「アウローラ……ですか?」
「ああ、天空の光を司る女神から取った名だ。ぴったりだろう」
 健やかな寝息を立てる我が子を抱いてルディアは微笑む。小さな姫に名前が欲しいと乞うてきたブルーノは意外そうに瞬いた。
「ですがそれでは姫様と同じ由来になるのでは?」
 彼の疑問はもっともである。音こそ違うがアクアレイアに親子で揃いの名を持つ者は多くない。寝台を囲む防衛隊の面々もルディアの案に目を丸くした。
「私はやはりルディアであってルディアでないからな」
 静かな声で名づけの真意を語る。不穏な切り出しにアルフレッドたちは表情を曇らせた。
 ずっと考えていたことだけれど、打ち明ける気になったのは今日が初めてだ。墓場まで持っていくつもりだった弱気な言葉を。
「知らずに育てられたから、騙したわけではないと思いたいが、私は所詮ただの身代わりだ。本物の『ルディア』は死んでもういない。己が何者であるかを知ってこの国を守りたい気持ちは以前より強くなったものの、王位を継ぐには正当性に欠けてしまうと感じていた。だから――」
「生まれた赤ちゃんにルディア姫のやり直しをしてほしいって?」
「……ま、そういうことだな」
 モモの問いかけに頷くやバジルが「そんな」と首を横に振る。「僕は姫様こそルディア姫だって思ってますよ!」との熱弁を受け、思わず苦笑した。
「ありがとう。そう言ってもらえると安心する」
「ふーん。ごちゃごちゃしたことはわかんねーけど、俺は給料貰えるなら姫様がなんだって構わないぜ」
「ははは、お前はわかりやすいな」
「モモも姫様がルディア姫やればいいと思うよー。元の姫様は帰らぬ人なんだし、姫様より姫様に向いてる人なんていないでしょ?」
「うむ。実は私もそう思っている」
 冗談まじりに答えると一同に軽い笑いが起きた。「なんだか雰囲気が変わったな」とアルフレッドに瞠目され、ブルーノにも「前より明るくなられたような」と評される。
 棘の抜けた自覚はあった。虚勢を張る必要がなくなって、自然とそうなったのだ。
 全てを託せる相手がいるというのはなんと心強いのだろう。とても晴れやかな気分だ。今ならなんでもできる気がする。依然変わらずアクアレイアは敵対勢力に包囲されているというのに。
「もう一つ重大発表がある」
 こほんと咳払いすると、なんだなんだと皆が前のめりになった。笑ったままでルディアは告げる。「防衛隊も今日からグラキーレ島へ出るぞ」と。
「ええっ!? 戦場へは行かないんじゃなかったんですか!?」
 叫んだのはバジルだった。折角危険のない宮廷勤めなのにと青い顔に書いてある。弓兵はモモが心配なのだ。
「本当!? 思う存分戦っていいの!?」
 当の斧兵は喜色満面で念押しした。頷くルディアを見てモモはきらきら瞳を輝かせる。
「やったああ! 毎日アンディーン様にお祈りしてて良かったー!」
「それにしても何故急に方針を変えたんだ? 前線へ出る気はないと断言していたのに」
「私が死んでも王家は終わりでなくなったからな。思いきり難敵にぶつかってみたくなった。いけないか?」
 ルディアがアルフレッドに尋ね返すと騎士は「いいや」と笑い返した。
「それなら俺たちは全力であなたを守るだけだ」
 満足のいく返答。満足のいく眼差し。
 忠誠と信頼をありがたく思う。良い部下に恵まれたと。
 重かった枷が一つ外れた。これからはもっと自由に駆け回れるはずだ。己の心の求めるままに。
「我々は基本的にチャドと行動をともにする。戦況によっては市民兵や海軍に加わる可能性もあるが……」
「はいはい! 特別手当つく?」
「戦果を挙げればな。前線は弩弓の撃ち合いがほとんどだ。この中ではバジル、特にお前に期待しているぞ」
 名指しされた少年は「えっ!?」と声を裏返した。敵軍にも百発百中の名手がいるらしいと教えてやるとバジルはアイリーンばりにうろたえる。
「ぼ、ぼぼぼ僕、こういう対人戦にはあんまり自信が……っ」
「甘えたことを言っている場合か。お前の弓なら敵に攻撃が届くのだから気合を入れろ。他の者もいつもの装備だけでなくクロスボウを準備しておけよ」
「はーい!」
 一番元気に返事をしたのはモモだった。嬉しくて堪らないという様子で彼女は屈伸運動を始める。
 ルディアは寝台から心配そうにこちらを見上げるブルーノに腕の中の赤子を委ねた。「頼んだぞ」との声がけにレイモンドが「やっぱ夫婦みてー」とこぼす。
「やめろ。人が聞いたら誤解を招く」
 嘆息を一つ挟んでルディアは剣の柄を握った。アルフレッド、レイモンド、バジル、モモ、ブルーノと、しっかり瞳を交わし合う。
 彼らがどこまでついてきてくれるかはわからない。だが今日まで秘密を守り、側にあってくれたことを感謝したい。そしてできればこの先も。
「出陣だ」
 マントを翻したルディアの後に四人の足音が続いた。
 昨晩王都に降り積もった綿雪は陽光を浴びてゆっくりと溶け出していた。




