降りかかった災いを嘆いたところで仕方がない。不幸はいつも予期せぬ形で訪れるものだ。より良い明日を望むならさっさと頭を切り替えて、できる努力を続けていくしかないのである。

「闇を切り裂く青き光! 王都防衛隊、ブルーノ・ブルータス参上!」

 高らかに名乗りを上げてルディアは細いレイピアを抜いた。掲げた刃に蒼い月光がきらり反射する。いかにも正義の使者の登場場面に相応しく。
 折からの風も肩甲に縫いつけられた短いマントを翻し、剣士の姿をますます華麗なものにした。見せつけるように高く跳び、葬り去るべき敵の正面に着地する。
(よし、決まった)
 レイピアの映える角度で停止したままルディアはちらと背後を仰いだ。口上を聞いた仲間たちは我も続けと各々の武器を構える。
「同じく! 赤き光、アルフレッド・ハートフィールド参上!」
「同じく! モモ・ハートフィールド参上!」
「同じく! レイモンド・オルブライト参上!」
 夜更けの街に響くのは勇ましいポーズを取った若人の声。アクアレイア王国王都防衛隊の面々はレンガ塀から次々に暗い通りへジャンプした。できるだけ派手に、できるだけ目立つように。この三ヶ月、ルディアが叩き込んでやった教え通りに。
「あのー……、動物相手に名乗る必要あるんでしょうか……?」
 と、一人だけ塀に残り、降りてくる気もなさそうなバジル・グリーンウッドが尋ねた。まだあどけない顔立ちの、伸ばしっぱなしの緑の癖毛を三つ編みにした弓兵は路上でとぐろを巻く大蛇に冷めた眼差しを向けている。「爬虫類相手に安上がりの革装備で偉ぶっても……」と言いたげに。
「何をたわけたことをぬかしている! これは敵に聞かせているのではない! 味方に聞かせているのだ! 我々の活躍ぶりが噂になれば、それだけ早く昇進できる可能性が上がるというものだろうが!」
 ルディアは憎きブルーノ・ブルータスの声で怒鳴った。少年はびくりと肩をすくませながら「でも、でも」としつこく食い下がってくる。
「勤務地が王都じゃないのに王都防衛隊を主張するのはちょっと恥ずかしいって言うか……!」
「だからさっさと栄転してアクアレイアに帰りたいんだろう、馬鹿者め!」
 浜通りの色どり鮮やかな石畳が甲高い怒声に震える。いきり立つルディアを隊長のアルフレッドと槍兵のレイモンドが両側から「まあまあ」となだめた。
 カッカするなと言われても無理な話だ。肉体を奪われ、城どころか都からも追い出された現状では。
「やってみたら案外楽しいけどな。バジル、お前もいっぺん『緑の光!』って叫んでみれば?」
 と、ノリも頭も軽いレイモンド。オールバックの金髪を掻き上げ、垂れ目男はにへらと笑う。
「そうだぞ。第一こういうのは全員でやらないと逆にみっともない」
 続いて堅物アルフレッドが諭した。短く切られた赤い直毛とまっすぐな太眉はいつ見ても彼の性格を反映するかのごときだ。
「モモたちが王都防衛隊なのは本当なんだし、気にしすぎでしょ」
 紅一点の斧兵は弓兵に対し冷ややかだった。可憐なツーサイドアップの髪と同じピンク色の瞳を背けると、小柄な彼女はいかつい双頭斧を担ぎ直す。
「そ、そんなあ! モモ!」
 惚れた女にとことん弱いバジルは「は、放てばいいんでしょ!? 僕も緑の光!」と慌てて弓を引いた。
 選抜戦を勝ち抜いただけあって隊員たちの実力は確かだ。茶番の間、余裕綽々に身をくねらせていた巨大な蛇は身構える間もなくあっさり頭部を射抜かれた。
「ヒギュッ!」
 短い悲鳴が夜闇に響く。大蛇は額から血を流し、何が起きたかわからぬ様子で篝火の周囲をのたうった。そこへすかさずアルフレッドが切りかかる。
「成敗ッ!」
 ずしりと重いバスタードソードは樹木の幹ほどもある蛇の胴体を両断した。と同時、浜通りに軒を連ねる宿や商館から拍手喝采が巻き起こる。
「ありがとよ、王都防衛隊!」
「いつも痺れるねえ!」
 熱い賛辞を送ってくるのは自国の商人と船乗りたち。地元住民の姿はない。
 ここはマルゴー公国領、港町ニンフィ――その一角を占めるアクアレイア人居留区。
 潮騒を背負い、ルディアは窓辺の王国民らへ手を振った。王都防衛隊の一員、ブルーノ・ブルータスとして。




 ******




 公にならなかった誘拐事件から三ヶ月余りが過ぎた。毎朝水桶に映る自分と睨めっこしてみるが、ルディアが元のルディアに戻る兆しはない。
 あの冬の夜、何がどうしてこうなったのか。殺されるか犯されるか、状況的にはせいぜい二択であったろうに。
 意識を取り戻したとき、ルディアは十八歳の健康な成人男子に変わっていた。濃紺の髪と青い目をした細身の剣士ブルーノに。更に奇怪なことに、その日はきっかり予定時刻通り、マルゴー公国の王子と結婚する旨を知らしめる自分の姿を大衆に紛れて見上げることになったのだ。
 どんな妖術か知らないが、とにかく二人の精神と肉体は入れ替えられてしまったらしい。目が合った直後、そそくさと宮殿に引っ込んだ『ルディア姫』を見て確信した。己はブルーノに王女としての全てを乗っ取られたのだと。
 けれどそんな摩訶不思議、誰が信じてくれるだろう。まともな人間なら鼻で笑い飛ばす妄言だ。ルディアにはぐっと言葉を飲み込むしかなかった。「あの姫は偽者だ!」という言葉を。そうして命じられるまま、部隊ごと隣国の居留区に飛ばされてしまったのだ――。


「はあッ! たあッ! 首を洗って待っていろ、命知らずの逆賊どもめ!」
 巻藁の屑が飛ぶ。親の仇とばかりに飛ぶ。稽古人形の首が落ちてもまだ足りず、ルディアは剣を振り回した。
 鍛錬と称してやっているのは憂さ晴らしだ。隊員たちが怯えているのは百も承知で日課のストレス解消を続ける。ありったけの憎しみをこめ、罪なき巻藁をいたぶるルディアに防衛隊の男たちは恐ろしげに息を飲んだ。
「なあ、アル、最近ちょっとブルーノの奴ピリピリしてねー?」
「いや、あれはちょっとどころじゃないだろう。ニンフィに来てから昇進昇進とうるさいし、まさかこんなに出世欲が強かったとは……」
 レイモンドとアルフレッドがひそひそと話し合う。ブルーノと同じ十八歳の二人は鬼気迫る一面を見せる仲間に戸惑いを隠せない様子だった。そこに弓兵が加わって得意げに指を立てる。
「違いますよ、もっと前からブルーノさんは不機嫌です。僕の推理では失恋が原因ですね! あの豹変ぶりはルディア王女とチャド王子のご結婚が決まってからですもん」
 バジルのずれた発言にうっかり手元が狂いかけた。
 誰が誰に失恋だ。小声の会話も筒抜けになる狭い中庭を振り返り、ルディアはきつく三人を睨む。
「ええッ!? あいつ姫様に惚れてたの!?」
「案外高望みだったんだな……」
「姫様よりモモのほうがずっと高嶺の花ですけどねえ。何してもちっとも振り向いてくれないですし」
 ルディアが目を吊り上げているのにも気づかず、親しい幼馴染同士の彼らは話に花を咲かせ始めた。どこの誰それに男ができただの、誰と誰が別れただの、しょうもない私語が飛び交う。
「そういやアルには気になる女の子とかいねーの?」
「いや、俺は任務で手いっぱいだ」
「わかります、わかります。一生懸命働いてますもんね」
「たまには息抜きすりゃどうだ? 看板娘の可愛い定食屋教えてやろうか?」
「うーん、食事中は食事に集中したいからな。遠慮しておくよ」
 口よりも手を動かせと叱りつけたいところだが、生憎それはできなかった。仮宿舎の窮屈な稽古場は一度に二人しか使えない。順番待ちの間はどうしても手持ち無沙汰にならざるを得なかった。古い商館を使い回せば防衛隊には十分だろうと予算をけちった女が今更恨めしい。

