浴槽に浮かぶ赤いアネモネをひと摘まみして鼻に乗せる。退屈をやり過ごすにはこうして花の香りでも楽しむ以外に術はない。見目麗しく華やかに保つのが女帝の義務だというのだから、存外支配者も不自由なものだ。
 褐色の肌を湯船に沈め、長い黒髪までも浸し、うんざりしながら高いドーム天井を見上げた。この後もまだ香油責めや痩身マッサージが待っていると思うと自然溜め息がこぼれてくる。
「そんなに湯浴みがお嫌いですか? アニーク様」
 頭を洗う女官に問われ、アニークは「当たり前でしょ」と唇を尖らせた。
「まだ物語を読んでる途中だったのよ。続きが気になって仕方ないのに、いつ書庫へ戻れるかわからないんだもの。ああ、せめて浴室の壁にパトリア騎士とプリンセスの絵でも描いてもらえないかしら。そうしたら少しは楽しく長風呂に耐えられるのに」
 広い浴場を飾るのは青と緑の美しいタイル。初めこそ細緻なアラベスク模様に感動したが、今ではすっかり見飽きてしまった。
 嘆く主人に女官はくすりと頬を緩める。「アニーク様は本の『蟲』ですこと」と茶化され、ムッと眉を吊り上げた。
「あなたはセドクティオ様の勇姿を知らないからそんな風に笑えるのよ!」
「あらあら。そんなにパトリア騎士物語がお気に入りでしたら、ヘウンバオス様に頼めば画家を手配してくださるかもしれませんよ」
「えっ!? 本当!?」
 がばりと湯の中で身を起こす。盛大に跳ねた飛沫を避けて中年女官は「もう! お勤めをしっかり果たされていればの話ですからね!」と付け加えた。
「女帝として威厳を持って、毎日きちんと政務に励むわ! 十人、いえ、五人くらいはお願いしても大丈夫かしら? サー・セドクティオと、プリンセス・オプリガーティオと、ええとそれから……」
「んまあ、なんてお気の早い」
「だって挿絵を眺めるだけじゃ物足りないと思っていたところなのよ! 本は出しっぱなしにできないし、持ち運ぶには大きすぎるし、その画家がついでにカメオか何か彫ってくれたら最高じゃない!」
 興奮気味に捲くし立てると女官はやれやれと苦笑した。話を振ってきたのはそちらだろうとアニークは構わず騎士物語の魅力を喋り続ける。
「セドクティオ様も素敵だけど、彼の仕えるプリンセス・オプリガーティオも素晴らしい姫君なの。身体が弱いのに知的で芯が強くて決断力があって……。私もオプリガーティオのような女性になりたいわ」
「お手本になりそうな姫様ですのね。それはいいことです」
「そうでしょう!? お手本にするならもっと目に触れるところに置かなきゃでしょう!?」
 浴室の模様替えに正当性を見い出してアニークはにっこり微笑んだ。
「パトリア騎士物語」はいわゆる西パトリア文化の中で唯一アニークの琴線に触れた騎士道小説である。駆け出し騎士のユスティティアが大胆不敵で強引なプリンセス・グローリアに引きずられ、各地を旅する話なのだが、これが夜も眠れないほど面白い。笑いあり、涙あり、冒険あり、悲恋ありで一向に飽きがこないし、やることなすこと乙女心をときめかせるサー・セドクティオを初め、したたかな宰相や勇猛な英雄、可憐な美姫など味のある登場人物が物語に花を添えている。
 アニークが特に好きなのは一見冷徹なサー・トレランティアだった。寡黙で表情に乏しいために誤解されがちな男だが、実は誰より高い忠誠心の持ち主で、根っからの真面目人間なのだ。彼が敵国の王子と恋に落ちた主君を案じ、指輪を壁に埋めてしまう場面は泣けて泣けて仕方なかった。
(だけど何故か、サー・トレランティアが一番だって人に言うのは恥ずかしいのよね……)
 西パトリアについて学ぶべく「パトリア騎士物語」を読破したという仲間は多い。だが誰ともあの騎士について語り合ったことはなかった。どこがいいのと聞かれたら、なんだか返答に詰まりそうで。
(きっと堅物すぎるのがいけないんだわ。主君と恋人の仲を引き裂くなんて、誰にでも理解できる行動じゃないもの)
 うんうんと自分なりに結論づける。空想の世界に浸るアニークの髪をすすぎ終わり、女官は次に首回りをごしごしと磨き始めた。
「読書も結構ですけれど、書庫にはあまり長居なさらないでくださいね。新妻が埃っぽくてはヘウンバオス様がお気の毒ですから」
 あの方にとってあなたは中身も外側も特別なのですよ、と諭される。普段は女官の小言など話半分のアニークもこれには素直に頷いた。
