理解も打開もしがたい状況に直面すると人間は呼吸の仕方を忘れるらしい。小さく冷たい赤子の手首を掴んだまま、モモは呆然とコーネリアの悲痛な声を聞いていた。
 乳母の話では昨夜のアウローラは非常に大人しく、熱があったとか咳が出ていたとか死を思わせる兆候は全く見られなかったそうだ。身体のどこにも外傷はなく、口に含ませたものも普段通り母乳だけだったと。
「本当にわからないんです。どうして、どうしてこんなことに……」
 長持の蓋は取り外されて部屋の片隅に置かれていた。ただの一度も箱には蓋をしなかったそうなので、簡易ベッドが原因の窒息ではないだろう。
 せめてもう数時間早く気がついていれば。取り戻せない体温にモモはぐっと唇を噛んだ。

「先生、ルースさん、こっちだ! 早く!」

 と、そのときドブの声がして階下がにわかに騒がしくなった。どうやら気のきく少年がコナーとルースを呼びに走ってくれたらしい。三人はただちに二階へ上がってきた。そしてモモと同じように、事切れた赤ん坊を眼前にして息を飲んだ。
「…………」
 最初に膝をついたのはコナーだ。医学にも長けた天才画家は反応のない瞳孔と頸動脈を確かめて静かに首を横に振った。望みが断たれたことを悟り、端整なルースの顔が苦く歪む。
「……ドブ、悪いがもうひとっ走りしてくれるか? 下の集落に来てる使者のマーロンって奴をここに案内してきてほしい」
 副団長の命令に少年は戸惑いつつも頷いた。駆け去る足音が遠く聞こえなくなると室内には重い沈黙が訪れる。
 あまりにも唐突で、あまりにも受け入れがたい現実だった。昨日まで順調に事を運んでいただけに。
「元気をお出し。乳飲み子にはたった一年生き延びるのだって難しいものだ」
 へたり込んだままの妹の肩に手をやってコナーが慰めを口にする。そんなとコーネリアは泣き崩れた。
 少しの不注意や不運な事故、或いは病気で命を落とす子供は多い。めでたく七つの誕生日を迎えられる者は全体の半分だ。そんなことはモモだって知っている。だが知っていても納得はできなかった。
 ――だってルディアに頼まれたのだ。自分から進んで引き受けた護衛なのだ。それなのに。
「ねえ先生、なんとかならないの? 世の中にはお墓の中から甦った人もいるんでしょ?」
 藁にもすがる思いで問う。ぐいぐい袖を引っ張るモモにコナーは「いやいや」とかぶりを振った。
「私からもお願いします、お兄様。後生ですからどうか知恵をお授けください」
 反対側ではコーネリアがひれ伏した。赤子を救おうと必死な妹を画家は冷静にたしなめめる。
「コーネリア、顔を上げなさい。お前に土下座されたところで打てる手はないよ」
「ですが、ですがお兄様!」
「愛する夫の忘れ形見に先立たれてつらいのはわかる。しかしね……」
「違うんです! 亡くなられたのはアクアレイア王家の、ルディア姫のご息女なのです! ファーマー家が、私が乳母を任されたのに……っ」
 姪だと説明されていた乳児の正体にコナーはえっと瞠目した。「本当かい?」と振り返って尋ねられ、モモは神妙な面持ちで頷く。
 こんなことになるのなら初めに話しておくべきだった。事情を把握してさえいればコナーだってもっと注意深く見ていてくれたかもしれないのに。
「先生、本当にどうにもならない? アウローラ姫はもう駄目なの?」
 泣きつくしかない自分が情けなかった。他のことならさっさと諦めて気分を切り替えようとも思えるが、己の背中できゃっきゃと喜んでいたアウローラ、それにルディアやチャド夫妻のことを考えると。
「……そうか、私がバオゾにいる間にご出産されていたのだね」
 コナーはうーんと人差し指を唇に引っかけて考え込む。王女と聞いてよく見るつもりになったのか、画家は再び長持の前に膝をつき、高貴な骸を検めた。
「おそらく寝返りを打ってうつ伏せになり、呼吸ができなくなってしまったんだろう。死因は乳母の監督不足だよ、コーネリア」
 厳しい言葉にコーネリアが顔色を失くす。そんな彼女を擁護したのはルースだった。
「けど先生、ここまで来るのに彼女は疲れきってたんだぜ? そんな責任全部押しつけるようなこと言わなくたってさあ」
 遺体に注がれたコナーの眼差しは副団長や妹を一顧だにしない。長い嘆息を吐き出して画家は大仰に呟いた。つくづくこの王家とは他人になりきれないな、と。
「本来こういうことは私の主義に反しているのだがね、一度だけ手を貸そう。どうやら我がファーマー家の失態らしいし、アクアレイア史の完成前に王家に途絶えられても困る。幸いただの窒息死のようだから、私の秘薬が効くだろう」
 そう言うや否やコナーは旅装の懐から小さなガラス瓶を取り出した。容器に満ちたその透明な液体に、モモは驚いて息を飲む。
「ま、待って!」
 思わず画家の腕を制した。
「それってアクアレイアの海水じゃないの?」
