峠を越えると風景が一新されるのと同じに、海の色も海峡を越えると変わるらしい。コリフォ島を発ってますます青みを深めてゆく広い海を眺めながら、グレッグはぼんやりと故郷の山並みを思い出していた。
 随分遠くへ来たものだ。これでまだ目的地まで半分の距離というのだから、ジーアン帝国の領土拡張欲や恐るべしである。
 危険なのはジーアン帝国だけではない。聞きかじった話ではアクアレイアがパトロール船を出す余裕のないのをいいことに、パトリア海で海賊の出没頻度が高まっているそうだ。船の上での戦闘などグレッグにも経験がないけれど、心づもりはしておくべきだろう。
 別にこの船を守ってやろうなんて思ってはいない。共倒れは勘弁というだけの話だ。グレッグにはグレッグの帰りを待っている者がいる。海の藻屑になるわけにいかなかった。
(あいつら元気でやってっかなあ)
 グレッグは王都に残してきた副団長や部下たちの顔を思い浮かべた。千人のうちガレー船に乗せてやれたのはたった二百人だ。ハイランバオス護送のために王都の守りが薄くなるぶんをマルゴー兵には穴埋めしてもらうとかなんとかイーグレットは言っていたが、相応のもてなしを受けられているのだろうか。陸上防備の任ならば海上遠征組と違ってまだ歓迎されているはずだが、なにせアクアレイアの自国民優遇政策は度が過ぎるほどだから――。

「ねえ団長、レイモンドって本当にアクアレイア人なんですかねえ?」

 不意に耳元で尋ねられ、グレッグは「あ?」と問い返した。
 何を言っているのだ、この馬鹿は。アクアレイア海軍の船に乗っているのがアクアレイア人でなければ一体なんだと言うつもりだ。
「あいつ王都防衛隊とかいうのなんだろ。外国人の就ける職じゃねえよ」
 船縁に背を預け、嘆息つきでそう返す。だが脳味噌不足の歩兵はグレッグの返答に満足しなかったようだった。
「えーっ! けど連中とは体格が全然違うじゃないっすか。猫背で目立たねーですけど手足長いし、それに目が」
「目? ああ、目玉の色は確かに薄いな。黒目がちなパトリア人とはちょいと違うか」
 元が出自不祥な海賊たちの国だからか、アクアレイア人の身体的特徴はバラバラだ。特に多種多様な髪色はカワセミの羽のごとしである。
 しかし黒目の割合は計ったように一定だった。それはアクアレイア人の特徴と言うよりは西パトリアに住まう人間全般の特徴だけれども。
「っつーことは混血か」
 周囲を見回しながらグレッグは呟く。いつも昼頃ぶらぶらと物売りついでに遊んでいく青年の姿は甲板のどこにも見当たらなかった。
 明るい金の目。西か東か、いずれにせよアルタルーペの山々より遥か北方の人間の持つ目だ。傭兵団にも似た双眸の男がいる。
「母親に似てあの外見ならともかく、父親が外国人なら苦労したろうな」
「えっ? なんでです?」
「だってアクアレイアじゃ父親の血筋に重きを置くだろう。母親が自国民でも父親がそうでなきゃ子供は外国人って扱いだぜ。あそこの国籍を欲しがる商人は後を絶たねえらしいけど、いくら金積まれても十年以上だか十五年以上だか王都に住んでる奴にしか許可しねえって話だし」
「へえ、団長物知りですねえ」
「ま、王女直属部隊に入れるくらいだからアクアレイア人で間違いねえだろ」
 グレッグは革袋を開け、塩漬けオリーブの実を一つ口に放り込んだ。渋味も酸味もなくて美味い。先日誕生日だったレイモンドに一杯奢ってやったところ、返礼によこしてきたものだ。
 アクアレイア人は好きじゃないが、あの若者だけは別だった。ほんの数日ですっかり皆の遊び仲間になってしまったし、グレッグも海でのルールを色々と教えてもらっている。快適な船上生活を送るコツだとか、帆の上げ下ろし中はどこにいれば安全かとか、偉ぶった海兵は教えてくれないことばかりだ。王国人以外の血が流れているなら彼の親切さも納得だった。
 次なる寄港地イオナーヴァ島はパトリア海の中央に位置し、アクアレイアの商船だけでなく西パトリアからも東パトリアからも人が集まってくるという。隣国の儲け主義とは一線を画す、志の立派な商人が素晴らしい品々を提供しているに違いない。どんな酒や特産品があるか楽しみだ。

「あ、団長! あれがイオナーヴァ島じゃないっすか!?」

 話し込んでいる間に停泊地は目と鼻の先まで近づいていた。
 どこまでも青く透き通った、世界中の光を閉じ込めて波で蓋をしたような、美しい浜辺にグレッグは目を奪われる。藻の臭うアクアレイアの潟とは違う、正真正銘の楽園だ。
「おお、綺麗なところだな! こりゃいいや。王都で留守番してる奴らに何かいい土産探してやろうぜ!」
 船旅も半月を過ぎ、グレッグの気は緩んでいた。同じ頃、アクアレイアでは傭兵団の古参兵らが「うちの団長お人好しだから、身ぐるみ剥がされてないか心配だ……」と気がかりにしていたことも知らず。




