時空を超える旅は三度目だ。
 一度目は破滅の魔法のルーツを知り、二度目は精霊王のルーツを知った。そして今度は――。






 未来編 遥かへの旅 後編






 瞳を開けば間近に赤黒い光があった。光の傍らで金髪の青年が倒れていた。それがヴィーダ・オブヴォール・アペティートであることにはすぐ気がつく。破滅の魔法は彼に惹かれ、どんどん鼓動を速めていたから。
 だがそんなことよりもだ。己としたことが時間転移に少し失敗してしまったようである。高濃度の魔力が突然触れたせいで、オリハルコンの結晶には深いひびが入っていた。どうせこの後ふたつに分かれてしまうのは知っているのだが、亀裂が三股に及んでいるのが気にかかった。こちらの歴史に変に影響せねばいいのだが。
 そう思っていたら聖石が破滅の魔法と共に都へと浮かび上がり、陰鬱な空で三つに弾けた。
 驚きのあまりアラインは慌てて小さな流星を追いかける。しまった。本当にしくじった。過去に干渉するつもりではなかったのに。
(誰かに見つかるとややこしいし、ここの魔力を吸収するのも不本意だ。空間をねじって位相をずらしながら行こう)
 懐かしい魔力が遠視の術を用いているのをじわりと感じた。いかに元大賢者と言えど、この日のオリハルコン紛失を予期していたわけではないだろう。天界の隠居組はこっそり挙式の様子を覗いてくれていたらしい。何百年も知らなかった。
(どこへ行くんだろう、あのオリハルコン)
 三つのうちひとつは短剣となりヴィーダの懐に潜り込んだ。もうひとつはドリト島で降下してクライスの手に渡った。最後のひとつは二夜を過ぎてもまだ空を駆け続ける。
(……オリハルコンは持ち主を選ぶって言うけど……)
 まるで意志を持つかのごとき不思議な物体。精霊王ですらその正体を知らなかった聖石。尾を引く白い輝きはアラインを導くようにも感じられた。
 やがて石は高貴な少年の元へ降り立つ。「レギ様!」と家臣が彼を呼んだ声で、オリハルコンがヒーナの新皇帝を所有者と定めたことを知った。
 これは本格的にこちらの歴史を乱してしまったかもしれない。今のうちに彼から聖杖を取り上げてしまおうか悩んだが、結局そうするには至らなかった。オリハルコンがアラインを拒絶したからだ。
(え……!?)
 伸ばしかけた手を引っ込めて足元の光景を見守る。宮殿は前皇帝が身罷ったばかりでざわついており、当のレギさえ気づいていなかったけれど、白い杖は確かにこちらを退けるような波動を放ってきた。手を出すな、黙って見ていろと言わんばかりに。
 どういう状況に陥っているのか理解は追いつかなかったものの、ひとまずアラインは当初の目的通り三日月大陸へ戻って皆の様子を見守ることにした。
 ひとりではなかった頃のこと。楽園よりも遠くなったように思えるかけがえのない時代。それを思い出したからと言ってどうなるかはまだわからない。ベルクの言ってくれたことでなければ聞く耳さえ持たなかっただろう。自分はもう考えるのも億劫で、魔物として生き続けるというノーティッツの言葉がなければとっくに世界を終わらせていたに違いないのだ。
 ベルクに見抜かれていた通り、全体に戻って楽になろうとする意識の底に、今も個人の存在を願う心はあった。でもそれはあまりに儚くいつ消えてもおかしくないものだった。四百年アライン・フィンスターとして過ごした生には喜びよりも悲しみの方がずっと大きかったのだから。
 ノーティッツがベルクに神鳥の剣を譲ったと聞いたとき、これで終われるとホッとした。もう終わってもいいのだと。なのにベルクは違うと言う。アラインは孤独などではないと言う。精霊王などという特異な生き物は自分以外誰もいないのに。
 それでも彼に言い切られると何故か否定できなかった。決断するのは事実を確かめてからでも遅くはなかろう。そう思ってここへ来たのだ。アラインが勇者でいられた最後の時代へ。






 兵士の城まで一気に飛ぶと助力を求め天界に赴いていたマハトたちが戻ってくるところだった。アペティート兵に捕縛されたノーティッツ以外は全員顔を揃えており、懐かしさと罪悪感で胸が痛む。守れなかった仲間たちがまだそこで息をしていた。
 駆け寄って行って輪に加わることは不可能ではないのかもしれない。けれどそんなことで自分のいた未来が変わるわけでもない。己は関わらざるべき異邦人で、今更やり直しはできないのだ。自分に言い聞かせ彼らと距離を置いた。
 誰にもアラインは見えていなかった。異質な魔力の存在にさえ気づいていなかった。
 ベルクとツヴァングがラウダの背を借りアペティートの軍港を目指して飛び立っていく。ふたりはノーティッツを助けに行くのだ。エーデルとクラウディア、ディアマントもドリト島へ向け出発した。勇者の国を占領したアペティート軍の動向を見張るため、バールも東の空へ羽ばたく。城に残るのは妊娠中のウェヌスのみだった。あとのメンバーは辺境側の準備が整い次第ビブリオテークへ発つらしい。
 不安げに赤い瞳を揺らす青年をアラインはじっと見つめる。記憶の中の彼女より髪は短く、張り詰めた表情をしていた。薬指のリングを何度も撫でて心を落ち着かせようとしている。
(ごめんね。こんな思いをさせるために結婚したんじゃなかったのに)
 イヴォンヌはゲシュタルトと契約し、一時的に魔法の力を得たらしい。その代償として女性であることを失っている。
 つらかったろう。シャインバール二十一世の血を引く彼女がゲシュタルトに頼みごとをするのは。
(姫……)
 ひと夜すら夫婦ではいられなかった。アラインの中で彼女はまだ初々しい乙女である。
 ゲシュタルトが撥ね退けてくれていれば良かったのに。そうしたらイヴォンヌが戦場へ出ることはなかった。そんな風に考えてしまう。
(違う。最善を尽くそうとしてくれたんだ、皆は)
 悪いのは自分だ。
 勝手にいなくなってしまったから。
 打つ手を間違えてしまったから。






