おお、とアルフレッドは感嘆の声を上げた。サロンのテーブルに用意された夕食は全てアニークが拵えたものである。湯気を立てる蒸し鶏とレンズ豆のスープ、一生懸命飾られたオリーブのサラダ、こちらの指定していなかった煮込み料理まで。どれもごく簡単なものではあるが、つい先日まで何もできなかった人とは思えない。
「素晴らしい上達ぶりですね。もう俺の手助けなんて必要なさそうです」
「ううん、そんなこと。まだまだよ、私なんか」
 殊勝な台詞にアルフレッドの頬が緩んだ。初めは文句ばかりだったアニークも、ここ数日は彼女なりに努力しよう、工夫を凝らそうという姿勢に変わっていた。短期間でも人間はぐんと成長できるのだ。心を鬼にして指導した甲斐があった。
「いえ、本当に。明日からはアニーク姫だけでも困りごとなどなくなりますよ」
「もう! 大袈裟なんだから。やっと形になってきたばかりじゃない」
 素直な気持ちで誉めているのにアニークはぷいと顔を背ける。まるで悪戯を叱られた子供みたいに赤い頬を膨らませて。
 アルフレッドは念のため、菜園で育てられている野菜とその収穫時期、倉庫に保管されている雑穀、庭の池に放されている魚、鶏の世話の仕方、薪の割り方など知っている限りのことを繰り返した。皇女は熱心にそれらをメモに書き取る。
 教師と教え子というほどではないが、アルフレッドは彼女との間に良い絆が生まれたのを感じていた。主君から受けた使命を果たし、なおかつ人のためになれたのは嬉しい。帰国後も皇女のことは忘れないだろう。
「そう言えばアニーク姫は、明日はどうなさるので?」
「聖誕祭の祝宴ね? 来たければ来てもいいとふざけたことを言われているわ。東パトリア帝国を代表して、もちろん出席いたしますとも。そのために汚れたドレスを引っ張り出してきて綺麗にお手入れし直したんだもの!」
「へえ、それでは明日はアニーク姫の華やかな装いを見られるのですね」
 特別な意図もなく返した台詞にアニークが固まった。おや、ノウァパトリア語を間違えたかなと不安になる。どこの誰とでも意思疎通できるレイモンドには敵わないが、語学には自信のあるほうなのだけれど。
「……じっ、侍女なしで着付けしなきゃだから、そんなに上手くできないわよ」
「ああ、でしたら俺の妹を手伝いにやりましょうか?」
「い、要らないわ! これからはなんでも自分一人でこなさなきゃならないんだから!」
 変われば変わるものだなとアルフレッドは感心する。手を放してもアニークはもう十分やっていけるだろう。少し寂しい気もするが、己には側に在るべき主君がいる。そろそろ彼女のもとに戻らなくては。
「そんなことより、冷めないうちにいただきましょう。明日は料理を味わっている余裕なんてないかもしれないんだし」
 ええと頷きアルフレッドは手を合わせた。アニークの言う通りだ。のんびりとしていられるのも今日限りかもしれない。
 明日はいよいよ九月十日、天帝ヘウンバオスの誕生日である。この一大行事のため、天帝宮にはジーアン帝国全土に散らばった将軍たちが次々と参上していた。来たときは五つ六つだった庭の幕屋も今や三十を超える。
 アルフレッドたちは初日以来呼ばれていないが、彼らと毎夕の食事をともにするアンバー曰く、皆天帝に忠実な臣下だそうだ。心酔しているというよりは寧ろ家族のようであり、ラオタオの気侭さなど末っ子にしか思えないと話していた。
 そんな集団に混ざって自然体でいるアンバーには畏敬の念すら湧いてくる。ルディアからこの旅の最重要任務を与えられているのも頷けた。

 ――いいか、天帝に誕生日プレゼントをねだれ。

 それがアンバーに下された指令だ。ヘウンバオスが生まれた日ということは、双子の弟のハイランバオスが生まれた日でもある。この好機を逃す手はないぞ、と。
 アクアレイアがどんなに通商安全保障条約を求めても頑として首を縦に振らなかった天帝が、弟の送迎団には入港を許可したのだ。つまりヘウンバオスは身内の頼みなら聞き入れる可能性が高いと考えられる。
 ルディアはアンバーに船旅の素晴らしさ、湾港の価値、行商人の落とす富についてさり気なくアピールしておけとも命じていた。明日彼女に「アレイア海東岸の商港運営権が欲しい」と訴えさせるための布石だ。
 バオス教を広める拠点が必要だと言えばヘウンバオスとて頷かないわけにはいくまい。更にドナ・ヴラシィを統治するラオラオは海への興味関心ゼロだし、懇意な聖預言者が開発に携わってくれるなら大歓迎だろうというわけだ。
 アンバー経由でアクアレイアに寄港権を転がり込ませる――それがルディアの狙いだった。
 この目論見さえ上手く運べば、後は段階的に以前と同じ状態へ戻していけばいい。経験豊富な水夫がもっと入り用だと言って、バオゾに連行された住民を帰すのも手だ。一年か二年はかかるだろうが、アクアレイアはきっと元の活気を取り戻せる。
「ふう、ごちそうさま。……ねえ、アルフレッド、煮物ちょっと味が濃すぎたかしら?」
 と、食事を終えたアニークが難しい顔で尋ねた。
「いいえ、どれも大変美味しくいただきましたよ。まさか同じテーブルに着かせていただけるとは思いもよらず、光栄でした」
「そ、そう? 口に合ってたならいいんだけど」
 立ち上がり、片付けを始めたアニークに「いいからあなたは座ってて!」とどやされる。やれやれ、自分も少しは彼女を手伝おうと思ったのに。
 高貴な身分のアニークと気安く過ごせるのもあと少しか。そう思うと部屋を下がるのが惜しい気がした。
(まだパトリア騎士物語について語り足りないんだがな)
 だがあまり遅くなってルディアに疑われたくはない。
 窓に差し込む光は陰り始めていた。そろそろ去らねばならなかった。