 危惧するモモにコナーは「おや」と意外そうに笑う。
「やめて、その方法じゃアウローラ姫が別人になっちゃう」
「君はあの蟲についてよく知っているようだね。でもこれは王国湾に棲む彼らとは似て非なる別物だ。精神を塗り替えるものでもないよ」
「えっ?」
 戸惑う間に画家は瓶のコルクを外した。白い手袋の指先が得体の知れぬ赤い丸薬をぽとりと落とす。すると丸薬は泡を出し、たちまち溶けてなくなった。
(あ、あれ!? 脳蟲じゃないの?)
 モモは面食らってコナーを見上げる。だが画家は、蟲とは別だと言いながらまるで蟲入りの海水を扱うように王女の耳にその薬液を流し込んだ。
「…………」
 変化はしばらく現れなかった。五分過ぎたか、十分過ぎたか、あまりに何も起こらないので失敗だったかと落胆するほど。
 それでも辛抱強く待つ。もはや凡人には他にできることがなくなっていた。
「お、お兄様……」
 両目を涙でいっぱいにしてコーネリアがコナーを窺う。乳飲み子の胸に手を押し当てていた画家が事もなげに「動いたね」と告げたのはそのすぐ後だった。
「ええっ!?」
「動いたって心臓が!?」
 傍らのモモを突き飛ばす勢いで乳母と副団長は長持の中を覗き込む。二人の隙間から固唾を飲んで見守っていると、徐々にアウローラの頬に赤みが差してくるのがわかった。
「す、すげえ。一体何がどうなってやがる!?」
「お兄様! お兄様、ありがとうございます!」
 目を剥いてルースは驚き、コーネリアは何度もペコペコ頭を下げる。稀代の天才は称賛や感謝になど一片の興味も示さずに背後のモモを振り返った。
「アウローラ姫とやらはサール宮で匿ってもらう予定だったのかね?」
「う、うん。王都やコリフォ島よりはいくらか安全だろうから」
「だがいくらマルゴー公爵の孫娘でも鼻つまみ者扱いされるのは避けられまい。私がこのまま王女を預かろう。薬の補充にも行きたいし、傭兵団からはここで離れさせてもらうよ」
 突然の申し出にモモはえっと狼狽した。王女を預かると言われても、サールでチャドとブルーノが待っているのだが。しかも今すぐ傭兵団を離脱するとは。
「偽名でいくつか家を持っている。安全性という意味でならそちらのほうが君たちにとっても上策なのでは?」
 コナーの発言には一理あった。確かにマルゴー公国の大多数の人間にとってアクアレイア王家は招かれざる客人でしかない。なら同国人のコナーに任せてしまったほうがいい。
「…………」
 逡巡ののち、モモは「わかった」と頷いた。予定外の行動にはなってしまうが大切なのは手段ではなく目的だ。今はアウローラをより良い環境で守ることを考えなければ。命令に忠実なだけでは優れた兵士とは言えない。
「アウローラ姫に会いたいときはどこへ行けばいいの?」
「それは秘密にさせてもらおうかな。落ち着いたら私からアクアレイア政府に連絡するよ」
 コナーはすうすうと寝息を立て始めた赤ん坊を抱き上げた。すぐにも去っていきそうな兄の背にコーネリアが慌てて飛びつく。
「あの、お兄様、私も乳母として一緒に」
「結構だ。お前の助けは必要ない。この先は防衛隊や傭兵団の邪魔にならないように努めなさい」
 血の繋がった兄妹にしてはコナーの態度は冷淡だった。本人の中では淡白の範疇なのかもしれないが、拒絶されて立ち尽くすコーネリアを見ていると少々不憫を催してくる。
「モモ君、一つだけ頼まれてくれるかね?」
「えっ? あ、うん! 何?」
「本当は自分で渡すつもりだったんだが、これを」
 コナーがモモに託してきたのは片方だけのパトリア石のピアスだった。「?」と首を傾げていると画家は「アニーク皇女からの預かり物なんだ」と説明してくれる。
「赤色の花を添えて君の兄上に差し上げてくれるかい? 世話になったお礼だそうだから、物は煮るなり焼くなり隊長殿のご自由に」
「うん、わかった。アニーク皇女からだね。モモも先生にこれお願いしていい?」
 ピアスを引き受ける代わりにモモは中指に嵌めた大きな指輪を取り外した。ウォード家――母の実家の鷹紋が彫り込まれた由緒正しい家宝である。
「ちゃんとまた会えるように、会ったときアウローラ姫だってわかるように、なくさないでね」
「なるほど。肌身離さず持たせておこう」
 コナーの腕に抱かれた王女に手を伸ばす。恐ろしいほどの冷たさは消え失せ、今は生き物らしい温もりが触れた指先から伝わった。規則正しく脈打つ鼓動、健やかな息遣いに胸を撫で下ろす。
 モモはじっと目を凝らし、ルディアとよく似た海色の髪、海色の双眸を記憶に焼きつけた。もしコナーに何かあっても必ず自分が王女を迎えにいけるように。ルディアの命令を守れるように。
「では失礼!」
 漆黒の外套に赤子を隠し、コナーは颯爽と階段を下りていく。
 画家が民家を後にして間もなくのことだった。ドブが例の尊大な使者を連れ、慎ましい民家に戻ってきたのは。

