未来編 獣の試練 前編






 中型の黒いバイクが夕暮れ空の下でエンジンを吹かしている。運転席に跨った男にヘルメットを装着しろと要求され、バイトラークは投げ寄越されたそれを被った。
 まさかそんな乗り物で迎えに来られると思わなかったので完全に意表を突かれた。どうやら最近の悪魔は人間界の道路交通法にまで精通しているらしい。
「荷物それだけか?」
 赤い双眸がちらとこちらの背に向けられる。軍用リュックには彼の仕事が終わるのを待つ間に購入した食料や着替え、その他の私物が詰め込んであった。見た目はコンパクトだが一週間程度の短い滞在ならこんなものだろう。
 バイトラークが頷くと、男は乗れと顎で指示した。なんだかなあと思いつつ後部シートに腰を落ち着ける。
「……空飛べるのにバイクで帰んの? おかしくね?」
 心底不思議でそう尋ねたらネルトリヒはさも当然のごとく「魔力がもったいないだろ」と返してきた。魔法のことはよくわからないのでそういうものかと納得するほかないけれど、何かみみっちい感じがするのは気のせいではあるまい。
「まさかあの森もバイクで突っ切るわけ?」
「いや、最寄りの駐輪場を借りてる。森に入る前に降りるよ」
 悪魔が月極契約してんじゃねぇよというツッコミはなんとか喉奥に封じ込めた。俗世に馴染みすぎだ。
 車体をやや傾けながらバイクはがらがらの道を飛ばした。田舎というほど田舎ではないけれど、都会とは言い難い赤煉瓦の街が背後に遠ざかって行く。建物はたくさんあるのに人通りは少ない。これは住む人間が年々減っているせいだった。土地や家ばかり余ってしまって都市の荒廃が一層進む。本当に早く何とかしなくては。
「なあ、アラインにクーデターの件バラしちまった?」
 王とは古い友人関係だと話していたネルトリヒだが、問いには首を横に振った。曰く、友人は友人だが袂を分かって以来連絡を取り合ってはいないらしい。
「様子の探り合いくらいはしてるけどな」
「あ? 探り合い?」
「魔法使い同士色々と利害があるのさ。だからどっちも境界線は越えないようにしてるし、監視し合ってる」
 ネルトリヒはそれ以上のことを語ろうとはしなかった。協力するとは言ってくれたが何でも教えてくれるわけではないようだ。
(友達同士で見張りっこってか? なかなか穏やかじゃねえな)
 そう言えば最初に彼と会ったとき、森へ侵入したのはアラインに命じられてのことかと問い質された。友人とは言えネルトリヒもアラインを警戒している面があるのは間違いなさそうだ。
「あんたの本名、あの王様は知ってんの?」
 何気ない質問に悪魔はしばし沈黙した。遠い昔に思い馳せているかのように。
「……知ってるよ。今でもぼくをそう呼ぶのはきっと彼くらいだな」
 バイトラークはリュックの紐にかけていた手に力をこめた。鞄の中には悪魔の名前当てをするための参考図書が入っている。地上から魔物たちがいなくなったとされるのはおよそ四百年前だ。ネルトリヒの悪魔が最初に目撃されたのも同じ頃である。人類と和解してすぐ魔物は種として滅び去った。アラインが魔物の友人を作れたとしたら、彼が冒険の旅に出て数年の間、アペティートとビブリオテークが戦争を始めるまでの僅かな期間であるはずだ。
(まさかこの歳になって児童書買うとは思わなかったぜ)
 勇者アラインの冒険譚――この胡散臭い英雄物語の中にネルトリヒの本名が記されている可能性は高い。子供の頃に授業で読んだきりなので細かいところは覚えていないが。
(見てろよ、絶対当ててやる。そんで全面的に俺らに協力してもらうからな……!)
