初めて兄さんと呼ばれたのはいつだったか。
あれは確かアラインの屋敷に厄介になり出して数日のこと。早速教会で仕事を見つけてきたクラウディアに「お願いがあるんですけど」と切り出されたのを覚えている。
こちらが身構えたのを目ざとく察して弟は白薔薇のごとき笑みを浮かべる。髪や瞳の色はともかく所作はまったく似ていない。性格は更にだった。
「髪を切ってほしいんです」
新しい職場で働くのにシスターの格好をしたままでは誤解を招くだろうから、と彼は言う。自身の風貌に関して少なからず混乱を招く自覚は持っていたようだ。
「あなたは最初からわたしが男だとわかってくださいましたけど、他の方ではそうはいかないでしょう」
「どうして私に頼む。アラインでもエーデルでも構わんだろう」
憮然とした面持ちで返事するとクラウディアは残念そうに首を振った。
「アラインさんはお忙しいですし、エーデルは……彼女に頼むと前衛的なヘアスタイルになりそうで……」
遠回しに不器用だと言っている。己の恋人だろうと言いかけてやめた。あの女のそういった一面は庇い切れるものではない。
「私とて他人の髪をどうこうしたことはないぞ」
諦めの溜息をひとつ落としてディアマントは銀の鋏を受け取った。弟は既にどこか満足げだ。
「風もありませんし、庭でお願いします。掃除が楽ですから」
古そうな布を肩回りに掛けて金属製の重い椅子にクラウディアがちょこんと座っている。完全にこちらに背を向けた無防備な状態で。おまけに己の手には鋭い刃。
一瞬でどうとでもできるな。
不意に浮かんだ考えはかぶりを振って散らした。敵対心と対抗意識は別物だ。混同してはならない。
だがこちらが惨敗を喫しているとは言え、いやだからこそ、よくこんなことを頼めるなと不思議な気がした。
わかっていないわけではなかろうに。自分が弟と同じ女を特別に思っていることは。
チョキチョキと小気味よい音が響く。ぎこちない手つきとは正反対だ。
信用しますよということかな、と結論付けると華奢な肩についた金糸を指で払った。
「ありがとうございます」
「これくらいでいちいち礼を言わんでいい」
「いえ、あなたには他のお礼もまだ言えていませんでしたし……」
ゆっくり話したかったんですと今更のよう弟が告げる。
お前にしてやったことなど何もないぞ。そう返そうとしたら続く言葉で遮られた。
「結局兄さんひとりを戦わせてしまったじゃないですか」
誰ととは聞くまでもなかった。クラウディアも、ウェヌスも、自分も、皆同じ父の血を引いている。そして己だけが戦場で返り血をも浴びたのだ。
気にしていたのかと意外だった。はっきり兄と呼ばれたことも。
装う必要のない平静を装い鋏を動かし続ける。クラウディアは酷く言い難そうにすみませんでした、と謝罪した。
「礼も詫びもいらんと言うのに。大体お前は戦えるような状況ではなかっただろう」
他ならぬ父に操られ、利用され――それは自分も同じかもしれないが。
「とにかくもう、それ以上言うな」
それからしばらく互いに黙り込んだまま、髪を切るという行為だけが進む。
元々そこまで長いわけではなかったので終わりはとうに見えていた。が、何故かなかなかゴールに辿り着かない。
「……」
「どうしましたか? ちょっとぐらいガタガタでも構いませんよ?」
長さが揃うよう目を近づけたり遠ざけたりして出来栄えを確認する。右半分と左半分で明らかに仕上がりが違う。これではウェヌスやエーデルのことをとやかく言えない。
「あの……兄さん?」
いつしか唸り声をあげながらの散髪になっていた。
クラウディアは苦笑いして手鏡を見つめている。
「……よし、こんなものだろう」
やっと譲歩できる段階までくる頃には高かった日が随分西に傾いていた。
「助かりました。これだけバッサリ切っていただいたら女性に間違われることもなくなりますよ」
絹糸のようだったクラウディアの細い髪は大半が地面に落ちて麦穂のように光っている。
彼の言う通りもう弱々しい少女には見えなかった。男らしさが感じられるかと言えばそれもなかったが。
「それじゃ早速エーデルに見せてきますね」
にっこり微笑まれてもあまり腹は立たなかった。薄暗い羨望や悔しさも湧いてこない。
多分これが相手を認めるということなのだろう。他人の領分を認め、己の願望を認め、静かに同時に存在する。
それはおそらく、あの偏屈な父の長い長い、願いという名の患いでもあった。
父も、故郷も、もうひとりの父も失くした今、できる孝行は数少ない。せめて生きている自分が彼らにできなかったことを成したいと、そうしていつか父たちを越えたいと、本心から思う。
ひとりではない。時間も飽くほどにある。
いつか土産話を携えて会いに行く日を想像すると知らず固い頬が緩んでいた。
(20130505)