 アラインはイヴォンヌたちの船にこっそり同乗した。離れていても魔法を使えばベルクやエーデルの様子はわかる。神具の加護を受ける彼らより援軍としてビブリオテークに派遣されていくイヴォンヌとマハトの方が心配だった。精神体であるアンザーツはともかくイヴォンヌは戦闘経験皆無だし、マハトに憑いたヒルンヒルトにもろくな魔力が残っていない。それにビブリオテークの首都は、あのヒーナの標的にされるのだ。レギの手に入れたオリハルコンがどう働くかわからない以上目は離せなかった。
(と言っても僕は後ろで覗いてるだけなんだけど……)
 甲板で波を見つめるイヴォンヌに声をかけることはできなかった。
 いいんだよ、帰っても。安全な場所で待つだけでも。誰かに守られているだけでも。
 たとえ姿を現して彼女にそう告げたとて、イヴォンヌは頷かないだろう。「勇者の妻」になった彼女は。
 己の役割を果たそうとするとき、融通の利かない頑固さを持つところが好きだった。それはどこか自分と似ていた。一緒に生きていけると思った。他人同士でも。

「思い詰めなくても大丈夫だよ」

 緊張を和らげるようにアンザーツがイヴォンヌに微笑む。先代勇者はこの先の惨劇も知らずほのぼのとしていた。

「君がアラインを助けてあげればアラインは皆を助けてくれる。勇者ってそういうものだから」

 彼女を励ます言葉はぐさりと心臓に突き刺さった。
 何も救えなかった自分は、精霊王に戻るしかなくなった自分は、やはり勇者ではなかったのだ。
 助けたかったけれど目覚めたときにはすべて手遅れだった。でも間に合ったとしても破滅はいずれ彼らを飲み込んだだろう。
 初めから決まっていたのだ。アラインがひとりになることは。それは何より強い原初の星だったのだから。
 港に入った船はビブリオテークの大河を上り、イヴォンヌたちは十数日かけて砂塵舞う都に到着した。その頃ドリト島ではアペティート軍とビブリオテーク軍が大きな動きを見せていた。
 全大陸を巻き込む戦争が始まる。小さな島に悲痛な叫び声が轟く。
 ベルクとツヴァングはまだ空の上だった。ディアマントは深手を負って海に沈んだ。エーデルは島民を守るために飛び、クラウディアはエーデルを守るため戦った。基地の牢獄に囚われたノーティッツもまだ元気そうだった。緑の双眸には抗う意志が残っていた。
 希望はいつどこで断たれたのだろう。誰もが必死で何とかしようとしていたのに。
 やがてビブリオテークの角ばった街並みにも戦乱の波が訪れる。突然の闖入者たちは一糸乱れぬ動きで首都を攻め立てた。ヒーナの気功師軍だった。






「殺すために戦うんじゃない。助けるために戦うんだ」
 先代勇者の声に応えてマハトとイヴォンヌが頷く。軍を分けて街を襲うヒーナに対し、彼らも三方に別れた。西にはマハトとヒルンヒルト、東にはイヴォンヌとゲシュタルト、中央区にはアンザーツが走る。
 東地区を攻撃する気功師の数が少ないのとイヴォンヌが回復を中心に立ち回っているのを確かめると、アラインは西地区へ移動した。戦士は戦士でぶつくさ賢者に文句を言いながら獅子奮迅の活躍をしている。ビブリオテーク首長のアヒムがヒーナ軍を退けるべく自分たちの街に砲撃を始めたときも、場馴れしたふたりは冷静だった。深追いはせず互いを傷つけすぎないよう上手く加減し戦闘を続ける。
 気功師たちが皇帝レギの操り人形であるのは明らかだった。何百人という魔術師と同時に契約しているなんて少々信じ難い才能だが、世の中にはツエントルムのような例もある。大賢者の力などなくとも国ひとつ容易く滅ぼせる魔法使い。彼もそういう魔法の申し子なのだ。
 レギの率いる本隊は思わぬ反撃に一時撤退を決めたようだった。もとより彼の掲げる名目は侵略ではなく警告と制裁である。そう装えるうちに体勢を立て直すことにしたのだろう。
 意外だったのはアンザーツがレギの懐に潜り込んだことだった。優しい彼は哀れな気功師たちを放っておけなかったのかもしれない。オリハルコンの行方が気にかかりアラインも彼らに付いて行こうと決めた。レギが動かねばビブリオテークが危険に晒される可能性は低いと見ての判断だった。






 ――どうして自分が立ち尽くしているのだろう。彼の心に何を見たというのだろう。






 ヒーナに帰ったレギは臣下には暴君の一面を見せ、民には賢君の一面を見せた。実際彼は両極端だった。独裁的で懐疑的で脅かされるのを異様に嫌う。同時に圧倒的な力を望み、腐敗や不正を徹底して排除した。彼の行動は彼の内面をそっくり映し出していた。
 怖いのだ。蔑まれ、煙たがられ、自分ひとり阻害されるのが。そのくせ周囲の誰も信じることができず、交わりなどほとんど持たぬ民衆に対しては優れた君主であるかのごとく振る舞う。
 そうしていないと自分を保てないからだ。ひとりだから、誰も付いてきてくれないから、せめて王という偶像への賛歌を求めている。自分が歩き続けるために。
 誰かと同じだった。彼を恐れて「はい」としか言えない部下たちも、無責任に皇帝を祀り上げる群衆も。
(オリハルコン……どうして彼に味方するんだ?)
 輝く杖は無茶苦茶に力を用いて生命力まで削りつつあるレギを支えていた。契約だけならまだしも百も二百も戦場で兵を動かせば近いうち彼は自滅してくれるだろうに。事実アラインのいた世界ではレギ・レンの戦死が報告されている。イヴォンヌ、ゲシュタルト、マハト、ヒルンヒルトの四名が彼と相討ちになったと。
(本当に取り上げた方がいいかもしれない。あの杖は彼の手に渡るはずじゃなかった)
 手出ししようとするとまたオリハルコンの反発を感じた。
 聖なる石は一体何を示そうと言うのだろう。レギを見ていると苦しくて苦しくて叫び出したくなってしまう。どうしようもなく己を投影してしまう。
 彼は自ら道を狭めている。まだ変えられる現状を絶対に変えられないものだと思い込んで、心ある声に耳を塞ぎ、傍らの温もりにも気づかない。
 それすら同じだと言うのか? 馬鹿な、僕のは本当に引き返せない一本道だった。

