ちょっと待て、一体なんだこの警鐘は。
 夜襲にしてはアレイア海が静かすぎるし、聞き間違いでなければ「火事だ」と聞こえた気がするが。

「だからー! 国庫が燃えてるんだってばー!」

 モモの叫びにルディアは「なんだと!?」と椅子を蹴って立ち上がる。すぐさま王女の寝室を飛び出し、中二階のバルコニーから仄赤く光る大運河の西端を確かめた。
 吐き出された黒煙がもくもくと真っ暗な空に伸びている。その光景は大運河の東端にあるレーギア宮からも容易に視認することができた。眼下の国民広場にはけたたましい鐘の音に叩き起こされた人々がわらわらと集まり始めている。
「どういうことだ!? 何故あんなすごい煙が!?」
「モモも詳しくは知らないけど、多分放火だって。冬は東の風だから、近所の人も焦げ臭いのになかなか気づかなかったみたい」
「見張りの兵は何をしていたんだ!?」
「当直だった少尉は探しても見当たらないとかで……」
 説明を聞いても状況は把握しきれなかった。モモも急いで駆けてきたため、大した情報収集ができなかったらしい。
 非番の彼女が自主パトロール中に火事と遭遇したのはおよそ二十分前。その時点で火は少なくとも数時間燃え盛った後だったそうだ。
「入口に近い貯蔵袋は消火しながら外に運び出されてるけど――」
「……ッ! 我々もすぐ現場に向かうぞ!」
 防衛隊が宮殿を飛び出すと同時、近衛兵を連れたイーグレットもばたばたと起き出してくるのが見えた。何が起きたと群がってくる民衆を丁重に追い払いつつゴンドラに乗り込む。ルディアたちは猛スピードで大運河を行く王室船の後を追った。大した損害ではありませんようにと祈りながら。
 だがその願いは届かなかったようである。現場に着いたルディアたちが目にしたのは四方から運河の水を浴びせられる大窯状態の国庫だった。
 全国民のおよそ三ヶ月分の食糧が貯蔵可能な大倉庫。火勢で開いた窓からは強い炎が上がっている。延焼しにくい石造りだったのが災いし、却って発見が遅れたらしい。どこかに飛び火していればまだ軽い被害で済んだだろうに。
 火の粉に紛れて灰塵が舞う。豆の焼ける匂いがする。貴重な蓄えは刻一刻と失われていた。
(……なんということだ……)
 ギリ、とルディアは歯を食いしばる。握った拳は怒りに震えた。
 こんな落とし穴が待っているとは考えもしなかった。小競り合いに赴くよりも街の警邏に重きを置いておくべきだった。夏には国営造船所でも――王国中の大型船舶を建造・修理する船渠でも――不審火が報告されていたのだから。
「どこのどいつか知らんが絶対に許さんぞ……! おい、レイモンド! 住民を手伝いながら聞き込みしてこい!」
「えっ!? き、聞き込みって何聞けばいいんだ?」
「例の少尉についてに決まっているだろうが! さっさと行け!」
「ひえっ! りょ、了解!」
「バジル!」
「は、ハイッ!」
「お前は一秒でも早く火を消す方法を考えろ!」
「ぜぜぜ善処します!」
「アルフレッド! モモ!」
「俺たちは不審人物の捜索か?」
「とっくにこの辺りからは逃げちゃってると思うけど」
「そんなことは承知済みだ! どんな小さな手がかりでも構わん、犯人の痕跡を見つけてこい!」
 ルディアの剣幕に四人は若干引き気味だった。昨日までの穏やかさはどこへ行ったと嘆く槍兵にキッと鋭い視線を投げつける。
 これが落ち着いていられるか。外国商人を取り込んで折角少し持ち直したと思ったのに、こんな形で得たものを失う羽目になるなんて。
(何日分の食糧が消えた? クソ、盗難のほうが奪い返す希望があるだけましだったな)
 わかっている。下手人を捕らえたところで致命的な打撃を被った事実は変えられない。次の放火を心配する必要がなくなるというだけの話だ。
(備蓄も増えてしばらくは安泰だと皆ホッとしていたんだ。この炎が消えた後、確実にもうひと揉めするぞ)
 ルディアは損害報告を受けるイーグレットを振り返った。いつも、いつも、悪いことはまとめてあの人のせいにされてきた。非があろうとなかろうと父が糾弾を受けるのは目に見えている。
(お父様……)
 信じられない。なんて手落ちだ。取り返す方法があるなら今すぐに実行するのに――。


 悪い予感はその日のうちに現実となった。
 やっと炎が鎮まったのは朝の鐘が突かれる頃。無事だった食糧はすぐに計量された。
 昼過ぎには宮殿前の広場に国民が集められ、重々しい足取りで国王と提督が登場し、そして。
「およそ半月で配給は困難になると思われる」
 告げられた調査結果に広場はたちまち騒然となった。




 ******




 覚悟はしていたが凄まじいまでの罵詈雑言だ。バルコニーから民を見下ろし、イーグレットは息を飲んだ。
「だからあんたが王位につくのは嫌だったんだ!」とか「不幸を呼び込む災いめ!」とか散々な言われようである。二十年間の在位中、一番酷いブーイングかもしれない。過激な者はボタンや靴まで投げつけてくる。
 今までは資産がじりじり減っていっても国がなんとかしてくれるという安心感があったのだろう。だがそれも最後の命綱が切れるとともに不意になった。市民軍が巡回していた地区ではなんの問題も起きていないのに王国政府と海軍が管理下に置いた国庫から出火したのだ。何事かと憤る気持ちはよくわかる。
 監督不行き届きだったとシーシュフォスははっきりと詫びてくれた。日中はグラキーレ島での戦闘、夜は新兵の育成と休んでいる暇もなかったのに。
 責任は寧ろ自分にあった。海の男たちからは敬遠されているからと、海軍のことは海軍に任せきりでいた。
 何度この弱さが災禍を招いてきただろう。初めてここに立ったときも、王になるとはどういうことかまるでわかっていなかった。あの頃よりも少しはましになったと思っていたのだが。
「わざわざ寄付を集めきってから焼いちまうなんて!」
「平等に配分するって言うからなけなしの小麦まで渡したんだぞ!?」
「なんとか言えよ、王様!」
「そうだそうだ! これからどうするつもりなのか言ってみやがれ!」
 痛む耳にイーグレットは目を伏せた。
 責められるのに慣れていて良かったかもしれない。逆風知らずの王であればとても平静でいられなかっただろう。
「何をそんなに落ち着いてやがるんだ!」
「まさか王宮に食べ物を隠してるんじゃなかろうな!?」
「どうせ自分たちだけいいもの食ってたんだろう!」
 半狂乱になった人々がレーギア宮の門に詰めかけた。押し返す衛兵と衝突し、砂塵と罵声が入り混じる。もはや暴動寸前だ。
「――通してやれ!」
 イーグレットは声を大にして叫んだ。突然の大声に民衆だけでなく衛兵たちまで面食らう。
 波打ったように静まり返った広場にもう一度声を轟かせた。わずかでも理解してくれればと祈りながら。
「門も扉も開け放ってやるといい! 調べたい者は気の済むまで中を調べろ! 城にも余分の蓄えはない!」
 戸惑う衛兵に身振りで開門を促す。おずおずと槍が引っ込められても宮殿に踏み込む者はいなかった。ただ忌々しげな「開き直りやがって」という舌打ちが響くばかりである。
 険悪な雰囲気を見かねて呼びかけたのはシーシュフォスだ。人望厚い名将が「お前たち、落ち着かんか」とたしなめれば熱くなっていた男たちも少々ばつ悪そうに顔を見合わせた。これが信頼の差かと思わず笑いだしそうになる。
「食糧は本当にあと半月分しかないのだ。陛下も姫様も皆と同じ食事しか召し上がっておられんし、今度の火事には甚だ心を痛めておられる。どうしてそれがわからない?」
 イーグレットには良くて半信半疑でも、シーシュフォスの言葉なら民は素直に聞き入れられるらしい。いつしか広場は静寂を取り戻していた。老いも若きも畏まり、提督の声に耳を傾けている。
 我知らず視線は地上を彷徨った。まるで杖でも求めるように古い友人の姿を探す。
 祈る者、震える者、白い目でこちらを見上げる者。視界に映る群衆の反応は様々だ。立ち尽くしているドナからの避難者もいた。今朝がた自分たちの仲間に裏切り者が出たと密告に来た若い娘だ。焼け跡から少尉の遺体が見つかったと教えてやると彼女は泣いて頭を下げた。償いになるかわからないが市民兵の手伝いをしたいと。難民の監視にも人員は割いていたはずなのだが、人手不足はやはり否めなかったらしい。今更何を反省しても遅いけれど。
「だがな、よく聞け。気落ちする必要はないぞ」
 シーシュフォスの声がけが続く中、イーグレットは探していた男を見つけて目を留めた。人混みに埋もれていても友人はよく目立つ。一人だけ季節外れの褐色肌だし、ロマの側には普通の市民は近寄らない。
 カロはいつもと何も変わらず心配そうにイーグレットを見つめていた。その眼差しに鼓舞されて、やっと膝の震えが止まる。
 ――大丈夫、大丈夫だ。
 胸のうちで繰り返した。
 この程度の逆境でへこたれてはいられない。孫も生まれたばかりではないか。娘も、国も、守りたいものはたくさんある。
 引き延ばせないなら戦うまでだ。王冠を獅子のたてがみに代えて。
「我々はまだ敗北したわけではない。そうだろう?」
 シーシュフォスが力強く民に問いかける。広場に漂っていた絶望感は次第に薄らぎ始めていた。
 本来は君主こそが国民を牽引すべきなのだろう。だが自分では反感を買っておしまいだ。ここは彼に任せるのが正しい。弱き王は引き立て役で構わない。
「初めから冬は越せないものと見なしていたのだ! 主力の帰還を待つという一縷の望みが断たれた今、もはや他に進むべき道はない! 今こそ敵軍殲滅に全力を注ごうではないか!」
 ハッと人々が目を瞠る。「そうだよな、最初は一月半ばまでしか食べられない計算だったんだ」と誰かが言った。
 声は広がり、じわじわと彼らの意識を塗り替える。
 ただ初めの状態に戻っただけ。否、国外の兵力が増えた分、少し良くなっている。手足をもがれたわけでも心臓を取られたわけでもないのだと。その波が広がりきったのを見越してシーシュフォスは雄叫びを上げた。
「さあ、武器を取れ! 船に乗り込め! 我らの国庫を焼いた炎を反撃の狼煙とするぞ!」
 勇将に応える熱い咆哮が冬の冷気を吹き飛ばす。
 悔しさはあった。何故こんな情けない王でしかいられないのかという思いは。
 それでも今は誰の力を借りてでも国をひとつにまとめ上げねばならなかった。気まぐれな勝利の女神をこちらへ振り向かせるために。