 ******




 アレイア聖歴一四四〇年九月十日、祝祭日に相応しく、バオゾの空は青一色に晴れ渡った。幕屋の畳まれた天帝宮奥庭には快い乾いた風が吹いている。
 芝生に長い絨毯が敷かれただけの祝宴会場を見回してルディアはジーアンが遊牧民の国であることを改めて実感した。テーブル一つ出されていない屋外に「どうぞ」と招かれたのはこれが初めてだ。さすがに残暑の日差しを遮る天蓋くらいは張られていたが、見事な紅金の錦織なだけに勿体ない気がしてしまう。やっと下船許可の出た傭兵や海軍兵たちも「地べたに客人を座らせるのか……」と唖然としていた。
 これが外国人限定の対応であれば侮辱だ、差別だと腹を立てるところだが、長椅子の用意があるのは最奥の天帝席のみで、他は宰相だろうと十将だろうと無関係らしかった。差があるとすればヘウンバオスとどの程度近い場所に胡坐をかけるかという一点のみだ。
 ラオタオは既に他の将軍たちと無人の長椅子を囲んで寛いでいた。その側に控えるのがジーアン帝国を影で支えるエリート官僚チームだろう。天帝の私兵や帝国内の要人がずらりと並んだその後に、やっとルディアたちが腰を下ろす来賓席となる。角ばった輪の中心にはこれからヘウンバオスに捧げられる貢物が山と積み上がっていた。
 十二時の鐘が鳴る。と同時、聖預言者に導かれた天帝が姿を現した。
 おお、とジーアン人の席から歓声が上がる。土下座でひれ伏す彼らに倣い、ルディアたちもその場に額をつけた。神様気取りめと舌打ちしそうになるのを堪えて。
 胡散臭い伝説だが、祝福されし双子は生まれ落ちたその瞬間から達者に言葉を操れたそうである。ハイランバオスが聖預言者として大仰に敬われるのは、彼の産声が「世界に最も若い神が生まれた! それは私の兄上です!」だったからだと聞いた。
 性欲もあれば排泄もするただの人間と変わらぬくせに、大層な見栄を張ったものだ。民心を惹きつけるには便利な手でも大きな嘘はいずれ己の首を絞める。事実向かうところ敵なしのヘウンバオスにも唯一と言っていい弱みがあった。
 神を自称するがゆえに、彼は一度した約束を決して覆せない。それをすればバオス教の正当性が失われ、陳腐な宗教に成り下がってしまうからである。
 だからこそ突くべき隙だった。アクアレイアの海上貿易がなるべく長く保障されるように。
(頼んだぞ、アンバー……!)
 わずか上げた視線に双子の姿を捉える。二人は仲良く同じ長椅子に腰かけた。楽にしろ、との労いの声が開宴の合図だった。
 祝い酒がルディアの元に回ってきたのはそれからたっぷり三時間後のことである。何しろ千人超の人間が一堂に会しているのだ。進行はスムーズではなかろうと覚悟していたが、今日は夜まで同じ姿勢で我慢しなければならなさそうだ。
 それでも出された羊料理を平らげる頃にはアクアレイアとマルゴーが祝辞を述べる順番になった。君主代理としてブラッドリー、グレッグ、コナーの三人が双子の前に片膝をつく。
 提督の読み上げた手紙には「天帝兄弟の未来が輝かしいものになるように」とか「両国間の平和が恒久のものであるように」とか月並みな美辞麗句が並べられていた。マルゴー側も無難さでは似たものだ。休戦協定は一年ごとの更新だから、下手に刺激して天帝のご機嫌を損ねたくないのである。
 アンバーの通訳したそれにヘウンバオスはどうでも良さげに片手を払った。グレッグは悔しそうに歯噛みしたが、外交慣れしたブラッドリーは平然と受け流す。
 続いては自ら献上品を持参したコナーの出番だった。画家の前評判は帝国側にも広く伝わっているらしく、期待の眼差しが注がれる。コナーは敵地にいることを感じさせない堂々とした態度でヘウンバオスに一礼した。
「天帝陛下を退屈させるだけですし、目録全てを読み上げるのは控えましょう。私からはマルゴー公国の依頼で製作した一点、アクアレイア王国の依頼で製作した一点、この二点の作品についてお話しするに留めさせていただきます」
 相変わらず流暢なジーアン語である。本当に独学で習得したのか、それならどこでどうやって勉強したのか非常に気にかかる。あちこちに交友関係を持つコナーのことなのでジーアン人の知人くらいいてもおかしくはないけれど。
(何を考えてついてきたんだろうな、この人は)
 ルディアは来賓席の端から師の後ろ姿を見つめた。
 理想の君主を探している。かつて告げられた言葉を思い出す。やはりコナーはヘウンバオスが己の目に適う男か確かめにきたのだろうか。神を名乗るような傲岸不遜な人間に師が気持ちを傾けるとも思えないが。
「まずはマルゴーの寄木細工からお手に取ってご覧ください。どうでしょう? この木箱はどうやって開ければいいか一見わからないでしょう?」
 コナーが天帝に見せたのは幾何学模様の美しい木製からくり箱だった。マルゴー公のグリフィン紋が刻まれているのはダミーの蓋らしく、ヘウンバオスが押しても引いてもビクともしない。中が空洞だということは木箱を小突く音で知れたが。
「なんだこれは? 本当に箱なのか?」
「ええ、これは然るべき手順を踏まねば開かない芸術的な貴重品入れなのです」
 にこやかに木箱を受け取り返し、コナーは側面に指を押し当てた。さして力をこめた風もなく薄板が外へずらされる。
「なるほど、そういう仕掛けか」
 ヘウンバオスは子供のように目を輝かせ、師から木箱を奪い取った。最初にできた隙間に横板を滑らせば新しい隙間が生まれる。その隙間に向かってまた横板をずらし、次の隙間にまたずらし、と続けていくと、最後にグリフィンが口を開けた。
「面白い。こういう物を見るのは初めてだ」
「お誉めに預かり光栄です。ちなみに材料は良質なマルゴー杉でございます」
 コナーは公国の特産物を紹介するのも忘れなかった。だがそれはどちらかと言えば「うちを襲っても大したものは手に入りませんよ」というマルゴー公の意を伝えるもののように思える。岩塩や水晶だって採れるくせに、あの狸爺め。
「では続いてこちらをお納めください。僭越ながら私が筆を執らせていただきました、天帝陛下と聖預言者殿の肖像です」
 恭しい身振りでコナーは布を被せた大きな額を振り返った。黒いビロードが取り払われるとヘウンバオスが「ほう!」と唸る。天帝が十将や宰相たちにも回し見せた肖像画には幕屋で親しく語り合う兄弟の姿が描かれていた。
「これはバオゾに着いてから描いたのか? お前は毎日街の見物に行っているようだったが」
「いえ、ほとんどアクアレイアで完成させてまいりました。初めて天帝陛下にお会いしてから手を加えたのは一箇所だけでございます」
「ふむ、一箇所か。どうだラオタオ、あの男がどこを直したか見抜けるか?」
 天帝は名指しで青年を呼びつけると一緒に絵画を覗き込ませた。ラオタオは「ええーっ?」と大弱りで悩み始める。
「うーん、天帝陛下の表情かなー? 顔立ちはハイちゃんと似てるけど、二人とも笑い方から何から全然違うもんね」
 ルディアも「だろうな」と頷いた。アンバーはアイリーンから事前に教えてもらった情報を元にしてコナーへのアドバイスをしたらしいが、当然そのときはヘウンバオス本人を知らなかったのだから。
 だが驚くべきことに、コナーの返事は否だった。
「ふふ、お姿は一切変えておりませんよ。イメージしていた通りのお方でしたので」
「よし、ならば私が当ててやろう。この幕屋に掛かった布の柄だろう? ここだけ乾ききっていない染料の匂いがする」
 自信たっぷりに笑う天帝に師は「ご明察です」と頷く。
「私の持っているジーアン織とは少々パターンが違いましたので」
 すごいなとルディアは舌を巻いた。他の画家ならハッタリを疑うところだが、コナーなら未知の人物を正確に写し出すくらい難なくやってのけそうだ。
「いい腕だ。いや、腕より頭と言うべきか。よくぞここまでありのままの我々を描いた。お前はどうして私の姿を思い浮かべることができたのだ?」
「そうですね、私は昔から君主という存在に興味がありまして。おそらくは他の人間より、ジーアンのような大帝国にはどんな眼差し、どんな知性、どんな精神を持つ王が君臨するか想像しやすかったのでしょう」
「ふうん、つまりお前は歴史上の様々な君主を調べ、自分なりの類似性を発見済みだということか」
「仰る通りでございます」
「なら答えてみせろ。私のこの顔はどんな君主に分類される?」
 切り返しにくい問いだった。一つ間違えれば周囲を固める兵士に薙刀を振り下ろされそうな。
 けれどコナーはまったく動じた素振りを見せず、寧ろニヤリと口角を上げてみせた。
「遥かな高みを追い求める方と存じます」
 楽しげな声にぞっとした。それはかつてルディアが「あなたには女王の素質がある」と言われたときと同じ響きの声だったから。
 まさか師はジーアン帝国に仕える気ではあるまいな。恐るべき疑念が鎌首をもたげる。
 駄目だ。それだけは認められない。彼の頭脳はアクアレイアのためにあるのだ。スパイ目的で貸し出す以外、コナーを天帝に譲るわけには――。

