もう誰も信じてはいけないよ。
 ルディア、お前は強くなって生き伸びるんだ……。


 一番古い思い出は父の嗚咽と戒め。重い病に倒れ、生死の境を彷徨っていたルディアが奇跡的に回復した夜、痛いほど強く手を握られたのを覚えている。
 当時ルディアは五歳になったばかりだった。母は既に冥府の人で、父の側には娘の他に誰もいなかった。
 どれほどの熱に侵されていたのだろう。目を覚ましたルディアは簡単な言葉さえ思い出せなかった。だがそうなって却って良かったのだと思う。おかげでルディアはもう一度人生をやり直すことができたのだから。
 忘れ形見を喪いかけた父は二度と我が子をグレースに預けなかった。祖母が毒を盛ったのではと疑ったのだ。
 それまでグレースはルディアの教育係だった。王に嫁がせた娘を操り人形にしていたように、祖母は次期女王の孫娘をも言いなりにさせようとしていた。
 鞭の痛みと狡猾な優しさを刷り込まれたままだったら、今頃どうなっていたか知れない。だがルディアも、娘を守ると決意した父も、あの日から傀儡ではなくなったのだ。
 父はルディアに護身の剣と与えられるだけの知識を与えた。危険と思われる行為は全て制限されたし、親しい友人を作ることも許されなかった。貴族の娘は箱入りと決まっているが、ルディアの入れられた箱は殊更頑丈だった。
 来る日も来る日も勉学と稽古に明け暮れる孤独な日々。けれど己を不幸だとは思わなかった。窓の外に目をやれば守らねばならぬ国があったから。
 使命感、あるいは未来に燦然と輝く希望があれば人間は耐えてゆける。「力を得るまで牙は隠しておきなさい」という父の厳命に従ってルディアは弱い姫を演じた。慎ましい孫娘に油断したグレースはルディアを無害と捨て置いた。

 ――でもお父様、私はいつまで他人に心を許してはならないのですか。

 問いかけに父が答える。

 ――いつまでもだ。君主は親や伴侶にも油断してはいけない。

 ルディアはむっと唇を尖らせた。けれどお父様はいつも私をお守りくださるではありませんか、と。

 ――味方でありたいとは願っているよ。けれどもし私がお前の邪魔になったときは、迷わず切り捨てなさい。

 優しい微笑に悲しくなる。決して愚かではない父の中にそんな選択肢のあることが。
 ルディアは強くならねばならなかった。第一は国を守るために。第二は父を守るために。それができなかったときは何も残らないとわかっていたから。

 ――ルディア、誰も信じてはいけないよ。お前は自分の足で進み、自分で道を選ぶんだ。お前がいつもお前らしくあれば、そのうち寄り添ってくれる誰かが現れるかもしれない。お前の孤独も少しはやわらぐかもしれない……。

 暗闇に父の姿が掻き消える。姫様と呼ぶ声がしてルディアは木漏れ日の注ぐバルコニーを振り返った。

 ――軍務を終えてただいま戻ってまいりました。少し見ない間にまた美しくおなりですね。

 賞賛はそう珍しいものではない。年頃になったルディアは波の乙女の化身と称されるまでになっていた。だがやはり想い人に褒められるのは特別だ。頬が勝手に熱を持ってしまう。
 近づいてくる人間は腐るほどいた。裏では誰がグレディ家と繋がっているか知れないから、交際の類はやんわり断り続けてきたのにユリシーズだけは拒めなかった。「私にも遅い初恋が来たようで……」としどろもどろに打ち明ける彼が愛しくて。
 娘心に期待した。父の言っていた「ルディアに寄り添ってくれる誰か」とは彼のことではなかろうかと。リリエンソール家は二代に渡って名将を輩出した王国海軍の雄である。ユリシーズが王配となれば民も喜ぶに違いなかった。
 父も婚約を祝ってくれた。王家に利するところ多く、良縁に恵まれたなと。ルディアも彼と一緒なら、より良い国を築いていけると確信していたのに。

 ――マルゴー公国の第二王子と結婚することになりました。どうかわかってください。私たちのアクアレイアを守るためなのです……。

 決定事項とルディアの謝罪を呆然と聞くユリシーズを思い出す。うろたえるあまり、優しい彼も一度だけルディアに声を荒らげた。

 ――私は心を捧げたのに、あなたはそんな無慈悲な真似をなさるのですか!

 ごめんなさいと詫びるほかなかった。圧倒的な軍事力を持つジーアン帝国に対抗するには強い結びつきを持つ陸の味方が不可欠だった。海軍の出世街道を行くユリシーズには二重に耐えがたかったろう。祖国を守るのにガレー船では頼りないと、そう主張したも同然だったのだから。
 それでもルディアは初恋という言葉を信じた。親も伴侶も信用するなと説く父にさえ、たったひとり友人と呼べる人間が存在するのだ。
 己にとっての「たったひとり」は彼だった。たとえルディアが王女としての上辺の姿しか見せていなかったとしても。

 ――夫婦になることはできずとも、きっと私を支えてください。

 あなたの愛が本物なら、とルディアは言った。それがどんな傲慢な要求かも知らず。
 長い沈黙の後、手の甲に口づけたユリシーズの、薄い唇は震えて凍えきっていた。




 ******




 視線を感じて目を覚ます。瞼を開けば寝台で横になるルディアを猫とモモとレイモンドが覗き込んでいるのが映った。
「ニャーン!」
「見回り行ってきたよー」
「今のところ特に何も起きてないぜ!」
 平然と王女の寝所を訪ねる彼らの怖いもの知らずには素直に感心する。これまで通りブルーノ・ブルータスとして扱えと命じたのはこちらだが、槍兵など「恥ずかしい! もうお婿に行けない!」と大騒ぎしていたくせに。
 ガラス工房は街から離れすぎているため、ルディアたちはブルーノの実家で順番に仮眠を取っていた。交代制のパトロールはルディアとアルフレッドの番である。隊長の所在を聞けば、先にゴンドラで待機中とのことだった。
「わかった。お前たちも今のうちに少し休んでおけ」
 紺碧の夜空は薄ぼんやりと白んできていた。王国生誕祭の開始時刻を考えると長く休ませてやれないが、不眠不休よりはましだ。いざというとき使い物にならないのは困る。
「ふっふっふ。ところが俺は次の巡回にも付き合っちゃうんだなー」
「はあ? どういう風の吹き回しだ? 特別手当など出さないぞ。悪いことは言わないから体力を無駄にするな」
「違うよねー。レイモンドお手柄なんだよねー」
「ニャ!」
「お手柄?」
 どういうことだとルディアは首を傾げた。長身の槍兵を見上げれば鼻高々にオールバックを撫でつけている。
「喜んでくれ。灯台に登れるぜ!」
「何?」
 意外な報告にルディアは瞬きした。夕刻立ち入りを禁じられた大鐘楼に入る手立てを見つけてきたとはどういうことだろう。
「つっても中に堂々とってわけじゃねーから行くのは俺とアルと姫様……じゃなくて、ブルーノの三人な。時間もそんなねーぞ! さ、早く早く!」
「あ、おい!」
「いってらっしゃーい」
 手を振るモモとアンバーを残し、ルディアはレイモンドに腕を引っ張られていく。ゴンドラに乗り込むやアルフレッドが漕ぎ出した。座り乗りをからかう者はもういない。
「流石に祭りの夜だな。こんな時間にこれほど人通りがあろうとは」
 吊りランタンに照らされた岸辺や水路を見やってルディアは嘆息した。踊り騒ぐ酔漢も、睦み合う恋人たちも、揃いも揃って仮面・仮面・仮面だ。この中に国王暗殺を目論む刺客が潜んでいるとして、果たしてそうとわかるだろうか。
「夜闇に紛れようと雑踏に紛れようと不審者は目立つ。俯瞰で見れば尚更だ。大鐘楼へ急ごう」
 ルディアの思考を読んだようにアルフレッドが舟を速めた。横顔がこちらを向くことはなく、視線は一切交わらない。あれだけ派手に怒鳴りつけてくれたくせに、まだルディアへの不満が消えていないらしい。意外に面倒な男だ。
(まあいい。どう思われていようと職務を怠らん限り責めはせん)
 駒は最低限の役割を果たしてくれればそれでいい。それ以上のことは求めていない。期待して判断を誤るのも、裏切られて平静を欠くのもごめんだった。ルディアとて王女という大駒を務め上げねばならないのだから。
 笛の音色と陽気な合唱が響く大運河へ漕ぎ出ると、レンガの塔は目前だった。ルディアたちは周囲に浮かぶ大型船を隠れ蓑に目的地へと忍び寄る。
 入口、つまり広場側の橋は封鎖されたままであったが、小舟を横づけする分には制限されていないようだ。アルフレッドは大鐘楼の裏に回ってゴンドラを舫わせた。
 と、そこに先刻の少年兵士が現れて「こっそりお願いしますね!」と忠告を与えてくる。「わかってるって」と答えるレイモンドはやけに親しげだ。
「なんだ? 賄賂でも握らせたのか?」
「いいや、俺は身銭は切らねー主義だ。そうじゃなくて、あの見張り兵どっかで見たことあるなって思い出してみた結果、なんとうちの常連に言い寄ってる男だったんだよ! そんで食堂ランチデート工作一回で手ェ打ってくれたってわけ」
 人間の顔を忘れないという彼の特技はここでもいかんなく発揮されたらしい。なるほどそれでお手柄か、と頷いた。
「中には入っちゃいけねーけど、上には登っていいってさ」
 水上にどっしりと聳え立つ大鐘楼。その赤レンガの壁面に備えられた鎖編みの長い梯子を指差してレイモンドが笑う。
 えっと思わず二度見した。まさか内階段ではなくこれで上まで向かうのではなかろうな。
「んじゃ俺が先頭、ブルーノが真ん中、アルは一番後ろな!」
 そのまさかだったらしい。ひょいと数段先に上がった槍兵に「プリンセス・ブルーノ、どうぞこちらへ」と恭しく手を差し伸べられる。
 乾いた笑みを無理矢理引っ込めてルディアは一段目に足を置いた。少しでも体重がかかると鎖縄は頼りなく沈み込む。
「……大丈夫なのかこれは? 留め金が外れて墜落することにならないか?」
「風も出てねーし、大丈夫大丈夫!」
 能天気に励ますレイモンドが恨めしい。この馬鹿者は大鐘楼が何階建てだと思っているのだろう。十八階だぞ、十八階。
 だが登り始めた以上は文句を言っても仕方がない。微風でも振動でも容易く揺れる鎖梯子に恐怖しながらルディアは尖塔の頂を目指した。