 ******




 打ち鳴らされる荘厳な鐘の音。突如として響き渡ったトランペットの高らかなファンファーレにリーバイたちはぎょっと目を剥いた。
 アクアレイア海軍が総攻撃でも仕掛けてきたのかと思ったが、砦の矢間から覗く限りそんな気配は見られない。新年の祝祭には二日ほど早いし、一体なんの騒ぎだろうか。
「ふん、きっと王国にはまだまだ余力があると見せかけたいのじゃろう。包囲するだけ無駄じゃとな」
 落ち着いた声で分析する老将ランドンになるほどと頷く。
 リーバイたちはルディアの懐妊自体を知らず、これが小さな姫の誕生を祝うささやかな演奏だとは微塵も気づいていなかった。小癪なあの国のやりそうなハッタリだと忌々しく舌打ちした程度で。
 敵になると決めてからアクアレイアを庇ったり誉めたりする者は誰もいなくなっていた。あいつらは助けにきてくれなかった。使うだけ使って自分たちを切り捨てた。そう思い込んでしまったほうが冷酷になれるとわかってきたのだ。
 仮初の憎しみは今や本物の憎悪として凝り固まりつつあった。疲れや寒さ、傷つき倒れた仲間の呻きが被害妄想をより強固にしてくれた。
 これでいい、とリーバイは考える。アクアレイア人に詫びるのは故郷の土を踏んでからでいいと。たとえ恨みの旗の下でも、今は仲間が一つにまとまってくれていれば。
「しかしそろそろ一ヶ月か。奴ら意外に粘りやがる」
「早々に食べるモンがなくなると踏んでたのにな」
「何、じきに国庫も空っぽになるさ。そうなりゃ連中の間にこっちに付きたいって奴が出てくるはずだぜ」
「ああ、それまでの辛抱だ。皆、焦るんじゃないぞ」
 リーバイは定期報告に集まっていた各ガレー船のボスを励ます。
 クルージャ砦を奪ってから戦況は自軍優位で安定していた。グラキーレ島に出す船は四隻もあれば十分だったし、岬に敵兵が上陸してくる兆しもない。
 アクアレイアの戦力不足は明らかだった。戦おうにも潟を出られず、ラッパを吹いて虚勢を張るだけ。そんな連中に怯える必要は皆無である。
「流石に春まではもたねえさ。奴らは結局決死隊すら編成できずにいるんだしな」
 商船団が帰還するのは早くて三月後半だった。それまでに王都の占拠が完了していればなんら問題はない。
 補給なし、耕作地なしで十万人を養い続けられる都市などありはしないのだ。勝利の女神はドナとヴラシィに微笑んでいる。信じて待っていればいい。




