時はやや遡り、パトリア聖暦一四四一年二月二十日。ニンフィへ向かう船の上でモモ・ハートフィールドは大きな溜め息をついていた。
 乗り込んだのはファーマー家が口利きしてくれた大型ガレー船である。乗員のほとんどはマルゴー公国に到着次第、陸路を駆使して親類縁者や友人を頼る予定らしい。彼らの中に首都サールを目指す者はいないそうで、アウローラ姫の護衛としては今から気が重かった。
 このままでは生後二ヶ月にもならぬ赤ん坊とその乳母を一人で守らなくてはならなくなる。バジルにはどうにかして追いついてほしかった。意外に図太い神経の持ち主だから、素直にケイトに刺されてはいないと思うが、へまをして深手を負っていないか心配だ。
(大怪我してたらアクアレイアを出られないだろうし、とりあえずニンフィで一日待ってみて、来なかったらモモたちだけで出発するしかないかなあ……)
 ふうともう一度息を吐き、船首の船室を振り返る。小さな扉をノックすると「どうぞ」と中から返事があった。
「コーネリアさーん、授乳タイム終わったー?」
「ええ、なんとか今」
 大人が五人も入ったら満杯になる狭い室内で、旅装の上着を羽織り直した女が頷く。乳母の名はコーネリア・ファーマー。天才と呼び声高いあのコナー・ファーマーの妹である。彼女のほうが十歳若く、クールな印象が強いけれど、肩で切り揃えた黒髪と知的な鋭い眼差しはバオゾで一緒だった画家によく似ていた。
「あとはすんなり眠ってくださればいいのですが……」
 腕の中でぎゃんぎゃん喚く赤ん坊に視線を落とし、コーネリアが嘆息する。両親と引き離されたせいなのか、はたまた揺れるガレー船の上だからなのか、アウローラのぐずり方は尋常でなかった。体力の許す限りに泣いて、泣いて、泣きまくっている。
「そのうち旅に慣れてくれるよ。抱っこ代わるから休憩してきて」
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」
 ギエエエと愛らしさのかけらもない絶叫を轟かせる小さな生き物を引き取るとモモは船室を後にする若い乳母を見送った。
 コーネリアは先のドナ・ヴラシィ戦で伴侶を亡くし、アウローラと同時期に生まれた娘も病死してしまったそうである。「お乳の出る女はお前だけだから」と心の傷も癒えないうちに実家の命令で駆り出されたらしく、あまりこき使うのは申し訳なく感じていた。本人は「嫁ぎ先にも居づらかったですし、私などでお役に立てるなら」と話していたが。
(空気重くてちょっと息が詰まるんだよねー。うーん、他にも誰か一緒に来てくれる人がいればなあ)
 モモはよしよしと抱き上げたアウローラを揺すってやる。こちらはこちらで騒音を発生させるばかりだし、なんの気晴らしにもならない。
(あーあ、つまんないの)
 鬱々とした気分に終止符が打たれたのはニンフィに船が着いたときだった。桟橋に降りたモモの目に、見知った少年の後ろ姿が飛び込んできたのだ。

