――置いていかれた! また置いていかれた!
 いつものことだと割りきるには状況はあまりに悪く、もぬけの殻の宿営地で愕然と立ち尽くす。バラバラに逃亡するのはさして珍しいことでなくても他の仲間には「逃げろ」とくらい伝えるくせに。
(やっぱりジェレムは俺を憎んでいるんだ)
 父とも呼ばせてくれない男の仕打ちに足が震える。こんなことにはとっくに慣れたはずなのに。
「何をしているんだ! カロ、行くぞ!」
 わななく腕を引いてくれたのはイーグレットだった。燃え盛る木々の間を、灰色の煙の中を、ふたりぼっちで逃げ惑う。不案内な北の地で、どこへ向かうのが安全なのかもわからないまま。
 火の手はあちこちに上がっていた。恐ろしい断末魔も四方八方で轟いている。
 峠村で味わった災難の比ではなかった。荒々しい戦士たちに姿を見つけられそうになり、咄嗟に大樹のうろに隠れる。
 だが身を潜めたら今度は出られなくなってしまった。子供の足でこの混乱を突っ切るより、危機が引き揚げるのを待ったほうが賢明に思えたのだ。
 炎と賊が触れずに去ってくれるのを祈った。息を殺し、気配を殺し、カロとイーグレットは闇を待つ。太陽さえ沈んでしまえばという希望は、白夜の季節を知らなかったから持てたものだった。
 ロマの一団が森と湖の大地に辿り着いたのは夏の初め。ジェレムはこの地にトナカイと暮らす遊牧民族カーモスと懇意で、彼らの仕事を手伝いながら夏を過ごすつもりだったらしい。
 カーモス族の長は赤ら顔を綻ばせ、カロには理解できない言語で友人を歓迎した。会話の内容はよく聞き取れなかったが「最近はトナカイを連れて動ける土地が狭まっている」「神の呪いを受けた男が襲撃を繰り返すのでこんな奥地で大人しくしていなければならない」とつらい近況が語られたようだった。
 彼らは愚痴をこぼしたわけではない。北に住むロマたちも巻き添えを食らい、捕虜同然に連れ去られていると警告してくれたのだ。
 しかしロマが売り物にされやすいのはどこでも同じことだった。ジェレムは「普段通り気をつけるさ」と簡単に返しただけだった。
 油断はしていたと思う。賊は例外なく船で現れるとのことだったし、滞在地は海から遠く隔たっていた。森は本当に穏やかで、湖も――もっとずっと西のほうで、たくさんの川を介して海と繋がる湖も――まだ水面の静けさを留めていたのだ。
 戦火に包まれたのは夜。北の地特有の明るい夜だった。
 地平線に半ばまで身を隠し、淡い黄色の太陽が惨劇の始まりを覗く。喫水の浅い櫂漕ぎ船で天然水路に忍び込んできた海賊たちは、奇襲に飛び起きて右往左往するカーモス族を次々と斧の餌食にしていった。
 鮮やかな青地の衣装が朱に染まる。血溜まりにぱしゃりと足音が跳ね、震え上がったトナカイたちが逃げ出した。
 視界に入った犠牲者の中にジェレムや他のロマはいない。それを良かったと言っていいかはわからなかったが。
 空洞に身を押し込めたカロとイーグレットにできたのは、眼前の光景に硬直することだけだった。握り合った手は冷たく、濃くなる一方の血の臭いにむせ返る。
 そのわずかな音を気取られ、ついに荒くれ者の一人がこちらを振り向いた。もはや成す術はなかった。


「痛っ……!」
「大丈夫か、イーグレット!」
 無造作に放られた甲板で身を起こす。海賊たちは戦闘を終え、大半の男が船に戻っているようだった。
 運がない。もうほんの数分やり過ごせたらこんな事態にはならなかったのに。
 拘束されてはいないものの、捕虜二人を取り囲む多数の屈強な戦士を相手に下手な動きは見せられなかった。湖水に飛び込めないものか見回してみるが、望みを託せそうな隙はない。
 金髪碧眼の賊どもは「戦利品」にちらちら視線を送りつつ何事か囁き合っていた。言葉はカーモス族のそれと同じに聞こえるが、意味までは判別不可能だ。
 だが話を理解する必要はなかった。こうして生け捕りにされたということは殺されるのではなく売られるのだろう。さもなくば、一生こいつらの船を漕ぐ奴隷にされるかだ。
(くそっ! 早くなんとかしないと……)
 焦るカロを脇にして、行動を起こしたのはイーグレットだった。おもむろに立ち上がった彼ははっきりした声で「我々をどうするつもりだ?」と尋ねた。
 不思議だったのは彼の口を出た言葉の響きがどこか普段と違ったことだ。後で聞いたが、イーグレットが喋ったのはアレイア語ではなくパトリア語だったらしい。いわゆる西パトリアの言語は総じて古いパトリア語を基礎としているので、船であちこち出向く者になら通じるだろうと踏んだのだそうだ。
「――ちょうど今、それを相談してんだよ」
 イーグレットの狙い通り、頭から灰色熊の毛皮を被った若い男が歩み出た。他の賊たちが一斉に道を開けたので彼が集団のボスだとわかる。あちらは随分崩れたパトリア語もどきで話した。
「何しろ白皮のパトリア人と異色目のロマだろ? 前代未聞の組み合わせだしな」
 台詞にぞっと悪寒が走る。こんな連中にみっともない右眼を見られた自分が腹立たしくて仕方なかった。イーグレットのことだって、ちゃんと隠しておかねばならなかったのに。預かり役が聞いて呆れる。もし彼にまで失望の眼差しを向けられたら自分は――。
「この子は助けてもらえないか?」
 頭上で響いた声に耳を疑った。気がつけばイーグレットは細い背中にカロを庇って立ち塞いでいた。
「こういった場合、奴隷商に売られるのが常と聞く。彼を降ろしてあなた方が損をした分は私が払おう。それではいけないか」
「何を言い出すんだ!」
 慌てて腕に飛びつくが、イーグレットは無視して交渉を続行する。身代金を支払うという代替案に興味を示して熊頭が距離を詰めた。
「……ふーん? でもよ、こうするとお前の手持ちはなくなっちまうけど?」
 問いかけと同時、不躾な手がイーグレットの懐を探り、銀貨の詰まった袋を奪った。だが卑劣なやり方は想定済みだったらしく、彼は眉をしかめもしない。
「当てはある。信じられないなら金を受け取るまでこの子を降ろさなくていい。ただ絶対に傷つけないと誓ってほしい」
「ほー、当てってのは?」
 首領に対するイーグレットの態度は堂々としていた。しかしよく見れば指先は震え、恐れを誤魔化すようにして拳が握り込まれている。額には汗が滲み、ケープからはみ出た足は今にも崩れそうだった。
「……故郷に帰ればそれなりの身だ。人質は買い戻すのが通例だし、私の身柄を引き渡すときに彼の分も上乗せて請求してくれ」
「イーグレット、駄目だ。そんなことをしたら裏切り者に見つかってしまうんじゃないのか?」
 声を潜めて尋ねるが、曖昧に苦笑される。だがその笑みはすぐに力強いものに変わった。
「カロ、いいんだ。君は何も心配するな。そうなったらそうなったとき考えるさ」
「でも……!」
「いいと言ったらいいんだ」
 決死の横顔を見るのは二度目だ。一度目は彼にも自分を助ける理由があった。そうしないとジェレムたちと合流できなかったから。だけど今は。
(どうして……)
 どうしてイーグレットは自分に優しくしてくれるのだろう。同じロマにさえ「心配するな」なんて言葉はかけてもらった覚えがない。いつも皆、どこかで野垂れ死んでくれと言わんばかりで。実の親だってそうなのに。
「どこぞの国の金持ちがなんでロマのガキなんか守ろうとする? 変わった色の右眼だし、売り飛ばす相手がもう決まってるのか?」
「違う。この子が酷い目に遭うのは嫌だと言うだけだ」
「だからなんで? まさか友達だってのか?」
 問われてイーグレットは目を瞠った。そのまま彼はちらりとこちらを一瞥し、思いもよらない台詞を告げる。
「……ああ。彼がそう言ってくれるなら」
 その瞬間、胸に受けた衝撃を表す言葉はまだ知らなかった。
 驚いたのはカロだけでなく敵の首領もだ。熊頭を前後に揺らして男は大笑いした。
「うわっはっはっは! 友達、そうか、友達か! ……それってこいつが隻眼になっても変わらない友情?」
 太い腕に首根っこを掴まれて甲板に引き倒されたのは直後だった。回転した世界にイーグレットの「やめろ!」と怒鳴る声が響く。
 瞑った目を開いたら鋭い刃が迫るのが映った。首領の注意がこちらに向いていると気づいてカロは目いっぱいに叫ぶ。
「湖に飛び込め! 今のうちに逃げろ、イーグレット!」
 少しでも彼が逃げやすくなるように賊の長い金髪を引っ張る。さっさと行けばいいものを、イーグレットは愚かにもカロを見捨てなかった。結局まとめて取り押さえられて最初の状態に逆戻りだ。
「俺の目を抉るのに何か意味があるならそうすればいい! 代わりにこいつは見逃してくれ!」
 通じるかどうかわからないアレイア語で懇願する。こうなればもう拝み倒すしか方法はなかった。
「それはいけない。カロ、君のほうが船を降ろしてもらうんだ!」
 イーグレットも頑なに首を振る。彼はこちらに余計な口を出させないため、いくら払えば要望が通るか具体的な値段を聞き出そうとした。――そうしたら熊頭が再度破顔した。
「くっくっく、なるほど、なるほど、よーくわかった! 確かにお前らは友達だわ!」
 男は仲間に手招きすると北の言語で何やら愉快げに話し始める。さっきカロが抵抗したことで高まっていた緊張が見る間に和らぐのがわかった。戦士たちは頬を緩ませ、にこにこ笑いかけてくる。
(な、なんだ?)
 わけがわからずイーグレットと顔を見合わせた。急な展開に不安を募らせていると「お前らの処遇が決定したぞ!」と肩を叩かれる。
「ロマと一緒ってことは旅人だよな? どこを目指してる途中だったんだ? 近くまで俺らの船で送ってやるよ」
「!?」
「えっ!? な、何故……」
「いやー、元々保護目的で乗せたんだけどな。ビビらせて悪かったよ。俺らがこんな格好してるもんだから、悪党だって誤解してるのが面白くてつい」
「え!?」
「あんなところに隠れてるからトナカイ野郎がイカれた儀式に使う予定の生贄かと思ったぜ。実際どうだったんだ? あ、やっぱ違った?」
 儀式だの生贄だの知る由もない言葉に二人揃って首を振る。
 ポカンとしているカロとイーグレットに首領はイェンスという名を名乗った。海賊は海賊でも彼は国の依頼で動くそうで、熊の毛皮を脱いでみれば鼻の上の大きな傷と顔に刻まれた紋様以外、さっぱりした好青年だった。
「も、目的地は特にないんだ。我々は岸に戻してもらえれば……」
「けどカーモス族は追い払っちまったし、戻ったところで何もないぞ。二人旅か? どうせそのナリじゃわけありだろ?」
「わけありはわけありだが、二人旅では……。いや、二人旅になってしまったのかな……」
 イーグレットはカロにジェレムの逃れた先がわかるか尋ねた。今まではただただ北に進んでいたから簡単に見当をつけられたが、雪原の広がるここより更に北へ向かうとは考えにくい。本当に迷子になったのだと理解するのにさして時間はかからなかった。
「あれっ、もしかして俺らのせいで仲間とはぐれちまった感じか?」
 イェンスはばつ悪そうに頭を掻く。襲撃は計画通りだったそうだが、無関係の人間を巻き込むつもりはなかったと詫びられた。
「そんじゃそのジェレムってのが見つかるまでウチにいればどうだ? ここでこのまま降ろしたんじゃ俺らも後味良くねえし」
 意外な誘いにカロとイーグレットは面食らう。遠慮は不要と言われても二つ返事で頷けることではなかった。まだイェンスが信用に足る男かもわからないし、ロマの自分やイーグレットがこういた集団に混じるのは――。
「おっ、見た目のせいで嫌がられるんじゃねえかって心配してる? だったら逆だぜ。寧ろ親近感しかないね。俺の船に乗ってんのは、全員忌み子だの邪神憑きだの曰くつきの爪弾き者ばっかだからな!」
 わははとイェンスは腕を組んで笑った。首領の言葉に嘘や誇張はないらしく、パトリア語のできる船員が中心になって「降りるなんてもったいない!」「俺らみたいなのにこんないい船はないぞ!」と引き留めてくる。
「……」
 カロはイーグレットと目を見合わせた。
 急いでジェレムを追いかけたところでまた置き去りにされるに決まっている。それなら彼らに同行したほうが安全に過ごせるかもしれない。もちろん簡単に気を許すわけにはいかないが。
「じゃあ……」
 思案ののち、イーグレットが申し出に頷くとイェンスは薄く青い目をぱっと輝かせた。満面の笑みで歓迎の意を述べられる。
「二人とも、さっきはいいもん見せてくれてありがとな! パトリア人もロマも勝手な奴らだとばかり思ってたが、痺れる男もいるじゃねーか!」
 他人に握手を求められたのは二人ともこのときが初めてだった。
 イェンスの手の温かさより、カロには友達という言葉のほうが忘れられないものとして深く刻みつけられたけれど。




