全体を俯瞰できる場所に来ると、今まで見えていなかったものが見えてくる。ルディアが「それ」を発見したのはバオゾで一番大きい寺院の尖塔の上だった。
 街から少し距離を隔てて完成間際の砦が一つ。立地は二つの都が向かい合う海峡の、陸と陸が最も差し迫っている岬。
 どう考えても対ノウァパトリア用監視基地である。もしかすると対岸に橋を渡すための事前準備かもしれない。ということはジーアン帝国の次なる狙いは東パトリア帝国なのだろうか。
(休戦協定はどうする気だ? 今まで結んだ約束は一度も破っていないと聞くが……)
 ルディアはうーむと眉をしかめた。バオゾへ来てもう数日経つけれど、天帝の胸中は依然として読みきれない。折角アンバーを夕食の席に送り込んでいるのに又聞きするのは他愛無い与太話ばかりだ。あの天帝は側近や十将はおろか、実弟にさえ己の思惑を明かさないのだ。ルディアとしてはもっと重要な機密に関わる情報が欲しいのに。
(いや、一つだけ気になる報告があったな)
 アンバー曰く、天帝の元へ届く手紙に妙に東パトリア皇室からのものが多いらしい。更に奇怪なことに、宛先がアニークとなっていても皇女の手に渡っている気配がないという。
 日中アニークに付きっきりのアルフレッドも「姫はジーアン側にいないものとして扱われている」と話す。皇室の便りを届ける兵に出くわしたこともないそうだ。
(どうもヘウンバオスがアニークをどうしたいのかわからんな。改宗させる気はなさそうだし、政治の駒に仕立てる気もなさそうだ。それでも囲い続けるということは、まさか誰かに頼まれてあの女を東パトリアから遠ざけているのか?)
 であれば取引の裏側を推測できなくはない。東パトリアの皇族関係者で彼女を疎ましがっている人間など決まっている。
(ヘウンバオスとつるんでいるとしたら現皇妃、か)
 休戦協定を結ぶ際、秘密裏に傀儡政権の発足でも約束したのだろう。天帝は東パトリアを手に入れたい。皇妃は継承順の低い息子を帝位につけたい。その利害が一致したのだ。
 順当に行けばあの帝国の世継ぎはアニークだった。皇帝の第一子として彼女の未来は約束されていた。だが彼女がジーアンに囚われたままでいればどうだ? 戴冠は不可能だとアニークの継承権を無視する理由に大いになり得る。
(可哀想だがアクアレイアにもそのほうが都合良いな)
 ルディアはバジルに借りた望遠鏡で砦の周辺をチェックしながら黙考した。派手好きの皇妃はアクアレイア商人のお得意様であり、交易の庇護者である。ジーアン傘下に入ることになったとしてもアクアレイアを無下にはするまい。しかも権威ある男が好きだから、グレディ家よりイーグレット派だ。アニークには埋もれてもらって困ることなど一切なかった。
(なら砦の建設目的は皇妃牽制か? 少しでもおかしな素振りを見せればどうなるか承知しているだろうなと、無言のメッセージを送るための)
 いずれにせよ今は憶測の域を出ない。後はノウァパトリアに置いてきた商人たちの報告を待ったほうが賢明だろう。今はそれよりここでしかできないことを成すべきだ。

「……おい、お前たち。今日は大いに実りがありそうだぞ」

 何やら蠢く一団に気づいてルディアは口角を上げた。よくよく見ればそれは造りかけの砦から街へ引き返してくる人夫たちだった。身に纏う汚れた衣服の形状も、日焼けしているがやや薄い皮膚の色も、バオゾの民とは明らかに特徴を異にしている。
「おお、きっと天のお導きでしょう」
「何が見つかったのかしら?」
「僕の予想では工房街ですね! ああいうのは騒がしいとか火事が広がるとか言われて郊外に追いやられがちですし!」
「モモも! モモにも望遠鏡貸して!」
「まあ待て。レイモンド、先にお前が確認しろ」
「へっ? 俺?」
 キョトンとしつつ望遠鏡を受け取った槍兵はルディアの示した方向を見て「うおっ!」と叫んだ。なんだなんだとバジルやアイリーンが目を丸くする。
「ありゃドナとヴラシィの連中じゃねーか!」
「やはりか。土木工事要員として連れ去られていたわけだな」
「見せて見せて! モモにも見せて! ……あっ! あんなところにおっきい砦!」
「えっ? ほ、本当? まあ……私がバオゾにいた頃は何もない岬だったのに……」
「どれどれ。……おや、皆さんくたびれきっておりますねえ。これはバオス教の慈善活動の一環として慰問に向かわねばならぬ気がしますよ」
「よし、早速彼らを訪ねよう」
 言うが早くルディアは尖塔の螺旋階段を駆け下りた。あの砦がどんな目的で建てられたのか知る絶好のチャンスである。それにアレイア海東岸がジーアン帝国に攻め込まれた当時の話も聞いておきたい。
「あいつら作業中っぽいのに街に何の用事だろうな? ランチ休憩か?」
「それはないと思いますよ、レイモンド」
「うーん。石材や木材を積んでおく闘技場の遺跡があるから、ひょっとしたら足りない資材を取りにいくのかも。いつも騎馬兵が監視しているところだし、ハイランバオス様はともかく私たちは入れてもらえないかもしれないわね」
「ふむ、だったら……」




