アレイア海の冬風はガレー船を北西へ押し戻そうと吹きつける。波が高くて船体は揺れるし、空気は冷たいし、あまり愉快な旅路になりそうな気がしない。漕ぎ手が海軍のベテラン揃いなのがまだ救いだ。冬の海はただでさえ転覆事故が多いから。
(雪降ってなくて良かったな)
 レイモンドは灰色の空を眺めてひとりごちた。
 王都は既に遥か彼方に遠ざかり、大鐘楼の青い影さえ見えなくなっている。ドナにもヴラシィにも寄らず、快速船はまっすぐコリフォ島に向かうらしい。
 急使を乗せてきた水夫たちもまさか国王を連れて基地に帰ることになるとは考えていなかっただろう。イーグレットは船室に引っ込んでいるのにお喋りの一つも響かず、幽霊船にでも乗り込んだ気分だった。アクアレイアがジーアン帝国の一部になるという決定も暗い雰囲気の原因に違いない。
 国がなくなる。それがどういうことなのかレイモンドにはわからなかった。ジーアン兵がたくさんやって来るんだろうなとか商売に変な制限をかけられるんだろうなとか簡単な予測はできるけれど、アクアレイアが何を失ってアクアレイアでなくなってしまうのか。
 だって人間が滅ぼされたわけではない。あの国を守ってきた人々はあの国に住む人々を生かす道を選んだのだ。ルディアもそう、十人委員会もそう、それにイーグレットだって。
「あっ」
 口の端から漏れた声は存外大きく甲板に響いた。うっかり水夫たちの注目を集めてしまい、レイモンドは慌てて口元を覆う。
「どうかしたか?」
 船尾近くの船縁に腕をかけていたルディアにまで振り返られて「いや、その」と後ずさりした。だがすぐに彼女相手に焦る必要はないと気づく。
「……そういやあいつ乗ってこなかったなって」
 声を潜めて話しかけるとルディアは「カロか」と顔をしかめた。彼女も気にはなっていたらしい。
「時間までに伝わらなかったんだろう。工房を留守にしていたのかもしれないし、急な出発だったからな。来られずとも仕方あるまい」
 軍港からは追い出されるのが目に見えているので橋から強引に乗船するはずだったロマ。彼が同行してくれれば色々と心強かったのに残念だ。
 ということは、いつものメンツもしばらくは二人だけか。
「逆に俺が来て良かったんじゃね? さすがにあんたもひとりぼっちじゃ不安だったろ?」
 明るく笑うレイモンドに何故かルディアは呆れた様子で嘆息する。「ああそうだな」とか「助かったよ」とか言ってくれると思ったのに。
「お前な、こっちは本当に無給なんだぞ? ちゃんとわかっていて乗り換えたんだろうな?」
「そんな念押さなくてもわかってるって! なんだよその胡散臭いものを見る目は?」
「らしくない真似をして、後悔したって知らないからな。いいか? くれぐれも私の財布を当てにするなよ?」
「だからしねーってば!」
 これでもかと言うくらいルディアはしつこく釘を刺してくる。宮殿の美術品、ドレスや宝石、その他値打ちのあるものは今後の民の生活のために置いてきたそうで、今お姫様は一文無しなのだ。
 レイモンドはぷくっと頬を膨らませた。借金取りじゃあるまいし、無い袖を振らせようなんて考えていない。確かに金銭報酬がゼロなのは手痛いけれど。
「……なんで大した悔いを感じてねーんだろうな?」
 大真面目な質問は「私が知るか」と一蹴された。
 そりゃそうだ。自分でもよくわかっていないのに他人にわかるはずがない。
「ところでお前、さっきからずっと妙な紐が出ているぞ。違う、袖じゃない。襟元だ」
 ちょいちょいと鎖骨の辺りを指で示され、触ってみると指にたわんだ革紐が引っ掛かった。あああれか、と合点する。マルゴーに向かうガレー船から飛び降りたとき、弾みで飛び出してしまったらしい。壊れていないか確認しようと全体を引っ張り出すと横からルディアに覗き込まれた。
「なんだそれは? 随分と原始て……いや、荒々しい装飾品だな」
 原始的などと評された首飾りは持ち主のレイモンドですら庇いかねる粗野な工芸品だった。小指サイズの黄ばんだ牙に見慣れない線形模様が刻まれている、ただそれだけの。
 俺の趣味じゃないぞと弁解するべくレイモンドは「知らねー」と首を振った。
「しばらく帰れないっつったら母ちゃんに渡されたんだよ。なんかずっと昔に俺の父親がくれたモンらしいけど」
「ふうん、そう言えばお前の父親は外国人だったな。凄まじく異文化の匂いがするが、出身はどこなんだ?」
「それも知らねー」
 レイモンドの返答にルディアは思いきり眉をしかめた。「は? 知らない?」と訝しげに見つめられる。
 ああ、これだ。父親の話題になると大抵皆同じ反応になる。純然たるアクアレイア人家庭で育った人間には不審の目で見られるのが運命らしい。
「お前の父親だろう? どういう人間だったのか母親に尋ねたことはないのか?」
 そう言われてもとレイモンドは頭を掻いた。自分とて自分のルーツを辿ってみようと試みた時期くらいある。しかし。 
「だって母ちゃんも知らないっつーんだもん。精霊祭で皆して仮面つけてる夜に、一度きりのアバンチュールだって誘ったら余所の男だったって。アレイア語も上手かったし、こっちの歌まで口ずさむから地元民だって勘違いしたんだって」
「……もしかして出身どころか顔も名前もわからないとかか?」
「おう! すげーだろ」
 ルディアはしばし唖然としたのち波打つ海に目を戻した。この衝撃の事実を幼少期に聞かされた自分の気持ちを少しはわかってくれただろうか。
「道理で防衛隊結成前に身辺調査をさせたとき、お前だけ詳細が知れなかったわけだ」
「ちょっと待て、そんな調査してたのか!?」
「当然だろう。王女の直属部隊だったんだぞ」
 ルディアはごく当たり前に防衛隊を過去形で語る。あまりに自然で一瞬流しかけたほど。
 息を詰め、レイモンドは小さく唇を噛んだ。
 終わったことにしがみついても何にもならない。潮時だなと思ったらさっさと手を引く。それが利口なやり方だ。
 わかっているのに、そうやって生きてきたのに、やりきれなさを手放せないのは何故だろう。
 ――寒いしそろそろ船室に入ろうぜ。
 そう誘いたかったが元王女様のおみ足が甲板を離れる様子はなかった。
 どんなに瞳を凝らしてもアクアレイアは見えやしないのにいつまでも船尾に張りついたままでいる。