「アウローラ姫が亡くなられたと聞いたのだが? ご遺体はどちらだね?」

 無思慮にもほどがある問いにモモは思わず「は?」と男を睨みかけた。口を開くなり勝手に王女の名前を出され、腹が立ったのもあるけれど、それ以上にマーロンがにやつきながら尋ねてきたのが理解不能だったのだ。
(何こいつ。何がそんなに嬉しいの?)
「一応使者として王女の死亡を確認せねばならんからな。ほら、隠していないで早く見せろ」
 いちいち癇に障る物言いで男は偉そうに要求する。急かされたコーネリアが「あ、あの、アウローラ様は」と先刻の治療について話そうとしたのに横からルースが割って入った。
「姫君ならついさっき内密に埋葬しました。完全に冷たくなっていたし、夜の間に息を引き取られたんだと思います。俺たちの力不足で……王子には本当に申し訳ありません」
 副団長はしれっと嘘を報告する。宮殿に連れていけないなら死亡したと押し通すほうがいい。そう判断し、モモも詳細は伏せておくことにする。目配せし合うルースとモモにまったく気づかずマーロンは「ふふん」とほくそ笑んだ。
「残念だったな。しかしこれでティルダ様を悩ませる厄介事は一つ減ったわけだ。いやあ、良かった良かった」
 不幸を喜ぶ人間性にまた血管が切れそうになった。怒りのあまり「こいつがアウローラ姫に何かしたんじゃないの!?」と疑う気持ちまで芽生え、モモはハッと息を飲む。
 そうだ。考えてみればそういう可能性もゼロではないのだ。
「訃報は殿下たちにお伝えしておくよ。急ぐ必要もなくなっただろうし、お前たちはゆっくりサールを目指すがいい。では次は宮殿でお会いしよう」
 使者は形だけの挨拶をして悠然と踵を返した。去り際に嘲りをこめた冷笑を浮かべるのも忘れずに。
「……ほんっと鬱陶しい男だぜ……」
 憎々しげにルースが唾を吐き捨てる。マーロンの馬が表から走り去るとモモはすぐコーネリアに問いかけた。
「コーネリアさん、昨夜この家に誰か来なかった? モモとドブ以外の誰か」
 例えばさっきのあの男とか、と補足したくなるのを堪えて返答を待つ。乳母は死体じみた血の気のなさで「わかりません」と身を震わせた。
「昨夜は完全に寝入ってしまって……。本当に申し訳ありませんでした。私のせいでアウローラ様を危険な目に……!」
 心底気落ちした様子で詫びるコーネリアにモモは「ううん」と首を横に振る。怠慢だったのは寧ろ自分だ。野宿より安全だからと気を抜いてしまった。彼女だけが気に病むことではない。
(そうだよね。雨の音もすごかったし、足音がしたって気づかなかったよね。玄関にはモモがいて、階段にはドブがいて……。誰かが入ってこれたとしたら二階のこの窓からだろうけど、それはさすがにコーネリアさんが気配で起きただろうしなあ)
 考えすぎかと嘆息する。それでも使者への不信感は拭いきれなかったが。
「あ、あのさ、あの赤ん坊ってマジでアクアレイアのお姫様だったの?」
 と、真っ青なドブが尋ねてくる。「うん、実は……」と頷くと少年はますます青ざめた。
「ちょっ、そ、それってまずくねえ? 俺たちチャド王子にお手打ちにされるんじゃ」
「お前は知らなかったんだから気にすんなよ。今聞いたこともさっさと忘れな。多分あの画家先生のおかげでどうにかなったから」
 ルースがぼかしつつドブに言い聞かせる。コナーの名前を耳にして、モモの頭に「蟲とは似て非なる別物だ」という先刻の言葉が甦った。
 精神を塗り替えるものではない。そう言っていたがあれはどういう意味なのだろう。怪しげな丸薬の他には脳蟲との相違も判別できなかった。
(もし生き返ったのがアウローラ姫の身体だけだったら……)
 自分の想像にぞっとする。そのときは本当に、ルディアに詫びる言葉もない。
 今更ながらモモは肝心なことを聞き逃したと後悔した。冷静でなかったとはいえ、明らかにしておかなければならなかったのだ。アウローラが以前と同じアウローラであり続けるのか否か。
(コーネリアさんは先生の秘薬のこと、知ってそうな感じしないしなあ)
 挽回の機会さえ失って、落胆した乳母は固く唇を結んだままでいる。よもや一人でアクアレイアに帰すわけにもいかないし、仕事はなくともサール宮まで道連れになってもらわねばなるまい。
「……とりあえず当初の予定通り、二、三日休養を取って出発にするよ。彼女には俺がついてるから、お嬢ちゃんもゆっくり休みな」
 コーネリアの肩を支えながらルースが言う。自他ともに遊び人と認める男に乳母を任せるのは心配だが、コーネリアのほうは剣士の優しさに胸を打たれたようだった。
 護衛の対象でなくなった相手にモモもああしろこうしろとは言えない。彼女が嫌でないならと口は挟まないことにする。安易に男に慰められるのもどうかとは思ったが。


 首都サールの土を踏んだのはそれから一週間後、三月八日の昼下がりだった。アルタルーペの裾野に位置する白塗りの街は堅牢な門を開き、帰還した同胞と異邦人とを迎え入れる。
 一刻も早く兄とブルーノにアウローラがどうなったかを伝えねばならない。モモは急ぎ、小山の頂に立つ宮殿に向かった。同じ頃、ルディアとレイモンドを乗せた船がトリナクリア島に流れ着いたことはまだ知る由もないままに。




 ******




 風に流され、沖をさすらうこと数日、コリフォ島を脱した漁船は椰子の茂るトリナクリアの静かな岬に引っかかった。
 思ったよりいい場所に着いたなとレイモンドは幸運に感謝する。旅券もないし、下手に港入りして役人に見咎められたらどうしようと危ぶんでいたのだ。この人工物が何もない砂浜でならひとまず尋問の心配はあるまい。
 船を降り、レイモンドは改めて周囲の光景を見渡した。どこまでも続く白いビーチ、青く美しい空と海。振り返れば森の彼方には黒々とごつい岩肌を見せつける大火山がそびえていて、頂から細い煙を吐き出している。海岸沿いには太い街道が通っていた。だが付近に人家は見当たらず、集落と集落の間であるのが推測できる。アクアレイアならまだ凍える日もある三月なのに、浜辺には南国らしい陽気が満ちており、潮風ももう暖かかった。
(うーん、東の岸のどっかってくらいしかわかんねーなあ)
 まあいいか、とレイモンドは現在地の特定を断念する。トリナクリアは三角形の極めて単純な形の島だ。適当に歩いていても迷うことはないだろう。
「これからどこへ向かうんだ?」
 問われて後ろを振り向くとルディアも砂浜に立っていた。血の落ちなかったマントは捨て、拾えなかったレイピアも鞘が揺れるだけになっている。動揺を押し隠しつつレイモンドは目的地を答えた。
「北西にあるリマニって港町。引っ越してなきゃそこに知り合いが住んでると思うんだ」
 そうかと頷くルディアは至って冷静だ。しかし「お前の人脈は本当にどこにでも伸びているな」と続いた呟きにいつもの彼女の覇気はなかった。
「二年前にイオナーヴァ島で仲良くなったおっさんでさ。ええと、グレッグが詐欺に引っかかって大変だったとき、商業区仕切ってるヤクザみてーな爺さんが出てきたろ? 俺、前にあの人が暴漢に襲われてるのを助けたことがあって。んでそんとき『お礼がしたいから是非うちで食事でも』って誘われてさ」
「ああ、なるほど。そこで他の招待客とも懇意になったわけか」
「うん。オリヤンってちょっと変わった名前してるんだ。なんでかわかんねーけど俺のことめちゃくちゃ気にかけてくれてっし、力貸してくれると思う」
 オリヤンは背が高く、両瞼に道化師のする化粧に似たふざけた傷痕があったから会えばすぐにわかるだろう。問題は彼のもとまでどうやって辿り着くかである。陸路での旅支度はほとんどしてきていないのだ。
「リマニで態勢を整えたら次はどうにかサール宮へ行く方法を考えなければな」
 ルディアはいずれアルフレッドたちマルゴー組と合流するつもりであるのを告げた。
 先を見据えた発言にレイモンドは秘かにほっとする。ここまで一度もやけを起こしていないのもそれはそれで気がかりだったが。

