
 模造武器を掴んで立ち上がる。しかしモモとの再戦は叶わなかった。衛兵室にコンコンとノックの音が響いたからだ。
「あ、はい。チャド王子でしょうか?」
 襟を正し、控えの間の扉を開ける。「ルディア姫」の客室へと続くこの部屋を通る人間は彼か公女ティルダくらいだった。予想に違わず入ってきたのは糸目の貴公子で、アルフレッドとモモはさっと敬礼する。
「邪魔をしてすまない。ちょっといいかい? 街門に待機させているグレッグからの報告で、アクアレイア人が二人訪ねてきているそうなのだ。アイリーン・ブルータスとモリス・グリーンウッドの名に覚えはあるかね?」
 思いがけない名前を聞いてアルフレッドらは目を丸くする。
「アイリーン!? それって青い髪に青い顔したガリガリの!?」
「その二人ならうちの隊員の家族です。二人がサールに来ているんですか?」
 驚きのまま尋ね返すと行動の早い王子は「実はもう宮殿内に通してある」と言った。
「アクアレイアがどうなっているか、なんとか調べなくてはと考えていた矢先だったからね。君たちの身内なら信頼も置けるな。早速呼んでくるとしよう」
 言うが早くチャドはその場を後にした。そして十分と経たぬ間に客人を連れ、「ルディア姫」の部屋に戻ってくる。
「モリスさん!」
 アルフレッドはこそこそと入室してきた白髭のガラス工に駆け寄った。老人の丸い背中にくっついて姿を見せた女にはブルーノが瞳を潤ませる。
「よ、良かった……! 連絡も取れないし、ずっと心配していて……!」
 ブルーノはほとんど素に戻って姉の無事を喜んだ。相変わらずの血色だったがアイリーンは五体満足で、アルフレッドたちもほっと胸を撫で下ろす。
 だが何故かアイリーンはいつまでも顔を上げようとしなかった。弟の声にも反応を示さず、真冬の雪原に立っているかのごとくガタガタと震えている。
「?」
 アルフレッドはモモと顔を見合わせた。なんだか良くない感じがする。彼女がこういう黙り方をしているときは、大抵いつも良くない事実を口に出せずにいるときなのだ。
「……何かあったのか?」
 静かな問いが客室に響いた。返答を待つ間、アルフレッドは思考を巡らせて諸々の可能性を考慮した。アイリーンといたはずのアンバーがいないのはどういうわけかとか、モリスまでここへ来たのはアクアレイアが住めないほど酷い状況だからかとか。憶測はどれも外れたけれど。
「……悪い報せじゃ」
 うつむいて黙りこくったままのアイリーンに代わり、口を開いたのはモリスだった。「いずれ政府から正式な使者が来ると思うが」と前置きし、ガラス工は暗い表情で語り始める。
「コリフォ島はカーリス人に奪われたらしい。トレヴァー・オーウェン大佐は要塞を追われ、泣く泣く部下と都に引き返してきたそうじゃ。住民も、本国に家族のいる者は大半が島を出たと聞く」
 にわかに室内がざわめいた。この二人からコリフォ島の情報が入ってくるとは想定外で、チャドもブルーノも顔色を変える。
「コ、コリフォ島が奪われた? 陛下やジャクリーンはどうなったのだ?」
 王子の問いにアイリーンはますます身を強張らせた。不安は見る間に伝染し、漂う空気を塗り替える。アルフレッドも息を詰めてモリスの次の言を待った。
「イーグレット陛下はお亡くなりになられた。代役も囚われの身じゃ」
 愕然と目を瞠る。ふらりと立ち眩んだブルーノをチャドが咄嗟に支え抱いた。モモも信じられないという顔で声を失っている。
 一番起きてほしくなかったことが起こったのだ。アルフレッドはくそっと拳を握り込んだ。要求通りアクアレイアを明け渡したのに、王家にはなんの権限もなくなったのに、ジーアンは――否、ローガン・ショックリーはそっとしておいてくれなかった。
「……陛下はカーリス人にやられたのか?」
 震える声で問いかける。だがガラス工は頷かない。「それじゃジーアン兵に?」というモモの問いにも沈黙を貫いた。
 瞬間、ぞわりと悪寒が走る。どくん、どくんと心臓が波立ち、冷たい汗が脇を伝った。
 まさか、いやしかしと確信と否定を繰り返す。だが考えれば考えるほどそうだとしか思えなくなった。