「……北のほうの人間じゃないか?」

 不意に小さな声が響いた。
 隣を覗けばルディアの眼差しは水平線よりずっと遠くへ注がれている。
「へ? 何が?」
「パトリア風でもジーアン風でもないようだし、お前の首飾り。もっと大ぶりだがセイウチの牙にそんな反りがあったと思う。聖像の原料になる北方だけの奢侈品だ。航路さえ確保できればいずれ王国からも定期商船団をと――」
 言葉はそこで唐突に途切れた。ルディアはやや声を硬くして「……ま、実現できずに終わったがな」と呟いた。
 青い目が泣き出しそうに見えて焦る。現実にはルディアの双眸は潤んでさえいなかったのだが。
「ここんとこずっと大変だったろ! 頭使うのはやめにして、休もう休もう!」
 レイモンドはわざとらしいほど元気にルディアの肩を叩いた。こちらの狼狽に気づくことなく彼女は「痛い!」と睨みつけてくる。
「コリフォ島はあんまり雪とか降らないらしいぜ! 綺麗なビーチもいっぱいだし」
「まったく、遊びに行くんじゃないんだぞ。お前には緊張感がなさすぎる!」
 再度の嘆息にへへへと笑う。
 感謝は別になくてもいいや。いつもの顔でいてくれるなら。
 彼女の背中に回した手は事もなげに払われた。くっついていたほうが温かいのにがっかりだ。だがそれでこそルディアという気がした。