「ええ、もちろん物語なんかよりヘウンバオス様のほうがずっと大切よ! 私、あの方から直接分裂した『蟲』なんでしょう? 妻の身分をいただいたことも誇らしいけど、私が一番あの方に近い記憶を持っていることが何より嬉しくてならないわ!」
 感情の昂ぶりに頬が上気する。オリジナルに近い存在であればあるほど蟲の世界では自慢になるのだ。そういう意味でアニークは生まれたときから完璧な祝福を授かっていた。
 百年ごとの分裂期がやって来たのは三十年前。ハイランバオスから分かれたラオタオや他の蟲たちがさっさと肉体を与えられ、ジーアンを世界帝国にする兵力にされたのと違い、アニークは――正確に言えばその本体は――海水入りの小瓶に丁重に封じられていた。
 ヘウンバオスの「分身」はその時代その時代の最も重要な地位に任じられる。アニークが入れられたのは、蟲たちが再びレンムレン湖に至るために必要欠くべからざる東パトリア帝国皇女の肉体だった。女帝として、天帝の花嫁として、誠心誠意務めねばならない。それが蟲としてこの世に生まれた己の無上の喜びだ。
「ヘウンバオス様はいつ私たちをアクアレイアに呼んでくださるのかしら? それとも一度バオゾにお戻りになられると思う?」
「我々の領土になったと言ってもあそこは西パトリアの街ですからねえ。危険はないと判断されるまで来いとは仰らないでしょう」
「そうね、それもそうだわ。ああ、アクアレイアを目にする日が待ち遠しい! ヘウンバオス様にも早くお会いしたいわ!」
「ふふ、私もですよアニーク様。アニーク様はいつヘウンバオス様がお出でになってもいいように、毎晩綺麗にしていましょうね」
 にこにこ笑顔の女官に頷く。耳の裏側を洗おうとした彼女が顔をしかめたのはそのすぐ後だった。
「あら嫌だ。またその片方だけのピアスをなさっているんです?」
 否定的な物言いにムッと眉を吊り上げる。「気に入ってるんだもの、いいじゃない」とすかさずアニークは反論した。
 左の耳たぶで光るのは瑕ひとつないパトリア石。深く美しい青緑の、最上級の色の珠だ。
 右のピアスは最初からなかった。少なくともアニークがこの器の新しい宿主として目覚めたときには。
「これは本当に特別なの! そのうちどこかで片方見つかるかもしれないし、勝手に捨てたら怒るわよ!」
「おお、恐ろしや恐ろしや。そんな言いつけなさらなくたって触りやしませんよ」
 女官は大袈裟に怯えてみせる。ふん、とこちらも憤慨しきりだ。
「ねえ、あとどれくらい浸かってなきゃならないの?」
「そうですねえ、たっぷり二時間は入っていただきます」
「そ、そんなに!? ああもう、今日の読書は諦めるべきかしら」
「おほほ! なんなら浴室に本を持ってこさせますか?」
「だ、駄目よ! 書見台から本が落ちたらどうするの? そうでなくても湯気で紙が傷むじゃない! ……わかった、こうするわ。入浴が終わるまで今まで読んだお話をあなたに聞かせて復習するの。それならあなたも物語を楽しめるでしょう?」
「あら、なんと嬉しいお計らい! 実は私もサー・セドクティオとやらが気になっていたのです」
 生まれて百三十年になるという女官の瞳はきらきらと若かった。何度も肉体を取り替えていると外見の年齢など気にならなくなるらしい。蟲とはやはり、老いて死ぬという自然の摂理とは縁遠い生き物なのだ。
「それじゃあ最初から話すわね。騎士見習いのユスティティアが指導を受けていたサー・トレランティアのもとを離れて新しいお城に向かうところよ。彼が仕えることになったお姫様は大変な山奥に住んでいるの。よく知らないけど、アルタルーペと呼ばれる大山脈と同じくらい高い山なんですって」
 アニークは騎士物語の冒頭を紡ぎ始める。ユスティティアの名前を口にした瞬間から意識は早くも別世界に飛んでいた。
 目を閉じれば見知らぬ山並みが浮かんでくる。鬱蒼とした森を抜け、岩城を目指す若者の姿も。
「ユスティティアは狼の群れに追われたり、熊の巣穴に迷い込んだりしながら峠を越えていくの。ところが何日歩いても山は険しくなるばっかりで……」
 脳裏に描いた騎士はこちらを振り向かない。どんな顔をしているのか、少しだけでも見せてほしいのに。
 アニークは幻影の背を追いかけるように夢中になって話し続ける。隣の女官は面白そうにユスティティアの奮闘ぶりに耳を傾けていた。