 ふっふっふと思わず漏れた笑い声にネルトリヒが振り返る。気色悪いと貶されてバイトラークは憤慨した。
「そっちこそ前見て運転しろ、前見て!!」
「うるさい奴だな……」
 エンジンは軽快な音を奏でている。蛇行する緩やかな坂の下、砂利の隙間から雑草が生え散らかった駐車場とその向こうに例の森の一端が見えた。






 夕暮れ空に青銀の翼が溶ける。目立たぬように森の木々のすれすれを飛ぶ。
 薄暗闇をしばらく行くとバイトラークの眼前にピラミッド型の古い神殿が現れた。岩屋根を支える幾本もの石柱はずっしりとした存在感を放っており、祭壇の厳かさも先日目にしたままである。今日から七日間ここで魔法のなんたるかを教えてもらうのだ。そう思うと柄にもなく胸が高鳴った。この数年停滞し続けていた計画が、ついに動き出す時が来た。
「言っておくが素養のない奴に魔法は扱えないぞ。お前が身につけられるのは知識だけだ」
 そんなバイトラークの心境を見透かしたようにネルトリヒは嘆息した。足早に祭壇の間を抜けて行く彼に続いてバイトラークも歩を早める。
「ええー!? 俺じゃ魔法使いにはなれねえってこと?」
「習えば誰でもできる技なら魔法が奇跡なんて呼ばれることはなかったさ」
 それもそうだとバイトラークは小さく唸った。そもそも自身が魔法を信用していなかった理由もそこにある。誰にも見ることのできぬものは存在していないのと同じだ。ごく限られた者にしか見ることのできぬものは疑わしいものとして取り沙汰される。ネルトリヒが普通の人間に紛れて街に入り込んでいるのはそういう魔法や魔法使いの立場をよくよく理解しているからかもしれない。
「うお、なんだこりゃ」
 頭や肩をぶつけそうな狭い通路に文句を垂れつつ階段を下りると急に景色が変わった。足元こそ冷たい石の床だったが、その面がほとんど見えないくらいに分厚い絨毯が敷かれている。広々とした空間には横長の現代的なデスクが置かれ、背の高い本棚が何台ものモニターを見下ろしていた。見渡せばそこいらに溢れる文献と実験器具。隣の寝室と思しき部屋からも紙類の雪崩が続いている。連想したのは高等学校時代に見た理科準備室だった。
「これは……魔法使いの部屋というより、科学者の……」
「どっちも似たようなもんだろ? まあアペティートの流れを組んだ今の科学じゃ魔法の存在は証明できないか」
 腰をかけるよう促され、バイトラークはきょろきょろしながら車輪のついた椅子に座った。革張りの座面は柔らかく心地良い。肘かけにも細いコードが巻きついていると思ったら携帯の充電器だった。デスクには真新しい演算ソフトと電器店のレシートが放置されている。
 脳内に構築されていた魔法使いのイメージと目の前の現実はなかなか一致しなかった。それでももう魔法なんてあるわけないとは言えなくなっていたけれど。
「なんでこんな電脳まみれなんだ? 魔法使えるんだろ?」
 純粋な疑問に悪魔は「順応という言葉を知らないらしい」と笑う。書物の内容を移しておけば保存にも検索にも研究にも便利だろうと。
「貯蓄が尽きたら株もやるしな」
「あ、悪魔が株……」
 どうやらネルトリヒはこちらの想像以上に人間じみた生活を送っているようだ。魔法が使えるからと言って、なんでもかんでも魔法で済ませるわけではなさそうだ。
「さて、それじゃ何から講義しようか。いきなりアラインの話をすると誤解を招きそうだから、まずは普通の魔法使いについて話すかな?」
 ぶわ、と風が頬を撫でる。翼を広げたネルトリヒは机の上で足を組んだ。
 伏せられた赤い瞳が何を考えているかはまだ読めない。一週間、魔法のことはなんでも教えると彼は言った。どうしてそんな気になったのか悪魔からの説明はなかった。
 信じてもいい相手かどうかは正直なところ不明である。だがネルトリヒは死にかけていたバイトラークを助けてくれたし、黙っていればいいアラインとの関係まで明かしてくれた。出来得る限り信用したい。
「おう、頼むぜ」
 頷いたバイトラークにネルトリヒが薄く笑う。彼の言葉が真実なら魔法は万能のものではない。だったらどうにか非力な我々にもアラインに立ち向かう方法があるはずだ。それを探り出さなければ。
 世が世なら初等教育の内容だ、と細い指がペンを取った。初日の講義は数時間に及んだ。






 ――じゃあこれくらいにしておこうかとネルトリヒが書を閉じてくれたのは午前零時のアラームが鳴ってからだった。
 五時間も六時間も休憩なしで勉学に励むなど学生時代以来である。否、学生時代だって根を詰めて勉強する機会などそうはなかった。
 疲れ切った頭をデスクに預けてバイトラークは切れ切れに礼を述べる。下手に「魔法でできるのはどんなことか」と例示を求めてしまったために基礎から応用まで脳がパンクするほど具体例を詰め込まれた。火魔法だけで何十分語られたかわからない。明日は極力余計な口を挟まず聞くに徹しよう。そう心に誓う。
「なんだ、これくらいでへばったのか? 頭脳労働向きじゃないな。教えた内容忘れてないだろうな?」
「流石にそこまで記憶力なくねぇよ!! あれだろ、ほら、最初は属性が何種類あるかって話で……」
「ああ良かった。また明日も同じ話をしなきゃならないのかと焦ったよ」
 悪魔の厭味にバイトラークは眉根を寄せる。復習がてら教わったことを要約して聞かせるとネルトリヒは教師然とした表情で頬杖をついた。