 薄緑の方形屋根を戴く最上部の鍾室に到達するまで何十分かかっただろう。汗だくの身をやっと投げ出せたときには朝靄に覆われた水上都市を太陽が透き通る朱に染めていた。
 幻想的な美観である。だが今は賛辞している暇などなかった。足音を忍ばせながら見張り台の上に立ち、ルディアは眼下に目を向ける。
 国民広場、アンディーン神殿、レーギア宮、造船所、市場に税関、外国商館、グレディ家の大邸宅――一見してどこにも怪しい人物は見受けられなかった。祭りの力で最近の憂鬱を忘れた人々が踊り明かしている程度だ。
 吊り下げられた五つの大鐘を迂回して反対側も見て回る。都の門たる砂洲の向こうに広がったアレイア海はごく静かなものだった。商港に停泊中の船にも妙な動きはない。
 レイモンドとアルフレッドも曲者を発見するには至らなかったようである。うーんと唸り声を上げて槍兵はいつも垂れ下がっている眉を歪めた。
「なんか皆普通じゃねー? おかしな奴がいたら今のうちにマークしとこうと思ったけど……アルはどうよ?」
「いや、見たところ余所者はいなさそうだ。もしかするとグレディ家は王国内の人間だけで事を企てているのかもしれないな。それか既に、どこかに刺客を潜ませているのかも」
「げーっ! 建物に入られてちゃお手上げだぜ」
 二人の会話にルディアは「ちょっと待て」と割り込む。
「お前たちまさか地元民とモグリの区別をつけられるのか? どいつもこいつも仮面で扮装しているのに?」
 この問いにレイモンドたちはさも当然のごとく頷いた。
「ああ、余裕で見分けられっけど?」
「アクアレイアは水路のせいで橋とトンネルだらけだし、袋小路も多いだろう。並の旅行者ではすいすいと歩けない。素顔は見えずとも足取りの順調さで区別できる」
 ブルーノと入れ替わった当初の己を思い出し、ルディアは確かにと納得した。慣れた者とそうでない者でゴンドラの乗り方一つ違うのだ。彼らの言う通り、刺客は隠れ潜んでいるか王国内部の人間である可能性が高かった。
「仮面がなきゃもっと正確にわかるんだけどなー。前にゴンドラ漕ぎのバイトしてたし、食堂関係の知り合いもいっぱいいるし、結構顔広いんだよ俺。あっこいつ街の人間じゃねーなと思ったときは大体当たってんだぜ?」
 レイモンドはえへんと胸を張る。アルフレッド曰く、王都に槍兵が知らない人間はいないだろうとのことだった。
「お、王都の人間全員だと……!?」
 なんだこいつ。記憶力に些かの偏重はあるが、実は部隊で一番有能なのではないか。
「おい、お前に頼みがある」
「へ?」
 ルディアはレイモンドを振り返り、有無を言わせぬ口調で告げた。
「今日の『海への求婚』で指輪争奪戦に参加しろ」
「えっ!? なんで!?」
「指輪を手にすれば身分を問わず誰でも王に接触できる。危害を加えたい者にとっては一年に一度の大チャンスだ。民衆の中に謀反人のいる可能性もあるが、国外のごろつきが紛れていればほぼ黒で確定だろう。仮面をつけて水中レースに出る者はいないし、お前が参加者をチェックして他の隊員に伝えるのが効率的だ」
「あ、あー! なるほど!」
 レイモンドはぽんと拳を打った。それから不意に黙り込み、へへっと両手を揉み始める。
「それって基本給とは別の報酬を期待しても?」
「ちゃっかりした奴だな。いいだろう、約束してやる」
「やったー! 臨時収入だー!」
 はしゃぐ槍兵にアルフレッドは「こんなときまで金勘定か」と呆れ顔だった。当てこする気はなかったが、その反応を見てつい余計なひと言を呟いてしまう。
「喜べ喜べ。正直金で動いてくれるほうが助かる」
 鋭い双眸に睨まれたのは直後のこと。騎士の反応は嫌になるほど正直だった。
「金銭欲が忠誠心に勝ると?」
 怒気を孕んだ低い声。眉間に寄ったしわの深さに辟易する。彼は私をなんだと思っているのだろう。
「誰もそこまでは言っていない。傭兵の質が正規軍の質に劣るのは明らかだ」
「……だったらいいが」
 訝しげな視線に内心舌打ちし、ルディアは再度塔外を見やった。
 アクアレイアの街並みを抱いて佇む潟湖。その西方には神話の時代より君臨するパトリア古王国、東方には膨れ続けるジーアン帝国が迫っている。こんな小さな都市国家、いつ時代の潮流に押し潰されてもおかしくない。
 守りたかった。誰にも荒らさせたくなかった。波の乙女の美しき宝石箱を。
(私の国だ。私の守るべき生まれ故郷だ)
 注ぎ込む淡水と波打つ海水の入り混じるアクアレイアの水盤。陽光を受けてきらめく情景にしばし見入る。世界中のエメラルドを溶かしてもきっと同じ色にはならない。いくら金を積まれてもここだけは譲れない。降りかかる火の粉は全て払う。ひとり決意を新たにする。
「なあ、そろそろ戻ろうぜ。海軍と鉢合わせてもまずいしさ」
 と、ちらちら階下を気にしながらレイモンドが言った。
「そう言えば少し騒々しいようだが、中で何かやっているのか?」
「ああ、部外者の締め出しついでにプチ慰労会やってんだって。ロブスターに牡蠣が食べ放題らしい」
「露骨に羨ましそうな顔をするな。防衛隊にそんな余分な予算はないぞ」
「ああっひでー! 少しくらい希望を持たせてくれてもいいのに!」
 嘆くレイモンドをしんがりにルディアたちは鎖梯子を伝い降りていく。上りは必死で気づかなかったが、確かに美味そうな飯の匂いが早朝の澄んだ空気に混じっていた。
 大鐘楼の封鎖はグレディ家が決行しようとしている「事件」と何か関わりがあるのだろうか。軍の飲み会に使用しているくらいだから、無関係の可能性のほうが高いが。
「今日もここは関係者以外立ち入り禁止なのか?」
「レガッタが終わるまで開放はしないってさ。すぐ逃げられる立地じゃねーし、ここから弓で陛下を狙うってこたねーと思うけど?」
「そうか、ならば安心だ。しかし一応警戒だけはしておこ……うわっ!?」
 下段がつかえているのに気づかずルディアはアルフレッドの手を踏みつけてしまう。一瞬足を滑らせかけて冷や汗を掻いた。
「お、驚かせるな馬鹿!」
 この高さから落ちれば即死だ。隠密行動なのも忘れて声を大にする。
「シッ! ――あれを見ろ。グレディ家の方角だ」
 叱りつけたアルフレッドの関心は別のところに向いていた。示された大運河沿いの館を見るも特に変わった様子はない。なんだと顔をしかめたら「裏門に誰かいる」と教えられた。
「……ユリシーズ……!」
 運河に面した玄関ではなく路地に面した勝手口から騎士は屋内へ入っていく。ルディアは「おい」とアルフレッドに呼びかけた。三人とも無言で降りる速度を上げる。
 確かめるのは怖かったが、確かめないわけにもいかない。再び地上に戻ったルディアたちはグレディ家へと駆け急いだ。




 かつての独立戦争で中心的役割を担い、早くからラグーンに居を構えていたグレディ家の邸宅は他の貴族のそれと比べても大きい。狭い埋め立て地に多数の人間がひしめき合うアクアレイアにおいて、庭つきの家というのはそれだけで豊かな財力と家柄の立派さを表した。
 小運河を一つ挟んだ石橋の陰に身を潜め、ルディアたちは人気のない裏門を見張る。鉄の門扉は固く閉ざされ、初めから来訪者などいなかったかのように静まり返っていた。
 中にはアンバーが潜伏中だ。放っておいても詳細の報告はあるだろう。だがユリシーズのことだけは自分自身で事実を確認したかった。
 ハイランバオスの正体がグレースだという話より、恋人がルディアではなくグレディ家を選んだという話のほうが信じがたい。初めて彼とワルツを踊ったときからずっと側にいてくれた男なのだ。ユリシーズが聖預言者とグレディ家のパイプ役をしているなど悪い夢だと思いたかった。
 ――ルディア、誰も信じてはいけないよ。
 父の忠告が脳裏をよぎる。静寂を破り、裏門が開いたのはそのときだった。

