これもブログに載せていたヒルンヒルトのお話。





【Alternativ】



「アンザーツを封印した。これは彼の決断であり、彼の希望だ。もうここに帰ってくることはない。……君にはムスケルと幸せに暮らしてほしいと言っていた」

 そう告げた瞬間のゲシュタルトの表情は忘れられない。
 病的なまでにやつれ、目の下には濃い隈を作り、荒れた唇からは嘲笑と呪詛しか吐き出さなかった。
 狂ったように笑い続け――実際狂っていたのだろう、何を言っても彼女の耳には届かなかった。美しい揺り籠の中で生まれたばかりの彼女の娘が泣き叫んでいても。
「ゲシュタルト……それは何だ?」
 ヒルンヒルトは絹に包まれた女児を指差し尋ねた。
 初めは「勇者」にしてやられたのだと思っていた。
 自分もアンザーツも預かり知らぬところで彼がゲシュタルトと契り、子を成したのだと。
 だから最初、正統な勇者の血筋を絶えさせるため何も知らない赤子を殺すか、子を孕む機能を奪わねばならぬのでないかと危惧した。だが事実はそれよりもっと残酷だった。
 愛する男との間に生まれた娘なら、ゲシュタルトは大切に慈しんだだろう。けれど彼女にそんな素振りは一切ない。まるで赤子が見えていないかのように、存在していないかのように振る舞う。
「答えてくれ。あの子はアンザーツの子供なのか?」
 痺れを切らしたヒルンヒルトが勇者の名を出し問い質すと、怒り狂った聖女が魔力の塊をぶつけてきた。
 王城の中だ。正気の沙汰とは思えない。防御と安全のために彼女から放出された魔力を順に相殺する。こちらを傷つけられないことにまた怒り、ゲシュタルトは泣きじゃくって顔を歪めた。それなのに口元だけ笑っていた。
 ぐちゃぐちゃだ。感情が縺れ合って。あちこちで暴発して。

「出て行って」

 表情とは裏腹に、ゲシュタルトの要求はシンプルだった。

「もう顔も見たくない……」

 どうしてアンザーツを封印しなければならなかったのか、何故彼がそれを選択したのか、彼女にはもうどうでもいいようだった。
 アンザーツは己の意志で帰還しない。
 彼女にとってそれより重い真実はなかったのだ。
「……落ち着いて話ができるようになったらまた来る」
 あのとき無理にでも話して聞かせていれば、また違う未来があったのかもしれない。
 けれど糸の切れたマリオネットのよう寝台に倒れ、ひとことも発さず壁だけを見つめるゲシュタルトをこの目にして、どうしても確認しなければならないことができてしまった。
 だから彼女の軟禁された部屋を離れた。
 それが最初の手違い。



 シャインバール21世はヒルンヒルトの来訪を知るとすぐに王の間に呼び出してきた。
 魔物を前にしたときでさえこんな殺気は放ったことがない。
 頭も垂れず国王を睨む賢者の姿に勘づかれたのを悟ったのか、シャインバールは最低限の護衛を残し人払いした。
「……公にできない話になる自覚はあるようだな」
 足音も立てずヒルンヒルトは玉座へ進む。風をまとえば一瞬だ。
 怯えた王は仰け反ったが、背凭れに阻まれ間合いを開くことはかなわなかった。
「ゲシュタルトを汚したのか?」
 川の水さえ凍りつかせる声で問う。
 正直に話せと右手には雷光を集め、王の眼前にちらつかせた。
 汚れ仕事を任されているらしい兵のひとりがヒルンヒルトに槍を向けたが、ひと睨みで根元から砕いた。
 シャインバールは震えながら「仕方なかったんじゃ!!!」と叫んだ。
「……何が仕方なかったと言うんだ? お前はアンザーツが守ろうとしていたものを踏みにじった。彼の代わりに私がお前を八つ裂きにしてやる」
「ひっ! ひーっ!!」
 魔法を発動させるのに躊躇いなどなかった。寸でのところでかわされたため雷撃は玉座を打つ。拳大の穴が開き、そこから煙が吹き出した。
「次は当てる」
 胸倉を掴んでシャインバールの身体を引き寄せる。王はみっともなく暴れた。
「こんなことをしてただで済むと思っているのか!?」
 状況をまったく理解しない言葉を吐くので玉座の縁に思い切り後頭部をぶつけてやった。怒りはまったく晴れなかった。
「あが…っ!!」
「ただで済まないのは貴様の方だろう。どうやって私を止める気だ?」
 バチバチと火花を散らすヒルンヒルトに恐れをなして護衛たちは遠巻きに眺めるしかできないでいた。
 王は「何をしている! 早く助けんか!!」と命じたが、魔王を倒した勇者一行の大賢者に刃を向けられる人間はいなかった。
「……あ、あ、許してくれ! 許してくれ! この国にはどうしても勇者が必要なんじゃ!! アンザーツが子孫を残さぬなどと言うから私は……!!!」
「まがいものの血筋など残してどうする? そんなものは百年限りの目くらましにしかならない」
「私の代で勇者が途絶えるなどあってはならんかったんじゃ!! 勇者の家系は国の守り神、民も王家も勇者に頼って生きてきたのに裏切ったのはアンザーツの方ではないか!!! 勇者がいなければ他の二国にも示しがつかぬ!!!!」
 鈍い音とともにシャインバールが赤絨毯の上に転がる。広間の真ん中で、陥没した顔の痛みに呻きながら。
 一撃で殺してやるつもりだった。だができなかった。。
 とどめを刺す直前の一瞬、悪魔のような閃きが降りてきたからだ。

