水平線を溶かすように夕暮れの空と海とが混ざり合う。地上は既に紺碧の闇に覆われて、まだきらきらと戯れるのは彼方の波と残照の光のみだった。
 明日また輝くために王国湾は眠りに就く。美しいその一瞬にグレースは目を細めた。
 レーギア宮から見る海がやはり一番素晴らしい。初めて宮殿を訪れたその日から、ずっとこの眺望が欲しくて欲しくて堪らなかった。玉座に近づくためにならどんな汚いことでもやった。先代国王の弟を誘惑したのも、イーグレットの兄弟を葬り去ったのも、全ては己がアレイア海の支配者となるためだ。苦節六十年、もうじき生涯の夢が叶う。
「本当に私は運がいい」
 くつくつと笑みを零し、グレースはバルコニーに舞い降りてきたカラスたちを撫でつけた。濁った眼に映るのは強大な異国の美青年。グレースはもう老いさらばえた女ではない。
 ハイランバオスの肉体を得たのは何にも勝る幸運だった。この男とジーアン帝国を利用すればアクアレイアを好きに作り変えられる。ただし相応の慎重さは要するが。
「猫は上手く始末できたのかい?」
 低く抑えた声で問う。カラスは縦にも横にも首を振らず、口を開いて褒美の餌を待つだけだった。
 やれやれと溜め息をつく。脳蟲というのはどうも知性に差があっていけない。特定の標的を襲わせる程度ならいざ知らず、細かい報告や偵察となると人間に寄生していたエリートでなければ使えないようだ。
(あのダチョウ女を掻っ攫われたのはしくじったな)
 マルゴー兵の管理下にあった魔獣の頭部をいともあっさり奪っていったロマを思い出して舌打ちする。アイリーンにあんな味方がいたとは想定外だった。妨害を試みたところで何もできまいと踏んでいたのに。
 とはいえ所詮は小蠅にたかられた程度の誤算だ。防衛隊の弟と手を組もうと無駄な足掻きである。
 晴れの舞台の記念祭での事故に民衆は神がかり的な不吉さを覚え始めている。イーグレットが国民の称賛を浴びる日など永遠に来はしない。時代は今度こそグレディ家を選ぶのだ。「ハイランバオス」が新しい王家の誕生を祝福し、平和的かつ平等な通商条約を認めれば支配は一層盤石なものとなるだろう。
(ルディアの身体なぞ狙うまでもなかったわ)
 と、ほくそ笑むグレースの背後でノック音が響いた。念のためカラスを闇に放してから「どうぞ」と答える。
 入ってきたのは神妙な顔つきのユリシーズ・リリエンソールだった。護衛役の海軍中尉がこんな時刻に扉を叩くのは稀である。どうやら何かあったらしい。顎で報告を促すと騎士はグレースに耳打ちした。
「あの、ついさっき軍の友人に聞いた話なのですが、陛下が明日のレガッタにご参加なさるそうです」
「レガッタに?」
 意外な展開にグレースは面食らう。ユリシーズ曰く、アンディーンの指輪を手にした男が「是非自分のゴンドラに同乗してほしい」と乞うたのだそうだ。
 妙な話だ。わざわざイーグレットを乗せたがる物好きがいるなんて。しかもよくよく聞いてみれば、その物好きは王都防衛隊の槍兵だそうだった。
「ああ、なるほど。どん底に落ちた王の人気をレースで取り戻そうというわけですね」
 グレースはハイランバオスらしい口調を心がけながら一笑に付した。言外に「こんなことでうろたえるな」と騎士を咎める。
 ユリシーズはいつ己が逆臣と露見するか気が気でないのだろう。一度背信を決めた以上、どんと構えてほしいものだ。
「良いチャンスではありませんか。あなたもそのレガッタに出場し、彼を亡き者となさい」
「なっ……!?」
「もう一年はかかるかと思っていましたが、あちらから飛び込んできてくれるとは好都合です。これを逃す手はありませんよ」
「し、しかし明日というのはいくらなんでも急すぎるのでは」
 渋るユリシーズにグレースはずいと迫る。
「では次の機会を待つと? 再び同じシチュエーションが巡ってくるまで?」
「……っ」
 本当に男というのは仕方のない生き物だ。野心は大それているくせに、誰かに尻を叩いてもらわねば行動できない愚図なのだから。
「誰にも知られてはならぬ計画です。長引かせるほど悟られる危険は増しますよ? 早く決着したほうがあなたのためにも良いはずですが」
「……わ、わかりました。明日までに手筈を整えます」
 期待通りの返答にグレースはにこりと笑う。損得勘定の苦手なお坊ちゃんで助かった。おかげでグレディ家は危ない橋を渡らずに済む。
 オールドリッチ伯爵夫人を殺したのも、大鐘楼にフォスフォラスを仕掛けたのも、全てこのユリシーズだ。「ハイランバオスは親ジーアンの新政権を欲している」という嘘を信じて実によく働いてくれている。リスクに見合う地位など用意されてはいないのに。
(不憫な坊や。自ら深みに嵌り込んでいるとも知らず)
 人が執着してやまないのは愛でも金でも力でもない。それは己のものになりかけて、結局そうならなかったものだ。触れはしたけれど掴めなかった。その悔しさが引き際を誤らせる。初めから掴めないものだったと自分を納得させてくれない。
 ユリシーズは確かにルディアを想っていたのだろう。だが愛情が育つ以上に「己こそ女王の伴侶に相応しい」という思い上がりも育っていたのだ。だから彼の自尊心は王族になることを諦めきれない。ずるずる悪事を重ねてしまう。
(ゴンドラレースか。ふふ、明日の楽しみができたね)
 暗殺が成功すれば良し、失敗してもそのときはそのときだ。実行犯以外には裁きを受ける者もいない。
(切り捨てられる可能性を考慮できない自意識過剰が悪いんだよ)
 口約束の婚約程度でグレディ家の仲間入りを果たせるわけがないだろう。何、疑いを持たれない形で王を殺せばいいだけだ。せいぜい頑張っておくれ。