「何かに焦がれておいででしょう? あなたが国を広げるのはその『何か』を自分のものにするためだ。領土獲得は単なる手段に過ぎない。――違いますか?」

 その瞬間、ヘウンバオスの顔つきが変わった。肘掛けにもたれていた天帝はコナーを見つめて瞠目する。燃えたぎる炎のごとき赤い瞳は何も語らず、奇妙な沈黙が場を支配した。
「……くっくっく、はっはっは! ハイランバオス、お前の連れ帰った客人は実に面白いな! コナー、私はもっとお前のことを知りたくなったぞ。十日と言わず、一年でも二年でも我が宮殿に住まうといい!」
 喜んで、と師は返事した。その言葉を待っていたとばかりに。
 天帝のもとに留まって一体どうするつもりなのだろう。言い知れない不安がルディアの心臓を逸らせた。自席に戻ってきたコナーが皆にこっそりウィンクしてくれなければ一晩中杞憂を引き摺ったままでいたかもしれない。
 ああ良かった。彼の心が王国から離れてしまったのかと思った。にこやかな表情から察するに、どうやら思い過ごしだったようだ。
「さて、これで祝いの品は全て受け取ったかな」
 天帝の声にルディアは顔を上げる。
 いよいよここからが本番だ。よもや素晴らしい客人を連れて帰った弟に何も賜らないなんてことはあるまい。
 アイリーンによれば、ヘウンバオスは例年贈り物の用意などはしておらず、ハイランバオスに欲しいものがあるときだけそれを与えていたという。ならば必ず問いかけられるはずだった。何か望みはあるのかと。

「我が半身、忠実なるハイランバオスよ。弟のお前が生まれてきた喜びも何か形にせねばなるまい。さあ言ってみろ、ここへ帰ってからずっと物欲しそうな顔をしているぞ? 私に奮発してほしいのだろう?」

 今まで聖預言者が兄に乞うたのは救貧院や寺院を始めとする宗教施設、またはその改修費、遺跡の管理権などだったそうだ。どれもなかなか桁外れだが、今回の商港運営権は過去最大だろう。
 天帝は渋らぬはずだった。馬鹿でないなら船の価値にはとっくに気がついている。そして馬に乗れなくなった弟は、海の世界を切り盛りさせるのにまたとない適役であることも。
「ええ、実はアレイア海東岸の港が欲しいのです。そしてどこの国のものかに関わらず、私の許可する船は全て停泊可能だとお認めいただきたいのです」
 臆面もなくアンバーは祈りのポーズでシナを作る。そっくりな顔に上目遣いで見つめられ、ヘウンバオスはふっと笑った。
「そう来ると思った。いいだろう、ラオタオは世話もしていないそうだから、そっくりお前に任せよう。まったくお前は余程あの乗り物が気に入ったらしい」
 よし、よし、とルディアは胸中で勝利の拳を突き上げた。やったぞ。言質を取ったぞ。これでアクアレイアは念願の交易再開に漕ぎつけられる。
 しばらく国の男手が減るのはマルゴー傭兵でカバーして、とにかく今は国庫を満たすのが先決だ。商人の意気は上がるだろう。女だって節約なんてやめにする。貴族の中でも父の評価は高まるはずだ。アクアレイア王家は安泰だ。
「ただし十将に所領の一部を譲渡させるのだ。タダでというわけにはいかん。なあラオタオ?」
「へへっ! 悪いねハイちゃん、俺にも体面ってものがあるからさあ」
「何か余興でもしてこいつを楽しませてやれ。それでラオタオが良いと言えば港はめでたくお前のものだし、そうでなければこの話は最初から無しだ」
 ――ではなかったらしい。思わぬ形で突き出された条件にルディアは眉間のしわを濃くした。上げてから落とすとは非道な男め。
「はあ、余興ですか」
 戸惑いの滲むアンバーの声。なんとか助け船を出してやらねばと遠い彼女に視線を送る。
 だがアンバーは一人でなんとか持ち直してくれたようだ。いつも通り聖預言者の穏やかな微笑を浮かべると、彼女は金の長椅子から立ち上がった。
「そういうことなら私は少々友人たちと相談させていただきましょう。きっと今日の祝宴を盛り上げてみせますよ」
 ――こうしてルディアたちは会議室に逆戻りとなったのだった。