「あっ! ドブだー!」

 そうモモが傭兵団の見習い兵士を指差すと、焚火を囲んで仲間と浜焼き貝を頬張っていた少年がくるりとこちらを振り向いた。
 もしかしてグレッグたちの出発が遅れているのだろうか。期待を込めてぶんぶん手を振る。赤子連れで鈍足のコーネリアを気にしつつ、モモはドブの側に駆け寄った。
「あれ? あんた確か防衛隊の」
「モモだよー! ねえねえ、アル兄ってまだいたりする!?」
「へ? アルって隊長さんだっけ? あの人なら昨夜のうちに先発隊と行っちまったぞ」
 が、生憎予測は外れたらしい。告げられた返答にモモはがっくり項垂れた。さすがに一人では不安だから混ぜてもらえたらと思ったのに。
「あーん! じゃあやっぱり最悪モモたちだけで山越えしないといけないんだー!」
 嘆くモモにドブは「あんたもサールに行くのか?」と尋ねてくる。「その予定なんだけど……」と答えかけたところにヒュウと軽快な口笛が響いた。
「おいおいドブ! いつの間にこんな可愛いお嬢さんと知り合いになったんだよ!?」
 絡んできたのはほろ酔いの青年剣士である。均整の取れた長身を屈め、ドブの肩に腕を回して男はにやつく。汚い、臭い、品がないと三拍子揃った傭兵団の中にあって、異彩を放つ貴公子風の装いと秀麗な顔立ちには見覚えがあった。よくグレッグとつるんでいた副団長だ。
「お前さんも隅に置けねえなあ。ガキだと思ってたら一丁前に……」
「ちょ、ルースさん。違う、違う。この人は王都防衛隊の斧兵で」
「えっ!? 王都防衛隊!?」
 モモの所属を耳にしてルースはその場に固まった。一瞬で酔いから覚めた目が背後の乳母と赤ん坊を見つめる。
「お、王都防衛隊ってことは、そっちの愛くるしい赤ちゃんはもしや……」
 何も聞かずともアウローラの正体を察したらしく、ルースは真面目な顔つきで「他には誰もいないのか?」と声を低くした。モモ以外に護衛らしい護衛がいないので不審に思ったのだろう。
「もう一人いるはずだったんだけど、来れるかどうかわかんなくなっちゃって……」
 事情に通じた者ならいいかと現状を打ち明ける。「女の子だけじゃ心配だな」とルースは大仰に眉をしかめた。
「俺たちと来るかい? 怪我人連れての旅だから、到着は多少遅くなっちまうが」
「えっいいの?」
 思いがけない申し出にモモは瞳を輝かせる。マルゴー人がアクアレイア人の助けになってくれるなんて、チャドの血を引くアウローラのおかげだろうか。
「あっでもモモ、明日までは仲間を待とうと思ってて……」
 置いてきたバジルのことを思い出し、頷きかけたのを取りやめる。長髪剣士は平気平気と手を振った。
「出発なんか明日でも明後日でも構いやしねえよ。なんならあともう一週間、ニンフィでダラダラしたっていいくらいだ」
「ルースさん、いくらなんでもそれはだらけすぎでしょ」
 ドブにどやされてルースはいやいやと反論する。
「折角ここらのシャイな田舎娘ちゃんたちと仲良くなってきたところなんだぜ? そんなに慌てて出発しなくてもさあ」
「もう! ルースさん!」
 船着場に少年の怒声がこだまする。どうやらこのルースという男、見た目の通りの遊び人らしい。
「急に俺がいなくなったらお嬢さん方が寂しがるじゃねえか。お前にあの子らを慰められるわけ?」
「なんなんだよ、その自信。どっから湧いてでてくんの?」
「うーん! そいつはやっぱりこの女神に愛されし顔と肉体からかなあ!」
 わははとルースは陽気に笑う。言動に女をとっかえひっかえしていることが窺えて、モモは目つきを険しくした。
「……コーネリアさん、ああいうタイプは気をつけたほうがいいよ。女だけで山道歩くより安全だとは思うけど」
「ええ、わかりました。十分に注意いたします」
 ぼそぼそと乳母に耳打ちすると警戒気味にコーネリアは色男を見やる。何はともあれ心細い旅にはならずに済みそうだ。