「ユリシーズ様、お待ちください。家に訪ねてきておいて、挨拶もせずお帰りになるなんて……! 健気な女に酷い仕打ちではありませんか」

 引き留める娘の声。砂利を踏む靴の音。振り返った白銀の騎士は丁重すぎるほど丁重にお辞儀した。
「これは申し訳ありません。起こしてしまうのが忍びなくて」
「まあ、私たちそんな他人行儀な仲ではないでしょう? 長いことニンフィに釘づけだったあなたが帰ってきたと聞いて、私眠らず待っていたんですのよ?」
 くねくねと身を捩り、いじらしさをアピールする女に吐き気を催す。令嬢の顔も名前もルディアのよく知るところだった。彼女は母方の従姉妹だし、妙にこちらをライバル視して突っかかってきていたから。
(他人行儀な仲ではない、か……)
 落胆を押し殺し、会話に耳をそばだてる。やはりユリシーズがグレディ家の娘と婚約したというのは本当らしい。しな垂れかかって「私のことお嫌い?」と問う女に騎士は「いいえ」と首を振った。

「少し見ない間にまたお美しくなられて、今も見惚れておりましたよ」

 聞き覚えのある台詞に「は?」と大きく目を瞠る。思わず橋脚から身を乗り出したルディアの腕を慌ててレイモンドが引っ張った。
「こらこら、はみ出しすぎだって。見つかっちまうぞ」
 だが槍兵のヒソヒソ声はルディアの耳に入らない。聴覚はユリシーズの声を追うのに必死だった。
 なんだ今のは。まさかとは思うが、あちこちで同じ口説き文句を使っているのではなかろうな。
(いや、違う。ユリシーズにそんな不誠実な噂はなかった。彼は軍務も女関係も真面目だったはずだ)
 だが否定は即座に否定されてしまう。続く言葉にルディアは唖然とするほかなかった。

「どうやら私にも遅い初恋が来たようです」

 ちょっと待て。お前の初恋は何度来るんだ。それでは私の婚約者だった数年は一体なんだと言うつもりだ。
(……まさか最初から演技だったのか? 女王の配偶者となるための?)
 呆れてしまって物も言えない。男など、宮廷人など、所詮はこの程度ということか。
「まあ、ユリシーズ様ったら」
 可哀想に、歯の浮く台詞に舞い上がって小娘は耳まで真っ赤に染めている。情けないやら腹立たしいやら、ルディアは膝から崩れ落ちそうになった。――だが。
「さあ、そろそろ部屋にお戻りを。そんな薄着では風邪を引きます」
 一瞬覗いた冷め切った目に彼の本音が見えた気がした。あんな風にルディアが見つめられたのは騎士との破局のときだけだ。ああそうか、とようやく悟る。
 ユリシーズの初恋は最悪の結末を迎えたのだ。彼はもう愛に価値を感じなくなったのかもしれない。己の地位に見合う相手なら、もう誰だっていいのかもしれない。
「…………」
 気づけばルディアはふらりと歩き出していた。ユリシーズとなんの話をするつもりだったかは知らない。ブルーノの姿では謝罪もできないとわかっていたはずなのに。
「お、おい」
 アルフレッドとレイモンドが驚いて後を追ってきた。けれど彼らが追いつくよりも、門を出てきたユリシーズとぶつかるほうが早かった。

「! お前は防衛隊の……」

 密会を見られた狼狽を隠すようにユリシーズは皮肉な笑みを浮かべる。「夜警ごっこの最中か? 出世の見込みもないのに熱心だな」とあからさまな愚弄を受けてルディアはハッと我に返った。
 話をするなど不可能だ。今の自分とユリシーズでは。そう気づくのに大した時間はかからなかった。
「……ああそうだ。この辺りには異状なかったか? ジーアンの預言者殿にも」
 誰と婚約しようと構わない。せめて馬鹿な真似だけはしないでくれ。
 言えない代わりに釘を刺す。陰謀は察知されているぞ、と警告が伝わるように。
「いいや? 特に変わったことはないが?」
 だがルディアに答える騎士の態度は冷淡だった。たった五人のお飾り部隊と侮って警戒する素振りすら見せない。それどころか親切に忠告までしてくれる。
「一ついいことを教えてやろう。どれだけ貢献したところでルディア姫にお前たちを取り立てる気はかけらもないぞ? 後でがっかりしたくなければ献身的に務めすぎるのはやめておくんだな」
 荒んだ物言いに胸が痛んだ。ユリシーズはぐいとルディアを押し退けて足早に立ち去ろうとする。

「おい、何か落としたぞ」

 そのとき赤髪の騎士が金髪の騎士を呼び止めた。振り返ればアルフレッドが拾い上げたガラス瓶をまじまじと見つめている。
「変わった乳香だな。それとも蜜蝋か?」
「……貴様には関係ない」
 礼も言わずにユリシーズは手荒く小瓶を奪い取った。懐にそれを押し込むや、今度こそ振り向きもせず朝靄の中に消えていく。
「あー、えっと、ひめさ……ブルーノ、気を落とさずにな?」
 一ウェルスの足しにもならないレイモンドの励ましが立ち尽くすルディアの耳を擦り抜けた。
 遠くで鳥がさえずっている。慎ましやかだった朝の光が次第にまばゆくなりつつある。
 建国六十年を祝うアクアレイア王国生誕祭は、もうじき始まろうとしていた。




 ******




 見上げた空は爽やかな青。吹く風は柔らかく、絶好のお祭り日和だ。宮殿前の国民広場に集った人々のざわめきも明るい。
 午前九時、高らかなファンファーレを響かせて楽隊を乗せたガレー船が登場した。細部まで彫刻され、金箔を塗られた豪華絢爛の巨船である。ゆったりと流れる大運河に黄金の影が揺らめくと民衆は「おお!」と身を乗り出した。
 漕ぎ手には偉丈夫揃いの海軍から、これまた見目麗しい男たちが選出されている。当然ユリシーズも櫂の一つを握っていた。これから父が彼のいる甲板にやって来るかと思うと不安だが、逆に考えればそこは最も動きにくい場所でもあった。何しろ祝祭船の乗員は二百名に上るのだ。衛兵に守られた王に近づくのは至難の業に違いなかった。
(大丈夫。何もできやしない)
 そう自分に言い聞かせ、ルディアは眼前のガレー船を見やった。ムカデの足のような櫂が一斉に漕ぐのを止める。船は広場の正面にお行儀良く停止した。
「今年こそ乙女の愛を勝ち取ってみせるぞ!」
「ぬかせ、指輪は俺のもんだ!」
 広場から突き出した大鐘楼の麓では指輪目当ての人々がゴンドラを敷き詰め、金襴の船を見上げている。飛び込ませるのはレイモンドだけだが、ルディアとアルフレッドも乗りつけたゴンドラで参加者の群れに混ざっていた。不審人物を見つけたらすぐに捕らえられるように。
 広場側にはバジルとモモを配置済みである。仮面をつけたカロとアイリーンも岸を埋める群衆に紛れ込んでいる。その混雑の最前列、特等席で祭典見物に興じる聖預言者にはアンバーを張りつかせた。
 猫の目が悪行を監視しているなどグレディ家はまだ気づいてもいないだろう。とは言えこちらも一派の計画を具体的に掴んでいるわけではないが。
 アンバーの報告によれば、ユリシーズとクリスタル・グレディの打ち合わせは「当日は予定通り」のひと言でほとんど済んでしまったそうだ。主犯の尻尾を掴むのはなかなか難しそうだった。
 陰謀の糸を引いているというハイランバオスは護衛役以外の王国民と関わりらしい関わりを持っていない。自らグレディ家に出入りして海軍に警戒されるミスも犯していなかった。これなら「ひょっとしてグレディ家は敵国と通じているのでは」と疑われても「ユリシーズが屋敷を訪問するのは婚約者に会いにきているだけだ」と言い訳できる。まったく周到なことだった。

「今日の良き日に、アクアレイアの新たな歴史を刻もうぞ!」

 と、大運河に海軍提督の雄々しい声がこだました。気がつけばトランペットの音が止み、重低音の厳めしい演奏が始まっている。
 ルディアは顔を上げ、衛兵たちが儀礼剣を掲げて並ぶ国民広場を振り返った。ほどなくしてアーチと列柱に飾られたレーギア宮の壮麗なる正門がゆっくりと開かれる。
「イーグレット陛下、イーグレット陛下!」
「アクアレイア王家、万歳!」
 奥から姿を現した父に拍手と歓声が巻き起こった。まだ君主の威厳が健在なことにルディアはホッと息を吐く。
 だが少なからぬ嘲笑も聞こえた。「相変わらず生っ白いことで」と揶揄する声にムッと目を吊り上げる。
(あのアルビノは生まれつきだ! 海で日焼けしていないからではないぞ!)
 頭の天辺から爪の先まで新雪のごとく真っ白な父、イーグレット・ドムス・レーギア・アクアレイア。白鷺王と人は呼ぶ。敬意ではなく皮肉を込めて。
 ビロードのマントを引き摺り、王は黄金の祝祭船に乗り込んだ。グレディ家の謀略についてはカロから知らされているはずだが、特にルート変更はしないらしい。人々の見守る中、ガレー船は例年通り墓島へと漕ぎ出した。
(お父様……)
 身の安全を優先するなら生誕祭自体取りやめにすれば済んだ話だ。父がそうしなかったのは、王と民が心を一つにできる日を台無しにしたくなかったからだろう。
 人心掌握を図るのは王家存続のためだけれど、結局それが国民のためになる。アクアレイアのような小国は一致団結しなければ弱い。内部分裂が生じた途端他国の干渉を許す羽目になる。
(ルディアは承知いたしております、お父様)
 岸を離れたガレー船を追いかけて子供たちが走り出す。埠頭には色とりどりのリボンを投げる娘たち。どちらも見慣れた建国記念日の風物詩だ。
 来年は父の隣でこの景色を眺めたい。王国に身を捧げる者として。