 イーグレットに手をかけたのが、カーリス人でもジーアン兵でもないということは――。
「公爵に、マルゴー公に、早く伝えに行ってください」
 血の気の引いた真っ白な顔でブルーノがチャドを促す。幼馴染にもコリフォ島で何があったのか想像がついたらしい。とても聞かせられないと伴侶を部屋から追い立てる。
「いや、しかしルディア」
 だがチャドはこんなときに愛する妻と離れられないと言いたげだった。目尻に涙を溜めたブルーノの手をぎゅっと握り締めている。
「いいから行ってください! そして公爵やティルダ様が私をどのように扱うべきだと仰ったか、嘘偽りなく教えてください!」
「……!」
 元々危うかった妻の立場が今またどんな危険なものに変わったか、ひと言で察してチャドは息を飲み込んだ。客室を飛び出した足音が遠く聞こえなくなると、アルフレッドは再度モリスに向き直る。
 吐き出そうとした息が重かった。言葉はもっと、鉛のようで。
 けれど聞かなくてはならない。本当のことを確かめなければ。
「……陛下は、姫様が……?」
 堰を切り、わっと溢れたアイリーンの慟哭が答えだった。全容はまだ少しも掴めない。何がどうなってそんな終わりを迎えたのか。それでもルディアが、あの決然とした人がどれほど残酷な選択を迫られたかはアルフレッドにも読み取れた。
「……囚われればなぶり殺しにされるのは目に見えておった。せめて王として死なせるために、あの子は剣を抜いたのじゃろう」
「カロは何をしていたんだ!? 同じ船でコリフォ島へ行ったんだろう!?」
 勝手に荒くなる語気にアイリーンがびくりと肩をすくませる。旧知のロマを庇って彼女は首を振った。
「違うの。私のせいで乗れなかったの。コリフォ島に着いたらレイモンド君が王様を助けてくれって……、でも私たちが駆けつけたときにはもう、もう……っ!」
 膝から崩れ、アイリーンは床に泣き伏せる。「ごめんなさい」と詫びられてもアルフレッドには意味がわからなかった。一体なんの謝罪なのか。
「カロがすごく怒ってるの。ひ、姫様のこと絶対に見つけ出して殺すって……。ロマの男は友人を殺されて黙ったままではいないって……」
 激昂は一気に冷めた。これ以上、なお悪い話が出てくるとは思いもよらず。
「ちょっと待て……。カロが姫様をなんだって……?」
 不穏な言葉に頬が引きつる。頭が話についていかない。それではルディアは、ただでさえ大きな存在を喪ったのに、あのロマの恨みまで買ったというのか。
「私、私、止めなくちゃって、何度もカロに、でも」
「ちょっと待ってくれ、話が全然わからない。大体お前はいつからカロと一緒だったんだ?」
 要領を得ないアイリーンについ大声を出してしまう。すると妹も苛立った声を響かせた。
「ああもう、泣いてないで順を追って説明してくれない!? アイリーンたちはヴラシィに行った後どうしてたの!? アンバーはちゃんと生きてるんだよね!?」
 モモの手に揺さぶられ、アイリーンはぐっと涙を飲み込んだ。眉根を寄せ、乱れきった呼吸を整え、苦しげに胸の辺りを押さえながらぽつりぽつりと話し始める。
「アンバーさんはヴラシィで……、ラオタオ様に脳蟲だって見破られて……。生きてはいるけど帰ってこられる状況じゃなくて……」
「は、はあ!?」
「ジーアン帝国の上層部は……ハイランバオス様やヘウンバオス様は、脳蟲とよく似た別種の蟲だったみたいなの……。わ、私はとにかくハイランバオス様に話を聞かなくちゃって、それであの方がディラン・ストーンになりすましていたアクアレイアに――」
「はああ!?」
 聞けば聞くほど混乱するのは語り手が混乱しているせいだけではないだろう。次から次によくぞこれだけ理解しがたい話が出てくる。
 ジーアン上層部にも蟲がいた? ハイランバオスがディランになりすましていた? 冗談にしてはきつすぎる。
「ごめんなさい、私、あ、アクアレイアに、謝っても許されないようなことを……! 私がジーアンをアクアレイアに引き寄せて……!」