 ******




 休ませていた馬のいななきに目を覚まし、カロはハッと身を起こした。
 昔の夢かと息をつく。まだこの右眼を忌むべきものと疎んじていた頃の。
 イーグレットに出会わなければ、イェンスが居場所をくれなければ、今でも自分はロマの仲間に認められたくて空回りを繰り返していたに違いない。無駄なあがきと気づかぬふりをしたままで。
(……ここ数日、古い記憶ばかり甦るな)
 新しい馬の調子を見ながら嘆息した。思い出はどれもかけがえないものなのに、何故か心を強張らせる。胸騒ぎは収まらなかった。いざというときあの男が我が身を顧みないと知っているから。
「おい、出発するぞ」
 太い樹の根元で丸まっていたアイリーンを揺り起こす。まだ眠たげな彼女と朝食を済ませ、さっさとあぶみに足を掛けた。
 早くイーグレットの無事を確かめたい。アクアレイア人の好き勝手できないところへやってしまいたい。
 海沿いをもう二、三日南下すればコリフォ島が見えるはずだ。あの島は対岸と距離がないから最悪泳いで渡ればいい。とにかく近くまで辿り着ければ。
(イーグレット、俺は今度こそお前の助けになってみせる)
 いつも肝心なときに何もできないのが悔しかった。他の誰でもなく彼のためにもっと強くなりたいと願った。
 イェンスの船で教わった戦いの方法。独力で磨き続けた腕を、今使わずしていつ使う。役に立とうなんてしなくていいと、いてくれるだけで救われるんだとイーグレットは言うけれど、それでも自分は。
(二十年前の過ちは繰り返さない。ためらわずに言ってやる。お前は間違った道を歩もうとしていると)
 十六のとき、それができなかったから長い間離れ離れになってしまったのだ。
 だから迷わず、自分は自分の思った通り、救うべきものを救いにいく。