 ******




「お、おおー!」
「こりゃすげえ! どこもかしこも店だらけだ!」
「団長、どこから回ります!?」
 ガレー船を降りたグレッグたちマルゴー兵は通りの賑わいに歓声を上げた。陰険な海軍兵士に「積み込み作業の邪魔だ!」と追い立てられたことも忘れ、お祭り騒ぎの市に胸を躍らせる。
 コリフォ島でも商店は覗き歩いたが、あそこは人口が少ないため地元向けの小店舗中心だった。売り物もいかにも「家で作った分の余りです」といった風で、土産にするには少々不向きだったのだ。
「団長、ちょいと広すぎますぜ。ここはレイモンドに案内してもらったほうがいいんじゃないですか?」
 軟弱な歩兵が慎重策を取ろうとするのをグレッグは鼻で笑う。我々の本業は傭兵だ。金銭報酬と引き替えに戦うプロフェッショナルなのだ。世間知らずのお坊ちゃまでもあるまいし、アクアレイア領外の島でまで先導してもらう必要はない。
「てめぇ腰抜けか? あん? それでもグレッグ傭兵団の一員かよ? 美味いメシが食えて、いい酒が飲めて、ついでに陽気なお姉ちゃんとお喋りできる店くらい他人に頼らず見つけてこいってんだ!」
「え、ええーっ! わ、わかりましたよぉ」
 駆け出した歩兵の背中が雑踏に紛れて消える。石畳の大通りには談笑の声が響き、歓声を上げて子供たちが跳ね回った。空は明るく澄み渡り、危険の予兆など何ひとつない。
 イオナーヴァ島は東パトリア帝国領だが皇帝の支配は強く及んでいないように見えた。人々は西パトリアの公用語であるパトリア語を話していて、訛りもさほどきつくない。時折皮膚の浅黒い東パトリア商人とすれ違ってハッとするくらいで、パトリア古王国の島にバカンスにやって来た気分だった。
(いいなあ、ここ)
 船から一望したときも思ったが、イオナーヴァ島は緑が濃い。街の向こうに聳える山も起伏に富み、どこか懐かしさを覚えた。遠慮ない日光だけは故郷と似ても似つかないが。

「グレッグ団長ー! 大変です! ご、極上の葡萄酒があー!」

 数軒先から己を呼ぶ声にグレッグは顔を上げた。ワインと聞いて仲間の数人が目の色を変える。そんな彼らを引き連れてグレッグは斥候の元に向かった。
 東パトリアは古くから美酒の産地として知られている。神々でさえ奪い合い、刃傷沙汰になった代物だ。極上の味わいなどと言われたら否応なしに胸が逸る。

「おや? これは珍しいお客さんだな。商人ではなく用心棒がいらっしゃるとは」

 格の違いがひと目でわかる五階建て豪勢な商館に辿り着くと、軒先には葡萄酒の売り主と思しき中年男が息子を連れて立っていた。
 二人ともやけに肩と胸の膨れた上着を羽織っている。仕込んだ綿の量で富を顕示する服装はパトリア古王国の富裕層で流行のスタイルだ。この暑いのに、親子は間抜けなお洒落のために耐え忍んでいるらしい。
「兵隊さんたち、ひょっとしてさっき入港したアクアレイアの船の人です?」
 まだ髭も生えていない少年が三白眼を瞬かせて問う。王国の軍人だと思われたくなかったので、グレッグは頷きながら付け加えた。
「そうだ。けどな、俺たちゃマルゴー正規兵だ。あんな連中と一緒にしてもらっちゃ困る」
「ほう、あの勇猛果敢で有名な!」
 グレッグの返答に歓声を上げたのは父親のほうだった。商人は興味ありげにこちらへ一歩踏み込んでくる。
「私はカーリス共和都市のローガン・ショックリーと申します。これは息子のジュリアンで、今年十二歳になります。いや、まだまだ子供なのですが、早いうちに海に慣れさせようと思いましてね」
「へえ、そりゃいいじゃないっすか。俺もその年には戦場へ出てましたよ」
「ほほう! やはりマルゴー正規兵に数えられるようなお方は剣を振るうのも早かったわけですな!」
 いちいち説明しなくとも、このカーリス人は傭兵と正規兵の違いをわかっているようだ。感心されて悪い気はせず、グレッグは自然と愛想良くなった。
「この神殿みたいに立派な商館は旦那がお建てになったんで?」
「いやいや! こちらの主人はこの一帯の総元締めです。私は時々こうやって商品の売買に間借りさせてもらうだけで」
「おや、外しちまいましたか。そこらの商人とは風格が違うんで、お偉い方に違いねえと睨んだんですがねえ」
「はっはっは、私などはまだまだ」
「けど相当な葡萄酒を扱ってるみたいじゃないっすか? 五年後、十年後にはこんな商館を四つも五つも持つ大商人になってらっしゃるんじゃないですか?」
 グレッグの褒め殺しにローガンは「参りましたなあ」と緩んだ頬を掻く。父を絶賛された息子もニコニコと嬉しそうだ。
「兵士殿、良ければショックリー商会の葡萄酒をお飲みになって行かれませんか? ささ、ご遠慮なさらず、どうぞどうぞ」
 ローガンはジュリアン少年に酒を注がせてグレッグの元へ運ばせた。見習いらしく従順に、かついじらしいほど懸命に、少年は他のマルゴー兵にもワインを振る舞って回る。
「よく親の手伝いをするいい子ですねえ!」
 上機嫌でグレッグは酒杯を傾けた。質の良い葡萄酒と、忙しない商館の風景に酔い痴れながら。




