幾日も続く風雪が家々の門戸を固く閉ざしている。レーギア宮から見下ろす広場は白銀に埋もれ、衛兵の他には犬猫の影もない。
 薄ら寂しい風景だ。声には出さず、ルディアは小さく息を吐いた。
 二ヶ月に渡る封鎖作戦に耐え、勝利した側の街とは到底思えない。あるべき熱狂に欠けている。
「なーんか静かだなー。いつもなら今ぐらいの時期にはもうカーニバルの準備始めてんのに」
 バルコニーの片隅でレイモンドが呟いた。呑気に祭りの心配かと皮肉を返す気にもなれず、視線を国民広場に戻す。
 誰も表に出てこないのは緊張と警戒の表れだ。ノウァパトリアで起きた政変。その意味のわからぬアクアレイア人はいないから。
 交易は常に東パトリア帝国ありきで営まれてきた。もし天帝に港への出入りや取引を禁じられたらこの国は生きていけない。
「今年はカーニバルないかもよ」
 淡々とモモが呟く。事の重大さに気づいているのかいないのか、槍兵の反応は至って平常通りだ。
「そっか。まあ騒ぎたくても酒も食い物も足りねーもんな」
 この馬鹿くらい頭を使わずにいられたら少しは気楽になれるのだろうか。
 この雪がやんだら。この冬が明けたら。先のことを考えると憂鬱になる。
 東パトリアを我が物にした天帝が次に狙うのはきっと――。
「今のうちに元の身体に戻ったほうがいいんじゃないか?」
 アルフレッドにそう尋ねられ、ルディアは静かに振り返った。騎士は言外に「この先は何があるかわからないぞ」と言っている。出産も済んだのだから、少しでもできる備えをしたほうがいいと。
「……いや、私はまだしばらくこの姿でいるつもりだ」
 ルディアの返答にアルフレッドは顔をしかめた。何か言いたそうに口を開くが、ちょうど同じタイミングで鐘が鳴る。
 間もなく背後の中庭に十人委員会の面々が現れた。「ルディア姫」も暗い表情で宮殿の私室へと歩いていく。
「……今日の会議は終わったらしいな。お前たち、悪いが少しこの辺りの巡回に出てくれ。私は先に寝所に戻っている」
 言うが早くルディアはバルコニーを後にした。別行動を言い渡された騎士の不満げな顔が目に浮かんだが致し方ない。
 防衛隊と会議の内容を共有する気にはなれなかった。今は十人委員会で何が話し合われていてもおかしくはないから。
 衛兵室と控えの間を通り過ぎ、慣れた自分の部屋に戻るとブルーノが蒼い顔で震えていた。
「……姫様、アクアレイアは一体どうなってしまうんでしょう?」
 涙目の彼に何も答えられず、ルディアは会議の進展だけを問う。ブルーノはふるふると首を横に振った。
「ジーアン帝国の出方を窺うしかないと……。でも皆、天帝が何をするつもりなのか口に出そうとしないんです。暗黙の了解という感じで……」
 委員会の様子は簡単に想像がついた。家の名前だけでメンバーに入っているクリスタル・グレディと代理のブルーノ以外は外交経験豊富な者ばかりだ。今の勢力図を見れば否応なしにヘウンバオスの狙いは知れる。
 黙り込みたくもなるだろう。迫る困難に打つ手なしという窮状まで自覚済みなら。
 天帝はアクアレイアを西パトリア諸国攻略の足掛かりにするつもりなのだ。急峻なアルタルーペの山々に守られたマルゴーより、王国の港を制したほうが有益と見て。
 家畜同然に扱っていたアニークと結婚してまで東パトリアに押し入る口実を作った男だ。他の国と交わした休戦協定も守るつもりなどないに違いない。
 例えば女帝に「東西パトリアの再統一を!」と叫ばせるだけで挙兵はできる。ジーアンはただ友軍として東パトリア兵に続けばいい。もっともそんな展開になる頃には、アクアレイアはアクアレイア人のものではなくなっているだろうが。
「ブルーノ」
 己の無力に対する怒りを極力滲ませないようにルディアは剣士の名を呼んだ。
 本当はもう解放してやるべきなのだろう。勝手に身体を入れ替わった代償は十分払ってもらったし、ルディアの都合と彼は本来無関係だ。――だが。
「お前には苦労を強いるかもしれない。先に謝らせてほしい」
 突然の謝罪にブルーノは目を瞠った。ルディアが彼の両手を握ると狼狽し、真っ赤になって後ずさりする。
 同じ脳蟲としての純粋な好意を利用するようで心苦しいが、他に頼れる者はいなかった。ルディアにはまだ自由に動ける身分と肉体が必要だった。
「あ、あの、ぼぼ僕は、姫様のための苦労なら、全然、あの、苦労だなんて」
 しどろもどろに恭順を誓われ、思わず苦笑いが漏れる。
 いつまでこうして姫などと呼んでもらえるのだろうか。
(気をしっかり持たなければ)
 ――この先に必要なのは策ではなく覚悟だ。
 何が起こるかわからない。だからこそまだ「ルディア」には戻れなかった。




 ******




 巡回に出ろと言われても、街中雪に埋もれていて犯罪の臭いなんかどこにもしない。水路のゴンドラは布で覆われ、曲者どころか人っ子一人いなかった。蓄えのない今の王都は泥棒にさえ見限られているのだ。
 適当にぶらつくのも早々に飽き、モモは雪玉を転がし始めた。あんまり早く宮殿に帰ってもまた外へやられそうだし、雪だるまでも作っていれば良い時間になるだろう。
「おっ、楽しそうなことしてんじゃねーか」
 と、雪玉に気づいたレイモンドが「俺も俺も」と胴体作りに参戦してくる。
 アクアレイアがこんなときなのに最近彼は浮かれ気味である。どうもドナ・ヴラシィとの戦いで良いことがあったらしい。それが何かまでは知らないが、おそらく特別手当でも貰う約束をしたのだろう。どことなくルディアを見る目が前とは少し違っている。
 違うと言えば兄アルフレッドもそうだった。いつもなら「任務の途中だ」と絶対叱るのに雪と戯れるモモたちに何も言わない。このパトロールの無意味さを、もっと言うなら露骨にルディアに遠ざけられているのを感じて考え込んでいるのだろう。アニークの身も心配だろうし、気苦労の絶えぬ男である。
「いつぐらいにお城に戻ればいいかなあ」
 雪の向こうに薄ら霞むレーギア宮を見上げて呟く。
 美しい宝石箱を思わせる四角い宮殿。あの中でルディアたちは今頃どんな話をしているのやら。
「姫様は予想ついてるんだよね? アクアレイアがどうなっちゃうか」
 モモの問いに頷いたのはアルフレッドだ。
「ああ、どうもそんな感じだな」
「やっぱりかあ。それをモモたちに言わないってことは、相当ヤバいってことだよねえ」
「えっ? ヤバいって何が? まさか今度はジーアン騎馬軍が襲ってくるとかか?」
 状況をまったく把握できていないレイモンドに盛大な嘆息を返す。そろそろ人の顔と名前を覚えること以外にも頭を使ってほしいものだ。
「ジーアンとは一応まだ休戦中でしょ」
「だよな、そうだよな! 一年間は武力行使しませんって約束したのが去年の四月だし」
「武力行使されなくたって詰んでるじゃん。ノウァパトリアからアクアレイアの商人が締め出されたって聞かなかった?」
「うっ……! そりゃ俺だって知ってるけど、だからってもう交易できねーって決めつけんのは……」
「実際無理でしょ」
「無理じゃねーよ!」
「無理だってば」
「んなことねーって! 東パトリアは大した軍船持ってねーし、ジーアンには海軍そのものがないんだぞ? ノウァパトリアは無理でもさ、クプルム島とかミノア島でこっそり商売続けんのはイケるだろ!」
「あー、天帝の目を盗んで?」
「そうそう! 天帝の目を盗んで!」
 なるほどと一瞬納得しかける。確かに東パトリアの雑魚船乗りとジーアンのお馬大好き軍団では広い海の隅々まで支配を徹底するのは難しいかもしれない。であれば公に取引を禁じられたとしても裏でどうにかできる可能性はある。
「……でもそれってなんか穴がある気がする」
「ええーっ! 名案だと思うけどなあ」
「だってレイモンドが思いつくようなこと姫様が思いつかないわけないじゃん。それにモモずっと引っ掛かってるんだけど、バオゾとノウァパトリアの間って船でなきゃ越えられない海峡があったよね? 皇妃を捕らえたジーアン兵ってなんであそこを渡れたんだろ?」
 モモの疑問にレイモンドはぱちくりと瞬きした。そういやそうだなと槍兵は少し真面目に考え直す。
「あいつら自分で船を動かせたってこと?」
「わかんないけど……。ねえねえ、バジルはどう思う?」
 話を振った弓兵は「え?」と白い顔を上げた。と、今まで彼に降り積もっていた雪がどさどさと地に落ちる。一体どれだけぼんやりしていたらこうなるのだろう。
「あ、すみません。えっと……なんの話でしたっけ?」
「…………」
 寝ぼけた返事にモモはふうと溜め息をついた。兄よりも、レイモンドよりもバジルが一番普段の彼らしくないかもしれない。そんなに長々と引きずるほど戦場は彼にとってショックな場所だったのだろうか。
「いや、いいよ。聞いてなかったなら」
 かぶりを振ってモモは雪だるま作りに戻った。
 雪が止んで、新しい情報が入ってくるまでどうせ動きようがないのだ。それなら悪い想像ばかりしていても仕方がない。今は守護精霊に祈りつつキュートな雪像でも建てよう。
「はあ……」
 吐き出した息は真っ白に濁った。毎年二月は仮装と仮面でどんちゃん騒ぎのカーニバルが楽しみだったのに。
 冬の終わりに航海解禁を祝して二週間続く無礼講。防衛隊が結成されたのも、ルディアとチャドが結婚したのもあの謝肉祭のさなかだった。
 近づく春への期待が一番に盛り上がり、誰の胸も高鳴る季節だ。今年も何かいいことが待っていると信じたい。