「バッカみたい。どうせならもっと建設的な話すれば?」

 と、見下げた顔で隣のモモが振り返った。使い込まれた大斧を構えた少女が向かうのは山と積まれた藁の束。彼女は自身の訓練がてら、不足しがちな巻藁を量産してくれているのである。隊長の妹という立場に甘えない、今時感心な働き者だ。
「建設的かどうかはわからないが、仕事で気にかかっていることならある」
 少女の苦言に口を開いたのは妹に負けず劣らず実直なアルフレッドだった。赤髪の騎士の表情は険しい。深刻に思い悩んでいるらしく、一体なんだと皆が彼に注目する。
「俺たちはアクアレイア人居留区を荒らす盗人を懲らしめるためにニンフィへ派遣されたんだろう? それなのにここ数週間、害獣駆除ばかりしている気がする。はたして王国騎士として、このままでいいんだろうか……?」
 至って真面目にアルフレッドは問いかけた。眉間のしわをますます濃くした彼の顔には「このままでいいわけがない」と書いてある。
「ええー? でもそれって俺らが来たから平和になったってことじゃねーの? 去年の暮れなんてもうメチャクチャだったって聞いたぜ?」
「警備の成果が出てるんですよ! 防衛隊の駐在が防犯効果を高めている証拠です!」
 レイモンドとバジルは明るく隊長を励ました。だがモモだけは冷静に「左遷なんだし実績伸びなくて当たり前じゃない? 干されてるんだよ、防衛隊」と非情な現実を突きつける。
「お、お前なあ! やめろよ、騎士道に命かけてる兄貴を悲しませるのは!」
「だって本当のことでしょ。陸軍新設の第一歩として防衛隊を結成するって話だったのに、初年度から五人のまんま増えてないし。しかも二年目の勤務地はニンフィだよ? 国内ですらないって……」
「こらこら! お前はいつもズバズバ物を言いすぎだぞ!」
「結局姫様はチャド王子をお婿さんに迎えて、陸上防衛はマルゴーに頼る道を選んだんだよ。挙式パレードが終わってすぐモモたち王都を追い出されたし、来年は解散させられてるかもねー。海軍にばっかお金かけてる国だもん、経費削減とか言って用済みのモモたちはきっと……」
「わー! アル、耳を貸しちゃ駄目だー!」
 レイモンドたちの騒ぐ傍らでルディアは剣を鞘にしまい、ふうと嘆息する。直接は政治に参与しない平民でもこの程度の裏なら読めてしまうらしい。
 確かにモモの推測は当たっていた。防衛隊は元々長く存続させないつもりで組織した新部隊である。かといってまったく無用の長物だったわけでもないのだが。
「……まあ初めから大規模陸軍を育てる予定ではなかっただろうな。要するにルディア姫は、アクアレイアは地上にも海軍並の兵力を持つかもしれませんよと仄めかしてマルゴーとの同盟強化を有利に運びたかったんだ」
「ブルーノもそう思うよね!? やっぱりモモたち使い捨てだったんだ!」
 少女はあーんと大仰に嘆く。彼女を諌めたのはアルフレッドとバジルだった。
「おい、いくらなんでも言いすぎだぞ。仮にも俺たちはルディア姫直属の部隊だろう。主君を悪く言う奴があるか」
「そうですよ。大体この間までいつ戦争になってもおかしくなかったんですし、たとえ使い捨てだったとしても僕らの果たした役割は大きかったはずですよ」
 フォローが入るとは想定外で、おや、と思わず瞬きする。
「バジル、お前わかっているじゃないか。そう、王女は何も間違っていない! ジーアン軍を寄せつけないためには必要な工作だったんだ。天帝の魔手から国を守るためにはな!」
 ジーアン帝国――。五年ほど前、東方に彗星のごとく現れた騎馬民族の新興国だ。常勝無敗の大軍団を率い、幾多の街を征服した。
 彼らが侵攻する様はまさに破竹の勢いだった。帝国の勃興以来、世界地図は年ごとに書き換わった。
 馬の蹄がアレイア海に押し寄せたのは一昨年のことである。東岸に点在した小国群はなす術なく滅ぼされ、北岸のマルゴー公国も防戦に追われた。西岸のアクアレイアはいつ彼らに攻め込まれるか気が気でない毎日で。
 幸いジーアン帝国はろくな軍船を持っておらず、騎兵が海を越えてくることはなかった。とはいえ油断は禁物だ。山国の地の利を生かしたマルゴー公国がなんとか騎馬軍を追い返し、しばし休戦となったものの、またいつどんな形で帝国が牙を剥くかわからない。隣国とは手を携えて難敵に立ち向かわねばならなかった。そう、ルディアが王子との縁談を受けたのも、全てはアクアレイアのためなのだ。
「でもよー、国としちゃそれでいいかもしんねーけど、俺個人としちゃ『陸の防備が整ったので防衛隊は不要になりました! サヨナラ!』なんて言われたかねーぞ? 国営商船団の再開だって見通し立ってねーんだろ? ウチは貧乏大家族だし、解雇はほんと困るんだよな」
 レイモンドがしかめ面で腕組みする。「僕だって!」とバジルも不安を訴えた。
「僕だって、折角モモと一緒にいられる職に就けたのに、防衛隊辞めたくないですよ」
 のどかな春の中庭に重い雰囲気が立ち込める。花もしおれそうな暗さだ。
「モモも家事手伝いより斧振り回すほうが楽しいなー」
「ああ。俺もできれば、このまま堂々と騎士を名乗っていたい」
 ハートフィールド兄妹も望み薄の防衛隊存続を希望した。皆それぞれ都合や思い入れがあるのだ。彼ら四人と同じ気持ちでルディアも告げた。
「私もだ。防衛隊が何らかの重要任務を負うことになれば、王や姫に接見する機会が持てるからな」
 外交カードとして利用価値のなくなった防衛隊をニンフィへやると決めたのは他ならぬ自分自身である。一年ほど王都から遠ざけて陸軍設立の話ごと有耶無耶にするつもりだったのに、人生何がどう転ぶかわからない。彼らと揃って悲嘆に暮れる羽目になるとは。
「えっ? もしかしてブルーノ、ルディア姫に会うために出世したいの?」
「そこまで姫様を好きだったとは……! ヒュー! 恋は下克上ってやつだな!?」
「この頃見違えるほど頼もしくなりましたし、やっぱり愛は人間を成長させるんですねえ」
「そうだな。前は口調もおどおしていたが、今はまるで別人だ」
 先程までの陰鬱はどこへやら、隊員たちはわっと一斉に盛り上がる。そんな彼らを一瞥し、ルディアは「愛か、そうかもな」と冷たく笑った。憎めば憎むほど思う時間は増えるのだから、きっとこれも愛の一種なのだろう。
(覚悟しておけ、ブルーノ・ブルータス……! 貴様らが何を企もうと必ずや看破し、この私の足元にひれ伏させてやる……!)
 我がふりをして婚礼衣装を身に纏い、夜はそれを脱いだのだ。断じて許しはしない。どこへ逃げても追いかけて、骨の一片まで粉砕し尽くしてくれる。
「ふふふふふ、ははははは!」
 ルディアの笑い声に一同はびくりと肩をすくませた。深入りしたくなかったのか、アルフレッドが目線と話題をそっと逸らす。
「ル、ルディア姫は体調を崩してずっと臥せっておられるそうだな。俺たちも許可が出れば、お見舞いに馳せ参じたいところだ」
 そう、そうなのだ。どういうわけかブルーノは王女の立場を利用しての政治行動を取れずにいた。今ならまだ巻き返すチャンスはあるはずだ。分家ごときに評議会や元老院まで奪われるその前に、返り咲かなくてはならない。王家の栄光、そして王国の繁栄のために。

「――そう言えば、害獣の件は私も引っかかっていた」

 ふと思い返してルディアは言った。
「え? お前もか?」
 アルフレッドに尋ね返され、こくりと頷く。
「昨日は蛇、五日前は虎、二週間前は灰色熊を退治したが、どれもこの辺りの原産ではないだろう。出没するのはうちの居留区ばかりなのに動物商が港入りしたとも聞かないし、ひょっとして密輸なんじゃないか?」
 ルディアの指摘に隊員たちはどよめいた。許可のない荷は船に積むのも売りさばくのも大罪だ。そんな不届き者が近辺に潜んでいるとすれば大事件である。
「上手くやれば都勤めに復帰できるかもしれないぞ?」
「おお!? 給金上がるかな!?」
「最新式の装備も買ってもらえますかね!?」
 食いついてきたレイモンドとバジルにルディアはにやりと口角を上げた。
 なんと素直で乗せやすい男たちだ。もっとも多少嫌がられたところでモモを頷かせさえすればなし崩しに了承を得られるのもわかっているが。
 この数ヶ月でブルーノ・ブルータスとしての生活にはすっかり慣れた。汚れ物はバジルに放っておけばいいし、食事はレイモンドに任せればいい。金銭が必要ならアルフレッドが文句を垂れつつ工面してくれる。ここではモモが姫君だから、彼女だけは丁重に扱うのが得策だ。
 将来はアクアレイアの女王として君臨するルディアにとって同年代の若者を御す程度わけはなかった。せいぜい良い働きをしてもらおう。今は彼らだけが己に与えられた駒の全てなのだから。
「今度猛獣が現れたらわざととどめは刺さずにおくぞ。巣に帰らせれば飼い主は誰か自ずと知れる」
「おおー!」
 アルフレッドの「なんでお前が仕切るんだ?」と言いたげな表情は無視して稽古場を出る。「巡回に行くぞ」と短いマントをはためかせれば、モモとバジルの十五歳コンビが「はーい!」とルディアの背中に続いた。
「ねえねえ、今日はどこ回るの?」
「とりあえず山のほうだな。ついでに神殿にも立ち寄るか」
「あっ! ブルーノさん、もしかして恋の願掛けです?」
「恋の? はっはっは、それはいい。ルディア姫に私の情熱が届けばいいが!」
 軽口を叩きつつ仮宿舎の玄関を開く。心とは裏腹に浜通りを吹き抜ける五月の風は爽やかだった。が、その快さに気を緩めている場合ではない。
 グレディ家の無法を許せば厄介なことになる。さっさと元の肉体を、そして地位と権力を取り戻さなければ。