 ――この国にはどうしても勇者が必要。

 ――勇者の血筋がまがいものでも、百年は確実に続く。

「……」
「ひっ……! たす、たすけ」
 にじり寄るヒルンヒルトに王は命乞いをする。国民の熱狂を見ただろう、勇者の血は残さなければならないのだと。
 右手に白い魔法球を出現させるとシャインバールは床に額をこすりつけて詫びた。
 所詮自分の代だけ誤魔化しが効けばいいと思っている男だ。アンザーツのよう恒久の平和を望んでの行為ではない。
「ひいいいっ!!!!」
 王に向かって魔法球を撃つ。護衛兵たちは目を瞑り息を飲んだ。断末魔が響くと思っていたのだろう。
 だが起き上がったシャインバールは無傷だった。先程受けた傷も完全に塞がっており、最初から何事もなかったかのようだ。
「……こ、これは」
 狼狽する王の脇を通り過ぎながらヒルンヒルトは冷たく告げた。
「乗ってやる。お前のそのくだらない保身に」
 ガラスの割れる音が響いたのは直後だった。
 アンザーツの身に起きていた事態をひとつとして知ることなく、ゲシュタルトは城から去った。
 黒髪黒眼の娘をひとり置き去りにして。



 シャインバールから明かされたのはヒルンヒルトですら胸の悪くなる話だった。
 消息を絶ったアンザーツを探しに自分とムスケルが城を出た後、飲み物に薬を混ぜてゲシュタルトを眠らせ、意識のないうちに犯そうとしたと。
 だが悲しいかな、魔王城への旅が彼女の肉体に毒物への耐性を備わらせていた。
 行為の真っ只中で目覚めたゲシュタルトは必死に助けを呼んだという。
 聖女を襲ったのはアンザーツの母方の叔父だった。勇者の分家でも何でもなく、顔立ちくらいは似た子が生まれるかもしれないと思っての人選だったようだ。
 そういう家系に金さえ積めばなんでも請け負う屑がいたのも不運のひとつだったのだろう。せめてと思いその叔父とやらを探したが、見つかった男は既に死体だった。
 凶器による損傷はなし。男を死に至らしめたのは本来は回復を主とする光魔法だった。