 ******




「困ったわねえ、ラオタオ様にお楽しみいただくなんて、一体どうすればいいのかしら……」
 アイリーンの溜め息が室内に響く。腕組みしつつ顔を見合わせた防衛隊及びアンバーも皆一様に眉をしかめた。
「あの好色男を満足させなきゃいけないんでしょ? モモすっごくイヤな想像しかできないんだけど」
「も、モモに破廉恥な真似はさせませんよ! 駄目駄目、絶対駄目です!」
「そうだぜ。大体お前みたいなお子様体型はお呼びじゃねーって。アイリーンも痩せすぎててムチムチには程遠いしなー」
「そうですねえ、その圧倒的な色気不足が知的なアイリーンらしいのですが、今度ばかりは……」
「ううッ……! ハイランバオス様ごめんなさい……! 昔から私どうしても胸に栄養がいかないんですぅ……!」
「落ち着け皆、そもそも色仕掛けなんて案は隊長の俺が許可しない! あんな大勢の見ている前で品がなさすぎるだろう!」
「だよなー」
 場が静まるとルディアに注目が集まった。どう手を打つべきか無言で指針を求められる。
 参ったな、と頭を掻いた。こういう事態は予測していなかった。与えるなら与える、与えないなら与えないできっぱり断じられると思ったのに。
「……ラオタオではなく天帝の琴線に触れられればいいと思う。主の評価したものを臣下がこき下ろすわけにいかんからな。それならなんとか考えられないか?」
「そ、そうねえ! そうだわ!」
 ルディアの言にアイリーンがぽんと拳を打つ。しかしモモとレイモンドには揃って肩をすくめられた。
「けどそれって余計難しくない? 歌ったり踊ったりじゃ鼻で笑われて終わりでしょ?」
「うん、俺も伝わるのは必死さだけだと思うぜ」
 直感の優れた二人に却下され、ルディアはうーんと押し黙る。「あまり長々と待たせるわけにいかない。短時間で準備できて、かつインパクトのある出し物とでないと……」と部屋をうろつき始めたアルフレッドにも名案は閃かぬようだった。
「天帝の興味ありそうな分野は芸術や科学なんだがな……」
 そう呟き、ルディアは防衛隊の工学担当を見やる。うつむくバジルは視線を床から上げようとせず、不自然なほど目が合わなかった。
「おい」
 低い声で呼びかける。しかし弓兵は反応しない。「おい、バジル」ともう一度ドスの利いた声で名を呼ぶと威圧に負けた少年はおずおずと顔を上げた。
「……何か思いついているな?」
「うわーッ! うわーッ! 思いついてるけど気が進まないんです! 許してくださーい!」
「どんなことか言ってみろ。頼りはお前だけなんだ」
「ちょっとバジル! 隠してないで白状して!」
「ううっ、さ、砂糖を、大枚はたいて買った貴重な砂糖を犠牲にしないといけなくて……っ!」
 モモに問われて弓兵はあっさり口を割る。
「砂糖?」
 ルディアたちはきょとんと目を見合わせた。まさか菓子でも振る舞うつもりではなかろうな。
「やらなきゃいけないですよねえ……っ! うう、特別報酬期待してますねえ……っ!」
 バジルは半べそをかきながら自分の荷袋を引っ繰り返す。このとき彼の頭にあったのは、常人には考えもつかない不思議の手品であった。




 ******




 不意に響いた足音にコナーは頭だけ振り返る。見ればハイランバオス一行が歓談中の宴の席に戻ってくるところだった。
 彼らが宮殿に引き揚げてまだ一時間もしていない。もう少しかかると思っていたのに存外早かった。
「へえ、もう準備できたんだ?」
 驚いたのはコナーだけではなかった。天帝のすぐ横でラオタオが不敵に唇を歪める。
「で、ハイちゃんは何を見せてくれるわけ?」
 無邪気さと酷薄さの窺い知れる狐の問い。人は誰しも二面性を持つものだが、親愛と加虐の念は典型的な一例だろう。いわゆる「好きな相手ほど苛めたい」というやつだ。自分も彼には十分注意せねばなるまい。
「ふふふ、もう見せていますよ」
 対する聖預言者は防衛隊の面々を率いて悠然と長椅子に歩み寄った。居並ぶ将軍が一団を注視する。
 ハイランバオスに続くのはアルフレッドとレイモンド。隊長のほうは透明なガラスケース、槍兵のほうは蓋のない土鍋を抱えている。どちらもたっぷりの水で満たされていて重たそうだ。ブルーノ、バジル、モモ、アイリーンの四名が更にその後に続いた。
 さて、あれらの道具はどのように使われるのだろう。水芸をやるのではなさそうだから、やはり科学実験の類か。
(だとしたら発案者はあの子かな?)
 コナーは来賓席を横切っていくバジルの背中に目をやった。まったく稀有な若者がルディアの部下になったものだ。ああいう才能は生かすも殺すも王女の裁量次第である。叶うならなるべく大きく育ってほしいが。