 ******




 一夜明け、今朝もまた気晴らしの散歩に行くのかなとのんびり待機していたレイモンドたちに手渡されたのは本格的な掃除用具一式だった。
「コリフォ島を出るのは難しいだろうが、要塞を出るのは可能だと思ってね。トレヴァーと相談して丘の空き家に移ることにしたのだ。すまないが片付けるのを手伝ってもらえないかな?」
 そう乞われたときはまさかと思ったが、どうやらイーグレットは本気で引っ越しを決行するつもりらしい。ルシオラの丘に着くなり箒を掴み、廃屋の隅を掃き始め、そのあまりのシチュエーションにしばし呆然としてしまった。
 いや、だって、君主自ら清掃だなんて。この草だらけの一軒家を新しい城にするだなんて。
「とりあえず我々は雑草を引っこ抜いていきますね。ゴミと一緒に掃き出していただけますか?」
「うむ。頼んだよ」
 ルディアのほうは昨日の時点でこうなる可能性が頭にあったようだ。「お前も早くしないか」と叱られ、ハッと天井の蜘蛛の巣剥がしや蔓草取りを開始する。今日は頭を打たないように気をつけながら。
「ああ、焦らなくて大丈夫。何も一日で終わらせる必要はないから」
 かけられた優しい声に振り向けばイーグレットは鼻歌など口ずさんでいた。箒がまるで櫂みたいで、王はご機嫌なゴンドラ漕ぎに見える。砦にいられなくなったことは特に問題にしていないらしい。
 確かにここで暮らしたほうが息は詰まらずに済みそうだ。レイモンドも不憫がるのはやめにして掃除に精を出そうと決めた。だんだん追いやられている感は否めなかったけれど。
(だけどこんなとこに引っ込まなきゃならねーくらいだもん。ジーアンももう『アクアレイア王にはなんの力もない』っつって見逃してくんねーかな)
 淡い期待を込めてブチブチ草を抜く。幕屋暮らしの遊牧民にはこの凋落ぶりが伝わらないかもしれないが、期待するくらい許されるだろう。イーグレットが挫けていないのがまだ救いだ。
「ルールー、ライライ、ルールー、ライライ……」
 興が乗ってきたらしく、響く歌声には熱がこもり始めていた。変わった抑揚のつけ方に「上手いっすね」と賛辞を送る。レイモンドには三年ほどゴンドラ漕ぎの仕事を手伝っていた時期があるが、名歌手揃いの彼らの間でもこういう曲が歌われているのは聴いたことがなかった。
「おや、誉めてもらえるとはありがたい。私などカロに比べれば全然なのだが」
 照れ臭そうにイーグレットは謙遜する。
 昨日の思い出話のおかげか今日も王様はお喋りだ。ロマの中には「ロマの喉」と讃えられる飛び抜けた才能の持ち主が必ず一世代に一人はいるのだと教えてくれる。そう呼ばれて差し支えない資質をカロは有していたのだとも。
「彼が代々ロマに伝わる望郷の歌を聴かせてくれたときは本当にすごかった。途中までしか知らないとかで滅多に歌ってくれなかったがね」
「へえー。確かにロマって他は散々でも音楽だけは黄金だって言われますもんね」
「ああ。しかし彼らが我々に歌ってくれる歌の大半はお遊びさ。『ロマの喉』を使わなければ歌いこなせない本物の歌は大切に隠されている。まあカロの場合、好みでアクアアレイアの抒情歌ばかり歌っていたんだが」
「あっ、それ知ってます。レガッタで歌ってたやつでしょう? 俺も歌えますよ!」
 来たれ我が軽舸に、とレイモンドは喉を震わせた。この歌なら大の得意だ。小さい頃、母がよく子守歌にしてくれた。
 君主の優勝にあやかって「酒神と烈女のゴンドラ」が大々的に流行したのは建国記念祭の後である。それまでほとんど知られていない歌だったから「二番を教えてくれ」「三番を教えてくれ」とよく頼まれた。まるで自分のほうが生粋のアクアレイア人になったみたいに。
「愉しみたければ今すぐに、今日は再び巡らぬものを……」
 終わりまで歌い切るとレイモンドは瞼を開く。送られた拍手に愛想良く笑い返した。
 そろそろ羽目を外しすぎだとルディアにどやされる頃だろうか。そう思って振り返るが、彼女は黙って耳を傾けているだけだった。
 これならもう少し話に花を咲かせていても良さそうだ。壁の奥に生えた太い根っこを引き千切りつつレイモンドはイーグレットに問いかけた。
「あのー、ところでカロって姫様の名付け親なんすよね? 『ルディア』ってオーロラって意味のロマ語だって聞きましたけど、やっぱスゲー綺麗だったんすか?」
 ニヤニヤしながらちらりと姫君を一瞥する。予想通りそこには吊り上がった双眸があった。「余計なことを聞くな馬鹿」なんて顔をされるとますます悪戯心が盛り上がってしまう。
 まあいいではないか。肉親が誰かに自分の話をしているところなどなかなか見られるものではない。イーグレットならルディアを誉めるに決まっているし、せいぜい真っ赤になって聞いていればいいのだ。
「ああ、あれはとても綺麗だった。あの子もオーロラに名前負けしない美しい女性に育ってくれたな」
「ですよねー! 姫様美人ですもんねー! しかも気前が良くて、肝も座ってて」
「ふふ、そうなのだ。淑やかに見せているがあの子は並みの男よりよほど芯が強い。わかってくれる者がいて嬉しいよ」
 怒るに怒れず背中を向けて黙り込むルディアの耳が赤いのに満足し、くくっとレイモンドは笑う。さすがに後が恐ろしいのでこれ以上突っつくのはやめにするが。
「オーロラってどんな感じなんです? 北のほうでないとちゃんと見れないんでしょう? 俺でっかい夜の虹みたいなのイメージしてるんすけど」
 さりげなく王女の話題を終えると王はいいやと首を振る。
「虹とは違うな。暗い空に突然光の筋が現れて、それが伸びたり縮んだり形を変えながら天の彼方で波打つのだ。色も様々で、七色以上のときもあれば一色だけのときもある。私が初めて見たオーロラは淡いエメラルドグリーンだった。青い闇に揺れる姿はアクアレイアの海を思い出させたよ」
「おお、姫様にぴったりじゃないすか!」
「現地ではあれが空に出るときは神々が争い合っているのだと言われていた。カロは魂の通り道だと話していたし、パトリア神話によれば女神アウローラの化身だから、何が真実かは定かでないがね。伝説など軽々と超越した、幻想的な美しさだったのは確かだよ」
「へええ、俺も見にいってみたいっす!」
 興味を示すレイモンドにイーグレットは「そうするといい」と頷いた。
「今は君たちの手を借りているが、ゆくゆくは私も一人で暮らせるようになるつもりだ。そうしたら二人とも行きたいところへ行きなさい。レイモンド君は北の人間と風貌が似ているし、人懐っこいからきっとすぐ仲良くなれるよ」
「えっ!? いやいやいや、陛下を置いてコリフォ島を出る気はこれっぽっちもありませんけど!?」
 頭と右手をぶんぶん振ってレイモンドは「俺、護衛ですしね?」と強調する。
 海軍や街の人間から変な要望書を受け取って弱気になっているのだろうか。心配しなくても陰口を叩いたり邪険に扱ったりしないのに。大体そんな不敬をしたらルディアが激怒するどころではない。下手をしたら絶交ものだ。
「そうです。いきなり何を仰っているのですか。陛下をお一人になんてできるはずないでしょう? 我々はマルゴーに逃れた姫の代わりにと、こうして側にお仕えしているのですから……!」
 王女も草抜きの手を止めて苦言を呈する。本人がルディアの代わりになどと言うと妙に切ない。本当は父親のためにここまでついてきた孝行娘なのに。
「レイモンド君、ブルーノ君」
「……」
 別の名前で呼ばれてルディアは苦しげにうつむいた。そんな彼女を見かねてつい声を張り上げる。
「お、俺ってそんな北っぽい見た目なんすかねー!? 確かに父親外国人だし、ちょくちょく言われることはあるんすけど!」
 強引な話の逸らし方だがこの雰囲気さえどうにかできればそれで良かった。イーグレットも深刻になるのは避けたかったらしく、こちらに調子を合わせてくれる。
「あ、ああ。金髪にも色々あるが、君みたいな明るいブロンドが多いんだ。背も高いし、瞳も淡い色合いだし」
 一つ一つ類似点を挙げながら王はレイモンドを観察した。そのうち何か思いついたのか、顎に手をやってうーんと唸り始める。
「……レイモンド君、ときに君は顔に落書きをされると不愉快かな?」
「はっ?」
「植物の汁で模様を描いてみてもいいかい?」
「えっ? いや、まあ、構いませんけど」
 意図の読めない頼み事にレイモンドは首を傾げた。ルディアに視線を送ってみるが、彼女にも王の真意はわからない様子である。
 イーグレットは外に出て早咲きの赤い花を取ってくると、花弁を丸めて指で押し潰した。その汁が大人しく屈むレイモンドの鼻の上になすりつけられる。頬には線を、額には何かよくわからない記号を描かれた。
「……えーっと。これってなんかのおまじないっすか?」
「いや、君に北の人間の特徴があるというよりも、単に知人に似ているのかなと思ってね」
「はあ。陛下のお知り合いに」
「うん、やはり似ているよ。……失礼だがお父上のお名前は?」
 問われてレイモンドは首を振った。「や、それが知らないんすよね」と苦笑いで頭を掻く。
「一度も会ったことなくて。母ちゃんも行きずりに近かったみたいで」
「む、すまない。それは悪いことを聞いてしまったかな」
 イーグレットは申し訳なさそうに謝罪した。「いいんす、いいんす」とまた首を横に振る。
「そうだ。だったらカロに誰かと似ていると言われたことは?」
「いやー、それもないっすねー」
「そうか……。まあそうだな、そもそも彼はロマ以外の人間の区別が雑だからな……」
「そんなに俺とそっくりな奴がいるんすか? あのー、陛下には悪いんすけど、俺できたら父親が誰かとか知りたくないんすよね。母ちゃんに俺のこと産むなって言ったみてーだし、養育費なんかもちろん置いてっちゃくれなかったし、露ほどの感謝もないっつーか。大体そんなちゃらんぽらんが陛下のお知り合いなわけないっすよ!」
 こっちから話振っといてすみません、とレイモンドは頭を下げた。会いたい相手ではないと匂わせればイーグレットもそれ以上の詮索はしないでくれる。
「すまない。少々軽率だったようだ」
「あ、いえいえ! 全然大丈夫なんで、陛下はお気になさらず!」
「しかしレイモンド君」
「本当に大丈夫なんで! まったく気にしてないんで!」
「…………」
 話が終わったのは良かったが、またしても居た堪れない空気になってしまう。明るく楽しく過ごしたいだけなのに、どうして現実は逆向きに転がるのだろう。
 レイモンドは己の立ち回りの悪さを反省した。いつもなら確実に避ける話題だったのだから、素直に避けておくべきだったのだ。
(ほんっと父親のことだけは毎回ロクな思いを――)
「経済支援を得られなかったなら、あの街で生きていくのに大変な苦労を積み重ねたことだろう。アクアレイアの身内びいきは極端だからね」
 不意の言葉にレイモンドは目を瞠る。顔を上げればイーグレットが心痛深い眼差しでじっとこちらを見つめていた。
「…………」
 声が出なかったのは驚いたせいだ。立ち入ったことを尋ねた無作法に対してではなく、福祉の網から漏れた子供がいたことに対してそんな顔をしてくれるとは夢にも思ってもいなかった。ついこの間まで、王国の一番高い場所にいた人間が。
「苦労したのだね」というよりは「苦労をかけたね」という響きで、知らぬ間に唇の端が持ち上がる。返答は静かな声で、ごく自然に紡がれた。
「……もう昔の話ですよ。助けてくれる友達もいたし、不幸だったとは思ってません」
 沈みかけていた薄灰色の眼差しに温かいものが戻ったのを見てほっとする。イーグレットはそうかと呟き、微笑んだ。
「それなら良かった。友人は何よりの財産だ」
 ハンカチを手渡され、湧水で顔を洗ってくるように言われる。「落書きなんかして悪かったね」と改めて王は詫びた。
 ――なんだか憎めない人だ。同胞重視の政策を押し進めていたのは他ならぬ王家だったというのに。
(そりゃそうだよな。あの人自身はなんの恩恵も受けてねーんだし。俺だってそんなの責めらんねーや)
 アクアレイア人がアクアレイア人だけで一致団結すればするほど「その他」に分類される自分やイーグレットは輪に入りにくくなる。国としてはそのほうが強いのだろうが、不条理な話だ。
 清水にハンカチを浸して顔を拭うとレイモンドは空き家に引き返した。もういつもの自分に戻っていると思うけれど、念のためにペチペチ頬を叩いておく。
「うおっ!」
 勝手に開いた玄関に跳び退ったのは直後だった。中から出てきたルディアが声に驚いて身をすくめる。彼女の腕には溜まった雑草が集められていた。
「な、なんだよもー。びっくりさせんなよー」
 何も同じタイミングでゴミ捨てなど行かなくてもいいではないか。おかげで心臓が止まるところだった。
「レイモンド」
 と、後ろ手に扉を閉じられてレイモンドは怪訝に眉根を寄せる。道を譲って待っていてもルディアは動かず、黙ってこちらを見上げるのみだった。
(な、なんだ?)
 常ならぬ空気に身構える。一体なんの用件だろう。そこをどいてくれないと中に入れないのだが。
 もしや今しがたの応対について説教されるのだろうか。君主に対してなんだあの態度はと。
「あの……、ありがとうな」
 一瞬幻聴かと思った。あまりにも予想外の台詞すぎて。
 レイモンドはぱちくり瞬きする。ルディアに礼を言われるなんて、一体いつぶりのことだろう。しかもこんな、脈絡もなく。
「はっ? えっ、急に何言って」
「お前と話すとあの人少し楽になるみたいだ。あまり認めたくはないが、来てくれて良かったのかもしれない。私だけではこんな風にはいかなかっただろうから……その」
 小さな声で感謝を告げられ、足の裏やらこめかみやらがむず痒くなる。斜め下に逸らされた視線と薄紅色に染まった頬が幸せな気分を増幅させた。へへ、と思わず声に出してしまう。
「へへへへ、やっぱそうだろ? そうだったろー?」
「まったく、すぐ調子に乗る! そのニヤけ面はとても苦労人には見えないな!」
 半分本音だろう憎まれ口にレイモンドは胸中で当たり前だよと答えた。苦労人に見えないから面白がって近づいてきてもらえるのだ。いつもピリピリして冗談の一つも口にせず、何度会っても顔や名前を覚えない陰気な混血児相手におこぼれを恵んでくれるアクアレイア人がどこにいる。
「誰も俺にシリアス求めてねーじゃん。せめて愛嬌くらいなきゃ余所者にしか見えねーガキのことなんか誰も助けちゃくれねーしさあ。あ、アルは別だけどな?」
「あいつ稀に見るお節介だから」と昔を思い出して笑う。ルディアも「そうだな」と頷いた。彼女は彼女で思い当たる節があったらしい。
「私もアルフレッドには思いきり叱り飛ばされた。父以外で自分の損得に関係なく諌めてくれた人間は初めてだったよ」
 軽やかな笑みに少しだけ胸がもやもやする。まっすぐすぎて不器用な友人を誉めてもらって嬉しいはずなのに。
(姫様ってアルのこと結構買ってるよな)
 自分はあまり素直に頼ってもらえないが、騎士にはそうでもない気がする。あちらは隊長だからというのも大きそうだが。
(ちえっ、俺も役に立ってるつもりなのに)
「陛下がこの家に住むんだったら、あんたも家事を覚えなきゃじゃね? それこそアルに習っときゃ良かったんじゃねーの?」
 つまらない対抗心を払うついでにお姫様をからかった。やはりそう思うかと頭を抱えたルディアに「アニークは鶏を捌けるレベルまでいったらしいぞ」と囁くと眉間のしわが一層濃さを増す。
「……すまんが教えてくれるか?」
 殊勝な問いにレイモンドは目を丸くした。ついさっき自分はなかなか頼ってもらえないといじけたばかりなのに。
「おお、いいぜいいぜ! 任せとけ!」
 わははと笑って胸を叩く。炊事でも洗濯でもどんと来いだ。姫君の望み通り、手取り足取りなんだって面倒を見てやろうではないか。
(そしたら姫様、また『ありがとう』っつってくれるかな?)
 想像だけで勝手に頬が緩んでくる。悪くなさそうな報酬だ。
 その後の片付けは大いに捗った。さすがに一日では廃屋の半分も綺麗にならなかったので、作業は明日に持ち越すことになったけれど。
 とにかくよく働いた。今夜は砦の硬い椅子でもぐうぐう眠れそうだった。




 ******




 月光や篝火を反射する水辺の少ないコリフォ島では太陽が沈んだ途端真っ暗になる。続き部屋の二人におやすみを告げ、イーグレットは寝床に入った。
 久々の労働らしい労働に投げ出した四肢が疲労を訴える。若者と同じ調子で少々頑張りすぎたかもしれない。
 いつの間にか年を取ったなと苦笑した。幼い頃はまさか自分が四十過ぎまで生き延びるとは考えもしなかったが。
(白皮は虚弱になりやすいと案じてくれたのはイェンスだったか。しかしよく大病もせず、ここまで長らえたものだ)
 閉じた瞼が聴覚を冴えさせる。耳を澄ませば隣室から明るい声が漏れてきた。詳しくは聞き取れないが、またレイモンドがからかい半分の冗談を言っているらしい。
(……会いたいと思うから彼に似て見えたのかな)
 だが均整の取れた肉体や、後ろに流した金髪の細さは己の願望を差し引いてもイェンスと瓜二つに思える。槍兵の家庭事情が複雑なので、もう話題にする気はないけれど。
(まあ考えてみれば、あの人が父親になるはずないか)
 気にしていない素振りで誰より迷信を気にしていたのだ。恋人どころか一夜の相手さえ持とうとしなかったのに子供などできるわけがない。完全に自分の思い違いだ。
(しかしおかしな船だった。ああいう部隊を王国海軍に付随させるのは、仮に私に求心力があったとしても不可能だったに違いないな)
 一時の客人だったのを一生の仲間だと言ってくれたはぐれ者たちの顔ぶれを思い浮かべる。近親相姦の末に生まれた子供だの、乱暴な兄から義姉を逃がすための肉親殺しだの、乗組員はものの見事に普通の社会でやっていけない人物ばかりだった。
 中でもイェンスの生い立ちは極めつけの特殊さで、幼少期にトナカイ飼いのカーモス族に攫われた彼は十年近く邪教の聖地に軟禁されて育ったという。彼は呪い神のための生贄だったのだ。結局儀式は失敗し、助け出されたイェンスは邪神の怒りを振り撒く不吉な存在として生まれ変わったわけなのだが。
 雇われ軍人として蛮族を蹴散らす特務に携わる一方でイェンスは毛皮商人の顔も持っていた。イーグレットが彼の船に乗ったのは討伐任務が終わりかけていた頃だったから、意地悪い北パトリアの商人に苦労する彼のほうが印象深く焼きついている。
 表に出ることはなかったが、あれこれ一緒に悩んで学んだ。毎日本当に楽しかった。お互いに言葉を教え合って、自分の小舟を持たせてもらって。カロと「いつか二人でレガッタに出よう」と約束したのもあの頃だ。
 なんだってできる気がした。広がった世界はきらきら輝く希望に満ちていた。
 ――だから錯覚してしまったのだ。アクアレイアに帰った後も、ありのままの自分でいられると。カロやイェンスたちに受け入れてもらえたように、努力さえ惜しまなければきっとアクアレイア人にも受け入れてもらえると。
(色なんて些細なことだと笑えたのは、後にも先にもあの船の上だけだったな……)
 瞼の裏にもっと濃い闇が降りてくる。その奥で、姿形だけは娘によく似た女がしくしくと泣いている。
 苦い記憶の扉が開くのを感じながらイーグレットは深い眠りに落ちていった。