 ガラガラとうるさい車輪の音を聞きながら、ガタガタと揺れる荷台で小さくなる。ルディアの取った作戦はオーソドックスな「酒樽に隠れる」というものだった。荷車を押すのはレイモンドとバジル、モモとアイリーンがその後ろに続く。
「祝祭の間、天帝の恵みはあらゆる人間に与えられて然るべきでしょう。私は彼らにも祝い酒を振る舞いたいのです」
 表からアンバーの声が響いてくる。大パトリア帝国時代の円形闘技場にほぼ顔パスで入場を許可された聖預言者はにこやかに歩みを進めた。
 樽に穿った覗き穴からルディアは周囲を確かめる。突然の教主の訪問に捕虜たちは作業する手を止めさせられていた。当直のジーアン兵を集めてアンバーがありがたい説法を始める。その間にバジルが捕虜を並ばせて、順に葡萄酒の杯を受け取りにくるよう指示をした。レイモンドたちは荷台近辺を死角にするべく壁になる。これで準備完了だ。
 戸惑いつつも列は動き出し、二つの酒樽を積んだ荷車に捕虜は一人また一人とやって来た。おずおずと酒杯を飲み干す彼らの背中にルディアは小さく呼びかける。
「……おい、お前たちドナとヴラシィの水夫だろう? 静かに。何も反応するんじゃない。私のところにお前たちのまとめ役を連れてきてくれ」
 潜めた声に振り向いた男はすぐに元の列に消えていった。それから間もなく別の男が酒樽に近づいてくる。
「……ドナのリーバイだ。レイモンドが一緒にいるところを見ると、あんたらアクアレイア人だな?」
 顔の広いのがいるおかげで話が早い。そうだと答えてルディアはリーバイに祈りのポーズで留まれと命じた。
「アレイア海はどうなってる? ドナやヴラシィの街は」
 三十代か四十代か、リーバイはがっしりした体格とぶれない眼光の男だった。ジーアン兵にやられたのか、額から鼻にかけて剣で切られた痕がある。
「今は女子供と老人が残るばかりだ。安心しろ、全員生きている」
 リーバイはほっと息を吐き出した。ずっと残してきた者が気がかりだったのだろう。酒樽から離れないのを怪しまれないために祈りのポーズをと言ったのに、まるで本当に感謝を捧げているかに見える。
「そっちのことも教えてくれ。お前たちが建造している海峡の砦はなんだ? 他にどんなことをさせられている?」
「……ああ、ありゃあ関所だ。狭い海峡だから、完成したら商船から通行料をせしめる気なのさ。今はとにかく建材運びばかりやらされてるよ」
「そうか、関所か」
 上手い理由を考えついたなとルディアは感心した。それなら東パトリア側に抗議されても言い逃れできるし、ついでに蓄財もできる。世界最大の貿易都市が座すだけあって、この海の交通量は世界一なのだ。
「なあ、アクアレイア海軍は一体何をやってんだ? 捕虜の中にはもう何人も死人が出てる。俺たちはあんたらの船の手足だったってのに、このままここに放っておく気かよ?」
 悲痛な問いかけに我知らず息を飲む。アレイア海東岸が落ちてもうじき二年だ。援軍も出せず、救済もできずにいるアクアレイアに不信感が募っていても仕方のない話だった。
「……すまん。我々は海軍の者ではないのだ。だがいずれ必ずなんとかする。信じて待っていてくれ」
 漠然とした口約束ではリーバイの疑いを払拭することはできなさそうだった。「捕虜を買い戻すのが可能になれば王国はいくらでも出す」とも言ってみたが、冷たい眼差しが返るだけだ。
「天帝は海賊じゃねえ。自分の奴隷に値段なんかつけちゃくれねえだろうよ」
「…………」
 話は終わったとばかりにリーバイはルディアの前を立ち去った。物言わぬ石に囲まれた闘技場は、暗い気分で後にすることになった。




 ******




「あんま気にすんなって。あいつらだって家に帰れりゃまたアクアレイア人と一緒にやってってくれるさ」
「そうよ、落ち込むことないわ。差し入れだって喜んでくれてたじゃない」
「ああ、我が君に今すぐ彼らを解放するよう頼む方法があれば……」
 三者三様の慰めにルディアはふうと息を吐く。「誰も気落ちしてなどいない」と首を振るが信じる者はいなかった。
「まあ落ち込んでたってしょうがないもんねー。折角お祭りやってるんだし、その辺で気分転換したら?」
「僕もモモに賛成です! さっき大きなキャラバンがバオゾに到着したみたいなんですよ。皆で掘り出し物を見つけに行きませんか? きっと楽しいに違いありません!」
 中心部に戻ってきたルディアたちは日ごと賑わいを増す道を歩いた。バオゾはノウァパトリアと比べて商業規模は小さかったはずなのだが、天帝がいるというだけで経済が活性化しつつあるらしい。実に羨ましい話だ。
「ああっ! やっぱり露店が増えてます! ああッ!? あれはミョウバンだあああ!」
「ミョウバンですって!? ばば、バジル君どどどどこ!? どこに!?」
「おやおや、アイリーンまでそんなに興奮して。はぐれてはいけませんよ」
 聖預言者の注意もそこそこに弓兵と魔女が走り出す。二人ともあっと言う間に雑踏に消えていった。
 露店は雑然としているようで、きちんと住み分けられているようだ。祖国の大運河でもワイン河岸や香辛料河岸が区別されているのと同じに、取り扱い品の種類に応じてエリアが分かれているらしい。
「しかし今日の人混みはまた凄まじいな」
 多少辟易しながら呟く。人が多いだけならまだしも、店の前で急に屈んだり大道芸の見物を始めたりする人間がいてなかなか先へ進まない。特に鬱陶しいのはさっきからずっと道幅を狭めているえげつない長蛇の列だった。
「私の説法に並ぶ人と同じくらいの数ですね。一体なんの行列でしょう?」
 アンバーの疑問はすぐに解けた。ちょうど前方から大はしゃぎのラオタオが駆けてきたからだ。