 ******




 最高潮まで達していた昂揚は、第一矢を放つなりその矢と一緒に急落した。モモは支給されたクロスボウをいじり回して「不良品じゃないの!?」と憤る。ようやく前線に立てたのに、敵船に掠りもしないなんて!
「うわーん! 頑張って限界まで巻き上げたのにー!」
 グラキーレ島の石砦に悲嘆の声がこだまする。モモの射た矢は無様に波間を漂った。その少し奥、クルージャ岬の手前にはドナ・ヴラシィのガレー船団が戦闘態勢で停まっている。予定ではちゃんとあそこに届くはずだったのだ。
「今日は横風がありますしね、クロスボウでの曲射は弾道が安定しませんから……」
「じゃあ真っ直ぐ撃てばいいの!?」
「平射じゃ飛距離が出ませんよ」
「だったらモモの攻撃どうやっても当たらないじゃん!」
「いいじゃないですか。向こうの攻撃もこっちに届かないってことなんですし」
 バジルに諭されて憤慨する。自分は戦場を見学しにきたのではない、戦場に参加しにきたのだ。こんな近くで指をくわえて見ていろなんて酷すぎる。
「仕方がない。俺たちはチャド王子とバジルのサポートに徹しよう」
 自分のクロスボウを試し撃ちして無駄だと悟った兄までもがさっさと武器を片づけた。レイモンドとルディアの二人も隊長に倣う。
 クロスボウ――いわゆる弩は船乗り全員に携帯が義務づけられているくらい海ではお馴染みの装備である。使い方は簡単だ。引き金のある台座に水平に弓を取りつけて、滑車とロープの組み合わさったハンドルをぐるぐる回し、弦を引っ張り、太い矢を設置する。後は的に狙いをつけて発射するだけ。専門性もへったくれもない誰でも扱える道具だが、装填に時間がかかるのと長弓ほどは飛ばせないのが弱みだった。
 対してバジルとチャドの愛用するロングボウは発射が速いだけでなく、射手の技量次第で風も計算に入れられるし、曲射の角度もつけやすいし、まさしく痒いところに手が届く逸品だ。「弩があるから別にいい」なんて言わないで自分も少しくらい嗜んでおくのだった。
「ねえ、モモ海岸に下りちゃダメ? グレッグのいる辺りだったらクロスボウでも届くと思うんだけど……」
「駄目に決まっているだろう。お前は護衛のくせに王子をほっぽりだして戦う気か?」
 生真面目な兄に嘆息される。そうだよねーとモモはがっくり肩を落とした。ユリシーズやシーシュフォスの船に乗せてもらうのは手柄を横取りされそうで嫌だし、悔しいが諦めるほかないらしい。

「あのー、こっち一緒にやる?」

 と、胸壁の片隅から傭兵団の少年が声をかけてきた。彼の横には傷んだ矢が山と積み上げられている。少年はギプスの巻かれた片足を作業台代わりにして矢のリサイクルに勤しんでいるようだった。
「あっ! こないだ砲台からチャド王子を守った子だ?」
「いや、べ、別に守ったってほどじゃ」
「小さいのにお手柄だねー。名前はなんて言うの?」
「ド、ドブだけど……」
「ふーん! モモはモモだよ!」
「うん。さっきから自分のこと名前で呼んでるから知ってる」
「ほんとだ! バレてた!」
 モモはニコニコしながらドブに近づいた。暇潰しになりそうな仕事があって良かったと隣に腰を下ろす。するとバジルが顔色を変えて振り向いて「ななな、なんで仲良くなってるんですか!?」と叫んだ。
「うるさいなあ、バジルは戦えるんだから真面目に戦ってて。モモはこれからドブにゴミ矢の直し方を教えてもらうから」
「後ろで楽しそうにされたら気が散って戦えませんよ!」
「は? それじゃバジル、モモの直した矢がいらないの?」
「すみませんでした使います。あと記念に一本取っておきます」
 欲望に忠実な弓兵が前へ向き直ると手持ち無沙汰のレイモンドたちも補修の輪に加わった。座ると海や浜の様子が見えなくなるせいか、戦場とは思えないなごやかな空気が漂う。
「しっかし拍子抜けだなー。一応槍も磨いてきたのに」
「ああ、俺もまさか敵船が弩の射程距離にさえ入ってこないとは思わなかった」
「でもさ、傭兵はちゃんと撃ち合いできてるんだよ。単にモモたちの場所取りが終わってるんだよ」
「まー俺らは王子様の安全第一だからなあ」
「とか言ってレイモンド、ほんとはラッキーって思ってるでしょ?」
「へへへ、だって俺危ないの嫌いだもーん」
 悪びれもせず槍兵は舌を出す。モモが「バカバカ! モモは戦いたいの!」と怒るとそれまで無言で王国湾やクルージャ岬を観察していたルディアが口を開いた。
「そう腐る必要はない。出番なら必ず来る」
 確信めいた口ぶりにモモはぱちくり瞬きする。王女は淡々と言葉を続けた。
「シーシュフォス提督が何をする気か大体読めた。あの男は内通者が出るのを恐れて策の全容を明かさないのだな」
「お、おお!」
「一体どんな策なんだ?」
「モモも聞きたーい!」
「馬鹿者、私が言ってしまったら元も子もないだろう。だがいつそれが来てもいいように、刃は常に研ぎ澄ませておけよ」
 ぎろりと鋭く睨まれてモモたちは姿勢を正す。何故かドブまで萎縮していて笑ってしまった。ルディアの威圧は隣国の少年にまで通じるらしい。
「そう言えば僕の父さんも、技師として国営造船所に呼び出されてるんですよね」
 そこに矢筒を空にしたバジルが小走りに駆けてくる。きっと寂しくて会話に混ざりにきたのに違いない。
「技師として? ガラス工がか?」
「ガラスじゃなくて鋳造のアドバイザーだそうですけど、僕も詳しくは……」
 ルディアの問いに弓兵はかぶりを振った。腕いっぱいに新しい矢を抱え込むとバジルはチャドのすぐ横に戻る。バシュッ、バシュッと小気味良い風切り音を響かせる幼馴染を見ていたら羨ましくて堪らなかった。
 できるだけ早く提督が秘策とやらを実行してくれますように。
 包囲が解けたらアンバーとアイリーンの無事を確かめにいけますように。
 モモはそう祈らずにはいられなかった。