 ******




 マルゴー公国の山は深い。特に高峰の南側では緩やかな稜線など存在しないに等しかった。朝夕には濃い霧も出るし、風も天気もすぐ変わる。岩だらけの悪路もあれば沼のごときぬかるみもあった。
 それでも傭兵たちにとっては慕わしい故郷である。森の空気を肺いっぱいに吸い込んで、きゃっきゃとお喋りしながらサールに向かう一団はまるで大きな子供たちだった。
 気が緩むのは良しとしよう。公国内では街の住人に白い目で見られることもなければ憤然と睨み返すこともない。張りつめた心をほぐせる場所は必要だ。
(……けどいくらなんでもこれはないよな)
 ドブはすうっと息を溜め、板張りの山小屋に頬をくっつけた数名の兵士らに近づいた。そうして彼らの背後から怒りの一喝を轟かせる。

「赤ん坊にお乳あげてるとこ覗くなっつってんだろ、いい加減にしろーッ!」

 ウワッと蜘蛛の子散らすように不届き者たちは逃げ去った。まったくもう、とドブは腕を組み直す。
 休憩のたびに飽きもせず群がってきやがって。何が悲しくて最年少の自分が浮かれまくったオッサンどもの監視役などしなくてはならないのだ。
「ありがとね、ドブー。もうちょっとだけ見回りお願いー」
 大ぶりの双頭斧をスイングさせ、小屋の入口を固める少女が礼を告げてくる。彼女が守るコーネリアは泣き喚く赤ん坊にまだ悪戦苦闘しているらしい。
「あの先生はどこ行ったんだ? 妹さんなんだろ? よくこんな野獣の群れにほったらかしにしておけるよ」
「うーん、多分また岩石採集に行ったんじゃないかな。自立した大人なんだし面倒見なくてもいいでしょって感じみたい。こんな環境じゃなかったらモモも同意見なんだけど……」
 少女は呆れ返った素振りで嘆息した。そう冷めた口調で言われると「躾けのなってない連中ですまない」と申し訳なくなってくる。
「はーあ、バジルがいればドブもモモももう少し休憩取れたのになあ。ごめんね、手伝ってもらって」
 詫びるモモにドブは首を横に振った。
「いいって、いいって。気にすんなよ。うちの副団長がああいう連中シメても説得力なさすぎるのが悪いんだから」
 山小屋から少し離れた丸太置き場で若い衆と駄弁っているルースを見やり、肩をすくめる。視線に気づくとルースは材木のベンチから立ち上がり、陽気にこちらに手を振ってきた。
「おーいドブ! お前やっと骨折治ってきたところだろ? 見張り番代わってやろうか?」
「下心ありありで何ほざいてんだ! いいからあんたはそっちにいてくれ!」
 当てにならない色情魔に怒鳴り返す。ここ最近こんなやりとりが日常化しているような気がする。
 旅立ちから一週間余り、暦は三月に変わっていた。怪我人と女性への気遣いで普段より進み方はのんびりしており、公国の首都サールまでようやく道半ばといったところだ。
 今日はこれから一番厳しい峠を越える。荒涼として樹木も生えない断崖絶壁だが、そこさえ通り過ぎてしまえば大きなアップダウンはなくなり、先を急ぐのが楽になるはずだった。
 グレッグはもう宮殿に着いただろうか。今まで団長の乗せられやすさばかり案じてきたが、ルースはルースで大問題児だ。できれば今後は二人一緒の部隊にいて、互いの欠点を相殺してくれと頼んでおかねば。
「すみません。時間がかかってしまって」
 と、山小屋の戸口からコーネリアが顔を出した。その途端、男どもが一斉に「ああ、今日も幻の峰は拝めなかった!」とくずおれる。
(ったくここの連中は本当に……)
 額に手をやってドブはがっくり項垂れた。皆してルースに毒されすぎである。
「ご苦労さん! 女の子たちのナイトやるのも立派だが、お前も休めるときに休んどけよー」
 当の副団長にはすれ違いざまポンと肩を叩かれた。本当に、誰のせいで余計な仕事が増えたと思っているのだろう。風紀は乱れまくりだし、女なんか連れ回すものじゃない。
(ま、連れていける女連れていかなかったらルースさんじゃねえか)
 ハハ、とドブは乾いた笑い声を漏らした。いずれにしても今更置き去りにはできない。だったら最後までしっかり責任を持とう。
 疲弊の色濃い弟分に気を回してくれたのか、昼食休憩は長かった。よく通るルースの美声が出発を告げたのは太陽が随分高くなってからだった。