 ******




 陽光を反射する海が眩しい。波は至って穏やかで、昨日の大事故が嘘のようだ。正午開始のレガッタに合わせ、人もゴンドラも続々と国民広場に集いつつあった。予定は一日ずれ込んだものの、大運河沿いの観客席も盛況である。
「聞いたか? なんでもイーグレット陛下が出場なさるらしいぞ」
「聞いた聞いた。もったいないことするよなあ、俺なら金銀財宝を所望するぜ」
 王の参戦は既に結構な噂になっていた。王室専用の船着き場で四人目を待つルディアたちは注目の的だ。
 競技にはルディアの他にアルフレッドとレイモンドもエントリーしていた。もはや波の上に立つことを恐れている場合ではない。昨日は遅くまで櫂漕ぎの基礎を叩き込んでもらったし、今日はなんとか彼らの足を引っ張らないようにしなければ。
 然るべき機関への通報も済ませ、事は概ね思惑通りに進んでいた。ルディアの感傷だけを別にして。
(……ユリシーズ……)
 後方の騎士を盗み見る。白鳥の紋章が入ったリリエンソール家のゴンドラは長い列の最後尾で揺れていた。王が参戦を表明した昨夜、彼も新規に登録したのだ。
 この珍レースを面白がって追加申請をした者は多数いる。だがユリシーズのそれは不自然と言わざるを得なかった。普段の彼なら国賓の護衛中に、そんな遊びに興じるはずがないのだから。
 しかも未明にはユリシーズの奇行が目撃されていた。ごく浅い王国湾と運河には船の座礁を防ぐため、水深を示す標木が打たれている。ユリシーズがその木杭を抜き、別の場所に刺し直していたというのだ。これは秘かに騎士を尾行させていた海軍中将ブラッドリーからの報告だった。
 その場で尋問しなかったのはレガッタ終了まで泳がせようとイーグレットが指示したからだ。捕えるにしろもっと決定的な、殺意を明確にした瞬間でなくては意味がない、と。
 持てる人脈、明かせる情報をフル活用して防衛隊は王国政府や海軍との協力体制を敷いていた。隠し事がなくなって吹っ切れたらしいアイリーンも密告者として力を貸してくれている。「ハイランバオスはグレディ家を傀儡にしようと目論んでいる」「ユリシーズも唆されて彼らの手先になってしまった」「大鐘楼の崩壊は彼らの仕組んだことだ」というのが彼女のタレ込み内容だ。
 確たる証拠もない話を信じて動いてもらえたのはアルフレッドの功績だろう。真面目一徹の甥っ子が情報源だったからブラッドリーも部下を疑う気になったのだ。
 そんなこととは露知らず、ユリシーズは馬脚を現してしまったわけだが。
(……残念だよ。お前を見せしめにしなければならないとは)
 いつでも切って捨てられる者に汚れ役を務めさせるのがグレースの定石だ。ユリシーズを捕らえてもグレディ家を追い詰められないことはわかっていた。だがそれでも、王に反旗を翻そうとする者たちへの牽制にはなる。
(愛こそ至上と物語には書いてあるのに、当てにならんものだ)
 楽しかった語らいの時間、ユリシーズの優しい微笑を記憶の底に封じ込める。
 自分さえ別れ方を間違えなければ彼を奈落に落とすことはなかった。それは忘れないでおこう。

「おっ、国王陛下のお出ましだぜ!」

 レイモンドの声にルディアは顔を上げた。ちょうど宮殿の正門が開ききり、衛兵に伴われた父が颯爽と大階段を下りてくる。
 珍しくイーグレットは軽装だった。冠も長いマントも身につけず、代わりにぱりっとした黒の軍服を着こなしている。ついぞ見覚えのない王の姿に観衆はおお、とどよめいた。
「腕まくりしちゃってらあ」
「てっきり乗るだけと思ってたのに、漕ぐ気満々じゃねえか」
「速いのかね?」
「まさか!」
 レガッタの出場者たちはひそひそと囁き合う。無礼な声は王が防衛隊の舟に乗り込むとぴたりと止んだ。
「諸君、今日はよろしく頼む」
「はい!」
 アルフレッドの返事に合わせて敬礼する。久々に間近に見た父の顔は以前と変わらぬ朗らかな温もりを宿していて安心した。
「失礼ですが、陛下。櫂の扱い方などは」
「大丈夫だ。心得はある」
 イーグレットは誰に学んだとは言わなかった。露骨に不安そうなレイモンドの脛を蹴り、ルディアは睨みを利かせる。
 王はゴンドラの中央、ルディアの斜め隣に招かれた。船頭はアルフレッド、船尾の漕ぎ手はレイモンドだ。王族二人は手慣れた庶民の指示に従おうという配置である。
 イーグレットが合図を送るとトランペットのファンファーレが響き渡った。開会パレードというほど大仰なものではないが、ガレー船に導かれたゴンドラの群れが勇ましくスタート地点へ移動を始める。沿岸の群衆に手を振りながら防衛隊も彼らに続いた。
 小舟が岸を離れてすぐ「晴れて良かった」とか、「誘ってくれてありがとう」とか、父はにこやかに話しかけてきた。昨日ブラッドリーに頼んで隠密に謁見させてもらったときよりもずっと明るく柔和な態度だ。
 こんなときイーグレットが何を考えているか、ルディアはよく知っていた。敵意を隠すのも偽りの恭順を示すのも上手い人だ。グレースの暗躍した時代にはそれが重要な処世術だった。
 防衛隊は探りを入れられているのである。当然だ。いくらアイリーンが隊員の実の姉であっても突然ジーアン帝国やハイランバオスの名を出せば疑われるに決まっている。――だが父の半信半疑はそういうこととも少し違っている気がした。

