こぼした溜め息が存外重く、現状の苦しさを思い知らされる。監獄まで届く大歓声に包まれてガレー船団が帰還して以来、世の趨勢はユリシーズに不利な方向へ傾きつつあった。
ハイランバオスがアクアレイアの間接支配を諦めたなどまだ信じられない。交易ルートを塞ぐことで徐々にだが確実に王国の力を削いできたジーアンが、どうして今になって態度を翻したのか。あの帝国が現王家の存続を認めるなど有り得ない。そう踏んだからこそ己も危険な賭けに出たのに。
嘆いても仕方がないのは百も承知だ。けれど嘆く以外にすることがないのも事実である。ユリシーズは顔を歪めて終の棲家を見渡した。
独房は最初に放り込まれた地下牢とも今までにいた監獄塔とも趣を異にしている。分厚い扉の物々しさと窓に嵌められた鉄格子を除いては貴族の住いそのものだ。贅沢な調度品、冷気から囚人を守る絨毯、貴重な写本と良質な亜麻紙が山と積まれた書き物机。至れり尽くせりの待遇に却って焦りが募る。
牢獄の割に広く低く設けられた窓の外を眺めれば、脱獄不可能な重罪人用の一室に閉じ込められていることがすぐにわかった。監獄塔でさえ最上階は五階だったのに、ここは地上十七階である。高さからして逃がす気がない。
自分で壊した大鐘楼に収容される羽目になるとは思わず、皮肉な巡り合わせに唇を噛んだ。眩暈がするほど地面は遠い。保釈の希望はもっとだった。
(……このまま終わってしまうのか……)
紺碧のアレイア海を見下ろしてユリシーズは強く拳を握り締める。
喜び勇んで大商船団が旅立ったのは今月初めのことだった。暦はじきに一四四〇年最後の月を迎えようとしている。
レドリーとディランは先の航海で軍規に反したとかで謹慎中らしく、面会に訪れる様子はなかった。牢を移された時点で死刑は確定済みだろう。後はそれがいつ執行されるかだけだった。新年まで持ち越すような案件ではない。だとすれば自分が生きていられるのは――。
(……ついに彼女は来ないままだったな)
淑やかで聡明な眼差しを、緩やかにうねる長い髪を思い出す。この手に掴み、留めることのできなかった美しい波を。
失意の海に深く沈んで何も考えられなくなると、彼女の声や微笑みばかりが甦った。まだ愛しているのだろうか。それとも憎さで忘れ難いのか。どちらにせよ果たせぬ思いである以上、重く圧しかかるだけだったが。
「――……」
と、そのときユリシーズは水平線に複数の船影がよぎったのに気がついた。陣形を組んだ巡視隊なら違和感を抱きはしなかっただろう。だが現れた船団はそんな可愛らしいものではなかった。一隻、二隻、三隻とユリシーズが数える間に続々と仲間を増やし、たちまち三十隻を超える大ガレー船団になって海を埋めてしまう。その帆先は全てアクアレイアに向けられていた。
(なんだ? どこの連中だ?)
所属旗がないのに眉をひそめると同時、天井からけたたましい鐘の音が鳴り響く。耳を塞いでいなければ鼓膜が破れそうなほどの。
大鐘楼は灯台と監視塔を兼ねる軍事施設だ。有事の際には都に警鐘を鳴らす役割を担っている。この激しい鐘の突き方はただごとではなさそうだった。
(まさか攻撃を受けているのか?)
鉄格子に張りついてユリシーズは沖合に目を走らせた。大船団の陰に隠れてよく見えないが、交戦中の王国船がある。更にその陰からは勝負を諦めて撤退に転じた二隻のパトロール船が逃げ出してきていた。
(駄目だ。あの速度では)
非情にも二隻の退路は敵船に塞がれる。甲板には矢の雨が降り注いだ。
見張り兵も同じ光景を見ているのだろう。頭上で響く鐘の音が激しさを増す。
海軍本隊が救援に現れたのは直後だった。列を成し、果敢に声を張り上げて、彼らは同胞のもとへと急いだ。
だが逃げられたのは結局一隻だけだった。他の二隻は敵船に囲まれ、船体に穴を開けられ、沈没は時間の問題に見えた。海に投げ出された人間が助かるのは難しいだろう。いや、それどころかこのままでは本隊のほうも危うい。
商船団の護送にブラッドリーを就かせたくらいなのだ。大ガレー船団による襲撃を想定した戦力がアクアレイアに残されているとは思えなかった。
(王国船は一、二、三……たった七隻か。七隻では港の防衛で手一杯だな)
指揮官もユリシーズと同じ考えだったらしい。無理に敵陣に突っ込むことはせず、敵が王国湾に入り込んでこないように砂洲の切れ目の海門付近を固めている。
災難に遭った巡視船がアレイア海から王国湾へ逃げ込むや、鉄の鎖を積んだ小舟が海門に漕ぎ出した。両岸に鎖を渡して船を通せなくするつもりなのだ。
自分たちまで締め出されてはならないと、一度は飛び出した救援船が次々に引き返してくる。流石にこれを追ってくる愚かな敵はいなかった。
(たとえ封鎖を突破できても、ああ入口が狭くては一隻ずつしか湾に入れないからな。袋叩きにされるとわかっていて飛び込んでくる馬鹿はいまい)
かくして戦況は膠着状態に陥った。三十分、四十分と砂洲を挟んでひたすら睨み合いが続く。見守るユリシーズの胸に次第に苛立ちが募り始めた。
(指揮官は何をしている? 守らねばならん海門は一つだけではないだろう。王国湾の出入口は他に二つもあるのだぞ。早くそちらに手を回さねば――)
「……!?」
三度目の鐘が轟いたのは日没の少し前だった。南を見ろと怒号が響く。
生憎と南方はユリシーズの独房からは確認できない方角だった。しかし何が起きたかは釣鐘を守る兵の絶叫が教えてくれる。
「漁村の砦の旗が! クルージャが落ちたぞ!」
陥落したのは王国最南端の岬を守る小規模な城砦だった。
――気まぐれな海賊の襲撃ではない。軍人の勘がそう告げる。
(こちらは陽動だったのか)
物量を投じた大胆な欺きにごくりと息を飲み込んだ。主力が釘づけになっている間に、こうもあっさり拠点の一つを奪われるとは。
なすべきことは終わったと言わんばかりに敵船団は南方に引き揚げていく。手に入れたクルージャ砦で彼らが船を休ませるのは想像に難くなかった。十隻足らずのガレー船では城砦を取り戻せないことも。
(一体どこの――いや、誰に手引きされた連中だ?)