 こんな風に相手にばかり分があるのはいただけない。ネルトリヒの方がバイトラークより遥かに年上だとわかっていても妙に悔しくなってしまう。
「属性は七つだろ。火に水に風に土に雷に光に闇」
「そうそう、ちゃんと覚えてるじゃないか」
 皮肉な笑みに眉間の皺は一層濃くなる。だからその程度の記憶力は備わっていると言っているのに。
 最初にネルトリヒが説明してくれたのは魔法には何らかの特質があるということだった。火・水・風・土・雷の五種類は名前の通りでわかりやすい。光魔法は肉体に関する術で、闇魔法は精神に関する術。いずれにも該当しない独自の術式を用いるものは古代魔法とひと括りにされている。
 どの属性を持って生まれてきたかで使える魔法は変わってくる。魔力の量や属性の強さによってもまた違う。最も人口が多かったのは属性がひとつかふたつ、日に二度も術を使えば翌日まで何もできなくなるという準魔法使い。職業として魔法使いを名乗るには最低限彼らの十倍働けねばならなかった。
「んで、それがいわゆる普通の魔法使いってやつなんだろ? あんたはどうなんだよ?」
 悪魔ネルトリヒの力量は如何ほどなのか尋ねれば、昔はそこらの職業魔術師と同程度だったと答えが返った。今は魔力の総量が増えたので高位の賢者を名乗っていいレベルらしい。
「その上級賢者が束になっても敵わない大賢者の力を少なくとも三人分は有しているのがアライン……って言えば王の特異さを理解できるか?」
「う、うええ!?」
「属性も全部備わってるし、判明してる古代魔法で使えない術もないだろうな。もっとわかりやすく言おうか? アラインが本気を出せば半日かからず大陸は滅ぶ。彼がぼくを殺すのに五分も必要ない」
「んな……」
 つまりネルトリヒは自分がバイトラークたちに協力しようとしなかろうとアラインの圧倒的優位に揺らぎはないと言いたいらしかった。悪魔などと呼ばれはしても王にとっては取るに足らない力のひとつにすぎぬのだと。
 それにしたって半日で大陸を滅ぼせるとは信じ難い。軍隊だってそんな大それた兵器は所有していないのに。
「手を貸すのが嫌だから大袈裟に言ってるってことは……」
「ないよ。個人的に彼のことは調べ尽くした。アラインにできないのは他人の生死に干渉することだけだ」
 こうきっぱり言い切られてはバイトラークも黙るしかない。敵は本物の魔法使いで、大抵の奇跡は意図して実行できる相手なのだ。その事実を突きつけられたからとて引き下がるわけにいかなかったが。
「そんなすげぇ力があるのに、じゃあなんで王様は人口がどんどん減っていくのを黙って見てんだよ?」
 そう、別にアラインが良き王であるなら魔法使いだろうがなんだろうが一向に構わないのだ。ただ現状からはまったくそんな風に思えなかった。個人に依存しきった社会体制を築き上げたのはアラインだし、緩慢に滅亡へ向かう世界を黙殺し続けているのもアラインだ。
「……」
 ネルトリヒはすぐには答えなかった。短い沈黙が過ぎた後、悪魔は「どうにもできないからじゃないか?」と呟いた。それでどこかピンとくる。この男は王が動かない理由に心当たりがあるのではないのかと。
「どうにもできないってどういう意味だよ? あんた何か知ってる風だな?」
「そりゃお前よりは事情に明るいさ。話してほしけりゃ一週間後にまた頼むことだな」
 真名もわからぬうちは打ち明ける気など毛頭ないと言外に悪魔が告げる。だがこちらとしてはアラインの秘匿している事実について預かり知る人物がいるとわかっただけで儲けものだ。ますますネルトリヒの本名を推量する甲斐が出てきた。
「よし、その言葉忘れんなよ。あんたの名前がなんだろうと俺が絶対当ててやる」
「……精々頑張ってくれ。今日は疲れたからもう寝よう。お前は上の部屋を使うといい」
 羽音を響かせ悪魔はわざとらしく背を向ける。急激に冷めた声に拒絶を感じてバイトラークは眉を顰めた。一体どうしたと言うのだろう。ついさっきまでこんな刺々しさはなかったのに、ネルトリヒはもうまったく視線を交わそうとしない。
「あー、……上ってあの祭壇? そこの毛布借りてくぜ」
 無言の彼の脇をすり抜け、わけのわからぬ心地のまま魔法使いの私室を後にする。何か尋ねてみてもよかったが、悪魔の引いた境界線は易々踏み越えていいものには感じられなかった。


「――アラインはお前が思うような悪人じゃないぞ」


 通路に踏み出す直前、背中に声が投げかけられる。
 バイトラークが振り向いてもネルトリヒは後ろ姿のままだった。
「世界がまだそれなりの体裁を保っているのは彼にそうしようとする意思が残っているからだ。とっくに狂っててもおかしくないのに、呆れた精神力だよ」
 もっともお互いもう気が触れているのかもしれないが、と自嘲めいた言葉を吐くとネルトリヒは寝室へ引っ込んでいく。扉が閉ざされ灯りが消えるとバイトラークは嘆息ひとつ零して階段を上り始めた。






 古い友人、古い友人ねぇとぼやきつつ携帯端末の光を頼りに冒険譚のページを捲る。決裂を余儀なくされる出来事があったらしいと想像はつくが、魔物と人間の諍いなどファンタジーな推測しかできなかった。
 アラインとネルトリヒの確執。大団円の後に魔物たちが根こそぎいなくなったことと関係があるのだろうか。けれど悪魔は王を責めるようなことは言わないし、恨んでいる素振りも見せない。やはり彼らに何があったかは歴史を紐解き考えるしかないようだ。
