星のない砂漠に放り出された気分だった。灼熱は恐ろしいほど冷え切って、暗澹たる漆黒にどこまでも閉ざされている。
 双子の言葉を思い出しながらヘウンバオスは悪夢に呻いた。
 現実という悪夢。こぼれ落ちていく時の砂。掴んだはずの蜃気楼。
 船が揺れているのか己が揺れているのかもわからない有り様で、誰もいない船室の奥、綿の詰まった長座布団にただしがみついていた。
 喚き散らしそうになるのを耐えるだけ。必死に息を繋ぐだけ。

 ――あなたの寿命、理屈の上ではもう尽きています。

 頼みもしないのに甦るにこやかな笑みに爪を噛む。時が過ぎれば過ぎるほど告げられた言葉はまぎれもない事実なのだと確信は深まった。
 九百年も忠実だった片割れを変えたもの。それはきっと残された猶予の短さだったに違いない。間もなく死ぬと知っていたら、誰であれ自分の欲望を優先する――。
(……皆にどう伝えればいい?)
 バオゾに帰ってからのことを思うと息苦しさが増した。
 仲間はアクアレイアこそ守るべき新たな塩湖だと信じているのだ。よく似た別物だったというだけで悲しむのは明らかなのに、命の灯火まで燃え尽きんとしていると知ったら。
 分裂か反乱か。足元に火のつく可能性は極めて高かった。それなのに自分は有効な手立てを一つも考えられずにいる。
 頭を動かそうとするとハイランバオスの無邪気な声が思考を埋めた。倦怠と無力感とが血の代わりに全身を巡り、少しの気力も振り絞れなくなってしまう。
(……アーク……)
 聖櫃の中枢に触れた。双子は確かにそう言った。アークが何かを解き明かすのがヘウンバオスの試練だとも。
 きっと今はそれを追いかけるべきなのだろう。弟がコナーとともに消えたのだって、あの男がアークについて重大な情報を持っていることを示唆するために他ならない。ヒントがまったく提示されていないわけではないのだ。
 それでもヘウンバオスには指一本動かせなかった。コナーを捕まえなければという気も起きなかった。
 足掻いたところでまた幻を掴むだけではないのか。道の途上で力尽きるだけではないのか。心に生じた猜疑には歯止めがきかなくなる一方で。
(千年探してアクアレイアだけだったのだぞ。有力な手掛かりは……)
 ぎり、と強く唇を噛む。掌で押さえた額に血の気はまだ戻らない。
 レンムレン湖は涸れたのだ。乾いた砂漠に染み込んで、届かない深いところに隠れてしまった。
 そんなものを再び探し出そうとしたのがそもそも誤りだったのかもしれない。やはりあのとき湖と一緒に滅べば良かった。もう一度、もう一度なんて思わずに。
 胸が苦しい。あの懐かしい水辺のことしか考えられない。
 胸が苦しい。胸が苦しい。
 だがこれは、果たして感情だけに由来する痛みなのか。
(……私も最後は真っ黒になって死ぬのだろうか……)
 小さな蟲が炭に変わっていく様をありありと思い出し、ヘウンバオスは身を震わせた。
 嫌なのに、あんな終わりは嫌なのに、凍りついたまま何もできない。
 どうして永遠に生き続けられるなどと驕った考えを持ったのだろう。仲間に見限られてしまえば己とて無力な王に成り下がるのに。
 どうやって辿り着けばいい。こんなところからどうやって。
 砂に埋もれて道が見えない。
 オアシスは遠すぎる。




 ******




 ルディアたちを乗せた快速船は逆風のアレイア海を休みなく走り続け、二月二十八日の夕刻、コリフォ島に到着した。
 島の東端にある要塞からも海軍旗を掲げた船が見えたのだろう。隣接の軍港に入ったときには駐在の兵士らがこぞって迎えに現れていた。その最前列にはコリフォ島基地の指揮官でジャクリーンの父、トレヴァー・オーウェン大佐の姿もあった。
「お父様!」
 甲板から手を振る娘にトレヴァーはぎょっと目を剥く。中年にしては珍しく痩せ型の大佐はジャクリーンの隣にいるのが祖国の王であるのに気づいて二度仰天した。おろおろと周囲を見渡し、こちらの事情など知りもしないだろう己の部下にどういうことだと尋ねている。

「お父様、ご無事で良かった……!」

 船着場にガレー船が止まるや否や、ジャクリーンはドレスの裾を翻して駆け下りた。
 普段はそう考えなしの行動を取る女ではないが、身内の顔につい我を忘れてしまったらしい。父親の胸に飛び込んで再会の喜びに浸る彼女はもうまったく「ルディア姫」ではなくなっていた。
「おお、おお、私の可愛いジャクリーン。まさかこんなところでお前に会えるなんて」
「お父様、お父様こそお元気そうで何よりですわ! 伝書鳩が戻ってから、私ずっと心配で」
 親子は瞳に涙を浮かべてひしと抱き合う。嘆息混じりにルディアは笑った。
 本来なら「もっと王女らしくしないか」と諌めなければならないところだ。だが家族愛に水を差すことはしなかった。身代わりとしての侍女の役目はほぼ終わっていたからである。
 ブルーノとアウローラをマルゴー公国へ逃がし、王家は揃ってコリフォ島へ赴いたとの事実をでっち上げられた今、敢えて眉を吊り上げる必要はなかった。この場の兵士に口止めしておく程度で十分だ。
 イーグレットも何も言わずに二人を見つめて微笑んでいる。最初から若い女に人身御供を徹底させる気はなかったのだろう。ジャクリーンとトレヴァーを引き離すどころか寧ろ羨ましげだった。
「本当に、一体どうしてお前がコリフォ島に? しかも陛下までご一緒とは」
 トレヴァーは戸惑いを隠せないまま尋ねる。問われてようやく自分の責務を思い出したか侍女は慌てて父親から離れた。
「いけない、私ったら。姫様のふりをしているところなのに」
「ひ、姫様のふりをしているゥ!?」
 石造りの軍港に素っ頓狂な声が響く。驚きのあまり大佐は娘に掴みかかった。
「痛い! お父様、声が大きいですわ!」
「大きくもなるよ! ひひ、姫様のふりをしているってお前、ど、どういう」
 混乱するトレヴァーを見てイーグレットが即座に船から駆け下りる。護衛のルディアたちを振り向きもせず、王はもつれ合う親子の間に割り込んだ。
「トレヴァー、無断で娘の手を借りてすまなかった。……ノウァパトリア陥落以後の経緯を話したいのだが、急ぎ席を設けてくれないかね?」
「い、イーグレット陛下! こ、これはお見苦しいところを。ただいま仰せの通りに」
 トレヴァーは汗を拭い、手近な部下に軍議室の準備を命じる。すぐに数人の士官がずんぐりと大きな砦に走っていった。
 港はたちまち物々しい雰囲気に包まれる。まだアクアレイアがジーアン帝国に吸収されたことを知らないコリフォ島の兵士たちは不審そうにイーグレットを盗み見た。
 即位以来、父が王都を離れた例はほとんどない。ジャクリーンの発言といい、本国で何かあったと考えるのは当然だ。
 事の顛末を知ったとき、彼らはどんな反応を示すだろうか。王でなくなった王を匿うなど真っ平だと拒絶される可能性は高かった。それでもジャクリーンならなんとか大佐を説得してくれるとは思うが。
「えっと、あのう……、ところで去年から軍備が一向に補填されないのですが、まさか今更コリフォ島で海戦なんて事態にはなりませんよねえ?」
 基地に主君を案内しつつ、おっかなびっくりトレヴァーが問う。返答は張り詰めた沈黙によってなされた。
「え、えーっと……、イ、イーグレット陛下……?」
「無益な戦いは私も避けたい。そのためにできる相談は済ませておこう」
 穏やかだが不穏な台詞に大佐の頬がひくりと引きつる。
 安住の地を探すのもひと苦労だな。そう胸中に呟いて、ルディアは父の後に続いた。




