アクアレイアの夏は病む。毎年暑くなるにつれ、どこの病院も慌ただしさを増していく。原因は明白だ。王都を守る天然の水堀、潟湖のもたらす弊害だ。激しい日射が沼沢地に照りつければムワムワと蒸気が立ち昇る。湿度の高さは体感温度を跳ね上げて、人々の掻いた汗が生ぬるい風を更に不快なものにした。
 澱むのは空気ばかりではない。ゆったり流れる運河の水は傷みやすくなり、干潮の後に取り残された水溜りなど完全に腐ってしまう。動かない水は死ぬ。そして死んだ水が放つ臭気ほど健康を蝕むものはなかった。
 最悪なのは沼や潟の一部が干上がったときである。水に蓋をされていた病魔が解き放たれ、街中に高熱が蔓延し、人々は生気を吸い取られてしまう。そう、今こうしてアイリーンが苦しんでいるように――。

「う、うう……っ、夏特有の懐かしい吐き気が…………」

 聖堂の整然と並ぶ長椅子に縋って女は身をくねらせた。ずっと寝込んでいたのが起き上がれるようになったのだから回復してはいるのだろう。が、いかんせん彼女は普段の顔色が悪すぎて、どの程度復調したのかルディアには見当もつかなかった。
「アイリーン、無理をしてはいけませんよ。祝福されしあなたの頭脳に万一のことがあれば人類の損失です」
「ああッ! ハイランバオス様!」
 温かい言葉にアイリーンはうるうる瞳を潤ませる。熱っぽい視線を受け止め、偽ハイランバオスはにっこりと微笑んだ。
「あなたにはまだまだ教えてもらいたいことがたくさんあるのですからね」
 ――アンバーがジーアンの聖預言者に成り代わってからおよそ一ヶ月の時が経つ。堂に入った彼女の演技には何年もハイランバオスの傍らで過ごしてきたアイリーンさえ「本当にあの方が生き返ったみたい」と涙ぐむほどだ。
 ジーアン語を習得するのもジーアン文化を理解するのもアンバーは早かった。結婚してアクアレイアを出るまでは女優志望だったらしい。久々に本気で役を演じられて楽しいと、彼女は喜んで困難に挑んでくれている。
「徹底してますよねえ、今じゃ素に戻ってる時間のほうが珍しいですもん」
 感心しきった様子でバジルが誉めそやした。
「モモたちも足引っ張らないようにしなきゃ! 皆、うっかり本名で呼んじゃ駄目だよ?」
 斧兵の言にアルフレッドとレイモンドが頷く。
 ルディアが普段からブルーノ呼びを心がけさせているのと同じに、アンバーもまた自分をハイランバオスとして扱ってくれと言い聞かせていた。常に本番のつもりで稽古をつけていなければ勝負どころで通用しないというのが彼女の持論だ。
 ルディアも同感である。何しろ騙す相手はジーアン帝国の頂点に立つ男なのだから。そのうえ天帝ヘウンバオスはハイランバオスの双子の兄ときている。アンバーが自己を封じて励むのも当然の話だった。
「だが問題はこの先だな。通商安全保障条約を結ばせるのにどう事を運ぶべきか、慎重に策を講じねばならん」
 ルディアは腕組みし、窓の外の海を見やった。墓島の寂れた古い聖堂からは王国湾がよく見える。その向こうには夏色のアレイア海も。乾期に入って晴天続きの海は穏やかで、今日も絶好の航海日和だ。
 だがアクアレイア商船は去年と同じに錨を下ろしたままだった。アレイア海東岸を支配するジーアン帝国が、未だ他国商船の寄港を認めてくれないためだ。王国商人が利用できる近海の港は依然ニンフィのそれだけだった。
 グレース・グレディの謀略は退けたもののアクアレイアの経済危機に変わりはない。国営定期商船団は一年半もストップしたままだし、折角上がった国王の好感度がまたガタ落ちになるのは目に見えた。
 実際イーグレットの政治手腕を非難する声はちらほら上がりはじめている。塩と魚だけで生きていくには王国民は増えすぎたのに、まだ商売に戻れないのかと。それに別件での陳情もだ。

「俺たちがユリシーズの後釜に座れたのは良かったが、ハイランバオスの護衛役と言ってもただこっそり相談事ができるというだけだものな」

 アルフレッドが口にした罪人の名にルディアは秘かに眉をしかめた。
 一つ問題が解決するとまた新しい問題が浮上する。すぐに片が付くだろうと思っていた暗殺実行犯の処分は意外な形で保留されていた。
 父としてはできるだけ早くユリシーズの刑を執行したいに違いない。何しろ己の命を狙った人間だ。だが今は迂闊に海軍の反感を買えなかった。忠誠心のない軍事力ほど他国に目をつけられやすいものはない。ジーアン帝国にも他の周辺国にも隙を見せるわけにいかなかった。
「っとに口の上手い奴だよなー、あいつ」
「脅迫されてたなんて嘘じゃんね? なんで皆信じちゃうかなー?」
「海軍内部に彼を庇う人間が後を絶たないらしいですよ。いやあ、日頃から人には親切にしておくものですねえ」
「おかげで私はとんでもない悪役です。ご存知ですか? 最近アクアレイア人は信用の置けない言動を『預言者かぶれ』と言うそうですよ! ああ、私にはもう天帝しか信じられない……!」
 腕を広げて大袈裟に嘆いてみせるハイランバオス――否、アンバーに「ああ! なんて素晴らしい預言者かぶれ!」とアイリーンが感涙に咽ぶ。これで彼女は王国政府にジーアン側の動向を探るスパイとして雇われているのだからお笑いだ。
 防衛隊もニンフィでの任を解かれ、今は王都でハイランバオス・アイリーンの両名を監視するように言い渡されていた。「くれぐれも機嫌を損ねるな」とのお達し付きで。
 アクアレイアの弱い立場が透けて見える。だからこそ天帝の弟にしてバオス教教主という好カードの切り方を間違えてはならないわけだが。

