船団は列を成し、秋めく海をひた走る。帆に順風を受けているのに漕ぎ手を休ませることもせず。
 急ぐ理由は知れていた。一刻も早く祖国に朗報を届けるためだ。ジーアンがアクアレイア商船の寄港を承認したということ、これで念願の東方交易再開に至れるということ。
 意気揚々と王都を目指す水夫たちにに気づかれないようレドリーは嘆息した。小さく陰鬱なそれを聞いたのは隣で船縁に寄りかかったディランのみである。友人は何やらつぶさに書きつけていた日記帳から顔を上げ、心配そうにこちらを仰いだ。
「どうかしましたか? 気分でも悪いんですか?」
 優しい気遣いに首を振る。身体は元気だ。うんざりするほど。
 気がかりなのはもっと別のことだった。ジーアン帝国と良い関係を築けそうなのは自国にとって大きな前進だとは思うが。
「……熱心に何書いてたんだ? 今日食べた昼飯か?」
 頭の中の懸念を振り払おうとしてレドリーは話題を変えた。一瞬ディランが何か言いたげにしたけれど、曖昧に笑って追及をかわす。
「言えないのかよ。さてはまた難解なポエムでも作ってたな?」
「外れです。献立と天候と一日の出来事、それに財布の残高を記録していたんですよ」
 詩を書くにはインスピレーションが不可欠なんです、という文学青年らしい返答にレドリーはふっと吹き出した。別にそんなことまで聞いていないのに。
「なんだったっけ、前にお前が作ってた詩。おお、波の乙女よ、みたいなやつ。あれコナー先生には見せたのか? ストーン家ってファーマー家とも仲良いんだろ?」
「『乙女と死せる旅人』ですか? ええ、僭越ながら批評をいただきましたよ。興味深い詩だとお誉めに預かりました」
「うへえ、マジか? 俺には意味不明な出来だったけど、やっぱわかる人にはわかるのかなー」
 いつもと同じ調子で会話できているのに安堵する。それでも不安は伝わってしまっていただろうが。
「良かったら朗読しましょうか? ――おお、美しく清らかな波の乙女よ! アレイアの女神アンディーンよ!」
 前触れもなく始まった独壇場にレドリーはぎょっと目を剥いた。ディランはディランなりに塞ぎ込む友人を元気づけようとしてくれたらしいが、その方向性は一般的な励ましからは少々、いやかなりズレていた。声を張り上げる友人に慌ててレドリーは首を振る。
「ちょ、馬鹿! いいって、恥ずかしいからよしてくれ!」
「私の心はお前を求めて歌っている! おお、お前の母は全ての生命の母! 大海こそあらゆる者の原初の故郷! 波の乙女よ、もうじきお前をある旅人が訪ねるだろう。しかしお前は彼に温かな寝床を用意しない! 冷水を浴びせ、悪夢に惑わせ、絶望の淵へ誘い込むのだ!」
「こら、聞けディラン! 皆こっちガン見してるだろ!」
「ああ、乙女よ! お前が胸に抱くのは小さな死! 天上よりも尊き死だ! そして再生の芽に水をやるのはこの私! おお、なんという至福の瞬間か! この喜びこそ待ち望んでいた大いなるカタルシス――」
「カタルシス、じゃねーよ! 口閉じろっつってんだよ!」
 レドリーはディランの後頭部を張り飛ばすと軍医を羽交い絞めにした。普段は大人しい部類なのに、テンションが上がると人が変わるのは何故なのだろう。
「あいたた……、ここからどんどん盛り上がるのに、無粋な人ですねえ」
「俺が止めなきゃ俺の親父が止めにきてたぞ。お前また鞭でぶたれたいのか?」
「うーん。フフフ、まあ痛みを感じるのも詩作には悪くないですよ?」
 がっくりと肩を落とし、にこにこと微笑む友人を解放する。これだから詩人なんて生き物は。
「なーに漫才やってんだよ。暇なら俺たちとカードでもするか?」
 と、面白がって遠巻きに見ていた海軍兵士の一団から別の友人が声をかけてきた。それもいいなと答えかけてレドリーはハッと口を閉ざす。賭博に興じる輪の中にマルゴー兵が混ざっているのに気がついて。
「……いや、俺はいいわ。今あんまり金持ってなくてさ」
「そうか? なんだったらいくらか貸すぜ?」
「また今度な。ちょっと気分じゃねえんだ」
 それ以上強くは誘わず、友人は退屈を持て余している面々のところへ戻っていった。最初は野蛮な山猿と馬鹿にしていたくせに、馴染めば馴染むものだ。と言ってもレドリーとてグレッグたちを毛嫌いしているわけではないが。
 行きと帰りで船上の雰囲気は随分と様変わりしていた。マルゴー兵はさほどアクアレイア人につんけんしなくなったし、逆もまた然りである。おそらくは傭兵団長の単純な性格のおかげだろう。
 隣国と親睦を深めるのは別にいい。レドリーは反マルゴー派の人間ではないし、陸上防備に傭兵の力が必要なこともわかっている。問題はそこではなくて――。

「何かありましたか? 少し騒がしかったようですが」

 船室の奥から顔を出した聖預言者をレドリーは鼻持ちならない気分で睨んだ。目を鋭くする己と違い、他の海兵は一斉に彼に群がっていく。まるで焼き菓子を見つけた蟻だ。
「いえいえ、何もございませんよ! 聖預言者殿!」
「心得のある者が少しばかり詩を暗誦していただけで、騒ぎというほどのことでは!」
 今やハイランバオス人気は不動のものとなっていた。あの聖預言者の許しを得た船だけがドナ・ヴラシィに錨を下ろせるのだから当然だ。
 公然と媚を売る人間の中にはユリシーズの釈放運動に加わっている者もいて、レドリーの心を暗く曇らせた。
 アクアレイアに帰ったらこれと同じことが起きるのではなかろうか。民衆はユリシーズではなくハイランバオスに味方するのではなかろうか。「ジーアンがグレディ家による新政権を欲していたなど嘘だったではないか」と言って。
「…………」
 青ざめるレドリーの肩にぽんとディランの手が置かれた。振り向けば友人は静かに首を横に振る。
「……難しい立場になるでしょうね。このままアクアレイアとジーアンに蜜月が訪れるようなら」
 誰の話かなど確かめるまでもない。悪い想像ばかりしてしまい、レドリーは眉を歪めた。
「もうほんの数日で王都です。せめてそれまで気持ちを休めてください」
 そう言うとディランはポケットからガラスの小瓶を取り出した。中には乾燥ラベンダーの花弁がぎゅっと詰められている。軍医から処方箋のつもりらしい。
「枕元に置いておけばぐっすり眠れますよ」
「……貰っとく。ありがとな」
 礼を告げ、レドリーは小瓶をポケットにしまった。ユリシーズほど長い付き合いではないけれど、ディランもまたいい友人だ。
 いずれは政治の世界へ入るストーン家の彼とは違い、幼馴染とはいつまでもどこまでも一緒なのだと思っていた。リリエンソール家もウォード家も二代に渡って海軍で生涯現役を貫いてきた家だから。
 ユリシーズはこれからどうなるのだろう。ただ脅されただけなのに罪を償えと迫られるのか。
(そんなの間違ってる……!)
 握った拳が怒りに震える。食いしばった歯は痛いほどだ。
 たとえハイランバオスが王国に必要不可欠な存在だとしても、レドリーには彼を信用できそうになかった。あの親しげな笑顔の裏で何を画策していることか。
 奴はパトリアの神々を滅ぼすという天帝ヘウンバオスの実弟だ。決して気を許すまい。こちらが騙されている可能性も、まだゼロではないのだから。




