昔々、大昔。
 世界はまだとても不安定で、不思議な石と不思議な光の生命体だけが星々の海を泳いでいました。
 光には己が何者かわかりません。
 わかるのは、石と光が森羅万象の始まりから存在しているということだけでした。
 悠久とも思える時を経て、光はひとつの星に辿り着きます。
 荒々しく削れた固い岩星に、光は雨を降らせました。雨はみるみる地表を覆い、波打つ海となりました。
 次に光は柔らかい土を落とし、大きな島を浮かべました。
 光は石を連れ、生み出した大地に降り立ちます。そこには緑が芽生え、風が吹き、まるで楽園のようでした。

 ――けれど光は、不思議な石で造ったお城にひとりぼっちだったのです。






 未来編 遥かへの旅 前編






 「破滅の魔法と何か関係があるのではないですか? あれは他者の命と力を吸い込んで膨らんでいく禁忌の呪法でしょう。まさか魔法使いがまったく生まれてこなくなるなんて……」
 神妙な顔をしたクラウディアに潜めた声で耳打ちされる。あまり考えたくないことですがと僧侶が切り出したのは本当に目を背けたくなるような原因推察だった。
 昨年も一昨年も新生児で魔法の素養を持つ者はひとりもいない。ウングリュクとノルムから受けた報告が事実なら早急に措置を取らねばならぬだろう。
 だがこの時点でアラインの頭には「何をしたところで無駄だ」という予感があった。そしてその予感は正しかった。






 ひとりきりの寝室で右手の甲を翳してみる。五芒星の色の変化は世界の変貌をそのまま表していた。この間まで白く染まっていたのは半分だけだったのに、今はじんわり白が黒を侵食している。
 触れもしないで魔力を搾取する体質になってしまったのだろうか。でもどうして? 過剰な力を手に入れてしまった反動? これが「魔法に生かされる」ということなのか?
 本来の容量に見合わぬ魔力を持つ危険性は承知していたつもりだった。不死に近い肉体に変わってしまうだろうともわかっていた。けれどその程度のデメリットなら秤にかける必要すら感じなかった。世界から危難を取り去る方が余程重要に思えたし、勇者としての選択に疑いの余地などありはしなかったのだ。
 なのにヴィーダとクライスを殺す方が正解だったと言うのだろうか? 破滅の魔法を受け継ぐなんて真似はせず。
 この先起こり得る惨劇が脳裏をよぎり、アラインは背筋を凍らせた。生まれなかった魔法使いたちの力はすべて己のものとなってしまった。だとしたら今後、この破滅の核は一層力を増していくに違いない。
(……何とかしなきゃ……)
 気休めでしかない封印を施し両手に手袋を嵌める。歯の根が鳴って、全身震えが止まらなかった。
 自覚もなしに一体何人屠ったのだろう。「流産だったの」と泣き笑いするエーデルを思い出して吐き気がした。――もしかしてあれも自分のせいだったのか。
 勇者の国でも兵士の国でも出生数は大幅に減少していた。戦争の影響はあるにせよ、見たこともない異常な数字だった。






