夏の陽光は全てに平等に照りつける。威風堂々たるガレー船にも、透き通る青い海にも、廃墟同然の小都市にも。
 人の住まなくなった家はすぐ傷む。そんな言葉を思い出した。ドナにおいて、それは家ではなく港だったけれど。

「これが港町……なのか……?」

 呆然と尋ねたルディアに防衛隊の誰も答えない。ジーアン軍に占拠される前のドナを知る彼らは衝撃に黙り込んだままだった。
 石造りの堤防に囲われた船着場にはうず高い瓦礫の山。割れたレンガや切石はどれもかつて港だったものの一部だ。ほんの二年前までは商売人と船乗りと荷運び人でごった返していたのだろう波止場は半分崩れており、無人の灯台が虚しく海を見つめている。
 港は完全に放棄されていた。入江には藻が溜まり、門も税関も焦げついて、桟橋などフナクイムシの恰好の餌食になっている。ジーアン兵に破壊されたのか大きな船は一隻も残っていなかった。どこもかしこもボロボロで、夜は幽霊でも出そうである。晴れやかな空との対比に背筋が冷えた。
「船がないのは逃げるときに使ったからだと思いますけど……」
 バジルの言にそうだったなと思い出す。ジーアン軍の攻撃を受けたアレイア海東岸の住民が、街に残って戦う者と逃げ出す者に別れたこと。
 難民のほとんどはアクアレイアが引き受けていた。ドナやヴラシィは王国の第二の故郷と呼んでいい国だったから。
 元々ドナは女傑アリアドネの本拠地だった。この辺りは海岸線が入り組んでおり、連なる大小の島々が船の風避けに適している。海賊たちには身を隠すのにうってつけの漁場だったのだ。
 ドナはアクアレイア王国成立後、都市国家として発展した。彼らもまた悪行から足を洗い、王国のガレー船団に忠実かつ優秀な水夫を提供し続けてきたのである。
 だが今は昔日の賑わいなど見る影もなかった。港の広さも却って哀れを誘う始末だ。
「とにかく投錨しなくてはな」
 あまりの荒れようにブラッドリーがどこに船を着けさせるか迷っていると、街と港を隔てる壁の向こうから馬の蹄と人の足音が響いてきた。ほどなくしてジーアン兵に連れられたドナの女たちが現れる。
「失礼! ハイランバオス様の船ですね? ラオタオ将軍の命により、食料と水の積み込みを開始します! ――おい、早くしろ!」
 ドナの監督を任されていると思しき高帽子の騎馬兵は、痩せた老人を小舟に向かって蹴り飛ばした。老人はよろけながら櫂を握り、こちらの船に近づいてロープの端を渡してくる。
「おいおい、あんなじーちゃんに先導なんかやらせんなよ」
 レイモンドはハラハラと小舟の様子を見下ろした。老船頭は然るべき場所にガレー軍船を導こうと奮闘するが、なかなか前に進まない。
 見かねたアルフレッドがブラッドリーに目配せして老人の小舟に乗り込んだ。ルディアも彼の後に続く。
「大丈夫ですか? 少々足が悪いようにお見受けしますが」
「え、ええ、年なもので。騎士様、ありがとうございます」
「他の連中は何をやっているんです? あなた一人にこんなことをさせて」
「そ、それが倅どもは……」
 老人曰く、ドナには彼の他に水夫はおろか水夫上がりも残っていないらしい。壮健な男は労働力としてジーアン首都に根こそぎ連れ去られたそうだ。
「えっ!? もしかして、それで積み込み要員に女性が駆り出されて?」
 驚き大声を立てるアルフレッドを睨みつけ、ルディアは港のジーアン騎馬兵を盗み見た。幸い「余計な話を聞くんじゃない!」との警告は飛んでこない。
「ドナはもうおしまいです。船に乗る者も、船を作る者も、誰もいなくなってしまいました。幼子らはこれからどうやって生きていけばいいのでしょう……」
 嘆く老人は力を失くし、それ以上語らなかった。もう少し現地住民から情報収集したかったのだが仕方ない。
 ガレー船が錨を下ろすと無言の女たちが水瓶と豆とビスケットを運んできた。一様に暗くうつむき、時折助けを求めるようにルディアたちを見上げてくる。けれどしてやれることは何もなかった。
 一晩停泊する間、防衛隊とハイランバオスには船を降りる許可が出された。ぐるりと一周してみた街は港と同じく寂れ果てており、騎馬民族が海洋民族を支配する無益さをひしひし感じるばかりだった。そしてそれは、三日後に寄港したヴラシィでも大差なかったのだった。