ぞくぞくとユリシーズの背に震えが走る。知らぬ間に暗い瞳は爛々たる光を取り戻していた。
(もしかすると、私の運はまだ尽きていないかもしれないぞ)
せり上がる笑みを噛み殺す。
大鐘楼には慌ただしい声と足音が響いていた。
******
どうやら奇襲は成功したようだ。見上げた砦の尖塔から王国旗が降ろされたのを確かめて、ガレー船上のリーバイはほっと胸を撫で下ろした。
最初の山であるコリフォ島はカーリス共和都市の協力で難なく越えられた。アクアレイアの前衛基地から急を報せる快速船が出ていたら、警戒を強められ、攻めあぐねる結果となっていただろう。
クルージャ砦を制圧できたのは大きい。ここは王国湾に浮かぶ幾多の島々と違い、パトリア古王国領と境を接する岬なのだ。一度抑え込まれれば奪い返すには兵を上陸させるしかない。海軍頼みのアクアレイア人にはなかなか厳しい注文だろう。
「リーバイ! 残党に気をつけいよ!」
と、クルージャの軍港に入ろうとしたリーバイにしゃがれ声の忠告が飛んでくる。砦の矢間に目をやれば上陸部隊の指揮官を買って出てくれたランドンが顔を覗かせていた。
白い髪と深いしわ、痩せぎすの肉体は老人のそれである。しかし彼の眼光は身がすくむほどに鋭い。かつてはヴラシィ共和国の誇る猛将だったというのも頷ける。
重鎮の助言に従い、リーバイは弩を構えて甲板から軍港内を見回した。堅牢な石壁に響く剣戟の音はない。船着場にも人影はなく、港は静かなものだった。
「おい、リーバイ! あれ!」
肩を叩かれて振り返る。示されるまま西を向くと、二隻のアクアレイア軍船が映った。乗員はこちらの半分にも満たなさそうな、かなり小型のガレー船である。王国湾へ逃げていく彼らにドナの男たちが沸いた。
「たった二隻だ、本隊と合流する前にやっちまおう!」
「リーバイ、号令をかけてくれ!」
勇み足に乗せられて思わず声を上げかける。だが老将の怒鳴り声が軽率な兵を引き留めた。
「馬鹿者、奴らの潟へ入るんじゃない! 聖王が何故アクアレイアに負けたか忘れよったのか!」
言われてハッと思い出す。アクアレイアがパトリア古王国から独立しようとした際に、聖王の軍勢に泡を吹かせた戦術を。
水上都市の湾は浅い。満潮時には悠々と船を進められても干潮時には水位が下がって通れなくなる場所が多々ある。逃げるふりをして背中を追わせ、船を座礁させ、前にも後ろにもいけなくなった敵兵に火矢を射かけて一隻ずつ撃破したのだ。ここの初代国王は。
夕刻が近づき、潮は一気に引き始めていた。深追いしていたら危ないところだった。
「……まずは拠点を固めるぞ。焦らずに、じっくり腰を据えてやろう」
ランドンに頭を下げ、リーバイは周囲の男たちにそう指示した。反対意見が出るはずもなく旗艦は桟橋に寄せられる。
アクアレイア軍船は忌々しげに後退していった。同時に彼らは小舟を出してそこらの木杭を抜いて回る。
王国湾の通行可能ルートを示す標識だ。あれを取り上げられてしまっては、もう余所者に正しい航路を見いだす術はない。
王都を難攻不落にするのがこの水の障壁だった。守りに入ったアクアレイアを打ち崩すのは容易でない。特にレーギア宮や国営造船所のある本島は潟湖のほぼ中央に位置し、長弓の矢さえ届きそうになかった。
だがいいのだ。内陣に切り込まなくとも勝つ方法はある。その下準備もほぼ済んだ。
「リーバイ、もう降りて大丈夫だ! アクアレイア兵は全員追い出したぜ! 残ってんのは逃げ遅れた負傷兵くらいだ!」
クルージャ攻略組の数人が嬉しそうにこちらへ駆け寄ってくる。ぼろぼろの彼らの姿に「最低限の武器と人員でよくやってくれた」と感謝が溢れた。
コリフォ島基地と同じく要塞は内部で軍港と繋がっている。念のため戦闘員は船に配したままにして、リーバイは橋板を渡った。
向かった先はランドンの陣取る角櫓だ。石階段を駆け上がり、老将と無事の再会を果たす。まるで息子にするようにランドンはリーバイの短い髪をぐしゃぐしゃに撫で回した。
「よくやった! よくやったぞ! おぬしらが上手く引きつけてくれたおかげでこっちには一人の援軍も来んかったわい!」
「そいつは良かった。怪我人はどうした?」
「一箇所に集めて心得のある者に看させとる。捕虜のほうはまだ手つかずじゃ」
「世話をしてやる余裕はないな。解放するのが良さそうか」
「うむ、わしもそう思う。でなければこっちの兵がほだされよる」
リーバイはランドンと頷き合う。バオゾを発つ際に「全員覚悟を決めろ」とは言ったが、何人が初志を貫けるかわからなかった。戦わねばならない相手は憎きジーアン兵ではなく、かつて仲間だったアクアレイア人なのだ。いつ誰が「こんな戦いをしてもいいのか?」と言い出してもおかしくはない。
「そっちはどうじゃった? チェイス坊やが張り切っておったじゃろう」
「ああ、警邏中だった三隻のうち二隻は沈めた。これでアクアレイアの軍船は俺たちの半分以下になったはずだ」
先刻の光景が甦り、リーバイはわずかに表情を曇らせた。
逃げ出したアクアレイア船の前に立ち塞がったとき、対峙した敵兵は皆一様に戸惑っていた。何故ドナやヴラシィの男たちが戻っているのか。そして自分たちに攻撃を加えてくるのかと。
リーバイでさえ一瞬追撃を躊躇した。アクアレイアを落とさなければこの先に続く道はないとわかっていたのに。チェイスが――若者グループをまとめるあの青年が、矢を放ってくれたおかげで我に返れたのだ。
心臓にも刻み直した。たとえ裏切り者と誹られても非情に徹すると。
「おぬしは皆の大将じゃ。つらい思いをするだろうが、一人で背負うと思うなよ。ヴラシィもドナも、今は一心同体じゃぞ」