 ******




 やはり女がいるといい。辺りに漂う匂いからして違ってくる。上機嫌に口笛を吹き、ルースは峻厳な山岳に伸びた隊列を見回した。
 いつもならすぐに文句を垂れる荒くれどもが今度の帰還では何も言わない。見栄っ張りが多いから、コーネリアやモモの前で「疲れた」だの「今日はもう歩きたくない」だの口に出したくないのだろう。昂ぶりすぎて挙動がおかしいのも何人かいるが、まあ許容範囲内だった。平時の割に士気は高いし、負傷兵たちも気を抜いていない。隠密の要人護送としては上々の旅路である。
「頑張れよ、お前らー! もうじき次の村が見えるぞー!」
 励ましの声に汗まみれの傭兵たちがおうと応える。つづら折りの隘路を歩む足取りは次第に鈍くなりつつあったが、気力はしばらくもちそうだった。
 勾配のきついアルタルーペに楽なルートなんてものはない。空気は薄く疲れやすいし、古くからある街道でも無理矢理通したような難所は多かった。特にこの峠は強敵だ。眩暈がするほど高くそびえる岩壁を何度も何度も折り返し、延々と登り続けねばならないのだから。
(峠村があるのがまだ救いだな。具合の悪いのを我慢してる奴もいるだろうし、ここらで二、三日ゆっくりさせるか)
 己の預かった部隊から脱落者を出すわけにいかない。ルースは隊列の後方を見やり、遅れがちな者がいないか確かめた。
 自力歩行も困難な重傷者はニンフィの街に預けてきたので兵士は概ね大丈夫そうだ。客人も、軍人のモモや旅慣れたコナーは「疲れた」とこぼしながらもしっかりとついてきている。
 心配なのは隣を歩くコーネリアだった。たびたび赤子が泣くせいか、体力を回復しきれずほとんど足が上がっていない。彼女の靴はしょっちゅう土を引っ掻いた。息切れするのも誰より早く、顔色は真っ青だ。移動時はアウローラをモモに背負わせ、できる限り自分も手を貸してきたけれど、本格的に限界なのではないかと思える。
「ちょいと失礼」
 断りを入れてからルースは乳母の背に腕を回した。だがすぐに「キャッ!」と叫んで逃げられる。まるで変質者に遭遇でもしたかのように。
「と、突然何をなさるのです」
「何って、つらそうだから支えてあげようとしたんだが」
 ほら、とルースはへの字口で背後を指差した。示す先には仲間の肩を借りて歩く負傷兵の姿がある。
「あいつのは怪我が原因だが、山歩きは慣れてないと大の男でもへばっちまうんだ。別に悪さしようってんじゃない。大人しくエスコートされてくれないか?」
「で、でしたら他の方にお願いを」
「だーめ。お嬢ちゃんは赤ん坊を見なきゃだし、画家先生は石っころにすぐ気を逸らすだろ? それに俺以外の隊員が君と仲良さげになると話がややこしくなるんだよ」
 もう一度コーネリアの華奢な背中に腕を回して首を振った。二度目は拒まれなかったものの、顔に出た警戒心は露わである。
 やれやれとルースは内心溜め息をついた。彼女の耳に唇を近づけて「未亡人にがっつくほど飢えてないから安心しな」と声を潜める。
「あのさ、俺が君に構うのは半分以上ポーズなんだ。あのモモってお嬢ちゃんはガキんちょ体型で色気に欠けるからいいけどな、君のほうは男所帯の傭兵団で『副団長をふった』『もうお手つきかどうか気にする必要はねえ』ってなると危ないだろ? だからサール宮に着くまでは、君自身のためにちょっとは俺を受け入れるフリしてくれよな」
 そう囁くとコーネリアはハッとこちらを見つめ返した。覗き未遂程度の被害で済んでいる真の理由にようやく気づいてくれたらしく、神妙に「すみません」と詫びてくる。ポーズなのは半分以上でゼロとは言っていないのだが、そこは耳に入らなかったようだ。
「そんな深い考えがあったとは思いもよりませんでした。私ときたら、あなたに大変失礼な態度を」
「ははは、いいっていいって。誤解されるのは慣れてるし」
 にこやかに微笑み、ルースは白い歯を光らせた。腕の中の女が素直になって満足する。
 ついでにこのまま色っぽい関係に持ち込めればなおいいが、期待しすぎては欲深というものだろう。今回は最低限アクアレイアの小さなプリンセスを宮殿へ届けられればいい。我らの殿下が少しでも曲げたヘソを戻してくれれば。
(旦那が土下座してもまーだ許してくれねえんだもんなあ。ドナ・ヴラシィに負けて帰れりゃ王子だって万々歳だと思ったのに)
 元はと言えばチャドを怒らせた原因はルースの持ち込んだ鞍替え話にある。モモ一行を招き入れたのはせめてもの罪滅ぼしのつもりだった。己とて現状のままではまずいと考えているのだ。
(プリンセスだけじゃなく、あのコナー・ファーマーまで引き込んだんだぜ? 無事に連れてきゃ喜んでくれるはずだ。王子様にはとっとと旦那と仲直りしてもらわねえと)
 グレッグにいつまでもしょぼくれた顔はさせられない。あの男には恩がある。声高に主張する気はないけれど、団長のためにできることがあるなら全部してやるつもりだった。否、そうしなければならないのだ。
「ま、てなわけだからもっと俺を信用してくれ。君が赤ん坊第一で頑張ってるのはわかってるし、こっちも全面的に協力するからさ」
 甘い声で囁くと乳母は戸惑いながら頷く。「頑張ってるだなんて……」と自信なさげに呟くのでルースはおやと瞬きした。
「私の働きなんて小さなものです。もっと世間の役に立てているならともかく」
 コーネリアの表情は暗い。称賛になど値しないと言いたげな態度が解せず、思わず「なんで?」と疑問を返した。
「亭主を亡くしたばっかりなのに、故郷を離れてこんな山奥まで来てさ、俺は偉いと思うけどな。君は頑張り屋さんだよ。星の数ほど女を知ってる俺が言うんだから間違いない」
 いたわりを込めて肩を叩けばコーネリアは「そうでしょうか」とうつむいた。誉めてほしいのかと思ったが、本気で自信がないだけらしい。ふむ、とルースは思案した。
 もしや彼女はあまり人に認められてこなかったのだろうか。何せ百年に一人の天才と謳われる男が兄である。燦然たる光の作る陰となり、霞んできたのはいかにもありそうな話だった。
「……君には感謝してもしきれないって、そう思ってる人は絶対いるよ。ほら、例えばうちの王子様とか」
 できるだけ優しく言い聞かせてみる。少し元気が出てきたのか、顔を上げたコーネリアは「ありがとうございます」と微笑んだ。その眼差しは先程よりも柔らかい。
 岩峰に這うつづら折りはまだまだ先まで続いている。峠の村に着くまでに、もう一、二歩くらいは彼女に近づけそうだった。




