視界いっぱいに星空が広がる。どの星も放射状に暗闇を駆け抜けている。
 どうやらアラインも流れる星のひとつであるらしい。白く輝く巨石に抱かれてただ真っ直ぐに進んでいた。
 長いこと、長いこと。


 ――答えを伺いに参りました。


 そう告げた男は側にはいなかった。精霊王とはなんだと問うたアラインに「知りたいのなら時代を遡ればいいでしょう。それだけの時を超える力があなたには戻っているのですから」と答えたきり、またいなくなってしまった。
 今のアラインは混沌とした魔力の塊のようだった。実体らしい実体はなく、輪郭も曖昧で、仄かな光を放つのみである。
 明確な固さと質量を持つのは己に触れている巨石の方だった。澄みきった白と透明が内部で融け合い、まるで鼓動を打つかのごとく波打っている。

(オリハルコンかあ……)

 元々は小惑星と呼んでいいほど大きな結晶だったのだな。
 墜落しているのか浮上しているのかもわからない空間で、アラインは不思議な石の温度だけを感じていた。他には一切何もなかった。
 一抹の淋しさが堪え切れぬ悲哀になる頃、やっと小さな星に辿り着いた。
 剥き出しの岩山が連なるそこに生物は存在せず、けれどこれ以上あてどない旅を続ける意志も持てず、溢れ出る力に任せて雨雲と雷鳴を呼ぶ。
 岩の星は水の星に生まれ変わった。出来たばかりの海に大地の根を張り巡らせ、空に境界を設けると、アラインはオリハルコンを伴い地上に降り立った。

 ここで暮らそう。力を削る代わりにたくさんの同胞を生んで。
 そうしたらもうひとりきりではなくなるはずだ――。






 未来編 遥かへの旅 中編






 さっきまでの光景とはまた別の光景がバイトラークの眼前に広がっている。
 王の間で意味ありげな会話を交わしていた気功師とアラインは消え、代わりにどこまでも続いていきそうな緑の野辺が視界を埋めた。
 足元には巨大なオリハルコン。その内側にすいすいと引き寄せられる。
 神具を携えていたからだろうか。己の意識と聖石の意識が同調したようにも感じられた。


 ――精霊王って何なんだ。僕が命という命を刈り取ってしまうことに何か関係しているのか。

 ――しているでしょう。ですが私も多くを覚えているわけではありません。私は偉大な主の残骸にすぎないのです。


 知りたいのなら時空を超えて確かめればいいと気功師は言った。そうしてその通り、アラインは幾千年の時を飛び越えてここへ来たのだ。その記憶をバイトラークは闇魔法を介して見ている。ただそれにしては妙に五感がリアルに働いている気がするけれど。
 さざ波の音が聴こえていた。風にそよぐ草の音色も。
 長旅の果てに疲れ切った淡い光がオリハルコンにぐったり凭れかかっていて、休ませてやらなきゃと思うと同時、石の一部が形を変えて盛り上がった。

「座れってことかな? ふふ、ありがとう」

 光る身体から高くも低くもない声が滑り落ちてくる。玉座にその身を預けた彼は次々に魔力の結晶を生み出し平原へ解き放った。
 光と同じに掴めない霊体が踊り、楽しげな歓声をあげる。初めに大地を満たしたのは火の精霊、水の精霊、風の精霊、土の精霊、雷の精霊だった。彼らはオリハルコンの城に住む父を、敬意を込めて精霊王と呼んだ。
 多くの力を何千何万という精霊たちに注いだためだろう。王の姿はいつしか我が子らとよく似た五体を持つようになっていた。髪色は夜空のように暗く、瞳はこの星と同じ青、右手には白い五芒星が刻まれている。
 今のアラインと瓜ふたつの容姿だった。どうやら終末と原初には同一の王者が存在していたらしい。
 精霊たちの時代は長く続いた。彼らの中には大きな力を持つ者もいればささやかな力しか持たない者もいた。けれど差別や優劣はなく、命はすべて雄大な自然と共に生きていた。
 世界は穏やかで、活力と喜びに溢れ、悲しみや苦しみはどこにも見つけられなかった。王の胸の内以外には。