 この先どうして行こうか悩むうちに一足遅くムスケルが帰ってきた。
 ヒルンヒルトはシャインバールが怯えて何も言わないのを良いことに、ゲシュタルトの娘――アルテの側で過ごすことが多かった。
 事情など知りもしない女官たちはヒルンヒルトを英雄扱いして丁重に接してくれる。
 ムスケルが城へ来たときも、王より先に報せが届いたくらいだった。
「ヒルンヒルト! 良かった、俺ひとりかと思ったぜ」
「久しぶりだな。もう耳に入っていると思うが、ゲシュタルトもいなくなってしまった」
「……聞いたよ。わけわかんねえ。なんであいつまでいなくなるんだ? もしかしてアンザーツが迎えに来たとか?」
「それはないだろうな。最後に彼女と話したのは私だ」
「……そう、なのか」
 揺り籠の中でアルテがぐずり始める。話をするのに邪魔になるかと女官を呼び出し他の部屋へ連れ出してもらった。
「目も髪も真っ黒だな。父親似だったか」
 感心したよう話すムスケルの顔は見れなかった。
 アンザーツのことも、ゲシュタルトのことも、伝えにくいことばかりだ。
(……落ち着いたらもう一度話そうと言ったのにな)
 己の言葉ではゲシュタルトに届かなかったらしい。
 ムスケルには届いてくれるだろうか。また拒まれはしないだろうか。
「んで、ゲシュタルトと何の話をしたんだ? アンザーツは見つかったのか?」
「……」
 端的に事実だけを。
 そう思っていたはずなのに、ヒルンヒルトの口からは何も出てきてくれなかった。
 ――アンザーツは帰らないんだ。私が彼を封じたんだ。
 ゲシュタルトに告げたのと同じことをムスケルに言ったらどうなるだろう?
 もう顔も見たくない。そう言って彼女は消えた。ムスケルも同じではないだろうか。我々はばらばらになってしまうのではないだろうか。
 アンザーツはそんなこと決して望んでいなかったのに。
「……アンザーツは見つからなかった。ゲシュタルトにはもう諦めるように諭した」
「は?」
 咄嗟についてしまった嘘は多分最悪の部類だった。
 伝えようと思っていた勇者の真実を、結局自分は欠片も伝えられなかったのだ。
 ゲシュタルトに起こった悲劇もムスケルには教えたくなかった。
 アンザーツならきっと同じことをしたはずだ。
 何も知らないままでいれば、彼だけは「めでたしめでたし」の中に居られる。幸せの目隠しの中に。
「諦めるようにって、じゃあ、ゲシュタルトは自分でアンザーツを探しに行ったってことじゃないのかよ? あいつ、すげえ弱ってたんだぞ。なんですぐ探しに行かなかったんだ!?」
「……」
 理由ならいくつか思い浮かんだが、そのどれも彼には言えなかった。
 もう顔も見たくないと言われたこと。
 ゲシュタルトが己を犯した男を殺して都を出たこと。
 何も答えないヒルンヒルトにムスケルは「おい!」と声を荒げる。
「私はもう彼らを探さない」
 なんでだよ、と戦士は叫んだ。その台詞は「仲間だろ!?」と問いかけるようにも聞こえた。
「誰かが彼らの子を見守らねばなるまい」
 見つからない人間を探して無駄な時間を費やしている場合ではないのだ。
 未来に向け、もう一度アンザーツに会うため、私は私の残りの人生を使い果たす。
 どんな言葉ならそれを優しく伝えられただろう?
 我々ははじめからばらばらだった。アンザーツという引力に惹かれて集まっていただけなのだから、彼がいない今、通じ合えなくなってしまったのも道理だった。
 否、少し違う。アンザーツとムスケルとゲシュタルト、彼らは確かに仲間だった。アンザーツと私も。けれど私とムスケルとゲシュタルトは、まったく異質で理解も尊重もできない存在だったのだ。

「お前が大事なのは所詮アンザーツひとりだけだもんな?」

 否定してほしそうにムスケルが問う。
 笑うしかなかった。どこを訂正すればいいかもわからなくて。

「そうかもしれない」

 拳を避ける気は更々なかった。きっと殴られたかったのだろう。
 私の仲間はもうムスケルでもゲシュタルトでもアンザーツでもない。
 この手に取ったのは彼らの手ではなく、下卑たこの国の王の手と、何千何万という民衆の手なのだ。そうしてそれすらいつか裏切る。