(いや……同じでおかしくないんだ。だってこの世界の良いものも悪いものも、全部僕の中にあったものなんだから……)

 アンザーツがレギに心を開示する。友達になろうと誘う。
 けれどレギはその手を取ることができなかった。裏切られた記憶に負けて。






 垣間見るすべてが暗示的だった。
 手に入れたオリハルコンの短剣でクライスはヴィーダを殺そうとしている。彼女もまた己の半身に不信を拭えないでいるのだ。
 ヴィーダは身勝手だった。友達の顔をして仲良く付き合っていたエーデルさえ利用してビブリオテークに侵入しようとしていた。長の苦しみから解放されるなら世界なんてどうなってもいいと本気で考えているようだった。
 レギは再び軍を編成しビブリオテークの制圧に向かう。闇魔法まで使ってアンザーツの本音を知ったくせに、彼の胸は尽きることのない疑いで満ちていた。世界と自分への。
 愛したことがないわけではないだろう。愛されたことがないわけではないだろう。でも駄目なのだ。最初から低いところを歩いていたのと高みから突き落とされたのではわけが違う。もう一度頂上を目指してもまた同じように傷つくかもしれないと、忘れられない痛みが足を竦ませる。とりわけ自分を信じることができなくなったらおしまいだ。信条も勇気も失いひとり暗闇を彷徨うだけ。


 ――アライン様の仰るとおりに致しましょう。

 ――陛下の起こしてくださる奇跡が我々の生命線なのです。


 恐怖で支配された国は脆い。ヒーナの宮殿は勇者の都の縮図だった。
 乱暴な言葉では表さなかっただけだ。仲間が皆アラインの元を去っても誰かが自分を求めてくれるように。
 一本道にしたのは誰だ?
 「はい」しか聞かなくなったのは誰だ?
 そうやって周りを固めて逃げ道を仕立て上げたのは。
 逃げ出す準備を整えながら迷って座り込んだのは。


「悪いが上陸させてもらうぞ!」


 海上のビブリオテーク船を風魔法で突っ切って、レギはあっさり都の目前まで軍船を運んだ。わらわらと気功師たちが船を降りる。平原の向こうにはビブリオテークの軍人たちが身構えていた。その最前列にはイヴォンヌとマハトの顔もあった。
 レギは確かにアラインだった。気功の力を振り翳し、彼なりに世界を導き、立ちはだかる脅威を振り解こうとしている。もう何も考えたくない。平穏と引き換えに孤独になっても構わないと泣き叫びながら。
 クライスも、ヴィーダもやはりアラインだった。運命に疲れ切って、誓いと望みをすり替えて、これでいいんだと言い聞かせている。
 彼らは変われないだろう。でもそれを責めはしない。自分にできなかったことを、自分と同じ生き物に求めるのは残酷だ。






 人伝にしか聞いたことのなかった戦火がまた目の前に広がる。怒号と悲鳴がそこかしこに飛び交う。
 ビブリオテーク軍の用意した魔物たちはレギの闇魔法を受けてたちまちヒーナに寝返った。グリュプスやヴォルフと応戦するので手一杯の隊列からマハトとイヴォンヌが早々に抜け出してくる。気功師の軍勢があからさまにふたりを狙っていたから防衛線を突破されるより囮になるのを選んだのだろう。だがその判断は間違いだった。瀕死だった魔物の一匹にレギが回復魔法を送って暴れさせ、マハトとイヴォンヌを別個に孤立させたのだ。
「絶妙のタイミングだ。うまく引き離せたよ」
「レギ……!」
「あちらはまだ大丈夫そうだけど、崖に行った方はどうかな?」
「……ッ」
 アンザーツとのやり取りから察するに、レギはふたりのどちらか、或いは彼らにとりつく霊体を消滅させるつもりでいるらしい。人殺しでも友達をやめたいなんて言わないという言葉の真偽を測っているのだ。それがどんなに傲慢な行為か知りもせず。
「どこへ行くんだいアンザーツ? あちらの味方に着くのかな? わたしに刃を向ける?」
「レギ、止めて、こんなこと……」
「あなたの頼みでもそれはできない。たとえ気功師様として命じられるのであっても」
 残酷な否定にアンザーツは狼狽する。海に面した崖の上ではイヴォンヌとゲシュタルトが気功師に囲まれ苦戦を強いられていた。早く助けに行かなくてはと黒い瞳が焦っている。けれど足は甲板に縫い付けられたままだった。
「……あなたがヒーナに来てくれて、何年かぶりに楽しく過ごせた気がするよ。あなたは無償でわたしと友達になると言ってくれ、心の中まで見せてくれた。だけどそれでも安心することはできなかったんだ」
 レギの呪いがアンザーツを縛る。親玉を殺せば気功師たちも動きを止めるとわかっているのに、彼には剣を抜くことができない。その瞬間レギからの信頼は地に失墜し、二度と復元しないと知っているのだ。
(だけどそうして迷っている間に皆が殺されたんじゃないのか?)
 若き皇帝の暴虐に対してよりも先代勇者の優柔不断に苛立った。レギを助けてやりたいのはわかる。でも今はそんな悠長にしている場合ではないだろう。
「わたしはね、自分の身内に憎まれ恨まれ蔑まれるうちに、人として失くしてはいけない部分を失ってしまったんだ。誰かの好意を信じたり、誰かに好意を持ったりすることが全然できなくなってしまったんだよ。……クヴ・エレの背中にたくさん傷があるのを知っていた? あなたはわたしと彼を親密だと言ってくれたけど、全部わたしのつけた傷さ。小さいのも大きいのも浅いのも深いのも、嫌な目に遭うと当たり散らして彼が逃げて行かないか試すんだ。狭量で嫌な奴だよ。こんなわたしとあなたが友達でいてくれるのか酷く自信がない。――だからあなたのことも試すんだ。わたしがあなたの仲間を殺しても、まだ笑いかけてくれるのかどうか」
 はっきりとレギは殺意を口にする。それでもアンザーツもオリハルコンもまだこの少年を見限らない。こんな切羽詰まった状況で、信じられなかった。
 狭量で嫌な奴だ。彼を殺せば簡単じゃないかと思っている。
 本当に自分は勇者だったことがあるんだろうか? それさえ思い込みだったのではないか?