 ******




 約束の五年を過ぎ、帰還したイーグレットを待っていたのはダイオニシアスの死であった。後ろ盾を失った二代目に貴族たちは冷たく、ほとんど事務的にしか相手をしてくれない。まずは打ち解ける努力をというイーグレットの思いは完全に出鼻を挫かれた。
 後になって考えれば、彼らとて王家につくかグレディ家につくか決めかねていたのだろう。グレディ家の当主が叔父からその妻グレースに代わったと聞き、イーグレットは一連のお家騒動が内々に決着したものと思っていたが、実際には問題はなんら解決していなかったのだ。そして事情に通じた大半の貴族たちが固唾を飲んで奸婦の次なる動きを見守っていたのである。
 グレースは狡猾な女だった。最初は味方の顔をしてイーグレットに近づいてきた。しおらしく、いかにも申し訳なさそうに「グレディ家は今度こそ王家の支えになりたいのです」と媚びへつらって。
 宮廷内の召使いとさえまともな関係を築けておらず、イーグレットは焦っていた。もっと彼女を警戒すべきだったのに、熟考もせずグレースの誠意を真に受けてしまった。
 なんでもいいから取っ掛かりが欲しかったのだ。死の床で、イーグレットに「王国を頼む」と初めて期待をかけてくれた父に応えてみせたかった。
 だが人間は気負えば視野が狭くなる。更にその狭い視野は、思いもかけない恋によって一層狭められたのだった。

「まあ、本当に月光と同じ色! 私たちお揃いですわね。だってディアナって月の女神様の名前ですのよ」

 友人を求めるイーグレットのもとに連れてこられたのはグレディ家の次女、ディアナ・グレディだった。よもや色の白さを喜ばれるとは想像もしておらず、ぽかんと目を丸くする。
「ホホホ、この子は少々天然なのです」
 苦笑いのグレースが紹介した通り、彼女はいくらか物知らずな面があった。だがそのことが却って彼女の無垢で温和な性格を作り出していたように思う。少なくともディアナは凝り固まった偏見の持ち主ではなかったし、彼女が自分に向けてくれる笑顔に嘘や偽りはなかった。
 カロとも違う、イェンスとも違う、正真正銘至って普通のアクアレイア人。そんな彼女がすんなりイーグレットと打ち解けてくれたのは青天の霹靂だった。

「えっ? 色が気にならないのかですって? 何故でしょう? アクアレイアには赤色の方も青色の方もいらっしゃるではありませんか。白は私の大好きなアンディーナリリーと同じ色ですもの。嫌な気分になったことなんて今までに一度もございませんわ」

 いつも優しく可憐な彼女。ヒソヒソ声で陰口を叩かれてもまるで気づかないおっとり具合。側にいてくれるだけで拝みたいありがたさなのに「陛下といるとなんだか落ち着きますの」と好意まで示してくれる。
 何度会っても朗らかさは変わらず、次第にイーグレットはディアナに夢中になっていた。苦しいときも、悲しいときも、彼女と過ごせば前向きになれた。外見に惑わされずに自分を見てくれるアクアレイア人がきっと他にも現れる、と。
 グレースは頻繁に娘を伴って訪れた。グレディ家が王との良縁を望んでいるのは明らかで、イーグレットのほうもその気になっていた。
「普通のアクアレイア人」と身を固めれば宮廷での評価が変わるかもしれない。相手が名家の娘であれば尚更だ。それに何より、イーグレット自身が彼女以外の伴侶など考えられなくなっていた。
 間もなくイーグレットはディアナに求婚した。グレディ家も快諾してくれるものと信じて。

「まあ、あの子をお妃に? なんという光栄の極み! ――ですが陛下、一つだけよろしゅうございますか?」

 グレースはここぞとばかりにある条件を突きつけた。それはイーグレットには到底頷けない、無慈悲に過ぎる要求だった。
「ロマの入国禁止法にご賛成くださいませ。亡き先代は決してお認めになられませんでしたが、あの連中の放埓ぶりには民もそろそろ我慢の限界です」
 ぎくりとする。アクアレイア人がロマをどう考えているか知らないわけではなかったが、改めて嫌悪の念を見せつけられて。
 折しもアレイア地方にはジェレム率いるあの一団が戻っていた。彼らの手口と逃げっぷりを思い返し、イーグレットは冷や汗を掻く。
 北の地で離れ離れになった後、結局一度も合流せず、放置について詫びさえしなかった男だ。さぞかし近隣住民に迷惑をかけているに違いない。ロマを悪だと見なしてはいないが、確かにそろそろ互いのために、ある種の住み分けはしたほうが良さそうだ。
 だが一つだけ問題があった。入国禁止法など制定すればカロまで王都に入れなくなる。結局イーグレットに是とは言えなかった。「ご納得いただけないなら結婚のお話はなかったことに」と冷たく告げられ、しばし苦悶の日々を過ごす羽目に陥った。
 この頃はまだ三人の兄を殺した犯人はグレースの夫だと思い込んでいたから、イーグレットはグレースが王家とロマの浅からぬ縁を断とうと試みているのにまったく気づいていなかった。ディアナがロマの若者に乱暴されそうになったのだと作り話を吹き込まれ、娘を案じる母の演技にすっかり騙されてしまっていた。
 女狐は更に「ここで陛下が決断力を示せば皆も一目置くようになるはず」とイーグレットをそそのかす。彼女曰く、この法案に関しては貴族たちも新王に期待を寄せているそうだった。それは嘘ではなかったけれど、他の件では一切当てにされていないという事実は伏せられたままだった。
 駄目押しは続く。グレースは大袈裟にかぶりを振り、わざとらしく嘆息した。
「破談でしたら年頃のディアナには気軽に会わせられなくなりますね。あの娘にも早く他の相手を探さなければ……」
 脅迫めいた台詞に縮み上がる。今更彼女を取り上げられるなど耐えられない。ディアナはもうイーグレットの中で何者にも代えがたい存在になっていた。
 大体彼女以外の女性が自分の妻になってくれるはずないではないか。彼女でなければ、どうしても彼女でなければならなかった。アクアレイアの王としても、イーグレット個人としても。

「――そんなに惚れた女なのか」

 ぽつりとこちらに尋ねてきたとき、カロは少し寂しそうにしていた気がする。それでも彼はイーグレットが結婚の条件にロマの国外追放を持ちかけられたと知ると真摯な態度で協力を約束してくれた。
「だったら俺からジェレムに話してやる。別にお前にロマと敵対する気はないんだろう?」
 意外にもジェレムはこの辺りのロマの間で実力者と認識されているらしい。彼がひと声かければ王都から仲間を引き揚げさせる程度わけはないということだった。
「ちゃんと事情を説明すればあいつだってわかってくれる。流血沙汰になる前にロマのほうから街を出れば済む話だ。お前は何も心配するな」
 提案にイーグレットは首を振った。他のロマがそうしてくれるのは願ったり叶ったりだがカロに会えなくなるのは絶対に嫌だった。
「隠し通路を知っていたって街に入ってこられないのでは意味がない。カロ、私は……!」
 必死に止めるイーグレットに彼が笑う。ついぞ見覚えのない大人びた表情で。
「巡回の隙を突くくらい簡単だ。昔からあちこちでロマは叩き出されてきたし、皆しれっと同じ街に戻っている。だからそんな顔をするな。今まで通り、俺は俺の好きなときにお前に会いにくる」
 法があろうとなかろうと大切なことは変わらないと励まされ、まるでこちらが年下になった気分だった。
 カロは更に冗談か本気かわからない口ぶりで「大体ロマがお前たちの決め事なんて守ると思うか?」と尋ねる。これにはイーグレットも吹き出した。

「心配なのはジェレムだけだ。一度はロマの世話になったお前が掌を返したと思われるとまずいから、あいつとだけはきっちり話をつけておかないと。――大丈夫、こっちは任せろ。お前はきっとその女といい夫婦になるんだぞ」

 ――あのときどうしてあれほど安易にディアナとの結婚を決めたのだろう。何を案じてカロがジェレムを気にかけたのか、もっとよく考えていればきっと踏み止まったのに。
 権力基盤を早く固めてしまいたいとか、初めて愛した女性を手離したくないとか、プレッシャーは様々にあった。ロマを庇えばますます立場が悪くなる、もっと普通のアクアレイア人に合わせて動かなければという打算も。
 だが何よりもイーグレットは臆病になっていたのだ。自分の白さに無頓着で暮らせた船から、不寛容な人々の群れに放り込まれて。
 イーグレットそのものを忌み嫌い、なんだろうと反対してくる議員は少なくなかった。教養ある貴族でさえそうなのだから、民衆はもっと過敏で過激だ。
 絶えず不信の目に晒され、自分でも自分が疑わしくなりかけていた。適切な機会さえ得られれば実力を発揮できるはずなのにと焦って、焦って、焦って。そうして全て失ったのだ。

「……悪い。ジェレムを止めるのが精いっぱいだった。俺はここを去らなきゃいけない」

 青春時代の最後の日、カロはボロボロの姿で詫びた。仲間は誰も許してくれなかったと、アクアレイア人はやはりロマの友人ではなかったと言われたと、打ちひしがれてうつむいていた。
 カロはいきり立ったジェレムが「やられる前にこっちからやってやろうぜ」と呼びかけたのに異を唱えたらしい。多勢に無勢で殴り合い、押し問答の末に出た妥協案が父との絶縁だったという。
 つまり彼は、イーグレットを擁護したために、一団どころかアレイア地方にさえいられなくなったのだ。
「…………」
 衝撃で口がきけなかった。己の考えなしのツケを全部友人に払わせてしまうなんて。
 どうしてこうなることを予測できなかったのだろう。少し頭を使えばわかる話だったのに。少数ゆえに逃げ回るのが常だったロマを見くびっていたのか。内心では、所詮こそこそとせこい事件を起こすしかできない連中だと。
 少なくとも頭から一つ抜け落ちていたのは確かである。その内側でどれほど孤立していようと、イーグレットがアクアレイアに属する人間であるように、カロもまたロマの社会に属する人間だということを、自分はすっかり失念していた。
「恩知らず」が街からロマを締め出せば、その「友人」が睨まれるのは当然だ。イーグレットは無自覚にカロの立場を失くす相談を持ちかけていたのだ。
 謝罪の言葉も見つからず、恥じ入ってただ震えた。
 カロの目を見ることができなかった。その眼差しに侮蔑も怒りも慈悲も諦めも見つけたくなかった。
 そうしている間に彼は地下通路に降りてしまう。「どこにいてもお前の幸せを願っている」なんて、そんな優しい言葉だけを残して。
 なんて愚かな終わりだろう。楽しかった思い出が一瞬で暗い色に染まる。
 悔やんだところで手遅れだった。ジェレムを探して弁解することも、カロを追って城を出ることもできなかった。
 残されたイーグレットにできたのは、せめてディアナを大切にすることだけだった。友人も、自身への信頼感も損なって、本当に彼女しかいなくなった。愛はあっても温かな家庭はついに築けなかったけれど。

