実りもなく夜は明け、また同じ朝が始まる。味気ない黒パンをかじりながらルディアは小さな食堂の狭いテーブルを見回した。
 モモはもういつも通りだ。内心では自分のミスが引き起こした悲劇を嘆いているだろうが、取り乱した様子はない。少女は黙々と兄の盛りつけたスープを胃に流し込んでいる。そんな彼女にはばかりつつバジルが事件のその後を報告した。
「アンバーさん、ハイランバオスの提案で火葬にされたみたいですよ。頭部を盗まれる前から燃やす予定ではあったそうですけど」
 不可解そうに首を傾げたのはアルフレッドだ。席に朝食を運びながら隊長はもっともな疑問を口にした。
「うーん。賊が頭だけ持っていった理由はなんなんだろうな?」
「調べられるとまずいことでもあったんじゃないですか? 証拠隠滅に間違いありません!」
 憶測で語るバジルにルディアは顔をしかめる。
「だが待っていればマルゴー軍が焼却処分してくれたわけだろう? わざわざ危険を冒して盗みに入る必要はなかったはずだ」
「そ、それもそうですね……」
 少年はううんと頭を抱えた。その隣でもう一人、同じようにうーんうーんとレイモンドがうめき声を上げている。

「ああッ、思い出せねー! 気持ち悪ィー!」

 首を振っては悶える男を「やかましいぞ! さっきからなんだ!」と怒鳴りつけた。今朝はずっとこの調子で「あいつか? いや違う。じゃああいつ……、いやそれも違う」と独り言を繰り返しているのだ。鬱陶しいといったらない。
「いや、あのフードの奴がさあ、どうも知り合いみてーな気がして」
「えっ?」
 思いがけない返答にルディアはガタッと椅子を揺らした。レイモンドは腕を組み、「寝つけなくて昨夜からずっと考えてんだけど、なかなか出てこねーんだよなあ」とぼやく。
「本当か!? 十秒以内に思い出せ!」
 ほとんど首を絞める勢いでルディアは槍兵に迫った。「ええーっ、十秒なんて無理ー」と軟弱な態度を示す男の襟元を掴み、ガクンガクンと前後に揺さぶる。
「馬鹿者! 全てはお前にかかっているんだぞ!」
「んなこと言われてもー」
「頑張れ! 掘り出せ! 記憶の底から!」
 つい手加減を忘れてしまい、「こらこら」とアルフレッドにたしなめられた。
「ブルーノ、最近のお前は乱暴が過ぎるぞ」
「つべこべうるさい! これはこういう民間療法だ! 脳を刺激してやれば何か思い出すかもしれないだろう!?」
 止めようとする騎士を退けて槍兵のオールバックを乱す。するとレイモンドは輝く笑顔で拳を打った。
「あーっ! 思い出した!」
 まさか本当に効くとは思わず逆にこちらが驚かされる。続く彼の言葉には更に驚愕させられたが。

「アイリーンだよ! あれってお前の姉ちゃんじゃん、ブルーノ!」

 すっきりしたぜとレイモンドはミートパイを頬張り始めた。待て待て待て、と筋張った手から皿を奪う。あの貧相な肉づきの逆賊は女だったのか――ではなくて。
「あ、姉っ……?」
「そうそう! 十年くらい前に勘当された根暗な姉ちゃんいたろ? 一度でも話した奴の顔は忘れねーからさー俺。つーかなんでお前が思い出さないわけ?」
 料理を取り返した槍兵は今度こそ誰にも邪魔されずに空腹を満たし始める。唖然とするルディアの横で「本当にお姉さんならアクアレイアへ行ったんじゃない?」とモモが呟いた。
「――!」
 確かにその可能性は高い。少なくともルディアを攫うため、一度は王都入りしているのだ。入れ替わったブルーノとも連絡を取り合っているに違いないし、隠れ家くらいあると考えるのが当然だった。
「今すぐアクアレイアへ戻らなくては……!」
 足早に食堂を去ろうとしたルディアをアルフレッドが「おい」と引き留める。
「どこへ行くんだ? ニンフィでの任務を放棄するつもりか?」
 それは至極真っ当な問いかけだったのに、ルディアはつい怒鳴り返しそうになってしまった。今は居留区の治安など気にしている場合ではない。先んじて動き、アイリーンの尻尾を捕らえなければならないときだ。誰がこんなところに留まっていられるか、と。
「身内が関わっていると知ってショックなのはわかるが……」
「言っておくがあの女を庇い立てする気は更々ないぞ。私は手がかりが有効なうちに捜索を開始したいだけだ」
「本当か? だがそれでも俺たちの出る幕じゃない。急報だけ入れておいて、捕縛は海軍にでも任せるべきだ。防衛隊にはニンフィでの任期がまだ半年以上残っているんだぞ」
「……っ」
 アルフレッドの言い分は正しかった。屁理屈では太刀打ちできない正論だ。
 だがたとえ海軍がアイリーンを牢獄に繋いでくれたとしても、それだけでは駄目なのだ。それだけではルディアはルディアに戻れない。どうしてもこの手であの女を捕まえて、入れ替わりの方法を聞き出さなければ。
「ほんの一週間……、いや、数日で構わない。私だけでも王都に戻らせてくれ」
 頭を下げて頼み込む。だがアルフレッドは頑固だった。「隊長として許可できない」とルディアの要望をきっぱり却下する。
 頼みの綱のモモにも期待できなかった。職務に対する真面目さは彼女も兄と同類なのだ。いくらアンバーの首を取り戻したくても越権行為には及ぶまい。
「そうだね。要請でもない限り、悔しいけどモモたちにできることないだろうな」
「俺たちはニンフィで腕を磨こう。昨日と同じ失態を二度と演じないように。ブルーノ、それで納得できるな?」
 頷けるわけもなくルディアは立ち尽くす。
 許可なく離反すれば脱走兵扱い、国外追放の対象だ。一人でこの街を発ったところで結局身動きが取れなくなる。なんとしてもここは四人に協力してもらわねばならない。
 だが説得の方法は思い浮かばなかった。ルディアが項垂れている間に朝食が再開され、話は終わりになってしまう。
 このまま指をくわえて見ているしかないのだろうか。やっと手がかりを得られたのに。
 絶望しかけたそのときだった。精霊がルディアに光をもたらしたのは。

「あのー……、帰れますよ?」

 おずおずと手を上げたバジルに皆の視線が集中する。
「えっ? マジで? なんでなんで?」
「だって明日はアンディーン祭じゃないですか。明後日は建国記念日ですし、アクアレイア人は商人も軍人もどうせ全員帰国するでしょう? 僕らだけここに残っててもなあと思って休暇申請を出しておいたんです」
 バジルは「ほら」と懐から申請許可証を取り出した。昨日ブラッドリーから渡されていたらしい。ちゃんと五人分、五日間の完全休暇が承認されている。
 青ざめたのはアルフレッドだった。
「お、お前……、バジル、なんで黙って…………」
「ええっ、そんなのモモを驚かせたかったからに決まってるじゃないですかあ」
「そうじゃない! 隊長の俺に無断で申請を出すなと言っているんだ!」
「はーあ……、バジルってたまーにそういうことするよねえ……」
「ええっ!? モモ、嬉しくなかったですか!? 船の手配ももう終わってるんですけど!?」
「いや、嬉しいんだけどさあ……。サプライズってちゃんと企画しないとただの迷惑だからさあ……」
「えっ、ええーッ!?」
 好感触を得られずに涙を浮かべる少年の肩をルディアは優しく包み込む。
 誇れ、お前は素晴らしい仕事をしたのだぞ。バジル・グリーンウッド、今日ほどお前を部隊に入れて良かったと実感した日はない。このルディア・ドムス・レーギア・アクアレイア、心から感謝してやろう。