老将の優しい言葉に唇を引き結ぶ。
クルージャ岬の更に南へ船を回していたチェイスが砦に戻ってきたのはその数十分後のことだった。
「リーバイさん、ランドンさん! ピルス川まで様子見てきたよ!」
要塞の軍議室で主だった者と今後について話し合っていたリーバイは快活な声に顔を上げた。
チェイスはリーバイと同じドナ出身で、見るからに今どきの若者だ。初めはその浮ついた雰囲気に不安も少なくなかったが、今ではランドンに次ぐ心強い同志である。
戦火に巻かれ、頬から首にこびりついた火傷の痕はいつ見ても痛ましかった。女が放っておかない容姿だから余計そう思うのかもしれない。ジーアン軍から恋人を逃がすため、わざと負った傷なのだと本人は自慢げだが。
「おお、どうじゃった? 天帝の言っていたことは本当じゃったか?」
「うん。もう補給物資が届いてた! それにお客さんも!」
青年の連れてきた客人に軍議室がざわめく。
緑と青を基調とするチュニックに駝鳥の羽根をあしらった黒帽子、それだけならぎょっとするほどの出で立ちではないが、客人の顔は無機質な仮面に覆い隠されていた。わずかに覗く唇に微笑を浮かべているだけで名乗りもしないし、正体を明かす気がないのが知れる。
「我々があなた方を支援するのは決して公的な決定ではありません。たまたま我が国の軍備の一部がピルス川に流されて、たまたまあなた方の手元に届いた――そういう体でお願いします」
秘密の約束にリーバイは息を飲む。ちらりとランドンたちに目配せしてから「わかった」と頷いた。
男か女かもわからない使者は恭しくお辞儀した。優雅な手つきで足元の箱を示され、一体何かと身構える。
「兵糧や装備とは別の軍資金です。お困りの際にお使いください」
では、と客人は立ち去った。最後まで悠然と。
残されたリーバイたちはしばし声も出なかった。確かにヘウンバオスからはカーリス共和都市以外の援助もあると聞いていたが。
「……まさか本気で聖王がアクアレイア潰しに乗ってくるとはな……」
パトリア古王国領からクルージャ岬の南方を経てアレイア海に注ぐ豊かな川。乙女の髪と呼ばれるこのピルス川がリーバイたちの生命線だ。
補給路さえ確保できれば何ヶ月でも要塞に居座れる。長く交易に出られずにいたアクアレイアは満身創痍だ。地の利はあちらにあるとしても、持久戦ならこちらに分があった。
「後には退けない。やるからには絶対勝つぞ。勝って故郷に帰るんだ!!」
リーバイは急ごしらえの指揮官たちに呼びかけた。返される眼差しは暗くも熱く燃えている。
これが二ヶ月超に及ぶアクアレイアとの戦いの幕開けであった。
******
王国はどこもかしこも騒然としていた。伝令の往復する大鐘楼も、不安げな人々の集まる国民広場も、議員と衛兵の待機するこのレーギア宮も。
新しい情報が入ってくるたびに室内の重苦しさが増す。緊急事態の第一報がもたらされてからブルーノはずっと小会議室の自席を立てずにいた。
大評議会でも元老院でもなく開かれているのは十人委員会――アクアレイアの最高決議機関である。内密に処理すべき事案を扱うとき、或いは迅速で慎重な決断を求められるとき、十人委員会は臨時に招集される。つまり今、王国は尋常ならざる危難に瀕しているということだった。
「くそッ! 東岸の船乗りたちはバオゾに連れ去られたんじゃなかったのか!?」
滅多に声を荒らげないナイスミドルのはずのカイルが憤然とテーブルを叩く。親しい仲の彼をなだめたのは国営造船所から直行してきたエイハブだった。
「……のはずだったんだがな。巡視船に乗ってた連中の話じゃ襲ってきたのはドナ・ヴラシィの野郎どもで間違いねえらしい。ったくどうなってやがるんだ?」
「浮足立っている間にクルージャ砦を乗っ取られたのはまずかった。本島から距離があるとは言え、あの岬に居つかれると海門を一つ塞がれることになる。アレイア海を南下するのも困難になってしまった」
日が沈んでも会議はお開きまで至らず、イーグレットを始めとした名だたる貴族が膝と膝を突き合わせていた。情報を整理して現状把握に努めているが、全くわけがわからない。何がどうなってこうなったのだろう。
「ひょっとするとワシらハイランバオスに一杯喰わされたのやもしれんのう」
え、とブルーノは腕組みしたニコラス老を見上げる。イーグレットや他の者までが「考えたくないが有り得るな」などと言い出して、一層頭が混乱した。
(ど、どうしてハイランバオスが疑われるの? あの人の中身はアンバーさんで、正真正銘こっちの味方なのに……)
ブルーノの動揺に気づいた者はいなかった。その後すぐに新たな報告が飛び込んできたからだ。
「申し上げます! グラキーレ砦が敵ガレー船の攻撃を受け始めました!」
トリスタン老が「くそ、お次はグラキーレか!」と舌打ちする。室内はまた大きくどよめいた。
グラキーレ島はクルージャ岬のすぐ北に伸びた細く長い砂洲である。アクアレイアの外縁部で、島の南北に外海へ抜ける通り道がある。敵の手に島を渡すのは二つ目の出入り口を塞がれるのと同義だった。
「海軍の対応は?」
「三隻を本島の防衛に残し、五隻でグラキーレの襲撃に対抗するとのことです。砦からの砲撃を恐れてか、奴らは遠巻きに矢を射かけてくるだけで今のところは……」
「篝火を消せ! 何も見えなきゃ連中だってどうしようもない! わざわざ敵の夜襲のために灯台を働かせてやる義務があるか!」
エイハブの怒鳴り声に追い立てられて兵は現場に駆け戻っていく。とにかく、と話をまとめたのは意外に落ち着いたイーグレットだった。