「――それでは問題です。アルフレッドのガラス箱とレイモンドの土鍋、酒杯が沈んでいるのはどちらでしょう?」

 天帝席の正面で足を止め、ハイランバオスはクイズを出題した。
 ラオタオの細い目が瞠られる。ヘウンバオスも少々面食らったようだった。それもそのはず、二つの容器には透き通った水しか入っていないのだ。どんなに目を凝らしても沈んだ酒杯など見当たらなかった。
「……!」
 瞬時に正解に辿り着き、コナーはうっかり吹き出しかける。そうか、そんな手を使ったか。可哀想に、あの水の量からして出資者は相当の儲けを諦めたに違いない。
(懐を痛めてまでアクアレイア人がハイランバオスに知恵を貸すとは、なんとまあ……)
 防衛隊と聖預言者に妙な親密さは感じていたが、この肩の入れようは本物である。少なくともアレイア海東岸の商港使用権に関し、両者の間でなんらかの密約が交わされていると考えて間違いない。
(で、それを天帝にバレバレの形で見せてしまうということは、アクアレイアとつるめば利が大きいぞと暗に伝えているのかな?)
 確かに船と馬は競合しない。ヘウンバオスも半分までは頷いている。この場さえ上手く切り抜けられればアクアレイアの長い不況は終わりになるだろう。――この場さえ上手く切り抜けられれば。
「しゅ、酒杯? ええーっ!? 俺の目には水しか見えないんだけど、マジでどっちかに杯が入ってんの?」
「ええ、掌サイズの小さなものですが」
「掌サイズ!? ちょ、ハイちゃん冗談でしょ? そんなデッカイの見落とすわけないし!」
「あ、水に手を入れるのはズルですよ。目だけでどちらか判断してください」
「えー! 無理言わないでよー!」
 先に「わかった」と答えたのはヘウンバオスだった。だが天帝は「マジで!? どっちが正解!?」と尋ねるラオタオを冷たく振り払う。
「どちらに杯が隠れているかはわかったが、どういう仕掛けかはわからない。解説を心待ちにしていよう」
 それきり彼は口を閉ざした。幼友達の将軍にはヒントの一つも与えずに。
「さあラオタオ、我が君をお待たせせずにちゃっちゃと答えてください」
「う、うーん……待ってコレ本気で難しい……」
「まだですか? 戦場では速やかに決断を行うあなたらしくありませんね」
「だって本当に水しか見えないんだって! く、くそー、そんじゃあこっち! 土鍋のほう! 何故ならガラスの水槽は全方位から酒杯がないのが確認できたけど、土鍋は陰になって見えにくいところがあったから!」
 ラオタオはレイモンドを指差した。だが残念、そちらは不正解だ。種明かしを劇的に演出したいなら、ガラスケースに酒杯を忍ばせておいたほうが効果的だからである。
「ラオタオは土鍋ですね。我が君はいかがです?」
 ハイランバオスが天帝に問う。期待を裏切らぬ慧眼でヘウンバオスは「逆だ」と答えた。
「ああ、なんて素晴らしい……! やはりあなたの天なる眼には万物の正道が見えているのですね……! そうです、酒杯はこちらのガラスケースに沈んでいるのです!」
 宴の席がどよめいた。座していた将軍や宰相たちが我慢しきれず聖預言者の側に駆け寄る。
 どれだけ近づき凝視しようと視認はまず不可能だろう。バジル少年の使った酒杯が先日のあの曇りなきクリスタルガラスだったなら。
「ほら、美しい杯が出てきたでしょう?」
 水の中から例の杯を取り出しながらハイランバオスはにっこりと微笑んだ。見事な工芸品に怒り出したのは一生懸命悩んでいたラオタオだ。
「ちょ、酒杯が透明なんて聞いてない! ハイちゃんのがズルだ、ズル!」
 不満そうなのは他の将軍たちもだった。ハイランバオスにしてはつまらないオチではないかと非難の声まで上がり始める。
「ふふふ、ではこの杯を土鍋のほうに入れてみるとどうなるでしょう?」
 ジーアン幹部の驚く顔は見なくてもわかった。しまったな、と地味に悔いる。もう少し席が近ければ大喜びで口を挟みに行ったのに。
「えっ? あれ? 今度は酒杯がうっすら見えてる……?」
「ところがこちらの水に浸けると」
「ああっ!? 消えた! また消えた! どうなってんの!?」
 ラオタオはハイランバオスを仰ぎ見た。だが聖預言者は微笑むばかりで何も言わない。次に狐は疑問の解消を求めて天帝を振り返った。

「説明しろ、バジル・グリーンウッド」

 お前の入れ知恵なのだろうとヘウンバオスが名指しする。恐縮半分はにかみ半分で少年は前に進み出た。
「……コホン! ええとですね、僕の実家はガラス工房なんですが、子供の頃からガラスを水中に沈めるとすごく見づらくなるなあと不思議に思っていたんです」
「ふむ。それで?」
「それでこれが海水だったらどうなのかとか、葡萄酒だったらどうなのかとか、色々試してみたんですね。そしてついに! 最もガラスと調和する液体を発見したんです!」
 屈折率なんて言葉は彼の知るところではないだろう。こういった研究が脚光を浴びるのも、おそらくもっと未来の話だ。
 だが余興としては確かに面白い。今ラオタオの目にはガラスケースで波打つ水が魔法の水に見えているはずである。

「砂糖を溶かしたんでしょう? それも随分たくさんと」

 自制できなかったのは己もだった。天帝の覚えめでたくなったのをいいことに、ついついアクアレイア人席を出てきてしまう。幸いこの無礼な振る舞いはヘウンバオスの不興を買いはしなかった。
「砂糖? これ砂糖水なんだ? おお! ほんとだ甘い」
 ラオタオが浸した指先をぺろりと舐める。防衛隊の隣に並び、コナーは更に補足した。
「水に入れた足は曲がって見えるでしょう? でも本当に折れてしまったわけではない。要するに液体には現実と異なる光景を見せる力があるのです。彼は砂糖を用いることでその精度を高めたわけですな。……とは言え砂糖水で隠すことができるのは、せいぜいこんなガラス製品だけですが」
 ほう、と感嘆の息が漏れる。こういうときのお約束で天帝は「例えばなんの役に立つ?」と問うてきた。
「や、役に!? えーと、これは僕がただ興味の赴くままに調べただけのことなので、な、なんの役に立つかまでは……」
 しどろもどろになってしまった少年の肩をぽんと叩く。何も焦る必要はない。崇高なる知的好奇心のしもべが俗界のための応用など気にかけずとも構わないのだ。
「実験も研究も成果ありきで始めるものではございません。残した資料を後世誰かが拾ってくれて、それが世界を変えることもある。そういうものでございます」
「つまり今は宴会芸の域を出ないと?」
「ええ、しかし古くは『砂糖一粒は黄金一粒』と言われた高級品です。決して無駄にはいたしません。――バジル君、その砂糖水、私に買わせてくれないかね?」
 突然の申し出に少年は大きな瞳を丸くした。彼の手に金貨の詰まった財布を握らせてコナーは火と鍋を貸してほしいと天帝に願い出る。
「今度は私がこの水を甘いソースに変えてみせましょう」
 レシピはごく簡単だった。砂糖は焦げつきやすいので、火加減だけ注意して煮詰めていく。飴色になれば火を止めて、少量の水を加えて滑らかに。鍋から椀に移し替えたカラメルソースをひと舐めしてラオタオは狂喜した。