 ――各自の荷物は速やかに纏められた。
 半日だけの短い船旅に難はなく、青空の晴れ渡る五月の最終日、王都防衛隊は三ヶ月ぶりにアクアレイアへと帰還したのだった。




 ******




 潮風が頬を撫でていく。甲板から見下ろす青はどこまでも澄んで、王都へと近づくにつれ深い緑みを帯びた。
 波を掻く櫂の音。意気揚々とした船乗りの掛け声。全てが耳に心地良い。
 海原に濃い影を落とし、水鳥が翼を広げる。葦の生い茂るラグーンへ帰るところなのだろう。
 ルディアの故郷も彼らの巣と同じ地にある。もっともあそこを「地」と呼ぶべきかは疑問だが。何しろアクアレイアでは道路の代わりに水路が走り、馬車の代わりにゴンドラが行き交っているのだから。
 王国を訪れた旅人は「世界で最も美しく、最も風変わりな都」と驚嘆する。網の目状に巡らされた運河も、海から直接生えたような家屋も、余所では類を見ないものばかりだ。
 元は海賊の根城であった不毛の沼沢地を、類稀な手腕で海運国に発展させたのは初代国王夫妻である。以来六十年、アクアレイアは水とともに生きてきたのだ。

「入港だー! ロープを渡せー!」

 防衛隊を乗せたガレー船はアレイア海から王国湾に入り、ゆったりと外運河を横切ると大鐘楼と向かい合う税関岬に着岸した。ここでは積荷の点検や乗員、乗客の確認が行われる。ほとんど手ぶらのルディアたちはさっさと身分証明を済ませ、埠頭の小広場に降り立った。
 今が帰省のラッシュらしい。アクアレイアの表玄関――街を二分して流れる大運河の河口付近は多くの船でごった返している。その間隙を縫って運行する辻ゴンドラを一艘捕まえ、ルディアたちはまずブルーノの実家を目指すことにした。

「おー、やっぱ久々に帰ってきた感あるなー!」

 馴染みの風景を見渡してレイモンドがはしゃぐ。普段ならうるさいぞと睨むところだが、今日はルディアも胸高鳴らせて街を見つめた。
 相変わらずのまばゆさだ。水面は土の道と違い、空や建物、人々の衣装まで映して輝く。ニンフィにはなかった都会の匂いも感じられた。運河沿いに軒を連ねる豪商の屋敷、その玄関を飾る壮麗なファサード。東方風のすらりとした列柱と古い神話の精霊像が混在するのも交易都市ならではだ。
「本当にホッとします。商用で離れるときはもっと帰れていなかったのに、変ですねえ」
「それは自分である程度帰国のタイミングを決められたからでしょ?」
 バジルやモモの表情も明るい。変化がないのは「休暇中も俺たちが防衛隊の一員だということを忘れるなよ」とくどいアルフレッドくらいだった。
「商用で忙しいなら願ったり叶ったりだぜ。ジーアン帝国がアレイア海に出てきてからずっと商売上がったりだもんな。あー、早く定期商船に荷を積みてー! 防衛隊が解散して収入が途絶えちまう前に!」
「こら、妙な話をするな! あいつらもう解散するのかと誤解されるだろう!」
 隊長のお叱りを受けたレイモンドの横顔を見上げ、ルディアは深く嘆息した。帰郷に高まっていた思いが瞬時に下降する。理由は簡単だ。槍兵の愚痴に祖国の窮状を再認識させられたからである。
(……しばらく離れている間にまた景気が悪くなったようだな)
 目を向けた岸辺は次第に直視しがたくなった。一瞥で現状の苦しさが知れてしまうのがつらいところだ。
 祭りの最中だというのに今年は着飾った者が少ない。祝祭には欠かせぬ仮面も宝石ばかりか色使いまで控えめだ。素性を隠し、身分を忘れ、貴賤の別なく楽しむのが精霊祭の醍醐味だが、これでは本当に貴族と平民を区別できそうにない。
 質素な晴れ着と同調して露店や商店の品薄も目立った。悩ましいのは値段の高騰ぶりである。特定の輸入品だけでなく、引き摺られる形で日用品、食料品まで値上がりしている。これらは全てジーアン帝国との間に通商安全保障条約が結ばれていないために起きている現象だった。
(くそっ、ジーアンめ。戦争以外にも国を弱らせる方法はあるとよくわかっているではないか)
 耕地面積ゼロのアクアレイアは商人の国である。男は十二、十三にもなれば櫂漕ぎ(ガレー)船で海へ出る。平民だろうと貴族だろうと誰もが一度は国を離れ、商売と航海術を学ぶのだ。出資額に差はあっても「主たる取引相手と売買できない」状況のまずさがわからぬ馬鹿はいない。女もそうだ。船に乗る者こそ少ないが、己の編んだレースの相場には敏感だ。
 東方とだけ交易しているわけではないし、国庫にも万一の備えはある。だが経済不振は少なからず国民の不安と不満を高めていた。一刻も早く国営商船団を再開せねば王家の威信は揺らぐ一方に違いない。
(この国で船乗り経験のない男はお父様だけだしな)
 税関の斜め向かい、大鐘楼の陰に消えゆくレーギア宮を見やってルディアは肩を落とした。
 国王はアクアレイアを治める資質に欠けている。そう非難される最大の理由である。パトリア古王国に繋がる尊い血筋を絶やさぬこと。それが王国の自治独立を周辺国に認めさせる唯一の手段なのだから、父が海に出られずとも仕方ないと思うのだが、生憎と民はそこまで慮ってくれないらしい。
(ああ、なんだって私はこんなときに防衛隊なんてやっているんだ?)
 同盟を強化したはずのマルゴーは非友好的だし、条約締結に向けて懐柔するべき聖預言者はアクアレイア王を災いと決めつけて憚らないし、あちこち問題だらけだ。不信が過ぎて分家に玉座を奪われる――なんて事態にはならないと思いたいが。

「よし、行こう」

 そうこうするうちに辻ゴンドラは軒の迫る狭い水路を通り抜けて簡素な桟橋に到着した。アルフレッドが船頭に五人分の渡し賃を払う。ルディアは周辺を警戒しつつ看板の出た床屋へと近づいた。

「いらっしゃーい! ただいま四時間待ちですよー!」

 静かに押し開いたドアの奥から威勢の良い声が飛んでくる。ブルーノの父、コンラッドだ。ルディアはまだ幼い頃、この仕事熱心な男に命を救われたことがある。
 卓越した鋏(はさみ)の使い手は時に優秀な外科医を兼ねる。壊死した四肢や脳の病巣を切除する資格を持つのは街の理容師たちだけだった。才能豊かなコンラッドは医療でも美容でも頼られている様子である。
 それにしても四時間待ちとは何事だろうか。戸惑いながら中を覗けば店内は髪結い希望の女性客で溢れていた。女たちは少しでも安く、しかしできるだけ華やかに装おうと、ドレスや仮面より髪型に趣を凝らすことにしたらしい。
 結構な名案だがそのせいで店主に近づけないのは困りものだった。こちらはアイリーン・ブルータスの所在を確かめるためだけに帰宅したのだから。
「おーい、一旦手を止めてこっちへ来てくれ!」
「はい!? なんですって!?」
「手を止めてこちらへ来てくれと言っているんだ!」
「ああ!? お客さん、順番守ってもらえないならお引き取り下さいよッ!」
「違う違う! よく見ろ、お前の息子だ! 聞きたいことがあるだけだ!」
「あ、いえいえ、申し訳ありませんお客様、もう仕上げに入りますので、ええ、ええ」
「おい! 話を聞いているのか!?」
「はいィ!? 今忙しいんですよ! 見てわかりませんかね!? 順番が来るまではお相手いたし兼ねますからッ! ちゃんと四時間そこでお待ちくださいねッ!」
 腰を屈めて乙女の毛束と戦うコンラッドにはルディアの姿が見えないらしい。助手の母親も同じくだった。忙殺されすぎて数秒耳を貸す気にもならないのか大声で叫んでも二人からの反応はない。ぎゅうぎゅう詰めでお喋りに興じる女たちも間を通してくれる気はなさそうだった。
(くそっ、こいつら……!)
 腹立たしい。防衛隊の評判が王女の評判に直結していなければ一人ずつぶん投げてやるのに。
「親父さん、これじゃ娘が帰ってきても気がつかなかったんじゃないのか?」
「モモもそう思ーう」
 ハートフィールド兄妹の言に歯軋りする。それでも手がかりがあるとすればここだけなのだ。もう一度店の奥へ突入しようとしたルディアをバジルの声が引き留めた。
「日が暮れれば客足は途絶えるでしょうし、また後で来ませんか? 頑張って突っ込んでもこのパターンだと店を手伝わされて終わりですよ」
「それはそうだが……」
「大体アイリーンさんって親子の縁を切られてるんでしょう? なら親元より友達のところへ顔を出す可能性のほうが高くないです? とりあえず今は二階、三階を確認するだけにして、落ち着いた場所でアイリーンさんの向かいそうなところをピックアップするのがいいと思うんですけど……」
 遠回りだがもっともな意見に押し黙る。腹を減らしたレイモンドがすかさず「そんじゃうちの食堂で昼飯にしようぜ! 安くすっからさ!」と提案した。
「確かに小腹が空いてきたな。よし皆、ひとまず屋内の点検と腹ごしらえだ。それから伯父さんにアイリーン・ブルータスの情報を届けに行こう」
 隊長の指示にモモが「はーい!」と手を上げる。
「アル兄、その後はどうするの?」
「俺たちも自分の足で街を回るぞ。可能ならアイリーンを捕縛する」
「ええーっ、タダ働きかよ!?」
「嫌ならレイモンドは来なきゃいいでしょ。モモはアンバーの頭を取り返してあげたいもん!」
「僕も手伝いますよ、モモ!」
「一度は追い詰めておきながら取り逃がしたのは俺たちだ。騎士としての名誉がかかっている」
「ううっ……、わかったよ! 俺も行くって、行きますって」
 どうやらここは彼らの方針に従ったほうが良さそうだ。ルディアも大人しく槍兵に倣う。
 外階段から住宅部へ上がり、どの部屋も無人であるのを確認すると、防衛隊はブルータス整髪店を後にした。




