ツエントルムとオーバストの話です。ベルク後編はまた後日。






 気持ち悪い、きっとこの子は悪魔の子だ。

 そう己を蔑む母の声がツエントルムの一番古い記憶だった。
 冬には雪に閉ざされる辺鄙な山奥が生まれ故郷。
 生まれたとき、魔力が強すぎ母を殺しかけた自分は村中から恐れられ忌み嫌われていた。

「ツエントルム、ツエントルム。川の氷が溶けたんだって! 遊びに行こう!」

 ただひとり、双子の片割れオーバストを除いて。



 幼少期の思い出は少ない。
 母の胴体に残る醜い傷痕を嘆いた父に頻繁に殴られたこと、身を守ろうとして父まで半殺しにしてしまったこと、何日も倉に閉じ込められたこと、オーバストが自分を呼ぶのでそれを壊して出て行ったこと、今度は鎖をかけられたこと、いちいち覚えていたい思い出など皆無だった。
 同じ容姿のオーバストはツエントルムと違ってほとんど魔力を持っていない。でもそれがこの村の「普通」で、この世界の「普通」だった。
 五歳になる前の冬の日、王都からひとりの使者が村を訪れた。ツエントルムの噂を聞きつけた王立魔法機関が是非うちにと引き抜きに来たそうだ。両親は愛想良くどうぞどうぞと了承した。とにかく厄介払いしたくて堪らないという風だった。
「でもすみません、実は欲しいのは彼だけではないんです」
 眼鏡の使者はそう笑い、双子を丸ごと引き取りたいと申し出た。
 両親は躊躇した。ツエントルムは悪魔の子だがオーバストは愛しい我が子、それにオーバストには何の力もないと返した。
 使者はにこやかに頷いた。もちろんそんなことは調査済みですと。
「双子というところに興味があるんです。もしふたり一緒でないならこのお話はなかったことに……」
 一度はツエントルムを手離せると思った両親に使者の揺さぶりはてきめんに効いた。結局自分たちはふたりとも親に捨てられることになった。
「じゃあ行きましょうか、ツエントルム。もうひとりはどこにいるんです? 別の部屋ですか?」
 パンと水しか並んだことのないテーブルに隙間もないほど金貨が積まれる。
 一部始終を見守っていたツエントルムは二階の部屋を指差した。
 やっとこの地獄から逃れられる。
 胸にあったのは少しの安堵と罪悪感。
 今まで唯一自分を守ってくれていたオーバストを、両親に愛されていたオーバストを、こんな形で巻き添えにしてしまった。それだけが申し訳なかった。
 馬車に押し込まれたオーバストは案の定父母を求めて泣き喚いた。ごめんね、ごめんね、と謝ることしかできず、ツエントルムは小さな胸を痛めた。
 だがこの選択をしたのは自分ではなく両親だ。都に着く頃にはオーバストも涙を引っ込め「ツエントルムは悪くないよ」と言ってくれた。とても嬉しかった。



 初めて見る王都は信じられないくらい華やかだった。直線と曲線が優美に融合したレンガ造りの建物、色とりどりの石を敷き詰めた大通り。目に映るすべてがただ賑やかできらびやかだ。往来をゆく人の多さにも圧倒された。思わずオーバストの手を握り、すごいすごいとはしゃぎ合った。ここにはツエントルムが大きな声を出しても怒鳴ったり嫌な顔をしたりする大人がいない。失いかけていた子供らしさがじわじわ戻ってくるのを感じた。
 連れて行かれた王城は美しい都でも群を抜いて完璧な建築物だった。魔法機関が腰を据えるという塔の一角に案内され、そこで着替えを渡される。若い女が湯の支度をしてくれて、丁寧に旅の垢を落としてくれた。
 オーバストは母を思い出し涙ぐむ。けれどツエントルムはまったく違った。目を瞠ったまま動けなかった。
 生まれて初めてだったのだ。他人から尊厳を持って接されるということが。
 浴室を出ると白い壁紙の部屋に通された。ガラステーブルの上には果実の盛られた皿があり、自由に食べていいと言われた。ツエントルムはオーバストと顔を見合わせ甘い林檎をひと欠片だけ口に放った。湯浴みの女はすぐに去り、代わりに眼鏡の使者が戻ってきた。
 彼の名はシュルトと言った。馬車に乗っている間はフード付きの黒マントを羽織っていたのでわからなかったが、淡い群青色の長髪で、理知的な紫の目をしていた。
「長旅ご苦労様です。今日はふかふかのベッドで眠れますよ」
 シュルトはにこにこ人好きのする笑みを浮かべる。自分たちはこの温和で優しい都の使者が好きだった。道中も「疲れていませんか? よく眠れていますか?」としきりに体調を気遣ってくれたし、何よりツエントルムとオーバストに分け隔てがなかった。ふたりを同等の人間として扱ってくれた。
 ――私も魔法使いですからね。私にとってあなたたちふたりは同じです。でも世間の人たちには魔法が使えるのと使えないのとではまったく違って見えるみたいです。
 そう告げたシュルトはツエントルムに「自分も親には苦労しました」と教えてくれた。
 この人も己と同じで親から疎まれ蔑まれたのだ。そう思うと不思議な連帯感が生まれた。
 馬車で過ごしたのはたった数日だったけれど、その数日はツエントルムの価値観に大きな変化をもたらした。
 シュルトはツエントルムの持つ魔力がどんなに強く恵まれたものか、何度も繰り返し説いてくれた。なくなってしまえばいいと思っていた力を初めて求められ、最初は信じるなんてできなかった。でもそれは嘘じゃなかった。王城へ来てちゃんとわかった。
 王都シュロスは夢の都だった。魔法機関の人間は誰もがツエントルムに親切だった。オーバストが側にいて、食事の心配も寝場所の心配もなく、思い切り魔法を使ってもいいだなんて。
 シュルトは次々ツエントルムに指示を与えた。そのすべてにツエントルムは期待以上の結果を残した。
「いや、素晴らしい。君には生涯国のため魔導師として励んでもらいたいですよ」
 手放しの賞賛なんて初めてだった。ツエントルムはすぐ有頂天になった。
 寝る前に今日どんな訓練をしたかオーバストに伝え、「やっぱりツエントルムはすごい」と言ってもらうのが日課になった。オーバストにも別の教育係がついて基礎訓練が始まったらしい。けれど彼にはてんで魔法の才能がないらしかった。
 オーバストはツエントルムを自慢の兄弟だと話してくれた。一番欲しい言葉をくれるのはいつだって彼だった。
 都へ移った数日後、ツエントルムはシュルトに呼び出されひとり暗い部屋に入った。
 暗闇の中でもいつも通り彼はにこにこ笑っていて、今日もお疲れ様ですと労ってくれた。
「君たちはとても仲の良い双子ですね。引き裂かずに連れてきて本当に良かったです」
「うん、ぼくもうれしい。オーバストとはなればなれにならずにすんで!」
「ええ、これからもふたりはずっと一緒ですよ。君が私の言うことをよく聞いて、約束を守ってくれるなら」
「うん、ぼくがんばるよ」
「そうですか、ではこの魔法機関を離れていったりしませんね?」
「うん! ぼくずっとここにいたい! オーバストとふたりで!」
 暗闇の中に突如光が舞い降りた。――否、解き放たれたのだ。闇の中に黒い魔力で描かれていた魔法陣から。