「話は昨日も聞かせてもらったが……、君たちに情報提供してくれたのはそのアイリーンという女性だけかね?」

 聞き咎める者のない沖まで出るとイーグレットは静かに尋ねた。その問いにピンと来る。遠回しに父が何を知りたがっているのか。
 この人はこの人で何度も警告を受けているのだ。「グレディ家に気をつけろ」「ハイランバオスに気を許すな」「奴の護衛も不穏だぞ」と、昔使っていた暗号で。

「いいえ、もう一人。右眼に黄金を持つ男も」

 ルディアの返答にイーグレットは瞠目し、ゆっくりと瞼を伏せた。漂う空気がまた少し変わったのがわかる。
「彼はこちらの味方です。今も民に紛れて陛下を見守っています」
「……そうだったか。ありがとう」
 態度には出さず、しかし嬉しそうに父は頷いた。「誰も信じてはいけない」と言った孤独な王は。
 元の姿に戻ったら聞いてみたい気がする。父の考える信頼とはなんなのか。だがおそらくルディアはその答えを知っていた。自分が何を間違えたのかも。
(……信じることと愛することは、似て非なるものなのだな)
 そこを混同してしまったから恋に裏切られたのだ。
 もう誰かに浅はかな理想を押しつける真似はすまい。騎士ならこうあるべきだとか、固定観念もやめにする。ただ成すべきと思ったことを、成すべきときに成すだけだ。
 そうすれば信頼など後から勝手についてくる。父を救いにあのロマが王都へ帰ってきたように。いつかそんな「たったひとり」が私にも現れるといい――。




 エメラルドグリーンの海に黒いゴンドラが整列する。王国湾とアレイア海の境界である砂洲が今日のレースのスタートラインだ。
 コースは単純な一本道。外運河を横断し、異人島の脇を抜け、街の真ん中を蛇行する大運河を遡る。ゴールはその中ほどにある真珠橋だ。国内最古にして最大の橋は今年も花撒きの乙女たちで賑わっていることだろう。
 手にした櫂を強く握り、ルディアたちはレースの開始と暗殺に備えた。武器類の持ち込みは厳禁だ。いざとなれば身を挺して王を守らねばならない。
 駆け込み参加者も含め、約五十艇のゴンドラが臨戦態勢を取っていた。去年が三十少々のはずなのでイーグレットに触発された輩は多いと見える。ここぞとばかりに日頃の鬱憤をぶつけるつもりなのだろう。
「お前たち、わかっているだろうが陛下の顔に泥を塗るんじゃないぞ」
 ルディアの念押しに槍兵と騎士は力強く頷いた。
「任せとけって!」
「波の高い前半は体力勝負、動きのばらける後半は団結力勝負と言われている。兵士が体力で負けるわけにいかない。可能な限り序盤で引き離す!」
 頼もしい台詞の直後、軽快なトランペットの音がこだました。横一列に並ぶ舟で一斉に櫂が構えられる。この演奏が終わり次第、いよいよレーススタートだ。
 競技用ゴンドラと生活用ゴンドラに特別な差異はない。細く伸びた船体も、舳先に施された鉄製装飾も、跳ね上がった船尾のデザインもそこらで見かけるものばかりだ。違うのは漕ぎ手の人数と漕ぎ方だった。
 通常ゴンドラは船首ではなく船尾の一人のみが漕ぐ。街の水路は入り組んでいて見通しが悪く、角では渋滞も起こりやすい。進行方向をしっかり見据えることが肝要だ。握るオールは長いものを一本。壁を押すのに使ったり、水底に突き刺すのに使ったり、多方面に活躍する。日常生活では事故を避けるために速く漕ぐよりも巧く漕ぐことを求められるのだ。
 だがレガッタでは逆である。ここでのゴンドラは小さなガレー船に変わる。操船指示は主に船首の漕ぎ手が出すが、舟に速度を与えるのは乗員の力と呼吸だ。最高速度を出すためには全員で息を合わせねばならない。
 ルディアは中腰になって膝を緩め、できるだけ重心を安定させた。つい昨日まで立ち漕ぎはおろか立ち乗りする気にもなれなかったのに、海の女神は意地悪だ。溺れたことを思い出すと背中にぞっと震えが走る。
 だがここだけは他人に譲るわけにいかなかった。父の背中を守る役目は。
(やってやろうではないか。庶民に漕げて私に漕げないはずがない)
 トランペットが最高潮に盛り上がる。スタートラインのリボンが切られる。たちまち主役は波を掻く音に交代した。
「さあ行くぞ! レイモンドの掛け声に合わせろ!」
「いっちにー! いっちにー!」
 アルフレッドの号令でルディアは猛然と漕ぎ出した。もうほとんどやけくそだ。周囲の舟の存外な速さに気が焦る。しかし防衛隊も負けてはいない。やや出遅れはしたものの、ぐんぐんとスピードを増し、舳先を前へと突き出させる。
「いっちにー! いっちにー! おいブルーノ、もっと腰入れろ!! 陛下、なかなか筋がいいっすよ!」
 前進を妨げようとする波に全力で抗う。最初はタイミングを合わせるだけで必死だったが、体力馬鹿の二人のおかげで先頭集団には加われたようだった。
 そうとわかれば余裕も生まれる。ちらりと後ろを振り向けば、どのゴンドラもわあわあと大騒ぎだった。
 ユリシーズの指揮する舟はルディアたちのほぼ真後ろにつけていた。なんの変哲もない五枚歯の船首飾りがやけに凶悪に映る。澄ました騎士の双眸も常になく物々しい。
「気をつけろ! 異人島を越えた辺りは流れが急に速くなるぞ!」
 太い川の流れをそのまま利用した外運河の終わりが見えるやアルフレッドが注意を促した。左手には外国商館の集まる隔離島が迫っている。不慣れな国外の商船がしょっちゅう波に翻弄されているところだ。
 流れが速いということは抵抗が大きいということである。思った以上に重く沈む櫂を手放さないようにルディアは必死で歯を食いしばった。初めの「事故」が起きたのはその直後だった。
「うわああああッ!?」
「ラッキー! 優勝候補が座礁なさったぜ!」
 突然の悲鳴と歓声にハッと前方を見やる。脱落したのは街に一番乗りしようとしていた本職のゴンドラ漕ぎたちだった。彼らの舟は外運河と大運河の交差ポイントで完全に乗り上げてしまっている。
「ぎゃーっ!」
「何ィ!? 俺らもか!?」
「おい、水路標識が滅茶苦茶だぞ!」
 他人の不幸を喜んでいた二艘目、三艘目の連中も次々にコースを詰まらせた。確かに河口は土砂が溜まりやすい。だがそういう場所には通行不可を示す杭が打たれているのが普通である。だというのにこのアクシデントの連続は――。
「おと……陛下、ご用心を!」
「うむ!」
 ルディアは周囲への警戒を強めた。事故原因は昨夜ユリシーズが差し替えた標木と見て間違いあるまい。この辺りで何か仕掛けてくる気かもしれない。
 暗殺をレース中の不幸な事故として処理するためには追突か転覆を狙うのがベストだ。ユリシーズのゴンドラがぴたりと後ろに張りついたままなのはおそらくそういうことだろう。座礁などして舟の動きを封じられるわけにいかない。
「最短距離を行くのは危険だ! 税関岬は迂回しろ!」
 ルディアの指令に船頭が頷く。同じ考えで暗礁を回避した四艘目の後を追い、ルディアたちは広場の前へ飛び出した。
「防衛隊のゴンドラが二位だ!」
「やはりレイモンドの櫂捌きは抜群じゃのう!」
「陛下は!? 陛下はちゃんと漕いでいらっしゃるのか!?」
 どよめいたのは観客だ。意外な順位で大運河に戻った君主の姿に驚愕の声が上がる。失礼千万な民の態度にハハと父は苦笑を漏らした。
 前方では国営造船所の腕利き大工を乗せたゴンドラが、後方では海軍の青年将校を乗せたゴンドラが高く飛沫を上げている。背後に尖った船首を迫らせているものの、まだユリシーズに動く気配は感じられなかった。ひょっとすると防衛隊が座礁に巻き込まれなかったので、手を出しかねているのかもしれない。
(それならそれで一向に構わん。レースに集中できるというもの)
 ここから真珠橋まではカーブ二箇所を除けばほぼ直線だった。どれだけ加速できるかが勝敗を分ける鍵となる。前を行くのが一艘なら追い抜くのも不可能ではない。否、今なら一位を狙えるはずだった。優勝候補はおろか、上位三艘まで脱落してしまったのだから。
「全速前進だ! 我々が最初に真珠橋を通過する!」
 命じた瞬間、ひとまず謀略の危機は去ったと悟った二人の目つきが変わった。本気で勝ちに行こうとする勇猛果敢な男の目に。
 アルフレッドもレイモンドも肉体の頑強さ、武器を操る巧さにかけては王国随一の若者だ。そんな彼らが全身全霊をぶつければどうなるか――。果たしてレースは期待通りの展開を見せた。