「すみませーん。王都防衛隊の皆様はおいでですかー?」

 と、屋外から防衛隊を呼ぶ声が響いた。人気のないのをいいことに防衛隊が臨時兵舎に使っている墓島の無人聖堂に誰か訪ねてきたようだ。
 入口に近いバジルが「どなたでしょう?」と問いかけると「海軍のディラン・ストーンと申します」と返事が響く。それはユリシーズと仲の良い、若い軍医の名前だった。
「えーと、なんのご用件で?」
「あ、実はジーアン帝国から使いの方がお見えになっ……」
 軍医が最後まで言い終わらないうちに簡素な木造聖堂の浅浮き彫りの正面扉が開け放たれた。
 飛び込んできたのは狐顔の青年だ。ジーアン絞りの帯紐で腰を飾った若者は象牙色の髪を弾ませて聖預言者に抱きついた。

「やっほーハイちゃん久しぶりー! 元気に説法してた!? 俺のこと忘れてない!?」

 あまりの軽さに面食らう。このふざけた再会の挨拶がルディアの初めて聞くネイティブジーアン語となった。女優に付き合って一緒にジーアン語を習っていた一同もフランクすぎる「ハイちゃん」呼びに固まっている。
 突然の珍客に対応できたのはアンバー一人だけだった。ハイランバオス然とした笑みを浮かべ、やんわり青年を押し返すと、彼女はにこやかに使者の名前を言い当てた。
「ええ、ラオタオも健やかに日々を過ごしていましたか?」
「うん、見ての通り! っていうか地方配属になってから暇で暇で死にそうでさあ」
「ふふふ、あなたの肌にアレイア海は合いませんでしたかね。ところで今日はまたどうして私に会いにきてくれたのです?」
 流暢なジーアン語に感嘆の息をつきそうになる。しかもアンバーはラオタオの情報もしっかり頭に入っているらしい。「そいつは若いが、アレイア海東岸を任されている将軍の一人だぞ」とか「ハイランバオスや天帝とは幼少の頃からの付き合いだぞ」とか助け舟を出す必要もなさそうだった。
 帝国からの来訪者はにこにこと、中身の違いに気づくことなく話を続ける。
「ああ、天帝陛下から『宴を開くので九月上旬に戻れる十将は戻るように』ってお達しがあってさ。ハイちゃん昔から布教活動に没頭しすぎて予定とか約束とか抜けちゃうじゃん? まさか大事な大事な主君の誕生日を忘れるわけないと思ったけど、一応クギ刺しとこうかなーって」
「なるほど、お気遣い感謝します。ですが九月十日のことだけは何があっても忘れやしませんよ。天を統べる太陽が我らの大地に降臨した記念すべき日なのですから!」
 ほう、とルディアは目を細めた。どうやらハイランバオスは天帝の誕生日を祝うために一時帰国せねばならないようだ。これは使えるかもしれない。
 ルディアはさり気なくアンバーの後ろに回って太腿をつついた。この閃きを察しろと彼女の背中に念を送る。
「ああ、でも待ってくださいラオタオ。そう言えば私は足を悪くしたままなのです。馬を駆って陸路で帰るのは難しいかもしれません……」
 アンバーが有能なのはわずかなヒントでルディアの意図を汲み取れるところである。自分から仕掛けておいてなんだが一発で伝わるとは思わず、驚いた。
 舞台では本番中に予期せぬハプニングが起こる。与えられた台詞以外は口に出せない状況で、目立たぬ手振りや視線を使い、なんとか意思の疎通を図る。そういう経験があるからできる離れ業なのだろうが、それにしても機転の利く女だ。こういう味方がいると助かる。
「だったらハイちゃんここの船借りればいいじゃん。なんなら俺の直轄地にも寄ってってよ。港とか使えるようにしとくからさあ」
 よし、よし、とルディアは内心ガッツポーズを決めた。そうだ、この流れだ。この流れをアクアレイアは耐え忍んで待っていたのだ。