 ムスケルは捜索の旅を続けるようだった。時折城に「アンザーツたちは帰ってきたか?」と尋ねる手紙が届いたが、宛名にヒルンヒルトと書かれたものは以後一通も届かなかった。
 ヒルンヒルトは数年城に居座り続けた。アルテはまだ幼く、女官の世話が必要だった。
 ある程度の言葉を話せるようになると、ヒルンヒルトはシャインバールに一方的な交渉をした。
 血筋に関する秘密は誰にも話さない。アルテも都から出さない。その代わり自分が彼女を養育し、時が来れば妻に貰うと。
 王は了承せざるを得なかった。それでも彼には破格の好条件だったはずだ。
 アルテの子供かその子供が、百年後には勇者として祀り上げられるのはわかっている。なら少しでも強い血を入れておきたいところだろう。
 ヒルンヒルトはアルテを連れてアンザーツの生家に移り住んだ。平民街の中心にある、それなりに大きな屋敷だった。
 小さな子供との暮らしは時間を加速させる。アルテは聡明で養父の手を煩わすようなことはほとんどしなかったが、勇者家系の末裔として覚えさせねばならないことは山積みだった。
 魔法、剣、魔物の知識、旅の知識。街の子供たちが通う学校では習わないことばかりなので、つきっきりでヒルンヒルトが教え込む。アンザーツのよう「勇者であること」を組み込まれた子でないからか、限度を越えるとよく泣いた。慰め方など知らなかった。頬に手を伸ばし撫でてやるぐらいしか。
 一年過ぎた頃だろうか。出向いた城で女官がムスケルの帰郷を知らせてくれた。ようやく彼もアンザーツ探しをやめたらしい。王の勧めで貴族の女と見合いしたそうだった。
 その夜は滅多に見ない夢を見た。
 ムスケルがやって来て、剣とか斧なら俺が教えてやるよとアルテに微笑みかけるのだ。そしてこちらを振り返る。「お前ひとりじゃ大変だろ?」と。
 目が覚めてから妙な気分に陥った。アンザーツだけが己の友だと思っていたのに、本心では違うのかもしれない。
 夢は形を変え、繰り返し見るようになった。
 ムスケルが出てくることもあれば、ゲシュタルトが出てくることもある。旅が終わってからの方が彼らを思う時間は長かった。
 けれどもう取り戻せはしまい。一番側にあったとき、彼らの手を掴まなかったのは自分なのだ。
 もう何年かすると、少女になったアルテは友達が欲しいと望むようになった。
 ヒルンヒルトは意図して彼女を王城へ連れて行った。
 街で自由な恋などしてもらっては困る。宮廷ならある程度まで管理できる。
 慎ましやかな貴族の娘らと親しくなると、アルテは満足したようだった。他人から勇者の血の尊さと大賢者の伝説を語られ悪い気はしなかったらしい。

「ヒルンヒルトさんのこと、みんなカッコイイって言ってたよ。みんなお父さんとお母さんの冒険譚を読んだんだって」

 無表情な養父に似ず、アルテはにこにこよく笑う娘に育った。
 アンザーツもいつ見ても笑っている男だったが、それとは違う笑顔だった。
「ねえ、どうしてヒルンヒルトさんは歳を取らないの? 大賢者だから長生きするの?」
「……歳なら取っている。外見が変わらないように特殊な魔法をかけているんだ。魔法を使いすぎているから、多分普通より早く死ぬだろうな」
「えっ!? なんで? ヒルンヒルトさんが死ぬの嫌だよ。ヒルンヒルトさんがいないと私ひとりになっちゃう」
「……死ぬと言ってもすぐじゃない。君が大人になるまでは怪我も病気もしないつもりだ」
「そうなんだ。でも、なるべく魔法使わないで長生きしてね。ヒルンヒルトさんがしわくちゃになっても、生きてる方が嬉しいよ。どうして見た目が変わらない魔法なんてかけてるの?」
 どうして?
 どうしてか。
 時の流れが怖いからだろう。変わらない、変わらないと思っていても気づけば変わっているものが。
 ――雪か氷だと思っていたんだよ。自分のことはずっと。
 でも今はすっかり溶けて、ひとすじの流れをつくる水になっている。
 早くその先へ辿り着きたい。

「忘れたくないことがあるから」

 記憶の中のアンザーツは曖昧な笑みで立ち尽くしている。
 動けないのに笑っている。
 消えかけているのに笑っている。
 自分の姿を押し留めるのは約束を薄れさせないためだ。
 年老いて思い出が遠くなって「もう昔のことだから」なんて欠片でも思わないためだ。
 アンザーツ。
 アンザーツ。
 君だけを孤独になどさせはしまい。