 困ったなあ、とバジルは秘かに眉を寄せる。本当に困った。さっきから全然、びっくりするほど弓が言うことを聞かない。こんなのは初めてだ。
 取り繕って射てはいるが、矢は飛びすぎるか飛ばなさすぎるかのどちらかで、まだただの一人も仕留められていないように感じる。チャドはしっかり敵軍を脅かしているというのに。
「実戦は初めてかい?」
 惨状を見かねたらしい王子がこっそり話しかけてくる。ひそひそ声で「いえ」と返すとチャドはおやっと首を傾げた。
「獣ではなく人間を相手にするのも?」
「ええ、海賊船に遭遇した経験は人並みにありますから」
「ふむ、であれば身体が硬いのは別の理由だな。思い当たる節はあるかい?」
 問われてバジルは考え込む。防衛隊も攻撃に加わると聞いて最初に心配したのはモモの安全についてだった。その次に浮かんできたのは「戦いたくない」という率直な思い。
 バジルが初めて海に出たのは十一歳の夏のこと。ドナの港から陽気な水夫がわんさかと船に乗り込んできたのを覚えている。その次のヴラシィの港でも。
 対峙する敵船にあの頃世話になった誰かがきっと乗っている。そう考えると弓を引く手に震えが走った。
 殺意はおろか害意も湧かぬではどうしようもない。偽れないのが長弓だ。我ながら馬鹿だと思う。こちらが武器を下ろしたところであちらは戦いをやめてくれはしないのだから。
「……悪人だって認識してないせいでしょうね」
 矢をつがえるが腕はおののいたままだった。指も少しも普段通りに動かない。本格的にモモや皆が戦うことになったときのために一人でも敵を減らしておくべきなのに。
「そういう戸惑いは誰にでもある。幸い我々の戦場は緩慢だ。焦る必要はないさ」
 強く矢を射るチャドの励ましは優しかった。てっきり叱咤されると思ったのに、ゆっくり気持ちを慣らしていこうと力づけられる。
「的を見ないで私と同じ方向に飛ばすことだけ心がけたまえ。その後に死体が転がっていても私がやったと思えばいい。言い訳しながらでなければ人は案外戦えないものだからね」
 えっとバジルは糸目の王子を振り返った。遠慮するなと言うようにチャドは顎で敵船を示す。
「稀にだが、マルゴー人同士が敵として巡り会うことがある。雇われ兵の悲愴なところだ。もしどうしても一戦交えねばならない場合は今私が言った通りにやるのだよ。誰が同胞を殺したか、絶対にわからないように」
 壮絶な裏事情を聞かされて背筋が凍った。傭兵大国の王子は平常と変わらぬ笑みでバジルに構えを催促してくる。
「ほら、騙し騙しでも頑張りたまえ。君にも可愛い人がいるんだろう?」
 意を決し、バジルは矢筒の矢を抜いた。飛距離を出すために少し斜めに背を反らす。隣ではチャドが同じ姿勢を取っていた。
 放った矢はどこまで飛んで落ちたのだろうか。どうにも不安の拭いきれない参戦一日目であった。