 またアイリーンが泣きじゃくりだしたため、続きはモリスが詳しく説明してくれた。天帝がアクアレイアに欲を出した理由はわかっても、ハイランバオスが何を企んでいるかまではわからずじまいだったが。
「……とりあえず今はカロのほうがやばいんじゃない?」
 顔を歪めたモモの言葉にブルーノが頷く。
「そ、そうだよね……。姫様の命を狙ってるってことだもんね……」
 わずかの差で間に合わなかったカロの心境を思えば怒りの矛先がルディアに向くのも道理であった。彼女がもう少しだけ迷っていれば、切っ先が急所から外れていれば、希望は繋がったかもしれないのだ。
 ふらつく身体の支えを求めてブルーノは部屋の隅の書き物机に手をついた。卓上にはイーグレットが荷に忍ばせた二通の手紙が置かれている。毅然たる字で綴られた文面を思い出したかブルーノは頬に涙を伝わらせた。整った王女の顔が見る間にぐしゃぐしゃになっていく。
「なんでなの……? どうして姫様が陛下を……?」
 ルディアの姿で泣かれると心が痛い。アルフレッドは唇を噛み、無念と怒りを堪えて言った。
「陛下がそうお望みになられたからに決まっているだろう! ただ苦痛と屈辱から救うだけならきっと、あの人はもっと違う方法を取った。王族に相応しい死を願ったのは陛下だ……!」
 そうだ。イーグレットは手紙の中できっぱり宣言していたではないか。最後までアクアレイアの王である己を忘れずに生きると。この先ルディアが平穏を望むにせよ、激動に身を投じるにせよ、己の存在が足枷にならぬように努めると。
(死を覚悟なさっているのはわかっていたんだ)
 アクアレイアを発つ前からイーグレットが死地に赴くつもりでいたことは。ルディアは幽閉が何年続くかと言っていたけれど、おそらく彼女もまた。
(どうして俺はコリフォ島に行かなかったんだ?)
 後悔に胃が焼けた。握りすぎた拳は爪が食い込んで、視界はぐらぐら揺れて歪む。大事なことほどルディアは黙って一人で決行するのだと、自分は知っていたはずなのに。
「レイモンドが一緒でまだ良かったね。姫様連れてどこに逃げたかわかんないけど」
 神妙な面持ちでモモが言う。サールへも来ておらず、アクアレイアでも姿のなかった二人の現在地はアルフレッドにも明確な見当がつけられなかった。
「使ったとすれば帆船だろう。風向きはどっちだったんだ?」
「あ、あの日は確か東から西に……」
 アイリーンの返答にまたモモが眉をしかめる。
「西かあ。カロもそっちを探す気なのかな?」
 室内に再び沈黙が訪れた。なんとかしなくてはと思うのに、どうするべきかわからない。このままじっとサール宮で連絡を待つしかないのだろうか。
「……カロの足取りならなんとか掴めるやもしれん」
 と、腕組みして考え込んでいたモリスが呟いた。思いがけない言葉にアルフレッドはがばりと顔を上げる。
「ど、どうやって?」
「うーむ、あまりお勧めの方法ではないんじゃよ。わしにはちと荷が重すぎるし、お前さんらでは凄まじく不愉快な目に遭うじゃろうし……」
「なんでもいい! カロがあの人に何かする前に止められるなら!」
 言い渋るモリスに掴みかからん勢いで迫る。ガラス工は「本当にお勧めできないぞ」と忠告を重ねたうえで提案した。
「ロマのことはロマが一番よく知っておる。わしは彼らのするような旅に耐えられる身体ではないからのう、お前さんらが良ければの話じゃが、わしの親父に――わしとカロの親父に会ってみるかね? ロマの一団に加えてもらえれば『はぐれロマ』の噂も聞こえてきやすいはずじゃ」
「……!」
 アルフレッドはくるりとモモを振り返る。わかってるよという顔で妹は大仰に肩をすくめてみせた。
「そっちに行きたいって言うんでしょ? いいよ、ブルーノは頑張ってモモが守るから」
 しっしと追い払う仕草に「すまん」と詫びる。
「皆で追いかけられたら一番いいんだろうけど、そういうわけにいかないもんね」
 今は人手が足りていない。本来はここも手薄にしてはならない場所だ。それはわかっていたけれど、主君の危機を放置することはアルフレッドにはもっとできなかった。