「――ああ、なるほど。アクアレイアのガレー船を。名案ですね、ラオタオ」

 アンバーはぽんと拳を打った。ここまで来れば彼女やバジル辺りには狙いが何かわかってきたようである。
 王国がハイランバオスをジーアン首都まで送り届ける利点。それは「要人を乗せている」という理由で大船団を組むことができるという一点に尽きる。
 この二年、アレイア海東岸の重要寄港地をことごとくジーアンに奪われたがために、アクアレイアは水と食料と漕ぎ手を大量に要するガレー船団の航行を断念せざるを得なかったのだ。
 だがハイランバオスが船客になってくれるなら話は変わる。聖預言者に安全かつ快適な船旅を提供するために、ジーアン帝国にはこちらの望む全ての港を開放してもらわねばならない。そう、あの傍若無人なジーアンに対して堂々と要求できるのだ。
 しかもジーアン帝国の首都バオゾへ至るまでには葡萄酒の産地も砂糖の産地も香辛料の集結地もある。軍船が商船を、商船が軍船を兼ねるのはままある話だ。「送迎」を隠れ蓑にひと稼ぎさせてもらっても責められる謂れはない。
「えーっとディラン君だったっけ? 偉い人によろしく言っといてくれる? ハイちゃんに立派な船を貸してあげてねって。まあ俺たちの軍馬よりイケてる乗り物なんてないと思うけどさ!」
 嘲弄する口ぶりに多少むっとしたが態度には出さずにおく。せいぜい大国に尻尾を振るしか能のない哀れな小国と侮っていろ。その隙に我々は我々の生き残る道を見つけ出してやる。六十年前、初代アクアレイア王がパトリア聖王に笑われながら祖国の基礎を築いたように。
「ええと、それではレーギア宮にご案内いたしますので、ゴンドラへ」
 ラオタオは麗しき黒髪の軍医に促されて踵を返した。そのまま退室するのかと思ったら、帝国の狐は薄い唇を三日月にしてアイリーンの元へ近づく。
「アイリーンちゃん、相変わらず具合悪そうだけど大丈夫?」
「はっ、はいっ、ラオタオ様」
 びくりと病人が長椅子の背もたれに貼りつく。至近距離まで屈んでこられ、アイリーンはすっかり腰が引けていた。
「アイリーンちゃんてさあ、化粧とか全然しないの? 結構化けるタイプだと思うんだけどなー俺」
「ひえええ! そそ、そんなことはまったく」
「あはは! そんな謙遜しなくていいじゃん! あ、けど胸の足りなさは化粧じゃちょっと誤魔化せないかー」
「うっ……、す、すみません。そこまで栄養が回らなくて……」
「もっといっぱい肉食べなよー! じゃあまたねー!」
 ひと通りアイリーンを撫で繰り回すと満足したのか軽薄が騎馬民族の衣装を着て歩いているかのような男は敬意も礼儀も感じない足取りで聖堂を後にした。
 小さな嵐が過ぎ去るとバジルがほっと息を吐く。
「カロさんがいなくて良かったですねえ。今の場面、居合わせていたらキレてましたよ」
「なんなの、今のチャラジーアン? カロにうっちゃられても良かったんじゃない?」
「ふ、二人とも何言ってるの? カロと私は友達で、べべ、別にそういう関係じゃ」
 アイリーンは真っ赤になって否定した。そんな彼女にアンバーが「そうです、彼女は脳蟲研究に身を捧げた偉大な女性なのですよ」と言い添える。そのどこまでも自然すぎるハイランバオスぶりに防衛隊は改めて称賛の拍手を送った。
「しっかしあのラオタオって奴、いけ好かねー野郎だな。大体アクアレイアの船乗りをタダでこき使うつもりかよ? 俺はそんなの嫌だぜ、なあアル!」
 次いで飛び出したレイモンドの台詞にルディアはがっくり肩を落とす。まあそうだろうと思ったが、やはりこの槍兵は何もわかっていなかったか。
「馬鹿ですねえ、レイモンドは。タダより高いものはないって言うでしょう? ジーアンはそうとは知らず、僕らに護衛艦付き商船団の航行を許可してくれたも同然なんですよ?」
「えっ!? ど、どーいうことだ!?」
「どういうも何も……、とりあえず商品目録を作りながら何日か待ってみたらどうですか? ジーアン行きが評議会で決定されれば同行商人の応募も始まるはずですから」
 バジルはぞんざいにレイモンドをあしらった。解説を求めて槍兵は金髪頭をキョロキョロさせるがハートフィールド兄妹は「モモたちも頑張って薬仕入れなきゃねー」「ああ、いつまでも実家が開店休業中なのは心苦しいしな」などと話し込んでいて応じない。不出来な生徒の教師役を務めてやるほどルディアもお人好しではなかった。皆に捨て置かれたレイモンドを救済したのはバオス教の聖なる御手だった。
「航行は間もなく現実のものとなるでしょう。さあレイモンド、天帝の加護を信じるのです……!」
「ハ、ハイランバオス様! 俺、俺、よくわかんねーけどとりあえず商品目録作りますう……!」
 ジーアンへ向かうガレー船の漕ぎ手と船団の同行者を募る張り紙が国民広場に掲示されたのは数日後のことである。
 パトリア聖暦一四四〇年七月十五日、王都は久々の航海予告に沸き返った。豪商たちは大急ぎで荷の積み込みを開始し、自前の船を持たない人々は競売で買える積載枠に殺到した。乗組員の抽選も前代未聞の規模に膨れ上がったほどだ。どれだけ商船団の運航が待ち侘びられていたかが知れよう。
 出航まで時間的猶予はなかった。九月初旬にジーアン首都へ達そうと思えば遅くとも月末には発つべきである。だがその程度の多忙に戸惑うアクアレイア人ではない。予定通り、一秒たりとも遅れることなくハイランバオス護送団は税関岬に集結した。じめじめした湿地の夏の蒸し暑さとは対照的な、うきうきとした表情で。




 ******




 ――遡ること半月前、アクアレイアで水夫の募集が始まったのとほぼ同時期、マルゴー公国でも正規兵の招集が行われていた。
 正規兵と言えば聞こえはいいが、この手の呼び出しを受けるのは君主の近侍や親衛隊といった貴族階級の騎士ではなく、実戦経験豊かな傭兵たちである。要するにこの国では「国家の名で雇ったゴロツキ界の精鋭」を指して正規兵と言うのだった。それでも一応馳せ参じると愛国心の高い部類が集まるのだから面白い。いや、きっとそれがマルゴーのマルゴーたる所以なのだろう。
 齢三十四になる戦士グレッグも一千人の猛者を率いる傭兵団長の一人である。団の規模をここまでにするには様々な苦労があった。不慣れな外国での放浪、文句をつけては支払いを拒む諸侯との争い、負け戦からの逃亡、その他諸々だ。
 マルゴー公国は貧しい。領地のほとんどが高い山だから穀物は少ししか収穫できないし、生きるためには足りない食料分どこかで働かねばならない。
 六十年前、アレイア公は独立戦争に粘り勝ってアクアレイア王国を得たが、マルゴー公は最後の最後に敗北した。公国として自治権を認めてもらうために豊かな平原を手放さなければならなかった。その結果アルタルーペの山々には飢えた領民が続出することになったのだ。
 木と人があるだけのマルゴーに「建材を売ってくれ」と言ってきたのはアクアレイアだ。マルゴーはまず森を金にする手段を覚えた。国内では樫の木一本自生しない海の王国は良い客になった。
 次にアクアレイアは傭兵団をよこしてくれと言ってきた。彼らは自国の親であるパトリア古王国と派手に喧嘩したままだったので、都市の形が整うまでは陸上防備に気を抜けなかったのである。
 マルゴー公国の進む道はこのときに決定した。約束通り、隣国を守り抜いた傭兵団は内紛に明け暮れる西パトリアのあちこちで引っ張りだこになったのだ。
 戦いを生業にすれば暮らしていける。その事実を目の当たりにしたマルゴー民は口減らしに子供を捨てるより一本の剣を与えて旅立たせた。今では傭兵と言えばマルゴー、マルゴーと言えば傭兵と一般常識になっているほどだ。国を挙げての一大産業なのだからそうでなくては困るけれど。
 しかしわざわざ公爵が傭兵団ではなく正規兵として自分たちを招集するとは何事だろう。まさかまたジーアン帝国と一戦交えるつもりでいるのだろうか。
(三月に休戦協定結んだばっかなのになあ?)
 首を傾げるグレッグに答えはすぐに知らされた。謁見室に現れたマルゴー公ティボルトの差し出した一枚の羊皮紙によって。