 その頃世界には三つの陸地があった。精霊王の膝元である楽園は綺麗な五角形をしており、海を分断するように横たわった長い大陸の向こうにも同じ形の大地が広がっていた。
 精霊はどこにでもいた。深い海の底や大気や地中にも。彼らに寿命はなかった。彼らに嘆きはなかった。だから誰にも王の味わった長い孤独を理解できなかった。
 暗い気持ちが彼の中に沈澱していくのを感じる。精霊王は彼の作り出した精霊たちを愛していたし、精霊たちも彼を愛していたけれど、そこには埋められない溝があった。
 石の玉座で眠る王に無邪気な魂がまとわりつく。追い払おうと翳した腕に、彼は酷く衝撃を受けたようだった。
 綺麗な世界を創ろうと、綺麗な力ばかり使いすぎてしまったのかもしれない。膨れ上がった負のうねりを手放すべく精霊王はもうひとつ命を生み出した。それが人間だった。人間には霊魂の他に肉体が与えられた。王の注ぎ込んだ毒が外へ漏れ出さないようにするために。
 人間たちは大海の中央に伸びる大陸で暮らし始めた。初期に生まれた者は謙虚で慎ましく、己の中の微毒を己で戒めることができた。王はせめて人間が誇らしく生きられるように、悪徳と同時に美徳を備わらせていたのだ。
 先住者である精霊たちは献身的に彼らを支えた。特に気に入った者がいれば、契約を交わして彼らにも魔法を扱えるようにした。精霊の加護を得ずとも最初から魔法を操れる者もいた。肉体に働きかける魔法は人間にしか使えないものだった。
 王はどんどん人間を増やした。増やして増やして増やし続けて己の重荷を背負ってもらった。そのうちに毒が強すぎて自己を律することのできない者がひとり、またひとりと増えていった。
 人々が争いを始めるのに大した時間はかからなかった。彼らは常に空腹で、怒りっぽくて、果樹や水辺を取り合っては互いに憎しみを強めていた。王は人間に作物を得る方法を伝えたが、一度奪うことを覚えた者にその声は半分くらいしか届かなかった。
 果実や苗を用意すれば用意するほど争いが飛び火していく。人間もまた不死身の存在であったため決着はいつまでもつかなかった。
 精霊たちは大いに戸惑った。飢えも渇きも知らない彼らの瞳には、ただただ人間が野蛮な生き物としてしか映らなかったのだ。


「こんなところに気功師たちを一緒にしておくのは酷です。精霊王よ、どうか彼らには別の地をお与えください」


 精霊と絆を結んだ人間や、魔法の才を持って生まれた人間は別の名前で呼ばれるようになっていた。善良な彼らまでもが悪に染まるのを恐れ、王は気功師たちを皆残りの大陸へ移すことにした。諍いに辟易していた精霊たちもこのとき一緒に出て行ってしまったので、中央大陸はほとんど人間だけの土地になった。豊かな自然を愛して残った者たちも「これ以上彼らの罵声を聞いていたらおかしくなりそうです!」と度々訴えた。
 王は人間が精霊たちと同じ言葉を使わぬように忘れさせた。人間は人間だけにわかる言葉で相手を侮辱し傷つけた。けれど彼らが時々信じ難いほど優しい言葉を口にする。それも王は知っていた。どうにか彼らが平和の価値を理解できるよう、王は新しく女を作った。力は弱く、身体も小さく、気性の荒々しい者はいない。彼女たちが男を宥めてくれはしまいか期待したのだ。ところが王の意図に反して女は別の争いごとの種となった。人間は仲間とさえいがみ合うようになってしまった。そのうえ王にも予期できなかった事態が起きた。男女のつがいから小さな人間が生まれるようになったのだ。
 ますます混迷を極めていく中央大陸は精霊たちにウンオルドヌング――無秩序と名付けられた。対して気功師と精霊らが蜜月を過ごす新大陸はオルドヌングと呼ばれた。
 女は何人かオルドヌングにも渡っていった。傷つきやすく涙もろい彼女たちは精霊たちに受け入れられ、中には気功師の妻となる者もいた。
 精霊たちは少し人間を羨んだ。肉体を欲しがる者もいたため王は血の契約を教えた。精霊の好意だけで成り立つ無犠牲のものではなく、物質的な犠牲を伴う契約だ。触れ合う歓びを知ると精霊たちも欲深になった。人との交わりが彼らの内に毒を染み込ませたのだった。
 そうとは知らず、王は気功師にも魂に干渉する術を与えていた。人が己の望みを叶え、苦悩から脱却していく様を見るのが王にとって何よりの幸福だった。やがて「精霊たちの故郷を見てみたい」と熱望する気功師が現れたときも、やすやす楽園の門を開いてやったほどである。