「わたしの中にはただ猜疑があるのみだ。だからこそ早く安息を得たい。そう思う心以外はとっくの昔になくなってしまったんだ、アンザーツ。気功師様であるあなたにすら疑いを抱くのだから、この疑心暗鬼こそがわたしの星なのかもしれないね」


 諦めきったその声にアラインは深い同調を覚えた。
 仕方がない。変われなくても。弱くても。
 仕方がないのだ。信じるに足るものがないから。自分の内側が空っぽだから。叶えたと思った夢も幻だったから。


「ご覧なさい! お前たちの欲しいものはこれでしょう!」


 海岸に響いた声に顔を上げる。見ればイヴォンヌが結婚指輪を波間に放り捨てるところだった。
 気功師たちは魔道具を狙っていたため一時的に撹乱される。崖から逃れた彼女は街に向かって駆け出した。しかし疲弊しきったその足取りはあまりに覚束無い。
 アラインはアンザーツとレギに背を向け空へ浮かんだ。このままではおそらく全員無事では済まない。見守るだけと決めた身で何を焦る必要があると念じながら、死に別れた――だがまだ生きて動いている伴侶の後を追いかけた。
 あのとき、破滅の魔法の中から目覚めたとき、最初に直面したのがベルクの死だった。それからは訃報と悲報の連続。ノーティッツに去られ、ツヴァングに去られ、そのうちに誰もいなくなって。
 見ないようにしてきたものがある。触れないように遠ざけてきたものが。無自覚に忘れようとしたものが。


「イヴォンヌ、回復なさい!」


 ゲシュタルトが命じても彼女は傷ついた肉体を癒そうとはしなかった。最後の魔力は聖女のために温存しようというのだ。
 背中を丸めて紺のリボンを守るイヴォンヌに感情のない人形が群がる。気功師たちは踊りながら絶命寸前の獲物を痛めつけた。
 なんだか戯曲を眺めている気分だった。汲み取りたくない主題がアラインの肺と心臓を締め上げる。息ができなくて全身が震えて、何度も何度もかぶりを振った。
 彼女も魔法使いたちも同じだった。やはりアラインと同じだった。
 淘汰されようとする個人、目隠しされた全体。
 光を見ようとしなかったのはそれが眩しすぎたせいだ。汚れた手ではもう掴めないと思ったから。


「イヴォンヌ! この馬鹿姫!!」


 許せないと言っていた王族を案じて聖女が叫ぶ。その優しさと強さは、一度失い取り戻したものだった。
 人は変われるということを忘れたかったのは自分だ。そんな人間がいたこと自体なかったことにしたかった。
 己の不甲斐無さを嘆き、己を責めて生きるのが一番楽だったから。
 信じるよりも信じない方が簡単だったから。
 本当は変えられるものがあったのに。












「――姫!!!!」












 果たしてどちらの方がより呆然としただろう。捩じれた空間を飛び出したアラインは風で気功師を吹き飛ばし、レギの契約以上に重い術をかけ眠らせた。
 気がついたらそうしていた。目の前の危機を見過ごせず。そんな、とても勇者らしい理由で。

「アライン……?」

 背後一帯に光魔法を巡らせながら、瞬きしているイヴォンヌを振り返る。
 無事で良かった。そう思えている自分にも何故か安堵した。

「どうして……」

 伴侶の問いに目を伏せ笑う。その疑問はもっともだ。こんなところで自分たちが出会うのはおかしい。彼女の夫はまだ破滅の封印の中にいる。
 記憶を消しても良かったけれど、イヴォンヌには覚えていてほしかった。我侭を聞いてほしかった。

「ごめん。ここで会ったこと、他の誰にも言わないで」







 平原の船に戻ると戦士と賢者が血の契約を結んだところだった。オリハルコンがレギに力を与えたことで、却って彼の戦いぶりに余裕が生まれていたからだろうか。予断は形勢逆転を招き、今度はレギが追い詰められる番になっていた。
「祈りは済んだか?」
 悪霊然とした物言いでヒルンヒルトが皇帝に問う。全盛期に等しい魔力を得た賢者の白い指先で、凝縮された破壊魔法が揺れていた。
 レギはもう立ち尽くすしかできない。気功師たちとの契約を切れば勝負はわからないけれど、臆病な彼にそんな真似ができるはずなかった。意思のない人形しか彼が味方と思える相手はいないのだから。
 情けをかける道理もなくヒルンヒルトは渾身の一撃を放つ。そこで事切れるはずだったレギを救ったのは勇者をやめた勇者だった。
「…………」
 衝撃でめり込んだ甲板にアンザーツが蹲る。精神体の脇腹にはぽっかり穴が開いていた。
 自分を庇った男を見上げてレギは小さな目を見開いた。驚愕が大きすぎて、彼はまだ何も口に出せなかった。
「何をしているんだ君は!」
 半ば怒鳴り散らしながら賢者が勇者に近づいてくる。仲間の腕を撥ね退けるようにしてアンザーツは叫び返した。
「攻撃しちゃ駄目だ……!」
 納得いかないのはヒルンヒルトの方である。つい今さっきまで賢者は消滅の危機に瀕していたのだ。敵を攻撃して何が悪いと当然の憤りを露わにする。
「私がこいつに殺されかけたのを見ただろう!?」
「わかってるよ! ぼくだって平気じゃなかった!! でも駄目だ、レギとは友達になったんだから……!!」
 絶対に殺させまいとしてアンザーツはレギに覆い被さった。密着して庇われるとやりようがなくヒルンヒルトはほとほと困り果ててしまう。レギはレギでアンザーツが何を言っているのか頭が追いついていない状態だった。
「……」
 それでも彼に何らかの変化が起きたのだろう。勇者を癒すまじないはレギの両手から放たれていた。
 雫がぽたり伝い落ちる。アンザーツの黒い瞳から、光を帯びて星が落ちる。
「レギももうやめようよ……」
 他人に向けて発された言葉なのに、まるで自分に囁かれているみたいだった。
「心がないなんて嘘だよ……。そう思ってた方が楽だから、傷つかないでいいから、自分に勘違いさせてるんだ。普通の人のことなんかわからないって自分から拒んで、信じてなんかもらえないって勝手に決めつけて、自分のこと弱くてどうしようもない人間だって思い込んで……、そこから外れたらもっと酷いことになるって自分で呪縛かけてるだけなんだ。自分のこと好きじゃないから」
 破滅の核がいずれ何もかも飲み込むとわかっていて、どうして現状維持だけを考えたのか。アンザーツはその答えを代弁してくれていた。
 アラインはもうひとりで大きな決断をするのが恐ろしくなっていたのだ。だからゆっくり思考を停止させてきた。
 好きじゃなかった。信じられるわけなかった。勇者の資格を失った自分など。
「本当はレギだってわかってるんだろ? レギの欲しい安心はこんなことで手に入るものじゃない。だけど手を伸ばすのも怖いから、他のもので我慢しようとしてるだけだって……!」
 他のもの――己にとってはそれが精霊王に戻ることだったのだろうか。今の自分よりはそちらの方がまだましだから。


 ――あんたは何になりたいんだ?