「それじゃあ本日の警邏にしゅっぱーつ!」

 無邪気なモモの声でパトロールは始まった。レンガ造りの仮宿舎を後にして瀟洒な商館が立ち並ぶアクアレイア人居留区を歩く。カモメの鳴き声を聞きながら石畳の尽きるところまで来ると風景はがらりと変わった。視界が開け、眼前に深い入江、祖国へ続く美しきアレイア海が広がる。
 淀みない青にルディアは知らず頬を綻ばせていた。海を見ると心が静まる。縁の深さを思えば尚更。
 見上げれば入江の奥には緑濃い山々が連なっていた。国土の九割が山岳地帯というマルゴー公国の港らしく、切り立った白い岩壁が海辺にまで張り出し、複雑な海岸線を描いている。風から守られた天然の良港には大小の船が集い、山と海に挟まれた猫の額ほどの土地を商人や荷運び人が行き交った。――活気に溢れて見えるのはあくまで港だけの話であったが。
「神殿に着いたら悪さする人がいなくなりますようにってお祈りでもしよっかな。犯罪件数ゼロになればモモたちも大手を振ってアクアレイアに帰れるもんね」
「そうですねえ。モモさえいれば僕はどこでも天国ですけど、そろそろ家でもゆっくりしたいですよねえ」
 通り過ぎさまルディアたちは船着場に目をやった。長い桟橋に舫われて錨を下ろした船がゆらゆら揺れている。仲間と肩を組んで歩く楽しげな水夫の声に王国訛りを聞き取ってルディアは堪らなくなった。
 ああ、愛する故郷は海を下ればたった一日の距離なのに。任務放棄の代償が王国追放という厳罰でさえなかったらとっくの昔に帰還を果たしていただろう。国家を維持するための規則に足を引っ張られるとは忌々しい。
「犯罪件数をゼロに――か。そうなれば確実に王都へ戻してもらえるだろうが、書類操作でもしない限りは不可能だろうな」
 溜め息混じりにルディアは呟く。沿岸部から遠ざかるほど貧相になる田舎町、とりわけ断崖絶壁にへばりついて立つ漁民のあばら家を見つめながら。
 ニンフィのアクアレイア人居留区で盗難被害が急増したのは一昨年から昨年冬にかけてのことだ。これはアレイア海東岸にジーアン騎馬軍が陣取っていた時期と重なる。
 二年前、王国経済を担う商人たちは政情不安な東岸から撤退を余儀なくされ、北岸に拠点を移した。商売を続けていくには陸路を使うマルゴー商人との取引が必須となったからだ。
 大山脈を越えてくる街道はニンフィがその終点になる。商品の到着を待つ人々はこぞってこの湾に詰めかけた。空っぽの船ではなく、輸出品を満載した何隻もの商船を率いて。
「手の届くところに宝の山があるのだから、目の眩む阿呆は絶えんだろうな。金持ちからなら盗んでいいという考えではロマと変わらんが」
「ほんとそれ! 欲しいなら欲しいで盗む以外のやり方あるでしょうに!」
 いつになったら帰れるのかとモモは嘆く。「大丈夫、近いうちに帰れますよ」とバジルが少女を励ました。
 昔から貧しい漁民による窃盗はあった。ただ誰も問題にしていなかったのだ。商船が停泊するのは長くて二週間ほどだったし、昨日も盗まれ今日も盗まれ、なんて事態は起きなかったから。
 それに一昨年まではアレイア海を自由に航行できた分、商人たちの財布にも余裕があった。つまりこれまでは報告もせず、穏便に忘れてやっていた失敬が気に障るようになり、被害のカウント数が増えたのである。
 まったく世の中というのは難しい。おかげでアクアレイア人と地元民の関係は過去最悪だ。商売人同士は付き合いも古く、特にギスギスしてはいないが、防衛隊が一歩でも居留区を出ようものなら陰湿で粘着質な視線に晒されるのを避けられなかった。
 ――しかも最近、このねっとり感を束ねて捏ねて再配布する輩まで現れたのである。

「うげっ、ハイランバオスですよ」

 湾港を過ぎ、みすぼらしい税関の角を曲がるや否やバジルが渋面で固まった。その直後、ルディアたちを広場に入れさせまいとマルゴー兵が通せんぼする。
 いつもの馬鹿馬鹿しい嫌がらせだ。ニンフィでは現地住民だけでなく兵士も隣人を嫌っているのだ。
「説法の途中ですのでご容赦を」
「アクアレイアの方々は耳にしないほうがいいのでは?」
 交差した槍の隙間からルディアは陰気な人だかりを睨んだ。中心にいるのは騎馬民族の鞭を結わえ、皮カフタンと聖衣を纏った異国の美青年である。一見柔和な笑みを浮かべ、彼は人々の訴えに耳を傾けていた。
 聖預言者ハイランバオス。バオス教の若き教主で、ジーアン帝国を統べる男の実弟だ。三月にマルゴー首都で開かれた和平会談ののち「西方世界で見聞を広めたい」とか言い出して、彼は現在ニンフィの街に居座っているのである。演説巧者で神秘的な雰囲気があり、住民の一部はすっかり信者と化していた。
「お聞きになりましたか? 昨晩また獣が奴らを襲ったとか」
「ハイランバオス様、これも天罰なんでしょうか?」
「ああ恐ろしい! 今度のは巨大な蛇だったそうですよ!」
 聖者に群がる蠅どもには見覚えがあった。少し前、アクアレイア人居留区で盗みを働こうとした漁民たちだ。治外法権の地区内で逮捕に至らなかったため処罰したくてもできなかった連中なのだが、防衛隊を逆恨みしてあることないこと吹聴しているという噂は事実だったらしい。今度お縄にする機会が来たら容赦なく叩きのめしてやろう。

「――同情しておやりなさい。アクアレイア人の不幸は全て呪われた王が呼び寄せているのですから」

 聞き捨てならない台詞にルディアはぴくりと眉を歪めた。ハイランバオスはこちらに気づいた風もなく、粛々と根拠不明の自説を展開してみせる。
「イーグレット・ドムス・レーギア・アクアレイアは災いの星のもとに生まれついています。このまま彼を野放しにすれば、王国は近く崩壊の憂き目を見るでしょう。暴れ熊や大蛇はその予兆に過ぎません」
 道を塞ぐマルゴー兵の表情は愉快げだ。おかしな人間に嘲弄されて可哀想にという同情心、果たして防衛隊はどう出るかなという好奇心、お前たちも苦労を味わえという敵愾心。そのどれも無視してルディアは進路を変更する。
「裏道を抜けるぞ。バジル、モモ」
「はーい」
「りょうかーい」
 ハイランバオスはマルゴーとアクアレイアが共同で迎えた国賓だ。悔しいが、未だ東方交易が再開に至らず、ジーアンが腹の底では版図拡大を諦めていない以上、下手な手出しはできない。
 強力な敵に付け入る隙を与えてはならなかった。今できることは胸に秘めた『いつか殺すリスト』に名を刻みつけておくくらいである。

「おい、王都防衛隊。承知しているだろうがハイランバオス殿に無礼な真似を働くんじゃないぞ」

 不意に呼びかけてきた声にルディアはぴたりと足を止めた。振り向けば眉目秀麗なハニーブロンドの騎士が一人、白漆喰の壁にもたれて腕組みしている。
「……大丈夫だ。そんな愚は犯さない」
「ならいいがな」
 ユリシーズはそれだけ言うと広場の聖者に目を戻した。相変わらず銀の甲冑が似合う男だ。横顔の凛々しさなど思わず見惚れそうになる。
 が、アクアレイア海軍中尉を務める逞しき武人にも今回の要人警護は心労が嵩むらしい。若草色の瞳には少なからぬ翳りが見えた。あんな説法を四六時中聞かされていたのでは致し方ないことだけれど。
(私が支えになれればいいのだが……)
 切なさをぐっと堪えて背を向ける。チャドとの結婚が決まるまで恋仲だった元婚約者に。
 ユリシーズならどんなに姿が変わっていてもルディアをルディアとわかってくれるのではなかろうか。今すぐ城に帰りたいと言えば助けになってくれるのではなかろうか。
(いや……きっと変な顔をされるのがオチだな)
 かぶりを振ってルディアは細い道を歩き始めた。
 現実的な判断を下すのに甘い希望は持ち込むべきでない。王位継承者たる者、常に最悪の事態を想定して行動すべきだ。もし気狂いの烙印を押され、防衛隊からも除籍されてしまったら宮廷との最後の繋がりまで失うことになる。
(耐えろ、ルディア。誰かの胸に縋らねばならぬほど、まだ追い詰められてはいないだろう)