 ******




「サロメ、これはどういうこと?」
 顔をしかめて問うケイトに少女はギクリと肩を強張らせた。ケイトの手には動かぬ証拠が握られている。気晴らしに救護院中の掃除をしていたら出てきたビスケットの袋だ。
「あなたのブランケットにくるまれていたのだけど?」
 サロメ姉妹が使用している個室の寝台を指差しながら迫ると彼女は誤魔化すように笑った。あちこちを泳ぐ視線が人には言えないやり方で手に入れたものだと証明している。確かにここ数日、救護院用の食事は量といい質といい一層貧しくなっていたけれど。
「まさか盗んできたんじゃ……」
「ちょ、人聞きの悪いこと言わないでよ。そのビスケットは親切な人に貰ったの。見つかっちゃったものはしょうがないし、内緒にしててくれるならケイトにも少し分けてあげるわ」
「貰ったってどこの誰に? 盗んだんじゃないならどうして今まで黙っていたの?」
 まだ疑いの目を向けるケイトにサロメは「しつこいわねえ」とうんざりした態度を見せる。観念したのか開き直ったのか、彼女はあっさり入手経路を自白した。
「食物庫の番をしてる若い兵隊さんよ。お喋りして仲良くなったの。妹がお腹を空かせてるって言ったらこっそり持ち出してくれただけ! 言わなかったのは二人分しかなかったから! どう? これで満足?」
「若い兵隊さんって……」
 ケイトはもしやと息を飲む。懸念はすぐさまサロメが自分で否定した。
「言っておくけど不道徳な関係じゃありませんから! 純粋に同情してくれたのよ。海軍って貴族のお坊ちゃんしかいないのね。ころっとほだされちゃって面白かったわ。うふふ、あたし女優になれるかもしれないわね」
 妙に得意げに彼女が赤髪を掻き上げる。年齢にそぐわない肉感的な胸を突き出され、ケイトは頬を赤くした。
 何をやっているのだこの娘は。実際に交渉がなくとも誘惑したなら同じ話ではないか。
「サロメ、あなたそんな真似して恥ずかしく……」
「ケイトも試してみれば? あなた美人だから救護院の皆を養えるかもよ?」
「サロメ!」
「あはは、冗談だってば。ケイトにはできっこないない。他人にお説教できる立場じゃなくなっちゃうものね!」
 厭味の棘がちくりと刺さる。「どういう意味?」と尋ねるとサロメは苛立ちに表情を歪めて睨み返してきた。
「悪いことはしてないんだから、小うるさく構わないでって言ってるの!」
 ほとんど突き飛ばされる形で部屋の外へと追い出される。固く閉ざされた扉はもうケイトには開かれなかった。




 ******




 ああ、よもや赤ん坊がこれほどわんわん泣き叫ぶ生き物だとは知らなかった。生まれたその日は怒濤のごとく過ぎ去ったから考える暇もなかったが、一週間、二週間と経つにつれ、小さな嵐はますます猛威を振るうようになっている。
「はあああ…………」
 ブルーノはうつ伏せた枕に深々と息を吐いた。
 わかった、わかった、抱っこしてやればいいのだろう。お乳も存分に吸うといい。疲れ果てて眠りにつくまで付き合って差し上げれば――。

「こら、ルディア。お前は大人しくしていなさい」

 寝台を這い出て起き上がろうとした矢先、君主の声に制された。孫を構いに部屋へ来ていたイーグレットが揺り籠の乳飲み子を抱き上げる。子育て経験者なだけあってさすがに慣れた手つきだった。
「おお、どうしたのだねアウローラ? 何がそんなに気に入らないのだ?」
 問いながら国王は笑う。この白い男が屈託なく笑みを浮かべるのは珍しい。特に戦争状態になってからは険しい顔で沈黙してばかりだったのに。
 いい名前だと誉めてくれたのを思い出す。曙の光は女神アウローラの薄衣、きっとこの子が王国に夜明けを導いてくれるだろう、と。
 上手い具合に勘違いしてくれたので本当の由来は明かさなかった。この人が真実を知ったらどんな反応をするのだろう。ルディアを叱ったり抱きしめたりするのだろうか。
(それとも……)
「体調はどうだね? 初産は堪えるそうだから心配だ」
「ええ、もうすっかり。この子が乳母に慣れないので睡眠不足な程度です」
「それはいかん。眠れるときは極力眠りなさい」
 心配そうな目にやや怯む。ブルーノは父に一度もこんな眼差しを向けられたことがなかったから。気遣いどころか友人関係も将来の展望も尋ねられた覚えはない。
 父は――コンラッド・ブルータスは、おそらく息子が別人になったことに気がついていたのだろう。死した王女に脳蟲を入れさせられた張本人だし、同じ時期に二人も被験者を目の当たりにしたのだ。アイリーンを勘当したのはその直後だし、具体的な状況や証拠は掴めなかったにせよ、彼女が何かしたのだと直感したのは間違いない。
 まるきり性格の異なるルディアがブルータス家で暮らしていてもコンラッドは一切関わろうとしないらしい。それを聞いて長年の疑いは確信に変わった。やはりあの人は息子の紛い物を無視することで心の安寧を保っていたのだと。
(姫様たちにはこんな思い、しないでほしいな)
 楽しげに孫をあやすイーグレットを盗み見る。ルディアたち親子がどれだけ互いを思い合っているか知っている。
 悲しい破綻は見たくなかった。ただでさえルディアは『ルディア』の人生を乗っ取った罪の意識に苦しんでいるのだから。
 軽口で茶化していたが自分にはわかる。彼女は今も重圧の中にいる。
 アウローラはルディアにとっても希望の光だ。彼女と王家を結びつける唯一の絆だ。何があっても、たとえ我が身に代えてでも守り抜かなければ。 