 ******




 同じ頃、孫娘との再会にランドンは狂喜していた。くたびれ果ててヘトヘトの赤毛の姉妹を抱きしめて「よく来てくれた」と頬擦りする。
 サロメは幼い妹とえっちらおっちら王国湾の西の外縁を漕ぎ続けてきたそうだ。クルージャ岬に辿り着くまで半日がかりだったという。小さなゴンドラで目立たなかったおかげだろうが、王国海軍に発見されず、本当に運が良かった。
 しかもサロメは国庫に火まで放ってきたという。なんと豪胆な少女だと他の仲間も孫娘を誉めそやした。
「ヴラシィに新たな女傑の誕生じゃなあ! お前に比べたらアリアドネも霞むわい!」
「いやだ、お祖父様ったら言いすぎよ」
「言いすぎなものか! お前は奴らを窮地に追い込んだんじゃぞ!」
 若い娘の声を聞きつけてドナの男もヴラシィの男も次々と砦門のある跳ね橋の麓に集まってくる。姉妹合流の経緯を知った彼らの士気は大いに上がった。
「救護院には他に誰がいたんだ?」
「俺の妹は!?」
「回し読みできる一覧を作っておくれよ!」
 孫娘は早くもあちこちで引っ張りだこだ。リーバイが「少し休ませてやれ」と諭すまで騒ぎは長いこと続いた。
「ああ、もっと早くこっちに来るんだったわ! ちょっと勇気を振り絞るだけで良かったのに、あたしったら馬鹿だった!」
 干し肉をたっぷり食べさせてもらってサロメはすっかりご機嫌の様子である。早速できた取り巻きが「アクアレイアが降参するのも時間の問題だな」と笑うのを聞いて「それじゃあ祝杯をあげましょうよ!」と言い出すほどだった。
「こりゃ、いくらなんでもまだ気が早いわい。宴は勝って王都を占領してからじゃ」
「あーん! 二年ぶりに葡萄酒が飲めると思ったのに」
「なんじゃ、救護院では飲酒禁止じゃったのか?」
「違うわよ。いいものはなんでもあたしたちの口に入る前にアクアレイア人の口に入っちゃうの!」
 おかげでこんなに痩せちゃって、とサロメは袖まくりしてみせる。晒された細い腕を慌てて元に戻させると、奔放な孫は意に介した様子もなく今度は妹の頭を撫でた。
「この子もあまり背が伸びてないでしょ? 子供だからって大人の半分も食べさせてもらえないの。それじゃ栄養が足りないわよね」
 ランドンは次第に孫が不憫になってきた。温かな寝床は与えられても生活は不自由だっただろう。厳しい労働に従事させられていたわけではないが、両親に大切にされてきたこの子たちには――。
「葡萄酒が飲みたいんじゃったか?」
「え? 別にいいわよ、今は駄目なんでしょ?」
「どんちゃん騒ぎをするわけにはいかんが、新年の祝いもろくにしとらんし、まあ一杯ずつなら……」
 甘いと首を振られるだろうかとリーバイに目配せすると年下のボスは無言で頷く。少なからず呆れた表情には気づかなかったふりをした。
「よし、それじゃ酒樽を開けるとしよう! 誰か一つ二つ持ってきてくれ!」
「おお、やった!」
 生き別れの家族と巡り会えたからといってまだ気を抜くわけにはいかない。飲ませるのは幹部以外の部下だけにしておかなければ。
「お祖父様、ありがとう!」
 はしゃぐ姉妹の無邪気さにランドンの頬は自然と綻んでいた。たとえどんな敵が来ても蹴散らしてやるぞと誓いを新たにする。
 他の者にも早く懐かしい人に会わせてやりたい。
 老いた拳に握る気合いは十分だった。




 ******




 総攻撃の意志を固めたアクアレイアは、早くもその晩軍事行動を開始した。いよいよだなとひとりごち、グレッグは寒々しい一月の空を見上げる。
 月も星も厚い雲に覆われて夜襲にはうってつけの闇夜だった。まさか敵軍もこんな視界の悪い日に海を渡って攻めてくるとは思うまい。
(ま、代わりにこっちの視界も最悪だがな)
 誇張ではなく何も見えない周囲を見回す。揺れる足元と静かに波を掻く櫂のちゃぷちゃぷという音でかろうじて自分がアレイア海にいることはわかるが、それだけだ。この真っ暗闇の中、ろくな掛け声もなくガレー船を動かす海軍兵の力量には素直に感心した。
 グレッグが宮殿での作戦会議に呼ばれたのは夕刻。王国政府のお偉方は一気に勝負をかけると言った。傭兵団は海軍とともにクルージャ岬の南の浜に上陸せよとの指令である。つまり最初に鼻っ柱を折りにいく切り込み隊というわけだ。
(へへっ、うちの王子様のためにも頑張らねえとな)
 最初のガレー船がひっそりと陸に取りついたとき、時刻は午前零時を過ぎていた。五隻の船に満載された戦闘員が続々と甲板を降りてくる。船長から漕ぎ手に至るまで、手にした武器と神経を研ぎ澄ませて。
 想定される敵兵の数は七千人。対するこちらは傭兵が一千人と海軍が二千人だ。最初から倍以上の差をつけられている。
 だがドナ人もヴラシィ人も所詮は海の民である。地に足をつけた今、恐れる気持ちは微塵も湧いてこなかった。
(俺たちマルゴー傭兵の強さ、たっぷり思い知らせてやる)
 グレッグは部下を率い、入江の砂浜を突っ切った。坂を上るとすぐなだらかな丘に出る。木立はまばらで隠れられそうな場所はない。クルージャ砦の篝火はそう遠くない場所で揺れていた。
「……」
 隣に並ぶ副団長ルースと頷き合う。この大所帯では確実に勘付かれるだろうが、なるべく身を低くして部隊を敵陣に近づけさせた。ユリシーズ大尉率いる王国海軍も傭兵団の動きに倣って移動する。
 高まる緊張に笑みが浮かんだ。久々だ。こんな危ない橋を渡るのは。
「旦那、今ちらっと松明の灯りが」
「チッ! もう気づかれたか?」
 展開しろと即座に命じる。人数が少ない分こちらのほうが陣形完成まで早い。
 低い丘に隊列は横へ伸びた。海軍の弩弓兵も迅速に列を整える。
 ややあって、わっと勇ましい雄叫びが石の砦から響いてきた。突然の襲撃に驚いた敵歩兵が慌てて飛び出してきたらしい。
 そうだ、どんどんこっちへ来い。いくらだって相手をしてやる。
「行くぞ、グレッグ傭兵だ――」
「矢を放て! 奴らが固まっている間に使い果たす気で射続けろ!」
 意気揚々と呼びかけようとしたらユリシーズの号令が被さった。ずるりと足を滑らせたグレッグを面白そうにルースが見つめる。
「ぷぷっ! やっぱ旦那は面白いぜ」
「笑うな馬鹿! おい、グレッグ傭兵団、俺たちも……」
「よっしゃ、俺たちも弩弓祭りに参戦だ! その後はわかってんな!?」
 副団長の指示に傭兵たちはハーイとお利口に返事する。どうしてうちの部下どもは自分よりルースの言うことを聞くのだろう。一番偉い団長はこっちだぞ、こっち。
「敵さんは元気だし、王子は後衛にいてくださるし、いっちょ派手に行こうぜ旦那ァ!」
 長い髪をなびかせて矢を射かけまくるルースはとても楽しげだ。弓矢の応酬が収まると、甲冑嫌いで身の軽い彼は先陣切って飛び込んでいった。
 激しい剣戟、怒号と悲鳴、断末魔。激しい戦場の音楽は夜風に乗って王国湾へと運ばれる。この猛攻こそが潟に潜むシーシュフォスへの合図だった。




 ******




 半月にはどんよりと暗い雲がかかっている。新月の晩ほどではないにせよ、王都を包む闇は深い。
 これから深夜未明にかけて波は沖へと引いていく。ちょうどいい時間に干潮が重なった。敵が海戦はないと油断している隙に作戦を実行できる。
 待機していた小舟の列がゆっくり動き出すのを見て、ルディアたち防衛隊は互いに顔を見合わせた。ついに剣と剣での戦闘が始まったのだ。
 グラキーレ島を出発した三千艘の市民軍は慎重にクルージャ岬へ漕ぎ進んだ。少しの音も漏らさぬように櫂の先には布がぐるぐる巻かれている。夜間灯の類もない。ただ前を行く小舟の船尾に垂らされた真っ白な手拭だけが闇の中での目印だった。
 不気味なほど海は静まり返っている。時折遠くから物騒な悲鳴が聞こえた。狙い通りドナ・ヴラシィの男たちは傭兵団と海軍の強襲に釘づけになっているらしい。
 小舟の列は本当にゆっくり進んだので、最後尾にいた防衛隊がクルージャ岬の海門に着くのに通常の三倍も四倍も時間がかかった。王国海軍のガレー船は姿がなく、辺り一面を埋め尽くすのは市民兵が操るおびただしい数の小舟だけである。無言の提督の指揮の下、彼らはあくせく働き出していた。
 手から手へ、次々と重い石が運ばれる。硬い積荷で沈められた小舟は王国湾とアレイア海を分断するバリケードに早変わりした。
 敵が拠点とするクルージャ砦はこの海門の内側に軍港を有している。標識を抜いた王国湾に深入りできない彼らにとって、ここは唯一アレイア海へ通じる出入口だった。つまりアクアレイアがバリケードを維持する限り、敵船は閉じ込められてどこにも行けなくなるのである。
(やたら小舟を量産させるから一体なんだと思っていたが、よくぞこんな奇策をよく考えついたものだ)
 さすがは名将シーシュフォスだと息を巻く。こんな裏方の隠密行動なら間に合わせの市民軍でもどうにかなる。
 しかも主力の軍人を囮に使うとは見事な意趣返しではないか。クルージャ砦を奪われた日、アクアレイアはドナ・ヴラシィ軍に同じ戦術でしてやられたのだから。
 石はせっせと積み上げられた。一万人の市民に混ざってルディアも額に汗を流す。
 傍らではイーグレットも同じ一団に加わっていた。海軍卒の議員や神殿騎士の姿まである。商船団の留守中はどうしても男の数が減ってしまうから、戦闘経験のある者は残らず出てきてくれたのだろう。
 一人だけだがモモ以外の女もいた。防衛隊が厳重監視せよと命じられている要注意人物だ。バジルの隣に配置させた彼女は名をケイト・ヒーリーという。ドナからの難民で、同胞の暴走をこれ以上見過ごせないというのが志願の理由だった。
 どこまで本気かわからないし、放火犯の娘と同じく企みごとを秘しているのかもしれない。気を許すなと十人委員会には釘を刺されている。
 言われるまでもなく信用する気はゼロだった。委員会の古狸たちとて敵兵の動揺を誘う道具としてしか見ていないだろう。
 今のところケイトは真面目に作業に当たっていた。小舟に工作を施すような素振りもない。
(バリケードが完成するまで敵兵が見過ごしてくれればいいんだが……)
 身を切るような冷たい風が闇を吹き抜けていく。海門封鎖には朝までかかりそうだった。
 失敗は許されない。軍船の数で劣るアクアレイアに他の手段は残っていない。
 太く大きくなっていく小舟の壁を見つめながらルディアは精霊アンディーンに祈った。
 波の乙女よ。どうか今しばらくの静穏を。