「制約の契約が完了しました。君の自由はもう私のものです、ツエントルム」

 シュルトが何か魔法の準備をしていることはわかっていた。でもそれはいつも彼が見せてくれる花火のような、飴細工のような、オーロラのような楽しい魔法だとばかり思い込んでいた。
 制約と言われてもツエントルムには自分が何をされたかわからなかった。ただシュルトを取り巻く空気が一変したことだけは理解した。――恐怖という感覚で。
「簡単に説明してあげよう。君の持つ魔力は凄まじいけれど、頭の方はまだ子供だからね。これから君は私の命じたことすべてに従わなければならない。そして我が王立魔法機関を抜けることも許されない。もしこれを破れば君の大事なオーバストは死んでしまうことになるよ」
「……?」
 シュルトが何を言っているのかわからずツエントルムは後ずさりする。
 何か恐ろしいものに足首を噛まれた。冷たい牙の感触が背中に汗を伝わらせる。早くここから逃げたかった。逃げなければならなかった。今すぐ己の半身を連れて。
「勿論これをオーバストに話しても彼は死ぬ。試してみてもいいけれど、消えた命は戻らない」
 はははと笑ってシュルトは冷たく「止まれ」と言った。
 本能的に足を止め、ツエントルムは男を見上げた。鼓動が酷く早かった。眼もちかちかと眩んでいる。
 死ぬ。きっと死ぬ。動いたら本当にオーバストが死んでしまう――。
 この男の魔法は本物だ。わかりたくもないのにわかってしまう。シュルトの右手で五芒星がきらめいていた。
「何のためにふたり連れてきたかわかったね? 人質なんだよ彼は。ゴミ以下の魔力しかなくても時々はこうして役に立つ人間がいるのさ。ははははは!」
 ツエントルムは激怒に震えたが今更どうしようもなかった。
 信じた己が馬鹿だったのだ。同じ傷を持つ男だと思って。
「君はまずきちんと敬語を学ばなくてはね。私が上で君が下だ。今夜そう決まったんだ」
 私よりよっぽど強い魔力を持っているのに残念だったねと紫の目が覗き込む。
 故郷より地獄に近い場所があるなど知らなかった。



 人殺しの教育が始まった。この国の王は遠くない未来に戦争を仕掛けるつもりで、 ツエントルムの魔法を主力にするつもりだった。
 数年内の話ではないとシュルトは言う。でも二十年は越えないだろうとも。
 最初は動物を殺せと言われた。ネズミ、猫、犬、兎、鳥、どれもツエントルムより小さな生き物だった。
 次に囚人を殺せと言われた。薬で眠らせた男、柱に縛りつけた女、病を得た老人、嫌だと言えばオーバストが死んでしまうので泣きながら魔法を放った。そうしたら泣くなと命じられた。
 次は浮浪者を殺せと言われた。汚いスラムへ連れられて、盗人の子や商売女の息の根を止めた。
 頭がおかしくなりそうだった。何よりだんだん罪悪感が薄れていくのが怖かった。小さな悲鳴を耳にした、その瞬間だけ己の心も悲鳴を上げる。もうこんなことはやめにしたいと。
 だけどシュルトが許してくれるはずなかった。上手に殺せ、たくさん殺せと男はツエントルムに叩き込む。オーバストより自分のことが可愛いのかと巧みにこちらを操りながら。
 シュルトの要望に応えられた翌日は甘い菓子が振る舞われた。少しも食べれず全部オーバストにあげていたら、他の食事を止められた。仕方なく頬張った砂糖菓子は舌の上でゆっくり溶けた。その甘さにまた泣きそうになった。
 ツエントルムは徹底して他者との接触を制限された。会っていいと許されたのはシュルトとオーバストだけだった。
 狭い部屋で積み上げられた魔道書に埋もれ、連れ出されれば戦闘訓練、オーバストといるときだけはやっと少しほっとできた。
 そうやってシュルトはツエントルムを完璧に管理した。世界を狭め、オーバストを盾にされれば身動きも取れなくなるように。そうしなければ扱えないくらいツエントルムの持つ力は強大だったのだ。
 シュルトは訓練のときだけツエントルムを「トルム」と呼んだ。いつしかそれは自分にとって殺人者を示す名前となった。






