本編時間軸です。








 エピローグ






 扉をノックし寝室へ入ると少し痩せた従者が慌てて半身を起き上がらせた。わざわざ見舞いにきてもらうほどのことでもないのに。そう詫びる戦士は昔と変わらず律儀で真面目だ。いついかなる状況でもまずこちらを気遣い案じてくれる。

「やっと引き継ぎが終わったから気が緩んじまっただけですよ、アライン様」

 それでもマハトがベッドを降りることはなかった。彼と契約した賢者も魔法石から出てくる気はないようだ。
「すみませんね。ホントはもう三十年はお側に控えてたかったんですが」
「……」
 そんなのいいよ、少しでも長生きしてくれと言いかけて言葉が喉に閊える。口に出したら悲劇になりそうで怖かった。折角ここまで持ち堪えてきたのに。
「んな顔しないでくださいって。俺だってすげぇ心残りなんすよ? アライン様が大変なときに、最初に戦線離脱することになりそうで――」
 けほ、と小さく咳き込んだのを誤魔化すようにマハトは笑う。彼は四十五歳になった。アラインが破滅の魔法を取り込んでから十年の歳月が流れていた。魔法使いの新生児はなく、世界を流れる魔力にも異常を来したまま。
「ノーティッツとかディアマントから連絡ないんすか?」
「うん、今のところ新しい情報は……」
 なんとか平静を装ってアラインは首を振る。ベッドサイドの丸椅子に腰を降ろすと温かい手にぐしゃぐしゃ頭を撫でられた。子供の頃、彼がよくそうしてくれたように。
 おそらくもう長くないと予測したのはヒルンヒルトだ。じわじわ衰弱していくのか突然ぷつりと糸が切れるのかはわからないが、してやれる処置もないと。
 戦士が腹を決めるのは早かった。いつそのときが訪れても困らぬように準備を始め、宮廷からも退いた。それがつい先日の話。
「きっとどうにかなりますよ。仲間を信じてください」
 次々置いて行かれるお前ほど哀れじゃない。ディアマントの言葉を思い出して拳を握る。マハトはもうすっかり残していく側の顔をしていた。叫びたくなるほど遠い目で、叫びたくなるほど遠い死を見つめている。そんな彼に自分は何も言えない。幼子のように震えているしか。
「俺ね、ムスケルの記憶があるんで死ぬの二度目なんです。しかも今回はアンザーツもゲシュタルトもヒルンヒルトも一緒でしょ。あんまり怖くないって言うか、嫌じゃないんすよね。アライン様さえ笑っててくれるなら」
 気に病むな、くよくよするなという言外のメッセージにアラインはまた眉根を寄せた。できるならとっくにそうしているよと言いたかった。
 悲しいのだから仕方ないだろう。悔しいのだから仕方ないだろう。虚勢など張れるものか。隠し事は無しだと約束もしたのだから。
「すんません、君主孝行できなくて」
 謝罪にはぶんぶんと首を振る。十分尽くしてもらったと絞り出した労いにマハトは頬を緩めた。
 どうしようもできないのがつらい。彼を死の淵から取り戻す術のないことが。
「あの、ところでアライン様って魔法石の中に入れたりします?」
 実はこいつがずっと閉じ籠っちゃっててと戦士は苦笑し胸元の翡翠を指差した。賢者のプライベート空間として利用してくれと、戦争終結後にアラインが辺境から取り寄せた品だった。
「俺じゃない奴が話聞いてやった方がいいのかなと思うんすよ。お願いしても構いませんかね?」






