ノウァパトリアに商売目的の船を残し、身軽になった送迎船団は、九月初め、ついにジーアン帝国の首都バオゾへと入港した。
 ドナやヴラシィほどではないが、船着場は活気に欠ける。古い石で造られた港はがらんとしており、運航中なのは対岸へ向かう連絡船と慎ましやかな漁船だけだった。商いで稼ぐ気がないのか、商船はただの一隻も舫われていない。これにはルディアも驚いた。なんと贅沢な放置ぶりだろう。バオゾは「白い海」パトリア海と「黒い海」東パトリア海を繋ぐたった一つの海峡の片側を占めているのに。ルディアがこの街の支配者なら、即座に港を拡張して各地へ商船団を派遣するところだ。
(世界最大の商業区ノウァパトリアを眼前にしてこれだものな。ジーアンには本気で船の価値がわからないのか、それともわかろうとしていないのか、或いは――)
 ルディアの思考はそこで途切れた。遠くから蹄の音が近づいてきたからだ。
 にわかに旗艦に緊張が走る。これから敵地へ踏み入れるのだという緊張が。おそらく下船が許可されるのはハイランバオスの付き人アイリーン、それからルディアたち防衛隊、他はコナーくらいだろう。何が起こるかわからない天帝の膝元に、たった八人。心して臨まねばなるまい。

「おーい、ハイちゃーん!」

 出迎えの騎馬兵たちを率いて登場したのはラオタオだった。ヴラシィのときと同じく、狐顔の若き将軍はガレー船上の聖預言者にぶんぶん手を振ってくる。ルディアは露骨に嫌そうにするモモの肩に手を置いた。言外に「腹が立っても相手にするなよ」と伝える。
「わざわざありがとうございます、ラオタオ。今そちらに参りますね」
 将に応じるアンバーはいつも通り平静だった。大舞台ほど燃えるタイプなのかもしれない。いつ正体がばれるかと挙動不審なアイリーンと違い、実に堂々としている。
「では行きましょうか、皆さん」
「あれっ? ハイちゃんまたそいつらも連れてくの? 護衛ならもう要らなくない?」
「防衛隊の皆さんは友人として我が君のもとへ招きたいのです。それに同国人がアイリーン一人ではコナーも気が引けるでしょう」
 アンバーはそう言って画伯に道を譲った。世紀の天才はにこやかに微笑み、軽い足取りで橋板を下りていく。
「……へえ、ハイちゃんより先にジーアンの地を踏むとはいい度胸してるね」
 静かに手綱を引きながらラオタオは短剣の切っ先に似た目を細めた。狩人の眼光がコナーを捉える。一気に下がった体感温度に勢い海軍の数名が剣の柄を握った。
「おや、いけませんでしたか。促されたのを遠慮するほうが礼に欠くと思ったのですが」
 返答にラオタオが瞬きする。ルディアたちも一緒になって面食らった。師の狂いなきジーアン語に。
「あれ? あんた喋れるんだ? もしかしてハイちゃんに教わった?」
「いいえ、これは私の独学ですよ。訪問する国の言葉くらい勉強しておくべきでしょう?」
「帝国内でも通訳がてんやわんやしてるってのに! さては相当な学があるな!? へえー、ふーん、俺、賢いヤツは嫌いじゃないよ。奴隷だろうと馬の乗り方も知らなかろうと」
「ふふふ、名前の通り『お喋り』な方だ。天帝陛下はあなたにぴったりの名をお与えになったようですね」
「!」
 画家の台詞にどんな記憶を呼び起こされたかラオタオはにんまり頬を緩めた。一触即発に見えた空気はどこへやら、将はご機嫌で愛馬を降り、コナーと腕を絡ませる。
「そう、俺は『お喋り』なんだ! あんたには俺が馬乳酒を振る舞うと決めたぞ! 名前は? 年は? どこかの有名人なのか? 親族に美女はいるか?」
 ラオタオはコナーを質問攻めにした。それどころか己の客だと言わんばかりに鞍へ上げ、二人乗りで宮殿に向かおうとする。
「ほら、ハイちゃんも早く早く! 天帝陛下がお待ちかねだぜ!」
 急かされたアンバーは、しかし非常にゆったりとした仕草で船を後にした。足を悪くしているという設定が彼女の頭から抜け落ちることはなさそうだ。
「それではブラッドリー殿、あなた方にはしばらく退屈させますが、まずは我々だけで我が君にご挨拶をと思います。表敬訪問の許しが出次第お知らせしますので」
 偽預言者の手招きにルディアたちは頷き合った。アルフレッドを先頭に順に桟橋へ下りていく。海軍とマルゴー兵はこのまま船上待機である。
 ハイランバオスに用意された馬車に一同が乗り込むと、ラオタオは天帝宮に向けて隊列を出発させた。