 ルディアがコリフォ島を訪れるのはこれで三度目だ。一度目はジーアン帝国に向かう旅の途上、二度目はその帰途で立ち寄った。
 だが砦の奥まで入るのは今度が初めてである。防衛隊は海軍とは別組織扱いだったため、管轄違いの軍事施設は利用できなかったのだ。
 イーグレットとの密談を終えたトレヴァーは王国滅亡の衝撃に青ざめつつも元国王の滞在を受け入れてくれた。曰く、政府の決定に逆らう理由はないとのことだ。
 ひとまず落ち着く場所はできたらしい。到着したその日に叩き出される羽目にならず、ルディアはほっと胸を撫で下ろした。
 既に日はとっぷり暮れている。ささやかな晩餐の申し出も断って父は早々と用意された部屋に引っ込んだ。
 高官用の小さな客室が今後の王の仮住まいである。ルディアとレイモンドは警護がてら、その前室で寝起きすることにした。
 ジャクリーンはトレヴァーの私室に身を置くようだ。父親といたほうが彼女にとっても都合良いだろう。何かあったときルディアたちでは彼女を最優先にできない。
 武骨な石積みの一室でルディアはふうと嘆息した。レイモンドも少ない荷を下ろして客室側のドアに張りつく。
「……陛下よっぽど疲れてたんだな。もう寝ちまったみてーだぜ」
 しばし隣室の物音に耳を澄ませていた槍兵はルディアの傍らに戻ってくるとそう耳打ちした。
 長いこと気を張り続けていたのだ。泥のように眠って当たり前である。
 それに緊迫の日々は終わりを告げたわけではない。明日からまた針のむしろが敷かれるに決まっている。休めるうちに父には休んでほしかった。
「起きてても腹減るだけだし、俺らも寝るか」
 結構いい寝床だぞと嬉しそうにレイモンドが毛布をはたく。ルディアたちに与えられた続き部屋には慎ましやかなベッドが二台、それと丸テーブルが一組備え付けられていた。
 要塞という建造物の特徴として窓はない。蝋燭の火が燃える横に小さな換気孔が点々と並ぶのみである。
 屋内の闇は濃かった。月光を反射して揺らめく王国湾の夜とは違って。
「寝るのはいいが、装備を脱ぐのは一人だけだぞ。もう一人は椅子で仮眠だ」
「えーっ? そこら中に海軍兵がいるってのに?」
「だからだ馬鹿者。我々が歓迎されていると思うな」
 ルディアの苦言にレイモンドは「ッス」と畏まる。わかっているのかいないのか判断しかねる返事である。何故この男と話していると重い話まで軽い響きになるのだろう。
「お前なあ、これから本当に何があるかわからないんだぞ。今のところは何も要求されていないと言ってもジーアンがコリフォ島を放置するとは考えにくい。改めて『王家の血を根絶やしにしろ』と命じてくる可能性だって残っているんだ」
 ここまで言えばさしもの槍兵も押し黙った。悪い未来ばかり強調するつもりはないが、現状から目を逸らすこともできない。父の安全はまだ確約されたとは言えないのだ。
「……本当はコリフォ島まで来たらあの人にはカロと一緒に逃げてもらおうと思っていた。失意のあまり王は重い病を得て、そのまま亡くなったという噂を流して」
 低い声でルディアは流れた計画を語る。えっとレイモンドが身を乗り出した。
「そんな予定立ててたのか? すっげー名案じゃん」
「だがそれはできなくなってしまった。カロが船に乗れなかったからな」
「えっえっ、なんでだよ。カロには後で追っかけさせて、ジーアンに無茶振りされる前に、陛下にゃとりあえず身を隠してもらえば良くね?」
「あの人が納得しないさ。素直に城を明け渡したのはアクアレイアのためだし、逃亡が発覚すれば皆の立場を悪くするとわかっていてこの島を脱出はしまい。それでもカロなら強引に連れていってくれると思ったんだが……」
 ルディアはふうと息を吐いた。
 嘆いたところで仕方ない。いない人間には頼れない。
 やはり考えが甘かったのだ。重大な決断を他人に委ねようとしたこと。
「いや、だけど命かかってんだし、陛下が納得するかしないかは置いといて、逃がさなきゃ危ねーじゃんか。なんならカロの代わりに俺たちが攫って」
 首を振り、ルディアはレイモンドの言葉を遮った。
 それができれば良かったが――、否、そう決心できれば良かったが、心とはままならないものだ。分かれ道を前にして進むのを躊躇ったことなどなかったのに。
「私が駄目だ。自分がどうするべきなのかまだ迷っている」
 ルディアの返答に槍兵は目を丸くした。
 さぞかし驚かせただろう。娘なら普通は窮地に立つ父親をなんとか救おうと考える。方策があって、ただちに実行に移せる立場にいて、見ているだけなど考えられない。
「迷ってって、なんで……」
 戸惑いを隠せていない声に苦い笑みを浮かべた。
 だから誰も連れてきたくなかったのだ。問われれば答えざるを得なくなる。己の中の葛藤を。
「王でなくなったあの人に、もう自由になってほしいと思う。だがあの人が王としての人生を全うしたいと願っているなら、その思いを軽んじたくはない。もし私が同じ立場ならきっと最後までアクアレイアに尽くそうとする。余計なお節介で邪魔されたくないだろうし、望む通りに生きられなければ恨みに思うのも目に見えている」
 でも、とレイモンドは眉をしかめた。
 理解されずとも構わない。国に対する所有意識や愛着など王族以外にわかるはずないのだ。
 骨の髄まで染みついた「私のアクアレイアだ」という思いが容易く消えるものならどんなに良かったか。ルディアでさえ喪失感でいっぱいなのに、その腕から乙女を奪われたあの人は。
 必死に守ってきたことを知っている。ろくな味方も持てないで、不吉の王と蔑まれ、見えないたくさんの傷を負って。
 だがそれが父の歩んできた道だ。あの人の魂そのものだ。王冠を失ってなおこの道を行くと決めたなら、ルディアには止められない。その意味するところが永劫の別れでも。
「誰も自分がどんな風に生まれつくかは選べない。それでも己に与えられた、ごく限られた選択肢の中から、これと思う生き様を選ぶことを意思と呼ぶなら――私はあの人の意思を尊重したいんだ」
 告げながら、ルディアは己の半生に思いを馳せた。
 できるならあの人の本物の娘に生まれたかった。本物の姫に生まれたかった。願ってもどうしようもない願いだと承知して、それでも願わずにはいられないほど。
 父は何度考えただろう。普通のアクアレイア人と同じ外見に生まれていたらと。
 苦しんでも、苦しんでも、それでもあの人は玉座を放り出さなかったのだ。認められないまま終わった父が墓の下まで持っていける名誉があるとすれば、きっとその一つだけだ。
「いや、なんかそれ、天帝が国王の首を差し出せって言ってきたときに陛下が従うって決めたら止めないっつってるように聞こえるんだけど……」
「端的に言うとそうなる」
「いやいやいやいや」
「あの人が王に相応しい死を望むなら……」
「暗い! 暗いって! 暗すぎる!」
 大袈裟な身振りで続きを口にするのは阻止される。レイモンドはルディアにぶんぶんと首を振った。
「言ってる意味わかんなくもねーけど、生きてりゃ状況は変わるもんだろ!? 今頃はカロだって必死にこの島目指してるだろうし、当初の予定通り行くかもしんねーじゃんか。とにかくその思い詰めたカンジの表情はヤバいって。もうちょっと肩の力抜いてこうぜ! なっ?」
 ぽんぽんとなだめるように背を叩かれる。ルディアはムッと眉を寄せた。
 今は肩の力を抜いている場合ではないだろう。まったくこのお気楽男め。
「私はあの人の最後の願いを……」
「だからなに弱気になってんだよ!? あんたそんな人じゃないだろ!?」
 問われて今度はルディアが目を丸くする番だった。弱気になったつもりなどないのに、どうしてそんなに心配そうに見つめられねばならないのだ。
「一日あれば本当に何がどうなるかわかんねーよ。俺、アルに会ってから劇的に人生変わったし、国籍取ってからもそうだった。だからさ、いつもみたいにしぶとくチャンス狙おうぜ。そっちのほうが絶対あんたらしいからさ!」
「わ、私らしい?」
「そうそう、そんな八方塞がりですなんて顔似合わねーって! もっとこう、壁に穴開けてでも進んでやるっていう気概をだなー」
 文句を言おうとしたはずなのに、気がつけば何を言うつもりだったか忘れていた。
 それもそうだと少し励まされたからかもしれない。突然の嵐がカーリス船を襲うかもしれないし、ヘウンバオスが風土病に倒れる可能性もゼロではないのだ。神がかりしか期待できないのが悲しいところだが。
「ちゃんと寝て、ちゃんと飯食って、体力温存しとこうぜ。ほらほら、まずはどっちがベッドで寝るか決めねーと」
 レイモンドはポケットからコインを取り出すと爪で弾いて手の甲にキャッチした。図柄を隠された状態で突き出され、逡巡したのち「裏」と答える。
「はい残念、表でした。っつーわけであんたが寝る、俺は夜番な」
「おい、普通逆だろう」
「こういうのは勝ったほうに決める権利があるんだよ。いいからさっさと横になれって」
 胸甲の留め金をつつかれてルディアは渋々防具を外した。身軽になるや一気に睡魔が押し寄せてきて、ふらりとベッドに倒れ込む。
 父に負けず劣らず気を張っていたらしい。あっという間に意識は眠りの底に落ちていった。
(――その記念硬貨、売らずに持っていたんだな)
 呟きは声になったのか、それともならなかったのか。
 わかったのは肩まで引っ張り上げられたブランケットの温もりだけ。
 夢も見ず、ルディアは朝まで昏々と眠り続けた。




 ******




 時同じく、ジャクリーンは父トレヴァーと盛大な親子喧嘩を繰り広げていた。要塞の最上階、指揮官の趣味で集められた細やかで美しい芸術品が並ぶ一室に似つかわしくない怒声が飛び交う。
「嫁入り前の娘が考えなしに勝手をして! 今この時期にルディア姫と名乗るのがどんな危険なことかわかっているのかい!?」
 貧相な針金ボディで威嚇しつつ父は大声を張り上げた。
「ええ、承知しておりますわ! だからこそ引き受けたのです! あのとき私以外には適役の侍女はおりませんでしたから!」
 ジャクリーンも負けじと額を真っ赤にする。
 ここで押し負けるわけにはいかなかった。父が無理矢理にでも王女のふりを止めさせようとしているのは明白だった。
「父様や母様、ばあやの気持ちも考えておくれ! 私はお前が普通に結婚して普通に幸せになってくれればそれでいいのに、お前ときたら、もう、もう……っ!」
「まあ、お父様ったらまだ諦めておられなかったの? 私は永遠に嫁入り前でございますわ! ずっとお慕いしていた姫様の役に立てるなら、お父様の仰る『普通の幸せ』なんていりません! たとえこの身がどうなろうと望むところです!」
「ああー! 何がお前をそうさせるんだい、ジャクリーン!? 子供の頃から口を開けば姫様姫様と……! お前を妻にしたいという男はアルタルーペの山ほどいるのにィ!」
 ウウッと膝をついて泣き始めた父を見下ろし、ジャクリーンは素っ気なく顎を逸らした。
 わかっていないのはどちらだか。あの方の儚げな美しさ、処女神も真っ青の清らかさと優しさを守らずして他に何を守るというのだ。
 大体貴族が王家のために尽くすのは当たり前の義務ではないか。嘆かわしい。崇高な忠義の精神は一体どこへ消えたのだ。
「私、毛深くて汗臭い殿方は嫌いですの! お父様がいくら反対なさったって姫様の代役を降りる気はありませんわ! さっきはつい勢い余って抱きついてしまいましたが、どうぞお忘れください。今後はお父様も私を『ルディア姫』とお思いくださいまし!」
「ば、ば、ば、バッカモーン!」
 東の空が白んでも怒号はまだ鳴りやまなかった。いつもならなんだかんだと折れる父が今回に限っては呆れるほどしつこく食い下がってくる。睡眠不足のガサガサ肌で王女を演じるなんて罪深い真似はしたくないのに。
 ジャクリーンは拳を固めて唇を噛んだ。こうなったら根比べだ。オーウェン家は未来永劫決して王家を裏切らないと、この頑固者の父に誓わせてやる。




 ******




 ああ、また誰も起こしてくれなかったな。
 毛布の中で寝返りを打ち、イーグレットは嘆息する。
 まあいいか。どうせ誰も亡霊王子に用などない。
 眠っていよう、このままずっと。今日も、明日も、明後日も、世界が終わりを告げるまで――。

「…………」

 暗すぎる部屋で目が覚めて、子供時代の夢の続きを見ているのかと思った。あの寝室は王宮で一番日当たりの悪い場所に隔離されていたし、誰かが訪ねてくることも稀だったから。
 イーグレットは瞼を開き、年相応に筋張った己の掌をかざした。
 視界には見慣れぬ天井。ずっしりと存在感ある石の砦。
 鳥の声に朝を知り、起き上がって身支度を整える。
 世話されないのには慣れていた。おかげであまり他人を煩わせずに済みそうだ。ルディアの手配してくれた護衛衆は気のいい青年たちだけれど、白すぎるこの身をまじまじ見たくはなかろう。
(……考えすぎか。二、三十年前とは違う)
 イーグレットは鏡に向かって襟を正した。相も変わらずそこにいるのは白い粉かぶりだ。
 容姿に対する偏見は昔ほど強くなくなった。アクアレイアが商業規模を拡張するにつれ、君主の見た目より航海知らずのほうが問題視されるようになったためだ。
 防衛隊くらい若ければ先代の治世を知らないし、ジーアン帝国の台頭と自国の王の色白さを結びつけて嘆いたことはないだろう。それに彼らは娘の選んだ部下であり、カロとも意を通わせている。的外れな羞恥心を抱く必要はない。
(二人にはもう会えないだろうな)
 我が子の顔と旧友の顔、思い浮かべて目を伏せた。
 結局別れは告げられなかった。そうしたくてもできなかった。
 ルディアにしろ、カロにしろ、イーグレット一人でコリフォ島へ向かうなど知れば全力で止めたに違いない。素直に諦めてくれる性分なら事前に明かせもしただろうが。
(手紙は残した。無事に手元に届くことを祈ろう)
 マルゴー行きの荷物に紛れ込ませた封筒。少なくとも娘の目には触れるはずだ。そう自分を慰める。
(カロ……)
 気がかりなのは友人のほうだった。きっと怒らせただろうし、呆れさせて、悲しませた。一緒に逃げようとまで言ってくれたのに黙ったまま旅立って。
 いつも彼とはすれ違う。彼はまっすぐこちらを見るけれど自分はそれに応えられない。どうしてもロマほど身軽にはなれなくて。
(王としてそこまで多く背負っていたとは思わないのだがなあ……)
 ふとイーグレットは客室の隅の書き物机に気づいた。
 もうあんな机の下からカロが現れはしないのだ。そう思うと寂しさに切なくなる。
 勝手な話だ。弱き王家を守ろうとロマとの関わりをひた隠しにしてきたくせに。
 例の地下通路はジーアン兵に見つからないように仕掛け石を嵌め直してきた。おそらく誰にも使われなくなって朽ちるだろう。苦い記憶を道連れにして。
 ぱん、と掌で頬を張る。イーグレットは壁掛け鏡の中に立つ男を睨んだ。
 船路は昨日で終わったのだ。いつまでも後ろばかり振り返ってはいられない。今日からは未来のために、成せることを成していかねば。

「諸君、起きているかね?」

 控室の若者たちに呼びかけると即座に「はい!」と返事があった。「開けるよ」と断って重いブロンズの扉を開く。
 長身の槍兵レイモンド・オルブライトも、細身の剣士ブルーノ・ブルータスも、どうぞどんなご命令でもと言わんばかりに片膝をついてこちらを見上げた。もはや畏まって接する相手ではなくなったのに、律儀な兵士たちだ。
「朝食前に散歩でもと思うのだが、君たちはどうする? 休んでいてくれてもまったく構わないが」
 無理に従う必要はないと仄めかす。しかし二人は「もちろんお供いたします」「そんじゃ俺、この辺り案内しますよ!」と嫌な顔一つ見せなかった。本当に善意でついてきてくれたのだなとありがたく思う。
「この砦、守りは固いっぽいっすけど、古いわ暗いわ冷え込むわで気分上がらないっすもんねー。今ちょうど外行きてーなあって話してたとこなんすよ! 十日も波の上だったし、俺も大地を踏みしめて歩くの大賛成っす!」
 元気良く手を挙げたのは槍兵だ。面食らうほど気安い調子にイーグレットは目を瞠る。こちらの困惑に気づいてブルーノが隣の若者の肩を小突いた。
「……おい、レイモンド。口を慎め」
「へっ? 俺なんか失礼なこと言った?」
「陛下に対してノリが軽すぎるんだ、この無作法者!」
「えっ、ええーっ!? ウソーっ!?」
 レイモンドは飛び上がってうろたえた。「すんませーん」と何度もぺこぺこ頭を下げる恐縮の仕草がまた妙にユーモラスで、堪えきれずについ吹き出す。
「ははは、いいよ、いいよ。楽にしていてくれたほうが私も気疲れせずに済む」
「おお、やった! 陛下もこう仰ってくれてっし、セーフセーフ!」
「温情につけ上がるんじゃない! まったくお前という奴は」
「いやいや、本当に気にしなくていい。それでは出発しよう。レイモンド君、ブルーノ君」
 イーグレットが促すと満面の笑みの槍兵と仏頂面の剣士は揃って部屋を出た。
 なんだか愉快げな二人である。不慣れな土地で気が滅入らないか心配だったが、これなら明るく過ごせそうだ。