 ******




「ああっ……! すごい、すごい! 今動いたよ。あなたにもわかったかい?」
「え、ええ……。自分のお腹のことですから……」
「素晴らしいなあ、こんな風に生命の躍動をじかに感じられるなんて! 我々が授かったのは男の子だろうか、それとも女の子だろうか?」
「そ、そうですね。元気がいいので男の子かも……」
「うむうむ、健康なのが一番だ! あなたも身体には気をつけて、無理してはいけないよ。生まれてくる赤ん坊と私たち三人で幸福な家庭を築くのだからね、ルディア!」
 口の端からハハ……と乾いた笑みが漏れる。王女ルディアと身を入れ替えて早八ヶ月、ブルーノはもはや疲れることにすら疲れきっていた。
 何がどうしてこうなったのか。初めはただ迫る危機から彼女を救おうとしただけだったのに。
 二月に結婚、三月に妊娠、四月と五月は酷い悪阻に苦しんで、六月に本物の姫と和解した。しかし「出産はお前がしろ」と命じられ、元の身体に戻れないまま現在に至っている。
 日に日に大きくなる腹部には恐怖しか感じなかった。脳蟲とはいえ男として育ってきた自分が本当に子供など産めるのだろうか。お産の苦しみは母性なしには耐えられないものだと聞く。代理出産なんてして赤ちゃんにもしものことがあった場合、いやそれよりも母体に何かあった場合どうすればいいのだろう。怖い。何もかも怖すぎる。
 キリキリと痛む胃を擦り、ブルーノは幸せそうにお腹に頬をくっつけている夫を掌で遠ざけた。
「おっと、すまない。邪魔だったね」
 安楽椅子から離れてチャドが立ち上がる。愛に満ちた眼差しで見つめられるが、正直あまり目を合わせたくなかった。彼も、豪華な寝室も、己を取り巻く全てが今はストレスでしかない。帰りたくて泣きそうだ。家に戻っても自分の居場所なんてないけれど。
「姫様、大丈夫ですか?」
 心配そうに覗き込んできたのは侍女のジャクリーンだった。古くから務めている者ではなく、最近召し上げられた上流貴族の娘である。入れ替わっていることに気づかれては厄介だからと元のルディアを知らない彼女が側付きとして選ばれたのだ。
 新しい侍女は明るく優しく容姿も可憐な働き者だった。同世代なのでさほど気兼ねせずに済むし、誠心誠意尽くしてくれて申し分ない。ただ一点の困った性分を除いては。
「ジャクリーン、妻に何か飲み物を用意してくれるかい?」
「かしこまりました、チャド様」
 パタパタとジャクリーンが出て行くと、毛織の絨毯が敷かれた寝室はチャドと自分の二人きりになる。そっと手を握られて、うっと吐き気がこみ上げた。
 彼に触れられると全身鳥肌が立ってしまう。ルディアのためにはもっと愛想良くしなければと思うのに。
「くれぐれも無理をしないようにね。この国では私のできることなんてたかが知れているけれど、全身全霊であなたを守りたいと思う気持ちは本物だ」
「あ、ありがとうございます。も、勿体ないお言葉ですわ……」
「ルディア、私は本気だよ。国のための結婚だったが今は祖国よりずっと――」
「チャ、チャド様、あの、ちょっと待っ」
 肩を掴まれ、椅子ごと抱かれ、振り解く間もなく唇を奪われる。
 ――これだから宮廷の男なんて。公爵の息子なんて。
「……っ」
 せり上がる不快感をなんとか受け流し、ブルーノは背もたれに倒れ込んだ。初夜に比べれば出産のほうがましかもしれない。今度はルディアの依頼だから罪悪感に苦しむ必要もないのだし。
 そう、全ては償いなのだ。勝手な親切で乙女の純潔を汚してしまったことに対する。
 チャドと婚約する以前、ルディアはリリエンソール家の長男と恋仲だったという。好きでもない男の子供を産むなんて覚悟があっても苦しいに違いない。不本意な形でルディアの初めてを台無しにしたのは事実なのだ。少し痛い思いをするくらい甘んじて受け入れなければ。あ、甘んじて受け入れ……。
「……ブルーなのかい?」
「えっ!?」
「いや、気分が……、マタニティブルーというやつなのかい? 実は君はまだ跡取りなど望んでいないとか……」
 一瞬本名を呼ばれたのかと焦った。引きつった笑顔で首を振り、ブルーノは「いえ、その、私もどんな子が生まれてくるのか楽しみです!」と取り繕う。
 するとチャドはほっと細い糸目を緩めた。隣国の王子は恭しく跪き、波打つ王女の青い髪を指に掬う。そこにも優しく口づけられた。
「子供が生まれれば我々も本物の夫婦に近づけよう。あなたの真の愛情を勝ち取るために、私は私のできることをしてくるよ」
 飲み物を運んできたジャクリーンに「妻を頼むよ」と命じるとチャドは寝室を出ていった。おそらく今日もマルゴー兵の宿泊先を訪問して回るのだろう。グレッグの残していった傭兵が妙な悪さをしないように、彼はいつも自らの目を光らせてくれている。それに不審火の起きた国営造船所のことも気にかけてくれていた。
 強引と誠実を交互に見せるのは人の心を惑わせるのになんて有効なのだろう。
 ――これだから宮廷の男なんて。公爵の息子なんて。
「はあ……、チャド様の立ち居振る舞いって本当に素敵……。あれでお顔立ちがもう少し華やかなら言うことないんですけれど……」
「ジャクリーン? ちょ、まさかまた覗いてたんじゃ……」
「やだ、姫様! 覗きだなんて! いい雰囲気でいらしたから、中に入るのがためらわれただけですよぉ!」
 ウフフと楽しそうにはしゃぐ彼女には溜め息しか出てこない。
 ジャクリーンはいい子なのだが、少女時代は人形遊びに熱中していたタイプで、ブルーノやチャドに夢見る瞳を向けてくるのである。特に『ルディア姫』のファン歴は長いらしく、青い髪を日がな一日太陽に晒し、王女と同じ水色に近づけるという驚異の努力もしていたそうだった。
「私、姫様のお子様は絶対姫様に似てほしいですわ。女の子なら絶世の美女に育つでしょうし、男の子でもゴツくなったりムサくなったりしないで爽やかな貴公子になると思うんです」
「そ、そう? 私はもう五体満足で生まれてくれればなんでも……」
 ブルーノはグッタリしつつ膨れた腹に手を置いた。
 ああ、本当にどうしてこんなことになったのだろう。自分が普通の人間とは違うことはわかっていた。平凡な人生は歩めない予感もあった。王国を去った姉の代わりに、モリス・グリーンウッドから脳蟲の話は聞かされていたから。
 ――ああ、こんなおかしな生き物だって皆に知られたらどうしよう。きっとばれたら殺されるんだ。気味が悪いって石をぶつけられるかもしれない。
 渦巻く不安を拭いきれず、幼い頃からいつも挙動不審だった。
 心の支えはルディアだけ。あの美しい姫もまた己と同じ異形なのだと思えばどうにか耐えられた。
(自分の正体を知った今、あの人だって困惑してるはず。ひとりぼっちの夜は泣いておられるかも)
 まるで双子の妹みたいに愛しい愛しいプリンセス。彼女の力になりたければ出産くらい乗り越えてみせなくては。
 もう十月だ。じきに送迎団も帰国する。もしルディアが涙に暮れているようなら、そのときは己が彼女を励ます番だ。




 ******




 ワッハッハと笑い出しそうになるのを堪え、ルディアは甲板に短いマントをなびかせた。なんと気持ちの良い秋晴れだろう。国民広場まで出迎えにきた民の姿がよく見える。
 とくとその目に焼きつけるがいい、王国史に残るであろう凱旋を!
 我々は、アクアレイアは、再び通商の自由を勝ち取ったのだ!