 ******




「こちらの城にはお慣れになって?」
 しっとりと優雅な声に振り向くと、チャドの姉ティルダ・ドムス・ドゥクス・マルゴーが大窓を開き、森に面したバルコニーに出てくるところだった。細い糸目と穏和な顔立ちに姉弟の血を感じつつ、ブルーノはおずおずと頷く。
「ごめんなさいね、こんな角部屋に追いやってしまって。もし人目に触れて噂にでもなったら大事になりかねないものだから」
「い、いえ、ご迷惑をおかけしているのはこちらのほうですし。何から何までお世話になって、本当になんてお礼を言えばいいか」
 ブルーノたちがサールに着いたのは数日前の深夜だった。暗闇に乗じて宮殿入りを果たしたので、今のところ「アクアレイアの王女が亡命してきた」とはバレていない。チャドは離婚し、単身帰国したのだとマルゴー国民には通っていた。
 今の情勢でアクアレイア王家を匿うなどはっきり言って狂気の沙汰である。追い出されても仕方ないと覚悟していたのに公爵一家は「チャドの性格上こうなる予想はしていた」と受け入れてくれた。感謝を要求されこそすれ謝罪などされたのでは落ち着かない。
「アウローラ姫もきっとそこまで来ているわ。近隣に使者を出しておいたから、どうぞ安心なさってね」
 にこやかに義姉は告げた。「そのドレスでは寒いでしょう」と毛織のショールを手渡され、気回しの自然さに感嘆する。
 受け入れに難色を示した諸大臣を説き伏せてくれたのもこの人だ。ティルダは公爵の政務を助ける補佐官であり、ブルーノたちができるだけ心安らかに過ごせるようにと親身に世話を焼いてくれる。さすがはあのパーフェクト貴公子の姉だった。
「あまり長く風に当たっていると冷えるわ。城周りの森に市民が立ち入ることはないけれど、身体に障る前に部屋へお戻りになってね」
 使者を派遣したことだけ伝えにきたのだろう。ティルダは地味だが品のいいドレスの裾を翻し、ひと足先に屋内へと戻っていった。彼女の通り過ぎた後にはふわりとローズマリーが香る。
(姫様……)
 三月を迎えるにしては冷たすぎる風が吹き抜けた。窓辺ではカーテンの陰に隠れ、アルフレッドが心配そうにこちらを見ている。
 心許なくて堪らないのはルディアたちの安否を知る術がないからだろうか。或いはもっと単純に、アクアレイアを離れすぎたせいか。
 チャドもティルダも公爵も、本当に良くしてくれる。利用価値もない亡国の姫に「新しい戸籍を授け、マルゴー貴族の養女にしよう」とまで言ってくれて。だけど。

 ――我が国の女性となり、もう一度私と結婚してくれるかい?

 真摯な声にそう問われたとき、ブルーノには答えられなかった。考えさせてほしいと返すのが精いっぱいで。
「ルディア」であることをやめれば多分、自分も彼女も平穏に生きていけるのだろう。だがそんな重大な決断を自分がしていいのかどうかわからなかった。せめてモモたちが到着してから、アウローラの無事を確かめてから、皆で相談して決めたかった。
 重い息を吐き、小高い山の宮殿から眼下の森を一望する。生い茂る針葉樹は風に吹かれて波のごとく揺らめいた。
(山の色と海の色はやっぱり違うな……)
 ルディアのためにどう行動すればいいのだろう。
 自問の答えはまだ出ない。




