外洋へ漕ぎ出す船が完成するまでは地図の範囲内でできることをしよう。ベルクがそう伝えるとにこにこ笑ってアラインは「そうだね」と頷いた。また冒険へ出かけないか誘われたのがよっぽど嬉しかったらしい。ワクワクという擬音まで聞こえてきそうだった。
 天界から戻って一ヶ月、各国の王と勇者の連名で国民にはもう二度と魔王は現れない旨が発表されている。とは言え地方の魔物が消滅したわけではないし、依然魔王城は魔界に聳えたままだ。力ある神具――魔王の玉座をそのままにしておくわけにいくまい。
 兵士の国の重役会議でノーティッツが進言した内容に、トローン四世はうんうんと理解ある国王らしく首を振った。そうして「じゃ、おぬしらでよろしく」と丸投げしてきたのだった。
 最近あの脳筋親父はノーティッツにさえ頼んでおけば大丈夫だということを覚えたようだ。幼馴染は「迷惑だ! パワハラだ!」と不敬罪寸前の愚痴を吐いて頭を抱えていたが。
「だからさ、お前の転移魔法で魔王城の近くまで行って、そこからはラウダに運んでもらおうぜ」
「ま、要するに視察だね。わかったよ」
 はははとアラインは申請用の書類を作成しつつ笑った。今現在勇者の国ではアラインが魔物関係、式典関係の仕事をこなしているそうだ。シャインバール二十三世が国内統治に関して驚きの低能だとはノーティッツからも聞いている。曰く、「あの国は基本的に勇者様〜勇者様〜って言ってればなんとか回るからね。セレモニーさえやっておけば臣民のハートは掴んでおけるんだよ。あー羨ましい」――とのことだ。まあ毎年豊作が約束されていて、不景気や疫病なんかにも無縁なのだから、そもそも領民からの不満は少なかろう。大陸規模で事情が変わってしまったので今後はこの国もどうなっていくかわからないけれど。
「とりあえず陛下の返事待ちになるし、夕方街の見回りに行くから、出発は明日以降かな」
 それでいいかと尋ねられベルクも「ああ」と返事した。偉いなあ、名声に胡坐かかずにちゃんと仕事してんだなあと感心する一方で、かた苦しい宮廷より調査目的の旅ばかり好む自分を少し反省する。いや、人には向き不向きがあるのだから王族がすべて王宮にいる必要などないはずだ。多分そうだ。
「ノーティッツたちはどうしてるんだ? 観光?」
「ああ、ウェヌス連れて城下町にな」
「じゃあ三人とも今夜はうちに泊まっていけば? クラウディアたちも会いたがるだろうしさ」
 見回りのとき合流しよう、直接家まで案内するよとのアラインの申し出に有り難く頷いて、ベルクは王城を失敬した。
 美しく格調高い白亜の城。兵士の国の要塞みたいな城とは雰囲気からしてまったく異なる。
 あいつこんなとこで育ったんだなあ、となんだか不思議な心地がした。
 生まれた場所も環境もすべて違うのに、今は同じ勇者として国際交流しているなんて。
 ――勇者の国は最初ベルクが勇者と名乗るのを良しとしなかった。堅物で保守派の御大尽たちを一蹴し、黙らせたのは他ならぬシャインバール二十三世だったという。裏側からアラインがどんな根回しをしたのか目に浮かぶようだ。アラインが血統の秘密をはっきり国民に明かしていないのは勿論変な動揺をさせないためというのが第一だろう。だが最高権力者を脅せるネタをむざむざ捨てることはないというのが第二の理由である気がしてならない。
 逞しくなったと賞賛すべきなのだろうか。そんなことするから怖がられて避けられるんだと思わなくもないけれど。



 それから数時間後、ベルクはもっと怖いものを目の当たりにすることになった。
 アラインの見回りに付き合って物見遊山のノーティッツ、ウェヌスらとぶらぶら街を歩き始めたのだが、金のガチョウのお伽話かと突っ込みたくなるくらい後から後から若い女がくっついてきてどんどん増殖していくのだ。国中の娘が集まっているのではないかと思うほどあちらにもこちらにも熱っぽく英雄を見つめる乙女・乙女・乙女。一体何のセレモニーが始まったのかと尋ねると、アラインは事も無げに「え? セレモニーのときはもっと来るよ?」とのたまった。そうだよな。こいつ特定の女連れて帰らなかったもんな。そりゃこうなるよな。