 ******




 さすがにアクアレイア領を出てまで牢に閉じ込められるといったことはなく、レドリーはディランと二人、暮れかけた浜通りの市を練り歩いていた。しかし自由に動けるのはいいのだが、どこへ行ってもカーリス商人が大きな顔をしているのが面白くない。コリフォ島基地の同期が「アクアレイア人の抜けた穴に、あいつらまんまと取りつきやがった」と嘆いていた通りだった。
 アレイア海東岸をジーアン帝国に奪われて一年半、王国は大船団を組んでの航行を一度も実施できなかった。その隙にライバル海運都市カーリスの進出を許してしまったのである。
 定期商船団を派遣できなかった理由は様々だが、いつもはアレイア海東岸で募っていた船乗りを国内だけで賄わねばならなくなったのもその一つだ。ただ船を出すだけなら何隻だって出航できる。だが送り出した船団の数だけ王都の男手は――もっと言えば戦士盛りの若者は数が減ってしまうのだ。
 ジーアン帝国の出方が読めない以上、王国の防備は万全にしておかなければならなかった。休戦協定を結んだ以後も天帝は執拗に通商安全保障条約を認めようとしなかったのだから。
 今回は正直、マルゴーの正規兵が来てくれたおかげで十五隻ものガレー船を発たせることができたのだ。当初の予定ではこのガレー船団ももう五隻少ないはずだった。
 調子に乗ったカーリス人たちはイオナーヴァ島やミノア島近海で海賊行為に精を出しているとも聞く。しかもそのターゲットは、定期商船団に頼らず独力で海へ出たアクアレイア帆船だというから許しがたい。
 帆船は風力を借りて進むため、乗組員が非常に少ない。これは非常時の戦闘員が少ないという意味でもある。また大量の荷を積み込んでいるために、無法者には恰好の標的だった。
 基本的に海賊は現行犯でしか捕らえられない。今この周囲にもアクアレイア商船を襲ったならず者がいるに違いないのに、レドリーは何もできない自分が歯痒くてならなかった。

「ふざけんじゃねえ! こんなの詐欺じゃねーか!」
「はあー? 飲んだら飲んだだけきちんと支払いをするのが筋だろう。そんなことも知らずに酔いどれていたのかね?」
「金取るなんて一度も言ってなかっただろうが!」
「とんでもない言いがかりだな。商品は全て貨幣と交換するものだ。わざわざ言って聞かせねばわからん阿呆だったとは……」