 ******




 茜雲を追い抜いて、景色はぐんぐん後方に流れていく。翳りゆく波を裂き、帆を張った船は力強く前進した。順風はしばらく続いてくれそうだ。これなら日の沈みきる前にニンフィ港に入れるだろうとコナーは北の空を見上げた。
「一旦あなたともお別れですね。二人きりでいられる間に、もっと色々お話をうかがいたかったのに」
 名残惜しげに隣の詩人が見つめてくる。感傷を誘う物言いに吹き出しそうになりながら「何を聞かれてもこれ以上答えられないよ?」と釘を刺した。
「ああ残念。アークの全容はあなたの秘密の箱の中ですか」
 ハイランバオスはおどけて肩をすくめてみせる。何が知りたいか隠そうともせぬ無邪気さは決して嫌いでないけれど、連れ合いになるのはここまでだ。
「知ったところで君にはなんの意味もない。私もあからさまな痕跡は残したくないしね」
「うーん。意味のあるなしを決めるのは私なのではありませんか? まあ聞き出せないのなら自分で調べるだけですが」
 船首に立った青年は水平線の彼方に覗くアルタルーペの山並みに意味深げな視線を送った。「我々の故郷、レンムレン国の北方にも大山脈がありました」と微笑まれ、コナーは緩く口角を上げる。
「山なんてどこにでもあるじゃないか」
「ええ、もちろん。西にも東にもどこにでも山はあります。――そして聖櫃も一つではない。そうでしょう?」
 やれやれとついた嘆息は潮風に攫われた。もう何も教えないと言っているのに、この男は。
「どうせしばらく潜伏しなければなりませんし、思いきってもっとずっと北に足を延ばしてみましょうかね。アークの残骸なら私も位置を特定できていますから」
「そう聞いて私が止めると思わないのかい?」
「思いませんよ。妨害するならとっくにそうしているでしょう? それに私が行き先を明かすのは我が君にヒントを残すためです。もしうっかりジーアン兵に捕まったときは、遠慮なさらず私の情報を売り渡してくださいね」
 詩人は明るく物騒な話を振ってくる。徹頭徹尾変わった男だ。寿命を知ってへこたれぬどころか喜々として盤の上を掻き回すのだから。見ているこちらは飽きないが――。
「おや?」
 上空で大きな羽音が響いたのはニンフィの街が迫る頃だった。なんだと思う間に妙に人慣れした鷹が一羽、船の舳先へと舞い降りてくる。
 翼は見事な琥珀色。胸部から腹部にかけての羽毛は白くふかふかだ。下向きに急カーブしたくちばしは鋭く、墨を塗りつけたように真っ黒である。
「君の使いかな?」
 コナーの問いにハイランバオスは首を傾げた。
「変ですね。記憶違いでなければこの子、ラオタオが狩猟に連れていた鷹だと思うんですが」
 両翼を躍らせて鷹は詩人の肩にとまる。ハイランバオスにも何故ヴラシィで飼われているはずの鷹がここにいるのかわかりかねる様子だった。とりあえず天帝の差し向けた追手ではなさそうだが。
「まあいいです。ラオタオが連絡役によこしてくれたのかもしれません。後で尋ねてみるとしましょう」
 突然の珍客と戯れるうちに船は入江に達していた。頃合いを見計らって姿をくらませるというハイランバオスに別れを告げ、コナーは夕闇深いニンフィの港に降り立った。




 ******




 鼻歌を口ずさみ、軋む板張りの階段を上がる。屋根裏部屋までやって来て、ドブは「あれ?」と瞬きした。ニンフィに滞在する間、負傷兵には粗末ながらも宿があてがわれているのだが、そこに営巣していた鷹が姿を消してしまっていたのだ。
「ええーっ、どこ行っちまったんだよ? 魚食べるかなあと思って買ってきてやったのに」
 剥げた漆喰壁の窓から燃え立つ西空に目を凝らす。ドブが寝床に帰ってくるとすぐさま飛んできてくれたのが、今は羽ばたきも響かなかった。暗い部屋はしいんと静まり返っている。
「……飼い主いたっぽいもんなあ。見つけて帰っちゃったかな」
 それならそれで仕方がない。すっぱり諦めて鎧戸を閉める。利口だったし、懐いていたし、初めて会う気がしなかったから、できれば連れていきたかったけれど。
(あー、うん。名前つけちまう前で良かったと思おう)
 一人うんうん頷いてランタンに火を灯した。見渡せば鷹に貸してやっていた手拭いが座した形を残したまま屋根裏の隅に丸まっている。
「…………」
 母の双眸と同じ色の羽が脳裏に甦り、もう一度だけ窓を開けてみた。しかしやはり美しい翼は夕空のどこにも見当たらない。
 残念だ。あいつと寝ると懐かしい夢を見られたのだが。
(いい加減、死んだ親に執着するなってことなのかな)
 今年で自分も十三になる。アクアレイア人なら商売と航海を学び始める年齢だ。
 大人になって金が貯まれば故郷に帰りたがっていた母を家から逃がしてやるつもりだった。そうできなかった悔いが今もどこかに残っている。
(俺は女の人を騙して結婚したり、ルースさんみたいに何股もかけたりしないぞ)
 断固たる決意を胸にドブは強く拳を握る。
 父はとっくに冥府の人間だから迷惑をかけられることはないけれど、ルースときたら団長不在をいいことに夜通し遊び呆けるわ、部隊に女を連れ込むわ、ろくなことをしないのだから。
(女性が困っているのを放っておけないとか言ってたけど、あの人コーネリアさん狙いなだけだろ……)
 本気の善意なら文句はない。自分もアクアレイア人には優しくしたい。だが女が絡むと途端に信用できなくなるのがルースという人間だ。赤ん坊を抱いた寡婦にまで欲を出すとはドブも思いたくないが。