 勇者に対しタッチ・会話は厳禁とのルールでもあるのか、女たちは一定の距離を保って熱い眼差しを送ってくるのみだ。道を塞ぐわけでもないし、通行人の邪魔にならぬよう静かに隅っこを歩いているし、散れとも言えずやり難いことこのうえない。ぞわぞわと鳥肌を立たせるベルクとは対照的にアラインは本気で慣れきった顔をしている。カルチャーショックだった。ノーティッツも引き気味に「すごいね勇者の国……」と戦慄していた。とりあえずウェヌスにはアラインに話しかけないよう厳重注意をしておく。ボケて腕や指が触れでもしたら生きてこの国を出られないかもしれない。誇張ではなくそう思った。
「うん、今日も何事もなさそうだ」
 爽やかとしか形容しようのない完璧な笑顔でアラインが振り向いた。音もなく黄色い悲鳴を発した女たちが路傍に崩れ落ちていく。すごい。勇者の国すごい。
 自分はこの国に移住できそうにないなと確信しつつ、ベルクは「早く帰ろうぜ」とアラインの肩をつついた。隣国の勇者は春風のような笑みを湛えたまま「そうだね」と返答する。髪を掻き上げるそのポーズ、光る白い歯、流し目の角度、どれを取っても減点するところが見当たらない。お前は勇者なのかアイドルなのかどっちなんだと突っ込みたかった。王族以上に晒し者にされ慣れた人間など初めて見る。――ああ、この国で勇者として祀り上げられるとはこういうことなのか。やっと実感としてわかった。そりゃ辺境の都では辛かったろう。本当に辛かったろう。
「それにしてもベルクとこの辺りを歩けるなんて嬉しいな。また個人的にお忍びで来てほしいよ」
 微笑んだアラインの手がぽんとベルクの肩に乗せられる。別人のようで本気で怖い。ウェヌスが振り撒いていたのとはまた別種の発光体がアラインの周囲をふよふよ漂っているかのようだ。
 屋敷はあっちなんだとアラインが踵を返す。来た道を引き返し始めると、ベルクの鳥肌はたちまち全身に及んだ。また女が増えていた。
「ごめんね、今日の見回りはこれで終わりだから、ごめんねー」
 ひらひらと愛想良く手を振るアライン。
 うじゃうじゃと若い娘の続く道をドン引きしながら歩くベルクたち。
「……お前よく嫌にならねえな……」
 畏敬の念を込めそう囁けばアラインは「だってずっとこうだったからね」と苦笑した。
「それに彼女たちが家に帰ってからも今日の僕を思い返してキャアキャア興奮するんだなと思うと胸が震えるよ……」
「ちょっと待てお前何を言っている」
「アラインてそういうキャラだったっけ!?」
「まあ、アラインさんとってもいい表情ですわ!」
 ややこしくなるから喋るなとウェヌスを引き剥がし、ベルクはまじまじアラインを見つめ返す。ちょっと吹っ切れてはいけない方向に吹っ切れてないか心配だった。旅の後半のストレスがまだ残っているんじゃないかと心配すぎた。
「ふふ、ベルク早く帰りたいんだろ? こっちだよこっち」
 ぎゅっと腕を掴まれて緩やかな坂を上っていく。引っ張るなよと言っても笑ったまま離してくれないので段々嫌な予感がしてくる。薄目で周囲を窺えば、さっきまでとは明らかに違う層が溝に片足突っ込んで壁を叩きながら悶絶していた。
「おま……ッ! 妙なファンサービスに俺を巻き込むんじゃねえ!!」
「あ、わかった? なんかこういうの一部の女の子に需要あるみたいだね」
「それ絶対に応えなくていい部分の需要だぞ!! わかってんのか!?」
「求められているなら応じるさ。許容できる範囲でだけど」
 許容範囲が広すぎるだけか、はたまた器が大きいだけか、斜め上を行く発言にベルクはひいいと震えた。勇者の国怖い。ガチで怖い。