 突然耳に飛び込んできた騒ぎにレドリーはディランと顔を見合わせた。
 耳の穴をほじりつつ代金を請求するのはカーリス共和都市の豪商ローガン・ショックリー、対する踏み倒しの容疑者はマルゴー公国の傭兵団長グレッグ・コールだった。
(なんだ? 何かあったのか?)
 関わり合いになるのを避けるべきか思案する間にディランが「おや? どうかしたんですか?」とグレッグに駆け寄っていく。味方が来てくれて助かったというよりは見つかりたくない相手に見つかったという顔でグレッグは「どうもこうもねえよ!」と鼻息を荒くした。
「おやおや、アクアレイア海軍さんではございませんか。この辺りの海からは完全にいなくなってくれたと思っていたのに、定期商船団を復活させる見通しが立ったのですか? 折角カーリスの時代を満喫していたところなのに、残念ですなあ」
 ローガンの厭味にレドリーは眉をしかめる。この男の情報網なら今回の船団がハイランバオスの送迎を目的としていることくらい突き止めているだろう。わかっていて残念などとよく言えたものだ。
「で、このマルゴー兵たちが何をしたんだ?」
 ローガンを鋭く睨みつけてレドリーも問う。もう大人しくしているわけにはいかなかった。
「おお、そうでした。私は今、ただ飲みできる葡萄酒かそうでない葡萄酒かの判断もできない山猿にきちんと料金を払えと諭しているのですよ」
「誰が山猿だ! このコットンデブ!」
「……お前ら無銭飲食しようとしたのか?」
「馬鹿! 違ぇよ! そいつが俺らにまあ飲んでいけって杯を差し出してきたんだ! なのに後になってあれは商品だったとか言い出しやがって……!」
 なるほど、状況は把握できた。アクアレイア人なら誰も引っ掛からない初歩の悪徳商法だ。
「最初に値段を確認しなかったお前らが抜けてるんだよ。そんなんでよく傭兵団長が務まるな」
「んだとコラァ!?」
「レドリーさん、責めては可哀想ですよ。あなただって何年か前に偽の彫像を掴まされて十万ウェルス溝に捨てたじゃないですか」
「おい、やめろディラン。俺の古傷には触れなくていい」
「とにかく払うものは払わないと、このままでは団長さんが訴えられてしまいますよ。足りない分は私が貸しますから、支払いの額を教えてくださいますか?」
 お節介にもディランは財布を取り出した。ユリシーズの件でグレッグたちの看病を拒んだのを悪く思っているのかもしれない。
 仕方がない。友人が出すと言っているのに自分が出さないわけにいかない。レドリーも金をしまった懐に手を突っ込んだ。ぼったくられたなどと言ってもせいぜい七、八千ウェルスだろう。その程度の持ち合わせなら――。
「では百万ウェルス、この場でご清算いただけますかな」
 突きつけられた金額に目玉が飛び出しそうになった。思わず「はあ!?」と叫んでしまう。一体なんの冗談だと。
「パトリア古王国の偉大な神官殿にお出ししている銘柄でしたのでねえ……。で、支払いは可能なのですか?」
「ひゃ、百万ウェルスも現金で持ち歩くわけないだろう! お、おい、この際だから銀行に走ってやるのは構わないが、お前ちゃんと返す当てはあるだろうな?」
 後半はグレッグに向けた台詞だ。傭兵団長は苦々しく「あるにはあるが払う気はねえ」と即答した。
「舐めくさりやがって。テメーの酒が百万ウェルスもするって証拠が一体どこにあるんだ!? 俺は正当性の感じられない飲み代なんて一ウェルスたりとも出さねーからな!」
「なんとまあ! 盗人猛々しいとはまさにこのことだ。証拠でしたら私の帳簿がございますよ! ねえ、私には百万ウェルスを受け取る権利があるはずですよねえ!?」
 ローガンは大声で商館の奥に呼びかけた。怪しかった雲行きがもっと怪しくなってくる。
 薄闇の向こうからのっそり姿を現したのは強面のいかつい老人だった。確かこの島の商業区を纏め上げている地元ヤクザ――もとい、大商館の支配人の。

「ま、子供でもわかることじゃわな。飲んだら払うのが常識じゃ」

 悪党が商館の主人と結託するのはままある話だが、これは相手が悪すぎる。イオナーヴァ島の大旦那と争って勝てた人間はまずいない。この辺りの裁判官には彼の息がかかっているのだ。もはや百万ウェルスは持っていかれたも同然だった。
「なっ、なんでそうなるんだよ!? こいつだって嘘ついたんだぜ!?」
「ワシは最初から見とったが、あんたが勝手にタダと勘違いしたとしか思えんなあ」
「んなワケあるか! 大体見てたならなんで止めねーんだ!?」
「そう言われても、普通は酒樽一つ丸ごとプレゼントされたなんて厚かましいことは考えん。というか、金を払わんのなら身柄を拘束させてもらうがいいんじゃな?」
 支配人が言うや否や、屈強な商館の私兵らがグレッグを取り囲む。短絡的なマルゴー兵たちは団長を救おうと野蛮な拳を振り上げた。
「お、おい! よせ馬鹿!」
 慌ててレドリーが間に入る。
 乱闘でも起こす気か。そんなことをしたって不利になるだけだ。傭兵どもがどうなろうと構いやしないが連中を乗せてきたアクアレイア海軍にまで不名誉が及ぶのはいただけない。いや、この場合不名誉だけで済むかどうか――。

「支配人殿、この騒ぎは?」

 そこに割り込んできたのは額にやや汗を掻いたブラッドリーだった。騒動を見ていた誰かが呼びに走ってくれたらしい。誰かは知らないがよく機転を利かせてくれた。
「おやまあ! ブラッドリー殿、随分御無沙汰じゃったのう」
「我々にも国で色々ありましてね。……で? 傭兵団長殿が不当に高額な金銭を要求されていると伺ったのですが?」
「ほっほ、そんな理不尽な額ではないぞよ。大神殿御用達の葡萄酒を一樽空にしたと言えばわかるじゃろ」
「……ならば妥当な値段は百万ウェルスかそこらですな。わかりました、私が彼らの支払いを代行しましょう」
 ブラッドリーはグレッグの同意も取らず即決し、証文を書きつけた。手痛い出費だが暴力沙汰にはならずに済みそうだ。
 変に裁判でも起こされてイオナーヴァ島に釘付けになるのは困る。王国海軍はヘウンバオスの誕生日にはバオゾへ到着していなければならないのだから。