 ******




 続いて乗船したゴンドラは、貸切ではなく乗合だった。当然諸々の質は低下する。乗り心地など最初から期待していなかったが、今度のゴンドラは他の面でも大外れだった。
「うわっ!」
 乗り込むとほぼ同時、船体以上に粗野な漕ぎ手が岸を蹴る。そのタイミングが早すぎてルディアは危うく落水するところだった。
「おいおいブルーノ、大丈夫か?」
 にやにやと差し出された手を「結構だ」と撥ねつける。槍兵は怒るどころか却って喜び「あれー? ブルーノ君は立ち乗りしねーのかな?」とからかってきた。
「疲れているんだ。放っておいてくれ」
「でもさー、ちょっとの距離で立ったり座ったりするほうが疲れちまうんじゃねーのー?」
 この大きな子供はルディアが進む舟の上で立っていられないのをやたら馬鹿にする。地元の者は生まれたときから船上移動が当たり前で、いちいち横木に腰を下ろしたり、ゴンドラの縁にしがみついたりしないからだ。
(王族のゴンドラは船室付きだし、私は一度も泳いだことがないのだぞ。座り乗りするくらい構わんだろう!)
 そう言い返せればいいのだが、ルディアを彼らの幼馴染だと信じきっているレイモンドには意味不明もいいところだろう。
 まあいい、好きに言わせておこう。どうせ下がるのはブルーノの評価だ。
「アクアレイアの男ならどんな大荷物だって微動だにせずいるもんだぜ?」
 槍兵は大威張りで胸を叩く。「そのへんにしておけよ」と諌めるアルフレッドの声も阿呆の陶酔を覚ますには至らなかった。立って乗ろうと座って乗ろうと運賃は変わらないのに何がそんなに誇らしいのだか。
 げんなりしつつルディアは船上を見回す。同乗者は防衛隊の他にも一人いたけれど、やはり直立していた。しかもこの客は祝祭用のフルマスクを着けてである。狭い視界でよく恐ろしくないと感心した。
「ほらほらブルーノ君、俺をお手本に立ち上がる練習したっていいんだぜ?」
「面白い冗談だな。調子に乗りすぎて頭をぶつけるなよ」
「うわっはっは! だーれがそんな他所者みたいな……ッンオォ!」
 狙いすましたように船は低い橋の下を通過した。悲鳴と同時に響いたゴンという音が衝撃の大きさを物語る。
 見通しの悪いカーブを過ぎた直後だったため、船頭の注意よりレイモンドが橋桁に頭を強打するほうが早かったようだ。凶悪犯罪は少ないアクアレイアであるが、こういった危険は時折顔を覗かせる。
 太鼓橋は新しかった。おそらく防衛隊がニンフィに転勤してから建設されたものだろう。せめて前方を向いていれば回避可能だったろうに、まったく愚かの極みである。
「あ、あう、あうあっ……」
 そのうえレイモンドは被害を自分だけに留めておけない愚鈍だった。無駄に大きな図体でどすんと船尾に倒れ込まれ、ゴンドラが揺れに揺れる。すわ転覆かと焦ったが、多少の水が入っただけでなんとか難は過ぎ去った。
「レイモンドの馬鹿! モモの服びちゃびちゃじゃん!」
「すみません、すみません、僕たちの連れが!」
「しっかりしろ! 意識はあるか!?」
 起き上がれずにいるレイモンドにアルフレッドが呼びかける。バジルは船頭に平謝りし、モモは湿ったスカートをぱたぱたと乾かした。
「フッ、だから言ってやったのに」
 後ろ頭を押さえて痛がるレイモンドに勝ち誇る。ルディアは足元に転がってきた白い仮面を拾い上げると持ち主を振り返った。
「今の衝撃で外れてしまいましたね。うちの間抜けがとんだご迷惑を――」
 と、助け起こそうとした乗客が不自然に顔を逸らす。直感は即座に怪しいと告げた。

「あっ、アイリーンだ」

 反対側に倒れていたレイモンドがうつむく女の顔を指差す。瞬間、ルディアとモモは首泥棒に飛びかかっていた。
「キャアー! イヤアー!」
「騒ぐな! おい、何か口を塞ぐものを寄越せ!」
「モモの荷紐でいい?」
「よし、両手両足も縛るぞ!」
「あ、大丈夫です! 僕たち王都防衛隊です! 手配犯を捕まえただけですので!」
「んご、もご、もごごごッ」
「――ふう!」
 突然の捕り物帖は数分と経たず完了する。いやまさか、こんな形で遭遇するとは思わなかった。清々しい気分でルディアは額の汗を拭った。
「んんーっ! んんーっ!」
 このゴンドラだらけの王都で偶然防衛隊と乗り合わせるとは不運な女である。もしやこの盗人も実家に戻ろうとして断念したところだったのだろうか。
「うわっはっは! 痛い目に遭った甲斐があったぜ!」
 ふんぞり返るレイモンドを「よくやったぞ」と誉めてやる。強運もまた才能だ。モモとバジルの次くらいには使える奴だと認識を改めてやろう。
「……例の革袋は持っていないな。どうする? このまま海軍に引き渡すか?」
 アルフレッドの問いにルディアは首を振った。
「いや、その前に尋問すべきことがある。邪魔の入らない場所に行きたい」
「じゃあ僕の家はどうです? 孤島のガラス工房ですし、誰も来ませんよ」
「ええーっ!? め、飯は!?」
「そんなもの後だ、後!」
 行く先が決まれば話は早い。防衛隊の名でゴンドラを徴発すると船頭と漕ぎ手には適当な岸で下船させた。迷惑料として財布から四千ウェルスほど渡しておく。不承不承だったゴンドラ漕ぎたちはニコニコとお別れしてくれた。
「い、一週間分もお給料あげちゃって良かったの?」
「変に騒がれても困るからな。それに我々の気前が悪いと姫の気前まで悪いと思われる」
「ひええ、愛は偉大ですねえ」
「み、見上げた忠誠心だ。俺も努力しなければ」
「だったら俺にこそボーナスくれよー!」
 まだ痛そうに患部を擦りながらレイモンドは櫂を握った。橋の下を通るたびにびくびくと身を縮めるのが面白い。
 ゴンドラは間もなく小運河から浅い海へ出た。アレイア海とは砂洲によって隔てられた、アクアレイア湾とも王国湾とも呼ばれる内海だ。賑わう街の主要部を離れ、数多ある小島の一つを目指して進む。
 舟底に転がしたアイリーンは半泣きで震えていた。彼女からはルディアの喜々とした――もっと正確に言えば、怨念に染まった邪悪な笑みがよく見えていたのだろう。