 アラインは無邪気に「マハトとツーショットで歩いてると気絶するご婦人もいるよ」などと話している。巻き込まれたくないからだろう、ノーティッツはウェヌスを連れて後方に退避した。賢明な判断だが置いて行ってほしくなかった。



「おお、久しぶりだな。元気だったか?」
 平民街に建っているにしては大きな屋敷に招かれて、ベルクたちが疲労をソファで癒していると、紅茶と菓子を盆に乗せた普段着の戦士が応接間に現れた。その後ろにはエーデルとクラウディア、ディアマントが続いている。
「まあ、お兄様! マハトさんたちもしばらくぶりでございます」
「ふん。何もない家だが寛いでいけ」
「ちょっと、お世話になってるのはあたしたちの方でしょ? なんなのその言い方!」
「まあまあ、ともかく皆さんお掛けください」
 クラウディアに促され、一同はテーブルを囲んで座り直す。
 ぱっと目についた大きな変化は僧侶が尼僧の格好をやめて短く髪を切り直しているところだった。女顔は女顔だが、もう美少女という風ではない。
「いいじゃないか。似合ってるよ」
「ありがとうございます」
 そう誉めたノーティッツもあのダッサいバンダナは卒業していた。呪符で身を守る必要がなくなったからだ。国王への報告でうっかり宮廷に入って以来、異例の昇進街道驀進中であることも手伝い、幼馴染は人生最高のモテ期に突入している。アラインほどではないにせよ出待ちの女がいるのは知っていた。一度に付き合える最高人数って何人だろうなどと不穏な呟きを漏らしていたことも。ベルクだけは相変わらずどこへ行っても猛獣扱いしかされないのに。
「イケメンなんぞ滅びてまえ……っ! という悪しき思いもジブンを見ると緩和されるわ〜」
 ふと耳元で聞き慣れた鳥の声がした。失礼千万な神鳥とともに最後に扉を開いたのは家主であるアラインだ。
「わ、みんな集まると流石に狭いかな? 夕飯の支度できたら呼びに来るからゆっくりしててね」
 が、そう言うと彼はすぐ退散してしまう。どうも今日は料理人を増やして盛大に歓迎してくれるつもりらしい。
「本当に、まだ少ししか経ってないのに随分会ってなかったみたい」
「ええ、お変わりないようで安心しましたわ」
 こういうとき話に花が咲くのはやはり女からだった。エーデルとウェヌスはあの短い同行期間の中で、それでも地味に打ち解けていたようだ。キャッキャと手を取り合い再会を喜んでいる。
「エーデルさん、髪は真っ黒になってしまわれたんですね。もう戻らないのでしょうか?」
「ああ、でも元々黒かったから、こっちの方が実は落ち着くのよ」
「あら、新しいリボンをされてらっしゃいます? 可愛らしいですわ!」
 ニコニコとウェヌスがエーデルの結った紅のリボンに目をやった。その瞬間ガタッとディアマントが立ち上がり、「用事を思い出した」と荒々しく部屋を後にする。
 一体なんだと思っているとワケ知り顔でバールが嘆息した。それにピンと来たのかノーティッツがエーデルに問う。
「もしかしてディアマントに貰ったの?」
「そうなのよ。この間、あたし誕生日だったの。おかしいでしょ? 意外とマメなところもあるみたい」
 これもそのときくれたのよとエーデルは胸元から細い銀のネックレスを取り出した。キラキラ輝く曇りのないシルバーは随分値の張る品に見える。だがエーデルは目利きができないらしく、あまり高価なものだと思っていないようだった。
「そしてクラウディアからはこれを貰ったのよね……」
 とろけるような眼差しでエーデルは左手のリングを見つめる。一気に客間が桃色に染まり、ぼそりとバールが「鈍いって残酷やんな……」と呟いた。
「まああ! 素敵ですわ! 羨ましいですわ! エーデルさん、良かったですわね。このような愛の証を早くもいただけるなんて……!!」