 ベルクの声が甦る。
 胸の奥の扉を叩く何かを感じる。


「……もういいよアンザーツ。あなたの言いたいこと、少しわかった気がする……」


 レギはそう告げ気功師たちを引き揚げさせた。彼は不毛な疑いをやめたのだ。少なくとも、ただひとりの友人に関しては。
 変わらないと決めつけていた弱さが変わった。
 蓋を開けてみれば皆の笑顔がそこにあった。
 どうして涙が出るんだろう。
 ――どうして。






 ******






 歴史を変えてしまったことへの後悔や反省はあまりなかった。こうなったらこの世界の自分が――仲間を失わなかった自分がどんな選択をするのか見てやろうという思いだった。
 風に身を溶かしアラインは世界中を駆け巡る。そこにある人々の営みを、心を、もう一度感じてみたかった。生かされているのではなく、生きている人々の。
 目に映る千差万別の情景は美しく、同時に汚れてもいた。片側だけを認めていたわけではないけれど、片側だけしか見えなくなっていたのは事実だ。
 「勇者のくせに何もできない」が「勇者のくせに世界に災いを持ち込んだ」に変わって、仲間が欠ける度に自信を失くして、なのに名前だけは勇者で在り続けねばならなくて。嘘をついてまで守り続けた世界が実は自分の創作物だったとわかると何もかも馬鹿らしくなった。輝いて見えるものなどひとつもなくなってしまった。
(自分で自分を誘導してただけだ……)
 そしてその誘導に世界を無理矢理従わせた。
 でも抵抗はきちんと起きていたのだ。意見は「はい」だけではなかった。ベルクがその証拠だ。


「ノーティッツ!!!!!!」


 片割れの名を叫んで飛行艇から吹き飛ばされた勇者の元へアラインは急降下する。ただの墜落で彼が死に至るわけがない。致命傷を負わせたのは間違いなく魔法か爆薬の効果だった。
 推測通りベルクを追いかけ放たれた爆弾にはノーティッツお手製と思しき呪符が貼り付けられていた。威力を削ぐのは容易いが、それでは敵に怪しまれるので匙加減に気を揉みながら光魔法を送り続けた。
 都合のいいことにベルクはぎゅっと目を瞑ってくれていた。空に充満する煙が染みるせいだろう。こちらの姿を見咎められることはなさそうだった。
 引き千切られるはずだった腕が胴体にくっついているのを確かめるとアラインは再び次元の隙間に身を隠した。知りたいことがまたひとつ増えた。

(ねぇベルク、君が生きてたらあのときどうしてた? 僕らは他に道を見つけることができたんだろうか――)

 神鳥ラウダは上手く勇者をキャッチしてくれたようだ。ノーティッツはまだ敵に捕らわれたままだったが、彼ならきっと次は何とかするだろう。






 ほどなくしてこちらの時代のアラインも破滅の魔法から帰還した。自分のときはヴィーダのオリハルコンが使われたのだが、彼の封印にはレギのオリハルコンが投げ入れられていた。役目を終えた聖なる杖に今後の出番はなさそうだ。これまでと同じくひっそり冥道の出口を守っていくのだろう。
(……もしかして、僕とレギを引き合わせるためにあのオリハルコンはあったのかな)
 随分と思い上がった発想だが荒唐無稽な考えだとも思えなかった。だって「彼」とはそれこそ何千年の付き合いだ。アラインがひとりだひとりだと打ちひしがれていたときも、本当はずっと寄り添ってくれていたのかもしれない。






「……成程ねえ、僕のいない間にそんなことが……」
 兵士の城で皆に囲まれている己を遠巻きに眺め、小さく苦笑する。わかっていたことだけれど胸が痛い。
 望んで叶わなかったものが目の前にあった。でもそれは自分のものでなく彼のものだった。
 勇者の復活に仲間の表情は概ね明るく、懸案事項は破滅の魔法と戦争の行方、ノーティッツの精神状態くらいに思える。
 若かりしアラインは現状を把握し終えると「納得できるやり方を探したい」ときっぱり告げた。クライスとヴィーダを殺して破滅の魔法を鎮めようとはまったく考えていない顔だった。「勇者」をしている自分を見るのがこんなに照れくさく誇らしいものだとは思いもしなかった。


「ビブリオテークで私を助けてくださったのはあなたではないのですか?」


 イヴォンヌの進言で過去のアラインが未来のアラインの存在に勘付く。そのまま彼は己が破滅の力を引き継げるという可能性にも気がついたようだった。
 次いで向かったヴィーダの元で勇者は真摯に語りかける。捨て鉢になってなお破滅の引き金に手をかけたままでいる男に。


「ただ逃げないでほしいんだ」

「君自身がどうしたいのか考えておいてくれ――」


 ヴィーダと向き合うアラインは澱みのない目をしていた。恨みと憎しみを抑え切れなかった自分とは違う。
 信じる気なのか。このどうしようもなく愚かで視野の狭い青年にも転機が訪れると。彼でさえ共に戦う仲間になれると。






 目を覚ましたノーティッツはやはりいつもの彼ではなかった。魔力の暴走こそ最初の一度きりだったが、傷つけられた心はずっと緊張したままだった。
 闇魔法など通さなくとも許せないと思っているのが見て取れる。二コラの命を奪い、己の手でベルクを殺させかけたアペティート兵への憎悪、そして何もできなかった自分への不信感が今にも爆発しそうだった。
 常からの豹変ぶりにベルクでさえたじろぐ。攻撃的な言葉に眉を顰め、唇を噛み、少し休めと幼馴染に帰宅を促した。
 初めて彼はノーティッツを持て余した。どうしてやればいいのだろうと迷って立ち止まった。