 十歳になる年のこと、それまで王城で一緒に暮らしていたオーバストが養子に出されることになった。理由は簡単だ。ツエントルムの双子なのにほとんど魔力を有していないから。最初から育てる気などなかったくせに、魔法機関は彼に見切りをつけたという体にした。
 オーバストは子供のない裕福な家庭に引き取られた。ツエントルムは彼に会えなくなるのではと怯えたが、週に一度くらいはふたりの時間を作ってあげようとシュルトが許可をくれた。
 ツエントルムがただのツエントルムでいられる機会はごく少ないものになった。訓練はより厳しく過密になり、ツエントルムは他に比類なき魔導師となった。外の情報はほとんどシュルトから入ってくるものばかりなので、そんな己の力量など知ることもなかったが。
 初めのうちは不安がり寂しがっていたオーバストも、徐々に新しい環境に慣れ始めた。養父母は非常に優しい老夫婦で、オーバストにとても良くしてくれるらしい。学校にも通い出し、優秀な成績を収めているそうだ。魔法では全然だったから嬉しいと笑うオーバストにツエントルムも心から賞賛を述べた。――初めのうちだけは。
 魔法機関の監視に片割れはまったく気づいていなかった。彼は生まれ故郷の両親に手紙を書き、機関にいた頃の給金を送り、お礼と謝罪の返事をもらったそうだ。ツエントルムにも面会の際、時々街の土産や流行りの本を持って来てくれた。薄暗い塔の中で隠されて暮らすツエントルムとオーバストは正反対の生き物になった。オーバストはいつも明るい光の中にいた。
「ツエントルムのこと友達に自慢したいよ。でも軍事機密で喋っちゃいけないんだって」
「ふたりで街に遊びに行けたらいいのに。こっそり抜け出したりできないの?」
 優しいオーバストは楽しい暮らしを楽しい楽しいとは語らなかった。ただふたりでいられたら、といつもそれだけ言ってくれた。外へ出られないツエントルムのために。
 ――抜け出すのは簡単だけど、そんなことすればお前が死んでしまうんだよ。
 言えるわけなかった。
 だからツエントルムはいつでもこう返した。
「わたしはここの暮らしに満足しているよ」



 もう何年か過ぎ、ツエントルムは十五歳になった。
 シュルトに敵国だと教えられた国とはじわじわ関係が冷えていた。憎しみが小さな村にまで浸透しきったとき、争いは始まる。不思議に歳を取らない賢者はそう告げた。
 この頃オーバストはあまり面会に来てくれなかった。来てもなんだか上の空で、ツエントルムの相手をしてくれない。
 何か彼の気に障ることをしたのだろうか。彼を怒らせてしまったのだろうか。
 恐る恐る尋ねてみるとオーバストは「違う違う」と焦って首を振った。
 曰く、彼は恋をしたらしい。いつ何をしていてもすぐ彼女のことで頭がいっぱいになってしまい、まるで病のようなのだと。
 最初にそれを聞いたときツエントルムはまるで自分のようだと思った。苦しいときも嬉しいときも思い浮かぶのは片割れの顔ばかりだ。他にはシュルトぐらいしか知らないので当然と言えば当然だが、いつだってオーバストの存在に支えられてきた。彼がツエントルムを愛してくれるから自分はまだ正常な心を残していられるのだ。
 けれどすぐ野蛮な感情が裏側から現れた。
 ――もしオーバストがわたしを忘れてしまったらどうなるのだろう?
 たとえようのない不安が心臓で渦を巻く。今までずっと彼を守るため両手を血で汚してきたのに。
 照れ臭そうに「ごめん、ツエントルムにはこんな話わからないよね」と謝るオーバストを見て何かが決壊し始めたのを感じた。殻が剥がれ落ちるように、パキパキ、パキパキと胸の奥で音が響く。
 やっちゃいけないとわかっていても止められなかった。
 ツエントルムは初めてオーバストに知られないよう魔法をかけた。
 追尾の魔法。彼が恋した女がどんなかひと目見たくて。安息が欲しくて。
 そんなことしなければ良かった。
 オーバストの語る言葉でしか知らなかった普通の暮らしを、彼の目を通して垣間見てしまった。

「あ、あ、あああああああああああああ!!!!!!!」

 真っ暗い塔の一室。誰もいない闇の中、喚いて叫んで号泣する。
 同じ親から生まれたのに、同じ顔をしているのに、同じ声で話すのに、自分と彼の何が違う。
 オーバストにはたくさんの友人がいた。そのうちの誰の名前もツエントルムは知らなかった。
 優しいと言っていた老夫婦は本物の親以上に彼を愛し慈しんでいた。
 女とは既に恋仲だった。手を繋ぎ、腕を組み、幸せそうにふたりは笑った。
 ――幸せそうに。
 ――ツエントルムがいなくても。



「嫌なら殺せばいい」



 闇の中にはいつの間にかシュルトがいて、微笑みながらそう言った。
 暗殺の練習にはちょうどいいと。戦争になれば女も子供も殺さねばならぬときが来るのだと。

「こっそりやればオーバストにはばれないさ。そうだろう、トルム?」



 苦悩に悶え、何度も葛藤を繰り返し、ツエントルムは己の中の殺人欲と戦った。
 網膜に焼きつく黄金の髪と蒼い目の女。あれはオーバストの大切なものだとわかっているのに、自分にとっては邪魔なものだと思う心が拭えない。
 オーバストには他にいくらでも彼を愛してくれる存在があるけれど、自分には彼だけなのだ。奪われるのは困る。自分はツエントルムでいられなくなってしまう。
 追尾魔法はまだ解けなかった。見たくもないのに毎日ふたりを追ってしまう。オーバストは日ごとに彼女に夢中になっていく。
 恐怖しかなかった。本能的な死の恐怖に近かった。
 ツエントルムの世界にはオーバストしかいないのだ。
 片翼をもがれればもう生きてはいけない。
 お願いだからと天に祈る。これ以上彼の心を遠ざけないでくれと。
 ――光の世界は残酷だった。彼には影なんて見えていなかった。
 影なんて、一歩ごとに踏みつけるものでしか。



