ハイランバオスと結託してジーアン帝国と内通していたのではないか――。そんな不名誉な疑いを持たれたルディアたち王都防衛隊が釈放されたのは拘留七日目となる十二月八日の昼過ぎだった。
 まったく不毛な一週間を過ごしてしまった。グラキーレの砂洲では今も戦闘状態が続いているらしいのに。
(まあ十人委員会が我々を怪しみもしない愚図の集団でないだけマシか……)
 不服を飲み込み、ルディアは重い息を吐く。王女の寝室には同じく取り調べで疲れきった面々が戻っていた。ルディアとアルフレッドは壁に背をもたれてなんとか体裁を保っていたが、他は全員へとへとで柔らかな毛織の絨毯に五体を投げ出している。
 この七日、ずっと暗いわ寒いわの牢獄生活だったのだ。食事はおろか睡眠も満足に取らせてもらえなかったし、初冬の冷気に身体は凍えきっている。無実の彼らはさぞつらい思いをしたことだろう。
「――は? お前ら尋問一回で済んだの? そんじゃ俺だけ何回も何回も何回もしつこく同じこと聞き直されたわけ?」
 と、珍しく荒れたレイモンドの声が響く。突っかかられたバジルはモモと目を見合わせて「い、一回だけでした……よね?」と確かめた。
「うん、モモは思ってたよりソフトな扱いだったよー。家庭環境とか交友関係とか事前に細かく調べられててウワーとはなったけど」
「あ、それ僕もです。いつカロさんとの関係を尋ねられるかヒヤヒヤしましたよ」
「アル兄はどうだった?」
「俺か? 俺も構えていたよりはずっと穏便に終わったな。隊の実績というか、伯父さんの威光のおかげだと思うが……」
「ええーッ! なんだよそれー!」
 レイモンドは眉間に深くしわを刻んで不機嫌を露わにした。顔の広い槍兵のことだ。それだけ強く警戒されたに違いない。彼とていかがわしげな賭博場や売春宿に出入りしているわけではないが、そこの客や商売人とは知り合いなのだ。どこかで間諜と繋がっている、もしくは彼自身がその役目を担っていると考えられても不思議ではなかった。
「うう、差別だ。なんで俺だけあんなネチネチ……」
 嘆くレイモンドにルディアはふうと嘆息する。連鎖反応的に己の受けた屈辱的な尋問を思い返してげんなりした。この様子だと深夜から早朝にかけて海水の入り込んでくる半地下牢に入れられたのはルディアとレイモンドだけだったようだ。
「安心しろ、私の取り調べも嫌になるほど入念だった。何せ姉が姉だからな」
 言外にアイリーンがジーアンの駒と見なされている事実を匂わせる。面持ちを神妙にして「アンバーたち大丈夫かな」とモモが呟いた。
 彼女らがヴラシィでどうしているかルディアたちには知る由もない。無事に着任できたにせよ、船のない港にいるのではどうしようもないだろうが。
「……あの、姫様、とりあえずこの一週間の報告をしてもいいですか?」
 重苦しい沈黙を破ったのはブルーノの震え声だった。ルディアが顎で促すと臨月間近の腹を擦りつつ妊婦は膝に議事録を広げる。生気の欠けた瞳からして良い話でないのは明白だ。早くもルディアは頭痛を覚えた。
「ではまず現在の戦況から……。陸はパトリア古王国軍、海はドナ・ヴラシィの連合水軍に依然包囲されています。アクアレイアを出ようとすると外国商人でも追い返されてしまうので、マルゴー公国への使いは一向に出せていません。そもそも救援要請をしても古王国軍の妨害でアクアレイアに到達できないのでは、というのが十人委員会の見解でした」
「聖王が一枚噛んでいるとなると、まあ期待はできんだろうな」
「それで選ぶ余地もなく籠城となったわけなんですが、食糧の備蓄がそんなになくて……」
「どれくらい持ちそうなんだ?」
「切り詰めて約一ヶ月半だそうです。今、国民から穀類と豆類を中心に寄付を募っています。食べ物以外の物資やお金も」
「一ヶ月半か。クソ、普段なら倍は国庫に確保しているのに」
「アクアレイアはこの二年、財を減らす一方でしたもんね……」
「で、他はどうなっている? グラキーレ砦や本島側の海門はまだ生きているんだな?」
「はい。でも外海に繋がる出入口だからか、ほとんど毎日攻撃を受けています。グレッグ傭兵団と海軍が張りついて防衛に当たっていますけど」
「市民兵はどうした?」
「前線には出ていません。本島への侵攻を許した場合に備えて所属区の守りを固めています。それと職人階級には航海経験の少ない人も結構いて、櫂漕ぎや弩の特訓が必要だとか」
「そうか。他には?」
「提督命令で国営造船所がフル稼働中です。ドナ・ヴラシィと渡り合うには船も水夫も少なすぎるということで」
「確かに戦力差を埋めなければどうにもならんからな。だがシーシュフォスにその後の策はあるのだろうか?」
「具体的には口にされていませんが、建造できたガレー船の数次第だそうです。ドナ・ヴラシィさえ追い払えばパトリア古王国の包囲は解かれるだろうから、この際聖王は無視しようとも仰っていました」
「ああ、私もそう思う。こちらが攻撃を加えない限り古王国軍に我々を攻める理由はない。それにわざわざ沼沢地に兵を投入するまでもなくアクアレイアの終わりは見えている」
 険しい顔で腕を組むルディアに不安げな皆の視線が突き刺さる。諦めたわけではないが絶望的な状況には違いない。気休めでも「なんとかなるさ」なんて台詞は言えなかった。
「戦闘は小競り合いの域を出てはいないのか?」
 ルディアの問いにブルーノはおずおずと頷く。
「は、はい。実はチャド王子も傭兵団と一緒に戦ってくださっていて、怪我人は出ても死人が出るのは珍しいくらいだと。敵軍船が王国湾に乗り込んでくる気配もないみたいですし……」
「であればやはり陸海の包囲網を維持することが連中の策なのだろう。我々が疲弊して音を上げるのを待っているのだ。小麦が尽きれば牡蠣や魚を食べればいいが、十万人の民の口はいつまでも満たせるものではない」
 唇に指を押し当てて考え込む。
 連合水軍の撃退に集中するのはいいとして、一筋縄ではいかなさそうなのが現状だ。議事録によればドナ・ヴラシィのガレー船は三十五隻。アクアレイアのそれはたった十隻で、うち二隻は小回りが利くだけの小型船である。新しく造るといっても乗り込ませる市民兵が実戦で役に立つ保証はないし、不安要素しかない。
 防衛隊の面々は幼い頃からアルフレッドの騎士修行に付き合ってきたおかげで接近戦も難なくこなすが、普通は男子でも弩止まりだ。いざ白兵戦になったとき、度胸を据えて戦える者が何人いるか甚だ疑問だった。
「……どうにかして国外へ出た海軍に戻ってもらわねばならんだろうな」
「ええ、十人委員会でも決死隊を送り出す準備を進めています。季節的に提督――いえ、ブラッドリー中将のもとへ辿り着くのは難しいですが、コリフォ島までならなんとかと」
 決死隊と聞いてアルフレッドたちの表情はますます硬く青くなった。三十五隻もの敵船が目を光らせる海上を一隻だけで突破して、更に援軍を連れて帰れというのである。櫂がぽっきり折れるほどの荒天候が支配する冬のアレイア海で、だ。
「そ、そんな危ねー任務、誰が請け負うんだよ?」
「きっと海軍の精鋭でしょうけど……。アレイア海東岸へも寄港できないわけですよね? うっかり沈没しちゃいません?」
「だから決死隊なんでしょ? 逆に言えば、そこまでしなきゃいけないくらいモモたち追い詰められてるんだよ」
「一ヶ月半で片がつかなかったときは揃って飢え死にだからな。それにしても十二月のアレイア海に出なければならないとは……」
 先日ガレー軍船の乗っ取り騒ぎを起こした馬鹿者たちが懲罰代わりに乗船を命じられるのは想像に難くない。主犯のレドリーと従兄弟同士のアルフレッドは心配そうだった。
「だが決死隊がコリフォ島まで辿り着いてくれれば、今度は基地のガレー船と船団を組んでブラッドリーのところへも――」
 ドタバタと騒がしい足音が寝室に近づいてきたのはそのときだ。ルディアの台詞を遮って「大変です、大変です!」とジャクリーンの大声が響く。
 良家の令嬢である彼女が声を荒げて駆けてくるなど初めてだ。ルディアたちは怪訝に顔を見合わせた。直後、控えの間に続く扉が勢い良く開かれる。
「姫様! コリフォ島の父から手紙が!」
 侍女が抱いていたのは白い翼を風雪に汚した一羽の鳩だった。
 ジャクリーンの父といえばコリフォ島海軍基地を任されているトレヴァー・オーウェン大佐である。聞けば親子は伝書鳩を使ってこれまでも私的な通信を行っていたらしい。
「と、と、とにかく読んでください。私はその間に十人委員会に報告を!」
 ブルーノに託された文を奪うとルディアは素早く目を走らせる。便箋の切れ端らしき小さなメモに書かれていたのは思いもよらぬコリフォ島の窮状だった。
「な、なんだと!? 快速船一隻が沈没、巡視船三隻が行方不明!? どこぞの中規模船団に海峡と基地を監視されていて身動きが取れない。ガレー船四隻では心許ないから可能なら助けにきてほしい……!?」
 思わず口にしてしまった要請にアルフレッドたちがどよめく。
「コリフォ島もドナとヴラシィの船に囲まれているのか!?」
「助けてほしいのは本国のほうなんですけど……!」
「おいおい、これってかなりヤバイんじゃね?」
「中規模船団って何隻だろ? 十隻くらいかな?」
 モモにせがまれて敵船の数を確認すると、コリフォ島の周辺海域には常時十から十五隻のガレー船がうろついていると書かれていた。付近に拠点を有しているのは明らかで、別船団から補給を受けるところも目撃されているという。
「え!? それじゃもし決死隊を出してもコリフォ島で捕まってしまうのでは……!?」
 ルディアにはブルーノの懸念を否定してやれなかった。王国の出口はおろかアレイア海の出口まで抑えられては打つ手がない。トレヴァーやブラッドリーに王国民の悲鳴はとても届かない――。
(なんてことだ)
 ぎり、とルディアは歯噛みした。
 開ける活路がないではないか。間に合わせの市民軍が唯一の希望とは。
(しかし新兵同然のにわか兵士に期待などできないぞ。捨て身の覚悟で挑んできているリーバイたちに勝てるのか?)
「ねえ、和解案って出てないの? もう戦死者が出ちゃってるからアレだけど、バオゾからの脱走奴隷も難民として王国で受け入れれば済む話じゃない?」
 モモの問いにブルーノは悲しげに首を振る。
「天帝に彼らの返還を求められたら応じなければならないから、それは無意味だって陛下が」
「ああ……そっか、そうだよね。そんな外堀とっくに埋められちゃってるよね……」
 八方塞がりで気まで塞ぐ。父には何も言われなかったが、難局を招いた責任を感じずにはいられなかった。
 ――情けない。ヘウンバオスの掌で踊らされて喜んでいたなんて。己の読み違いでアクアレイアを苦しませてしまうなんて。
「あの、コリフォ島にもなんらかの支援が必要ですよね? ど、どうするのがいいんでしょう」
 問いかけるブルーノはぐるぐると両の目を回していた。ストレス過多で腹の子供に影響しないか心配だ。
 初めから大人しく宮殿に留まっていれば良かったのだろうか。余計な裏工作など考えず、姫としての役割だけ全うしていれば。
 わからない。こんな形で裏をかかれたのは初めてで。やられっぱなしでいるなんて耐えられないのに。
「コリフォ島ならちょっとくらい放置してたって平気なんじゃないですか? あそこは要塞島ですもん。自給自足もできますし」
「ああ、手助けしたいが今の俺たちには何もできない。十人委員会も同じ判断を下すだろうな」
「我慢してもらうっきゃねーわなあ」
「鳩がお返事持って帰ったらジャクリーンのパパがっかりしちゃうね」
「あ、それはないと思いますよ。伝書鳩って一方通行だそうです。アイリーンさんが前に言ってました」
 と、真っ暗だったルディアの思考に突如閃きが舞い降りた。
 あるではないか。遠い同胞に急を報せる方法が。
「そうだ、鳥を飛ばせばいいんだ。ブラッドリーのところまで」
 ルディアの言葉にバジルが「ええッ!?」と振り向いた。博識な弓兵は遠慮がちに「いや、無理だと思いますよ?」と首を振る。
「ハトには帰巣本能があるので特定の一ヶ所に文書を送ることはできますけど、育った巣でも餌場でもない、ましてや移動する船に手紙を届けるなんて高度な真似は……」
「違う。託すのはあの女にだ」
「あ、あの女?」
 一同は揃って首を傾げた。説明するのももどかしく、ルディアはつかつかと歩き出す。
「お前たち、今すぐガラス工房に行くぞ!」
 ブルーノにしばらく宮殿を離れる旨を告げるとルディアは寝所を後にした。アルフレッドたちが慌ててルディアを追いかけてくる。
 宮殿の門をくぐり、広場近くに舫ってあったゴンドラに乗り込み、オールを握った騎士と槍兵を急がせた。侘しい余生を送っているグレース・グレディのもとへと。