「っつーかあんな銀髪逆毛の火傷男出てこねーし……」
 バイトラークはパタンと書を閉じ、また最初からパラパラと流し読みを始めた。
 人間側の軍記なので仕方ないのかもしれないが、魔族サイドで詳細な描写があるのは魔王ファルシュ、その息子イデアール、イデアールの配下クヴァドラート、半人半魔のハルムロース、元聖女ゲシュタルトくらいである。その中にネルトリヒらしき者はいない。悪魔が持つ青銀の羽は塔を守護する聖獣のものと酷似していたが、彼ら神鳥はその名の通り人ではなく鳥の姿で現れた。銀髪赤目の要素が被るハルムロースも終盤で完全に死んでいる。胡散臭い悪徳賢者のキャラクターはそもそもネルトリヒのイメージと結びつかなかったが。
「一番近いのはこいつだよな……」
 バイトラークは挿絵の下部で腕組みしている青年を見やった。空飛ぶ翼をもつ男、ディアマント。敵になったり味方になったり、しばしば不遜な態度を示すところがなんとなく似ている。火傷は物語の完結後に負ったもので、銀髪は黄金の髪が色褪せたのだと考えれば一応の辻褄は合いそうだ。
(ただこんな大男って感じじゃねえけど……)
 バイクに同乗したときの感覚ではネルトリヒはバイトラークより頭半分ほど小さい。翼を出しても体格自体に変化はないから大柄と言うほどではないだろう。勿論宙に浮かんでいるだけで大きく見える効果はあるはずだけれど。
 他に翼を有した男と言うと、オーバストとイデアールがいる。しかしこのふたりも戦いの中で命を落としているので除外可能だった。やはり本命はディアマントだ。明日ネルトリヒに会ったら一番にこの名が正しいか聞いてみて――。
「……ッ!!」
 ヒョオオウと寒々しい音を立てる隙間風に思考が遠くへ吹き飛ばされる。石と岩で組まれた神殿は容赦なくバイトラークの体熱を奪った。前に来たときは日中だったからあまり何とも思わなかったが、凄まじく寒い。寒すぎる。
 ひとつしかない毛布に包まりしばらく耐えてみたものの、これから深夜にかけますます冷え込むと思い至り、早々に白旗を上げた。バイトラークは祭壇を降り、追加の毛布を拝借しにネルトリヒの寝室へ向かう。足音を忍ばせたのは寝入っているのを邪魔してはいけないという配慮からだった。決して本名のヒントになりそうなものが見つかるかもなどとこずるいことは考えていない。
 そろそろと細い通路を抜けてディスプレイに囲まれた部屋まで戻る。寝室に繋がる扉をそっと押し開くと、乱れた空っぽのベッドが映った。室内は明るいけれど、悪魔はどこにも見当たらない。
「あれ?」
 ドアを全開にしてもまだ部屋の主は影も形もなかった。あるのは鼻孔を刺激する焦げ臭さ、そして舞い散る細かな灰のみである。
 嫌な感じだった。よく見てみれば床に落ちた毛布は煤けているし、室温も汗ばむほどに高い。昔一度だけ火事の現場を見たことがあるが、そのときと雰囲気がよく似ていた。
「おい、ネルトリヒ? どこだ!?」
 張り上げた声は天井高くまで響く。書斎と違い、寝室は塔の底にでもあるのか縦に空間が伸びていた。澱んだ闇の溜まる頭上を睨みつけるように目を凝らす。耳を澄ませて息遣いを探ると僅かな羽音が鼓膜を揺らした。
「そんなとこで何してんだ? こっち降りてこいよ」
 声をかけた瞬間、稲妻のような火柱が迸った。炎の色に狼狽し、一歩下がろうとしたところで燃えているものの正体に気がつく。
 火の粉だと思ったものは羽根だった。青銀が赤く染まっているのだ。
 重い衝撃と共に悪魔が石床に落下してきた。炎に皮膚と肺を焼かれ、苦悶に顔を歪めながら。
「ッ……何してんだよあんた!?」
 思わず駆け寄ったバイトラークにネルトリヒは爛れた腕を振り上げた。燃え盛る火は悪魔自身が生み出しているのか、延焼しない代わりに消えもしない。慌てて脱いだ軍服で火勢を衰えさせようと奮闘するも、腕を火傷しただけで終わってしまった。
「おい! これ魔法だろ!? 何とかしろよ魔法使い!!」
「――、っ、あ……」
 火だるまの悪魔が双眸を開く。やっと話が通じたかと安心しかけたら、今度は熱を帯びた突風がバイトラークに襲いかかった。勢い良く壁に背中を叩きつけられ視界はぐるぐる回転する。何とか堪えて半身を起こすと怯えた獣と目が合った。
「……、……っ」
 なんでそんな泣きそうな顔をしてるんだ。
 魔物がビビるほど気合の入った容姿はしていないぞ。
「大丈夫か……?」
 恐る恐る尋ねた声に応じるように炎は小さく弱くなっていく。まだ警戒は解かないまま少しずつ距離を詰め、蹲る彼の傍らに膝を突いた。
 震える右手が強く心臓を掴んでいる。呼吸は浅く視線は定まらない。
「何だったんだ今の? まさかアラインに攻撃されたとかじゃないよな?」
「……」
 問いには首を振られた。掠れた声が違うとはっきり否定する。
「夢が……」
 まだどこか動転したままネルトリヒは苦しげに吐き出した。「夢?」と尋ね返したバイトラークに一瞬しまったという表情を見せる。どうやら何か口を滑らせたらしい。だが夢の内容がわからないのでそれ以上深入りはできなかった。余計なことを聞きすぎてまた炎を出されては堪ったものではない。
「随分派手に寝ぼけるんだな、悪魔ってのは」
 わかりやすい悪態をついてみたがネルトリヒに言い返す余力はなさそうだった。痛むだろう傷も放置して全身硬直させたままでいる。同情半分、打算半分、見ていたら心配になってきた。こんな状態で明日も講義をしてもらえるのだろうか?