「おー! さっすが三月、いい天気!」

 城門をくぐった先には暖かな陽光が差していた。晴れ渡った青空を見上げてレイモンドが歓声を上げる。船上では曇りの日が多かったので春の到来は一層強く感じられた。
 追放され、幽閉された身ではあるが、城壁に囲まれた砦町をうろつく程度の自由は認められている。門番に少し出かけてくると告げてイーグレットは石畳の道を歩き出した。
 小さな街を見渡せばそこかしこにオリーブの樹が植わっている。風に揺れる緑の葉っぱはさんざめく光を受けて銀色に輝いていた。
 気候が良いという話は確からしい。これだけ太くオリーブが育つなら、夏もからりと乾いているのだろう。
 緩やかな坂道は西の小山に向かって伸びていた。その両側を埋めるのは切石積みの古風な家々。軒下には農具が散らかり、手押し車が横倒しになっている。裏手には小さな菜園も見えた。
 波の音色は届けども、橋や運河はどこにもない。水路だらけの都とはまるで異なる風景だ。
「どこ行きますー? 浜辺か聖堂か朝市か、コリフォ島ならどこでものんびりできるっすよ」
 気さくな口調は変わらずにレイモンドが行き先を尋ねた。ふむ、と思案して問いに答える。
「高台がいいのだがな。できれば海を見下ろせる」
「了解っす! そんじゃルシオラの丘に登りましょ!」
 槍兵は上機嫌で先頭に立った。顔に締まりがないぞと剣士が目を吊り上げる。
(この子たちは確かルディアと同い年だったな)
 そんなことを思い返してイーグレットは瞳を細めた。自室にも頻繁に出入りさせていたようだし、きっと仲良くやっていたのだろう。
「しかし妙に人通りが少なくないか? 前に来たときはもう少し賑わっていた気がするが」
「ああ、港のほうに集まってんだろ。朝に網引いてくるからさ」
 街を見回すブルーノの疑問にすかさずレイモンドが返答した。土地勘もあるらしいし、彼のほうが島に慣れている様子だ。
(集まっている……か。ということは本国がどうなったかも広まっている頃合いだな)
 イーグレットはふうと小さく息をついた。トレヴァーとは話がついたが街の住人の反応はわからない。自分がここにいることで悪感情を誘発させないわけないが。
「……それでルシオラの丘というのは?」
 さり気なく話題を逸らす。己の事情に付き合わせて明るい雰囲気を壊したくなかった。本来なら二人ともコリフォ島とは無関係でいられたのだから。
「あっ、道こっちっす! 夏の夜だと蛍とか見れるんすけどねー」
「ああなんだ、あのときの丘だったか」
 槍兵の先導で小広場の角を曲がる。二人は昨夏丘の頂上で蛍狩りをしたそうだ。誕生日に見物できてラッキーだったとか、虫籠を抱えたコナーに遭遇したとか楽しそうに話してくれた。
 ほっと安堵の息をつく。若者はやはり笑ってくれているほうがいい。
「行楽気分で葡萄酒に手を出すんじゃないぞ。また酔っ払われたら敵わない」
「あっ、ひでー! 俺だって護衛中に飲んだりしないっつーの!」
「罰金か減俸のおそれがあるとしたら、だろう?」
「だからそんなことねーってば!」
 どうも彼らは突っかかり合うのを一種のコミュニケーションにしているようだ。青春をともにする友人同士の特権だなと微笑ましく眺めていると、ハッと視線に気づいた剣士が赤くなって咳払いした。
「と、とにかく。断りもなくレモンを買いに行くような突飛な行動は控えろよ」
「もー、わかってるって。今日は特にお小言多いなー」
「お前がいつも思いつきで段取りを乱すからだろうが!」
「けどまだ裏目に出たことなくない? 俺って実は結構役に立ってない?」
「レイモンド、お前さてはまったく反省していないな……?」
「えっ!? い、いやー、ハハ、まさかそんな……」
 だんだん笑いを噛み殺すのが難しくなってきた。娘の直属部隊にはなかなか面白い人材が集まっていたと見える。
「あれっ? 陛下、どうしたんすか? なんかいいことあったんすか?」
「ふふふ、まあおかげさまでね」
「頼むからお前もう黙ってろ……」
 ブルーノが嘆息とともに頭を抱える。道はそろそろ古めかしい小聖堂を通り過ぎようとしていた。
 石畳はここで消え、緩やかだった坂の傾斜が一気に角度をつけ始める。周りの緑も一段と濃くなり、吹き抜ける風にオリーブの枝葉がざわめいた。
 丘はそれなりに高いようだ。緑のトンネルが木陰を作って涼ませてくれるが、歩いているうちに薄ら汗ばんでくる。
 右を見ても左を見ても深い森。やっと視界が開けたのは坂を登りきったときだった。
 樹冠が途切れ、森の向こうに青が広がる。
 空の水色。海の藍色。間を埋めるおぼろげな陸のシルエット。
 霞んで映るのは対岸の東パトリア帝国である。コリフォ島は大陸からあまり離れておらず、高台からならこうして帝国の西端を見下ろせるのだ。
(よし、街も港も一望できるな。ジーアン軍が上陸したらすぐに察知できそうだ)
 イーグレットは見晴らしの確認を終えると周囲をぐるりと一瞥した。
 丘には清水が湧いており、小さな泉を守るかのように老木が立ち並んでいる。茂みの奥には塔らしき人造物の残骸があった。指でそちらを示しつつ、槍兵に「あれは?」と問う。
「ああ、あれは大昔の灯台っすよ。要塞にもでかい鐘楼ができたんで、朽ちるに任せてるとかで、今は灯台守の家ごと廃墟になってんすけど」
「ほう」
 レイモンドの言った通り、茂みを越えて進んでみると三階から先のない灯台と雑草の繁茂する空き家がぽつんと佇んでいた。
 基礎も壁も石でできており頑丈だが、長いこと風雨に晒され、傷んでいるのは否めない。家財道具は当然残っていなかった。
(埃もすごいな。だがまあ夜露が凌げそうならなんとか……)
 住める建物か見極めようと覗き込む。いざというとき移れる場所を確保しておくのは重要だった。
 ヘウンバオスはアクアレイア海軍に解散を命じるかもしれない。そうなればイーグレットはあの要塞を出て行かざるを得なくなる。
 街中に引っ越すのは民が難色を示すだろう。自分も静かなほうがいい。好きな歌でも歌って余生を過ごせたら。

「陛下、さすがに中は危険です。外からご覧になるだけになさってください」

 廃屋に踏み入ろうとしたら剣士に袖を引っ張られた。日射避けのために窓も入口も小さく設計されていて、屋内を見づらかったのだが。
「灯台はともかく空き家の方は大丈夫だよ。大きなひび割れもないし、鳥の巣だって新しい」
「で、ですが」
「安心したまえ。あばら家を見る目は確かだ」
 微笑で制止を振り切るとイーグレットは玄関を跨いだ。早速蜘蛛の巣の洗礼を受けそうになるが指先でちょいちょいと払う。
「陛下ー! 行くなら行くで護衛の俺らを待ってくださいよー!」
「レイモンド君、入ってすぐ天井が低くなっているから気をつけ……」
 言い終わらないうちにゴンと鈍い音が響いた。戦場で聞くような重低音だ。大柄な槍兵は半泣きでその場にしゃがみ込んだ。
「……っ!」
「へ、平気かね? 湧き水で冷やしてきたほうが」
「こ……っ、こんくらい、んな、な、なんともないっす……っ」
 脂汗を浮かべて強がるレイモンドにブルーノがハンカチを差し出す。行ってこいと尻を蹴られ、槍兵は「わーん!」と泉に駆けていった。
「申し訳ありません陛下。まったくあの男は注意力散漫な……」
「二人は仲が良いのだね」
「はあ!? ……あ、いえ、そんな風に見えますか?」
「見えるとも。君らといると私も朗らかな気分になるよ」
「ほ、朗らか? だ、だったらいいのですが……」
 青髪の剣士はもごもごと口ごもった。強気な彼にしては珍しい態度だ。ドナ・ヴラシィ軍に寝返ろうとした傭兵団長を「三点だ」と一蹴した青年と同じには思えない。気恥ずかしげに目を逸らす姿はあたかも少女のごとく映る。
 あのときのあの啖呵には感心したなと振り返る。大金に目が眩んだグレッグを誰も説得できそうになかったのに。「ああ、あの子の育てた兵だ」としみじみ感じたものだった。娘一家をマルゴーへ逃がす話を持ってきたときも。

「陛下ー、抜けさせてもらってすんませんでしたー! 以後気をつけますー!」

 と、患部の手当てを終えたレイモンドが戻ってくる。槍兵はイーグレットが床の蔓草を引っ張っているのを見て「……何やってんすか?」と首を傾げた。
「いや、どれくらい深く根を張っているのか知りたくてね。果たして除草可能なのかどうかを」
「はあ。よくわかんないすけど、陛下って意外とアクティブっすよね? 建国祭のレガッタでも前評判を裏切る漕ぎっぷりで逆転してましたし」
「ははは、アクティブなわけではないよ。まあ王族にしては服を汚すのが気にならないほうではあるが」
「あ、それってさっき仰ってたあばら家を見る目がどうのってやつと関係あります? もしかして陛下も子供の頃は秘密基地とか作ってたクチじゃ」
「残念ながら私はそういう遊びとは無縁だったな。あばら家探しはある時期の日課だったのだ」
「へっ? に、日課?」
 尋ね返されてから喋りすぎたことに気がつく。だがすぐに「まあいいか」と思い直した。二人には聞かれて困る話ではない。
「もしかして、ロマの一団と旅しておられた頃ですか?」
 不意に飛び込んできた問いかけにイーグレットは顔を上げた。見れば薄暗い室内にランタンの光をかざすブルーノまでもが好奇の眼差しを向けてきている。
 不快な類の目つきではなかった。そこにあるのは親近感からくる「知りたい」という欲求だった。
 不思議に親しみ深い若者だ。常の己なら警戒心が先に立ちそうなものなのに。
「……ああ、そうだ。北に向かって随分歩いたよ。野宿することもざらだった」
 返事を聞いてブルーノは小さく身を乗り出した。続きを期待する目で見つめられ、ついその気になってしまう。娘以外の人間とあの友人の話ができるとは思ってもみなくて。
「君はロマをどう思う? 世間では盗人同然に見なされているが」
「私は――正直に申し上げると、カロに会うまで良い印象は持っておりませんでした。彼らは我々の法規に従わない、治安を乱す存在だと」
「では今は?」
「他にロマの知人がいないのでロマ全体の判断は控えますが、カロにはとても感謝しております。随分と力になってくれました。それに絶対に裏切らないとわかっているので頼もしいです」
 率直な意見にイーグレットは微笑ましく頷く。ブルーノの笑みが彼らの間の信頼関係を証明していた。
 裏切らない。そう、一度仲間と認めた者にロマはどこまでも身を砕く。実感として知っているならなお安心だ。
「そうなるまでが大変だったがね。最初はまったく意思疎通できなくて、酷い一団に加わってしまったと途方に暮れたよ」
 イーグレットは遠い昔を懐かしんだ。「良ければお聞かせください」と乞われ、それなら出会った頃のことでもと語り始める。
「雪解けの季節だった。船はどんどん海に出て、港も活気づいていて……」
 ブルーノも、レイモンドも、熱心に耳を傾けてくれた。
 思い出話に興じられるのも今だからこそか。大きなものを失ったはずだが、それほど悪くないと思える。
「私は十五になったばかりだった。都を出るのは生まれて初めてだった」
 自分はこの島を出られないけれど、若い二人には帰るチャンスがあるだろう。
 いつかどこかでカロに会ったとき、今日の話をしてくれればいい。どんなに遠く離れても決して忘れないと彼に伝われば。そうすればきっと、互いがどこにいようとも深い孤独に寄り添えるはずだ。




