物心ついたときには旅の一座に養われていた。
魔法も同じく、火の魔法、水の魔法、風の魔法、土の魔法、雷の魔法、そして肉体を司る光の魔法、これらを当たり前のように操れた。
団員のことはあまり覚えていない。一座は入れ替わりが激しかった。昨日まで身の回りのことを世話していた者が二度と現れなかったり、活躍していた花形役者が突然ただの雑用係に落とされたり、そんなのはよくあることだった。半分は商売柄、半分は頭のおかしい座長のせいで。
ヒルンヒルトは少女の衣装で過ごすことが大半だった。座長は芸術を極めることに執心していて、それ以外はまるでどうでも良いようだった。
「芸術の頂点は性別を越えたところにある。お前は男でも女でもない存在になって、ただ美しく舞え」
ヒルンヒルトが座長から求められたのは雪のような清らかさ。何者にも汚されず、溶かされず、じっと同じ冷たさを保ち続ける山頂の氷雪。
反抗しようと思ったことはない。自由な人生にヒルンヒルトは興味がなかった。そういう意味でも自分は座長好みだった。
だが従順に彼を慕っていたわけではない。座長もヒルンヒルトからの情や信頼など欲しがってはいなかった。
すべて空気や水と同じだった。ただそこに存在しているだけ。
長らく己にとって、世界とは遠く隔たれたものだった。
咽返るような血と鉄の臭い。死体となった親代わりの男を何の感慨もなく見つめる。
魔王ファルシュが名乗りを上げて以来、魔物たちが力を強めていることは知っていた。だがこんな風にあっさり幕が降りるものなのか。
団員たちは座長の溜めこんだ金を山分けして散って行った。何人かがちらりとヒルンヒルトを盗み見たが、関わりたくないという顔をして皆逃げた。魔法の餌食になるとでも思っていたのだろう。
ああ、今までいた場所はなくなったのだな。
ただ静かに自覚する。
これから何がしたいとか、どこへ行きたいとかまったく思い浮かばなかった。
しばらくぼんやりしていれば何か閃いたのかもしれないが、それより彼との出会いの方が先だった。
「行くあてがないなら一緒に行こう」
こちらに手を差し出した青年の名はアンザーツ。連綿と続く勇者一族、フィンスター家の末裔だった。
座長の機嫌ですぐメンバーの入れ替わる一座と違い、アンザーツのパーティはもっと温かい絆で結ばれていた。
最初はリーダーらしきアンザーツ以外名前も顔も覚える必要なかろうと思っていたが、彼らが非常に親しい関係にあるとわかるとヒルンヒルトは認識を改めた。
ここは一座より更に外側に見えていた明るい場所なのだろう。己が身を置いていた世界とは違う。
だが慣れ合う必要は感じなかった。否、そもそも自分に誰かと懇意になるという発想があったかと問われると、そんなものは皆無だったと答えるほかない。
いつだって輪の外がヒルンヒルトの立ち位置だった。感情を知るなという座長の教育は、即ち人と交わるなという教育だった。
アンザーツは座長と違い、ヒルンヒルトに命令をしなかった。ゲシュタルトやムスケルと上手くやれ、もっと愛想良くしろと、言われれば応じていたかもしれない。だが実際にあるのは戦闘中の指示だけだった。
四人で組んでいたパーティの、ヒルンヒルトは外側にいた。だから実質は三人組とひとりだった。
そう思っていたのだ。
辺境の都に着くまでは。
最初に小さな違和感を覚えたのはどこだったろう。
剣の塔か、或いは国境の河でか。
アンザーツはいつもニコニコ笑っている男だった。それが地の顔なのだと錯覚するくらい。
魔物の軍勢に襲われる都で、最後にヒュドラと戦った。
ゲシュタルトが倒れて回復が追いつかなくなり、やがてムスケルも吹き飛ばされた。