「……横についててやろうか? 魘されたら起こしてやるぜ?」
 親切のつもりで告げた申し出にネルトリヒは目を吊り上げて噛みついてくる。
「余計なお世話だ。構わないでくれ」
 また壁だ。頑なで強い拒絶の壁。皮膚がびりびり痺れるほどの。
 バイトラークは顔を顰め、幼子を諭すように「でも」と続けた。
「なんかすげえ嫌な夢だったんだろ?」
 ぴく、と悪魔の指先が震える。別に初めて見る夢じゃないと強がる彼に嘆息し、せめて傷を治してから言えとぼやいた。
「初めてじゃないってあんた、こういうことよくあんの?」
「……」
 ネルトリヒは答えない。代わりに焦げついた翼や肌に白い光が舞い降りた。バイトラークにも魔法はそっと降りかかり、跡形もなく綺麗に火脹れが取り除かれる。
「何かあっても自分で治せる。お前の心配なんか要らない」
 消えていく痛みとは対照的に、ネルトリヒの表情はどんどん穏やかさから遠ざかった。
 何だかよくわからないけれど彼はまだ悪夢の中にいるようだ。荒んだ眼差しは痛ましく、放っておけないものに見えた。
 こういう局面は難しい。出会ったばかりでは聞きすぎるのも遠慮するし、かと言って何もしないのも気が引ける。それにさっきから何か強い引力でこの部屋に引き留められている気がした。ネルトリヒの側を離れるな、と。
「とりあえず寝ようぜ。俺もこの辺の床で寝てっからさ」
「構うなと言っただろう。次はそんな火傷じゃ済まないかもしれないぞ」
「大丈夫だって。あんたが殺さなきゃ死なねえよ」
 信用するから遠慮するなと、そういうニュアンスで口にした台詞だった。
 なのにネルトリヒは返す言葉を失い、愕然と肩や唇をわななかせる。
「おい? どうした?」
 驚いたのはバイトラークの方だった。ガクンとその場に崩れ落ちた悪魔を抱え起こせば先程よりずっと蒼白な顔色をしている。赤い瞳は焦点を結ばず、一度も視線を交わらせぬまま閉じられた。酷い過呼吸になると卒倒すると聞いた覚えがあるが、まさかそれだろうか。
「おい? おーい?」
 呼びかけに応えてくれるのは闇と静寂だけだ。しばし思い悩んでからバイトラークは魔法使いを寝台に運んだ。
 アラインとは友達だと言ったり、本当の名前は別にあると言ったり、なんだか複雑そうな男だ。この悪魔はもしかすると、極度のトラウマ持ちかもしれない。






 ******






 起きたら何と声をかけよう。知らずに無神経なことを言っていたか尋ねて謝ろうか。そんなことを考えながらウトウトしていたらいつの間にか眠っていたようだ。目が覚めると寝室にはバイトラークしか残っていなかった。
 どこ行った、と飛び起きてドタバタ扉を開く。すると食欲をそそる肉の匂いが鼻をくすぐった。ネルトリヒは整頓されたデスクの前で両手に皿を持って立っていた。朝食には定番の卵料理、ベーコン、サラダ、焼き立てのロールパン。どれもバイトラークが眠っている間に支度してくれたらしい。
「腹減ってるだろ。適当に座れよ」
 昨夜とは打って変わってけろりとした表情にやや拍子抜けする。参ってますなんて雰囲気は微塵も感じられなかった。深夜の騒動など始めからなかったようで、これでは逆に何も聞けなさそうだ。
「魔法で料理出してくれたのか?」
「まさか。属性外だぞ」
「だってここキッチンねぇじゃん」
「最近の軍じゃ野外調理も教えないのかよ? 石で焼くなりなんなりあるだろ」
「悪魔ってこう、生のままトカゲとか食べるイメージなんだけど」
「そんな腹壊しそうな食べ方はしない。馬鹿言ってないで早く座れ」
 促されるまま席に着き、置いてあったフォークを手に取る。何か見覚えがあるなと思ったら食器類は辺境軍の配給品だった。