 ******




 光が眩しすぎて痛い。空の青も、草の緑も、なんてはっきり自己主張するのだろう。こちらは暗い部屋を出てきたばかりなのだから、もう少し手加減してくれてもいいのに。
 フードを深く被り直してイーグレットは背中を丸めた。上を見るよりも下を見るほうが過ごしやすいのは城内でも城外でもあまり変わらないようだ。
 クルージャ岬には冷たい風が吹きつけていた。父に言わせればもう柔らかい春の風ということだったが、イーグレットには微妙な季節の区別など難しい。まともに街に出たこともなければ、それより更に広い世界は本でしか知らないのだから。
 おかしな気分だ。二本の足で草原に立ち、潮の匂いを嗅いでいる。
 状況は他人事めいて感じられた。王宮を離れてロマの一団とさすらうなんて、イーグレットの知る現実にはそぐわなかった。
「五年でどうにか片を付ける。五年経ったらお前は次のアクアレイア王として戻ってこい」
 初代国王ダイオニシアスがそう命じる。四人もいた彼の息子はイーグレットただ一人になっていた。
 苦々しい胸中の滲む父の顔。その面前に立っていたら王位を継ぐのも宮殿を出るのも不安だなどと言えなくなる。泣きごとを喚いて居残ったところで今度はグレディ家の毒牙にかかるのを待つだけだったが。
 拒否権なんて最初からなかった。生き延びたければ父の言う通りにするしか。どのみちもう、檻の中で安楽な悲哀を弄ぶ暮らしには戻れない。
「預かるだけだぞ。仲間とも客人とも思わない」
 ぶっきらぼうな低い声にイーグレットはびくりと震える。父の肩越しに丘を仰げば中年と思しき一人のロマが冷ややかにこちらを見ていた。
 嫌な雰囲気の男だ。うねった黒い髪の下で眼光だけがぎらついている。褐色の肌に纏うのは薄汚れたよれよれのコートとチュニック。頑健そうだが身体は細く、その日暮らしが見て取れた。
「さあ、後はジェレムについていけ。――生きて帰れよ、イーグレット」
 肩を押されて小さく頷く。せめて我が身を引き受けるのがジェレムではなく彼の父なら良かったのに。
 ロマがダイオニシアスの忠実な戦友だった時代はとうに過ぎ、今では悪い噂しか耳に入らなくなっていた。盗む、騙す、殴る、逃げるは彼らの日常茶飯事だ。独立戦争をともに戦った者でさえ「連中とはやっていけん」と匙を投げる。アクアレイアが貴族と海賊の婚姻によって築かれた特異な国であるのを思うとロマの偏屈さは際立った。
 ダイオニシアスを振り返りもせずジェレムは一行を出発させる。一頭だけの荷馬を引き、街道を行く後ろ姿に「王子様を守ってやろう」なんて気概は微塵も感じられなかった。彼はただ王の片腕だった亡父に免じ、嫌々ながら面倒事を引き受けたに過ぎないのだ。
 冷淡な態度に気は臆したが、これから面倒を見てもらう相手に礼を欠くのも気が咎める。「あの、ジェレム」とイーグレットは男に呼びかけた。しかしその応対は散々だった。
 仲間とも客人とも思わない。そう宣言した通り、ジェレムは頭から若い王子を相手にしなかった。十数人いた他のロマも同じくだ。挨拶しようと近づくも無視。実際に挨拶しても無視。困り果てているこちらを振り向いてクスクスと笑う。あまりの無礼さにイーグレットは閉口した。
 女たちは大人しかったが、一団の長たる男が冷たく当たる部外者に見向きもしない。この様子では身の安全どころか身の回りの世話すら考えてもらえそうになかった。
(ちょ、ちょっと待て。ロマとはここまで排他的なものなのか?)
 イーグレットは出発早々青ざめた。父からは謝礼だって出ているだろうに、足を止めたら置いていかれそうである。
 そもそもイーグレットは彼らがどこを目指して歩いているかすらまだ教えてもらっていなかった。どこで眠り、何を食べ、どんな風に生活するかも。ロマは街に定着せず、各地を回って見せ物と季節労働で食い繋ぐとは聞いた覚えがあるけれど。
(こ、これは……)
 歩き続ける一団の中でイーグレットは息を飲む。
 旅の最初の試練は会話できそうな相手を見つけることだった。ぼんやりしていたらロマに囲まれたまま飢えるか凍えるかして死にそうだ。喉は既に緊張でカラカラに乾いている。
(と、とにかく言葉は通じるのだ。話しかけてきっかけを掴まなければ)
 幸か不幸か目を合わせてもらえないのには慣れていた。その程度で折れる心ではない。ええいとイーグレットは小柄なロマの前へ出た。
「あの、すまない。飲み物を分けてもらえないかな?」
「……!」
 話しかけた相手は十歳前後の子供だった。あどけない顔の右半分を長い前髪で覆っている。少年は大きな黒い目を瞠り、イーグレットを見つめ返した。
 瞬間、何故か一団にどよめきが走る。イーグレットにはその意味がまったくわからなかった。ただ普通に声をかけただけのつもりだったから。

「あっはは! こりゃいいや。――カロ、お前そいつの面倒見てやりな!」

 冬明けの薄い空にジェレムの笑い声がこだまする。手を叩いて面白がる男にカロと呼ばれた少年はこくりと頷いた。
「…………」
「あ、ええと、どうもありがとう」
 礼を言い、スッと差し出された水筒を受け取る。わけのわからないままではあるが、ひとまず前進できたらしい。
(よ、良かった。ジェレムが付き人をくれる気になって。この先ずっとこんな調子だったらどうしようかと思った)
 イーグレットはほっと胸を撫で下ろす。子供とはいえ頼れる相手ができたのは嬉しかった。早く新しい生活に慣れたくて、早速カロに色々と尋ねる。――だが。
「私はイーグレットと言う。ええと、カロ? 君の年はいくつだい?」
「…………」
「……おや、聞こえなかったかな? ああ、私は先日十五になったばかりなのだが」
「…………」
「ええと……、それで君は何歳で……」
「…………」
 質問に対し、じっと見上げてくるだけの相手にイーグレットは早くもくじけそうだった。カロは真っ黒な左眼にこちらの姿を映すだけで眉一つ動かさない。
(これはもしや、白すぎて不気味な奴と思われているかな。それか喉に問題があって声を出せないとか?)
 イーグレットは半笑いのまま憶測を働かせた。事情があるなら周りの大人がそうと教えてくれればいいのに。ロマはやはり不親切だ。耳は普通に聞こえるようだし、最低限のやり取りはできるだろうが。
 イーグレットがこの会話にどう収拾をつけたものか弱っていると、ぼそりと少年が呟いた。
「……そんなことを聞いてどうする?」
 なんだ、喋れるではないか。単に人見知りしていただけか。
 そう思って再びカロに目を戻すと、そこには心底訝しげな顔があった。
「俺の年齢に何か意味があるのか?」
「え? と、特に意味などは……」
「水の他にまだ欲しいものがあったとか?」
「いや、別に私は君に催促しようとしたのではなくて」
「したのではなくて?」
 矢継ぎ早に問いかけられ、今度はイーグレットのほうが詰まる。新しい侍女や侍従が来たときはいつもこういった世間話で様子見していたのだけれど。
「…………」
 言葉に迷って黙り込んだイーグレットにカロはごく淡々と告げた。
「意味がないなら黙っていろ。荷物は口をきかないものだ」
「なっ……」
 あまりの言い草に絶句する。姿だけでなく頭の中まで真っ白になった。
 お前などただの荷物だと、今、そう言われたのか。

「あっはっは! そうだな、カロの言う通りだ!」

 げらげらとジェレムが腹を抱える。嘲りを隠すことさえしない男を見やり、イーグレットは父から聞いたロマという言葉の意味を思い出していた。
 ロマとは即ち「人間」だ。ロマとロマ以外を明確に区別する彼らにとって、ロマ以外の存在など「人間ではない」のだ。たとえそれが王族だろうと、亡父の親友の息子だろうと。
(……駄目だ。やめよう。彼らに期待をかけるのは)
 イーグレットは諦めて口を閉ざした。今後は黙って一行の後ろを歩くだけだと心に決める。
 とりあえず放り出さないでやることがジェレムには最大限の譲歩なのだろう。ならば無闇に立てつくべきではない。イーグレットを見捨てて行くのは彼には簡単なのだから。
(今までも大切にされてきたわけではないが、さすがの私も荷物扱いを受けるのは初めてだな……)
 強張る頬に乾いた笑みが浮かんで消える。
 ロマの第一印象はすこぶる悪かった。それでもカロに出会ったその日は最悪とまで感じていなかったのだが。
 心象が悪化したのは翌日だ。川沿いの街道に沿って北上していたロマたちは辿り着いた村で悪行三昧を働いたのだ。
 イーグレットは中まで同行しなかったので、耳に入った彼らの会話から推し量るしかできなかったが、詐欺と盗みの自慢合戦はとても品位ある人間のすることとは思えなかった。
「あっはっは! まったく馬鹿な連中だぜ。部品を抜かれてるとも知らないで、金物の修繕ありがとうございました、なんて頭下げて」
「馬の治療もだよ。ちょいとマッサージしたところで老いぼれは老いぼれなのに、ころっと騙されてくれるんだから」
「歌も占いもこっちはちっとも本気でやってないのになあ! 奴らにゃ本物を見抜く目や耳がないのさ!」
「ああ、本当に間抜けで哀れな連中だ!」
 人をこけにして笑い合う彼らの姿にうんざりする。これならまだ堂々と山賊を名乗って奪う強盗団のほうが潔い。
 ――五年もロマとやっていかねばならないのか。
 イーグレットは己の置かれた境遇に改めて気が塞いだ。
 とにかくもう月日が無事に過ぎるのを祈るしかない。イーグレットはフードに隠れてこっそりと、声には出さずに念じ続けた。どうか平穏な旅でありますように、平穏な旅でありますようにと。切なる願いはアンディーンどころか、天にも地にも届いていなかったけれど。




 ――三週間後、イーグレットは険しく長いつづら折りの峠道にいた。
 ぜえぜえ、はあはあと息が切れる。背中を濡らす汗の量も凄まじい。一団がアルタルーペを登ろうとしているのはなんとなく察していたが、まさか山越えがこれほどきついとは思わなかった。
「……ハア……、ハア……」
 杖代わりの枝に縋って無心で足を前に出す。右足で地面を蹴ったら次は左足、左足で地面を蹴ったら次は右足と、生まれたての小鹿のように。
 人通りが少ないためか山道は荒れていた。時折小石に躓いて坂を転がり落ちそうになる。
 まったく冗談ではなかった。白くぼこぼこした石灰岩が出っ張る以外、急斜面は短い草に覆われているだけなのだ。見晴らしの良さだけは認めるが、足を滑らせたら全身血まみれ必至である。
「ああ、ここらは広々してて風が澄んでるなあ」
「見ろよ。小さな花が咲いてる」
「うーん、やっぱり春はいいねえ」
 大人のロマたちはのんびりと風景を楽しむ余裕すら見せていた。体力のないイーグレットとは大違いだ。彼らが本気で先を急ぎ始めたら、自分などあっという間に取り残されるに違いない。
 ローペースの旅を好むジェレムに少しだけ感謝した。今だって「ロマっつうのは時間や土地に縛られないで生きるもんだ」と彼がしょっちゅう足を止めるのでなんとかついていけているのである。
(大丈夫、大丈夫、峠さえ越えれば登りは終わるんだ。大丈夫、大丈夫、皆とはぐれないようにさえ気をつけていれば……)
 そう自分に言い聞かせ、イーグレットはガクガクの足で歩き続けた。必死で保っていた平常心はごうごうと吼える急流を前に脆くも崩れ去ったけれど。