「おや、もうこんな時間か。そろそろ委員会を招集せねばな」

 大鐘楼の鐘の音が王都に夕刻の到来を告げる。一日の終わりに街と前線での出来事を報告させるのはもはや十人委員会の恒例行事となっていた。防衛隊やチャドも敵軍が退けばレーギア宮に戻ってくる。
 どうか今日も全員無事であってほしい。祈るしかできないのがもどかしくてならなかった。男の身体に戻れれば自分だって戦えるのに。
 出産が済んだ今もルディアはルディアに戻る気がないようだ。おそらくこの戦いの決着がつくまではと考えているのだろう。
 昔思い描いていたよりもずっと利発で快活な彼女。その輝きがブルーノには堪らなく愛しい。身勝手な同族意識だと、ルディアのほうには特別な思い入れなどないと自覚していても。
 それともこの思慕も脳蟲の本能に分類されてしまうのだろうか。ブルーノが最も美しいと感じるのはアクアレイアのために奔走するルディアなのだ。巣を守りたいがためにその番人を慈しんでいるだけかもしれない。
(……余計なことを考えるのはよそう。あの人に尽くすって誓いは変わらないんだ)
 かぶりを振って起き上がる。寝台の脇の安楽椅子に身を移す。
 黒いローブの重鎮たちは間もなく寝所へ集まってきた。




 ******




 どんな日も太陽は昇り、また沈む。手塩にかけて育てた息子が捕まった日も、祖国が突然戦火に見舞われた日もそうだった。
 日陰者として余生を送るつもりでいたシーシュフォスが海軍提督に復帰してから一ヶ月半の時が過ぎた。精霊祭も新年祭もなかったが、なんとかここまでは王国も平穏無事に生き延びている。先日ようやくお披露目となった新王女の誕生も暗い中でおめでたいニュースであった。
 男たちは「ルディア様似だ」「良かった良かった」と薄めた葡萄酒で乾杯したそうである。宮廷に祝いの品を届けた者も少なくはなかったらしい。その大半は例のお触れに釣り上げられた新アクアレイア人だったという。
 彼らのおかげで飢えの心配は遠のいた。一月も半ばになるが、配給への不満は今のところ出ていない。
 胃袋が満たされている間に市民兵をできるだけ実戦レベルに近づけなければならなかった。決戦のときが訪れる前に。
(結局ガレー軍船は三十隻しか用意できなかったな。船の数でも水夫の腕でも分が悪い。敵の武装船は三十五隻、コリフォ島のを合わせると五十隻近くなる。慎重にタイミングを計らなければ……)
 大運河を上り下りする訓練船の甲板でシーシュフォスは腕組みする。日中のグラキーレでの戦闘後、市民軍を見舞うのが提督としての日課だった。
 以前に比べ、薄闇の中でも船は機敏に動くようになった。だがそれだけだ。船長の振るう鞭に対する反応を見る限り、彼らは新兵以下である。恐怖や苦痛に対する耐性があまりに低い。軍人でもない職人に多くを求めすぎるのは酷な話だとわかっているが。
 国中の建材を掻き集め、果ては廃屋の柱まで持ってきたのだ。どうあっても船はこれ以上造れなかった。一番良いのはブラッドリーたちが帰ってくるまでなんとか持ち堪えることなのだが。
 あの男ならコリフォ島海域での待ち伏せ程度必ず突破してくれる。主力さえ戻れば形勢は五分五分だ。
(……無理があるな。三月下旬までは増えた食糧でも耐えられまい。商船団がよほどの良風に恵まれればまた別だが……)
 シーシュフォスは嘆息した。ブラッドリーを待つにせよ、市民兵を育てるにせよ、時間は稼がねばならない。どこまで粘れるかが勝負の分かれ目だった。
 策はある。踏み切れないのは勝算がまだ低すぎるせいだ。
 素人同然の市民兵が果たして何人血みどろの戦闘に耐えられるだろう。懸念は心に重く圧し掛かった。
(国庫をもっと厳しく監督しよう。ほんのわずかの量り間違いもないように)
 配給の徹底管理。民を生かしつつ細い糸を渡り切るにはそれしかない。
 シーシュフォスは大運河の終点にある倉庫街で訓練船を降りた。
 祖国を思っての締めつけが却って災禍を呼び込むとは予感さえないままで。