「ハイちゃんハイちゃん! 見て見てこれ! 俺すっげー男前じゃない!?」

 狐顔の青年将軍が掲げてみせたのは亜麻紙に黒いインクで描かれた彼の肖像だった。サインを見ずとも誰の作かはすぐ知れる。今この街に画家は一人しかいない。
「三ヤン出せばコナーがなんでも描いてくれるんだ! すごいぜ、あいつ魔法の腕の持ち主だ! 馬なんか本当に生きてるみたいでさあ!」
 ラオタオは興奮しきってコナーがいかにさらさらと筆を走らせるか熱弁した。この様子だとすっかり師のファンになったようだ。
「ヴラシィに帰ったらどこに飾ろっかなあ! 楽しみだなあ!」
「ふふふ、良かったですねえ」
 彼の話に耳をくすぐられたのがレイモンドだった。「なあなあ、俺たちも見にいこうぜ」と槍兵はしきりにルディアの肩をつつく。
「お前は絵に金を払うタイプの人間ではないだろう」
「いいんだよ、見るのはタダなんだから!」
「私も天才画伯の実演販売には興味ありますね」
「うんうん! あれはハイちゃんも一度見ておくべきだ!」
 何故かラオタオも輪に混じり、行こう行こうと背を押してくる。ミョウバンを仕入れ終わって大満足のバジルたちを連れ、ルディアは行列の先に向かった。
「ほら、あそこ! あそこに大先生が座ってるぞ!」
「そんなに大きな声で叫ばなくても見えていますよ、ラオタオ」
 苦笑するアンバーの傍らでルディアは狐の示した方角を見やる。こじんまりした噴水広場で列は終わりになっていた。人垣の迫る中、水辺の縁に腰かけた黒髪の画家が紙にペンを走らせている。そっと観衆に紛れ込んだレイモンドに続き、ルディアも師に近づいた。
「…………!」
 コナーの神業は子供の頃から目にしてきたが、更に常人から遠のいたのではなかろうか。インク壺に浸された鵞ペンが乳白色の紙に触れるや否や、寸分の迷いなく描き出される人物、動物、景色の数々。走り回る子供らや風にそよぐ木々でさえ一瞬の姿を正確に写し取られる。境界の曖昧な青空と薄雲、通り雨に濡れた地面、虹を映した水溜り、嵐の海すら師は黒一色で描き上げた。この人には世界がどんな風に見えているのだろう。本当に不思議で仕方ない。
「はー……、最初に世界を創った神様ってきっと芸術家だぜ。間違いねーわ」
 レイモンドにしては詩的な感想にルディアは頷く。
 圧倒的な才能を前にすると頭も胸もいっぱいになって、己のことなど忘れてしまう。心が単純化されるというか、余計な言葉を失くすというか。ぽかんと口を開けて見ている他の連中と変わらない、ただの一人の人間にさせられるのだ。
(嫌いな感覚ではないんだがな)
 頬を掻きつつルディアは苦笑いを浮かべた。その他大勢の者よりも心構えはできているつもりだったのに、すっかりコナーにしてやられた。
 やはり師は天賦の才の持ち主だ。紙の世界に白黒の自然を育むペンから目が離せない。
「おお、素晴らしい。そうです、我々はこんな焚火に夜を守ってもらっているのです……!」
 行商人らしき肥えた男が絵を丸めて懐に収め、何度もコナーに礼を告げる。彼は画家に優しい炎を描いてほしいと頼んでいたようだった。
「いや、いいものを頂戴しました。これは家宝にしなくては」
「そんな大袈裟な。しかしお気に召したなら私も幸いだ」
「お代は三ヤンでしたかな。生憎と今持ち合わせがございませんで、支払いは商品でさせていただいても?」
「ええ、結構。三ヤンの価値あるものならば」
 コナーの返答ににっこりと微笑み、ターバンで縮れ毛を巻いた商人は担いでいた皮の荷袋からボロ布で厳重に包んだ「何か」を取り出した。割れ物らしいがなんだろう。脇から数人と覗き込むが、男はなかなか品名を明かさない。
「お集まりの皆様にも是非ご覧いただきたい! この大地と熱の育んだ奇跡を!」
 商人は声高らかにそう叫び、大仰に包みを持ち上げた。どうやら彼はこの場でパフォーマンスしたいらしい。コナー人気に乗っかって売り物を宣伝しようとは見上げた商売根性である。その思惑に見事に釣られ、待機列の人々がなんだなんだと首を伸ばした。
「これは本当にいい品ですよ! きっと先生もビックリなさると思います!」
 煽りに煽って注目を集めると商人はばっと梱包を引き剥がす。予言は的中し、広場には叫び声が響き渡った。ただしコナーではなくバジルのだったが。
「あっああ! うわああああああー! ななな、なんて透明度の高いガラス! ちょっ、えっ、向こうの景色が完全に透けて見えてるじゃないですか! こ、これは一体どこの職人がどうやって!?」
「えっ? へっ?」
「ああっ! すみません、興奮しすぎてアレイア語で話しかけてました! つ、つかぬことを伺いますがこのガラスの器はどういった経緯で入手されたので!?」
 凄まじい勢いで食いつく異国の少年に行商人が後ずさりする。血走った双眸を見て「ヤバイ」と思ったのか、笑顔で宥め賺しながら男はじりじり間合いを取った。
「あ、ええと、悪いが産地は内緒なんだ。流通する前に技術を盗まれちゃいけないからね」
「くうッ! そりゃそうでしょう! これだけ透き通ったガラスの製造法ですもんね、秘密でもしょうがない! それじゃあちなみになんですがその皮袋の中身ってもしかして全部同じガラスです!? 僕一番大きいのと一番小さいのが欲しいんですけど代金おいくらなんでしょう!?」
「え、えーと、一番小さいのがこの杯だね。それから一番大きいのはこの箱だ。けど悪いがお坊ちゃんには三ヤンでは売れないぞ。こちらの画家先生は偉い人たちに製品の良さを広めてくれそうだし、この絵も三ヤンごときではなかろうと思ってお渡しするんだから」
「えっ……それじゃ三ヤンより本来はもっと……?」
「ああ、小さいのが五十ヤン、大きいのが二百八十ヤンというところだな」
「に、に、二百八十ヤン!?」
 卒倒しかけたバジルの首をレイモンドががしっと掴む。大きすぎる額に弓兵はぶくぶくと泡を吹いた。
 ヤンとは遊牧民の財産である羊を示すジーアン古語で、同国の通貨の一種である。花嫁を迎える際、花婿が用意すべき羊の数が約百頭だと言われている。ウェルス幣で支払うにしても二十万は用意しなければならないだろう。去年の防衛隊の年収とほぼ同額だ。
「う、うう、僕ミノア島で砂糖をしこたま買い込んでしまって……ついさっきもミョウバンを……っ」
「金がなきゃ商品は売れないよ。悪いがまたの機会に頼むね」
 行商人に背を向けられ、絶望顔でバジルはその場に崩れ落ちた。せめて五十ヤンの杯だけでも何とかならないかレイモンドに借金を頼むも、当然のごとく断られている。