 ******




 勤勉なガラス職人も祭日まで働く気にはならないらしい。レンガの積まれた溶鉱炉に火は燃えていなかった。バジル曰く、「うちの父さんは祭り好きなので今頃歌って踊って気分良く一杯引っかけていると思います」だそうだ。
 主人不在の工房に遠慮なくアイリーンを放り込む。猿ぐつわを解いてやれば、まな板の上の誘拐犯は「人違いよぉ、人違いよぉ」と首を振った。
「お前みたいな女を他人と間違えるか! その引っ繰り返ったどもり声と焦点のぶれた三白眼が何よりの証拠だ!」
「アンバーをどこへやったの!? 頭を盗んでどうするつもりだったの!?」
 モモと二人で詰め寄るが、アイリーンは「知らないわ、知らないわ」としか答えない。「一緒にいたロマの男は何者だ?」との問いにもろくな返答が得られなかった。
「素直に吐いたほうが身のためだぞ、アイリーン・ブルータス。よもや祖国に害成さんとした貴様が人道的に扱ってもらえるとは考えていまいな?」
 往生際の悪さにルディアの苛立ちが加速する。宣告とともにレイピアを抜くとぎょっと目を剥いたアルフレッドに「待て待て、何をするつもりだ?」と肩を掴まれた。その腕を振り払い、怯えるアイリーンと向かい合う。冷たい笑みを浮かべたままで。
「死なない程度に苦痛を味わわせる方法などいくらでもある。お前が喋りたくなるように私が直々に手伝ってやろう」
 切っ先で手首を縛る縄を断つ。すぐさまルディアは賊の右手を踏みつけた。自由になった左手が足をどかそうと抵抗するが、無視して刃を逆さに向ける。アイリーンのまだ五本ある指のつけ根に。
「ヒッ……! いやー! 違う、違うの! 私はあなたの味方なのよおお!」
 何をされるか見当がついたようで、青白い額はますます青ざめた。何本目で音を上げるか楽しみだ。
「ふん、あなたの味方だと? つくならもっとましな嘘をつくんだな。覚えておけ。浮気を責められた女は必ず『違うの』と言い訳するんだ」
「イヤアアアア! 待って、待って、やめてえええええええ!」
 指の股に鋭い刃先を押し当てられてアイリーンが泡を吹く。失神寸前の彼女を庇ったのはお優しい男どもだった。
「こらこらこら! 捌いていいのは魚と獣の肉だけだぞ!?」
「ブルーノ、いくらなんでもやりすぎだ! 尋問の域を超えている!」
「お、お、お姉さんなんでしょう!? 肉親の情ってものはないんですか!?」
 湧き上がる激情を抑えきれずにルディアはせせら笑う。
「肉親の情? あるわけがない。こんな女と私に血の繋がりなどあってたまるか!」
 食い込むレイピアにアイリーンが泣き叫んだ。アルフレッドとレイモンドに押さえ込まれそうになりながらルディアは激しい怒号を響かせる。
「言え! 私の名前と身体を使って何をしようとしている!? 私をルディアの肉体に戻さん限り、貴様に安住の地はないぞ!」
 その場はしいんと静まり返った。ルディアを羽交い絞めにしたアルフレッドが「は?」と顔を覗き込んでくる。レイモンドにバジル、モモも同じくだった。唯一アイリーンだけが「悪気はなかったのよぉぉぉ」と許しを乞う。
「ほう? まだ言い逃れするつもりか」
「ほ、本当なんですう! わ、私たち姫様をお守りしようと思って、ぜ、全部終わったら王宮に帰っていただくつもりでえ!」
「そんな都合の良いでまかせを信用できるか! 離せアルフレッド! やはりこの国賊は小指の二、三本切り落としてやらねばならん!」
「キャアー! 小指は二本しかありませんんんんん!」
 騎士の膝を蹴り、槍兵を突き飛ばし、ルディアは再び剣を振り上げた。虫のごとく這いずり逃げるアイリーンを工房の隅へと追い詰める。
「この私を敵に回したのが最大の誤算だったな……!」
 狙い定めて叩きつけた刃は、しかし目標に到達しなかった。閃く銀のナイフに攻撃を受け止められて。
「……ッ!?」
 いつの間に忍び込んだのか、ルディアとアイリーンの間に背の高い男が割り込んでいた。先日のあのロマだ。やたら滅法に強かった。
 鋭く澄んだ黒い隻眼に見据えられ、ルディアは動きを止めてしまった。その隙にまたしてもアイリーンを強奪されてしまう。

「うちの工房じゃぞー! 二人とも武器を下ろさんかーい!」

 不意に響いた怒声にハッと振り返る。工房の入口ではバジルの父、モリス・グリーンウッドがふさふさとした口髭を揺らし、迫力もなく憤慨していた。
「すまん。暴れる気はなかった」
 褐色肌のロマが工房主に詫びる。どうやら二人には面識があるようだ。
「えっ? あれ? 父さん? えっ? このロマのおじさんは?」
「まったくえらい騒ぎじゃのう。アイリーン、お前さんは五体満足かね?」
「ひええん、なんとか無事よぉぉ」
「あれっ? も、もしかして、アイリーンの潜伏先ってウチだった?」
 戸惑うバジルを脇にしてへっぴり腰のアイリーンがモリスに縋る。警戒心も露わにドアや窓に立ち塞ぐ防衛隊の面々を眺め、年嵩のガラス工は「何か行き違いがあったかのう」と肩をすくめた。
「アイリーンがなんの説明もしていないからな。恨みを買っても話したくないと言っていたが……この状況ではそうもいかんだろう」
 男はレイピアを下ろそうとしないルディアを見やって溜め息をついた。攻撃してくる気配はなく、逃亡しそうな様子もない。捕らえるべきか少し迷った。

「ウニャ……ウニャニャーン!」

 と、男の古びて色褪せたコートがもぞもぞ動き、懐から茶毛の雑種猫が飛び出してくる。猫はモモの肩に乗っかり、空気を読まず愛らしい鳴き声を上げた。
「ニャニャニャー!」
「ちょっ……! モモに構わないで! 今忙しいんだから!」
 愛玩動物の出現に緊迫感がやや薄らぐ。困惑しきったルディアたちにモリスは優しく微笑みかけた。
「安心なさい。その男はわしの異母弟のカロじゃ。悪い奴ではないよ」
「い、異母弟!? 父さんロマの異母弟なんかいたの!?」
 初耳だけどとバジルは愛らしい大きな瞳をぱちくりさせる。だがバジル以上に驚愕させられたのはルディアだった。ロマのカロという名前に。

 ――カロは今更アクアレイアに戻らないだろうな。

 寂しげな父の独白を思い出す。あれは国王自身が制定に深く関わったロマの入国禁止法を、十九年経って覆した日のことだった。
 カロとは誰か問うたルディアに父は答えた。たった一人の、青春時代のかけがえない友人だと。

「王女ルディア、アイリーンを許してやってくれ。お前の名付け親に免じて」

 恭しく跪いたロマにアルフレッドたちがどよめく。「えっ!?」「なになに?」「どういうこと?」と防衛隊の面々は目を見合わせた。
 無言のルディアにカロは前髪で隠していた右眼を晒す。黒々とした左眼とはまったく違う、まばゆい黄金がルディアを射抜いた。
(オッドアイ……)
 義眼ではない。本物の眼球だ。この希少な特徴は男が偽者でないことを証明していた。
「名付け親なら由来を答えてみせろ」
 突きつけた要求にカロは静かに頷く。
「ルディアとはオーロラの意だ。放浪の最中、北の果てでイーグレットと共に見た」
「…………」
 どうやら偽りではないと認めなければならないらしい。どうして父が賤民ロマの言葉から娘の名前を選んだか、父と自分以外にはもう一人しか知らぬはずであったから。少なくともこの男は、即位前の父が暗殺者の手を逃れ、ロマの一団に匿われていた頃の関係者だ。
「許すか許さないかは話を聞いてから決める。とにかく早く説明しろ! 私とブルーノの肉体を取り替えた理由を!」
 ルディアはレイピアを鞘にしまい、腕を組んで壁にもたれた。安堵でその場にへなへなと座り込んだアイリーンをカロが引っ張り起こす。
 成り行きを見守っていたアルフレッドたちは理解が追いつかないという顔で「ル、ルディアって?」「姫様なの?」「だ、誰がです?」と囁き合った。
「どうもこうもない。三ヶ月前から私はお前たちの知るブルーノ・ブルータスではなく、ルディア・ドムス・レーギア・アクアレイアだったというだけだ」
 正体を明かしたルディアに「ええっ!?」とどよめきが起こる。
「うるさいぞ、静かにしろ」
 眉間にしわを寄せて一蹴すると、畏まったアイリーンがぽつりぽつりと語り始めた。ずっとジーアンの片隅に暮らしていたという彼女が、今回ルディアを拉致するに至った経緯を。