「折角会えたのにまたバラバラかあ」
 溜め息をつくモモは少々寂しげだ。「あーあ、手合わせの相手がいないと身体なまっちゃう」と続いた台詞には思わず足を滑らせたが。
「僕がモモちゃんの相手になるよ。僕も『お姫様』のままじゃ駄目だ」
 妹にそう告げたのは涙を拭ったブルーノだった。しっかりしなきゃと幼馴染は鼻を啜る。
「決まりじゃな。一度アクアレイアに戻って、それから親父のところへ行こう。筋金入りのアクアレイア人嫌いじゃから心しておくんじゃぞ? マルゴー人のやっかみなんぞジェレムに比べれば可愛いもんじゃよ」
 父親の偏屈さを説くモリスの言に多少不安は煽られたが、悶々と待っているより行動できたほうがありがたい。それが直接ルディアのためになるなら尚更だ。
「アイリーン、お前も一緒に来るだろう?」
 部屋の隅で塞ぎ込んでいる彼女に問うと「ええ……」と歯切れの悪い返事があった。自分のせいで何もかも駄目になったとまだ気に病んでいるらしい。
「そうね、カロを追いかけなくちゃ……。でもあの人、私の言葉なんて少しも聞いてくれなかったわ。もし彼に追いついて、説得して、それでも思い直してくれなかったら……そのときは私たちどうするの……?」
 考えたくない可能性にアルフレッドは息を止める。アイリーンの疑問に答えられる人間はいなかった。書き物机の手紙を握り締めたブルーノ以外には。
「これ見せてみたらどうかな?」
 示された封筒にモリスとアイリーンが「それは?」と声を揃える。
「陛下から姫様へと、陛下からカロさんへの手紙。こっちは暗号で書かれてて僕らには読めなかったんだけど、カロさんなら読めると思う。こっちは普通のアレイア語だよ」
 アレイア語で書かれたほうの手紙を開き、モリスが「ふむ、ふうむ」と頷く。誰が読んでもイーグレットの断固たる決意が感じられる内容だ。どこまでカロが納得してくれるかわからないが、試してみる価値はあるだろう。
「悪い想像ばかりしていても仕方がない。とにかく急ごう。もっと取り返しのつかない事態になる前に……!」
 アルフレッドは控えの間に走り、少ない荷物を手早くまとめた。大事なものは伯父に貰ったバスタードソードとアニークに貰ったピアスだけだ。この二つとイーグレットの手紙さえ失くさなければそれでいい。
(命令違反だと叱られても知るもんか。守るべきときに守るべき人を守れずに何が騎士だ)
 やはりあのとき彼女の側を離れるべきではなかった。たとえ未来のルディアに必要なものがマルゴーにあったのだとしても、優先すべきは今の彼女だったのだ。
 大きな悔いは大きな原動力になった。その夜のうちにアルフレッドはサール宮を後にした。




 ******




 ――運べ、運べ、サールは白い金の街。
 ――運べ、運べ、サールは塩の集う街。

 水夫の陽気な歌声にティルダはにこりと糸目を細めた。都の周縁を流れる川は今日も荷を満載した舟でいっぱいだ。二十年ほど前、岩塩の採掘技術に劇的な躍進があって以来、製塩は公国を支える主要産業の一つとなった。「白い金」はこのサールリヴィス川を伝って遠く北パトリアまで運ばれ、辺境に暮らす人々にも冬の塩漬け肉という恩恵を行き渡らせている。
 橋の上から馴染みの光景を見下ろすのがティルダは好きだった。マルゴー公は貧乏すぎて民の血と肉――傭兵を輸出するしか道がないと、嘲笑うパトリア貴族に心の余裕を持てるから。
 我々とていつまでも貧しいままではない。アルタルーペの山々には多くの宝が眠っている。街を潤す岩塩を見ているとそんな自信が湧いてくる。今はまだ辛抱のとき、困難は続くとも必ず未来は拓けるはずだと。
「昨夜は随分遅くまで公爵と話し込んでおいだったようですね。アクアレイア人が来ていたと耳にしましたが、本当でしょうか?」
 と、背後で響いた騎士の声に振り返り、ティルダは「ええ」と頷いた。折角少し晴れていた心が曇る。山と海とで堅固な協力体制を築き、これからもっと支え合えるはずだった隣国の名前を耳にして。昨日受けた報告は、予測されていたことではあったが、やはり衝撃が大きかった。