「ふむ、合計三百三十ヤンねえ。無いなら稼げばいいのではないかな?」

 と、ペンを振るいつつコナーがバジルを振り返った。
「か、稼ぐって先生みたいにですか? 無理ですよ、僕に描けるのなんて設計図くらいですもん」
「何も君が現金を得る必要はない。三百三十ヤンになりそうなものをあの男にくれてやればいいのさ」
「ぶ、物々交換できるならしたいですけど、そこまで高価なものは今……」
「おや、弱気なことを言うんだね。価値とは創造するものだよ。あのガラスを手に入れるついでに、一体君にどんなことができるのか私に見せてくれたまえ」
 そう言うとコナーはバジルに出来上がった絵を差し出した。描かれているのはゴンドラを漕ぐ少年だ。探究心に満ちた瞳が櫂の先の潟湖をじっと見つめている。
「私の絵だって亜麻紙と黒インクでしかないわけだが?」
「……! あ、あの、この辺りで端材の買えるお店ってありますか!? できたら菩提樹とかの加工しやすい木がいいんですけど!」
「え、ええ。バオゾのお店なら大体案内できると思うけど……」
 何か閃いたらしいバジルがアイリーンに問う。二人は駆け足で広場を去り、十五分ほどすると両手いっぱいに木切れを抱えて戻ってきた。そうして何やら不可解なものを作り始めたのだった。




 道具はナイフとヤスリとキリ。削り出されたパーツは鵞ペンサイズの板と棒。棒は丸串にせねばならないようで、アイリーンが必死にヤスリで角を落とす。バジルのほうは薄い板切れに刃を滑らせ、中ほどから先端を削ぎ、シンプルな点対称の加工を施していた。
「それはなんの道具になるんだ?」
「うーん、いずれは道具にするつもりですけど、今はまだ玩具ですかねえ」
 質問に答える気があるのかないのか弓兵はちらりとも顔を上げない。邪魔をしては悪いかとルディアも陰に引っ込んだ。
 慣れた手つきのヤスリがけ。木肌はたちまち滑らかになる。それが終われば長細い薄板の中心に小さな穴が穿たれた。
「アイリーンさん、できましたか?」
「ええ、こんなので良かったかしら」
 仕上げにバジルは受け取った丸串を穴にグイッと嵌め込んだ。完成したのはよくわからないT字型の木製品だ。隣でモモが「あ、前に作ってくれたトンボかあ」と呟いた。
「よーし、見ててくださいよ! おーい、ガラス売りの行商人さーん!」
 お目当ての人物を振り向かせるとバジルは両手を擦り合わせてトンボとやらを回転させる。その瞬間、ブウンと聞いたこともない風切り音が青空に響いた。鳥や虫以外で飛行するものを見たのはこれが初めてだった。
「なんだい、誰か呼んだかい……ってええ!? ええー!?」
 少年の手を離れ、トンボは既に天高く浮かび上がっている。噴水広場にどよめきが走った。あれはなんだと遠くの人々が指を差す。
「ほう、面白い! 何からヒントを得て製作した作品だい?」
 コナーまでもが筆を置き、バジルに解説を求めた。照れ臭そうに弓兵は玩具について語り出す。
「いやー、実はご婦人用の、あまり力を入れずに漕げる櫂を開発したいと試行錯誤してた時期がありまして……」
 滞空時間を過ぎたトンボは広場の隅に落っこちた。「ごめんよ、ごめんよー!」とざわめく人混みを突っ切ってレイモンドが回収に走る。
「よく見せてもらえるかな? ふむ、上部は二本の櫂を逆さまにくっつけた形か。だがゴンドラやガレー船の櫂とは形状を異にしているようだ。これは一体……」
「あ、水を押し掻いて進むんじゃなく、水を練り掻いて進む設計だったんです。ちょっと操作が難しくて実用化には至らなかったんですけど」
「なるほど。しかし水に対して使用する櫂をよく空に飛ばそうと思ったね?」
「それはですね、ええと、強い風って身体が押される感じがあるじゃないですか。押されるということは、逆にこっちも風や空気を押し返せるんじゃないのかなと考えて」
「ふむふむ、つまりこの玩具は、回転している間は空気を下に押し続けているわけか」
 二人の会話についていける者はいなかった。ちんぷんかんぷんでアイリーンに「どういうことだ?」と尋ねてみるが、彼女も「私は生物系だから……」と首を横に振る。
「さ、さっきのお坊ちゃん! 今のはなんだね!?」
 と、正気に戻った行商人がバジルの側へ駆け寄ってきた。コナーの絵や透明ガラスに見とれていた民衆も「あれは売り物なのかな?」とバジルの一言一句に耳をそばだてている。取引の主導権はもはやこちらのものだった。
「作り方、あなたにだけこっそり教えるのでガラス譲ってもらっていいですか?」
 少年の問いに行商人はこくこくと頷いた。バジルの全面勝利だった。
「やったあああ! あ、ああ……このガラスを使えばもっと精度の高いレンズが作れる……! はあはあ、涎が出てきました……。嬉しいなあ……っ!」
 受け取った宝物を大事にしまい、バジルは荷袋に頬擦りする。「えーっ!? あれってそんな金になる玩具だったの!?」とレイモンドが悔しそうだった。
 そのときだ。ゆったりした拍手が広場に響いたのは。