 ******




 空模様がようやく落ち着きを取り戻したのはそれから一週間後のことだった。
 更に翌二月十八日、アクアレイアの沖合に数隻の大型ガレー船が現れる。
 高々と掲げられているのはカーリス共和都市のグリフォン旗。アクアレイアの支配するアレイア海にライバル都市の船団がやって来るなど初めてだ。妙に余裕ある彼らのガレー船の漕ぎっぷりに、ルディアは嫌なものを感じないではいられなかった。
「カーリスの連中がなんの用だ?」
「まだ冬も明けきってないってのに……」
 警鐘を耳にした人々が国民広場にわらわらと集まってくる。不安げな人々にまぎれてルディアは近づく旗艦を見上げた。
 船首に立つ偉そうなチョビ髭男には見覚えがある。ローガン・ショックリー――、イオナーヴァ島でグレッグを悪徳商法の餌食にしようとした小悪党だ。カーリス共和都市で最も大きな商会を経営している。
(やはりそういうことだったか)
 明らかになった事実にルディアは唇を噛む。
 ノウァパトリアにジーアン騎馬兵を輸送した協力者。電光石火のクーデターだったという報告から、必ず裏で手引きした者がいると確信していた。それはノウァパトリアの地理に明るく、港と宮殿に出入りを許された、おそらく皇室御用達商人であると。

「天帝陛下より書状を預かってまいりました。読み上げさせていただいても?」

 ローガンはいやらしい顔で笑う。甲板を降りた男が国民広場に上がってくると、周囲からさっと人が引いた。
「なんでショックリー商会が天帝の書状を持ってくるんだよ?」
「もしかして繋がりがあったのか?」
 ざわめきに応えてローガンは大きく頷く。ただでさえ着膨れた胸を得意げに反らされ、チッと舌打ちしたくなった。
「ええ、近頃では一番のお得意様ですよ。弟君はアクアレイアにご執心のようでしたが、ジーアン帝国のトップはなんといっても天帝陛下ですからねえ!」
 ――最悪だ。これで最後の逃げ道も塞がれた。もしヘウンバオスによる経済封鎖が本格化しても、派兵できない島々でならと思っていたのに。
 カーリス共和都市はパトリア圏の海で唯一アクアレイアに対抗し得る強力な海軍を有している。そのうえ奴らは筋金入りの利己主義だ。大喜びで自分たちの商売圏内からアクアレイア商人を排除しようとするだろう。
「それでは早速かのお方からの書状を――」
「ローガン殿、どうぞレーギア宮へ! お持ちくださった書状は謁見の間にて受け取らせていただきます!」
 豪商の台詞を遮る形で飛び出したのは十人委員会のナイスミドル、カイル・チェンバレンだった。勝手にうちの国民に何を聞かせるつもりだと怒った顔に書いてある。
「おやおや、カイル殿ではありませんか!」
「お久しぶりです、ローガン殿」
 目を合わせた二人はバチバチ派手に火花を散らした。両者とも心のこもらぬ不気味な愛想笑いである。どうも何か過去に因縁があるらしい。
「お出迎えありがとうございます。しかし折角皆さんが寒さを堪えて出てきてくださっているんですよ? ここで一緒に天帝陛下のお言葉を聞かせてやっても良いのではありませんか?」
「そのようなお気遣いは結構! さあ、謁見の間へ! さあ!」
「うーん、そう仰られてもどうにも気乗りしませんなあ。皆さん聞きたがっているようにお見受けしますしなあ」
 押し問答は十五分ほど続いただろうか。頑として動こうとしないローガンに痺れを切らし、だんだんと民衆たちが騒ぎ始める。
「天帝はなんて言ってるんだ?」
「俺たちに商売を続けさせてくれるのか?」
「なあ、いいじゃねえか! 今ここで教えてもらってもよぉ!」
 黙れと叫ぶわけにもいかず、ルディアは周囲をきつく睨みつけるに留めた。
 弱みを露呈してどうするのだ。これからジーアンとなんらかの交渉をせねばならないのは明らかなのに、馬鹿者どもめ。

「わかった。ここで話を聞こう」

 そこに落ち着いた声が響く。堪え性のない誰かが使者から書状を奪い取る前に父が正門をくぐってきたのだ。
 ローガンはにやりと口角を上げた。ろくでもない話なのはわかりきっていた。一国の王に対し、男は会釈さえしなかったのだから。
「ま、長々と申し上げても仕方ないので、要点だけにしておきますね」
 誰も彼もが息を飲む。その音がいやにはっきり響く。
 とてつもなく長い一秒だった。ローガンが口を開くまで。

「『我が妻にして東パトリア帝国の后アニークは、同帝国とアクアレイア王国間の一切の取引を禁ずる。ただしアクアレイアが王権を放棄し、ジーアン帝国の属領となるなら従来の商業特権を剥奪するのみとする』……だそうです」

 しん、とその場は静まり返った。
 当たってほしくはなかったが、ほぼ予想通りの要求だ。独立を捨て、租税を納めよ。幾多の街に突きつけられてきたシンプルな。
「返答は一両日中にいただけますかな? それまでは港で待機させていただきますので」
 ローガンは悠々と踵を返す。綿で着膨れた彼の背中に噛みついたのはカイルだった。
「この痴れ者め! アクアレイアがヘウンバオスの手に渡れば一体どうなるかわかっているのか!? お前たちのパトリア古王国はここから侵略されていくんだぞ!」
「はっはっは、これは異なことを。古王国は既にジーアン帝国と不可侵条約を締結済みですよ?」
「天帝が本当に約束を守る男なら東パトリアとて安泰だったさ!」
「ふふ、そうかもしれませんねえ。しかしまあ我々カーリス共和都市にとってジーアン帝国の領土拡張は大した問題ではないのですよ。彼らには我々が必要だし、我々にも彼らが必要だ。世の中持ちつ持たれつってね!」
 高笑いを響かせてローガンは船に引き揚げる。「このド腐れ野郎! コットンデブ!」とカイルの遠吠えが響いた。
 渡された書状を手にイーグレットもレーギア宮へ消えていく。残された民衆は顔を見合わせて黙り込んだ。
 ジーアン帝国の属領となる。それはつまり、ジーアン軍の常駐を受け入れて彼らの掟に従うということだ。海を理解しない騎馬民族の下でこれまで通りに暮らしていける保証はない。アクアレイアはもしかするとただの漁場になってしまう可能性もある。
 だがジーアンと戦おうと言い出す者は誰一人いなかった。それは歯向かった対岸の惨状を知っているからではなくて、満身創痍の自分たちの現状を知っているからに違いなかった。
「…………」
 唇を引き結び、ルディアは急ぎ王宮へ向かう。
 十人委員会の招集を告げる鐘はもう鳴り始めていた。




 ******




「あやつら主君である聖王に忠誠心のかけらもないのか!? まるで古王国がどうなろうと、カーリスさえ良ければどうでもいいと言わんばかりじゃったぞ!?」
 十人委員会の一員、トリスタン老のけたたましい怒号にブルーノは耳を塞ぐ。血圧を上昇させる一方の老人をなだめられる者はおらず、「実際どうでもいいんだろう」とカイルが苦々しく吐き捨てた。
「ったくムカつく連中だぜ。完全に足元見てやがる」
「天帝からの申し渡しは……やはりローガンの述べた内容通りじゃのう」
 国営造船所の長エイハブもしばし鼻息を荒くしていたが、ニコラス老に書状を回されると途端に意気消沈してしまう。耳で聞くのと自分の目で確かめるのではショックの度合いが違うらしく、小会議室には暗澹たる空気が満ちた。
 一人、また一人と天帝からの勧告を読んだ面々が声と表情を失くしていく。部屋が静まり返るまでに十分とかからなかった。
 書状はブルーノの手にも渡された。何度読み返しても無慈悲な文面に変わりはない。
 取引停止を命じたのはアニークではないだろう。アルフレッドの話では政治的な駆け引きなどできそうもないお姫様だったし、きっと天帝に脅されたのだ。だからと言って「こんな宣告は無効だ」と訴えられるはずもなかったが。
「……とにかく最初の方針を決めよう。十人委員会、元老院、大評議会、どの機関で王権放棄を検討するかだ」
 自席に着いたイーグレットが皆を促す。自身の進退を決めるときでさえ王の独断では行えないのかと堪らなくなる。
 今更ながらローガンが国民広場の真ん中であの書状を読み上げたことに腹が立った。
 きっと民衆に王を差し出させようとしてやったのだ。許せない。
「ジーアンは最初の勧告を受け入れた街には比較的寛容じゃと聞く。それでも元の支配者層は別の街へ移されたり牢に入れられたりするそうじゃから、被害を広げんようにわしら十人で取り決めるのが良いじゃろう」
 ニコラス・ファーマーの提案に皆が頷く。
 抵抗か恭順か。票を投じるのは一晩置いた明日にしようとも決定した。それまでは可能な限り両パターンのシミュレーションを行おうと。
「民の食糧はあと何日分ある?」
「ガレー船は? 木材はマルゴーから仕入れられそうか?」
「交易を続行するにはカーリスとの戦闘必至じゃぞ」
「夏の火事で随分船を失ったからねえ。船団を組むにしても海戦は厳しそうだよ」
「くそ、頼みの綱の海軍も負傷兵が多すぎるぜ!」
 恐ろしいのは誰も「断固として天帝の意には沿わぬ」と言わないことだった。言葉にされずともわかってしまう。今この場にいるほとんどが――否、国民のほとんどが「王家さえ犠牲になってくれれば自分たちは助かるかもしれない」と考えているのが。
(……これを姫様に伝えるの?)
 指の震えが止まらなかった。
 どんな風に話せというのだ。誰もイーグレットの目を見ようともしないことを。