「ドナとヴラシィの男たちだったという情報が確かなら、難民の中から彼らに呼びかけてくれる者を募ろう。それとマルゴー公国にも救援要請を」
「使者に海路を行かせるつもりかね? 余分の船など一隻もないし、ニンフィを目指しても十中八九アレイア海へ出た途端にやられるぞい」
「ああ、だから陸路を行ってもらう。時間はかかるがやむを得まい」
「ふぅむ、それが賢明じゃろうな。傭兵料は高くつきそうじゃが、今は一人でも多く戦える者が必要じゃ」
なんせ主力が留守じゃからのう、とニコラス老は嘆息する。海軍提督の不在はずしりと空気を重くした。
「……にしても、一体どうして東アレイアの人間が私たちを襲うのでしょう?」
「皆目わからん。ジーアン騎馬兵が乗っている様子はなかったのだね?」
「そういう話は聞いてねえな。ドジソン、あんたはどうだ?」
「いえ、私の耳にもそういうことは。バオゾで船を奪えたなら、まっすぐ故郷のほうへ戻るのが普通じゃないかとは思うんですが」
「あわわわ……大変だわ、大変だわ……」
特に大した意見も述べていないクリスタル・グレディが泡を吹いて気絶したため、十人委員会はようやく一時解散となった。
倒れたいのは寧ろこちらのほうである。ここにいるのがルディアならきっともっと上手く立ち回れていただろうに。
この日入ってきた朗報は、敵船がグラキーレ砦からは手を引いたということのみだった。
******
防衛隊の待つ寝室にブルーノが戻ってきたのは夜半過ぎだった。身重の彼に十人委員会の席はプレッシャーが強すぎたらしい。部屋に入るなりブルーノはふらりとベッドに突っ伏した。
焦燥を抑えつつルディアは寝台の傍らに寄る。青ざめた「姫君」に何が話し合われたのか問うと、ブルーノは疲れた様子で薄目を開いた。
「い、委員会では……」
王女付きの護衛に昇格していたのが不幸中の幸いだった。又聞きになってはしまうが王国政府の出方をいち早く確認できる。本来なら会議に加われた身としてはそれでも遅いくらいだが。
「……というわけで、態勢を整えつつ敵側を落ち着かせる方向で動いています……」
報告はおよそルディアの予想通りだった。マルゴー公国への援軍依頼、ドナ・ヴラシィの難民による武装解除の呼びかけ、王国湾の標木回収――今取れる策はせいぜいその程度だろう。まだ彼らの目的もハッキリしていないのだから。
「皆さん驚いていました。あの、ドナにもヴラシィにも船は残ってなかったんですよね? 街の男性はバオゾで強制労働に従事させられていたんですよね? だったらどうして……」
そんなことを聞かれてもルディアに答えられるはずがない。こちらが教えてほしいくらいだ。
負傷兵の一人が「ドナの連中にやられた! 船にリーバイが乗っていた!」と叫んでいると広場の人々が噂するのを耳にしてからルディアの頭には巨大な疑問符が浮かんでいた。
それは本当にリーバイだったのか? であればどうしてこれだけの船を入手してバオゾを脱出できたのだ? アクアレイアを襲撃して彼らにどういう得がある?
当てずっぽうの憶測一つ浮かんでこない。本気で見当もつかなかった。ただ時間が経つにつれ、嫌な感じがむくむくと膨らんでいた。
「ねえねえ、もう休ませてあげたほうがいいんじゃない? 妊婦にストレスは禁物だよ」
と、モモがブルーノの身を案じて退室しないか提案する。この状況で宮殿を離れられるかと叱りかけて、ルディアははたと口をつぐんだ。なるほどその手があったなと。
「ブルーノ、好きなだけ横になっていていいぞ。代わりに十人委員会にはこの部屋に集まってもらえ」
「えっ? ひ、姫様!?」
言うが早くルディアはベッドの下に潜り込む。例の秘密通路に隠れていれば会議の内容は筒抜けだ。
どうせすぐ次の招集がかかるに決まっているのだ。それなら先に張り込んでおけば早い。
「何してる、お前たちもさっさと来い! ブルーノ、防衛隊には街の見回りに行かせたとでも言っておけ!」
床下に頭を引っ込めたルディアに続き、モモとバジル、アルフレッドとレイモンドが下りてくる。久々の半地下は相変わらずじめじめと湿っぽかった。
「うへえ。暗いし狭いし嫌いなんだよなー、ここ」
「レイモンド、何か言ったか?」
「ウギャッ!」
不平を漏らす槍兵の足を思いきり踏んづける。まったく、祖国の危機に文句を垂れている場合か。本当にこの男は兵としての自覚が足りない。
「しかし妙だな。俺にはリーバイたちが独力で逃げ出せたとは思えないんだが……」
顎に手をやりアルフレッドが神妙に呟く。バジルも彼と同意見らしく、眉をひそめて頷いた。
「絶対おかしいですよねえ。バオゾからアクアレイアまで、水や食料なんかはどうしてたんでしょう?」
疑問は尽きないが答えを導く材料はない。ルディアたちが黙り込むと同時、頭上でノックの音が響いた。どうやら誰か来たようだ。
――ルディア、会議は終わったのかい? おや、顔色が良くないよ。
――え、ええ、少し具合が悪くて。起き上がれないほどではないですが……。
――無理してはいけない。体調の悪いときは安静にしているんだ。私が側についているからね。目を閉じて、ゆっくり休んで……。
――あ、ありがとうあなた。だけど添い寝は、ちょっと、あの。
――そうだね、すまない。ではこうして手を握っているだけにしよう。
――あの、それも今はちょっと……。
――夫婦なのに何を照れているんだい? 私は毎晩だってあなたにおやすみのキスをしたいくらいなのに、そんな風にぎくしゃくされると少し傷つくよ。と言っても恥じらうあなたに恋した私だから、別段気には病んでいないがね。
――ああああの、あの! 本当にそれくらいに!