「流石は我が弟の連れ帰った客人だ。興味深いものを見せてくれる」

 いつの間に現れたのか、ルディアたちのすぐ後ろに黒馬に跨った天帝が足を留めていた。平民たちはただちに地面に額を擦りつける。防衛隊も全員片膝をつき、頭を垂れた。
「そこの三つ編み、名前は?」
「……! ば、バジルです。バジル・グリーンウッドと」
「バジルだな。覚えておこう。お前の遊び道具は坂の上からも楽しめた」
「……!」
 思わぬ形で得た好感にルディアは内心拳を握った。「俺もバジル君のこと覚えちゃお!」とラオタオまで釣れてくれる。
「あ、ありがとうございます! 光栄の至りです!」
 恐縮するバジルにヘウンバオスはふっと微笑む。このままアクアレイア本国にも良い印象を持ってくれれば助かるのだが。

「東パトリアの姫にも見せてやるといい」

 ――そのひと言で背筋が凍った。天帝宮の中でのことは全てヘウンバオスに漏れているのではないのかと。
(……あまり危険な動きはできそうにないな)
 今回はドナとヴラシィの捕虜に接触する以上の真似をするつもりはなかったが、肝に銘じておくべきだろう。焦りと油断は禁物だ。
 ヘウンバオスは手綱を握ると宮殿方面に引き返していった。立ち去ってなお息が詰まるほどの威圧感を残して。