 ******




「ハイちゃーん! こっちこっちー!」
 白波を越え、甲板まで届く明るい声にグレッグは重い顔を上げた。
 どうやら次の街に着いたらしい。舗装が剥がれ、石棺じみた港の突端に目をやれば、すらりと細身の青年が馬上で手を振っていた。
 男の耳元で黄金が光る。同じものが呼びかけに応えるハイランバオスの両耳でも揺れていた。天帝の直臣である証の馬形のイヤリング。あんな若造どもが政治や軍事、果ては宗教の中枢まで担っているのだから変わった国だ。
「へっ、そんでまた歓迎されるのは身内だけってか? 俺たちゃいつになれば陸地を踏ませてもらえるのかねえ」
 グレッグは厭味ったらしく悪態をついた。叶うなら板梯子を伝って下船する聖預言者やその護衛たちに唾を吐きかけたいくらいだ。
 街に降りられなければ胃に優しい食べ物を買ってくることもできやしない。あのレイモンドとかいうアクアレイア人をまだ頼りにしなくてはならないのかと思うと鼻持ちならなかった。
「仮に滞在許可が出されたとして、防衛隊以外の者をガレー船から降ろす気はないぞ。ここはジーアン帝国領だ。いつ誰がどんな理由で不当に拘束されるかわからない。船に留まるほうがずっと安全だということを忘れないでくれ」
 そのとき隣にいたブラッドリーが石造りの港の奥へ消えていく聖預言者一行を見守りながら呟いた。ムッと眉間にしわを寄せたグレッグに新提督は続ける。
「うちの若いのが強情ですまないな。食べすぎにさえ気をつければそうキツい酔い方はしないはずだ。レモンをかじっていればなんとか耐えられるだろう」
 こうあっさり詫びられるとは思いもよらず、グレッグは少々たじろぐ。つい「いや、あんたは別に何もしてねえだろう」と答えかけてグレッグはぶんぶんかぶりを振った。
「まったくだぜ! 統率がなってねえんじゃねえか? 見舞い品かと思ったら果物は金取るし、噂に違わぬ強欲ぶりだな!」
「何? そんなに値段をふっかけられたのか?」
「そうだ! 一つ五十ウェルスもしやがる!」
「なんだ、市場価格の範囲内だぞ。むしろうと思えば一つ百ウェルスにしてもむしれるところを、随分良心的ではないか」
「苦しんでる病人を前に良心的ィ!? あんたどうかしてんじゃねーのか!? 大体あんな酸っぱいだけの食い物が本当に五十ウェルスもするのかよ?」
「諸君らに必要だろうとレモンを買い込みに走ったせいで彼は減俸を食らったらしいがね。規律違反はいただけないが、私は親切だと思うぞ」
「えっ?」
「レモンを買わずに苦しむ病人を見捨てる選択肢もあったということだ。まあチャド王子にマルゴー兵のことを頼まれていたそうだから、値を抑えたのかもしれないが」
「チャ、チャド王子に?」
「防衛隊はルディア姫の直属兵だ。知らなかったか? ああそうだ、ついでにもう一つ言っておこう。諸君らが船酔いにならなければ彼は準備したレモン代をまるまる損していたわけだ。そう敵視せずとも良いのではないかな?」
 諭す言葉に反論できず、グレッグは船縁を掴んで沈黙した。レモンを売って給料を下げられたのでは元も子もないではないか。しかもチャドに自分たちのことを頼まれているなんて、あの男からも部下からもひと言も聞いていないぞ。
(恩着せがましいアクアレイア人のくせに、クソ! クソクソクソ!)
「そうそう、レモンの原価ならイオナーヴァ島に着けばわかるからな」
 立ち去り際、ブラッドリーがついでのように呟いた。
 いやいやいや、そんなことで俺はアクアレイア人なんか信用しないっての!




 ******




 ヴラシィの荒廃ぶりはドナの比ではなかった。元々が堅牢な城壁に囲まれた岩礁上の要塞都市である。破壊の限りを尽くされた街は、女子供と老人だけで復旧するのは到底不可能に思えた。
 見張り塔は無残に崩れ、野晒しにされている。ジーアン軍に焼かれた城壁はあちこち黒く煤けていた。街の中心部でさえ屋根の落ちた家、外壁のない家が珍しくない。小広場の噴水は枯れ果て、守護精霊の石像は頭と身体をばらばらの方向に横たえていた。
(なんだこれは。ヴラシィが落ちてもう二年だぞ。それなのに、つい最近襲撃を受けたような有様ではないか)
 ルディアはぐっと奥歯を噛み、土を被された道を歩いた。ヴラシィの男たちは最後までジーアン軍に抵抗し、武器が尽きても引き剥がした石畳をぶつけて戦い続けたという。「必ずアクアレイアが援軍を送ってくれる」と励まし合って。
 あの頃はまだマルゴー公国との同盟が刷新されていなかった。傭兵を雇おうにも、彼らは敗北の見えている戦闘に赴こうとはしなかった。
 パトリア古王国も反応は似たものだった。東岸を奪われればジーアン兵が船で乗りつけてくる可能性もあると話したが、まるで聞き入れようとせず、そればかりか寝ぼけた王侯貴族どもは。