 ******




「お姉ちゃん、怖いよう」
 グス、ヒックと涙を流す妹をサロメは胸に抱きしめた。砦の防衛に最低限の人員を残し、他は全員アクアレイア軍との戦いに出ている。見張りを任された尖塔の暗闇で姉妹はふたりぼっちだった。
 タイミングはともかく、祖父は攻撃があること自体は見越していたようだ。退路を断たれた人間は最後に猛然と立ち向かってくるもの、反撃に備えて兵力は温存してあると勇気づけてくれた。
 ランドンがそう言うのだから負けるはずがない。丘のほうから恐ろしい声が響いてきても、運び込まれた負傷者が動かなくなっても、怖がる必要などないのだ。
 震える腕で震える妹に抱きつきながらサロメは己にそう言い聞かせた。闇を照らすのは頼りないランタンの灯火だけで、鼠の影さえ死神に思えてくる。
 実際もう何十人もの死者が出ていた。言葉を交わし合ったばかりだった人も。
「もうすぐ夜明けよ。アクアレイアには兵士が足りていないんだもの。明るくなればあたしたちが優勢だって確かめられるわ」
 胸の不安を振り払い、サロメは立ち上がる。慰めに明るい朝日でも拝もうと高い塔の縁に近づいた。岬の異変に気づいたのはそのときだ。

「あ、あ、海が……! 海が塞がれてる!」

 サロメの絶叫はクルージャの砦中に響き渡った。すぐさまリーバイが飛んできて沈没船の溜まり場を見下ろす。
 総大将の行動は早かった。表に出ていた部隊のいくつかに「戻れ! 奴ら海にも来てやがる!」と叫ぶと大急ぎでガレー船を動かし始めた。アクアレイアの上陸軍がほくそ笑んだことにも気づかず。




 誰かの「見つかったぞ!」という声が響いたのは九割方の作業が終わった頃だった。ルディアたちはまだ自分の小舟に乗っていたが、市民兵の大半は小型ガレー船十五隻に乗り換え済みである。グラキーレ砦の奥で出番を待っていた旗艦も漕ぎつけ、にわかに緊張が高まった。
 朝もやの奥から現れた敵船は二隻。陸の対応に追われるドナ・ヴラシィ軍がすぐに動かせたのはそれだけだったらしい。だが寄せ集めとも言える市民兵にとって、二隻の大型ガレー船は十分な脅威であった。
 わずかな時間、狭い海門で睨み合う。開戦を知らせるようにグラキーレ砦の鐘が鳴った。
「奴らにバリケードを撤去されるわけにはいかん! なんとしても死守するぞ!」
 ルディアの掛け声にアルフレッドとレイモンドが両脇で吼える。モモは斧とクロスボウを担いで「やったー! 射程範囲だ、射程範囲だ!」と駆け出した。どこへ行くのかと思ったら少女は器用に小舟から小舟へ飛び移り、まっしぐらに敵船のもとへ向かっていく。
「モ、モモー! 気をつけてくださいよー!」
 隣の小舟でハラハラ見守るバジルに「おい」と呼びかけた。わかっているなと目配せすると弓兵はちらりとケイトを一瞥する。敵船からクロスボウの矢が雨あられと降り注いだのは直後だった。
 数ある武器の中でもトップクラスの殺傷力を誇るのが弩だ。太く鋭い矢は鋼鉄の甲冑さえも貫通する。身を屈め、ルディアは初撃をやり過ごした。
 市民軍も負けじと矢を発射する。だが甲板に立つ彼らが勇敢だったのはそこまでだった。
「う、うわーッ! 痛ぇ! 痛ぇーッ!」
「大丈夫か!?」
「何してる! 前を見ろ、次が来るぞ!」
「早く新しい矢を装填するんだ!」
 不運な兵がもんどりうって苦しむのに不慣れな兵が気を取られる。介抱してやろうとして自分が射られるお人好しまで出る始末だ。
 負傷者は存外な痛みに泣き喚いた。狙い撃ちにされたガレー船では阿鼻叫喚の光景が繰り広げられた。
「ぐああああっ!」
「ひええーッ! 血がッ、血がッ!」
「こんなの無理だよ! 軍人でもなきゃこんなところで戦えねえって!」
「馬鹿者、しっかりせんか! やり返さんとやられたい放題じゃぞ!」
 誰かが叱咤するけれど、取り乱すにわか兵にその声は届かない。旗艦が進めと指示を出してもシーシュフォスが怒鳴っても無駄だった。戻れ、守れと繰り返される命令を無視して逃げ出す輩が続出する。武器を放り、オールを掴み、小型櫂船は一目散に本島へ引き返そうとした。
(う、烏合の衆とはここまで悲惨なものなのか)
 怒りを通り越してルディアは呆れる。道理でシーシュフォスがブラッドリーを待ちたがったわけである。こうなる可能性は高いと提督は知っていたのだ。
「ま、まともな部隊は残っていないのか!?」
 踏み止まる者を探してルディアは目を皿にした。しかしどのガレー船も臆病者が多数を占めているらしく、独立戦争世代の老人が戦場を指差しているのに見向きもしない。
 全軍見事な総崩れだった。まだたった一撃クロスボウの掃射を食らっただけなのに。
「オッサンたちいくらなんでも度胸が足りてねーんじゃねえの!?」
「俺たちだけでも迎撃するぞ! 矢を放て!」
 小舟に取り残されていたルディアたちは空しい抵抗を試みた。けれどこんなもの当たったところで掠り傷だ。このままでは折角作った障壁も綺麗さっぱり崩されてしまう。
(どうしたらいい?)
 焦燥は募れども名案は浮かばない。味方の船はどんどん遠ざかっていく。
 ――グラキーレ砦の砲台が火を噴いたのはそのときだった。
「――……ッ!」
 ドン、ドン、と耳をつんざく火薬の轟音。着弾点に屹立するいくつもの水柱。突然の砲撃は否応なしに居合わせた者の目を奪った。
「な、なんだ?」
 弾は何にも当たっていない。そもそも敵船は明らかな射程距離外にいた。
 一体誰の指示だったのかとルディアは背後を振り返る。するとまだ小舟の列に残っていたイーグレットが高々と白い右腕を上げていた。

「いい加減にしろ、お前たち!」

 怒号を響かせるや否や、自ら一艘のゴンドラを操り父は前方に漕ぎ出した。市民軍の船よりも、ルディアたちの小舟よりも前方に。
「お前たちは私を海にも出られぬ意気地なしと笑うくせに、私より先に逃げる気か!? 見ろ、私はここを離れんぞ! 敵船を退けるまで絶対にだ!」

 天突く叫びが海門にこだまする。仁王立ちで敵船と対峙するイーグレットに市民兵は呆然と口を開いた。
 王はバリケードを守り、たった一人で立ち塞ぐ。数十本の矢が飛んできてもなお微動だにしなかった。まるで矢のほうがイーグレットを恐れて避けたかに見えたほどだ。
 怖気づいていた市民兵たちは正気に返って旋回した。「あんなところに一人でいたら陛下が殺されちまうぞ!」と今度は我先に戻ってくる。
 なんという身体を張った説得だ。確かにあの人にそう言われたら嫌でも武器を取るしかない。アクアレイアの男は大抵イーグレットより自分のほうが勇敢だと自負しているのだから。
 ともかく早く援護せねばとルディアたちも慌てて小舟を移動させた。敵兵はまだのこのこ出てきた王国の頭を狙っている。
 予想に違わず次の射撃が無防備なイーグレットに襲いかかった。ほとんどの矢が横殴りの寒風に逸れていく中、黒く塗られた一本だけは正確に的に飛んでいく。
 危ないと叫ぶ。だが王は動かない。
 懸命に小舟を漕いだがとても間に合いそうになかった。凶暴な矢は今にも父の心臓を貫こうとしていた。

「まったく、あいつは無茶をする」

 重いものが弾んだ衝撃で思いきり足元が傾いたとき、低い呟きが聞こえた。
 確かめるまでもなく跳ねていったのはカロである。どうやら彼も小舟の列を全力疾走してきたらしい。手にした櫂で黒い矢を叩き落とすと王の忠実な友人はくるくる回って着地した。
「来てくれると思ったよ」
「ギリギリだったぞ! 二度とするなよ!」
 これ以上なく心強い護衛を得てイーグレットは満足そうに微笑する。
 だが戦況が有利になったわけではない。緩んだ頬はすぐに引き締め直された。
「ここは必ず守り抜く! 退却はない! いいか、一度でも私を侮った人間が逃げるのだけは絶対に許さんからな!」
 積年の思いが込められた一喝にルディアはつい吹き出しそうになる。優しいあの人も意外に恨みに思っていたのだろうか。
 軍船と軍船ががっぷりと組み合い、戦いは本格的になりつつあった。射撃を浴びた市民兵は泣きながら、それでも歯を食いしばって耐えた。
 朝日はまだ昇り始めたばかりである。ルディアは小舟をイーグレットの横につけ、敵船に弩を向けた。