「うおお! 速ぇぞ防衛隊!」

 先行する船大工たちのゴンドラはあれよという間に近づいた。流石は十年来の幼馴染、息ぴったりの漕ぎっぷりである。
 相手の船尾に舳先が迫り、ガンガンとぶつかり合う。だが老獪な敵はこちらの行く手を塞ぐ形でオールを伸ばし、簡単には抜かせてくれない。
 白熱の追走劇に国民広場は沸き返った。「行け!」「そこだ!」「ああッもう、何やってんだ!」と大観衆から熱い声援が送られる。父の治世でこんなことは初めてだ。
 ちらりと列を確認したが、ハイランバオスの姿はなかった。祖母のことだ。きっと座礁船など素知らぬ顔でゴール付近にいるのだろう。
(待っていろ、昨日の事故にお釣りが来るほどレガッタを盛り上げてやる!)
 レイモンドは前のゴンドラをかわそうと何度も櫂をくねらせた。スピードは落とさず、しかし細かに方向を切り替えるテクニックに驚嘆する。アルバイトでゴンドラ漕ぎをやっていたと話していたが、そちらで十分食べていけそうだ。彼をやり込めている船大工たちはもっと凄いが。
「諦めろ若造! わしら船舶の専門家じゃぞ!」
「そうじゃそうじゃ! 毛の生えた素人程度が敵うもんかね!」
「十年後に出直しな!」
「優勝賞金はわしらのものよ!」
 敵船から老いぼれどもの煽り文句が飛んでくる。挑発を受けた槍兵は「優勝賞金だとー!?」と顔を真っ赤にした。
「レイモンド、気を乱すな! それでは向こうの思うつぼ……っ!!」
 そのときだった。突如襲った激しい衝撃が船首に立っていたアルフレッドを吹き飛ばしたのは。大運河にダイブしたのは彼だけではない。槍兵や船大工の老人たちもだ。
 何が起きたのか瞬時には飲み込めなかった。ルディアはルディアで舟の底に引っ繰り返ってしまっていた。ただすぐ側に大鐘楼の剥き出しの基礎が見えたから、「ああそうか。昨日この辺りに降った瓦礫のせいで水深が変わっていたのだな」と思いつけただけだった。
 呆然と運河を見やる。櫂が何本も浮いている。
 レースは一体どうなった。お父様に送られていた歓声は――。

「何をしている! 王都防衛隊、陛下をお守りしろ!」

 咄嗟に身体を動かしてくれたのはアルフレッドの怒鳴り声だった。考える暇もなく、ルディアは倒れた父を抱えて船大工たちのゴンドラに飛び移った。
「……ッ!」
 間一髪だ。傾いた元の舟には間もなくユリシーズたちのゴンドラが思いきり突っ込んできた。
 鉄の舳先が抉ったのは一瞬前まで父が頭を垂れていた船縁。どきん、どきんと今更心臓が高く跳ねた。
「も、申し訳ありません陛下! 速度が出ていたので止められず……!」
 ユリシーズの白々しい言い訳に顔を上げる。それからがくんと肩を落とした。そんな悔しげな顔をされてはもう庇うのも難しい。
(……おかしいな。捕縛できるとすれば彼だけだとわかっていたのに)
 ルディアはゆっくり立ち上がり、無言でオールを握り直した。波ではなくてマントを払う。眼前に立つ海軍中尉の白いマントを。
「武器の携帯は禁止されているはずだが?」
 櫂の先端で太腿を示すとユリシーズは青ざめた。騎士は首を振って後ずさりするが、舟の上に逃げ場はない。
 ――いつでもあなたを守れるように、肌身離さずナイフを持つことにしたんです。ほら、ここに。
 甦った声は優しく、あまりに遠い。