 防衛隊による警戒は厳しく、その後も盗人は船や居留区に近づくことができなかった。貧民たちは一層腹を立てハイランバオスに同調したが、ルディアの知ったことではない。救貧はマルゴーの責務であってアクアレイアの責務ではないのだ。
 ――街を震撼させる大事件が起きたのは五日後のことである。
 それは五月二十八日の夜更け、防衛隊による四度目の害獣駆除に端を発した。




 ******




「た、大変です! なんかやたら敏捷な狐が! いや、あれは野犬? 狼ですかね!?」
 長い三つ編みを振り乱し、バジルが仮宿舎の階段を駆け上がってくる。少年の指差す通りを見下ろせば篝火の側にフー、フーと鼻息荒い狼犬、更にそれを追い払おうとする哀れな男の姿が見えた。
「うわ、怪我人出てるじゃねーか!」
 大慌てでレイモンドが物干し竿に代用していた槍を掴む。生乾きの洗濯物が舞う中を「助けなきゃ!」とモモも飛び出した。
 ルディアとアルフレッドも即座に二階の窓枠を飛び越える。逃せぬチャンスの到来だ。悠長になどしていられなかった。
「大丈夫か!?」
 道の隅で蹲り、震える商人に声をかける。中年男の肩からはどくどくと血が溢れていた。
「バウウウウウ!」
 なお襲いかかろうとする獣をレイピアで牽制する。だが刺突はひらりとかわされて、狼犬はルディアの背後に回り込んだ。
「危ない!」
 寸でのところでアルフレッドのタックルが鋭い牙を退ける。しかしダメージは小さかったようで、ルディアが体勢を立て直す間に獣のほうも起き上がった。
(狼……、いや、なんだこの動物は……?)
 向かい合う敵を改めて観察する。狼にしてはやや小ぶりだ。まっすぐ立った三角の耳は狐のそれと似ているが、丸みを帯びた尾のフォルムは明らかに種を異にしている。近いのは野犬だろうか。だが絞られた細い脚に、どうも違和感を覚えた。
「……あれはコヨーテじゃないか?」
「コヨーテ?」
「遥か東の大陸に生息するジャッカルだ。前に移動式動物園で見た記憶がある」
「ならあれも密輸入品ということか」
 アルフレッドと話す間にレイモンドとモモが駆けつけてくる。バジルは矢の補充中らしく、まだ姿を見せなかった。
「おっちゃん、あの狼どっから来たんだ!?」
「わ、わからん。気がついたら後ろにいて、追い回されて」
「そっか、ありがとな」
「さあ、早く逃げて! 王都防衛隊、モモ・ハートフィールドが来たからにはもう安心だよ! この斧で生肉色の光を見せてあげる!」
「そこはピンクって言えよ!」
 ルディアの方針に従ってモモは恩を売るのを忘れない。よしよしと心の中で親指を立てる。
 商館の窓辺には夜も遅いのに見物客の顔が並び始めていた。その中に身内か友人を見つけたらしく、襲われていた男は建物内へ逃げ込んでいく。
「さーて、とどめ刺さねー程度に痛めつけるんだったな」
 前へ出たのは槍を回したレイモンドだ。殺傷能力を抑えるべく、彼は穂先と石突きを逆に手にしている。助走をつけて飛びかかってきたコヨーテに槍兵は軽やかなステップを披露した。
「ギャウン!」
 ノーガードの腹を下から思いきり突かれ、野獣は血を吐き転がり回る。だが一撃で戦意喪失とまではいかなかったようである。再び獰猛に吠え立てられ、レイモンドは深く腰を落とした。軽薄な垂れ目がいつになく真剣だ。
「グルル……」
 攻撃的な低い唸り。ルディアの目配せに頷いたハートフィールド兄妹がわざとらしく退路を開いて布陣する。こちらの意図に何ら関心を払うことなく猛獣は毛を逆立てた。
「ギャウーン!」
 と、そこへ予告なく第二の攻撃が飛んでくる。突如投げ込まれた仕掛け玉にルディアはハッと仮宿舎の屋根を見上げた。
「闇に飛び散る緑の油! どうです、臭うでしょう!? 衝撃を受けると中の腐敗魚油が弾けるように設計したんですよ!」
 瓦の上で得意満面にバジルが叫ぶ。たちまち周囲に猛烈な臭気が広がって、ルディアたちは堪らず鼻を摘まんだ。人間よりもずっと嗅覚の鋭いコヨーテは大パニックだ。
「キャンキャンキャン! キャンキャンキャン!」
 尻尾を巻いて逃げ出した獣を見やってルディアはにやりとほくそ笑んだ。
「よし、予定通りだ。追うぞ」
「だからどうしてお前が仕切る!?」
 アルフレッドの不平は聞かなかったふりをする。ルディアたちは路上から、身軽なバジルは屋根からの追跡を開始した。
「キャウウン、キャウウウウン」
 コヨーテは哀切漂う鳴き声を上げ、悪臭を振り切ろうとひた走る。浜通りを駆け抜けて、灯りの乏しい倉庫街へ。さあ、ここからが本番だ。
「お前たち、奴の帰る巣を見逃すな!」
「合点ッ!」
 ルディアたちは全速力で角を曲がった。が、肝心の獣は何故かどの倉庫にも目をくれない。そればかりか壁のごとくそびえる段丘へ一目散に駆けていく。
「あれ!? 全部通り過ぎちゃったよ!?」
「実は野生の狼だったってオチか!?」
 倉庫街の先には断崖と山林しかない。密輸であればこの辺りで犯人が知れると踏んでいたのだが。
「まだわからん! とにかく見失うんじゃない!」
 コヨーテの逃げ足は速く、視界に映る影は豆粒大となっていた。月明かりの他に頼るものもなく、山はどこまでも真っ暗だ。ガサガサと茂みを掻き分ける音だけは聞こえたが、それもすぐに止んでしまう。
 ――しくじった。なんという失態だ。
「あーん、うそぉ! 逃がしちゃった!」
「って思ったでしょう!?」
 と、悔しがるモモの前にバジルが倉庫の雨樋を伝い降りてくる。弓兵は実家のガラス工房で拵えたレンズ付きゴーグルをはめた姿で振り返った。
「ワンちゃんもどきは山肌の洞窟に入っていきましたよ! 万全を期して動物たちは目立たない場所に隠されているんでしょうか!? いよいよ密輸の線が濃くなってきましたねえ!」
「おお! 確認できたのか!」
「偉いぞバジル!」
「よくやった!」
 揉みくちゃにされた少年は照れ臭そうに鼻の下を掻き「こっちです」と案内した。先導に従ってルディアたちは急勾配の山へと踏み入る。
 樹木の散在する穴だらけの岩山はアレイア海北岸によく見られる光景だ。波の浸食作用によって自然の洞窟ができやすいのである。さほど登らされることもなく、ルディアたちは岩陰にコヨーテの消えた穴を発見した。
「ここで間違いないな?」
 身を屈め、人一人やっと通れるくらいの小さな入口を覗く。密輸商人の待ち伏せがないのを確かめるとジャンケンに負けたレイモンドが渋々先頭に立った。
 洞窟内は完全な暗闇だ。バジルの差し出した小さなランプを槍兵までリレーする。内部は意外なまでに深く、いくつも分岐点があった。コヨーテの通った道は強い悪臭が教えてくれる。最後尾のバジルに帰りの目印をつけさせながらルディアたちは慎重に進んだ。
 ――そうして歩くこと十数分。出口に至った防衛隊が目にしたのはまったく予想外のものだった。そこには人里から隠れるように大豪邸が息を潜めていたのである。




