いつも夏は船の上だった。弩と剣を携えて、父と同じ海軍に入った十二の歳からただの一度も例外なく。
だが今年は違う。打ち寄せる波の音は聴こえても跳ねる姿は見当たらない。まして船など幻だった。
見渡す部屋に窓はない。天井近くに明かり取りの小さな穴が並んでいるだけだ。独房としてはありがたい広さだが、男盛りの二十二歳が余生を過ごすには狭すぎた。日が陰り、慰めの書物も読めなくなって小さな机のチェス盤に手を伸ばす。
対戦相手などいないから、できるのは戦場シミュレーションだけだ。看守や見張りの兵士たちは囚人との会話を禁じられているのである。それでも彼らは時々こちらを励まそうと優しい声をかけてくれた。けれど自分が彼らの好意を受け取らなかった。己はもはや敬われるべき軍人ではなくなったのだから、と。
「ユリシーズ！」
幼馴染の声にユリシーズは顔を上げる。鉄錠の掛けられた重い扉を開いたのは海軍少尉のレドリー・ウォードと同輩の軍医ディラン・ストーンだった。
レドリーは赤毛の短髪を乱し、獄中のユリシーズに駆け寄ってくる。
「シーシュフォス提督が、親父さんが辞職したぞ」
ああ、と冷静に返事するユリシーズに直情型の幼馴染は唇を歪めた。苦しげなのはユリシーズに縄をかけたのが彼の父親と従弟だったせいだろう。面会の許された最初の日、レドリーには「何も知らなくてすまない」と詫びられた。あれから少しも友人の心境に変化はなさそうだ。
「提督はあなたを極刑から救おうと尽力なさっているんですよ」
ディランは透き通った水色の瞳を潤ませる。このうねった黒髪の文学青年は物語めいた最近の展開に感動を禁じ得ないようだった。
瞼を閉じればまだ鮮烈に思い出せる。あの日、運命のレガッタでユリシーズは大敗を喫したのだ。元より勝負は分が悪かった。焦って国王弑逆など謀らずとも他にやりようはあったかもしれない。――だが。
グレースからクリスタルへの代替わり以来グレディ家は冴えなかった。長女と婚約したはいいものの、別の貴族に勢力を奪われそうな雰囲気すらあった。流れが変わったのはハイランバオスの来訪からだ。海軍を持たないジーアンは内部からアクアレイアを掌握しようとしたのだろう。傀儡にするにはグレディ家はまたとない駒である。ユリシーズにもその思惑は見て取れた。
ジーアン帝国は侵略地からかつての支配層を追放し、ジーアン派の新政権を据える統治で知られている。ただしこれは一戦も交えることなく降伏した街にのみ適用されるやり方だ。わずかでも非服従の態度を見せた街にジーアン軍は容赦しない。アレイア海東岸の小国群が暴虐の限りを尽くされたように。
仲間に入れと命じられ、ユリシーズは陰謀に乗った。これは沈む船ではないという直感があった。仮に計画が明るみに出て、暗殺が失敗したとしてもだ。
思った通りハイランバオスは謀反人との密約を否定した。グレディ家も手のひらを返し、共謀罪など身に覚えがないと言っている。今度のことは「失恋の恨みゆえの単独犯」で片付けるつもりなのだろう。
だがそうはいかない。予定とはアクシデントを想定した上で立てるものだ。まして国王に反逆を企てるとなれば、成否によらず己の立ち回りくらい考えておくべきだろう。
捕らえられたユリシーズは苦悩を装い、可能な限り誠実に抱え込んだ難事の全てを打ち明けた。
――ハイランバオスに脅されました。グレディ家に冠を与えるための手先にならねば東パトリア帝国の皇女を殺害し、犯人としてアクアレイア商人を突き出すぞと、と。
でっち上げた嘘に元老院は困惑した。東パトリア帝国はアクアレイア第一の交易国である。この国の庇護により王国経済は隆盛を極めたと言っていい。
つまり最重要の得意先だ。揉め事になって交易を打ち切られれば、どれほど痛手を被るかわからなかった。
祖国のために従うふりをするしかなかったと沈痛な面持ちで語るユリシーズに議員たちは動揺の眼差しを向けた。嘘か本当か審議する声があちらこちらで囁かれた。
方便は絶妙なポイントを突いていた。元から信用されていないグレディ家やいかがわしい聖預言者よりも「リリエンソール家の」「面倒見の良い」「立派な海軍中尉であった」ユリシーズの証言のほうが信憑性は高いのである。その己がしおらしく訴えれば良識あるアクアレイア人の胸に響くというわけだ。
実際それはいかにも有り得そうな話だった。ジーアン帝国は東パトリア帝国と不可侵協定を結んだ際、特定都市の軍隊通過許可を受けている。それを保証する人質にされたのが天帝ヘウンバオスに差し出された皇女アニークであった。
古くからの大国とはいえ東パトリア帝国もジーアン騎馬軍に怯えていることに変わりはない。継承順位の低い皇族ではなく直系長子の美姫を連れ去られたのがいい証拠だ。