「あなたが私たちの父、精霊王なのですね」


 オリハルコンの玉座の前に頭を垂れた気功師は精霊王が初めに作った人間だった。知性と文明の証である丈夫な衣を身に纏い、恭しく跪く。礼を欠くことを恐れてか顔の半分は布で覆って隠していた。その下には父とよく似た相貌があったから。


「会えて嬉しいよ、メンシュ」


 王の言葉にメンシュと呼ばれた青年が破顔する。精霊言語で語られた台詞でも、いやだからこそ気功師にはすぐさま理解できた。父なる王の胸中が。


「私こそ、これほどの幸福はありません。ずっとお会いしたいと思っていました。私の中に巣食う寂寥があなたから生まれたものだと知ったときから。今あなたに相見えて私の心は晴れやかです。何のために我々が生み出されたのか、ようやく知ることができたのですから」


 偉大な王の偉大な心はあらゆるものを慈しみ、世の喜びと悲しみを一身に享受している。すべては彼の子供であり、彼自身であり、意思の通わぬ他人であった。その他人から――同じ毒に蝕まれた他人から温かな思いを向けられたとき、王は初めて恒久の孤独を癒された。
 己と同じで違う存在。そういうものを必要としていたのだと自覚が生まれる。
 同時に疑念も湧いていた。人間を作ったことに後悔はないが、彼らをこのままにしていていいのだろうかと。
 楽園へ到達した気功師たちには更に特別な魔法を扱うことが許された。一瞬で遥かな距離を移動する魔法や遠くの景色を覗く魔法、他にも様々な術が生まれた。彼らが居住するための城も作られた。栄華を誇る楽園とオルドヌングに相反し、無法の人間たちはますます醜悪な生き物になり果てていた。






 王が鏡に手を翳す。そこに映ったウンオルドヌングでは目を覆いたくなるような惨状が続いていた。
 傷が癒えるのを待つことなく戦場へ飛び出す人々。暴力の影で怯える弱者は己より弱い相手を見つけた途端態度を一変させる。
 精霊たちはすっかり彼らに愛想を尽かしていたが、王は分身でもある人間を完全に見放すところまではいっていなかった。いつか人間が改心することを期待し、そのときは彼らを気功師にしてやるつもりでいたのだ。
 そんな中ある事件が起きる。度重なる闘争に嫌気の差した者たちが集まってひとつの村落を築いた。田畑を開墾してもすぐ奪われてしまうのはわかっていたので、彼らはじっと飢えに耐えた。傷つけ合うよりその方がずっとましだと考えたのだ。
 村民の意志は固く、どんな飢餓に襲われようと彼らは拳を振り上げなかった。精霊たちは喜んだ。この村の人間たちなら気功師になれるかもしれないと期待した。どっぷり浸かっていた悪の沼から這い出すことができたのだから。
 飢えに苦しむ彼らを見かねた水の精霊が村民のひとりと契約を交わすと、他の精霊たちもただちに追従した。村民は大人しく従順で、口々に精霊に感謝を述べた。精霊はますます彼らが気に入った。そうして血の契約を結ぶ者さえ現れた。
 けれどオルドヌングで共に暮らそうという誘いには村民の多くが首を振った。契約によって力を得た彼らは変わってしまったのだ。何故自分たちが生まれ故郷を出て行かなければならないのか。今こそ失ってきたものを取り戻すときだろう。彼らはそう言い精霊の力を争いに持ち込んでしまった。
 精霊たちの怒りは頂点に達した。騙された、許せない、頼むから人間の数を減らしてくれと直訴され、王もいよいよ決心した。
 例の村の者たちは強制的に楽園へと移された。血で成した契約以外はことごとく無効となり、彼らは三つの高い塔に閉じ込められた。
 玉座から立ち上がり、王は城を出て空に身を浮かべる。ウンオルドヌングにいる人間と再び融合するべく彼は腕を広げた。
 ――大変異はまもなくのことだった。
 長らく遠ざけていた暗黒は猛毒となって王に還った。のたうち苦しむ王の姿に精霊たちが固唾を飲む。曇天の楽園には恐ろしい絶叫がこだました。たとえ己の身から出た錆であっても毒はもはや受け止めきれるものではなくなっていたのだ。
 やがて最も忌むべきものが王を食い破るようにして現れた。すべてに終焉をもたらす「死」が。
 人間も精霊も我を忘れて逃げ惑った。破滅は初めに楽園の底へ潜り込み、死者の世界を作り出すと、また地上へと飛び上がった。
 どす黒いうねりに触れた精霊は霊魂が弾け飛んでしまい、二度と元の姿には戻らなかった。彼らは意思を持たないただの浮遊魔力となった。
 ウンオルドヌングでもたくさんの人間が肉体を滅ぼされた。だが彼らの魂は壊れることなく冥界に運ばれた。オルドヌングでは気功師たちが話し合い、契約している精霊を己が身に宿して守ることにした。人間と契約すれば消滅から免れることを知ると、残った精霊たちはこぞって相手を探し始めた。それでもウンオルドヌングの人間と契約する者は誰もいなかったけれど。