 ウングリュクとトローンには早い段階で「僕が原因みたいです」と打ち明けた。ふたりの王は顔を見合わせ「誰にも言うな」と返事した。曰く、そんなことが発覚すればあちこちで大混乱が生じるからと。
 世界を救うはずの勇者が世界を危険に晒しているなんて。死に方さえわかればいくらでも死のうと思うのに、力を譲れる相手すらどこにもいなかった。
 このままでは世界はゆっくり死滅していく。表層の魔力を喰らい尽くしたら次は無作為に魂を奪うようになるはずだ。魔法使いだけでなく普通の人間も動植物も生まれなくなり、地上には己ひとりが取り残される。
 ぞっとした。それは何百年か先の未来ではあろうが、ほぼ確実に訪れる未来なのだ。
「僕はもう勇者を名乗れません。国王の務めも誰か他の者に任せるべきです」
 己の早計が、ひとりで成した決断が、こんな事態を招いたのだ。
 誰にも会わせる顔がなかった。誰かに責を問われたかった。それで何が変わるわけでもないのに。
「いかん、いかんぞ勇者殿。お前さんがいなくなったらアペティートやビブリオテークまで戦争状態に逆戻りする。心痛は察するが表舞台から退くことは認められんよ」
「アライン殿、私もトローンと同意見だ。あなたには民を率い、民を守る義務がある。勇者という存在の大きさをわからぬ御仁ではないだろう」
 トローンとウングリュクはなおも口を揃えて言った。今できる最善を考え直すのだと。
 「勇者」はもう単なる英雄の称号ではなくなっていた。新しい平和の御旗を破滅の名で汚すわけにはいかなかった。何故ならあらゆる国々がその旗の元に纏まりかけているところだったから。
「隠したまま勇者のふりを続けろと仰るんですか? それじゃあ僕はシャインバール二十一世と何も変わらない……!」
 慟哭は誰のための慟哭だったのだろう。
 誇り高い男でありたかった。それが無理なら勇者を降ろされた方がましだった。無垢な称賛に胸を痛めるくらいなら。
「解決策が見つかるまでの辛抱じゃ。この危機を打破した後はお前さんが勇者をやめようと王をやめようと止めはせん。だが今はどの国にもアライン・フィンスターが必要なんじゃ」
 トローンにはベルクの分まで踏ん張ってくれと言われているようだった。自分などが彼の代役を務められるはずないのに。
「あなたは決してあんな男と同類ではない。少なくとも我々には包み隠さず話してくれたろう」
 ウングリュクの慰めはアラインには届かなかった。どうにもならないことをわかっていて告げたのは、せめて精神だけは潔白でありたかったからだ。誰かのためじゃなく自分のため。我が身可愛さのため。だって「勇者らしくあること」以外、自分には何も残っていなかった。
 仲間の多くを失い、ノーティッツも説得できず、ツヴァングには見限られ――このうえ積年の夢に自ら泥をかけねばならないなんて。






 宮殿に戻るとクラウディアが会議の結果を尋ねてきた。当面原因は公表せず大臣たちにも問題を秘匿しておくこと、破滅の魔法に関する記録を極力控えさせること、移民・難民を受け入れ人口の減少分を補充すること、魔力の流れが変わったという嘘の学説を流布すること――僧侶の出してきた提案は大多数の人間にとって的確なものであり、アラインが口を挟む余地はなかった。民の安寧を願うなら全部受け入れねばならなかった。
 正義なんて存外儚く脆いものだ。たったひとつの嘘がすべてを濁らせる。
 勇者に相応しくなくなった自分がそう在り続けねばならない苦痛は、勇者を諦めねばならない苦痛の比ではなかった。
 真実に蓋をして、騙して、はぐらかしていることに誰ひとり気づかない。国内外で貴賎を問わず勇者万歳の声が聞こえた。
 やめてくれと叫びたくて、でもできなくて、心のどこかが死んでいく。病に蝕まれていく。
 右手の星が白く染まるにつれアラインの正気も遠のいた。
 トローンが没し、ウングリュクが没し、魔法使いの半数以上が世を去る頃には勇者依存の傾向が強まりもっと吐き出せなくなっていた。
 クラウディアを筆頭にした調査機関は何十年も成果を上げられないままだった。何度かノーティッツを頼ろうとしたけれど、結局会いに行くことはできなかった。
 何かの弾みで彼の魔力を取り上げてしまわないか怖かったのだ。もしノーティッツの魔物化が解けたら今度こそ彼は自分を許さないだろう。そう思ったから。