 ******




 久方ぶりに訪れるニンフィの港は夕闇に沈みかけていた。断崖絶壁のあばら家も、そこだけ立派なアクアレイア人居留区も、さして変わった様子はない。敢えて違いを挙げるなら、防衛隊には冷たかった街の住民が傭兵団には優しいということくらいだ。
 船着場で歓待を受ける傭兵らに混ざって息をつき、アルフレッドは一年前の任地をぐるりと見渡した。
 目に留まるのは空を押し上げるように聳えるアルタルーペの高峰。マルゴーの都サールへはあの峠を越えていかねばならない。まだ雪も残っているだろうし、険しい道のりになりそうだ。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
「少々支度に手間取った。旅の間は身分を隠したいのでな」
 と、背後の声に振り向くと庶民に扮したチャド夫妻が船を降りてくるところだった。
 二人とも狩人か見習い騎士かという格好だ。元は男のブルーノに男装の麗人なんて言葉を使うのも妙だが、駝鳥の羽根つきのパトリア帽にサイドテールがなかなか様になっている。
「荷物はこれだけですか? 俺がお持ちしますよ」
「いや、構わない。どうせ書簡がいくつか入っているだけだ」
 斜めがけの王子の革鞄に手を差し伸べたが断られた。衣食の世話は傭兵団にさせるからだろう、武器を携えている以外、チャドもブルーノも軽装だ。
 かくいうアルフレッドも似たり寄ったりの旅装である。私物といえば万が一に備えて汲んできた王国湾の海水のみ。家族に託されたお守りの類もない。
 別れはごくあっさりしていた。防衛隊への入隊を決めた日と同じく、母と弟は「家の心配はしなくていい」と言うだけだった。モモに至っては「また後でねー!」と手を振る平常運転で。
 心残りがあるとすれば伯父に挨拶できなかったことだけだ。ブラッドリーは太腿に受けた矢傷の予後が悪いらしく「お前が来ると無理して起き上がろうとするから」とレドリーに門前払いされたのだ。
(生きているうちになんとかまた会えればいいが)
 不安になる。次はいつアクアレイアに戻れるか知れない身では。
 ルディアのことにしたってそうだ。何年でも何十年でも帰りを待つ気でいるけれど。
(……静かだな)
 荒くれ揃いの傭兵たちでごった返す港を見つめ、アルフレッドは目を細めた。耳慣れた声がしなくて寂しいなんて初めてだ。
 動じるな。何度も己に言い聞かせる。離れていても、できる何かはあるはずだろうと。
「あ、お二方! お着替えは終わりましたか? そんじゃとっととニンフィを出やしょう!」
 と、そこに傭兵団長のグレッグが小走りでやって来た。もう夜になるというのに出発を告げられてアルフレッドは目を丸くする。
「今からか? 山に入るには暗くなりすぎるんじゃないのか?」
「ああ、いいのいいの。通るのは洞窟だから、昼でも夜でも暗さは変わんねえんだよ」
 軽い返答にアルフレッドはなるほどと頷く。言われてみればニンフィの山麓にはオールドリッチ伯爵の別荘へ抜ける洞穴があった。あの屋敷でアンバーに出会ったのだと懐かしく思い返す。洞穴は他にも山ほどあったし、きっと土地の者しか知らない都への近道があるのだろう。
「しかし皆がこの様子では……」
 言いながらアルフレッドは周囲を示した。
 集まって騒いでいる者、宿で晩飯を注文している者、既に泥酔している者、傭兵たちは到底すぐに旅立てそうな状態ではない。言ってはなんだがきちんと統率が取れているのか心配だ。
「ああ大丈夫、のんびりしてんのは後発組だ。何せ千人部隊だからな、一気に動くと道沿いの小さい村に迷惑だろ? 公国内の移動はできる限り小さい部隊でって決まってんのさ」
「そういうことか」
「そうそう、そういうこと!」
 グレッグ曰く、今度の帰還では隊を大きく三つに分けたらしい。ガレー船に乗せてきたのは千人のうち二百人で、他は陸路でえっちらおっちら首都サールを目指すそうだ。
 海路の先発組にはチャド夫妻、グレッグ、アルフレッドが、後発組には歩行困難な怪我人と副隊長のルースが入るとのことである。
「先発組にはとびきりの精鋭を集めたんだぜ? 迅速に、かつ安全にサール宮へ向かわなきゃなんねえからな!」
 グレッグはちらちらとチャドの顔色を窺いつつ声を張った。だが王子の態度は素っ気ない。認めてほしいなら責任を果たせと無言で怒気を放っている。
 傭兵団長は涙目で震えたが、正直言って自業自得だった。大金に目が眩み、ドナ・ヴラシィ側に寝返りかけたのは事実なのだ。ちょっとやそっとで信頼は取り戻せまい。チャドとて他に頼れる者があればグレッグ傭兵団には見向きもしなかったはずである。
「と、とにかく出発しやしょう……。俺がついてりゃ一週間とかかりませんよ。ハ、ハハハ……」
 生気のない笑い声を合図に隊列がのたのたと坂道を上り始める。
「頑張れよ、グレッグのおっさーん」
「旦那ァ、こっちはゆっくり行かせてもらうぜー」
 ドブとルースの適当な見送りもグレッグの哀愁に拍車をかけた。傭兵団長の心労はまだまだ続きそうだった。




 ******




 岩場の入江に瀕死の白鷺が浮いている。哀れな水鳥は冷たい波に喘ぎながら、何度も何度も硬い岸壁に身をぶつけられている。
 飛び立つ羽が健在ならば脱出の術もあっただろう。だが生憎とその片翼には深々と矢が突き刺さっていた。強い潮流に抗えぬまま白鷺は――アレイア語でイーグレットと呼ばれるそれは――波打ち際の墓場へと運ばれてしまったのだ。
 ヘウンバオスは桟橋の先でにやりと笑う。
 最高の狩りだった。仕掛けた罠に獲物が追い込まれていく様にこれほど高揚させられたためしはない。
 アクアレイアの存在を知って十年。なんと苛烈で、なんと清冽な欲望に突き動かされた十年だったか。
 旅を続けるためにではなく、終わらせるために戦って、やっとここまで辿り着いた。安息の地まであと一歩というところに。