 ******




 カラカラと車輪が回る。轍を残し、馬車は蛇行する長く細い坂道をゆったりと上っていく。
 小窓から覗くバオゾの街並みは意外なほど親しみの持てるものだった。入り組んだ街路、隙間なく立ち並ぶ高層集合住宅、曲がり角を曲がれば突如小広場が現れ、先の見えないトンネルや装飾過多な屋敷の横を通り過ぎる。
 既視感を覚えて当然だった。道路が水路でさえあれば、これほど故郷によく似た街はない。否、バオゾがアクアレイアに似ていると言っては語弊があった。正確にはアクアレイアがバオゾのような東パトリア様式を模してきたのだ。
 特殊な形でジーアン帝国に譲渡される以前、この街も東パトリア帝国の一部だった。ヘウンバオスは首都をジーアン風に上書きはしなかったようである。草原育ちの馬の足を労わって石の舗装が剥がされているのみだ。街を闊歩する騎馬兵もバオゾの人間を虐げている様子はない。井戸端でお喋りしたり、魚と野菜を交換したり、住民はごくごく平和そうに日々を営んでいる。
 ドナでもヴラシィでも「男たちはバオゾに連れて行かれた」と聞いたけれど、彼らはどこにいるのだろう。表通りを見る限り、都市労働の奴隷に使役されているのではなさそうだが。
「わー! やっぱ知らねー街はテンション上がるな! なあなあ、後で探検に行かねーか!?」
 レイモンドの発言にルディアはずるりと頬杖を滑らせた。「お前なあ」と苦言を呈そうとしたところに震え声のアイリーンが割り込む。
「もっ、もうじき宮殿よ。みみ、皆、ヘウンバオス様は気さくなお方だけど、粗相のないように気をつけましょうねっ?」
 ルディアはハハ、と乾いた笑みを返した。そんなどもり調子で気さくだとか言われてもまったく安心材料にならない。何しろ相手は数えきれないほどの街を蹂躙してきた男である。残虐行為の数々はアクアレイアにも知れ渡っていた。よしんばそれらが誇張されたものだとしても、ヴラシィの元老院議員が白骨化するまで晒されていた光景は忘れがたい。
「異国の宮殿かー! なんかワクワクしてくるなー!」
「美味しいご飯食べられるかな? 甘いものがあると嬉しいなー」
 危機感の薄いレイモンドと鉄の心臓を持つモモはここにきてなお平然としている。二人とは対照的に、アルフレッドとバジルは無言のまま時折腹を擦っていた。構えなさすぎも危険だが構えすぎも等しく危険だ。こういうときはアレだなとルディアはアンバーに問いかけた。
「ハイランバオス殿、今日の我々の運勢はどうですか?」
 彼女はいつもの比類なき演技で応じてくれる。人々の心から闇を祓う、あの不可思議な聖預言者の微笑みで。