 ******




「う、うう……っ、どうして皇女の私がこんなことを……」
 昼下がりの中庭でやっと鶏の羽を毟り終わり、アニークは瞳に溜まった涙を拭った。首を絞めたり血抜きをしたり、もうクタクタである。掃除だの炊事だの連日何をやっているのだろう。
「泣き言をぼやいている場合ではありませんよ。次は内臓を取り出して、皮を剥いで、塊肉に切り分けます。お教えした通りにできますね?」
「ううっ、ねえ、お願いだから少し休ませて……」
「鮮度が大事なので頑張ってください。これができるようになれば、いつでも好きなときにチキン料理を召し上がれるようになるんですから。それとも肉はお嫌いになりましたか? 二度と買ってこないほうがよろしいですか?」
「うううううー!」
 アニークは生まれて初めて握ったナイフをやけくそで鶏に向けた。羽が抜けやすいように熱湯を浴びせられていたそれは触れると火傷しそうなくらいで、エイと突き立てた刃が意外にすんなり引き切れる。
「そうそう、お上手です。この砂肝とレバーは栄養があるので捨てないでくださいね。さあ、次は皮を剥ぎましょう」
「ああーッもうイヤ! イヤよ、こんなの! 横で見てないであなたがやってよ!」
「俺ができたって仕方ないでしょう。大体あなたはやればそれなりにこなせているんですから、甘ったれないでください」
「……ッ!」
 酷い、酷すぎる。アニークはぶるぶると肩をわななかせた。甘ったれなんてお父様にも言われたことないのに。
「わかったわよ! やればいいんでしょう、サー・トレランティア!」
 屈辱に震えながらアニークは叫んだ。乱暴に鶏だったものを掴み、不要な皮を引っぺがしていく。
「……アニーク姫、今なんと?」
「だから皮を剥ぐのも肉を切り分けるのもやればいいんでしょ!? これ以上私を怒鳴らせないで!」
「いえ、その後です。サー・トレランティアと仰いましたか? ひょっとして『パトリア騎士物語』の?」
「えっ!? アルフレッド、あなた『パトリア騎士物語』を知っているの!?」
 まずいとアニークは冷や汗を垂らした。平民だというアルフレッドが文学に通じているはずないと踏んで「冷たい・怖い・容赦ない」の三拍子揃った嫌な騎士に彼を喩えてしまったのに。
 ああ、どうしよう。絶対に怒られる。どういうつもりだと頭から平桶の血を浴びせられるかもしれない。ああ、ああー!
「サー・トレランティアは『パトリア騎士物語』の中で俺が一番尊敬する騎士です」
 あ、そう、とアニークは胸を撫で下ろした。
 変な趣味。冷血漢が憧れるのはやはり冷血漢なのね。
「彼こそ騎士の中の騎士。主君のためにあれほど身を尽くせる人間はいません。あの鋼鉄の忠誠心は俺も見習わなければと常々」
(まあ珍しい。こんな風に頬を染めて話すなんて……)
 可愛いところもあるじゃない。そう気を緩めた途端に「切り分けは? 手が止まっておりますよ?」と指摘される。
 可愛いなんて気の迷いだった。一瞬前の自分を悔いてアニークはナイフに力をこめた。
「やっぱりあなたサー・トレランティアだわ」
「ありがとうございます。まだまだ彼には遠く及ばぬ若輩者ですが、精進してまいりたいと思います」
 厭味は通じなかったようで、真面目に喜ばれてしまう。アニークにはこれっぽっちもわからなかった。あんな偏屈のどこがいいのか。
 サー・トレランティアは己の仕える姫の恋路を邪魔した悪い男だ。確かに姫は敵国の王子という愛してはならぬ相手を愛してしまったが、駆け落ちくらい認めてやれば良かったのだ。恋人たちは真実の愛のために身分を捨てるとまで言っていたのだから。それをあの騎士は「あなたが身分を捨てたと言っても皆はそう思ってくれないでしょう」と言って王子に嘘の待ち合わせ場所を教えたのだ。挙句の果てに姫が王子に貰った大事な指輪まで処分してしまって。
 思い出しても歯痒い話だ。トレランティアさえ協力的であったなら、たった一夜の逢瀬でも二人はきっと結ばれたのに。
「……ちなみに一番好きな姫は誰なの?」
 好奇心に負けてつい尋ねる。まさかお転婆王女のグローリアではなかろうな、とアニークは薄目でアルフレッドを見やった。問われた騎士はしばし思案したのちに「プリンセス・オプリガーティオですね」と答える。
「まあ! わかる、わかるわ。病弱だけど、とても素敵で羨ましい姫君よね。あのセドクティオ様の仕えるプリンセスだもの!」
「アニーク姫は恋多きセドクティオがお好きですか。俺はちょっと、ああいう派手なタイプは自分と懸け離れすぎていて」
「まあ! うふふ! アルフレッドったら!」
「力もあって華もある、優れた騎士ですよね。プリンセス・オプリガーティオのような、座して動かない聡明な女性には自由な彼が合っていると思います」
「そうよねえ! セドクティオ様は奔放なところがいいわよねえ! 何よもう、あなたわかっているんじゃないの!」
 もっと騎士物語について語り合いたくなってきてアニークは急ぎ鶏肉を燻製鍋に放り込む。その手際の良さはアルフレッドを唸らせるほどだった。
「私はセドクティオ様が一番! いつもロマンチックだし、彼の甘い言葉にはドキドキするわ。お顔立ちも全ての騎士の中で最も麗しいって書かれていたし……」
「へえ、『パトリア騎士物語』の感想を女性に伺うのは初めてです。なるほど、あれは教訓ものとしてだけでなく質の高い物語としても楽しめるんですね」
「えっ!? あなたあれを教科書か何かだと思っていたの!?」
「ええ、子供の頃から騎士と姫とはかくあるものだと……。あれ? おかしいですか?」
 堪え切れなかった笑いが口から溢れ出る。現実の騎士なんてそうそう頼りになるものではない。アニークがジーアン帝国に連行されたときでさえ、近衛兵はただの一人も助け出そうとしてくれなかったのだ。サー・セドクティオなら――否、サー・トレランティアだって、あの場にいれば救いの手を差し伸べてくれただろうに。
「……アルフレッドは何故サー・トレランティアを尊敬しているの?」
 気がつけばそう尋ねていた。甦った悲しみを早く頭から追い払いたくて。
「彼は自分が騎士であることを忘れないからです」
「騎士であることを忘れない? それってどういうこと?」
「トレランティアは主君が道を誤りかけたとき、他の者のように迎合しませんでした。彼は憎まれるのを覚悟で姫と王子の仲を裂いたのです。あのまま姫が駆け落ちしていれば、遠くない未来に差し向けられた刺客の手で殺されていたでしょう。指輪を自室の壁に埋め込んだのだって発見されたとき責めを負うのが自分であるようにです。彼は決して多くを語りませんが、彼の行動の全てが主君への忠誠を証明しています。俺もそのような騎士でありたいです」
 アニークは目を瞠った。サー・トレランティアに対するそんな見解があろうとは思ってもみなかった。言われてみればあの姫は、彼のおかげで裏切り者とそしりを受けずに済んだのだ。
「……私ったら、今まで彼を厳しいだけの非情な男だと思っていたわ」
「ということはつまり、俺は厳しいだけの非情な男と思われていたんですね?」
「あっ! いえ、違うのよ、アルフレッド。あなたは私を手助けしようとしてくれているし、その、ええと、まさにあなたが思い描くサー・トレランティアだと思うわ!」
 焦ってしまい、口の回るまま弁解する。アルフレッドは動転するアニークを見やって吹き出した。
「あはは、正直な方だ。気にしていませんから大丈夫ですよ」
 年相応の明るい笑みにびっくりする。思わず息を止めてしまったほどに。
 声もなんだか優しく響いた。「大丈夫です」なんてこの数日で何十回と聞いているのに。
(いいえ、そうじゃないわ。アルフレッドはずっと優しかったのよ。ただ私が気づいていなかっただけで)
 知らなかった。こんなにあっさり悪口を許してくれるなんて。
 知らなかった。こんなに温かく笑う人だなんて。
「……あの、プリンセス・オプリガーティオはどこが好き?」
 何故か急に目を合わせられなくなってアニークはそっぽを向いた。普段より鼓動が早い気がする。鶏と奮闘したせいだろうか。
 自分で質問したくせに答えを聞くのも怖かった。アルフレッドが嬉しい返事をくれたらいいのに。アニークと重ねられそうな、プリンセスの美点を挙げてくれたら。
「そうですね。明敏で、意志が強くて、どんな状況でも成すべきことを成そうとなさるところが。――ルディア姫とよく似ています」
 先程よりも落ち着いた、けれど誇らしげな微笑みがアニークの胸を刺した。声が喉に張りついたまま上がってこない。何か言わなくてはと思うのに。
 ああ、そう、ルディア姫。ああ、そうよね……。

「失礼! アルフレッド、少しいいか?」

 静寂を切り裂いたのは外から帰ってきた王都防衛隊の一人だった。アニークを「何もしてこなかった女」と罵った剣士だ。昨日まで彼の姿を見かけるたびに怒りで頭が沸騰しそうだったのに、何故か今は羞恥しか滲んでこない。
 どうして。何を恥じることがあるの。私は東パトリア帝国の第一皇女なのよ。たとえ何もしていなくても、いるだけで尊い存在でしょう。
「姫、申し訳ありません。少々席を外してきます」
「……」
 アニークには頷くことしかできなかった。アルフレッドに「ここにいなさい」と命令するなど不可能だった。騎士には既にプリンセスがいて、本来は相手にしない女を相手にしてくれているのだと気づかされてしまったから。