 石の中は精神世界と構造が似ているらしい。ヒルンヒルトは盾の塔の麓にあった彼の隠れ家と同じ部屋でぼうっと窓の外を眺めていた。
「アラインか」
 振り向いた魔術師の顔色はいつもと変わらないように映る。とは言え彼とてこの状況に参っていないわけがなかろう。でなければ引き籠る理由もない。
「マハトのために余計な魔力使わないようにしてるの?」
 そう問えば賢者はこくりと頷いた。血の契約が寿命を縮めたのは明らかだと言わんばかりに。
 長い魔法使いたちの歴史においても契約自体がそう頻繁に行われるものではない。まして霊体と余剰魔力を持たない人間が血を媒体に繋がった例などひとつもなかった。
 だから予想ができなかったのだ。光魔法でも回復できない疲弊をマハトが訴えてくるまで。
 具現化に必要な微量の魔力を放つことすらヒルンヒルトは抑えている。既に死んでいる自身のために生者が命を削られるのは耐え難い辛苦であろう。その胸の痛みはアラインにもよくわかった。自分が生きているせいで生まれてこれなかった命がある。多分似たような話なのだ。
「ヒルンヒルトのせいじゃないと思うよ」
「……君もマハトと同じことを言う。どう考えても私のせいだろう。私の需要が普通の人間の供給で賄えるはずなかったのだ」
 確かに彼の魔力容量は大きい。よしんばマハトに魔道の心得があったとしても今と展開は変わらなかったかもしれない。だがアラインが言いたいのはそんなことではなかった。
「僕のせいだよ。あなたの魔法は僕や国のために使ってもらったんだから」
 きっぱり言い切るアラインに賢者は一瞬目を瞠り、それから視線を窓に戻した。ふぅと吐かれた嘆息が硝子を薄く曇らせる。「馬鹿者」と罵られたので大真面目に「血筋かな」と返した。ヒルンヒルトは少し笑ったようだった。
「君に助力したのは彼の意志であり私の意志だ。結果はこうなってしまったが、成そうとしたのは悪いことではなかったろう。君まで自分を責める必要はない」
「でも」
「でもと言われても君のせいにする気はないよ。我々は勇者を信じた。そのことに悔いはないのだから、胸を張っていてくれ」
「……」
 意気消沈してアラインは黙り込む。今も破滅の核は己の内側に息づいていて、見えない口で世界を飲み込もうとしている。なのにどう胸を張れというのか。
 解決策など見いだせないまま十年過ぎた。マハトは死に瀕している。何もできない自分をそれでも信じたまま。
「君が勇者でいてくれるだけで救われるものもある」
 話し相手になってほしいと頼まれたのに、ヒルンヒルトはすっかり話を終えてしまった。振り返らない背中は何も語ろうとしない。
 心の中に秘めた決意が揺らがぬように自制しているようにも見えた。――彼が何を思っていたのか、本当はこのとき尋ねておくべきだったのだろう。






 出生数の激減した翌年のことだった。ベルクやトローン、ウングリュクたちに集まってもらって「何か悪いことが起きているんじゃないか」と話し合ったのは。
 皆で手分けして原因を探った。国外の調査に出てくれたのはノーティッツ、国内の調査に出てくれたのはディアマント、亡きハルムロースが途中にしていた霊魂の研究を引き継いでくれたのがヒルンヒルトだった。
 何年かすると色々な事実が判明した。ヒーナにも三日月大陸のものと酷似した古代遺跡があること、ある島に精霊王の伝承を語り継ぐ部族がいること、魂の組成にも魔力の結晶が必要であること、破滅の危機はまだ終わっていないこと。すべてを総合して出てきた結論は「かつて精霊王だったアラインに世界中の魔力が集まろうとしていて、そのために新しい霊魂が誕生しにくくなっている」というものだった。
 信じ難い話である。時空を超える力や気功師の言葉がなければまさかそんなと一笑に付していたかもしれない。
 ウェヌスの提案で身籠った女性にはなるべく教会にいてもらうようになった。毎日一定量の光魔法をかけ続けると流産や死産が減り、人口の減少は持ち直した。しかし新たに魔法使いが生まれてくることはなく、今いる魔導師や僧侶がいなくなった後どうなってしまうかは明らかだった。

「悲観的にならないでよ。ぼくたちに希望を見せてくれたのは君じゃないか」

 諦めちゃ駄目だと鏡の向こうでヴィーダが言う。クライスと手を取り合って。
 楽園のこと、精霊王のこと、覚えている限り彼らには話してもらった。闇魔法で頭も覗いた。でも駄目だった。人類とアラインに出された最大の難問を解決するヒントは得られなかった。