「それは勿論、最高の一日が約束されていますとも! 何しろ我が君に相見え、我が君のお声をじかに拝聴するのですよ? おお! 鳥は歓喜の歌を口ずさみ、枯れた花は色を取り戻し、泉は清らかな水に溢れ、地上には愛の歓喜が満ちる! 我が君と私を信じるあなた方が、どうしてその加護からあぶれる理由があるのです!?」
 熱弁に一同の拍手が起こる。アンバーと一緒なら大丈夫だと思えてくるからやはりすごい。
 間もなく馬車は停止した。目的地に着いたらしく、御者が恭しく扉を開く。地上に降りると正面には三つの大ドームを有した煌びやかな天帝宮がその威容を示していた。壁の白い大理石と黄金色の屋根の対比が見事である。大きさも、アクアレイアのレーギア宮とは比較にならない。
「こっちだよー、ハイちゃん!」
 門を開かせたラオタオが聖預言者にウィンクした。門前には既に多数の兵が整列している。ジーアンの荒武者たちに見送られながらルディアたちも正門をくぐり、緑濃い庭を歩き出した。
(しかし美しい宮殿だな。東パトリア、いや西パトリアを含めても五指に入る佇まいなのではないか?)
 巨大かつ繊細な建造物を見上げてルディアは感嘆の息をつく。近づくほどにシンメトリーの完全さが際立ち、どこを取っても絵になる稀な美観に酔った。とりわけ圧巻だったのは大噴水の神像群を前に眺める天帝宮だ。水盤が屋根の金色を反射して、輝きに満ちた空間に神聖な存在が舞い降りたかのごとく錯覚させられるのである。
(本当にすごい。これほどの城を建てるには一体どれだけ金貨を積めばいいのやら……)
 芸術を味わうのもそこそこに金勘定を始めるのはアクアレイア人の性分らしい。ルディアの後ろでバジルやレイモンドも「石像だけでひと財産築けますね」「ここの土工、いくらで雇われてたんだろ」とヒソヒソしている。
 似ていると感じたのは街の構造だけだったようだ。思うがまま美を追求した宮殿は、いくら経済と技術を発展させようとアクアレイアには到底得られない代物だった。これほどに広大な土地も、ふんだんに植えられた木々や芝生も、潟湖では夢のまた夢だ。
(というかこの庭、ちょっと広すぎやしないか?)
 既に三十分は歩いているのにまだ建物まで辿り着かない。脅威の敷地面積である。交差する二重アーチの内門を越えたのは更に十五分後のことだった。
(やれやれ、やっと屋内に入れそうだ)
 ルディアがそう息をついたときである。ラオタオの進行方向が急に宮殿から斜めへ逸れたのは。
「えっ?」
 通された奥庭にルディアは素っ頓狂な声を上げてしまう。いや、これを見てまさかと思わぬ者はいないだろう。絢爛豪華な宮殿がすぐ横に建っているのに、なんだってこんな庭の片隅に――。
「おーい、ハイちゃん連れてきたよー」
 そう言ってラオタオが捲り上げたのは、遊牧民族が住処とする幕屋の玄関布だった。