 ******




 いつも通り防衛隊が王女の寝所に揃っても今日は肝心のルディアが姿を見せなかった。
 先刻の広場での一幕。すぐさま彼女が「十人委員会の会議を盗み聞きするぞ」とか「王家存続のために知恵を絞れ」とか指示してくると思ったのに。
(こんなときにどこ行ったんだろ?)
 レイモンドはううんと首を傾げる。アルフレッドも「遅いな」と何度も控えの間を覗いていた。
 本当にカーニバルどころではなくなってしまった。もし王家取り潰しなんて事態になってしまったら誰が防衛隊の給料を払ってくれるのだろう。今年から収入が跳ね上がる予定だったのに、それもお流れになるのだろうか。
「……どうなるんだろうね、モモたち皆」
 四人ぽっちの寝室でモモが呟く。気丈を通り越して無双の精神を持つ彼女の声に怯えた雰囲気はないものの、王国の危機を実感するには十分だった。
 やめろよと言いたくなる。まだジーアンに負けると決まったわけじゃないのに。
「俺は最後までルディア姫をお守りするつもりだが、お前たちはどうする?」
 不意にアルフレッドが尋ねた。いつもの大真面目な顔で。
「ひょっとしたら防衛隊という組織自体が消滅するかもしれない。そうなれば俺には命令権も決定権もなくなる。今のうちに聞いておきたい」
 知らぬ間に息を詰めていた。――防衛隊がなくなる。その言葉には単に稼ぎを失う以上の響きがあるような気がした。
「最後までってなんだよ」
 硬い声でレイモンドは問い返す。アルフレッドは決意した人間の落ち着きを持って答えた。
「人生の最後までだ。決まっている」
「お前、命捨てる気か?」
「俺は騎士だ。もうあの人を自分の主君と決めたんだ」
 一切の迷いなく幼馴染は言いきる。レイモンドはうろたえた。何にそれほどうろたえる必要があるのか不思議なくらいうろたえた。
 こういう男なのは知っていたはずだ。危険な道に進んでほしくはないけれど、邪魔をしてはいけないことも。アルフレッドにとって騎士以外の生き方は死ぬこと以上の苦痛なのだから。
 でもそれなら一体、他の何に俺はこんなに取り乱しているというんだ?
「モモもできる限りのことはしたいかな。アンバーたちのこともあるし、姫様だってもう他人じゃないもんね」
 彼女がこう表明したということはバジルの選択も決まったのと同じだった。視線は自ずとレイモンドに集中する。三人に答えるために口を開く。
(俺はごめんだぜ。報酬と釣り合う仕事しかする気はねー)
 そう言おうとした舌がもつれた。あれ、とぱちくり瞬きする。何故なのか、耳の奥では先日のルディアの声がこだましていた。

 ――お前が本当に仲間を売るような男なら困るがな。

 コンコンと響いたノック音に身を跳ねさせたのは直後だった。
 口元を引き締め、アルフレッドが扉を開く。ようやく姫君のおでましだった。
「全員いるな?」
 ルディアは特に疲れもなく、顔色も至っていつも通りである。隣には侍女のジャクリーンがすやすやと眠るアウローラを抱いて立っていた。
「良かった。遅いから心配していたんだ」
 アルフレッドがそう声をかけるとルディアは思わぬ返事を口にする。
「すまない。ちょっとチャド王子と話し込んでいた」
「えっ? チャド王子と?」
 驚いて尋ね返したレイモンドに彼女は「ああ」とわけもなく頷いた。
「詳しくは明日話す。天帝に従うか否か、国としての結論が出てから」
 思わずごくりと息を飲む。声の平静さは先程のアルフレッド以上に思えた。
 部外者のジャクリーンがいるためあれこれ聞きすぎるわけにいかず、王女の前で身の振り方を話し合うのもためらわれ、当たり障りない会話が続く。
 その日ブルーノが小会議室から戻ってきたのは深夜だった。それまでずっとルディアは愛娘をあやし続けていた。




 ******




 ――なんて奴らだ、なんて勝手な連中だ! 由緒正しいパトリア王家の血とやらのためにイーグレットを玉座に縛りつけておいて、今度は我が身可愛さにあの男を追い立てようなどと!
 煮えたぎる怒りのやり場も持てぬまま、歯軋りしながらカロは友人の帰りを待つ。今日の集まりはいやに長く、何時になっても頭上に足音が降ってこない。暗い地下通路に響くのは細い流水音だけだった。
 一人でいると苛々して仕方がない。この国の人間は本当に何を考えているのだか。
 イーグレットがアクアレイアを守るために戦う姿を見ていなかったのだろうか? 逃げ出そうとした市民兵を叱咤して決戦の場に留めたのは彼なのに。
 弱気なろくでなしどもの間では早くも「陛下にはご退位いただこう」という考えが主流になりつつあった。ジーアンに抵抗を試みる気は皆無らしい。自分たちの命さえ助かるなら、今まで国に尽くしてきた王族がどうなろうと知ったことではないというのだ。
(ふざけている。奴らはロマを薄汚い盗人だのと罵るが、俺たちの中にそんな恥知らずはいないぞ)
 と、待ち構えていた人物がようやく戻った気配がした。
 衛兵が扉を閉めて立ち去るや、カロは手早く床下に取りつく。絨毯を捲り、大きな執務机の下にひょいと顔を覗かせれば、やや疲弊した友人が「やあ」と小声で挨拶した。
「イーグレット、もうくだらない献身はやめにしろ。この国の馬鹿どもにお前が尽くす価値はない!」
 突然捲くし立てられたイーグレットは驚いて目を丸くする。街で感じた憤りをどうにか彼に伝えたかったが、どうやら空回りしたようだ。落ち着くように身振りでなだめられて唇を噛んだ。
「そう言われても私は君主だからなあ」
 苦笑いが胸に痛い。疎まれ軽んじられるために王位を継いだのではなかろうに。
(そうやってお前が怒らないから俺が怒る羽目になるんだ)
 舌打ちを堪えて身を乗り上げる。眉間には力が入る一方だった。
「十人委員会で何を話し合ってきた? ジーアンにお前の身柄が引き渡されるなんて俺は絶対にごめんだぞ」
「そこまで過激な話にはなっていないから安心してくれ。大丈夫だ」
「本当か? だがもしそんな無茶を言われても相手にするなよ。お前を大切にしない奴らのために犠牲になるくらいなら、俺と一緒にここから逃げよう」
 詰め寄るカロにイーグレットはぶふっと吹き出した。逃亡という発想は彼の中になかったらしい。「ありがとう」と礼を言われる。
「心配してくれて嬉しいよ」
 感謝の意は示されたものの、イーグレットにその気はまるでなさそうだった。不可能だと悲観しているのだろうか。グレディ家から逃げ回っていた少年時代とはわけが違うと。
「俺は本気で言っている。お前の力になりたいんだ、イーグレット」
 我ながら悲痛な声だった。
 何もできずに王都を去った十六歳の頃を思い出す。頼られて、浮足立って、失敗して、結局それで終わってしまった。
「まだお前の役に立てていない。この間の戦いも、勝ったと思ったのに意味がなかった。俺は、俺はまだ……!」
 言葉は喉につかえて途切れる。
 彼が自分に向けてくれた友情に見合う何かを返したいだけ。それなのにどうして上手く行かないのだろう。どうすれば彼の重荷を減らせるのだろう。
 わからない。彼の属する世界の掟が。邪魔な鎖にしか見えないそれが。
「役に立つとか立たないとか、そんなことはどうだっていいよ」
 うつむくカロにイーグレットは首を振った。どうでもよくないと反論しようとして止まる。薄灰色の双眸が悲しげにこちらを見ているのに気づいて。
「君と友達になれただけで私の人生には余りある幸福だった。君が側にいないときも、君の存在は私を励ましてくれた。だからどうか自分を悪く言わないでくれ。こうして二人で過ごすときはもっと楽しい話をしようじゃないか」
 イーグレットの声は取り乱しかけていたカロの耳にもすんなり届いた。
 友達になれただけで。孤独ではなくなっただけで。
 その思いは己にも理解できる。貢献の度合いなどで推し量れるような救いではないと。
「そうそう、楽しい話と言えば一度聞いてみたかったんだが、君はまだ独り身なのか? 誰かいい人はいないのかね?」
 千載一遇の好機とばかりに尋ねられる。明るくなった表情を見て少しホッとした。
「女か……」
 問われて思い浮かんだのはアイリーンの青い顔だ。彼女とは床をともにしたこともなければ甘い囁きを交わしたこともないけれど。東をさすらった二十年、彼女だけが自分を気にかけてくれた。遠い異郷のはぐれ者同士として。
 あれもまた不憫な女だ。誤解されやすく害されやすい。そのうえ鈍くさいときている。
「安否不明なんだ」
「何!?」
「無事とは思うがなんとも言えん。ひょっとすると厄介事に巻き込まれているのかもしれない」
「そ、それは……探しにいかなくていいのかい?」
「ここぞというときの悪運だけは強いからな。今はお前のほうが心配だ」
 話題を逸らし損ねたイーグレットは視線を斜めに泳がせた。
 驚くほど率直に胸の内を明かすかと思えば正反対の態度で隠し事もする。今の彼がどちらなのかは考えるまでもなかった。
「妙に胸騒ぎがする。イーグレット、何があっても自棄は起こさないでくれ。俺が必ずお前のことを助けるから――」
「カロ……」
 今度は彼もはぐらかさずに頷いてくれた。「ありがとう」とまた礼を言われる。夜明けまで少し眠りたいというイーグレットに別れを告げ、カロは地下通路を引き返した。