「ユリシーズ・リリエンソール。すまんが一緒に来てもらうぞ」

 次に騎士を狼狽させたのは人波を掻き分けて登場したブラッドリーだった。中将の「昨日からお前を監視させていた」という言葉に命運尽きたと悟ってか、ユリシーズは力なく項垂れ、とばっちりの同乗者とざわめく国民広場の向こうに消えていった。
 事情を知らぬ他のレガッタ参加者は不思議そうにルディアたちを追い越していく。舟が大破しては復帰のしようもない。ふうと嘆息一つ零してルディアは父を振り返った。
「……どうなさいますか? 陸に上がって続きをご観戦なさいますか?」
「そうだなあ。残念だが、これだけ派手に壊れてしまってはなあ……」
 さっきまでの昂ぶりが信じられなかった。群衆は冷めた目つきで王の退場を眺めている。「ちょっとやる気を見せてくれたと思ったらこれかよ」としかめ面で囁き合いながら。
 そうか、この種の好意は勝たなければ維持できないのか。こちらもまた誤算だったな。

「――だったら俺の舟に乗るか? イーグレット」

 そう声が響いた直後、大穴の開いたゴンドラがガタンと揺れた。
 色味のない目を丸くして父が運河を振り返る。声にならない小さな声で旧友の名を呟いて。
「乗せてやれるぞ。二人までなら」
 いつの間にそこにいたのか、頭を丸ごと仮面で隠した男が間近にゴンドラを寄せていた。国民ではない彼のレース登録は、隅で手を振るバジルが代行したらしい。
「駆け込みも駆け込みですけど、ちゃんとスタートから漕いできましたよ!」
 そう言えば途中で人員を積んではいけないなんてルールはなかった。
 伸ばされた手にイーグレットが飛びつくと、ルディアもひらりと跳躍した。




 漕がなくていいとカロが言った。自分とイーグレットとで漕ぐからと。
 座っていろと促され、ルディアはバジルと腰を下ろす。四本の櫂のうち二本を手渡された父は瞬きもろくにできないでいた。
「二十年ぶりだが行けるな?」
 追いつくぞ、との宣言が父の瞳に火を灯す。言葉はもう必要なかった。二人は揃ってゴンドラに座し、進行方向とは逆を向き、両手で櫂を回し始めた。
「うわッ、なんだあの体勢!?」
「馬鹿か!? ゴンドラのオールは立ち漕ぎ用なのに!」
「いや待て、意外と速ぇぞあれ!」
 驚愕の声が一瞬で遠ざかる。ゴンドラは風を切り裂き水上を滑る。
 二人の操船技術がアクアレイア人のそれでないのは明白だった。少なくともルディアは同じ光景を王国湾で見たことがない。
 速さについてこられずに曲がり角では船体がほぼ垂直に傾いた。長いオールは時折でなく建物の壁を引っ掻いてしまう。
 だがそんなこと物ともせずにゴンドラは前進した。櫂は見事にシンクロしている。
 水をひと掻きするごとに父の目は輝きを増した。まるで無邪気な少年のように。
「まさか君とレガッタに出られるとは!」
「何故だ? 約束だったろう。忘れていたのか?」
「忘れやしないさ。でも今になって、君が来てくれるなんて思わなかった!」
 イーグレットの視線がハッとルディアたちに向けられる。「聞いてませんよ。大丈夫です」との意思表示にバジルがそっと耳を塞いだ。
 ルディアも弓兵の配慮に倣う。本当は聞こえてしまっていたけれど。
「ずっと謝りたかったんだ」
 王の言葉にロマは大いに困惑した。「なんの謝罪かわからない」と手は緩めずに尋ね返す。
「妻を得るためにグレースの要求を呑んでしまった。入国禁止法なんて作って君たちを国外に追い出した」
「それは事前に聞いていたぞ。他の仲間が怒ったからか? 匿ってやったのに恩を仇で返されたと? だとしたら見当違いだ。あいつらを説得すると言ってできなかったのは俺だ。お前には心配するなと言っておいて」
「だが私が君を孤立させたことに変わりは……」
「悪法は覆してくれた。ならもうそれで十分だ。俺を助けてくれる奴がいなくなったわけでもない。寧ろ俺のほうこそお前に合わせる顔がないと――いや、折角の再会だったな。もっと楽しく過ごすことにしよう。昔教えてくれた歌があったろう? イーグレット、あれを歌ってくれ」
 話の間に抜き去った舟は二十を軽く超えていた。もしかすると父とカロには急流上りの経験でもあるのかもしれない。瞬きの間にまた一艘、たちまち二艘、三艘と置き去りにしていく。
「『酒神と烈女のゴンドラ』か。おあつらえ向きだな」
 観客は再び騒然となった。路地や桟橋から転げ落ちんばかりに身を乗り出し、王を乗せた舟の行方に釘づけになる。
 後方からの大歓声に驚き、先に待ち構えていた人々も目を剥いた。凄まじい速度で迫る船影に。
「陛下だ! 陛下が追い上げてきてる!」
「なんだあれ!? なんで二人で漕いでんだ!?」
「ちょっと待て! 何か歌ってらっしゃるぞ!」
 爽快だ。未だかつてこんな爽快な気分になったことはない。
 運河沿いの建物の窓という窓から王国旗が振られていた。たくさんの人が父に手を振っていた。
 黒い肌のロマと白い肌の王が仲良く口ずさむ節に乗り、ルディアも混ざって歌い始める。子守唄代わりだった抒情歌を。