「ディアナ、またルディアをグレース殿のところにやっているのかね?」

 寝所を訪れるなり尋ねた夫に妻はおずおずと頷く。「いけなかったかしら?」と問い返す声には失敗を見咎められた子供が発するそれと同じ響きがあった。
 嘆息をつき、イーグレットはできるだけ優しく言い聞かせる。
 ルディアは三歳半になったばかりで机の前に縛りつける年齢ではないこと。グレディ家の懲罰的な教育は娘に合っていないこと。あの屋敷から帰ってくると元気なルディアが委縮しきって心配になること。
 一つ一つ挙げた例にディアナは真面目に同意した。
「そうね、確かにお母様は厳しいお方だし、ルディアは子供すぎるかも。あの子にはもっとのびのび育ってほしいわ」
「うん。これからは君も同伴して様子を見ていてやってくれ。どうもルディアが上手くできないと、気に入りの侍女が鞭で打たれるらしいのだ。国やあの子のためと言いながら酷なやり方をなさるよ」
「ええ、ええ、気をつけますわ」
 ディアナは納得した様子だったがイーグレットには不安が残った。こういう会話が何度目になるか、数えるのももう憂鬱なほどだ。
 少し叱ると妻はすぐ反省したと言う。初めこそ彼女を信用していたものの、あまりに同じことが続くので最近はめっきり疑い深くなっていた。
 別にディアナも悪気があってやっているのではない。彼女は結婚前と同じに穏やかで温かかった。ただ彼女は、彼女を教育した恐ろしい母親にどうしても逆らえないのである。
 世継ぎの祖母となったグレース・グレディは今やアクアレイアの女王だった。貴族たちは本来の君主に見向きもせず、こぞって彼女のもとに群がる。政界はもはやグレディ家の独壇場に近かった。
 せめて我が子を奪われまいと奮闘するのはおかしな話ではないだろう。妻のほうは、娘よりも我が身が可愛かったようだけれど。
「ディアナ! あれほどルディアを一人で実家へ行かせないでほしいと頼んだではないか!」
「あなた、怒らないで。私ちゃんとついていったわ。言われた通りあの子から目を離さなかったわ」
「見ていた? それではルディアが泣いて助けを求めても見ていただけで君は何もしなかったのか? あの子に『親も自分を助けてはくれない』と思わせてしまったのか?」
「だって、だって、お母様が不機嫌になるんだもの。このままでは母としても娘としても私は失格になると仰るんだもの。私、私……っ」
 ルディアが四つになる頃が最も激しく衝突した時期だったと記憶している。イーグレットが抗議してものらりくらりかわすグレースに対抗するには伴侶の協力が不可欠で、恐怖を克服しようとしないディアナに無性に苛立っていた。
 娘が可愛いと言うくせにどうして守ろうとしないのだろう。
 夫が好きだと言うくせにどうして支えてくれないのだろう。
 わからなかった。ディアナのことが。
 そのうち彼女はグレースにイーグレットやルディアの言動を報告し始めた。密告が発覚したのは妻のほうから「お母様に頼まれて」と打ち明けてきたからだが、いくらやめてくれと訴えても彼女がグレースの操り人形なのに変わりはなかった。
 優しくて温かいのにディアナは弱い。従順以外の生き方ができない。そんな類の毒もあるのだとイーグレットは初めて知った。

「お母様が誉めてくれたの……。だから私嬉しくって、もっとあなたに好かれようって努力したわ。だけどルディアが生まれてからは、その方法では駄目になったみたい。……ああ、お母様を怒らせたくない。お母様は怖いの。私、私、勝手にこんな病気になって、きっと鞭で打たれるわ! 悪い子だって叱られてしまう!」

 高熱に浮かされた伴侶のうわごとを耳にして、愛だと勘違いしたものの正体を垣間見る。
 馬鹿な自分は最後の最後の瞬間まで彼女のことを信じていた。板挟みにしてすまなかったと罪悪感さえ抱いていたほどだ。
 最初から何もかも仕組まれていたに違いない。そう考えるのが自然だった。グレディ家の権勢はイーグレットに抑えられるものではなくなっていたし、誰が利口な勝利者かなど火を見るよりも明らかだった。
 どこまでグレースの掌の上だったのだろう。あの女が全ての黒幕だったなら、騙されたのは自分だけでなく父もであったに違いない。骨の髄まで武人だったあの人は、非力な女に息子を三人も屠られたとは考えもしなかっただろうから。
 冬の終わり、衰弱しきってディアナは死んだ。悪い流行り病だった。
 減ったのは敵か味方か。気がついたらイーグレットはひとりぼっちになっていた。
 ルディアは既にグレースの手に落ち、こちらへ寄りつこうともしない。父親を悲しませることよりも祖母を怒らせることのほうが娘には重大な過失であるらしかった。
 何もない。冠の意味も、大切な人も、守るべきものも。
 私は何をやっているのだろう?
 自問に傷つき、立ち尽くした。このまま足を止めたほうが楽になれるのではと思うほど。
 きっとそうしていただろう。奇跡が起きて、もう一度ルディアと親子に戻れなければ。

「お父様、大丈夫です。誰がグレディ家と繋がっているか知れたものではありませんもの。ルディアは誰も信じませんわ。お祖母様にご退場いただくその日まで、二人で力を合わせてまいりましょう」

 頼もしい娘の台詞に頬が綻ぶ。生死の境を彷徨って、記憶を失ったルディアは快活な才女に生まれ変わっていた。
 まだ六つにもならないのに自分よりよほど君主らしい口をきく。鞭や罵倒で脅かされても彼女は二度とグレースに屈さなかった。
 一つだけ楽しみができた。娘に冠を授ける日のため、イーグレットは今よりましな国王を目指さなければならなくなった。
 いない友人が励ましてくれる。今どこにいるのかも、いつかまた会えるのかも、何もわからなかったけれど。
 二人に恥じない男になろう。その思いがイーグレットの全てになった。
 だから今も。王国を遠く離れてしまった今も――。




 ******




 ふと目を覚ますととっくに夜は明けていた。早朝にしては明るい光が室内に差し込んでいる。
 これは寝すぎたとイーグレットは飛び起きた。空き家の清掃にはまだ何日かかかりそうなのに。
「すまない。遅くなってしまった」
 詫びながら隣室の扉を開く。槍兵と剣士は既に準備万端で待ち構えていた。
「あ、良かったー。もう五分待って返事なかったら寝顔ドッキリしちゃうとこでしたよー」
「起こすにしてもお前に行かせるわけがなかろう、この馬鹿が!」
「あっ、ひでー! また馬鹿って言った! 馬鹿って言ったほうが馬鹿なんだぞー!」
 朝から元気な若者たちだ。側にいるだけで自然と胸が軽くなる。苦しかった時期の夢を見ていたはずなのに、不思議と寝覚めも悪くなかった。
 自分の中で整理がつき始めているのだろうか。過ちも、後悔も、己の人生の一幕だったと。
(気がかりなのは本当に、ルディアとカロのことだけだな)
 同じ年頃のブルーノたちを見ているとどうしても娘を思い出す。
 我ながら酷い子育てをしてしまった。「誰も信じてはいけない」なんて、誰を信じていいか判断できなかっただけのくせに。
 もう祈ることしかできない。自分にカロがいてくれたように、あの子の側に誰かいてくれるように。
 もし叶うなら、あの子が己を偽らずにいられる相手であればいい。王女だとか、どこの国の人間だとか関係なく、あの子を慕ってくれる相手であれば。
「っつーか腹減らないっすか? バスケットに適当に摘まめるモンぶち込んでもらってるんで丘の上で朝飯にしません?」
「は? お前いつの間にそんなもの」
「厨房の皿洗い手伝ったときに頼んどいたんだよ。仲良くなった兵士が今週の食事当番だっつーからさ」
「お前は本当にどこにでもすぐ溶け込むな……」
「そんじゃ行きましょ」と背中を押されて通路に出る。「軽々しく陛下にボディタッチするな!」と叱られているレイモンドを振り返り、案外ルディアもこういう気取らないタイプの青年としっくりいくのではないかなと想像した。
 夫のチャドと素顔で向かい合えるようになるのが一番だが、結婚生活のままならなさは身に染みて知っている。情勢もすっかり変わってしまったし、今後マルゴーでやっていくのは少し難しいかもしれない。
(王子があの子を見捨てずにいてくれればいいのだが……)
 伏せた瞼に浮かんだのは糸目の貴公子ではなく元死刑囚の顔だった。
 世の中にはユリシーズのような油断ならない男もいる。ああいう騎士が好みだとしても、ルディアには今度こそ裏切らない本物の騎士を見つけてほしい。




 ******




 バルコニーから見上げた空は灰色で、胸のざわつきを鎮めてはくれなかった。
 マルゴーに吹く風は冷たい。三月に入ったというのにサール宮の暖炉はまだまだ現役稼働中だ。
 コリフォ島には春めく陽気が満ちただろうか。皆が寒さに凍えていなければいいけれど。
「姫様たち、どうしてるのかな……」
 アルフレッドのすぐ後ろで不安げな声が響く。ブルーノの細い手には荷物に紛れていたというイーグレットからの手紙が握られていた。

 ――最後までアクアレイアの王である己を忘れずに生きようと思う。

 そこに書かれた一文を思い返して眉をしかめる。それは疑いようもなく覚悟を決めた男の言葉だった。
 何も起きてほしくないが、何が起きてもおかしくはない。やはりあのとき、ルディアと一緒に行けば良かった。こんなに心配になるくらいなら。
「もし天帝が陛下の身柄を引き渡せって言ってきたらどうしよう? ヴラシィの貴族は死体を吊るされたままずっと弔われずにいたんだよね? 亡骸に酷くされるのも嫌だけど、もし、もし生きたままあの人が…………」
 真っ青になってブルーノは口元を押さえる。台詞の続きはアルフレッドにも言えなかった。想定よりも現実が手ぬるいことを祈るしかない。
(敵がジーアンだけならまだましだったんだがな)
 胸中に独白をこぼす。
 こうして無事にサール宮へ辿り着き、冷静になればなるほどカーリスが裏にいるという事実が脅威に感じられた。ジーアンはアクアレイア領を手に入れただけでひとまず満足してくれたと思うが、カーリスは海運商業都市として長年競合しているのだ。万に一つの望みも残さないように王国や王家の名を汚そうと働きかけてくる可能性は否めない。イーグレットを重罪人同然に引っ立てて、飢えた獣の待つ闘技場に放り込むくらいの非道はやりそうだった。
 パトリア聖王とて大嫌いなアクアレイアの元君主など救いはしないだろう。それどころか「祝福されしパトリア王家の血を失ったアクアレイアは波の乙女アンディーンを守護精霊に戴くに相応しくなくなった」とか言い出して女神をカーリス共和都市に娶らせてしまうかもしれない。
 いかにも有り得そうな展開に重い溜め息が漏れた。交易に制限をかけられたうえ、もし加護を願う対象まで奪われたらアクアレイア人は何を拠りどころに生きていけばいいのだろう?
(……そしてまた王家が恨まれるのか)
 アルフレッドは震えの止まらぬブルーノのために、客室に戻ってバルコニーの大窓を閉める。
 用心深いヘウンバオスがカーリスを調子に乗らせはしないはずだが、報せを待つほか何もできない距離にいるのが悔やまれた。
(お前は無名の騎士のまま終わらないでくれ、か)
 頭をよぎったルディアの言葉に唇を噛む。
 名声、信望。いつかそれが彼女の役に立つときが来るのだろうか。