「ああーっ! あ、あなたは!?」

 と、そのとき階下の酒場で仲間のどよめきが聞こえた。
 なんだろう。そろそろ日も暮れるのに、そんな驚くような人物が訪ねてきたのだろうか。
 治りかけの足を庇いつつドブは屋根裏部屋を出た。そのまま古い階段を下り、騒々しい一階に向かう。
「ヒエ……ッ! お、お噂はかねがね!」
「なんだって!? 先生もサールへ向かっていらっしゃる途中!?」
「だったら俺たちグレッグ傭兵団と一緒に行きましょうぜ! 天下のコナー・ファーマーさんと道連れになれるなんて、こんな名誉はことはねえ!」
(へっ!? コ、コナー!?)
 世界的有名人の登場に小さな店は騒然となっていた。盛り上がる兵士の隙間から紳士然とした黒髪の男を捉え、ドブもごくりと息を飲む。
(コナーってあのコナーか!?)
 パトリア大神殿に主神パテルのブロンズ像を奉納したとか、マルゴー国境に難攻不落の砦を築いたとか、あまたの分野で活躍する生きた伝説みたいな男だ。グレッグも天帝宮で開かれた宴でコナーの妙技を見たことを散々皆に自慢していた。
「ご迷惑でなければ俺らに送らせてもらえませんか? サールに行かれるってことは宮殿に用がおありなんでしょう?」
 カウンターを見やればなんと、あのルースまで女の子をほったらかしで天才画家を口説きにかかっている。これが偉人の力かとドブはただただ驚嘆した。
「ふうむ、君たちとサールにねえ」
 何故こんなにわらわら傭兵がいるのだとコナーは不思議そうに店内を見回す。が、すぐに気にしないことにしたのか、にこやかな笑顔で画伯はルースに返事した。
「送ってくれるというのなら楽をさせてもらおうかな。実は先日バオゾを出てきたばかりでね、近頃の情勢を把握しきれていないんだよ。あれこれ聞かせてくれると助かるな」
 またとない僥倖に後発組がわっと沸く。今日だけで同行者が四人も増えるとは、今度の帰還は賑やかになりそうだった。