「君さえいてくれれば他には何もいらない……」



 オーバストが囁いた瞬間、ツエントルムの世界は真っ暗になった。
 唯一の光はどこかへ行ってしまった。
 代わりに雨雲がやってきて、稲光が世界を照らした。



 黄金の髪は煤けて真っ黒に焦げていた。都中に落雷が相次ぎ、たった一日で甚大な被害をもたらした。彼女はたまたまそのひとつに当たったのだ。
 すぐ側でシュルトの笑い声が高らかに響く。
 どんな訓練の後よりも嬉しそうに、賢者はツエントルムの頭を撫でた。

「これで君もこちら側だね? だって今、君は命令ではなく自分の意志で人を殺したんだ」

 がくりと膝から力が抜けた。
 ああ、わたしは本当の地獄に落ちたのだ。



 失意のオーバストを慰める。
 楽になった自分を感じて吐き気がした。
 片割れは「もう誰も好きにならない」と誓って泣いた。その言葉にほっと胸を撫で下ろした。
 同じ顔、同じ声、同じ親から生まれたオーバスト。
 わたしはまだお前と同じ生き物なのかな。
 お前と同じ人間なのかな。
 お前の幸福を願えないんだ。
 こんなにお前が大切なのに。






 ――隣国との戦争が始まった。ツエントルムが二十歳のときだった。
 国境での小競り合いは瞬く間に拡大し、最前線に立つよう魔法機関にも王命が下る。
 シュルトは「ようやく君のお披露目ですね」と笑った。

「たくさん殺して武勲を立ててくださいね」

 戦場へ赴く旨を告げるとオーバストはとても心配してくれた。無理はするな、死なないでくれという言葉が素直に嬉しかった。
 転移魔法でいつでも戻って来られるし、浴びる血なんて返り血だけだ。
 虐殺に次ぐ虐殺でツエントルムは敵国を震え上がらせた。街や村を破壊しながら北上し、たったひとりで幾つもの騎士団を壊滅に追いやった。
 このときになってようやくツエントルムは己の才能の異常を自覚した。
 魔法使いを名乗る連中の魔力などどれも大したものではなかった。束になってかかってきて、やっとシュルトの半分程度だ。賢者くらいが普通なのだと思っていたツエントルムに戦場は遊び場でしかなかった。
 どんな大きな魔法を撃ってもツエントルムの魔力は切れない。敵兵の屍が山を作って進むべき道を塞ぐので、すべて灰塵に変えてやった。
 味方を巻き込んでも気に留めなかった。女が我が子の命乞いをしてもまとめて焼き払った。ただ何かに復讐するように、破壊と暴虐の限りを尽くした。
 他人の幸せを奪うことに躊躇などなかった。それがどんなに尊いものかツエントルムにはわからなかった。わからなくなるように教育されていた。言うことをよく聞く殺戮人形であるように。
 多分自分はこの戦争が終わったら用済みで殺されるのだろう。なんとなくそれもわかっていた。こんなに力が強くなってはもう子供の頃のようお情けでも生かしてはもらえまい。
 人間は自分と違うものを阻害する。その兆候は既に味方の軍の中にも現れていた。どれだけ彼らを守ったところで結局居場所など得られないのだ。



 半年も経たぬ間に敵国は休戦を申し入れてきた。既に国土の3分の2を制圧し、軍隊はほぼ完膚なきまでに叩きのめしていた。
 国王は頷かなかった。彼は最後の最後まで汁を啜り尽くすつもりだった。
 ツエントルムは知らない。王の間に何があったかも、シュルトがどうして魔法機関に属していたのかも。ただ力と、それを振るう場だけ与えられていた。
 休戦協定が却下された数日後、シュルトは戦場から姿を消した。そうしてまた数日過ぎて戻ってきたとき、右手の五芒星は消えてなくなっていた。彼は敵国の魔導師に賢者の力を奪われたのだ。
 夜明け前だった。
 シュルトの瞳と同じ薄紫の空が広がっていて、ツエントルムは指先の震えを誤魔化せず、目を瞠ったままでいた。
「あの国には妹を残していたんだ」
 苦々しげにシュルトが語る。昔々の彼の話の片鱗を。でもそんなものどうでも良かった。
「……こうならないよう親も親戚も友人も皆殺しにして寝返ったのに、彼女だけは調子が狂う」
 ――今なら殺せる、この男を。
 ずっと自分を閉じ込めてきた契約の魔法は途切れている。
 シュルトは笑ってこちらを見つめた。眼鏡は半分壊れていた。

「あの子が殺してくれなかったから仕方ない。トルム、君で我慢しておくよ」

 跡形も残さなかった。
 両手から発した光と熱の塊を気の済むまで叩き込み、骨まで蒸発させる。
 ――消えろ、消えろ、影よ消えろ。
 早く散ってしまえ。

「……はぁっ、……はぁ……っ!」

 乱れた息を整えることもせず膝をつく。
 地獄の終わりは呆気なかった。
 やっとオーバストと同じ世界で暮らせるのだ。ほんの僅かだけ世界に光が差した。

「……シュルト?」

 ほんの一瞬だけ。






 賢者の気配が消えたからだろう。転移魔法で現れたのは群青色の三つ編みと紫の目をした女だった。右手には五芒星。ひと目で妹だとわかる。

「殺したの?」

 女は声を裏返らせた。顔を歪め、何故、どうしてとヒステリックにツエントルムを責め立てた。
 その態度にせり上がる違和感と嘔吐感。何故なんてこちらが聞きたい。自分は正当に報復を加えただけだ。自分の人生をめちゃくちゃにした男に。ツエントルムを影の中へ突き落とした男に。