 ******




 潟湖に浮かぶ島にしてはごつごつした岩場の目立つ小さな島の一軒家、その主人であるモリス・グリーンウッドは「おお、疑いは晴れたかね」と防衛隊の帰還を祝福してくれた。
 だがのんびりと話し込んでいる暇はない。挨拶もせず「例の猫はどこだ?」と尋ねたルディアに初老の親方はどんぐりまなこを丸くした。今更彼女になんの用だと不思議そうに瞬きされる。
「うちで大人しく飼われとるよ、狭いケージの中じゃがね。ところでバジルとレイモンド君の姿が見当たらんが……」
「いいから猫を連れてきてくれ。大急ぎで頼みたいことがある」
 戸惑いながらモリスはこくりと頷いた。怪訝そうではあったものの、こちらの剣幕に押されてか素直に階段を上がっていく。代わりに問いをぶつけてきたのは引き気味のアルフレッドだった。
「おい、まさかグレース・グレディに伯父さんを探させる気か?」
 騎士は憤慨というよりは驚嘆の色を強く示す。
「あんな女信用できるの?」
 眉をしかめたモモもなかなか辛辣だ。
「背に腹は代えられん。本当は私自ら飛んでいきたいくらいだが、王国がこの有り様ではな」
 ハートフィールド兄妹の気がかりはわかっていた。伝令になってくれなどと頼んだところであの女狐が大人しく従うわけがない。自由の翼を与えるだけ損だと言うのだ。
 そんなことはルディアとて百も承知だった。だが次期女王の己が危険な空の旅に赴けるはずなかったし、他の脳蟲ではブラッドリーを見分ける知能が足りなかった。
 グレースにやってもらうしか手はないのだ。たとえ解き放たれた彼女から毒を浴びる羽目になったとしても。
「脳蟲には巣を守ろうとする本能がある――そうだろう? ならば今、我々の敵とお祖母様の敵は同じだ」
 ルディアはきっぱり言い切った。アクアレイアが他人の手に渡るのを黙って見過ごせる女ではないと。
 アルフレッドたちももう何も言わなかった。どんなに深く肉を切らせても骨を断つ。万策尽きるまで抗うと決めたルディアに頷くだけだった。




「うぉーい、言われた通りに獲物仕留めてきたけどこんなので良かったかー?」
 遅れてガラス工房にやって来たレイモンドは一階の作業場に集まっていた面々に問いかけた。続いて玄関をくぐったバジルも「怪我させないようにってメチャクチャ難しかったですよ!?」と文句を垂れつつずっしりと重い死骸を突き出す。
 精巧なガラス容器の寄せられた簡素なテーブルの真ん中に横たえられたのはアレイアハイイロガンだった。秋の終わりから冬の初めにかけて南方へ飛ぶ、大型渡り鳥の一種だ。レイモンドたちはこの鳥を捕まえてから合流しろと指示を受けていたのである。
「ご苦労だったな。そこの水桶に頭を突っ込んでおいてくれ」
 示された水桶に目をやると、そのすぐ隣で懐かしの茶毛猫がニャアと鳴いた。
「うわっ、こいつ檻から出して大丈夫なの?」
 びっくりして尋ねるレイモンドにルディアは「ああ」と落ち着き払った声で答える。
「もう話はついている。お祖母様にはこの書を持ってブラッドリーのところへ飛んでもらう」
「おおー、バジルの予想したまんまだ」
 レイモンドは感心しきって弓兵を振り返った。二人で葦原のハイイロガンを追いかけ回している間、お利口な少年は「姫様はきっとこの雁に脳蟲を仕込むつもりなんですよ」と推測していたのだ。グレディ家の前当主を足にするとは本当になんでもありのお姫様だ。
 猫が首を絞められて渡り鳥と同じ水桶に沈められると、しばらくして灰色の翼が羽ばたきだした。新しい肉体を得たグレースは二度三度の墜落を経てごく滑らかに旋回を始める。飛行の練習に満足すると彼女はまるで生まれながらのアレイアハイイロガンのごとく優雅に作業台に降り立った。
「必要なことはここにすべて書いてある」
 ルディアの手でグレースの細い足首に手紙がきつく結ばれる。更にもう片方の足首にはモモの手で銀のリングが固定された。
「伯父さんが本気にしてくれないと困るから、モモのだけど貸してあげる」
 指輪にはウォード家の鷹の紋章が刻まれている。嫁いできたときモモの母親が持参した品だろう。凄まじい念の入れようだ。この狡賢い女が確実に役目を果たしてくれるとは限らないのに。
(うわー、あれ代々の家宝とかじゃねーの? もったいないとか言ってる場合じゃねーんだろうけど……)
 やはり純アクアレイア人は違う。進んで私財を差し出すなど己にはできそうにない。
 レイモンドは秘かに唸った。モモでさえこれほどの献身を見せるなら、貴族だけでなく平民の中にも船の建造費や傭兵の人件費に充ててくれと大金を寄付する者が多いというのは本当のことに違いない。
「よし、これでいい。任せましたよ、お祖母様」
 旅立ちの準備が整うとグレースのために大きく窓が開かれた。ハイイロガンは悠然と、迷うことなく曇天へ両翼を広げる。
 最後に響いた鳴き声が高笑いに聞こえたのは気のせいだろうか。彼方に影が見えなくなるまで大した時間はかからなかった。
「……後は祈るしかないな」
「ああ、少なくとも伯父さんに急報を届けるまでは協力してくれると信じよう」
 当のルディアやアルフレッドたちも半信半疑の様子である。
 よしんばグレースがブラッドリーに会えたとして、ガレー船団が冬の航海に耐えられるかどうかは別問題だ。しかも本国に帰還するにはコリフォ島を監視している別の船団を突破しなくてはならない。レイモンドでも期待薄の戦力とわかる。
「ったく、ユリシーズは無罪になるわ、グレースは空に放すわ、二人とも苦労して捕まえたのになあ」
 ぼやくレイモンドにルディアはキッと目を吊り上げた。別に悪気はなかったのだが、お姫様の神経を逆撫でしてしまったようである。
「フン。あの女が私にたてつくつもりなら、そのときはもっと太い縄をかけてやる。目先の損得などどうでもいい。小さな痛みを避けて通る者はより大きな痛みに苦しむ羽目になるのだから」
 窓を閉め、ルディアは一時解散を告げた。今日は全員家に帰ってゆっくりと取り調べの疲れを癒せとのことである。
 命じた当人が一番休まなさそうだったがそこには触れずに了解した。七日も拘束された挙句、狩りまで手伝わされてヘトヘトだ。一刻も早く寝床にダイブしたかった。
(さっさと帰ってさっさと寝て、なるべく早く忘れちまおう)
 油断していると耳の奥で不愉快なしゃがれ声が再生される。何が「ドナにもヴラシィにも友人は多いだろう?」だ。「金への執着も強いと聞くし」だ。
 へらへら笑って流したが、こんなに腹が煮えたのは久々だった。自分だってアクアレイアが最初から自国の子供だと認めてくれてさえいれば、守銭奴にも八方美人にもならずに生きてこられたのに。
(君に流れている血は半分しか信用されないと肝に銘じておきなさい、だったか? よくそんなアドバイスができたもんだぜ)
 堪えた自分を誉めてやりたい。モモならきっと拳で返事していたところだ。
(どうせ俺は給料分の忠誠心しか持ち合わせてねーよ)
 休息命令に従ってガラス工房を出る直前、「大丈夫ですか?」とバジルに袖を引っ張られた。心配されると虚勢を張ってしまうのは長男気質というのだろうか。
「何が? 大丈夫だよ」
「すみません、僕だけでハイイロガンを捕まえられたら良かったんですけど」
「ああ、平気平気! 体力だけが取り柄だしな。そんじゃまた明日!」
 なんでもないように別れを告げてアルフレッドたちとゴンドラに乗り込む。