「予定通りだ。船を出せ」

 寂れた港を振り返り、ヘウンバオスは傍らの豪商に命じた。
 今日ばかりは声が上擦るのを抑えられそうにない。唇も勝手に笑みを刻む。
 たった今隣の男から受け取った書状には望みのままの文面が記されていた。アクアレイアはジーアン帝国に所領を譲渡し、以後王権を放棄すると。
「これはこれは…………えっ!? まさか今すぐにですか?」
「当然だろう。私が私の街を訪ねるのに何を遠慮する必要がある?」
 使者として役目を果たし、黄昏のドナに帰港したばかりのローガンの顔には「旅の疲れを癒したい」と書いてあった。しかしこちらは待ちきれず、ノウァパトリアから早馬を駆ってきたほどなのだ。軟弱な訴えなど耳に入れる気にもならなかった。
 気が逸る。この目で、この耳で、この五感全て早く確かめたい。求めてやまなかった楽園が、秘められし蟲たちの巣が、ついに我が手に入ったのだと。

「おやまあ、珍しく浮ついておいでですね。しかしあんまり無茶な言いつけをなさってはローガン殿がお気の毒ですよ。船乗りたちは風に逆らい、半日以上も漕ぎ続けだったのです。無用の事故を防ぐために一夜の休息くらいは与えてやらなくては」

 と、そこに待ったがかかる。したり顔で水を差したのはアクアレイアの天才画家だった。
「おお、コナー先生!」
 思わぬ助け舟にローガンが色めき立つ。豪商はすっかり鼓舞されて「そう、そうです、先生のご指摘通り! それに日も暮れてもう危ないですから!」と力説した。
「私の意に背くつもりか?」
 ヘウンバオスはムッと二人を睨みつける。足止めされて面白いわけがない。目指す地はアレイア海のすぐ対岸にあるというのに。
「いえ、ただの忠告ですよ。穏やかに見えたとしても海の本性は野蛮なのです。一昨年もこの海域でグレディ家の船が一隻難破しております。あのときは私も危うく死にかけましたし、あなたの弟君も海に溺れられたではありませんか」
 説得の言葉にぴくりと耳が跳ねる。
 聖預言者の肉体にアクアレイアの女狐が入り込んだのは二年前の春だった。あの船にこの男も乗っていたとは知らなかった。だとすれば、コナーはそこでハイランバオスと知り合ったのだろうか。
 本物の弟からも「こちらへお越しの際には是非コナー・ファーマーをお連れください」と頼まれているし、いよいよ怪しげな人物である。探り甲斐がある程度では済まなさそうだ。
「……ふん、まあ街が逃げるわけでもない。出航は明日の朝一番にしておいてやろう」
 ヘウンバオスは腕を組み、顎でローガンに行けと命じた。
「か、かしこまりました。明朝確実にドナを発てるようにいたします」
 無言の圧力に押されて豪商は船に舞い戻る。入れ違いで船着場にはラオタオが現れた。
「おーい、ローガン戻ってきたんだってー!? 首尾はどうだったー!?」
 手を振りながら駆けてくるジーアンの若い狐に王印付きの書状を見せてやる。一読するやラオタオは「おお!」と瞳を輝かせた。
「おめでとう、おめでとう! うわあ! なあなあ、俺も一緒にアクアレイア入りしていいんだよな!?」
「ああ、構わん。喜びを分かち合う者は多ければ多いほどいい。この男の監視役も必要そうだしな」
「へっ? この男ってコナー? 先生なんか悪さしたの?」
 ラオタオに尋ねられ、コナーは「いやいや」と否定する。鼻で笑ったヘウンバオスに画家はおどけて肩をすくませた。
「うーん、私、スパイ嫌疑でもかけられているんでしょうか?」
「別にそういうわけではない。お前は謎が多すぎるというだけだ」
「あ、俺もすごーく気になってた! なんで自分の故郷が奪われるのを黙って眺めてるだけだったのかなーって!」
 ラオタオは食えない笑顔で横からコナーを覗き込む。しかしコナーは臆した風もなく微笑み返すだけだった。
「私は別に、アクアレイアが王国だろうと帝国だろうと困りませんので」
 語る表情に嘘や誤魔化しは感じられない。「本当ー?」とラオタオがしつこく絡んでも飄々とした態度はそのままだ。
「ええ、あの街が東方と西方を繋ぐ商人たちの聖域でさえあってくれれば」
 意味ありげにコナーが笑う。誰に理解されずとも一向構わないという調子で。
 いつ頃からだったろう。好んでこういう厄介者を側に置くようになったのは。ヘウンバオスには常人の見ていない世界を見ている人間が必要だった。途方もない願いを実現させるために。
「だけどアクアレイアには先生の身内だっているんだろ? もし俺好みの美人だったら手元に攫っちゃうかもしんないぜ?」
「それもまた運命です。致し方ありません」
「うわ、薄情! 思ってたよりも薄情!」
 自分の行いは棚に上げてラオタオが画家を責める。
 コナーは母国への愛着に囚われていない。それは確かだ。この半年、この男がジーアンで得た情報を王国に流す素振りは一度たりとて見られなかった。
 だが何を目的にバオゾに居残っていたのかは不明である。ハイランバオスが名指ししたということは間違いなく蟲の関係者だろうし、飼い馴らせそうなら自陣に加えておきたいが。
「せいぜい明日の帰国を楽しみにしておけ。愚弟と並べて今までの経緯を微に入り細に入り喋らせてやる」
「おお、恐ろしい。ジーアン式の拷問にでもかけられるのですかな?」
 ヘウンバオスの宣告にコナーは身震いのふりをした。
 野心や功名心の類は感じられないし、解せない男だ。だがそろそろはっきりさせてやろう。敵なのか、味方なのか、或いは他の何かなのか。
 力はこの先も不可欠だ。手に入れたものは、今度は守り通さねばならないのだから。