 ******




 心臓破りの長い峠道が終わったのはパラパラと小雨が降り出したときだった。隣のドブが「もう少し行きゃ村だから!」とモモの背負ったアウローラに自分のケープを被せてくれる。コーネリアの腕を引くルースも「急げ! すぐ土砂降りになるぞ!」と後続に指示を飛ばした。
「もー! なんで山のお天気ってすぐ変わるのー!?」
 文句を垂れても仕方ないが、文句でも垂れねばやっていられない。峠越えで疲れきった足が走りたくないと訴えるのを無視してモモは隘路を駆け抜けた。視認できない目的地にひた走るのは心が折れる。だが生後たった二ヶ月の王女に寒い思いはさせられなかった。
「村って一体どこー!」
 殺風景な岩だらけの景色が一変したのは直後である。大きく蛇行した曲がり角を曲がった瞬間、パッと前方に視界が開けた。
 晴れていればさぞかし見事な青空が拝めたのだろう。天を塗り潰す重たげな鈍色の下、広がるのは夜更けの海と見まがう暗い森だった。溜まった霧の吹き上げる様が高台から見下ろせる。瞳を凝らせば湖らしき水面も。
 急に見通しが良くなった理由は一つである。アルタルーペの一番高い峰の裏に――公国の北半分に入ったのだ。
「ほら、お嬢ちゃん! 早くあそこ!」
 前方を走るルースが大声でモモを呼ぶ。副団長が指差した先には家畜小屋と思しき木造の建物があった。
 本降りになる前になんとか村に辿り着けたようだ。モモはコーネリアたちと一緒に軒下に滑り込む。と同時、空が光ってバリバリと耳をつんざく凄まじい雷鳴が轟いた。
「……ッ!」
 思わず身を縮こまらせる。近くに落ちたのだろうかと辺りの様子を窺おうとして結局モモはすぐ屋内に引っ込んだ。まるで水桶を引っ繰り返したみたいに雨が盛んになり始めたからだ。
「う、うわー。間一髪だー」
 ざあざあと音を立て、雨は草間に打ちつける。たった今駆けてきた道が灰色のベールで見えなくなるほどに。
「ふぎゃああ、ふぎゃああ」
 轟音に驚いたのか背中のアウローラがぐずり出した。慌ててモモは赤ん坊を下ろし、気を逸らそうと上下に揺する。
 コーネリアとドブも赤子をあやすべく寄ってきた。その傍らで、突然ルースががばりとマントを被り直す。
「えっ、な、なんで出ていこうとしてるの!?」
「なんでって、後ろの連中濡れ鼠にして放っておけないだろ? 傭兵団として村に滞在する交渉もしてこなきゃだし」
「この雨の中をですか!? や、やめておいた方がいいのでは」
「平気平気、俺って頑丈にできてるからさ。そんじゃドブ、女性陣は任せたぜ!」
 コーネリアが止めるのも聞かず、意外に責任感ある態度でルースは家畜小屋を後にした。ドブはしばらく心配そうに道の向こうを見ていたが、ちらほらと仲間の声が聞こえてきたのに安堵してほっとこちらを振り返る。
「赤ん坊は? 風邪引かないように温かくしてやんないと」
「ドブがケープかけてくれたから全然濡れてないよ。ありがとうね」
 モモのお礼にドブは少々照れ臭そうに「まあ、おチビはちょっとしたことでコロッと死んじまうからな」とそっぽを向いた。こういう表情を見ていると、しっかり者の彼もまだまだ子供なのだなという気がする。
「ところでここってなんか変じゃない? 干し草も置いてないし、ヤギも羊もいないみたい」
 アウローラを抱き直しながらモモは改めて畜舎を見渡す。内部は柵で整然と仕切られており、羊二十頭は飼えそうな広々とした造りだが、何故かしばらく使われていない雰囲気だった。
「ああ、まだ時期じゃないんだよ。牧場に来るのは牧草がもう少し育ってからだから」
 疑問に答えてくれたのはドブである。少年はマルゴー人らしく付近の酪農民の暮らしを説明してくれた。
「この手の村じゃ春に牧場に上がってきて、秋の終わりに家畜を潰して、冬は集落に下りるのが普通なんだ。往来の多い宿場村なら一年中同じ村で過ごせるんだけど」
「へえー。じゃあ冬場は別の家に住んでるんだ?」
「そういうこと。俺らみたいな傭兵団が来たときは空いてるほうの家に泊めてくれるんだ。百人住んでるか住んでないかの小さい村ばっかだけど、団員全員が屋根の下で寝れるってのはやっぱありがたいな。どうせ晴れるまで動けないし、あんたたちもゆっくりできるんじゃないか?」
「わあ! 良かったね、コーネリアさん!」
 全力疾走したせいでげっそりしている乳母に笑いかける。久しぶりにまともな寝床で休めると聞き、コーネリアはほっとした顔を見せた。
「ふかふかのベッドあるかなあ」
「アクアレイアの宿と同じもん期待すんなよ? 良くて藁のベッドだぞ?」
「野宿でなければ私はなんでも構いません……」
 なるべく綺麗な場所に座り、三人並んで足を投げ出す。
 家畜小屋で待つこと数時間、ずぶ濡れのルースが戻ってきたのはただでさえ暗かった空が完全な闇になってからだった。




「え? サール宮から使者が来てた?」
「ああ、公爵の命令であんたらを探してたそうだ。王子様ご一行は宮殿で到着を待ってるってさ」
「っていうことは、アル兄たち無事にお城に着いたんだ!?」
「みたいだな。この雨だし、使者さん今夜は下の集落に泊まってくっつってたけど、どうする? 直接会っとくか?」
 ルースからの報告にモモは「うん!」と即答した。わざわざ使者を遣わせて無事を知らせてくれるなんて、やはりチャドの実家はできる。ここはこちらも敬意を表して挨拶くらいしておかねば。
 コーネリアとアウローラはドブに見ていてもらうことにして、モモは厚手のケープを二重羽織りにした。「先に休んでて!」と言い残し、か細いランタンの灯りを頼りにルースと夜道に飛び出していく。
 雨はやや弱まっていたものの、まだしつこく降り続けていた。ルース曰く、風によっては嵐になるかもとのことである。どうやら部隊は絶妙のタイミングで宿泊地を得たらしい。今までも何度か通り雨には遭ったが、こんな酷い雷雨は初めてだった。
「先に言っとくが使者はマーロン・アップルガースっつうイヤミなお貴族様な。鼻持ちならねえ野郎だが、あれで一応第一公女の直属騎士だ。変に反発しないほうが身のためだぞ」
「うわっ、なんか面倒臭い感じの人?」
「ああ、かなり面倒臭い。とりあえずあいつの前でティルダ様の悪口は言うなよ」
「ティルダ様ってチャド王子のお姉さんだよね? 大丈夫、モモ知らない人を悪く言うことまずないから!」
 月明かりも星明かりもなかったが、まめに村人が手入れしているらしい下り坂は峠道よりずっと走りやすかった。頭上に茂った樹木が天然の屋根となり、降りそそぐ雨も幾分か優しいものになる。
 集落までは二十分ほど駆けただろうか。切妻屋根の木造家屋が身を寄せ合う谷間に着くとルースが「こっちだ」と手招きした。広場の正面に他の民家よりひと回り大きな家があるから多分あそこだろう。予想に違わずルースは村長の住居と思しき邸宅の玄関を叩く。予想と違ったのは随分と若い男が現れたことだった。