(ここまで近いとさすがにはっきり顔が見えるな)
 敵味方のガレー船が入り乱れる戦場でレイモンドは眉をしかめた。
 別に怯んだわけではない。狙うならできるだけ知らない相手のほうがいいと思っただけの話だ。
 だがそんな贅沢は言っていられないらしい。良心からの躊躇を嘲笑うようにして殺意の矢はレイモンドにも向けられた。どの敵を射ようか視線を散らした一瞬の隙を突かれる。
「――馬鹿、こっちに屈め!」
 罵声と同時、小舟の底に引き倒された。間一髪で耳の真横を風切り音が通過する。半分転んだまま見上げると、左腕を押さえたルディアがアルフレッドに傷口を確かめられているところだった。
「掠っただけだ。問題ない」
 平然と王女は構え直す。あまりに淡々としているので庇ってもらったとすぐには思い至らなかったくらい。
「わ、悪い」
 驚きを隠せないままレイモンドは謝罪した。
 なんだ、なんだ。どういうつもりだ。防衛隊から犠牲を出しても王族の安全は確保しなければとかどうとか前に言っていなかったか。
「おい、レイモンド。顔見知りばかりでやりにくいなら引っ込んでいて構わんぞ」
「えっ」
「さっきから注意散漫だ。距離を詰められたせいだろう?」
 こんなときなのに他人のことをよく見ている。気まずさを誤魔化そうとしてレイモンドはかぶりを振った。
「気遣い無用だっての。殺しにかかってきてる連中に顔見知りもへったくれもねーよ」
 本音は告げずに立ち上がる。ここで戦わなければまた「お前はアクアレイア人じゃないから」と言われるに決まっているのだ。そんなのはごめんだった。
「っつーかそっちこそ下がってなくていいのか? でかいガレー船に移れりゃいいけど、この状況じゃ俺もアルもあんたを守り切れるかわかんねーぞ?」
 問いは鼻先で笑われた。「自分の身くらい自分で守る」とルディアは答える。
 そう聞いて目を尖らせたのはアルフレッドだ。「無茶して掠り傷で済むなんてことは滅多にない!」と騎士が声を荒らげると、ルディアは少しばつ悪そうに返事した。
「仕方なかろう。今のは身体が勝手に動いたんだ」
 クロスボウを撃ち終えたルディアはハンドルを回して弦を引き始める。
 なんだそりゃと再びレイモンドは瞠目した。
「仮に私が倒れても、誰かが――例えばお前たちが、アウローラを守って立派な王女にしてくれるだろう。だから私は私のやりたいようにやるのさ」
 悪戯っぽい囁きにアルフレッドの嘆息が響く。どこか親しみのこもった嘆息が。
 ということは、この人は守りたいから俺を守ってくれたのだろうか。
「気をつけろ、また来るぞ!」
 アルフレッドの忠告にハッとレイモンドは敵船を仰ぐ。甲板を埋める水兵はもうほとんど市民軍のほうに向き直っていたが、中にはしつこく君主の小舟を狙う者も残っていた。
 再装填のために片膝をついたルディアにも流れ矢は飛んでくる。槍の石突で攻撃を弾くと「助かった」と凛々しい顔で礼を述べられた。
(なんか変だな)
 彼女は前からこんな女だっただろうか。いつの間にかすっかり人が変わった気がする。
 だってここまで綺麗ではなかった。一緒に蛍を見た夜も、見惚れていたのは景色のほうで。
「さあ根比べだ! この海門を制したほうが戦いを制するぞ!」
 呼びかけに動揺し、レイモンドはパッと視線を上に逸らした。ちょうどそのとき雲の切れ間から光が零れ、十字の影が空を横切る。

「――あっ! アレイアハイイロガン!」

 時季外れの渡り鳥は優雅に砂洲を飛び越えていった。「彼女」の影はそのままアクアレイア本島へと消えていく。戦況はまた大きく変わりそうだった。




 市民軍のガレー船からもイーグレットの小舟からも離れていたので、バジルのもとにまで届く攻撃はなかった。女性連れだからかもしれない。最前線で弩を撃ちまくっているモモも、まだ標的にはされていない様子だ。
 今の位置でも長弓を射ることはできるのに両手は櫂を離さないままだった。様子を窺うというよりは、ついていけずに立ち尽くしている。そんなバジルにケイトが小さく声を潜めた。
「あの、お願いがあるの。ドナの船に寄せてもらえないかしら?」
「えっ!? ド、ドナの船にですか?」
「話したい人がいるのよ。アクアレイアが不利になる真似は絶対にしないわ。波の乙女に誓って……!」
 必死の形相にバジルはたじろぐ。ケイトは敵船に知り合いを見つけたらしく、居ても立ってもいられない様子だった。
 彼女が示す方向には孤軍奮闘中のモモもいる。側に行かなくてはという一心でバジルはこくりと頷いた。
 小舟はゆっくり進み始める。交戦中のガレー船の陰に隠れ、少しずつ目標に接近する。
 声が届く距離まで来るとケイトは今まさに矢を放とうとしていた若い男の名を叫んだ。

「チェイス! 武器を下ろして!」

 呼ばれた青年が目を瞠る。弩を引っ込め、船縁からこちらを見下ろす彼の顔は半分火傷で爛れていた。
「ケ、ケイト……!? どうしてここに……!?」
「決まってるでしょう、あなたたちを止めに来たのよ! アクアレイアに刃を向けるのはもうやめて!」
 念のためにバジルは矢筈に指をかける。話が平和に終わってくれれば何よりだが、現実はそれほど甘くない。一応いつでも動けるように準備は整えておかなければ。きちんと敵を仕留められるかどうかは話が別だが。
「……悪いけど、ケイトの頼みでもそれはできない」
 青年は首を振った。痛ましく震える声で、それでもなおきっぱりと。
 困惑したのはケイトのほうだ。どうしてと尋ねる彼女にチェイスは強く唇を噛んだ。
「家に帰りたいからだよ! 他にどんな理由で皆が戦ってると思うんだ!?」
 非難めいた叫びが海にこだまする。
 同郷人の仲間割れは他人事ながら肝が冷えた。モモや仲間と敵対するなんて自分には考えられないが、彼らは実際そうなってしまっている。アレイア海に食指を伸ばした天帝のせいで。
「それならどうしてジーアンに抵抗しないの!? アクアレイアになんの非があったって言うのよ!?」
「倒せない相手に挑んで返り討ちに遭ってどうするのさ!? それじゃあ結局ドナには戻れない!」
「言ってることが滅茶苦茶だわ! チェイス、あなたいつからそんな卑怯者になったの!? 私の知ってるあなたはもっと強い人だったわ!」
 責める言葉にチェイスはぐらりと後ずさりした。
 いつの間にか周囲には弩を下ろし、二人のやりとりを見守る者が増えている。中にはケイトに憤慨し、罵声を浴びせるドナ人もいたが、彼女は間違った考えだと一向に耳を貸さなかった。彼女はただ決然と彼らの罪を暴き立てる。
「私だって故郷に帰りたい……! でもこんな方法でドナに帰っても仕方ないじゃない! チェイス、あなたいつか自分の子供が生まれたとき、どんな顔で今日の戦いを語るつもりなの!? 自分たちこそ正義だったって子供に言えるつもりなの!?」
 チェイスの反論は返らなかった。はらはらと涙を流し、ケイトは最後の説得にかかる。
「あなたが私を逃がしてくれたこと、感謝してもしきれない。今でもあなたを愛しているわ。だからこそ愚かさを認めて投降してほしいのよ……!」
 朝日を反射する海に大粒の雫が跳ねた。青年は呆けてそれを見ていた。
 二人の間に刺々しい空気はない。けれどバジルの胸騒ぎはやまなかった。

「……君が全然変わってなくて嬉しいよ」

 チェイスの笑みは心からのものだった。少なくともバジルにはそう見えた。
 偽りでも、皮肉でもなく、守れて良かったと彼は呟く。
「ケイトは俺の好きだったケイトのままだ。けど俺は、さっきケイトが言ったみたいに変わっちゃったんだ。流行の服を着たって火傷で全然見映えしないし、中身もいじけてひねくれてさ」
 黒羽根の矢をつがえたクロスボウが再び高く掲げられた。チェイスは静かに、本当に静かに泣いている。
 諦めを受け入れた眼差しは南を向いた。視線の先には斧を携えた少女がいた。
「……もう疲れたんだ。泥だらけでも血まみれでも温かいベッドで眠りたい。バオゾで死んだ友達の墓を立ててやりたい。正しいとか正しくないとか、その後でなきゃ考えられないよ」
 ごめんねとチェイスが引き金に指をかける。
 説き伏せても無駄だとわからせるために、ここまで堕ちたと証明するために、モモを殺すつもりなのだと瞬時に察してバジルは矢を抜いた。
「――」
 何も考えていなかった。頭の中は真っ白だった。
 弦を引けば弓のしなる耳慣れた音。指を離せばまっすぐに飛ぶ細い影。矢はあっさりと男の喉元を貫いた。
(――あ)
 馬鹿だった。すぐに目を閉じれば良かったのに、血飛沫も、色の抜けた目も見てしまう。
 チェイスはゆっくりと倒れた。どさりと大きな音が響いた。
 目の前が急に暗くなる。朝なのに、もう夜が来たみたいだった。




 目と鼻の先を掠めていった黒い矢にモモは「うわっ」と仰け反った。思わず矢の飛んできたほうを振り向くと、更なる異常事態に気づく。
「ちょっ、バジル何やってんの!?」
 いつの間に出てきたのか、幼馴染とケイトを乗せた小舟が敵ガレー船の目の前で停止していた。しかも二人は複数の水兵に弩を向けられている。
 すぐ助太刀に行かなくては。モモは急いで飛び跳ねてきた舟の浮き橋を引き返した。
(まだ攻撃はされてない! 敵がケイトに当たるかもって躊躇してくれてるのかな!?)
 それならどうにか間に合うかもしれない。自分が注意を引きつけている間に二人が上手く逃げてくれれば。
「うわわわわ! ダメダメダメーっ!」
 だがドナ・ヴラシィの男たちはケイトを裏切り者と断じたようである。一旦は下げかけたクロスボウを構え直され、モモは泡を食った。

「ダメだってばーっ!」

 必死の叫びに応えてくれたのはグラキーレ砦の砲台だ。
 轟音が天を揺るがす。敵も味方も一瞬争いを忘れるほどの。ただしさっきのイーグレットのときと違い、響いたのは空砲だったが。
 砦を仰げば砲台は全てアレイア海の上空を向いている。
 なんのために大きな音が鳴らされたのか、答えはすぐに波の彼方から現れた。さっきアレイアハイイロガンが飛んでいったのを目撃していれば、もっと早くピンと来ていたかもしれないが。
「船団だ……」
 誰かが呟く。南方に目を凝らせば七隻余りのガレー船が海を北上してくるのが見えた。
 船はいずれも王国旗を掲げている。先頭を行く旗艦には威風堂々たる伯父の姿まであった。
「おい、ブラッドリー中将だぞ!」
「俺たち夢でも見てるんじゃないか!?」
「き、奇跡だ! 商船団が帰ってきたぞーっ!」
 市民軍に歓喜と熱狂が沸き起こる。うろたえたのはドナ・ヴラシィ軍である。彼らはただちにこの帰還の意味を悟った。敵の指揮官が一時撤退を命じるのに大した時間は要さなかった。