――おや、そうだった。あなたは休まなければならないのだったな。
「…………」
チャドはすっかりブルーノに惚れ込んでいるらしい。緊張感の吹き飛ぶやり取りにハハ、と苦笑いが浮かぶ。夫婦の会話は甘ったるいにもほどがあった。
居た堪れなさでバジルとアルフレッドは早くも耳を塞いでいる。「あいつ身体は姫様なんだよな……」などと呟かれ、ルディアはレイモンドの頬をつねった。モモはモモで「赤ちゃん大丈夫かなー」と方向の違う心配をしている。
新しい気配が駆け込んできたのはどれくらい経った頃だっただろう。時間も天気もわからない通路に今度はジャクリーンの声が漏れ響いた。
――あの、チャド様、姫様、お休みのところ申し訳ございません。これからまた十人委員会が会議を行うとのことです。
――なんだって? ルディアはまだ十分休めていないんだよ。お腹の子供に良くないだろうし、なんとか彼女抜きで進められないのか?
――そんなわけにいきません。ジャクリーン、悪いけど委員会の方々をこの部屋に通してくれる? 横になってなら会議に参加できそうだからと。
――ルディア! 身体に負担をかけては!
――し、寝室に? いいのですか?
――ええ、いいから行って。私にも果たすべき務めがあります。
――か、かしこまりました。ではそのように。
――さあ、あなた。あなたはここを出てください。十人委員会で取り扱うのは王国の機密事項、たとえ伴侶でもおいそれと聞かせられません。
ブルーノはこれ幸いと夫を追い払う。ほどなくして寝室は即席の小会議室に切り替わった。複数の足音と椅子を引きずる雑音が降ってくる。それらが止むと、クルージャ砦へ送った難民からの報告だ、と父が硬い声で告げた。
******
アクアレイア政府の要請を受け、クルージャ岬に向かった仲間が帰ったときには東の空がぼんやり白み始めていた。
信じられない一日だ。ジーアン帝国に街を焼かれたあの日と同じくらい心臓が震えている。
「おばさん! どうだったの? 本当にあのガレー船に乗ってたのはリーバイさんたちだったの?」
救護院から飛び出したケイトの問いに町長夫人は目を逸らした。いつも威勢の良い彼女の口から否定の返事は出てこない。ただ太い眉を寄せ、苦しそうにうつむいているだけだ。
「……嘘でしょう? どうしてリーバイさんがあんなことを……!?」
耐え切れず、自分のほうが叫んでいた。夫人は優しくなだめるようにケイトを抱きしめ、黒髪を撫でてくる。
「ケイト、落ち着いて聞くんだよ。クルージャの砦にはヴラシィの男たちも、あんたのチェイスもいた。誰もアクアレイアへの攻撃をやめる気はないみたいだ。あたしらには、邪魔だけはしないでくれと、そう言ってきたよ」
呆然と目を瞠る。そんな、まさかと声にならない声が滑り落ちた。
チェイスが生きていてくれたのは嬉しい。嬉しいけれど――。
「どうして……!? あの人あんなにアクアレイアを好きだったのに……!」
二年半前、離れ離れになったきりの恋人の顔を思い返す。いつか憧れの水上都市に自分の家を持ちたいと、青い瞳で夢を語った。
熱心に都の流行を追っていたのは彼だけではない。ドナの若者は皆こぞってアクアレイア人の真似をしたのだ。彼らの役に立つ水夫になろうとクロスボウの稽古にも励んで。それがどうして。
「……天帝に唆されたのさ。情けない話だよ、あたしらの世話を焼いてくれるのは今も昔もこの国だけだってのに」
「唆された? どういうこと?」
「アクアレイアと引き替えになら、ドナとヴラシィは返してやると言われたんだと。家族もお前たちも揃って自由にしてやるって。内密の約束だけどね」
「な……っ! そんな言葉を信じて王国に攻め込んだの!?」
驚きを通り越して呆れてしまう。無慈悲に何もかも破壊し尽くしたあの悪魔どもが、約束なんて守ってくれるはずないのに。
目を丸くするケイトに町長夫人は首を振った。
「天帝の誓約は特別さ。バオス教の神様が嘘をついたとわかったらあっちの国は大騒ぎだ。……あたしゃしつこく食い下がったんだけどねえ、俺たちの故郷は俺たちで取り戻すって聞きやしない」
これまで気丈に周囲を励ましてきた夫人の目から涙が溢れる。「恩人と同胞の殺し合いなんか見たくないよ」と彼女は鼻を啜った。
ケイトとて同じ気持ちだ。同郷の人間にこんな無意味な争いしてほしくない。アレイア人がアレイア人を殺すなんて惨いこと。
(チェイス……!)
水鳥が翼を広げる南の空を振り返る。本島に近いこの島からではクルージャの岬など影さえ見えやしなかったが。
波はまだ静かだった。まるで惨劇の予告のように赤く燃え立つ朝焼けを映す王国湾は。
******
あまりにも予想外の展開すぎて、しばらく頭が真っ白になった。
アクアレイアを差し出せばドナとヴラシィは返してやる?
捕虜も現地の住人もまとめて自由の身にしてやろう?