 ――アクアレイアは正義ではなく国益のためにドナやヴラシィの救援を要請しているだけでしょう? 彼らがいなくてはアクアレイア商船の船乗りは人員不足になりますからな。

 あの慇懃無礼な宰相の冷笑は思い出しても腸が煮える。そっちこそパトリア古王国から東パトリア帝国に乗り換えたアクアレイア憎しで兵を貸したくないだけではないか。そう言い返してやりたくて堪らなかった。
(偉い人には睨まれたくない、か)
 レイモンドの言うことにも一理ある。外交面でのアクアレイアの苦労は大抵そういう偉い国に睨まれているために起きるのだ。ドナやヴラシィには申し訳ないことをした。彼らとは確かに利のために繋がっていたが、長い年月の間に少なからぬ義も生まれていたのに。

「もうじき一番いい館に着くぜ! ハイちゃん、足痛くないか? アイリーンちゃんは?」

 高台に続く急な坂道を上りながらラオタオが短い列を振り返る。なんでも彼は今夜から三日、ヴラシィ共和国の元市庁舎で大いに歓待してくれるらしい。
「ハイちゃんは可愛い女の子侍らせても喜ばないと思ったけど-7、俺が楽しいからたくさん集めちゃった!」
 聞くからに頭の悪そうな宴である。最初からなかった興味がひと言で一気に失せてしまった。
 このラオタオという男、ひょっとすると所謂「仲良し枠」での十将登用かもしれない。でなければアレイア海東岸をせしめておいてマルゴーや西パトリアを攻めあぐねるなど説明がつかない。
 少なくともラオタオの海に対する関心の低さは窺えた。将の愛馬が人間以上の金銀で飾り立てられているのがその証拠だ。
(船の使い道を学ぶ気がないなら、そこに突破口があるかもしれないな)
 そうルディアが思考を巡らせ始めたときだった。坂道を上りきった先の視界にそれが飛び込んできたのは。

「っ……」

 漏らしそうになった声を喉奥に封じ込める。
 港と違い、相応に修復された赤レンガの市庁舎の、トネリコの木に囲まれた庭に彼らはいた。錆びた鉄鎖に吊るされた、かつて共和国の議会で活発に意見を交わし合ったのだろう議員たちが。
「ヒエッ……!」
 息を飲む男たちの横でアイリーンが蒼白になる。眉をしかめたモモが「趣味わっる……」と呟くのをアンバーがそっと諌めた。
「あれねー、俺が仕留めたんだぜ。しぶとかったから敬意を表して五年くらいぶら下げとこうかなって」
 原始的すぎて頭が痛くなってくる。ジーアン軍の力は認めるが、精神的にはまるきり蛮族だ。
「弓の腕は健在ですか。一、二、三、四……ふむ、数字が良くありませんね。次の満月には埋めてしまったほうがいいでしょう」
「えーッ!? マジで!? でもハイちゃんが言うならそうしよっかなー」
「代わりに花を植えると運気が上昇しますよ。ラッキーカラーは白です」
「ふんふん、白ね! 白は男を高貴に見せるよね!」
 上手く言いくるめてくれたアンバーに感謝しつつ、ルディアは敗軍の勇士らに祈った。
 忘れないように胸に刻む。一歩間違えばアクアレイアも同じ運命を辿るのだと。


 想像通り、ラオタオ主催の夜宴は享楽的で刹那的な、毒にも薬にもならないものだった。薄い衣装で踊らされ、飲みかけの酒を引っかけられる娘たちに心から同情する。
 ルディアたちは全員黙って胸糞悪い時間に耐えた。性悪狐がハイランバオスの従者には大して関心を払わなかったのが不幸中の幸いだ。
 長い三日が過ぎた後、ドナと同じくヴラシィでも地元の男を目にしないまま、防衛隊は再びガレー船に乗り込んだ。