 アイリーン・ブルータスが生まれた家を追い出されたのは十三年前、十五歳の秋だったという。その身に纏った陰鬱なオーラから容易に想像できる通り、彼女は住み着こうとした街にことごとく馴染めず、気がつけば遥か東方の地をさすらっていたらしい。最後に辿り着いたのが侵略戦争を始める前のジーアン旧都だったそうだ。
 この種の訳有り女に構う者など詐欺師か宗教家くらいのものである。ご多分に漏れず、アイリーンはとある青年預言者に拾われた。彼は新興宗教の開祖で、入信者数を稼ぐべく難民や貧民を次々と施設に収容していたのだ。
「ハイランバオス様は異民族で外国人の私にも親切にしてくださいました……。ちょっとアレな性格ではありましたけど、私にはバオス教の救貧院ほどホッとできる家はなかったんです……。あの方の言動で霞んで魔女めと蔑まれることもなかったし、好きな研究だって思う存分やらせてもらえたし……」
 意外なところで出てきた名前にルディアは目つきを鋭くする。
 ハイランバオスの布教するバオス教といえば、ジーアン帝国天帝である彼の兄、ヘウンバオスを現人神として崇める一神教である。自分一人でブラコンをこじらせているだけならまだしも、他人にまでそれを強要するという傍迷惑な宗教だ。アイリーンといい、ハイランバオスといい、おかしな人間はおかしな人間同士で集まるものなのだろうか。
「――ですがあの方は死んでしまいました。去年の春、アレイア海で嵐に巻き込まれて……」
「は?」
 反射的にルディアはアイリーンを睨みつけた。話を誤魔化そうとして虚偽を口にしたのだと思ったのだ。
「馬鹿をほざくな。ハイランバオスならニンフィの広場を元気にうろうろしていただろうが。今だって王国海軍を足にして、このアクアレイアを観光中ではなかったか?」
 ルディアの反論に首を振り、彼女は悲しげに鼻を啜る。次に出てきた名前はもっと意外なものだった。
「今のハイランバオス様は本当のハイランバオス様じゃないんです。あの方の精神は死に、残された肉体にはグレース・グレディが宿った。姫様ならご存知でしょう? 同じ嵐で事故死したことになっている、グレディ家の元当主です……!」
「は、はあ?」
 何をふざけているのだとアイリーンを見つめ返す。しかし彼女は真剣だ。
「外国人とは思えないほど流暢なアレイア語を話すと思いませんでしたか? それに乗馬を避けて海沿いの街ばかり巡るのも変でしょう? ジーアンは騎馬の国なのに、あの人は馬を駆れないんです! 表向きは事故の後遺症で足腰が悪いって言ってますけど違います。アクアレイア人は馬に乗る習慣がないから単に下手くそなだけなんです! あの人は、あの中にいるのはハイランバオス様じゃないんですうううう!」
 流石にすぐには反応しきれなかった。はいそうですかと頷くには話が突拍子もなさすぎて。
 だが現実にルディアは別人と成り果てているのだ。他にも同じ境遇の人間がいないとは言い切れなかった。
「グ、グレースお祖母様が……?」
「そうです。嵐が過ぎた後、ハイランバオス様が目覚めたときにはもう」
「ほ、本当に……?」
 アイリーンはこくこくと頷く。ルディアの額に汗が滲んだ。
 グレース・グレディ。初代国王の弟嫁で、ルディアにとっては母方の祖母でもある。威圧的で、支配的で、ずっと目の上の瘤だった。海で死んだと聞いたときは大精霊の思し召しだと感謝したのに。意のままに宮廷を操り続けた陰の女王――あの老いぼれが生きていたというのか。
「グレース・グレディは『ハイランバオスの肉体も使い道は多いけれど、王女を殺して成り代わるのも手だね』って……。それを聞いて私、なんとか姫様をお救いしないとって……! だけど一人じゃどうすることもできなかったから、カロと弟に連絡してこっそり帰ってきたんです……!」
 アイリーンは世話になった故人の名誉を守るために事実を伏せてルディアを守りたかったと告げた。グレースが王女殺害を諦めてジーアン帝国に引き揚げたら、全て元通りにして己も祖国を発つつもりだったと。
 生まれ故郷か恩人か、どちらか一方を選ぶのは彼女には難しかったのだろう。その心情は理解できる。理解できるが――。

「まだ肝心なことを聞いていないぞ。お前はどうやって私をブルーノ・ブルータスにした?」

 追及にアイリーンはたじろいだ。「ごごごご、ごめんなさい。それだけは口が裂けても言えません!」と首を振る彼女にルディアは「そうか」とにこやかに微笑む。
「だったら貴様の話は最初から最後まで信用ならんということでいいんだな!?」
「うううっ……! でも、でも、姫様にお聞かせするのは本当に忍びなくてッ……!」
 怒鳴り声に身をすくめ、アイリーンはそそくさとカロの背中に逃げ込んだ。グレースがハイランバオスの肉体を乗っ取った手段についてもだんまりを決め込まれる。何もかも知っているくせに腹立たしい。
「ど、どうかお許しを……! 姫様を傷つけたくないんです……!」
 どういうことか推測したくてもその材料が足りなかった。仕方なしにロマを見上げる。すると彼はアイリーンを庇ってやりつつ補足した。
「俺がこの女と知り合ったのは十年ほど前だ。色々あって俺も西方では暮らせなくなってな。ジーアンには俺たち以外のアレイア人はいなかったし、はぐれ者同士で仲良くやっていたんだ。今回こいつがどうしてもアクアレイアへ戻らなければならないと言うので手を貸してやった。聞けば王家の危機だと言うし、俺もイーグレットが心配だった」
 男の言葉に矛盾はなかった。カロが王都ばかりかアレイア地方からも遠のく羽目になったのは、入国禁止法を制定した友人を擁護して同胞の怒りを買ったためと聞いている。東に流れ、ジーアンでアイリーンと出会っていても不思議ではない。
「お前を攫うのに宮殿へ入り込めたのは王族用の抜け道を知っていたからだ。イーグレットに会うのに昔使っていた通路だからな」
「そうして秘密裏に私とブルーノを入れ替え、宮廷内を監視させることにしたと?」
「そういうことだ」
「……」
 一応話は把握できた。そんなに簡単に人間の魂があちこち移動してたまるかと納得いかない思いはさておき。