「うおおー! ガレー船団が帰ってきたぞー!」
「なんか行きより数増えてないか!?」
「荷揚げだ荷揚げ! うははは、しばらく忙しくなりそうだな!」

 歓喜の声が王都を包む。税関岬や大運河は既に積荷を待ちきれない者たちのゴンドラでごった返しになっていた。
 誇らしい気分でルディア騒がしい光景を眺める。今後またドナやヴラシィに停泊することができるようになったと知ったら彼らはどんな反応を示すだろう。きっと拍手は二倍にも三倍にも膨れ上がるに違いない。
 パトリア聖暦一四四〇年十月十三日、七月末に王都を発った送迎団は一隻も欠けることなく――もっと言えば、この二年間ノウァパトリアから帰り損ねていた多数の商船を引き連れてアクアレイアに戻ってきた。ワイン河岸も香辛料河岸もほどなく交易品に埋まるだろう。噂を聞きつけた近隣諸国の商人たちは皆すっ飛んでくるはずだ。王国が海運都市のあるべき姿を取り戻すまで、もうほんの少しである。
(一時はどうなることかと思ったが、これで少しは落ち着けそうだな)
 ルディアたちの乗った旗艦はしんがりで入港した。本来なら寄り道などせず国営造船所に向かうべきなのだが、今日だけは特別だ。ブラッドリーの指令でガレー船は国民広場に横付けされる。
 群衆の真ん中でイーグレットがこちらを見上げた。その唇には特上の笑みが浮かんでいた。
(お父様……!)
 やりましたと飛びつきたくて仕方なかったが他人の身体ではそうもいかない。ルディアにできるのは聖預言者の手を取って岸に降り立つことくらいだった。
「ごきげんよう、イーグレット陛下。とても楽しい船旅でしたよ」
「おお、そう言っていただけて何よりです、ハイランバオス殿。こうして再びアクアレイアにお戻りいただけたことにも感謝いたします」
「ふふふ、しかし今回は長居しませんよ。私はすぐにもヴラシィに住まうことになりそうですから」
「ほう、ヴラシィにですか? 一体またどうして?」
「実は私、アレイア海東岸の商港管理者に任命されたのです。詳しくは我が君からの親書をご覧いただけますか?」
 アンバーはそう言って傍らのアルフレッドに丸めた羊皮紙を差し出させた。受け取ったイーグレットは挨拶もそこそこに書状の紐を解く。
「これは……、おお、これはもしや……!」
 公の場では滅多に感情を出さない父だが、このときばかりは薄灰色の双眸も踊った。ルディアは既に何が書かれているか承知済みである。親書にはハイランバオスがアレイア海の調停役となったこと、彼の認可した船は国籍を問わずドナにもヴラシィにも寄港できること――、王国にとっては十分すぎる進展が記されているのだ。
「アクアレイアあってのアレイア海ですし、もちろん認可させていただきます。元老院で検討してもらい、明日にでもこちらに調印していただけますね?」
 次はルディアが証書を差し出す番だった。不自然でない程度にアクアレイアに有利な条件を盛り込んで、寄港・荷揚げ・食糧調達・人員調達が可能な旨をしたためてある。破格の待遇に父は驚きを禁じ得ないようだった。
「ハイランバオス殿、これは……」
「これくらい当然ですよ。しばらくはあなた方の良質な船に頼らねばならないでしょうから」
 微笑むアンバーにイーグレットは熱烈な握手で応える。このやり取りが周囲にも好感触を伝えたらしい。聖預言者に向けられる眼差しは以前の疫病神扱いとは雲泥の差になっていた。
 王が右手を高くかざすと人垣がさっと割れる。アンバーはアイリーンを連れ、招かれるまま宮殿へと歩き出した。
 間を置かず、建て直された大鐘楼が鐘の音を響き渡らせる。ただちに会議を始めるぞとの合図である。それはこの潟湖に住まう全ての者の胸高鳴らせる、至上の音楽でもあった。




 ******




 アクアレイアは王国だが、その政体は王政というよりもむしろ貴族共和政である。立法を担う「大評議会」と行政を担う「元老院」が二本の柱、国家存亡の危機に関わる重大事項は王族を含めた「十人委員会」で決定する。
 この日招集されたのは王国の主要貴族が名を連ねる二百名の元老院だった。防衛隊も旅の報告義務を果たすようにと呼び出しを受けている。
 ブラッドリーに伴われ、ルディアは久しぶりにレーギア宮の正門をくぐった。見渡せば王女の苦労など知りもせず、回廊を彩る壁画や中庭の彫像たちはつんと取り澄ましている。変わりなさそうで結構なことだ。

「失礼いたします。陛下、議員の皆様方、王都防衛隊をお連れしました」

 提督のノックした元老院の間には議員の制服である黒いローブに身を包んだお歴々が待ち構えていた。階段上の座席から一斉に視線を向けられる。報告者の立つ壇のすぐ手前には十人委員会がずらりと陣取っているのが見えた。
 第一席には我らが君主、イーグレット・ドムス・レーギア・アクアレイア。第二席には所在なさげな偽者のルディア。他にはグレディ家の冴えない現当主クリスタル、医学の誉れ高きストーン家の長ドミニク、天才コナーの父であるニコラス老、国営造船所の総責任者エイハブ、銀行家のドジソン、敏腕外交官カイル、王立大学学長クララ、超保守のトリスタン老といった顔ぶれだ。
 王家以外は任期一年の委員だが、アクアレイアの権力中枢を担う人間であるのに間違いはない。噂ではクリスタル・グレディより、元提督でユリシーズの父であるシーシュフォス・リリエンソールのほうが票を集めていたらしいが、彼は息子の不祥事を気にして辞退したそうだった。シーシュフォスは自他ともに厳しい男だし、とても表に出てくる気になれなかったのだろう。
「さて諸君、天帝に賜った親書、聖預言者からの証書を読み上げたばかりだが、次は実際にバオゾを見て回った彼らに話を聞こうと思う」
 おもむろに立ち上がり、イーグレットが列席の貴族たちに呼びかけた。
 声も出さずに議員は頷く。ブラッドリーに促され、防衛隊は前に進んだ。
 ルディアの持たせた報告書を手にアルフレッドが壇上へ登る。憧れの伯父の前だからか、人生初の晴れ舞台だからか、騎士の背中は緊張気味だ。
「では僭越ながら、王都防衛隊隊長アルフレッド・ハートフィールドがご報告いたします」
 ゴホンと一つ咳払いをし、アルフレッドは文書に目を落とした。高い天井に描かれた優しげな女神が見下ろす中、粛々とした青年の声がこだまする。
 まず騎士はドナ・ヴラシィの街で見聞したこと――男手が連れ去られ、港がいかに荒れ放題だったかを伝えた。それからバオゾで会ったリーバイについて、新しく建設中だった海峡の関所について、ほとんど使われていなかった天帝宮について、更にアニークの現状や祝祭の宴について言及する。報告を終えた後、防衛隊としての見解を述べるのも忘れなかった。
「ジーアンは騎馬軍の忠誠を確たるものにしておくため、敢えて海上進出せずにいるのではないかと思います。しかし船の利便性や港の生み出す富に無関心とは思えません。天帝は国内で海軍力を育てにくいなら国外の海軍力と結ぼうと考えて、ハイランバオスを我々の側に残したのではないでしょうか?」
 アルフレッドの発言に元老院の間がざわめく。聞こえてくるのは「まさか!」「楽観的すぎやしないか?」という疑いの声だった。
「それにどうもヘウンバオスは東パトリア皇妃と裏で繋がっているようです。アニーク姫を人質にしたのが幼い皇子を帝位に据えるためであれば、おそらく皇妃を操っての間接支配を考えているのでしょう。なら東パトリアと縁の深いアクアレイアを傘下に加えようとしてもおかしくはないのでは?」
「なるほどな。他の商人からも皇妃と天帝の接近については聞いている。近くノウァパトリアでひと波乱起きるやもしれんな」
 十人委員会の面々はひそひそと密談を始めた。事前に仕入れた情報と照らし合わせて予測の正確さを検証しているらしい。しばらくすると彼らは自分の席に戻り、イーグレットだけが議員席を振り返った。
「他に彼に質問のある者はいないか?」
 しばしの間、挙手は途切れることなく続いた。問いの大半は「本当に我々がジーアン軍の攻撃を受ける可能性はないのか?」と確認するもので、残虐非道な騎馬軍に対する恐怖心が窺えた。
「ドナにもヴラシィにも大型船舶は残っていませんでした。技術者は根こそぎ連行されて、仮に木材があったとしても船を建造できる状態ではないかなと。バオゾの港も随分閑散としていましたし、現時点でジーアンにまともな軍船はないはずです。船に積まれた騎馬兵が王都に乗り込んでくるという心配は不要かと」
 アルフレッドは一つ一つの質問に丁寧に対応する。だが不安げな議員たちはなかなかざわめきを静めなかった。
「ふうむ、ジーアンはいずれ相見えるパトリア古王国を見越してアクアレイアを中立地域に仕立てておきたいのやもしれんのう」
 と、十人委員会の老賢人ニコラスが呟く。顎に手をやる彼の隣で他の面々も頷いた。
「その可能性は高いな。いずれにしても、これでようやく大規模商船団を編成できそうではないか」
「ああ、自前の船を持つ気がねえなら怖かねえ! 陸上防備は念のために傭兵を増やしとくくらいで十分だろ」
 外交官カイルと国営造船所総監督のエイハブ、特に影響力の強い二人の重鎮の言葉は議員らを勇気づけたらしかった。すぐにでも聖預言者との契約決議を始めようと求める声が増えていく。会議の結果は見なくとも推測可能だった。
「最後に一つだけいいかね?」
 しわがれた老人の声が壇を降りかけたアルフレッドを引き留める。コナーとよく似た鋭い双眸が平民騎士に向けられた。
 ニコラスが発したのはルディアにはつらい問いだった。ある男の進退を――否、生死を決めてしまうひと言。