「勝手に鞄開けたぜ。肉と卵はお前のだ」
「おい、流石悪魔は手癖悪ィな」
「何がだ。お前だって勝手に部屋に入ったんだからおあいこだ」
 ネルトリヒは眉根を寄せて不機嫌そうに唇を尖らせた。ともかく「余計なお世話」は相殺したいらしい。
 そう考えて改めて観察すると相手が身構えているのが見て取れた。踏み込まれるのがそんなに怖いのだろうか。悪魔が人間に弱い部分を覗かれるのは確かに支障があるのかもしれないが。
 バイトラークが何か言うのを遮るように悪魔は「これ」と話題を変える。差し出されたのは小さなフラッシュメモリだった。
「魔法のことなら基礎も応用も歴史も何もかも記録してある。お前が知りたがってるアラインの隠し事も」
「……!」
 デスクの隅にメモリを置くとネルトリヒはアルミケースの鞄を手に取った。今から研究所に出勤するらしく、帰るまでは好きにしてろと言い渡される。
「パスワードはぼくの名前だ。開いて中を見れるといいな」
 赤い目が細められるのを奇妙な心地で見つめていた。
 近づくなと凄むくせに暴いてみろと挑発するような――、悪魔の真意がよくわからない。
 ふわふわのオムレツにフォークを突き刺し頬張ると変に懐かしい味がした。
 銀髪に血の色の瞳。
 もしかして、と思考が廻る。



 悪魔が飛び去った神殿で早速フラッシュメモリを見てみると、予告に違わずパスワードの入力画面が現れた。
 空欄に”Diamant”と入れ決定を押す。ややもせずブブーっという不愉快なSEとともに「!」マークの警告が飛び出した。
「このパスワードは無効です。なお三回連続でエラーとなった場合、機密保持を優先し内部のデータを全消去します……あああ!?」
 聞いてないぞと二度見するが文言は変わらない。チャンスの回数ぐらい先に言っておけよと歯ぎしりする。
「当てずっぽうで順番に名前入れてく最終奥義は使えねえってことか……」
 こんなことなら熟考を重ねてから最初の挑戦をするのだった。が、いくら後悔したところでもう遅い。フラッシュメモリを取り外すかというメッセージにイエスを選択しバイトラークは端末をシャットダウンした。
 どうやらかなり慎重に検討せねばならないようだ。幸い夕方までネルトリヒは戻ってこないし、家探しするなら今のうちである。簡単に見つかるところにヒントなど残していないだろうとは思うが。
 一度入った部屋だからか寝室に忍び込むのに罪悪感はあまりなかった。普段なら家主に慮ってもう少しお行儀良くするところだが、こちらも人類の存亡がかかっている。帰るまで好きにしていいと言ったのは彼の方だし文句を言われる筋合いはなかろう。曲解だろうと何だろうと主張した者勝ちだ。多分。
 しかし念のため足音を響かせないよう靴は脱ぐ。そろそろと歩を進め、中心から部屋を一瞥すると、不意に昨晩のおかしな感覚が甦った。
 誰かに呼ばれているような錯覚。声が聴こえるわけでもないのにその気配を感じる。
(何だ……?)
 バイトラークは目を凝らし周辺を見回した。簡素なベッドと書棚と机、散乱した衣服と実験器具、それくらいしか確認できるものはない。
 次に足元へ視線を落とす。コツコツ踵を鳴らしてみると、バイトラークの立っていた場所だけ別の反響音がした。
 床下に空洞がある。だが継ぎ目が見当たらないので入口はおそらく別だ。探してみようかとの自問には否の声が返った。正規の道順に従えば罠が待ち受けているに違いない。直感はそう告げている。
 急いで祭壇の間に駆け戻り、荷物から一番威力の低い爆弾を持ち出す。着火準備を整えながらやっぱり変だなとバイトラークは眉を顰めた。
(あいつなんでこれ没収しておかなかったんだ?)