「…………」

 真っ青になり、イーグレットは立ち呆けた。
 山と山に挟まれて川が流れる場所のことを渓谷という。水は高い崖から滝となって滑り落ち、白い飛沫の膜を張りながら切り立つ岩壁に自らを叩きつけていた。その流れはいくらかまっすぐに伸びた後、また別の岩壁を抉って流れを変える。段々になって下流に伸びていく川はさながら水の大蛇だった。
 なお恐ろしいのは今まで歩いてきた道がこの急流を前に忽然と途切れている事実である。人の歩行が可能そうな岸は押し迫る崖に狭められ、ついには水に飲まれていた。
 対岸に目をやれば深く削れた岩場の奥に峠道の続きが見える。何度確かめても頭上の石橋は建設中であり、別の迂回ルートもなかった。
「よーし、どうどう、落ち着け、落ち着け。お前はいい馬だ。さあ、しっかり俺に続けよ」
 イーグレットには一切なんの説明もなくジェレムが愛馬の綱を引く。荷袋を背負った従順な家畜は暴れもせずに水に入った。
(うっ、うっ、嘘だろう……?)
 本当にここを渡るつもりか。信じられない思いでイーグレットはジェレムを見つめる。
 膝まで水に濡らしながら、しかし意外にしっかりとした足取りで彼は急流を渡り切った。一番手が道を示すと他のロマたちも下穿きを捲り始める。
「結構勢いあるぞ。バランス崩したら流されて戻ってこれねえな」
「春先は水嵩が増えるしね。姉さん、怖けりゃ僕と兄貴の間においでよ」
「ええ、ありがとう。そうさせてもらうわ」
 どうやら渡河しないという選択肢はないらしい。子供のカロまで靴を脱いで裸足になるのを見てイーグレットは覚悟を決めた。
 ついていかねば明日はないのだ。アクアレイア人ならアクアレイア人らしくアンディーンの加護を信じよう。今まで海で泳いだことすらないけれど。
(うう、渡る前から水辺に冷気が……)
 いつも列のしんがりでロマの視界に入らないようにするイーグレットはここでも最後尾だった。だが今日は山登りで足がくたびれ果てており、置き去りにされない自信がない。この一度だけは容赦してもらおうとカロに「先に行っていいかい?」と尋ねる。最後が自分でさえなければジェレムたちは全員水から上がるのを待ってくれるだろうと考えたのだ。
 少年は川面を見やり、無言で頷いた。何人かはもう向こう岸に到着済みだ。イーグレットも急がねばならなかった。
「うっ……」
 雪解け水の温度は低く、爪先を浸しただけでもう降参したくなる。たちまち全身に鳥肌が立った。
 足を掬おうとする流れも強い。その場に留まるだけならともかく、先へ進むのは困難を極めた。手にした棒を石の隙間に差し込んでバランスを取りながらイーグレットはのろのろと川底を歩く。
(うう、なんだってジェレムはこんな悪路を使うんだ。アルタルーペを越えるだけなら他にも峠はあるだろうに……)
 文句をつけても仕方ないが、文句をつける以外に恐怖心を紛らわせる方法はなかった。なるべく平らな、べったりと足裏をくっつけられる足場を選んで道の中ほどまで至る。
 ――と、そのとき、前方から馬のいななきが聞こえた。
「えっ」
 イーグレットは驚愕した。まだ急流に足を浸けている者がいるのに、早くもジェレムが岩場の道を歩き出したのだ。
 戸惑っている間に他のロマたちも濡れた足を拭いてさっさと行ってしまう。岸に上がる途中だった娘たちまでいなくなり、その場はイーグレットとカロが突っ立っているのみとなった。
(ちょ、ちょっと待て。私はとにかく子供の渡河を見守るくらい……)
 イーグレットは冷や汗を垂らした。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすというけれど、ロマにもそんな厳しい風習があるのだろうか。とんだ見込み違いだ。
(早く追いかけないとまずいぞ)
 息を飲み、慌てて進むペースを上げた。水はざぶざぶ荒い音を立てた。
 不慣れな水中歩行だったが一応自力で最後まで辿り着く。陸地に足を出すや、安堵で膝からへなへな崩れ落ちてしまったが。
「つ、疲れた…………」
 イーグレットは草の絨毯に身を投げ出した。カロを待つ短い時間に少しでも体力を回復させようとして。
 が、寝そべりながら渡ってきた急流に目を戻したとき、イーグレットは己の愚かさに気がついた。大切なことを一つすっかり失念していたのだ。
(あっ! そうだ、あの子まだ小さいんじゃないか!)
 自分のことに手いっぱいでそこまで気が回っていなかった。大の男が膝まで濡らす深さなのに、子供の背丈では太腿まで浸ってしまう。
 案の定カロはまだ川の真ん中を少し越えた辺りにいた。皆の通った道筋からも外れている。歩幅が違うから安定した岩に足をつけられなかったのかもしれない。
 イーグレットはきょろきょろ周囲を見回した。ロマを見つけたら「彼の手を引いてやってくれ」と頼むつもりだったのだが、側には誰の姿もない。手助けするなら自分が戻るしかなかった。
「おーい、平気かい? 一人でここまで来られるか?」
「…………」
 呼びかけるとカロはじろりとイーグレットを睨みつけた。これくらい一人で平気だと鋭い目線が返事する。どうやら彼は気遣いを揶揄と受け取ったらしい。
(しまった。余計なお世話だったか)
 善意だったのに上手く伝わらないものだ。小さく嘆息するとイーグレットは岩場に座り直した。一人で渡れると言うならこちらはゆっくり待たせてもらうだけである。
 カロは時折足を止め、肩を上下させながら一歩ずつ岸辺に近づいてきた。己以上に疲弊しきった顔を見ていると次第に憐憫の情が湧いてくる。一団の中には協力し合う者もいたのだから、誰か彼を運んでやれば良かったのに。
(それにしてもこんなに時間を食われて追いつけるのか……?)
 南中を過ぎた太陽を見てイーグレットは眉を寄せた。ジェレムのことだから真面目に足を進めてはいないだろうが、心配は心配だ。
 再び視線を向けたカロはまた少し下流に押されてしまっていた。岸までほんの数歩のところだが、彼には少々高すぎる岩を忌々しげに見上げている。
(うーん……)
 イーグレットは悩んだ末に立ち上がった。無口で意固地な子供の前に来ると、どこを這い上がるか決めかねていた彼にそっと杖の先を差し出す。
「……」
「す、凄まないでくれるかな。登ってくれると早く進めて助かるのだけど」
 また無駄口を叩くなと叱られるだろうか。びくびくしながら反応を待つ。
 カロはしばらく警戒心たっぷりにイーグレットと木の棒とを見比べていた。
「……いきなり離すなよ」
 少年は杖を掴む気になってくれたらしい。釘を刺されてイーグレットは傷心した。いきなり離すだなんて、自分はそんな酷いことをする人間に見えるのか。
「よい、しょっ、と!」
 引っ張り上げた身体は軽かった。こんな子供があの急流を渡ってきたのかと驚くほど。
 消耗しきって彼もその場にへたり込む。借りたくもない手を借りねばならぬほど疲れ果てていたようだ。すぐに山道を歩かせないほうが良さそうだった。
(ああ、まだ旅を始めて一ヶ月も経っていないのに、先が思いやられる……)
 と、そこに馬のぐずる鳴き声が響いた。ひょっとしてジェレムが引き返してきてくれたのかと声のしたほうを見やる。
 だがそれはイーグレットの買い被りだった。少し離れた岸にいたのは三頭の馬を伴った三人の商人だった。
「ああ、駄目だなあ、すっかり怯えちまってる。川を渡らせるのは無理かねえ。こいつもだいぶ年だしねえ」
「どうする? 峠村に戻って売り払うか?」
「二束三文で買い叩かれちまいそうだがなあ」
 男たちは一頭の年寄り馬に困らされている様子だった。荷物を全部降ろしても、撫でて擦ってなだめても、頑なに動かない駄馬に落胆しきっている。
(す、すごい。こんな悪路をあんな大荷物で!? 商人というのはどこへでも行く生き物だと聞くが、逞しい人たちだなあ)
 岩陰に隠れて彼らを覗き見しつつ、イーグレットは感心した。もしかすると目的地がアクアレイアかもしれないので迂闊には近づけなかったが。
(どこからどう伝わってグレディ家に私の居場所が漏れるかわからないしな。見咎められぬように気をつけねば……)

「その馬いらないのか? だったら俺に売ってくれ」

 不意に耳に入った声にイーグレットはぶっと吹き出しかけた。隣に目をやるとカロがいない。今の今まで息切れしていたはずの子供はいつの間にか馬主に交渉を持ちかけていた。
(な、何をしているんだあの子は!?)
 イーグレットはぴくぴく頬を引きつらせる。
 いや、馬を買おうとしているのはわかるが、一体どうしてこんな急に。
「なんだ坊主。ガキがそんな金持ってるってのかい?」
 商人は見くびった態度で彼に接した。他の二人も忽然と現れたロマに対し、胡散臭そうな目を向ける。
「金はない。これと交換してほしい」
 カロの懐から取り出されたものを見てイーグレットは「は?」と瞠目した。きらりと輝く純銀製のチェーンカフス。落として失くしたと思っていたそれが小さな手に握られていたのだ。
「おっ? なんだなんだ? いいもの持ってるじゃないか! いいとも、交換しよう!」
 馬主は大いに喜んだが彼の仲間は「盗品じゃないか?」「どうせ偽物だって」と忠告した。ロマの不道徳に愕然としつつ、イーグレットは心の中で「おい、私の持ち物だぞ!」と叫ぶ。
 けれど取り返しに出ていくことはできなかった。まんまと目当ての馬を手に入れて、悪びれもせず岩陰に戻ってきた子供に尋問することくらいしか。
「カ、カロ……? 今のチェーンカフスは……?」
「二、三日前に拾った。馬に化けるとは思わなかったな」
「ひ……拾ったのか。そうか……。なら落とした者に非があるな……」
 ぶるぶる震える拳を後ろに引っ込めてイーグレットはなんとか平静を装った。そんな努力を知りもせず、「自分の馬を持てたらロマとして一人前だ」とカロは嬉しげだ。いつになく饒舌で、「荷物が口をきくな」と言ったことなどすっかり忘れた様子である。
「こいつを元値より高く売れればもっといい。ジェレムたちにも大した奴だと認めてもらえる。身綺麗にして、金のありそうな家に連れて行こう」
 どうやらロマの世界では馬の売買で生計を立てる男が尊敬を受けるらしい。全員ろくでなしに見えるこちらとしては重きを置くポイントがずれている気がしてならないが。
(……はあ、まあいいか。珍しく人と会話になっているし)
 馬のおかげでジェレムたちには割合すぐに追いつけた。一団は一夜の安寧を提供する峠の宿場村で歌と踊りを披露しているところだった。




 人里に滞在中は村外れの木立がイーグレットの待機場所になる。遠く響いていた楽の音が途切れた夕刻、そろそろカロが食べ物を持ってきてくれる頃かなとイーグレットは腰かけた枝の下を覗いた。
 今日は歩き疲れてへとへとだ。なるべく早く食事を済ませて眠りたい。日没を過ぎれば人目もなくなるだろうし、その辺の適当な小屋に潜り込ませてもらおう。
(王族なのに何をやっているんだろうな……)
 ふと我に返りそうになってイーグレットはかぶりを振った。
 深く考えてはいけない。いつかきっと「そんな日もあった」と笑えるはずだ。
(人家に近いほどコソコソしなくてはならないから泥棒じみた気分になるのだ。あばら家に寝泊まりしても何か盗むわけではないし、堂々としていればいい)
 冷静に今の自分を分析する。あの無法者たちと行動をともにしていることも罪悪感の一因である気がした。
 何人目かの家庭教師が言っていた。良き人間を作るのは良き友人だと。ロマとは仲間ではないけれど、一緒にいる間に彼らの習慣に染まってしまわぬように気をつけなければ。