「天帝に、アクアレイア商人にアニーク皇女を殺害させる気はあったと思うかね?」

 その場は水を打ったように静まり返った。
 老賢人が尋ねたのは国王暗殺未遂犯の自白にどの程度信憑性があったのかということだ。
 ユリシーズの証言がでたらめだったことはルディアが一番よく知っている。あのときは方便を用いてしおらしくしているのが最も賢い手段だった。誰から見てもハイランバオスがアクアレイアの完全な味方となった今、意味のない嘘になってしまったが。
「……ヘウンバオスがどう考えていたかはわかりかねますが、少なくとも俺は、バオゾではアクアレイア商人はおろか、カーリス商人も西パトリア人も見かけませんでした」
 正しい返答だ。余計な憶測は一切交えず、端的な事実だけを打ち明ける。
 それなのにどうして胸が苦しくなるのだろう。アルフレッドにユリシーズを庇ってほしいわけでもないのに。
 長らく王国を苦しめてきた通商問題にやっと片が付きそうで、死刑囚に同情が集まる展開はもはや起こり得ないように思えた。リリエンソール家の息子であっても犯した罪は償わなければならないのだ。
(……一度くらい会って話しておくべきか?)
 ユリシーズが人生の最期を迎える前に、ブルーノと姿を入れ替えて。ほんの短い間だけでも。
(だがなんと声をかけるつもりだ?)
 生を繋ぐ望みもなくなった彼に、マルゴーの男と結ばれた身で、一体なんと。
 それに身体を移し替えたら死産になってしまうかもしれない。無茶はやめておいたほうがいい。
(私を恨んでいるか、なんて問うだけ不毛だ)
 会議の続きをするからと退出を命じられ、ルディアたちは元老院の間を後にした。背中から聞こえた声によれば「チャド王子がいればマルゴー兵は意外に大人しい」らしい。長期に渡って大人数の傭兵を雇い入れても問題なかろうという話だった。
 商船団を出せばどうしても王都の兵が減る。その不足を補う役割を果たしてくれているとしたら、チャド王子様々だ。
(なんだ、王家は安泰じゃないか)
 笑おうとしたが頬は引きつったままだった。感傷に乱される心など要らないのに。早く全てを振り切ってしまいたい。


 翌日、調印の儀は民衆の見守る国民広場で行われた。
 まるで祭りの日のような熱気だ。聖預言者により正式に王国商船の立ち寄り自由が認められると同時、大歓声が沸き起こる。
「イーグレット陛下! イーグレット陛下!」
「アクアレイア王、万歳!」
 父を讃える声はレガッタ優勝時の比ではなかった。それどころか天帝コールまで渦巻いたほどだ。
 喜色満面の商人たちは右に左に大わらわで出航準備に取りかかった。十一月には航海シーズンが終わってしまう。年内に商売を再開したいなら、二週間後にはアクアレイアを出ていなければならなかった。それができれば砂糖の産地クプルム島か黄金の砂漠エスケンデリヤで冬を越せる。一四四〇年の最終便に間に合わせようと貴族も平民も必死だった。
 忙しない雑踏にルディアは耳を澄ませる。誰かがユリシーズの名前を出して「あの騎士様、適当に言い逃れしてただけじゃねえか」と言った。
 民衆は常に率直だ。謀反人が大鐘楼の貴人独房に移されたのは数日後のことだった。




 ******




 来たれ、我が軽舸に 誰が汝の明日在ることを知らん
 青春は麗し されど川のごとく過ぎ去る
 愉しみたければ今すぐに 今日は再び巡らぬものを

 触れよ、我が唇に 誰が汝の明日在ることを知らん
 青春は短し されど星のごとく輝く
 愉しみたければ今すぐに 今日は再び巡らぬものを

 そんな古い抒情歌を口ずさんでしまうほど今日のレイモンドはご機嫌だった。一連のハイランバオス接待が王国に貢献したとかどうとかで、なんと防衛隊の昇進が決まったのだ。アンバーがヴラシィに発つまでは前と同じ護衛任務だが、その後はルディア姫付きの宮廷勤務になるそうである。
 昇進も昇進、大昇進だ。給与がいくらに跳ね上がるか想像しただけでヨダレが出る。ああ、防衛隊に入って良かった。これで生活がもっと楽に――。
「おいレイモンド、さっきからやかましいぞ」
 鋭い声が飛んできたのは豪奢な寝室の奥からだった。「別れの前にルディア姫にも挨拶を」との名目でハイランバオス役のアンバー、付き人のアイリーン、防衛隊のいつものメンツがブルーノのもとに集まっているのだ。
 ルディアは影武者にここ二ヶ月半の報告を受けているところで雑音が耳障りだったらしい。ささやかな鼻歌よりも楽しげに妊婦の腹に話しかけているモモのほうがよほど邪魔な気がするが。
「……ふむ。まあ、国営造船所の火事以外は取り立てて何事もなかったようだな」
「は、はい。あとこれ、わわ、私が参加した会議の議事録です」
「わかった、目を通しておく。ちゃんと教えた通りの暗号法で記したか?」
「ははは、はい、もちろん!」
 緊張で目を回すブルーノを皆でやれやれと取り囲む。姿形は違えども、この噛み噛み具合はまさしく気弱な幼馴染だった。
 安楽椅子でゆらゆら揺れる張り出した腹部を見やってレイモンドは「大変だなあ」とひとりごちる。無報酬で出産の身代わりなんて自分なら絶対ごめんだ。怖すぎる。
(つーかそれ以前にこいつチャド王子とヤッたんだよな……。ほんとすげーな……。すげーとしか言いようがねーな……)
 あまり深く考えてはいけないとわかっていても、頭は勝手に「こんなだったのか、あんなだったのか」とその場面を思い描く。男が女に成り代わってなどグロテスク以外の何物でもない。よくぞ一晩耐えられたなと感心した。
(こいつ怒るどころか謝ってたもんなー。姫様には申し訳ないことをしたって……)
 ブルーノがルディアを特別視しているのは前々から知っていた。単なる王室ファンの域を越えて王女を慕っているとまでは考えていなかったが。
(アルもブルーノもなんだって自分が盾になってまで姫様を守ろうって思えるのかねー。俺こいつらの考え方にはついていけそうにねーわ)
 こめかみを掻きつつレイモンドはルディアの様子を盗み見る。バイタリティ溢れる次代の女王は楽譜形式の報告書を確認しもってブルーノに今後の指示を与えていた。
 確かに悪くない上司だ。功績は認めて報酬で返してくれる。レイモンドとてできる限りはルディアの意に添おうと思う。
 だがそれだけだ。命をかけてどうこうするほどの情熱はない。
 モモは軍人肌の女だし、バジルはモモに逆らわないから防衛隊は「万が一の場合、最優先でルディアの安全を確保する」方針で動くのだろう。たとえ仲間を犠牲にしてもだ。
 レイモンドと話の合いそうな者はいなかった。危険を感じたら一人でさっさと逃げたほうがいいかもしれない。金を稼ぐ手段でしかない仕事のために死ぬなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