 ******




 不幸というのは仲間を増やすものらしい。次の朝、再び小会議室に集まった十人委員会のもとに届けられたのは不愉快な一通の手紙だった。
「なになに? 自分たちの圧倒的多数はジーアン帝国との交戦を望んでいない、陛下にはどうか大人しく王権を手放してほしい?」
 ニコラス老に読み上げられた「国民からの嘆願書」とやらにブルーノは唖然とする。嘆願書を持参してきた代表の中には「だから白い王様なんて嫌だったんだ」と臆面もなく吐き捨てる輩までいたそうで、頭がどうかなりそうだった。
 少しくらい味方してくれたっていいのに。王家はいつも王国のために心身を削ってきたのだから。
「…………」
 話を聞くイーグレットは無言である。憤っているのはブルーノ一人だけだ。委員会の面々は無関心に、「どうせなら建設的な案をよこせ、案を」と嘆願書を脇へやった。「わかりきったこと」に対して見向きする者はいなかった。
(誰も陛下や姫様の助けになってくれないの?)
 テーブルの下で拳を握る。
 昨日の会議は終始王家を切り捨てる方向に傾いていた。グレディ家の現当主、クリスタルだけは普段発言しないなりに抵抗感を示していたが「分家なら亡命すればジーアンとて手は出すまい」と助言された途端「ま、まあ?」と態度を変えている。
 本当にこのままアクアレイアを明け渡すしかないのだろうか。ルディアも何も言ってくれないし、自分では委員会をどう説得すればいいのかわからない。
 イーグレットも一貫して反対意見は唱えなかった。ただ「天帝に剣を向けるにしても、頭を垂れるにしても、後のことを考えてルディアとグレディ家には継承権を放棄させておこう」と提案しただけだ。それで少しは身を守る言い訳になるだろうと。
 この安全策は昨晩既に承認されていた。たとえ王族が嫌だと拒んでも多数決で全て決まってしまうのがアクアレイアの政治である。九対一ではブルーノにはどうしようもなかった。
(ジャクリーンが知ったら落ち込みそうだなあ……)
 どんなときも誠心誠意尽くしてくれる侍女の笑顔を思い出す。彼女は本物のルディアファンで、華々しい戴冠式が開かれる日を心待ちにしているのだ。当の王女は「十人委員会の決定に従う」と微塵の未練も見せなかったが。
「とにかく結論を急ぐのじゃ。のんびりしておれる時間はないぞ」
 舵取りのニコラス・ファーマーが最終会議の開始を告げる。
 今日この場で王家の運命が決まる。そう思うと胃が痛かった。一応ジーアンの意向に従う場合でも、王族を縄で縛って天帝に差し出すことはしないと約束されているけれど。
(だけどもうアクアレイアにはいられない。陛下や姫様は王都から追放されてコリフォ島に幽閉される……)
 建国間もないアクアレイアが東パトリア皇帝より賜った美しい島。アレイア海の玄関口に位置しており、堅牢な要塞が築かれている。
 あそこなら気候もいいし、小さいながら街もある。一生出られないとしても悪い土地ではないだろう。閉じ込められるのが普通の人間だったなら。
 ルディアにとってはきっと地獄だ。無条件に巣を愛してしまう脳蟲が故郷を離れて生きていけるはずがない。
 否、彼女だけなら身体を取り替えて王都に残ることも可能だった。だがそうなれば今度は優しい父親と引き裂かれてしまうのだ。ルディアがアクアレイアと同じくらい大切に思っている父親と。
「さあ、それではクリスタル殿、ルディア姫、こちらの同意書にサインを願えますかな」
 話し合いに先駆けて例の書面が卓上に出された。口語のアレイア語ではなく公文書用の古パトリア語で「以後永久にアクアレイア王国の王位継承権を放棄します」と書かれている。ここにルディアの名を記せば彼女が王国を継ぐ未来は儚く消えてなくなるのだ。
 ブルーノはなかなかペンを持てなかった。保身に必死なクリスタルはさっさと書き終えてしまったのに、どうしても腕が震えてしまって。
「ルディア」
 イーグレットの声が急かす。泣きそうになるのを堪えて紙にペンを走らせた。胸中で何度も何度も「ごめんなさい」と詫びながら。

「――何をするんですか!」

 唐突に続きの間へ放り出されたのは血判の済んだ直後だった。驚くブルーノに十人委員会の面々が冷たく告げる。
「あなたは本来王国議会の規定する資格年齢に達していません。王位継承者という特例でなくなった以上、もうこの会議に参加していただくわけにいかなくなりました」
 カイルが何を言っているのかわからなかった。だってこれから王家の存亡を決める大事な投票を行うのではないのか。それなのにどうして自分だけ除け者にされねばならない。
 今だけはルディアとして王の傍らにいなくてはならないのだ。たとえ時代の流れには逆らえずとも、娘として王家存続の一票を投じなくては。でなければイーグレットが誰にも庇われずに廃された哀れな道化になってしまう。
「ここを開けて! 中に入れて!」
 閉ざされた扉を叩き、ブルーノは必死に叫ぶ。聞こえているはずなのに反応はない。響くのはドアノブのがちゃがちゃ揺れる音だけだ。
「ルディア、静かに!」
「こちらにおいでください。お早く!」
 突然肩を掴まれて、驚いて振り向くといつの間にかチャドとジャクリーンに挟まれていた。状況を理解する間もなく腕を引かれ、その場から攫われる。
「何!? どこへ連れて行くんです!?」
「私の部屋だ。いいからしばらく黙っていてくれ」
「姫様、後生ですからチャド様の仰るようになさってください!」
 まだ委員会が、投票が、と粘る口は二人の掌で覆われた。
 人払いされているのか通り抜ける部屋には誰の姿もない。チャドの自室まで衛兵とさえすれ違わなかった。

「――私と服を取り換えてください。装飾品も、僭越ながら全てお借りさせていただきます」

 部屋に着くなりジャクリーンにドレスを剥がれて面食らう。「一度でいいから姫様と同じ服を着てみたいです、私!」と頬を赤らめることもあった彼女だが、まさか実行されるとは夢にも思わなかった。
 髪飾りを奪われて、えんじ色の目立たぬ侍女服を着せられるうちにブルーノにも二人の考えが読めてきた。
 王宮外でも王宮内でも王家の存続は非現実的と見られている。どんな苦境に立たされるか知れない「ルディア姫」をチャドとジャクリーンが救い出そうとするのは当然だった。
「姫様の代役を務められるなんて光栄ですわ。どうか無事にマルゴーまで逃げ延びてくださいね。私、きっといつまでも姫様をお慕いしております」
 着替え終わったジャクリーンに手を握られて目を瞠る。
 なんだそれは。その言い方ではまるで二度と会えないみたいではないか。
 大体マルゴーへ逃げるなんて自分は同意していない。身体だって、まだ本物のルディアと入れ替わったままなのに。
「ジャクリーン、私がいつそんなことを頼んで」
「陛下にももうお話してあるんです。とても感謝してくださいました。姫様がアウローラ様やチャド様と幸せに暮らせるならこんな嬉しいことはないと」
「何を言って……」
 頭から血の気が引いた。それではさっき会議室を追われたのはイーグレットの指示だったのか。周囲に委員会に出ていると思われている間に身支度を整えさせようと。でも、だけどそんなの――。

「準備できたか?」

 と、そこに想定外の人物の声が響いてぎょっとした。チャドと一緒に部屋の中に入ってきたのはあろうことかルディアその人だった。
(な、なんで? どうして姫様がここに……)
 まさかこの逃亡計画は彼女も承知済みなのか。まさかこのまま行けというのか。自分に、ルディアの姿をしたままで。
「はい、ブルーノ様。この通り」
「よし。お前はすぐにシーシュフォス提督と合流してくれ」
「かしこまりました」
「行っちゃ駄目、ジャクリーン!」
 扉に向かう侍女の名を思わず叫んで呼び止める。だがジャクリーンは貴族の娘らしい可憐な微笑を愛らしい唇に浮かべるだけだった。
「大丈夫、コリフォ島は私の父の管轄です。もしジーアンに軍勢を派遣されても父が守ってくれますわ」
 そう押し切ってジャクリーンは足早に駆けていく。止めようと伸ばした腕は寸前でチャドに阻まれた。
「行かせてやれ! 彼女は自ら志願したんだ!」
 怒鳴られてびくんと足がすくむ。
 いつも穏やかな男なのに、今日の彼には余計な口を挟ませない凄みがあった。どんな抵抗を受けても絶対に祖国へ連れて帰るという。
「……だって……」
 声と同時に涙が溢れてくる。
 こんな大切なこと、知らない間に決めてしまうなんてあんまりだ。
 よく見ればルディアは防衛隊を連れていない。ひとりぼっちで、全部決めてしまった顔で立っている。
 先に教えてくれなかったのはきっと逃げる気がないからだ。娘と「ルディア王女」だけは安全な場所に預けても、それはイーグレットを安心させるための計らいで。
 知っていればどんな手を使ってでももう一度入れ替わった。アウローラと、彼女の新しい家族と一緒に行かせたのに。
「こちらへおいで」
 チャドに優しく手を取られ、赤子の眠る揺り籠を示された。抱いておやりと告げられる。
 万に一つを考えてこれからアウローラも別の乳児と交換されるらしい。公国へは別々の船で向かうと説明された。チャドと自分の乗る船は支度が整い次第出航するとも。
 ルディアに目をやると無言で頷かれる。
 何もかもが突然すぎた。戦争中の先月や先々月のほうがよほど平穏だった。
「あなたはどうするんですか」
 震える問い。聞かなくたって答えなんて知れている。
 お前には苦労を強いるかもしれないと、彼女はとっくに詫びていたのだから。