「マーロン、こちらへいらっしゃい」
 赤茶けた長い髪の直属騎士を手招きする。向かった先は石橋の中央、入市税を徴収するための監視塔だ。昔から内緒話をするときはここでと決めていた。弟がアクアレイアの王女を匿っていること、通行人に聞き咎められるわけにはいかない。
「おお、これはティルダ様」
「また城から下りてこられたのですか? 相変わらずのご健脚でございますね」
「だってここから眺めるサールが一番美しいのだもの。少し上がらせてもらうわよ」
「どうぞどうぞ、ごゆるりと!」
 気の知れた番兵のたむろする一階以外、石塔の屋内に人影はない。いつもの散歩コースと偽って四階分の階段を上がり、強い風の吹く頂上へと歩み出る。マーロンは行儀良く口を閉ざして一歩後ろをついてきていた。

「お亡くなりになられたのはイーグレット陛下だけだったそうよ」

 静かな声でティルダが告げると騎士はごくりと息を飲んだ。
「だけ、ですか。それでは王女の代役は……」
「カーリス兵に生け捕りにされたと聞いたわ。ジーアンの若い将に献上されることになりそうだと」
「…………」
 残念ね、と溜め息をつく。弟夫婦やマルゴーには最悪な形になってしまった。もし王女が偽者だと露見すれば本物の居所も間を置かず知られてしまうだろう。そうなればジーアン軍が国境に踏み込んでくる可能性も出てくる。ティルダも父も公式には「ルディア姫が来たという事実はない」で押し通すつもりだが。
「どうなさるのです?」
 部下の問いにティルダはきっぱりと答える。
「どうもこうもないでしょう。ルディア姫にはなるべく早くマルゴー人の養女になっていただくわ。出自にこだわっている場合ではないと、ようやく彼女もわかってくれたみたい。つまり当初の予定通りよ」
 王女としての人生を諦め、別人として生きるなら援助の用意はできるということ。それは彼女がサール宮に逃げてきた翌日には伝えてあった。ルディアを保護しても公国には百害あって一利なしだと大臣たちは反発したが、可愛い弟の愛する妻を無下にはできない。行くあてもない女性を宮殿から叩き出すなどもってのほかだ。
「彼女にはお付きの者たちと一旦余所の街へ移ってもらおうと思うの。そこでマルゴー人としての経歴を作り、一年後にどこかの貴族に拾わせるわ。チャドもこの案に乗り気でいるから十日もあれば準備は整うでしょう」
「な、なるほど。では私は、その護送に立ち会えばいいわけで?」
 どことなく自信なさげなマーロンの念押しにティルダはにこりと微笑んだ。「あなたも賢くなってきたわね」と褒めてやれば男は頬を薄赤く染める。
「私としても悲しいのよ? 祖国に危機を招くと承知で守ろうとした姫君が、賊に襲われて死んでしまうなんて」
 ここまで言えばこの鈍い男でも求められている役回りを確信できるだろう。今回誰がその賊に扮するのか。
 アクアレイアと、何より己の身内であるチャドを刺激しないために、宮殿内でルディアを始末することはできなかった。あくまでも防げなかった不運な死に見せかける必要がある。こちらとしても最善は尽くしたのだと穏便に遺体に帰国してもらうために。
(今マルゴーはとても大切な時期だもの。ジーアンとの休戦協定はどんな犠牲を払ってでも維持しなくてはならないわ)
 岩塩窟はまだしも、銀山を隠し持っていることに勘付かれてはおしまいだ。天帝は間違いなくアルタルーペを攻略しようと取り組むだろう。仮にかの地を奪われれば、公国の悲願、パトリア古王国からの独立は彼方に遠のいてしまう。
(ごめんなさい。恨むなら死にきれなかった自分の身代わりを恨んでね)
 胸中でティルダは可憐な義妹に詫びた。代役がアクアレイアの姫として立派に死んでさえいれば、このままルディアの面倒を見てやろうと考えていたのは本当だ。運命がそれを許してくれず、残念で仕方ない。
「マーロン、わかってくれてはいるでしょうけれど、こんなことを頼めるのはあなただけよ。きっと上手くやってちょうだい」
「は、はい。もちろんです」