 ******




 てっきり会議室に集まるのかと思ったのに、アルフレッドがルディアに押し込められたのは無人の音楽室だった。埃を被った楽器に囲まれ、鋭い眼差しに睨まれる。
「なんだ今のは? 手懐けろとは言ったが誘惑しろとは言っていないぞ?」
 穏やかならぬ追及に待て待て待てと思わず声を荒らげてしまう。
「妙な誤解はよせ! 不適切な言動は一切していない!」
「お前はそうでもあっちはわからん。現に女の顔をしていた」
「他国の姫に失礼だろう! あまり下世話な目で見ないでくれ、頼むから!」
 己は真面目に任務を遂行しているのだとアルフレッドは訴えた。対する彼女は「どうだか」と言いたげな反応だ。
「なんの話をしていたんだ? 随分盛り上がっていたようだが」
「おい、一体いつから覗いていた? はあ……『パトリア騎士物語』について意見を交換し合っていたんだよ」
「ああ、あのお前の好きそうな騎士道小説か。なるほどな、共通の趣味を持つ同志だったというわけか」
「疑いは晴れたか?」
「……とにかく皇女に手を出すなよ。親切はほどほどにしろ」
 これまでの潔白は信じてもらえたらしいがこれからの潔白には釘を刺される。アルフレッドは深々と溜め息をついた。
「ん? 待てよ、もしかしてお前も『パトリア騎士物語』を読んだことがあるのか?」
「当然だろう。その程度は教養のうちだ」
「そ、そうか」
 返事をする声がどもった。さっきアニークにトレランティア似だと言われたせいだろうか。ルディアの目にはアルフレッドが誰と近く映るのか気になってしまう。
「どうせお前の贔屓はサー・トレランティアかそこらだろう? 憧れの伯父にそっくりだからな」
 お見通しだと言わんばかりにルディアは笑った。すかさずトレランティアの名が出てきたのを喜ぶ反面、それをブラッドリーに似ていると言われて複雑な気分になる。自身を栄誉ある騎士に見立ててもらおうなど、まだ分不相応な話だったか。
「そう言えばあの小説の主人公もサー・トレランティアに傾倒して騎士の道を志したんだったな。お前と同じではないか」
 うっとアルフレッドは唇を噛んだ。あまり認めたくないが、自分でもそちらのほうが近い気がしていたのだ。可憐で豪胆なプリンセス・グローリアに振り回される、真面目だけが取り柄の新米騎士ユスティティア。
 パトリア騎士物語は「世界中探したってあなたみたいにぶっ飛んだ姫はいない!」「そんなに言うなら確かめにいこうじゃない!」と争う二人が諸国の主従を訪ねては事件に巻き込まれるという長い旅の物語だ。未熟なユスティティアも最後には真の騎士に成長するけれど、いかんせん頭を抱えたくなる迷場面は多い。
(この人には俺が主君を侮ったり、疑ったりする男に見えるのか?)
 いや待て、何もルディアはユスティティアの欠点がアルフレッドを思い出すとは言っていない。がっかりしなくても大丈夫だ。多分。おそらく。
(……駄目だな俺は。自分がどう評価されているか気になって仕方ないなんて)
 自嘲の笑みを噛み殺し、アルフレッドはかぶりを振った。こんな様では到底ブラッドリーにもサー・トレランティアにも届かない。
「しかしよく平民の身で騎士を目指そうなどと考えたものだ。無理があるとは思わなかったのか?」
 ルディアの関心はもう騎士物語から逸れていた。雑談の延長といった感じで何気なく問うてくる。それが心の底の泥を掻く言葉だとは思いもせずに。
「俺は……」
 途中まで口を開いたものの、なかなか二の句を告げられなかった。
 幼少期の思い出はあまり掘り起こしたくない。けれど何故この道を選んだのか問われれば振り返らざるを得なかった。
 嘲笑。同情。値踏みの視線。――どれももうたくさんだ。

「俺は、父親と同じに見られたくなかったから」

 声に滲んだ怒気に自分で驚いて、アルフレッドは息を飲んだ。狼狽を悟られはしなかったろうか。恐る恐るルディアと目を見合わせる。
「父親?」
 彼女はきょとんと尋ね返した。まずい話題だったかと珍しく気後れした表情で。その反応を見て逡巡する。このまま何も言わずにおくべきか否か。
「……いや、その……」
 上手くはぐらかすことはできそうになかった。ならば正直に打ち明けたほうがいいだろう。主君の問いに、騎士は答えるべき立場にあるのだから。
「知っているんじゃないのか? 有名人だからな」
 悪い意味でだが、と付け加える。言葉を濁して「まあな」と返すルディアに詳しい説明は必要なさそうだった。
 アルフレッドの父親は薬師で、名をウィルフレッドと言う。武人貴族として名高いウォード家に出入りしていたのは傷薬の納品担当だったからだ。
 美しき令嬢ローズにウィルフレッドはたちまち恋した。けれど「鋼鉄の薔薇」と称される彼女になびく様子はなかった。贈り物ごときには釣られず、書いた恋文も添削して返されるほどで。
 万策尽きたウィルフレッドは最後の手段に出た。高望みは百も承知、ならば運を女神に任せようと「海への求婚」に参加したのだ。そして父は苛烈な争奪戦の末、栄光のリングを手中にした。

 ――イーグレット陛下、どうかウォード家のローズ嬢を俺のものにしてください!