「弱気にならないで。多くの人々を救ったあなただもの、きっと力を添えてくれる誰かがいるわ」

 必ず道は見つかるはずだとクライスが言う。ひとりではどうにもならないことでも信じられる人がいればと。






 皆がいるから自分はまだ自分を保っていられる。まだ「勇者」でいられる。
 未来の僕もこんな恐怖を味わったのだろうか。






 ******






 四十六歳にはなれなかったか。感想はそれだけだった。
 すまなさそうなヒルンヒルトにデコピンして、文字通りお迎えにやってきた天界のふたりとも合流して、まるで昔に戻ったみたいに四人で魔王城を目指す。
 自分の身体ひとつで空を飛ぶのはなかなか爽快だった。沼から出てきたドラゴンが暢気に欠伸を噛み殺しているのが見える。ヴォルフたちは遠吠えがどこまで続くか競い合っていた。
 魔界に吹く強い風でバラバラにならないように、誰からともなく手を繋ぐ。ふと背後を振り向いたマハトに三人は仲良く口を揃えた。アラインなら大丈夫、と。
「イヴォンヌがついてるんだもの。平気よ平気」
「ベルクたちもいるしねー」
「そうだ。それにこの私の子孫だぞ」
「それを言うなら私の子孫よ!」
 ぎゃあぎゃあ言い争いを始めるゲシュタルトとヒルンヒルトにマハトはがっくり肩を落とす。現世の終幕までこの調子か。アンザーツは「ぼく今度はヒーナに生まれ変わるんだ」と楽しそうだった。
 冥界への入り口は蓋されてはいなかった。中心にオリハルコンの玉座が据えられているものの、封印が意味を成していない。死者には門が開かれているということなのだろう。
「いっせーのーでで行くよ?」
 深淵のごとき暗闇を見つめ息を飲む。横一列に並んだ仲間は握り合う手にぎゅっと力をこめた。
 ここまで長い旅だったような、短い旅だったような。
 けれどわだかまりのすべてを捨てて辿り着けたことを幸せに思う。
 ありがとう、と声が聞こえた。すぐ横でヒルンヒルトが微笑んでいた。整った唇が音にならない言葉を刻む。


「いっせーのーで!」


 光はたちまち遠ざかった。墜落していく。凄まじい速さで。
 暗すぎて何も見えなかった。掌に仲間の存在を感じなければひとりになったと錯覚したかもしれなかった。


「あれ? ヒルトは?」


 仄暗い穴の底に浮かび上がったとき、アンザーツの発した第一声がそれだった。何を寝ぼけたことを言っているんだとマハトは首を傾げる。あの馬鹿の腕なら俺が掴んでいるだろうと。
 そうしてその細腕を引き寄せようとして、それがただの魔法石の首飾りになっていることに気がついて、ようやく賢者の真意に思い至ったのだった。


 ――「悪かったな」ではなくて「悪いな」と言ったのだ。最後の最後にあの男は。













 訃報を受け取った後は一切何もする気になれず寝台に突っ伏したままでいた。
 マハトの死が不幸なものでなかったのはわかっているつもりである。だが己の無力を嘆かずにもいられなかった。
 考えなければならないことはたくさんあるのに頭が回らない。「こんなつもりではなかった」を払拭することができない。
 こうして少しずつ殻を剥がされていくのだろうか。
 勇者からかけ離れていくのだろうか。
 この先何百年と生きていかねばならないのに?


