ムスケルと幸せになってくれ。そうゲシュタルトに伝えてほしいと呟くと、アンザーツは項垂れ何度もかぶりを振った。
彼なりに気持ちの整理をつけ始めたのだ。それがわかるのがヒルンヒルトには酷くつらい。どうして彼が幸せになれる方法を見つけてやれないのだろう。四人でずっといつまでも――それはとても簡単なことのはずなのに。
辺境の塔は静かで、差し込んでいるのは月明かりだけだ。今宵は珍しくアンザーツとふたりきりだった。術の準備を進めるためラウダには少し遠出をしてもらっていた。
アンザーツにかけてやれる言葉もなく、ヒルンヒルトは魔道書に目を戻す。彼のためにとしていることは、結局彼のためにならないと承知していながら。
世界など救えなくてもいいだろう。以前彼にそう言い、首を振られた。
そこに救いの手立てがあるなら選び取らずにはいられない。そういう人間なのだ、この男は。何も自らが犠牲になることはないと諭したところで意味がない。アンザーツはずっとそういう風に生きてきて、それしか知らないのだから。我欲に溺れればそれはそれで自己を見失う。
馬鹿だな、と心底思う。
せめて泣けばいいのにと。
「……ヒルト」
集中していた背中に、ふと他人の温度が触れた。さっきまで毛布にくるまっていたはずのアンザーツが後ろから肩に頬を寄せている。今日まで見たこともないくらいの頼りなさで。
「ヒルトはぼくにしてほしいことない?ぼくはいつも君に甘えて頼ってばかりで…ぼくからは何もできてないから……」
「全部私が勝手にやっているんだ。君が気にすることじゃない」
でも、とアンザーツはしつこく食い下がる。肩越しに視線をやれば不安げに揺れる眼差しと目が合った。
そんな顔をするくらいならムスケルにゲシュタルトを任せるなどと言わなければ良かったのに。
ずっとずっといつまでも帰りを待っていてくれと、永遠に彼女を縛ってしまえば。
「本当に何もないかな?ぼくにできることだったらなんでもするよ。だって君は、ぼくのためならなんだってすると言ってくれたんだし」
応えたい、と言う割にアンザーツの態度はそう見えない。焦燥の見え隠れする息遣いに小さく嘆息を零すとヒルンヒルトは魔道書を閉じた。向かい合って座り直し、アンザーツの腕を押し返し、静かに問い返す。
「君は私に何と言ってほしいんだ?君を抱かせろとでも言わせたいのか?」
アンザーツは真っ黒の目を瞠った。自分でも自分の心の動きをわかっていないのだから性質が悪い。
今度こそふう、と重い息を吐く。
勇者とはなんと厄介な生き物なのだろう。
「……約束を破る後ろめたさなど今は忘れておけ。罰してほしいとお望みならいずれ叶うさ。君はひとりぼっちになってしまうんだから」
「……」
ぐっと声を飲み込んでアンザーツは黙り込む。
まだ泣かないのかと思いながらヒルンヒルトはその頬に柔らかく指先を押し当てた。
「わかったら二度と私をけしかけるな」
こんなときでも笑みというのは浮かぶものらしい。唇にはりついた曖昧な微笑を意識してヒルンヒルトは苦い思いを噛み砕く。
めちゃくちゃにしてくれと言うならしてやろう。ひとときでも安息が欲しいと言うなら。
だがそれは、君が本心から望むのならばだよ、アンザーツ。
「次に同じことをされたら自分を止める自信はないぞ」
こめかみを梳いて指を離れさせるとヒルンヒルトはまた元の位置に戻って閉じていた本を開いた。
アンザーツはごめんと詫びて毛布の中に戻っていく。
誘われたのは結局その一度きりだった。
だがそのたった一度のことを、繰り返し繰り返し思い出してしまう。悔いていたわけではなかったのに。
私は君の側にいられれば、それで良かったんだ。
感謝を示したいのなら、百年後に取っておいてくれ。