 おい、いつまで寝てるつもりだ。しっかりしろよ。
 そこらじゅう滅茶苦茶になってるぞ。あんたの大事な世界じゃないのか。

 玉座に突っ伏したまま起き上がらない精霊王にバイトラークは必死で呼びかける。声が出ないのがもどかしくて仕方ない。臨場感のありすぎる狂乱は見るに堪えないものがあった。これは過去で、彼の記憶で、変えられないものだとわかっていても。


 ――目を覚ませよ!


 オリハルコンの内側で叫ぶ。なおも彼が目を瞑ったままでいるので悔しくて地団太を踏んだ。そうしたら都合のいいことに玉座が傾き王が滑り落ちた。
「う……っ」
 面を上げた精霊王は弱り切っていた。白く輝いていた五芒星が黒ずんでいて、その変化に危機感を抱く。
(駄目だ、誰か手助けしてやらねぇと)
 周囲を見渡すも生きている者の気配はしなかった。ただ破滅の通り過ぎた痕跡があるだけだった。
 剥き出しの冥道、晴れ間のない空、荒れ狂う波、生温い風。楽園は楽園でなくなっていた。終わりはすぐそこに迫っていた。


「どうなさるおつもりですか、王よ」


 響いた声にバイトラークは目を瞠る。問いかけたのは最初の人間メンシュだった。転移魔法を使ってオルドヌングからここまで飛んできたらしい。
 精霊王はずるずる足を引き摺りながら玉座に凭れた。このまま世界が滅ぶのを待つのか、大事なものだけ箱舟に乗せるのか、それとも別の方法を取るのか。気功師は静かに返答を待った。
「……あなたがいつか怪物を生み出すことを、私は知っていた気がします。そのときはあらゆるものが無に帰すのだと。あの破滅はあなたの病そのものです。すべてを屠り尽くした後、孤独に耐えられず消えるでしょう」
「無に帰して? 違うよ、無なんてものはない。戻るとしたらたったひとりに戻るだけだ」
 王はメンシュに手招きした。その唇にはまだ深く笑みが刻まれていた。
 破滅は少し強すぎるから分裂させると王が言う。それでもひとたび具現化した「死」を取り払うことは不可能だけれど、子孫を残せる人間ならば魂を循環させて上手く共存していけるかもしれないと。
「精霊たちも今度の生まれは人間にしよう。植物は枯れても種を残すようにしなければ。人が暮らしていけるように、水の中にも土の上にもたくさんの生き物を作るんだ。それが王としての最後の仕事だ」
「ではあなた自身も転生し、地上は人間に明け渡すと言うのですか? 破滅の片鱗は我々の内部に確実に存在していると言うのに?」
 だからだよ、と迷いない声がメンシュに答えた。
 王は笑っている。ずっと笑っている。ようやく気がついたのだと悟った顔で。
「人間はどっちつかずだ。理性が強くて欲に弱い。善人もいれば悪人もいる。そう、彼らはどちらにも変わることができるんだ」
 きっと精霊を騙した村の連中のことを言っているのだろう。ごく少数だが契約の後も心を濁らせず、本物の気功師になった者もいる。負の連鎖から脱け出した人間が。
「僕の中に温かい気持ちが残ってる。孤独や絶望とは対極の気持ちだ。人の間で生きられれば僕はひとりじゃなくなるかもしれない。何か別のものに変われるかもしれない」
 あんな破滅と対峙したのにまだそんな言葉を口にできるのが意外だった。暴虐の限りを尽くす、それもまた人間の一面であるのに違いはないのに。
(信じることにしたのか? 自分の生み出したものを……)
 人間は精霊王にとって毒の引受人でしかなかったはずだ。でも今は眩い希望となった。泥の中で光る宝石に。
「それでも人の大半は欲望のまま生きてきました。世界が善悪どちらに傾くかなど明らかです」
「そうかな? 僕はそうは思わない。死の蔓延る地上では助け合わなきゃいけないことも増えるだろう。楽園やオルドヌングで死んだ者がウンオルドヌングに生まれ変わることだってあるかもしれない」
「混ざり合えばまた色は変わると? 澱みが生まれるだけかもしれませんよ」
「いずれにせよ答えは今すぐ出てくるものじゃない。世界を続けていくために、まずはあれを何とかしなくちゃ――」
 精霊王が振り返る。窓の外には赤黒く冷たい太陽が浮いていた。
 あの星に飲み込まれればすべて振り出しに戻るのだろう。静寂の宇宙を旅した頃に。
(力を……)
 力を貸してやりたい。そう思ったのとオリハルコンの城が消えたのが同時だった。代わりに玉座の周りにはどこかで見たような盾と剣と首飾りが出現する。