「おい、食い物だ」

 と、足元に待っていた子供が現れた。いつも露ほどの愛想もないのに今日の彼は少しだけ声が高い。肩の荷袋も普段の倍は膨らんでいるし、例の馬がいい値で売れたのだなと知れた。
 身軽な仕草で隣まで登ってくるとカロは手早く晩餐会の支度を始める。荷袋からは予想以上に多くの手土産が取り出された。
「チーズ、燻製肉、ヤギの乳、薄くない葡萄酒、それから……」
「随分収穫があったのだね? もしかして稼いだ金を全部使ったのか?」
「全部じゃない。使いきれないくらい儲けたからな」
「えっ!? 使いきれないくらい!?」
 驚きで声が裏返る。何か変だぞと直感が告げた。
 あの商人たちは二束三文で買い叩かれるかもと案じていたのだ。この豪勢な食料分よりも値段を吊り上げられたとは考えにくかった。
 疑惑の視線に気づいたカロが首を傾げる。彼にはイーグレットの反応が意外らしかった。
「ええと……参考までに聞きたいのだが、どんな売り方をしたのだね?」
「……全身を櫛で梳かしてつやつやにした。たてがみと尻尾は特に入念にな。後は筋肉がよく動くようにマッサージして、仕上げに針で若返らせた」
「は、針?」
「ああ、首の付け根に長針を打つと背筋や足がシャンとするんだ。それで勝手に駿馬だと勘違いしてくれるのさ」
「……ッ!」
 やはり詐欺ではないか。イーグレットはがっくりと肩を落とした。そんな話を聞いた後ではとても夕食を味わう気になれない。
「どうした? 食わないのか?」
 もぐもぐと燻製肉を頬張るカロは一見なんの罪もなさそうだ。悪に手を染めながら悪気なくいられるというのはどういう神経なのだろう。
 イーグレットには理解しがたい。この世には生きているだけで後ろめたさを感じねばならない人間も存在するのに。
「……他人を騙して少しも悪いと思わないのか?」
 問いかけにカロは首を振った。そのまま食事を続行し、いけしゃあしゃあと断言する。
「騙されるほうが馬鹿なんだ」
 その物言いについカッとなった。気がつけばイーグレットは声を荒げて噛みついていた。
「何を言うんだ! 騙したほうはもっと――」
「初めに俺たちにそう言ったのはパトリア人だぞ? 五十年くらい前か。いい働き口があると偽ってロマを鉱山の深い穴に繋いだ。男も女も奴隷にされて、たくさん死んだ」
 思わぬ返事に息を詰める。
 黙り込んだイーグレットを一瞥し、カロは淡々と続けた。
「あいつらだって俺たちを人間扱いしないのに、どうして俺たちだけあいつらを人間扱いしなきゃならない? 人でないものから何を奪おうと獣を狩るのと同じだ。あいつらもそうする。俺たちもそうする。だから騙されたほうが馬鹿だ」
 大きな口がチーズにかぶりつく。生地の伸びを堪能する少年はイーグレットの憤りなどどうでも良さそうだった。
 釈然としない気持ちで「でも」と食い下がる。確かにロマが村に入ると人々はあまりいい顔をしないけれど。場合によっては近辺で休むことも認めないと追い立ててくるけれど。
「君が馬を買わせた人とロマを騙したパトリア人は別人じゃないか」
 敵意を向けるべき相手ではないと訴えるもカロは素っ気ない。「そうだな」と冷たい相槌を打ってすぐ食べ物に関心を戻してしまう。
「だったらどうして……」
「あいつらは俺たちをひと括りにしか見ていない。一人のロマにされたことは他の全てのロマにもされると信じている。だからこっちもそうだというだけだ。あいつらの誰かにやられたことは、あいつらの誰かにやり返す」
「…………」
 イーグレットは押し黙った。おかしいと思うのに上手く反論を組み立てられない。
 頭の隅をよぎったのは西パトリアの法をまとめた分厚い書物だ。国や都市にもよるけれど、大抵の地域でまかり通っている悪しき慣習が載っている。
 ――ロマが殺せば罪になるが、ロマを殺しても罪にはならない。
 昔から彼らはそういう扱いを受けているのだ。身を守ろうと攻撃的になるのは必然である。
「妙な奴だな。アクアレイア人をカモにしたわけでもないのに」
 カロはどこまでも不思議そうだった。アクアレイア人のイーグレットが同胞を庇うならともかく、どうして関わりのない村の人間を庇うのか理解不能だと顔に書いてある。
 父はどうやってこんなロマたちと戦友にまでなれたのだろう。話しているとあまりの遠さに胃が冷たくなってくる。
「だって……」
 イーグレットは呟いた。
 彼ら特有の黒い肌。深く交わらせぬ放浪生活。ロマを画一的に見せてしまう要素は多い。皮膚の色が薄汚いと理不尽に嫌われているのも知っている。「黒い」というただそれだけで、酷く悪いことのように。――でも、それでも。
「馬を買ったその人は、君を信用してくれたのだろう?」
 その瞬間、バサバサと鳥の羽音がこだました。同時に茂みを駆け抜ける複数の足音も。
 ハッと顔を見合わせてイーグレットとカロはしばし耳を澄ませた。
 木立の向こうに響く怒号。誰かが呼び合う叫び声。村で何か起きたらしい。
「……様子が変だな。ジェレムたちを見てくる」
「あっ」
 止める間もなく少年は枝を飛び降りた。それがいけなかった。

「オイ、いたぞ! 使えねえ馬を売りつけたガキだ!」

 血相を変えた村人たちに取り囲まれ、カロはあっさり連れていかれた。咄嗟のことにすくんでしまい、イーグレットが声も上げられずにいるうちに。
 取り残された林には黄昏が押し寄せてくる。樹木の影は濃さを増し、宵闇の一部に変わり始めていた。
(ジェ、ジェレムを探さないと)
 山の日暮れは急速だ。ぼやぼやしていたら何も見えなくなってしまう。
 何かに背中を押されるようにイーグレットは走り出していた。早く、早くと焦燥が募る。
 ロマがまともな民事裁判にかけてもらえるわけがない。このままではペテンにどんな罪状が追加されるか。

「……ッ!」

 だが悲しいかな、厩舎裏に拵えられた一団のねぐらは空っぽだった。大慌てで出発したのが見て取れる散らかり方で、付近には誰の気配もない。
 あの川越えを待たなかったくらいなのだ。ジェレムが引き返してくる望みは薄かった。
(ど……どうしよう)
 途方に暮れて立ち尽くす。カロの自業自得ではあるが、放っておいてもいいとはとても思えなかった。ロマの所業を自業自得と割りきっていいのかも。
「他のロマは逃げちまったか」
「まあガキはとっ捕まえたからな。ふんじばって倉にぶちこんだみてえだし、俺たちも行こうぜ」
 間近で響いた話し声に身を伏せる。暗がりに潜んでイーグレットは村人たちの後をつけた。いつの間にやら空はすっかり紺碧に染まっている。
 しばらく行くと何棟か並んだ穀倉の前に男たちが集まっているのが見えた。篝火の焚かれているのがカロの放り込まれた倉庫だろうか。中で袋叩きの目に遭っているのではと気が気でなかった。
 が、それにしてはなんだか妙な雰囲気だ。人々は青くなって「どうする?」「俺が知るかよ」と囁き合っている。新しく輪に加わった男がロマの子供について尋ねても、皆一様に顔を背けて積極的に答えようとしなかった。業を煮やした若者が「あのガキがなんだってんだ!?」と倉に入る。そしてまた額を真っ青にして表へ出てくるのであった。
(……? な、なんだ……?)
 状況がさっぱり読めずにイーグレットは顔をしかめた。とりあえず酷い目に遭わされていないならいいのだが。
「……朝になったら人買いを呼んで売ろう。あの強欲なら大喜びで引き取ってくれるじゃろう」
 村の長らしい老人が難しい顔で告げる。男たちは一も二もなく頷いた。
 焦ったのはイーグレットだ。人買いに売るなんて奴隷コースまっしぐらではないか。法的に見て悪いのはカロだが、申し開きの場すら与えられないなんてあんまりだ。
「見張りはどうする?」
「俺は無理だぞ。病気の母ちゃんについててやらないと」
「お、俺もちょっと。最近夜中に羊が逃げ出そうとするんでね」
「あ、わ、私も少々風邪気味で……」
「ぼ、僕も! ゴホゴホ!」
「じゃ、じゃあ俺も……」
「なんだなんだ、皆してよぉ!」
 男衆は何故か自分が見張り役になるのを嫌がって押しつけ合う。結局その場に残されたのは断りきれなかった貧弱そうな青年と、強がって引っ込みのつかなくなった年若い巨漢だけだった。他の村人たちはそそくさと家路に着く。
 茂みで息を殺していたイーグレットの横を通りすぎるとき、誰かが震え声で言った。
「悪霊の仕業だ……。やっぱり橋の工事で死んだ連中が俺たちを恨んでるんだ……」




 宿場村に静寂が満ちるのは早かった。闇を恐れて人々はさっさと寝床に避難したらしく、不安げな不寝番がぼそぼそ何か話す以外は風の音と禽獣の鳴き声しか聞こえない。
 イーグレットがどうしようと悩んでいる間に夜は随分と更けていた。朝日が昇ればカロはもっと遠いところへ連れ去られるのだ。このまま黙って見ているわけにはいかなかった。
 あの子がいなくなるのは困る。イーグレットを空気同然に見ているロマたちの中で、彼という付き人なしではやっていけない。ジェレムが二人目を選んでくれるとは考えにくいし、己のためにも絶対にカロを助け出さねば。
(……気は乗らないが、こういう方法しかないな……)
 イーグレットは意を決し、くるぶしまである長いケープのフードを下ろして立ち上がった。わざと大きな足音を立て、潜んでいた茂みから別の木陰に身を移す。完全に姿を隠すと見張りの様子をそっと窺った。
「……おい、テメエ、ちょっとあの木立を見てこい」
「ヒェッ!? ななな、なんで? 何かいた?」
「なんか今……白いものが見えたような……」
「ヒェェェッ!?」
 期待通り――というのも悲しいが、二人の不寝番は恐怖に唾を飲み込んだ。
 今度はフードを深く被り、足音を忍ばせて移動する。真っ黒なケープと闇夜のおかげでイーグレットが彼らの目に留まることはなかった。
 さっきとは反対側の倉庫に張りつくと、拾った小石を道に投げる。こちらの気配に気づいた二人が振り向くタイミングでさっとフードを下ろし、突然生首が出現したかに見せかけた。
「はぁッ!?」
 演出は派手なほうが良かろう。上半身をぐるりと回し、硬直しきった見張りたちと目を合わせる。もし向かってこられたらどうするか、策など何も考えていなかったが、幸い彼らに亡霊と戦う勇気はなかったようだ。
「う、うわああああ! お、お、お化けーッ!」
「あっ! て、テメエ! 俺を置いて行くなよおぉぉ!」
 一人目が素っ飛んで逃げ出すや否や、残された巨漢も脱兎に早変わりする。二人が村の衆を叩き起こして戻ってくる前にイーグレットは急いで倉庫の閂を抜いた。
「カロ! 大丈夫か?」
 横たわる少年に駆け寄るとナイフで腕の縄を切る。外傷らしい外傷はなく、彼はただ縛られていただけだった。これなら支えて逃げる必要はなさそうだ。
「う……っ」
「走れるね? さあ行こう!」
 説明などする暇もなく、腕を引いて助け起こす。時折足をもつれさせながらカロはなんとかイーグレットについて走った。
 初めて訪れた宿場村だが坂のおかげで方向はわかる。とにかく登りだ。ロマ一行は山脈を越えようとしていたのだから、登ればなんとかなるはずだ。
 早く、早く。村人たちが勘付く前にできるだけ遠くへ逃げなくては――。

「はあ……っ、はあ……っ、い、一生分は走ったな…………っ」

 漆黒の夜を駆け抜けて、イーグレットがようやく足を投げ出せたのは下方にちらつく松明がこちらを目指して動いていないとはっきりわかったときだった。
 どっと疲れて荒い息継ぎを繰り返す。心臓は全力疾走をする前からドキドキしっ放しだった。
 このまま彼らが亡霊の追跡を諦めてくれればいい。詫び代としてもう片方のチェーンカフスを置いてきたのだ。どうか見逃してくれと願う。
「……お前一人で俺を助けに?」
 暁の薄闇が曙の光に染まり始めた空の下、やっとカロにも周囲を見渡す余裕ができたらしい。仲間が誰もいないのに気づいた少年が尋ねた。イーグレットは精根尽き果てて倒れていたため、彼がそのときどんな顔をしていたか少しも見ていなかったけれど。
「ああ、私しかいなかったからね。……まあとにかく、君が無事でいてくれて良かったよ」
 今ならきっと想像は容易い。カロは戸惑い、そして少なからず恩義を感じてくれたのだ。
 馬の扱いに長けた者より、「ロマ以外」を騙して多く奪った者より、友のために危険を顧みず戦う者をロマは最も尊敬するのだから。




 ******




「――それが仲良くなった最初のきっかけだったな。一度懐を開いてくれると接し方が全然違うんだ。おかげで毎日楽しかったよ」
「へえー、あいつもそんなイカサマ商売してた時代があったんすねえ」
「まあ今も私の目の届かないところではやっていると思うがね」
「エッ!? と、止めないんすか?」
「止めるなら彼らを取り巻く環境を整えてからでないと。我々とて突然ロマに『お前たちの定住生活は悪だ。家と財産を捨てて放浪しろ』なんて言われたら困るだろう」
「はあ……。あーでも確かにそういうもんかも。船乗りと農民でもわかり合えないときありますもんねー」
「うむ。なかなか難しいね。物事の善悪は暮らし方によって異なるし、価値観を押しつけたところで反発を招くだけだし」
 ふんふん頷く槍兵に答えつつ、イーグレットは廃屋の外を見やった。同じく剣士が太陽に一瞥をくれて「そろそろ戻りますか?」と尋ねる。
 二人が真面目に聞いてくれるものだから、つい長々と話し込んでしまった。急いで要塞に戻らなければ彼らの朝食が冷めきってしまう。
「ありがとうございます。貴重な思い出を分けてくださって」
 頭を下げたブルーノにイーグレットのほうが恐縮した。顔色を窺わずに話ができるだけでこちらが礼を言わねばならないくらいなのに。
 下り坂の帰り道は柔らかな日差しと風が心地良かった。丘を下るとまた街に出る。朝の網引きはひと段落したようで、石畳の通りにはちらほらと住人たちが戻っていた。
「あーっ!? レイモンド!? レイモンドだ!?」
 その中の一人が槍兵を指差しながら駆け寄ってくる。だが通りがかりの青年はイーグレットの姿を目にするや、狼狽のあまり固まってしまった。
「あっ、えっ、えっ、も、もしかして……」
「おお、久しぶり! 元気してたか? こっちは今イーグレット陛下の護衛で海軍基地に来てんだよ!」
「へ、へ、陛下の。そ、そうか。あ、いや、どうも……」
 引き笑いを浮かべて青年は後ずさりしていく。レイモンドに「待っていようか?」と聞くと真っ青な島民のほうが「いえいえ! お気遣いなく!」と固辞を示した。
「レレ、レイモンド! 任務中じゃ悪いし、その、またな! あっ、ていうか後から皆で砦に顔出すよ!」
「おー! そんじゃ待ってるわ!」
 気さくな槍兵とは対照的にコリフォの若者は怯え気味だ。同じアクアレイアの民とはいえ、この島の住人はイーグレットの白さに不慣れなためか忌避する態度が露骨だった。
 極力気にしないふりをしたが、チラチラ何度も振り返られるのが気まずい。双眸は「あんな奇妙な人間がいるのか」と語っていた。
(こういう反応も久々だな)
 ふう、と密かに嘆息する。要塞に引き返しながら、イーグレットはブルーノたちに聞かせた昔話の続きに思い馳せた。

 ――お前一人で俺を助けに?