 ******




「なんだ、ようやく帰ったか。まったく、こんなに気ままに遊び惚けているのはお前だけだぞ? ハイランバオス」
「これはこれは、申し訳ございません。ですが私もただ物見遊山に興じていたわけではありませんよ。未だあなたという偉大な存在を知らずにいる哀れな民に、その素晴らしさを説いて回っていたのですから」
 親しげな文句に教祖らしい返答をしてアンバーは頭を垂れた。
 意外に広い天幕内にはヘウンバオスと数人の小姓。皆ジーアン織の鮮やかな衣装に身を包んでいる。彼らの文化に冠がないのは知っていたが、玉座もないとは知らなかった。天帝は宝飾の散りばめられた高帽子を被り、長椅子に足を伸ばしていた。
「相変わらずよく回る口だな」
 機嫌が良いのか悪いのか読み取りにくい低い声。絹糸のごとき金髪が肩から胸にするりと落ちる。切れ長の双眸は鮮血と見紛うほどの紅色。烈しい気性の持ち主なのはすぐ知れた。面立ちはハイランバオスと大差ないのに受ける印象が正反対だ。温厚や従順などという種類の徳は露ほども感じられない。
「そういう天帝陛下だってハイちゃんを責められたもんじゃないだろ? ハイちゃん聞いてよ、この悪い男は三年がかりで完成した宮殿に住みたくないって言うんだぜ!」
「どうも石の城は私の肌に合わなくてな。ゲル生活が長いから、こちらにいるほうが落ち着くのだ」
「なんと、それはまた壮大な無駄遣いを……! やはり我が君は空費にしてもスケールが違います! 凡人にはこんな散財できやしないでしょう……!」
 アンバーは手放しで絶賛した。大袈裟に感激する弟に疑念を抱いた風もなく、ヘウンバオスはくくっと吹き出す。
「本当に変わらないな、お前は。で、アレイア海で何か収穫はあったのか?」
 アンバーは「ええ!」と力強く頷いた。彼女はルディアたちを振り返ると、早速天帝に紹介を始める。
「こちらが私の友人である王都防衛隊の皆さん、こちらのコナー・ファーマー氏がアクアレイアの誇る頭脳です。是非我が君にも彼らをお知りいただきたく」
「ほう、これはまたお気に入りを増やしたな」
「天帝陛下! この先生は特にヤバいぜ! 独学だけでジーアン語が自由自在なんだ!」
「なるほど、西方の英知がお目見えというわけか。アイリーン、お前の学者としての存在価値が脅かされそうだぞ。ハイランバオスに見捨てられないようにそろそろ色仕掛けの一つでも学んでおいたほうがいいのではないか?」
「ヒッ! ひええ、わわ、私は一介の信者の身ですからあああ!」
 顔から火を噴いて仰け反る彼女の反応は、カロとの関係をからかわれたときよりも一段と激しかった。恐縮するアイリーンにヘウンバオスは楽しげな笑い声を立てる。ラオタオといい、天帝といい、外国人の彼女に対して随分と好意的だ。二人とも救貧院にはしばしば出入りしていたそうだから、顔を合わせた回数は多いのだろうが。
「さて、長旅の疲れが溜まっていることだろう。宴まで十日もあるし、今日は下がってもう休め。客人には宮殿のほうが快適かな? 部屋は有り余っているから好きに使って構わない。足りないものがあればすぐに用意させよう」
「お心遣いありがとうございます、我が君よ。そうそう、ここまで私を送ってくれたアクアレイア兵とマルゴー兵が君主からあなたへの手紙を預かっているそうなのですが、いかがしましょう?」
「ふん。どうせ誕生日祝いにかこつけた休戦協定の延長願いに決まっている。兵士どもには当日席を用意してやるからそれまで船で静かにしていろと言っておけ」
「はい、それでは仰せのままに」
 丁重にお辞儀をし、アンバーはルディアたちに幕屋を出るよう促した。通商安全保障条約についてどう考えているのか探りたかったが仕方ない。下がれと命じられたからには下がらねばなるまい。今日のところは面識ができただけで御の字か。
「ハイランバオス、ここは私の都だが、同時にお前の家でもある。布教熱心なのもいいが、たまにはゆっくり羽を伸ばすのだぞ」
「おお、なんとお優しいお言葉……! ありがとうございます。存分に楽しく過ごさせていただきたいと思います」
 退出しようとした聖預言者への労いを耳にしてルディアは当惑した。これが残虐非道、邪智暴虐と恐れられる天帝ヘウンバオスとは信じがたい。身内相手の台詞なのは百も承知だが、思い描いていたイメージとはかけ離れていた。
(兄弟仲は至って良好、か)
 この親密さは利用できるかもしれない。
 顔には出さずほくそ笑み、ルディアは奥庭を後にした。