 ――本当に一ウェルスも受け取らなかったんだな?

 憎たらしい問いかけはいつまでもレイモンドを追ってきた。
 もっとアクアレイア人らしくなれば疑われずに済むのだろうか。高額な国籍を買って、宮廷勤めにもなって、これ以上どうすればいいのか全然わからないけれど。




 ******




 日の落ちた砂浜には大量の矢が突き刺さっていた。干潮に合わせて撤退したドナ・ヴラシィ軍は、今日はもう対岸の砦を出てきそうにない。
 自軍の装備の足しにするためにドブはゴミ矢を拾って歩く。よくよく見れば先日こちらが射たものもあり、互いに節約を心がけているのが知れた。
 グレッグ傭兵団の名前は比較的売れているほうではあるが、それでも日々の生活は慎ましい。大所帯だし、トップがどんぶり勘定しかできないせいで財布も空になりがちだ。
 あの人情家がよく千人部隊など組織できたものだなとドブには不思議で仕方なかった。利害というよりは恩義を理由に留まっている者が多いからかもしれないが。
(でも普段は抜けててもさすがに戦闘はプロなんだよなー。こうやって重い剣振り回して攻撃を回避して……)
「うわっ!」
 ちょっと真似してみようとしたら砂に足を取られてすっ転んだ。散らばった矢を慌てて両手に掻き集める。誰にも見られていなかったよなとキョロキョロ辺りを見回すと、悲鳴を聞いた長髪剣士が駆けつけてくるところだった。
「どうした少年、敵襲か!?」
「わわわ、違う違う!」
 真っ赤になって否定する。ルースはなんだと整った顔を緩め、巻上げ済みのクロスボウを下ろした。
「熱心に回収作業してくれるのは助かるが、気ィつけろよ? いつ襲われるかわからないんだぞ」
「う、うん。大丈夫。あいつら夜は近づいてこないし」
「何を言う! そうやって相手の心が読めてきたと思ったときが一番危ないんだ!」
「ルースさん、それ女の人の話でしょ」
「あ、ばれてた?」
 悪びれもせず剣士は笑う。ふうと息をつき、ドブは向かいのクルージャ岬を仰いだ。
 薄紅の残る空に存在を主張するのは要塞のシルエット。ここが初めての戦場というわけではないが、やはりゾッとする。
 普通の陸上戦ではないからだろうか。アクアレイアの地形にはひと癖もふた癖もあり、特に潮の満ち引きにはしばしば困惑させられた。このグラキーレも島というより細長いビーチで、民家は一軒も存在せず、人造物はごく小規模な港と石の砦くらいだった。
 砂洲はどこまでも平坦だ。起伏に富んでいたアルタルーペの山々と違って。
(母ちゃんはこんなとこ住んでたんだなあ)
 死刑囚として連行されていった母の顔を思い出す。生きているうちに里帰りさせてやりたかったが、いつか遺品の一つくらいこの地に埋めてやれるだろうか。
「ときにドブ少年、ここの矢全部拾うつもりか?」
 問われてドブは頷いた。
「うん。俺まだ後方支援しかできないし」
 入団してようやく一年。剣の扱いは覚えたものの、他はからっきしである。
 ドナ・ヴラシィ軍はガレー船から矢を射かけてくるのが常だった。上陸してくるのは稀だから、迎え撃つには弩か弓を使うほかない。
「お前さんは真面目だねえ。それともやっぱアクアレイアで好きな子できた?」
「だからルースさんとは違うから!」
「ハハハ、でも本当にそんな力まなくたっていいんだぜ。太く短い戦いよりも細く長い戦いのほうが俺たちゃ儲かるんだからな」
 他意のない台詞にムッとした。余所はともかく、アクアレイアを金づる扱いしないでくれと言いかけてやめる。
(……ったくもう、今更半分アクアレイア人ですなんて言い出しにくいったらねえよ)
 傭兵の身ではいつどこの勢力と敵対するかわからない。仮にアクアレイアとそうなったとき、裏切りを心配されるのはごめんだった。マルゴー人だらけの集団に属している間は自分もマルゴー人だと思われておいたほうが絶対にいい。グレッグが王国の人間を毛嫌いしていなければ最初に打ち明けられていたかもしれないが。
(今じゃあのオッサン、地元の連中と一緒に酒まで飲んでやがるもんな。妙な偏見で嫌われっ放しよりかいいけど、ほんとコロコロ態度変えやがって……)
「どうした少年? 顔が怖いぞ?」
「い、いや、なんでもない」
「俺も一緒に拾ってやるからさっさと片付けちまおう。今のとこ向こうさんがド派手に切り込んでくる様子はないが、用心するに越したこたない。あんまり一人でウロウロすんな」
「うん、ありがとうルースさん。やっぱルースさんは頼りに……」
「――と、意中の女の子にはこんな感じで男らしさをアピールするんだぞ?」
「結局そこに持ってくのかよ!」
 白い浜辺は日中の交戦など忘れたように波の音と快活な笑い声を響かせる。海岸清掃に戻ったドブは次々とルースにゴミ矢を投げて渡した。
(明後日あたり、また敵兵の装備に逆戻りしてんだろうなあ、これ)
 一体いつまでこんな小競り合いが続くのだろうか。長引けば不利になるのはアクアレイアだ。母がいつも自慢にしていた海の国。
 敵の拠点は目と鼻の先なのに、戦力不足で手出しできないなんてじれったい。どうせならモテテクではなく勝つ方法が知りたかった。