「父ちゃん、見てよ! 難破船だよー!」

 と、出し抜けに子供のパトリア語が響いた。振り返ればすぐ側の街道に馬車を引いた親子連れが立っている。父も娘もずんぐりしていて、骨ばった四角い顔と太い眉毛がそっくりだった。娘は十二、三歳くらいだろうか。女にしては逞しい腕を包帯で吊っている。勝気そうな少女と違い、父親のほうはこちらの背負う槍に気づいてヒッと後ずさった。
「あ、すんませーん。ちょっとお尋ねしたいんすけど、ここってトリナクリア島のどの辺りなんすかねー?」
 ちょうどいいやと声をかける。とにかくこれで現在地くらいはハッキリするはずだ。
「お、おたくら遭難者か? ……その髪色、もしかしてジーアン軍に追われて逃げてきたアクアレイア人なんじゃ」
 じろじろとルディアの青い髪に目をやりながら男が問うた。当たり前のように「あんたは逃げる手助けをした異国人か」と断定されてレイモンドはハハと内心苦笑いする。
 こういうとき自分は出身地を当ててもらえたためしがない。アクアレイア人の集団にいても部外者だと誤解される。慣れたと言えばもう慣れたが、やはり少々切ないものだ。
(けど今はアクアレイア人だって思われないほうがいいよなあ。あからさまに身ひとつで飛び出してきましたって感じだし、気をつけねーと足元見られるぞ)
 警戒心はおくびにも出さず「うん、俺たちリマニまで行きてーんだ。ここってまだかなり南東だよな?」と話を戻した。男はすぐに逃げられる距離を保ちつつ一番近い街の名前を教えてくれる。
「うーん、やっぱりか。こりゃ着くまで苦労しそうだぜ」
「そんなに遠いのか?」
「ああ、聞いた話じゃ東から西まで徒歩だと半月以上かかるって。内陸を突っ切るにしろ山道だからなあ」
 レイモンドはふうと息を吐く。気候はともかく心配なのは金と食料だった。パンはまだ船にいくらか残っているものの、そう何日ももつ量ではない。いざとなったら物乞いのフリをして日々の糧を得ることになるかもしれない。どうしたものかと頭を悩ませるレイモンドに意外なお呼びがかかったのはそのときだった。
「へえー、奇遇だね! あたしらもリマニへ向かってるところなんだよ。ねえ、良かったらあんたたち一緒に来ない? 怪我しちゃってから人形芝居が上手くできなくて困ってたんだ」
 折れているらしい腕を指差してにっこりと娘が誘う。隣の父親は「ば、馬鹿! 何言ってんだ!」と叫んでいたが、少女は気骨のある口ぶりで「いいじゃない。若くて体力もありそうだし、アクアレイア人は契約さえきちんと交わせば律儀に守り通すって聞くよ?」と一蹴した。
「け、けどよマヤ、こんな素性も知れねえ人間を」
「ああやだやだ、これだから肝っ玉の小さい男は! じゃあ父ちゃん、あんたあたしの怪我が治るまで一人で一座を切り盛りしていくつもりなの!?」
「いや、それは……」
 マヤとかいう娘の弁に圧倒され、男はもごもご口ごもる。「リマニなら向こうに着く頃ちょうどあたしも全快するじゃない! そこまで無収入でどうやって暮らしていくわけ!?」との説得には反論もできない有り様だった。
 急展開にレイモンドはルディアと顔を見合わせる。するとマヤはぺらぺらと親子の事情を話し始めた。
「あたしら家族で見せ物しながら島を回って暮らしてるんだ。でも色々あって二人きりになっちまってさ。手伝ってくれるなら特別価格で仲間にしてあげるよ! どうせ旅券持ってないんだろ? 街に入れなきゃ困るんじゃない?」
「か、金取るのかよ!」
 こっちは着の身着のままなんだぞと頬が引きつる。だがそれを差し引いても美味い話には違いなかった。遠い港町までは顔見知りの一人もいないのだから。
「ど、どうする?」
 ルディアに問うと「いいんじゃないか」と返ってくる。彼女のほうは平然としたものだ。
「他に選択の余地もない。とりあえず先払いできる分として船の積荷を渡してやれ。元々それが目当てで近づいてきたのだろうしな」
 下心を言い当てられて娘はへへっと舌を出した。無作法に気分を害した風もなくルディアは親子に右手を差し出す。
「しばらく世話になる。私はブルーノ、こっちはレイモンドだ。よろしく頼む」
「お、おうよ。俺はタイラー、この生意気娘はマヤってんだ」
 握手を交わす彼女の横でレイモンドも「よろしく」と頭を下げた。ちらりとルディアの横顔を盗み見てみるが、やはり取り乱した様子はない。
(大丈夫……じゃねーよなあ)
 あんなことがあった後に大丈夫なわけがなかった。平然と振る舞うために、彼女がどれほど深い悲嘆に耐えているか、考えるとつらくなる。泣いてくれたら、喚いてくれたら、巡り合わせが悪かったのはあんたのせいじゃないだろうと言ってやれるのに。
「わあ! 父ちゃん、葡萄酒があるよ! パンもカチカチで長持ちしそうだ!」
 早速漁船を物色し始めたマヤのはしゃぎ声が響く。よりにもよって父と娘の二人旅に遭遇しなくてもなと嘆息した。
 ――もう二度と、俺はお前をあいつの娘とは認めない……!
 血を吐くようなロマの叫びを思い出す。決別の言葉は耳の奥にこびりついていた。
 カロはルディアを殺すと言った。会えばきっと戦いになる。できるなら刃は収めてほしいけれど。
(サールに着くまで俺がしっかり守らねーと……)
 遠い島国で、幼馴染たちは誰一人いないのだ。今のルディアには自分しか。
 背中の槍の重みを感じ、レイモンドは口元を引き締めた。