 ******




 遊牧民でないアルフレッドに「布の城」の良さはわからない。けれど天帝に「石の城」と呼ばれた宮殿が、オールドリッチ伯爵夫人の別荘などとは桁違いなのはすぐにわかった。
 入口の間の壁面には輝石で描かれた見事なモザイク画。細かな蔓草の浮彫が施された扉を開けば高すぎる丸天井が見下ろしてくる。大理石の円柱には一本残らず優美な透かし彫りがされており、本気で鑑賞を始めたら階段広間だけで半日はかかりそうだった。
 エレガントな空間に圧倒されつつアルフレッドは歩を進める。踏みしめるのは精巧に織られた幾何学模様の大きな絨毯。その布が尽きたところで一度足を止める。
 中央階段の手前では美しき乙女の像が沈黙していた。彼女も天帝に「やはり必要なかった」と捨てられてしまったのだろうか。折角傷のないパトリア石が瞳に嵌め込まれているのに勿体ない。
「変なのー、誰もいないみたい」
「不用心ですねえ」
 年少組の呟きにアルフレッドは「ああ」と頷いた。門や庭には衛兵が立っていたけれど、この御殿に警備兵の類はいないようだ。守るべきはヘウンバオスだけということなのだろう。
「そんじゃこのすっげーお城、ひょっとして俺たちの貸切りか!? うおお! 街より先にこっち探索すべきだな!?」
「お前はそれしか頭にないのか! 行楽気分もほどほどにしろ!」
 天井が高いおかげでルディアの怒鳴り声が普段より大きくこだまする。と、アルフレッドのすぐ横でくすくすと忍び笑いが漏れた。どうやら王女と槍兵のやりとりにコナーが腹筋をくすぐられたらしい。
「ふふ、彼らはいつもあんな調子かね? 仲睦まじいのは微笑ましいが、私はなるべく静かな部屋で過ごしたいのだよ。天帝宮は三階まであるようだから、君たちとは別のフロアに陣取っても構わないかね。どうだろう、隊長殿」
「あ、ええ。それはもちろん……」
 答えかけてからしまったとアルフレッドは口を噤んだ。ちらりとルディアを盗み見る。ここは敵陣、彼女の意向を無視してはどんな返事もできはしない。
「…………」
 向けられた表情から察するに「そのままお前が応対しろ」ということでいいのだろうか。ホッとコナーに視線を戻し、アルフレッドは改めて画家の要望に是を告げた。
「もちろんです。ちなみに先生は何階が?」
「私はどこでも。しかしまあどうせなら三階にしておこうかな、高いところは気持ちがいいし。預言者殿もよろしいですか?」
「ええ。私は防衛隊の皆さんと一階か二階を使わせてもらいます」
「うん、決まりだね。それでは私はお先に失礼するよ」
 コナーはひらひらと手を振って美しいカーブを描く交差階段を上っていった。両腕いっぱいに絵描き道具を抱え込んで、他国の宮殿に間借りするというのに微塵の気兼ねもなさそうに。接待慣れしている天才はやはり違う。
「我々もさっさと部屋を決めて作戦会議を行おう」
 部外者が消えた途端ルディアがそう口を開く。モモやバジルはなんの疑問もなく「はーい」と返事した。レイモンドに至ってはいつ頃探検に赴くか尋ねている始末だ。そんな彼らを横目に見ながらアルフレッドは嘆息を押し殺した。
 ――もやもやする。胸の辺りが気持ち悪い。何故だろう。このところずっとこうだ。ルディアが何か指示するたびに妙な焦りに襲われる。「これでいいのか?」と問いかける声がする。
(本来は隊長である俺が中心に立つべきなのに……)
 いや、ルディアが従えと言うならそれは一向に構わないのだ。だがしかし。だがしかし、だ。
(ならどうして『私をブルーノ・ブルータスとして扱え』なんて言う……?)
 アンバーはいい。ハイランバオスになりきっているから、こちらも取るべき態度をはっきり決められる。しかしルディアはどっちつかずだ。アルフレッドはしばしば彼女が部下なのか上司なのかわからなくなって弱ってしまう。