 ******




「は? 今から出発? 一週間はゆっくりしていいって言ったのに?」
 心地良くまどろんでいたところを叩き起こされ、モモは不機嫌に応対する。だが怒気の滲んだ低い声に怖気づいた様子もなく、ルースは「いやー、ごめんごめん」と軽く頭を下げて済ませた。
 アクアレイア人居留区の懐かしき仮宿舎には濃い朝もやが立ち込めている。まだ早朝、暁の薄闇がようやく晴れてきたばかりだ。身支度さえ整っていないし、そもそも今日は港に張りつく予定だと話しておいたはずなのだが。
「それがこちらの先生がさ、ジーアン軍から命からがら逃げてきたらしくて。追手のかかる前に山に入っちまいたいそうなんだよ」
「いや、どうもすまないね」
 ルースの死角からひょこりと顔を出したのは半年ぶりのコナー・ファーマーだった。思わぬ再会にモモは「うわっ!?」と奇声をあげる。
「お、お兄様!?」
「おや? コーネリアじゃないか。お前までニンフィにいるとは一体どういうわけだい?」
 だが驚きはファーマー兄妹のほうが大きかったようだ。「へ? お兄様?」と目をぱちくりさせるルースの横でコナーとコーネリアが対面する。
「その赤ん坊は? お前にもようやく子供ができたのかね?」
 目聡く乳母の腕で眠るアウローラに気づき、画家が尋ねた。
「え、ええ。つい二ヶ月ほど前に生まれたのですわ」
「他の皆は? 父上もニンフィにおいでなのかい?」
「いえ、ここには私だけです。アクアレイアがジーアン軍に占領される前に、お父様が私とこの子だけでも逃げなさいと……」
 多少棒読みではあったものの、コーネリアは十人委員会に指示された通りに説明する。無事にサールに着くまではたとえコナーでも赤子が王家の一員だと明かすわけにはいかなかった。
「ふむ、なるほど」
 マルゴーに住む知人のつてを頼るという妹の言に誤魔化されてくれたらしく、画家は続いてモモのほうに向き直る。
「君は王都防衛隊の子だったね? 隊長殿がチャド王子の護衛としてサールに向かったと聞いたのだが」
 そう話を振られ、モモはえっとと慎重に返す言葉を選んだ。
「モモはちょっと出遅れちゃって。今からアル兄を追いかけるところなの」
「ほう。実は私も彼に渡したいものがあるんだ。向こうで引き合わせてくれると嬉しいな」
「アル兄に? うん、それは全然構わないよ。でも……」
 モモはもごもごと返事を濁す。ジーアン軍に追われているという彼に今すぐニンフィを発つのは無理だとは言いにくかった。だがサール宮に着いてからも引き続きブルーノたちを護衛しなくてはならないことを考えるとやはりバジルを置いてはいけない。別行動も視野に入れ、モモはコナーに問うてみる。
「あのさ先生、もう一日だけ待つってできない? 悪いんだけどうちの弓兵がまだ合流できてなくて……」
「弓兵? あ、ひょっとして待ち人というのはバジル君のことかい? しかし彼なら来ないと思うよ。ラオタオに捕まっているのを見たから」
「――は?」
 思いがけない目撃情報にモモは声を裏返した。バジルがラオタオに捕まったとはどういうことだ。
「おそらく技術者としてバオゾ行きの船に乗せられたんだろう。助けられずにすまなかったね。でもまあジーアンは職人を厚遇するから、連れていかれてもまず死にはしないよ」
「え、えええー!? 何やってんの、もぉー!?」
 モモの叫びを聞いて笑顔を輝かせたのはルースだった。「そんじゃ心置きなく出発できるな!」と副団長は十五分後の広場集合を告げてくる。
「命の心配はないみたいで良かったじゃねえか。俺たちは俺たちの旅の心配をしようぜ!」
 軽すぎるウインクに神経を逆撫でされる。何がいいものか。連行されたのはバオゾだぞ、バオゾ。どう考えても後で助けに行かねばならないではないか。
「そんじゃ俺は先に用意して待ってっから!」
 忌々しい気分で仮宿舎を去るルースを見送る。コナーによれば、画家が傭兵団一行に加わることになったのは昨夜の話だそうだった。順番はこちらのほうが先である。なんの相談もなく予定を変更されたと知ってモモの中でルースの評価はますます下落していった。
「はあ……とりあえず荷物まとめよっか。大したもの出してないよね?」
 問いかけに乳母がおずおずと頷く。大人たちの騒動も知らず、小さな姫君は健やかな寝息を立てていた。