 ******




「――というわけでね。アウローラ姫はコナー先生と一緒なの」
 思いもよらぬ顛末を耳にしてブルーノはぽかんと目を丸くした。先日使者に聞かされた悲報と内容が違いすぎる。小さな王女は山越えに身体がもたず死亡したのではなかったのか。
「えっ、えっ、ででで、でも、一度死んだのは確かなんだよね……?」
「うん。先生が看るまではピクリとも動かなかったよ」
「死後数時間は経過していたということか?」
「冷えきってたし、そうだと思う」
 傭兵団は後発組もサール宮に到着し、ブルーノはアルフレッドと一緒にモモからの報告を受けていた。腹を痛めて生んだ子供が生きていてくれて嬉しいが、困惑は更に大きい。コナーがアウローラに処置したという謎の液体。どうしてもそれが引っかかって。
(脳蟲じゃないって言われても、死体が息を吹き返すなんてどう考えても脳蟲じゃないか)
 額にじわりと汗が滲む。コナーは別物と明言していたそうだけれど、経過が似すぎていてにわかには信じがたかった。娘まで自分と同じ生き物になったと知ったらルディアは――。
「とにかく」
 きっぱりと声を響かせたのはアルフレッドだ。趣味の良い調度品に囲まれた部屋の片隅で、薬屋の長男らしく彼は言う。
「どういう理屈でアウローラ姫が再び生気を取り戻したのか、悩んだところで俺たちにはわからないんだ。憶測で悪く取るのはやめておこう」
「う、うん」
 現実的な助言に頷く。確かにこの件に関してはブルーノがいくら気を揉んでも仕方なかった。知りたいことを知っているのはコナーだけなのだ。
「そうだね、モモもそう思う。でももう一つ憶測で悪いんだけど、どうしてもモヤモヤするから言っていい?」
 と、モモが別の懸案事項を話し始める。アルタルーペの山中で、彼女は彼女なりに不自然だったアウローラの死について考えたようだった。
「赤ちゃんが寝てる間にうつ伏せになるなんてあの日が初めてだったんだよね。それに使者の態度も不遜すぎたし。大きな声じゃ言えないけど、モモはもしかして何かされたかもしれないなって疑ってる。少なくともあの一晩は、モモとルースとコーネリアさん以外にもアクアレイアの王女がいるって知ってる人間がいたんだもん」
 懐疑的な少女の発言に驚いてブルーノは仰け反った。そんなはずはないとぶんぶん首を横に振る。
「で、でもマーロンはティルダ様の出した使者だよ? お義姉さんは率先して僕らを受け入れてくれたんだ。裏でそんな命令してるなんてとても……」
「公女の直属騎士だからって他の大臣たちと繋がってないとは限らないでしょ。ブルーノもさ、身辺には注意してよね」
 逆に指摘を返されて息を飲んだ。確かにそうだ。受け入れに反対した重臣の中になら刺客を送り込んだ者がいてもおかしくはない。宮殿入りする前に事が起きたのも、公爵一家の目が行き届いた宮中では何もできないと先手を打ったからかもしれなかった。
「チャド王子には悪いが、アウローラ姫のことは黙っておいたほうがいいな」
「うん。変な人に漏れて、うっかり狙われる羽目になると困るしね」
 ハートフィールド兄妹が頷き合う。ルディアやアウローラのためとはいえ、チャドにさえ話せないのかと気が滅入った。危険を承知で連れて逃げてくれた男なのに。
 そのとき不意にコンコンとノックの音が響いた。公爵に呼ばれて席を外していたチャドが寝所に戻ってきたらしい。
「コーネリア・ファーマーの対応が決まったよ。帰国の準備が整うまでルースに預かってもらうことになった。本人の希望でもあるし、別に構わないね?」
 決めてきたのは乳母をどうするかだったようだ。アウローラがいなくなり、彼女に任せる仕事はなくなってしまった。「ルディア姫」の侍女などさせるのは危ないし、このまま部外者になってもらうのが良かろうと頷く。
「うっわ、手ェ早ーい。あの二人もう同じねぐらに帰る仲になっちゃったの?」
「こら、モモ! 下品だぞ!」
 真面目な兄に諌められ、モモはえへへと頬を掻く。いつもならそんな防衛隊のやりとりを微笑ましげに眺めているのに今日のチャドはほとんど反応らしい反応を見せなかった。穏やかな糸目も濃い隈で縁取られていて元気がない。
「あの、お疲れなのでは」
 案じて問うとチャドは「大丈夫だ」と笑う。
「しかしできれば今夜は早く休みたいかな。すまないが諸君、積もる話はまた明日にでもしておくれ」
 憔悴しきった声に乞われ、アルフレッドとモモの両名は「ハッ!」と敬礼のポーズを取った。二人はただちに衛兵の控室である続き部屋に退出する。扉が閉まると寝所には静寂が訪れた。
「…………」
 チャドは重たい息を吐き、無言で上着を椅子に投げる。本当に疲れているのだろう。テーブルの蝋燭を吹き消すと早々にベッドに潜ってしまった。
 ブルーノも一番上に羽織ったドレスだけ脱いで身軽になる。揺らさぬように遠慮しながら夫の隣に身を横たえた。
 逞しい腕が伸びてきたのはすぐのことだ。囚われた胸の中で瞼を伏せて唇を噛む。
 ここ数日、チャドは眠るときいつもブルーノを抱きしめた。我が子を喪った悲しみを少しでも癒そうとするように。
 慰めの言葉は浮かばずに、いつもされるに任せていた。今夜は特にどうするべきかわからない。アウローラは生きていると、少なくとも身体だけは無事だと彼は知らされるべきなのに。
「……震えているね」
 囁かれ、「怖いのかい?」と尋ねられた。首を振って否定してもチャドは納得してくれない。ブルーノが怯えていると勘違いしたまま喋り続ける。
「あなたは私が命をかけて守り抜くよ」
 迷いなく告げられた言葉が胸に痛かった。本来の肉体に戻ったら二度と聞けなくなる台詞だろう。チャドは分別のある男だから、ただの防衛隊員にも分け隔てなく接してくれるとは思うけれど。
(ああ、胸が苦しいなあ)
 罪悪感は日ごとに膨らむ一方だった。これほど頼りにしておきながら秘密を増やして裏切っている。
 せめて何か明かせればいいのに。ほんの少しでも愛情深い献身に報いることができたなら。
(サール宮は安全じゃないかもしれないんだ。モモちゃんの言う通り、本当に何が起きるかわからない。万が一に備えるなら対応の仕方くらい共有したって……)
 ごくりと生唾を飲み込んだ。「誰にも聞かずにこんなこと、出過ぎている」ともう一人の自分が責める。でももう口が止まらなかった。どうしても彼に言いたかった。
「もし私が死に至るようなことがあれば――」
「縁起でもない話はやめてくれ!」
 突然のもしも話にチャドが声を荒らげる。考えたくない未来を嫌い、続きを言わせまいとする彼にブルーノはもっと大きく怒鳴り返した。
「大切な話なんです! お願いですから聞いてください! もし私が死に至るようなことがあれば、そのときは死体の耳から出てきた蟲をすぐ塩水に浸して保管してほしいんです。そして防衛隊の誰かに渡してほしいんです」
 鬼気迫る、そのうえまったくわけのわからない頼みにチャドは面食らった。きょとんとした表情で「どういうことだい?」と尋ねられるが口にできるのはここまでだ。ブルーノは聞かないでくれと首を振る。
「ごめんなさい。意味を話したらあなたの側にいられなくなってしまう」
 そう詫びた途端ぽろりと涙がこぼれ落ちた。自分でも何を泣く必要があるのかと思うのに涙は後から後から溢れてくる。滅多に開かぬ糸目を瞠り、貴公子はおろおろと妻の濡れた頬を拭った。
「な、なんの頼みか少しもわからないが、あなたが泣くほどのことなのだね? わかったよ。今の話はしっかり頭に刻みつけておこう」
 お人好しの王子はそれきりもう本当に一切の疑問を封じ、愛する女を信じて強く抱きしめた。温かな腕に包まれていると哀切と後悔で胸が潰れそうになる。
 夫婦の真似事なんてするものではない。こんな誠実で優しい男と、最後まで添い遂げられもしないのに。いつか失い、失わせるものなのに。