「起きてくれないか、アライン」


 聞き慣れた声に呼びかけられてアラインはがばりと身を跳ねさせた。きょろきょろと見回すが天蓋付きのベッドの周囲には誰の気配もない。のそのそ這い出し寝室に立つとほとんど透明化した賢者とぶつかりかけた。
「ひ、ヒルンヒルト!? 何してるんだ!? マハトたちと一緒に行ったんじゃ……!!!!」
 唖然とするアラインに彼は更なる驚愕をもたらす。右手をこちらに差し出して、いつもの彼の声音のままで。
「五芒星を私に返してほしいんだ」
 何を言われているのか最初よくわからなかった。だってそんなことできないだろう。マハトとの契約があるのに。そう反論しかけて既に血の契約が有効性を失っているのに気がつく。そうだ、契約主が死んだから彼はもう自由なのだ。
「ずっと考えていた。破滅の魔法は君と結びついたからこそ力を維持しているのではないかなと。精霊王とは無関係の私がそれを引き継ぎ直せば少しは穏やかな性質に変わると思う」
「ちょ、ちょっと待って。いきなりそんなこと言われてもわからないよ。確かに僕からヒルンヒルトに魔力を渡すことはできるのかもしれないけど……でもそれってヒルンヒルトは大丈夫なの? 霊体のままずっと地上を彷徨うとか、そういうことにならない?」
 にこりと笑う彼を見てアラインは反射的に後退する。これは駄目だ。これは安易に了承してはいけないパターンだ。勇者の直感がそう告げた。
「ノーティッツやディアマントともこっそり検討を重ねたんだよ。おそらくこれが君を人間に戻せる唯一の方法だろう。さあ早く力を手離せ。本当にひとりで永遠を生きるつもりか?」
「でも、それじゃヒルンヒルトが」
 唐突に差し込んだ光を振り払うように目を瞑る。助かるぞと言われても誰かを船から突き落とすぐらいなら乗りたくない。それは勇者の行いじゃない。
「どうして躊躇う? 元は私が持っていた力だ。私の魔力を私に返せと言っているだけだよ」
「ヒルンヒルト!!」
 頼むからそんな風に僕を守ろうとしないでくれと呟くと、賢者はゆっくり首を振った。
「いいや、これが私の役目なんだ。君が勇者として生きることを望むように、私は勇者のために力を尽くすことを望む。君は我々にかけがえのない時間を戻してくれた。君を救えるのが私しかいないなら、私が動かず誰が動くんだ? ――それにもう時間がない」
 最初から選択肢を与えるつもりはなかったようだ。ヒルンヒルトの霊体はアラインの核に吸い込まれ始めていて、不用意に近づきすぎたことを悟る。
「まさかこのまま私を永久消滅させる気か?」
 悩んでいる暇はなかった。賢者の示す通りにするしか。
 だけどこんなこと、彼が本気で望んでいるわけがない。仲間と離れ離れになることを。
 泣き崩れるアラインにヒルンヒルトは――白黒の星を宿した大賢者は「つらいことをさせたな」と詫びた。

「いいんだ。君が勇者としてやってきたことの対価として受け取ってくれれば。マハトたちは私が付いて行かなかったのを怒るかもしれないが、私の嘘つきは今に始まったことじゃないしね。生まれ変わる頃にはきっと許してくれるだろう」






 ******






 ガタンゴトン、ガタンゴトン。裏手の線路で貨物列車が過ぎ去る音をBGMにヒルンヒルトは長い身の上話を終えた。決して広くはないワンルームのベッドの上で、硬直したまま正座する男と向かい合いながら。

「……ということがあったんだ」

 冗談などひとつも混ぜずに真剣に言って聞かせたのに、男の頭では理解が追いつかなかったらしい。何度転生しても似たり寄ったりの容貌に生まれつく元戦士はこちらを指差し引き攣った声で問うた。
「あ、あ、あ、あ、あ、悪霊ってこと?」
「何故そうなる! 折角前世の迷惑料として魔法で願いを叶えてやろうと思ったのに、未だに悪霊扱いか!!」
「うわ〜〜!! 見えない見えない聞こえない聞こえない〜〜!!!!」
 頭から布団をかぶって現実逃避を始める男にチッと舌打ちする。どうやら接触の仕方を間違えたようだ。懐かしい気配がしたから壁を通り抜けて親しげに声をかけただけなのに、ここまで怯えなくてもいいではないか。
「願い事とかいいから出てってくれよぉぉ!!!! 引っ越す金ねーんだよぉぉ!!!!」
「金? 金品が欲しいのか? 君も随分俗っぽくなったな。それは魔法でどうにかするより自分で稼いだ方がいいと思うぞ」
「わああああああ!!!! 聞こえない聞こえない聞こえない!!!!!!」
 聞きたいのか聞きたくないのかどちらなのだ。空中で足を組み直しつつヒルンヒルトは盛大な溜め息を吐いた。
 駅、コンビニ、銀行、病院、窓の外にはすっかり魔法離れした勇者の都の景色がある。人が増えたので魔法使いが減ったのだ。
 時代は変わったが人間の中身に大差はない。喜怒哀楽が激しくて見ていて飽きないし、たまにこんな風にちょっかいをかけることもある。
(――君が長生きするよりは気楽に自由に楽しんできたと思うよ、アライン)
 まだぶるぶると震えているベッドの小山に指を伸ばして口角を上げる。
 勇者の歩いた道の先に何があるのか、それを見るのもまた一興だ。
 とりあえずはこの毛布を捲るところから、今日は始めてみたいと思うけれど。








(20130603)