 ******




 船旅の順調さは風向きと天候で決まる。ヴラシィを出た当日は南向きの順風に乗れたものの、その後はしばらく逆風が続いた。人力船なので進めないことはないのだが、無理をするほどの日程でもない。そんなわけでヴラシィを出た船団は次なる停泊地コリフォ島まで非常にのろのろ進んでいた。
「ちょっと待てレイモンドォ! テメーだろ、さっきからハートのジャックをしつこく隠し持ってんのは!」
「いやーなんのことだかサッパリわかんねーなあ、グレッグのおっさん」
「しらばっくれてんじゃねえ! テメーのせいで俺の持ち札が死にまくってんだよ!」
「グレッグ隊長、封殺セブンスには親子の情さえ通じないんスよ。ささ、隊長のターンですぜ」
「だから出せるカードがねえっつってんだろ!」
 なんだあれはとルディアはマルゴー兵の溜まり場に目をやる。いつも左舷の片隅で暇潰しに興じている兵の輪に今日はレイモンドが混ざっていた。それもすっかり馴染みきった様子でだ。
「伯父さんに頼まれたらしい。何かあったときに海軍兵とマルゴー兵の仲裁ができるように、グレッグたちと親しくしておいてくれないかと」
 アルフレッドの声に気づいてルディアは帆柱の陰を覗いた。騎士はこっそりマルゴー兵のカード遊びを見張っていたようだ。
「確かにあの手の集団に入り込むのはあいつの専売特許なんだが……『殺しの七並べ』なんてやって殺伐としないか心配だな……」
「おい待て、その前に私に言うことがあるだろう」
 ルディアは呆れて額を押さえる。つい先日レイモンドの無断離脱を叱責したばかりなのに、この男は何を聞いていたのだろう。防衛隊の面々に指示を出すのはブラッドリーの役目ではないだろうが。
「いや、俺も今さっき伯父さんから『個人的な頼みごとをして悪かったな』と言われたばかりなんだ。これから皆に了承した旨を伝えにいくところだった」
 アルフレッドは報告が遅れてすまなかったと詫びた。隊員の監督不行き届きだったとも。それがわかっているならとルディアもうるさく咎めるのはやめにする。命令系統の見直しは――というかレイモンドの躾け直しは考える必要がありそうだが。
「まったく、あの爛漫さは重宝するが模範兵にはなれん男だな。堅物のお前と仲が良いのが不思議でならんよ」
「そうか? ……でもそうだな、きっとお互い小さい頃を知っているからなんだろう」
 騎士の声にいつになく感傷めいた色合いが滲む。それは温かいものであると同時に仄暗さを含むものだった。
 意外な気がして目を瞠る。二人とも、いつも明るく楽しそうに見えるのに。
「明日はきっと風が変わる。次の港ももうすぐだ」
 海の男らしく風を読む騎士は話題を変え、古い思い出や友人のありがたみを語ったりはしなかった。
(小さい頃を知っている、か)
 ルディアは己の過去の記憶を振り返る。父を除けば素顔のルディアを知っているのはコナーだけだ。だが彼は、敵でない代わりに味方でもなかった。
(私はただ、私の理想の君主が理想の国家を築くのを待っているだけ――よくそう言っておられたな)
 家庭教師に就いてもらった当初、コナーは二十歳を過ぎて五年にも満たない若造だった。それなのに彼は既にどんな知識人にも負けない知識人で、歴史も科学も哲学も芸術も、問うて答えられないことは何もなかった。天才とはこういうものかとしばしば圧倒されたものだ。
 いつだったか、彼自身がどこかの王になろうとは思わないのか尋ねたことがある。コナーは笑って言ったのだった。国が幸いであるためには、最高の君主と最高の民が必要なのですよ、と。

 ――あなたが私の望む君主となった暁には、必ず足元に平伏しに参ります。

 恩師が出て行ったときの言葉を思い返す。まだコナーとは挨拶くらいの会話しかしていない。崇拝しているわけではないが、敵わないと自覚している相手には気が引けてしまうようだ。
 早くもっと強くなりたい。今よりも賢くなりたい。どんな敵が襲ってきてもアクアレイアを守り抜けるように。




 ******




 翌日は予報通りの風に恵まれ、ガレー船団はアレイア海の南端に到達した。海峡を越えればそこは別の海、「白の海」と称されるパトリア海の中央を占める広々とした海域である。
 開放感で溢れているのは視界いっぱいに広がる水平線のためだけではない。アレイア海の外側にはジーアン帝国の魔手が及んでいないのだ。つまり船団は港でうんと羽を伸ばすのも可能になったわけである。

「おお、灯台の兵士が王国旗を振ってくれてるぞ!」

 右舷から上がった歓声にルディアは前方の島を見やった。アレイア海を出ると一番に見えてくるコリフォ島は、かつてアクアレイアが東パトリア帝国から貰い受けた領地である。
 西パトリア諸国の王、パトリア古王国に海賊行為を禁じられたアリアドネは、廃業後、今度は自分が海賊を狩る側に回った。軍事力だけは豊富に有していた彼女の大胆な起死回生策だった。
 アリアドネは初代国王と親交のあった東パトリア皇帝に「そちらの海上防衛を肩代わりするのでこちらの商人を優遇してくれ」と願い出た。軍船に乏しく、国内の反乱勢力を抑え込むのに忙しかった皇帝はただちにこれを受け入れた。
 アレイア海もパトリア海も古くから海賊の出没に悩まされてきた地域である。アリアドネ以外の有力勢力も多々あった。だがこの同盟のなされた年から状況は一変する。東パトリア帝国の名の下に王国海軍は討伐に討伐を重ねた。手口を知り尽くしたアリアドネの追跡をどんな海賊もかわしきれなかった。
 やがて近海から主だった荒くれ者が姿を消すと、皇帝はアクアレイアが交易ルート上に討伐基地を置く権利をも認めてくれた。コリフォ島は島ごと賜った稀有な例である。もっともこの島はパトリア古王国の目と鼻の先にあるので、アクアレイア海軍の一大拠点とすることで敵対する聖王を牽制する意味合いは強かっただろうが。
(まあ、それがパトリア古王国に決定的に嫌われた『事件』だったに違いないな)
 地理的には西パトリアに属していながら、アクアレイアは東パトリアの庇護の下ですくすく育っていったのだ。疎ましがられて当然である。大人しくしていればパトリア古王国が甘い汁を吸わせてくれるのかといえば、そんなことはこれっぽっちもないのだが。多分あの国は偉そうにふんぞり返っていた時代が長すぎるのだろう。
「よーし、軍港に入るぞー!」
 操船長の号令に水夫たちが「おう!」と吠えた。
 コリフォ島は鎌の形に似た南北に細長い島である。軍港を含む砦は島の東端に築かれている。
 ルディアはよく整備された船着場と出迎えに参じた笑顔の王国兵たちを見てホッとした。ドナでもヴラシィでも良港は惨憺たる有り様だったので、やっと本来の船旅が始まってくれた気がしたのだ。その思いは航海に慣れた人間ほど大きかったようである。船上のアクアレイア人は皆一様に頬を綻ばせていた。