「おい、濡れたままで部屋に上がるなよ。チャド殿下への伝言なら聞いてやるからさっさと言え。私はもう休むところだったんだ」

 神経質そうな薄い唇から不機嫌な声が発される。鳶色の双眸は一瞬こちらを向いただけで、すぐ窓の外に逸らされた。赤みがかった長い茶髪は性格を反映するかのごとく癖が強い。顔周りでは内向きにカールしているのに肩より下では外向きにはねている。
「どうした、女? まさか何もないのに人の安眠を妨害したのではなかろうな?」
「えっ、いや、伝えてほしいことならありますけど……」
「なら早くしろ。私は馬を走らせ通しで疲れている」
 名乗りもしなければ名前や所属を尋ねもしないのか。思っていた以上の雑な扱いにモモはしばし閉口した。嘆息に気づいて隣を見ればルースがやれやれとかぶりを振っている。その態度がお気に召さなかったのか、マーロンとかいう男の目尻が吊り上がった。
「なんだ? 言いたいことがありそうだな、ルース」
「いや、こっちは疲れてるうえに何度も牧場と集落を行き来して濡れそぼってますんでねえ」
「ふん。そうやってあくせく働くのがお前たちの役目ではないか」
「だとしても余所の女の子にまで冷たくするのはどうかと思いますけどぉ?」
「私にとって女性というのはティルダ様お一人だ。女なら誰彼構わぬ貴様とは違ってな!」
 二人の間に険悪な空気が漂って見えるのは気のせいだろうか。年齢も近そうだし、何やら確執がありそうだ。
「使者だっつーなら王子ご夫妻や防衛隊の隊長殿がどうしてるのか、この子に教えてやったらどうです? 最低限の責務も果たせないのかとあの美しい方に落胆されたかないでしょう?」
 こちらには反発するなと忠告しておきながらルースの物言いは不躾だった。対応は心得ているということかもしれない。それでティルダの役に立っているつもりかと責められて、使者はうっと仰け反った。
「い、今そうしようと思っていたところだ! ……宮殿で預かった者たちなら心配いらない。ティルダ様が直々に面倒を見ると仰っていたからな。及び腰の大臣どもが協力的になったのはあの方が口添えしてくださったおかげだぞ! ようく感謝しろ!」
 自分の功績でもないのにマーロンは偉そうにふんぞり返る。なんだかなーと白けつつ、まあブルーノや兄が元気ならいいかとモモは聞き流すことにした。
 それにしても大臣どもが協力的になったのは、とは一体どういう意味だろう。「ルディア姫」の亡命を嫌がった人間はそんなに多かったのだろうか。使者の態度からも歓迎ムードは窺えないし、宮殿に着きさえすれば大丈夫だとは思わないほうがいいかもしれない。
「そうだ。女、お前サール宮を訪ねるときは傭兵団の一員として入ってこいよ。くれぐれもティルダ様のお手を煩わせるな」
「はあーい」
 溜め息混じりに返事する。それくらいちゃんとわきまえているというのに。
 使者は雨が止み次第早馬を飛ばして帰るらしい。モモたちに同行してくれる気は微塵もなさそうだった。
「ここからサールまでってどれくらい?」
 隣のルースに小声で問う。のんびり行っても一週間はかからないということなので、都で待つブルーノたちには到着予定日だけ伝えてもらうことにした。できるならバジルの離脱を伝言したいところだったが、なんとなくこの男にはこちらの内情を打ち明けたくない感じがする。
「じゃあ使者さん、チャド王子に一週間以内に着きますってお伝え願えますか?」
「ああ。それだけか?」
「えーっと、赤ちゃんは問題ないです、安心してくださいって」
「わかった。その通り報告しておこう」
 用事が済むとマーロンは顎で退出を促した。どうせまた濡れるのだからいいと言えばいいのだが、手拭いを差し出す程度の気遣いもできないのかと呆れてしまう。
 視線で「とっとと行こう」と告げてルースが玄関の扉を開いた。話している間にまた雨足が強まったらしく、屋根を叩く激しい音にモモはうげっと眉根を寄せる。
「ったく難儀な一日だ。お嬢ちゃん、今日の寝床まで全力ダッシュするぞ!」
 はぐれないようにルースのマントの端を掴み、モモは「もうー!」と夜空に叫んだ。アンディーンに祈っても天気はどうにもならないので潔く泥道を走り出す。
 ルースはモモとコーネリアのために一軒丸ごと民家をあてがってくれたそうだ。こじんまりした二階建てで、上階に乳母と赤ん坊を寝かせれば下階の守衛だけで済むだろうとのことである。ついでにモモが無害と認定しているドブも貸してくれるらしい。あの使者と対面した後なのもあって、彼の手配は至れり尽くせりに感じられた。
「この大雨じゃ中覗こうって馬鹿も出ないだろ。色気づいた連中は俺と同じ家に寝かすから、お嬢ちゃんもたまには自分をいたわってやんな!」
 牧場まで戻ってくるとルースはモモをさっきの畜舎に連れていった。民家というのはこの裏手にあるようだ。