「……駄目だな。遺跡という遺跡を見て回ったが目ぼしいものは何もなかった。魔道書の類も集めきったろう。ヒーナの妖術書にしても前回ので打ち止めだ」
 嘆息混じりの報告を終え、ディアマントが窓辺に凭れる。王の間での謁見を嫌う彼はこうして直接アラインの私室に赴くことが多かった。
 今日は久々の邂逅だ。しかし思った通り進展はなさそうである。破滅の核を消し去る手段は半世紀が過ぎてもまだ見つかっていなかった。おそらくとっくに人の力でどうこうできる領域を越えてしまっているのだろう。この五十年で三日月大陸とヒーナは人口が激減した。アペティートやビブリオテークから渡ってきた人々が街にすっかり馴染んでいて、魔法使いの存在は希薄だった。
 ――誰か殺してくれればいいのに。思考の隙間にそんな詮無い言葉を浮かべる。誰にも自分を殺せないとわかっていながら。
 だったら誰か側にいてくれたらいいのになあ。馬鹿げた望みを口に出せるほど恥知らずにもなれないけれど。
 アラインは円卓から立ち上がり、腕組みするディアマントに近づいた。長い金髪は白髪混じりになり、目元には小皺らしき線も覗く。もう彼でさえそういう年齢になったのだ。
 老体に鞭打ち働いてくれていたクラウディアが引退したのは先日のことだった。今までありがとうと述べると僧侶は首を横に振った。自分はエーデルから赤子を奪った破滅の魔法に報復してやりたかっただけで、アラインのために動いていたのではないと。
 彼らしい言い分に思わず笑って、それから恨んでいるかと聞いた。クラウディアは「ほんの少し」と正直に教えてくれた。
「ディアマントもありがとう。もういいよ、もう遠くまで足を運んでくれなくていい。……破滅の魔法のことなんか忘れて思うように生きて」
 抵抗の隙など与えずアラインは闇魔法を発動する。他人の記憶を操るのは三度目だ。一度目はノーティッツ、二度目はクラウディアだった。
 誰にもどうすることもできぬ災禍なら知らずにいるのが幸せだろう。クラウディアもディアマントもエーデルには話そうとしなかったから、彼女は元々何も知らない。調査機関は既に解散状態だし、詳細を知るのはもう彼と自分だけだ。
「勝手でごめんね」
 世界にひとりきりになる、その覚悟は十分でなかった。けれど時間は待ってはくれない。迷う間にあらゆるものが通り過ぎていく。
 せめて昔の仲間には思い残すことのない最期を迎えてほしかった。だから余計な記憶を消した。たとえ仮初の幸福だとしても笑っていてほしかったのだ。
 「勇者」に失望しないでほしかった。自分が一番自分に落胆しているくせに。






 ディアマントがエーデルと共に都を出ると伝えにきたのはクラウディアの葬儀が終わった一ヶ月後だ。契約を結び直さないかと持ちかけてみたが、彼が頷くことはなかった。
 これで本当に誰も側にはいなくなったな。
 玉座に預けた身体が何故か重く感じる。不意に右腕を切り落としたい衝動に駆られ、重く長い息を吐き出した。
 意味がない。意味がない――。心臓にオリハルコンを突き刺しても、頭蓋を砕いても死ねないのに。

「アライン様、会議のお時間でございます」

 媚びへつらった猫撫で声で大臣が呼びにくる。議会のメンバーは中高年ばかりだが、いつの間にか年下だらけになってしまった。誰もみな幼少時から知っている人間だ。幼少時から、アラインは素晴らしい勇者だと刷り込まれている者ばかり。ひとりとして反抗などしようとしない。

「はい、陛下の仰せのままに」
「もちろん異論はございません」
「我が王は常に公明正大、間違いなどあるはずもない!」

 中身のない答弁に民意は嫌でも透けて見える。「何でも王様がなんとかしてくれる」と彼らは信じ切っている。不死身の勇者に守られていることを、祝福の都に生を受けたことを幸運に思っているのだ。
 誰がこれを相互依存だと思うだろう。もうとっくに勇者の器ではなくなったのに、勇者として求められねば立っていることもできない。他には自分の価値を見出せなくて。生きていていいと思えなくて。
 滑稽だった。虚勢に縋った嘘つきの勇者は嘘ばかり得意になっていく。「大丈夫だよ、僕が守るよ」とパフォーマンスする度に理想と現実は乖離した。本当のことを明かす勇気はどこかへ消え失せてしまったようだ。
 巷では出生数の低下はヒーナで悪い妖術が使われたせいだと噂されていた。他にもビブリオテークで流行った伝染病のせいだとか、アペティートの鉱山から出た毒ガスのせいだとか色々囁かれているようだった。訂正する気も起きないまま、子供は生まれにくいものだという認識が人々に定着していった。