「さーて、そろそろ出番かな」

 船影が遠ざかると大鐘楼の麓に蠢く面々は念入りに準備運動を始めた。乙女の指輪を手にすれば大抵の願いが叶えられるのだ。全員真剣そのものだった。
「レイモンド、ざっと見てどうだ?」
 剣に手をかけながら問う。半裸の槍兵は声を潜めて「一応全員地元っぽい」と返事した。
「そうか、ではやはり……」
 事が事なので全ては口にしない。アルフレッドとレイモンドにはそれで十分伝わった。
 ルディアたちは神妙な面持ちで指輪を狙う同胞を振り返る。この中の誰が刃を隠した刺客なのだろう。疑い出すと誰も彼も怪しく思えた。
(お父様、何があろうと必ずルディアがお守りします……!)
 墓参りを終えた船が大運河に戻ってきたのはそれからおよそ三十分後のことだった。イーグレットの周辺警護に隙はなく、ユリシーズも今のところ櫂漕ぎ椅子に腰を落ち着けて精を出している様子だ。このまま何もせずにいてくれと祈る。

「これより指輪奉納の儀を始める!」

 国中の民が見守る中、黄金船はアレイア海と向かい合った。錨が下ろされ、名だたる貴族が甲板に整列する。海軍兵士も櫂を置き、立ち上がって敬礼した。
 広場ではお仕着せの楽隊が待っていましたと今日一番美しい旋律を奏で出す。波を模した装束の踊り子たちも群舞した。
 否が応でも祝祭は華やぐ。辺り一帯を熱気が包む。注目を一身に集め、王は右手を振り翳した。
 指揮に従いトランペットが響きを強める。技巧を凝らして群衆を魅了する。その盛り上がりの最高潮で音楽の花は散らされた。世界はパッと無音になった。
 ――いよいよだ。
 固唾を飲んでルディアは儀式を見守った。
 静寂を背負い、船首へ歩み出たイーグレットが金の指輪を空に掲げる。降り注ぐ陽の光を反射して輝く黄金に人々は万感の溜め息を漏らした。

「海よ、お前を我らの伴侶とする」

 後ろ姿でもよく通る父の声。
 アクアレイアという国の在り方を簡潔に示したこの宣言(プロポーズ)は、建国の翌年にはもう始まっていたと聞く。独立戦争に立ち会った老人の中には小さく復唱する者もいた。両手を合わせ、波の乙女に祈る者も。

「永遠に存在するお前とともに、我らもまた不滅であるように。海よ! 精霊アンディーンよ! お前を愛し、お前に愛されんことを!」

 王の手を離れた金環は流れ星のごとく滑り落ちた。大鐘楼の天辺で祝福の鐘が響き始めるや否や、待ち構えていた者たちは我先に大運河へ飛び込んでいく。
「わはは! 願い事を叶えてもらうのは俺だー!」
 凄まじい速度で水を掻くレイモンドが他の参加者を蹴散らした。父の傍らに急いでくれるのはありがたいが、本来の目的を見失っていないか心配だ。
「よし、私たちも行こう」
 ルディアは残ったアルフレッドとゴンドラを漕ぎ、後ろから泳ぐ一団を追いかけ始めた。不届き者を前後から挟みうちにするためだ。
 そのときだった。パキッと何かが割れるような不穏な音が響いたのは。
(え?)
 ルディアは背後を振り返る。まだやかましく五つの大鐘をぶつけ合っているレンガの塔を。
(なんだ今のは? 大鐘楼のほうから聞こえた気がしたが)
 異音の原因を探してみるが見つからない。歓声と鐘の音が邪魔で、もう一度音を拾おうとしても無駄だった。
 気のせいかなとルディアは指輪の争奪戦に目を戻す。しかしどうしても引っかかり、櫂を漕ぐ手がおろそかになった。
「――」
 何故そこでハイランバオスに目をやったのだろう。
 薄い唇がにやりと歪められるのを見てぞっとした。
 ――何か来る。直感する。
 ほとんど無意識にルディアは振り返っていた。聖預言者の視線の先を。
「なっ……」
 パキ、ピシッ、パキパキと大鐘楼のレンガ壁に幾筋もの亀裂が走る。採光用の小窓からは濃い白煙が漏れていた。ちらちらと赤い火の粉も見え隠れする。
 鐘突き人は異変に気づいていないのだろうか。振動が建物のダメージを一層深刻にしているのに大鐘はまだ鳴り止まない。
 亀裂はすぐに別の亀裂と繋がって間のレンガを弾き飛ばした。それも一箇所どころでなく、地上に近い階で何十箇所も。その穴に上部のレンガが沈み込み、傷口は連鎖的に広がった。
 こうなれば後は一瞬だ。自重を支えきれなくなった塔は地響きを立てて崩れ落ちた。置き去りのゴンドラと、付近に陣取っていた人々と、ルディアたちを巻き添えにして。




 伏せろ、いや運河に飛び込めと、そう叫んだのはアルフレッドか。崩壊する大鐘楼の一番近くにルディアたちのゴンドラはあった。問答無用で手を掴まれ、水中に引き込まれ、身を庇われたところにレンガの雨が降り注ぐ。
 水が重いと初めて知った。呼吸ができずに苦しかった。だがアルフレッドはルディアよりもっと悲惨だっただろう。足手まといを守りながら容赦なく叩きつける十八階分の礫に耐えねばならなかったのだから。
(なんのつもりだ、この男)
 逞しい腕に守られたまま毒づく。ルディアに呆れ、失望したのではなかったのか。ユリシーズと同じように。
(目を合わせるのも嫌がっていたくせに……)
 くそ真面目にもほどがある。自分だって死ぬかもしれないこの状況で、騎士の務めを全うするつもりか。
「……ッ!」
 運河に没した大鐘楼は局地的な高波を引き起こした。成す術もなく水の塊に押し流される。アルフレッドはルディアを離すまいとしたが、レンガの濁流に阻まれてすぐに引き裂かれてしまった。
 泳ぎ方も、水面に浮かぶ方法も知らなかった。うっかり飲み込んでしまった水が思考力を奪い去った。
 もがいて、もがいて、手を伸ばして。それでも身体は沈むばかりで。
(……駄目だ、もう息が……)
 鎧など着込んでいるから重いのではと思い至ったのは意識を失う寸前だ。
 せめて胸甲を外すくらいはできただろうか。予算を回さなかったから金属製の装備はそれくらいなのだけれど。
 全身の感覚が消えていく。青い闇に沈んでいく。
 他には何もわからなかった。




 ******




 しくじった。見失ってしまった。
 騎士ともあろう者が主君を。早く助けに戻らなくては。
「くそッ……!」
 水面に顔を出すと同時、アルフレッドはぐるりと周囲を見回した。
 まだ遠くへは流されていないはずだ。血眼になってルディアを探す。
 だが捜索は容易でなかった。漕ぎ手を欠いた百艘近い小舟がアルフレッドの行く手を塞ぐ。土煙と塔の残骸も視界を濁らせた。
「アル兄! あっち!」
 妹の声にハッと岸を仰ぐ。指差された方角を見れば波間に漂う青いマントの端が覗いた。しかし頭は水に浸かったままである。アルフレッドは思いきり息を溜め、障害物だらけの運河に潜った。

「しっかりしろ! 目を覚ませ!」

 なんとか側まで泳ぎ切り、王女の身柄を確保する。呼びかけても頬を張っても反応らしい反応はなく、人工呼吸が必要そうだった。
 焦る気持ちを振り払い、まだ騒然としている広場へ引き返す。するとそこにロマたちの漕ぐゴンドラが猛然と近づいてきた。
「乗せてちょうだい! 早く!」
 額に汗したアイリーンが大声で迫る。その勢いに気圧されつつアルフレッドはルディアの身体を横たえた。だが何故か二人は応急処置を始めてくれない。来たときと同じ速度で大運河を離れていく。
「おい!? どこへ連れて行くんだ!?」
「ががが、ガラス工房よ。人目に触れちゃまずいのよ……!」
 アルフレッドはその場にぽつんと置き去りにされた。一緒に乗せてくれないのかと呼びかけたが、アイリーンにはそんな時間すら惜しいようだ。
「アル兄、大丈夫!?」
「こっちに乗ってください! 早く!」
 別のゴンドラで駆けつけたモモとバジルがアルフレッドを引き上げてくれる。とにかくこちらもガラス工房に急ごうと即座に小舟を漕ぎ出した。
「一体何が起きたんだ? どうして大鐘楼がこんな……」
 改めて一望した光景は悲惨だった。飛び交う怒号、立ち昇る粉塵、大鐘楼のあった場所には瓦礫の山。右往左往する人間を嘲笑うように空ではカラスまで鳴いている。十数分前の昂揚は消え、混乱が人々を支配していた。
「立ち入り禁止になっていたおかげで見た目ほど負傷者はいないみたいです。不幸中の幸いでしたね」
 そう聞いて少しほっとする。情報を得ていたくせに未然に防げなかったのは悔しいが。
「こんなの予想できるわけないし! うーん、姫様無事だといいけど……」
 心配そうに妹は前方のゴンドラを見やった。そこに「おーい」とレイモンドの声が響く。
 振り返れば幼馴染の槍兵が小舟に追いつこうと泳ぎを速めていた。櫂を止め、少しの間待ってやる。船縁に手をかけたレイモンドはイーグレットが下船して救助活動を始めたのでこちらに来たと教えてくれた。
「海軍は上から下まで総出で瓦礫の撤去作業だと。緊急事態だっつーんで陛下の護衛増えてたし、一応あっちは平気だと思うぜ」
 よっこらしょと幼馴染もゴンドラに乗り込む。
 四人漕ぎになってもカロたちの舟にはまだ追いつかなかった。寧ろじわじわ引き離されていく。アクアレイア人も驚嘆の操船術だ。
 結局遅れること十数分、防衛隊はグリーンウッド家の工房島に到着した。