 人の世界で暮らしているなら爆発物の判別くらいつくだろうに。こんなもので攻撃されても痛くも痒くもないということだろうか。それでも不思議だ。爆薬の主な用途が建造物の破壊だと思いつかぬほど愚鈍な男にも見えないから。
 もしかして泳がされているのかとじわじわ不安になってくる。だってそうでなければ納得できない。何故ネルトリヒは拒む素振りと裏腹な態度を示す? 今だって隠したものを掘り当ててみろと言わんばかりだ。魔法使いならもっと入念に隠し通すこともできそうなものなのに――。
「成程……そういうことか」
 黒煙を掌で払いつつ呟く。床に開けた穴を覗くと小さな石室に納められた細長い箱が目に入った。バイトラークは軍人らしく機敏にロープを操ると台座のすぐ側に着地した。箱に貼られた幾枚もの古い札は思った通り呪符だった。強力な魔法でしっかり封印済みなのだ。これなら見つけ出されたとて簡単にどうこうできない。
「中身は何だ? 結構デカいぞこいつ」
 触るくらい大丈夫かなと持ち上げてみたらずっしりとした重みがあった。けれどそれが妙にしっくり腕に馴染み、自分を呼んでいたものは間違いなくこれだと確信する。
 結果さえ出れば家探しの実行自体を隠す気はなかった。箱を引き上げつぶさに点検し、名前の手掛かりになるものがないか調べる。しかし外側からは厳重に保管されているということ以外結局何もわからなかった。
「しゃあねえ、潔くあいつが帰ってきたら聞くか」
 謎の箱の正体を追及するのは後回しにしてバイトラークは書棚へ移った。日記帳なんてメルヘンなもの男の部屋にはないよなと諦め半分に漁ってみる。山積みの文献は床にも層を成しているからチェックは夜までかかるかもしれない。その予測を裏切ることなくバイトラークの奮闘中にネルトリヒは帰宅した。第一声は「どうやってその箱を見つけた」だった。






 箱はわざとこちらに見つけさせたのだと思っていたから驚いた。こちらをおちょくるつもりで悪魔が隠し場所から信号を出したのだとも。
 きつく眉根を寄せるネルトリヒにその意図はなかったらしい。「無傷なのか?」と逆に自分の魔法が発動しなかったことを訝っていた。本来なら石室に侵入しようとしても結界に弾かれる仕様で、仮に箱を持ち出そうなどとすれば四方八方から炎に巻かれるはずだったなどと空恐ろしいことを言ってくれる。
「いや、特に何も起きなかったけど……」
「……」
 正直に打ち明けるとネルトリヒは黙って考え込んでしまった。翳りのある表情は昨晩の彼を彷彿とさせる。沈黙を打開しようとバイトラークは意を決して切り出した。
「それ何が入ってんの? 何かそれに呼ばれて見つけちまったって感じだったんだが」
 こちらが何か話すほどに悪魔の眉間には皺が寄る。どうしてこうなったのかまるきり予測がつかないというわけでもなさそうだが、こちらに教えるつもりはないようだ。箱を石室に放り込み、土魔法で床の穴を塞ぐとネルトリヒは踵を返した。
「もうこんな大穴開けてくれるなよ。そろそろ今日の講釈を始めよう」
 そうしてひとりさっさと書斎へ赴き勝手に話を終わらせてしまう。
 狐に摘ままれたような気分でバイトラークも後に続いた。不測の事態らしいとはわかっても詳しいことがまるで予測できないのでもやもやする。
 いや、違う。この不快感の本当の原因は別なものだ。ネルトリヒが何を考えて行動しているのかはっきりしないから振り回されている気がしてしまうのだ。
 名前さえわかればどこまでも面倒を見てやると彼は言った。これはこちらに協力する気があるようにもないようにも受け取れる。バイトラークが彼の眼鏡にかなう人物かどうか判定しようというのが前者、魔物の名など当てられるわけがないと小馬鹿にしているのが後者。だがもし後者のスタンスに近いとするなら、わざわざ神殿に招いてあれこれ聞かせてくれるだろうか? 答えは否だ。だからネルトリヒは味方になってくれる可能性が高いと定石では考えられる。――考えられるのだが。
「パスワード試したのか?」
 無造作に置かれたフラッシュメモリを見やって悪魔が尋ねた。薄笑みを刻む唇にムッとしながらそうだと返す。
「それなあ、三回までなら三回までってあらかじめ言っとけよ。勿体ないことしただろうが!」
「こういうのは普通三回って相場が決まってるだろ。で、なんて入れて失敗したんだ?」
「……ディアマント……」
 バイトラークの返答にネルトリヒは堪え切れない様子で吹き出した。惜しいのか惜しくないのかリアクションからは窺えない。可笑しそうなその態度に本当にこの男は自分に手を貸すつもりがあるのか自信がなくなってしまう。
「なんでそれ? あ、ちょっと待てわかった。さては童話の登場人物を当てはめたな?」
「……」
 簡単に言い当てられてますます面白くなくなった。こちらの必死さを嘲笑うように悪魔は「翼の男ってだけじゃな」と肩を竦める。
「でもまあイイ線行ったんじゃないか」
「あんたって、もしやディアマントとも知り合いだったりする?」
「まあね。彼も長生きだったし」
「……」
 これは良い情報を得たぞとバイトラークは内心ほくそ笑んだ。あの童話の時代に着目したのは誤りではなかったようだ。であればネルトリヒにそこを喋らせればもっと他のヒントが零れてくる可能性は高い。