 ******




 報告を受けたとき、リーバイは耳を疑った。春まで戻らないはずの船団が、アクアレイア海軍の主力が、王都に戻ってきたと聞いて。
「馬鹿を言うな! 奴らはクプルム島かエスケンデリヤで冬越えの真っ最中のはずだろう!」
「けど事実帰ってきてんすよ! 奴らがここにいて、コリフォ島に残してきた俺たちのガレー船がいないってことは、海峡は突破されちまったんだ!」
 喚き散らす若い兵士を別の兵士が半べそで慰める。次にリーバイが耳にしたのは信じたくない訃報だった。
「すんません……。こいつチェイスを看取って気が動転してて……」
「死んだ!? チェイスがか!?」
 リーバイは愕然と唇を震わせる。戦死報告は相次いでいた。しかしまさか、こんなときに弩の名手まで喪う羽目になるなんて。あの若者は戦力的にも精神的にも皆の支えだったのに。
(どうする……。戻ってきたっても所詮は七隻だ。海門さえこじ開けられれば互角に渡り合えるだけの船はある。だが海で勝負するべきなのか? 上陸兵はまだ退いてない。このままじゃ俺たちは……)
 くそ、と拳を壁に叩きつける。けれど痛みでは冷静さを取り戻せなかった。
 どこで判断を誤った。海の対応は後に回すべきだったのか。だがあの状況を放置することはできなかったはずだ。駆けつけて痛手を被らせねば北の岬からも敵軍に乗り込まれていたかもしれないのだから。
「リーバイ、南にもっと兵を回してくれ! 敵兵が増えて押されとる!」
 階下からランドンの急かす声が響く。老将にどう現状を伝えればいいか頭が痛い。ともかくも退却してきた兵のうち動ける者には剣を持たせて送り出した。
「お、俺たち負けねえよな?」
「弱気になるな! まずは陸で、次は海で挽回すりゃいい!」
 誤算だった。どうやってかは知らないが、アクアレイアが外から海軍を呼び戻したこと。それに二ヶ月足らずで十五隻ものガレー船を建造し、市民を水兵に仕立てたこともだ。
 弱っていても根っからの海運国というわけか。食糧が尽きればどうしようもなくなると、戦力差は引っ繰り返しようがないとどこかで慢心していたらしい。
「今はクルージャの南を、ピルス川への道を守り通すんだ。古王国からの補給を断たれたら本当に終わりだぞ……!」
 何度も増援を要求するランドンが危惧しているのも同じ可能性に違いない。
 アクアレイア海軍とマルゴーの傭兵団は西南に向かい隊列を伸ばしていた。連中が補給地とクルージャ砦の間に割り込もうとしているのは明らかだ。船の通行を妨げたのもアレイア海からピルス川を遡れなくするためだろう。そう、つまり奴らの狙いは――。




「逆封鎖だ! なんとしても逆封鎖を完成させるぞ!」
 ユリシーズの張り上げた声に兵士たちは雄叫びを上げる。先刻帰還した船団からも戦闘員が加わって士気は上がる一方だった。
 ドナ・ヴラシィ軍は全兵力を西南の戦線に投じることに決めたようだ。剣を振るい、向かいくる敵を薙ぎ倒しつつ「上等だ」と口角を上げた。
 陽動だとは聞かされていたが、それだけの役目でもないのはわかっていた。敵の生命線を断つのは寧ろ陸攻めの自分たちが果たさねばならぬ大任だ。あの手狭な海門に彼らの大型ガレー船は十隻も展開できない。ならば補給路を確保するため、最後は陸に注力してくるのは読めていた。
 正真正銘ここが最激戦区である。名誉を勝ち取るのにこれ以上の狩場はない。囚われの反逆者から救国の英雄となれるのだ。退けるわけがないではないか。
「敵は軽装だ! 恐れずに立ち向かえ! 矢を補充する暇を与えるな!」
 連日の小競り合いが嘘のようにあちこちで咆哮が轟く。丘に充満する血と汗の臭いは冬の寒さなど忘れさせた。
 当初は数に押されて劣勢だったアクアレイアだが、思わぬ増援に戦況は逆転しつつある。本当に誰がブラッドリーに王国の危機を報せてくれたのだろう? おかげで勝利はうんと近づいた。
 傭兵団を含めて兵力差は体感で二千人ほどに縮まっていた。これならいけると軍人の直感が告げている。敵軍はしぶとく持ち堪えているが、そろそろ例の船が出る時間だ。アクアレイアの技術に驚き、目玉を剥くがいい。

「おい、砦が! クルージャ砦が砲撃を受けたぞーッ!」

 戦場にどよめきが走る。敵兵は慌てふためき「嘘だろう!?」「グラキーレ島の砲弾がここまで届くはずない!」と叫んだ。

「砂洲からじゃない! 海だ! 大砲を積んだ船の仕業だ!」

 ユリシーズは高笑いを堪えた。国営造船所が威信をかけて新造した最新式の武装船が満を持して登場したらしい。
 予定通り市民軍が海門を制圧した証だった。敵船が航行可能な状態であればたった一隻しかない新型船をアレイア海に送り出すなどできないのだから。
 粉塵の上がる拠点を振り返り、ドナ・ヴラシィの兵たちはすっかり動揺している。もう少し海に近ければクルージャ砦に相対する巨大軍船も見えただろうに惜しいことだ。
 重すぎる大砲は、これまでは城砦に備え付ける固定タイプか家畜に引かせる陸上移動タイプしか存在しなかった。しかしアクアレイアの技師たちはそれを船に積み込めるほど軽量化するのに成功したのだ。砲身を軽く薄くした代償として一発撃つと壊れるという欠点はあるにせよ。
 それでも鋳型さえあれば何度だって同じものを作り直せる。回数は限られているが敵の砦を直接攻撃できるのは大きな前進だった。海門を出られない奴らには止めようもない。
 敵軍は潟や潮の満ち引きにはよくよく気をつけていた。彼らに過ちがあるとすれば、戦術も兵器も日々進歩しているのを失念していたことだろう。だから昨日までなかったものは想定できなかったのだ。
(ついでに陸上専門の兵に関しても対策が甘かったようだな)
 ユリシーズはちらりとグレッグ傭兵団を見やる。マルゴー人たちの活躍ぶりは目覚ましかった。
 グレッグやルースの身体能力にも驚かされたが、特に戦果を上げているのが長槍部隊だ。列を組み、大人数で一体となって突撃を繰り返す彼らはまったく敵を寄せつけず、こちらがゾッとするほどだった。
 彼らが味方で助かった。何かの手違いでドナ・ヴラシィ軍に雇われていたら今頃は大変な目に遭っていた。
 そういった意味では少しはチャドの存在価値を認めなければならないのかもしれない。これからはアクアレイアでも陸上防備が重要になると提言していたルディアのことも。
(……フン、しかし所詮傭兵は傭兵だ。わざわざ政略結婚までして陸上防備の地盤を固める必要はなかった。連中を満足させるだけの金を国民に稼がせて、好きなだけ雇えば済んだ話なのだから)
 舌打ちし、八つ当たり気味にユリシーズはバスタードソードを振り上げる。喉を切られた敵兵が血を噴いて草に倒れた。
 暴れ足りない。この程度ではまだ届かない。
 死体の山を築けば築くほど望む高みに近づけるのだ。どんなに手を汚すことになったとしても、必ず星を掴んでやる。




 ******




 奪い返した海門の守りにシーシュフォスと市民軍を残し、ルディアたち防衛隊は「ブラッドリーに会いたい」と言うイーグレットを連れて一旦宮殿に引き揚げた。
 目当ての男は謁見の間で待機していた。太腿を痛めているのか、衛兵が彼を支えて立っている。
「伯父さん!」
 姿を確かめるや否やアルフレッドが走り出した。続いた王も有り得ない再会を喜ぶ。
「おお、ブラッドリー! 本当にブラッドリーなのだな?」
「遅くなって申し訳ありませんでした、陛下。コリフォ島を通過する際に少々手こずらされまして」
「酷い傷だ。大丈夫なのか?」
「私は命があれば十分。しかし帰還に際して多くの船を失ってしまいました。ミノア島で連絡を受けたとき、商船団の半分はエスケンデリヤに旅立っていて二十五隻の船しかなかったのです。私は軍人だけを乗せ、十隻の船で帰ろうとしたのですが……」
「戻ったのは七隻だったな」
「はい。海戦の結果、五隻しか残せませんでした。二隻は敵船を拿捕したものです。クルージャ砦からよく見える位置に錨を下ろしてやっています。それと帰還兵は前線に回し、持ち帰った食糧も水揚げさせているところです」
「そうか、よくぞ生きて戻ってくれた。皆もさぞかし勇気づけられただろう。だがブラッドリー、一体どうやってアクアレイアが危機に瀕していると知ったのだ? 使者をやりたくとも我々には方法がなかったのに……」
 イーグレットに問われてブラッドリーは目を丸くする。ルディアは笑いそうになる口元をそっと掌で覆い隠した。
「ご存知なかったのですか? 渡り鳥です。アレイアハイイロガンが私の船に降りてきて、手紙と指輪を届けてくれたのです」
「渡り鳥? 手紙と指輪?」
「ええ、うちの家紋の入った指輪が。伝書鳩でもないのに利口だなと感心していたのですが。てっきり私は動物商かサーカスの者に調教させたものとばかり……」
「いや、そんな雁の話は聞いていない。ウォード家で飼っていたのではなく?」
「まさか、水鳥ですよ。巣に帰ったのかもう飛び去ってしまいましたし」
 ブラッドリーがポケットの物証を示すとイーグレットはぽかんと口を開いた。「信じられん」と掠れた声は本音だろう。何から何まで普通では考えられない状況だ。
「私の妹の指輪です。間違いありません。イーグレット陛下がご存知でないのなら――アルフレッド、お前何か知っているんじゃないか?」
 嘘のつけない騎士はごほんと咳払いする。彼では脳蟲の件をはぐらかせないなと踏んでルディアが代わりに歩み出た。
「アレイアハイイロガンに手紙を持たせたのは我々です。しかし本当に届くとは夢にも思ってもいませんでした。きっと守護精霊に祈りが通じたのでしょう。アクアレイアはアンディーンに守られているのです!」
 いけしゃあしゃあと女神の御業と言ってのける。神話ではこの程度の霊験はままあることだ。なんと不思議な、で納得してもらおう。
 イーグレットもそれ以上深くは追及してこなかった。精霊の思し召しとしておいたほうが兵も波に乗れると考えたに違いない。
 なんにせよ、我々はこれで主導権を握り返したのだ。