「あ、あの、姫様、ゆ、ゆゆ、ユリシーズ元中尉の件はどうしましょう……?」

 と、出し抜けにブルーノが問いかけた。絞り出された細い声にたちまち空気が凍りつく。
 うわ、こいつよく聞けたなとレイモンドは息を飲んだ。あの男の名前だけはモモでさえ口に出さなかったのに。
「さ、さ、差し出がましい真似ではありますが、あの、もし伝言などあれば、わわ、私が」
 ルディアの返事も待たないでブルーノは続けた。青ざめた額からはどっと汗が噴き出している。見守るだけのレイモンドたちにもじわじわ緊張が伝染した。
「…………」
 沈黙が気まずい。誰も二の句を告げられない。
 大丈夫かとレイモンドはついルディアの横顔を盗み見る。だが予想に反し、彼女はごく平静であった。

「伝えるべき言葉などない。もういいんだ、あの男のことは」

 思わずうわっと目を瞠る。ルディアがユリシーズを切り捨てようとする意志をひしひし感じてしまって。
 それは冷酷とは違う冷たさだった。言うなれば、多数を生かすために少数を見殺しにする君主の理知的な冷たさだった。
 状況次第では自分たちも同じ天秤にかけられるのだ。そう考えるとますますルディアに殉じる気持ちは失せてくる。
 このお姫様は見限ると決めたら本当に見限るお姫様だ。死ぬのが惜しいならあまり真剣に仕えないほうがいい。
「本当にいいの? 処刑されちゃったら何も言えなくなるんだよ?」
 モモの問いにもルディアは頑なに首を振った。振り返らないと決断済みなのだろう。宣言通り、彼女は二度と過去にはかまけまい。
「せめて最後まで不自由なく過ごせるようにしてやってほしい。私からはそれだけだ」
 慈悲深いのだか非情なのだか。どちらにせよ彼女はどこまでもアクアレイアという国の王女なのだという気がした。




 帰り道はレイモンド一人だった。任務中でも休暇は順に回ってくる。非番の午後は自由の身だ。
 安っぽい乗合ゴンドラに揺られながらレイモンドは我が家を目指した。顔を上げれば小綺麗な家の窓辺で秋の花が咲いている。狭い運河を吹き抜ける風はすっかり柔らかくなっていた。
 昼過ぎなのに辺りは既に薄暗い。王都には高い建物が密集しているので間に挟まれた水路まで光が入ってこないのだ。大運河から遠のくにつれて太陽神の加護は弱まった。
 レイモンドの家はこの突き当たり、庶民階級のひしめき暮らす一画にある。いわゆるスラムではなくて、不便さゆえに安いだけの土地だ。大都市にしては珍しく、アクアレイアには貧民街というのがない。ノウァパトリアでもバオゾでも城壁の外は物乞いたちのあばら家で埋まっているのに。
 路上生活者にはやりにくい街だ。広場や路地はしょっちゅう高潮で水浸しになるし、船がなければそもそも街に辿り着けない。国民であれば家を失くしても救貧院が保護するから、浮浪者はそれだけで余所者と知れてしまう。
 聞いた話、スラムを作って居座るような人間はほとんどが流れ者だそうだ。豊かな都市のおこぼれにあずかろうと周辺の食い詰めた農村から人が集まってくるらしい。
 アクアレイアは特別な理由なしにはその種の手合いを受け入れない国だった。旅行客や商人はどこの誰でも常に大歓迎だから、金を落とさぬ輩に用はないというわけだ。
 逆に国民を破産や病気から守る制度はどこまでも手厚い。「アクアレイア人」と「それ以外」を色分けしているのが誰の目にも明らかなほど。

「レイモンド、まっすぐ家に帰るのかい? 暇なら一杯やらねえか?」

 呼びかけられてハッと気がつく。振り向けば顔馴染のゴンドラ漕ぎがカップを傾ける仕草をしていた。
「えー、おっちゃんと飲んだら絶対一杯じゃ済まねーじゃん。他にも客がいるんだし、たまには真面目に仕事しろって」
「なんだなんだ、生意気言うようになりやがって! お前さんに舟の漕ぎ方を教えてやったのは誰だと思ってんだ!?」
 恩着せがましい恩人にレイモンドはいやいやと首を振る。この間王都に凱旋して以来、この手の誘いは嫌というほど受けていた。今をときめく防衛隊ならさぞ金回りがいいだろうと皆してたかってくるのである。
「だっておっちゃんの顔に奢らせてやるって書いてるんだもん。そりゃあ遠慮したくもなるぜ」
「何、クソッ! まさか見抜かれていたとは!」
 壮年のゴンドラ漕ぎは悔しげに地団太を踏む。年に見合わぬその態度が滑稽で、レイモンドはぷぷっと吹き出した。
「今日は惰眠を貪るって決めてんだ。また今度な、おっちゃん!」
 軽い口調で断ってポケットに手を突っ込む。じきに最寄りの停泊所だ。小銭を準備しておかねば。
「――」
 不意に指先に触れた冷たさにレイモンドは息を止めた。
 他よりひと回り大きな銀貨。ルディアがくれた記念コインだ。コレクターに売れば倍にはなるとか言って。
 硬い感触をもてあそびつつレイモンドはひっそりと嘆息した。
 わからない。どうしてこんな重い気分を引きずったままでいるのだか。
(あークソ、今の今までいつも通りだったのに!)
 モヤモヤの原因は不明だが、きっかけはわかっていた。仲良しごっこをする気はない、何より大切な王国のためなら防衛隊とて切り捨てる。そうルディアに言いきられるまでこの苦々しさは胸になかった。
 あのときからだ。命まで捨てる気はないぞと反感めいた思いを隠し持つようになったのは。
(うーん。姫様とは仲良くやっていけそうに思ってたんだけどなあ)
 自慢ではないが、相手が大物であればあるほど打ち解けるのは得意である。何故か気に入ってもらえるのだ。お前はなかなかあけすけに物を言う男だなと。
 金と権力を持つ人間はお世辞も悪口も多分聞き飽きているのだろう。素顔を晒せる相手さえ己の損得とは無関係な部外者に限られる。
 子供の頃からレイモンドの立ち位置はそこだった。誰とでも仲が良い代わりに、誰にも本気で肩入れしない。処世術なんて言葉を知る以前からそうやって生きてきた。
(……やっぱりちょっと腹立ってんのかなー。皆が皆そこまでアクアレイアを思えるわけじゃねーぞって)
 船賃を払って岸辺に降りる。割り勘でいいからこの次は飲もうと叫ぶ親方に手を振った。
 別にこの国を恨んではいない。レイモンドに笑いかけてくる人たちが嫌いなわけでもない。ただ身を捧げるほどの義理はないなと感じているだけで。
「ただいまー」
 狭くて汚い食堂の扉を開くと弟妹たちが「兄ちゃんお帰り!」と仲良く口を揃えた。皿洗いもそこそこに群がってくるちびたちは誰一人レイモンドに似ていない。長男の自分だけが種違いで、純粋なアクアレイア人ではないのだ。
「兄ちゃん、防衛隊すごいな!?」
「聞いたわよ! ついに宮仕えになるんですって? ちょっと衣装を新調したほうがいいんじゃない!?」
「まるで上級市民みたいよねえ。いやー、世の中何が起こるかわかりませんな」
「俺もコネで入隊させてほしいよー!」
「わっはっは、羨ましかろう! 素晴らしい兄を持てたことを誇るがいい!」
 さほど背の高くない弟たちを順番に撫で回す。いつも通りの光景を母と祖母がカウンターから微笑ましげに見つめていた。
 家族は好きだ。家に帰ると安心する。レイモンドにも故郷を守りたい気持ちはある。だがそれがどうしても愛国心と結びつかない。
「今日もあんま客入り良くなさそうだな? ちゃんと商売になってんの?」
「あはは……、でもやっと定期商船団が再開になるし!」
「また船乗りが寄ってくれるようになりゃガッポガッポだぜ!」
「あたしらが食べてくだけなら小麦の配給があるからさあ」
「なんとか、まあね」
「そっか。そんならいいんだけどな」
 レイモンドは複雑な胸中を隠して頷いた。
 多分その配給は弟妹たちが「アクアレイア人」だから受けられるものなのだ。これが国籍取得前の自分であれば、どれほど飢えても政府は救いの手など差し伸べなかったに違いない。
(ま、今じゃ俺もれっきとした王国民だし、何の心配もしてねーけど!)
 レイモンドが念願の「アクアレイア人」になれたのは十五歳のときだった。居住年数が十五年を超えること、一括で五十万ウェルスを支払うこと。条件をクリアするのに我ながら苦労したと思う。稼げる仕事は外国人お断りだったし、レイモンドには小学校の席さえ与えられていなかったのだ。読み書きも算術もできない者にまともな働き口などない。この国は商売人の王国で、その程度は誰しもできて当たり前だった。
 運が良かった。アルフレッドに出会わなかったら、今頃きっと家族に養ってもらうだけの穀潰しになっていた。
 ――学校じゃ見ない顔だが、この辺りに住んでいるのか?
 幼い頃の記憶が懐かしく甦る。
 初めにアルフレッドがそう声をかけてきて、レイモンドがハーフと知るや、翌日にはもうブルーノを連れてきた。二人ともアクアレイア人の作る輪からは微妙にはみ出た子供だった。
 将来のためだとアルフレッドはたくさんの本を読ませてくれた。ブルーノも、帳簿のつけ方から何から懇切丁寧に教えてくれた。
 それからだ。世界が外に広がったのは。
 恩があるとすれば幼馴染とごく少数の親切な大人だけである。アクアレイアという国家に返すものなど何もない。
(俺も皆と同じように命張れたら良かったけど……)
 そこが生粋のアクアレイア人とそうでない者の違いなのだろう。レイモンドは改めて自分が高い給金に惹かれただけの傭兵もどきであることを自覚した。
 金は好きだ。あればあるほど安心できる。もしかすると命綱みたいに感じているのかもしれない。
 それに金は万人に平等だ。一ウェルスはどこの誰が使おうと、一ウェルスに違いないのだ。