 来たれ、我が軽舸に 誰が汝の明日在ることを知らん
 青春は麗し されど川のごとく過ぎ去る
 愉しみたければ今すぐに 今日は再び巡らぬものを

「おや、我々以外にも歌える者がいたとは」
 父は喜び目を細めた。その表情は晴れやかで頼もしく、長患いが癒えたようにも見えた。
 舟はいよいよ最後のカーブに差しかかる。視界に捉えたのは三艘のゴンドラ。おそらくあれが先頭だ。二人の漕ぎ手もその影を見据えていた。
「ゴールまでに抜けるかな?」
「抜けるに決まっている。俺とお前が漕いでいるんだぞ」
 叶うなら今すぐ紙より軽くなりたい。ルディアには漕ぎ手の邪魔にならないように縮こまっているしかできなかった。
 それでも歌は二人を元気づけたらしい。ゴンドラは勢い激しく水壁を築いてカーブを通過した。
 舟の速度が生み出す風の快さ。初めて見る父の勇姿。
 胸が震える。目頭が熱くなる。
 守らなければと考えたのは己の驕りだったかもしれない。内心ではルディアとて王を見くびっていたのだ。この人では国民の心をひとつにできない。私がしっかりしなければと。――それがどうだ。
「陛下ぁ! あとちょっとですよぉー!」
「頑張れー!」
 絶叫じみた声援がいくつもいくつも降ってくる。真珠橋は目前だった。猛追に振り切られた二艘が呆然としている。最後の一艘はがむしゃらに逃げた。
 大理石の橋の上、人々は固唾を飲む。
 入ったのは同時、出てきたのは――。

「すげー! 陛下が勝っちまったぞー!」

 大気も揺れる喝采の中、祝福の花が散らされたのはイーグレットの舟だった。
 どよめきと熱気。櫂を置き、立ち上がった父が高く拳を突き上げる。王の名は繰り返し叫ばれた。花弁が水路を埋め尽くした。
 ゴンドラはスピードを落とし、ゆっくりと岸に近づく。興奮を抑え切れず、民衆は先を競って王の元に駆けつけた。

「ありがとう、楽しかった。今日は最高の一日だ」

 栄光を掴んだ二人が船上で握手する。惜しみない拍手はカロにも注がれた。ロマだとばれると外聞が良くないからか、仮面は最後まで脱がないままだったが。
 ルディアとバジルはイーグレットの両脇を固めて舟を降りた。すぐさま護衛部隊が飛んできて王の周囲から人を散らす。だがその程度では父に群がる人々を立ち退かせられはしなかった。

「素晴らしい熱戦でしたね。もしかして陛下はゴンドラ漕ぎのほうがお向きになっているのでは?」

 と、不意に響いた男の声にルディアは人垣を振り返る。そこはかとない邪気を孕んだ預言者の皮肉。出たなと胸中でほくそ笑んだ。
「おお、ハイランバオス殿にもお楽しみいただけたとは。私も張り切った甲斐がありました」
「ええ。手に汗を握りましたよ」
 ハイランバオスが寄りつくや、数羽のカラスがイーグレットの頭上で旋回を始める。脳蟲が仕込まれているのはすぐにわかった。少しでも不吉を演出し、勝利にケチをつけたいのだろう。鮮やかな逆転劇で事故の記憶を上書きされては困るから。
(流石のお祖母様も、お父様が一着でゴールするとは考えていなかっただろうしな)
 計算違いはグレースの最も忌み嫌うところだ。ユリシーズの手による謀略は五分五分程度に見ていただろうが、王の威光に傷をつけて相対的にグレディ家を持ち上げる計画はまったく後退したはずである。今も微笑の裏側で腸を煮え返らせているに違いない。
(ざまあ見ろ。さあ、その聖預言者の薄っぺらい仮面もそろそろ引き剥がしてくれよう)
 ルディアはごく淡々と「陛下、ハイランバオス殿」と呼びかけた。
「ん? どうかしたかね?」
 イーグレットがきょとんと尋ねる。ルディアはさも今思いついたかのごとく王に提言した。
「ユリシーズ中尉はおそらくもう戻ってこられないでしょう。しばらくの間、彼に代わって王都防衛隊がハイランバオス殿の身辺警護を務めさせてもらってよろしいですか? 折角ですし、この勝利のゴンドラで宮殿までお送りしようと思いまして」
 気の利いた申し出にイーグレットは二つ返事で頷いた。
「おお、それは助かる。是非そうして差し上げてくれ」
 異国の宣教師は一瞬顔を強張らせたが、群衆の羨む声に押されてゴンドラに乗り込んだ。
 思惑は隠してルディアとバジルも舟に戻る。櫂を握ったカロは無言で大運河に漕ぎ出した。




 グレース・グレディが同乗を強く拒まなかったのは「王国にハイランバオスは害せない」と確信しているゆえだろう。今も彼女は余裕ぶって笑っていた。広々とした大運河の真ん中で、孤立無援の状況でも。
「先程ユリシーズさんは戻ってこないと仰っていましたが、彼に何かあったのですか?」
「ええ、実はレースの途中、座礁した陛下の舟に彼の舟がぶつかってきまして。幸い陛下にお怪我はなかったのですが、故意にやったのではと海軍が取り調べを」
「おや、そんなことがあったとは」
 臆面もなくグレースは驚いてみせる。だがまだレガッタの雰囲気に飲まれているのか冷静ではないようだ。異国の男の姿を借りていることも忘れ、危なげなく揺れるゴンドラに直立している。気づいた素振りを見せぬようにルディアはにこやかに話を続けた。
「彼ほどの軍人が祖国を裏切って陛下に刃を向けるわけがないのですがね」
 グレースは「はは」と嘲弄する。ハイランバオスのしたり顔で。
「わかりませんよ。こちらの王女は彼を手酷く袖にしたのでしょう? それで逆恨みしたのかも」
 舌打ちしたい気分を堪えて「まさか」と肩をすくめた。
「それだけでこの先の人生全て棒に振れると?」
「男女の関係は一筋縄ではいきません。きっと色々あったのです」
(……成程な。そうして私怨で片付けて、自身やグレディ家とは無関係を装うつもりか)
 やはりユリシーズは捨て駒だったらしい。複雑な怒りがルディアの胸を燃え上がらせた。
 最初からそのつもりで仲間に引き入れたのだろう。グレディ家の娘を与えるふりをして、失意の底にあった彼を。
 こうなった今、ルディアが彼にしてやれるのは諸悪の根源を滅ぼすことのみである。百倍にして返してやるぞと胸に誓う。