「バジルー、大丈夫ー?」
 人気のない宮殿裏の水路で幼馴染に問いかける。待てど暮らせど返事はなく、間延びした己の声が空しく響くばかりだった。
 バジルは小舟の縁に掴まりずっと胃液を吐いている。ケイトやドナの兵たちと何かあったらしいのだが、黙りこくって何も言わない。こういうときに無理矢理聞き出すのは趣味でないので仕方なく彼の気分が落ち着くのを待っているものの、本当はさっさとクルージャ岬に戻りたかった。
 モモは小さく嘆息する。市民軍に預けたケイトも抜け殻同然になっていたし、はしゃがずに側についているべきだっただろうか。
 あの危機的状況で、とりあえず死なずに済んで良かったけれど。




 ******




 激戦の幕が開けた日から、クルージャ岬の緑の丘は大量の血で洗われ続けた。雨が降ろうと雪が降ろうと無関係に。
 毎日一箇所大穴を開けられる砦の補修に追われながら、リーバイは半ば呆然と指揮を執る。
 押し返すどころかドナ・ヴラシィ軍はじわじわ後退させられていた。傭兵団と海軍による包囲網は着実にこちらの陣地を狭めていた。
 ――最初の攻撃から十日目、ついにピルス川への道は閉ざされた。上流から届いた物資は全てアクアレイア軍に奪われた。
 確保してある食糧だけでどれくらいもつだろう。砦内は薄暗く、失意が蔓延しつつある。
 罵り合う気力もなかった。一点突破を狙ってピルス川への最短距離を攻めるも傭兵たちにあっさりと撃退され、疲労困憊して砦に引き返すだけ。希望の光など見えやしない。
 ずっと優勢だっただけに皆のショックは激しかった。沖に晒された仲間の船と同じに日ごとにボロボロになっていく。
「……もう降参するか?」
 誰かが聞いて、別の誰かがすぐ首を振った。
「降参してどうするんだ? またジーアンに送り返されるのを待つのか?」
 一生奴隷で終わりたくない。だったらまだアレイア海で散ったほうがいい。口にせずとも気持ちは皆同じである。勝利の可能性が残されているならそれに全てを賭けたいけれど。
「……あれはどうした?」
 不意にランドン老将が尋ねた。「あれ?」とリーバイは聞き返す。
「パトリア古王国の使者が持ってきた莫大な金じゃ。今の今まで忘れとったが、あれを使えば戦局を変えられるのではないか?」
 ぴくりと眉が跳ねる。生き残りの幹部たちは色めき立った。
「そうだよ、傭兵どもを買収すりゃいいんだ!」
「小金握らせて食い物を届けさせようぜ!」
「いや、それより俺たちに雇われないか交渉するのはどうだ? アクアレイアの連中にも奴らの槍攻撃を食らわせてやりてえだろ?」
「そいつはいい! あいつら慌てふためくぜ!」
 傭兵団をドナ・ヴラシィ勢力に引き入れるという妙案に誰もがいいぞと手を叩く。早速奥に片付けられていた大箱が引きずり出され、パトリア金貨の勘定が始まった。
 数えてみれば島一つ買えそうな額が収められている。これには重傷の兵たちまでもが狂喜乱舞した。

「金で主君をコロコロ変える連中だ。絶対に俺たちのほうに寝返るぞ!」

 万全を期し、裏で傭兵に接触するのはサロメの役と決まる。
 朗報がもたらされるのをリーバイたちは波の乙女に祈って待つこととなった。




 ******




 素晴らしい働きだ、お前はマルゴーの誇りだと散々チャドに誉めそやされてグレッグは有頂天だった。川べりの林をスキップする足取りは軽く、鼻歌まで口ずさんでしまう。
 こうして武勲を認められるとなんて気分がいいのだろう。何日だって何時間だってぶっ続けで戦えそうな気がしてくる。
 補給路は傭兵団がばっちり抑えたし、後はドナ・ヴラシィ軍がへこたれるのを待てばいい。クルージャ砦に白旗の上がる日が楽しみだ。
「――旦那、旦那」
 ひそひそ声に呼ばれたのはそのときだった。木立の連なる一帯に人影らしい人影はない。声の主を探してグレッグは辺りを見回した。
「旦那、こっちこっち」
 振り向けば大樹の陰に隠れてルースがちょいちょい手招きしている。長身を小さく屈め、人目に触れたくないと言わんばかりだ。
「なんだ? クソでも漏らしたのか?」
「そんなみっともない真似するか! いいからほら、こいつを見てくれ」
「えっ? お、お前これ……!?」
 袖口に覗く黄金にグレッグは息を飲んだ。色といい、重さといい、混じりっ気なしのパトリア金貨だ。一枚でウェルス銀貨一千枚に相当する富裕層御用達の貨幣がルースの手元でなんと二十枚近く擦れ合っている。
「さっきヴラシィの若い娘さんがくれたんだよ。ちょいと目つきがキツいけど、出るとこ出てて引っ込むとこは引っ込んでる瑞々しい肌の……」
「いや、そこは素っ飛ばして本題を言えって。ヴラシィの奴らが俺らにこんなもん寄越すってことは……」
 声は無意識に絞られた。アクアレイア兵に聞かれたら事だぞと警戒を強める。
「ああ、味方にならねえかってさ。王国の四倍出すって話だぜ」
「よ……ッ!?」
 思わず叫びかけたのをルースの手に押さえ込まれた。ムガムガとグレッグは呼吸に苦しむ。
「しょ、正気かそりゃ?」
 尋ね返す己の声は疑いに満ちていた。今でさえアクアレイアとは月に百五十万ウェルスの高額契約を結んでいるのにその四倍など有り得ない。もしかしてドナ・ヴラシィ軍は計算できない子たちの集まりなのだろうか?
「金は持ってるみたいだな。ちょいと砦に招待させてもらったが、少なくとも五百枚はこの目で確認した。仮に四倍がハッタリだとしてもバックにゃ天帝や聖王が控えてるそうじゃねえか。支払い能力はあると思うね」
「…………」
 金貨の輝きに目を奪われ、しばし口も利けなくなる。
 四倍ということは六百万ウェルス。パトリア金貨六千枚。現実とは思えない数字だ。
「……いや、駄目だ。それはできん」
 が、精神を奮い立たせてグレッグは誘惑を拒絶した。批判気味に「なんでだよ?」と顔をしかめたルースに気高く力強く説明してやる。
「どんな理由があったとしても期間中の契約破棄は有り得ねえ。グレッグ傭兵団の信条に反する。俺たちゃ決まり事を破らねえってんであちこちの王侯貴族が重宝してくれてんだ。金が欲しくてもそいつはやっちゃいけねえよ」
 決まった。なんて見上げた傭兵団長だとルースも感動したに違いない。
 が、返ってきた反応は今ひとつだった。傭兵団のブレーンでもある副団長はがっくり項垂れて溜め息を吐きこぼす。
「ほんっと馬鹿だなー旦那は。今日が何月何日かもわからないで話聞いてたのか?」
「は?」
「一月二十九日だよ! 俺たちがアクアレイアと契約したのが十一月の頭で、それが三ヶ月契約だったんだから、明後日には綺麗に鞍替えできるじゃねえか!」
 あっとグレッグは拳を打った。
 本当だ。言われてみればもうじき満期終了ではないか。
「いや、待て待て、チャド王子はどうすんだ? 俺は王子を悲しませたくないぞ」
「王子のためにはアクアレイアが負けたほうがいいかもだぜ? 田舎者だとか山猿だとか、あの人言われたい放題だろ。可愛い嫁さんと赤ちゃん連れて一家でマルゴーに引っ越したほうが確実に幸せになれるって」
「う、うーん」
 それはそうかもしれないと一瞬納得してしまった。そのうえ「王子なら傭兵団の懐事情もわかってくださるよ」と言われ、また「そうかも」と思わされてしまう。
 傭兵団の運営にはとにかく馬鹿ほど金がかかる。一千人が移動しながら生活するのだ。出費は並大抵のものではなかった。
「まあ最終的に決めるのは旦那だけど、俺は悪くねえ話だなと思ってる。明日までに考えといてくれ」
 駄目押しに金貨数枚を残してルースは立ち去った。
 まばゆい黄金を眺めているとついにんまりしてしまう。装備を一新するのもいいし、少し贅沢な晩餐を団員に振る舞ってやるのもいいだろう。皆の喜ぶ姿を想像すると心が躍る。だがグレッグの胸にはまだもう一つ小さな引っ掛かりがあった。
(こっちにゃ世話になった奴がいるからなあ……)
 思い浮かんだレイモンドの顔に罪悪感が湧いてくる。あの男がいなかったらグレッグは今もイオナーヴァ島に囚われの身だったかもしれない。レモンの件でも感謝しているし、やはり恩には恩で報いたい。
 だが傭兵団が生きていくのに金が必要なことも事実だった。ルースが勧めてきた通り、この契約は確かに受けるに値する。団員でも雇い主でもない一般人に気兼ねするから――なんて理由で断るのは勿体ないと思うくらい。
(いっそ誘ってみるか? アクアレイアはおしまいだから、グレッグ傭兵団に入らねえかって。このパトリア金貨見せれば案外食いついてくるかもしれねえぞ?)
 そうだ。レイモンドはどう見たって純粋な王国人ではないのだから、故郷に未練などないかもしれないではないか。こんなところで死なせるには惜しい男だし、一度説得してみよう。