「話が早くて助かるが、まさか君たち銀行証書で片付ける気ではあるまいね?」

 ところが意外な人物に話が蒸し返されてしまう。払ってやると言っているのだから素直に受け取ればいいものを、ローガンは真綿で嵩増しした肩を大仰にすくめてかぶりを振った。
「我々は今、アクアレイア人からは現金しか頂戴しないと決めてあってねえ」
「……それはどういうことですかな?」
「商売はまず何よりも信用だろう? 今なお定期商船団の航行を再開できない君たちの発行する証書など、いつただの紙切れになるかわからない。そういうものを受け取るのは嫌だと言っているのだよ」
「なんだと貴様!? アクアレイアを愚弄する気か!?」
「よせ、レドリー!」
 ローガンの言い草にカッとして思わず掴みかかろうとしてしまう。勇んだ腕をグイと引かれ、レドリーは背後の抑止者を振り返った。
 ディランか父かと思ったら違った。レドリーを止めたのは超のつく優等生の従弟だった。きっと親父を呼んだのもこいつだろう。四つも年下のくせにそつなく立ち回りやがって。
「金貨か銀貨で百万ウェルス用意できないなら、山猿諸君にはガレー船徒刑囚になってもらうしか道はないな」
「は、はあ!? 馬鹿を言え、俺たちはこれからジーアン帝国に向かわなきゃなんねーんだ! 船漕ぎなんてやってる暇は」
「法律は法律だ。ああ、なんならガレー船に積み込んできた売り荷をこちらにそっくり渡してもらうのでも構わんぞ? アクアレイアのレースは高く売れるからなあ!」
 レドリーはチッと舌打ちした。
 そういうことか。この男は初めからアクアレイアの商売を邪魔するつもりで絡んできたのだ。浮上しかけたライバルをとことん蹴落とそうとして。

「おいおいおい、そりゃねーよ。いくらなんでも人情に欠けるぜ」

 黒山の人だかりから声が上がったのはそのときだった。レドリーは振り返り、新たに渦中へ飛び込んできた男が誰か確かめる。
 それは平民だけで構成された王都防衛隊の中でも平民中のド平民、だが何故か顔だけは広いレイモンド・オルブライトだった。




 ******




 ハラハラと突っ立っていたマルゴー兵の一人を捕まえて一部始終を聞いた後、槍兵は人だかりを掻き分けて出ていった。ルディアが制止する間もなかった。このこじれた状況をどう打開するつもりなのか知らないが。
 大商館の周囲にはアクアレイア人やカーリス人だけでなく、そこら中の人間が集まって傭兵団長の窮地を見守っていた。中には百万ウェルスのおこぼれにあずかれないか画策するゴロツキまでいる。
「支配人のじーちゃん、なんとかツケにできねーか? おっさんたちマルゴー正規兵だし、いざとなったら公爵に請求できると思うんだけど」
「……んお? おおーっ!? レイモンド、レイモンドじゃないか!?」
 地元ヤクザの親玉は両手を合わせる金髪の若者を見て目を丸くした。どうも二人は見知った間柄らしい。どこまでカバーしている人脈なのだとルディアもぱちくり瞬きした。
「なんじゃお前さん、ちっとも顔を見かけないからてっきり……! おうおう、元気にやっとったのか? 今日は商船に乗ってきたのかね?」
「へへっ! 俺さ、王都防衛隊っつーのに入ったんだ。なんと旗艦に乗って、ハイランバオス様の警護を務めてるんだぜ!」
「ほほう! あの王女直属部隊か! そりゃあ出世したなあ!」
 喜色満面の表情から察するに、老人はレイモンドに並々ならぬ好意を持っているようだ。これは交渉次第でなんとかなるかもしれないと期待が高まった。
「で、グレッグのおっさんたちなんだけどさ、実は俺、マルゴーのチャド王子から直々にあいつらのこと頼むって言われてんだ。もうちょっとゆるーい目で見てもらえねーかな?」
 駆け引きもへったくれもないストレートなお願いにルディアの足がずるりと滑る。いきなりマルゴー上層部との繋がりを示すなどやり方を知らなさすぎだ。
「マルゴーの王子? ああ、ルディア姫の婿養子になったとかいう次男坊か。ふうむ、お前さん、やはりワシの見込んだ通りあちこち顔が利くようになってきたのう」
 老練オーラを漂わせる支配人はレイモンドを一瞥し、己の顎に手をやった。突然の長考にローガンがややたじろぐ。このとき翁はマルゴー公爵の隠し銀山について思いを巡らせていたのだが、それはまだルディアたちの知りもしない情報であった。
「なっ? 頼むよ! おっさんたちには俺から話して聞かせておくからさ」
「…………」
 ぺこぺこと何度も頭を下げるレイモンドに支配人はにこやかに微笑む。どうやら損得勘定は終わったらしい。その結果、天秤はアクアレイアに傾いたようだった。
「よし、わかった。一つ貸しじゃ! 百万ウェルスはワシが立て替えてやろう」
「えっ、いいの!? けど俺が保証人になるのはお断りだぜ!?」
「お前さんの性格くらい知っとるわい。保証人だったらほれ、ブラッドリー殿がなってくれるじゃろう」
「……それで収めてもらえるならありがたい」
 提督の返事に頷き支配人は奥から書類を持ってこさせる。待ったをかけたのはやはりカーリスの豪商だった。
「ちょ、支配人! 話が違うではありませんか!」
「うるさいのー。お前さんは大金せしめてがっぽり稼いだんじゃから、それでいいじゃろが」
「……ッ!」
 ローガンの目的がただ百万ウェルスを毟り取るのみでなかったことは明白だ。この腹黒はアクアレイア自慢のレースをまるで質流れ品のごとく扱い、もっと根本的な打撃を与えようとしたのだろう。
 つまり印象操作である。アクアレイア王国は潰れかけている。あの国の商人を相手にしてはいけないぞ、という。
「あー……、その、ええと……。た、助かったぜレイモンド……」
「いいっていいって! グレッグのおっさんに何もなくて良かったぜ。うーん、人助けした後は気持ちがいいなー!」
 自分で思うより大多数の人間を救ったことには微塵も気づかず、レイモンドは晴れやかに背伸びした。
 この馬鹿はおそらく何ひとつ自覚しているまい。たった今、王国海軍だけでなくカーリス商人やイオナーヴァ商人にも強く己を印象づけたのに。どうやら彼の人脈鉱山にはまだまだお宝が眠っていそうである。
「フン、命拾いしたな。泥船に山猿ではいずれ高波に飲まれてしまうだろうがな!」
 と、ローガンの捨て台詞に静まりかけていた場の空気がざわりと波立った。解散しようと船に帰りかけていたレドリーとグレッグが同時に豪商を振り返り、鋭い目つきで睨みつける。
「は? 腐れペテン師がなんだって?」
「しつこいデブだなテメー!」
 それは奇しくもアクアレイア海軍とマルゴー正規兵の足並みが初めて揃った瞬間だった。
「お、お父様、早く行きましょう!」
 一糸乱れぬ歩みで迫る筋骨隆々の傭兵と海兵にローガンの息子が青くなる。
「おお、可哀想なジュリアン! こんな子供に凄むとは、これだから野蛮人は!」
 なんと口の減らない男だろう。ハイランバオス送迎団一行に奇妙な連帯感をもたらして、ショックリー親子は建物の中に退散した。