「やだ、あなただって今は普通の女の子なんだから。恋人ができればこんなのすぐよ、すぐ!」
 弾けるガールズトークにまったく入っていけず、ベルクは沈黙を保つ。終始にこにこしていたのはクラウディアだけだった。
「まあ、恋人なんて……! そんな、私、わかりませんわ! だってこの間まで女神だったんですのよ?」
 わかりませんわかりませんと連呼するウェヌスにエーデルは胸キュンしたらしい。襲いかかるように横からグイッと抱きしめると「ウェヌス可愛い! やっぱりクラウディアの妹だわ! 今日はあたしと一緒のベッドで寝ましょうね、約束よ!」などと盛り上がっている。
 なんだこの百合。そう思ったのはベルクだけではなかったらしい。傍らの幼馴染も下手な関与は諦めたようだった。マハトに至ってはひたすら茶菓子を頬張っている。この戦士は長旅の中で受け流すことを覚えたようだ。
 ガールズトークはその後夕食が終わるまで延々ノンストップで続いた。何故か普通に会話に混ざれるアライン・クラウディアと話題提供くらいはできるノーティッツを除いては、男性陣は皆静まり返っていた。



 やっぱり魔王城を目指してたときとはノリが違うよな。そう思いながらベルクはごそごそ寝台に潜り込む。緊張感がないと言うか、ゆるゆる気持ちが緩みっぱなしと言うか。それが平和な証拠でもあるのだが。
 明かりを消すと部屋は真っ暗になった。夕食の後、魔王城の視察許可が降りたとの書状を使者が持って来てくれたので、明日は予定通り魔界入りすることになる。早く明日になってほしいと願って瞼を閉じた。別に明るく世間話をするのが嫌と言うのではないが、今はああいった場所に居辛いのだ。理由は薄々と自覚してしまっている。
「……なぁベルク」
 隣のベッドからノーティッツに話しかけられる。ぶっきらぼうになんだよと問えば、幼馴染は潜めた声で尋ね返した。
「率直に聞くけど、お前ウェヌスのことどうするつもりなんだ?」
 ブホォと噴き出しシーツの上で咽て転がる。
 そう、これだ。絶対こういう流れになるからあの恋愛トークが嫌だったんだ。
「ど、どうするってなんだ。アホか。どうするもこうするもねえ!」
 うろたえるな俺、と叱咤したところで効果はない。ポーカーフェイスを貫けるならいくら話題を振られたって気にも留めないのに。
 客室には幼馴染とベルクのふたりしかいなかった。いなかったけれど誰かに聞かれていないかドキドキしてつい挙動不審になってしまう。そんなベルクを呆れ半分に一瞥し、ノーティッツは溜め息をついた。
「ウェヌスのあの調子じゃお前から行かないと進展しないぞー」
 なんだってそんな脅しめいたことを言うのだ。友達甲斐のない奴め。
 俺だってそれくらいわかってらあと言い返したかったが、言葉で認めるのが気恥ずかしくて結局何も言えなかった。
「ウェヌス可愛いし、素直でいい子だし、油断してたら他の男に横取りされちゃうかもよー?」
「っだー!! なんで俺にそんな話振ってくんだ!!!」
 耐え切れなくなり怒声を浴びせればノーティッツはますます憂いを深めるばかりだ。
「だってお前らがさっさとくっついてくれないと、いつまでもぼくが世話焼かなきゃいけないじゃん。それともぼくがウェヌスもらっちゃっていいわけ?」
「……は?」
 予想外の台詞が飛び出しベルクの頭が真っ白になる。
 一瞬前まで真っ赤だった顔面から血の気が引いた。
「え……なに、お前あの女のこと好きなの……?」
「うん好きだよ。まあ厳密にはベルクのこと大好きなウェヌスが好きなんだけどね」
 どう返していいかもうまったくわからない。ああそう、としか相槌の打ちようもない。
 なんだかヴルムの砦でベタ誉めにされたときのことを思い出してしまった。胸のあたりがムズムズして非常に居た堪れない。
「ぼくもお前のことは大事に思ってるし……」
 更にさらっとそんなことを言われて背筋が粟立った。