「ねえ、アンバーは?」

 と、眉を吊り上げたモモが刺すように尋ねた。これ以上は待っていられないと言わんばかりに。
「返してよ! おじさんたちがアンバーの頭を盗んだんでしょ!?」
 怒りに燃えた瞳には鬼気迫るものがあった。だが突き出された少女の右手が斧を握るその前に、カロが「そこだ」と床を示す。
 人差し指の先にはさっきの猫がいた。モモの足にぴたりと寄り添い、頬擦りを繰り返している。
「頭は埋葬した。今は新しい器に入っている」
「えっ?」
「あのままにしておいたら本当に死んじゃうから慌てて回収したのよお」
「えっ!? えっ!?」
 モモは驚き目を瞠った。そんな彼女に猫は得意げにニャアと鳴く。鋭い爪に削り取られた床板の文字は、確かにアンバーと読めた。
「生きてたんだ! アンバー強い!」
 大喜びでモモは猫を抱き上げた。踊り出す少女に釣られ、アルフレッドたちも頬を綻ばせる。
(その猫があの魔獣だと? 一体何がどうなっているんだ?)
 ルディアの頭はこんがらがる一方だった。これで自分のものではない肉体に入っている人間は三人目だ。
「……そう言えばアンバーも、目を覚ましたら半人半鳥の怪物になっていたと話していたな。我々の入れ替わりと何か関係があるのか?」
 尋ねた瞬間アイリーンが凍りついた。どうやらこれらはばらばらの現象ではないようだ。詳細については相変わらず黙秘を通されたが。
「現状お前を信用するのは難しい。ジーアン帝国やハイランバオスとも繋がりを持っているなら尚更だ。今のうちに洗いざらい白状しろ。でなければ本当に指が飛ぶぞ」
 剣に手をかけたルディアを見てアイリーンはヒッと後ずさりした。女友達を守ってカロが立ち塞ぐ。落ち着き払った声でロマは言い捨てた。
「信用できないなら無理に信用しなくていい。ただ俺たちの邪魔をするな。妙な動きを取られるとイーグレットを守れなくなる」
 鋭い眼光。この男に凄まれると身がすくむ。腹に力を入れ直し、ルディアはロマに問い返した。
「お父様を守れなくなるとはどういう意味だ? お祖母様が狙っているのは私の身体ではないのか?」
「昨日今日とアンバーにはグレディ家に忍び込んでもらっていた。グレース・グレディが身内と接触するに違いないと思ってな。案の定だ。本人は姿を現さなかったが、ハイランバオスの護衛役の若い男が訪ねてきた。アンバーの聞きかじった話では、奴らはイーグレットに標的を変えたらしい。王家の評判が地に落ちて、民衆自らグレディ家の戴冠を望むようになればイーグレットが退位するだけで冠は転がり込んでくる。長い目で見てそのほうが王女に成り代わるより得だと、どうもそういう考えらしい」
「な、なんだと!?」
 カロの返答につい声が大きくなる。暗殺計画が持ち上がっているとは穏やかでない。否、それも気がかりだが、護衛役の若い男とは――。

「ユリシーズがそんな陰謀に加担しているはずないだろう!」

 理性ではなく感情が否定した。誰よりルディアが大切だと、永遠に愛すると誓ってくれた恋人がグレディ家に味方するわけがない。ましてハイランバオスは帝国の要人だ。誇り高いアクアレイア貴族が敵と通じるなど有り得なかった。
 だが希望は儚く打ち砕かれる。次いでアイリーンに聞かされたのは今日一番信じたくない裏情報だった。

「あの、未公表ですが、彼はグレディ家の長女と婚約しているみたいなんです。上手くいけば我が子を王にできるわけですから、動機は十分かと……」

 衝撃で声も出ない。ルディアは呆然と立ち尽くし、脳裏にかつての婚約者を描いた。
 国のためだと別れを告げたのは確かにこちらだ。しかしそれでも騎士ならば、愛した女を恨んだり裏切ったりしないものではないのか。こんなに早く他の女と結婚の約束を交わすなんて。
「明日の王国生誕祭で奴らは何か事件を起こすつもりらしい。ひょっとすると暗殺を実行に移すのかもしれん。このまま放ってはおけん」
 そこらの騎士より忠義者らしくカロは唇を引き結んだ。途端ルディアは耐えがたいやり切れなさに襲われる。屈辱とは違う、味わった経験のない悲しみと憤りだった。
「……ロマの言葉など嘘に決まっている。私を騙してどうするつもりだ?」
「そう思いたいならそう思え。アイリーンはどうか知らないが、俺が助けたいのは俺の友人だけだ」
 吐いた毒にカロの反応は冷たい。本気で興味がないらしい。ロマは無関心を取り繕おうともしなかった。
「お前のこともイーグレットの娘でなければ捨て置いた。俺が友人を守る妨げとなるのなら、今この瞬間からお前は敵と見なす」
 彼らだけの掟を持ち、彼らだけで旅をする、排他的な血縁集団。流浪のロマは土地に縛られた定住者を蔑み、時に金品を騙し取ることも厭わない。けれど一度心を許した者にはとことん尽くし抜くのだという。
「…………」
 ルディアは知らない。若かりし父とこの男がどんな旅をしたのか。疑わしい点は多々あった。全てを鵜呑みにはできない。今はただ、反発しても無意味だと理解できるだけだった。
「……お父様には知らせたのか。国王弑逆を企む不遜の輩が潜んでいると」
「ああ、イーグレットと俺だけに通じる暗号を残してきた。とっくに気づいて警戒を強めているはずだ」
 ひとまずほっと息をつく。そんなルディアをカロはまじまじと見つめた。
「――で、アイリーンを許してくれるのか? 許してくれるなら協力するのもやぶさかではないが」
 ロマがロマの裁きしか受け入れないのと同じように、彼の中でアクアレイア人を裁く者はアクアレイア人でなければならないようだ。
 眉間にとびきり濃いしわを寄せ、ルディアは短い思案を終えた。まだどこか怯えた顔のアイリーンに判決を言い渡す。
「……一旦保留だ。もしお前の話が嘘だったときは、ブルーノ・ブルータスをふた目と見られぬ身体にしてやるからな。肝に銘じておけよ!」




 手当てのためにアイリーンたちが二階に引っ込み、新生アンバーが諜報活動に出ていったのはそれからすぐのことだった。ルディアは工房に残された防衛隊を振り返る。当然といえば当然だが、彼らは戸惑い固まったままだった。
「……あの、僕まだ全然状況飲み込めてないんですけど……本当にルディア姫……なんですか……?」
 びくびく尋ねるバジルに「そうだ」と頷く。すると食事のことなどすっかり忘れたレイモンドが激しく頭を横に振った。
「う、嘘だ! だって一緒に風呂入ったとき平然としてたじゃねーか! 俺は姫様に素っ裸を見られてたなんて信じねーぞ!」
「小さなことを気にする奴だな。湯浴みの際には服を脱ぐのが常識だろう? それとも何か礼節に欠いた真似でもしたのか?」
「う、うわあー!? マジなの!? マジだとしたら居た堪れなくて死ねるんだけど!?」
「男の裸体ごときでうろたえる王族ではない。気に病むな」
「そこはうろたえてくださいよお!」
 のた打ち回るバジルとレイモンドは放って椅子に腰を下ろす。
 これからどう動くべきか、今一度考え直さねばならなかった。グレディ家とジーアンが手を結ぶことになれば、これほどの脅威はない。
「そっかー。急にキビキビ行動するようになってどうしたんだろブルーノって思ってたけど、中身が違ったんだねー。姫様だからしっかりしてたんだー」
「お、お前、よくすんなり受け入れられるな……」
「だってモモはなんか変だなって思ってたもん。上流階級の嗜みに妙に詳しくなってたり、前はよく散髪してくれたのにモモの髪切ってくれなくなったりさ。アル兄はぜんぜん違和感なかった?」
「確かにな……俺は左遷されたショックでおかしくなったとばかり思っていたが……」
「ぼ、僕は失恋に違いないって……」
「は……ははは…………」
 青ざめる男性陣をルディアは冷静な目で見つめる。別にこちらの正体を認められずとも構わないが、部隊の統率が乱れるのは面倒だった。今後も彼らの力を借りねばならない場面があるだろう。特に明日は何か事件が起こるらしいと前情報が入っている。
「苦悩が済んだら巡回に出るぞ。グレディ家の企みを予測しつつ対策を立てる」
「はーい!」
 返事をしたのはモモだけだった。バジルとレイモンドは横目でちらちら隊長の出方を窺っている。
「……伯父さんやチャド王子への報告は?」
 アルフレッドの問いにルディアは「不要だ」と即答した。
「アイリーンたちにマルゴー公国との関わりはない。殿下に持ち込む案件ではなくなった」
「しかしグレディ家の背信行為は海軍に知らせたほうが」
「然るべき機関を動かすには然るべき証拠がいる。現時点では不確かな密談を猫が盗み聞きしただけだ。ジーアン側の密告者としてアイリーンを送り込む手がないではないが、あの女は嫌がるだろうな」
 理路整然と却下され、アルフレッドは言葉に窮した。
「まあ姫様の仰る通りですねえ」
 努めて平静にバジルが呟く。
「未来の女王様には逆らえねーよな」
 長いものには巻かれる主義のレイモンドも擦り寄る姿勢を露わにした。
 四対一では分が悪いと断じたか、アルフレッドもそれ以上の反論は飲み込む。そうして騎士はルディアの前に跪いた。
「……事情を知らなかったとは言え、姫様には無礼千万を働いてしまいました。どうか我々をお許しください」
 深々と頭を垂れ、アルフレッドはこれまでの言行を詫びる。だが慇懃な言葉とは裏腹にその眼差しは不満げだった。
「構わん。平民同士のじゃれ合いという貴重な経験ができた。今後も忌憚なく接するといい」
「そうですか、それは良かった。……では僭越ながら、一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか?」
「? なんだ?」
 ルディアが尋ね返すや否や、アルフレッドはすうっと大きく息を吸い込む。何を言うのかと思った直後、割れんばかりの怒声がガラス工房に響き渡った。