「君も一緒に戦ってくれるのかい? ありがとう」


 冥道の出口は既に結晶で塞がれていた。聖石の城が圧縮され、強力な封印となったのだ。
「肉の器を持たないままでは危険です。王よ、どうぞ私の身体をお使いください」
 そう言ってメンシュが前に進み出る。オリハルコンに伸ばされかけた手が動きを止めた。
「僕に身体を譲ったら、君も精霊たちと同じに弾けて戻れなくなるかもしれないよ?」
「構いません。元よりそのつもりで参りました。どうせあなたが失われればすべて失われるのですから」
「……」
 ごめんねと王が詫びた。入れ替わりは瞬く間に完了した。
 武器と防具を身に纏い、精霊王は灰色の空へ駆け上がる。残されたメンシュの魂は間もなく始まった激闘の煽りを食らって見えなくなった。






 戦いは数日に及んだ。精霊王が最後に唱えた呪文は楽園の中央にあった大火山を爆発させた。
 噴火の影響で大陸に穴は開いたが破滅を分断することには成功したようだ。禍々しい魔力の大半が霧散すると、ふたつに別たれた脆弱な魂が冥府へ吸い込まれていった。
 余計なものまで引き寄せないよう精霊王が結界を敷く。その上に重石として乗せられたのは彼の玉座であった。
 盾と剣と首飾りが塔に落ちる。海水が火山を沈める。
 精霊はもうどこにもいなかった。地上には傷ついた人間が残るだけだった。
 美しい虹がかかる。空に、海に、大地にオーロラを広げるように。
 虹だと思ったのは魔法だった。七色の魔法が死を得た世界に新たな生を芽吹かせていた。


「さあ、これで本当におしまいだ」


 と、王が腕をひと振りすると消滅したはずのメンシュが城跡に呼び戻された。
 否、それは彼ではなかった。肉体もなく、魂もなく、子供の姿になったり大人の姿になったり外見さえ定まらない。
「破滅はなくなったわけじゃない。これからゆっくり時間をかけて力を取り戻していくだろう。君には世界の行く末を見届けてほしいんだ」
 わかりましたと魔法が答えた。王の残した最後の魔法に名前はなかった。メンシュ――「人間」という意味の名前は。
「あなたもいつか戻ってこられるのですか?」
 気功師の問いに精霊王はわからないと首を振る。戻ってくるかもしれないし、戻ってこないかもしれないと。
 右手がそっと顔布を捲って魔法の白い額に触れた。そこへ移した黒い星を満足げに眺めると、精霊王は崩れ落ちた。
 青い魂が浮かび上がる。彼はまた長い旅を始めるのだ。本物の楽園を求めて。


(ちょ、待っ……!!)