 民衆のどよめきが耳に聞こえてくるようだ。アクアレイア建国以来、そんな願いを口にした者は一人としていなかった。
 折しも国王は代替わりしたばかり。イーグレットはすぐに返答できなかったという。前例もなく、所望された娘の心境も知れないのだから当然だった。

 ――いいでしょう。神聖な儀式をやり直すわけにいきません。私はあなたの妻となり、その務めを果たしましょう。

 戸惑う王の言葉を待たず、母は父の前に歩み出た。
 国民広場はほんの一瞬沸き返った。
 本当にただの一瞬。強烈な平手打ちの音が響くまで。

 ――ただしお前はたった今、アクアレイアで最も劣しい男に成り下がったのです。

 そのとき母の告げた言葉は今も語り草になっている。お前が女を物のように扱ったこと、他人の心を蔑ろにしたこと、忘れる者はいないだろう。以後二度とこんな馬鹿げた望みを口に出す者もいまい。つまらぬ恋を成すためにお前は全てを失ったのだと。
 受けたショックが大きすぎたのか、それとも元々そういう人間だったのか、父はそれからお手本通りの下衆になった。アルフレッドが物心つく頃には昼間から酔っ払い、仕事も妻に放りっぱなしの駄目亭主であったと思う。
 いつ見ても父母のやり取りは義務的で、冷えきっていて、一触即発の雰囲気だった。それでも子供が三人いたのは「務めを果たす」という母の最初の約束が守られたからだろう。
 モモが五つになった年、手紙も残さず父は消えた。唯一己の下に置けるかもしれなかった娘が斧を担ぎ歩くようになり、希望が潰えたのかもしれない。
 正直に言えばホッとした。あの夫妻の息子ということでアルフレッドはしばしば好奇の目に晒されたし、「気をつけなきゃ父親と同じクズになるよ」などと脅してくる者も多かったから。
 父が蒸発してからだ。母がウォード家に連れて行ってくれるようになったのは。
 遠目にしか見たことのなかった伯父は近くで見ると倍の迫力があった。堂々とした佇まい、重みのある低い声、無意味に怒鳴ることをせず、アルフレッドを一人前の男として尊重してくれる。何もかも父とは違った。憧れは日に日に増した。母が「お前はお兄様似ね」と言ってくれたのが嬉しくて堪らなくて。だからこそ余計に。
「俺は死ぬまで騎士でありたい。いつかハートフィールドの名が嘲笑ではなく賞賛の対象になるように」
 平民か貴族かなんてどちらでも構わないのだ。恥じることなく生きられれば。
 意を決し、アルフレッドはドアに手をかけたままのルディアと向き合った。
 伝えるなら今しかない。個人的な我侭だと一度は胸に押し込めた言葉を。
「できれば俺を戦場から遠ざけないでくれないか? 俺一人だけ安全な場所に逃げ込んだと誤解されるのは耐えがたい」
「…………」
 ルディアはしばし黙り込んだ。
 言ってしまってから後悔する。彼女の状況判断はいつだってアクアレイアが最優先にされるのに、何を頼んでいるのかと。
「いや……やはり忘れてくれ。命令には絶対服従が鉄則だ。どうかしていた」
 アルフレッドはかぶりを振り、不用意だった己の発言を撤回した。
 大丈夫だ。案ぜずともいつかきっと、ルディアの直属部隊にいたという事実が至上の誉れとなるはずだ。
「……考慮には入れておいてやる」
 部屋を出ようと促したアルフレッドにひと言だけ残し、ルディアは先に廊下を引き返していった。気づいたときには後ろ姿で、どんな顔で答えてくれたかもわからない。
 だが嬉しかった。馬鹿を言うなと一蹴されず。
 嬉しかったから気がつかなかった。自ら彼女に不信の種を植えつけたことに。




 ******




 温まっていた心が瞬時に冷えてしまう。この感覚を初めて知ったのはいつの頃だっただろう。失望とは少し違う。何も期待してはいけないと、ただ自分に言い聞かせている。
 そう、多分、コナーがルディアの味方ではないと自覚したときと同じだった。いつも側にいてくれるとか、絶対に裏切らないとか、そんな思い込みを持ってはいけないと、それは危険な依存だと、何度も父に言い含められた。
 大きな秘密を共有したせいだろうか。防衛隊の面々には気持ちを寄せすぎていたようだ。アルフレッドの胸内を知るまで気づかなかったとは抜けている。
(父親と同じに見られたくない……か)
 どうということはない。彼が騎士であろうとするのは彼自身のためであって、決してルディアのためではないのだ。仕える相手など誰でも同じ。特別なこだわりなんてない。ルディアの正体が何者でも関係ないと断言した、彼の忠誠にそういう性質があることはわかっていたはずだったのに。
(関係なくて当然だ。私はあいつの根幹に関わる人間ではないのだから)
 別に淋しいわけではない。ただアルフレッドにはルディアとは別の道を選ぶ可能性もあるのだと認識し直しただけだった。彼が本当に仕えたいと願う、彼だけのプリンセスを見つけだしたそのときは。
(あの性格だ。簡単には離れんだろうが、ああいう奴ほど真逆に方向転換するからな)
 閉じた瞼に何故かユリシーズの顔が浮かぶ。かぶりを振ってルディアは幻影を追い払った。
 わかっている。誰の心にも譲れぬ何かがあるということ。そこが食い違ってしまったら、もはや一緒にはいられなくなるということ。ルディアにだって何を傷つけても守りたいものはあるのだから。
(他人を完全に掌握したいなんて傲慢な考えだ)
 未来はどうなるか知れずとも、今ここにいてくれる。それで十分ではないか。
 過剰な期待はかけるまい。見込み違いになったとて全て己の責任だ。

「…………」

 人気のない通路は暗く、ひとりぼっちに錯覚した。
 ジーアンへ来て今夜で六日。天帝の誕生日まであと四日。旅の山場は近づきつつある。
 瑣末な己の感傷を弄んでいる場合ではない。もっとしっかりしなくては。
(王者の孤独か……)
 己の中に、見えない、冷たい、壁を感じる。
 だがこの不愉快な温度を捨ててしまったら、きっと自分もアニークみたいになるのだろう。
(今更私に『ルディア』はやめられない)
 本物の王女は誰にも知られず、ひっそりと死んでしまった。ならばその身を借りて生きてきた自分が最後まで代役を務めなければ。
「ルディア」としてイーグレットに愛してもらった、それが返礼というものだ。
(……レイモンドと見た蛍は綺麗だったな……)
 蟲が虫を羨むなんておかしな話だ。
 乾いた笑みは闇に溶けた。









(20150521)