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 知人でも客人でもない軍人に突然家を追われるという酷い目に遭ってから、三週間余りが過ぎた。「ここでひと騒動起こしますので、半月ほど姿を眩ませてもらえます?」とにこやかに笑った青年もさすがにそろそろいなくなっているだろう。いや、いなくなっていてもらわねば困る。今日までは縁のあるロマの一団に身を置いていたけれど、ギリギリの生活を送る彼らにこれ以上の負担はかけられなかった。ただでさえ自分は屋外での暮らしに慣れず、彼らのペースを乱してばかりいたのだから。
「ふう、ふう……」
 ガラス工房の主人、モリス・グリーンウッドはおっかなびっくりゴンドラを漕ぎ、霧の中のアクアレイアに帰還した。棚の商品は無事だろうか、炉は破壊されていないだろうかと気が気でない。一体あの青年は何者だったのだろう。立派な甲冑を着込んでいたし、海軍関係者なのは間違いなさそうだが。
(可愛い顔に似合わず物騒じゃったのう)
 思い出すだにぞっとする。危険を報せに来たくせに、こちらの安否には心底興味なさそうで。実際彼の関心はモリスに向いていなかった。「あなたが脳蟲の研究に無関係な一般市民ならサクッと殺しちゃっても良かったんですけどねー」などとのたまわれたくらいなのだ。運が悪ければ本当に殺されていたかもと肝が冷えた。
(誰なのかわからんままじゃが、できれば二度と会いたくないのう)
 怖い怖いと震えつつモリスはこそこそ大運河に入る。ここまで来れば家までは何事もなく帰れそうだった。
 普通の都市は出入りするのに住民証明や旅券が必要だが、海に囲まれて城壁の存在しないアクアレイアでは番兵の目など盗みたい放題である。しかも支配者は海に不慣れな騎馬民族に入れ替わったばかり。こっそり街に戻る程度わけなかった。
(それにしてもジーアン兵だらけじゃな。舟の上まで馬の臭いがしてくるわい)
 岸辺のあちこちをうろついている騎馬兵を眺めてモリスは肩を落とす。遊び半分で舟漕ぎに興じる異国の男たちを見ていると、ああこの国は本当に「王国」ではなくなったのだなと切に感じた。
(ううむ、皆どうやって暮らしておるのか……)
 メインストリートである大運河の沿岸に略奪や破壊の形跡はなく、ひとまず胸を撫で下ろす。人々は平常通りにゴンドラで行き来しており、支配層による乱暴狼藉は行われていない様子だ。寧ろジーアン兵はジーアン兵のみで固まり、アクアレイア人と関わるのを極力避けているように見えた。
(ふうむ? もっと偉そうにふんぞり返られるかと思っていたがのう?)
 意外に感じつつ大運河を下っていくと、更に意外なことが起きていた。なんと税関岬の商港に船が戻ってきているのだ。荷揚げしているのは二十隻前後で賑わっているとまでは言いがたかったが、久しくまともに機能していなかった港に船乗りの声が響いているだけで景色はきらきら輝いて映った。
「お、おお!」
 モリスは思わず歓声を上げる。もしかしたらジーアン帝国に吸収されたことで却ってアクアレイア商船はドナやヴラシィに寄港しやすくなったのかもしれない。交易の目途が立ったとあれば即動くのが商人だ。重い関税をかけられることになったから儲けはガクンと落ち込むだろうが、それでも船がまた航行を始めた事実に心は踊り、勇気が湧いた。
(おお、水夫どもが精を出して働いとるわい。わしもまだまだ頑張らねば!)
 右斜め後ろに過ぎていく商港を見送りながら櫂を握る手に力をこめる。そのとき対岸の国民広場から「モリスさん!」と呼ぶ声がした。
「モリスさん、良かった。無事だったのね!」
「おや!? アイリーン、アイリーンではないか!」
 大運河に身を乗り出して手を振るのは連絡の途絶えていた若い友人だった。無事の再会を喜ぼうといそいそ岸に小舟を着け、モリスはぎょっと目を瞠る。彼女の隣の異母弟が、あの海軍の若者以上に恐ろしい眼光をぎらつかせていたからだ。
「ルディアとレイモンドを見なかったか」
 何があったか問う前にカロはモリスにそう尋ねた。床屋にも食堂にもガラス工房にも姿がなく、街中探しているという。
「お前さんたち工房島へ行ってきたのかね? だ、誰もおらなんだか?」
「いなかったから聞いているんだ」
 半分安堵し、モリスは苛立つカロに詫びた。
「すまん。わしもしばらく留守にしとってのう。つい今戻ったばかりなんじゃ」
 こちらが何も知らないと知るや、異母弟はさっと踵を返す。その背中は息が詰まりそうなほど激しく殺気立っていた。
「これだけ探していないとなると、アクアレイアには帰っていないのかもしれないな」
「ね、ねえ。もう追いかけるのはやめましょうよ。もっと冷静になったほうがいいわ。こんなの、こんなの私……」
「お前の弟に何かする気はないと言っているだろう。用があるのは中身だけだ」
 底冷えした声が響く。不穏な空気に耐えかねてモリスは「なんじゃ、本当にどうしたんじゃ?」と問いかけた。だがロマの返答はにべもない。
「その女に聞け」
「あっ! ま、待ってカロ! どこへ行くの!?」
 引き留めようとしたアイリーンを突き飛ばし、あっという間にカロは雑踏に消え去った。異様な雰囲気にモリスが何も言えずにいるまま。
「……ど、どうしたんじゃね? お前さんたち?」
 仕方なく残された彼女に事情を問えば、アイリーンは声もなく泣き崩れる。小さなことでも大きなことでもしょっちゅう泣いている女だが、こんな苦しげで痛ましい表情を見るのは初めてだった。
 まったくわけがわからない。確かカロはコリフォ島へ行くと聞いていたが、一体何があったのだろうか?