 そう尋ねられた後、イーグレットは気になって「こういうことはよくあるのかい?」と尋ねたのだ。ロマが追われて逃げるとき、遅れた仲間を置いていくのは普通なのかと。
 カロは答えた。「一団の中の誰か一人が生き残ればいいという時代があった。異常を察したらまずはその場を離れるのが先決だ」と。
 なんて厳しい世界なのだろう。聞いていて薄ら寒くなったのを覚えている。子供さえ誰にも守ってもらえないなんて。
 それでもまだ疑問は残った。せめて両親にくらい気にかけてもらえないものなのかと。
 イーグレットとてあの寒々しい王宮で、父と母の愛情だけは感じて育った。二人とも親である以前に王であり、王妃ではあったが。

 ――母はいない。

 感情を押し殺した呟きを思い出す。カロの母親が彼を産んだために自殺したと知ったのはもっと後になってからの話だ。そのときは、彼の父親がジェレムだという事実のほうに目玉を剥いた。二人の親子らしい関わりをイーグレットは見た覚えがなかったから。
「本当に?」と眉をしかめて起き上がり、今度こそ声を失くした。汗で乱れた前髪の下の光る右眼と目が合って。
 左は夜を、右は星を閉じ込めた瞳だった。綺麗だと呟くこともできないほどに、美しく輝く。
 イーグレットは息を飲んだ。そんなところに黄金を宿す人間は、他には誰も知らなかった。
 けれどカロは、己に嵌め込まれた宝石を恥ずべきものと考えていたようだ。さっと片目を隠してしまうと顔を背けて縮こまった。

 ――お前もこんな目はロマらしくないと思うか。

 怯えて震えたそのひと言で、たちまち全て理解してしまう。
 何故ジェレムたちがカロを助けに戻らないのか。
 何故イーグレットがカロに押しつけられたのか。
 何故カロが、この寡黙な子供が、荷物は口をきかないなどと言ったのか。
 白皮が普通の人間と見なされないのと同じことが、ロマの間でも起きていたのだ。
 イーグレットは正直に、慎重に、彼に答える言葉を選んだ。「ロマではない私にはロマのことはわからないよ」と言ったとき、彼の漏らした安堵の息に奇妙なシンパシーを覚えた。
 ああ、この少年は、あれほど強固に結びつき、他者を排除するロマたちの中でさえ孤立せざるを得ないのだ。

 ――君が無事で良かったと思っている。君のその目を見た今も。

 告げた言葉は、自分がいつも欲しがっていた言葉だった。
 あの日から一人ではなくなった。
 翌日にはジェレムたちに追いついて、荷物扱いの生活に逆戻りしたけれど、カロの向けてくる眼差しは冷たいものには戻らなかった。
(懐かしいな。いい拾い物をするとこっそり見せてくれるようになって、少しずつ話す機会も増えて……)
 ロマは生涯旅を続ける。イーグレットの旅は五年で終わったが、カロはまだあのときの道の続きにいる。それが少しだけ羨ましい。




 ******




 ああ、この馬ももう駄目か。随分疲れさせてしまった。どこかで新しいのに乗り換えて、早くコリフォ島へ急がなければ。
「……確かこの湖の先に村があったな。そこで調達するか」
「あっ、カロ! ちょ、ちょっと待ってちょうだい!」
 少し遅れて海沿いの街道を曲がるアイリーンを確認し、カロはそのまま速度を維持する。不器用な女だが生き物は得意で助かった。彼女は彼女でなんとか馬を乗りこなし、とりあえずはぐれずにいてくれる。
 今は気を回してやる余裕がなかった。友人の無事をこの目で確かめるまでは。
(イーグレット――)
 嫌な緊張に眉をしかめる。
 駄馬に刺した長針が見つかって、子供だった自分が捕らわれてしまったとき、彼もこんな胸の潰れる思いをしたのだろうか。あの頃はまだ互いをよく知らずにいたけれど。
 無事で良かったと言われた瞬間、心に湧いた感情が何かわからなかった。
 初めて耳にした言葉ではない。だが己には向けられたことのなかった優しい響きをもう一度聞きたくて、用もないのに彼の側をうろついた。
 知らなかったのだ。自分がどんなに寂しくて、情けなくて、誰かの温もりが欲しくて堪らなかったこと。
 普通のロマなら同じロマから貰うものを、カロはイーグレットに与えられた。
(迎えにいくから待っていろ。また俺と旅に出よう)
 嫌がられても構うものか。少し歩けばどうせすぐに思い出す。季節の花も、夕暮れの色も、歌って過ごす楽しさも。
(自由になるべきなんだ、お前は)
 冠が、王国が、一体お前に何をくれた。
 そんなものはもう大切にしなくていい。




 ******




 慎ましい朝食を終え、空いた食器を下げにきたルディアは厨房で皿洗い中のジャクリーンに出くわした。汚れ物を片付ける侍女は凄まじい形相だ。ぎょっとしたこちらの視線に気がつくと「あら、ブルーノ様」と彼女は不機嫌の滲む声を響かせた。
 聞けばトレヴァーに軍の手伝いを命じられたらしい。場にそぐわないドレス姿で彼女はぶつくさ文句を垂れる。
「まったく姫様がこんな労働をなさるはずないのに……! 憎らしい根性悪の陰謀ですわ! 私の演技を台無しにしようとして! いつからお父様はあんな強情っぱりになったのかしら!?」
 昨日の抱擁の熱さはどこへやら、今日は長年の宿敵のごとき口ぶりだ。怒るジャクリーンの目元には濃い隈が浮いていて、夜通し言い争ったのだなと推測できた。
「心配してくれているんだろう。任せた私が言うのもなんだが危ない役どころだからな」
「存じております! だからこそ私は役目を全うしたいのに!」
 割れんばかりに皿を掴んで意外に激しい気性の娘が歯軋りする。その様子に苦笑しつつ、ルディアは首を横に振った。
「私もお前がここまで来てくれただけでありがたいと思っているよ。陛下とて止めはしまい。時機を見てアクアレイアに帰るといい」
 王女病没の筋書きなら考えてあると告げるとジャクリーンは可憐な薄桃色の唇を尖らせる。決意を語っても無駄な相手だと諦めたのかもしれない。侍女は初めこそ言い返そうとする素振りを見せたが、結局何も口にしないまま話題を変えた。
「……はあ。ブルーノ様ってとても平民階級に思えませんわよね。私、これでも色々な殿方を見てきたつもりですけれど、ブルーノ様ほど凛々しい方は他に存じ上げませんわ」
 思わぬ称賛にルディアはぱちくり瞬きする。王侯貴族に等しい気品を感じるなどと言われて少々リアクションに困った。この身体に入ってからはがさつになったと思っているくらいなのだが。
「まあアクアレイアでは王家以外、血筋はさほど重要でないしな」
「ええ、確かにそうなのですが」
 あの国で貴族と平民とを分けるのは納税額のみである。政治か軍事に携わることが貴族の絶対条件で、その双方が巨額の支出を前提とする仕事である以上、家業が儲かっているかどうかが基準になるのは当然だった。
 逆に言えば商売で成功を収めれば誰でも偉くなれるのである。品があるとかないとかは全て個人の資質に拠っている。
「こんなことを言い出しておかしな女とお思いになるかもしれませんが、私、宮仕えになる前は姫様ってブルーノ様のような方だと思っておりましたの」
 ジャクリーンは更に予想外の発言をしてみせた。彼女はグレディ家と繋がりが薄く、以前のルディアとも接点がなかったので選んだ侍女だ。王女の中身に違和感を持たれる可能性は低いと見ていたのに。
「それはまたどうして?」
 狼狽を隠して問うと彼女は「うんと昔に、姫様と遊ばせていただいたことがあるんです」と答える。
 ルディアのほうにそんな覚えは全くなかった。記憶にないのも納得だったが。
「まだ姫様が五つになられる前でしたわ。私も小さかったので、断片的に思い出せるだけなのですけど」
 ――本物の「ルディア」の話だ。
 即座に悟り、しばらく何も声にできず、ルディアはただ瞠目した。
 回想に浸るジャクリーンは青い双眸を伏せ、こちらの動揺に気づかないまま話し続ける。
「一ツ目の巨人退治の英雄ごっこをしたんです。姫様ったら剣を振るうほうがいいと仰って。そんなイメージが残っていたから、いざお付きの侍女になって驚きましたの。庇護欲をそそるというか、なんというか、とにかく愛らしい方でしょう? 小動物のように震えるお姿を見ていると女の私までナイトの気分になるというか。ああ、お守りしてさしあげなければと奮い立たされるというか……」
 侍女は頬を上気させ、興奮に身をくねらせた。なんだか工学を語るバジルとテンションが似ている。相当ブルーノに入れ込んでいる様子だ。
「私、親も呆れるくらいあの方に憧れていたんです。昔からいつも姫様の真似ばかりしておりましたわ。リボンの色も、ドレスの型も、お化粧のやり方も。この髪だって姫様と同じ色にしたくて頑張って日に晒したんですのよ」
 ジャクリーンは水色の髪の房を持ち上げた。苦笑いして「前にも聞いたぞ」と指摘すると「何度でも言いたいのです」と微笑み返す。
 その声が不意に途切れ、不自然な沈黙が流れた。
「……でも私、夜会ではあの方を遠巻きに見ていることしかできませんでした。怖かったんだと思います。姫様が重い病気に罹られたのは私の屋敷からお帰りになったすぐ後のことで、私、もしかしたら知らない間に自分が無理をさせたのかもとずっと申し訳がなくて……」
 うつむいたジャクリーンの喉には針でも刺さっているみたいだった。
 突然の懺悔にルディアは困惑する。宮廷人の悪い癖で「ひょっとしてそこで毒を盛られたのか?」と疑ったが、すぐにそうではないと気づいた。
 脳蟲は器を選ぶ。毒殺であればおそらく遺体に入りこめなかったろう。病によって頭をやられただけだったからアイリーンの秘薬が効いたのだ。
「私が関わったらまた姫様に悪いことが起きるのではと不安でした。でも直々に側付きの侍女になってほしいと頼まれたとき、そんな弱気とはお別れしたのです! どんなことがあろうとも、これからは私が姫様をお助けするのだと。不埒な輩が襲ってきても、暴れ熊が襲ってきても!」
 慰めるまでもなく侍女は自力で浮上した。キッと唇を引き結び、まっすぐな瞳を燃やして「やはりお父様には私の覚悟をしっかり理解していただかないと!」とドレスの裾を翻す。
「私ちょっと行ってまいりますわ! ごきげんよう、ブルーノ様!」
 ぺこりと会釈するが早くジャクリーンは厨房を駆け去った。小さな嵐が通り過ぎるとその場はしいんと静まり返る。
「ええと……」
 皿はこの辺に置いておけばいいのだろうか。ルディアは空いた調理台に盆を下ろした。洗い方など知るはずないので手は出さないでおく。
(……そうか。ジャクリーンは『ルディア』と面識があったのか……)
 複雑な気分でルディアも厨房を後にした。
 本物の父と娘はどんな父と娘だったのだろう。カロの話は聞かせてくれたが、亡き妻や昔の娘について父は話したがらない。唯一無二の伴侶といってもあのグレースの娘だし、温かな思い出などありそうもないけれど。
(『ルディア』のことはどう思っていたんだろうな)
 記憶を失くした娘にもあの人は優しく、愛情深かった。無関心だったわけがない。
(私と『ルディア』に重なるところはあるのだろうか)
 ――姫様ってブルーノ様のような方だと思っておりましたの。
 ジャクリーンの言葉が耳に甦る。
 胸中には「だとしたら救われる」という思いとは別に、恐れおののく気持ちもあった。どう処理すべきかわからない感情をルディアは思考の奥へ追いやる。
 本物を甦らせることは誰にもできない。それより今は王の護衛に戻らなくては。
 客室に引き返す足を速めてルディアは螺旋階段を上った。レイモンドを信用しないわけではないが、一人で父の相手をさせるには不安だ。あの男はモモやアルフレッドと違って馴れ馴れしいし、遠慮というものを知らない。天真爛漫で嫌われるタイプではないけれど。