 グレッグ傭兵団後発組がニンフィの街を去ったのはそれから間もなくのことだった。百名弱の猛者たちが一列に並び、山越えの始まりである石灰質の洞窟トンネルに入っていく。武装こそ物々しいが、山賊の襲撃に怯える必要のない人数だからか傭兵たちは皆和気あいあいとしていた。
「うわ、暗いなあ。コーネリアさん足元気をつけてね」
「ええ。ゆっくり進みますので大丈夫です」
「赤ん坊抱いてんだから無理すんなよ? 支えが必要ならいつでも俺に言ってくれよな!」
 モモたちが歩くのは先鋒隊のすぐ後ろ、指揮官ルースの背中である。予測に違わず色好みの副団長はコーネリアに馴れ馴れしかった。何気ない会話の中で趣味や好物を聞き出そうとしたり、荷物を持ってやろうとしたり、挙句の果てに「俺がその子をおぶってやろうか?」などと言い出す。
「まだ首も座ってないんだから、抱き方わかってない人は駄目! コーネリアさん、代わるならモモが代わるからね」
 大事な姫君に何かあっては堪らない。モモは早々に乳母の腕からアウローラを避難させ、自らに抱っこ紐を巻きつけた。
「重くないかい?」
 問うてきたのは隣のコナーだ。姪っ子だし、引き取ろうかと手を差し伸べてくる。
「平気平気! いつも斧担いでるもん」
 それも固辞して首を振った。人に任せてハラハラするくらいなら無理のない範囲で自分がやるほうがいい。
「そう言えば先生、どうやってジーアンから逃げてきたの? 祝祭が終わってからもずっと天帝宮にいたんだよね?」
 朝の光も差し込まない深い洞窟に問いかけが響く。コナーは「たまたま通訳係として私もアクアレイアに連れだされていたんだ。あとは適当に隙を見て」と語った。
「王国やノウァパトリアで何かあったのはわかっていたが、戦争や政変だとは思っていなくてね。実はバオゾにいるのはいたんだが、あれから天帝宮の奥に移されて外部の情報を遮断されていたんだよ」
 画家曰く、奥宮には特殊技能者だけを集めたエリアが隠されていたそうだ。十一月にそこに入るように命じられ、アニークとの交流も途絶えたらしい。
「バジル君があそこから脱出するのは難しいだろうな」
「えっ、そんなに監視が厳しいの?」
「いいや、そうじゃない。ただジーアン全土の技術と頭脳が一堂に会する場所だから、次々に興味深いものが提示されて、そのたびにもう少しだけ留まってもいいかなという気になってしまうんだ」
「あ、ああそういう」
 納得してモモは頷く。であればバジルはしばらく放っておいて良さそうだ。一年くらいは楽しく暮らしてくれるだろう。
「アニーク姫は天帝の奥さんになったって聞いたけど、やっぱり利用されたのかな?」
 愚痴を垂れ流すばかりだった皇女を思い出して問う。今や女帝となった彼女がどの程度の権限を有しているのか、またどの程度アクアレイアに利してくれそうかは画家の見解を知っておきたいポイントだった。
「なんとも言えないね。ノウァパトリアに戻るために彼女も望んで天帝の手を取ったのかもしれないし」
「そんなしたたかなタイプには見えなかったけどなあ。アル兄と仲良くしてたし、アクアレイアの味方になってくれるといいんだけど」
 淡い希望を述べるモモにコナーは苦笑いを浮かべる。「どうだろうね」と囁く彼の掌には片方だけのピアスがあった。
「ところで王国のほうはどうだったんだい? 私が留守にしている間」
「どうって、もう滅茶苦茶だよ。ジーアンには降伏するし、王家は追い出されちゃうし、明るい明日が全然見えないって感じ!」
 もっと詳しくと頼まれてモモは秋からの出来事を羅列する。ハイランバオスがアクアレイア商船の寄港を認めたこと。海軍主力の護衛つきで商船団を送り出したらドナ・ヴラシィの脱走兵に攻撃されたこと。彼らの敷いた包囲網にはパトリア古王国軍も加わっていたこと。一連の騒動の裏にカーリス共和都市の豪商ローガン・ショックリーがいたことも話した。他にはリリエンソール親子が復帰したことや、外国商人にも呼びかけて市民軍を結成したこと、混乱の中でアウローラ姫が生まれたことも。
「ふむ、想像以上に陛下は粘られたと見える。君たちも大変だったね」
 労いの言葉にモモは力なく首を振った。大変なのはルディアやイーグレットだ。民衆を守るために自分たちが犠牲になって。
「コーネリア、お前も苦労したことだろう。もし生活に困るようなら金の工面ぐらいは……」
 続いて画家は妹の背に声をかけた。だがコーネリアはちらりとコナーを一瞥したきりウンともスンとも言わず、素っ気ない態度で歩を速めてしまう。
「……あれっ? 先生のとこ、ひょっとして兄妹不仲?」
 ひそひそと尋ねたモモに画家はうーんと唸り声を上げた。
「あの子は昔からああなんだ。末っ子だし、家を空けてばかりの私とはあまり関わりがなくってね。距離感を掴めないのかもしれないな」
「フーン。モモは先生がお兄ちゃんだったらアレ買ってー、コレ買ってーっておねだりしまくっちゃうなあ」
「はははは」
「まあコーネリアさんは先生に似て賢そうだもんね。わざわざ人に頼らなくても自分でなんとかできちゃうんだろうね」
「あの子がかい? ふふ、だったら安心なんだが」
 話し込んでいるうちにトンネルは出口に近づいていた。踏み均された階段状の岩場が終わり、晩冬の控えめな木漏れ日が視界を薄らと照らし始める。
 暗闇を抜けるとそこはもう深い山の中だった。見上げても天辺がわからないほど育ったモミの太い樹林に息を飲む。樹冠の向こうには更なる高み、氷雪に閉ざされたアルタルーペの白い連峰がそびえていた。
 潮の香りはどこにもしない。異国へやって来たのだとモモは唇を引き結んだ。









(20160213)