「絶ッ対嫌だね! なーんで俺がアクアレイアのガレー船なんぞに乗らなきゃなんねえんすか!? 死んだってお断りですよ!」

 不愉快な契約書をぐちゃぐちゃに丸めて捨てて声の限りにグレッグは叫んだ。こちらの反応は見越していたか、腕を広げたティボルトが退出しようと背中を向けたグレッグを引き留める。
「そんなこと言わんでくれグレッグ! もう三人も断られてわしだって辛いんじゃよ! ほれ、お前チャドと仲良くしとったろう? アクアレイアで肩身の狭い思いをしながら暮らしとる愚息のために、どうかこの仕事引き受けてくれんかの?」
「あーっ! 王子の名前を出すなんて卑怯っすよ公爵! つうかチャド王子を婿養子に出したのは公爵じゃないですか! そうやってなんでも傭兵が尻拭いしてくれると思ったら大間違いですぜ!」
「グレッグー! 礼は弾む! 礼は弾むからあ!」
 身も世もなくしがみついてくる老体を力いっぱい寄り切りながらグレッグは「俺はアクアレイアが大ッ嫌いなんです!」と固辞の意を示す。
 傭兵団として稼ぎに行くならともかく、正規兵の名では関わりたくもない。正規兵ということはアクアレイアではなくマルゴー公国が支払いをするということではないか。あれだけ荒稼ぎしているくせに、いつもマルゴーを出し抜くくせに、びた一文出す気がないとはどういう了見だ。
「グレッグ、もうお前しかいないんじゃ! 今回はどうしても正規兵でなきゃならん理由があるのじゃよお!」
 公爵の泣き落としにグレッグは立ち去りかけた足を止める。甘いとは思うが苦労続きの老君を見捨てるのも忍びない。とりあえず話だけは最後まで聞いてやることにする。
「正規兵でなきゃ駄目な理由?」
「そうじゃ、ハイランバオスの護送を務めたのがアクアレイアだけとなると後でジーアンに何を言われるかわからん。マルゴーのために辛抱してくれ。この通りじゃ!」
 グレッグは返答に詰まった。祖国のためと言われると急に断りづらくなる。
 確かに天帝の弟をアクアレイア一国に任せきりにしたのではマルゴー公国の立場が危うい。あの聖預言者を賓客として迎えたのはマルゴーとアクアレイアなのだから。
 ジーアン騎馬軍は国境を去ったが、いつどんな理由で攻撃を再開してくるかわからなかった。マルゴーは帝国と境界を接する国の中で最も弱小なのである。それに地理的にも重要なパトリア地方への入口だ。帝国に対し、少しの予断も許されなかった。
「……チッ、わかりましたよ。行けばいいんでしょ、行けば」
「おお! グレッグ! やはりお前に頼んで正解じゃった!」
「暑苦しいんで手ェ握らないでもらえますかね公爵ゥ!」
 我ながら高貴な身分の人間を相手に失礼極まりない。しかし傭兵隊長として名を上げれば君主とも対等に渡り合えるマルゴーの在り方は好きだった。
 公爵は傭兵に戦地の情報を与え、向かうべき場所を示す司令官だ。頭がなければ手足は働きようがないし、頭だって手足がなければ自分では何ひとつできない。貧しい国だから、そうやって一体になって生きるしか術がないのだ。
 余所でどんなに冷遇されても傭兵たちは祖国のためには命を張る。マルゴー公国の街はどこも、帰還した傭兵団を英雄として出迎えてくれるから。
「それでは早速契約書にサインと判をしてもらおうかの、ほれほれ」
「ったく、そんな焦んなくてもコロコロ気が変わったりしないって」
 またアクアレイアにいいように使われるだけではないのかという一抹の不安を覚えつつ、グレッグはティボルトに羽根ペンを借りた。
 あの国の商人はマルゴーから買った木材を海の向こうの砂漠で売り、大量の金銀と交換していると聞く。奴らはジーアン帝国以上に油断ならない。これはマルゴーのためになると言いながら、いつも自分たちがもっと多くの得をするのだ。
 いいだろう。この機会に俺たちマルゴー傭兵がどんな逸材の集まりか奴らの頭に刻みつけてやる。待っていろ、金の亡者どもめ!