 *******




 匿名投票の結果はイーグレットにとって意外なものだった。
 会議室に残った九人のうち、王権放棄に賛成だったのが八人、反対だったのが一人。大勢に変わりはないが、随分と思いやり深い人間がいてくれたようである。てっきり全員一致で島流しに決定すると思っていたのに。

「コリフォ島に船を送る準備を! 正式な布告が済むまで不用意に口を開くでないぞ!」

 ニコラス・ファーマーの合図でお歴々は散って行った。
 時刻は九時過ぎ。まだ昼前にもなっていない。
 だが今日中にローガンに返事をせねばならないこと、明るい間に船を出さねばならないことを考えると大した時間は残されていなかった。今のうちに託すべきものは託しておかねば。
 ゆっくりとイーグレットは席を立つ。足取りの重さには気づいていないふりをした。
(もうこの部屋に来ることもなかろうな)
 複雑な気分で小会議室を振り返る。
 逃げ出したいと願ったことは一度や二度ではなかったのに、この離れがたさはなんだろう。この城も、この冠も、年月を重ねる間に己の一部になっていたのか。
(……これで良かったんだ)
 息をつき、鉛に思える扉をぐっと押し開く。
 アクアレイアは王の国ではない。船乗りと商人の国だ。
 頼りない君主で却って良かった。これが先代国王なら指導者を失った民衆は右往左往するしかなかったろうが、己の代では彼らのほうがしっかりしていた。
 そう、もうこの国の先行きを案じる必要はないのだ。

「イーグレット陛下」

 小会議室を出ると白髪のトリスタン・ペラーズがしかめ面を一層しわだらけにしていた。気難しいので有名なこの超保守派の老人はまだ髪の黒かった時代からイーグレットに当たりがきつい。
 不機嫌な声を耳にしてつい肩を強張らせた。まさか最後に雷を落とすつもりではないだろうな、と。
「ご自分で賛成票を入れられたのか」
「え? ああ、そうだ、よくわかったな。あの反対の一票が私の票と勘違いしそうなものなのに」
 どうやら叱られるのではないらしい。ホッと胸を撫で下ろす。
 安堵したイーグレットを一瞥してトリスタン老は深々と嘆息した。
「何も難しい推理ではありません。あれはわしの投じた票ですからな」
「えっ? あなたが?」
 思わぬ話に目を丸くする。人情家のエイハブか平和主義のドミニクの同情票だと思っていたのに。
 トリスタン老はイーグレットより先代国王に仕えた期間のほうが長い。出来の悪い二代目でも亡き英雄のために王家を続かせたかったのかもしれない。
 だとしたら申し訳ないことをしてしまった。自分としてもこの結果は不本意なのだが。
「正直に申し上げると、即位からつい数年前までずっとグレース・グレディの言いなりだったあなたを良く思ってはおりませなんだ」
 長い溜め息を吐いて老人は語り出す。やはりそうだったかとイーグレットは項垂れた。
 小言の量も厳しさも彼のは段違いだった。もしかして憎まれているのでは、と疑念が膨らんでしまうほどに。
「わしの目にあなたは自己保身の塊に見えた。しかしそれはとんでもない思い違いだったようです。……あなたという方を我々は見誤っていた。外見なんぞに引きずられて」
「トリスタン」
 驚いて老人の名を呟くも懺悔が中断される気配はない。突き出された曲がり口からは次々と思いがけない称賛が溢れた。
「先の戦いで思い知らされました。あなたの中に亡き国王夫妻の血がどんなに色濃く流れているか。勇敢さ、冷静さ、過酷な状況での忍耐強さ、その何一つダイオニシアス陛下に劣るものはなかった。あなたはただグレディ家との勝負をかわす賢明さをお持ちだっただけなのだ。それなのに我々は……」
 白い頭をうつむかせ、トリスタンは静かに詫びる。これからあなたの時代が来るはずだったのに、と。
「あなたは見事な王であった。決して忘れませぬ」
 嘘のつけない人間にもらう言葉ほど嬉しいものはない。
 自分では勇敢さも冷静さも忍耐強さも足りていたとは思えないが、それでも。
「……ありがとう。そう言ってもらえると救われる」
 歩いて、歩いて、歩き続けて。期待などもう少しもしていなかったけれど。
 あと少し、ほんの少し、歴史にこの名が消えるまで――せめて失望されないように努めよう。




 ******




 アルフレッドたちが待機を言い渡された寝室にブルーノは戻ってこなかった。ルディア曰く、彼はひと足先に国営造船所の軍港に向かったそうだ。そちらで既にニンフィ行きの船が手配されているらしい。昨日チャドと話し込んでいたのはこのことだったようである。
「ブルーノにはチャドとグレッグの乗る船でマルゴーに亡命してもらう。後発の便でアウローラも。おそらく二度と『ルディア姫』の帰国は叶わないだろう。今日限り、王都防衛隊は解散だ」
 ごくあっさりした辞令の読み上げにアルフレッドは歯噛みした。
 ルディアは声を乱すことなく「私は王とともにコリフォ島へ行く」と告げる。都を追われる父を一人にはできないと。
「ブルーノには悪いが、身体を返すのはその後になる。お前たちにも随分協力してもらったのに結果を出せなくてすまなかったな」
 濃紺の瞳に悔しさは滲んでいなかった。まるで模擬戦が終わった直後の広場でも眺めているみたいだ。覆せない敗北の事実を前に、せめて醜態を晒すまいとしている。
 彼女はいつから終わりを受け入れていたのだろう。一人で耐えるなんてせずに後始末くらい手伝わせてほしかったのに。
(……いや、責められるべきは部下として不甲斐ない俺たちのほうだ。本当に必要ならこの人はとっくに防衛隊を巻き込んでいる)
 情けなかった。なんの力にもなれなかったこと。ルディアがそれを責めないこと。
(だがまだこの人を支える術が一つもなくなったわけじゃない)
 アルフレッドは意を決し、ルディアの前へ進み出た。
「俺もコリフォ島に連れていってくれ。騎士として主君を守り続けたい」
「アルフレッド」
 ルディアはやや困惑気味に顔をしかめる。交錯した視線にはどこか咎める色があった。
 相当の覚悟を持って告げたつもりだ。しかし申し出は敢え無く却下される。
「ちゃんと話を聞いていたのか? 私はもう王女ではない。お前に忠義や献身を要求できる立場ではなくなったんだ」
 諭されて今度はこちらが顔をしかめた。言われなくたってそのくらいの現状は把握している。
「だが俺はそれでも」
「それでもと言われてもだ。何も報いてやれないのに連れていけるはずがないだろう」
「俺はあなたに報酬を望んでいるわけじゃない!」
 声を荒げて訴えるがルディアはまったく聞く耳を持ってくれなかった。報酬という言葉で何か思い出したのか「ああ、そうだ」と彼女はレイモンドを振り返る。アルフレッドの決意は頑なに無視された。
「賃上げの約束があったのに悪かったな」
「あ、いや、その」
 突然の詫びに槍兵はしきりに両手を躍らせる。さすがのレイモンドも今日は文句をつけられない様子だった。
「モモにバジル、お前たちもよくやってくれた」
 年少組にもねぎらいの言葉がかけられる。
 モモはむすっと目を吊り上げ、褒められるのが大好きなくせに全然嬉しそうに見えない。バジルも眉間にしわを寄せたまま物言いたげに黙り込んでいる。
「これからアクアレイアはジーアンの支配下に入る。刃を交えず降伏した街に対しては納税の義務を負わせるだけで労働力の搾取や改宗の強制はしないのが通例だ。直属部隊の出身でも妙な考えさえ起こさなければ殺される心配はないだろう。私や脳蟲のことは忘れ、お前たちは平穏に暮らすといい」
 もういつルディアの唇が今生の別れを告げてもおかしくない雰囲気だった。透明な壁を感じて拳を強く握り締める。
 王女でなくなったと言うのならその高潔ぶりはなんなのだ。それこそ無力な女として誰かに縋りついたって罰は当たらないだろうに。
「改めて礼を言う。他人とこんな縁を持てるとは思っていなかった。皆、本当にありがとう」
 なかなか楽しかったよとルディアは優しく微笑んだ。いつもは厳しさの陰に隠れて見えない彼女の本心が垣間見える。
 堪らなかった。感謝も謝罪も聞きたくなかった。さよならはもっと。