 ******




 飛び交う怒号、悲鳴じみた泣き声。税関岬の商港はアクアレイアを脱出せんとする人々で騒然となっていた。
 先刻からひっきりなしに私有船が旅立っていく。乗せてくれと縋りついては足蹴にされる貧者の努力が涙ぐましい。
 空の木箱に腰かけて、うんざりしつつモモは埠頭の阿鼻叫喚を眺めていた。ジーアンによる占領が始まる前にと皆焦っているのだろう。普段なら航海禁止の時期なのに、お構いなしに荷と人員が積み込まれる。
 人波は絶えることなく去っては現れ、去っては現れ、こんなに多くの人間がアクアレイアを捨てていくのかと呆れるほどだ。だが肝心の待ち人はいつまでもやって来る兆しがなかった。
「はーあ、乳母さんまだかなあ」
 待ちくたびれてついた嘆息が潮風に霧散する。隣のバジルは「そうですねえ」と覇気のない返事を寄越した。
 十人委員会から指令が下ったのはつい今朝のこと。乳母の用意ができたので商港にて待機せよと命じられた。
 アウローラ姫の安全を考慮し、出航ギリギリに駆け込む予定とは聞いている。なかなか姿を見せないのは港が混乱しているせいだろう。だが時刻は既に正午である。早くしないと今日中に出られなくならないか心配だ。
「確かにちょっと遅いですよねえ……」
 お手製の望遠鏡を取り出してバジルが船着場を見渡す。モモは思わずずるりと足を滑らせた。
 赤子連れの女などただでさえ目立つのだから、そんな道具で視野を狭めないほうが見つけやすいと思うのだが。一体どんな遠方から現れると思っているのだろう。
「……うーん、来てないみたいです……」
 溌剌さに欠けた声につい顔が険しくなった。一番酷かったときよりはマシになっているものの、まだまだ幼馴染は本調子でなさそうだ。
「バジルさあ、大丈夫なの? ちょっとは元気出てきたの?」
 薄目でそう尋ねると弓兵は肩を落とす。
「心配かけてすみません……」
 塞ぎがちに謝られるが、本当に気がかりなのはバジルではなくてルディアに頼まれた任務のほうだった。こんな状態で本来のパフォーマンスを保てるのか不安しかない。送り届けねばならないのは王家の血を引くプリンセスなのに。
「どうしても明るい気分になれなくて……」
 常日頃から面倒臭い男だが、こう湿っぽくされると本気で鬱陶しい。
 はあと盛大に溜め息をつき、モモは木箱に座り直した。
「なんか溜め込んでるならモモが聞いてあげようか?」
 場合によっては慰めずに終わるけど、と補足する。
 優しくすると調子に乗られて厄介なのだが致し方ない。万全を期して護衛に臨むのが今の最優先事項だ。
「ほら、話しちゃいなって。一人じゃモヤモヤしたままなんでしょ」
 モモって本当に天使だな。己の高徳に感心しつつ促した。特別な感情もない相手を苦しみから救い出そうとするなんて、女神様でも真似できまい。
「モモ……」
 ベビーフェイスが戸惑いがちにこちらを見上げた。重苦しさに耐えるよう、バジルはじっと息を詰めている。
 早く吐き出して楽になればいいのに、変なところで不器用なのだから。
「……戦わなきゃならない状況だったのはわかってるんです。でも自分の中で腑に落ちてなくて」
 やはりドナ・ヴラシィとの戦闘の件か。想像通りの彼の懺悔にモモはこそりと眉根を寄せた。
 優しいというか、甘いというか、おめでたい性格だから、バジルは。
「海賊を倒したのと同じだって思おうとしても駄目なんです。あの人たちにも家族や友達や恋人がいたんだって、どうしても考えてしまって……」
 バジルはうつむき、固く拳を握りしめている。そんなに力を入れてしまっては弓を引く手が傷つくだろうに。
「あの、モモはどうやって割り切ったんです? それとも初めから気に留めてなかったんですか? 遅かれ早かれ人は死ぬんだ平等だ、みたいな、そういう」
「えっ、モモ!? モモは別に、防衛隊としての務めを果たしただけだけど」
 急に問われて面食らった。戦いの心構えなら入隊前に宣言したのに今更何を言っているのだ。というかそこか。そこからか。