 ******




 船団に二百名のマルゴー正規兵が同乗すると知らされたアクアレイア海軍の反発は相当なものだったに違いない。「海のことは海の人間で」が彼らの主義であり誇りである。邪魔な山猿を飼うスペースはないぞと毒づく姿がまざまざと目に浮かび、ルディアは痛むこめかみを押さえた。
「…………」
「…………」
 出航の日、国営造船所内の軍港は険悪な雰囲気に包まれていた。ぶすっと唇を尖らせてガンを飛ばし合う両軍は桟橋に整列したきりぴくりとも動かない。和やかな会話はもちろん形式上の挨拶さえなかった。
「ほへえ、二百人ってどの船に乗るんだ?」
「多少分散するだろうが、ハイランバオスと同じ旗艦だろうな。つまり我々の乗る船だ」
 レイモンドの問いに答えてルディアは短く息を吐く。面倒事にならなければいいのだが。
 と、そこへ金で塗られた船室付きの王室専用ゴンドラが波に揺られて現れた。イーグレットとチャドがハイランバオスの見送りに来たらしい。船頭の隣にはこの船旅の総責任者、ブラッドリー・ウォードの姿も見えた。
「あ、伯父さん!」
 憧れの騎士を目にするやアルフレッドが正しい姿勢を更に正す。敬礼する彼の目の前で舟は桟橋に取りついた。
「王都防衛隊の諸君、ご苦労。ジーアン帝国の首都、バオゾに着くまで今まで通りハイランバオス殿とアイリーン殿の身辺によく気をつけるように」
「はい! ブラッドリー提督!」
 アルフレッドの頬は紅潮し、瞳はきらきら輝いている。先月まで中将だったブラッドリーが海軍の頂点に立ったのが嬉しくて堪らない様子だ。だが提督と呼ばれた本人は気まずそうに苦笑いするだけだった。
 おそらく実力で掴んだ地位ではないからだろう。ブラッドリーはただ息子の減刑を乞うて退いたシーシュフォス・リリエンソールの穴を埋めたに過ぎないのだから。
「我が公国の兵たちも初めての長期航海だ。よろしく頼む」
「お任せください、殿下」
 興奮状態のアルフレッドに代わってルディアがチャドに応対する。
 何度となく言葉は交わしているものの、未だに彼と夫婦になった実感は薄い。チャドはルディアよりブルーノに夢中のようだし、身体を返した後が大変そうだ。
「ハイランバオス殿、道中お気をつけて。戻ってこられるにせよ、別の土地へ赴かれるにせよ、王国海軍がしっかり送り届けさせていただきます。安心して海の旅をお楽しみください」
「ご厚意に感謝します、波の国の王よ。私はこの国がとても気に入りました。天帝にもよくよくそのことをお話ししておきましょう」
 アンバーとイーグレットが友好的に握手を交わす。当然だがハイランバオスがグレースでなくなってからの両者の関係は良好だった。
 しかしいくら懇意になったとはいえ客人のための送迎船が行き来できるのはせいぜい年に一、二度だろう。その程度では王国の不況を回復させられまい。この旅で必ず東方交易再開の糸口を掴まなければならなかった。今のままではアクアレイアはじりじり弱って飢え死にするしかなくなってしまう。
「そうそう、例の絵ですが間に合いましたよ。さきほどコナー本人が持参してまいりました。天帝陛下にお気に召していただけると良いのですが」
 聖預言者の手を離したイーグレットは金のゴンドラを振り返った。
 コナーと聞いてルディアはまさかと目を瞠る。ヘウンバオスを祝うべく稀代の万能人に画筆を執らせたとは聞いていたが、その当人が今日ここへ完成品を運んできたということは――。

「急に乗客を増やして申し訳ない。天帝を訪問する機会など滅多にありませんからね。どうか私も道連れにしてくださいますか、ハイランバオス殿」

 船室からひょっこり顔を出したのは芸術家にして歴史家、軍師にして発明家のコナー・ファーマーであった。元ルディアの家庭教師で王族に必要な全てを教えてくれた大恩人である。知性の泉たる深い瞳も、穏やかだが鋭さを感じる物腰も、まるで昔と変わっていない。
 一瞬でアルフレッドと同じ顔になり、ルディアは慌てて口元を引き締めた。
 なんという僥倖だろう。まさかこの人に同行してもらえるとは。
「これはこれは、我が君もきっとお喜びになられるでしょう。あの方は技術者や知識階級の者と話すのが何よりお好きですからね」
 いよいよハイランバオスぶりの板についてきたアンバーが会ったこともない天帝についていけしゃあしゃあと語ってみせる。三白眼をにこやかに細め、肩で切り揃えた黒髪をなびかせ、コナーは「良かった」と微笑んだ。

「よーし、出航急ぐぞ! 全員乗り込め!」

 船着場でイーグレットら王侯貴族が手を振る中、聖預言者と付き人と防衛隊、天才芸術家に商人に船乗り、王国海軍、マルゴー兵を乗せたバラエティ豊かなガレー船団はアクアレイアを旅立った。パトリア聖暦一四四〇年、七月末日のことだった。




 ******




「ガレー軍船が十隻、ガレー商船が五隻だからまあ中規模の船隊というところだな。海賊船が寄ってくる心配は少ないだろう。バオゾへはアレイア海東岸を下ってドナとヴラシィに寄港、アレイア海を出たらすぐにコリフォ島、そしてパトリア海のイオナーヴァ島とミノア島、最後に東パトリア帝国の首都ノウァパトリアを回って到着だ。季節もいいし、九月十日には十分間に合う。一ヶ月くらいで着くはずだ」
「そうか、流石に今回はクプルム島やエスケンデリヤには寄れないのだな」
「ああ、どちらも日数がかかりすぎる。それに木材を積んだ船がないし、砂漠に近いエスケンデリヤには用がない。売り荷は暇にあかせて編んでいたレース装飾ばかりだから、どこで取引しても高く売れるだろう。クプルム島の砂糖もミノア島で買えないことはない」
「ふむ、真っ当な送迎コースを行くだけできちんと商売になるわけか」
 長い航海が初めてのルディアは狭い客室の寝台で地図を広げたアルフレッドの講釈を受けていた。寝床を四つ詰めただけでぎゅうぎゅうの小部屋では弓兵が無心に精霊へ感謝の祈りを捧げている。今日からこのこじんまりした一室で防衛隊とアンバー、アイリーンは寝食を共にするのだ。
「ああ、婚前の身でモモと枕を並べるなんて……! そんな、そんないけないこと……!」
「うわっ、バジル気持ち悪……」
「男の子らしい発想ねえ」
「天帝の名において許しておあげなさい。モモ、どうせ彼には何もできません」
 全員の声が妙に近い。プライバシーもへったくれもない空間だ。これで他の船乗りよりは遥かに快適な環境なのだからガレー船の居住性の低さと言ったらなかった。
 ルディアたちの乗り込んだ旗艦は船団の中で最も大きい。士官室だけでなく客室が二つもあるし、漕ぎ手用の救護室までついている。が、屋根のある部屋は上記四つと船長室くらいだった。下甲板の倉庫は水と食料、貨物でぎちぎちだ。上甲板には長椅子が二列に並び、腰かけた屈強な水夫が櫂を握っている。海軍の士官や衛生兵たちは彼らの邪魔にならない場所で肩を寄せ合っていた。
 ガレー船は風力で動く帆船と違い、人力で動かす船である。人間を乗せれば余剰スペースなんてものはほぼなくなる。外気に晒されっ放しのベンチで目的地まで耐える者がほとんどだ。多少不便でも文句は口にできなかった。