「折角もうすぐやり直せるはずだったのに!!何故あたしからシュルトを奪ったの!?」

 女は破滅の呪文を唱え、世界を滅ぼす魔法を発動させた。
 一瞬で構築できるような魔法ではない。実際に使用するつもりがなくても駆け引きのため準備だけは整えてあったのだろう。だが術者である女が激情に駆られた。たったひとりを失った女はすべてを巻き添えにツエントルムを攻撃した。
 風をまとい、天高く逃れ、ツエントルムは足元の暗黒を見やる。赤黒い塊が見る間に膨れ上がっていく。
 敵も味方もなかった。あらゆるものを飲み込んで、魔法はどこまでも肥大した。そうして大きく邪悪な球体になると、ごろりと大地を転がり始めた。まるで坂道の雪玉のように。

(違ったんじゃないか……)

 嘘つきめ、と胸中で悪態をつく。
 悪魔だと思っていた男の顔を思い浮かべて。

(お前は「こちら側」なんかじゃなかったじゃないか……)

 愛した者に愛されて、思われて、――そんなことが羨ましくて堪らない。
 たったひとりしかいない世界の、その唯一に、自分だけを見てもらっているじゃないか。
 何がこちら側だ。
 何があちら側だ。
 悲鳴と怒号は空まで響く。命が無残に失われていく。

(何人殺した?)

 自問には答えられなかった。数なんて知らなかった。

(何人救った?)

 そんなものはいない。誰もいない。
 今更自分がオーバストの隣など歩けるものか。優しい日の光を浴びて。
 ふらつきながらツエントルムは破滅の魔法と並走した。
 もっとずっと小さい頃に一緒に死んでしまえば良かった。
 けれどもう何もかも遅い。地獄行きは自分ひとりだ。オーバストとはあまりに違う存在になりすぎた。

(死ね……みんな死ね……)

 幸福なものはみんな死ね。不幸なものはみんな死ね。
 死だけはすべてに平等だ。
 わたしにも彼にも。



 逃げ惑う人々を押し潰すよう凄まじい速度で破滅は行進を続ける。赤黒い雪玉が通りすぎた後には草の根も残っていなかった。
 飛び疲れ舞い戻った夢の都も半壊状態だ。もうほどなくしてあの魔法が到着し、ここも全滅するだろう。
 最後にひと目オーバストに会いたいとツエントルムは彼を探した。
 見つけるのは容易かった。こんなときでも彼は大勢の友人に囲まれていた。
 どうやら地下書庫のある大図書館へ人々を避難させているらしい。結界も張れないくせに何をあがいているのだろう。おかしくなって笑ってしまった。そうしたらその笑みに気づかれた。
「ツエントルム……?ツエントルム、無事だったのか!?」
 オーバストの叫ぶ声に人々が顔を上げた。大魔導師ツエントルムの名は戦争開始以来都中で噂されていたらしい。ざわめいた群衆がこちらに手を擦り助けを求めた。
「た、助けてください! 国王は都の魔法使いたちをみんな城に集めて、自分たちだけ生き延びようと……!」
 王城へ視線を向ければ微弱この上ない結界が城壁の向こうを覆っている。愚かだ。あんなもので防御できる魔法ではないのに。
「ツエントルム……!」
 名を呼ばれ、ツエントルムはオーバストのすぐ側へ降り立つ。同じ顔、同じ声、だけど中身はすっかり別の。
 ――もう疲れたんだ。一緒に死のう。
 そう刻もうとした唇は別の言葉に制された。黒い瞳をオーバストが覗き込む。眼差しは昔のまま真っ直ぐで温かい。
「頼む、なんとかしてくれ。大事な友達も逃げてきてるんだ。私じゃみんなを守れない……!!」
 お前の力が必要なんだと彼が言う。
 生きるため、こんな薄汚れた力でも今はどうしても必要なんだと。
「……」
 オーバストは眩しい。いつだって光を浴びている。
 彼の言うよう誰かを守るため魔法が使えたら、自分にも希望が持てるだろうか?
 自分のためだけに彼の恋人を殺したことも、どうにかやり直せるだろうか?
 もしそれが可能なら、ふたりで同じ世界を生きることができるなら、わたしは――。

「何やってるのオーバスト!! あなたも早く地下に隠れて!!!」

 見知らぬ女がオーバストの腕を掴んだ。
 追尾魔法なんかなくても左手に嵌った揃いのリングだけで理解した。
 大事な友達?――誰が?
 大事な女の間違いだろう?
 お前はもう誰も好きにならないんじゃなかったのか?

「……っくっく、ははは! あっはっは!」

 堪え切れず笑みを零したツエントルムに女がぎょっと目を剥いた。思い人と同じ顔が気の触れたよう笑っているのだから当然だ。
 そうだ、わかりきっていたことだ。
 泣きたいのを堪えてツエントルムは目元を抑える。
 オーバストはわたしとは違う。オーバストは世界に愛され、世界を愛している。呪いじみた思いしか持たない自分とは違うのだ。
 たったひとつと思った光を失っても、彼には次が与えられる。訪れるのは絶望などではない。