「闇魔法で一定期間の記憶を消去することはできるよ。もしどうしても必要なら、だけど」


 こちらのアラインも当時の自分と同じ対処を考えたらしい。ひとまずの応急処置として無理矢理正気に戻そうか、と。
 しかしこの提案にベルクが頷くことはなかった。どんなに弱気になっていても、どんな逆境に立たされていても、彼の精神はいつだって一番大事なことを見抜く。


「それはいいわ。あいつが絶対そんなこと頼まねえもん」


 うん、とアラインが頷いた。ベルクはまだ苦笑いだった。
 この先の決断を見据えてか、勇者は勇者にひとつだけ頼みごとをする。
 まるで何かの予言のように。


「ベルクはそのまま変わらないでね」












 そうだ、いつも彼という存在に励まされてきた。
 どん底にいても引き上げられてきた。
 彼と肩を並べられる自分が誇りだったから。


 ――じゃあなんであんたは今も滅亡を食い止めてるんだよ。


 ――あんたはまだ昔の仲間を大切に思ってる。どっかでわかってるからだろう、その気持ちがなくなったとき、本当にひとりになるんだって。


 ――忘れたんなら思い出せばいい。


 ぶつけられた温かさは確かに彼のものだった。
 渇望のあまり忘れようとしたものも。












「フロームとエアヴァルテンに反アペティートを掲げる勢力があるんだ。彼らと協力してアペティートの帝王制に終止符を打つ。……そうしたらもう戦争する理由なんか無くなるだろう?」


 いつの間にかヴィーダは随分すっきりした顔を見せるようになっていた。アラインが彼に教えたからだろう。クライスを救う方法がまだ残されていることを。レギだけでなく彼まで己と向き合い始めるなんて本当に予想外だった。
 君にしかできないことがあるはずだ。アラインはそうヴィーダに発破をかけていた。皆で生きていくために成すべきことは何なのかと。
 個人個人の役割なんて未来ではもう潰えていた。戦うことも守ることもすべて己で背負い込んでいた。誰にも任せようとしなかった。
 勇者で、賢者で、一国の王で、この世界のアラインとて化け物扱いされかねない生き物――否、とっくに化け物なのに。それでも彼は凛としていた。かつて精霊王の望んだ、成長する人間そのものだった。
(……僕もまだ間に合うのかな)
 できることが、まだ何かあるのかな。






 矢も楯も堪らずフロームへ飛んだ。歩き出した彼らにもう少しだけ力を貸したかった。祝福と感謝を込めて。
 反政府組織とやらはすぐに見つけることができた。元々そういうものがあるのは知っていたのだ。己の歩んできた歴史においてはアペティートの軍部崩壊後、長きに渡りその組織が帝国を引っ掻き回してくれたのだから。
 ヴィーダの兄であるフロームの王と反政府軍は裏で繋がっていて、虎視眈々と反逆の時を待ち侘びていた。アラインは顔を隠し、偽名を使い、三日月大陸でヴィーダが帝王に反旗を翻そうとしていると伝える。
 魔法を見せると彼らはこちらが三国からの使者であると認めてくれた。本当はそうではないのだけれど、その方が話は早いだろうから黙っていることにした。
 勢いだけで動いているのが楽しくて、懐かしくて、間違っていないと思えるのが嬉しくて。
 近いうちに必ずヴィーダが来ますと約束した。フロームの王もエアヴァルテンの王も喜んでくれた。
 ――そして。






「僕が破滅の魔法を引き継げると思うんだ」


 勇者の導き出した結論は自分と同じものだった。
 これが最善と選んだものは。






 思い出すべきものの大半はもう思い出したのだろう。
 胸に開いていた大穴は光の粒で埋まっている。
 最後の最後まで目を離さぬようにアラインは瞳を開いた。
 仲間は順番に優しい言葉をかけてくれた。
 人間ではなくなるぞ、とヒルンヒルト。彼は大賢者の力を譲ったことを悔いていた。
 私はあなたの良き理解者であります、とイヴォンヌ。彼女はどこまでも勇者の妻であろうとしてくれた。
 ディアマントも、クラウディアも、間違っているとはひとことも言わない。ただアラインが苦しむかもしれないことを案じてくれていた。


「なりたくてなったから、勇者でいられないなら意味ないんだ。自分で自分のこと勇者だって認められなくなったら。……だから怖くないって言うと嘘になるけど、僕の中ではそこまで悲壮な決意じゃないんだよね」


 何よりも己の言葉に己を知る。目を塞いできた個人としてのアライン・フィンスターを。


「アライン、あたしあなたにはやっぱり普通の人間のままでいてほしい。考え方とか感じ方とか、絶対に前とは変わるもの。人からどう思われてるかすごく気になって、でも埋没することもできなくて……」
 人から魔物に変わった経験をエーデルが懸命に説いてくれる。足元のアラインは嬉しそうに彼女の声に耳を傾けていた。心配してくれてありがとう、と。


 もっとたくさん話をすれば良かった。今更にそう思う。
 不安なんだと言えば良かった。一度でも二度でも三度でも。






「いいんじゃない? 個人的には名案だなって思ったよ。すごくアラインらしいなって」
 明るい顔でノーティッツは勇者の選択を肯定する。すべてに絶望し闇に染まったネルトリヒが、今はベルクとウェヌスの隣でにこやかに笑っていた。
「ですがどんな肉体的変化があるのかわからない以上、見守る側としては恐ろしいですわ……」
「や、だからさあ。問題が起きたら起きたでまた解決方法を考えればいい話じゃない。今はとりあえずアラインの言う方法で何とかしちゃって、先のことはまた皆で知恵を出し合おうよ」
 頼もしい台詞に胸を打たれ、過去の自分が友人に飛びつく。距離を測ろうとすることも虚勢を張ろうとすることもなく。
「それ、それだよお。皆して考え直せみたいに言ってくるから孤立無援かと思ったよおぉ」
「わかった! 喜んでくれたのはわかったから離れて!!」
「まあぁぁ流石ノーティッツですわ! 未来はこれからいくらでも変えられるということですのね!!」
「やめてウェヌス!! ふたりがかりは重い!!!!」
 この光景が夢でも幻でもないことが嬉しかった。もう少しだけ誰かを信じられたなら、自分にも同じものが得られたのだろうか。