「ふう! 準備完了っと!」

 と、ノックもそこそこに客室の扉を開く音とレイモンドの能天気な声が響く。ルディアは戸口に目をやって不真面目な槍兵を睨みつけた。
「おい、どこをほっつき歩いていた。お前、旗艦に乗り込むときマルゴー兵に混じって最後尾にいただろう? 何故要人警護の任を放ったらかしにした?」
「お、怒るなよー! 防衛隊は五人もいるんだし、出航前に一人くらいいなくなっても平気だろ?」
「規律を乱す者は例外なく懲罰の対象だ! 一ヶ月の減俸は覚悟しておけ!」
「ええッ!? そりゃねーよ! げげげ、減俸って一割? 一分? 一厘?」
「一厘で済むか馬鹿者! 一割五分は差し引くからな! 無断で部隊を離れた罰だ!」
「ヒエーッ! で、でも俺一応ハイランバオス様の許可取ったんだけど!? ね、ねえ? そうっすよね、教主様?」
「天帝は全てをお許しになられます。そう、あなたが犯した過ちも……」
「ああッ!? 俺が悪いことになってる!? け、けど行ってくるって言っておいたのは確かなんだってー!」
 言い訳がましい男を無視して立ち上がる。今のうちに船内を見回っておこうと甲板へ向かうルディアの肩に「ごめんなさい! もうしません!」と槍兵が泣きついた。
「ほんっとしょうがないですねー、レイモンドは」
 呆れた様子でバジルがレイモンドの腕を引っ張る。基本的に年上には「さん」付けで呼びかける弓兵にもそうしてもらえない理由は聞かなくてもわかる気がした。どうしてこう頭が足りないのだろう、この男は。
「うう、俺いい仕事してきたのに……グスッ……」
「そんなこと言って、仕事サボってブラついてきたんでしょう? まあその隙に僕がモモの隣のベッドをキープさせてもらいましたけど……」
「信じろよー! ホントにいい仕事してきたんだよー!」
 レイモンドはぐずぐずと鼻を啜る。やかましい槍兵に溜め息を一つこぼし、ルディアは客室を後にした。




 ******




 弁解すると、アクアレイアに到着してからグレッグたちはずっと気分が良くなかった。日時の順守は社会のマナー。正規兵として二日前にはアクアレイア入りしていたのだが、うだるような暑さに当たって全員すっかり体調を崩していたのである。
 だが「夏ってのはもっと爽やかなモンだろ!?」と怒ってもしょうがない。海軍の男連中が平気な顔をしている横で醜態を晒すのも癪だった。それでつい我慢してしまったのだ。船さえ出れば自分たちの健康状態も戻るだろう、と。ただグレッグは知らなかった。海には更に厄介な魔物がいるということを――。

「うえええええ…………っ」

 身を乗り出して吐き散らした半固形物が青い海に飲み込まれていく。あれはおそらく陸上で最後に食べたアレイア海老だろう。そんな臭いが酸っぱい口の中にしっとり残っている。
 船酔いにやられたマルゴー兵が死屍累々と伸びている旗艦左舷でグレッグもついにダウンした。これは駄目だ。もう駄目だ。片意地を張っている場合ではない。最初の寄港地ドナまではまだ七時間はかかるらしい。全員に水分を補給させ、特に酷い兵は医者に診てもらわなければ。
 そう思い、なんとか気力を奮い立たせてグレッグは若い衛生兵を捕まえた。確かディランとかいう貴族のお坊ちゃんだ。慈善病院の経営で有名なストーン家の。
 グレッグは恥を忍び、小声で「治療してほしい」と頼んだ。仲間のためだ。背に腹は代えられない。
 だが少女と見紛う面立ちの青年は非情だった。揺れ続ける船上で前後不覚になっている半病人を前にして、輝く笑顔で首を振る。
「あっ無理です。マルゴー兵の面倒は見ません」
 この暴言を耳にして張り飛ばさなかった自分を誉めてほしい。ただし騒ぎは起こさずにいられなかったが。