 ドオンと大きな崩壊音が響き渡った。
 都の外壁を破り、雲に届くまで成長した赤黒い光球がのっそりと姿を現す。
 まだ地上に残っていた人々は一目散に地下書庫へ走って行った。
「ツエントルム!!」
 オーバストがツエントルムの腕を掴んだが、一歩だって動いてやるつもりはなかった。
 滅んでしまえばいい。何もかも。
「ツエントルム!!!!」
 突き飛ばすよう女の背を押しオーバストが行けと叫ぶ。
 誰もいなくなったのを確かめてからゆっくり彼を振り返った。破滅の光を背に負って。
「わたしになんとかしろと言ったな」
 無尽蔵と讃えられた魔力を半分解き放ち、その威力で球体を押し返す。軌道を失った雪玉は都をぐるりとひと廻りした。
 美しい都、美しい王城、音を立てて崩れていく。大図書館以外ろくな建物は残っていなかった。
 螺旋を描いてごろりごろりと死が迫る。けれどそれはとても優しいものに思えた。
「もしお前がわたしに誓ってくれるなら、わたしは死力を尽くして残った命を救うよ」
「……誓うって何を?」
 オーバストが息を飲む。
 わたしは何を言っているのだろう。そうは思えど口をつく言葉は止められない。
「お前はわたしの片翼だ。魔力の差も生き方の違いも関係ない。間違いなくわたしの片割れだ。――だから誰より何よりわたしが大切だと誓ってくれ。そうでないならわたしはこのまま死んでしまいたい」
 短い沈黙が訪れた。
 オーバストはどんなときでも正直で、嘘などつけない男だった。
「私が一番大切に思うのは……」
 脳裏に誰が思い浮かんでいたのだろう。誓いは途中で止まってしまう。



 ――何故あたしからシュルトを奪ったの!?



 兄の死を嘆いて暴走した女賢者。妹に殺されたかったシュルト。ふたりの世界はふたりきりで完結している。なら我々はどうだ?
 信じたかった。オーバストも自分を大切に思ってくれていると。その他大勢のひとりなんかじゃないと。
 こんな自分でもきっと誰かから一番だと思ってもらえている。愛してもらえている。
 そのはずだろう?そうでなければいけない。
 だってわたしたち、たったふたりの兄弟じゃないか。
「誓いを破ったらどうなるんだ?」
 オーバストの問いにツエントルムは静かに答える。
 誓いは絶対だ、と。

「お前の言葉が嘘だったなら、もし助かってもみんなみんなすべてを忘れてしまうだろうね」

 ぐっと息を飲みオーバストは俯いた。
 結果なんか見えていたのに何を試したかったのだろう。
 それでも望みを捨てられなかった。自分だけが「こちら側」なんて思いたくなかった。
「誓うよツエントルム、何よりお前が大切だ」
「……その言葉忘れるな」
「ああ忘れない、何があっても。だから頼む、皆を、世界を守ってくれ……!」
 契約はあっさり完了してしまった。
 でもこれは彼の自由を奪うための魔法でも、己の力を増幅させるための魔法でもなかった。
 ただオーバストの言葉が真実かどうか確かめるためだけの。
 たったそれだけの。



 地下書庫に潜ってツエントルムは魔法陣の構築を始める。
 破滅の魔法を抑え込む着想は既に得ていた。あの魔法は魔力を吸い込み極限まで大きくなる。それなら別の魔法にその魔力を吸わせればいいのだ。ツエントルムならそれができた。
(だが一度、あの球体をここまでおびき寄せねばならない)
 凄まじい地響きが止むことなくこだました。パニックに陥った人々の悲鳴がフロアに満ちる。
 最初から彼らの肉体を守る気はなかった。もう逃げられないところまで魔法は迫っていたから。
 ツエントルムの選んだ術は魔法ではなく呪いだった。人格を保護するために敢えて魂を鳥の姿に変換する。行先は海底火山と決めていた。あの内部には自然エネルギーが溢れていて、時空のねじれを半永久的に維持できるのだ。
 皮肉なものだ。魔法のことならなんとでもできるのに、どうして自分は他に何も持っていないのだろう。
(オーバスト、わたしを忘れないでくれ……)
 祈りながら転移魔法で図書館ごと脱出し始める。ギリギリを見極めねばならない。転移が早すぎれば破滅の魔法を相殺できないし、遅すぎれば諸共に飲み込まれる。
 赤と黒の光に抱かれ、天井が崩落した。
 肉体を通過していく魔力の塊。だがそれは眼下の魔法陣に吸収され、こちらを追っては来れない。
(今だ……!!)
 空間ごと持って行く大転移は初めてだったがなんとか成功したようだ。
 天界の原型となる亜空間に辿り着くと、破滅の魔法に触れた人々の肉が腐って溶け落ちた。
 その内側から仄かに青く輝く翼を広げ、命が羽ばたき出す――。

「オーバスト」

 鳥の姿になったであろう彼を求めてツエントルムは辺りを見回した。己の名を呼び飛んできてくれるはずだった彼は、のっそり床に起き上がると「ここはどこですか……?」と聞いた。



 最初に浮かんだ言葉は「ああやっぱりな」だった。
 オーバストにとって自分はかけがえのない存在ではなかったのだ。
 ツエントルムが彼に対し抱いていた思いと比べ、それは微弱なものでしかなかった。
 神鳥たちは誰も何も記憶していなかった。
 契約に巻き込まれ、彼らもすべてを失ったのだ。ツエントルムと平等に。






 誰にも会いたくなくてさっさと小島をこしらえると、大図書館の残骸を神殿と称してツエントルムは引き篭もった。
 神鳥たちはわけがわからないなりに羽を休める場所を定め、思い思いに暮らし始めた。
 人の姿を残すのは術者であるツエントルムのみだった。食べる物が何もないので精神と肉体は早々に切り離した。
「……何か思い出したか? オーバスト」
「……いいえ、まだ何も思い出せません」
 毎日ではないにせよオーバストを呼び出すのだけは頻繁だった。
 ツエントルムはまだ片割れへの未練を多分に持っていた。
 我ながら救えないなと思う。こんなことになってもまだ現実を受け入れられない。
 オーバスト、わたしの姿を見て本当に何も思わないのか?
 お前と同じ顔、お前と同じ声をしているのに。
「あの、私はあなたにとって何だったのでしょう? どうして私だけにいつも同じ問いを繰り返されるのです?」
「……お前の誓いを信じたいからさ。私たちはとても仲の良い友人だったんだよ」
 嘘はさらりと口をつく。
 友人なんてわたしにはいたこともない。
 ――違うでしょう。私たちは双子の兄弟だったはず。
 そうオーバストが否定してくれるのを待っていた。
 けれどそんな奇跡は起きなかった。



 何年かすると大陸ではまた人間たちが国を作り始めたようだった。
 どうせ似たような歴史しか繰り返せないくせによくやる。

 ――世界を守ってくれ……!