「おい、ルディア姫はどうなった!?」

 アルフレッドはほとんど叫びながら問う。屋内を見渡せばぐったりと四肢を投げ出したルディアが水桶に首を突っ込まれていた。予想もしなかった光景に目玉が飛び出そうになる。
「何をやってる!? どうして手当てをしていないんだ!?」
 思わず叫んだアルフレッドにカロもアイリーンも答えない。二人はこちらを見ようとさえしなかった。
 安易に他人任せにするのではなかったか。後悔に焼かれつつ膝をつく。助け起こして心臓マッサージを施そうとしたらロマの腕に突き飛ばされた。「邪魔をするな!」とやり返すも、今度はアイリーンに羽交い絞めにされる。

「今すぐに出て行って! お願いだから誰も姫様を見ないであげて!」

 懇願に面食らった。意味がわからずアルフレッドはついルディアを覗き込む。モモも、バジルも、レイモンドも、同じものを見て凍りついた。――ブルーノの右耳から奇怪な「何か」が這い出すのを。
「な……っ、な……っ!?」
 仰け反ったアルフレッドのすぐ横で深々と重い溜め息が響く。
「諦めろ、アイリーン。隠すには遅すぎる」
 なんだこれは。なんなのだこれは。まさかこれが、こんなモノが、ルディアの本当の姿だというのか――。




 ******




 生まれてくるまで赤ん坊は、母体に守られ、温かい水に包まれているのだと聞く。
 不思議な心地良さの中にいた。優しい腕にそっと抱かれているような。
 病の癒えた幼い日、ブルーノと入れ替わった最初の朝、どちらも同じ浮遊感を覚えていた気がする――。

「…………」

 ルディアはぱちりと瞼を開いた。柔らかな毛布の感触。覗き込んでくる三つの顔。天井の木彫り細工から察するに、ガラス工房へ戻ってきたらしい。
「……助かったのか」
 掠れた呟きにモモが「良かったね!」と笑いかけた。アルフレッドもほっとした様子で胸を撫で下ろす。アイリーンに至っては滝のごとく涙を溢れさせていた。
「うわっ!?」
 身を起こそうとしたルディアは枕元の桶に気づかず引っ繰り返してしまった。飛び散った水が寝台と床をどぼどぼに濡らす。
(どうして洗面桶がこんなところに? 溺れたショックで熱でも出していたのか?)
 尋ねようとしてふと異に感じた。レイモンドとバジルが妙にこちらと距離を置き、戦々恐々とルディアを眺めていることに。
「ひ……姫様……?」
「なんですよ……ね……?」
 若い男が何をそんなに怯えているのやら。怪訝に眉を寄せるルディアの横で「情けないなあ」とモモが肩をすくめてみせた。
「二人とも姫様の正体見てビビっちゃったんだよ」
「は?」
「姫様がアレならブルーノやアンバーだって中身は同じでしょ。気にしたってしょうがないじゃんねー」
「ちょっと待て、なんの話だ?」
「えっ!? ……あれ? 姫様もしかしてさっきのこと覚えてない?」
 モモまずいこと言ったかも、と少女は兄の陰に隠れた。アルフレッドと目を合わせれば騎士はあからさまに動じた素振りで謝罪する。
「す、すまない。どうやら俺たちのほうが先に知ってしまったようだ。あー、その、ブルーノと身体を交換した方法……というか……」
 歯切れの悪い物言いに苛立ちが増した。私の正体? ブルーノと身体を交換した方法? 気絶している間に何があったのだ?
「おい、説明しろ」
「ヒッ!」
 逃げ出そうとした女の首根っこを捕まえる。この汗の量からして相当重要な情報に違いない。
「白状するなら早いほうがいいぞ? 理由はどうあれお前が私を誘拐したのは確かなんだ。情状酌量の余地がなければ監獄行きは待ったなしだからな?」
「う、ううっ……」
「弟と揃って打ち首になるかもしれんなあ。ブルーノの命運もお前次第というわけか」
「ヒィッ! わ、わかりました。言います、もう何もかも皆様にお話ししますから……!」
 やっと観念したらしく、アイリーンはううっと青い額を拭った。今にも卒倒しそうな彼女をそっとカロが支えてやる。その姿はまるで魔女と使い魔だ。
「だ、大丈夫よカロ、ありがとう。覚悟を決めるわ……。私だっていつまでも自分のしでかした過ちから逃げ回ってるわけにいかないものね……」
「アイリーン」
「全部喋って私に死罪が下ったときは、ブルーノを頼むわね……。あの子は何も悪いことはしてないんだから……」
「わかった。任せておけ」
 意味深な会話の後、気力を奮い立たせたアイリーンは「ついてきてください」と乞うた。
「十三年前、あそこで何があったのか、それからお伝えしないといけません」
 ルディアはアルフレッドたちと顔を見合わせる。十三年とはまたえらく昔の話ではないか。
 ピンと来る者はいないようだった。わからない、とかぶりを振る面々とともにルディアは魔女の後ろに続いた。己こそアクアレイアの王女ルディアだと、まだ微塵の疑いも持たないままで。