 ******




 下弦の月に照らされた潟の微妙な揺らめきを武骨な砦の尖塔から見下ろす。舳先を敵陣クルージャに向け、警戒を強めているのは王国海軍のガレー船だ。この寒いのに、あるかもしれない夜襲に備えて彼らは寝ずの番に励んでくれている。その指揮を執っている元囚人を思い浮かべ、チャド・ドムス・ドゥクス・マルゴーは息を詰めた。
「ねえ王子、見張りなんかいいんで暖取ってくださいよー」
 頭から毛布を被ったグレッグに「新婚でしょう? 奥さんのとこ帰らなくていいんすか?」と苦言を呈される。相変わらずの忌憚のなさにくすりと笑みをこぼしつつ、チャドは首を横に振った。
「二日に一度は顔を出しているよ。もう出産も間近でな」
「へえ、おめでたいじゃないっすか」
「ところが彼女は私といるとストレスが溜まるようなのだ」
 突然の打ち明け話にグレッグは「エッ!?」と目を丸くした。どう返そうかうろたえる彼に微笑を重ねる。
「だからこちらで汗を流していたほうが彼女のためにいいかと思ってね。海軍にも大評議会にも入れない余所者の私が、アクアレイアに貢献できる数少ないチャンスだし」
「チャ、チャド王子……?」
 おずおずと気遣い気味に横から顔を覗き込まれ、視線を王国湾に戻す。
 同郷の友人と思うとつい口が軽くなっていけない。「皆には言うなよ」と釘を刺すとグレッグはこくこく頷いた。
「妻と不仲なわけではない。しかし少々事情が複雑でな。……ほら、あそこに一隻ガレー船が停まっているだろう? あれに私の恋敵が乗っている」
 チャドは停泊中の軍船を指差した。指揮官席に座る騎士の名はユリシーズ・リリエンソール。つい先日まで反逆罪で牢に入れられていた男だ。
 ルディアの心はまだ彼に囚われているのかも。そう考えると堪らなくなる。だからと言って彼女を非難するつもりは毛頭ないけれど。
「つまらぬ意地だよ。私だけ城の奥に引っ込んではおれんではないか」
「お、王子……! そんじゃもしかして王子は奥さんに片想いを……!?」
「そんなところだ。ああ、言っておくがルディアは不貞を働いてなどいないぞ。ユリシーズ大尉も以前に婚約者だったというだけで」
 人の話に感化されやすいグレッグは壮健な肩をわなわなと震わせた。「チャド王子ほどの方を差し置いて昔の男が忘れられねえとは……!」と強く拳を握り締める。
「俺は王子を応援しますよ! 大尉だかなんだか知りやせんが、あの野郎よりでかい戦果を上げてやろうじゃありませんか!」
「え? いや、別に私は優劣を競いたいのでは」
「違うんすか!?」
「……違わないかもしれないな。だが少しでもルディアの役に立てるならそれでいいのだ。まったく、ここまで私を虜にした女はいないぞ。彼女のためなら命さえ惜しくないのだから」
 嘆息とともに愛を吐く。奉仕がこれほど大きな喜びになるとは夢にも思っていなかった。まだ怯えた顔しか見せてくれないのが切ないが。
「お、王子! なんつう立派な騎士におなりで……! あのタヌキ公爵の息子とは思えませんぜ!」
「こらこら、父上の悪口はよせ」
 感極まったグレッグをたしなめる。身内のことをとやかく言われるのは好かないが、この傭兵は父本人を前にしても正直の美徳を失わないところが天晴だ。いかにもあの素朴な山国の人間らしい。
「っとすみません。けど惚れた女のためとは言え無茶はしないでくださいよ? いくら連中の攻撃が威嚇射撃の域を出ないっつっても当たれば大怪我するんすからね」
「うむ。しかしドナとヴラシィの者たちはなかなか冷静だな。この戦力差なら一気に畳みかけたくなってもおかしくないのに、よく我慢している。あちらの司令官は兵の一人一人を大切にしているようだ」
「ええ、俺も同感です。切り合いになりゃ敵も味方もばたばた死ぬ。しょうもない小競り合いで均衡を保ちつつ飢えさせて、自分たちは皆無傷で生き残ろうって腹なんでしょう」
「やはりか。彼らを潟に誘い出す手があればいいのだがな……」
「うーん、そいつは難しそうっすねえ」
 冷たい夜風に冴えた頭でも名案は浮かばない。このままでは緩慢な死を待つのみだとわかっているのに。
「俺はまだ一ヶ月、いや、下手すりゃ二ヶ月は矢の取り換えっこが続くと見てますよ。その後の身の振り方は考えておくべきです」
 百戦錬磨の戦士の顔でグレッグが言った。
 背後にジーアン帝国が控えている以上、アクアレイアの降参は有り得ない。勝敗が決したとき、もしルディアに危険が迫るようであれば――。
「覚悟はしているさ。時代を問わず、身を滅ぼしてこそ愛は本物と証明されるのだから」


 グレッグの推測した通り、事態は平行線のままそれから半月余りが過ぎた。死傷者の少なさは不気味なほどで、大きな嵐の直前のようだ。
 国庫の食糧は徐々に乏しくなっていった。王国の体力が削り取られていく様をまざまざと見せつけるように。




 ******




「あーん! モモもグラキーレに行きたいよお! 行きたい行きたい行きたいよお!」
 発作的な少女の喚きにルディアは「またか」と嘆息する。年明けも近づいた十二月二十五日、いつも通りルディアたちは護衛の名目で王女の寝室に集っていた。
 ひっきりなしに会議が続いていた今月初めに比べると十人委員会の多忙さもだんだん下火になってきている。この頃は朝夕の二度、戦況や街の様子が報告される程度だった。
 静かな宮殿の奥にいると今が戦争中だとは到底信じられない。現実に戦闘が行われていると教えてくれるのは敵軍の襲撃を告げる大鐘楼の鐘の音だけだ。
「行きたい行きたい行きたいったら行きたいー!」
 モモは前線で大暴れするつもりだったらしく、一向に出陣命令が下らないのを一人悲しんでいた。そんな彼女をハラハラ見つめ、バジルが優しく慰める。
「本当に残念ですね。だけど退屈でも安全なほうがいいじゃないですか。僕はモモが大怪我したり、戦死したりするのは嫌ですよ?」
「モモは戦えるくせに戦ってないのが嫌なの! だいたい王都防衛隊が王都の防衛をしてないってなんなの!?」
「そ、それは僕らがルディア姫の親衛隊扱いだからで」
「わかってるもん! バジルの馬鹿!」
「ヒエエ、理不尽ですよおお!」
 やかましい年少組に「臨月の妊婦の前でギャアギャア騒ぐな!」と一喝する。瞬間、二人はピタッと動きを止めた。
「いいよ……バジル君もモモちゃんも気にしないで……。少しうるさいくらいのほうが今はありがたいから……」
 覇気のない声に寝所の空気が暗く澱む。安楽椅子と一体化してぐらりぐらり揺れるブルーノは近づく予定日に心底怯えた様子だった。
 初産というだけでも相当な心労なのに、戦争は起きるわ姉は安否不明になるわ、顔に死相が表れている。焦点の合わぬ視線は虚ろに天井を彷徨った。
「だ、大丈夫か?」
 レイモンドの問いに対する返事も「だいじょーぶ……だいじょーぶ……」と儚すぎて安心できない。もう一つストレスが加わったら永遠に起き上がらないのではと思えた。
「うーむ。せめてクルージャ砦を奪還できれば少しは落ち着いてお産に臨めるんだろうが……」
 腰のバスタードソードに手をやるアルフレッドにルディアはムッと眉をひそめる。
「お前まで戦場に出たいとほざくのか?」
「もちろん出ろと言われればすぐに出られる準備はしてある」
 天然なのかわざとなのか、答えは微妙にずれていた。
 バオゾで彼に言われた台詞を思い出す。一人だけ安全な場所に逃げ込んだと誤解されるのは耐えがたいと、血でも吐くように訴えられた。
「残念だが防衛隊の出番は来ないぞ。内政に関わりのないチャドはともかく、次期女王である私が倒れるわけにいかん」
 ぶーぶーとモモがブーイングを起こす。それをねめつけアルフレッドを振り返った。
「臆病者だの税金泥棒だの、言いたい奴には言わせておけ。パトリア古王国に繋がる血筋が絶えれば西パトリアにも侵攻の理由を与えることになる。王都を守るにはまず王家を守らねばならんのだ」
「ああ、心得ているさ」
 騎士の明瞭な頷きにやっと少しほっとした。己も随分神経過敏になっていたらしい。
 小さなことで苛々するのは心に余裕がないからだ。できるならアルフレッドにもモモにも思う存分戦わせてやりたい。だが万人の望みを同時に叶えられるほどルディアはできた王女ではなかった。
(私がブルーノの身体を使っていなければ、防衛隊はチャドの指揮下に置いたんだが……)
 期待に応えられない未熟な自分を受け入れるとき、心が痛む。理解を示してくれる相手には尚更だ。
「あーあ。リリエンソール家が人気になりすぎないようにモモたちも頑張ろうって思ってたのになー」
 モモの嘆きが胸に刺さった。それはルディアも対策せねばと考えていたことだったから。
 最後の望みがシーシュフォスに託されているだけあって、親子の人気は絶大だ。四十歳になって初めて父が得た名声はわずか数日で地に落ちたのに。
 国民の熱狂ぶりを放置するのは危険な気がする。シーシュフォスは妙な野心を持つタイプでないけれど、ユリシーズのほうは――。
(……政敵ということになりそうだな)
 苦笑いしかできなかった。本当に、何もかも裏目に出てばかりだ。