「俺はちょっと待てって思ったぜ」


 ベルクの声が警鐘を鳴らすように重く響く。破滅を打ち消す代わりに人間でなくなる方法なんて、誰かを殺して解決しようとするのとあまり変わらないと彼は言った。高潔な自己犠牲の精神だけで決意したのでないのはわかるが本当にそれでいいのかと。


「僕はさ」


 心の奥底の声を聴く。
 耳を澄ませて、あの頃自分が何を思って生きていたのか。


「三年前のあの旅のとき、ヒルンヒルトの力を貰ってあっさり強くなっちゃっただろ? 勿論そこまで苦労もしてきたつもりだけど、受け取った力が大きすぎて、自分の努力で勇者になったとは露ほども思ってないんだよね。……じゃあ僕自身が成し遂げたことってなんなんだろう? 僕にしかない力ってなんなんだろう? そう考えたとき今回はすとんと納得いったんだ。ああ、僕って人や物から力を奪って強くなるタイプの勇者だったんだなあって。――こんな言い方したらすごい悪役みたいだけど」


 勇者になる夢を抱いたのは、精霊王に戻ろうとする本能的な力が働いたからだと思っていた。
 自分が世界を創ったことは知らずとも、どこかでわかっていたのだろうと。
 でもそれはただの悲観だったかもしれない。ただの被害妄想だったかも。
 だって今、彼がなろうとしているものは。


「昔ベルクが僕に言ってくれたこと覚えてる? 勇者にも色んなタイプがいるだろうって。……だからこれが僕の役回りで合ってるんだ」


 あんたは何になりたいんだ。
 そう尋ねておきながら、ベルクはアラインがどう答えるか知っていたに違いない。
 ――もういっぺん世界を救う勇者になる気ある?
 最初に彼はそう問いかけてきたのだから。
 なりたいものは今も昔もひとつだった。人類の王でも生命の庇護者でもなく。
 人間は変われる。
 自分はアライン・フィンスターとして生まれついて、己の弱さと対峙して、勝って勇者になりたかった。
 孤独は捨て切れなくて良かった。それでもいいと思えるように変わっていたのだ。


「お前、ひとりになるぞ」


 ベルクが告げる。見てきたように未来を告げる。
 アラインは笑っていた。どちらのアラインも笑っていた。



「お前が強くなりすぎて、周りからビビられすぎて、誰も文句なんか言えなくなっても。……お前が心にもないことしそうになったときは、俺が目ェ覚まさせてやるよ」



 遠い約束は果たされた。
 ベルクは確かにアラインの元へ来てくれた。
 時を越えて、彼が彼だった記憶を失くしても。






 ******






 最後の戦いが始まった。ビブリオテークの海岸沿いにある街で、飛行艇ゼファーと辺境の魔導師軍がぶつかり合う。
 アペティートの敗北は明らかだった。運命はもう彼らに微笑んでいなかった。
 帝都では反乱軍による占領が完了し、アラインとヴィーダが未だ霧の中にいるクライスと差し向かう。舞台はすぐに三日月大陸へと移り、新たな破滅の魔法が発動した。
 すべてに終止符を打つために勇者は赤黒い光に飛び込む。かつて精霊王の吐き出した嘆きの中に、自らの強い意志を持って。






「初めましてって言えばいいのかな。……よくわかんないね」
 眉根を寄せたアラインに、アラインは笑い返した。
 普通なら考えられない対面だ。いつか彼も過去の自分に会いに行くのかなと思ったが、迷いない双眸を見る限りその可能性はなさそうだった。
「来て良かった。自分がどうして今の自分になろうと思ったか、おかげで思い出せたよ。僕の原点はずっとこの時代なんだ」
 独白の意味がわからず黙り込む自分に謝罪を告げる。イヴォンヌを助けたりベルクを助けたり、果ては反逆の幇助をしたり、振り返ってみれば少々やりすぎた。タイムパトロールが実在したら懲役何年の罪に該当したかわからない。
「でもそうやって取り戻していった気がする」
 ありがとうを告げておくべきだろう。だが口をついて出たのは別の言葉だった。
「ベルクの言った通りになるよ。……いつの間にか僕の周りには僕の言葉を鵜呑みにする人しかいなくなってた。だから時々わからなくなるんだ、自分の選択が本当に正しいことなのかどうか」
 何を語ろうとしているのか途中で気づいてハッと止める。「はい」しか答えない人間を選んで側に置いたのは自分だ。目隠しして耳を塞いで暗闇を作ったのは。
 彼は違う。きっと自分の知らない道を行く。忠告の必要なんてない。
「ごめん、これは僕の失敗談だったな。君の運命とはまた別物だ。どれだけ似通っていたとしても」
 白い世界、破滅の核の内側で一度だけ彼は瞳を揺らした。未来の己に選択の正誤を確かめるように問いかける。


「――ひとりぼっちになることより、勇者でいられなくなる方が怖い?」


 吹き出しそうになるのを堪えてアラインは破顔した。やはり自分にとってはそちらの方が大きな問題なのだ。精霊王は孤独を恐れてあんなに多くの生命を作り出したと言うのに。
「僕もひとつ、大きな決断をしなきゃいけない。多分『勇者』としては最後の決断だ」
 もうすんなりと自分で自分を名乗れた。アラインはちゃんと戻りたかったものに戻っていた。
 そうしてようやく無意味を悟る。すべての命と同じになって永遠を生きていくことの。


「君は忘れないで。ひとりじゃなかったこと……」


 時に闇を照らす光のように、時に自己を映す鏡のように、人は人の傍らにいる。
 強さも弱さも美しさも汚さもここでは価値あるものなのだ。人間の生きる世界では。
 ひとりぼっちは怖くない。本当のひとりになることはないから。
 だけど自分を失くすのは、怖くて怖くて仕方なかったよ。












 決着は間もなくついた。ふたつの破滅を飲み込んだ勇者はアラインと同じ不死の宿命を負った。
 やがてあらゆる魔力が収束を始めるだろう。今度は彼自身が命を食らう破滅となる。
 でも彼は「勇者」だから。仲間と力を合わせてきっと、次の奇跡を起こすのだ。