 先導されてやって来たのは島の裏手の小さな入江だった。打ち寄せる白い波は穏やかで、遠浅の海は底まで透き通っている。
 馬蹄型の岩場を下りると申し訳程度の砂浜があった。側にはぽっかり開いた洞窟。薄闇の奥にアイリーンは進んでいく。
「ここって子供の頃、俺らが秘密基地にしてた?」
 レイモンドの問いにバジルが頷いた。ハートフィールド兄妹は懐かしそうに棚のがらくたを見渡している。
「秘密基地……か。私にとってここは大切な実験場だったわ。一人でも何時間でも研究に没頭できた……」
 波は洞穴の深くにまで侵入していた。適当な手桶を掴み、アイリーンは海水をひと掬いする。それから傷んだ机の抽斗を開き、大きな虫眼鏡を取り出した。
「私がこれを見つけたのは十二歳のときでした」
 ご覧くださいと促され、分厚いレンズを覗き込む。直後ルディアは反射的に身を引いた。
「な、なんだこれは!?」
 鳥肌の立つ両腕で己の肩を抱きしめる。
 手桶の中には半透明の繊毛を持つ不気味な線虫が泳いでいた。それも一匹や二匹ではない。大きいのから小さいのまで、ゆうに十数匹はいる。
「……っ」
 知らなかった。美しいとばかり思っていた王国湾にこんな気色の悪い生物がいたなんて。さっき溺れたときうっかり飲み込んでしまったのではなかろうか。
「一体何が見えるんです? 僕も拝見したいです! 虫眼鏡を貸してもらっても……うげっ」
「なんだよ、俺にも見せろよ! ってウエエエエ!」
「モモも! モモも見たい! あっ……」
「うっ! こ、これは……」
 視野を拡大した途端、四人は揃って絶句する。気まずそうな防衛隊の反応を尻目にアイリーンは努めて淡々とこの発見に至った経緯を語った。
「……私の父とモリスさんは幼馴染で、私もこの工房にはしょっちゅう遊びにきていました。あの日私は可愛がっていたオウムが死んでしまったので、棺を作ってほしいとお願いにきていたんです。完成を待つ間、ここでぼんやり骸を洗ってあげていたら不思議なことが起きました。――死体が息を吹き返したんです」
 話の繋がりが見えなくてルディアは眉間にしわを寄せた。
「息を吹き返した? 仮死状態だったということか?」
 尋ねるとただちに「いいえ」と首を振られる。
「私も最初はそう思いました。でも違ったんです。調べてみると王国湾のごく一部に生息している線虫が、死体に取りつき動かしているのがわかったんです」
「し、死体に取りつく? 線虫が?」
「はい」
「蛆のように死体を食い荒らすのではなく?」
「はい」
 アイリーンは愛鳥の蘇生後、好奇心を抑えきれずに様々な実験を繰り返したと打ち明けた。必要な器具はその都度モリスが形にしてくれたらしい。極小の世界を覗くレンズは特に重宝したという。
「三年かけて判明したのは海には他にも多くの微生物がいるということでした。でもその中で、動物の骸に住み着くなんて変わった習性を持つ虫は一種類のみでした。私が『脳蟲』と名付けたこの虫は、名前の通り生物の脳を巣にします。寄生された宿主は生きていた頃と変わらずに餌を食べ、排泄し、成長し、繁殖しますが以前の記憶は持ち合わせません。私のオウムも覚えさせた言葉どころか初めは飛び方すら忘れていました」
 ルディアはごくりと息を飲んだ。王国の足元にそんな恐るべき生き物が存在していたという事実に。――だが本題はここからだった。
「犬や猫、鳥の死骸を拾ってきては甦らせ、私は得意になっていました。損傷の激しいもの、寿命死したもの、蘇生しない例は他にもいくつかありましたがどんな状態なら復活可能か私には簡単に見抜けました。……そんなとき弟が、まだ五歳だったブルーノが、この島の入江で水死したんです」
「は?」
 思わず声が裏返る。何をほざく、だったらお前のすぐ前にいるこの男は何者だ。そう追及しようとして喉を詰めた。一連のアイリーンの告白がルディアにどう関与しているか、おぼろげながら見えてしまって。
「実験に夢中だった私はあの子が外で溺れているのに少しも気づいていませんでした。何をどうしても弟は目を覚まさなくて、私は怖くなってしまって……」
「ブ、ブルーノに脳蟲とやらを寄生させたのか!?」
 うっすらと涙を浮かべ、アイリーンは沈黙する。できることなら違うと否定してほしかった。そんな恐ろしい真似はしていないと。
「こ、子供だったんです。弟を溺愛してる両親に恨まれたくなくて……。幸い脳蟲の存在は私とモリスさんだけの秘密でした。父も母もあの子が死んで別人になったとは考えもしていなくて、それで私はすっかり安心しきってしまって。……今度は自分の行いを正当化しようとしたんです」
 どのみち助からなかったのだから間違ったことはしていない。身体だけでも生かしてやれて良かったのだ。そう思い込みたかったと彼女は懺悔した。そのためにもっと許されざる罪に手を染めてしまったと。
「同じ頃、外科医資格を持つ父が宮殿に呼び出されていました。イーグレット陛下はご息女の病を治せる医者を探しておいででした。医師団に加わった父に、私は秘薬と偽ってここの海水を渡したんです。姫様が完全に息絶えて、一つの鼓動も打たなくなったらこれを与えてみてほしいと」
「…………」
 その光景を思い浮かべ、ルディアは声を失った。
 虫眼鏡越しでなければさっきの脳蟲を視認することはできなかった。藁にも縋る思いでコンラッド・ブルータスは魔女のまじないを実行したに違いない。秘薬にどんな化け物が潜んでいるかも知らず。
「……ちょっと待て……」
 額を押さえ、ちょっと待ってくれとルディアは繰り返した。それでは何か、私の正体というのは。ブルーノと入れ替わった方法というのは。
「器がなければ脳蟲はちっぽけな虫に過ぎません。でも一度でも自我を持てば宿主が代わっても同じ記憶を保持します。姫様が弟の肉体にありながら自身の心をお忘れでないのは――」
「私の正体があんなウゾウゾ毛の生えたミミズもどきだと言いたいのか!?」
 手桶を指差し呼吸を荒らげる。あまりにも真実味のない話だった。信じるに値しない嘘八百だった。ここに四人も証人がいなければ。
「いや、そっくりだぜそいつ……。さっき姫様の耳から出てきた変な虫と」
「大きさこそ違いますけど、まさにウゾウゾ毛の生えたミミズもどきでしたよ……」
「確かに少々受け入れがたい見た目かもしれないが、その、なんだ」
「モモはあれくらい肩に乗せたって平気だよ! 元気出して!」
「元気なんか出るか馬鹿! 寄生虫だぞ!? アンディーンの化身と謳われるこの私が! 十八歳のうら若き乙女が!」
 声の限りに怒鳴り散らし、ぜいぜいと肩を揺らす。泣き崩れたアイリーンが「ごめんなさい、ごめんなさい」と何度もその場に土下座した。
「ほ、本当はずっと知らずにいてほしかったんです。ショックだろうし、生活に支障はないし、仮死状態にさえならなければ脳蟲は出てこないし! でも、でも、何も知らない姫様がグレースに狙われていると思ったら居ても立ってもいられなくてっ……!」
 ハイランバオスに成り代わったグレース・グレディが王女の肉体を乗っ取る計画を立てたとき、アイリーンはアイリーンなりに説得しようとしたそうだ。多くの信者がハイランバオスを必要としている。祖国を思うなら第二の人生を両国の平和に役立ててほしいと。だが女狐に彼女の言葉は届かなかったらしい。
「脳蟲には巣を守ろうとする本能が備わっているんです。グレースは特にその傾向が強くって、何がなんでも王国を支配下に置きたい、この手でアレイア海を管理したいと望むみたいで」
「そうか。ハイランバオスに乗り移ったということはお祖母様も私と同類なのだな? ならあの人はいつ脳蟲に寄生されたんだ?」
「若い頃に墓島近くで溺れたことがあると言っていたので、多分そのときに。脳蟲は生体に取りつくことができませんから、宿主になるのはほぼ水死体なんです」
「ではアンバーもその口か」
 頭の整理にはまだ時間がかかりそうだった。現実の全てを受け入れるのにも。
 脳蟲――、脳蟲か――。まさか自分がそんな生き物だったとは……。
「ふ、ふふふ、ははははは」
 突然笑い出したルディアにアイリーンがびくりと後ずさりした。
「うわっ、壊れちゃった」
「ひ、姫様! 気を確かに!」
 モモとバジルの十五歳コンビも戸惑いを露わにする。
 お気を確かに? そんなもの無理に決まっているだろう。笑うしかないではないか。こんなぶっ飛んだ真実と向き合わされては。

「巣を守ろうとする本能があるだと? くっくっく、面白い! アクアレイアの女王となるにはこれ以上ない資質ではないか! 私の本能とあの老いぼれの本能、どちらが強いか勝負してくれよう!」

 時間は待ってくれない。無理矢理だろうがなんだろうがとにかく認めて飲み込むしかない。茫然自失している間に大切なものを奪われて、泣きを見るのはごめんだった。
「つ、強い……」
「折れねー姫様だなー」
 感嘆するアルフレッドとレイモンドにふんと息巻く。
 強い? 折れない? 何を守るためにそうあるのだと思っている。
「アイリーン、お祖母様はどこまで脳蟲について知っている? お前くらいに見識は深いのか?」
「は、はい。海難事故の後、ジーアン領に漂着したハイランバオス様をお助けしたのは私でした。自分はグレース・グレディのはずだと名乗るあの人の事情は察せられたので、説明はひと通り。研究資料も見せちゃいましたし……」
「生態以外の具体的な関連事項は? 例えばこの入江の存在だとか、モリスのことは」
「そ、それは秘密にしていました。モリスさんに迷惑はかけられませんから」
「ブルーノの件は?」
「ヒッ! 滅相もありません! 言えるわけないです、実の弟で人体実験したなんて!」
「ということは私が脳蟲ということも知らないのだな?」
「はい、はい、仰る通りですうう」
「では最後だ。お祖母様は独自に脳蟲の研究を進めていたか? 死刑囚や獣を使って」
 ルディアの問いにアイリーンは激しく首を縦に振った。
「そう、そうなんです! あの人私の研究ノートを盗んでそのままマルゴーに休戦協定を結びにいって……!」
 どうやら話は繋がった。「なるほどな」と呟いたルディアの横でバジルがぽんと拳を打つ。
「ニンフィで熊だの蛇だのコヨーテだのが襲ってきたのは全部ハイランバオスの仕業だったわけですね!?」
 理解の早い弓兵に続き、モモたちも指を突き立てた。
「つまりロバータとハイランバオスが裏で繋がってたんだ!?」
「っつーことはやっぱわざと猛獣けしかけられてたのか、俺ら!」
「そうか、防衛隊がマルゴー公国で不祥事を起こせば姫様や王家を貶められるから……!」
「軍事同盟に軋轢を生じさせる狙いもあっただろうな。お祖母様は私の結婚を取り返しのつかない失策にしたかったんだ。今の治世が終わっても王国に希望はないぞと民が思い込むように。しかもさっきの大事故だ。よりによって『海への求婚』の直後に大鐘楼崩壊とは……、国王は守護精霊に嫌われている説が飛び交うに違いない」
 顔をしかめ、ルディアはマントを翻した。
 もう正午は過ぎているだろう。洞窟に差し込む光は随分明るくなっている。
「一旦街へ戻ろう。お父様や街の様子を知りたい」
 ついてきてくれるか、との問いに防衛隊は両極端な反応を返した。
「はーい、了解!」
 返事がいいのは相変わらず物怖じしないモモ。バジルとレイモンドは揃って黙り込んでしまう。
 男たちの動揺はまだ消えていないらしかった。可憐な王女が実は脳に住まう不気味な寄生虫でした、なんて言われたら仕方ないのかもしれないが。
(くそ、折角堪えているのに傷つくだろうが)
 それでも目上の人間に対する遠慮や配慮はあるようで、一緒に行きたくないとは言わない。
「あの、えっと……、む、虫の姿はしばらく見なかったことにしていいですかねえ?」
 バジルはそう苦笑いを浮かべ、
「お、俺もできれば中身は永久にしまっといてほしいかなー」
 とレイモンドも青い顔で目を逸らした。
 これはうっかり街に噂が広まった場合、次期女王の座が危ぶまれそうである。口止めの必要があるなとルディアは銀貨の計算を始めた。