「ハイちゃん、いいよ! 港はハイちゃんの好きにしてくれ!」

 まあ最初からそのつもりだったけど、とソースにパンを浸しつつ青年将軍は告げる。彼はもう目新しいデザートを頬張るのに忙しそうだった。
 さて、ラオタオがいいと言ったなら見世物もそろそろおしまいか。王国には大きな土産ができたわけだが果たしてこの先どうなるだろう。あまり楽観的な予測はできないと自分は睨んでいるけれど。
「ハイランバオス、それにバジル・グリーンウッド。なかなか小気味良かったぞ」
 天帝が二人の功労者を賞する。呼ばれた二人は「ありがとうございます」と深く礼をした。
「船も商港も晴れてお前の自由だ、我が弟よ。アレイア海をどうするつもりか知らないが、期待しているぞ。お前はいつだって私のためだけに働いてくれるからな」
 ヘウンバオスはにやりと笑う。健気な弟を誉めたのか、はたまた彼の背後にいる人間に釘を刺したのか、おそらく両方なのだろうが。
「ええ、このハイランバオス、これからも我が君に尽くしてまいります」
 羊の皮を被った狼たちの会話だった。ちらちらと牙を覗かせて飼い馴らせるか否か互いに窺っている。
 こみ上げる笑みをひた隠しながらコナーはこの一幕を眺めた。
 結構な役者揃いではないか。天帝も、将軍も、――ハイランバオスの内側にいる何者かも。
(だが偽の預言者よりも獅子と狐が一枚上手だな)
 何も言うまい。沈黙こそ賢者の美徳。
 この世は舞台、人はみな役者。紛れ込んだシェイクスピアは黙って見届けるのみだ。




 ******




 わかりきっていた話だが、祝宴にアニークの出番はなかった。日が沈んでもほったらかし。マルゴーの傭兵団長と同じ末席で一日大人しく座っているだけ。
 退屈を感じなかったのは、きっとアルフレッドを近くで眺めていられたからだろう。時折襲ってくる寂しさもうんざりするほどアニークを構ってくれた。
 ヘウンバオスが市中へ出掛けていったのはつい先刻のことである。これから夜通し天帝を崇める民衆向けに祭りを盛り上げてやるのである。騒々しかった昨年の太鼓や笛を思い出すと頭痛がした。昔のバオゾにならもっと優美な音楽があっただろうに。
(つまらないの)
 見渡せば奥庭に残っているジーアン人は身分の低い衛兵のみだった。組んでいた足を伸ばし、「今夜の宿はどこだろうな?」とアクアレイア兵とマルゴー兵がぼやき合っている。
 防衛隊や博識な画家の姿はない。外出許可を得ている彼らは街の聖誕祭へと繰り出したのだ。
(……今日の私、アルフレッドの目にはどう映ったのかしら……)
 アニークは腕をくねらせ、着飾った己の姿を確かめた。流麗なラインを描くスレンダードレス。色は東パトリアの皇族色である深い青緑。裾に向かって金と銀の刺繍が施され、真珠の粒が散りばめられている。埃は全て払い落とし、頑張ってしわも伸ばしたが、見る者が自分だけでは意味がない。
(アルフレッド……)
 今日はまだ挨拶も交わせていなかった。なんでもいいから何か喋りたかったのに。だって彼は明日には――。

「アニーク姫、まだ庭におられたんですか? てっきり宮殿にお戻りになったかと」

 不意打ちで響いた声にアニークはハッと振り返った。「ハイランバオスと街に行ったんじゃなかったの」と思わず口に出してしまう。
「いえ、俺だけ帰してもらいました。バオゾを去るまでアニーク姫の話し相手を務めると約束しましたので」
 アルフレッドはいつもの真面目な顔で答えた。
 喜びに目頭が熱くなる。もう面倒は見終わったと、関心などなくされたかと思ったのに。
(……変だわ私……)
 アニークは汗ばむ掌で頬を押さえた。
 身体が全部心臓になったみたい。息が苦しい。胸が詰まる。
 どうしてこんなになるほど嬉しいの。ただ彼が戻ってきてくれたというだけで。
「あ……」
 ああ、早く何か言わなくちゃ。世間話でもなんでもいい。「アクアレイア人って賢いのね」とか「私も久しぶりに砂糖菓子が食べたくなったわ」とか。黙り込んでいたら不自然よ。それに時間が過ぎてしまう。最後に残された私たちの時間が。
 ねえアルフレッド、どうしてあなたまで黙ってしまうの。どうしてそんなに離れて立つの。お願い何か言ってちょうだい――。