「んじゃ今日はアラインの冒険譚について教えてくれ。魔法道具とか色々出てくるだろ? それに王様って今でもこのオリハルコンってのを持ってるんじゃなかったっけ?」
 あれ、とバイトラークは目を瞠った。オリハルコンという単語に一瞬ネルトリヒの表情が強張った気がしたのだ。
 何となく楽しそうだった雰囲気もまた変にギクシャクしたものになる。悪魔は何とか平静を取り繕おうと努力していたようだけれど、まったく功を成していなかった。



 夕食を挟んだ後にネルトリヒは翼と冒険譚を開いた。魔法道具についての解説を求めたこともあり、基本的に話は呪符と神具に集約される。人物に言及することは悪魔がさり気なくかわしているように思えた。
「アラインが現れるまで、勇者というのは聖なる獣に認められ三つの神具を身に纏う男のことを指していた。でも彼は自力じゃひとつもオリハルコンを手に入れていない。その代わり仲間と結束して神具にまじないをかけた神様を倒した。冥界の入口にあったオリハルコンの玉座も、出口にあった大きな結晶も、エーデルが所有していたアンクレットも今は彼の手中にある。そして彼の魔力を増幅させている」
 誰も敵わないし永遠に死なない化け物だ、とネルトリヒはアラインを揶揄した。オリハルコンをすべて奪えば勝ち目はあるかと尋ねてみるが、そんなわけなかろうとあっさり否定される。
「たとえオリハルコンがなくたってアラインが強すぎるのに変わりはないよ。身体の中に破滅を飼い殺してるような男だぞ」
「……本当に全然可能性ないのか? 戦わずにアラインを退位に追い込む策とかは」
「王様を降りる気は更々ないだろうね。後継者争いが起きるのは明白だ。今人類が戦争を始めれば、それこそ取り返しのつかない損失を招く」
 ネルトリヒの意見は冷静だった。アラインに王位を捨てさせることは不可能だとの見方も変わらない。彼がバイトラークに魔法の知識を与えてくれるのは、もしかすると穏便に諦めさせるためかもしれない。現状を受け入れるしか道はないのだと。でも、それでも。
「ゼロじゃないだろ。何か方法があるはずだろ。何かやり方が……!」
「別に次世代が生まれなくてもお前の寿命が縮むわけじゃない。天寿を全うするまでは国王様が面倒を見てくれるだろうし、そんな必死にならなくてもいいんじゃないか?」
 冷めた悪魔の呟きは王都ではよく耳にする言葉だった。人の時代はじきに終わる、最後に現王が世を治めてくれていて我々は幸運だったと。そんなのは自分のことしか眼中にない連中の言うことだ。自分を納得させるための言い訳だ。
「あんたには残したいもんがねえのかよ? 忘れ去られたくないものとかさ」
 キッと見据えた男の双眸はたちまち伏せられ目も逸らされる。何を思い返しているのか知らないが、握られた拳が網膜に焼き付いた。
「……ひとりだけいる。アラインを倒せるかもしれない人間」
 唐突な申告にバイトラークは目を丸くした。ついさっきまで無理だ無理だと連発していたのにどういうことだ。
 驚愕したまま本当か、と尋ね返すとネルトリヒはこくりと頷いた。そうして告げる。魔王でも神様でも勝てなかった男に打ち勝てる者の名を。
「勇者を倒せるとしたら勇者だけだ」
 まるで謎々のような回答になんだそりゃと呆れる。確かにアラインがふたりいれば五分五分の勝負になるだろうが、どう考えてもその案は破綻している。ドッペルゲンガーを生み出す魔法でもあると言うのか。
「ドッペ……」
「自分より格上の分身を作るなんてぼくにはできないぞ。そうじゃない、オリハルコンだ」
「オリハルコン?」
「聖石が選んだ持ち主なら勇者になる資格がある。魔法使いにはできないことでも勇者なら――」
 バイトラークはぽんと手を打ちネルトリヒに飛びついた。
「そっか! ひとつだけアラインの持ってない神具があるのか!」
 塔に封じられていたという神鳥の盾と神鳥の首飾りは国宝として王城にて管理されている。だがたったひとつ、戦乱の最中に失われた神具があるのだ。
「……」
 バイトラークはごくりと唾を飲んだ。これは一体何の符合だろう。フェルナー家の嫡男には代々受け継がれているものがふたつある。ひとつは名前、もうひとつは剣に絡んだ鳥の意匠だ。青糸と銀糸で織られた尾長鳥の。
「お前にその気があるんだったらぼくが聖獣役をしてやるよ。昼間お前が見つけた箱には神鳥の剣を封じてある。試練を受けたくなったら言え。お誂え向きに祭壇もあることだしな」
 薄笑みの悪魔の胸中はやはり見えない。
 協力したいのかしたくないのか、或いはその両方なのか。
「念のために聞いとくけど、挑戦権は俺にしかねえんだな?」
「お前が駄目なら他の誰がやっても無駄だ」
 魔法使いの赤い目には何が映っているのだろう。人間には見えないものも悪魔には見えるのだろうか。
「もし試練を乗り越えられたらオリハルコンは俺のもんになっちまうんじゃねえの? なんでそんなことしてくれる気になったんだ?」
 バイトラークの問いかけにネルトリヒは首を振った。答えたくないと力ない眼差しが語る。
「元々それはぼくのじゃない。お前は剣に呼ばれたんだろ」
 静かな声が書斎に響く。
 その音はやはり拒絶とそうでないものが入り混じっているように聞こえた。








(20130422)