「そもそも人間って平等じゃなくない? でなきゃ戦えないじゃん」
「えっ」
「えっ?」
 ぽかんと二人で見つめ合う。
 どうやら前提からして相当食い違っているらしい。これは多少ゆっくり話を聞いてやる必要がありそうだった。
「だ……、だって元は同じ船に乗ってた人たちじゃないですか。あっちのほうが先にジーアンの手に落ちただけで」
「うん、でも敵として襲ってきたよね? 同郷人の説得にも応じなかったし」
「それはそうなんですけど、本当に殺し合うしかなかったのかなって」
「うーん、モモは難しかったと思うけど。少なくとも向こうはアクアレイアが全滅するか自分たちが全滅するかの覚悟で来てたわけで、実際あの封鎖作戦は際どかったでしょ。和解の方法があれば政府が実行済みだったと思うし……。まあ裏で糸を引いてたのが天帝じゃなきゃなんとかなったのかもだけど」
「……ですよね。そうですよね」
 同意する割にバジルの表情はすっきりしない。「不毛じゃない? 自分の力の及ばなかったことで悩むの」と尋ねるとますますどんより落ち込んだ。
 一体どんな未来ある人物を殺めたらこうなるのだろう。反対に殺されるかもしれなかった自分の命や将来に対しては敬意を払わないのだろうか。おかしな平等もあったものだ。
「あのさあ、モモだって割り切ってるわけじゃないよ? 二つのうち一つしか選べないときに二つとも欲しがるのはただの馬鹿だから、なるべく後悔しないほうを選んでるだけ。ジーアン人とドナ人ならドナ人を助けたいけど、ドナ人とアクアレイア人ならアクアレイア人を助けたいもん。どうやったって平等になんて扱えないよ」
 王都を守る防衛隊に入る。そう決めたとき誓ったのは、いついかなる場合もアクアレイアにとって最善の選択をするということ。
 もうモモは正式な軍人ではないけれど、再結成があると信じて志は変えずにいたい。
 だがバジルの言うこともわからないではないのだ。二つ取れるなら二つとも取りたいし、自分のも他人のも涙はできるだけ見たくない。
 だからと言って二つとも取り落とす羽目になっては軍人失格だろう。全てに対して「どうにかできたのでは」と反省するのは傲慢だ。自分を過大評価している。本当は一つ選び取れたことを謙虚に喜ぶべきなのだ。でなくては信頼に足る兵にはなれない。
「バジルだってさ、守りたいものがあって戦ったんじゃないの?」
 頬杖をついて問いかける。三つ編みに顔を埋めて弓兵は歯を食いしばった。
 苦しいのは自分だけ生き延びた罪悪感があるからだろうか。背負いすぎたら潰れちゃうよと言いかけてやめる。
 多分これは諭しても無駄だ。一度背負ってしまったものを下ろすのは困難を極めるから。
「……守れたことは、良かったって思ってます……」
「じゃあいいじゃん。バジルよくやったよ」
「でも、でも僕は……」
 行き交う人々のざわめきに沈黙が塗り潰される。ぷつりと切れた会話の糸を繋げられそうな言葉はなかった。ただただ暗い。生者と死者の世界が逆転してしまったかのごとく。
 モモはううんと密かに唸った。もう近日中の浮上は断念すべきかもしれない。仮に戦えないとしても、バジルには他の特技があるのだし。
「わかった。じゃあこう考えたら? 百回時間を戻せるとして、百回とも自分が同じ行動を取るって思ったら、それはもう絶対変えようのない出来事だったんだって」
 勢い半分諦め半分で助言する。バジルはぱちくり瞬きし、モモの言葉を復唱した。
「百回時間を戻せるとして……?」
「そう! そんなことウダウダ思い悩んでたってしょうがないでしょ? 何がなんでも譲れないものがあったってことなんだから!」
「もしああしておけば良かったって後悔するときは……?」
「他で頑張るしかないじゃん! バジルは何もしないで自分を納得させられるの?」
 黒目がちな緑の瞳が一瞬揺れた。何か言いかけてバジルが小さな唇が開く。
 ――そのときだった。みすぼらしく痩せた女がモモたちに近づいてきたのは。