 ******




 商館での一難が去った後、旗艦の空気は以前ほど険悪なものではなくなった。イオナーヴァ島でレモンの値段とアクアレイア人の温情を知ったマルゴー兵にとって、今や最も憎らしいのはカーリス商人となったのである。
 ルディアの見た限り、グレッグは海軍兵に「あんなぼったくりも見抜けずにローガンに儲けさせるとは情けない」とヒソヒソされても言い返さなかった。自分たちの失態と百万ウェルスの重みくらいは承知しているということだろう。多大な借金のあるうちは大人しくブラッドリーに従ってくれそうだった。
 そんなマルゴー兵たちに幸運の星が巡ってきたのは船団がイオナーヴァ島を発ち、ミノア島を目指して漕ぎ進んでいるさなかだった。前々から出る出ると言われていた不届き者とついに遭遇したのである。

「おい、大変だ! アクアレイアの帆船が海賊船に狙われてるぞ! あのままじゃ捕まっちまう!」

 マスト頂上の見張り台から降ってきた緊迫の第一声に漕ぎ手たちは「なんだって!?」と一斉に顔を上げた。船団はどこまでも青々しかったイオナーヴァ海域を抜け、多島で知られるミノア海域に入っていた。島が多いということは海賊たちの隠れ潜むポイントが多いということである。襲われているのが自分たちではないとはいえ、緊急事態に旗艦は騒然となった。
「状況は!? まだやられていないんだな!?」
 船長室から即座にブラッドリーが飛び出してくる。前方の味方船と手旗信号をやり取りしつつ、見張り兵は「商船は一! 敵船は三! 進行方向は西南西! 我々の前方を横切ります!」と答えた。更に続いた「敵船はカーリス共和都市の旗を掲げています!」との報告にマルゴー兵までもが顔色を変える。
「おいおい、またカーリスかよ!? あいつら極悪人じゃねーか!」
「三隻か。よし、軍船五隻はこのまままっすぐ進んで商船保護だ! 残り五隻は旗艦に続け! 奴らの退路を塞ぐぞ!」
 ブラッドリーの発した指令はすぐに他の軍船にも伝えられた。提督は賓客であるハイランバオスとコナーに奥へ引っ込んでいるように指示を出す。防衛隊も要人に付き添うべきであったが、生憎ルディアにその気はなかった。
「アルフレッド、客室にはお前が残れ。防衛隊の戦闘指揮は私に委任しろ」
「待て、危険すぎる! 寧ろそっちが部屋に残るべきだ!」
「案ずるな! 白兵戦に加わるつもりは毛頭ない!」
 引き留める声も聞かずにルディアは走り出す。甲板に戻るとすぐにバジルの着けた望遠ゴーグルをぶんどった。
 レンズには逃げ惑うアクアレイア帆船と、囲い込もうと追いかけるカーリスの武装帆船、そして悪党のもとに向かっていく五隻のアクアレイア軍船が映る。援軍の登場に動揺したらしい海賊たちは慌てて獲物から離れた。
 敵船のうち二つは折からの風を受け、ルディアたちの目前をあれよと言う間に逃れていく。だが商船に食らいついていた一隻は逃げ遅れ、ブラッドリーの敷いた包囲網に捕らわれた。
 最初に始まったのは矢の応酬だ。貫通力の高い弩は水兵の標準装備である。しっかりと巻き上げて発射すればかなり遠くまで飛ばせる。敵船と距離のあるうちはこの弩で撃ち合うのが海戦の基本だった。
 が、このとき相手側から飛んできた矢の数は拍子抜けするほど少なかった。おそらく一斉掃射を何度か済ませた後だったのだろう。次の矢をつがえる準備もしない海賊を見て旗艦は一気に敵船へと近づいた。
 操縦性の高さでは帆船はガレー船に遠く及ばない。戦闘員の数も雲泥の差だ。ルディアたちの船が横付けになっても敵は誰ひとり降りてこようとしなかった。代わりに油の入った樽や火種が頭上から降り注ぐ。
「消火良し! ロープをかけろ! 乗り込んで奴らの船を奪え!」
 アクアレイア海軍は炎による撹乱ごときに惑わされはしなかった。よく訓練された動きで火を消し止め、怪我人は救護室へと運ばれる。
「よっ、ほっ、はっ!」