 ******




 古びたゴンドラを懸命に漕ぎ、はるばる食糧倉庫の裏手にやって来たサロメを待っていたのは申し訳なさそうに項垂れた衛兵だった。
「本当にごめん! 昨日からチェック体制が三重になって、豆一粒も持ち出せなくなったんだ」
 サロメはぽかんと目を丸くする。今日はオリーブの実を分けてくれるのではなかったのか。妹だって救護院で楽しみにしているのに。
「そんな、あなた少尉なんでしょ? 若いなりに偉いんじゃないの?」
「いや、たとえ僕が中将でも提督直々のお達しじゃ何もしてあげられなかったと思う。在庫は数えられちゃったし、配給表の写しも提出しちゃったから……今日からは、本当にもう」
 すまないと頭を下げられた。まるで縁切りの言葉みたいに。
 誠意で腹が膨れるのならいくらだって聞いてやるが、欲しいのは食べ物だ。謝罪されても意味なんてない。
「……酷い……」
 呟きに男は慌てた。足に矢傷を負っていることも忘れてサロメの側に飛んでくる。こんなことなら家の備蓄を寄付するんじゃなかったとか、女の子の期待を裏切りたくはなかったとか、耳元で不愉快な言い訳が繰り返された。聞いているとだんだん腹が煮えてくる。
 なんて不甲斐ない男だろう。女一人助けられずに何が貴族だ。ふざけるな。
「あなただけが頼りだったのに……!」
 責められた男は弱りきってまた詫びた。謝るしかできないのかと罵倒しそうになるのを飲み込む。
 ここで自分が暴れても仕方ない。下手をしたら食物庫に近づくことさえできなくなる。それは駄目だ。
「何か手はないの? 妹がひもじいって泣くのを見るのはイヤよ」
 訴える身振りこそ大袈裟だが口にしたのは本音だった。
 そもそもアクアレイアが難民にも国民と同じだけの小麦を配分してくれないのが悪いのだ。自分は差し引かれてしまった分を取り戻そうとしているだけで、不当に蓄えを増やそうなんてしていない。なのにどうしてそれさえ叶わないのだろう?
「もし君が市民兵に志願するなら配給量はぐんと増えると思うけど……」
 無神経すぎる男の言葉に一瞬頭が真っ白になった。己の怒りが爆発したのもすぐには認識できなかったほど。
「志願なんてできるわけないじゃない!」
 サロメはキッと衛兵を睨む。悔しさのあまり耐えきれなかった涙がぽたぽたとこぼれた。
(食べるために戦えって言いたいの? 生まれ育った街の皆と?)
 どうかしている。心がないか、さもなくば頭が足りないのではないか。
「ご、ごめん。泣かせるつもりじゃ」
 男は焦って言い訳した。その態度が火に油を注いでいるとも知らず。
 だったらどういうつもりでほざいたのだ。まさかこちらが提案を受け入れて王国民の一員になると自惚れたのではあるまいな。
「――」
 はたとサロメは泣きやんだ。烈火のごとく渦巻いていた怒りもたちまち消え失せる。
 ああそうか、この男は勘違いしているのだ。貴公子の優しさに胸を打たれた哀れな娘が自分にのぼせあがっていると、最初の安い演技を信じたままでいるのだ。
 ぞくぞくと背筋が粟立つ。サロメは頬の涙を拭い、「ごめんなさい」とできるだけしおらしくうつむいた。
「……あなたはあたしのためと思って言ってくれたのよね。だけどあたしにはヴラシィの人に刃を向けるなんてできないわ」
「いや、謝らないでくれ。僕のほうこそ考えなしだった」
 サロメが落ち着いたのを見て男はほっと胸を撫で下ろす。さあもうお帰りと促され、おもむろにその腕に縋りついた。
「あたしたちもう会えない?」
 男は戸惑い、顔を逸らす。「いや、その」と返事は酷く歯切れが悪い。あまり近辺をうろうろされると怪しまれると気にしているようだ。
「今夜もう一度ここへ来てもいいかしら? 何もいらない、ただ今までのお礼がしたいの。それできっと最後にするから……」
 抱きついた男の背中に腕を回す。柔らかな胸や頬を押しつけられ、鼻の下を伸ばした衛兵は若い娘の申し出を拒まなかった。
「ゆ、夕方、提督が国庫のチェックから引き揚げたらしばらく人払いできると思う」
「わかったわ、夕方ね」
「日が沈んだ後しばらく待ってもらわなきゃならないよ。ひょっとして会えるのは夜中になるかも」
「そのほうがいいわ。明るいと恥ずかしいもの」
 わかりやすく照れる兵士に「じゃあ後で」と別れを告げて小舟に戻る。
 倉庫街に背を向けたサロメの両眼は冷たかった。
 夜までにランタンを用意しなければ。それから隠し持てるナイフを。純潔の代償はたっぷりと支払わせてやる。