 ******






「ベルク……」
 呆然とした表情のまま国王が立ち尽くしている。信じられないと言いたげに。
 少し逆立った黒髪と綺麗な青い瞳、膝まで伸びる真っ白なマント。いつか何かのニュースで見たのと同じ姿だった。外見は二十歳そこそこか、こちらより若々しいぐらいである。
 後ろ頭を掻きながら「いや、俺はバイトラーク・フェルナーって言うんだけど」と自己紹介すると、アラインは「そうか、そうだよね。今は今の名前があるよね」とひとりごちた。魂は転生するものだということは冒険譚の中でも語られているが、こうもナチュラルに伝説上の人物扱いを受けると気恥ずかしくなってくる。前世の記憶でもあれば感慨もひとしおだったのだろうが。
「けどそのオリハルコンは? まさか生まれつき持ってたわけじゃないだろう?」
 指差された聖石の銃はつい昨日手に入れたばかりの代物である。何と答えるべきか逡巡し、バイトラークはこくりと頷いた。腹を割って話そうという相手に嘘や駆け引きは必要ない。

「それじゃあノーティッツと会ったの?」

 数週間前までの想像とはまったく異なる震え声にそう問われる。ずっと血も涙もない男なのだと思っていた。己の地位さえ確かなら、人類の行く末など気にも留めない愚王なのだと。
 しかし今バイトラークの目前に立つ青年は目眩がしそうなほど真摯な眼差しでこちらの返答を待っていた。
「ああ、会ったよ。オリハルコンもあいつがくれたんだ」
「……」
 アラインはしばし言葉を忘れたようだった。肩をわななかせ、目を瞠り、泣きそうになりながら次の問いを重ねてくる。
「……何て言ってた? ベルクに会えて喜んでた?」
 確か己はこの世の王者と話をしに来たのではなかったか。
 男はただの男にしか見えなかった。古い友人を案ずるただの男にしか。
 大王からも大賢者からも程遠く、なんだか拍子抜けだ。
「喜んでたかどうかはわかんねえ。あいつ自分の話はほとんどしなかったし、最後は無理矢理追い出されたし。けど、あんたのことはずっと心配してるみたいだった」
 告げた瞬間アラインは手にした杖を落っことした。純金製の王の錫杖だ。傷がついていやしないかとこちらがヒヤヒヤさせられる。 だが当の国王はそれを拾い上げる様子もなく、掌で顔を覆って俯いていた。