「……ところで宮殿へ帰るのではありませんでした?」

 怪訝そうな問いかけにルディアはにこりと微笑んだ。ゴンドラは既に税関岬も国民広場も通り過ぎ、王宮裏の狭い水路に入っている。
 その名も監獄運河。囚人たちが逃げ出さないよう窓のない壁がずっと先まで続いているのでついた名だ。
「そうですよ。ただ表は混雑しておりますので、裏口を使わせていただきます」
「裏口ですって? レーギア宮にそんなものが?」
 どうやら例の出入り口は祖母の知るところではなかったらしい。不穏な気配を察して偽預言者は急にそわそわし始める。そんな彼女を無視してゴンドラはひっそりと石橋の下に停止した。
「裏口などどこにもないではないですか。ふざけていると衛兵を呼びますよ?」
「いえいえ、ちゃんとここから中に入れます」
 叫びたければ叫べばいい。誰に聞き咎められたところで問題ない。
 ルディアは指先でカロに合図した。壁面の装飾石をいくつかいじり、ロマは部分的に壁をずらす。すると宮殿内部へ続く秘密通路が姿を見せた。
「こ、これは?」
 アクアマリンの目を丸くしてグレースが身構える。ルディアはかびた石床に思いきり彼女を突き飛ばし、カロに扉を閉ざさせた。

「待ってたよ。朝からずーっと……」

 怨念じみたモモの囁きがこだまする。武器を構えて待機していた騎士と槍兵もランタンの覆いを剥がした。
「覚悟しろ! 俺たち王都防衛隊が成敗してくれる!」
「ったく、誰があのゴンドラの修理代出すと思ってんだ!?」
 二人の陰ではバジルがそっと麻縄の用意を始める。あからさまな敵対行為にグレースは眉をしかめた。
「一体なんのご冗談です? 私に何かあればジーアンが黙っていませんよ? 王国経済の基盤を成す東方貿易を不意になさるつもりですか」
 くつくつとルディアは笑う。可哀想な祖母はまだこの場を切り抜けられると過信しているようだ。そう、確かに普通のやり方では天帝の実弟に手出しなどできない。普通のやり方では。
「あなたほどの方がおわかりになりませんか。アクアレイアはハイランバオスの身体さえ無事ならそれで構わないんですよ」
 エセ聖人の表情が凍る。次いで奥から現れたアイリーンと茶毛猫を目にしてグレースは即座に窮状を理解した。
「どけッ!」
 流石に対応は迅速だった。腰に結わえた鞭を取り、グレースは立ち塞がったレイモンドの足を払う。狭い通路を突破しようと彼女はアルフレッドにも全力で体当たりした。――しかし。
「この程度で騎士が怯むか!」
 鍛え方が違うのだとアルフレッドはグレースに体落としを決める。仰向けに転んだ彼女にモモとレイモンドが遠慮なく馬乗りになると、電光石火の早業でバジルが首に縄をくくった。
「離せ! こんなことをしてただで済むと……ッ」
「あなたこそ、王家転覆を謀った身でただで済むとは思っておりませんね? お祖母様」
 見下ろすルディアに向けられた目が見開かれる。
「お、祖母様……だと……?」
 驚き震えるグレースにルディアはとびきり可憐な笑顔を見せてやる。彼女の前ではいつもそうしていたように。

「ええ、グレースお祖母様。ルディアはまたお祖母様にお会いできて感激ですわ」

 うわあとモモが冷めた声を漏らした。レイモンドとバジルも過剰なぶりっ子にぴくぴく頬を引き攣らせる。聞いていたのかいなかったのか、アルフレッドだけは生真面目に次の準備を進めていた。
「ば、馬鹿な! お前があの娘のはずがない! ル……ルディアは海で溺れたことなど」
「そうですね、仰る通り海で溺れたことはありません。でも死んで生き返った経験はあるんですよ。治療薬という形で脳蟲を入れられて」
 側頭部を指すルディアの背中でアイリーンがこくこく頷く。「それで今はこの身体を借りているわけです」と補足するとグレースは忌々しげに顔を歪めた。
「宮廷は二度とあなたの好きにさせない。永久にご退場願います」
「……どうするつもりだ?」
「それはほら、簡単に想像がつくでしょう?」
 ちょいちょいと手招きするとアイリーンは抱いていたアンバーを下ろした。猫は何針も縫う大怪我をしている。偵察どころか普通の暮らしもままならないほど器は傷つけられていた。
「うちのモモが言うには『人の気持ちがわからないならその身になって考えれば?』――だそうですよ」
 逃れようと激しく暴れるグレースを全員で押さえ込み、首の縄を締め上げた。窒息し、痙攣すらしなくなったハイランバオスの右耳から例の線虫が這い出てきたのは数分後だ。
 改めて見るウゾウゾとした繊毛にルディアはうっと吐きそうになる。成虫は大きく、中指ほどの長さがあって嫌な意味で壮観だった。確かにこれは年頃の乙女に告げるのは憚られる……。
「姿形は関係ない。ルディア姫はルディア姫だ」
 励ます声に振り返るとアルフレッドはやはりそっぽを向いていた。単に照れ隠しなのだろうか。彼のこの頑なさは。
「そうだよ、生き物の形なんてそれぞれだもん!」
「そうだそうだ、給金弾んでくれる上司に悪い上司はいねーんだ!」
「僕もそろそろ見慣れてきましたよ! グレース・グレディがアイリーンさんの研究ノート持ってるんですよね!? 拝見させてもらっていいですか!?」
 三者三様のフォローに思わず吹き出した。
 内面を包み隠さぬ付き合いなら、外見は大した問題ではないのかもしれない。少なくとも彼らはルディアを受け入れてくれたのだ。