「な、なんだあ? あんなでかい家ニンフィにあったっけ?」
 レイモンドがぱちくりと瞬きする。見下ろした窪地には鉄柵と薔薇の垣根に囲まれた白壁の邸宅が佇んでいた。
「おいおいブルーノ、どう見てもありゃ密輸商人の倉庫じゃねーぞ?」
 肩をつつかれ、ルディアはブロンズ製の門扉に目を凝らす。掲げられた旗の図柄、赤地に禿鷹の紋章には見覚えがあった。
「オールドリッチ伯爵の屋敷だな。こんなところに別荘を構えていたとは」
 そう告げると「オールドリッチ? モモそんな人知らなーい」と斧兵が顔をしかめる。妹の発言に肩を落とし、アルフレッドが「こら」と叱った。
「何が知らないだ。オールドリッチ伯爵はニンフィ周辺を任されている司法官だぞ。俺たちも何度か泥棒を引き渡したろう」
「ええー? そうだっけ?」
「そうだっけじゃない。ほんの一ヶ月前の話……」
「シッ! さっきのワンちゃんもどきがお出迎えされてますよ!」
 バジルの注意に一同はさっと木陰に身を寄せる。裏門に目をやれば、上等な衣装を着た痩せぎすの老婆が弱ったコヨーテを引き入れるところだった。
「……!」
 どうやらあの女が飼い主で間違いなさそうである。だがすぐに「決定的瞬間を目撃したぞ!」と出て行くのは躊躇われた。
「オールドリッチ伯爵夫人と言えば珍獣、猛獣の収集家だ。もしかすると密輸ではなく彼女のコレクションが逃げ出しただけかもしれない」
「でも変ですよ。ペットなら駆除した僕らに苦情が入ってもおかしくないじゃないですか」
「おお、本当だ。こいつは怪しいぜ! 確かめてみるっきゃないか!?」
「だが相手が公国貴族では迂闊に――」
 勇み足のバジルとレイモンドを留まらせようとして、ルディアはハッと口をつぐんだ。崖を上ってくる誰かの足音に気がついたからだ。

「どちら様でしょう?」

 洞窟に引き返している時間はなかった。不気味に静かな女の声が梢の向こうから問いかけてくる。
「……アクアレイア王国、王都防衛隊です。俺は隊長のアルフレッド・ハートフィールドと言います」
 緊張気味にアルフレッドが振り返る。刺すような目で立っていたのはポニーテールにエプロン姿の下女だった。笑えば人好きしそうな美人だが威圧されるほど背が高い。レイモンドより大柄な女など初めて見た。
「まあ、居留区の方々でしたか。こんな遅くにどんなご用でロバータ様の別邸に?」
「いえ、俺たちはただ人を襲った野犬を追ってここまで来たんです。そちらは異状ありませんでしたか?」
「まあ、野犬ですって?」
 どうやら彼女はあの館の召使いらしい。コヨーテの存在は知っていそうなのに白々しく驚いてみせる。
「恐ろしいわ。ロバータ様は私しか静養にお連れでないのに……。あの、もし、差し支えなければ敷地内の見回りをしていただけませんか? お礼と言ってはなんですが、温かいお茶とお菓子をお出ししますので」
 思わぬ頼みに防衛隊は困惑した。あんな獰猛なペットを余所に放しておいてなんのつもりだろう。敢えて邸宅に招くことで迷惑行為の潔白を装おうとでも言うのだろうか。
 ふむ、とルディアは奇妙な下女を一瞥した。胡散臭さしか感じないが、ガサ入れするなら今しかあるまい。ここは乗せられてやってみよう。
「ご婦人がお困りなのを捨て置くわけにはいかないな、アルフレッド」
 ルディアが促すと「あ、ああ。俺もそう考えていたところだ」と赤髪の騎士が頷いた。下女は嬉しそうに手を合わせ、防衛隊に礼を告げてくる。
「まあ、ありがとうございます。それでは早速お屋敷にご案内いたしますわ!」
 後ろに大きく膨らんだ長いスカートを引き摺って彼女は坂道を下り始めた。足の具合でも悪いのか、その動きはどことなくぎこちない。
 だがこのときはまだ、服の下に何が秘められているのかルディアには知る由もなかった。下女に染みついた獣の臭いもコヨーテたちのそれだろうと信じて疑っていなかったのである。




 ******




「ふおおお……っ!」
 吹き抜けの天井に吊り下げられたシャンデリア、白壁を覆うオペラカーテン、絵画に彫刻、金のかかった調度品の数々が防衛隊をぐるりと囲む。
 ルディアたちが通されたのは舞踏会でも開けそうな豪華絢爛の大広間だった。可哀想に、こういった場に不慣れな庶民たちはすっかり腰が引けている。
「す、すげーな。流石は伯爵様だぜ。盗人もこっち狙えっつーの」
「ひえッ……! 僕らの装備よりずっとお高そうな甲冑が飾ってありますよぉ……!」
「おいバジル、あんま近づくな! 振動で倒れたらどうすんだ!?」
 レイモンドの忠告にバジルがヒャアッと震え上がる。それくらいで倒れるかとルディアが溜め息をつきかけたところに扉の開く音が響いた。先程の下女に伴われ、ロバータ・オールドリッチが広間へと入ってきたのだ。
「……!」
 白髪でしわくちゃの老婆はさっき裏門に立っていたのと同じ人物であった。警戒を強めつつルディアは居ずまいを正す。ともあれまずは挨拶をと思ったら、老婦人は防衛隊をまるきり無視して召使いに問いかけた。
「アンバーや、では間違いなくこの者たちに見られたと言うんじゃな?」
「はい、奥様。例の洞窟から出てきたところを私がしかと」
「始末の仕方はおいおい考える。蹴散らしておしまい!」
 不穏なやりとりに眉根を寄せる。その直後、アンバーと呼ばれた下女が正体を現した。

「なっ……!?!?」

 女は爪先まで覆う長い厚手のスカートを掴む。そのまま彼女はエプロンごと下女の衣装を取り払った。突然のストリップに目を剥いたのは男どもだ。品行正しく顔を背けた三人は強烈な先制攻撃を食らう羽目になったのだった。
「はあッ!」
 掛け声とともに琥珀色の、巨大な何かが飛びかかってくる。横っ跳びにそれをかわし、ルディアは体勢を立て直した。
 想定外すぎる事態に目を瞠る。眼前に立つ女のあまりの異形ぶりに。
「何あれ!? ケンタウルス!?」
「違う、あれは……!」
 モモの叫びにどうにかルディアは首を振った。
 アンバーの下半身は確かに人間のそれではなかったが、馬というには羽毛に包まれすぎている。そう、それは馬ではなく、逞しい脚を持つダチョウの胴体そのものだった。
「なっ、なっ……」
「ば、化け物!」
 蹴り飛ばされ、絨毯に伏した男どもも唖然としている。現実を受け止めきれない防衛隊を嘲笑うようにダチョウ女は一瞬で広間の奥まで駆け抜けた。
「――!」
 アンバーは台座の甲冑から宝飾剣を抜き取ると、返す足で高々と跳躍する。ついでとばかりドレープたっぷりのカーテンが切り裂かれ、重量ある一枚布がアルフレッドたちに被さった。
「アル兄! レイモンド! バジル!」
 脱出しようともがく三人の醜態が獲物を踏みつけた怪物を喜ばせる。とても信じられないが、夢を見ているのではないらしい。本物の人外がルディアたちににやりと笑いかけてくる。
 そそくさと広間を出て行った伯爵夫人は扉に鍵をかけてしまった。窓があるのは二階のみだ。三人を見殺しにするとしても脱出口はない。未だかつてない大ピンチだった。
(い、いくらなんでもこの展開は予想していなかったぞ!?)
「さあ、いいかしら? お坊ちゃん、お嬢ちゃん」
 上着も脱いだアンバーが冷や汗を垂らすルディアとモモに剣を構える。
 所作は見るからに素人だが突進力は侮れない。博識な家庭教師の言が誇張でないとすれば、ダチョウの最高速度は四十ノットを超えるのだ。刃が当たらずとも致命傷は免れない。
「モモ、私が撹乱する。お前は脚を狙え」
 低い声で伝えた指示にモモは「了解!」と即答した。なかなか肝の据わった少女だ。この状況で怯えるどころか薄笑いさえ浮かべている。
「どこまで頑張れるかしらね!?」
 再度アンバーは加速した。あっという間に詰められた距離にややたじろぐ。
 だがすぐに魔獣の速度が鈍ったことに気がついた。おそらく彼女には大広間でも狭すぎて、長くスピードを維持できないのだろう。
(なるほど、それなら)
 お粗末な剣を払うくらいなんでもない。ルディアとて剣術は十年選手である。気合いをこめたレイピアはたちまち宝飾剣を押し返した。
「きゃあっ!」
「こっちにもいるよー!」
 アンバーが身を反らした隙を突き、斧を振り上げたモモが突進する。女の腕には相当重い武器のはずだが物ともせずに立ち回る姿はそこらの男よりずっと頼もしい。
「やだ! 危ないじゃない!」
 本気で慌てふためいてアンバーが後退した。だが冷静さを損なったわけではないようで、這い出そうとするアルフレッドたちに二枚目のカーテンを落とすのは忘れない。
 ルディアとモモは頷き合い、挟撃の形を取った。
 あちらは最初に主力の男を封じてやったと得意でいたかもしれないが、生憎防衛隊最強の名を冠するのは彼女、モモ・ハートフィールドである。居留区が暴れ熊の来襲を受けた際も、虎の狩場になったときも、勝負を決めたのは少女の繰り出した一撃だった。モモは当たるまでしつこいのだ。簡単に振り切れるものではない。
「やだやだ! ちょっともぉーっ!」
 前後から仕掛けられる間断ない攻撃にアンバーは少しずつ翻弄され始めた。モモの打って出た隙にルディアは死角へ回り込む。突き出した剣が掠り、茶色の羽毛が広間に散った。
「あっ!」
 今だと言いかけたそのときだ。援護しようとしたルディアの脇をダチョウに蹴られた双頭斧が飛んでいったのは。それは二階テラスで高みの見物を決め込んでいたロバータの頬ぎりぎりを掠めて壁に突き刺さった。