「――は?」
 あまりの誘いに頭が白みかけたのをなんとか堪えてレイモンドは問い返す。この頃似たようなことにばかり腹を立てている気がするが、そろそろキレてもいいだろうか。
 なんだってどいつもこいつも俺が金に釣られて悪さすると思うんだ?
「だから俺は個人的にお前を気に入ってるんだって。お前なら仲間も歓迎するだろうし、槍が得意ならすぐに頭角を現せる。そうすりゃ特別褒賞も……」
 話の続きはもう耳に入ってはいなかった。右から左へ擦り抜ける声に怒りがかっと燃え上がる。
 レイモンドはクルージャの丘に張られた天幕の裏側にいた。ドナ・ヴラシィ軍を岬の北端へ追い込んで砦から出られなくする逆封鎖作戦に防衛隊の一員として加わっているのだ。
 やっと戦闘が落ち着いてきたと思ったらこれだ。二月からもっと給料のいいところへ行く? 傭兵がいなきゃアクアレイアは戦線を維持できないだろう? だからこっちへ来ないかとは一体どういう了見だ。
「な? どうだ? もし他に連れていきたい奴がいるならそいつの面倒も見てやるぜ」
「ふうーん、破格の待遇だなー」
「おう! なんつってもお前にゃ借りがある。ここに放ってはいけねえよ」
「そっかそっか、そこまで思ってくれてたなんて嬉しいぜ」
 乾いた笑いが喉に張りつく。グレッグはレイモンドの冷めた目線に気づかずにニコニコと笑っていた。
 見くびりやがって。他の皆ほど仕事熱心ではないが、俺だって生まれ故郷に後ろ足で砂をかけるような真似をした覚えはないぞ。給料分しか働くつもりはないという秘めた決意はあるにせよ、これから王国の敵に回るなどとのたまう傭兵団に転職するほど人でなしではないというのに。
(ほんっと損な見た目に生まれちまったぜ)
 グレッグはレイモンドの身を案じてくれているようだが、そういう問題ではなかった。自分が同胞に槍の穂先を向けられる人間だと思われているのが癪に障って仕方ない。
 生き延びるために戦場から逃げ出すのと、後ろから仲間を刺し殺すのとではわけが違うではないか。
「……で、おっさんはどれくらい本気であっちに寝返ろうと思ってんだ?」
 レイモンドの問いにグレッグはうーんと唸る。「まあ、気持ちはほぼ固まってっかな!」との返答に笑顔でうんうん頷いた。
 そう決めているのならこちらも遠慮の必要はあるまい。祖国の存亡に関わる案件はすぐに政府に報告するのがアクアレイア国民の義務だ。
「ありがとな、大事な相談してくれて。そんじゃ何人か一緒に連れていきたい奴がいるから、おっさんからその話してくんねーか?」
「おお、いいぜいいぜ」
 レイモンドは親しげにグレッグの肩に腕を回した。そのまま天幕の裏手から入口側に歩いていき、適当なところで足払いをかける。
「うおっ!?」
 バランスを崩し、傭兵団長は尻餅をついた。レイモンドはすかさずその身体を担ぎ上げ、天幕内に放り込む。そうしてあらん限りの声で叫んだ。

「このおっさん、リーバイに今の契約の四倍出すって言われたんだと!」

 王国の最重要人物――イーグレットにシーシュフォス、チャドに十人委員会まで集まっていた小会議の輪はたちまち騒然となった。周辺警護についていたアルフレッドやルディアも素っ飛んできて、転がったグレッグに剣の切っ先を突きつける。
「うわわわわッ」
「今の話は本当か!?」
「貴様、裏切り者の末路は承知しているのだろうな!」
 起き上がろうとしたグレッグは有無を言わさず蹴り倒され、這いつくばって手を上げる。無抵抗を示す彼がなお「一月いっぱいはあんたらの味方だって! その後どうしようが俺らの勝手だろ!?」と主張すると今度はチャドが長弓を引いた。
「グレッグ、一体どういうつもりだ!? 返答次第では私がお前に引導を渡すぞ!」
 至近距離で矢をつがえられ、グレッグは狼狽する。哀れな男は青筋を立てる王子を必死で制止した。
「ひえッ! 勘弁してください! 俺を殺してもルースの恨みを買うだけですよ!? あいつ隊員丸ごと連れて向こうの砦に行っちまいますよ!?」
 チャドの細い目がハッと開かれる。やむなくといった様子で長弓は引っ込められた。
 この反応に力づいたのはグレッグだ。この場で本当の主導権を握っているのは誰なのか、王子の態度が傭兵団長に勘付かせてしまったのだ。




 予想外のどんでん返しにルディアはきつく眉根を寄せる。海路を塞ぎ、補給路を奪い、二ヶ月がかりでやっと王手をかけたと思ったのに。
 ふてぶてしくもグレッグは天幕の真ん中に胡坐をかく。今はアクアレイアのほうが彼に縋らねばならないのだと察して強気になったらしい。
 ブラッドリーが戻り、封じ込めにも成功したとはいえ均衡はまだ危ういものだった。傭兵団がどちらを雇い主とするかで戦況は一変するに違いない。ドナ・ヴラシィ側へ行かれる前に発覚したのは幸いだったが、ここで対応を誤れば話は同じだ。まったく厄介な心変わりをしてくれた。
 天幕内には異様な緊張が立ち込めた。出入口と傭兵団長の周囲を固め、簡単に逃がさぬようにはしたものの、こちらのほうが追い詰められた気分である。
「……ちょっと待て。彼らにそんな高値で傭兵を雇う金があるのか?」
 シーシュフォスの問いにグレッグは耳をほじって「スポンサーの金でしょうね」と答えた。クルージャ砦にはパトリア金貨が五百枚近くあると聞き、十人委員会の面々がざわめく。
「ご、五百!?」
「なかなかの大金じゃねえか」
「まさかそれほど隠し持っておるとはのう……」
 お歴々たちはぼそぼそと何やら小声で話し合う。短い擦り合わせが終わると委員の中でも弁の立つ外交官カイル・チェンバレンが恭しく膝をついた。
「グレッグ殿、あなたとて数多くの部下をドナ・ヴラシィ軍に討たれたはず。賃金を据え置くとは言いません。値上げの努力は最大限いたします。どうか今少しアクアレイアに味方してはもらえませんか?」
 傭兵団長のリアクションは薄い。「どれくらい出せるんだ?」と具体的に問う彼に二百五十万ウェルスの雇い料が提示されるとグレッグは嘆息とともに首を振った。
「去年は敵対してた領主に今年は奉公する、なんてこと俺たちには日常茶飯事だ。あっちは六百万も出すって言ってくれてんだぜ? 二百五十万じゃ話にもならねえよ」
 上流貴族の貯蓄さえ尽きかけている現状を思えば今の王国には百万ウェルスの値上げが関の山だろう。既に多くの貴族が祖国のためと身銭を切ってくれている。これ以上は叩いても埃一つ落ちてはくるまい。
「……私の味方だと言ってくれたのは嘘だったのか?」
 わなわなと怒りに肩を震えさせてチャドが尋ねた。グレッグは多少慌てたが、すぐに気を取り直して「王子とご一家の安全は保障しますよ! 一緒に公国へ帰りましょうぜ」と持ちかける。
「少し会わない間にすっかり金勘定が得意になったらしいな! 見損なったぞ、グレッグ!」
「い、いや王子、王子だって傭兵団の生活苦は知ってるじゃ……」
「なら差額の三百五十万は私が払ってやる! さあ、来月からのアクアレイアとの契約書にサインしろ!」
「も、もう! 俺がマルゴー人からは金取らない主義だって知ってるでしょ!」
 チャドは羊皮紙とペンを押しつけるがグレッグは頑なに受け付けない。二人はしばし取っ組み合いの喧嘩を続けた。
「馬鹿だ馬鹿だと誰がお前を笑っても、私だけはいつもお前を信じていたのに!」
「だ、だから王子に悪いようにはしないってさっきから」
「いいや、お前は根本的なことがわかっていない! 金に目が眩んでいるのだ!」
「無償でお守りしようってのに、その言い方は酷くないです!?」
 諍いを止めたのはイーグレットの提案だった。
「……ではクルージャ砦を陥落した際、出てきた金貨を全て君たちの取り分とするのはどうだろう?」
 これは順当な妥協案に思えたが、グレッグのお気には召さなかったようだ。やはり首は横に振られる。
「あっちも全額手元に持ってるとは限らないんでね。まあ前金として四分の一は先にいただくのが通例なんで、海に捨てらんなきゃ百五十万はぶん取れると思いますけど」
「……ということは、君たちに六百万払うにはあと二百万ウェルス融通できればいいわけだな?」
 王と提督と十人委員会は再度相談を開始した。「美術品を売りさばけば」とか「買い手がつくまで時間がかかるぞ」とか不安げな声が漏れてくる。
 アクアレイアのお偉方が右往左往しているのを見てグレッグはニヤついた。マルゴー人の僻み根性だ。金持ちの目を白黒させるのが傭兵どもは大好きなのだ。
 こうなってはチャドの声もグレッグの胸に響かなかった。アクアレイア王家の一員として歩み始めようとしていた王子の心など、庶民の傭兵団長には最初から想像できなかったのかもしれないが。
「で? 陛下、結局どうなさるんで?」
 余裕たっぷりにグレッグは尋ねる。困り果てて押し黙るイーグレットを見て傭兵団長は完全に調子づいた。王への無礼がルディアの怒りを加速させているとも知らず。
「もし払えそうにないってんなら、残念ですけど俺らはあっちに鞍替えしますよ?」
 振り返ってみれば薄い氷の上を渡るかのような二ヶ月だった。王家ばかりか政府の信用まで失墜するし、取り調べなど受ける羽目になるし、謀反人は自由を得るし、国庫は燃えるし。間に合わせの市民兵や数の足りない海軍が初戦を持ち堪えられたのも奇跡だった。グレースがブラッドリーを見つけてくれたのだってそうだ。何が欠けてもこの逆転劇は実現できなかった。
 やっとの思いで手繰り寄せた勝利をたかが六百万ウェルスごときで引っ繰り返されてたまるか。私のアクアレイアはこんなところで終わる国ではない。