「どういうつもりだテメェ!」
 やくざ者の恫喝が上甲板に響き渡ったとき、ルディアとアルフレッドはたまたま救護室の側にいた。
「どういうもこういうも、今申し上げた通りです。この船の軍医及び衛生兵は全員マルゴー兵の看護をお断りいたします」
 目の前で飛び交う不穏な言葉に顔を見合わせる。ルディアの目配せで騎士はすぐブラッドリーを呼びに走った。
「そんなにうちの連中がおたくらのガレー船に乗り込んだのが気に食わねえのか? 確かに俺らは海兵じゃねえ、てめえらにしちゃハナからお呼びじゃねえだろう。だがマルゴー正規兵として、最低限の責務は果たすつもりで来てんだぜ?」
 殴り合いになるかと思ったが、武骨な革の鎧姿の傭兵団長は意外に冷静だ。焦げ茶色の髪の下の真っ青なヒゲ面を見るに、単純に拳に訴える体力が残っていないだけかもしれないが。
「いえ、そういう感情的な理由でお断りしたのではありません。本当は今すぐ水を飲ませてさしあげたいくらいお可哀想にと同情しているんですよ?」
「しょーもねえ嘘つきやがって! ぶん殴られてえのか!?」
「いえいえ本当に……あっ、ブラッドリー中将!」
 ディランは笑みを崩さないまま海軍「提督」を仰いだ。と同時、軍医を背中に庇うように赤髪の少尉が歩み出る。垂れ目だがアルフレッドとよく似た男。名前は確かレドリー・ウォード。ブラッドリーの長男でユリシーズとは幼馴染の。
「これは一体なんの騒ぎだ?」
 威厳ある低い怒声にレドリーが怖気づく様子はなかった。ただ淡々と、最初から予定されていたのであろう台詞を吐く。
「別に何も? 我々の救護室は我々アクアレイア人のためにあるのだと、そう傭兵団の団長殿にお話ししていたところです」
「何?」
「だってそうでしょう。限られた物資を客人でも戦力でもない連中にどうして分けてやる必要があります? 我々の雇った傭兵でもないし、船酔いくらいで誰も死にやしません。放っておいて構わないと思いますが」
 親子はしばし無言で睨み合った。少々遅い反抗期、というのでもなさそうだ。海軍の内部分裂は平然と提督に噛みつく輩が出るほど深刻な様子である。
 レドリーもディランも取り巻きの若い兵士たちも、ユリシーズの無罪釈放とシーシュフォスの現場復帰を嘆願している者ばかりだった。船上でストライキとはなかなか強気な脅しではないか。
「救護室は船の全ての傷病人に開放されている。戯言をぬかすな! ディラン、さっさとマルゴー兵を診てやれ!」
「ええ、中将がユリシーズ中尉の減刑を陛下に説いてくださるのなら喜んで」
 軍医の差し出した署名用紙をブラッドリーは叩き落とした。甥に似て職務に忠実な彼はそのままディランとレドリーの首根っこを掴み、問答無用で船長室へ引きずっていく。
「おお、ありゃ三発は鞭を食らうぜ……。おっそろしいな……」
 いつの間にか傍らに立っていたレイモンドが青い顔で震えた。アルフレッドも半ば呆然とブラッドリーや叫ぶ従兄の後ろ姿を見送っている。
「どう処罰されようとお前たちを診る気はないぞ」
 と、その場に残された他の軍医がグレッグに釘を刺した。
「こっちだって! 戦力外扱いされて誰がてめえらの世話になるか!」
 傭兵団長も啖呵を切って自軍の陣地へ戻っていく。
 だが彼の勢いは一分ともたなかった。頭に血が上ったせいか熱まで出てきてしまったようで、三歩も進むとぱたりと倒れる。傭兵たちは半泣きでボスの腕を引き、懸命に船縁の日陰に運んだ。
「ふっふっふ……俺の思った通りだったぜ」
 そんな痛ましい光景を目にして何故かレイモンドがほくそ笑む。他人の不幸を喜ぶとは悪趣味な一面もあるのだな、と思っていたら、槍兵は比較的顔色の良いマルゴー兵にこっそり声を掛けにいった。
「?」
 ルディアがしばらく様子を見ているとマルゴー兵がペコペコ頭を下げ始める。「いいっていいって! 俺は海軍所属じゃねーし!」とかなんとか聞こえたが、一体なんの密談だろう。

「ああ、なんだ、そういうことだったんですね。なんでレイモンドが乗船前に隊列を離れたのか理解できましたよ」

 背後で響いたバジルの声に振り返る。怪訝に眉根を寄せたルディアに少年は「あんな大量のレモンを買ってどうするのかと思ってましたけど」と続けた。
「はあ? レモン? あの馬鹿わざわざそんなものを買いに軍港を離れていたのか?」
 間もなくさっきのマルゴー兵がレイモンドと船倉に消え、小袋を脇に戻ってきた。袋の口が開かれるや、爽やかな香りが甲板に流れ出す。
「ううっ……。ありがてえ、ありがてえ」
 吐き気に苦しんでいた傭兵たちは新鮮な柑橘の果汁に救われたらしかった。起き上がれない者から順に薄切りのレモンが行き渡っていく。
「わっはっは、準備しておいて正解だったぜ!」
 時間差で甲板下から顔を覗かせたレイモンドが誇らしげに笑った。
「なるほどな、こうやって人脈を広げているわけか。レモン代は今後のための投資なのだな?」
 感心するルディアに槍兵は「へ? 投資?」と聞き返す。
「いっぺん船酔い中のレモンの味知ったら次からは金払ってでも欲しいと思うようになるだろ? ふっふっふ、試食は一回こっきりだぜ! 明日からは一個五十ウェルスで売る!」
 どうやらボランティアではなかったらしい。手の込んだやり方に思わず足を滑らせそうになる。
「だったらいっそ適正価格の倍にして売ればいいのに。小銭稼ぎでは減給の分くらいしか埋まらないだろう」
「ええ? ダメダメ、そりゃ駄目だ。ぼったくりの恨みは深いんだぞ。俺たちがマルゴー兵との関係こじらせたらチャド王子が困るじゃねーか! 俺は偉い人には睨まれたくねーんだ!」
 商売上手なのかそうでないのか判別の難しい男だ。だが確かに、親マルゴーのルディアとしてはレイモンドのおかげで助かったと言える。
 あのまま本当に病人が放置されていればマルゴー兵たちの心象は最悪だっただろう。仕方がない、今回の減俸はなかったことにしてやるか。




