旅立った者には旅立った者の、見送った者には見送った者の時間が流れる。パトリア聖暦一四四〇年、この年イーグレットはいつもと違う夏を過ごした。
 大運河は昨年に続いて賑わい不足だ。港にほとんど商船が出入りしないので致し方ない。息をしている交易路はわずかに二つ。ニンフィから山深い隘路を越えてノウァパトリアに至るマルゴールート、そしてピルス川の本流を遡って西パトリア諸国に至るパトリア古王国ルートである。しかし後者は、古王国が慢性的な内紛状態にあるためにしばしば封鎖されがちだった。
 困窮を訴える者は増加の一途を辿り、既に一部食糧が配給制に切り替わっている。一刻も早く東パトリア帝国に向かう商船団を復活させねばならなかった。このままではアクアレイアはもって今年の冬までだ。
 淡々と現状に向き合う己がおかしくて、イーグレットは少し笑った。問題は相変わらず山積みなのに精神的には余裕がある。
 レガッタで優勝して以来、自分を見る民の目が変わったからかもしれない。或いは天帝の弟が態度を軟化させ、アクアレイアに悪いようにはしないと約束してくれたおかげかも。
 建国記念祭の後、ハイランバオスは拍子抜けするほどあっさりと掌を返してきた。どこまで信じて良いか判別はしかねるが、個人的にこの国を気に入ったのだという。
 傀儡政権の擁立は難しいとか、騎馬軍に攻め込ませるには不利な地形だとか、思惑は色々あるのだろう。だが彼がアクアレイアを生かしたまま利用する道を選んでくれたなら御の字だった。
 聖預言者と交わした密約は、寄港権を認めてもらう代わりに年貢金を納めること。年間三百万ウェルスの支払いで平和が買えるなら安いものである。それでも天帝が首を縦に振らなかったときは、何か別の手を考えなければならないだろうが。
(大丈夫だ。きっとなんとかなる)
 評議会には武力を行使してでもアレイア海東岸を取り戻すべきだと主張する過激派もいる。窮状を打破せんとする彼らの心境はわからなくもないけれど、仮に港を奪い返したところで今のアクアレイアには東岸を守り抜く戦力的余裕などなかった。
 女子供を合わせても人口は十万に届くかどうかだ。易々と同数の大軍を結成できるジーアンとは層の厚みからして違う。慎重に関係を築いていかなくてはならない。
「ああ、イーグレット陛下!」
「申し訳ありません、いつもこんなところまで足をお運びくださって……」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
 と、金塗りの王室用ゴンドラから降りたイーグレットを老若様々の女たちが取り巻いた。全員ドナとヴラシィの難民だ。二年前、ジーアン騎馬軍の襲撃を受けてアクアレイアに逃げてきた者たちである。
 援軍を派遣できなかったせめてもの罪滅ぼしに、イーグレットは月に一度の救護院訪問を心がけていた。異国での生活に不足はないか、ねぎらうことしかできないのが歯がゆいが。
「あの、先日出航したガレー船団はドナやヴラシィにも立ち寄るとか聞いたのですが」
「うちの人たちがどうなったか教えていただけるんでしょうか?」
 びくびくと数人の女が尋ねてくる。全体を一望できる、こじんまりした島のどこにも彼女らの夫や息子、恋人の姿は見当たらなかった。ドナとヴラシィの男たちは皆果敢にジーアン騎馬兵と戦って、皆どうなったか知れないのである。
「ああ。何かわかればすぐに伝える。落ち着いて待っていてほしい」
 イーグレットは静かな声で呼びかけた。それを聞いた難民たちは次々と膝を折り、その場で祈りを捧げ始める。波の乙女アンディーンが大切な人を守ってくれていますようにと。
 愛する者との再会をイーグレットも願ってやまなかった。離れ離れのつらさなら身に染みて知っているから。
「――」
 ふとイーグレットは視線を感じ、頭だけ王国湾を振り向いた。
 目に入ったのはいつもの男。救護院には寄りつきもせず、漁民のふりで小舟から釣り糸を垂らしている。
 勝手に頬が緩みかけるのを苦心して抑え込まねばならなかった。話しかけてはこないものの、親愛なる我が友人は時々ああして様子を窺いにくるのである。
 いつもの夏と違うのは、彼が側にいてくれることだった。酷く傷つけたはずなのに、ひとりぼっちにさせたのに、ここへ帰ってきてくれた。
 許されたとは思っていない。けれどやはり嬉しくて。
 カロに出会った頃、イーグレットはまだ十五歳の若造だった。四つ年下の彼もあどけなさが多分に残る少年で、くりくりした丸い瞳が小鹿のようで。その黒さを分けてほしいと羨んだのを覚えている。それから間もなく、彼の右眼に黄金が嵌め込まれているのを知った。
 はぐれ者の集まりであるロマの中にあって、カロはなお異質な存在だった。王族の中で一人持て余されていたイーグレットと同じに。
 どれほどの孤独を彼が癒してくれたかわからない。今だってこんなに簡単にこの胸を温めてくれる。
 だからこそ苦しくもあった。友人のことではなく、娘のことを考えると。
 あの子には心の支えにできる誰かがいるだろうか。誰も信じてはいけないと教えたのは他でもない自分自身だが。
 ルディアを孤独に追いやったのはあの子を守るためだった。腹を痛めてあの子を産んだ妻さえも、あの子の味方ではなかったから。ディアナは最後の最後までグレディ家の娘だった。悪いのは自分だ。愛を過信して妻を変えられると驕った。
 チャドとの縁談を受けようと思うと、そう告げたルディアにイーグレットは何も言えなかった。ユリシーズと踊るときは薔薇色に染まる頬が冷たく凍えているのを見ても。
 今あの子はどんな思いで日々をやり過ごしているのだろう。反逆罪で牢獄に繋がれた元恋人に、どんな言葉をかけたいと願っているのだろう。
 イーグレットには推し量れない。ただただ娘に申し訳なく思うばかりだ。
 ルディアにも孤独を委ねられる人間がいてくれればいいのに。あの子よりも先に死んでいく自分ではなく、他の誰かが。
 チャドが悪い夫でないのがせめてもの救いだった。彼なら娘と本物の夫婦になれるかもしれない。ルディアを守り続けてくれるかもしれない。
(一人だけでいいんだがなあ)
 苦しいときに思い浮かべられる誰かがいれば。たった一人さえ安易に選べぬ立場ではあるけれど。
「……ん?」
 警鐘と黒煙に気がついたのはそのときだった。浅い王国湾の向こう、宮殿のある本島からもくもくと煙が立ち昇っている。
「まあ、火事かしら?」
「嫌だ、あれって造船所の辺りじゃありません?」
 ざわめく難民の危惧した通り、燃えているのは国営造船所であった。全ての国有船の保管所であり、修理所であり、新造所であり、国内最大の軍港であるアクアレイアの最重要施設だ。今は民間の商船も多数預かっているので燃え種となる資材は山ほどあるはずだった。
「街に火が回るかもしれない。ゴンドラを戻してくれ!」
 イーグレットは即座に近衛兵に命じた。
 折角ハイランバオスのご機嫌取りをしなくても良くなったのに、気を休める暇もないらしい。


 八月某日に起きたこの不審火がようやく消し止められたのは丸二日後のことだった。延焼こそしなかったものの、帆船もガレー船も大部分が焼けてしまい、被害は何千万ウェルスにも達した。
 船ならまた造ればいいさと財を失った船主たちは励まし合った。
 このときはまだ誰も、この火事がアクアレイアの致命傷になるとは予想だにしていなかった。









(20150610)