「〜〜ッ! アンバー! 早く曲者をひっ捕らえるのじゃ!」

 顔面を蒼白にして伯爵夫人が命じる。「は、はい!」と返事したアンバーは、しかし何故か仕留めやすくなったモモを狙わず、あまつさえろくに振るえぬ剣まで拾ってルディアに立ち向かってきた。
(なんだこの女? 自分から勝機を捨てて馬鹿なのか?)
 強靭なダチョウの肉体でぶつかれば優位に立てるとわかっているはずだ。つい今モモに痛打を放ったところなのだから。それとも別に意図でもあるのだろうか。
 罠を疑いルディアは注意深く距離を取る。と、そこへ武器を失くしたくらいでは逃亡など考えもしない戦闘少女が飛び出した。
「ぶっ!」
「キャア! いやー!」
「捕まえた! 振り落とそうとしたって無駄だよ!」
 モモはルディアを踏み台にダチョウ女の腰に取りつく。背に馬乗りになられては暴れるしか術がなく、アンバーはしきりにモモを揺さぶった。だがその抵抗も続く台詞で立ち消える。
「モモ怒ってるんだから! 猛獣を街に出したら駆除されるってわかってたんじゃないの!? 飼われてたなんて知らないから、モモ酷いことしちゃったでしょ!? 生きていける場所があるなら絶対殺さなかったのに! 飼い主なら責任持って管理してよ!」
「っ……! あ、あなた動物好きね!?」
 アンバーの双眸が一気に色めき立つ。虚を突く問いに一瞬思考が停止した。
 ――動物好き? それがどうしたというのだ?
「屋敷の地下に囚われてる獣が山ほどいるのよ。ああ、声かけて正解だったわ。解放に手を貸してくれるならロバータ様を裏切ってもいい。どう? 私の話に乗ってくれない?」
 これを聞いて引っ繰り返ったのはロバータだ。馬面を歪め、老婆は金切り声を上げた。
「う、裏切る!? 何を血迷ったことをほざいておるんじゃ! お前みたいな怪物がここ以外でやっていけるはずないじゃろ! さ、さっさとその者たちを……」
「この館に私とあいつしかいないのは本当よ。動物実験をしてるから、普通の下女を雇えないの。それだけじゃない。あいつは移送してきた死刑囚を使って」
「ギャー! 馬鹿者、それ以上喋るな!」
 何がなんだかわからないが、二人とも嘘を言っているとは思えない口ぶりだ。隙だらけのアンバーに剣を突き出すべきか否か迷ってしまう。
 旗色が悪いのを察し、逃げ出そうとした老夫人にアンバーは腰の少女をぶん投げた。人間砲弾は器用に空中大回転を決め、勢い減じず目標を踏み潰す。

「どうか信じて……! 私も元は普通の人間で、実験でこんな姿にされたのよ。それにマルゴーに嫁ぐまではアクアレイアに住んでいたの」

 ここでまさかの同郷か。レイピアを握ったままのルディアに魔獣はおいおいと縋りつく。元国民と言われると王族として放置は気まずい。
「モモは信じていいよ! どうせ地下に行けば本当かどうかすぐわかるもん」
 ロバータを締め上げたモモのひと言にルディアは頷き、剣をしまった。少女の言うことも一理ある。事実を正しく把握しなければ、敵か味方か判別するのは不可能だ。




 ――結論から言えばアンバーの言葉は真実であった。巧妙に隠された地下室には鉄の檻が並び、鎖で繋がれた哀れな獣たちが劣悪な環境で縮こまっていた。
 捕らわれたロバータは開き直って「どうするつもりじゃね?」と鼻息を荒くする。
「寄せ集めの平民集団では一時保護とてままならんじゃろ。国外の貴族に手を出して無事で済むとも思えんのう」
 不安を煽る台詞にアルフレッドたちが顔を歪めた。負け犬の遠吠えなどどこ吹く風でルディアは不敵に笑い返す。「これがただの猛獣騒ぎならな」と。
「本国のチャド王子に連絡しよう。伯爵夫人の今後に関してはマルゴー上層部に任せたほうが賢明だ。おそらく内密に処理されるだろうが」
「ええーっ折角捕まえたのに!? んなことしたら揉み消されるかもしんねーじゃん!」
「揉み消すにしろ相応の扱いは受けるさ。ま、魔女の塔に死ぬまで幽閉というところだな」
 ぷうと頬を膨らませたレイモンドに言い聞かせる。「まあ国際問題になったら困りますもんねえ」とは冷静なバジルの言だ。
「どうやって本国に知らせるんだ?」
 アルフレッドの問いには「海軍に頼めばいい」と返した。
「ちょうどハイランバオスの周辺警護で王国の快速船が停泊している。あれの指揮官はお前の伯父だろう。『偶然にも外交上大問題となりかねない危機に遭遇したので助力願いたい』と乞え」
「お、伯父さんにか!?」
 ルディアは「そうだ」と及び腰のアルフレッドに言い切った。
 床屋の息子ブルーノ、食堂の息子レイモンド、ガラス工の息子バジル、薬屋の兄妹アルフレッドとモモというのが防衛隊のラインナップだが、このハートフィールド家だけは他三名と一線を画している。彼らの母親はとある名家の娘なのだ。結婚により貴族ではなくなったが、実家と疎遠になったわけではない。これは使えるコネだった。
「わ、わかった。き、き、緊急事態だからな……」
 海軍中将ブラッドリーはアルフレッドが騎士を志すきっかけになった憧れの存在だそうである。緊張で早くも呼吸を乱す兄に「乙女じゃないんだから」と妹は呆れて肩をすくめた。
 順調に段取りを決める防衛隊とは対照的にロバータはガタガタと震え出す。悪足掻きに老婆が最後に発した言葉はようやく安堵の息をつきかけたアンバーを凍りつかせた。
「お、お前たち、本気でそんな悪魔と取引するつもりかね? 地獄に落ちても知らないよ!」
 この醜悪な猛獣使いがどんな風に彼女を掌握してきたか知れる呪詛だ。自分より強い者の上に立ちたくば、その強者に「自分は間違った存在だ」「この人に従わないと酷い目に遭う」と信じ込ませればいい。
 実際そう支配されてきたのだろう。アンバーは震え、何も言い返せなかった。――だが。

「大丈夫、地獄よりモモのほうが強いから」

 瞳孔全開で告げる少女に男たちはうんうんと頷く。これにはロバータも口をつぐむほかなかった。
「モ、モモちゃん!」
 アンバーは大喜びで新しい主人に飛びつく。王子に急報が届くまで、夫人の別荘には彼女とモモが残ることになった。




 ******




 王国海軍ナンバーツーと言われるだけあり、ブラッドリー・ウォードは話の早いよくできる男だった。甥っ子との密会を終えた一時間後には、もう中将は王都に使いの船を出してくれていたらしい。おかげで三日はかかるはずだった返事がたった一日でもたらされた。防衛隊の仮宿舎にチャド本人がやって来るというおまけつきで。