(なんだその約束は)
ルディアは大きく目を瞠り、わなわなと肩を震わせた。
頭上ではまだ言い争いじみた議論が続いている。ヒステリックに「ハイランバオスに騙されたのよォ!」と金切り声を上げるクリスタル。「だから私は結論を急ぐなと言ったのに!」「責任を押し付け合っても仕方ねえだろ!?」と喧嘩腰の貴族たち。聞き耳を立てる防衛隊は全員面食らっていた。ここに来て天帝が弟の願いを踏みにじるとは思いもよらなかったからだ。
そう、これは不誠実な約束の不履行だった。ヘウンバオスは確かに聖預言者にアレイア海を任せたのだから。
(……バレたのか? 中身が別人だということ)
想像に血の気が引く。しかし腑には落ちなかった。仮にそうだとしても何故ひと言も疑いを口にしなかったのか謎である。天帝はただの一度もアンバーを本物の弟かどうか試験してはいないのだ。
とすれば有り得そうなのは元々アクアレイアを完全掌握しようと考えていた可能性だった。いずれはパトリア古王国に戦いを仕掛けることも視野に入れていたならば、戦略上の要地は抑えておきたいはずである。だがこれもルディアには今ひとつ納得しかねる推測だった。
天帝はドナとヴラシィを返還すると言っているのだ。返還後は二度と手出ししないとまで。西パトリアが欲しいならそれはおかしい。アレイア海の良港を二つも逃すわけがない。
(そもそもドナもヴラシィも、奴が『ハイランバオスに与える』と約束したのではないか)
考えれば考えるほど頭がこんがらがってくる。わかるのは海の都を攻めるのに、騎兵ではなく海兵をぶつけてきたということだけだ。
(もっと単純な領土欲か? だが放っておけばジーアンにとって旨味のでかい黄金の成る木になってやったのだぞ? 向こう五年は安全だと踏んでいたのに……)
悩んでも「ヘウンバオスはアクアレイアをご所望だ」との分析結果しか出てこない。天帝の真意については後で考えることにしようとルディアは短く息をついた。
今は遠方のジーアンよりも直近の現実だ。まずい事態になっているのを否が応でも認めねばなるまい。
(アクアレイアが『ハイランバオス』との契約に飛びついて商船団を発たせた後で、天帝の差し向けたドナ・ヴラシィ軍がアレイア海に侵入してきた。建前上は脱走奴隷の集団で、ジーアン軍の兵士ではない。休戦協定に反していると抗議しても無意味だな)
ヘウンバオスは「奴らの乱暴狼藉に我々は関与していない」とでも言い張るつもりなのだろう。東岸を返す約束もなんの話だかわからないと。
(どこまで計画の内だった? アンバーは本当に何も知らされていなかったのか? 或いはこちらが天帝から出されていたサインを――暗号のようなものを見落としていたとか……)
ぎり、とルディアは歯軋りした。安穏と過ごしていた昨日までの自分を蹴り飛ばしてやりたい。万に一つの可能性まで考慮できていたならば、こんな形で虚を突かれはしなかったのだ。
(我々はともかく、今は誰がどう見ても『ハイランバオスに奸計を巡らされた』としか思えない状況だ)
このままでは非常にまずい。非難がどこに集中するかなどわかりきっている。聖預言者の護衛役も、バオゾへの旅の報告も、中心になったのは王都防衛隊なのだ。
「……全員取り調べを受ける覚悟はしておけよ」
ルディアの呟きにアルフレッドたちは息を飲んだ。事の深刻さを欠片も理解できていないレイモンドが「な、なんで?」とうろたえる。
「モモにもわかんないことだらけなんだけど、多分アンバーが疑われてるせいだよね?」
「ああ。とばっちりで痛くもない腹を探られる羽目になるだろう」
「と、取り調べって十人委員会のですか? け、嫌疑が国家反逆罪なんて下手したら拷問……」
「いや、さすがに尋問で済むはずだ。伯父さんもその手の道具は宮殿にないと言っていた」
「普通の人の目に届かないとこに置いてるだけかもしれないけどね」
「お、おい、冗談やめろよモモ」
「ひえええ……っ」
怯えるバジルとレイモンドに、ルディアはできるだけ淡々とこの先取られるだろう措置について説明した。
「いいか? まず十人委員会から各自呼び出しを受ける。そのまま事情聴取を開始してくれればラッキーだが、数日は真っ暗な半地下牢にブチ込まれるはずだ。本格的な取り調べは弱った状態で一人ずつやる。一貫性のない言い訳や、他の者と異なる証言をすればクロと疑われるぞ。……だが心配せずとも大丈夫だ。お前たちは脳蟲に関すること以外、正直に答えるだけでいい」
少しは安心させてやりたかったが男たちの額はまだ少し青ざめている。逃げ出せば余計に怪しまれるのは明らかなので、耐えてもらうしかないが。
「――」
と、ルディアは闇の奥で揺らめく炎に気づいて剣を構えた。カンテラのそれと思しき丸い灯りは危うげもなくこちらに近づいてくる。
「おい、物騒な刃は引っ込めろ」
「なんだ、お前か」
聞き知った声にルディアはレイピアを下ろした。やって来たのは父の友人のロマだった。必要なときしかこの通路は使わないと言っていたのに何かあったのだろうか。
(これ以上の面倒はごめんだぞ)
ルディアは露骨に顔をしかめる。だが願いは精霊の耳に届いてくれなかったようだ。
「外がまずいことになっている。イーグレットに知らせなければ」
「外? 民衆が騒いでいるのか?」
「違う。もっと外だ」
王の私室へ向かおうとする男を慌てて引き留める。人差し指で頭上を示せばカロにも父の居所が知れたらしい。癖毛のロマはもどかしそうに天井を見上げ、代わりにルディアに耳打ちした。
「ピルス川の上流でパトリア古王国軍が幕営を始めた。お家芸の内乱と鎮圧だ」
「なっ……」
このタイミングでか、と思わず叫びそうになる。ちょうど上でも同じ急報がもたらされたようだった。
――大変です、マルゴーへやった使者が戻ってきました!
――なんだと? どういうことだ?
――街道も川も通行止めになっているそうです。なんでもパトリア古王国軍に占拠されているとかで。
――なんと! このところやり合っていた戦線が東にずれてきよったか!
――ええ、ですがいつもと様子が違ったとその使者は。兵は準備万端なのに戦闘を始める気配がなく、その……まるでアクアレイアを包囲するかのごとく見えたと。
委員会にどよめきが走る。ルディアたち防衛隊にも。
ちょっと待て、と頬がひくひく引きつった。まさかあの腐れ神官の巣窟まで噛んでいるのか。
「……そうか……そういうことか……」
呟きに皆の視線が集まった。
ルディアは思考をフル回転してアクアレイアの置かれた現状を見定める。
当たり前の話だが、物資がなければ戦争はできない。水、兵糧、武器、防具、薬、その他諸々をドナ・ヴラシィ軍がどう補給するつもりでいるのか最初からずっと疑問だった。
だが謎は解けた。初めからパトリア古王国の助力があるとわかっていたなら現地には兵を到着させるだけでいい。おそらく取り決めがあったのだ。天帝と聖王の間で、二国は裏から脱走奴隷の進撃を支援する、と。
(だが何故だ? ヘウンバオスはパトリア古王国に不可侵協定を結ばされたに違いない。たかが一国の包囲網になってもらうのに、どうしてあのジーアンがそこまで折れる必要がある?)