 ******




「耐えろ! じきに日没だ! 敵は間もなく撤退するぞ!」
 張り上げた声に「おお!」と咆哮が返る。ユリシーズ率いる百名超の水兵はクルージャ岬とグラキーレ島の向かい合う狭い海門で激しい攻防を繰り広げていた。
 激しいと言ってもやっているのはいつもの小競り合いである。敵兵が甲板に乗り移ってこないようにアクアレイア軍船は王国湾を一歩も出ないし、ドナ・ヴラシィ軍もグラキーレ砦からの砲撃を避け、射程距離に踏み込もうとしない。お互い顔の判別も難しい距離で弩の撃ち合いをしているだけだ。それでも今日の戦場が混乱の様相を呈しているのは、敵船に常識外のスナイパーがいるからだった。
 前々から兵の間で「相当な腕前の射手がいる」と噂になってはいたのだが、こちらの恐怖を煽るためか彼の矢羽根だけ黒塗りされることになったらしい。次々と甲冑を破壊する黒い矢に兵士たちは震え上がった。ただ命中率が視覚化されただけなのに、こうも態勢の立て直しに手間取らされるとは情けない。
(連射不可能なクロスボウでまだ助かったな)
 ユリシーズは甲板に深々と突き刺さる太い矢を見て息を飲んだ。
 ディランのもとへ送った負傷兵の数は普段の倍以上である。しかし弓の名手も戦い通しで疲れてきたか、或いは西日に目が眩んだか、少しずつ狙いが雑になっていた。夕日を背負って対峙しているこちらにはこれからが有利な時間帯だ。受けたダメージ分はきっちりお返ししてやりたい。
「おい、指揮官席を離れるなよ。危ないぞ」
 ユリシーズを庇って前へ出た幼馴染を「大丈夫だ」と退ける。さあ兵を鼓舞して反撃を、と思ったところで敵船からの射撃が止んだ。
 潮の引く時間になったのだ。ドナ・ヴラシィのガレー船はくるりと旋回し、クルージャ砦に退散していった。その優雅な漕ぎっぷりに内心舌打ちする。
 忌々しい連中だ。逆光だの干潮だの自分たちが不利になる状況下では決して刃を交えようとしない。
「あいつらムカつくぜ。朝方は眩しいのわかっててバンバン射てきやがるくせに!」
 地団太を踏むレドリーの文句には同意しかなかった。極力態度は乱さずに、ユリシーズは「戦闘開始から一時間が最も多く怪我人を出している。何か対策を考えねばな」と腕組みする。
 新たな船の建造が終わるまでは仕掛けられた攻撃を凌ぐしかない。わかっていても焦る気持ちは抑えがたかった。
 ユリシーズはちらりとグラキーレ島の小砦を仰いだ。敵船の背に向けられた砲台の脇には例の田舎王子の姿がある。視力があるのか疑わしいほど細い糸目でチャドは敵軍の挙動を追っていた。
 いかにマルゴーが傭兵大国であっても山の男が海戦の役には立つまい。最初にそう考えたのはどうやら間違いだったようだ。婿入り道具の長弓を手にした彼は類稀なる狩人で、波に揺られる船上の敵を淡々と討ち取った。しかも安全な矢間からではなく、城砦の胸壁からだ。
 祖国の王子の目があっては傭兵たちも手抜きできない。独自の存在感を示すチャドにユリシーズの敵対心は大いに刺激されていた。
(ふん、足場の不安定なガレー船でも同じことができたら褒めてやる)
 あの男より誉れ高い騎士でありたい。武功の数で負けたくない。怨念じみた情熱を腹の底で煮えたぎらせる。
(せいぜい用心しておけ。下手に目立って腕を折ったり目を潰したりせんようにな)
 ――と、ユリシーズは自分で脳裏に浮かべた台詞に足を止めた。
「ユリシーズ? どうかしたか?」
 幼馴染の声は耳を素通りする。
 そうだ。射手など目を潰してしまえばいい。どんな手練れでも獲物の位置がわからなければ狙いようがないのだから。
「レドリー、戦線を退いた負傷兵の中で動けそうな者を集めてくれるか?」
「えっ?」
「それから皆の盾を回収してくれ」
「いいけどどうするんだ?」
「空が曇ると使えん手だが、少し考えがある」
 口角を上げたユリシーズにレドリーは戸惑いながら頷いた。
 翌日も前線に出る兵には休息を、それ以外の者には夜通し作業に当たらせる。夜明け前、左舷の船縁に並んだのは鏡のごとく磨かれた円盾と弩を構える水兵の列だった。
「さあ、昨日の返礼と行こう!」




 反射する陽光に網膜を焼かれ、色も輪郭もぼやけてハッキリ見えなくなる。日射の弱い明け方のうちは鬱陶しいながらも耐えていられたが、昼が近づくにつれてアクアレイア軍の姑息な策はじわじわ効果を表し始めていた。
「くそっ……!」
 眉をしかめてチェイスは指で瞼を擦る。さっきから的に当たっている手応えがまったくない。ただ闇雲に矢を発射させているだけだ。
 厳しいアレイア海の冬にはありがたいくらい暖かで晴れた一日なのに、今日はさっさと雨でも雪でも降ってほしくて堪らなかった。そうしたらいの一番にこんなくだらない戦法を編み出した人間を退場させてやれるのに。
「チェイス、もう下がってろ! 無理して失明したらどうすんだ!」
「リーバイさん、でも!」
「でもじゃない! どうせ奴らは海に出ちゃこれねえんだ。敵を殺すより自分を生かすことを考えろ!」
 怒鳴られて隊列の後方へ引っ込まされる。「俺はまだやれるよ!」となお食い下がろうとしたら別方向から首根っこを捕えられた。
「大将の言うことは聞いとけって。火傷のせいでただでさえ左目悪くなってんだろ、お前」
「それはそうだけど、折角皆が俺専用の心理作戦考えてくれたのに」
 チェイスはしゅんと肩を落とす。悔しさに押さえた額の半分は、爛れて変色した皮膚に覆われていた。
 ジーアン軍と戦った際の癒えない傷痕。こんな形でこの火傷に苦しまされるなんて。
「いい恰好させてやれなくてすまないな。けどケイトのためにも身体は大事にしといたほうがいいと思うぜ」
 生き別れになった恋人の名に身を硬くする。命がけで逃がした彼女は王都のどこかで自分たちの蛮行を見ているはずだった。
 月の女神よりもモラルにうるさいケイトのことだ。ドナに発展をもたらしたアクアレイアを攻めるなんてと今頃チェイスに呆れ返っているかもしれない。
 それに彼女がハンサムだと誉めてくれた顔にも醜悪な仮面がくっついたままだった。今はケイトに会うのが怖いくらいである。
(また昔みたいに戻れたらいいけど……)
 初めて好意を伝えたとき、「女のほうが年上なんて変じゃない?」と嫌がった彼女を思い出す。それを必死に一年がかりで口説き落としたのだ。いつか二人でアクアレイアに引っ越そうと言ったら笑顔で頷いてくれるまでになったのに。
(俺の顔こんなでも、やっぱりドナで暮らそうって言っても、側にいてくれるかなあ?)
 仲間は「大丈夫さ、ケイトだってわかってくれる。これは故郷に帰るための戦いだって」と言うけれど、案ずる気持ちは消えてくれない。
 せめて戦いに決着がつくまで会わずにいたかった。もし彼女に責められたら矢をつがえることもできなくなりそうだったから。
 チェイスはガレー船の帆柱に寄り、日陰に片膝をついた。痛む左目を寒風に晒して恋人を思う。無邪気で幸せだった時代を。




 ******




「あったま来ちゃう! 難民は潮干狩りも魚釣りも自由にしちゃ駄目なんですって!」
 救護院の扉を開くなり大声で吐き捨てた少女をケイトはぎょっと振り返った。不機嫌を隠しもせずに大股で歩いてくるのは長い赤毛を翻したサロメだ。
 激しやすい性格が苦手で、ケイトはつい彼女を厄介者扱いしてしまう。一応ヴラシィ共和国では名の通った家の娘だったそうだが、今日はまた何があったのだろうか。
「食事の用意は!?」
「ま、まだよ。配給が滞ってるみたい」
「昨日も一昨日もそうだったじゃない! もしかしてあたしたちには一日一食で十分だって言うんじゃないでしょうね!?」
「そんな。遅れてるだけでちゃんと届いてるわ。量はちょっと少なくなるって通告はされたけど……」
「適当に誤魔化されてるんじゃないの!? 攻撃してきてるのはうちの男たちなのよ。あたしたちがアクアレイア人に嫌がらせを受けたって何も不思議じゃないわ!」
「ちょっとサロメ。誰のおかげで皆が暮らしてこられたのかわかって……」
「わかってるわよ! でもついさっき、空腹に耐えかねたあたしが魚を釣ろうとするのを邪魔したのもここの人間よ!? これだけ状況が変わったんだもの、救護院を追い出される日は遠くないかもよ。ああ、飢え死にする前にお祖父様が助けにきてくれないかしら!」
 あんまりな物言いにケイトは驚き、目を瞠った。アクアレイア人が聞いたら誤解を招くと考えてすぐに制する。
「サロメ、あなた何を言って……」
「そうよ、アクアレイアが負ければいいわ! そしたらあたしたち家に帰れるんでしょう?」
「――サロメ! いい加減にして!」
 一喝に一瞬サロメが身をすくませた。だが彼女はすぐに怒りでそばかす顔を真っ赤にする。
「何よ、いい子ぶって! あたしだって食べ物を我慢するくらいできるわよ! だけど妹がひもじいって泣いてるのを放っておけるわけないでしょ!?」
 叫ぶだけ叫んでサロメは個室の並ぶ二階へと駆け上がった。彼女を追いかけようとして床板に残った涙の染みに気づき、心がずしりと重くなる。
「…………」
 サロメの言っていることもわからないではない。己でさえわざと配給の順番を飛ばしたのではないかと勘繰りたくなるときがある。だが保護してもらっている立場であまり図々しいことを口にできないではないか。
(どうしたらいいのかしら……)
 パンを得る方法がないわけではなかった。地元の男と親しくなって食べ物を分けてもらえばいいのだ。当然その対価は払わねばならないだろうが。
(それだけは絶対にイヤ!)
 ゾッと鳥肌の立った肩を抱き締める。いくら飢えを凌ぐためでも身売りするなどできそうにない。もしチェイスに知られたらと考えるだけで足が震えた。
(でも禁止されている漁に手を出せば難民から囚人に早変わりだし……)
 残る手段は兵役に従事することくらいだった。王国政府の募集している市民兵の一員になれば小麦の配給は増量される。
 だが兵士になれるのはアクアレイア人に限られていた。それに王国軍として武器を取るのは同郷人に対する裏切りと同義である。クルージャ砦に愛しい男がいると知っていてどうしてそんな選択ができよう。
(チェイスたちに賛成はできないけど、敵に回るのだって同じくらい怖いことだわ……)
 苦悶するケイトの耳に大鐘楼の鐘が響いた。ハッと顔を上げて窓の外の海に目をやる。
 戦闘中のグラキーレ島で何か起きたのだろうか。やきもきしても救護院からは遠くて何も見えないが。
(とにかく今日の配給が来たら、私の分はサロメの妹に分けてあげよう)
 なんの解決にもならないことはわかっている。なんとかしなければならないことを先送りにしているだけだと。
 己の無力さを痛感してケイトは拳を握り締めた。不毛な争いを始めた男たちへの怒りはどこにもぶつけられないまま。