「先程の姫様の、アイリーンに対する拷問めいた行いは到底看過できるものではありませんでした! 彼女が姫様にしたことを差し引いてもやりすぎです! 何故あのような手段に出る必要があったのか、俺にはまったく理解できない!」

 一気に捲くし立てられて、激昂ぶりに目を瞠る。しかし狼狽は一瞬だった。ルディアはすぐに批判の内容を理解して、ムッと眉を吊り上げる。
「なら他にどんな方法で問えば良かったんだ? あの女はしらを切り通そうとしていたんだぞ?」
「拷問で得られる供述に信憑性などありません。恐怖と苦痛から逃れるために囚人はどんな嘘もつく。前世紀に既に証明されていることです」
「嘘かどうかの検証などまた別に行えばいい。重要なのはアイリーンに肉体の交換を行う方法を喋らせることだった! 私にはどんなことを試せばいいかもわからなかったのだから!」
「女の指を落としてまでですか?」
「女の指を落としてまでだ!」
 ばちばちと火花を散らし、石頭と睨み合う。一歩も譲らぬ兄の横顔をモモが静かに見守っていた。レイモンドとバジルも様子見に逆戻りだ。彼らの眼差しから察するに、分が悪いのは今度はこちらのほうらしい。
「……お前が私のやり方を気に入らないのはわかった。あるべき姿に戻ったら、姫君らしい清楚で可憐な振る舞いを心がけてやる。それで勘弁しろ」
 溜め息とともに吐き出したのは最大限の譲歩だった。アルフレッドの機嫌を損ね、みすみす防衛隊を離反させるのは得策でない。ここは己が折れるべきだ。
「つまりルディア姫がルディア姫のお身体に戻るまでは、あなたはブルーノ・ブルータスでいるということですか?」
「そうだ。それからその言葉遣いもよせ。同い年の幼馴染に敬語で話す庶民はいない」
 アルフレッドは真面目くさった顔で「わかった」と頷いた。これで大人しくなってくれるかと思ったら騎士はすっくと立ち上がる。そうして力のこもった一喝を響かせた。
「――ならこの部隊の上官は俺だ! 隊員の暴走を止める義務がある! 以後あんな尋問は二度とするな!」
 怒鳴り声はぴりぴり鼓膜を揺らした。頭ごなしの説教を受けるなど生まれて初めてで、ルディアはぽかんと目を丸くする。
「い、いや、必要に迫られれば私は」
「一人で突っ走る前に連携する努力をしろと言っているんだ! なんのための五人編成だと思っている!?」
 おい、防衛隊を組織した当人にそれを聞くのか。
 なおもルディアが呆気に取られていると、手を揉みながらバジルがフォローに割って入った。
「ま、まあ、僕たちは王女直属部隊としても、ブルーノさんの幼馴染としても、協力は惜しみませんよ。……あの、ですから、もう少し身の安全を考慮して、危ない役目はなるべくこっちに振っていただけたらなって……。あの、ええと、アルフレッドさんはそう言いたいんですよね? ねっ?」
 むすっと唇を尖らせてアルフレッドは目を逸らす。主君を前にした騎士とは思えぬ態度である。
(ふん! どうせ『俺のイメージしていたルディア姫とは違った』とかそんなところだろう。悪かったな、脅迫も辞さない乱暴者で! 賢く図太く生きねばならん小国の姫が清く正しくなどやっていられるか! 何も知らない愚か者が!)
 鼻息荒く怒鳴り返そうとしてやめた。もう自分は彼らにとって、ルディア・ドムス・レーギア・アクアレイアなのだ。存分に喜怒哀楽を表せたこの三ヶ月と同じではいけない。
「……そうだな、お前たちにとってブルーノは大事な仲間なんだったな。この肉体で無茶をしないよう、心に留めておくとしよう」
 他人に成り代わっているときのほうが自由だったとは皮肉な話だ。
 もっと前にこの姿になっていれば言えていたのかもしれない。私だって本当は好いた男と一緒になりたかったと。
 もっともそんな愚を犯せば、自己嫌悪に耐えきれなくて海に飛び込んでいただろうが。




 ******




 遅い昼食を取り終えると防衛隊は揃って巡視に出かけた。腹が膨れてご満悦なレイモンドとずっと無言のアルフレッドがゴンドラの櫂を握っている。
 夕闇が迫り、人々の距離が近づき、アンディーン祭はますます盛り上がっていた。ルディアの胸中などいざ知らず、漕ぎ進む街には歌い踊る人々が目立つ。
 アクアレイアでは季節ごとに精霊祭が催される。波の乙女アンディーンは国の守護精霊なので初夏の祭典は特に盛大だ。女神の加護に感謝を込め、老いも若きも高らかに賛歌を響かせる。楽の音は夜通し途切れることがない。
 翌日は建国記念日が続くことも盛り上がりに一役買っているだろう。熱狂は王国生誕祭における指輪奉納の儀式「海への求婚」で最高潮に達する。祝祭を締めくくるのはゴンドラレースとどこまでも水都らしい祭りであった。

「うーい、そろそろだぞー」

 レイモンドの声にルディアは顔を上げる。大運河を下りきり、税関向かいの国民広場に着いたときには空が暗くなり始めていた。桟橋にゴンドラを舫い、広場へと急ぐ。暗くなる前に付近の検分を済ませておきたかったのだ。
 賊臣が何か仕掛けてくるとしたらこの一帯しか考えられない。北には王族の住むレーギア宮、西にはアンディーン神殿、東には商港と大鐘楼と重要な建築物が集まっているだけでなく、「海への求婚」は例年この広場前で執り行われるからだ。
 着飾った百人の騎士を引き連れ、王は金襴のガレー船に乗り込む。街を出た船は独立戦争の慰霊碑が建つ墓島に向かい、祈りを終えると再び大運河へ引き返してくる。そこで王は国民を代表し、明日からも海と生きると誓いを新たにするのだ。アクアレイア人がどれほどアンディーンを愛しているかは投げ込む指輪の美しさに表れている。
 問題はその後だった。金のリングが王の手を離れるや、待ち構えていた人々が一斉に海になだれ込む。水底に落ちんとする指輪を拾い上げた者には「なんでも一つ、君主に願い事を聞いてもらえる」という褒美が与えられるからだ。
 多いときはこの水中戦に五百人以上が参加する。要するに指輪を拾ったふりさえすれば誰でも簡単に王に近づくことができるのだった。
(それでも衆人環視はある。仮に暗殺が成功したとして共倒れは免れんと思うがな……)
 いくら不人気街道まっしぐらの父であっても王族は王族だ。不審死となれば詳しく調査されるだろうし、真っ先に疑われるのはグレディ家である。それを計算に入れていない祖母ではなかろう。
 証拠こそ残っていないが、グレース・グレディがかつて父の三人の兄を殺害した事実は宮廷人の暗黙の了解となっている。たとえ嫌疑をかけられても祖母自身はハイランバオスのふりでやり過ごせるかもしれないが、現当主のクリスタル・グレディは罪を免れ得ないはずだ。
(老害め、一体何を考えている?)
 ジーアン騎馬軍の脅威が間近に迫った二年前、その軍事対応を巡って王家とグレディ家は真っ向から対立した。祖母はイーグレットやルディアが大人しい手駒ではなくなったと痛感したはずである。だからこそ野蛮な手段で排斥すると決めたに違いない。
 ようやく解放されたと思ったのに。血で血を洗う継承争いの幕は下りたのだと。
「……ん?」
 と、神殿前にたむろする人々に気がついてルディアは歩を緩めた。「うげっ」というバジルの声で輪の中心人物を知る。