 雲の彼方に光が霞んでバイトラークはギョッとした。実はまだ一番大きなオリハルコンの結晶の内側に閉じ込められたままでいるのだ。このまま置いて行かれては帰る方法がわからない。
 そのときパキンと固い物質の割れる音がして、気づくと宙に投げ出されていた。よくわからないが、とにかく出るのは出られたらしい。
 考えている暇はない、さっさとアラインに追いつかなければ。


「一緒に行ってくれるのですね、あなたも」


 冥界に吸い寄せられながら聞くはずのない声を聞いた。
 過去ならば、記憶ならば、絶対に有り得ない言葉を。


「――どうかあの人を頼みます」


 ……これは本当にただの闇魔法だったんだろうか。






 ******






 揺れる感情の波に溺れる。
 気功師の消えた王の間でアラインが膝をついている。
 滑稽だ、と己を嘲笑っていた。
 自分の守ろうとしてきたものは、つまり自分自身だったのかと。












 呆けた頭が覚めた場所は日の暮れた王の私室だった。姿勢も位置も最初と同じ。バイトラークはオリハルコンの銃を杖代わりに立っていて、アラインは薄ら寒くなる微笑を浮かべていた。

「わかった? 全部壮大な独り芝居だったってこと」

 酷いギャップにバイトラークは眉根を寄せる。精霊王の見せた笑顔と彼のそれには雲泥の差があった。人間の可能性を見出し彼らに賭けようとした王と、庇護に慣れきって腑抜けた民に囲まれる彼では。
「大賢者の力も、破滅の魔法も、何もかも僕から生まれて僕に還ってきただけだった。僕はこうして今もひとりで、結局あの時代から何も変わっていなかったんだよ。だったらこのまま流れに身を任せて元通りひとつになった方が建設的だと思わないか? 少なくともそこにはひとり分の苦悩しか生まれない」
 だから何もせず放置していたのだなと半分だけ納得した。本当に壮大すぎて頭がついていかないが、彼にとっては自己の救済を行うか行わないかの話だったのだ。まだ人類に己の希望を繋ぐのか、或いはもう全部放棄してしまうのか。
 精霊王とは個人であると同時に全体である。個々を尊重することに決めて至った世界の終末が全体に逆戻りすることだったなら、それは確かに不貞腐れても仕方がないのかもしれない。個々として生きることは無意味だと思い込んでしまっても。
「僕が勇者を目指したことさえ単なる回帰本能だったんだ。ヒルンヒルトの力を引き継いだのがスイッチだった。無自覚に破滅を呼び寄せて、自分に魔力が還ってくるように――。笑えるだろう? 僕はずっとそれを夢だと勘違いしていたんだ。勇者は、僕の、夢だったと」
 アラインは震えながら毒を吐き散らす。虚ろな表情が消えた代わりに嘆きが部屋を満たした。
 汚されてしまったのだろう。何か、彼の大切にしてきたものが。だから瞳が曇っている。
 けれど初めにこの城を訪れたとき、己に向けてくれた眼差しは。ベルクと呼んだあの声は。

「じゃあなんであんたは今も滅亡を食い止めてるんだよ」

 水際で、崖っぷちで、すぐにも終わりにしていいものを何故まだ保とうとしているのだ。それが疑問だった。
 だって話が矛盾している。本気で現状に絶望しているのなら、今頃この星の生命はひとつきりになっているはずだ。
 何かあるのだ、何か。彼の後ろ髪を引いてきたものが。決断を鈍らせているものが。

「……ノーティッツが嫌がると思ったから……」

 ぽつりと漏れた本音はバイトラークにある確信をもたらした。
 アラインは続ける。「でも彼がベルクと会って満足したならもう全部やめにできる」と。
 おかしな話だった。個としての生を否定した彼が、全体よりも個の意志を優先している。袂を分かった友人の意志を。その意味することはひとつしかない。