 ******




 グレッグ・コールは意気揚々と衛兵の立つ門を出た。先程レーギア宮に呼び出され、王国政府と新たな契約を交わしてきたのだが、それが思いもかけない破格の待遇だったのだ。
 本日十一月一日より三ヶ月、マルゴー正規兵ではなくグレッグ傭兵団として王都の警備に当たってほしい。そう依頼され、契約書を確認すると驚きの契約金が記されていた。
 なんと平時で百万ウェルス、戦闘が発生すれば追加で五十万ウェルスという高額雇用である。サインする手にも震えが走るというものだ。

「なっ? 俺についてきて良かっただろ? 海賊どもの身代金は手に入るし、有能すぎて自分が怖いくらいだぜ!」

 だがしかし、鼻を高くして広場に戻ったグレッグに期待した称賛は寄せられなかった。右隣では呆れ顔のルース・ヤングが、左隣では冷たい目つきのドブ・ヴァレンタインが、同時に大きく嘆息する。
「……旦那さあ、公務が済んだらとっととマルゴーに帰るって言ってたよな?」
「アクアレイア人は信用ならねえ、こんなところにいたら性悪がうつっちまう、なんて大騒ぎしてたのは誰だよ?」
 過去の発言を持ち出され、グレッグはうっと喉を詰まらせた。「いや、その、前はちょびっと誤解してたんだよ」と言えば、ぴったりの呼吸で「ホントすぐほだされちまうんだから!」とどやされる。
「まあ今回はいいよ、今回は旦那でなくてもオッケーする条件だ。けどいつも旦那の尻拭いさせられてるのは俺だってこと忘れないでくれよ?」
「ルースさん、例の身代金って今誰が管理してんの? まさかこのオッサンに持たせたままにしてないよな?」
「安心しな、ドブ少年。旦那はホイホイそこらの孤児モドキやら病人モドキにバラまいちまうから、全部取り上げてやったよ」
「あー良かった。頭も財布もゆるゆるだもんな、このオッサン」
「バオゾには二人してついてけなくて心配し通しだったよなあ!」
「ほんとほんと! 俺たちがいりゃ悪徳商法に引っかかって醜態晒さず済んだろうに、ねえルースさん!」
 好き放題に貶しまくる二人に「オイ」と鉄拳を落とす。長年傭兵団の副団長を務めるルースは髪の毛一本乱さないで回避したが、一年前に拾ったばかりの生意気坊主は「いてッ!」と脳天を押さえて座り込んだ。
「ルース! お前がついてこれなかったのはアクアレイアの気候が合わないで寝込んでたせいだろうが!」
「旦那ァ、そりゃ俺が病にまで惚れ込まれる色男ってだけさ」
「ドブ! お前はスリでその日暮らしだったのを俺が入団させてやったんだろ!」
「へへっ、そいつは今も感謝してるって」
 のらりくらりと叱責をかわされ、もはや怒鳴る気も失せる。グレッグが肩を落としたのを見て二人はまた両脇に寄ってきた。
「けど一つだけ言っとくと、今度のべらぼうな報酬は俺らが王都でお行儀良くしてた成果なんだからな?」
「そうそう、チャド王子直々に揉め事は避けてくれって頼まれてさ。ちなみにオッサンは行き帰りの船でくだらねー言い争いなんかしてねえよな?」
 質問には答えずグレッグは渋い表情で海を見やった。「あの船団が出てったら傭兵団も任務開始だぞ!」と強引に話題を逸らす。
 今年最後の大商船団の見送りに国民広場は酷く混み合っていた。集まった人々は自分の買った積載枠に何を載せたとかノウァパトリアで何を買ってきてもらうつもりだとか盛り上がっている。彼らの明るい顔を見ていると誇らしい気分になった。
「おっ、見ろよ、あれが旗艦ってやつだ! ブラッドリーとハイランバオスが乗ってるから間違いねえ!」
 アレイア海へ漕ぎ出さんとする船の中に見知った人間を見つけて指を差す。だが示した方向を見やったのはルースの整った顔だけで、ドブのほうは何故か後ろの人混みをチラチラと気にしていた。
「……どしたんだ? まさかお前、スリのカモ探してるんじゃなかろうな?」
「うわっ! ち、違う違う! 小銭が落ちてた気がしただけだよ! 俺の気のせいだったけど!」
 慌てて首を振るドブにルースが「本当は可愛い子でもいたんだろ?」と笑う。毎度毎度、滞在先で浮名を流す貞操観念の薄い男に三白眼の少年は「もう!」と顔を真っ赤にした。
「そういうのでもないってば! 万年欲求不満男のルースさんと一緒にすんなよ!」
「ま、万年欲求不満男ォ!?」
 あんまりな言い様に今度はグレッグが腹を抱える。いつも通りのやり取りの傍らで一つの魔法が解けたことにも気づかずに。
 沖へ遠ざかる旗艦の甲板では凍りついた聖預言者がこちらを振り返っていた。




 今すぐに船を止めて!
 私を港へ戻してちょうだい!
 叫びかけた言葉をかろうじて飲み込む。信じがたい巡り合わせにアンバーは瞠目した。
(こんな姿であの子になんて名乗るつもり?)
 自問がなんとか激情に蓋をする。わななく指は無意識に心臓を掴んでいた。
「アイリーン……」
 小さな声で付き人を呼ぶ。だがそれは到底「ハイランバオス」の喉から出てきたものには聞こえなかった。アイリーンにもただちに異変が伝わるほどの、出してはならない己の声。
「ど、どうなさったんですか」
 ヴラシィでの新生活に付き添ってくれる予定の彼女はアンバーと同じ旗艦の甲板に立っていた。乗組員は誰も彼も旅立ちの旗を振るのに懸命だ。こちらを振り向く者はいない。
 うねる王国旗に紛れ、アンバーは震えながら囁いた。
「どうしよう、生きてるなんて思わなかったのに……。息子が……、ドブが、あそこにいるのよ……!」
 霞みゆく国民広場を指で差す。聖預言者から母に戻るのは一瞬だった。
 舞台の幕は開いたまま、演目だけが終わりを告げる。仮面の剥がれた哀れな役者をステージに縛りつけて。