「お、お前までアラインみたいな過剰サービスに走んじゃねえ!!!!」
 全力で気持ち悪がるベルクにハッとしてノーティッツは「違ッ……! ど、どういう意味に捉えてんだ馬鹿!!」と枕を投げつけてくる。
「ぼくはワガママで手のかかる胸とお尻の大きい女の子が好きなんだ!! ――じゃ、じゃなくて。お前らのこと心配してんだって話をだなあ……ああもういいや。とにかくホント婚約ぐらいさっさとしておけよ? お前は一応王族なんだし、いつ何がどうなってもおかしくないんだからさ」
 ごほんごほんと咳で呼吸を整えるとノーティッツは毛布にくるまってベルクに背中を向けてしまう。
 それぐらいわかってんだよと眉間に皺を寄せベルクも反対側に転がった。
 わかってはいるのだ、わかっては。そこからがまったく進まないだけで。



 ******



 朝になると職のある者はそれぞれの勤め先に出かけて行った。マハトは王城へ、クラウディアは大聖堂へ、エーデルは大聖堂向かいの小さなパン屋へ。ディアマントは自宅警備に精を出すのかと思っていたら、彼は毎日欠かさず内海の様子を見に行っているとのことだった。まだ一般社会に溶け込むところまではいかないようだが、役目を持つのは良いことである。ベルクはうんうん頷いた。
 アラインの転移魔法で辺境の塔を訪ねると、番人ラウダが「よく来たな」と出迎えてくれた。魔王城へ赴きたい旨を伝えれば二つ返事で快諾してくれる。続いて同じ転移魔法でハルムロースと戦った湖の側へ移動した。ラウダの飛行も順調で、予定通り今日中に魔王城に到着できそうだ。
「……にしてもお前の肉体は考えものだよな。お前だけだろ、聖獣の姿になってもロクに空飛べねえの」
「やかましいわ!! 神様がじゃあこれなって決めてもうてんからしゃあないやろ!!!」
 涙目のバールにつつかれてベルクはうわっと悲鳴を上げる。落ちたらどうすんだと文句を言えば、更にげしげし足蹴にされた。
「あははは。バール、それぐらいにしておこう」
「……ったくホンマにジブンはクチのきき方っちゅーもんがなっとらへんわ! ちょっとはアラインを見習ったらどないや!!」
「あー駄目駄目。こいつは礼儀正しくとか礼節に則ってとか全然だから」
「ノーティッツてめえ……!」
「うふふ、皆さん楽しそうですわ」
 飛んでいるのは魔界の空だと言うのにこのまったりとした雰囲気である。
 飛行獣の一匹や二匹、どこぞで鉢合わせしそうなものなのだが。
「……本当に静かだね」
「ああ、都での戦いでごっそり減っちまったのかもしれねえな」
「警戒して隠れてるのもいると思う。司令塔がいなくなったわけだからね、多分魔物たちも今ばらばらなんだよ」
 戦闘になったら困るので一応武器や防具、神具もきっちり身に着けている。
 けれど魔界はどこまで飛んでも静まり返ったままだった。時折眼下に蠢く生き物が映る程度だ。
「見えたぞ、魔王城だ」
 ラウダの囁きで流石に緊張感が高まる。
 三つの塔を有した黒い城砦がベルクたちを沈黙で出迎えた。
「んー、魔法の気配なんかはないね」
 遠目にアラインが分析する。ノーティッツとウェヌスもこくりと頷いた。
 まったく魔力を持たないベルクはこういうとき一切役に立てない。だが城そのものの放つ気配がどこか虚ろなのはわかった。誰かの住んでいる気配というのが漂ってこないのだ。
 魔王も、その息子も、ゲシュタルトも、ハルムロースも、あそこを根城にしていた魔族は本当に誰も残っていないのだ。改めて実感した。



 トラップらしいトラップもなく、ベルクたちはすんなりと最上階へ到着した。上層のバルコニーに取りつけたおかげでものの十分とかからなかったように思う。あまりにも呆気ない魔王城踏破である。
「ここが玉座の間か……」
 両開きの扉の奥には何本もの柱、その間に細く急な階段があった。階段の最上段からは真紅の絨毯が垂れていて、王者の君臨を思わせる。