 ******




 真新しいガレー船がふらつきながら大運河を上っていく。熟練船長の号令に合わせ、難儀そうに櫂を回すのは新米水夫たちだった。市民兵として祖国防衛に立ち上がった彼らは軍船を漕ぐ練習を積んでいるのである。
 この三週間余りで建造された船は二十隻を超えた。造船所の親方はまだまだ国中の木材を掻き集め、限界まで進水させるつもりらしい。しかし船は大半が小型のもので、乗員もドナ・ヴラシィ軍に挑めるほど訓練されてはいなかった。大運河の流れは非常にゆったりしているのに、怖々と進むガレー船の頼りなさと言ったらない。
 真珠橋の屋根に腰かけて特訓の様子を眺め、カロは小さく嘆息した。
 この国の人間はいい。微力でもできることがあるのだから。自分はどうだ。兵になりたいと志願してもアクアレイア人ではないからと断られ、成り行きを見守っているだけだ。今こそイーグレットの力になってやるべきなのに。
(側にいても何もできないのでは二十年前と同じではないか)
 苦い記憶が甦る。ロマの仲間を説得できず、イーグレットへの反感を拭えぬままにしてしまった。
 宮殿の外からでも友人が無理しているのはよくわかった。気を張って、疲労や緊張を隠していること。全体、あの男は一人で苦労を背負いすぎだ。それが義務だと笑ってみせるがカロには少しも納得できない。
 もっと自由に生きればいいのに。土地や人間に縛られることなく。こんなに大きな街でなく、イーグレット一人だけなら己の力で十分守り切れるのだ。
「――!」
 と、突如鳴り響いた警鐘にカロは大鐘楼を振り仰いだ。砂洲での攻防に目を光らせている見張り兵が新たな動きを察知したらしい。
 鐘の音は敵船の到来を示すものだった。朝からの戦闘は終わっていないはずだから、これは増援があったということだ。
 思わずカロは国民広場へと駆け出す。もっと具体的な戦況が知りたかった。そう考えたのは己だけではなかったらしい。大鐘楼の麓には青くなった民衆が集まり始めていた。
 よほどの悪天候でもない限り戦いは毎日繰り広げられているが、途中で兵を増やしてくるなど初めてだ。慌ただしくレーギア宮へ出入りする伝令の姿などもあり、辺りには物々しい空気が漂った。
 だがどうやら悪い事態ではなかったらしい。その後伝わってきた話によれば、ユリシーズの攻勢に押されたドナ・ヴラシィ軍が応援を一隻やっただけのことだそうだ。敵が王国湾に侵入してきたわけではないと知り、人々はほっと胸を撫で下ろした。
「……けどそのうち、奴らここまで乗り込んでくるかもね」
「いくら新しい船を造ったところで水夫やパンが足りてないんだもの。私らもいつまで元気でいられるかわかったもんじゃないわ」
「国王陛下があんな方じゃなきゃねえ……」
 ひそひそと聞こえてくる悪口に辟易する。どういうつもりだと胸倉を掴んでやりたいところだが、生憎それはできなかった。
 ロマに庇われたところで恥にはなっても名誉にはならない。問題を起こしてこれ以上イーグレットの心労を増やしたくなかった。
(剣を振るうくらいなら俺にだってできるのに)
 首を縦には振られないと承知で宮殿前の小天幕に向かう。臨時に設けられた兵士募集所では黒いローブを羽織った数人の議員が戦力と物資の寄付を群衆に呼びかけていた。
 人波を掻き分けてカロは前方に進む。するとこちらに気づいた男が隣の男に耳打ちした。
「ちょ、あいつまた来ましたよ」
「ああ? 駄目駄目! 王国軍に外国人は入れない決まりだから!」
 募集状況を尋ねる前にブンブン手を振って押し返される。議員たちは「配給目当てのロマの相手なぞしている暇はない」と言いたげだった。
 失礼な話だ。たとえ食うのに困っても力を出し惜しみする自分ではないのに。
「市民兵に応募を――」
「だから規則でお前には無理だと昨日も一昨日も説明したろうが! とっとと失せろ!」
 唾が飛ぶほど怒鳴られて仕方なしに引き下がる。しつこく頼めば聞いてもらえるかもしれないと今日まで希望は捨てずにいたが、やはり軍の一員に加えてもらうのは難しいのだろうか。
(こうなったら単身グラキーレ島に乗り込むか?)
 ふむ、とカロは一考した。
 イーグレットの許可なくそんな真似をして迷惑でないか気にかかるが、案外マルゴーの傭兵たちに紛れられるかもしれない。試しに行ってみる価値はある。安全な本島で燻っているのもそろそろ限界だ。グラキーレ島で様子見してみて、奪われたクルージャ砦を強襲できそうならそのときは――。
「しかしあのロマ以外も結構来ますね、外国人」
「まあ商人なんかはここに財産置いてる奴が多いからな」
「あー、船で商売しようと思ったらまずアクアレイアに拠点持ちますもんねー」
「そうそう、そんで王国商人との待遇の差を嘆くんだよ。俺もアクアレイア人に生まれれば良かったって」
「じゃあ『協力者にはうちの国籍あげますよ』って言ったら王都にいる外国人が残らず志願してくるかもしれませんね」
「ハハ、それは大いに有り得るぜ。何せどんな金持ちでも二十五年待たなきゃ手に入らない特権中の特権だからな!」
 立ち去りかけたカロの足を議員たちの雑談が止めた。回れ右して「それだ」と呟く。聞く者は誰もいなかったが。
 指針が定まってからの行動は早かった。カロはゴンドラに飛び乗ると友人の私室に直行した。もちろん人目につかないよう、例の地下通路を使ってだ。
「おや、君が昼間に現れるとは」
 忙しいイーグレットにしては珍しく、今日は部屋に本人がいた。臨時会議を終えてちょうど自室に戻ってきたところらしい。眠れていない、食事もろくに取れていないのが一目瞭然のやつれ顔で酷く心配になる。
「……もしかしてまた外で何かあったのか? さっきの警鐘についてなら報告を受けたばかりだが」
 イーグレットは少々構え気味に問うてきた。執務机の下から上半身だけ這い出してカロは「違う」と首を振る。身を起こす時間も惜しんで聞いた話を手短に伝えると、友人は薄灰色の目を大きく瞠った。
「そうか、なるほど、国籍の付与か! 外国商人を巻き込む発想はなかったな。早速委員会で掛け合ってみよう」
「ああ、さっさと決定してくれると助かる」
「もちろんだとも。盲点だったが妙案だ。カロ、ありがとう」
「くれぐれも最低いくらの寄付金が必要、なんて条件を付け足してくれるなよ。俺が兵士になれなくなってしまう」
「えっ? 待ってくれ。もしかして君も戦うつもりなのか?」
「ああそうだ。どうしても市民兵に混ざれないなら俺一人でもクルージャ砦に切り込んでやる」
 カロの返事にイーグレットはたじろいだ。何故だと問われてこちらのほうが面食らう。
「友人が困っているときは力を貸すのが普通だろう。少なくとも俺たちはそうする」
 ロマの生き方はシンプルだ。持てる以上のものは持たず、持っているときは惜しみなく与える。そう生きるのが誇りだし、そうできないならロマではない。
 若いという年齢はとうに過ぎたが肉体はまだまだ頑健だ。任せてくれと胸を叩いた。――否、叩こうとした。
「わざわざ危険に飛び込む必要はない。これは私の国の問題だ」
 床の穴に身を屈め、イーグレットは真剣な顔で首を振った。
 握られた手首が痛い。眼差しは突き刺さるほどだ。けれどわかったと素直に頷く己ではなかった。
「忘れたのか? ロマの男のしつこさを」
 微笑を浮かべ、古い記憶を掘り起こさせる。放浪時代の諸々を思い出したかイーグレットはその場でがっくり項垂れた。
「俺は窮地のお前を放っては……」
 台詞は途中でしまいになった。手首を離した腕が肩へと伸びてきて。
 立派な城で育てられたイーグレットはあまり他人の身体に触れない。極端に寒い日とか、感極まったときくらいしか。
「…………」
 カロから抱きしめ返すことはしなかった。イーグレットは少し離れて囁いた。
「止めるのはよそう。だが無茶はしないでくれ」
「約束はできん。戦場では何が起こるかわからない」
「わかった。ならば力を合わせ、さっさとこんなことは終わらせよう」
 友人は穏やかに微笑む。白い頬に差していた翳りはいつの間にか随分と薄くなっていた。
「ありがとう。君には本当に助けてもらってばかりだ」
 イーグレットは足早に小会議室へ戻っていく。
 告げられた感謝の言葉に嘆息した。俺はまだお前に何もしてやれていないぞ、と。


 この翌日、外国人の兵士登用は正式に認められる運びとなった。更に翌日、一番に募集所に並ぼうとしたカロは、自分よりもずっと早くやって来た諸外国の商人たちの長い列を見ることになる。
 全員喉から手が出るほどアクアレイア国籍を欲してきた者だった。凄まじい反響に議員たちから歓喜の悲鳴が巻き起こった。
 新たに登録された兵の数や寄付された物資の量は桁違いだったらしい。もう二ヶ月余裕で戦えるくらい国庫が潤ったとイーグレットが後で教えてくれた。
 アクアレイア国民として認められたカロはガレー船の櫂漕ぎ練習に誰よりも熱心に参加するようになる。
 開戦から約一ヶ月を経て、アクアレイアはようやく反撃の一歩を踏み出したのだった。