 モモが入口に到達したのを見届けてルースは「おやすみー!」と駆けていく。彼の掲げていたランタンの灯は間もなく闇の奥に見えなくなった。
「うーっ! 寒い寒い寒ーい!」
 濡れて冷えきった震える手で立てつけの悪いドアをこじ開ける。中に入ると土間のかまどにドブが火を入れてくれていた。「あ、お疲れさん」とかけられた声に反応する余裕もなく、暖かな炎の前に座り込む。
「あーっ! 温もりがしみるーっ!」
「ほら、乾かしといたケープがあるからこれ使えよ。濡れた靴は脱いでこっち。髪はこいつで拭きな」
「ドブなんでそんな手際いいの!? 最高すぎ!」
 ありがたさもここまでいくと拝むレベルだ。ぽたぽた垂れる水滴を拭いつつモモは少年を褒めちぎった。
「しーっ! コーネリアさんと赤ん坊、もう寝てっから静かに。ベッド一人分しかなかったから藁と毛布で寝るとこ作っといたけど、火の番やりながら横になるよな? あんたそのままじゃ風邪引いちまうし」
「うん、うん。今日はモモこのかまどから離れない。コーネリアさんは二階?」
 入口脇の階段を見やって尋ねる。確かにルースの言う通り、ここにさえ目を光らせておけば王女の守りに問題はなさそうだった。
「ああ。疲れてたみたいでミルク一杯飲んだら寝たよ。あんたの分も、ほら」
 ドブは温めたヤギの乳をカップに注いで出してくれる。本当に何から何まで気のつく子だ。きっと親の教育が良かったに違いない。
「はあ、生き返るなあ。アル兄たちとも合流できそうだし、もうちょっと護衛頑張ろうっと」
「へ? 護衛?」
「あっううん! サールについてからの話ね! モモたち王子に雇ってもらう予定だから!」
 ハッとしてモモは左右にぶんぶん首を振った。
 危ない危ない。アクアレイア王家のプリンセスを運んでいると知っているのはルースだけなのだ。一番世話をしてくれているのはドブだけれど、赤ん坊の身分までは明かせない。
「まあ今も俺たちコーネリアさんの護衛ボランティアしてるようなもんだよな。妙な間違いが起きるよりいいけどさ」
「そ、そうだねー。コーネリアさん物静かで知的な美人だもんねー」
 ボランティアだけどボランティアじゃないんだよ、とは言えずにそっと目を逸らす。話を誤魔化そうとしてモモは「そういえばコナー先生は?」と聞いた。
「こっちには来てないし、隣の民家じゃないかな? 隣っつっても牧場だから結構遠いけど」
「そっかあ。なんか建物のひしめき合ってるアクアレイアとは全然違うんだね」
「ははは、マルゴーは都でもあんなに人住んでないからな。山の傾斜がすごいから住みたい土地じゃなくて住める土地に家建てるしかできないし、そもそもでかい街作るのに向いてねえんだよ」
「ああ、なるほどー」
 今までの道程を脳裏に浮かべながら頷く。平野部なら半日歩けばそれなりの街か村があるけれど、アルタルーペには無人の山小屋が点在するだけだった。あれは宿場を作りたくても作れないゆえの苦肉の策だったのだ。
「なんでマルゴーが傭兵の国になったのか、俺はなんとなくわかる気がする。広い畑を耕そうと思ったら男手が必要だけど、家畜を追ってバターだのチーズだの作るだけなら女子供の手で足りちまうんだ」
 家を継ぐ長男以外は国を出るしかないのだとドブは語る。膝に顎をうずめてモモは小さく相槌を打った。
「うんうん。どこもやっぱり大変だよね、皆さあ……、ふああ……」
 温まってきたせいかなんだか眠くなってきた。大あくびをしている間にドブがどこからか藁袋と毛布を持ってきてくれる。
「俺、階段に座って寝るから。あんたも土間に陣取ってりゃウトウトしてても誰か来たときは気づくだろ」
 さっと寝床の設営を済ませ、少年はおやすみを告げた。一度瞼を閉じたからか、抗いがたい強烈な睡魔に襲われる。家らしい家に泊まれて少し気が緩んだのかもしれない。
(あー……、駄目だ。これは寝ちゃう……)
 鼓膜には強い雨の音が響いていた。他には何も聞こえなかった。
 朝になって、雲が晴れて、逼迫したコーネリアの絶叫がまどろみを引き裂くまで。

「モモさん! モモさん! 起きてください! あ、赤ちゃんが息を――」

 がばりとモモは跳ね起きた。ドブも仰天して階段から転げ落ちる。
 逆さを向いた少年を飛び越えて二階に上がると蒼白な顔をした乳母が尻餅をついていた。彼女の前には柔らかい布の敷かれた長持がある。どうやらこれをアウローラの簡易ベッドにしていたらしい。
 恐る恐る中を覗けば人形じみた赤子が横たわっていた。手首を掴むと冷たくて、体温も脈も伝わってこない。
「な、なんで……?」
 寝起きの動かない頭でかろうじて声を絞り出す。コーネリアも何がなんだかわからないといった様子でしきりに首を振り続けた。
 昨日まで普通だったのに。雨にも濡らさなかったのに。
「…………」
 額に嫌な汗が滲んだ。
 窓の外では愛らしい声で小鳥たちが鳴いていた。









(20160305)