 外からは見えない胸壁の陰で直属騎士の手を取った。あなただけとの言葉に舞い上がったのか、マーロンはぎゅっと掌に力をこめてくる。
 もっと何かとねだるような視線は無視して半歩退いた。さりげなく腕を離し、夢とうつつの区別もつかない男と距離を置く。
「こういうことは確実に行わなくてはいけないわ。あなたを信じているけれど、手慣れた人間を側につけるのを嫌がらないでくれるかしら?」
「……!」
 プライドを傷つけられ、従順な犬はたちまち表情を険しくした。それを見てティルダはすぐさま取り繕う。
「マーロン、聞いて。本来あなたはこんな汚れ仕事に関わってはならない人間でしょう? 私にはそれがとても心苦しいの。あなたが手出しせずに済むならほっとするくらいよ。あなたに備わった実力は、他の誰より一番私がわかっているわ」
 鳶色の双眸をじっと見つめ、「本当よ」と必死に聞かせる。マーロンは悔しげに「ですがあなたはそうやって、いつもいつもあいつに手柄を立てさせるではありませんか」と吐き捨てた。
「……ああ、マーロン、ごめんなさいね。あなたがそんなに思い詰めていただなんて。何もかもあなたのために取り計らったのに、余計なお世話だったのね? 私あなたに嫌われてしまった?」
 適当な言葉を紡ぎ、話を別の方向に捻じ曲げる。ティルダが本気で悲しんでいると勘違いしてマーロンは酷くうろたえた。
「そ、そんなことは有り得ません! 馬鹿なことを言って、私のほうこそ申し訳ありませんでした。私は一切のご命令を敬愛するあなたの望む通りにいたします!」
 恭しく男は跪く。手の甲に口づけを受け、ティルダは「ありがとう」と微笑した。
「懸念事項が取り払われた暁には、私の部屋で一緒に絵画でも楽しみましょう。新しく手に入れたものの中にコナーの描いた風景画もあるのよ」
「えっ!? ティルダ様のお部屋に……!?」
 あまりに簡単に食いついてくるので愉快な反面不安になる。もう少し切れるタイプならもっと重宝するのだが。まあきっと、この程度の男だから手の上で転がせているのだろう。噛みつかれるよりはよっぽどましだ。
 気づかれないように嘆息し、ティルダはサールの白い街並みと城塞の背負う山並みを見つめた。鋭く波打つアルタルーペの高峰は西に東にどこまでも雄々しい腕を広げている。
(手元にもっといい犬がいればね)
 大それたことは望まずに、余計な口も叩かない、賢く強く忠実な。マルゴーの役に立ってくれるなら余所者だってロマだって構いはしないものを。
 だがあるものだけで凌がねばならないのはどこの国とて同じ話だ。可哀想な隣国と同じ轍を踏まぬよう、己も心を鬼にして茨の道を歩んでいこう。

 ――運べ、運べ、サールは白い金の街。
 ――運べ、運べ、サールは塩の集う街。

 平和な川面の風景をもう一度目に焼きつけて、ティルダは塔の頂上を去った。




 ******




 激流うねる深く切れ落ちた峻厳な渓谷。その灰色の断崖に架けられた石橋を見上げ、カロは薄く瞼を伏せた。
 子供の頃ここを通ったとき、橋はまだ建設中だった。峠を越えるには歩いて川を渡るしかなく、冷たい水に凍えたのを思い出す。旅の商人から年寄り馬を買ったことも、その馬を売り損なって危うく捕まりかけたことも、まるで昨日の出来事のようだ。
 カロは真新しい橋のたもとに目をやった。こういう便利なものの側には大抵どこかの兵がいて、通行料をせしめようとしてくる。ご多分に漏れずそこには偉そうなパトリア兵がいた。
 いくら安全でも歩くだけで金を取られるなど馬鹿らしいことこのうえない。しかもこちらは大した荷物も背負っていないのにだ。天高い橋には向かわず、膝まくりしてカロは川に足を浸した。
 春の初め、雪解けで増した水嵩、あの日と全く同じである。違うのはたった一人でここにいるということだけだ。
 幼かった自分はなかなか水を分けて前に進めなかった。疲れ果てて、最後はイーグレットに引き上げてもらったのだ。
 太腿までぐっしょり濡らした記憶があるのに今は飛沫もせいぜい膝までしか跳ねなかった。難なく川の中ほどまでやって来て、己の成長を実感する。