 ******




「うわあ! すごーい! 砦の奥が街になってる!」
 丸い頬っぺたを赤くしてモモが胸壁通路を駆け下りようとする。大はしゃぎの妹をアルフレッドが慌てて引き留めるのを見やり、ルディアはやれやれと息をついた。
 アレイア海の出入口という要所に位置する島なので要塞化が進んでいるとは聞いていたが、思った以上にコリフォの守りは固そうだ。攻めにくい岬の突端を起点に高い城壁が小さな街を二周もしている。ヴラシィも同系統の城塞都市だがコリフォ島のほうがこじんまりしているだけに砦町の様相は色濃かった。
「モモもコリフォは初めてか?」
 ルディアの問いに少女は頷く。今まで彼女はヴラシィよりも南へ訪れたことがなかったらしい。
「モモはあちこち行ってみたいんだけど、女は船に乗せない主義の船長も多いからー」
「ああ、確かに船上の風紀が乱れやすくなるからな。……ん? ひょっとしてそれで今まで妙に大人しかったのか?」
 アクアレイアを発って以来、無口だった斧兵を思い出して問う。モモは「えー」と否定しかけたものの、すぐに「あ、そうかも」と言い直した。
「も、もしかして僕が寝ぼけたフリして寝込みを襲うんじゃとかそんな警戒をしてたわけじゃありませんよね!?」
「バジル、キモいこと言わないで! 違うよー、モモってすぐ思ったこと口にしちゃうでしょ? だからジーアン領を出るまではなるべく喋らないでおこうって気をつけてたの。ヴラシィとか最悪だったじゃん!」
 心底うんざりした顔でモモが吐き捨てる。彼女が最悪と称したのは三日三晩続いたあの酒池肉林のことだろう。盛り上がってくると天蓋に引っ込む程度の配慮はラオタオにも見られたが、所詮その程度の配慮であった。
 ルディアやモモだけでなく、アルフレッドにバジル、下町育ちのレイモンドまで「あれはないわ」とドン引きしたくらいだ。アイリーンに「色好みなのはラオタオ様だけで、ヘウンバオス様の宴でああいうことは……」と聞くまでは、ジーアンを目指す気力が萎えてしまいそうだった。
「モモずっと戦々恐々としてたんだよ? あいつがモモにも『踊ってよ』とか言い出したら顔面を陥没させればいいのか、それとも股間を蹴り上げればいいのかって……」
「歯向かう気満々じゃねーか!」
「手加減という言葉を知りませんよね……」
「えーっ? 手加減してるでしょ? 斧を使わない優しさを感じてよ!」
「それは変な汚れをつけたくないという斧への優しさだろう」
「あっ、アル兄にはバレてたか」
 今更ながらルディアは「他人の従者に手を出さない」というジーアンの風習に胸を撫で下ろした。実際ラオタオには声を掛けられた例は一度もない。一応バオス教に在籍しているアイリーンと違い、防衛隊は完全にハイランバオスの付属品だからだ。
 勿論こちらからもラオタオに話しかけてはいけなかった。モノ扱いの人間が勝手な真似をするなと不興を買ってしまうからだ。
 いずれあの男と交渉のテーブルに着く場面が来るかもしれないが、今はまだ要観察である。ジーアン帝国のどこに取りつく島があるか、まずそれを見極めねばならない。
「でも良かったねー、コリフォ島に着いたのが今日で! レイモンドの誕生日パーティーは清らかに楽しもうね!」
「おう! お前らプレゼント期待してるぞ!」
 えっとルディアはレイモンドを振り返る。市街地へ続く軍道を歩きながら、槍兵は頭の後ろで手を組んでにっこりと笑った。
「今日は八月十一日だろ? レイモンド君はこれで正しく十八歳になりました!」