 ******




 弓を引き絞る腕は活力に満ちていた。敵兵の上げる雄叫びも、今の自分には勇壮な音楽にしか聴こえない。それもそのはず、獲得するのは困難だと思っていたアクアレイア国籍が向こうから転がり込んできてくれたのだから。
 口にはしないがドナ・ヴラシィ様々だ。おかげでこれからは堂々とチャド・ドムス・レーギア・アクアレイアを名乗れる。一体誰が浮かれずにじっとしていられるだろう。愛情でしか妻を支えられない立場から一気に大躍進だ。
 戦いが終わったら忙しくなるぞ。まず海軍に入門し、海のいろはを学ばねば。アクアレイアは商業国だから簿記をたしなむ必要もある。次はアクアレイアの一般的な貴族同様、警察組織で王国の内実に触れよう。修業期間が終わったらいよいよ政界に参戦だ。大評議会に席を持ち、ゆくゆくは元老院議員となり、十人委員会に選ばれるまで上り詰めるのだ。誰よりも愛しい妻を側でサポートするために。
「そういうわけだ、すまないがアクアレイアは諦めてくれ!」
 浜辺に面した小砦の胸壁からチャドは次々と矢を放つ。今日はまるで弓と己が一体化した気分だった。
 チャドの射る矢があまりによく当たるので、隣のドブが面白がってどんどん次の矢を渡してくる。クロスボウより貫通力の劣るのがロングボウの難点だが、甲冑で身を固めているわけではないドナ・ヴラシィの水兵たちには十分な脅威であった。
「すげーや王子様! アクアレイア兵も射程の短いクロスボウなんかやめて、ロングボウに持ち替えりゃいいのに!」
「いやいや、これは自分で矢の位置や弦の引きを調整しなければならないからね。並の訓練では一人前になれんのだ」
 狩人にはロングボウが、水兵にはクロスボウが合理的だと教えてやると少年はふむふむ頷く。暇に飽かして鍛錬に明け暮れていて本当に良かった。やはり人間は身体が資本だ。
「あっちの矢はこの砦まで届かないし、今日のヒーローはチャド王子で決まりですね!」
「よせよせ、誉めても何も出ないぞ」
 絶好調のチャドの笑いが止まったのはその直後だ。長弓の素早い連射を無視できなくなった敵船が進路を変えて外海に出たのだ。今までは王国湾内の海軍か浜辺の傭兵を相手にするだけで砦は――というか砲台は――避けていたのに、一方的にやられすぎて頭に血が上ったらしい。
「守りの薄い本島側の海門へ向かうつもりかもしれん!」
 チャドは砦の東を通過せんとする敵船に射かけた。砲兵たちも大慌てで点火の準備をする。しかしそれがいけなかった。
 ドン、ドン、と心臓に響く轟音を奏で、真鍮の砲台が真っ赤に膨れる。弾はきちんと発射されたが火薬の燃焼と摩擦とで急激に熱を持ったのだ。
 柔らかくなった金属は圧力で容易くひずむ。自らの重みにぐにゃりと傾き、砲身は固定されていた台座から外れた。
「えっ」
 チャドは細い糸目を瞠る。見上げたときには巨大で凶悪な円筒が目と鼻の先まで迫っていた。小さな手が突き飛ばしてくれなければ、きっと命はなかっただろう。




 ******




「大変ですうう! チャド様が、チャド様がお怪我をーッ!」
 ジャクリーンが血相を変えて駆け込んできたのは三時を回ってすぐのことであった。室内はにわかにどよめく。ルディアが安楽椅子のブルーノを見やると王女代理は身を凍らせて聞き返した。
「け、け、怪我って……!?」
「あの、その、衛生兵が言うには砲台の下敷きになったとかで……! 今から担架で宮殿に運び入れるそうです!」
「しっ、下敷き!?」
 ブルーノは呆然と青ざめる。伝えた侍女も半泣きだ。ジャクリーンは他には何も聞いていないらしく、大急ぎでブルーノを支え起こして中庭の柱廊に飛び出していった。ルディアたち防衛隊も慌てて彼女たちに続く。
 ちょうど負傷兵を乗せた船が軍港に戻ってきたところのようで、宮殿内にはバタバタと騒々しい足音が響き始めていた。
「おい、そっと運べよ! そーっと丁寧に急ぐんだぞ!」
「わかっています、グレッグさん。軍医の私が責任を持って処置しますから、少し落ち着いてください」
 たしなめられているのは傭兵団長のグレッグだ。チャドを乗せた担架の傍らには医学の権威ストーン家の長子ディランが張りついている。
 怪我人は毛布をかけられており、遠目には容態がわからなかった。とにかく安否を確かめようとルディアは足を速める。しかし王子のもとへ先着したのは青い矢となって駆け抜けた偽の王女のほうだった。
「大丈夫なんですか!? い、命に関わる傷ですか!?」
 ブルーノは長い髪を振り乱し、どもりながら尋ねる。答えたのはチャド本人だ。「ああ、大したことはない」と元気そうな声が届いてほっとした。
「皆して騒ぎすぎで困ったよ。ドブのおかげで私は潰されずに助かったのに。跳ねた砲台を押さえようとして火傷はしたが、ほらこの通り」
 山国育ちの王子はブランケットをまくって己の無事を示した。砲台の下敷きになったのはドブという少年のほうで、そちらも足の甲を折っただけとのことである。
 ブルーノは安堵に目を潤ませた。細君がポロポロ泣き出したのを見てチャドはぎょっと細い目を剥く。
「ル、ルディア? どうして泣いて……」
「……ッ! もっと気をつけてくださらないと困ります! あ、あなたは姫にとって大切な夫なんですよ!? わかっているんですか!?」
「えっ!?」
「今回は軽傷だったみたいですけど、も、もしもあなたに何かあったらお腹の子供だって……ッ!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。ルディア、さっきの言葉をもう一度……」
「あなたは姫にとってかけがえのない伴侶なんです! だから怪我などなさらないでくださいと言ったんですよ!」
 タイル張りの中庭は絶叫をよく反響させた。自分が何を言っているか、多分ブルーノは無自覚だろう。
 ルディアは隠れて嘆息する。最近のストレス過多と本物の王女への気遣いが錯乱の原因に違いないが、これではただのおしどり夫婦ではないか。
「ルディア……私のことをそんな風に……?」
 ほら見ろ、感動のあまりチャドまで泣き出した。ますます立場を戻した後が厄介になるぞ。女王になったら純情可憐な乙女路線から質実剛健の賢母キャラにイメージを変えていこうと思っていたのに、一体どうしてくれるのだ。

「あのー、そろそろ担架動かして構いません?」

 と、ディランがもらい泣き中のグレッグを押しのけて問いかけた。「あ、ご、ごめんなさい」と引き下がったブルーノに軍医はフフフとにこやかに笑う。
「いやあ、政略結婚政略結婚と言われているからどんなご夫婦なのかと思っていたら……。いやいや、王国湾が沸騰しちゃいそうですね!」
 含みのある台詞にうっとルディアは息を詰めた。ディラン経由でユリシーズにこの一幕が伝わるのは明らかだ。
 そんなこととは露知らず、名残惜しげにチャドが手を振る。衛生兵の一団が宮殿奥へ消えていくとジャクリーンが安堵に胸を撫で下ろした。
「よ、良かったです。私てっきりチャド様がぺしゃんこになったものだと……。不用意に大騒ぎして本当に申し訳ありませんでした」
 侍女の謝罪にブルーノが首を振る。こちらも力の抜けた様子だ。
「気にしないで。いつも真っ先に報せてくれるから助かって…………」
 話の途中でがくんと彼の膝が折れた。ブルーノはその場にへなへな座り込む。
 完全にオーバーキャパシティだ。ルディアはそっと「王女」に近づき、己の手を差し出した。――すると。
「えっ!?」
「なっ……!?」
 二人同時に声を上げる。ブルーノのドレスを濡らし、見る間に広がる透明な液体に驚いて。それを見たジャクリーンはまたしても絶叫を轟かせた。

