頬に跳ねた涙の冷たさで目が覚めた。
 誰かが側で泣いている。痛いほど強く右手を握りしめられている。
「ルディア……」
 薄く開いた視界には震えて揺れる白い髪。悔恨に歪む薄灰の瞳。
 その双眸と目が合って、心の底から安堵した。
 ああ、また会えたと。この人がいれば大丈夫だと。まだ人の言葉も理解できない頃だったのに。
「もう誰も信じてはいけないよ。ルディア、お前は強くなって生き伸びるんだ……」
 病魔の手から逃れた娘をイーグレットは抱きしめる。今度こそ手放すまいと固い誓いを立てるように。
 温もりに身を預け、ルディアは良かったとひとりごちた。
 ――良かった、あれは夢だったのだ。
 この人は生きている。生きて側にいてくれる。
(お父様、これからも二人でアクアレイアを守ってまいりましょう)
 抱きしめ返そうとした腕は、しかし何も掴めなかった。空を切る感覚にハッと目を開く。瞬間、眩しい陽光が世界を残酷に塗り替えた。

「――大丈夫か?」

 覗き込んできた男の髪は金色で、皮膚も病的な白ではなかった。薄い色味の両眼がルディアを心配そうに見つめる。
 視線を上げれば映るのは晴天。大きく膨れた三角帆。波浪の音さえ掻き消すほどに風はうるさく、見えない強い手で漁船をどこかへ運んでいた。
 船縁で半身を起こし、ルディアは周囲の景色を見渡す。
 来たことのない海域だ。右舷の遠くに青く霞む陸地の起伏に見覚えがない。海の紺碧もアレイア海のそれとは少し違っていた。
「……どこに向かっている?」
 問いかけに槍兵が答える。
「トリナクリア島だよ。知り合いがいるんだ」
 レイモンドが告げたのはパトリア古王国の南方に位置する大きな島国の名前だった。島面積はマルゴー公国と同程度で、南パトリア地方とも呼ばれている。一応は西パトリア勢に数えられるものの、聖王からの干渉をほとんど受けない自由な独立国であった。
「ジーアンや東パトリアにゃ行けねーし、かと言って古王国に入るのもごめんだし、アクアレイアに戻らねーならそんくらいしか行き先ないだろ」
 ちょうど風向きもそっちだし、と槍兵が帆を見上げる。船上はがらんとしており、ルディアと彼の他には誰もいなかった。
 漕ぎ手がたった二人では風任せに流されるしかないというのが実情だろう。それでも今は目指す地があの海の国でなければなんでも良かった。
「わかった」
 短く呟いて立ち上がる。手伝うことはあるか尋ねようとしてふらついた。
「おい、休んどけって。用のあるときは起こすから」
 さっきまで包まっていたケープを腕に押しつけられる。座っていろと促され、ルディアは船縁にうずくまった。
(……こっちが現実なんだな)
 浴びた返り血の臭いがまだ腕や胸甲に残っている。喉には絞められた苦しさが。

 ――何故イーグレットの命より、あんな国の取るに足らない未来なんかを取ったんだ!?

 怒り狂ったロマの顔が頭をよぎって嘆息した。迷わないと決めて剣を抜いたはずなのに。
 掌をじっと見つめる。肉を突き刺した感触が生々しく甦る。
 あの人は納得ずくだった。自分はその意に従った。
(ああする以外なかったんだ)
 言い聞かせても、言い聞かせても、カロの声はそれより大きくこだました。娘なら、本当に父と慕っていたなら剣を抜くはずなかったと。
「…………」
 太陽のまぶしさに目を伏せる。
 夢の続きは見られそうもない。









(20160205)