「ああっ! 久しぶりに五体満足な人間の身体だわ! しかも美形よ、美形!」

 ハイランバオスにアンバーを移し、猫にグレースを移す作業は滞りなく完了した。
「良かったね、アンバー!」
 聖預言者と斧兵がひしと抱き合う。それをバジルがハラハラしつつ見守っている。
 光景の異様さはさておき、めでたしめでたしだ。事件の真相を表に出せないことに変わりはないが、今はこれで十分だろう。
 さて、とルディアは暗闇の奥に目を向けた。「案内してくれ」とカロに頼む。
 静かに頷いて男は歩き出した。つわりが酷く、レガッタ観戦もできなかった繊細な王女が休む寝室へと。




 ******




 美しい絵画と彫刻、きらびやかな調度品の数々に飾られていても、元は海賊の砦だった王宮だ。どんな仕掛けが隠されていても不思議には思わない。だがまさかカロの外した天井板が己のベッドの真下の床とは思わなかった。道理で今まで気がつかなかったわけである。
 床と寝台の隙間からルディアは室内を窺った。視界に映る足はない。頭上で寝返りを打つ音がそっと響いただけだった。

「ブルーノ、いるの? お姉ちゃんよお」

 アイリーンの呼びかけに部屋の主ががばりと起き上がる。長いネグリジェを引き摺って寝室に鍵をかけるとブルーノ・ブルータスは寝台の下を覗き込んだ。そうしてたちまち引っ繰り返って尻餅をついた。
「ヒッ! 姫様!」
 怯えるブルーノを横目にルディアはよいしょと這い上がり膝をつく。防衛隊の面々も続々と部屋に上がった。地下に残ったのはぐるぐる巻きの猫を抱えたアンバーだけだ。
「うわ、いいとこ住んでんじゃねーか」
「ほんとだー。ベッドふかふかー」
「お元気でしたか? ブルーノさん」
「見舞いの品もなくてすまないな」
「み、皆……っ!?」
「解決したのよ、ブルーノ! 姫様が協力してくださって、ハイランバオス様からグレースを追い出すことに成功したの……!」
 アイリーンの報告を聞くや、ブルーノはその場に平身低頭土下座した。
「も、も、申し訳ございません! 姫様をお守りするために身を移し替えたはいいものの、まさかご結婚の予定であったとは知らず、そ、その、あの、僕、チャド王子と」
 ひたすらに詫びる自分の姿を見下ろすというのも妙な気分だ。顔を上げろと命じてもブルーノはなかなか従おうとしなかった。
 彼なりに自覚はあるようだ。とんでもない時期に身代わりをしてしまったと。
「お腹の子に障るだろう。いいから安静にしていろ。お前には元気な世継ぎを産んでもらわねばならんのだからな」
 やれやれと嘆息するルディアに愛らしい王女の顔が凍りつく。
「えっ……?」
 不安げなブルーノの双眸を見つめ返し、ルディアは「今言った通りだが?」と微笑した。
「まさか乙女の純潔を散らしておいて、善意の結果だから許してほしいなどとぬかしはすまいな? 出産の覚悟もなしに女の身体に入ったとは言わせんぞ? なあ、ブルーノ・ブルータス!」
 にこやかに胸倉を掴み上げ、ルディアはルディアを睨みつける。怒らないでやってくれとアイリーンには嘆願されていたが、それはそれ、これはこれだ。
 処女喪失の罪は重い。申し訳ないと思っているなら最低限の責任は果たしてもらおうではないか。
「産後の世話も含めてもう一年は我が子と夫を頼んだぞ。私はこれから忙しいからな!」
 泡を吹いて卒倒するブルーノをアイリーンが慌てて抱き起こす。「なんて気の毒な……」と男どもは心底同情した様子だった。
「ふーん。ブルーノを置いてくってことは、姫様まだお城に帰らないんだ?」
「ああ、身重の姫でいるよりも防衛隊の一員として動いたほうが都合良さそうだろう。例えば未だジーアンの支配下にあるアレイア海東岸でハイランバオスご執心の客人に扮するとかな」
「あ! それでアンバーから天帝に通商条約の口添えをしてもらうの!?」
「そういうことだ。交易が再開できればお父様に文句のある連中も黙るだろう。折角手に入れた聖預言者の肉体だ、今度はこちらがアクアレイアのために利用してやる! ハッハッハ!」
 高笑いのルディアにバジルたちがううんと唸り声を上げる。
「末恐ろしいと言うべきか、アクアレイアの未来は安泰だなと言うべきか……」
「転んでもただじゃ起きねーってのはいいことだぜ!」
「なんだ、それじゃ今後の方針を話すために立ち寄っただけか。俺はてっきり姫のお姿に戻られるのかと……」
「おや、さっさと厄介払いしたかったのか?」
 意地悪く尋ねるとアルフレッドはもごもごと口ごもる。そういう意味じゃ、とかなんとか聞こえたが、ならどういう意味か説明する気はなさそうだった。もっともそんな説明に頼らずとも、理解は及ぶようになっていたけれど。

「王都防衛隊、今しばらくは私に付き合ってもらうぞ!」

 振り向いて反応を確かめるまでもない。
 ルディアが先に通路へ下りると四つの足音はすぐに後を追いかけてきた。









(20150215)

※作中に出てくる『酒神と烈女のゴンドラ』は「命短し恋せよ乙女」で有名な『ゴンドラの唄』(著作権消滅済み)、またその元ネタになったと言われている『バッカスとアリアドネの勝利の歌』、アンデルセンの『ヴェネツィア民謡』(森鴎外訳)を参考にしたものです。

※ロマという民族名が出てきますが、実在のロマとは異なる設定を多く含みます。