「キャーーーーーッ! ひ、姫様が破水を! だ、誰か産婆をーーーーーーーッ!」

 お産の支度はドタバタと始まった。宮殿のどこにこれだけ隠れていたのかと思うほど大勢の女官が一斉に駆けつけてくる。寝室へ運んでと指示されるままルディアは己の身体を抱えた。その間もブルーノの股から羊水は滴り続ける。
「ひ、ひぃぃ! ももも、もしかしてもう生まれてくる? もう?」
「陣痛が始まるまでまだ少し間があるはずです! 姫様、ジャクリーンがお側についておりますから、一緒に頑張りましょうね!」
 可憐な侍女に手を握られてもブルーノはまったく嬉しそうではない。分娩用にあつらえられた小さな寝台に彼を下ろすと「殿方は出て行ってください!」と即座に部屋から追い出された。
 続きの間でルディアはただただ硬直する。人体からあんな生臭い液体が出てくるなんて知らなかった。普通は皆そうなのだろうか? あんな風に急に産気づくものなのか?
 今更になってルディアは己の出産知識の乏しさに気がついた。何もかも代理母に任せきりだったから本当に何もわからない。妊婦は相当痛い思いをするということくらいしか。
「お、おい、破水というのはしても大丈夫なものなのか?」
「大丈夫だよ。水が出るのはただの前兆現象だから」
 モモの返事にほっとする。しかしルディアが平常心でいられたのは束の間のことだった。
 慌ただしく水桶や布を運び入れる召使いたち。イーグレットや十人委員会の面々も浮き足立って見舞いに現れる。
「は、始まったか!」
 寝室の扉の側に陣取って聞き耳を立てていた父が皆にお産の始まりを告げた。隣室からはこの世のものとは思えぬ呻きが漏れてくる。
「おい、初っ端から苦しそうだぞ!?」
「だって姫様初産だもん。ブルーノ、もしかして子供が生まれるとこ見たことないの?」
「な、な、ない」
「なるほどねー。モモは何度かご近所さんのお手伝いしたからー」
「手伝ったのか!? すごいな!?」
 冷静はもはや遥か過去の遺物だった。ルディアはおろおろブルーノの様子を窺う。弟妹の出産の様子を覚えているレイモンドやアルフレッドも落ち着いたものだった。一人っ子のバジルだけは部屋の隅で怯えていたが。
「どれくらいかかるんだ? 一時間か? 二時間か?」
「そんなすぐに終わらないよ。長いときは丸一日かかるし」
「丸一日!? 激痛なんだろう!?」
「半日かからない人もいるって言うけど、普通一晩は踏ん張るんじゃない?」
「ひ、一晩!?」
 まだ夕刻の鐘も鳴っていないのに。ルディアは一人愕然とする。
 思わずその場に膝をつき、波の乙女に祈りを捧げた。どうか母子ともに健康でありますようにと。
「なんかお前のほうが夫みたくなってるぞ……」
 レイモンドのつっこみは右から左へ抜けていく。ブルーノに何かあれば戻る器がなくなるのだから必死になって当然だ。
 その後すぐ治療を終えたチャドも合流し、ルディアと同じく室内を右往左往し始めた。ドナ・ヴラシィから攻撃を受けていることなどすっかり頭から消し飛んでいた。





 同じ頃、ガレー船に戻ったディランに「ルディア姫のお産が始まったみたいですよ」と聞かされたユリシーズも静かな衝撃に震えていた。
 なんのかんので腹の大きな彼女とはまだ会っていなかったのだ。ルディアがチャドの子を妊娠している実感は芽生えていないままだった。そうか、そうかと何がそうなのかもわからずに遠くを見やる。
 一旦アレイア海へ出た敵船は味方の船に手旗を出され、結局クルージャ砦に引き返していた。後はいつもの消化試合だ。あらかたの矢を使い尽くすと戦闘は終わり、敵が引いて潮も引く。
 赤と黒の夕闇がアクアレイアを包んでいた。
 ユリシーズに話しかけてくる勇者はいなかった。
 男が生まれても女が生まれても継承権は第一位、いずれ王国を継ぐだろう。彼女の子供ならきっと美しい容貌をしている。あの男の糸目が遺伝していたら好きになれる自信はないが。
(待て待て、何故連れ子になる前提で想像を巡らせている?)
 ユリシーズはかぶりを振った。自分らしくもなく混乱しているようである。とっくの昔に終わった過去の恋だというのに。
 こうして海軍に復帰できた今、ルディアに未練を残すべきではない。自分はきっと王家の敵に回るのだから。
 手っ取り早く権力を得るには大きな武力を掌握するのが一番である。海軍をリリエンソール家の手中に収め、グレディ家には次はあちらから擦り寄らせてやる。そうしてゆくゆくは己こそがアクアレイアで最も尊い存在になるのだ。
 ふん、とユリシーズは前髪を掻き上げた。余計な雑念は振り払う。
 最後に笑うのはルディアでもチャドでもない。ユリシーズ・リリエンソールなのだ。




 ******




 アンディーン神殿で行われた安産の祈祷は北東から厚い雪雲を呼び寄せた。普段なら嘆かれる吹雪も戦時の今は休息の同義語だ。おかげでルディアたちは敵軍の不意打ちを恐れることなくブルーノの心身を案じられた。
 苦悶の声は夜通し続いた。「痛い痛い!」「もう無理です!」「死んじゃうぅ!」と悲鳴が上がるたびチャドは扉越しの声援を送り、ルディアはモモに「今のは水準と比べてどうなんだ!?」と確かめた。途中から完全に面倒がられていたのは言うまでもない。
 外ではしんしんと雪が降り積もっていたのに寒さを感じる余裕すらなかった。明け方近くにオギャアと元気な産声が響いて、やっと待つだけの時間が終わり――。

「ルディア! 生まれたのだね!?」

 最初に扉を開いたのはチャドである。防衛隊の面々も王子とイーグレットに続く。
 寝台ではブルーノがぐったり横たわっていた。産湯に浸けられた小さな赤子は呼び名の通り本当に真っ赤で、顔面は子猿そっくりだ。
「愛らしい姫君ですよ。陛下、チャド様」
 一晩中手伝いに奔走していたジャクリーンが笑顔で涙ぐむ。チャドは奥方の奮闘を心から称賛し、イーグレットは孫の誕生を喜んだ。産婆や女官も次々と祝福を述べる。
「……抱いてあげてください。あの、皆、順番に」
 息も絶え絶えのくせにブルーノはルディアへの心配りを忘れなかった。早く我が子に触れたいとか、こちらにはまだ考える余裕もなかったのに。
 初めにジャクリーンが産着を着せて、次にチャドが両腕に抱える。生まれたばかりの小さな小さな生命は力いっぱい泣き続けた。
 チャドはしばらく感無量といった様子で唇を噛み締め、赤子をそっと義父に預けた。イーグレットも祖父らしく慈愛に満ちた眼差しを注ぐ。「王女ルディア」の生まれた十八年前もこんな風だったのだろうか。
「君たちもともに祝ってくれ」
 振り返った父と目が合う。続いて泣きじゃくる女児を託されたのはルディアだった。
「首が据わる前だからしっかり支えてあげてね」
 モモの助言に従って温かく柔らかい生き物を恐る恐る抱き上げる。

「――」

 その瞬間、ルディアの中でたちまち何かが溶けだした。溢れた感情は胸から喉へ、喉から鼻へと突き上がり、やがて両の瞳からこぼれ落ちる。
 泣いていた。涙は音もなく頬を伝った。
 理由さえわからぬまま、未熟な命の温もりを感じて。
「し、失礼!」
 慌ててルディアはモモとバトンタッチする。温もりから離れても涙は一向に止まらなかった。自分でも理解しがたくて、逃げるようにその場を退く。寝室を飛び出したとき「すみません! 彼ちょっと感激屋なんです!」とバジルのフォローが聞こえた。
 ルディアは走った。涙が尽きて出てこなくなるまで。人前で泣いたことなどなかったから、すっかり気が動転していた。
 わからない。わからない。どうして子供を抱いただけで――。
 続きの間も衛兵の間も駆け抜けて中庭へとひた走る。ルディアの足を止めたのは耳慣れた騎士の声だった。
「――いい加減止まれ! 少し落ち着け!」
 強い手に腕を掴まれて現実に引き戻される。
 全力で追ってきたらしいアルフレッドはぜえぜえと息切れしていた。呼吸も整わないうちに騎士はハンカチを取り出してルディアの目元に押し付ける。
「アルフレッド……」
 声はまだ呆然としていた。されるがままに涙を拭かれ、やっと少しずつ理性が甦る。
「安心しすぎてタガが外れたんだろうが。まったく、こっちは肝が冷えたぞ」
「安心? 安心しすぎると涙が出るのか?」
「そうじゃなかったらなんの涙だ」
 騎士は少々呆れ気味だった。だが怒っているのではなさそうだ。
 戻ろうと促されるが動けない。膝に力が入らなかった。
「待て。それでは辻褄が合わないではないか。安堵で号泣するなら母体の無事を確認した時点で泣き出していたはずだ。お前の理屈は間違っている」
「いや、だから子供が五体満足なのを確かめて泣いたんだろう? これからは自分一人で王国を背負わなくても良くなったから」
 ――目から鱗が落ちるとはこのことだ。アルフレッドの言葉はすとんと腑に落ちた。
 ああそうか、そうだったのかと瞠目する。
「自分が倒れても遺志を継いでくれる誰かがいる。そう考えれば気が楽になる。俺も弟妹の存在に救われてきたからよくわかるよ」
 ひとりぼっちではハートフィールドの汚名はきっと重かった。アルフレッドはそう付け加えた。
 このときルディアは初めて己と彼との境遇の近さに気がついた。ルディアもずっと王家の汚名をそそごうと力を尽くして生きてきたのだ。自分の力だけを頼りにして。
「――……」
 いつも感じていた孤独は今はっきりと薄らいでいた。
 名もなき小さなプリンセスがルディアに光明を与えてくれた。寄生虫の偽者などではない、アクアレイアの正統なるプリンセスが。
 ああ、これで。父の娘に成り代わってしまった罪を、これで少しは償えるのではなかろうか。

「――嬉しい」

 言葉と涙は同時に溢れた。嬉しい、ともう一度繰り返す。
 跡継ぎは必要だと思っていたが、他の多くの駒と同じだと思っていた。これほどまばゆい希望になるとは考えていなかった。
「予想外だぞ、アルフレッド。たったのひと晩で自分より大切なものができるなんて」





 もう一度ハンカチを差し出そうとしたアルフレッドの手が止まる。触れるのを躊躇ったのはルディアの瞳があんまり綺麗だったからだ。
 ついぞ見た覚えのない優しい青。好戦的ですらある普段の彼女からは想像もつかない。
 見とれている事実には最後まで気づかなかった。ただ常になく激しく脈打つ己の鼓動に戸惑っていた。
 厳しく、強く、ひたむきな、尊敬すべき主君が女性であるということ。アルフレッドが初めてそれを意識したのはルディアが母になった日だった。
 騎士はまだ恋を知らない。
 己の中にそう呼ぶべき感情が生まれたことを、まだ知る由もない。









(20150716)