 ******




「やったー! 全部片付いた! やったやったー! もうゴミを掃き出したり草取りしたり壁の穴を埋めたり屋根の補修をしたりしなくていいぞー!」
 諸手を挙げて大喜びするレイモンドに「はしゃぎすぎだ!」と小言を投げる。数日の頑張りのおかげで普通レベルの空き家になった屋内を見上げ、ルディアもほっと息をついた。とりあえずこんな家でも臨時の避難所くらいにはなってくれるだろう。
「もう家具とか運んでこれるっすねー! 俺、知り合いに余ってるベッドとかテーブルがないか聞いてみますよ! なんなら大工仕事もやりますんで!」
「おお、それはありがたい。頼んでもいいかね?」
「もちろんす! 調理道具も揃えなきゃなー。あっ、陛下は何色のお皿がいいですか?」
「何色の皿? ははは、私はなんでも構わないよ」
「えー、でも好きな色ってあるじゃないすかー。俺はオレンジかー、濃いめの緑かー」
 レイモンドに応じる父は今日も楽しげだ。この状況で悲愴にも深刻にもならないのはある意味すごいことかもしれない。お気楽も極めれば才能か。
「鍋と食材が手に入ったら、陛下にはオルブライト食堂のイチ押しメニューをご賞味いただく予定なんで、やっぱイイ食器欲しいんすよねー。粉こねてー、麺にしてー、湯がいた後に熱々の魚介スープぶっかけてー、これがもう美味いのなんのって!」
「ほう、レイモンド君は料理も嗜むのか。掃除も君が主戦力だったし、随分と器用なのだね」
「へっ? こんくらいの家事スキル、全然普通っすよ。あ、まあ確かに個人差はありますけど……」
 ちらりと向けられた視線にムッと目を吊り上げる。
 大方の除草作業を終えた頃からルディアとレイモンドの立場は普段と完全に逆転していた。「根っこが残ってたらまた生えてくるじゃん」とか「隅っこまだ土溜まってるぞ」とか意外な丁寧さで指導され、ついには「すんげー大雑把」の烙印まで押されたのだ。
「こうやるんだよ」と教わった後は改善されたのだからいいではないか。及第点には達していただろうと睨み返す。不器用は自覚しているのであまりつつかないでほしい。
「いや、本当に君がいてくれて助かったよ。ここも思ったより早く片付いたし、是非炊事のほうもご教授願いたいな」
「いやいや! 大衆向けのレシピしか知らないんで、まず陛下のお口に合うか確かめてからでないと! もし駄目だったらジャクリーンに一日弟子入りしてくるんで、陛下はご安心くださいっす!」
 他ならぬ食事のことだからかもしれないが、槍兵は色々と先回りして考えてくれているらしい。材料の調達ルートなども知人のツテで既に抑えてあるようだ。
 改めて「顔が広い」というレイモンドの強みを見せつけられた思いだった。彼がいなければもっと苦心惨憺する羽目になったに違いない。いくらルディアでも自分ではどうしようもない部分をどうにかしてくれる相手に偉そうな口をきけるはずなかった。
(というか寧ろ、頼りすぎないように気をつけねばだ)
 今はまだ防衛隊気分を引きずって側にいてくれるけれど、そのうち彼も収入がないのに嫌気が差して帰ると言い出すかもしれない。そうなったらルディアに引き留める権利はなかった。いつレイモンドの気が変わってもいいように、今のうちに少しでもできることを増やさなくては。
(……そう言えばまだ金に関する文句を一度も耳にしていないな)
 どんなに汗水流そうと全部ただ働きなのに、手を抜く気配も見受けられない。無収入は承知済みだし悔いはないと、そう言ったのは彼の本心だったのだろうか。期待を持つと苦しいから本気にしていなかったけれど。
(……少し馬鹿馬鹿と言いすぎたかもしれん)
 盗み見た横顔はいつも通りの締まりない笑みを浮かべていた。いかなるときも生真面目なアルフレッドとは対照的だ。だが彼らの根底には通じ合う何かが窺える気がした。
「ところで今からどうします? 日没まで時間ありますし、街に調度品とか見にいきます?」
 槍兵の誘いにイーグレットは首を振る。やや神妙な表情に戻って父は今後の方針を告げた。
「一度砦に戻ってトレヴァーと話し合いたいと思う。……ジャクリーンのことなのだが、大佐がとても気にしていてね。私が要塞を出るタイミングで本国に帰す船を出そうかと言っていたのだ。帰りたがっている兵の数も多いようだし、いずれにせよコリフォ島基地をどうするか政府の指示を仰ぐべきだろう」
「あ、あー、そんじゃジャクリーンに貴族の家庭料理習うのは無理っぽいっすねー」
 レイモンドは残念そうに頭を掻く。そんな彼に父は優しい眼差しで言った。
「君たちもその船に乗っていいのだよ。残ってくれれば私は大いに心強いが、それだけだ。蓄えもないし、君たちの将来に約束できることもない。ルディアとて無理を頼んだことはわかっているだろうから……」
 ――またこの人は余計な気遣いを。
 帰国を促すイーグレットにルディアは眉をしかめた。答えなど否に決まっている。
「陛下、私は最後まで……」
 固辞すべく口を開いたところでぶふっと吹き出す笑い声が響いた。その存外な大きさにルディアとイーグレットは同時に振り返る。
「す、すんません。なんか陛下と姫様おんなじこと言ってんなーって思ったらつい」
 レイモンドは口元を抑え、おかしそうに笑いを堪えていた。「あの人も最初、俺たちに『防衛隊は解散だ。全員達者で暮らせ』っつったんすよ」と暴露され、ルディアは頬を赤くする。
「やっぱり親子なんすねー。けどあんまり背負い込まないでくださいよ。俺、こいつを一人で行かせるのが忍びなくてコリフォ島までついてきちゃいましたけど、今はそれだけじゃないっす。陛下のことも、もう放っとけないんすよ」
 どさくさに肩を抱かれて頬をつねる。率直な好意に父はたじろぎ、少しして感謝を述べた。
「……ありがとう。そんな風に言ってもらえるとは嬉しいよ。ただ私も、若い君たちを巻き込むのはなんだか申し訳なくてね」
「あはは。俺、陛下のそういうとこ好きですよ。まだちょっとしか一緒にいてないすけど、姫様が陛下を慕うのすんげーわかります。なっ?」
 同意を求める素振りでされたウインクは無視を決め込む。唇を尖らせたままルディアは馴れ馴れしい腕を振り払った。
 やはり馬鹿はどこまでも馬鹿だ。本当にいらぬ真似ばかり。
「ルディアが私を? ふふ、なかなか甘えてこない子だから意外だな」
「えーっ! 姫様マジで陛下のこと大好きですけどねー」
「レイモンド、お喋りは後にしろ! いつまで経っても要塞に戻れないだろうが!」
 居た堪れなさに玄関を開き、話を切り上げようとしたときだった。カーン、カーンと甲高い警鐘が鳴り響いたのは。
「――……」
 押し黙り、互いに目を見合わせる。
 三時や六時の報せとは違う。突かれているのは見張り台の鐘だった。
 すぐさま丘へ飛び出して、眼下の街と海を見下ろす。視界に入ったカーリス共和都市の船団、そして彼らと接触交信中の王国船に三人とも息を飲んだ。
 甲板の兵士が手旗で何やら砦に合図を送るのが見える。その直後、カーン、カーンとまた鐘楼で鐘突きが始まった。
「……王族の引き渡しを要求された場合に限り、鐘の鳴らし方を変えてくれと頼んである。最初に二度、間を空けて四度と」
 イーグレットの呟きにたちまち空気が凍りつく。今度の鐘は四度で止まった。
「おっ、俺、例の船がいけるかどうか聞いてくる! 陛下は逃げる準備しててください!」
 返事も待たず、レイモンドが漁港に向かって全力で坂を駆けていく。
 重い残響。吹き抜ける風。枝葉をざわめかせるオリーブ。
 恐れていたときが来てしまった。
 震える拳を握りしめ、ルディアは父を振り返った。誰も信じてはいけないと、一人でも強く生きるのだと教えた人を。

 ――君主は親や伴侶にも油断してはいけない。
 ――もし私がお前の邪魔になったときは、迷わず切り捨てなさい。

 耳に甦る遠い声。記憶の中の穏やかな眼差し。
 誰より娘を思ってくれるこの人が、どうして邪魔になるものか。
 子供の頃からずっとそう思っていた。たとえ王国に生きる者全てが白を蔑み、憎んだとしても、自分だけは父の味方だと。ジーアン帝国がノウァパトリアを落とすまでは。
「……一人のはずの『護衛役』が二人もいたからどちらかなと思っていたが、やはり君のほうだったか」
 何もかも見通した声で王は言う。脳裏にはきっと一人娘の顔を思い浮かべて。
「あの子に頼まれているのだろう? いざというときは私の介錯を、と」
 ルディアには頷けなかった。イーグレットの推測は間違っていた。自分は誰にも頼み事などしていない。
「……いいえ、姫は決してそのようなことは。私には、ただあなたの意に沿うようにとだけ」
 残酷な命令はなかったと強調する。よしんばそれが名誉を守るためであっても父の死を望む薄情な娘はいなかったと、まるで身の潔白を訴えるように。
「姫は天帝があなたを捨て置いてくれることを願っておりました。カーリスの強欲どもがしゃしゃり出て来ないことを祈っておりました。二度と親子の邂逅が叶わないとしても、あなたの余生がせめて平穏であるようにと、姫は、姫は……!」
「落ち着いて。取り乱さずともちゃんとわかっているよ。あの子は優しい娘だし、こんな父でも大切にしてくれた。わかっているから大丈夫だ」
 真っ白な手が硬くなっていたルディアの拳に添えられる。ハッと顔を上げるとイーグレットの静かな双眸と目が合った。
「さっき話した通りだが、自分の都合に未来ある若者を巻き込むのは心苦しい。もし君が嫌なら無理に王殺しになる必要などないのだからね。少々不格好ではあるが、そこの崖から身を投げるのでも十分に目的は果たせる。どこの誰に私の骸が渡ろうと、生きている間でなければ魂を貶められはしないのだから」
 情け深い言葉に我を取り戻す。ルディアは首を横に振り、「いいえ」と腰の剣を掴んだ。
「王族には王族に相応しい死に方があります。自殺では神に祝福されまいなどと口さがない連中に誹らせるわけにまいりません」
 決めたのは自分だ。王の意思を尊重すると。それがどんなに受け入れがたい、悲しい願いであったとしても。
 カーリスの船団は軍港に迫りつつあった。間もなく交易権を盾に武力行使を禁じられた海軍兵が捕らえられ、敵が雪崩れ込んでくるだろう。
 王の命が、王の尊厳が、弄ばれて汚泥にまみれるその前に終わらせなくてはならなかった。死以上の屈辱を、この人に与えてはならなかった。
 アクアレイアを出るときにそう誓った。幕を引くのは己であろうと。
「……悪かったね。片付けが無駄になってしまって」
 綺麗になったばかりの廃屋を仰いでイーグレットが謝罪する。そんなことで詫びなくていいのに。
「これからアクアレイアには困難な時代が訪れるだろう。君たちは、帆も櫂も失った船で海をさすらわねばならない。だからせめて、私は皆に星を残したいのだよ」
 丘の麓で誰かの叫び声がした。襲われたわけではなく、パニック状態で逃げ出しただけのようだ。砂煙の上がる街では豆粒大の人々が一斉に漁港へ駆けていた。この有様ではレイモンドもすぐには戻ってこられまい。
「星ですか……?」
 ルディアの問いにイーグレットは「そうだ」と答えた。除け者にされ続けた傍観者の口ぶりで。
「人間というのはいい加減なものでね、よほど親しい相手でもなければ故人が生前どんな人物だったかなどあっさり忘れてしまうのさ。私のような国王でも死に際さえ立派なら稀代の名君と呼んでもらえる。ちょうどレガッタを制したあの瞬間の盛り上がりに似て」
 悪戯っぽい笑みに面食らう。
 イーグレットは逃げ惑う眼下の人々を一望しつつ話を続けた。
「誰しも自分は崇高なものに守護されていると信じたいのだ。真っ暗な夜の海では特に。波の乙女が機嫌を直してくれないのなら、夫の私が代わらなくては。『我々の王は屈従せず、誇り高く死んでいった』と励みになればそれでいい。少しでも皆が前を向く気になれば」
 星とはそういうものだろうと王は囁く。ただ青いだけの空を見上げて。
「コナー・ファーマーがアクアレイア史を執筆中だ。できるだけ華々しく王家の最期を書き立ててくれと要請してもらえるかい? イーグレット・ドムス・レーギア・アクアレイアは決して無様に引きずられてはいかなかったと。その事実さえあれば、あとはあの国の政治家たちが喜んで私を祀り上げてくれる」
「…………」
 ルディアは黙って頷いた。王の選択に異を唱えることはできなかった。
 そうか、それがあなたの選んだ最善か。あなたを疎んじた人々が、無責任に今度はあなたを神格化しても、あなたはそれを許すというのか。
「……怖くないかい?」
 問われてルディアは「何がです?」と問い返した。
 怖いことならいくらでもある。数分以内に訪れる一つの結末。その先の未来。強大すぎるジーアンも、小賢しいカーリスも。
 怖いことだらけだ。けれどその闇を越えていかなければ。一人でも、心細くても、この人の娘なら。
「初めはトレヴァーに始末を任せるつもりでいたのだが、断られてしまったのだよ。こんな白い肉体を斬るのは恐ろしくてかなわないと」
「私は大佐ほど信心深くありません。ためらいがあるとすれば、まったく別の理由からです」
「理由? なんだね?」
「……やはりお逃げになられませんか。レイモンドが船を用意しているのですが」
 悪足掻きだ。わかっている。道の終わりを決めた者が頷いてくれる言葉ではない。
 それでもルディアの中にまだ捨てきれない希望があった。父と二人で祖国を取り戻したいという希望。生き延びて見守ってほしいという希望。
 だが案の定イーグレットにはかぶりを振られる。落ち着いた態度にはわずかの乱れも見られなかった。
「……少し喋りすぎたかな。そろそろ要塞にいないとバレたかもしれない」
「剣を振るうのは一瞬です。まだ敵が街に現れたわけでもありません。どうぞ心残りのないようになさってください」
「それでは歌でも聴いてくれたまえ」
 そう言うやイーグレットは一節だけ、ゴンドラで歌ったあの歌を口ずさむ。