「……なんだか気が引けてしまいますね。そんな格好でおられると、俺みたいな平民が話しかけたら怒られそうで」

 夕日は既に海に落ち、草原じみた庭を照らすのは細い篝火だけになっていた。月は薄雲の向こうに隠れ、騎士の顔がよく見えない。でもきっと笑ってくれている。アニークを誉めてくれている。
 また泣きそうになってしまってかぶりを振った。聞きたかった言葉とは全然違ったはずなのに。サー・セドクティオのように「どんな花よりあなたは綺麗だ」と讃えてほしかったはずなのに。
 これでは否定できなくなる。アニークの心の中に、物語とは別の騎士が住み着いてしまったこと。
「……怒るって誰が? まさか私?」
 震えそうになる声を必死で誤魔化して軽口を返した。アルフレッドが小さな努力に勘付いた様子はない。
「えっ、いや、俺が言いたいのは今日のアニーク姫は気品に溢れているなと」
「まあ、では普段は下品だと言いたいわけ?」
「!? だ、断じてそのような意味では」
「ふふっ! わかってるわ、冗談よ」
 狼狽するアルフレッドに笑いかけ、アニークは星の散らばる夜空を見上げる。ちょうどそのとき風に乗って祭囃子が流れてきた。外に出られぬ衛兵たちからワッと歓声が巻き起こる。アルフレッドも城壁の向こうへ目をやった。
「へえ、これがジーアンの音楽ですか。なかなか味がありますね」
 これ幸いと騎士は話題を変えてしまう。
 去年は愉快な気持ちで聴けなかったそれを、今年は何故か耳にすんなり受け入れられた。どうやら自分は親しい人の好悪に激しく影響されるらしい。
「聞き覚えのない音色だな。どんな楽器を演奏しているんでしょう?」
「ええと、これはなんだったかしら。確か……ば、ば、バトーキン? だったかしら?」
「ああ、これが馬頭琴ですか! 弓にも弦にも馬毛が使われているという」
 二年半もバオゾに囚われている自分よりもアルフレッドのほうが詳しいのは何故なのか。改めて己が情けなくなり、アニークはがっくりと肩を落とした。本当に何も知らないし、何も知ろうとしていなかったのだ。これまでの自分は。
(……でもこれからは違うわ)
 静かな決意を胸に燃やす。
 アルフレッドが何を教えてくれたのか、アニークにもわかっているつもりだ。彼はただ生きる術を、小間使いがやるような家事を仕込んでくれたのではない。皇女の身分に胡坐をかいて何もしてこなかった自分にさえ、できることはあると示してくれたのだ。
 ならば変わってみせねばなるまい。アルフレッドが仕えたいと思うような、ルディア以上のプリンセスに。
(そうよ、だから今は引き留めないの。いつかノウァパトリアへ戻って、堂々と私の宮廷に招くんだから)
 それがアニークの次なる目標、そして生きていく希望だ。
 けれど一体どんな言葉でこの思いをアルフレッドに伝えればいいのだろう。気づけばまた黙り込んでしまっている。耳には異国の弦楽だけが響いている。
「いいですね、音楽は。アクアレイアでもゴンドラ漕ぎはしょっちゅう歌っているんです。俺はあんまり得意なほうではないんですが」
 アルフレッドが呟いた。音痴というのが変に彼らしくてぷっと吹き出す。
「私も歌はちょっと苦手。それならダンスのほうが好きね」
「へえ、姫はすらりとしておいでだから、さぞかし華やかでしょうね」
 お世辞の言える騎士ではないのでアニークの胸がぽんと弾む。弾んだ勢いでえいっと甲冑の腕を掴んだ。

「ねえ、私踊りたいわ」

 勇ましい鼓の音まで加わってジーアン音楽は宮廷ワルツと似ても似つかなくなっている。けれどそんなのはどうでも良かった。大事なのはもっと別のことだった。
「アニーク姫、申し訳ありませんが俺にはダンスの心得が……」
「あら、なら私が教えてあげるじゃない。あなたには習ってばかりだったし」
 騎士は女性に恥をかかせられない。手を突き出したアニークにアルフレッドは応じざるを得なくなった。
 はしたないとか強引すぎるとか、そういう反省は明日にしよう。きっと彼は他人には自ら申し込んだと言ってくれる紳士だから。
 庭の片隅でアニークは爪先を浮かせる。淑やかに芝生を蹴り、静かな回転にアルフレッドを巻き込んだ。
 くるくる回る。手を繋ぎ、息を合わせて。口ではしっかりステップの踏み方や腕の位置を指南しながら。夢のように、花のように、夜を滑る流星のように。
(一曲だけにしておこう)
 理性がそう囁いた。本当は迷惑だったかもしれないし、さよならは次もまた会いたいと思ってくれている間に済ませたいし。
「アルフレッド、十日間ありがとう」
 やっと告げられた感謝の言葉に騎士は柔らかく首を振る。
「頑張られたのはアニーク姫ですよ」
 潤んだ瞳を乾かすためにアニークは満天の星々を見上げた。
 なんの変哲もない夜で良かった。今日と同じ景色が寄り添ってくれるなら、ひとりぼっちに戻ってもきっと耐えていけるだろう。


 翌朝、アルフレッドを乗せたガレー船はバオゾの港を去っていった。天帝が留まれと誘った画家以外、来たときと同じ乗員で、来たときと同じ航路を帰るそうだ。
 静まり返った天帝宮に寂しさがこみ上げる。けれどもう抱えた不安を誰かに聞いてほしいとは願わなかった。
 嘆く暇もないほどに忙しくなる、今日からは。帝王学も何もかも一からやり直すのだから。




 ******




 収穫は上々すぎるほど上々、アクアレイアにとって黄金の果実をもぎ取ったと言えるバオゾ滞在だった。ジーアンに自軍を用いての海上進出はないと確信できたのも大きいし、何よりまたドナやヴラシィに寄港できることになったのが喜ばしい。
 この朗報を早くイーグレットの耳に入れたかった。帰路に着いたルディアの胸は実に晴れ晴れとしていた。――ミノア島で九月二十三日を迎えるまでは。

「なあなあブルーノ、ちょっとこっち来てくれよ!」
「すごく見晴らしのいい丘があるんです!」

 緩みきった表情で手招きするレイモンドとバジルにルディアは小さく眉根を寄せた。天帝へのパフォーマンスが成功して以来、防衛隊の面々はいつになく浮かれ調子だ。
 安堵で気が抜けたのはわかるが肝心なのはこれからである。低い声で「なんだ?」と問うと、二人は多少怯みながらも「いいからいいから!」「行ってみればわかりますから」とルディアの腕を引っ張った。
 ミノア島は東パトリア近海で最大の島である。山がちな地形で一年中暖かく、ナツメヤシがよく育つ。冬の寒さと無縁な場所には早くから人が住み着くものだ。例に漏れずこの島も古代遺跡の宝庫だった。