 バジルも曲芸じみた動きで次々に矢を放っていた。彼の用いる長弓は修練を必要とするが、一分間に最大六度の連射が可能な優れものである。敵陣に飛び込みたくてウズウズしているモモのために、弓兵は突破口となる板梯子付近の危険を取り除いているのだった。
「バジルぅ、まだぁ?」
「まだです! あと五つ数えてください!」
「いーち、にー、さーん、しー、ごー!」
 待ての時間が終わるや否や、モモは双頭斧を振り上げて最前線に突撃した。帆船の甲板はガレー船よりも位置が高い。残ったルディアにモモの雄姿を見ることはできなかったが、彼女に薙ぎ倒されたと思しき賊どもの悲鳴は聞くことができた。
「お前はいいのか?」
 すぐ横で槍を構えて突っ立っているレイモンドに尋ねる。すると槍兵は「俺まで行っちゃマズいだろ?」とこちらにウィンクしてみせた。アルフレッドが不在なので護衛役のつもりらしい。単に恩を売る機会の多そうな場を選択しているだけの気もするが。
「それにほら、暴れるのが本業のおっさんたちが目ェ血走らせてるしさ、邪魔しちゃ悪いかなーって」
 レイモンドの視線を追うと、グレッグ率いるマルゴー正規軍がカーリス船に雪崩れ込んでいくところだった。
「イオナーヴァ島での恨みだこの野郎ーッ!」
 威勢のいい掛け声とともにベキッとかグシャッとか穏やかでない音が響く。
 アクアレイア海軍も負けてはいなかった。制圧は二時間とかからず完了し、災難に遭った商船は無事ブラッドリーの保護下に入ったのだった。




 ******




「っしゃあ〜!」
 久々に晴れ晴れとした気分でグレッグは勝利の雄叫びを上げた。敵船上には輪になって小躍りする仲間たち。その中心には縄で縛られた海賊たち。これがはしゃがずにいられるかというものだった。
「はーっはっはっ! アクアレイア海軍に見つかって逃げられると思ったか? 全員牢獄にぶち込んでやるから覚悟しておけよ!」
 汗ばむ頬を拭いながらレドリーとかいう海軍少尉が高笑いする。牢獄にぶち込んでやると聞き、グレッグの頭にふと妙案が閃いた。
「なあ、とっ捕まえた賊のうち、何人くらい俺らマルゴー兵の手にかかったと思う?」
「ん? そうだな、カーリスの乗組員はざっと五、六十人だったから十五人くらいはそっちの手柄なんじゃないか?」
「へえ、そんじゃ適当に十五人、こっちの捕虜にしてもいいよな?」
「え? 捕虜に? ……まあ聞いてみたらいいんじゃないか?」
 レドリーはそう言うと様子を見にきた父親を顎で示した。グレッグは営業用スマイルでブラッドリーに歩み寄る。こちらが何か告げる前に、デキる提督はすんなり要望を叶えてくれた。
「二十人はそちらに渡そう。人質一人につき十万ウェルスは取れる。カーリスに帰れば彼らとてひとかどの商人だからな」
「うおおーッ! 借金帳消しだーッ!」
 晴天に拳を突き上げてマルゴー兵たちは感涙に咽んだ。ブラッドリーの手を握り、グレッグは「恩に着るぜ」と繰り返す。
「っつーか俺たち百万ウェルスをチャラにできて、かつ百万ウェルスの収入を得る見込みになるけどいいのか!?」
「構わんさ。我々は四十人分の身代金と、一隻の帆船と、連中の積み荷を持ち帰れれば」
 なるほど、それで立派な衝角を持つガレー船のくせに体当たりで敵船を沈めなかったのか。やはりアクアレイア人はちゃっかりしている。
「しっかし商人が賊に化けるとはとんでもねえ話だぜ」
「海運国にはよくあることだ。アクアレイアは脱海賊業で国になった稀有な例だから、そういう輩は刑罰の対象だがな」
「あ、あー、そういやそうだったなあ」
 隣国の独立にまつわる諸事情は知っていたが、刑罰まで設けているとは知らなかった。そうか、実はアクアレイア人はお行儀の良い部類だったのか。
「この帆船の荷が高く売れたらミノア島で一杯奢らせてくれ。海賊退治に協力してくれた礼だ」
「お、おう」
 紳士そのものの海軍提督を前に急に居心地が悪くなってくる。
 彼の目には、いや彼らの目には、グレッグたちがさぞかし無知な田舎兵士に映っていたのではなかろうか。