やはり有り得ない。だってそんなのは、他の全てを捨ててでもアクアレイアを望んでやまない人間しか取らぬ手だ――。
『脳蟲には巣を守ろうとする本能が備わっているんです。グレースは特にその傾向が強くって……』
耳の奥でアイリーンの声がこだました。まさかと小さくかぶりを振る。
ヘウンバオスは草原の民だぞ。アクアレイアの海とは無縁だ。
「……一、二週間では収束しそうにない事態だな」
独白に返事はなかった。誰もまだ頭が追いついていないのだ。
いや、単に最悪の事態から目を背けたいだけかもしれない。陸にはパトリア古王国軍、海にはドナ・ヴラシィの大船団、アクアレイア自慢の海軍は春まで不在。これで突破口を開けたら奇跡だ。
「もしかして、僕たち王国湾に閉じ込められちゃったんですか……?」
真っ青になってバジルが尋ねた。
十人委員会のお偉方も多分似たような顔をしているのだろう。潟という天然の要害が国土を守ってくれるにしても、飢えはどうやって凌ぐのだと。
沈黙するルディアに今度はモモが問いかけた。
「防衛隊が片棒担いだから王国が大ピンチになったって誤解されてる可能性が高いんだよね?」
ヒッとレイモンドが仰け反る。アルフレッドも腕組みしたまま身を硬くした。事情聴取は甘んじて受けるにせよ、こうなっては冷静に聞いてもらえるかどうか……。
「悪事に加担したのでないなら堂々としていればいい。イーグレットには俺が口添えしておいてやる」
力強い声に顔を上げるとカロにぱしんと肩を叩かれた。言外に「あいつの娘ならしっかりしろ」という念を感じる。
ルディアはこくりと頷いた。落ち込むのは後回しだ。天帝の意図を読み切れなかった未熟さをここで反省したって仕方がない。
(今は振りかかった火の粉を払わなければ)
頭上ではイーグレットが非常事態を宣言すると述べていた。平民からも兵を募り、国庫を海軍の管理下に置いて完全配給制に切り替えよう、と。
ニコラス老がそれに二、三の注文を付ける。どうせなら市民兵を割り振って海軍を再編成したほうがいい、ブラッドリーの代わりになれる総指揮官を任命すべきだとの提案に反対する者はいなかった。
******
一向に静まらない広場を眺め、レドリーは「やっぱりな」とひとりごちた。己の睨んだ通りではないか。ハイランバオスなど信用するから市民兵や謹慎兵まで引っ張り出す事態になるのだ。
集まった民衆はバルコニーの国王に怒声を浴びせかけていた。昨日の恐怖を拭いきれないまま王国が外界から遮断されたと聞かされたのだ。当然の反応である。
そのうえイーグレットは敵船を操っていたのがドナとヴラシィの男たちで、船団をアレイア海に放ったのは天帝ヘウンバオスであったらしいとの噂を否定しなかった。聖預言者に仕組まれた罠かと問われたときもだ。
いきり立つ人々を抑え込むこともできないし、レドリーにはイーグレットがもはや無能の象徴としか思えなかった。
(あんな君主に任せてたら助かる者も助からない。政治の場からさっさと引っ込ませるべきだ)
そう考えたのは自分だけではなかったらしい。大いに不信を滲ませて一人の男が声を張った。
「祖国のために兵になるのは構わねえよ! けど王様、そんなら確実に勝てる指揮官を用意してくんねえか!? 俺たちゃ犬死はごめんだぜ!」
そうだそうだと民衆は一斉にがなり立てる。イーグレットが現海軍将校から海戦経験の豊かな者を任じると返すや否や、国民広場には凄まじいブーイングが巻き起こった。
「ちっげーよ! そうじゃねえよ!」
「アクアレイアで最も海戦経験豊かな将なら探さなくたっているでしょうが!」
「あの人を提督に戻してくれ! シーシュフォス・リリエンソールを!」
その後のコールはまるで嵐のようだった。リリエンソール、リリエンソールと飽きもせず一つの家名が繰り返される。不幸中の幸いで、海軍の誇る名将が王都の自邸に隠居しているのを人々は忘れていなかったのだ。
「リリエンソール! リリエンソール!」
目頭が熱くなるのを堪えきれず、レドリーは大鐘楼の頂を見上げた。
獄中の幼馴染にもこの声は届いているだろうか。彼の魂も自分と同じに揺さぶられているだろうか。
ああ、ユリシーズ、今すぐお前のところへ行けたらいいのに。
「レドリーさん、レドリーさん」
ハッとレドリーは人混みの中を振り返った。身を屈め、周囲をちらちら気にしつつこちらの腕を引っ張るのは謹慎処分を解かれたディランだ。悪戯っぽい笑みを浮かべ、大人しそうな極悪人は常識外の計画を耳打ちしてくる。
「来てください。今から一つガレー軍船を乗っ取ります」
「――は?」
素で聞き返したレドリーにろくな説明は与えられなかった。ただ存外な握力で軍港のある国営造船所まで連れ去られただけで。
「お、おい! ディラン! ちょっと待て!」
「ダメダメ、急がなきゃ間に合いませんから!」
「間に合うって何に!?」
「それはもちろん次の襲撃に、ですよ!」
やっと軍医が止まってくれたのは数千人の船大工がうろつき回るドックの陰に入ってからだった。
「二人ぽっちで何する気だ?」
声をひそめて尋ねたら「いいえ、二人じゃありません」とウインクされる。直後、すぐ側に浮かべられていたガレー船の船縁から不届きな共犯者どもが顔を出した。
「ったく無茶振りするよなあ、ディランちゃんは」
「確かにこんなときにストライキ起こされちゃ陛下もたまんないだろうけどさー」
「大事な大事な軍船を一隻奪って『ユリシーズを解放してください!』なんて肝が据わってるってレベルじゃないぜ?」
なるほどと納得すると同時、またとんでもないことを思いついたなと友人の発想に冷や汗を掻く。ディランは頬を薔薇色に染めて「さあ、装備を固めて岸から少しだけ離れましょう!」と指示をした。
「後はドナとヴラシィが攻撃を再開してくれさえすれば我々の友人は無罪放免です!」
運命は正しき者に味方するという。敵軍がグラキーレへ兵を送り込んできたのはレドリーたちが軍港の一角に陣取ってすぐのことだった。
******
興奮した民衆に担ぎ出されるようにしてその男はレーギア宮に参上した。