「ハッピーバースデー!」

 石積みの神殿を曲がるや否や、篭いっぱいの花を撒かれた。そんなことだと思ったとルディアは冷めた目で花娘役のアイリーンを一瞥する。海に面した緑の丘には軽食とデザートの支度。それらを囲む輪にはハートフィールド兄妹にアンバーまで揃っている。心温まる六人の拍手にハアと盛大な溜め息をついた。
「――で? これがどうした?」
 おそらく首謀者であろうレイモンドを振り返る。槍兵はルディアのぞんざいな態度にたじろいで後退した。
「そ、そんな反応はないだろー!? 今年は俺たちくらいしか祝わないよなと思ったから、折角こうして誰も来ないところでささやかなパーティを」
「誰が頼んだ? ブルーノ・ブルータスとして扱えとお前たちには散々言ってきたはずだが」
「い、いや、けど俺の誕生日はお祝いしてもらったし」
「それはブルーノ・ブルータスとしてやったことだ。返礼がしたいならこいつの誕生日にすればいい」
「け、けどあのコインは姫様の……」
「レイモンド!」
 一喝を受けた槍兵はびくりと肩を跳ねさせた。他の隊員も一人ずつ順に睨みつける。いつまで頭に花を咲かせているつもりだと。
 誕生日までに帰国できないことくらい最初からわかっていた。「おめでとう」なんて言葉を必要とするほどルディアは子供でもないし、完全に余計なお節介である。
「ほらー、だからモモ言ったじゃん。サプライズするよりちゃんと聞いてからのほうがいいって」
 ごめんねーといつもの態度でモモが花弁を拾い始める。なお不服そうに唇を曲げたままのレイモンドにルディアはほとほと呆れ返った。
「あのな。私はお前たちと仲良しごっこをする気はないんだ。私にとって一番大切なものはアクアレイアだし、状況によってはお前たちを犠牲にすることも有り得る。私に心を許したところでそれは変わらないんだぞ? 気持ちはありがたく思うが、何か勘違いしているのではないか?」
 問うた相手からの返事はない。レイモンドはすっかりしょげた様子である。その代わり、きょとんと目を丸くしたアルフレッドがルディアに尋ね返した。
「……何を当たり前のことを言っているんだ? 王国第一でいてもらわねば、俺たちのほうが困るんだが」
 え、とルディアは振り返った。自分は今、防衛隊を見捨てる可能性もあると言い放ったのだが。
「モモもそれくらいわきまえてるけど。職務と人情は別物でしょ?」
「で、ですよねー! 仕事は仕事、プライベートはプライベートですよねー!」
「わわ、私もただ日頃の感謝をお伝えしようと思ったまでで……っ」
「おかしな心配をなさいますねえ。私はてっきり命令違反に対するお叱りかと思いましたよ」
 今度はルディアが瞠目する番だった。
 なんだ、そうか。彼らは理解してくれているのか。ユリシーズのときみたいに、慈悲がないと恨まれやしないか懸念せずとも良かったのか。
「俺たち皆を含めてのアクアレイアだろう? なら文句などあるはずがない」
「逆にそんな風に釘を刺すってことは、姫様のほうがモモたちに愛着湧き始めちゃってるんじゃないの?」
 一瞬返答に詰まってしまい、思わぬ形で本音が露呈する。背中を向け、赤くなった頬を隠し、ルディアは大きく咳払いした。
「とにかく来年からこういうものは用意しなくていい。後の処分が厄介だ」
「来年から? じゃあ今年はギリギリセーフだね! パイ切り分けて皆で食べよ!」
「そそ、そうしましょう。誰かに見咎められないうちに食べちゃいましょう」
 まいったなとルディアはひとりごちた。
 線を引こうとしているのに、胸の扉を開いてしまいそうになる。決断を下す立場の己が失えぬ人間なんて作ってはならないのに。
(いつまで側にいてくれるかはわからないんだぞ?)
 戒めの呪文を繰り返す。疑いという重石が消えてしまわぬように。
(私は本物の『ルディア』ではないのだから)
 日射しはまだ強かった。夏は永遠に続きそうに思えた。
 最悪の冬はひっそりと忍び寄りつつあったのだけれど。





 ******


 カーリス共和都市の豪商、ローガン・ショックリーがやって来たのは九月も終わりに近づいた頃だった。
 金槌の音がうるさく響く完成間近の砦内部を大商人と天帝が歩く。胸糞悪い打ち合わせを進めながら。
「祝祭に呼んでいただけず残念でしたよ。今日は山ほど献上品を積んでまいりましたがね」
「アクアレイアの連中が来ていたからな。怪しまれては元も子もない。それで奴らはすんなり家に帰ったのか?」
「ええ、一団となってミノア島を出て行きました。もうじきイオナーヴァ島の部下からも連絡が入りましょう」
「そうか。ならばそろそろお前たちも『脱走』せねばなるまいよ、リーバイ」
 踵を返した王者の瞳が背後に控えたリーバイを射抜く。冷徹な笑みに冷や汗が浮いた。自分はとんでもない男と取引したのではなかろうか、と。
「……約束は守ってもらえるんだろうな?」
 精いっぱいの虚勢で問う。ヘウンバオスはそれも鼻で笑うだけだった。
「当然だ。私を誰だと思っている?」
 生き神を名乗る人間など信用できるか。舌打ちしたいのを堪え、リーバイは目を逸らした。
 一生奴隷で終わるだなんて真っ平だ。もう一度生き別れた妻子に会いたい。アクアレイアが当てにならないなら自分たちで――ドナとヴラシィの男だけで自由を取り戻さなくては。
「船は途中までカーリス船に護衛させよう。だが忘れるな。お前たちは勝手にジーアンの船を奪い、勝手にアクアレイアを攻めるのだ。故郷に代わる新天地を求めてな」
 目の前には進水を待つ四十隻のガレー船。建造途中の十隻は急ピッチで作業が進められている。
 関所は確かに関所だが、ここは軍港と造船所も兼ねていた。ジーアンが海へ出る気だと知っているのはカーリス共和都市くらいだろう。天帝は悪事の片棒を担がせるのにローガンを選んだのだ。
(何が護衛だ。監視の間違いだろうが)
 アクアレイアを敵に回す。その選択が本当に正しいのかはわからない。だがリーバイたちに今更考え直したいなどと言える権利があるはずもなかった。









(20150523)