 オーバストの言葉を思い出し天界から地上を見守ることに決めた。
 人間同士の争いをなくすためにどうしたらいいか、ツエントルムは自分なりに考え始めた。



 地上には魔法使いが増えていた。
 人間の数が減ったからか、今は魔力を受けて生まれてくる子がほとんどらしい。
 数が少なかったときは気持ち悪いと受け入れなかったくせに、「強い」「すごい」と持て囃されているのを知ると殺してやりたい衝動に駆られた。

(大丈夫だよオーバスト、わたしはお前との約束を守る)

 どんなに人の世界が嫌いでも。
 どんなにお前の愛したものが憎くても。

(だからわたしを思い出してくれ……)



「何か思い出したか? オーバスト」
「いいえ、まだ何も思い出せません」



 この魂に近づく者はたとえ誰であれ許せなかった。
 そのうちツエントルムはオーバストを神殿から出さなくなった。
 神鳥たちと関わる必要は露ほどもなかった。
 ただずっと、遠視の魔法で地上を見ていた。






 増えすぎた人間を淘汰するため、また強くなりすぎた国の力を削ぐために地震を起こすことはままあった。
 海には霧を撒き、外敵の侵入を防いだ。内海も人の目に映らないようにした。
 生み出した魔物はよく働いてくれている。放出魔力に己の闇魔法を組み合わせたからか、彼らは生まれながらに人間を憎んでいた。
 魔王と勇者を作る構想は割合すぐに思い浮かんだ。オーバストが学校で流行っていると持ってきてくれた物語。それを思い出しながら勇者の旅のルートを決めた。
 地上に降りたのは何十年ぶりだったろう。もう百年は越していたかもしれない。
 祖国のあった場所でツエントルムはひとりの女に出会った。見てすぐにわかった。ああ、オーバストの初恋の女だと。
 幻惑にかけて半ば無理やり身をひとつにし、勇者の種を孕ませた。
 十月十日の時を経て黒髪の赤ん坊が生まれ、操り人形はすくすく育った。やがてそれは勇者として旅立ち、三つの神具を揃えて最初の魔王を討伐した。
 天変地異の大魔法は正しく発動し、大陸にあった街や村は半壊した。狙い通りだった。このままこれを繰り返せば地上は永遠に守られる。オーバストとの約束を違えることはない。
 ――この頃には半分狂っていたのかもしれない。
 嬉々として己の考案した魔法について説明すると、オーバストはきょとんと目を丸くした。

「……人を殺すのが本当に人を守ることに繋がっているんですか?」

 耳元でシュルトの笑い声が響いた。
 それを振り払うためツエントルムは絶叫した。

「どうしてお前がわたしにそんなことを言う!!!! ずっと、ずっと、何のためにわたしがお前を守ってきたと思っているんだオーバスト!!!!」

 幼い両手を血に汚して、泣くことも甘えることもできないまま、何故ここにこうして生きているのか。まだ生きているのか。
 得たかったたったひとつも得られないまま。

「ツエントルム……」

 怒りのままにツエントルムは激白した。
 生まれた国がどうやって滅びたか。己にとってオーバストがどれほど大切な存在だったか。
 だがそれでも自分たちが双子であったこと、シュルトに脅されていたことは打ち明けられなかった。
 オーバストには自力で思い出してほしかった。
 もはやそれだけが我々ふたりの絆の証明だった。

「お前は何よりわたしが大切だと誓ったんだ。わたしがお前との約束を守る間はお前にも誓いを守ってもらう。わたしより大事なものなど作らせないよ」

 ツエントルムはオーバストを盾の塔に追放した。
 時折神殿まで彼を訪ねに来ていた神鳥には新しい取り決めを伝えさせた。
 罪人は地上の塔に幽閉すること。今後一切誰も神殿に立ち入らないこと。


 初代勇者は「トルム神の加護があり、魔王を倒すことができた」と吹聴して回った。
 オーバストへの当てつけだった。それが後の宗教基盤にもなった。
 だが自分でそう仕向けておきながら、すぐに誰かにツエントルムと呼んでほしくて堪らなくなった。
 トルムはシュルトに作り出された心ない魔物だ。
 人殺しを何とも思わない野獣のような生き物だ。
 光の中では呼吸もできない真っ黒な影。
 オーバスト、早くわたしを見つけてくれ。ツエントルムを思い出してくれ。



「神様、駄目です。やはり何も思い出せません」



 金の鳥籠に囚われた片翼の神鳥はもう名前すら呼んではくれなかった。
 ア・バオ・ア・クーの中に魂の一部を封じたせいとはわかっていても、再び彼と融合させる勇気は出ない。
 また人殺しだと言われたらきっと今度こそ何もかも滅茶苦茶にしてしまうだろう。

(どうしてどんどん遠ざかるんだ)

 笑ってしまう。
 まるで本物の光のようにオーバストは掴めない。






 ツエントルムは次第に己の輪郭を保てなくなった。
 誰も自分を呼んでくれないのだから仕方ない。
 いつまで待ってもオーバストにはこれが自分と同じ顔だとわからない。
 長い長い時が過ぎた。
 普通の人間なら何度も朽ち果てているだろう時間が。
 また新しい魔王が生まれ、ツエントルムは名を授けた。
 魔王ファルシュ。
 意味は偽物。
 この世界と同じ名前。