「いいなー」

 と、唐突に腰の辺りで響いた声にグレッグは「うおっ!?」と飛び上がった。見れば先刻ピンクの髪を振り乱し、鬼神のごとき戦いぶりを演じていた少女と視線が合う。
「い、いいなってなんだよ。分け前はそっちだって貰えるだろ」
「貰えないよー。海賊から没収した金品は全部国庫に直行だもん。それにモモがいいなって言ったのは全然別のことだし」
「へっ? じゃ、じゃあなんだ?」
「傭兵って戦えば戦うほどお金になるんでしょ? いいなー羨ましいなーって」
 モモという名の少女は深々と溜め息をついた。そう言えばアクアレイアでは自国の民が他国の雇われ兵になるのが認められておらず、傭兵職に就いた者は永久追放に処されると聞いたことがある。
「あーあ、モモもマルゴーに生まれたかったなー」
 他でもないアクアレイア人からの羨望を受け、グレッグはなんとも言えない嬉しい気分を味わった。いつも貧しいマルゴー人ばかりが彼らを羨んできたのだ。マルゴーのほうがいいと言われて頬が緩まないわけがない。
「へへっ、確かにな。お嬢ちゃんほどの腕があれば稼ぎ頭になれただろうよ」
「でしょー!? アクアレイアはもっとモモの才能にお金くれてもいいと思うの!」
「うんうん、これがマルゴー公国なら今頃は実力に応じた助成金がたんまりと……」
「あーん! モモ生まれる国間違えたー!」
 わっはっはっとグレッグは少女の嘆きを笑い飛ばす。そうだ、恥じ入ったり妬んだりする必要なんてない。マルゴーだってしぶとく図太く生き延びている素晴らしい国だ。
「まあいいんだけどね。アクアレイアにもいいところはあるし……」
「おっ? そりゃどんなところだ?」
「うーん、レイモンドでも儲けが出るくらい商業が保護されてるところかな?」
 返答にグレッグはぶっと吹き出した。確かにな、と思わず頷く。
(話してみねえとわかんねえもんだなあ)
 アクアレイアに対しては少なからず偏見があったようだ。治療を拒んだ軍医でさえ金を貸そうとしてくれたのだから。これからはいい奴も皆無ではないと、まあ覚えておいてやろう。




 ******




 以後船旅は何に煩わされることもなく、ガレー船団は順調に予定を消化していった。
 ミノア島を出航したのが八月二十日、東パトリア帝国の首都にして世界最大の湾港商業都市ノウァパトリアに到着したのが八月三十日のこと。二年ぶりに商人たちの聖地へ戻ってきたアクアレイア人の喜びは筆舌に尽くしがたいものだった。
 ノウァパトリア――新パトリア帝都とも呼ばれ、パトリア古王国以上の栄華を誇るこの街こそがアクアレイアの心臓だ。交易は相手なしには成り立たない。アクアレイアにとって、その相手とは東パトリア帝国に他ならなかった。
 ノウァパトリアの対岸には、五年ほど前ジーアン帝国の新しい首都となったバオゾの街並みが広がっている。狭い海峡を間に挟み、都と都は互いに静かに睨み合っていた。
 天帝のプレッシャーを心のどこかに感じながらルディアは船尾を振り返る。
 明日はいよいよバオゾ入りだ。心してかからねばならない。
(待っていろ、ヘウンバオス。絶対に通商安全保障条約を認めさせてやる)
 恐れはしない。何があろうと聖預言者はこちらの味方なのだから。
 拳を固め、ルディアは港に降り立った。









(20150508)