いつもの彼ならヒルンヒルトにゲシュタルトを介抱するよう指示しただろう。でもそのときは、あと少しで決着がつくから畳みかけようと紅竜への攻撃を要請された。
アンザーツの言う通り、ヒュドラは断末魔の声を上げ地面に倒れ伏した。
側にいたムスケルに回復呪文を唱えようとして、ヒルンヒルトは場にそぐわないアンザーツの声を聞いた。
「……今ぼく何してた?」
アンザーツはゲシュタルトの髪に右手を添えながら、曖昧な笑みを浮かべる。
それはいつもと変わらない表情のはずだったのに、どこか酷く頼りなかった。
******
長く一緒に旅をしていると、ふたりで話す機会が何度か訪れる。
湯浴みをしていたヒルンヒルトの隣に来たのはムスケルだった。ムスケルは最初微妙そうな顔をして、だがそれを振り払うよう敢えてこちらに近づいてきた。
「ここのお湯気持ちいいよな、俺実は二度風呂なんだ」
「……そうか」
「辺境の魔物は強いし、数も多いし、嫌んなるぜ」
「……そうか」
「……」
もう話題が尽きたのかムスケルは明後日の方向を見たまま眉間に皺を寄せる。ごにょごにょと小さな声で「ったくこいつは……」と聞こえた気がしたが、どうでもいいので聞き流した。
辺境の都を出て、今は首飾りの塔を目指す道中だ。アンザーツはあれ以来何も相談してこないけれど、解決したとも言ってこない。少し気になっていた。
普段の自分ならとっくに忘れてしまっていただろう。蚊帳の外の他人の悩みや事情など。
何日過ぎても未だにあのときの彼が思い浮かぶのは、焼きつけられた違和感のせいに他ならない。
これ以上進めないかもしれないと言ったアンザーツ。ヒルンヒルトには、彼が急に三人組の輪の中からポンと押し出されたように思えたのだ。
「……アンザーツは魔王城に辿り着けると思うか?」
「んあ? 急に何言ってんだ? んなもん当たり前じゃねーか!」
唐突に話を振られてムスケルは心底驚いた顔をしていた。ヒルンヒルトの方から何か話しかけるのはかなり珍しいからだ。
戦士の方も滅多になく嬉しそうに頬を緩めた。彼とゲシュタルトはヒルンヒルトと話すとき、大抵どこか喋りにくそうにしている。間近でこういう表情を見ることは稀だった。
「あいつは勇者だ。どんなに敵が強くてもそれを打ち負かして、絶対に魔王ファルシュを倒してくれるさ!」
ムスケルはきっぱり言い切る。彼がアンザーツを信じているのがよくわかる。
「最初はこんなとこまでついてくることになると思ってなかったけどよ。世界に平和を取り戻すっていうあいつの目標は、今は俺の目標でもあるんだ」
魔王城までもうあとひとつ国境を越えるだけだと戦士は息巻いた。
アンザーツが仲間に支えられているのを確認すると、ヒルンヒルトはほっと息をついた。
やはり己の錯覚だったのだろう。アンザーツがぽつんとひとり誰からも離れて佇んでいる気がしたのは。
自分が安堵したことに気づいてヒルンヒルトははたと思考を停止した。
今までにない奇妙な感覚。
アンザーツの笑顔が薄気味悪く感じられ、怯んだときのようだった。
時々、本当に時々、自分のしたことがわからなくなるんだ。
アンザーツがそう話したのでヒルンヒルトは注意深く彼を観察するようになった。
もし次に何か打ち明けられたとき、あのときこんな風におかしかったと話せれば問題解決が早まると思ったのだ。
だがそれは大した功を成さなかった。アンザーツはいつ見てもにこにこ笑っていて、およそ変化と呼べそうなところがなかった。出会ったときの彼と同じだ。いつだって穏やかで、優しくて、温かくて、勇者然としている。
(魔王城が近づいてきているプレッシャーか?)