 ******




 パトリア十二神を信ずる民は、新年を迎えたその日に全員揃って年を取る。所謂数え年というやつだ。本当の誕生日は普通遅れてやって来る。
 防衛隊に用意された宿舎代わりの古い聖堂では槍兵のためにささやかな祝いの席が設けられる運びとなった。アイリーンが「ヒヒッ、贈り物を選ぶなんて久しぶりだわあ」と魔女じみた笑みを浮かべる。ルディアにとっては初めての経験だった。親や婚約者ならいざ知らず、同年代の仲間の誕生日会に参加するなど。
「そうだねー、ブルーノ今年のモモの誕生日スルーしたもんねー」
「僕の誕生日もですよ!」
 恨みがましい二人の台詞に「仕方ないだろう」と眉をしかめる。三月、四月はまだ彼らに正体を明かしていなかったのだ。それにそんな余裕もなかった。
「そんじゃ俺、グレッグのおっさんたちに島を案内してやる約束だから行ってくるな! 日暮れ頃に帰ってくるから楽しいひとときを任せたぜ!」
 浮かれた足取りでレイモンドは素朴な木造聖堂を後にする。マルゴー兵とはその後も上手くやっている様子だ。他のアクアレイア人に対する彼らの眼差しは冷たいままなのに、槍兵だけは日に日に親密度を高めている。
 海軍やレイモンド以外の隊員ではこうは行かなかっただろう。彼らはやはりあのレモンに恩を感じたのだ。
「コリフォ島って何が名産なのかな? ねえアル兄、レイモンドって何が好きだったっけ?」
「うーん。あいつの場合、何をやっても大抵喜ぶからなあ」
 オリーブの木が生い茂る小路をルディアたちは並んで歩く。降り注ぐ日射は強いが空気はからりと乾いていて、風も心地良い涼しさだった。バジル曰く、この島は冬も暖かく過ごしやすいらしい。保養地には最適だと航海人の間では有名なのだそうだ。
「彼の好物はわかりかねますが、我が君の導きを信じるのなら葡萄酒の購入が吉と出ています」
「出ましたね、今日の天帝占い……!」
「そっかー、じゃあモモはアル兄と共同出資で葡萄酒にしよーっと!」
「おい、まさかお前が選んで俺が払う方式じゃないだろうな?」
「大丈夫、百ウェルスまでならモモも出してあげるよ!」
「モモ! 葡萄酒がいくらすると思ってるんだ!」
 ハートフィールド兄妹は早々に贈り物を決定したようだ。バジルはオリーブの枝を買い、食器と調理器具に加工するつもりだとアイリーンに話す。
「ああ、レイモンド君は食堂の子だものねえ。オリーブ材は長持ちだし、喜ぶと思うわ。うーん、私もそうしようかしら……」
 なるほど、器用な者は自作するという手もあるのか。ルディアは自分の両手を見つめ、左右に首を振った。
 無理だ。できるわけがない。彫刻刀も小刀も握ったことがないのに。
「……『ハイランバオス殿』はどうなさるのです?」
 ルディアはニコニコ顔のアンバーにそっと尋ねた。もしも彼女が「私は別に何もする気はありません」と答えたらルディアもすっぽかすつもりだったのだ。アルフレッドたちにとっては友人の誕生日かもしれないが、ルディアにとってはただの一部下の誕生日である。ブルーノの演技を徹底するなら何か用意したほうがいいかもなと思う程度のことだった。
「私はラオタオに貰ったジーアン織を分けて差し上げようかなと」
「…………」
 ルディアは深々と嘆息した。どうやら己も日没までに槍兵の喜びそうな品を手に入れなくてはならないらしい。しかし一体どんなものを見繕えばいいのだ……?