 燃えよ、我が灯火よ 誰が汝の明日在ることを知らん
 青春は尊し されど夢のごとくうつろう
 愉しみたければ今すぐに 今日は再び巡らぬものを

 歌声は天に響いた。遠い娘や友に届けと願う思いに応えるように。
 それで満足したらしい。くるりとルディアに向き直り、父は上着のボタンを外して上半身を肌蹴させた。
「ここが心臓だ。細いレイピアでいけるかね?」
 指で示された胸の中心。鞘から抜いた刃を手にしてじっと見据える。
「……大丈夫です。剣は十年学びました」
 敵だらけの宮廷で、いつ誰に襲われても生き延びることができるようにと、あなたが私に習わせたのだ。
 心の中で呟いて、強く歯を食いしばった。
「苦しませはいたしません。一撃で終わらせます」
 踏み込みのための距離を開く。突きの構えで静止する。
 掌に汗が滲んだ。無心になろうとすればするほど。
「……君で良かったのかもしれない」
 ぽつりとイーグレットがこぼす。
 視線だけ上に向けると父は思わぬ言葉を続けた。
「どうしてか、君は時々娘と重なって見えるのだ。あの子の代わりに答えてはくれないか? 私の決断をルディアはどう思っているだろう? 王として、父として、誇ってくれると思うかね?」
「……っ」
 叫び出しそうになった心をなけなしの理性でねじ伏せる。
 ――私がルディアです! お父様、私があなたの娘です!
 危うく剣を放り出すところだった。温かい肩に縋って秘密を口にするところだった。
 もう遅い。今更打ち明けられるはずがない。
 震える手で剣の柄を握り直す。目頭が熱いのも、噛んだ唇に血の味がするのも、何もかも意識の外に追いやって答えた。
「はい、姫は……、あなたの娘に生まれて幸せだったと――、きっとそう仰います」
 ありがとうと微笑してイーグレットは胸を反らした。
 視界の端で鋭い刃が閃いた。


 父の意に沿いたい。王としての死を望むなら、それを受け入れて尊重したい。決めた心に嘘はなかったはずである。
 だが自分は、少しも考えはしなかっただろうか。「ここで死んでくれたほうがアクアレイアのためになる」と。脳蟲の本性が、親愛を捻じ曲げはしなかっただろうか。
 愚かだった。疑いのあまり、そんなはずないと一蹴して、強固に目を逸らし続けた。持ってはいけない類の不安にここまで見ないをふりした。
 ――本当に愚かだった。




 ******




「いやッ! 私逃げません! ローガンはルディア姫を差し出せと言っているのでしょう!? それなら今ここで王女として死なせてくださ――」
 台詞の途中でがくんと崩れた娘の身体を抱き上げる。ジャクリーンが暴れること自体初めてだが、可愛い我が子に手を上げたのも初めてだ。
(傷が残らないといいが)
 そう案じつつトレヴァーは指揮官室を出た。いつの間にか随分育った彼女を背負い、螺旋階段を駆け下りる。敵兵に見つかる前にジャクリーンだけは安全なところへ隠さなくてはならなかった。
(とにかく外へ出なければ。この要塞に青髪の若い女がいたらルディア姫だと間違われてしまう)
 悔しさに歯噛みする。もう一日、いや半日もあれば十分だったはずである。アクアレイアへの船を出すまで。天帝ももう少し王都でゆっくりしてくれればいいものを。
 ああ、ジャクリーンに万一のことがあったら生きていけない。たった一人の娘なのに。大事に大事にしてきたのに。

「おや、わざわざ姫君をご同伴いただけるとは助かりますなあ!」

 無情な声が響いたのは通路の突き当たりを折れたときだった。ショックリー商会の代表は底意地悪く小隊連れで待ち伏せしていたらしい。
 逃げ道を塞がれたトレヴァーは咄嗟に後ろを振り返った。まだ引き返せるかと思ったが、奥のほうからもカーリス軍と見られる兵が湧いてくる。
「ご、誤解だ。この子はうちの娘のジャクリーンだ。断じてルディア王女ではない!」
 必死に首を振るもローガンの反応は思わしくない。大仰に肩をすくめられ、「困った方だ」と嘆息される。
「嘘はいけません。天帝陛下に対する反抗と見なされますぞ?」
「嘘なものか! 頼む、見逃してくれ。金ならいくらでも払う! 娘は本当に無関係で……」
「わっはっは、ご安心を。我々とて一般人に乱暴する気はございませんのでね。島中を隈なく点検して、本物の姫君が見つかればすぐに解放いたしますよ」
「なっ……!」
 パチンと男の指が鳴ると同時、周りを固めていた兵士が一斉に飛びかかってきた。成す術なく愛娘と引き裂かれ、トレヴァーは冷たい石床に転がされる。ジャクリーンは意識のないまま丁重にローガンのもとへ運ばれた。
「ジャクリーン!」
 踏みつけられ、足蹴にされてもなお我が子の名を叫ぶ。
 カーリスの豪商なら王女の顔くらい知っているだろうに、ローガンは手中の『ルディア』が偽者でないか疑いもしなかった。まるで王族の名を辱められるなら代役で構わないと言わんばかりだ。
「待て! 待ってくれ! 私の娘をどこへやる気だ!」
 蒼白になって問う。
 コリフォ島から本物の王女が見つかるなど有り得ないのだ。今ジャクリーンと離れ離れになってしまったら、きっと今生の別れになる。
 屈強な兵士に担がれた娘を見上げてローガンはちょび髭を撫でつけた。勝ち誇った傲慢な笑みが憎たらしい。
「そうですなあ、私にも色々と媚を売りたい方面がございますからなあ」
 ふむ、と男は姫の行く先を思案した。初めからどう答えるか決まっていたに違いないくせに。
「手垢のついた人妻でもあの方はお構いなしでしょうし、ここはラオタオ様に献上するのが良いですかね。うむうむ、絶対にお喜びいただけるはずだ!」
 豪商は愉快そうに高笑いした。対するトレヴァーはますます血の気が引いてしまう。
(ラ、ラオタオだと!? アレイア海東岸に悪名を響かせているジーアン軍の暴将じゃないか!)
 噂では、あの男は住いに美女を集めて酒池肉林を楽しんでいるとか。そんなところへ花も盛りのジャクリーンをやりたくない。
「お願いだからやめてくれ! 娘は結婚どころか恋愛だってまだろくに……ッ! ジャクリーン! ジャクリーンーッ!」
 泣いて乞うけれどローガンの対応は冷たかった。トレヴァーは「他の捕虜とひとまとめにしておけ」と命令された男の部下に羽交い絞めされて連行される。したたかに殴りつけられ、最後には声も出せなくなった。
 なんて惨い話だろう。あと半日。たった半日で良かったのに。
 アンディーンはもうアクアレイアを見放してしまったのだろうか。長く忠実な伴侶であった我々を。




 ******




 馬を乗り捨て、舟で渡ってきた島は狂乱のさなかだった。
 小さな漁港から次々と民間船が逃げ出してくる。厚い二重の城壁に囲まれた街にどう忍び込むか悩んでいたのが馬鹿らしいほど誰もこちらに見向きしない。
 咎める者がいないならとカロは桟橋に堂々と舟をつけた。普段なら余所者、ましてロマなど容易に入れてはもらえないのだろうが、それは番人がいればの話だ。人々は生き延びるのに必死すぎて、闖入者に気づく者さえいなかった。

「あーッ! カロ! アイリーンまで!」

 だからこちらを見つけたのは島民ではなく防衛隊の槍兵だった。レイモンドは「なんつう天の思し召し!」とこちらの腕を引っ掴み、猛スピードで漁港の裏手の坂を駆け上っていく。
「おい、イーグレットは? 敵兵が来ているのに何故要塞へ向かわない?」
「陛下はあっちの丘にいるんだよ! 身柄を引き渡せとか言われてっけどまだ敵には見つかってない! 逃がすなら今のうちだ!」
 街の景色をぐんぐん追い抜き、道はオリーブ林に入った。全力疾走しながらレイモンドは中型漁船を一艘確保できたと教えてくれる。
「とにかく二人とも急いでくれ! 漁港に続いてる西の裏道を押さえられたら助かるモンも助からねー!」
「よし、わかった。しっかりついてこいアイリーン!」
「ひええ! 頑張るわー!」
 どうやらギリギリ間に合ったらしい。丘を登る途中で懐かしい歌が聴こえた。
 ああ良かった、あいつの声だ。まったくこんなときまで歌って気分を和ませようとは滅茶苦茶な奴め。
 アクアレイアがどうだとか、王としての義務がとか、渋られても耳を貸すのは逃げ延びた後にしよう。命さえあればいくらだってやり直しはきくのだから。
 どれほど狩られ、虐げられてもロマがその血を今に伝えているように、大切なのは無様を恥じずに生き抜くことだ。
(そうだろう? イーグレット、希望を捨てるには早すぎる)
 また一から出直そう。どうしてもアクアレイアにこだわるのなら取り返すのを手伝ってやっても構わない。
 一人じゃない。二人でもない。きっとなんとかなるはずだ。
「――」
 そのときだった。丘に吹き上げた強い風が崖にぶつかって跳ね返ってきたのは。
 濃い血の臭いが鼻をつく。緑深い木漏れ日の小路にはおよそ不釣り合いな。
(え?)
 違和感にぞっとした。何かあったらしいのに、道の向こうが静かすぎて。
 どうしてあの白夜の惨劇など思い出したのだろう。イェンスに拾われた日のことを。
 同じ臭いを嗅いだからか。くずおれたカーモス族の屍から。