「そっちこそ、さっきから独り善がりなことばかり……!」

 気がつけばアルフレッドは苦しい胸中を吐きだしていた。
 ルディアが部屋から逃げないように扉を背にして向かい合う。
 正面の彼女はまっすぐにアルフレッドの双眸を見つめた。
「見くびるな! 仕えると決めた主君を放り出すくらいならいっそ死んだほうがましだ! 無給だろうがなんだろうが俺はどこまでもついていく! あなたのほうに理由がなくても俺のほうには理由があるんだ!」
 叫んで肩を震わせる。どこかの部屋に音が漏れたかもしれないが、気にしている余裕はなかった。
 今ここで、何がなんでも認めさせなければならない。命尽きるまで仕えるという違えぬ誓いを。
 騎士として生き、騎士として死ぬ。望むのはそれだけだった。誰にも恥じぬ生き方ができれば他には何も。ルディアだって知っているくせに。
「モモもこのままじゃ納得できないよ。ほんとについていっちゃ駄目なの?」
「ぼ、僕も、まだ何かできることがあるなら」
「あー、俺も夢見が悪くなるのはちょっと……」
 アルフレッドが食い下がるのを見て三人もそれぞれに主張しだす。「お前たち……」と王女はぱちくり目を瞬かせた。
 全員真剣そのものだ。たかが部隊の解散程度では退かないぞと彼女をぐるりと取り囲む。
 一人でなど行かせない。行かせるものか。
 そんなことをしたら俺たちはきっと一生後悔する。

「ふっ……ふふふ、あはははは! あっはっはっはっは!」

 と、脈絡なくルディアが笑い出した。楽しげに腹を抱える彼女の姿に防衛隊はきょとんと顔を見合わせる。
 なんだ。どうした。あまりに怒濤の展開続きで頭がおかしくなったのか。
「――そう言ってくれなかったらどうしようかと思っていたぞ。ありがとう、実はお前たちに頼みがある。多少危険だが請け負ってくれるか?」
 ルディアは満面の笑みで尋ねた。「おい、引っ掛けか」とレイモンドが即座に非難の声を上げる。
 だが槍兵の態度に怒りは感じられなかった。ほっとしたルディアの顔を見てつまらない感情は引っ込んだのに違いない。
「はいはーい、モモ危ないの平気! 何したらいいか教えて!」
 一番の腕白が一番に問い返す。指揮官は元気を取り戻したモモに、おそらく防衛隊としては最後になるだろう任務を言い渡した。
「お前とバジルにはアウローラの護衛を頼みたい。人目を誤魔化すために海軍や傭兵団を同行させることができないんだ。十人委員会のツテで乳母を探してもらっているところだから、後日その乳母とニンフィ行きの船に乗ってくれ。そこからアルタルーペの山を越えてマルゴーの首都サールの宮殿へ直行だ」
「了解!」
「ニ、ニンフィからサールですね!」
 年少組は目的地をメモに取る。乳母を用意してくれるのはニコラス老だそうだった。ファーマー家はあの天才コナーを輩出した家系である。さぞ賢い乳母を連れてきてくれることだろう。
「それとバジル、カロに伝言を頼む。コリフォ島へ行く気があるなら真珠橋で待っていろと」
「真珠橋ですか? は、はい。わかりました」
 王の友人はもっぱらガラス工房で寝泊まりしている。言づけを書き加えるとバジルは手帳を懐にしまった。
「俺も真珠橋にいればいいのか?」
「いや、お前とレイモンドはブルーノについてやってほしい。グレッグが責任を持って送り届けるとは言っているがやはり不安だ。うっかり『中身』が出てきたときに対応できる人間がいないのはまずいだろう。……おい、そんな顔をするな」
 不服のあまり目つきを険しくするアルフレッドにルディアは呆れて嘆息する。この期に及んでまだ別ルートを指示するかとこちらも憤慨しきりだった。
「あのな、俺はあなたを守ると決めて」
「私より『ルディア王女』のほうが危ない。マルゴーだって本当に安全だとは限らないんだ。幼馴染だろう? 私は平気だからブルーノを守ってやれ」
「でも!」
 どうしても承諾できずにアルフレッドはかぶりを振った。
 もどかしくて仕方ない。一緒に来いと命じてほしいのに、どうしてそうしてくれないのか。
 確かに大した役には立てないかもしれない。それでも邪魔になることはないはずだ。
 ブルーノにはレイモンドもチャド王子もついている。だったら己一人くらい側にいさせてくれたっていいではないか。
「…………」
 壁の時計に目をやってルディアは長い息を吐いた。無為に時間を費やしたくないのだろう。「正直に言おう」と前置きし、彼女は痛烈なひと言を放った。
「どんなに乞われてもお前だけは連れていけない。たとえお前が拒んでも、私にはそうする理由がある」
 さっきの自分と似た台詞。ルディアの真意を探れずにアルフレッドは眉根を寄せる。
 室内には嫌な緊張が漂っていた。読めない彼女の厳しい表情が不穏さに拍車をかけていた。――だが。
「私はずっと父の名声を勝ち得ようと、王家の威信を取り戻そうと生きてきた。国民の支持さえ集めれば王政はもっと確実なものになると信じて」
 ルディアは淡々と王女時代を振り返った。
 思い出されたのは初夏の建国記念祭だ。初めて王都防衛隊が彼女とあちこち奔走した。あのときからまだ一年と経っていない。それなのにもうお別れなど早すぎる。
 嫌だ。だって決めたのだ。どんなときも主君を思う忠実な騎士になろうと。恨まれても、煙たがられても、サー・トレランティアがそうしたように。
「……しかし今、王国の名は泡と消え、私は次期女王でも王族でもなくなろうとしている。アルフレッド、本当にわからないのか? 私についてくるという意味が。私はお前まで私と同じにしたくない。マルゴーへ行けばチャドが召し抱えてくれるだろう。父の幽閉が終わるまで何年留まるか知れない、先の展望もないコリフォ島で人生を無駄にするな! お前にはハートフィールドの名を栄誉あるものにするという夢があるだろう?」
 ひと息にルディアは言い終えた。意外な思いやりを示されてアルフレッドは声を失くす。
 ――そんなことを考えていたのか、この人は。
 同じ苦しみを抱く者だと、己を重ねていてくれたのか。
「聞き分けてくれ。陸路から東パトリアに入ってアニークに仕えるのでもいい。私がそれを慰めにできるように、お前は無名の騎士のまま終わらないでくれ」
 ルディアの苦い懇願は雷となってアルフレッドを打ち抜いた。生じた迷いに全身がわななき、すべき返答を鈍らせる。
 家名へのこだわりは確かにあった。騎士として名を成したいという思いも。
 けれど今、この足を凍りつかせている躊躇いは。
(この人は王国や、コリフォ島の外に希望を残したいんだ)
 今更ルディアの脳蟲としての本性に気づく。
 アウローラ姫もそう、ブルーノもそう。たとえそれが祖国を取り戻す布石にはならずとも、できるだけ盤上の駒の多くに、信じられる誰かに残ってほしいのだ。

「……わかっ、た……」

 身を切られる思いでアルフレッドは頷く。
 気づいてしまったら断れなかった。
 諦めながら無自覚に、必死に足掻くルディアを思うと。
「レイモンド、お前もいいな? チャドなら金払いは悪くあるまい。私の用意できる再就職先の中ではこれが最上だ」
 奥歯に何か挟まったような微妙な表情でレイモンドは「おう……」と答える。幼馴染が具体的な給金の参考額を聞かないなんて初めてだった。
「不甲斐ない主君を見捨てずにいてくれて感謝する。お前たち、道中くれぐれも気をつけてな」
 ルディアは再度礼を告げた。
 ヘウンバオスは西パトリア諸国への侵攻に備え、足場となるアクアレイアの防備を固めてしまうだろう。そうなれば大軍をもってしても迂闊に手出しできなくなる。だが今の自分たちに抵抗は不可能だし、おそらく将来の自分たちにも不可能だ。
 東パトリア帝国を飲み込んでジーアンは更に強大になった。もはやパトリアと名のつく地のどこにも単独で拮抗できる国はあるまい。
 それでもルディアから全ての希望を取り上げたくなければ行くしかなかった。彼女の言った通り、ただ彼女の慰めとなるように。
(なんのための剣なんだ)
 アルフレッドは唇を噛み、しばしその場に立ち尽くした。




 ******




 カーリスのふざけた豪商が訪れるより先に、否、きっとノウァパトリア陥落の報せがあった数日後には、天帝に何を要求されるかも、どこに王族を逃がすかも、ある程度考えられていたに違いない。
 高い壁に囲まれた、レーギア宮の十倍以上の広さを有する国営造船所。その船着場の一角でユリシーズは慌ただしく出航準備に追われる二隻のガレー船を見上げた。
 大きいほうにはイーグレットが、小さいほうにはルディアとチャドと傭兵団の一部が乗り込むそうである。
 他の船はろくな整備もされないまま運河から引き揚げられていた。修理用の木材まで不足している状態で、王国海軍は形無しだ。こそこそと都を発たねばならない王家はなおさらだろうが。
 王女夫妻を隠した荷箱は既に運び入れられたそうだった。結局一度も言葉を交わさぬままだったなとひとりごちる。
 こんな形で彼女のほうがいなくなるとは考えもしなかった。
 虚しいものだ。まだ己の進む道の先に、打ち勝つべき敵として君臨し続けるとばかり思っていたのに。