「ノーティッツが? 本当に……?」

 彼らふたりの間に何があったのか、そこに「ベルク」がどう関わっていたのか、バイトラークには知る由もない。わかるのはふたりにとって古い仲間が相当特別な存在だということだけだ。
 それにしてもこのところ他人の泣き顔ばかり見ている気がする。辛気臭いのはあまり得意でないというのに。
「あー、その、顔上げてくれねえ……?」
 静かに歩み寄り王の右手を取った瞬間、グンと間合いが開いた。突風に押し返されたのだ。
 同じような魔法なら神殿でも何度か受けた。だが発動までの速さに面食らった。あの悪魔の技が比較にならない。
「うわっとと!」
「だ、大丈夫? 僕に触らなかった?」
 崩れた姿勢を立て直すバイトラークにアラインは焦った素振りを見せる。そう言えば近づいただけで魔力を奪ってしまう厄介な体質なのだっけ。自分は魔法使いではないから平気だと思うが、軽率な真似をしてしまったか。ノーティッツの推測が正しければ、彼は魔力だけでなく魂すら吸収するのに。
「平気みたい……だね。ああ良かった」
 ホッと息を吐くアラインを見てバイトラークも安堵した。無闇に他人を傷つけるような男には見えない。それが嬉しかった。
「オリハルコンがベルクを守ってくれてるのかな? 誰かに右手を掴まれるなんて何世紀ぶりだろう」
 アラインは邪気のない笑顔で長い歳月を思わせることを言う。バイトラークは今更ながら王の私室に侍女のひとりもいないことに気がついた。そればかりか扉の外に衛兵の気配さえない。あるのは何かの結界のごとく四隅に祀られた聖石だけである。
「ずっとここに閉じ籠ってんの?」
 問いかけにアラインは頷いた。王は手袋を脱ぎ捨てるとバイトラークに右の甲を示してみせる。
「ノーティッツのことだから、大体の異変が僕のせいだとは気がついてたんだろ? この手の星が完全に白く染まれば、あらゆる魔力と生命が破滅の核に飲み込まれたっていうこと」
 人口減少の原因をあっさり認められたことより、彼の言う五芒星がほんの僅かの影を残しているにすぎないことに驚いた。――完全に白く染まったらだと? 既にほぼ真っ白ではないか。
「かなり進行しちゃったしね。もう人間も動物も次の世代が生まれてくることはないと思う。……色んな封印を試して出来る限り引き延ばしてきたつもりだったけど、そろそろ限界かも」
「……」
 諦め切っているからか滅亡を語る声は淡々としている。それとも四百年も生きたからもう十分だということだろうか。王の横顔は疲れて見えた。
 彼の体内で今なお渦巻く破滅の魔法。それがなくならない以上得られる明日はない。先の展望も未来への希望も失われて久しいから普通の人間は無気力だ。王の膝元で怠惰と安全を貪り、今さえ良ければそれでいいと己と向き合うことさえしない。どうせ何ひとつ残せないなら何も成さないほうがましだと逃げている。
「何とかする方法はないのか? ノーティッツは勇者がふたり揃えば新しい道が見えるかもっつってたんだ。もし俺にできることがあるなら教えてくれ。嫌なんだよ、今みたいなまま終わっちまうのは……!」
 王都から辺境の都市へ移ったとき、国王の庇護を極力受けず自立して生きていこうとする人間に何人も出会った。都では死に絶えてしまったものが辺境ではまだ息をしていた。自分の力で困難に立ち向かおうとする、そういう人間が率いていたから辺境軍にも志願したのだ。
「何とかする方法って? 今生きている人たちがこのまま生き残れるようにする方法?」
 投げ返された問いは何かがずれていた。そうに決まっているだろうとバイトラークがぶんぶん頭を上下させるとアラインは寝ぼけた調子で「あるよ」と返してくる。
「えぇえっ!? あ、ある!?」
 驚きのあまり素っ頓狂な声で叫んでしまい、慌てて口を噤む。打つ手がないから仕方なく放っておいたのではないのか? 怪しくなってきた雲行きにバイトラークは眉根を寄せた。
「じゃ、じゃあなんでその方法使わないんだよ? つーかどういう方法なんだ?」
 警戒心はそのまま仕草に現れた。神具のトリガーに指を添わせて相手の答えを待つこちらにアラインは至極なんでもないことのよう「意味あるのかなと思ってさ」と返事する。
「い、意味?」
「うん。僕がこの世界を続ける意味」
「……あんた何言ってるんだ?」
 アラインはにこりと微笑みバイトラークを見つめ返した。先程受けた印象とはまるで別人の顔だった。静かで冷たく底が知れない。
「人間は助ける価値のない生き物だって言いたいのか? 何百年もあんたに依存させといて、そんな見切り方はないんじゃねえか?」
「違うよ。価値がないなんて思ってない。愚かさも含めて僕は皆が好きだよ。幸せになってほしい」
 じゃあなんで、とバイトラークが食い下がっても虚ろな笑みは崩れなかった。瞳の暗さに気圧されて無意識に足が下がる。
 アラインは身を屈め錫杖を拾い上げるとぽつりぽつり胸の内を語り出した。
「こんな身体になってから、長いこと自分を責めてきたよ。僕が選択を誤らなければもっと良い今があったんじゃないかって。……でも五十年くらい前かなあ、僕は自分が何者だったのか、今ある世界がどうやってできたのか、そんなことを全部知ってしまったんだよね」
 ゆっくりと不死なる王が歩んでくる。困ったように片眉を下げたまま。
 敵意はなかった。感じなかった。それなのに、慈悲深いとすら思わせる眼差しに釘を刺されて動けなかった。
「気功師ってわかる?」
 辛うじて首を縦に振る。さっきまでは無かった重い威圧感が室内を支配している。
「昔ヒーナにいたっていう、魔法使いの軍隊だろ」
「ああ、えっとね、そうじゃなくて。……ずっとずっと昔から人間の運命を見届けてきたモノなんだ」
 見せてあげるとアラインが囁く。その刹那、杖の先から生温い光が迸り、周囲の空気を塗り変えた。
 気がつくとバイトラークは王の間にいた。玉座に腰かけるアラインの正面には顔の見えない男が浮かんでいる。重さを感じないせいか、生きているようには見えなかった。ひらひらと泳ぐ顔布が彼の個性を覆い隠し、装束の形でおそらくヒーナの民なのだろうとわかる程度だ。
「これは闇魔法。見てるのは僕の記憶」
 耳元で声が響く。景色の中にいるアラインとは別に、バイトラークの傍らにはもうひとり王の姿があった。