「一度仕えると誓った以上、主君は主君だ。正体がなんであれ関係ない。これからも俺たち防衛隊は王国とルディア姫をお守りするぞ」

 と、それまで思案にふけっていたアルフレッドが「いいな?」と隊員たちに念押しした。きっぱりした剣士の態度にルディアは目を丸くする。少なからぬ感心を抱きつつ。
「アルフレッド、ありが……」
 が、紡ぎかけた感謝の言葉はたちまち霧散した。アルフレッドにプイと顔を背けられて。
 ――おい、台詞と行動が噛み合っていないぞ。
「うわっ、アル兄まだ拗ねてるの?」
 面倒臭そうにモモが嘆息する。拗ねているとはどういう意味だとルディアが二人を一瞥すると、モモはおもむろに兄をたしなめ始めた。
「姫様が三ヶ月も身分を明かしてくれなかったのは、モモたちの力じゃ助けにならなかったからでしょ? 騎士として忠誠を誓ったのに頼ってもらえなくて悲しかったのはわかるけど、それをいつまでも変な風に引きずって……」
「ば、馬鹿、違う! ルディア姫は俺たちの主君だが、今は防衛隊のブルーノだろう!? 隊長としてそこを忘れて振る舞うわけには」
「はいはい。姫様に媚びを売るんじゃなくて、しっかり任務に励んでるところ見せたいんだよねー。頼れる騎士だと思われたいんだよねー。でもそういうの、言わなきゃ伝わらないからさあ」
「モモ!」
 逆立つ髪より真っ赤になってアルフレッドが妹を怒鳴りつける。なるほどとようやく合点が行った。つまり昨日のアルフレッドは、ルディアの暴虐非道というより自分自身の不甲斐なさを責めて落ち込んでいたわけか。
「『一人で突っ走る前に連携する努力をしろ』ではなくて、素直に『俺を信じてくれ』と言えば良かったのに」
 ばつ悪そうにして振り向かない、広い背中に肩をすくめる。失望させたわけではなかったのだなとこっそり安堵した。
「……信頼とは実績なしに得られるものではないだろう。そんな風に頼まなくても、いずれ誰より信の置ける男だと思わせてみせるさ」
 笑みは自然に零れ出た。ルディアが何者であれ、この堅物は己の信じる騎士の道を貫くに違いない。どこの誰と入れ替わろうとも、どこの誰と結婚しようとも。
「私はそう簡単に他人を信用しないぞ?」
「わかっている。俺だって生半可な気持ちで騎士を志したわけじゃない。覚悟していろ」
 不思議に穏やかな気分だった。身を挺して庇われたときの頼もしさが、まだどこかに残っていたからだろうか。
「よし、では行こう」
「了解!」
 揃った返事に満足し、ルディアは一歩踏み出した。おそらくは彼ら四人との初めの一歩を。




 ******




 取り急ぎ戻った広場ではハイランバオスが仮面の聴衆に囲まれていた。王国に災いありと、昨日告げた予言が的中したことで脚光を浴びているのだろう。黒山の人だかりは異様な雰囲気に包まれていた。
「精霊の嘆きは続きます。退くべき者が退かない限り、不幸を断ち切ることはできません。力無き者、海に見放された者をいつまでのさばらせておくのです? このままではあなた方まで道連れにされると言うのに!」
 名指しでの攻撃は控え、暗喩を多用し、取り締まりを巧みに回避しているが演説の内容は王家のネガティブキャンペーンにほかならなかった。集まった人々はエセ預言者の思うまま不安を煽り立てられている。
 嫌な感じだ。半信半疑の様子であってもハイランバオスを冷笑する者は誰もいない。
 別の一角に目を向ければグレディ家の現当主クリスタル・グレディが事故の負傷者を慰問していた。齢三十八にしてなお母親に逆らえぬ豚である。物陰で怯えているしか能のない彼女が慈善のための慈善活動などするはずなかった。グレースに命じられ、家名を高めようとしているのは明らかだ。
 イーグレットはというと、複数の護衛に身辺を固めさせ、瓦礫の運搬を指示していた。屈強な軍人たちに囲まれていると父の白さはよく目立つ。もちろん悪目立ちのほうでだが。
(あの容姿も、海に出る機会を持てなかったのも、お父様のせいではないのにな……)
 見守る民との温度差をひしひしと感じた。イーグレットに向けられる視線とグレディ家に向けられる視線は明らかに異なっていた。
 アクアレイアの民は馬鹿ではない。よもやハイランバオスの言説を鵜呑みにはしていまい。だができれば刃を交えたくない帝国の要人に、イーグレットが良く思われていないという事実を見せつけられたらどうだろう。
 アクアレイアは商業国家だ。交易は相手がいなければ成り立たない。外交の巧拙が先の明暗を大きく分けることになるのだから、王への期待は薄れて当然だった。
「アルフレッド、レイモンド、舟をやってくれないか? 大鐘楼のあった場所に」
 ルディアの依頼に二人が頷く。ゴンドラに乗り込むと防衛隊は今朝と同じく裏手から崩れた塔に近づいた。
「なになに? なんか気になることでもあんの?」
「昨日あそこで海軍が宴会を開いていただろう。どうもそれが引っかかってな」
「えー! いいないいなー! モモも国のお金で美味しいもの食べたーい」
「モモ、国庫なんか当てにしなくても僕が奢ってあげますよ!」
「バジルは下心があるからイヤ! レイモンド奢って!」
「なんでだよ! 奢らねーよ!」
「ケチー! お金は使うから価値があるんだよ!?」
「おい、お前たち少し黙ってろ」
 アルフレッドに口を塞がれたモモがじたばた暴れる。じゃれ合いは無視してルディアは水面に浮かぶ木片を拾い上げた。
「おや? それは?」
 興味深げにバジルが身を乗り出してくる。と、甲冑の足音が響くのを聞いてルディアは焦げた木片を隠した。

「何をしている! この辺りはまだ崩落の危険があるんだぞ! 防衛隊は街の見回りでもしていろ!」

 血相を変えて塔の麓に飛んできたのは若き海軍中尉だった。どうやら客人の護衛がてら、広場近辺の見張り役をしているらしい。美しい銀の甲冑をつけたユリシーズの肩越しに、瓦礫の山と遺体袋が目に入り、ルディアはそっと瞼を伏せた。
 願いは彼に届かなかった。騎士は大罪を犯してしまった。彼を裁くのは法治国家を維持する者の――即ち王族の務めだ。
「……邪魔をしたようですまない。すぐに立ち退く」
 一礼し、アルフレッドにゴンドラを遠ざけさせる。ユリシーズが霞んで見えなくなった頃、ルディアはこそりとバジルに尋ねた。
「工学は得意だったな?」
「へっ? は、はあ、まあ」
「大鐘楼の柱が焼損していた場合、ただ鐘を突いただけでも崩壊が起こり得るかどうか教えろ」
「ええっ!? あっ! さ、さっきの木片ってもしかして」
「いいから教えろ」
 迫るルディアに少年はおずおずと答える。
「ええと、あの、不要になった塔を崩すときは、壁の一部に大穴を開けて柱に火をつけるんですよ。そうすると負荷のかかり具合が均一でなくなって一気にガラガラガラーっと……。うちの大鐘楼は入口が大きめに設計されていますし、最初から穴が開いているも同然ですから、まあ…………」
 やはりか、と塔だったものを振り返る。
「崩壊の直前、窓から白い煙が見えた。民衆の視線は指輪に集中していたし、気がついたのは私だけかもしれないが」
「えっ、じゃあ誰かが忍び込んで火をつけたってこと?」
「しかし大鐘楼には見張りの兵がいたはずだろう。あのとき俺も間近にいたが、人の出入りなんてなかったぞ」
「ずっと中に隠れてたんじゃねーの?」
「一晩中海軍が酒盛りしていたのにか? しかも崩れ落ちる前に脱出した者はいないのだぞ?」
「う、うーん……?」
 五人揃って頭を抱える。この未曽有の大事故が精霊の怒りの顕在などでなく、人為的にもたらされた攻撃だと立証できれば父の名誉を傷つけずに済むのだが。
「自動発火装置かもしれませんねえ」
「自動発火装置?」
 聞き慣れない言葉にルディアは首を傾げた。トリッキーな武器や火器に並々ならぬ関心を持つ弓兵は「僕も実物を見たわけじゃありませんけど」と前置きして推測を語り始める。
「燐という蝋の名前を聞いたことはありませんか? 空気中に放置するだけで燃え出して、溶けてなくなるまでその火は消えることがないという東方の珍宝です。こっちではフォスフォラスと呼ばれていたかなと」
「ふぉ、ふぉすふぉらす?」
「モモ知らなーい」
「私も知らん。続けろ」
「外気に触れると熱を持ってしまうので、フォスフォラスは水中保管するそうです。例えば底に穴を穿った水瓶にフォスフォラスを隠しておけば、中の水は徐々に流れてなくなって、そのうち蝋が露出しますよね? 空になった瓶の中でフォスフォラスが燃え始めても人がいなければ気づきません。しかも昨日は宴会です。そこらに酒を零しておくことも不可能ではないときています。……結構あっさり、柱燃やせちゃうんじゃないですか?」
 おお、と船上に拍手が起こる。東方の珍宝というのがいかにもキナ臭かった。そんなものを手に入れられるのは天帝の弟くらいではないか。
「ちょっと待て、今朝ユリシーズの落としたガラス瓶がまさにそんな感じじゃなかったか? 水に白っぽい蜜蝋が浮かべられていて……」
「おお! よく見てたなアル!」
「それって証拠になるんじゃないの!?」
「いやいやいや、火種がなんだったか証明するのは無理だと思いますよ。本当にフォスフォラスならとっくに燃え尽きてるはずですもん」
 首を振るバジルに隊員たちはがっくりと肩を落とす。
「なるほど、やはり仕組まれた事故だと明らかにするのは難しそうだな」
 ルディアも腕を組み嘆息した。下手人は知れているのに捜査が行き詰まってしまうとは。
「――アル兄、レイモンド、ちょっと止めて」
 不意に船上にモモの緊迫した声が響く。
「なんだ?」
「どーしたどーした? なんか見つけたのか?」
「あそこに寄って! 早く!」
 指差す少女の示した先には真っ赤なぼろきれが横たわっていた。遠くてよく見えないが、モモにはいち早くそれが何かわかったらしい。
 側まで近づいてやっとルディアにも非常事態が理解できた。倒れていたのは血まみれの猫だったのだ。

「アンバー!?」

 運河に伸びた細い桟橋の片隅で彼女は弱々しく返事する。両目は潰され、耳は裂け、生きているのが不思議なくらいだ。
「誰がこんな酷いこと……!」
 爪で船底を削る気力は残っていないのかアンバーはぐったりと沈黙するのみである。ルディアたちは大慌てでガラス工房に引き返した。