「話は聞いたぞ。オールドリッチ伯爵夫人がアクアレイア人居留区に手飼いの猛獣をけしかけていたというのは本当か? しかも死刑囚を使い、キメラまで生み出していたと」

 証拠があっても信じがたい話だが、ロバータは以前からオカルトめいた噂の絶えぬ女だったらしく、チャドは頭ごなしに否定しようとはしなかった。悪態をつかれなかったのは、単に防衛隊が彼の新妻の直属部隊だからかもしれないが。
「はい。夫人は俺たちで別荘に捕縛しています。彼女に従わされていた魔獣の話だと、これまで何度も凄惨な実験があったとか。人間の被検体で生き残ったのはこのアンバーだけになります」
 アルフレッドの説明に細い糸目をますます細めて王子は唸る。自国の貴族が起こしたスキャンダルに温厚な貴公子は心痛めた様子だった。
 彼もさぞかし驚いたことだろう。ルディアたちにとっても魔獣の事情は衝撃的だった。
 アンバーは数ヶ月前まで山奥の辺鄙な村に住んでいたという。夫に先立たれ、財産を使い果たし、子供と一緒に途方に暮れたそうだ。金を作るために産鉄地だった村の技術を売ろうとしたのがばれたらしい。放られた牢獄で国外出身の彼女は死刑を宣告された。その数日後、身柄を引き取りに来たのがロバータの夫だったという。
 理由は不明だが、伯爵はアクアレイア出身の死刑囚ばかり集めて回っていたそうだ。「実験に協力すれば死刑は免じてやろう」と唆され、頷くや否や水槽に沈められたと彼女は話した。溺れて意識を失った後、気がつけば上半身は若い女、下半身は巨大な鳥という姿になっていたのだと。
「夫人は一切口を割ろうとしません。どうか我々に代わって尋問していただけませんか。その後はご指示に従います」
「ああ、いいとも」
 アルフレッドの要望にチャドは快く頷いた。彼に会うのは婚約を取り決めた会談以来だが、きっぱりとした性格は健在らしい。異国での新生活にやつれた様子もなく、寧ろ力に溢れているくらいだ。栗色の長い髪はつやつやと輝き、やや小柄だが均整の取れた肉体は自信に満ちている。
(……この腕が私を抱いたのか……)
 知らず知らずのうちにルディアの目つきは険しくなった。
 結婚に不満がなかったと言えば嘘になる。だが自分で選んだ道だからこそ、自分の力で難事の全てを克服したかった。ブルーノ・ブルータスはそんな決意にも水を差したのだ。
 やはりどうあってもあの男だけは許せない。奴の身体にも同じだけの苦痛と屈辱を与えてやらなければ。
(クックック……私もこの身体で処女を散らしてくれようか。アルフレッドとレイモンド、相手はどちらのほうがいいかな? ブルーノ・ブルータス、覚悟しておけ! 必ず貴様に絶望を味わわせてやるぞ!)
 固く拳を握りしめ、暗い情熱にたぎる心を抑えつける。ワッと騒がしい声が響いてきたのはそのときだった。
「ん? なんだ?」
 ルディアは窓から浜通りに目を向ける。
 外は夕暮れ。広場の市は片付いている時間だし、そもそも今日は市の日ではない。だというのにニンフィの街はアクアレイア人居留区にまで声が届くほど騒然となっていた。またあの不埒な聖預言者がご高説でも広めているのだろうか。

「た、大変ですうう! ロバータ・オールドリッチの死体が広場にー!」

 ノックもなしに男部屋の扉が開け放たれる。青ざめたバジルの手には望遠鏡。突拍子もない報告にルディアたちは目を点にした。
 これがのちにニンフィの伝説として残る、伯爵夫人殺害事件だった。




 担架に乗せられた亡骸が広場の小さな聖堂に運ばれていくさまを、防衛隊の面々は呆然と眺めていた。
 第一発見者のマルゴー兵によれば、遺体は夫人の別荘ではなく無残に山中に捨てられていたそうである。例のごとくハイランバオスにたかった漁民は防衛隊を不審げに見つめ、ひそひそと囁き合っていた。他の住民や兵士の眼差しも今日は一段と厳しい。状況証拠すらないのに、アクアレイア人への反感だけで疑われているらしい。
 早々に広場を退散するとルディアたちはモモとアンバーの元へ急いだ。伯爵夫人は彼女らに見張らせていたのだ。最悪の事態も考えられた。

「ごめん。モモってば油断してたみたい……」

 いつになくしょんぼりした少女は魔獣と一緒に屋敷へと通じる洞窟に隠れていた。アンバー曰く、敷地内の巡回から戻ってきたらモモが気を失っていて、ロバータはいなくなっていたらしい。
「お屋敷を探そうかとも思ったんだけど、なんだか嫌な予感がして。私たちが館を離れた直後だったわ、マルゴー兵がわらわらやって来たのは。もう少しで殺人犯にされるところだったのね」
「あーん! チャド王子になんてお詫びすればいいの!?」
 ロバータ・オールドリッチを利用して宮廷に近づくルディアの計画は完全に頓挫したようだ。否、それどころか袋小路に追い込まれかけている。伯爵夫人を連れ去った何者かが敢えてモモを生かした理由は明らかだった。
「現場で連行されなかったのは偉いが真犯人が見つからなければ同じことだぞ。アクアレイア人はニンフィの連中にすこぶる評判が悪いんだ。我々があの女の館を訪ねるところを見たとか言い出す馬鹿が現れて、裁判にでもかけられたらおしまいだ」
「え、ええっ!?」
「お、俺もマルゴーの司法機関は田舎へ行くほどザルだと聞いた覚えが……」
「モモ、襲撃者の顔は見てないんですか!?」
「う、後ろから襲われたからー!」
 詰んでいる。今夜こそロバータに一連の悪事の理由を吐かせるつもりだったのに、こんな事態になるなんて。
 いかに王女直属部隊でもマルゴーで揉め事を起こしたとなれば政府も庇ってくれはしまい。寧ろ問題を最小限に留めるべく「どうぞボコボコにしてやってください」と防衛隊を差し出すはずだ。外交とはそういうものだ。
「真犯人が出てくればいいの?」
 尋ねたのはアンバーだった。落ち込むモモをよしよしと慰めてやりながら、強い瞳で彼女はルディアを見つめてくる。
「それだけでは駄目だ。防衛隊には一片たりとも疑惑がかけられてはいけない」
「そう。あなたたちとロバータは無関係だと思わせられればいいわけね」
「何か策があるのか?」
 魔獣は長いポニーテールを払い、勇ましく微笑んだ。「捨てておいて」と下女の服を放り、ぎゅっとモモの手を握る。
「せっかく仲良くなれそうだったんだけどなあ」
 その後の行動は早かった。アンバーはすっくと立ち上がり、ルディアたちの把握している出入り口とは別の穴から飛び出していった。間もなく遠くで怒号と悲鳴が巻き起こり、慌てて外へ走り出す。
 ニンフィの街は更なる恐怖のどん底に突き落とされていた。夕闇の逢魔が時、血のごとき赤い空の下、前触れもなく聖堂に降り立った怪鳥を見上げて。

「悪魔に生贄を捧げた女、ロバータ・オールドリッチ! 約束通り、貴様の魂を貰い受けに来たぞ!」

 轟き渡る大仰な台詞にアンバーがひと芝居打ってくれているのはすぐ知れた。誰がロバータを殺したのか短時間で解明するのは不可能だから、せめて我々が濡れ衣を着せられないようにと。
 確かに彼女の見てくれを防衛隊と直結させて考える者はいないだろう。隊員の中に魔獣を庇う誰かでもいない限り。
「うわああ! 化け物だ!」
「何をやってる! 戦え! 伯爵夫人の遺体を奪われただろうが!」
 骸を掴んで聖堂を脱したアンバーはそのまま海へと走り去った。兵士たちを撒きやすい山のほうへ逃げればいいのに、わざと捕まるつもりでいるのだ。
「追え! 追えー!」
「絶対に殺せ! 街にどんな災いをもたらすかわからんぞ!」
 血相変えたマルゴー兵と止める間もなく駆け出したモモを追う。
 もし斧兵がアンバーを救おうとしたら全力で阻止しなければならなかった。でなければ防衛隊の安全が確保されないし、アンバーも無駄死になってしまう。それこそ最悪の事態だった。

「――……」

 だが結局、ルディアの心配は杞憂に終わった。
 潮風に入り混じる血の臭い、安堵の笑みをこぼす兵の姿に足を止める。
 何本もの槍で貫かれたアンバーはぴくりとも動かなくなっていた。血まみれの桟橋を遠巻きに眺め、後味の悪さに胸を悪くする。
「わかってるよ」
 モモが斧を振り上げられないように後ろから肩を掴んだら硬い声が返された。ともすれば感情のまま叫びそうになるのを必死で堪えている声が。
「わかってるよぉ……」