彼に復帰の意思があるならば、と十人委員会は満場一致で頷いた。
望まれている英雄は海を知り尽くした戦士なのだ。たかだか一度レガッタで優勝しただけの自分ではない。そんなことはわかっていたし、冷たく扱われることにも慣れていたはずなのだが。
落胆を主張する胸がおかしくてイーグレットは口角を上げた。
「陛下、私の復職と不肖の息子の件はまた別。そのようなお顔をなさいますな」
謁見の間に響くのは野太く穏やかな紳士の声。白鳥の紋章が刺繍された白いマントを床に着け、シーシュフォスは五十を過ぎてなお頑健な肉体を跪かせた。
「それが別とも言っていられそうにない。実は国営造船所でガレー軍船が一隻戦闘拒否を続けているのだ」
「……まさかレドリー・ウォードとディラン・ストーンですか?」
「うむ、他にもいるが主犯格はその二名だな」
若人の暴走に鬼将軍と渾名された男が頭を抱える。シーシュフォスは「私がガツンと言ってやりましょう! まったくこの非常時に何を考えているのだ、あの馬鹿坊主ども!」と立ち上がった。
そんな彼にイーグレットは握りしめていた鍵を放る。振り向きざまにそれを受け取り、シーシュフォスは目を丸くした。
眼差しで咎められたが首を振る。委員会の決定だ、と。
「息子を連れて至急グラキーレ砦へ向かってくれ」
短いが重い沈黙の後、シーシュフォスは申し訳なさそうに一礼して大鐘楼へ駆け出した。広間には玉座に沈んだイーグレットだけが残される。
――どこの世界に暗殺犯の縄を解かされる王がいるのだろう。
名ばかりで、民意に沿ってやることも、法に反した要求を突っぱねることもできない。
(私の肌や髪がこう真っ白でなければ何か違ったのかな)
じっと掌を見つめる。感傷的になっている場合かと己を叱咤した。
統率力があろうとなかろうと国をまとめるのは王家の役目だ。ルディアとて大きな腹を擦りながら耐えているのに。
(どんな困難な状況でも、その中でできる最善を尽くす。何かを変える方法があるとすれば、きっとそれだけだ)
玉座を離れ、イーグレットは続きの間から回廊へ出た。すると前方に人影があるのに気がつく。
中庭で待っていたのはルディアを守る王都防衛隊だった。彼らは揃って膝をつき、一様に身を硬くしている。
「十人委員会から召喚命令が下るのではと思い、先んじて参上いたしました。我々のした報告が読み違いであったこと、陛下にはなんとお詫びすればいいか……」
伯父のブラッドリーと瓜二つの隊長が頭を下げたまま謝罪する。嘆息混じりに「立ちたまえ」と命じると、アルフレッド・ハートフィールドはおずおずと従った。
「あの、もし、処罰があるなら俺だけに」
「いいから全員立ちなさい。私の前でそう畏まる必要はないよ」
微笑んでみても効果は薄く、隊員たちは身を起こしてなお叱られるのを待つ子供のように表情を強張らせている。
こんなときなのに懐かしさがこみ上げた。聞き分けも要領もいいルディアに説教をしたことなど数えるほどしかなかったのに。
「真に客観的で正確な報告などできる者はいない。それも含めて判断するのが元老院の仕事だ。故意に嘘をついたのでなければ君らに責任などないよ。まあ多少不愉快な詮索はされるかもしれないが」
大丈夫だとなるべく優しい声音で告げる。すると四人はほっと胸を撫で下ろしたが、何故か青い髪の剣士だけは更に泣きそうに顔を歪めた。
(この子は確かブルーノ・ブルータス、だったな)
唇を噛む若者にそっと手を伸ばす。
「一緒にゴンドラを漕いだ仲だ。私は君たちを信じているよ」
そう言ってイーグレットはブルーノの頭を撫でた。幼い頃、ルディアにしてやったのと同じに。
「国民総出で立ち向かわねば乗り越えられない危機だろう。王都防衛隊諸君、君らも心しておいてくれ」
出陣の場があるやもしれないと仄めかし、イーグレットはその場を去った。本来はすぐに小会議室へ戻らねばならぬところだが、五分だけ、と自室に立ち寄る。
一日空けていた部屋には望み通りのものがあった。キャビネットに飾られた仮面の裏に新しい暗号が届いている。
(『防衛隊はお前の味方だ』……か。これは大きな太鼓判だな)
どこかで彼が自分を見ている。なら醜態は晒せまい。
頬を張り、頭の天辺から爪の先まで気合を入れ直す。
全力を尽くそう。諦めなければアクアレイアを守る術は見つけられるはずだ。
******
割れんばかりの歓声が国営造船所を包んだ。桟橋につけろ、リリエンソール親子を乗せろとガレー船は大騒ぎだ。
シーシュフォス「提督」は早くも鬼の形相で橋板を上がってきた。威圧感といい、期待感といい、父ブラッドリーとは段違いだ。やはりこの人でなければアクアレイア海軍は締まらない。
提督のすぐ後ろには手枷も足枷も嵌めていない幼馴染の姿も見えた。今にも船上で踊りだしそうだ。レドリーの胸には喜びが満ちていた。
「国王陛下のご慈悲により、また海軍に戻してもらえることになった。一度は死んだ我が身と思い、命を尽くして戦おうと思う。……皆、ついてきてくれるか?」
ユリシーズの問いかけにガレー船が大きく揺れる。「当然だ!」「グラキーレへ急ぐぞ!」と血気盛んな兵たちが各々の熱を吐き出した。
幼馴染には端正な顔によく似合うぴかぴかの鎧が着せられる。元通り白銀の騎士の完成だ。
「ジーアンの犬に成り下がったドナやヴラシィの連中がなんだ!」
「誰がこの海の王者か身をもって思い知らせてやる!」
「さあ行こう! シーシュフォス提督、我々にご命令を!」
鬼将軍が「私はすぐに旗艦に乗り換えるのでな」と断った指揮官席には別の男が腰を下ろす。「おお」「もしや」と甲板がどよめいた。
「この艦はお前に預けたぞ、ユリシーズ大尉」
「はい、お任せを」
ユリシーズが中尉から大尉に出世したことが判明し、ガレー船は再度沸く。
幼馴染の歪んだ笑みはレドリーの目には見えなかった。大気も震わす熱狂に舞い上がり、のぼせきって。
軍港を出たガレー船は国民広場で待ち構えていた民衆の声援を受け、戦場へ華々しく漕ぎ進んだ。それはあたかも祝祭のごとき光景であった。
(20150615)