「孤独だなんて嘘だ。ひとりじゃなかった時代があんたにはあるはずだ」

 開かれた青い双眸をバイトラークはじっと見据えた。精霊王の記憶は見たがアラインとは出会ったばかりで彼をよく知らない。でもわかる。ノーティッツがどうして「勇者がふたりいれば」と言ったのか。
 ――ひとりでは変われないのだ。人間は、誰かと関わり合う中で変化していく生き物だから。あの気功師たちだって、きっと自分だけでは気功師になれなかった。
「あんたはまだ昔の仲間を大切に思ってる。どっかでわかってるからだろう、その気持ちがなくなったとき、本当にひとりになるんだって」
 言葉を失いアラインは黙ってバイトラークを見上げた。静かに横に振られた首に苦い嘆息を押し殺す。
「構わない、これ以上何を失っても。僕は勇者じゃなくなった。僕には何も救えなかった」
 王は確かに嫌な男ではなかった。でも馬鹿だ。どうしようもない大馬鹿者だ。
「このまま世界の全部と一緒くたになって、またわけわかんねえ力の塊に戻ったとして、そいつは前とまったく同じもんになれるのか? アライン・フィンスターの記憶はそれを許すのか?」
 バイトラークの問いはアラインを怯ませた。
 そうなったとき孤独は前にも増して彼を痛めつけるだろう。自分さえ信じられなくなってしまった彼を。
「だけどベルク、君はそう言ってくれるけど、僕は忘れてしまったんだよ。皆が側にいてくれたとき何を守ろうとしていたのか。自分が何を望んでいたのか」
 混濁したまま、もつれたままでここまで来てしまった胸の内が吐露される。怒り、焦燥、無力感、重圧、責任、果てのない悲しみ。誰にも殺せぬ男の中身は脆く傷つきやすいもので溢れている。なのに何故なのかバイトラークは安堵していた。彼が完全無欠の存在でなかったことに。悩み苦しみ倒れそうになりながら道なき道を歩く人間だったということに。


「忘れたんなら思い出せばいい」


 できるだろうと囁くとアラインは今度こそ青い瞳を目一杯開かせた。彼の奥底の方から一縷の光が這い出してきて、双眸に小さな火を灯す。


「あんたは何になりたいんだ?」






 ******






 突如感知した信じ難い異変にノーティッツは顔を上げた。魔力の大渦の中心にいた人物が世界のどこからも掻き消えてしまったのだ。
 上手く姿を隠しただけかもしれない。だが彼の元へはあの男が出向いているはずだった。無視するわけにもいかないか、と鏡を持ち出し王城の様子を探り始める。
 城内は静かなものだった。まだ誰も王の気配がなくなったことに気づいていないようである。
 慌てているのはひとりだけだ。他ならぬアラインの私室で、強盗か何かと間違われかねない武器を手にして。
「何やってんだあいつは……!」
 はぁ、と溜め息ひとつ零すとノーティッツは転移の呪符を取り出した。幻術で鳥に擬態し数百年ぶりに勇者の都を訪れる。
 警戒しながら城の周囲を旋回するもアラインが出てくることはなかった。どうやら本当に神隠し同然にいなくなってしまったらしい。

「バイトラーク、何があった?」

 小窓から王の部屋へ侵入するとノーティッツは術を解き魔物の姿を現した。この異形を見て喜ぶのは国中探しても彼くらいのものだろう。バイトラークはへなへなと縋りついてきて「なんだよもう会ってくれる気ないのかと、俺ここで完璧に詰んだかと」と情けなく泣きごとを並べ立てた。
「落ち着いて頭を整理しろ。アラインはどうしたんだ?」
 わかんねえ、とまだ冷静さに欠ける声が答える。王と話をしていたら急に「わかった、それじゃあ行ってくる」と消えてしまったのだそうだ。
「行ってくるってどこにだよ?」
「それがわかんねえからうろたえてんだろ!」
 大声を出すなと叱る代わりに腕を伸ばして口を塞ぐ。いくら周囲に人気のない王の私室とは言え誰かに見つからないとも限らない。
「ともかくここにいるのは不味い。城を出るぞ」
「大事にならねえかな? 国王が行方不明なんて知れたら暴動どころの騒ぎじゃねえぞ……」
「お前は軍に戻って報告しろ。ただし大っぴらにはするなよ」
 素直に頷くバイトラークの手を取ってノーティッツは帰りの呪符を発動させる。
 一体何があったのか。
 これから何が起こるのか。
 ――お前がいるだけで世界は簡単に回り始めるんだな。








(20130529)