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 島を去る者があれば新たに訪れる者もある。時同じく、コリフォ島では基地をぶんどったローガンがジーアンの将ラオラオを迎えていた。
「いやあ、お元気そうで何よりです! またお会いできて、こんな嬉しいことはありません!」
 ニコニコと手を揉みながらローガンは歓迎の意を述べる。すると狐顔の青年は斜めに腰かけた長椅子の上でどんより重い息を吐いた。
「あんた生き生きしてるねえ。こっちはこれから二度目の虎の巣だってのに」
 若い盛りの男のくせにラオタオは悪い風邪でも引いたみたいに生気がない。肘かけに身を預け、「あー怖い。今度こそ死んじまうかも……。ほんとバオゾに戻るのやだ……っ!」と震えている。
 ヘウンバオスにひと足遅れて彼も帝都に帰るらしい。同じ船に乗らなかったのはまだ雷が落ちてくる可能性が残っていたからだろう。どうにか刃を収めてもらえたから良かったものの、ラオタオはもう少しで裏切り者との誤認を受け、切り捨てられるところだったのだ。
「まあまあ、あのときは天帝陛下も我を失くしておいでだっただけでしょう。今度はきっと大丈夫ですよ」
 怯える将軍を朗らかになだめてやる。アレイア海東岸を統括するラオタオはローガンにとってヘウンバオスの次に媚びておくべき重要人物だった。何しろ彼の裁量一つでアクアレイアの生死が決まるのだ。この海にも交易にも疎い男が支配地の経済を再生させる道に進むとは思えないが、なるべくカーリス商人のほうを引き立ててもらうためにすれるだけのゴマをすらねばならない。
「どうしても不安が拭えないのでしたら柔肌に埋もれて悩みを遠ざけられてはいかがです? 実はあなた様に差し上げようと考えていた青いコマドリがいるのですよ」
 こそりとローガンはラオタオに耳打ちした。指を鳴らし、通路の部下に合図して例の娘を司令官室に連れてこさせる。後ろ手に縛られたドレスの女をチラ見して狐は青い顔を上げた。
「アクアレイアのルディア姫でございます。イーグレットは死体しか見つかりませんでしたが、美貌の王女はほらこの通り!」
 自信たっぷりに猿ぐつわを外させる。隙あらば噛みついたり体当たりしたりする反抗的な献上品を無理矢理跪かせると、ローガンはどうだと若将の反応を窺った。
「へえー、ルディア姫ねえ」
 が、ラオタオの関心はさして得られなかったようである。当てが外れてあれっとなる。女好き、それも人妻や他人の婚約者が大好きな下衆ならば飛びつくだろうと思ったのに。
「お、おや? お気に召しませんでしたかな?」
「いや、俺も今さ、女って気分じゃないんだわ。色々ショックなこと続いててさあ」
「は……はあ……?」
「まあくれるっつーもんは貰っとくけど、丁重に船にお迎えするだけだぜ?」
 深々と溜め息をついて立ち上がり、ラオタオは王女に手を差し伸べた。意外な礼儀正しさにローガンはえっ、えっ、と狼狽する。将軍に対して点数を稼ぎつつ、同時にアクアレイア王家を貶める一石二鳥の作戦のはずが、そんな態度をされてはまったく無意味ではないか。
「ん、何その顔? まさか『ルディア姫がジーアンの男に汚された!』なんて噂ばら撒く予定だったとか言わないよな?」
「ンハッ! ははは、い、いやー、はっはっは」
「今アクアレイアは取り扱い要注意案件だから妙な工作しないほうが身のためだぜ。こっちもあんまりあんたの好き勝手させるつもりじゃないしさ」
「は、ははっ……、いやいや、はははは」
 明らかに何かに釘を刺しにこられているが、笑って誤魔化すに徹する。クソ、想定よりも冷静だ。簡単には操作されてくれそうにない。
「そんじゃユリぴー、こちらのお姫様を一番上等な船室に案内してあげといて」
 そこだけ流暢なアレイア語でラオタオは控えさせていた金髪の騎士に命じた。ジーアン語でのやりとりは詳しく把握されていないと思うが、ローガンが駒の置き方を間違えたことはこの男にも雰囲気で嗅ぎ取られているだろう。アクアレイア人の見ている前で失態を演じてしまうとは忌々しい。
「かしこまりました」
 父親の目を潰されたくせに、リリエンソール家の跡取り息子は眉一つ動かさないで命令を拝受した。取り澄ました横顔にローガンは秘かに舌打ちする。
 アクアレイアからコリフォ島へ来るのにラオタオはカーリス共和都市の船を使わず、王国海軍にガレー船団を編成させて自らの足としていた。真意は測りかねるものの、先程の会話を踏まえるとローガンに対する牽制である可能性は否定できない。「好き勝手させるつもりじゃない」という言葉は即ち「海上勢力をカーリス一強にしておくつもりはない」という意味だろうから。
(ちっ、物知らずはこちらを油断させるための演技だったか。ようやくこの海からアクアレイア船を一掃できると思ったのに)
 将軍の送迎にかこつけてあの国の商人どもが交易しまくるのは明らかだった。過去の栄華と比べれば憐れむべき凋落ぶりだが首の皮一枚でも繋がっているのは事実である。このまま連中が息を吹き返すような事態になれば一大事だった。抑え込んでいるラザラス一派を――地元カーリスでの仇敵を活気づかせることになる。
(もっと深くだ。もっと深くジーアン幹部に取り入らなければ……!)
 本物かどうかも知れない王女をエスコートしてユリシーズは司令官室を後にした。ラオタオも急ぐ旅だからと早々に引き上げてしまう。今までの貢献度を考えればもっと相手になってくれてもいいはずなのに。
(立ち回りを考え直そう。我々とていつジーアンの捨て駒にされるかわからんのだから)
 ローガンは静かに己に言い聞かせた。生き残れるのは運と実力を兼ね備えた者だけだと。
(ラオタオへの袖の下攻勢は今後も続けていくとして、帝国内部にもっと篭絡の簡単そうな別の人間を探しておくべきかもしれないな)
 どんな手を使っても、たとえ呪われ罵倒されようとも、小賢しく身内贔屓のアクアレイア人を東方交易の市場から追い出すのだ。そうすれば息子の代には労少なくして実り多き日々が過ごせるようになっているだろう。