 ******




 治療の甲斐あってアンバーは一命を取り留めた。だがしばらくは絶対安静で、アイリーン曰く「容態が悪化したら代わりの器が必要になるかも」とのことである。
 ろくに腕も上げられないのにアンバーはなんとか自分が襲われた状況を伝えようとしてくれた。震えて掠れて滅茶苦茶な文字を解読したところ、どうやら彼女はハイランバオスの監視中、数羽のカラスに攻撃を受けたらしかった。
「怖ッ! 嘘だろ、アクアレイアにそんな凶暴なカラスがいたなんて……! ゴミ捨てが肝試しになっちまうじゃねーか……!」
 怯えるレイモンドに四方からツッコミが入る。抜群の記憶力に比べ、分析力と思考力はお粗末なのが残念だ。どう考えても普通のカラスのはずないだろうが。
「ニンフィのときと同じですよ」
「脳蟲カラスに襲わせたんだ! 許せない!」
「ということは俺たちがアンバーにグレディ家を探らせていたのはバレているな」
「ああ、でなければ猫一匹にこの所業は有り得ない。お前たち、何故お祖母様に勘付かれたか心当たりはないか?」
「お、おおー。お前ら賢いなー」
 槍兵の抜けた発言に脱力する。その間もアンバーは健気に文字を綴っていた。
「きっと姫様が溺れてすぐ、私とカロがゴンドラで向かうところを見られてたのね……。私たちがアンバーは広場に残っててって頼むところも……」
 申し訳なさそうにアイリーンが縮こまる。ロマらしくふてぶてしいカロとは対照的だ。ルディアはふむ、と根暗な魔女に問いかけた。
「お前はハイランバオスには恩義を感じているようだが、お祖母様とはどうだったんだ?」
「え? お、お世話をするのは苦ではなかったですけど。あの人も私の研究を認めてくださっていたので……。ただ私は姫様への負い目があって、グレースが姫様を害そうとするのだけは放っておけなくて……」
「口答えしたんだな?」
「は、はい。しました」
「ならその時点でお前は要注意人物と見られていたんだろう。お祖母様は少しでも反抗的な態度を見せた人間は信用しないんだ。なんらかの形で邪魔に入ると想定済みだったのかもしれん」
「そ、そうですね……。ニンフィでアンバーの頭を盗みに入ったとき、こっちに来ていることは悟られていたでしょうし……。うう、姫様ごめんなさい……! 私ったら本当に役立たずで、疫病神で……!」
「反省なら後でしてくれ。今は現状把握が第一だ。つまりあの人には、我々とお前の繋がりを知られてしまったということだな?」
「うう……っ、そ、そうです……っ」
 はあ、とルディアは嘆息した。手痛いミスだ。これで防衛隊は女狐の警戒を避けられなくなってしまった。まだルディアとブルーノの入れ替わりまで察知されてはいないだろうが、動きにくくなったのは事実である。
「だがこれで一つはっきりしたな。グレース・グレディの肉体を失ったあの人に、国内の味方はほぼ存在しない」
 ルディアの断言に一同はどよめいた。「まさか!」「大鐘楼をあんな滅茶苦茶にできたのに?」と驚く彼らにやれやれとかぶりを振る。
「アンバーを襲撃したのはカラスだし、大鐘楼崩しのからくりも決して人数を要するものではなかっただろう? 逆に言えばそういう手立てを選択するしかなかったんだ」
「だ、だがグレディ家だぞ? 軍船並みの巨大ガレー船を何隻も個人所有するグレディ家だぞ?」
「考えてもみろ。王女の私でさえお前たち防衛隊を動かす程度が関の山なんだ。お祖母様が我こそはグレース・グレディだと信じさせられる相手など鞭で教育した娘くらいだろう。だというのに現当主クリスタルにはあの人の半分も力量が備わっていない。今グレディ家が王者交代を掲げたところで真面目に乗ってくれる貴族などいやしないのさ」
 それにとルディアは付け加えた。
「暗殺計画は大勢で実行すべきではない。本気でやり遂げるつもりがあるなら協力者は最低限に留めるはずだ。山分けの取り分が少なければ裏切り者を出すからな」
「た、確かに……」
「ということは今度の事件は前哨戦だったんでしょうか? 『海への求婚』を台無しにして、陛下の威信をこれでもかと傷つけて、グレディ家がのし上がる土壌を固めただけですもんね」
 バジルの推測に「同感だ」と強く頷く。ハイランバオスという願ってもない駒を得たグレースとしては今すぐにでも父を退位させたいところだろう。だがもう少し国王排斥に現実味が伴わなければ賛同者を増やせない。計画が本格化するのはおそらくこれからだ。
「えっマズくない? このままだと大鐘楼が倒れたの、陛下が呪われてるからだって信じちゃう人が出てくるよ? ハイランバオスたちがやったって証拠は見つけるの難しいんでしょ?」
 モモの言葉がぐさりと胸に突き刺さる。そう、彼女の言う通りだった。このままでは非常に良くない。平民からも貴族からも父は見放されてしまう。
「お父様にはなんとかして皆の心を掴み直してもらわないと……」
 絶望的な心地でルディアは呟いた。そんなことは不可能だと頭ではわかっていた。今日の大事故の印象を払拭して余りある王の偉業など存在しないと。
 これまでずっと、そつなく無難に役目を果たすのが父の成せる最善だった。失敗したときそれをカバーできるだけの人望などないとわかりきっていたから。
 浅はかな人ではないのだ。ただ海に出たことがないだけで。生まれつき皮膚や髪が真っ白なだけで――。
「そーいうことなら俺いいもの持ってるぜ!」
 と、底抜けに明るいレイモンドの声が響いた。
「いいもの?」
 怪訝に顔を上げたルディアに槍兵はへへっと胸を張る。そしてそのいいものとやらをポケットから取り出した。
「じゃーん! 波の乙女の婚約指輪でーす!」
 光る金の環に防衛隊は揃って目を丸くした。まさかこの男、あのどさくさで指輪を回収していたのか。
「これ上手く使えば陛下に花持たせられるんじゃね?」
「お、おお!」
「レイモンドやるー!」
「わっはっは! この俺にかかれば指輪の一つや二つ! わーっはっは!」
 高笑いを収めるとレイモンドはルディアの前に跪いた。恭しく左手を取られ、締まりのない垂れ目に見つめられる。それだけで次の台詞は予測できた。
「で、いくらで買い取ってくれる?」
「そう来ると思ったぞ。いいだろう、来年のお前の給与を倍にしてやる」
「やったー! 俺、一生姫様についてくぜー!」
「こら、はしゃぐのは願い事の内容を決めてからだ!」
 踊り騒ぐレイモンドをアルフレッドがたしなめる。
 少しずつだが希望が見えてきた。父の名声を高めるために、王家人気に火をつけるために、どんなやり方をすればいいだろう。財政難に喘ぐ今、無駄遣いはご法度だ。極力金は絡まないほうがいい。だが国民が君主の頼もしさを実感できることでなければ――。

「レガッタだな。明日改めて生誕祭の続きを行うそうだから、イーグレットをレガッタに出場させろ」

 意外な人物から飛んできた意外な指令にルディアは瞠目した。腕組みをして工房の壁にもたれた寡黙なロマを振り返り、「正気か?」と尋ね返す。
「お父様にゴンドラを漕がせろと? 大事な祭りで恥をかくだけではないか」
「レガッタの優勝者は英雄も同然だ。漕ぐのは四人一組だし、やってやれないことはない」
「グレディ家には命を狙われているんだぞ!?」
「それでも今のあいつに必要なことなんだろう」
 迷いない眼差しに見据えられ、ルディアは押し黙った。まるで父に諭されている気分だ。たとえ肉親を危険に晒しても判断を鈍らせるのではないと。確かにレースで優勝できれば空前絶後の高評価が得られるだろうが――。
「うん、物は考えようですよ。ひょっとすると万事解決できるかもしれません」
 独白のようにバジルが言った。ピンチはチャンスです、と月並みだが普遍的なフレーズを付け足して。
「陛下がレガッタに出ると決まったらグレディ家は浮足立つんじゃないですか? 名誉挽回されると困るし、事故に見せかけてエイヤッするには千載一遇の好機です。……これは入念な準備もせず、迂闊に飛びついてくるんじゃないですかねえ?」
「そうか、そこを取り押さえて暗殺の現行犯で逮捕すれば」
「余罪追及で大鐘楼の一件も自白させられるじゃん!」
 ハートフィールド兄妹もぽんと拳を打つ。「なるほどなー!」とレイモンドは感心しきりだった。
 確かに弓兵の言う通り、ぶら下げた餌に釣られてくれる可能性は高い。一時的に脅威を取り除くこともできるだろう。だがしかし――。
「グレディ家をしょっぴくのは不可能だ」
「ええっ!? なんでです!?」
 ルディアの言にバジルが面食らう。政治上の駆け引きがあるのだとルディアは唇を噛んだ。
「正確に言うと、ハイランバオスに罪を見つけても我々は告訴できない。通商安全保障条約という弱みを握られている以上な。首尾良く実行犯を捕まえたとしても、あのエセ聖人に自分やグレディ家は潔白だと主張されたら黒でも白にするしかない」
「そんなあ、それじゃアンバーをこんな目に遭わせた奴らに何もしてやれないの?」
 モモは悔しげに拳を握る。いいやとルディアは首を振った。
「針にかかれば必ず一人は釣り上げるさ。罪人には罪を償わせねばならない。だが今はそんなことよりお父様だ。王の活躍こそが奴らへの最大の報復になる」
 レガッタに出るぞとルディアは宣言した。こうなったら本気で優勝を獲りにいく。
 危険を恐れ、牙を剥かない獅子に何が守れるというのだ。振るうべきときに剣を振るえないのなら、王族を名乗る資格などない。









(20150215)