「なんだか浮かない顔ですね、ユリシーズさん」

 と、背後で聞き覚えのある声がした。振り向けば乗員名簿を片手にディランがこちらを見上げている。
 軍医の彼が任務外の雑用をこなしているのは関係者以外立ち入り禁止の厳命が下って人手不足なせいだった。議員も海軍もまだほとんどの人間が亡命計画について知らされていないのだ。
 ディランの父は十人委員会の一員だからここに来るように頼まれたのだろう。シーシュフォスといい、世の男親はなんでも気軽に息子に申しつけてくれる。
「当たり前だろう。こんなときにニコニコと笑っていられるお前のほうがどうかしている」
「嫌だな、これは地顔です。私だってジーアン軍に王都を占拠されるのは怖いですよ? 姫様にも無事に逃げおおせてほしいと願っています」
 付け足された余計なひと言にユリシーズは眉をしかめた。彼女の名前を出すんじゃないと睨みつけるがディランに気づいた様子はない。芸術畑の葡萄酒で年中酔っ払いの彼に常識や配慮を求めるだけ無駄ではあるが。
「はあ……」
 ユリシーズの嘆息を何と勘違いしたのかディランはうんうん頷いた。
「避けられない別れだからこそ切ないですよねえ。わかります、わかります。ああ、今ならいいフレーズが浮かびそうな……」
「私を文学の題材にするな! それより仕事の途中なんじゃないのか?」
 だんだん鬱陶しくなってきてしっしと追い払う仕草をする。ディランは気にした風もなく「後はこれを父に届けてくるだけです」とウィンクした。
「ユリシーズさんは見送りが終わるまでいらっしゃるんですよね?」
「ああ、一応そのつもりだ」
「では私の分もお願いします。これから少し用事があって戻ってこられそうにないので」
 ひらひらと掌を振る友人にどこへ行くのか尋ねることはしなかった。王家への敬礼より優先される用事など聞いたところではぐらかされるに決まっている。今は誰がどんな処理を任されていても不思議ではない。
(やはりアクアレイア王国は終わるのだな)
 造船所を見渡してみても実感は薄かった。活気に満ちているわけではないが、どんより暗いわけでもない。人々は普段通りに働きつつ嵐が逸れるのを祈っている。
 ディランの去った軍港に鐘が響いたのはそのときだった。
 正午である。ということはそろそろ十人委員会がローガン・ショックリーに天帝への返書を持たせている頃か。
(ん? あれは……)
 不意に造船所内に現れた二つの人影にユリシーズは足を止めた。小型ガレー船のほうに乗り込もうとした男たちを直前で呼び止める。
「おい、お前たちもマルゴーへ行くのか」
 問いかけに防衛隊の騎士と槍兵が振り返った。しがない平民の彼らがここにいる理由は一つだろう。王国の滅びた後も王家の血に仕えようというのだ。
 二人は顔を見合わせて警戒しつつ頷いた。きっと自分はルディアの敵と認識されているに違いない。別にそれは構わない。こちらとしてもそれを否定する気はなかった。
 だがそれならどうして自分は彼らに声をかけたのだろう。敗北し、去りゆくしかない王女のことなど放っておけば良かったのに。
「…………」
 自分から呼び止めておいて二の句が続かずユリシーズは黙り込んだ。赤髪の騎士が訝しげに「なんの用だ?」と問い返す。
 ――あの人を頼む。
 そう言いかけて口を噤んだ。守ってくれる伴侶がいるのにわざわざ念を押す馬鹿はいない。
「……いや、何も。確認を取りたかっただけだ。もう行っていい」
 ユリシーズが首を振ると二人は戸板の橋を伝ってガレー船に乗り込んだ。
 何も言うべきことはない。今は他に考えるべきことがある。
 逃げるだけの金がない者、家名にかけて逃げ出せない者、ここには多くの民と貴族が残される。
 新しい旗を用意しなければならなかった。
 皆が支えにできるような、新しい、折れない旗を。




 向かいの船に腰を下ろしたアルフレッドとレイモンドを見てルディアはほっと息をついた。
 二人とも家族との別れは無事に済ませられたらしい。わがままで振り回して申し訳ないなと改めて胸中で詫びる。
 ルディアの乗ったコリフォ島行きの大型ガレー船は出航までイーグレットを待つばかりだった。父は今ローガンに勧告を受け入れる旨を伝えに行っている。ニンフィへ向かう小型船は使者が気を取られている隙に軍港を出てしまう予定なので、そろそろ動き始めるはずだった。
(終わりというのは案外呆気ないものだな)
 船縁に腕をかけ、ルディアは見納めになるかもしれないアクアレイアの海を見つめる。
 自分一人ならどうにか戻ってこられるだろうがそれは父の生活が落ち着いてからの話だ。ジーアン帝国の動向によっては十年以上どこにも行けない可能性だってある。帰還や領土の奪還についてはまだ考えるべきではない。
 振り返れば全てにおいて天帝のほうが一枚も二枚も上手だった。どう挑めば切り崩せたか、いくら頭を悩ませても何も思い浮かばないほどに。
(防衛隊以外にも助けてくれる者がいて良かった)
 ルディアはチャドやジャクリーン、グレッグと交わした言葉を思い返した。アウローラだけでもマルゴーへ逃がせないか相談に訪ねた日、王子への取次ぎを頼んだ侍女だけでなく、たまたま居合わせた涙もろい傭兵団長も協力を申し出てくれたのだ。彼らには感謝してもしきれない。
 桟橋に視線を移せばユリシーズの姿があった。先程アルフレッドたちと何か話していたようだが、少しは元婚約者を気にかけてくれたのだろうか。こんな形で決着がつくとは運命は皮肉である。
(ああ、向こうは船長が出てきたな)
 船出はもう間近だった。柄にもなくしんみりした気分で正面の船を見上げる。
 と、こちらに渋面を向けたアルフレッドと目が合った。眉間のしわは今までになく濃く深く、唇は悔しさに歪み、いかにも後ろ髪を引かれていますという形相だ。ルディアは思わず苦笑いした。
(頑張れよ。お前ならいい騎士になれる)
 声には出さずに声援を送る。いつになるかはわからないが、次に会うときを楽しみにしていると。

「出航するぞー! 櫂を持てー!」

 響く号令に船乗りたちはそれぞれの長椅子の上で姿勢を正した。太いロープが巻き上げられるやガレー船はゆっくりと岸を離れ始める。
 造船所の鉄門が開かれ、水路に沿って晩冬の冷たい風が吹き込んだ。赤髪の騎士はまだルディアから目を逸らさない。彼の隣のレイモンドも。
 控えめに手を振った。これ以上二人が名残惜しくならないように。
 大丈夫、防衛隊がいなくたってこちらはなんとかやっていける。少なくともアニークよりは反骨精神もあるのだから。

「ああーッ! アル、ごめん! やっぱ俺あっちに乗るわ!」

 信じがたい大声が轟いたのはそのときだった。
 立ち上がったレイモンドがガレー船の中央通路を凄まじい勢いで走りだす。助走をつけた槍兵が動く船の尻尾からジャンプするのにルディアはぽかんと目を丸くした。
「なっ……!?」
 長身の影が飛ぶ。アルフレッドも、真横を走り抜けられた船乗りも、一瞬の出来事に呆気に取られて固まった。
 槍兵は持ち前の身体能力でなんとか桟橋の端に着地した。そそくさとこちらの船に上がってくるのを呆然と眺めていると「おお……、これが勝手に身体が動くって感覚か……」などとのたまい出すのでつい怒鳴りつけてしまう。
「ば、馬鹿かお前は! 何をやっているんだ!」
「ちょ、まだ心臓ドキドキしてっから、あんまデカい声出さないでくれ……」
「あれを見ろ! 船が行ってしまったではないか!」
 ルディアは小さく遠くなっていく船影を指差した。亡命者のためのガレー船は当然ながら平民一人を拾うために引き返してなどこない。
「あー……。ま、ブルーノにはアルがついてりゃ大丈夫だろ」
 へらへら笑って誤魔化そうとするレイモンドにがっくりと項垂れる。本当の本当にこの大馬鹿者は。
 何時間でも叱り飛ばせそうな気がしたが、生憎とそれ以上の苦言は続けられなかった。

「皆の者、敬礼せよ! これより陛下と姫様をコリフォ島へお送りする!」

 シーシュフォスの野太い声が軍港にこだまする。将校らは出入口近くに整列し、質素な黒い外套に身を包んだ二人の元王族を迎えた。
 イーグレットは前を向き、ジャクリーンはやや伏し目がちにうつむいている。元々ルディアを真似るのが好きだったという侍女は上手く化けてくれていた。

「やあ、君たちか。ルディアが護衛に選んでくれた若者とは」

 乗り込んできた父ににこやかに会釈される。王にも王女にも他の近衛は付き添っていなかった。
 泣けてくるみすぼらしさだ。こんな姿で、晒し者同然に大運河を抜けていかねばならないのだから。
「では行こう」
 イーグレットの合図で船は動き出す。
 王家は都を出ていくと、十人委員会の布告によって民にもさっき知らされたそうだ。これで「ルディアもコリフォ島へ送られた」と既成事実を作ることができる。アウローラに関しては、対外的には死産か病死で通されることになるだろう。
 門をくぐり、軍港への直通水路を後にしてガレー船は大運河の一角に入った。
 ――と、そのとき、ルディアは前方から白い布が流れてくるのに気がついた。
 いくつもいくつも、まるで弔いの花でも流すようにして。
 なんだこれはと顔を上げる。近くの河岸に目をやるが人の姿は見当たらない。大運河に沿って立つ屋敷の窓に強張ったいくつもの顔が並ぶだけだ。
 よくよく見れば白布はもっと上流からもたらされていた。
 一体誰の仕業だろう。こんなことをして最後まで無慈悲に父の白皮を責めているのか。それともそんな意図はなく、ただ王国の死を悼んでいるのか。――それならできれば後者であることを願いたい。




 ******




 はあ、はあ、と息が上がる。走れば走るほど手足がちぎれそうになりそうになる。
 ローガンの船でアクアレイアに着いてから隠れ潜んでいた倉庫の奥。そこを飛び出したのがついさっき。
 もう引き返せない。カーリスの船は天帝のもとへ旅立ってしまった。
 怖くてもあの人のところへ急がなければ。この耳で真実を確かめなければ。
 空のカラスがおいでと招く。曇天を見上げたままで追いかける。
 胸が苦しい。肺が痛い。お腹が引っ繰り返りそう。
 走り慣れていない痩せた足は何度も何度も躓いた。それでも大運河の岸辺を吐きそうになりながら走った。
 案内役の脳蟲カラスが真珠橋に降りるまで。