「精霊王」

 気功師と彼は同時に同じ言葉を発した。
 それが最初の名前だったと。






 ******






 魔力の枯渇は深刻な被害をもたらした。毎年のよう豊作を約束されていた勇者の国でさえ一世紀もすると十分な収穫を得られなくなってしまった。品種改良や農耕器具の開発でカバーできる範疇は最初から越えていた。何故なら大地そのものが生命力を失っていたからだ。アラインの魔法がなければ何百万という餓死者が出ていただろう。奇跡は早くも必要不可欠なものとなった。
 海の向こうではもっと悲惨な飢餓と災害が広がっていた。初めに立ち行かなくなったのは大国ヒーナである。皇帝の系譜が途絶えたばかりか気功に頼ることもできなくなり、国民の多くは別大陸へ移住した。ビブリオテークも疫病でとどめを刺され完全崩壊した。アペティートは帝都近辺に限っては持ち前の科学技術でなんとか暮らしていたけれど、それも長くはもたなかった。干上がり始めた海を見て一目散に彼らも逃げた。唯一人間の住める土地だった三日月大陸へ。
 せめてこの地だけは己の手で守り抜こうと、海に霧の幕を張り、田畑に魔法の雨を降らせ、そうして百と数十年。ふと周りを見渡せば、残っているのは儚く頼りない命ばかりだった。
 アラインに縋らなければ明日の糧にもありつけぬ沈んだ目をした老人たち。なかなか生まれてこない我が子に希望を食まれた大人たち。夢見る双眸を輝かせる子供たちなどいやしない。陰鬱から逃げるための享楽で街は満たされ、何かを成し遂げるための人生を求める者など最早どこにもいなかった。形だけの平和の中で誰もが縮こまっている。

「どうしたら皆もっと明るく過ごせるのかな。喜びや充実を得られるんだろう?」

 膨らみ続ける罪悪感を晴らす手段ももうなかった。こんな世界でさえなければ誰もが強く逞しく生きていけるはずなのに。
 思えば思うほど雁字搦めになっていった。己の頭が足りぬせいだと自分で自分を責め立てて。

「何を仰いますか、王よ。あなたが守って下さればこそ我々は生きていけるのです。そのままでいてくださればいいのですよ」

 もう魔法を使うのはやめるべきだろうか。アラインがそう言い出すのを恐れて誰もが必死にご機嫌を取った。
 いつしかアラインは己だけでなく彼らにとっても勇者ではなくなっていた。
 敬愛すべき王でもない。そもそも同じ人間だと思われていない。有り得ない奇跡を起こしてくれる便利な道具、玉座に繋がれた奴隷でしかなかったのだ。
 でもそれを非難する言葉など言えるわけもなかった。こうなったのは全部自分のせいだった。アラインの魔法の上でどんなにあぐらをかかれても、恐れられても、怯えられても、返せる言葉はひとつもなかった。そうして段々考えなくなった。
 もういいだろう。望まれるものだけ与えていればいいだろう。どうせ彼らは「はい」しか言わない。彼らが「はい」と言うようなことしか自分も口に出せない。
 まともに話をしてくれる誰かにずっと会いたかった。今でも深い森に暮らす友人がひょっこり訪ねてきてくれやしないか密かに期待した。でもそれは夢のまた夢だった。右手の星がある限り自分たちは不用意に近づけない。最後に残った友人を傷つけたくはなかった。まだ友達だと思ってくれているのかどうかもわからなかったけれど。
 ――気功師が現れたのは五芒星の九割以上が白光に侵された頃だった。ぼんやり過ごす時間の多くなっていたアラインだったが、数百年ぶりの邂逅には流石にハッとした。

「精霊王」

 そう言って彼は恭しく頭を垂れた。広間の中心に浮かんだまま。
 魔法使いはノーティッツ以外いなくなったと思っていたのに彼はしぶとく地上に残っていたらしい。

「あなたの答えを伺いに参りました。我が主よ」







(20130522)