 ******




 深夜未明、がさごそという物音でケイトは目を覚ました。
 誰かが廊下を歩いている。ぐずった幼い泣き声が聞こえる。
 ひょっとして空腹に耐えかねた子供たちが食べ物を探しているのだろうか。だとしたら無計画に手をつけてはいけないと注意してやらなくては。
 粗末なベッドから起き上がったケイトは廊下の突き当たりの階段を下りた。ちょうど一階へ着いたとき、こっそりと救護院を出ていこうとするサロメ姉妹と鉢合わせる。
「ちょっと、こんな時間に何をしてるの?」
 咎める声に振り向いた少女はいつものサロメではなかった。髪は乱れ、額は黒く煤けており、小さく尖った唇には不敵な笑みを浮かべている。
「ケイト、あたしやってやったわよ」
 上擦った声はどこか誇らしげであった。瞳も爛々と燃えている。
「やったって何を?」
 怪訝に問えば彼女はますます興奮した。血走った目でぺらぺらと早口に己の所業を語り出す。
「食物庫に火をつけたの! 目につく油をそこら中に撒いてやったからすぐに燃え広がったわ! 今頃大慌てで水をかけてるところでしょうね」
「なっ……!」
 予想外の返答にケイトの頭から血の気が引いた。慌てて窓に飛びついて本島のほうを見やると薄闇に紛れて黒煙が立ち昇っている。火勢は相当な勢いだ。遠い救護院からも火の粉が夜空を染める様子が確認できた。
「小火のうちに気づけば消し止められたのに、残念だこと。まああたしが鎧戸まできっちり戸締りさせたせいだけど」
「サロメ、あなた自分が何をしたかわかってるの!?」
「わかってるわ。馬鹿な兵隊さんが眠りこけてる間に敵の兵糧を台無しにしたのよ。どうせあたしたちの口には入ってこないんだから、灰にしたほうが早く決着がつくじゃない?」
 ――信じられない。なんてことを。
 震える膝から力が抜けてケイトはその場にへたり込んだ。まさか彼女がそこまで分別に欠けていたとは。
「恩を仇で返すなんて最低よ! それに食べ物を粗末にして!」
「なんとでも言いなさい。ドナの人間のくせにアクアレイアの肩を持つあなたよりずっとまともでしょ」
 悪びれもせずサロメは言い返す。半分眠りの国にいる幼い妹を抱えると烈火の娘は玄関を開け放った。
「どこへ行くつもり!?」
「お祖父様のところよ! きっとよくやったって誉めてくれるわ!」
 高笑いを響かせる彼女の後を追うことはできなかった。騒ぎを聞きつけた他の難民仲間に止められて。
 町長夫人は「このまま行かせておやり」と首を振った。放火犯としてサロメが吊るし上げられると残った皆が困るから、と。
「そんな……」
 こんなのおかしい。間違っている。
 ケイトは呆然と倉庫街の黒煙を見つめた。大鐘楼が火事を報せる警鐘を打ち始めたのはそれからすぐのことだった。









(20150801)