 ******




 ガシャンと無機質な音を立て、鉄格子が閉ざされる。冷徹な足音は留まろうとするわずかな気配もなく消えていった。
 折角風光明媚で知られるコリフォ島までやって来たのに、頑固な父は暗がりで過ごせと言うらしい。レドリーはむっつりと眉をしかめ、唇を尖らせた。
(アルフレッドと随分待遇が違うじゃねえか)
 四つ年下の従弟の顔がよぎってチッと舌打ちする。あのいい子ちゃんは父のお気に入りだから、海軍に入っていたらさぞかし出世していただろう。貴族でなければ入隊できない法律をブラッドリーも相当惜しんでいるに違いない。
「外に出られないのはつらいですねえ。これなら鞭打ちのほうが良かったです」
 隣の独房でディランも嘆息する。マルゴー兵が負傷しても治療しないと宣言した衛生兵は皆揃って牢屋で禁固の刑だった。
「馬鹿だぜ、親父は。仮にユリシーズが処刑されても海軍はまとまってやっていけるって、いや、離反者が出てもそいつらはまた処分すればいいと思ってるんだ」
「それは言い過ぎですよ、レドリーさん。ブラッドリー中将だって本当は理解しているはずです。今の海軍では十分に実力を発揮できない、どうにか問題を収拾せねばならないと」
 ディランは冷静だ。書き物が趣味だからか、除名されてもおかしくない行動を取っているのに熱くならず、客観的に分析してくれる。ユリシーズがあんな惨めな扱いを受けているのがただただ耐え難い己とは違った。
「……ユリシーズさん、どうしてひと言も相談してくれなかったんでしょうね」
 呟きにレドリーは唇を噛む。冷たい壁にもたれて闇を見つめていると、幼い頃に閉じ込められた倉のことを思い出した。
 俺は自分の息子にあんな躾はしない。そう話したとき幼馴染は笑っていた。そんなこと親だって進んでやりたくはなかろうと。
 ユリシーズはアルフレッド以上によくできた「いい子」だった。名家の血筋、海軍提督の父、将来を期待された一人息子。妹はたくさんいるが、女は海軍に入れないから必然的にリリエンソール家の名は彼ひとりの背に圧し掛かった。
 ――お前の家は男兄弟で羨ましいよ。
 レドリーがユリシーズから聞いた覚えのある弱音はその程度だ。彼は強く、勇敢で優しかった。
(全部あの女が悪いんだ)
 幼馴染の一途な愛を、自尊心を、めちゃくちゃに傷つけたあの女。ルディア姫さえいなければユリシーズは――。

「おい、大丈夫か? レドリー、ディラン!」

 暗闇に響いた囁きにハッと顔を上げる。
 今のはコリフォ島配属の友人の声だった。こっそり潜り込んできたのだろうか。
「パンを持ってきてやったぞ。飯抜きなんだろ? 感謝してくれよ」
「おお! 助かるぜ、ありがとう」
 鉄格子の隙間から差し入れられた平パンを懐に仕舞い込む。軍規違反の友人は久々の再会を喜びワインボトルまで開けてくれた。芳香に鼻を楽しませつつ近況を報告し合う。
「シーシュフォス提督が辞めたっていうのは本当なんだな。今日あの人が旗艦のどこにも乗ってないのを見るまで信じられなかった。ユリシーズ中尉も……俺、新兵だった頃すごく世話になったのに」
 友人はコリフォ島基地にも戸惑う者は多いことを教えてくれた。陛下や政府にそう伝えてもらえないか、ブラッドリーに掛け合ってみるとも。
 目頭が熱くなる。やはりユリシーズは海軍に必要な男だ。レドリーは確信を新たにした。
 最前線の人間が求めているのは王家ではない。同じ海に出て同じ戦場で剣を取ってくれるリリエンソール家なのだ。




 ******




「えーっ! ブルーノからのプレゼントねーの!?」
 あらかたの料理を食べ尽くし、ワインも底を尽きる頃、皆からの誕生日祝いを受け取ったレイモンドは思いきり不服を垂れた。うるさいな、とルディアはしかめ面でそっぽを向く。これでも散々歩き回って悩んでやったのだ。
「次に向かうイオナーヴァ島で何か買ってやるから勘弁しろ」
「だってー! 俺の誕生日は今日だけなんだぜ!」
「これと思うものが見つからなかったんだ。十八にもなって駄々をこねるな!」
 我ながら苦しい言い訳をしているのはわかっている。なんであれ誕生日祝いは当日までに渡すのが礼儀だ。だが王族としてあまり凡庸なものを選ぶわけにいかなかった。かといってブルーノの平民基準を無視することもできず、結局何も手に取れなかったのである。
「寧ろお前が欲しいものを指定してくれ。それを贈答用に包んでやるから」
 ルディアの提案にレイモンドは頬を膨らませた。
「誕生日に全員揃ってるって珍しいから楽しみだったのにー」
 そんな風に言われるとばつの悪さでますます意固地になってしまう。だから私はお前たちのブルーノではないというのに。
「決められないならモモたちと来れば良かったじゃん」
「国の一大事だけじゃなく、個人的なことだって僕らを頼りにしてくださって構わないんですよ?」
 フォローされても今更だった。年少組だけでなくアルフレッドやアイリーンまで「気が回らずにすまなかった」と詫びてくる。
「ちえっ、そんじゃ今夜はお開きだな。もう片付けてもう休もうぜ」
 主役のやる気がなくなったのではテーブルに留まる理由もない。飾りつけた食堂を元の簡素な空間に戻すと、ルディアたちはそれぞれ荷を解いた小部屋に引っ込んだ――はずだった。