 ******




 不運や不幸は連鎖する。防衛隊が仮宿舎に戻ると難しい顔のチャドが待っていた。落胆されて当然だ。ロバータからもアンバーからも何も聞けなくなってしまったのだから。
「結局全ては闇の中、か。存命なのはオールドリッチ卿のみだな。私の名前で彼を呼び出してみるかい?」
「いえ、証人も証拠もない以上、はぐらかされるだけかと思います。マルゴー公国との間で事を荒立てたいわけではありませんので、今回は」
 王子の親切な申し出をルディアは丁重に辞退する。
 あれからそれとなくマルゴー兵に聞き込みをしてみたが、伯爵夫人の別荘で動物実験の痕跡は見つからなかったようだった。アンバーの希望が叶い、檻の獣が引き取られたのみである。
「しかしあんな魔獣が実在するとはな。夫人の目的はなんだったのだろう?」
「断定はできません。ですがマルゴーとアクアレイアが睨み合う事態にならず、不幸中の幸いでした。今は非常に微妙な時期です。諍いになれば親マルゴー派の姫や陛下が責められる結果となりかねませんので」
 そうなれば夫のお前も一蓮托生だぞという言外の警告は伝わったらしかった。チャドはごくりと息を飲み、唇を引き結ぶ。
「うむ。その通りだ。両国の橋渡し役として私もできる限りの……」
「た、たたた大変ですううううう!」
 王子の声を遮って、またも弓兵の速報が廊下にこだまする。扉を開き、「今度はなんだ!」と怒鳴りつけると半泣きのバジルは想定外も想定外の返答を口にした。
「あ、あ、アンバーさんの頭が盗まれたって……!」
「は?」
 急報を耳にしたモモが階上の女部屋から飛び出してくる。丸い頬には新しい涙の痕がついていた。先に休ませていたのだが、まだ眠れていなかったらしい。玄関で番に立っていたレイモンドも「一大事じゃねーか!」と声を荒らげた。
「ちょっと待て、遺体はマルゴー軍の管理下にあるはずだろう?」
「それが怪物は精霊に見張っててもらおうってことで、聖堂に預けてたみたいで。当直の兵士はいたらしいんですけど」
「盗まれたのはいつだ?」
「ついさっき。今マルゴー兵も全員出てます。それであの、実は僕、フードを被った怪しい人物が山に入っていくところを」
 モモは最後まで聞かなかった。バジルの首根っこを掴み、全速力で夜更けの裏山に疾走する。
「どこ!? バジル、そいつどっち行ったの!?」
「モモ、苦しッ、あっち、あっちです!」
 道端に投げ捨てられた弓兵を追い抜き、ルディアは暴走少女を追った。二度目の悲憤は彼女も抑え切れなかったらしく、完全に我を忘れている。
 付近にマルゴー兵の姿はなかった。盗人は船で逃げるに違いないと彼らは港に集中しているようだ。どこまでもアクアレイア人を疑う気持ちの強い証拠である。いくら商売繁盛がモットーの国でも女の生首を売りに出すほどアコギではないぞと言いたい。
「おい、あれじゃないか!?」
 追いついてきたアルフレッドが山腹を指差した。夜闇に紛れて判別しがたいが、確かに誰かの逃げ惑う影がある。
「……っ!」
 ルディアが視認したまさにその瞬間、青い影にモモの飛び蹴りが炸裂した。
 もし無関係の一般人だったらどうする気だ。ルディアたちは真っ青になって足を速めた。

「大人しくして! その革袋の中身を見せて!」

 剥き出しの岩があちこちに転がる細い道、それでも一応森と言えそうな一角でモモは容疑者と格闘していた。相手のほうはヒイヒイと混乱気味に掴んだ砂を撒いている。
「こら、モモ! 手荒な真似をするんじゃない!」
 アルフレッドが妹を引き剥がす間も防衛隊は色あせたケープの人物に警戒を怠らなかった。逃がさぬように前方にレイモンド、後方にバジルが回り込む。
 白か黒か。ルディアはなるべく愛想良く不審者に手を差し伸べた。
「怖がらせて申し訳ない。実はさっき盗難事件が起きたもので。お手数ですが、荷物を点検させてもらえますか?」
「ごご、ごめんなさい、ごめんなさい! わわわ、私急いでるので……!」
 モモよりは穏便にやろうという意識は一瞬で消え失せた。調子外れの甲高い声を耳にして。
 ――こいつ、あのときの誘拐犯だ。
 確信がルディアの心を煮えたぎらせた。
「おい」
 這いつくばっていた賊の胸倉を掴み上げる。有無を言わさずフードを剥ぎ、どこの誰なのか確かめた。
「ヒッ!」
 素顔を隠そうとする賊の腕を払う。だが落ち窪んだ三白眼にも青白くこけた頬にも見覚えはない。少なくとも王宮に出入りしている人間ではなかった。
「貴様、名を名乗れ」
 凄むルディアに誘拐犯は縮み上がる。けれどルディアが何か問いかけることができたのはそこまでだった。
「うわああっ!」
「ぐおッ!?」
 バジルとレイモンドの叫び声にハッと後ろを振り返る。すると無精髭を生やした長身のロマが豪快に二人を投げ飛ばしたところだった。斧を構えたモモも剣を抜いたアルフレッドも次々と急斜面に突き落とされる。
 思わず硬直してしまった。不意打ちとはいえ決して弱くはない四人があまりに呆気なく倒されて。
(な、なんだこいつ?)
 ルディアはまじまじ眼前のロマを凝視する。褐色肌に癖の強い黒髪は彼らに多い特徴だが、前髪で顔の右半分を隠した男はただの浮浪者には見えなかった。佇まいや身のこなしからして相当――。
「……ッ!」
 飛んできた拳と蹴りをかわすには憎き誘拐犯を手離さなければならなかった。レイピアを抜く僅かな隙に闖入者はフードの賊を助け起こす。
 ルディアが剣で切り裂くより、仲間を抱えた男の飛び退くほうが早かった。お姫様抱っこのハンデなど物ともせず、ロマはジャンプで崖を下り降りていく。彼らが無数の洞穴の一つに消えたのは十数秒後のことだった。
「ま、待て! 貴様には聞かねばならんことがある!」
 叫んでも後の祭りである。どこがどこに繋がっているか地元民も把握できていない洞窟の捜索など日の沈んだ夜中では不可能だった。――つまり己は元の肉体に戻る千載一遇の好機を逃したのだ。
「くっ……、くそがぁ……ッ!」
 悔しさのあまりルディアは地団太を踏んだ。
 それから数時間粘ってみたものの、結局何の成果もなく防衛隊は仮宿舎へと帰らなければならなかった。




 残念すぎる結果を報告するとチャドは「そうか」と嘆息した。ずっと王子に付き添ってくれていたアルフレッドそっくりの寡黙な中将も渋い顔だ。
「……これ以上我々がここにいても仕方あるまい。お前たちも気落ちしているだろうが、殿下は王都へ送り返させてもらうぞ。いずれにせよハイランバオス殿を宮殿に迎えるため、明朝出航の予定だったからな」
「はい……。ご面倒をおかけしてすみませんでした。伯父さ……ブラッドリー中将」
 畏まって詫びる甥の頭をひと撫でし、ブラッドリーが男部屋のドアを開ける。チャドを見送るべくルディアたちも通路に並んで敬礼した。責めを受けるかと思ったが、王子の態度は穏健なままである。
「新たに何か判明したらブラッドリーを通じて知らせてくれ。アクアレイア人としてはマルゴーの王子など簡単には信用できないかもしれないが、これでもルディア姫には本気なのだ。彼女の立場を悪くする不安材料は可能な限り排除しておきたい」
 これはルディアには意外な言葉だった。正式に婚約を決めた昨年三月の時点では、彼は「マルゴーの国益のため」以外の理由で結婚に踏み切ったようには見えなかったから。
「愛しておられるのですか」
 不躾を承知で尋ねる。アルフレッドは視線でルディアを咎めたが、問われたチャドは嬉しげだった。
「そうだ。夫婦になって以来、どんどん彼女に惹かれている。今ではもう片時も離れて過ごせぬほどだよ。お前たちを待っている間もブラッドリーにのろけっぱなしでなあ。いやあ、美しい王女だとは思っていたが、あんなに庇護欲をそそられる女性は初めてだ。いついかなるときも彼女は私が守っていくぞ!」
 夫婦になってからということは、ブルーノと入れ替わってからということである。熱っぽく語る王子をルディアは冷めた眼差しで見つめた。既にして「あ、はい、もう結構です」という気分でいっぱいだったのに、チャドはにこやかにとどめを刺してくる。
「帰ると決まれば迅速に支度せねばな。つわりのきつい時期だから、夫の私が側についていてやらないと」
 聞き間違いだと思いたかった。今日は色々ありすぎて、耳がきちんと機能を果たしていないのだと。
「――は?」
 無意識に掴みかかりかけたルディアをアルフレッドが肘で突き飛ばす。すぐさまバジルがドアを閉めてルディアを男部屋に隔離した。廊下からは「お気をつけて! 本ッ当にお気をつけて!」とレイモンドの大声が響く。
 つわりのきつい時期……。つわり――、つわりの――……。

「こんッな処女受胎があるかああああ!」

 王子が敷地を出るまでは絶叫を堪えた自分を誉めてやりたい。もしかしたら我が身は清らかなままかもしれないという希望は今、儚く潰えてしまった。
 ブルーノ・ブルータス――貴様だけは殺すだけでは飽き足りん。再び精神があるべきところへ戻ったとき、死にたくなるほど無様な身体に、このルディア自ら改造しておいてやるからな!




 ******




 その夜遅く、用を足そうと起き上がったレイモンドは身の毛もよだつ奇妙な場面に遭遇した。隣の寝台で何やらぶつぶつ恨み言を吐きながら、一心不乱にブルーノが己の胸をまさぐっているのである。
 幼馴染の特異な趣味をレイモンドは全力で見なかったことにした。
 あいつは失恋こじらせてるから。
 あんなのは今だけだから。
 必死に念じ、背後の邪悪な気配から意識を逸らし続けた。
 のちにレイモンドは「あんなに朝が待ち遠しかった夜はない」と語る。









(20150215)