「……逃げるの?」

 ぽつりと響いた小さな声。いつの間にか目の前に立っていた女を仰いでぎょっとする。焦点の合わない虚ろな眼差し、それ以上に右手で閃く鋭い刃が危険すぎて。
「ケ、ケイト……!? だったっけ!?」
 難民の名を思い出せたのは奇跡だった。彼女はやつれて変わり果てていたし、長い黒髪もぼさぼさで正気の人間には見えなかったから。
 バジルが木箱を飛び降りる。ケイトはモモが眼中にないのかフラフラと弓兵に向き直った。
「自分の国を捨てていくの? 人を殺してまで守ったのに?」
 よくわからないが多分まずい状況だ。こんな人の多い場所でケイトがナイフを振り回し始めたらパニック程度では済まない。即取り押さえて警察なり海軍なりに連れていってもらわねば。

「おんぎゃあー、おんぎゃあー」

 そこに聞こえてきた赤ん坊の泣き声にモモは「嘘でしょ!?」と目を瞠った。恐る恐る声のしたほうに目をやれば、乳母らしき若い女がアウローラを抱っこして早足でこちらに駆けてきている。
 なんてタイミングでやって来るのだ。乗船の気配など見せたら確実にケイトを刺激するではないか。
(と、とりあえず足払いかけて、武器は海に投げ捨てちゃって、暴れられたらこの辺の人に頼むしか)
 モモは低く腰を落とした。それを制したのはバジルだった。
 弓兵は静かに首を振り、手を出すなと合図してくる。視線の動きから察するに、彼もアウローラの存在に気づいたらしい。
「モモ、行ってください。ここは僕が残ります」
「ちょっとバジル」
「いいから早く!」
 有無を言わせない強い語調にモモは「もう!」と憤慨する。ハラハラさせるだけさせておいて、物事の優先順位はきちんとつけられているではないか。
「わかった。任せたからね」
 後ずさりでケイトから遠ざかり、モモは素早くアウローラたちと合流する。乳母の示したガレー船はもう出航間近だった。
 小走りに船へ急ぎつつ振り返る。視界の端にはバジルが港の奥にじりじりと後退する姿が映った。
(無事に追いかけてきてよ)
 きつく睨んで緑頭に念を送る。
 あまり口では言わないけれど、弓の腕も工学の知識も一応頼りにしているのだから。




 経験のない緊張に胃がキリキリと絞られる。呼吸すらままならない苦しさは逃げるなと叫ぶ心を鈍らせかけた。
 バジルが一歩身を引くとケイトは一歩踏み込んでくる。まるで足元に伸びた影だ。空洞の目で見張りながら逃がすまいと追ってくる。
 背中を見せたら良くない展開になりそうで、向かい合ったまま岬の突端へと後ろ歩きした。
 船着場を通り過ぎ、積み上げられた荷箱の裏まで来た途端さっと人がいなくなる。王国湾を旅立つ船はバジルたちに目もくれなかった。一艘くらいと期待をかけたゴンドラも付近には係留されていない。三方を海に囲まれた袋小路で足を止める。
「…………」
「…………」
 睨み合う、というよりは、互いに金縛りにかかってしまった感覚で。動けずに、喋れずに、ただ時間だけが経過した。
 血走った双眸、色味のない頬、汚れてしわくちゃになった服。ケイトの姿は痛ましく、見ていると堪らなくなってくる。それでも視線は逸らせなかった。
「……わからなくなっちゃったの……」
 風に混じって消え入りそうな呟きが漏れる。静寂を破ったのはケイトだった。声は儚く頼りなげで、恋人を説得しようとしたときの決然とした態度は見る影もない。
「チェイスは間違ってたと思うわ。だけど死んでほしくなんてなかったのよ。ただ戦うのをやめてほしかっただけで……」
 あんな風に追い詰めるつもりじゃなかったとケイトは嘆く。一緒にやり直すために会いに行ったのだと。輝く未来はまだ残されていたはずだったのだと。
 そう、交渉が決裂したあの後も、チェイスが考えを改める可能性はゼロではなかった。自分さえあの一矢を放たなければ。
「あなたを呪うのも間違ってるって思うのに……私には何が正しいことなのか、わからなくなっちゃったのよ……」
 スカートのひだの間にちらちらと光るナイフが見え隠れする。
 刺されるかなと思ったが、不思議と避ける気にはならなかった。
 それよりも彼女が彼女自身を傷つけるために持ち出した刃でなければいい。今のケイトはバジルへの恨みの念にすら押し潰されてしまいそうだった。
 きっと真面目な人なのだ。敵に回った同胞をたしなめようとするくらいには。もし自分が彼女だったら恋人を殺した男を前に逡巡できるかもわからない。
 不運だった。そんな言葉で片付けたくはなかった。仕方なかったなんて言葉ではもっと。
 だけど彼女とどう向き合えばいいのだろう。慰めたり励ましたりする資格もないのに。
(バジルは何もしないで自分を納得させられるの、か)
 先刻問われた言葉を思い出す。モモらしいなと胸の奥で笑う。
 背負いはしても振り返らないあの気丈さは一体どこから来るのだろう。叶うなら同じだけの強さが欲しい。ほんの少しの間だけでも。
「――あの」
 バジルの呼びかけにケイトがぴくりと顔を上げた。
 それ以上の反応はない。ナイフを構える様子さえ。
 こんなことを伝えても何にもならないかもしれない。言い逃れかと怒られて終わるかも。けれど彼女にできることがあるとすれば、正直に全て打ち明けることだけだった。
 意を決し、バジルは己の胸中を告げる。