「――待っていましたよ、アイリーン」

 男の声に名を呼ばれ、アイリーンは立ち止まる。走りっぱなしですっかり息が乱れていた。はあ、はあ、と胸を押さえて目を上げる。
 真珠を売って築いた財で建てたという白塗りの橋は王国で最も古い建造物だ。アクアレイア人はここで魚を釣り、塩を固め、船で運んで歴史を始めた。
 この橋はレガッタのゴールでもある。始まりと終わりが同時に存在している場所。
「…………」
 アイリーンは腹を決め、静かに中へ歩を進めた。
 他のどの橋とも違い、真珠橋には屋根がある。商売の中心地である大運河にかかった唯一の橋であるため、通路の両側が銀行や商店で埋まっているのだ。もっとも今は売る物も客もなく、閑散どころか無人だが。
「花が売られていないので代わりにリネンを流していたんです。こちらの葬儀では白百合を捧げるんでしょう? 郷に入っては郷に従えと言いますからね」
 橋の中ほどにいるその人物は看板の陰になって姿がよく見えなかった。
 緊張に耐え、一歩ずつ近づく。
 穏やかな声の響きだけなら本当にあの人とそっくりだ。
 懐かしい記憶。初めて安心できる場所を見つけた。

「……あなたがハイランバオス様だったんですか……」

 微笑を映す瞳には知らず涙が滲んだ。癖のある黒髪も、少女と見紛う相貌も、元の聖者とは似つかない。けれど透き通る水色の眼差しはそのままだ。
 ふふ、と青年は笑った。
 棘を隠した薔薇の頬と、毒ある林檎の唇は見知った顔。天帝の誕生日を祝うため、バオゾへ発ったガレー船に同乗していた若い軍医。確かディランという名前の。
「あなただったら気づくかなと思ったんですけどね。なりすましの偽者を世話したり拝んでみせたり、私ちょっと悲しかったですよ? ああ、アイリーンは平気であの方に嘘をつくのだなと」
 ぞくっと背中に悪寒が走る。無意識に後ずさりしたアイリーンにディランは――否、ハイランバオスは楽しげに両手を広げた。
「まあ過ぎたことです。この街はめでたくジーアンの手に入ったわけですし、結果オーライですよ。あはは」
 咎められないのが逆に恐ろしい。この人は昔から天帝に対して心のどこかが振り切れていて、思考を掴めないことが多いのだ。
 今もアイリーンにはわからないことだらけだった。彼の正体が脳蟲で、天帝の正体も脳蟲で、ジーアン帝国の要職は同種の人間もどきに占められているのはわかったが。
「……どうして何も教えてくださらなかったんです……? 私が何を研究していたか、あなたはご存知だったのに……」
 バオス教の救貧院に置いて面倒を見てくれたこと、今でも恩を感じている。だが最初から利用する気で拾ったのだとしたら悲しい。どの街でも受け入れてもらえず、人間不信になりかけていたアイリーンを救ってくれたのはハイランバオスなのだから。
「どうしてって、我が君のため以外の理由があると思いますか? 私はあの方のためでないなら呼吸一つしたくないんですよ?」
 聖預言者はおどけて息を止めるふりをした。
 天帝のため。アイリーンに理解できないのはその動機と行動の噛み合わなさだ。
 ラオタオから聞いた話が事実ならハイランバオスのしてきたことは全て徒労である。ジーアン帝国の脳蟲のためにも、アクアレイアの人々のためにも、誰のためにもなっていない。だってこの王国湾は。
「ア、ア、アクアレイアを返してください!」
「無理です。この国は我が君に献上いたします」
「何故なんです!? そんなにこだわる必要がありますか!?」
 アイリーンの問いに聖者はにこにこ実に嬉しそうに笑う。
「ふふふふふ、アクアレイアは実に攻め落とし甲斐のある国でしたよ。潟湖と潮汐の防衛力、鍛え抜かれた強力な海軍、知恵ある政治家たちと溢れ出る富。――ああ、難攻不落のこの都市を巧みに手中にしたあの方はなんと素晴らしい才覚の持ち主なのでしょう! うーん、ここは西パトリア風の詩作に耽りたいところです……」
 ハイランバオスはうっとりと身をくねらせた。何やら空中に書きつけているのは思いの丈を綴った新作ポエムだろうか。恍惚に潤む瞳は幻想の世界を映し、アイリーンそっちのけで「素敵な天帝」を堪能している。
 頭が痛い。どうしてこの人はこんなにアレでソレなのだ。ハイランバオスの性向を正確に記述するには人類の言語が追いついていない気さえしてくる。
 ただ一つ確信を持って言えるのは、彼の情熱は全方向に迷惑だということであった。
「そんな倒錯をするために私の故郷を踏み荒らしたんですか……!?」
 涙を溜めて抗議する。ハイランバオスは首を傾げて問い返した。
「――おや? 大好きな研究のために実の弟を脳蟲の宿主にしたあなたが仰います?」
 言葉は鋭利な刃となって胸に刺さる。違うと否定しようとして笑顔の教主に先手を打たれた。
「私が殺したわけではないという顔ですね。でもそれは関係ないと思いますよ? 弟の死体を見たとき『これは使える!』と少しでも考えなかったですか? あなたの研究脳は弟の尊厳よりも自らの好奇心を優先しなかったと言えますか?」
「……ッ!」
 咄嗟に伏せてしまった顔を真下からずいと覗き込まれる。聖預言者は喜々としてアイリーンを追い詰めた。
「ねえ、どうしました? アイリーン?」
 膝が震える。冷や汗が止まらない。
 弟を実験台にした過去はルディアたちの他には明かしていない秘密なのに、何故この人はそこまで知っているのだろう。
 まさかずっと見張られていたのだろうか。犬や猫や鳥を使い、今までずっと。だとしたらジーアン側に情報が漏れていたのは――。
「……人間とは本当に業の深い生き物です。あなたが私を慕っていたのは私の中にあなた自身の罪を見ていたからでしょう? 私があの方のために法や命を蔑ろにすればするほどあなたは安心できたんです。何事も貫き通せば逆に尊敬を得られるのだ、何かのためという理由は免罪符になるのだと」
 当たりましたかと無邪気に問われ、何も言い返せなかった。堪えきれなくてこぼれた涙をハイランバオスに拭われる。
「アイリーン、責めているのではありませんよ。寧ろ逆です。道徳心や常識に囚われていては本当に成したいことは成せません! あなたは普通の人間には越えられない境界線を一歩こちらへ越えています! 私といればもっと自由に、もっと大胆に研究を進められますよ? どうです、一緒に行きませんか!?」
 酷い勧誘があったものだ。差し伸べられた手を前に、歯を食いしばって首を振る。
「……なるほど。私の考えは解せないと」
 今度はこくりと頷いた。拒絶されてもハイランバオスは聖預言者の微笑みを崩さなかった。
「それもまた星の巡り。いいでしょう、正直に、いつでもあなたの心の欲するままになさい。生きとし生けるあらゆるものに意思を持つことは許されているのですから」
 ではまたどこかで。そう告げて彼は踵を返した。「敵対するなら殺します」とか「仲間を拷問します」とか脅されると思ったのに。
 わからない。なんのためにこんな茶番を演じるのか。
 本当に「天帝のため」なのか? だったらどうして彼は大切なヘウンバオスに最も重大な事実を知らせていないのだ?




 消息不明のアイリーンが真珠橋でへたり込んでいるのを見つけ、カロは急ぎ駆け寄った。
「アイリーン! 無事だったか!」
 数少ない友人の名を叫ぶ。猫背を支えて起き上がらせるとウワッと胸に泣きつかれた。どうやら今まで相当に心細い思いをしていたらしい。
「カロ、カロ、わ、わたし、姫様になんて謝れば……」
「どうしたんだ? 何があった?」
 答えようとしてアイリーンは一層錯乱する。断片的に「ハイランバオス様が」と聞こえたが彼女の周囲には誰もいなかった。
「少し落ち着け。アンバーはどこに――」
 不意に水を掻く音に気づいてカロはハッと顔を上げる。急いで橋の縁に駆け寄るも既に遅く、イーグレットを乗せた船は真珠橋を通過した後だった。
(しまった! 飛び移るならここしかないと聞いていたのに!)
 ガレー船は速度を上げて見る間に遠ざかっていく。肉づきの悪い腕を掴むと即座に船を追いかけた。だが岸辺の路地をひた走っても一向に目標との距離は縮まらない。
「待ってカロ、私もう走れな……」
「!」
 そうこうするうちにアイリーンが石畳に足を取られて転倒した。顔から地面に激突した彼女を放っておけずに片膝をつく。
「ご、ごめんね……。うっ……私……本当に疫病神で……っ」
「泣くんじゃない。鼻は折れてないな?」
 コートの端で汚れを拭き取ってやり、手首を掴んで立ち上がらせる。大運河へ戻した目には薄れゆく船影が映った。
「…………」
 罪のないイーグレットが故郷を追われて出ていくのに、冷たい民は家に閉じこもったきりである。王なんて、頼まれたってなるものではない。
「……どこへ行くかはわかっているんだ。馬だ、馬で追いつくぞ」
 独白のように呟いてカロは来た道を引き返した。
 もはや王都に用はなかった。こんな薄情者の街には。









(20150916)