「人間には誰でも天性が備わっています。商人として生きるべき人間が商人として生きられるのは幸せです。けれどもし商人となるべき人間が農夫になってしまった場合はどうでしょう? 可哀想なこの農夫は決して幸せになれません。世界にはこのような間違いが溢れています。これらを正さない限り、私たちは永遠に災難を享受し続ける運命にあるのです」

 ハイランバオスの説法に耳を傾けているのは仮面姿の王国民だった。普段は気になる世間体も今日は素顔と一緒に鳴りを潜めているらしく、エセ聖人に並々ならぬ関心を寄せている。
「へえ、それじゃ幸せになるには自分の能力に見合った仕事に就けばいいってことかい?」
 好奇心旺盛な男が尋ねた。ニンフィでハイランバオスを囲んでいた漁夫たちと違い、彼の声音には「いっちょこの兄ちゃんの本性を探ってやろう」という気概が窺える。対する聖預言者はにこやかに質疑応答を始めた。
「いいえ、単に能力に見合っているだけの仕事ではありません。能力を高めることで己自身の品格も高まり、関わる人々に喜びをもたらす天職にこそ人間の幸福があると言えます」
「ほう、なるほどねえ。ちなみに俺は商人こそまさに天職と自負しているんだが、近頃ちっともいいことがない。商売したくてもさせてくれない連中がいるんだわ。こいつはどういう理屈なのかご教授いただけるとありがたいねえ」
 ジーアンへの皮肉を込めた物言いに男の仲間が忍び笑いを漏らす。聖預言者はこの質問にも動じた様子を見せなかった。
「それはあなたや我々のせいではありません。ただあなたに少なからぬ影響を与える人物が天命に背いているのです」
「ふむ、と言うと?」
「商人が商売を知らず、扱う商品の良し悪しもわからなければ買い手はとても困るでしょうね。それと同じであなた方に良き運命を授けるべき者が悪い運命しか授けられない嘆かわしい現状があるのです」
「運命を授ける? おいおい、まさかあんた俺たちのアンディーンを悪く言うつもりじゃなかろうな?」
「いいえ、違います。あなたも少し考えればきっと思い当たるでしょう。天性に恵まれず、能力不足の否めないまま大きな仕事に従事している、見合わぬ冠を戴いた男がいることに……」
 低く静かな囁きに聴衆がざわめく。それは仮面越しでも聞いてはならぬ不敬であった。
 目配せと小突き合いの波の後、人垣はそそくさとばらけていく。それさえも意に介した素振りを見せず、ハイランバオスは声高々に予言を続けた。
「近く災厄に見舞われますよ! 天帝に治められたジーアンと違い、王として君臨すべき本当の王を持たないこの国は!」
 ――宮殿の目と鼻の先でなんたる愚弄だ。以前は「根拠のない中傷を」と眉をひそめるだけで済ませていたが、正体がグレース・グレディかもしれないと知った今は捨て置けない。
(あんな布教活動を許すなど、海軍は何をしている!?)
 ルディアはぐるりと雑踏を見渡した。白銀の騎士は剣の柄にさえ手をやらず、広場の片隅で静観している。その職務怠慢ぶりにカッとなった。大股で人波を突っ切って、鼻っ柱に噛みつくように吠え立てる。
「護衛役ならあの御大尽に口を慎むよう言い聞かせるべきなのでは?」
「……それができるならとっくにそうしている。ハイランバオス殿に気分良く帰国してもらえるかどうかで通商条約の行方は決まるんだ。防衛隊風情が余計な口出しをするな」
 ユリシーズは眉を寄せ、忌々しげにルディアを睨み返してきた。
「……っ」
 想定内の反応だったのに何故か動揺を打ち消せない。彼はグレディ家の長女と婚約していると、アイリーンに聞かされた言葉が胸に棘を刺していた。馬鹿馬鹿しい。まだ真実と断定されたわけでもないのに。
「だが国王陛下に対して……」
「お前の言いたいことはわかっている。私とていたずらに民の心を惑わせたいわけではない。だが今は仕方ないのだ。ほら、あの男に勘づかれる前にとっとと失せろ!」
 演説をやめない宣教師から遠ざけるようにルディアは肩を突き飛ばされた。
 乱暴な仕草だった。宮殿ではいつも優雅だった貴公子とは思えないほど。
「…………」
 信じられない。本当にユリシーズはグレディ家に与したのか。後でルディアに情報を流すために、今は協力するふりをしているだけではないのか。
(そうだ。そうに決まっている)
 無理矢理自分を納得させ、ルディアは背後を振り返った。
「……行こう」
 呼びかけた防衛隊は四人ともユリシーズにあからさまな疑惑の視線を向けている。特に商船団の早期再開を望むレイモンドは「ご機嫌取りなら他にも方法あるんじゃねーの?」と言いたげだ。
 ハイランバオスとすれ違うとき、ルディアはさり気なくグレースと共通する部分がないか探してみた。目についたのはしなやかな皮の乗馬鞭だ。足が悪いため馬には乗れないという触れ込みなのに、妙に腰に馴染んでいる。
(お祖母様もあんな鞭をお持ちだったな……)
 偶然かもしれない。まだ二人が同一人物だなんて信じられない。アイリーンたちの胡散臭さだってハイランバオスに勝るとも劣らないのだから。
 だがもしも、本当にグレディ家やユリシーズに陰謀の兆候が認められたそのときは――。
「ジーアンの預言者、なかなか小気味いいこと言ってくれるねえ」
「王が王に相応しくないってやつか? ま、俺たちゃ思ってても口に出せねえからな」
「そうそう。ルディア姫もマルゴーの入り婿なんか貰っちまってよぉ、王国が乗っ取られやしないか心配だぜ」
 漏れ響いてくる声に唇を噛む。即位前から持て囃されたことのない父だが、最近の支持率低下は目に余った。
 責任の一端はルディアにある。己が読み違えたのだ。ジーアン帝国に対する共同戦線の強化を優先するあまり。マルゴー公国がアクアレイア海軍の確実な庇護を求めて人身御供にチャドを差し出してきたというのが実情でも、傍目には陸軍増強が進まないのは隣国の圧力のせいだと見えなくない。
 民衆は不安がっている。このままでは経済面でも軍事面でも王国が危ういのではないかと。
(王家の評判が地に落ちて、民衆自らグレディ家の戴冠を望むようになれば、お父様が退場するだけで王位は転がり込んでくる……か)
 形式的には君主制でも祖国の内実は貴族共和政である。王家など、パトリア古王国の聖なる血筋を絶やさぬために遇されているに過ぎない。
 民の声は王の権威を揺るがすに足りる。それを煽動せんとするエセ預言者の言葉には胸騒ぎがしてならなかった。

「――ああ、すみません。大鐘楼は昨日から立ち入り禁止なんですよ」

 と、灯台に続く橋を渡ろうとしたルディアを若い軍人が引き止めた。
「立ち入り禁止?」
 兵なら誰でも出入り可能な施設だろうと怪訝に問う。都市の全景を見渡せるここで重点的に見回るべきポイントを話し合う予定だったのに。
 下っ端らしい少年は申し訳なさそうに「ゴンドラレースのコース取りを確認しようと大鐘楼に上る参加者がいるそうで……」と理由を説明してくれた。
「へっ? レガッタの?」
「確かに上から覗けば有利な位置取りは考えやすいでしょうけど……」
「なんで大鐘楼だけ? 海上封鎖もしなきゃ取り締まりにならないじゃん」
 レイモンドとバジルとモモが青年に詰め寄る。困り果てた彼は「だってそう言われたんですよお」と三人の追及をかわした。
「言われた? 誰に?」
 剣に刻まれた伯父家の紋章をちらつかせてアルフレッドが問う。鷹の意匠を目にした少年はおもむろに姿勢を正し、敬礼のポーズで答えた。

「ハッ! ユリシーズ・リリエンソール中尉殿です!」

 瞠目し、肩越しに広場を振り返る。不可解な指令を出した男は宮殿に客人を連れ帰るべく歩き出したところだった。
「…………」
 白だと思っていた色が薄いグレーから濃いグレーに変わっていく。彼を疑いたくなどないのに。
 明日は何も起こらなければいい。
 ルディアはぎゅっと震える拳を握り締めた。









(20150215)