「……三点だ」

 不機嫌を隠しもしない呟きが天幕に低く響く。
 焦り顔で金策を考えていた十人委員会とシーシュフォスが、怒りに青ざめたチャドが、瞠目したイーグレットが、アルフレッドとレイモンドが、腕を組むルディアを見つめた。
「は?」
「傭兵団長として貴様は三点だと言ったんだ」
 聞き返してきたグレッグの間抜け面を睨みながら答えてやる。思わぬ侮辱に愚か者は「なんだと!?」と声を荒らげた。
「能なしに能なしと言って何が悪い!? 状況把握も満足にできないくせに、よく偉そうに踏ん反り返っていられるな!」
「ああ!? 状況わかってねーのはてめえだろ! 舐めた口ききやがって!」
「や、やめんかブルーノ・ブルータス!」
「グレッグ殿を怒らせるんじゃない!」
 ルディアを黙らせようとして十人委員会の老人が怒鳴る。雑音は頭から無視して更に大きく声を張った。
「だったら答えろ! 普段の貴様の主な雇用主は誰だ!」
「はあー!? んなもん聞いてどうすんだ!?」
「いいから答えろ! 答えないなら私が言うぞ! 飽きもせず年中身内で戦争ばかりやっているパトリア古王国の腐れ貴族どもだろう!」
「それがどうしたっつーんだよ!」
「馬鹿者が! パトリア古王国軍とドナ・ヴラシィ軍がアクアレイアの包囲網を完成させたとき、パトリア貴族の連中がどう考えたかもわからないのか!?」
「ああッ!?」
「パトリア貴族はこの戦い、どちらが勝つと踏んでいるかと聞いているんだ!」
 ルディアの怒声にグレッグが瞬きする。根っこは素直な性分の彼は短い沈黙を挟んで「……ドナ・ヴラシィ?」と答えた。
「そうだ。二ヶ月前の我々は飢えるしかないと思われていたんだ。つまり傭兵団があちらに乗り換えて勝ったところで奴らにはなんの意外性もない! 寧ろ不利な立場のアクアレイアを見捨てたと思われて終わりだ! だがこのまま我々がドナ・ヴラシィ軍を破ったらどうなる!? 絶体絶命のアクアレイアを救ったのは何者だったか、誰の目にも明らかではないか!」
「……そ、そりゃそうだが、傭兵が強い側に味方するのは別に普通の……」
「まだ言うか!? だから貴様は三流だというんだ! この戦いに勝利すればグレッグ傭兵団というブランドがどれほど価値あるものになるか、高い給金を払ってでも引き入れたい戦力になるか、そういう未来の試算が本当にまったくできないのか!? 単発で六百万ウェルス稼ぐのと、高額雇用が永続するのとどちらが傭兵団のためになる!? 言っておくが、こんな物語じみた大舞台は百年に一度だぞ! ここで将来に投資できず、目先の大金に手が出るようなら貴様は一生三点の阿呆団長で終わりだな!」
 空気がビリビリ振動する。誰もが無言で息を飲む。
 気迫に押されたグレッグは座ったままで後ずさりした。
「しょ……将来に、投資?」
「そうだ。アクアレイアの繁栄は先を見通す眼力を持った商人たちの賜物だ。お前もそんな人間になれ! そうすればマルゴーももっと豊かな国になる!」
 きっぱりと言い切るとルディアは腕を組み直した。「わかったか!?」と強い語調で戦士に問えば、雰囲気に飲まれたグレッグが小さく頷く。
 仁王立ちのままルディアはクイと顎を動かした。すると両脇から羽根ペンを持ったアルフレッドと契約書を持ったレイモンドが歩み出る。
「サインはここに」
「おっさん、あんた最高についてるぜ!」
 もはやグレッグはルディアの言に逆らわなかった。交渉はきっかり二百五十万ウェルスで決着した。
「うむ。アクアレイア商人はマルゴー傭兵の活躍ぶりを行く先々で知らしめるだろう」
 そうイーグレットが約束するとグレッグは深く感謝の意を示す。
 単純な男で良かった。顔には出さず、一同はホッと胸を撫で下ろした。




 一難去った天幕の外でレイモンドはふうと息を吐く。最悪の事態にならずに良かったが、酷く疲れた。
 たとえ相手がマルゴー人のグレッグでもアクアレイアを裏切れると思われるのはやはりつらい。落ち着いてくるとその事実がじわじわ心を苦しめた。
 何度こんなことを繰り返さねばならないのだろう。それとも一生こんなことが続くのが自分の人生なのだろうか。
「お手柄だったな、レイモンド」
 と、背後でルディアの声がした。振り返り、レイモンドは冗談っぽく溜め息をつく。「金出せばなびくって思われてただけだ」と。
「いいじゃないか。お前のところにその手の話が集まると助かる」
 皮肉でもなんでもなくルディアは笑う。人の気も知らないで勝手なお姫様だ。
 きっとルディアはこんな傷つき方をしたことなんてないのだろう。当たり前にアクアレイアを愛していて、皆からもそれが当たり前だと認められている。いつも誰からも根なし草扱いの自分とは大した違いだ。
「お前が本当に仲間を売るような男なら困るがな」
「……仲間と思ってるのはそっちだけかもしれないぜ?」
 挑発的な笑みを浮かべて姫君の顔を覗き込んでみるが、レイモンドの脅しを真に受ける彼女ではなかった。「実際そうしなかったではないか」と軽い口調でいなされる。
「大体お前は汚い金が嫌いだろう? いや、と言うより金を汚すのが嫌いなのかな。不当な請求は絶対にしないし、そこは感心しているよ。上っ面しか見ていない奴にはわからんようだし、本当に都合がいい」
「――」
 意外な評価に面食らった。「ケチ」「がめつい」は絡み半分でよく言われるが「金を汚すのが嫌い」は初めてだ。
「俺、そんな風に見えるの?」
「なんだ? 妙なところに食いつくな。防衛隊の給与を裁定する私が言うのだ。間違いない」
「ふーん。へーえ? ほぉぉー?」
「なんなんだ一体。ニヤついていないでそろそろ警備に戻るぞ。クルージャ砦の奪還までもう一息だ、気合いを入れろ!」
「おうっ! 任せとけっ!」
 いつの間にか落ち込んでいた気分はすっかり楽になっていた。己としたことが敵軍の企みを未然に防いだ功績の特別手当を打診するのも忘れるほど。
 ドナ・ヴラシィの敗北が決定したのはこの十日後のことだった。




 ******




 日増しに強くなる悪臭。体温を奪い去る隙間風。食べる物も飲む物も尽き、砦は死に満ちていた。
 瓦礫と骸に躓きながらリーバイは階下の軍港を目指す。まだ息のある仲間に魚を食べさせてやりたかったから。
 しかしなかなか足が進まない。全身が鉛のようである。
 細い通路に横たわるサロメの側を通り過ぎた。彼女は砲撃を受けた際、壁の崩落に巻き込まれて死んだ。
 そのすぐ側には幼い女の子とランドンの遺体。老将は悲嘆に暮れて動かなくなった。
 やっと階段に辿り着くも、まともには下りられない。段差の前で座り込み、港の遠さに息を吐く。
 誰か手伝ってくれないか。そう呼びかけようとして砦がしんとしているのに気づく。
 いつの間に呻き声すら止んでしまったのだろう。これでは魚を獲ってきても誰に食べさせればいいかわからない。
 リーバイは冷えた石壁に身を預けた。もはや一歩も進めそうになかった。
(このまま終わりか。呆気ないな)
 重い瞼をそっと伏せる。
 ひと目でいいから妻と子供に会いたかった。「おかえりなさい」と家に迎えてほしかった。
 それくらい願っても良かったはずだろう。それくらい願っても。
「…………」
 誰にともなくごめんなと詫びる。連れて帰れなくてごめんなと。
 ――不意に遠くで大勢の足音が聞こえた。
 誰だろう。ついにアクアレイア軍が砦内部に踏み込んできたのだろうか。
 耳を澄ませて確かめようとするけれど、意識は掠れて遠のいた。
 間もなく冷たい暗闇がリーバイを包み込んだ。




 ******




 クルージャ砦に王国旗が返り咲くと、国民は貴族も平民も抱き合って喜んだ。
 勝敗の結果を知ったパトリア古王国軍も包囲網を解いて撤退し、脅威は全て消え失せた。アクアレイアには二ヶ月ぶりの平和が戻ったのだ。
 シーシュフォスともども称賛を浴びるバルコニーの父を見上げてルディアは頬を綻ばせた。民衆は本気で王を見直したらしく、口々に「ダイオニシアス様とアリアドネ様の血を見事に受け継いでいらっしゃる」と誉めちぎった。
 雨降ってなんとやらだ。祝勝会だ、波の乙女に感謝が先だ、俺は陛下の石像を作るぞと人々は大いに盛り上がる。移り気な彼らが今度はどれくらい支持を保っていてくれるかは不明だが。
 本当に大変なのは寧ろこれからである。公式に天帝に抗議せねばならないし、アンバーとアイリーンがどうなったかも調べないといけない。東方交易を本来の軌道に戻すまで、まだ安心はできなかった。
「――ん?」
 歓喜に沸く国民広場に鐘の音が鳴り響いたのはそのときだった。間を置かず「船だ」との声が耳に飛び込む。
 まさかドナ・ヴラシィ軍の残党か、と防衛隊は目配せし合った。だがそれはルディアの杞憂だったらしい。しばらくして大運河に現れたのはアクアレイア旗を掲げたガレー船だった。
「一隻ぽっちでどうしたんだろ?」
「漕ぎ手が疲れ切っている。かなり急がせたみたいだな」
 ハートフィールド兄妹が背伸びして観察する。まだ他の商船団が帰ってくる時期でもないし、なんだか嫌な予感がした。
「……宮殿へ戻ろう。一隻だけということは急使の可能性が高い」
 ――果たしてルディアの読みは的中した。ガレー船は一週間前、コリフォ島海軍基地を出航してきたものだった。曰く彼らは、ノウァパトリアから命からがら逃げだしてきた複数のアクアレイア商人に「とんでもない政変があった」と聞かされたらしい。

「ひ、東パトリア帝国の皇帝が殺された!?」

 いつも通り王女の寝室に集まった面々はブルーノから使者の伝言を聞くなり絶句した。
 しかも話はそれだけでは済まなかった。息を潜めてブルーノは衝撃的な報告を続ける。
「それで皇妃は自分の息子を帝位につけたそうなんですが、東パトリアの正統な後継者はアニーク姫のはずだと天帝からの物言いが入って……。先の皇帝の暗殺も皇妃親子の仕業に違いないと断定され、二人とも処刑されたそうです」
「しょ、処刑……!?」
 馬鹿なとルディアは目を瞠る。いかにジーアンの力が絶大でも他国の内政に口出しする権限があるはずない。まさかアニークがヘウンバオスに頼ったわけでもあるまいし。
「お、皇女は? アニーク姫は生きておいでなのか?」
 アルフレッドも血相を変えて問いかけた。騎士は気が気でないだろう。ほんの短い間だが親身になって世話した相手だ。
「ええと、順を追って話すね。そもそもヘウンバオスが挙兵したのは『不当に玉座を占拠する逆臣を排除し、継承権第一位の妻を即位させるため』だったんだ」
 待て待て待て。話を聞いているだけで眩暈がしてくる。妻とはなんだ。どういうことだ。それではあの男は、最初から傀儡政権の確立なんて生温いものを狙っていたのではなくて――。

「ヘウンバオスは女帝アニークと結婚して、東パトリア全域の支配権を自分のものにしたんだよ」

 やられた。ジーアン帝国の真の狙いはこちらだったのだ。ドナ・ヴラシィをけしかけたのは時間稼ぎに過ぎなかった。本当は親アクアレイアの皇妃が王国海軍に助けを求めるのを妨害していたのだ。
「東パトリア全域って……、ノウァパトリアもクプルム島もエスケンデリヤもイオナーヴァ島もミノア島もか?」
 レイモンドの問いに息を飲む。槍兵が並べたのはアクアレイアにとって重要な交易地ばかりだった。
 喉元の刃をかわしても心臓を掴まれたのでは身動きできない。
 嵐はまだ過ぎてくれそうになかった。









(20150801)