「――ん?」

 と、続き部屋の前に誰か来ていることに気づいてルディアは眉をしかめた。応対しているのは当たり前だがレイモンドだ。小走りに近づくと槍兵が「おお、お帰り」と手を上げる。
「何かあったのか?」
「いや、さっき道端で出くわした奴がいただろ? 何人か連れて俺に会わせてほしいって来てるらしくて」
 なるほど、この海軍兵士はそれを知らせに来てくれたのか。ルディアはちらと生真面目そうな青年を見やった。
「軍規での面会時間は十五分ほどになります。来訪者が一般人のため、敷地内にお入れできずにすみません」
「いや、こちらこそ余計な手間をかけさせて申し訳なかった」
「ちょっと行ってきていいか? なるべく早く戻るから」
 尋ねながらもう足踏みを始めているレイモンドに嘆息する。
 まあいい。この男の人脈がたびたび有効に機能しているのは事実だ。ここは快く行かせてやろう。
「遅くなるなよ」
「わーってるって!」
 ひらひら手を振ると槍兵は軽い足取りで階下に消えていった。改めて連絡役の兵士に礼を述べ、姿勢を正して見送りに立つ。だが何故か青年はルディアの前を去らなかった。
「……まだ何か?」
 眼光鋭く問えば男は苦渋の表情を見せる。「無礼は承知の上なのですが……」と彼が懐から取り出したのは一通の手紙だった。
「イーグレット陛下への要望書です。皆で大佐に直談判もしたのですが、取り合ってもらえなくて。……我々の気持ちを汲んでいただけるとありがたいと、そうお伝え願えますか」
「…………」
 無言で要望書とやらを受け取ると、返事も聞かずに男は立ち去った。渡してもらえずとも仕方ないという態度におおよそ文書の内容は知れる。
 ルディアは静かに部屋に入り、更に静かに扉を閉めた。先に読んでしまおうと封を開きかけたところで「私宛ではないのかね?」と声をかけられる。
「……ッ! へ、陛下! いえ、その、世の中には毒を染み込ませた便箋などもありますので、て、点検をしてからと」
「うんうん、疑っているのではないよ。私にも読ませてくれるならそれでいいのだ」
 どうやらイーグレットはルディアが気を回して手紙を握り潰すのではないかと案じたらしい。まさかそのつもりでしたとも言えず、結局二人で要望書に目を通すことになる。
 書かれていたのは大体予想通りのことだった。
 王国政府に勝手に王家の幽閉先を決められて困っている。王都で暮らす家族が心配なので帰りたい。だがコリフォ島に留まる者だけではとても要塞を維持できないので陛下には島外に庇護者を求めていただきたい――と。
 トレヴァーがイーグレットの身を引き受けた手前、断固とした拒絶は彼らもできないのだろう。しかし今は海軍という組織すら不安定な状態にある。考えの合わない上官に素直に従えない者がいても無理はなかった。
(トレヴァーめ、案外人望がないな)
 むうとルディアは眉間に皺を寄せる。築城技術や最新兵器の知識を買われて大佐に選ばれた男だ。仕方ないのかもしれないが、もう少し部下を抑えていてほしかった。
 盗み見たイーグレットはじっと黙り込んでいる。そんな顔をしてほしくないから黙っていようと思ったのに。

「ただい――あ、陛下」

 そこに浮かない様子のレイモンドが戻ってきた。
 急に開いた扉に驚く。ノックだけはいつも忘れないのに珍しい。
「ん? なんすかその手紙?」
 目聡く要望書を見つけると槍兵は王に尋ねた。なんでもない表情を作って父は手にしたそれを渡す。
「海軍内部にこういった声があるらしくてね」
「なになに、一体どんな……んー? ええーっ? ……ほう、……ほうほう、なるほど……。おお……………………」
 レイモンドは唸り声を上げつつ最後まで読み終えた。感想を求めていたわけではないが、長い時間あまりに何も言わないのでどうしたのかと顔を覗く。
「あー……実は今、これとほとんど同じこと街の連中に言われてきたんすよね……。陛下は一時滞在なんだよな、砦町は危ない目に遭わないよなって」
 話しにくそうに槍兵は打ち明けた。父の目がわずかに瞠られ、また元に戻る。「そうか」との返事が悲しい。
(まったく、どいつもこいつも)
 気軽に他の庇護者などと言ってくれるがそんな者がどこにいる。ジーアンに侵攻の理由を与えると承知でアクアレイア王家を受け入れる国があるものか。チャドでさえ己の妻子を非公式に連れ帰るのが精いっぱいだというのに。
「陛下の助けになってくれそうな人、本当にいないんすか?」
 浅薄な問いにイーグレットはかぶりを振った。困り果てた苦笑いに胸が痛む。
「仮にそういう人物がいたとしても、アクアレイア領を出るのは少しね」
 父はやはり、十人委員会が王の処遇を自由に決定できる状態にしておかねばと考えているようだった。外国に身を預けるということは多かれ少なかれ政治の道具にされるということだ。そして政治の道具にされるということは、自らの意に反し、アクアレイアに百害あって一利なしの存在になりかねないということだった。
「まあしかし、島民の不安と海軍兵士の不満を取り除く努力はしなくてはな。考えをまとめて、あとでトレヴァーに相談しにいくよ」
 イーグレットは要望書を畳んで封筒に収め直す。王の引っ込んだ客室の扉が閉ざされると、続き部屋にはルディアとレイモンドだけが残された。
(……この島に落ち着くというだけでも難しいものだ)
 項垂れそうになるのを堪える。レイモンドはそんなルディアの耳にひそひそと囁きかけた。
「あのさ、一応さっき会ってきた奴らに『陛下がその気になったとき、すぐに動かせる小さめの船用意しといてくれないか?』って頼んどいたから」
 またこいつは命じてもいないことを。
 ルディアは無言で槍兵を睨んだ。不興を買ったと察したレイモンドは慌てて「だって」と言い訳する。
「余計なお世話かもしんねーけど、この島にいたら陛下がずっとしんどい気がしてさ。あの『死亡説を流して逃げてもらう』っての提案してみちゃ駄目なのか?」
「……一般人に紛れ込める容姿なら、あの人も一度くらい検討してくれたかもしれんがな」
 返答を聞き、槍兵はしょぼんと肩を落とした。思いやりはありがたいが少々的外れだ。逃がすとしたらカロの手を借りなければ。目立ちすぎるあの白さを、人目から隠してくれる旅慣れた者がいなければ。
「死亡説を流しただけではすぐに嘘がばれてしまう。却って状況を悪化させるだけだろう」
 引き下がるかと思ったら、レイモンドは「でもさー」としつこく粘った。
「でもさ、そんなの絶対つらいじゃん。皆に白い目で見られながら生きていかなきゃなんないなんて」
 まるで自分の経験を思い出したように槍兵は唇を噛む。緩い垂れ目が苦しげに歪むところを初めて目にしてルディアはハッと胸を衝かれた。
(ああ、そうか。こいつの見た目も普通のアクアレイア人からすれば異質なのか)
 瞳の薄さと手足の長さくらいだが、ひと目で違うとわかる程度には違うのだ。身近にいるのがもっと極端な例だから大して気に留めていなかった。何よりもレイモンドはあの街に馴染んでいたし。
(……そうだったか。だから親身になってくれているのかな)
 ルディアはそっと扉を振り返る。もしかして、父がレイモンドと気安げなのもそういう理由からなのだろうか。
 客室からの呼びかけはまだ聞こえなかった。イーグレットは玉座を降りても減らない難題と一人で向かい合っていた。




 助けになってくれそうな人、か。
 小さな明かり窓を見上げてイーグレットは瞼を伏せる。
 庇護者と聞いて誰も思い浮かばなかったわけではない。心当たりは一人だけいた。「俺と逃げよう」と言ってくれたカロも、おそらく彼のもとへ身を寄せる気でいたのだろう。
 だがイェンスに頼ることはできなかった。彼との繋がりが表沙汰になれば、ロマの友人を知られるのと同じくらい王家のイメージダウンになる。悲しいが、アクアレイア人はどこまで行ってもパトリア的価値観から脱却できないのだ。自分の評判だけならともかく、娘の名まで貶めたくはない。
(……馬鹿だな。民の理解を得る道を選ばなかったのは私なのに)
 自嘲の笑みに唇が曲がる。
 若気の至りなんて可愛げな言葉では済ませられない愚を犯した。あのとき、長い旅を終えて帰ってきたとき。
 父の葬儀で、戴冠式で、いくらでも公表できたはずだ。ロマと旅をして広い知見を得てきたと。イェンスの船で商売も航海術も学んだと。
 自ら彼らと親交を保つチャンスを潰したのだ。今更虫のいい考えは持つまい。
 ――この船で構える必要なんかないぞ。自分の家ができたと思って暮らせばいいのさ。
 良き兄のように接してくれた男の背中を思い出す。
 熊の頭のついた毛皮なんて物騒なものをマントにしていたくせに、優しくて、少し寂しがりだった男。「俺の墓参りに行くぞ!」と冗談めかして北の果てまで連れていってくれた。そこでカロと、暗夜に揺れる光の舞踏を目撃したのだ。
 人生のかけがえのない思い出があの日々の中に詰まっている。
 イェンスに拾われなければきっと何もできない子供のままだった。今だって大したことができるわけではないけれど。
(他人を当てにする前にまずは自分で動かなければ)
 拳を固め、目を開く。
 毅然と前を向いていよう。どこまでも、道が途切れてなくなっても。




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 航海日誌に書き込まれた現在地にローガンはニヤリと笑った。波はやや高いものの、嵐になりそうな気配はない。船長の話ではコリフォ島にはあと数日で到着するとの見込みだった。
 アクアレイア商人の天下もいよいよ終わりと思うと胸がすく。これまで散々不利な通商税に煮え湯を飲まされてきたのだ。今度はこちらが奴らに泡を吹かせてやる。
「天帝陛下へのご報告は?」
「はあ、それがまだご気分が優れないようでして……」
 船長は首を振り、代わりにジーアンの高官に定例報告をしていると言った。表面上は仕方ないなという顔で、内心しめしめとほくそ笑む。
 あの獅子の気が変わらないうちにイーグレットや王女を縛りあげてしまわねば。弱りきったアクアレイアにはとどめの一撃になるだろう。手放した王家がカーリス人のいいようにされ、流れる血の聖性まで汚されたとなれば。
(奴隷の身に落とすも良し、罪人として吊るすも良しだ)
 いずれにせよアクアレイアとパトリア古王国の断絶は決定的になる。貧しいマルゴー公国だけではもはやあの国を支えられまい。
(なあに、慎ましやかな漁民生活に戻ればいいだけさ。我々と競合しないなら塩でも魚でも好きなだけ買い叩いてやる)
 三月の青空を見上げ、ローガンは心地良い潮風を浴びた。海は至って穏やかで、まるで波の乙女アンディーンまでカーリス共和都市の門出を祝福するかのようである。
 ああそうだ。あの女神を奪い取るのもまた一興に違いない。天帝をバオゾに送ったら、褒美に奴らの神殿の精霊像を頂戴して、代わりにもっと格下の守護精霊でも祀らせてやろう。
 堪えきれずに漏れた哄笑が甲板に響く。望む瞬間は刻一刻と近づいていた。









(20151126)