皇女が死ねば二国は不可侵協定を結び直すことになり、ジーアンには侵攻の再開が可能になる。そうなればアクアレイアが東パトリアの信用を損なうのは明らかだ。我ながらよくできた陰謀論だった。
元老院に召喚されたユリシーズは粛々と「陛下を傷つける気がなかったとは言え、故意にゴンドラをぶつけたのは事実。どんな罰でも甘受します」と締めくくった。話が終わりになる頃には二百名いる議員の半分が己の味方になっていた。
嘘か本当かは立証されずとも構わない。真実かもしれないと思わせられればこちらの勝ちである。後は事件がうやむやになるのを待てばいい。この牢獄を去る日には、ユリシーズはアクアレイアを救うべく孤独に戦った英雄となっているだろう。得られる名声は王家など軽く凌ぐはずだ。
「……父上には迷惑をかけてしまったな。あの人まで軍人の資格を捨てることはなかったのに」
ユリシーズはチェス盤の横に置いていた封筒を取り、レドリーに手渡した。元老院宛てになっているそれを見て幼馴染は眉根を寄せる。
「減刑は望んでいない。ただ私を葬るときは、名誉あるリリエンソール家から除籍してほしいと頼んである」
「ユリシーズ！」
激高したレドリーはその場で遺書を引き裂いた。ああ、いい友人だ。改めて今まで己が恵まれた境遇にいたのを感じる。
こんな悪事に手を染めずとも、恋の痛みなど忘れ、騎士として幸福な人生を歩むことはできたのではなかろうか。それなのにどうして自分はまったく別の道を進もうとしているのだろう。
「お前を逆臣なんて呼ばせやしないぞ。俺たちが絶対に無罪を勝ち取ってやる」
「海軍の若手が中心になって街の人や陛下に訴えていますから、もうじき外に出られる日が来ます。ユリシーズさん、どうか諦めないでください」
差し入れです、とディランは暇潰し用の戦術指南書を押しつけてきた。
「ずっとこんなところにいては頭も身体も鈍るでしょう。いつ何時でも戦えるように鍛えておいてくださいね」
溢れんばかりの思いやりにユリシーズは苦く頬を綻ばせる。死ぬ気もないのに「当たり前だ。斬首の際にみっともない肉体を晒すわけにいかないからな」と答えると、またレドリーが大きな声で吠え立てた。
「いい加減にしろよ！ お前を死なせないために何人動いてると思ってんだ！？」
あまり簡単に外部の情報が入手できるのでつい吹き出しかけてしまう。袖の下も渡していない看守が聞かぬふりでいてくれるということは、流れはこちらに傾きつつあるのだろう。
それにここでは情勢の変化が環境の変化として如実に表れる。事件当日から元老院に呼び出されるまでユリシーズは満潮になると腰まで浸かる半地下牢にいた。召喚後すぐ監獄塔の最上階に移動になり、半月で面会の許可された一階まで下ってきたのだ。少なくとももう死刑囚の扱いではなかった。運命を受け入れた罪人として振る舞えば振る舞うほど死神から遠ざかるとは奇妙な話だ。
（これでいい。またゆっくりと機が熟すのを待てばいい）
この野心が玉座に届くその日まで。人望のない王家には民衆の敬愛を受けるリリエンソール家を始末などできやしないのだから。
「そろそろ面会時間は終わりだ。二人とも気をつけて帰れよ」
「え？ ちょっとくらい過ぎたって大丈……」
「規則は規則だ。身内や友人に甘くなるのはお前の悪い癖だぞ、レドリー」
ユリシーズはディランに幼馴染の腕を掴ませて鉄格子の外へ追い出した。
昔からレドリーはユリシーズの後ろにくっついて回る癖がある。自分のほうが家の格でも武芸の技でも知恵の面でも秀でていたからかもしれない。ここに来て憧憬の念はますます濃くなる一方だった。彼にはユリシーズが騎士の中の騎士に見えるのだろう。
憧れか、と秘かにユリシーズは嘆息した。脳裏をよぎったのは波の乙女だ。淑やかさの内側に聡明と豪胆を隠していた。晴れて二人が結ばれたそのときは、きっと素顔を見せてくれると信じていたのに。
「……ルディア姫は、私の刑について何か仰っていたか？」
問いかけは知らず口を衝いていた。今更何を確かめたいというのだろう。
振り返ったレドリーが悔しげに唇を噛み、握った拳をわななかせる。答える理性を持ち合わせない幼馴染の代わりにディランが首を横に振った。
「いいえ、今のところ何も」
錠の落ちる音が石塔に無情に響く。二人の足音は間もなく遠ざかっていった。その静寂に、残酷な乙女の声が甦る。
どうかわかってください。私たちのアクアレイアを守るためなのです――。
初恋の燃え尽きた後、残っていたのは空虚な権力欲だけだった。
だが本当はただ気に入らないだけかもしれない。人目を忍んで会いにこない彼女や、彼女の横にいるマルゴー人が。
ここに来て、死なないでほしいと縋ってくれたら。自分が悪かったとひと言でも詫びてくれたら。そうしたら今度こそ心を変えて、本物の騎士になっても構わないのに。
（20150430）