「しーっ、静かに! ……今からちょっと行きたいとこがあるんだけど、付き合ってくんねーか?」

 吹き抜けの二階廊下で声を潜めるレイモンドにルディアは「はあ?」と尋ね返す。夕刻からの酒盛りも終わり、暗い空には蒼白い月が浮かんでいた。どう考えても散歩に出るような時間ではない。
「明日は一日積み込み待機なのをいいことに夜通し遊び回る気か? すまんが一人で行ってくれ。私はもう眠るところだ」
「プレゼントなかったんだから、頼み事くらい聞いてくれたっていーだろ? 早くしねーと誕生日終わっちまうじゃん!」
「…………」
 そこを責められると断りにくい。ルディアは短く溜め息をつき、肩にマントを引っかけた。
「……朝までは付き合わんぞ」
「やったー!」
 分厚く重いオーク材の扉を開けると一足飛びに秋が訪れたかのような外気が肌に触れる。コリフォ島は風に恵まれているのだろう。アクアレイア本国とはかけ離れて心地良い。
 レイモンドは「こっちこっち」と細い坂道を上っていく。他には誰も誘っていないらしく、ルディアと槍兵の二人きりだった。
 土の道の両脇にはこんもりと木々が茂り、曲者が潜んでいてもすぐには判別できそうにない。まさかとは思うが一応剣に手をやっておく。愛し合っていた恋人ですら裏切る世の中だ。疑うのは当然だった。
 しかしレイモンドの目的は物騒なものではなかったようである。闇の向こう、丘の頂上にやって来たルディアたちを迎えたのは淡い光の饗宴だった。

「――蛍か。また見事な数だな」

 視界一面を舞う光。まるで空の星がいっぺんに地上に降りてきたみたいだ。アクアレイアの葦原でも時折見られる光景だが、明るさは比較にならなかった。
 光を纏い、甲虫は上へ下へと踊り遊ぶ。見物客など意にも介さず、ルディアたちのすぐ眼前を横切りながら。
「へへっ! すごくねえ? 二年前に見つけたんだ。初めてコリフォ島に来た夜に」
「で? 私から案内料を巻き上げる気か?」
「色気がねーなあ。こんなロマンチックな場所に来たら、普通もっと『きゃあ素敵!』とか『嬉しいわ、ありがとう!』とか言うことあるだろ?」
 レイモンドはあからさまに落胆する。何を求めているのだと思わずルディアは額を押さえた。
「つくづく馬鹿だなお前は。青春ごっこがしたいなら、もっと相応しい相手を連れてこい」
「アイリーンは論外だし、モモと来たってしょうがねーじゃん。折角の誕生日だし、王女様と特別な思い出を作りたかったんだよ」
 おいと黙らせようとした唇は逆にあちらに制された。人差し指を振り払うとレイモンドは残念そうに一歩下がる。槍兵の肩越しに、月明かりと星明かりに照らされた蛍たちが気侭に飛び回っていた。
「姫様のケチ」
 誰がケチだ。大体その呼称は屋内でも厳禁だと命じているのに。
「俺だって誰でもいいわけじゃねーのにさー」
「どうせ誰にでもそう言っているんだろう」
 嘆息してもレイモンドは悪びれずに笑うだけだった。もしかすると葡萄酒で酔っ払っているのかもしれない。それなら適当に切り上げて聖堂へ帰らなくては。
「そうだ。お前の喜びそうなものが一つだけある」
「えっ? なになに?」
「これだ。取っておけ」
 ルディアは財布から取り出したコインをレイモンドに放った。胸元に飛んできたそれを槍兵は難なくキャッチする。
「お? 普通の銀貨と違う」
 月光に貨幣をかざしてレイモンドは瞬きした。
「私が生まれた年に作られた記念硬貨だ。コレクターに売ればいい値がつく」
「えっ、貴重品じゃねーの?」
「別に親の形見というわけでもない。気にするな」
 ふうんとレイモンドはコインをポケットにしまった。嬉しそうに擦り寄ってきて、性懲りもなく「サンキュー姫様!」などとのたまうので肘鉄をお見舞いする。近くの茂みがガサゴソと揺れ始めたのはそのときだった。

「おや、こんな夜更けに逢引きかい? 若者はいいねえ」

 掛けられた声に硬直し、冷や汗を垂らす。
 オリーブの間から現れたのはコナー・ファーマーだった。首から提げられた虫籠を見るに、どうやら昆虫採集の途中らしい。
「ご、ご冗談を」
 できるだけなんでもない素振りでルディアは笑った。
「逢引きなどではありませんよ。見回りを兼ねた単なる散歩です」
「でも彼氏のほうは確かに君をプリンセスと。ああ、安心なさい。別に他人に言いふらすつもりはないからね」
「……っ」
 聞かれた以上、もう変に誤魔化さないほうが良い。この人は異様に勘が働くのだ。ごくわずかなヒントから正体を悟られないとも限らない。
「わ、我々はこれで。暗いですから先生もお気をつけて」
 レイモンドの腕を引っ張り、そそくさと来た道を引き返す。ほろ酔い気分の抜けきらない槍兵が無邪気に「びっくりしたなー」とのたまうので、ルディアは鉄拳で返事をしなければならなかった。









(20150505)