 皮肉なものだ。無力だった子供時代よりできることは増えたのに、子供の頃よりもっと強烈に救いの手を望んでいる。いなくなってしまった友人を。
(また一人に戻っただけだろう? それにあいつとは離れていた時間のほうが長かったじゃないか)
 轟々と鳴る水音は独白を掻き消した。村人に捕まったって今度は自分で切り抜けられる。そもそも手品の種を見抜かれるようなへまなどしない。強がれば強がるほど過去の幻影が鮮明に胸に迫ってくる。
 何故この峠を越えようと思ったのだろう。今また昔と同じ道を辿ろうとしているのだろう。イェンスのもとへ行き、イーグレットの死を伝え、ルディアを探す手伝いをしてほしいと頼むのに他のルートはいくらだってあったのに。
(期待しているのか? どこかにあいつのほんの一部でも残っていやしないかと)
 愚かしい考えだ。人間は死んでしまえばそれでおしまいだ。ロマも、そしてアクアレイア人も。
(……イーグレット……)
 痛いほど冷たい水の中で立ち尽くす。無意識に口ずさんでいたのは望郷の歌だった。うんと昔、ジェレムが歌うのを盗み聞きした。
 定住地を持たないロマにとって、この歌は墓の代わりなのだという。天空に放たれたロマの魂は、同胞の歌声が響く間だけ地上に戻ってくるのだと。
 そう話したら少年時代のイーグレットは「へえ、アクアレイア人やパトリア人の魂は地底深くにあるという冥府へ行くのだよ」と教えてくれた。「だが私はこんな姿だし、きっと月の女神に拾われて夜の国にでも行くのだろうね」と。
 歌っても届いていないかもしれない。届いていても最後までは歌えないから、なんの慰めにもならないだろう。けれど他にできることもない。
 イェンスに会えば一緒に悲しんでくれるだろうか。そうしたら、心臓を焼き切ろうとする怒りも少しは和らぐだろうか。
 何度考えてもカロにはイーグレットが死ぬべきだったと思えなかった。王国のために彼を殺めたルディアが許せなかった。
 血だまりに伏した友人を見たとき、自分の半分も一緒に死んだのだと思う。残された虚ろな闇に燃える炎があの女を焼けと言っていた。心を静める方法があるとすればそれだけだと。
 途中までしか知らない歌をやめ、カロはポケットに手を入れた。モリスの家でくすねてきた瓶の感触を確かめる。入っているのは海水に漂う脳蟲だった。これさえあればルディアに復讐を果たした後もブルーノを生かしておける。
(次に会ったら必ず殺す)
 父親よりも名誉なんかを選んだ女だ。一時でもあれを仲間と信じた己が馬鹿だった。最初から一人でイーグレットを宮殿から連れだしていれば、きっと今でも彼は隣で笑っていたのに。
(結局俺は最後まであいつに何も返せなかった)
 悔恨に唇を噛む。すまないと詫びるべき相手はもういない。
 と、そのとき、何者かの視線を感じてカロはハッと顔を上げた。誰だろうと訝りながらきょろきょろ周囲を確認する。だが他に渡河する旅人の姿はない。橋の上に鎧の兵士がいるだけだ。
「……?」
 気のせいか、とまた前方に目を戻す。そしてすぐ眼前にいるはずのない人間を見つけて息を飲んだ。
「――」
 イーグレット。わななく声が喉をつく。
 岸辺の大きな岩の上から身を乗り出すのは在りし日の友人に間違いなかった。「凄まないでくれるかな」とためらいがちに助力してくれた、あのときと同じ格好でイーグレットがその手を差し伸べてくれている。
 あまりはっきりした幻影にカロがうろたえ固まっていると、暗い色のフードを被った少年はスッと後ろに引っ込んだ。たちまち姿が見えなくなり、今度は焦って張り出した巨岩をよじ登る。
「イーグレット!」
 名を呼べば友人は道の先で振り返った。こちらを見つめて笑っている。薄い唇が音もなく「行こう」と囁きかけてくる。
 後を追うのに理由が必要だっただろうか。
 白昼夢でも見ているのか、頭がおかしくなったのか、或いは本物の魂なのか、答えを探ることもできぬままカロは峠道を駆けていった。









(20160403)