(俺以外は全員『ブルーノという名のルディア姫』と捉えているよな……?)
 レイモンドたちが判断を仰ぐのはいつもルディアだ。アルフレッドとて彼女を軽んじることはない。だがそれは、あくまで彼女の正体を知る仲間内での話だったはずだ。
(このまま俺は名ばかりの隊長になってしまうんだろうか?)
 尾を引いているのは海賊に遭遇した日のことだった。あの日彼女の命令で、己だけが戦場から外された。
 指揮権云々より問題はそこである。またあんな展開になることを恐れている。
(伯父さんたちに臆病者と思われたかもしれない)
「…………」
 個人的な感情を口に出すのは憚られた。そして一人で悶々と思い悩んでいる。天帝宮に着いてまで考えることでないのは明白なのに。
(……やめよう。とにかく一旦忘れよう。こんな精神状態では果たすべき使命も果たせないぞ)
 心の暗幕をばさりと下ろし、アルフレッドは前方の仲間を見やった。妹たちは回廊の奥に緑溢れる中庭を見つけたらしく、何やらわあわあ騒いでいる。
「うわあ! 果物がいっぱい!」
「ここだけ屋根がないんですねえ! ちょっとした果樹園ですよ!」
「なあなあ、あのオレンジもいでもいいかな!?」
「ええ、きっと我が君もお許しになるでしょう」
 大はしゃぎでレイモンドが走り出す。出遅れてなるかとモモとバジルがそれに続き、アイリーンも三人を追いかけた。皆の勢いに取り残されたルディアが呆れた様子で嘆息する。
「どうやら大人はお前だけだな」
 苦笑まじりに肩をすくめられ、アルフレッドの心臓が跳ねた。
 今のはきっと、お誉めに預かったのだろう。些細なことでも評価されるのは嬉しい。
「止めてきたほうがいいか?」
 きりっと頬を引き締めつつ問う。ルディアは「頼んだ」と頷いた。
「おい、お前たち! オレンジの試食なんてしている場合か! 遊ぶのは後だ、後!」
 大声で叱り飛ばすと「あーん、今剥き始めたばっかりなのに」とモモが不満そうにする。アルフレッドは果実を離さない妹の首根っこを掴みに走った。
(命令されて動くのが嫌なわけじゃない。あの人の上に立ちたいわけでも)
 改めてそう実感する。やはりあのとき憤りを感じたのは、自分だけ剣を取れなかったからなのだ。
「しょうがないですね、やることが終わったらまた来ましょう」
「そうだな! 探検とかな!」
「レイモンド君、それは多分違うと思うわ……」
「いいから行くぞ!」
 四人の背中をぐいと押し出す。
 そのときだった。か細い声がアルフレッドを引き留めたのは。

「あ、あのう……、どちらの国の騎士様でしょう……?」

 ふと気づけばアルフレッドは褐色肌の若い女性にマントの端を引っ張られていた。
 豊かな黒髪、同じ色の深い瞳。どちらも東パトリア帝国南部出身者の特徴である。
 最初アルフレッドは彼女を宮殿の侍女だと思い込んだ。化粧はまったくしていなかったし、暗い緑のワンピースも膝が隠れる程度の丈で、身分ある淑女の装いとは言いがたかったからだ。
 だが実際は逆だった。彼女は多くの召使いにかしずかれる立場の、ある高貴な血筋の女性だったのだ。
「アクアレイア王国王都防衛隊の隊長、アルフレッド・ハートフィールドです。……あの、失礼ですがあなたは?」
 優しく尋ねたアルフレッドに彼女はうるうると双眸を潤ませた。華奢な腕に縋られて、危うく後ろに転びかける。
「私、私……っ、東パトリア帝国第一皇女、アニーク・ドムス・インペリウム・ノウァパトリアですうう!」
 大粒の涙を散らしつつアニークはこちらの胸に飛び込んできた。
 ――これが彼女とアルフレッドの、後々まで続く奇妙な縁の始まりであった。









(20150517)