「イーグレット……?」

 高台に辿り着き、最初に目に飛び込んだのは細い光。太陽を受けて反射するレイピアの刃。
 次に見たのは仰向けの友人。血溜まりに身を浸し、ぴくりとも動かない。
 瞠目した。見間違いだと目を凝らした。
 ふらふらとイーグレットに近づいて、事切れた重い腕の脈を取って。
 赤い海に膝をつく。染みも汚れも厭わずに。
「イーグレット」
 返事はない。破れた心臓は空っぽだった。瞼は固く閉ざされて。白い髪にはべったりと血糊がついて。
 何もかもが静止していた。触れた肌にはまだ温もりが残っているのに。――もう何もかも。

「……お前がやったのか?」

 すぐ側で、呆然とこちらを見ているルディアに問う。
 彼女の手にしたレイピアは真紅に染まり、ぽたぽたと赤い雫を落としていた。
「答えろ」
 質問にどんな意味があったのか知らない。言葉で説明されずとも全ては一目瞭然だったし、怒りを超越した何かが己を動かし始めていた。
 頭の奥に死の一文字を浮かべるのにどれほど辛苦を要したか。
 間に合ったと、今さっき確信したばかりなのに。
 こんな裏切りさえなかったら彼を助けられたのに。

「何故イーグレットを殺した」

 ゆっくりと立ち上がる。睨み据えた女は硬直しきって瞬き一つしなかった。
 掠れて消え入りそうな声が呟く。「王の望みで」と耳にして、カロは堪らず首を振った。
「こいつはもう王じゃなかった! 他でもないアクアレイア人に捨てられて、そういられなくなったんだ!」
「だがそれでも……、この人は王家の名前を穢されまいと……アクアレイアのこれからのために……」
 力ない言い訳に腹の底が煮えたぎる。戒めに右眼を掻いても自制できぬほど。
「名前がそんなに大切か? こいつが息をして笑うことより?」
 カロは尋ねた。
 話を続けるには冷静さが必要だった。途方もない、持てるはずもない冷静さが。
「何故こいつの馬鹿げた願いを聞き届けた!? 仮にこいつの頼みだとしてもお前はそれを拒めたはずだぞ!? 娘なら、本当にこいつを父と慕っていたのなら、鞘から剣を抜くはずなかった!」
 吼えながら掴みかかる。払い落とすまでもなくレイピアは地面に転がった。凶行を責められたルディアの動揺は激しく、されるがままに揺さぶられる。
 だが足りなかった。草の上に叩きつけても、馬乗りになって首を絞めても、まだ少しも。
「何故イーグレットの命より、あんな国の取るに足らない未来なんかを取ったんだ!?」
 自分でも自分を止められない。目の前にいるこの女が、たった一人の友人を殺めたのだと思ったら。喉を絞る手に力をこめる以外一切何もできなくなる。
 イーグレットは、あの愚か者は、きっと最後まで冠を捨てられなかったのだ。彼には他にアクアレイア人であり続ける手段がなかったから。玉座以外に彼の席はなかったから。
 だがそれなら新天地を求めれば良かった話だ。人の生きる場所は何もあの国だけではない。イーグレットだって、ルディアだって、そのくらいわからないはずなかったのに。
「カロ! カロ、やめて! 落ち着いて! ねえ、姫様からちゃんと話を聞きましょうよ!?」
 右腕に抱きつかれ、力任せに引っ張られる。「話を聞けだと?」とアイリーンのなだめる声に笑い返すとカロは咳き込むルディアに問うた。
「だったらどうしてあいつを逃がさず殺したのか教えてくれるか? 国や王家のためでなく、本当にあいつ自身のためだったと、名付け親に誓ってくれるか?」
 返されたのは張り詰めた沈黙。常日頃迷いを見せない彼女が詰まったというそれだけで返事はもう十分だった。
 あの国で、なんの見返りも求めずにイーグレットを案じてくれるたった一人の人間だと思っていたのに。結局アクアレイア人は、誰もあいつ自身を見てはいなかったのだ。
「カロ! やめて! やめてったら!」
 再び喉を締め上げにかかるとアイリーンがまた両腕を引き剥がそうとした。邪魔されて、かっとなって突き飛ばす。
 息をしようとルディアがもがくのも我慢ならなかった。イーグレットに死の苦しみを味わわせておいてとますます頭に血が上った。
 殺してやる。あいつと同じ目に遭わせてやる。お前が踏みにじったあいつと。

「いやっ! いやっ! ブルーノが死んじゃう! ブルーノが死んじゃう!」

 引っ掻き傷の痛みと絶叫に一瞬ハッと正気が戻る。力の緩んだその隙を突き、ルディアとの間に身を割り込ませたアイリーンは号泣しながら「弟なの、殺さないで」と哀願した。
 そのひと言で手が出せなくなってしまう。魔法で石にでもされたかのようにカロはその場に固まった。
「…………」
 身を起こし、胸を上下させて荒い呼吸を繰り返す。
 脳蟲の抜け殻はただの死体だ。当人に返すとしても腐ってしまっては使い物にならない。
 殺意はまったく空転していた。憎むべき仇を目の前にしながら。
 わなわなと震えるこちらを見もせずに、ルディアはぶつぶつ言い訳の続きを呟いている。
「お父様は……、アクアレイア王としての死を望んで…………」
 まだ言うか。
 どうかなりそうな激情を飲み込み、カロは拳を握りしめた。
 殴れない代わりに呪詛を吐く。奪われた友人の報復を誓う。
「忘れるな。どんな手を使ってもお前は必ず俺が殺す」
 必ずだ、と睨み据えた。邪視邪眼と忌み嫌われた金の眼で。

「もう二度と、俺はお前をあいつの娘とは認めない……!」

 ルディアの声が途切れた代わりに遠くで甲冑の足音が響き始める。丘の下に目をやれば、列を成した兵士たちが砦の城門を出てくるところだった。
 埋めてやる時間もないなとイーグレットの傍らに跪く。せめて静かな別れをと思ったのにアイリーンは騒々しかった。
「レイモンド君、行って! 早く姫様を連れて逃げて!」
 そんなに急かさなくたって何もできやしない。
 今は、その女には。
 イーグレットには、この先もずっと。




 ――なんだこれ。なんだよこれ。
 眩暈を堪えてレイモンドは走りだす。
 名指しで指示を受けるまで思考は完全に停止していた。
 座り込んだまま腑抜けたルディアの手を引いて無理矢理に立ち上がらせる。歩くことすら覚束ない彼女を抱え、駆けてきた道を引き返した。
 とにかくここにいてはいけない。またいつカロが暴走するかわからないし、留まる理由もなくなった。
 広がる血の海。変わり果てたイーグレットを思い出してぞっとする。
 本当にこの人が殺したのか。あんなに好きだった父親を。
(なんで話しといてくれなかったんだよ)
 土壇場で決めたことではあるまい。いつ何が起きてもおかしくないと言ったのは彼女だ。
 この展開だっておそらく予測の範囲内だったはずである。敵軍がやって来て、王族を差し出せと言って、コリフォ島ごと占拠して――同じタイミングでカロが駆けつけたこと以外は。

 ――いや、なんかそれ天帝が国王の首を差し出せって言ってきたときに陛下が従うって決めたら止めないっつってるように聞こえるんだけど……。
 ――端的に言うとそうなる。
 ――いやいやいやいや。
 ――あの人が王に相応しい死を望むなら……。
 ――暗い! 暗いって! 暗すぎる!

 コリフォ島に到着した日の会話が耳に甦る。
 あのときルディアはなんと言いかけていたのだろう。「そのときは私がこの手で」と続けるつもりだったのではないか。
(聞かなかったのは俺のほうだ)
 後悔が心臓を押し潰す。きっと話してくれていたのに。聞いてさえいれば、きっとルディアを止められたのに。
(馬鹿かよ俺……!)
 そもそも彼女がイーグレットを敵国に委ねるわけがなかったのだ。何をしてくるかわからない連中に、それこそ一番大切な人を。
 どうしてそんな単純な矛盾に気づかないでいたのだろう。
 どうして気づかないまま手を汚させてしまったのだろう。
 せめて数分戻るのが早ければ。街の様子や住人の目など気にせず、初めからイーグレットを連れて逃げていれば。
「……には……」
 腕の中で声が震えた。喧噪の去った漁港でレイモンドは「え?」と聞き返す。
 生気のない頬。かじかむ指。苦しそうな浅い息。
 知らないルディアに身が凍る。いつもピンと背筋を伸ばして、自分で決めたことだからとまっすぐ前を向いているのに。

「……アクアレイアには帰りたくない……」

 どうしてなんて聞けなかった。わかったと頷いてやるしか。
 イーグレットと乗るはずだった漁船に乗り込み、レイモンドは矢よりも早くコリフォ島を後にした。




 ******




 ああ、なんて綺麗なんだろう。
 澄み切った紺碧の空に波打つエメラルド。薄膜に透ける星の瞬き。広がって縮んでオーロラは忙しない。大気の冷たさもなんのその、優雅に天空のダンスを続ける。
 イーグレットはほうっと感嘆の息をついた。こんなに美しい夜は初めてだ。雪に埋もれた白い世界を蒼い闇、淡い光が包み込んで。
 イェンスには感謝しなければ。彼が船を出してくれなかったら今日の景色は見られなかった。

「ルディア――」

 隣でこぼれた聞き慣れない音にイーグレットは視線を移す。同じように天を見上げていたカロが「ロマの言葉で『ルディア』と言うんだ」と光のカーテンを指差した。
「へえ、とても耳心地の良い響きだな。どこかの王女の名前みたいだ」
「どこかの王女か。だったらいつか娘が生まれたらそういう名前にすればいい」
「おや、いいね。それは素敵な提案だ。是非ともそうさせていただこう」
 にこりと微笑み、イーグレットは極光の饗宴を焼きつける。だがなんとなくカロがそっぽを向いた気がしてまたすぐに横を向いた。
 どうしたのだろう。何か変なことを言ったかな。いつもそんなに露骨に背中を向けられることなどないのだが。
「……名付け親になるというのは、ロマの間では最大の友情の示し方だ」
「えっ!?」
 照れ隠しでやや荒い語気にこちらの頬まで熱くなる。瞠目し、イーグレットは問いかけた。
「き、君が私の子供の名付け親になってくれるのかい?」
「……嫌ならいい。無理強いはしない」
「誰が嫌なものか! ありがとう、本当に嬉しいよ!」
 勢い余って両手を握る。うろたえたカロに「男の子の名前も考えてほしい」と頼むと「そんな強欲になれるか!」と叱られた。
 曰く、絶対なんてものはないから半々くらいの気持ちでいるのがいいそうだ。単に恥ずかしがっているだけのくせに。
「では正しく女児が生まれるようにアンディーンに祈らなくては」
 イーグレットは大真面目に手を合わせ、聖なるまじないを唱え始めた。
 天上には輝きを増した女神アウローラが麗しの御手を広げている。
 イェンスによれば光の色は日によって様々に変わるらしい。エメラルドだけでなく、ルビーやサファイア、トパーズにピンクトパーズまで。
 そんな名前の娘なら、ただ真っ白な自分とは違い、燦爛たる生を謳歌できるだろう。
 まだ見ぬ命に思い馳せ、友人も歌うように囁いた。

「きっと父親思いの娘になる。俺が名前を贈るんだからな」









(20151126)