ストレスによる記憶障害と思えば理屈は通った。だがそれにしては当の本人が飄々としすぎている。敵を倒す動きを見ても迷いは存在しなかった。
考えれば考えるほどわからなかった。何故アンザーツがこれ以上進めないなどと言ったのか。
「それ」を見つけられたのは、本当に四六時中彼のことばかり見つめていたおかげだろう。
今まで見たことのない――恐怖と安堵と悲壮な決意の入り混じった眼差しを捉え、ヒルンヒルトは立ち竦んだ。首飾りの塔に入る直前のことだった。
アンザーツはおかしい。そのことにヒルンヒルトは徐々に気がつき始めていた。
神鳥の首飾りを手に入れて、意気揚々と塔を出て、次の街へ辿り着き、ゲシュタルトとムスケルがいなくなった隙を見計らい勇者の腕を引き問い質した。
「前に言っていたことはもう大丈夫なのか?」
アンザーツは「ああ、心配かけてごめん」と穏やかに笑った。
けれどそこに負の感情は一切滲んでいなかった。
だから思ったのだ。これは彼ではないのではないかと。
(……そんな馬鹿な)
あのとき自分に弱音を零した男と、目の前にいる男が別人に思えてならない。どうしても腑に落ちない。
今まで見てきたアンザーツと、今一緒にいるアンザーツに差異は感じられないのに、都で話したアンザーツだけが浮いている。ぽかんと宙に、所在なく。
それはヒルンヒルトに見えていた、ただそこにあるだけの世界からも浮いていた。
誰かを愛することや、誰かと一緒に喜ぶこと。そういうものは自分から隔たれた外側の世界のものだった。
なのに儚げに微笑むアンザーツはふらふらとこちらへ漂ってきて、震える指先を伸ばしてくるのだ。
誰も飛び越えてこれなかったヒルンヒルトの頂まで、清らかさと引き替えに温かさを失った雪原へ、重さもなく舞い降りてくる。
初めて他人の足跡がついた。
それからしばらくヒルンヒルトは芽吹き始めた感情に苛立たされることになる。
夜中にじゃぶじゃぶ湖に入っていくアンザーツを引き留め、もうひとりの「勇者」の存在を確信し、同時に彼への強烈な憤りを感じた。
何故もっと早く言わなかったのか。
何故もっと仲間を頼らなかったのか。
――君は確かにあの輪の中にいたのに。
いたのに、と思っていたら、いつの間にかアンザーツはヒルンヒルトの背中にくっついていた。
違うよ、最初からぼくはここにいたんだよ。
そう囁かれて目を瞠る。
同じ温度だから気づかなかったんだねと彼は笑った。
宿で目を覚ますとアンザーツが旅支度を整えていた。
しばらく休めと提案したのはヒルンヒルトで、もう出発しようと告げたのはアンザーツだった。
それは「勇者」が決めたのだろうか、それとも彼が決めたのだろうか。
(……私も覚悟を決めねばなるまい)
誰にも何も明かすことなく、アンザーツは見えない何かと戦い続けている。
それを助けられるのはおそらく自分だけなのだ。
闇属性を手に入れた。精神に干渉する力でアンザーツの心象世界を覗いたら、彼はほとんど残骸に近い存在だった。
驚いたし、怒りが湧いたし、強がるアンザーツに呆れもした。けれど何より自分は悲しかったのだろう。
ずっと世界から隔絶されていた。隔絶されたまま死んでいくのだろうと思っていた。
唯一自分に触れた男は今にも消えそうになっている。
足跡だけが残るのかと思うと堪らなかった。
本当は私はずっと待っていたのだ。
雪も氷も融かしてくれる光ではない。
同じ目をしたもうひとりの自分でもない。
ただ守りたいと思うものを。側に在りたいと思うものを。
「君を旅に誘ったとき、なんてぼくと似ているんだろうと思った。君ほど感情の動かない人をぼくは見たことがなかったから。……だからこんな、賢者になってまで助けようとしてくれるとは全然思ってなかったんだよ」
アンザーツは泣いているようだった。
でもその顔はやはり穏やかに微笑んでいた。