「行ってみようぜ」
「ああ」
 ベルクたちは慎重に、一段ずつ階段を上っていった。先頭はベルクが、しんがりはアラインが守る形だ。ノーティッツとウェヌスは間に挟まれていた。
 見えないので肉眼で確認はできないが、近づくにつれプレッシャーが増していく。肌を刺す鋭い痛みでそこに何か重大なものがあるとわかった。
(こりゃヤベーな)
 確かに放っておくわけにいかない力だ。もし魔王の神具を手にできるような魔物がいたら、また一気に世界の状況は変わってしまうかもしれない。
「……?」
 と、そのときベルクは妙な黒い気体が流れているのに気がついた。
 玉座の間自体が暗闇の中にあるためわかりにくいが、階段の上部から微かに空気の流れを感じる。
「ちょい待て。なんかおかしいぞ」
 幼馴染にそう伝えるとノーティッツはうーんと唸って周囲を見渡した。微弱な色つきの風以外、今のところ特に変わったものはない。アラインが「玉座の方から吹いてきてるのかな?」と言い風魔法を発動させた。天井から様子を窺ってみようというのだ。
「……あれ? 変だな、何も見えない」
 だが判明したことはゼロだった。玉座は暗い影の中にあり、光で照らしてもその光さえ飲み込んでしまうようだった。
「うーん、ごめん。近づいてみないとわからないかも」
「成程ね。よーし頑張れベルク! はい、ウェヌスも応援して!」
「わかりましたわ! 勇者ベルク、恐れず突き進むのです!!」
「お前らなああああ!!!!!」
 厄介事をこちらに押しつけようとするノーティッツとあっさり乗せられているウェヌスに吼える。
「相変わらず楽しげなパーティやのう」
 遠目に囁く神鳥の元へ舞い降りて「ちょっと羨ましいよね」と隣国の勇者が言った。
「アラインんんんんんんん!!!!!」
 何が悲しくて魔王の間まで来てボケツッコミの応酬をせねばならないのだ。くそ、と拳に気合いを入れ直しベルクは再度階段を上り始めた。いいだろう、やってやろうではないか。この謎の風の正体、お望み通り暴いてくれる。
 黒い気体は次第に濃さを増していくようだった。煙とは違う。アラインは魔法陣なんかはなかったと言った。じゃあ一体これはなんなのだ?魔王の残留思念とかか?
 頭脳労働に向かない頭で懸命に考えてみるが答えなど出なかった。やはり実際見てみなければわからないのだろう。だからこそ視察という公務があるわけである。
「……」
 しかし本当に変だなとベルクは階段のゴールを睨んだ。もうこれだけ近づいて来たのだし、玉座の背凭れくらい見えてもおかしくないのに。
(なんで何もねえんだ……?)
 怪訝に眉をひそめたその瞬間。

「――ッうわ!!!?」

 残すはあと数段、というところでベルクは凄まじい引力に身を引き寄せられた。ほとんど引っ張られたと言ってもいい。
 踏ん張る暇もなかったし、よしんばそれがあったとしても踏ん張り切れなかっただろう。それくらいベルクを吸い込もうとする力は強かった。
 神鳥の剣が階段を滑る。ノーティッツが鞘に腕を伸ばそうとしたのが見えた。――だが。
「来るなッ!!!」
 直感的に巻き込まれると断じてベルクは一喝した。幼馴染は身を竦め指を引っ込める。
 両足は既に黒い気体の根源に捉えられてしまっていた。膝から下はもう見えない。
「なんなんだこれ……っ!!!」
 魔王の玉座があったと思しき場所は小さなブラックホールになっていた。
 黒い気体は噴き出すように穴の奥から漏れ出している。
「ベルク!!」
 アラインの風魔法は一歩間に合わなかった。井戸の底にでも落ちていくかのよう、ドポンという音の後には暗黒に飲み込まれる。
「ベルク!! ベルク――!!!!」
 遠ざかる丸い光の向こうからウェヌスが飛び込んでくるのが見えた。
(あっの馬鹿……! 折角ノーティッツは止めたのに!!)