「あの、僕、好きな子がいるんです」

 ケイトはきょとんと目を丸くした。なんの話をされているかすぐにはわからなかったようだ。
 だがそれも次の台詞で理解に変わる。
「あのときチェイスさんのクロスボウが彼女に狙いをつけたのが見えて、気がついたら先に攻撃していました。……でもきっと、今あの状況に戻れたとしても僕はチェイスさんを射ると思います。僕の大切な人を守るために、あなたの大切な人を殺すと思います」
 それでも、とバジルは続けた。
 本当は戦場に平等な命などないと知っている。もしかしたら世界のどこにもそんなものはないのかも。
 境遇が異なるだけで明暗は簡単に分かれてしまう。人間なんて機能で見ればほとんど同じ生き物なのに。
「それでも一つだけ謝りたいんです。頼みごとを引き受けておいて不意打ちで返したこと。あなたは僕を信用してくれたのに、僕はそれを裏切ってしまって本当にすみません」
 バジルは深く頭を下げた。
 たとえ平等ではないとしても、対等ではいたかったのだ。同じアレイア海で同じように交易に従事し、確かに仲間であった彼らと。
 ちゃんと最初から敵になっていれば良かった。もっと堂々と戦えば良かった。モモの命やアクアレイアを譲る気はなかったのだから。
 結局は逃げ回っていた自分の弱さがこの結末を招いたのだ。
「……僕もう行きますね。やらなきゃいけないことが残っているので」
 身を起こし、無言で立ち尽くすケイトに告げる。バジルが道を戻り始めても刃を握った彼女は微動だにしなかった。すれ違う一瞬だけ息を詰めたが、引き留められることもなく。
(……生きててくれるかな。それともチェイスさんの後を追っちゃうかな)
 できれば生きて幸せになってほしい。あれこれ願える立場ではないから祈るしかできないが。
 一度だけ振り返り、細い背中を目に焼きつけた。
 もしこの先あの人が困っているところに出会ったら、そのときはきっと力になろう。
(早くニンフィに向かわないと)
 バジルは全力で駆け出した。幸い港に船はまだ何隻か残っている。どれかはマルゴーを目指すだろう。

「――って、あれ?」

 船着場に引き返したバジルは瞠目した。
 先刻とは打って変わって人波が引いている。一体何があったのか、三隻の船以外には誰の姿も見当たらない。
 否、いることはいた。ただしそれはニンフィの街まで同乗させてくれそうなアクアレイア人ではなかったが。

「おっ? バジル君、久しぶりィ!」

 外道の狐の明るい声に身が凍る。及び腰で振り向くと長い腕にがっしり肩を捕らえられた。
「ラ、ラ、ラ、ラオタオさ……ッ」
「覚えててくれたの? 嬉しいなあ」
 ジーアン帝国の十将が一人は上機嫌で絡めた腕に力を込めてくる。
 そんなまさかと青ざめた。航海解禁の三月は一週間も先なのに、いくらなんでも来るのが早い。早すぎる。
 よくよく見れば停泊中のガレー船はカーリス共和都市及び東パトリア帝国、ジーアン帝国の三つの旗を掲げていた。アクアレイア船は積み込みもそこそこに慌てて逃げ出したものらしい。
「いやー探す手間が省けて助かったな。俺さ、実は君のことバオゾの職人宮に閉じ込めたいなってずっと考えてたんだよねえ」
「閉じ……!? ちょ、待っ、困りま……! ウワアアアー!」
 担ぎ上げられて視界が上下逆さまになる。バジルは荷袋同然にガレー船へと運び込まれ、暗い船倉に放られた。
「そんじゃまた後でねー!」
 固辞を述べる前に軽快な足音は去ってしまう。鉄格子の嵌められた小窓からは船を降りていくジーアン兵の列しか確認できなかった。
(う、う、嘘でしょう……!?)
 ジーアンは征服した街に目ぼしい技術者を見つけると問答無用で引き抜いていく。そう聞いた覚えはあるけれど。
(こ、これ僕モモを追いかけるどころじゃないんじゃ……)
 木製の扉は分厚く頑丈だった。錠をいじれば開けられそうだがどう考えても格子の隙間から手が届かない。
 と、そこに突如馬のいななきが轟いた。
「……ッ!」
 耳慣れぬ咆哮にバジルはびくんと肩をすくませる。
 おそるおそる小窓を覗くと船倉のすぐ側で美しい毛並みの黒馬がたてがみをなびかせていた。
 見覚えのある馬だ。確かバオゾでヘウンバオスを乗せていた。

「――やっと着いたか」

 黄金の髪が燦然と輝く。血よりも赤い双眸と目が合って、バジルはその場にひれ伏した。
 そうせざるを得なかった。アクアレイアの新しい主人は直接顔を拝する無礼を見逃してくれそうになかったから。
 説明など不要だった。もはやこの街が自分たちの都でなくなったことを理解するのに。
 歴史は今日、次のページへ進んでしまったのだ。









(20151016)