 ファルシュとアンザーツが手を組んだことに気づいたとき、ツエントルムは腹の底から大笑いした。
 もう自分はすっかり元の形を忘れて丸い発光体になっていたけれど、怒りや嘆きや寂しさはついぞ忘れたことがなかった。

「……オーバスト。昔のお前のように、またわたしに抗議しようという者が現れたよ」

 そう彼に伝えたとき頭にあったのは、最後にもう一度だけオーバストを試してみようということだった。
 忘れてしまっていてもいいから、自分に味方してくれるかどうか。それだけ。
 お前がわたしだけ見てくれるならそれでいい。
 思い出せずとも永遠に寄り添ってくれるなら。
 きっとそれはそれで充足した幸せな世界だ。



 地上に下ろしたオーバストは面白いくらいすぐ恋に落ちた。
 その女を雷撃で殺し、子供を奪う。
 オーバストは大人しく従った。盾の塔に反抗心を封じられた彼はツエントルムに何でも差し出した。
 お利口だ。笑いが止まらない。最初からこうしていれば良かった。
 彼のすべてを取り上げて、彼もひとりにしてしまえば。
 何故自分は我慢などしてしまったのだろう?
 彼が自分以外の一切を所有していなければ、あの誓いだって本物になったはずなのに。






 ツエントルムは数百年ぶりに肉をまとうと自らも地上へ赴いた。
 ディアーナの妹を術でかどわかし、初代勇者をこしらえたときと同じよう子供を宿らせた。
 同じ街に住んでいた親は殺した。ディアーナの友人たちも殺した。オーバストと関わった何もかもが憎らしかった。
 出産に手間取ったため、胎は捌いて中の子供を取り上げた。
 生まれたのは女の子。なんだ女じゃ勇者にできないと興が冷める。母体を片付けるのも早すぎた。
 だが女児を抱き上げてすぐもうひとりいることに気がついた。

(双子――)

 激しい衝撃がツエントルムの全身を貫いた。
 双子!――双子!!



「は、は、ははは!! あはははははは!!!」


 血にまみれた寝台の脇で狂ったように笑い続ける。
 或いは泣いていたのかもしれない。



「……お前たちふたりのどちらがわたしで、どちらがオーバストだ?」



 返答などあるはずもなかった。
 より魔力の高かった女児を産湯につけて綺麗にしてやると、こっちを連れて帰ろうと決める。
「おいで、お前はわたしが幸せにしてあげる」
 男児は抱くこともせず宙に浮かべ、すぐ盾の塔へ連れて行った。

「お前が育てろ」

 聖獣ア・バオ・ア・クーを揺り起すとツエントルムは獣の前に赤子を放る。
 これが我々の運命だと言うのなら、それも良かろう。
 わたしを忌み嫌うお前の元で育ったとしても、わたしが必ず飼い慣らしてやる。
 そうしてお前のすべてをわたしのものにするんだ、オーバスト。






 ******






 青銀に光る羽が舞う。炎の中でこちらの両腕を抑えつけ逃がすまいとする。
「もうやめましょう。もう、ゆっくり休むんです。私があなたに望むのはそれだけです」
 ア・バオ・ア・クーと融合してオーバストは失っていた感情を取り戻したけれど、相変わらず記憶は甦らぬままだった。
 やっぱりわたしだけがこちら側か。手を伸ばしても結局届かなかったなあ。
 ほんのひと欠片でも構わないから思い出してくれれば良かったのに。
「……行きましょう。何も覚えてはいませんが、あなたをひとりにはいたしません」
 だけど側にはいてくれるらしい。
 あんなにたくさん酷いことをしてきたのに、どこにも行かないと言ってくれる。
 ならもうそれでいいかと思えた。
 躍起になって古い約束にこだわらなくても。
 彼の世界に自分以外の存在があっても。
(ツエントルムと呼んでくれたな……)
  少しだけ微笑んでアンザーツの肉体を離れる。
 ああこれでやっと飛べると安堵した。
 わたしの片翼。羽さえ揃えばどこへだって行ける。






 気づいたときには温かい闇の中にいた。
 ツエントルムは薄ら目を開け前を見る。あれ?と思った。身体は捨ててきたはずなのに瞼が復活しているなんて。
 右手にも妙な感触があった。何かどろどろしたものを掴んでいる。そのどろどろした何かをじっと見ていると、ゆっくりと形を成してツエントルムと鏡写しの姿になった。
「オーバスト!」
「ツエントルム……?」
 まだどこかふにゃふにゃしたあくびを漏らし、片割れは眠たげに目を擦る。
 だが次の瞬間ハッと覚醒しもう一度こちらの名を呼んだ。
「ツエントルム! ツエントルムだ!!」
 思い出したと彼が笑った。笑いながらぽろぽろ泣いた。
 長いことかかってごめんと抱きつかれる。
 こんなに待たせてすまないと。
 ――「ああここは冥界か」とか「わたしの魔法が途切れたのか」とか、そんなのは全部冷静になってから考えたことだった。
 すまないすまないと繰り返す片割れに震える声で違うと返す。
 それを言わねばならぬのは自分の方なのに、何も言葉になってくれない。



 最後に落ちたのは死の国の底だった。
 けれど不思議と悪い場所ではないと思えた。
 光の中でも影の中でも本当はどちらだって良かったのだ。
 ただ自分は彼に側にいてほしかっただけなのだから。



 随分遠回りをしてしまったと昔語りを始めるのはこの後すぐのこと。
 真っ暗な上空から我が子の選んだ勇者が落ちてくるのはまだ少しだけ先の話。










(20120710)

Wings to fly(翼をください)