 ******




 パトリア古王国の軍勢にマルゴー公との連絡を絶たれ、孤立したアレイア公。沼沢地へと追い詰められた勇将に手を差し伸べるは女海賊アリアドネ。王国の始まりをどう絵に起こすかコナーはしばし考えに耽る。
 どちらかを脇役にしてしまうのはいただけない。二人のうちどちらが欠けてもアクアレイアは生まれなかった。ならば暗黒の海に灯火を見つけた船のよう、互いに激しく惹かれ合い求め合う、そんな様を描き出しても良いのではないか? あまり男女の関係を前面に出すなと長老方はお怒りになるかもしれないが、民衆はいつだってロマンと情熱を愛するものだ。
「ふむ……」
 と、甲板から人の足音が近づいてくるのに気づいてコナーは木炭を持つ手を下ろした。おそらくあの弓使いの少年が偵察から戻ってきたのだろう。

「あ、コナー先生! 先生の仰る通りでしたよ。行ってみたらマルゴーの傭兵団長がうちの軍医さんに食ってかかってるところでした!」

 防衛隊の一員だというバジル少年は利発そうな目をキラキラさせてコナーに寄ってくる。彼の関心はもう報告を終えた騒動からコナーの向かうキャンバスに移っていた。
「わあ! 僕、何も描かれていない画布って初めて見ました! 船の帆を板に貼って、油絵具を重ねていく手法、コナー先生が初めて編み出したんですよね? 絵画のことは全然わからないですけど、技術の革新って胸が躍ります!」
 おっかなびっくり隣の客室からやって来た彼に「前々からファンなんです」と打ち明けられたのはついさっきのこと。少年はジャンルとしては芸術よりも大学での講義をまとめたノートだとか発明のアイデア集だとか、工学のほうに興味が強いようである。
「ふふ。要らないセイルがあると聞いて、見てみたらいい素材だったからね」
「そこでじゃあ何か描いてみようってなるのがすごいですよ! あの、こちらのキャンバスにはどんな絵を描く予定なんです?」
「これかい? これはまだ『王国の父母』というタイトルしか決まっていないんだ。イーグレット陛下からアクアレイアの歴史を書と絵にまとめてほしいと頼まれていてね」
「お、おお!」
「あの方は色々と考えておいでだね。祭りやレガッタ以外にも王国がひとつになれるものがないか、模索していらっしゃるようだ」
 コナーは寝台に投げていた草稿を手に取るとバジルに手渡してやった。走り書きだがもう大抵の主要な事実は述べてある。アクアレイアが独立国になる前は、潟湖にアレイア海一帯を縄張りにする海賊の拠点があったこと。その海賊が聖王に追われるアレイア公を助けて戦ったこと。沼沢地での戦闘に疲弊した聖王が条件付きでアクアレイア王国を認めたこと。聖王に突きつけられた条件が「王家はパトリア古王国の血筋を絶やさない」「アレイア公は海賊アリアドネを妻とする」「以後アリアドネ一味はどんな海賊行為も働かない」「このうちの一つでも破られれば即刻王国は取り潰す」だったこと。
 非常に難しい状況での建国だった。黎明期のアクアレイアを担ったのは貴族と海賊というまったく異なる人々だった。
 それでも貴族は王に倣って積極的に海賊たちと結婚し、海賊たちは船を差し出して商売の秘訣を伝授した。生き残る場所を欲した者と、裏社会からの脱出を願った者は、見事に手と手を取り合ったのだ。
「当時の話、寝る前によく母に聞かせてもらいました。お前のひいお祖父さんは初代国王と肩を並べて戦ったのよって」
 懐かしそうにこぼすバジルの横顔を見つめる。彼にとっては半分歴史で半分物語なのだろう。王都にはまだあの時代を生き抜いた老人もいるけれど、数は随分少なくなっている。
 あの頃アクアレイアの民は確かにひとつだった。泥の城だと嘲笑われても、すぐ海賊に逆戻りすると侮られても、国は交易で大きくするぞと誰もが必死で、誰もが前を向いていて。
 夢は叶った。アクアレイアはパトリア聖王より金持ちになった。「我々だって古王国と戦ったのに」とマルゴーが嫉妬するほど。
 だが初代国王夫妻は少々偉大すぎたのだ。イーグレットでは到底彼らを越えられない。だからあの賢明なる二代目は、親の名声を王家の名声にすり替えることを考えたのだろう。
「私の本が完成すれば、きっと王国中で愛読される歴史書になるよ。独立戦争を直接は知らない若者たちも王家の奮闘を思い描けるようになる。あとは陛下と――そう、ルディア姫次第だね」
 彼女はなかなか鍛え甲斐のある生徒だった。根性も据わっていたし、なんのために学ぶのか目的意識がはっきりしていた。
 あの子は今頃どうしているだろう。妻や母なんて枠の中に大人しく収まっている性分ではなさそうだが。
「バジル君、私はしばらく執筆活動に没頭するよ。また手の空いたときにでもおいで。君は楽しい話し相手のようだからね」
「え、ええっ!? いいんですか!? ぜぜぜ、是非お願いします! あの、その、今日はお邪魔いたしました!」
 少年が退散するとコナーは再び思考の世界に埋もれていった。
 アクアレイアの歴史を語るには、かつて大陸に君臨した大パトリア帝国や、そこから分裂して発展した東パトリア帝国、今や残りかすのパトリア古王国についても触れておかねばなるまい。
 イーグレットが望んでいるのは自国だけに都合の良い神話ではないだろう。公正な目で見てもアクアレイアの初代国王夫妻は偉業を成し遂げたのだから、無粋な改竄は不要である。こういう記録を残させたことでイーグレット自身も後世必ず評価されるに違いない。
 だが一つだけ引っ掛かる。祖国の歴史をなんらかの形にしようとするとき、その国は終焉に近づきつつあることが多い。えてして若者よりも老人のほうが自伝を残したがるのと似て。
 六十年。人の寿命より少し長いくらいの時間だ。アクアレイアができてから、もうそんな年数が経ってしまった。一介の小国として埋没するか、ジーアンを食い荒らすほどの大国に化けるか、ここが正念場だ。
(面白くなってきた)
 コナーは白いキャンバスを見つめ、口角を上げた。
 天帝の所領、幾多の島影の奥にあるドナの港は静かに近づきつつあった。









(20150502)