 ******




 わざわざ名指しで呼びつけてきたということは、あの天帝もついに動く気になったのだろう。広い庭に目当ての天幕を見つけると、コナーは「どうも」と入口の布を捲った。
「住処を奥の宮に移せ」
 開口一番にヘウンバオスはそう命じる。お前に拒否権はないと言わんばかりの傲岸さで。
「奥というと後宮のことですかな? まさか宦官として仕えよとご命令で?」
 おどけて問うと天帝は素っ気なく首を振った。
「お前は臣下ではなく客人だ。ノウァパトリアには皇帝のための女の園があるらしいが、生憎と私が集めているのは美女ではなくて知識でな。職人も学者もひとまとめにして囲ってある。今日からそこの仲間入りをしろ」
 なるほどと合点が行く。それで今までいるはずの虜囚と出くわさなかったのか。
「お前専用のアトリエとやらも造らせた。荷物は全て兵士に運ばせる。案内をやるからただちに――」
「おや、それはいけません。私の持ち物は取扱い要注意なのです。引っ越しの荷運びは私自身の手でやらせていただきますよ」
 命令に注文をつけるとヘウンバオスはむっと眉間にしわを寄せた。だが強引に突っぱねてはこない。認める代わりに「今日中にやれ」と条件を加えただけだった。
「……しばらく私を表に出さないおつもりで?」
 問いかけには沈黙と不穏な笑みが返される。はぐらかそうとした天帝に先んじてコナーは一枚手札を晒した。
「アクアレイアへの攻撃なら咎める気はありませんよ。後にも先にも私が祖国のためを思って行動した例は皆無です」
 意表を突かれた風もなくヘウンバオスは頬杖をついた。長椅子に上げた膝にもたれ、明敏な緋色の双眸で睨んでくる。
「嘘をつけ。ならば何故祝宴の最後にアクアレイア人どもに合図した?」
「合図? ああ、ウィンクのことですか。あれはアクアレイア人にではなく、あの中にいたとある人物にサインを送っていただけです。――事は予定通りに運びそうだと」
 彫像のごとき額にまたしわが刻まれた。意外に若い顔をするのだ、この男は。
 くつくつと笑うコナーにヘウンバオスは菓子皿の胡桃を投げつけた。難なくそれをキャッチして、胸ポケットに収めてしまう。
 胡桃の花言葉は知性・謀略・知恵・野心――いかにもこの場に相応しいではないか。
「ある人物とは誰か聞いても答える気はないのだろうな?」
「ええ、ですがあなたの想像通りの方だと思いますよ。私は彼に味方する気もありませんがね」
 天帝は三度しかめ面を見せた後、諦めた素振りでどさりと座り直した。
 根掘り葉掘り尋問しないのは力に自信があるからだろう。その強い自負心が彼に謎解きを楽しむ余裕を与えている。
「……まあいい、お前が傍観を決め込む間は無害と見なしてやることにしよう。とりあえずさっさと宮殿を引き払え。私はあそこでやることがあるのだ」
「仰せのままに」
 ケープの端を指で摘まみ、優雅なお辞儀を捧げるとコナーは幕屋を後にした。沈黙を保っていた数名の将と宰相が何やら天帝に耳打ちするのを尻目に。




 常ならぬ物音に気づき、アニークは中庭からひょこりと顔を出した。
 ここの住人は自分ともう一人だけだ。何をしているのだろうと覗いた先には画材や写本や薬品をまとめているコナーの姿があった。
 中央の交差階段には結構な量の荷物が積み上がっている。驚いたアニークは腕捲りの画家に問うた。
「先生、まさかアクアレイアへ帰っておしまいなの?」
「おや、アニーク姫。本日もご機嫌麗しゅう」
 夕闇の空に合わせて天帝宮はおどろおどろしい様相を醸しつつあった。掃除を日課にするようになって城の荒れ方はましになったけれど、こんなところにたった一人で取り残されるのは嫌だ。
 が、アニークの祈りもむなしくコナーは今晩出て行く予定だと明かした。
「実は天帝陛下に場所を移れと言われましてね。帰国するわけではありませんが、アニーク姫にお会いするのは難しくなるかと」
「ヘウンバオスに!? くっ……、あの男、とことん私に孤独を味わわせたいのね……!」
 アルフレッドたちがいなくなった後、勇気を出して話しかけてからコナーはアニークの友人になってくれた。それをまた取り上げられるのかと思うと腹が立って仕方ない。
 だが抗議しても無意味なことはわかりきっていた。今はただ生き抜く以外にできることなど何もないのだ。
「……先生、あなたに頼み事をしてもいいかしら?」
 やや逡巡し、アニークは左耳のピアスを外した。最高級のパトリア石を使用したシンプルかつ贅沢な一品だ。包む布もないままにコナーの掌にそれを託す。
「こちらをどのようにいたせばいいので?」
「王都防衛隊のアルフレッド・ハートフィールドに渡してほしいの。色々世話をしてもらったお礼がしたいのだけど、当分無理そうだから……」
 本音半分、言い訳半分で言葉を濁す。
 夢から覚めた後の二ヶ月はアニークに現実を突きつけた。まったく何もできないよりは少しできるくらいのほうが思い知る無力感は大きいのだ。恵まれた環境にありながら、今まで何をやっていたのだろう。何を見て、何を聞いて、何を学んできたのだろう。
 打ちひしがれそうになったとき、思い出すのはいつもアルフレッドだった。そして今度は淋しさに挫けそうになる。
 私は毎日彼の名前を呼ぶけれど、彼が私を思い出すことはあるのかしら?
 問いの答えはわからなかった。だからせめて、記憶を呼び起こせそうなものを彼に持っていてほしかった。
 小さなものなら邪魔になるまい。宝飾品なら売ることもできる。捨てられたって構わないのだ。こんなのはただの自己満足だから。
「では花でも添えてお渡ししましょう。リクエストはございますか?」
 承ってくれたコナーにありがとうと礼を述べる。
「そうね。じゃあアネモネとか、何か赤い花を」
 アニークの頼みに画家は優しく微笑んだ。




 それから一時間もすると、月明かりの天帝宮にアニークは再び一人になってしまった。ぽつんと果樹の間に座り、丸く切り取られた屋根の向こうの夜空を仰ぐ。
 星を見つめている間はあの夜に戻れる気がした。
 耳には容易く楽の音が甦る。体温もまだ残っている。錯覚と言われればそれまでだけれど。
 ――不意に静寂が乱れたのはウトウトと眠りに落ちかけた矢先だった。
 規則正しい複数の足音。一部屋ずつ扉を開けて回る気配。賊でも入り込んだかとアニークは慌ててオレンジの木に足をかけた。
 だが枝葉に隠れてやり過ごそうと思ったのが却って仇になってしまう。揺れ動く影に人がいるのを察知した何者かが中庭に踏み込んできたのだ。

「アニークだ、捕らえろ」

 声には聞き覚えがあった。威圧的で、侮蔑的で、人を人とも思わない無礼者――天帝ヘウンバオス。
 どうして彼がと思う間に囲まれる。武骨な腕に引っ張られ、地面に強く叩きつけられた。
「うあっ……!」
 盛り上がった根っこに背中をぶつけたらしい。痛みで呼吸ができなくなる。手首を掴まれ、逃げることもかなわずに、ただ恐怖だけがせり上がった。
 イヤ。なんなの。なんなのこれは。今までずっと放置しておくだけだったのに――。