 さよならの代わりにアラインは三日月大陸の空を飛んだ。戦争終結の歓喜に湧く人々の顔を胸に刻みながら。
 いつしかただの童話になっていた思い出をなぞって、勇者の国から兵士の国へ、兵士の国から辺境の国へ渡る。

 次元は少し歪めていたのに、誰からも姿など見えないはずだったのに、魔界へ差し掛かる直前で彼女と目が合った。
 天空を見上げて微笑む聖女。その眼差しに吸い寄せられ、山門の神殿へ降り立つ。


「待ち人とは出会えましたか?」


 シュトラーセはアラインにそう聞いた。何故、と驚き問い返せば「そう尋ねてほしそうでしたので」と笑う。
 不思議な女性だ。神秘の巫女の瞳には一体何が映っているのだろう。


「会えたよ、それもひとりじゃなかった」


 ――道の果てにあなたを待つものが必ずあります。勇者様、どうかあなたが何者であるか忘れずいてください。
 彼女が死の間際にくれた手紙には確かそんな言葉が綴られていた。思い出すのに時間はかかってしまったけれど、もう大丈夫だ。迷いはない。
 時空を超える旅は三度目だ。一度目は破滅の魔法のルーツを知り、二度目は精霊王のルーツを知った。そして今度は自分自身を。


「お祈りしています。これからもあなたの歩む道に幸多きことを……」












 ******






 バイトラークは思わず辺りを二度見した。
 消えている。一瞬で色々なもの――例えばノーティッツのデスクや本棚、端末関係が。
 目を瞠ったのは自分ひとりではなかった。悪魔もまた我が身に起きた異変に戸惑い緑色の瞳を白黒させていた。
「ど、どういうことだ……!?」
 神殿らしい柱や壁や祭壇を残したきり魔法使いの家財道具はひとつ残らずなくなっていた。外へ出てみて更に驚愕する。そこにあったはずの毒霧の森が、のどかな平原に変わっていたから。
「……!?!?!?」
 今ひとつ何が起きたのか把握できぬままノーティッツに「王様が戻ってきたのか?」と聞いてみる。しかし彼は首を横に振りそんな気配は感じられないと言い切った。
「というかぼくも、人間に戻ってる……?」
 翼や爪を出そうとしてもノーティッツは魔物の姿になれないようだった。そればかりか痛々しかった火傷痕が癒え、髪も肌も落ち着いた色に染まっている。
「魔法は使えるのか?」
「ああ、それは大丈夫みたいだけど」
 小さな炎を指に灯して魔法使いが首を傾げた。狐に摘ままれた心地のまま神殿へ戻ると今度は祭壇の上に異な物を見つける。
『――驚かせてごめんね。実は世界を創り直しました』
 置き手紙には几帳面な字でそう書かれていた。






 未だに正式な役職を教えてもらえていないほど上の人間らしい上司に国王の所在がわからなくなったと伝えたのは午前のことだった。それから民衆の混乱が始まる前にどう手を打つかバイトラークとノーティッツは膝を突き合わせ頭を悩ませていたのだ。
 日が暮れるにはまだ早いのに突然真っ暗になったと思ったらこの事態である。世界を創り直したとはどういうことだとふたりで眉間に皺を寄せた。
『破滅の魔法を止めるには一度すべてを吸い尽くす必要があったんだ。僕が精霊王に戻ると魔法の核も融けて消えたよ。なので後は再現し得る限り元通りにしたつもりです。人のいなくなった大陸にも過去存在した国を復元しておいたから、世界地図を検索してみてね。ノーティッツの新しい戸籍と住所は市役所で住民票を見て確認してください。勇者の城へ来てくれても僕はいません。三百五十年前に天寿を全うして死んだ設定になっています。どこかでただの人間に転生していると思うので、もし出会うことがあればそのときはよろしくね――』
 わなわなと震える手で二枚目の便箋を広げる。僕を勇者にしてくれてありがとう、と文章はそこで締めくくられていた。
 滅びゆくしかない人類の現状を打破する手立てはあると、確かに言っていたけれど、まさかそういうことだとは。
「そうだった……。アラインはこういう奴だった……」
 重責から解放された途端フリーダムになるんだとノーティッツは頭を抱えた。「勝手に他人の闇堕ち解除までしてくれやがって」「誰のために昇天我慢したと思ってるんだ?」「別れの挨拶ぐらい直接言いに来い!」と愚痴なのか礼なのか判別の難しい文句が次々飛び出してくる。
「ん? じゃあ国の連中は王様の加護なしで暮らしてるってことか?」
「多分な。自分がいなくなっても大騒ぎにならないようにはしてあるだろ。ったく勇者ってのはすこぶる勝手な生き物だ!!」
 俺もその勇者の認定受けたんだけどと突っ込むとノーティッツは露骨に不機嫌な顔をした。わかってるじゃないかと言われたが何がどう勝手なのかは微塵も理解できない。
「待て待て、俺あんたに悪さしたか!?」
「お前じゃなくてベルクだよ! 勝手に生まれ変わって勝手に探しに来やがって、お前なら絶対いつまでも冥界で待ちぼうけてると思ったのに!!」
「何の話だ何の!!!!」
「なんでもねーよ馬鹿!!!!」
 ともかくいっぺん市役所行くぞと転移の呪符を取り出した魔法使いに慌てて掴まり同行する。
 街は、世界は、どう変わっているのだろうか。転生したという王様はちゃんと笑えるようになったのだろうか。ノーティッツのこの態度を見る限り、悪い方向へ進んだのではなさそうだけれど。
「勝手ついでにあんたさあ、このまま俺と来てくれねえ?」
「はあ? 何言ってるんだ。名前当ての契約は無効だって話しただろ」
「だから契約とかそういうんじゃなくて、ただの連れってことでいいんだって。あのオムレツとかまた食わせてくれよ。美味かったんだよ」
「……」






 手紙にあった通り後日ネットで世界地図を見てみると、どの大陸にも小さな島にも国名らしい名前がついていた。
 オンライン百科事典のアライン・フィンスターの項目には「大戦を終結へ導いた勇者。偉大な魔法使いでもあった」と書かれていた。
 彼が長い長い時を生きたことを知るのはバイトラークとノーティッツだけだ。
 それでも物語の幕はこう閉じられるべきであろう。
 めでたし、めでたし。







(20130601)