「今後ろに何を隠した?」
「……ごめんなさい……」
 アルテは十五歳になった。自我が発達し、自立心が芽生え、つまり親の秘密などを探ろうとする年齢になった。
 大人になりかけている少女が差し出したのは色褪せた紺のリボンだった。ゲシュタルトが失踪した日、彼女の寝台に残されていた。
「でもこれ、お母さんのだって聞いて……」
「見たいなら私に言えばいい。二度と勝手に抽斗を開くな」
「……すみません……」
 アルテは瞳に涙を溜めていた。リボンは返したのに動こうとしないので「まだ何か用か?」と尋ねる。
 意を決したよう少女は「お母さんのこと好きだったの?」と聞いてきた。なんとも悲壮な顔をして。
「まさか、有り得ない」
 即答過ぎたためかアルテは面食らっていた。
 だがすぐ我に返り、「じゃあどうして今まで誰とも結婚しないの?」と質問を取り替える。
 己で計画したことが潤滑に進んでいるだけなのに、何故か無性に腹立たしかった。
 途絶えない血筋を、できるなら勇者に近い家系の中に残したい。それが目的のはずだった。
 なのにアルテの熱っぽい目にうんざりしている。
 そんなに簡単にこんな人間に騙されないでくれ。
 透明の柵で囲って、砂糖菓子で甘やかして、愛したのではなく手懐けさせただけではないか。
 お前は気づいていないだけだよ。
 お前も犠牲にされるんだよ。
 悪かったなんて自分はきっと死んでも言わない。言えやしない。
「結婚はする。今すぐにでも構わない」
「誰と? そんな人いたの?」
 肩で切り揃えたアルテの髪が風もないのにゆらりと揺れた。
 間近で見ると目元はゲシュタルトにそっくりだ。アンザーツと似たところはない。
 触れても温度は感じなかった。感じてはいけなかった。
 一年後、アルテは双子の男女を産んだ。
 それから数週間経って、ヒルンヒルトは片方の女児だけ連れて都を去った。
 胸の底に生まれつつあった感情が形を持ってしまう前に。



 ******



 何人か産ませなければならないかもと思っていたから、ひとりめで魔力の波長が近い子供が生まれたのは幸運だった。
 誰にも邪魔をされないように盾の塔の麓に家を建て引き篭った。
 もう十年生きられないかもしれない。アンザーツのためと使った魔法の中には寿命を縮めるような代物もあった。
 娘には暗示魔法をかけ続けた。魔力の高い男と結んで子を成すように。その子かその次の子を才能ある魔導師にするように。
 悪魔的であったと思う。モラルや罪悪感は捨てなければならなかった。
 それでも時折ゲシュタルトのリボンを眺めたり、ムスケルの手紙を読み返したり、アンザーツに関する思い出を書き綴ったりすることはやめられなかった。
 娘が十歳の誕生日を迎えた日、ヒルンヒルトの肉体は死んだ。霊体を切り離す術には既に成功していた。今度はしばらく娘に憑依し研究を続けた。
 憑依には何段階かあって、相手の身体を完全に自分のものにするにはもっと強い、呪いに近い魔法を使う必要があるとわかった。
 実の娘はアルテ以上に従順だった。命じられることに何の疑問も持たず、まるで昔の自分を見ているようだった。
 辺境の国を渡り歩いて魔力の高い男を探し、誘惑させる。
 身籠った娘は勇者の国へ帰って生まれた家の門を叩いた。
 アルテは娘を迎え入れた。
 ヒルンヒルトにそっくりだったからだろう。
 生まれた子供はハルムロースと名づけられた。ヒルンヒルトの器として申し分ない魔力の持ち主だった。
 娘はしばらく我が子と屋敷で暮らしたが、ハルムロースが家を出てしばらくすると、また塔の麓へ帰って行ったようだった。
 彼女のその後については知らない。ヒルンヒルトはハルムロースの傍らでじっと息を潜めながら、ただ時が来るのを待った。約束を果たすことしか頭にはなかった。
 何かを手に入れるということは、他の何かを捨てるということだ。
 妻に対しても、子供に対しても、「愛する」なんて知ってはいけない感情だった。



 ハルムロースはその過食気味な好奇心により魔族となった。
 人間だったときよりも魔力は強化され、できることが増えたおかげで興味の対象も広まった。
 この男の最悪なところはヒルンヒルト以上に罪の意識がないことだ。
 自分勝手で、貪欲で、歩いた後には屍の山ができていた。
 やがて彼は懐かしい場所にやって来た。魔王の城は昔と変わらず薄暗く寒々しかった。
 地下書庫の蔵書の数にハルムロースは目を輝かせる。
 侵入者に気づいて最初にやって来たのはイデアールと名乗る青年だった。彼はファルシュによく似ていた。
 これが息子か。そう感心したのも束の間、今度はもっと想像だにしなかった人物が現れた。
 肌や目の色こそ違っているものの、薄い緑のつややかな髪は忘れもしない。
 雷に打たれたような気分だった。
 もう一度彼女に会うなんて思ってもみなかった。
 これは悲劇への一歩なのか、それとも奇跡への一歩なのか。
 勘の鋭いゲシュタルトに気づかれないよう気配を殺す。
 ハルムロースは地下書庫を己のねぐらにすると決めたようだった。
 時よ巡れ。早く、もっと早く。
 舞台は整った。
 あとは物語の主人公を――勇者の降臨を待つのみだ。