「やれ」

 何をするのか打ち合わせ済みの短い命令。
 押さえつけられ、喉を絞められ、もがいて、もがいて、懸命に手を伸ばす。
(アルフレッド……!)
 意識は間もなく闇に沈んだ。
 助けを求めた騎士の姿は幻だった。




 ******




 ベッドから降りられない日が続いている。どうしても気力が湧いてこないのだ。こんなことではいけないと頭ではわかっていても。
「はあ…………」
 ヴラシィの岬を守る灯台でアンバーは重い息を吐いた。部屋中に己の嘆息が充満しているような気がする。聖人のために運び込まれた金細工の調度品も、色彩豊かな織物や絨毯も、今はただ灰色にしか見えなかった。
(姫様に東岸は任せたぞって言われたのに……)
 商港を切り盛りして、いずれこの地の男たちを呼び戻せと。このままでは何もできない。ルディアに拾われた者として、ルディアの信頼に応えてみせなくてはならないのに。
(ひと目だけでもあの子に会いたい。元気に暮らしているのか知りたい……)
 ブラッドリー率いる大船団が南下するのを見届けて、十一月が半ばを過ぎても聖預言者に戻れそうな気はしなかった。体調を崩しているとなるべく誰にも会わずにいるが、いつまでもこの状態は続けられない。
(早く気持ちを切り替えなくちゃ……)
 折を見て王都に戻りましょうとアイリーンは励ましてくれていた。折を見てと言ってもこの街に余分な船はないのだから、アクアレイア船の戻る春まではじっと待たねばならないのだが。

「あのう、ハイランバオス様、ラオタオ様がお見舞いに来られたんですが……」

 と、控えめな声とノックの音が石造りの寝室に響いた。潮風の入る窓を閉め、アンバーは「どうぞ」と客人を招き入れる。
(嫌だわ、こんなときに)
 ふと見た右手が汗ばんでいる。らしくもなく緊張している。今まではずっと、天帝の前でだって自然なハイランバオスでいられたのに。
「あーあー、ハイちゃんまだ本調子じゃなさそうだねー」
 寝てて寝ててと長椅子の寝台に押し戻され、アンバーは腰を下ろした。顔を伏せて「すみません」と詫びる。
 ヴラシィに到着して以来、ラオタオとはまともに会っていなかった。迂闊に喋ってボロを出すのが怖かったのだ。
 しかし先のことを考えれば避けてばかりもいられない。アレイア海東岸では何をするにしても彼の同意が必要なのだから。
「梨食べる? ハイちゃんのためにもぎもぎしてきたんだけどー」
「ええ、ありがとうございます」
 腰のナイフを抜いたラオタオはアイリーンに持たせた皿から果実を掴み取り、器用に皮を剥きはじめた。病人への気遣いからか今日の彼は変に静かだ。少々不気味さを感じるほどに。
「ハイちゃんさあ、本当に元気ないよねえ。アクアレイアでなんかあった?」
「旅の疲れが出ただけだと思います。大丈夫ですよ」
「それならいいんだけどさー、俺もちょっと気になっちゃって」
「心配をかけてすみません。私としても早く仕事を始めたいのですが」
「まあねー、そのためにわざわざヴラシィまで来たんだもんねー。でもいくら周りに信者がいないからって手ェ抜きすぎじゃないかと思うよ? バオゾでは笑っちゃうくらいハイちゃんのフリできてたじゃん。それともまた別の誰かと入れ替わったの?」
 咄嗟にアンバーは鞭を掴んだ。だがこちらが身構えるよりも早く、狐の腕がアイリーンの細い喉に鋭い刃を突き立てる。
 落ちた皿は足元で砕けた。ラオタオは梨にかじりつきながら「動かないでねー」と笑った。
「ラ、ラ、ラオタオ様これは……っ!?」
「うん? なんだと思う?」
 楽しげに目を細めたまま狐は答えようとしない。二人の兵が階段を上がってきたのは直後だった。
 ろくな抵抗もできないままアンバーは鎖で長椅子に繋がれる。アイリーンはまだラオタオに後ろから肩を抱かれて拘束されていた。
「アイリーンちゃんはさあ、ハイちゃんのこと大好きだったよねえ?」
「えっ!? あの、きゅきゅきゅ急になんの話を」
「隠さなくていいよー、どうせバレバレだったんだし」
「バッ……いえ! そ、そんなことはいいので離してくださいーっ!」
 可哀想に、非力な彼女はまるで操り人形だ。ラオタオに万歳をさせられたり、柔軟体操をさせられたり、泡を吹いて目を白黒させている。

「ハイちゃんに多大な恩があってー、ハイちゃんのこと崇拝すらしてる君はー、きっと本物のハイちゃんの味方になってくれるよねえ?」

 アンバーも、アイリーンも、あまりの問いに絶句した。
 本物のハイランバオス? どういうことだ? まさかあの聖預言者がどこかで生きているというのか?
(でもこの肉体は間違いなくハイランバオスのもののはず……)
 別の誰かと入れ替わったのかとラオタオは尋ねた。脳蟲の生態に通じた人間でなければまず出てこない台詞である。そのうえ彼は本物のハイランバオスが存在すると言ったのだ。
(最初から知っていたの? 彼も、ひょっとして天帝も――)
 アクアレイアが危ない。直感がそう告げた。
 あの美しい巣を欲しているのはグレース・グレディだけではなかったのだ。
「……ッ」
 アンバーは逃げ出そうと試みた。しかしいくら力をこめても拘束は緩まない。
 眼前の狐は楽しげに笑っていた。残虐な遊びを思いついた、幼い子供の顔をして。




 ******




 コリフォ島海軍基地の司令官、トレヴァー・オーウェンは王国に迫る未曽有の危機にまだ猫の毛ほども勘付いていなかった。生来のおっとりとした性格が平和な島暮らしに助長され、商船団が次の島に向かって出航した後は「これでアクアレイアも安泰だ」とすっかり気を緩めていたのだ。
 冬の海は荒れがちだが十二月にはエスケンデリヤ組もクプルム組も目的地に着くだろう。春にはもっとたくさんの商船がこの島へやって来る。そうしたら己の任期も満了で、愛しい妻子の待つ本国に――。

「た、大変です大佐! 船が! すごい数の船がアレイア海に迫っています!」

 早すぎる空想の実現にトレヴァーはぶっと吹き出した。
 報告に駆け込んできたのは鐘楼からの伝令だ。息を整える間も惜しみ、兵は五十隻以上の所属不明船が北上している旨を述べた。
「ごっ五十隻ィ!? 海賊にしては多すぎるな。は、旗は掲げていないのか?」
「は、はい。どの国の旗も。基地の守りは固めさせておりますが、いかんせん数に差がありすぎます。大佐、どうしましょう?」
 問われてトレヴァーは低く唸る。
 コリフォ島基地にはガレー軍船が五隻、小型の快速船が一隻常備されているのみだった。島は要塞化されているので港への侵入さえ阻止できれば安全だが。
「と、とにかく本国に連絡だ! 商船団を護衛するのにアクアレイアの軍船は最低限しか残っていない! 警戒を強めるように伝えるんだ!」
 的確な指示は、しかし一歩だけ遅かった。鐘楼の頂でトレヴァーが見たものは、大船団に囲まれつつあるコリフォ島と、複数の快速船に回り込まれ、逃げきれずに沈んでいく自国の快速船だった。
 統率された動きは素人のものではない。指揮しているのは少なくとも海軍の士官クラスだ。
 悟った瞬間、トレヴァーの痩せた身体が総毛立った。
 この大軍の狙いはなんだ。まさかコリフォ島を落とすつもりではあるまいな。
(冗談じゃない! 娘の花嫁姿を見るまで私は死なないぞ!)
 多勢に無勢では迎え撃つわけにもいかず、胃の痛くなる睨み合いはたっぷり一晩中続いた。
 明らかに敵対意思のある大船団。しかしどこの何者なのかはわからない。
 新たな動きがあったのは翌日の昼過ぎだった。コリフォ島基地に大した数の軍船がないと見るや、十数隻の船を残して彼らは堂々とアレイア海に侵入していった。何もできないトレヴァーたちを嘲笑うかのごとく。









(20150610)