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 こんな状況ではヒエエと言うのが精いっぱいだ。やっと船倉から出してもらえたと思ったら、前後左右を屈強なジーアン兵に囲まれて、降りろと言われ、進めと小突かれ、どうしようもなくバオゾの街を歩いている。
 バジルは眩暈にくらくらしながら異国の夕暮れを仰ぎ見た。一体どうやって逃げればいいのだろう。アクアレイアまでどうやって帰れば。考えても考えても名案は浮かばない。
 見覚えのあるドーム屋根の天帝宮はもう目と鼻の先に迫っていた。ぐずぐずしている間に城門をくぐらされ、緑豊かな奥庭の更に奥、見覚えのない内殿に通される。

「今日からここがお前の部屋だ」

 肩を押されてぶち込まれたのはキャンバスの並ぶアトリエだった。どうやら先客がいるらしく、作品は全て描きかけである。書見台には大判の草稿が開きっ放しで置かれていた。「アクアレイア王国史」という仮タイトルが目に入り、バジルはここがコナーの住処であるのを知る。
(えっ、あれ? ということは先生もまだ天帝宮に……!?)
 期待を込めて見渡すが、薄暗い部屋に他の人間の気配はなかった。ジーアン兵たちも役目は果たしたとばかりに去っていき、己の境遇を誰に聞けばいいかさえわからなくなってしまう。
「ひっ、ヒエエーン!」
 あまりの心細さに泣けてきた。バジルはぐすぐす鼻を啜り、ともかくも壁のランプに火を入れる。
 どうして自分だけこんな遠くに閉じ込められているのだろう。モモは元気でいるのだろうか。一人で暴れていないだろうか。心配で心配で仕方ない。
(うう、でも今はまず自分のことをなんとかしないと……)
 年単位で皆と合流できないかもしれないとバジルは一人途方に暮れた。採光用の高い窓の向こうからは慰めのようにナイチンゲールの美しい歌声が響く。
(波の乙女アンディーンよ、どうかモモと僕と皆をお守りください……)
 異境からの祈りは果たして届くのか。バジルは寂しく室内の物色を始めた。




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 愛すべき分身、蟲たちの王がついに凱旋したという。報せを聞いてアニークは大いに胸を躍らせた。
 もう二ヶ月以上ヘウンバオスには会っていない。顔を見られるだけで嬉しいが、今夜はきっとまたとない素晴らしい話を聞かせてもらえるのだろう。そう思うと期待を膨らませずにはいられなかった。
 侍女伝いに寝所で待てと命じられ、薔薇水をたっぷりかけて身支度を整える。天蓋付きのベッドに腰かけ、今か今かと伴侶を待った。頬は熱くなる一方で、胸ははちきれんばかりだった。――がちゃりと扉が開くまでは。
「……ヘウンバオス様?」
 異変はただちに感じ取れた。いつも堂々たる振る舞いで、纏う空気から他者を圧倒する男が、今は力の片鱗もなく崩れそうに立ち尽くしている。
「どうなさったの? ヘウンバオス様?」
 アニークは血相を変えて駆け寄った。支えるように身を抱くとヘウンバオスはがっくり項垂れ、弱々しく肩に顎を埋めてくる。こんな天帝は初めてだった。
「ど、どこか具合でも……」
「詫びねばならない」
 案じて尋ねたアニークにヘウンバオスは震えて告げる。「え?」と問い返せばもう一度同じ台詞が繰り返された。
「詫びねばならない……。まだ半年も生きていないお前に一番……」
 なんの話をされているのかまったく読めず、いたずらに戸惑う。身を離して見つめた双眸はどこまでも暗く、アニークを更にうろたえさせた。
「どうしてそんな泣きそうにしてらっしゃるの? アクアレイアからお戻りになられたのでしょう? 私たちの美しい故郷をその目に映してこられたのでは……」
 なんとか普段の彼に戻ってほしくて問いかける。だが天帝の反応は虚ろで、聞きたくないと訴えるように強く抱きしめ直されるだけだった。
「明日の朝一番に重臣を集めて話し合う。だから今夜は、……今夜だけは何も考えずにいさせてくれ……」
 良くないことがあったのだ。アニークにわかったのはそれだけだった。別人にしか思えぬ彼が酷く恐ろしく感じられ、慰めなければと思うのに舌が上手く回らない。
 ジーアン帝国の蟲たちに激震が走るのはこの翌日のことであった。









(20160313)