 毒づいたところでもう遅い。必死に伸ばした腕も届かず、意識はやがて闇に墜落した。






 久しぶりに頭の中が真っ白になった。
 ベルクを飲み込み、次いでウェヌスを飲み込んだ穴はずっと小さくなったものの、まだ貪欲に渦を巻いている。
 急いで階段を駆け下りたが、ふたりがどこへ落ちてしまったかはまったくわからなかった。
 何故なら玉座があったと思われる階段の下は通路になっていたからだ。ぽっかり開いた空間には何もないし誰もいない。あれが本当にただの穴なら他に落ちようがないのにだ。
「……ど、どないするねんアライン?」
 バールの問いにアラインは唇を引き結ぶ。様子を見るかあの穴に突入するか、今すぐには決めかねた。
 隣のノーティッツを見やれば彼もまた悩ましい顔をしている。心情としては飛び込んで行きたいのはやまやまだろう。だがそれが最善かどうか判断する材料がないのだ――。

「おい」

 真後ろから掛けられた声にアラインは悲鳴を上げかけた。このタイミングだから魔物かと思ったのだ。
 だがそこにいたのは黄金の翼を広げたディアマントだった。
「え!? ど、どうしたの!?」
 驚いて尋ねると彼はむっつり表情を曇らせる。どうも腹の立つことがあったようだ。
「ちゅーかええトコ来てくれはったわ。ワシら今めっちゃ困ってんねん」
「あ、あの穴。階段の天辺に穴があるのわかる? あそこにベルクとウェヌスが吸い込まれちゃったんだ」
「ディアマント天界人だよな? 何か知らないか?」
 ふたりと一羽で彼を囲んでわたわた状況を説明すると、ディアマントは「なんだと?」と眉間の皺を濃くして穴に近づこうとした。
「あかんあかーん!!!! 近づいたら吸い込まれるねんて!!!!」
「ちゃんと人の話をよく聞いて!!!! でないと危ないから!!!!」
「これだから天界人はもう!!!!」
「ええい離れろ鬱陶しい! ちょっと首を伸ばしただけだろうが!!」
 怒号を響かせディアマントは上方へ飛び腕を組み直す。
「ふん……、玉座が消滅して時空を捻じ曲げる消失点にでもなったか?」
 そんなもっともらしいことを言うのでアラインはノーティッツと一緒になって、降り立った縋りついた。
「あれ、あれ、どうにかできる?」
「ベルクとウェヌスが無事かわかるか?」
 こちらはもう必死だった。決してぬるい遠足気分で来たわけではなかったが、戦闘以外のハプニングなど予期していなかったのである。
 難解な類の古代魔法だとしたら終わりだ。魔法の種類や効果を調べて対策を練るのに何年かかるかわからない。
「待て。私とて人を飲み込む穴など知らんし見たこともない」
「う、うああああ」
「だ……駄目か……」
「だが奴らなら或いはわかるかもしれん」
 ぴく、とアラインの耳が跳ねた。同時に項垂れていたノーティッツの耳も。
「……奴ら?」
 尋ね返したアラインたちにディアマントはまたも仏頂面を歪めた。
「貴様らを呼べと頼まれたのだ。くそ、この私を顎で使うとは……!」
 どうやら彼は誰かに命じられ魔王城までやって来たらしい。不服そうなその顔にアラインとノーティッツはきょとんと目を見合わせる。
 ラウダに乗り込むよう指示されてバルコニーまで戻ると、ディアマントは「ついて来い」と先に飛び立った。ぐんぐんと内海を進んで行く彼は何も語らない。
「どこに行くんだ? 目的地は?」
「驚かせたいから伏せておけと言われている。どうせすぐそこだ、気にするな」
 そんなことを言われたらますます気になる。
 ノーティッツにも行先は予測できないようだった。



 ――しばらくすると前方の海に白い靄が見えてきた。
 あれ?と目を凝らし何度も確認するが、やはり霧が出ている。一度は完全に晴れたはずなのに。
「最近復活したのだ。あれが気になって私も何度か足を運んでいた」
「……そうだったんだ」
 ちょっと遠出の散歩だと思っていてごめんとアラインは内心で深く謝罪する。ノーティッツはこそこそとバールに「ニートじゃなかった」と驚愕を告げていた。
「けど外海は濃霧なんて出てないよね? なんで内海だけ?」
 ふん、とディアマントは鼻息を荒げる。行けばわかるとだけ言い放ち、彼は霧の中心へ向かい飛んで行った。
「もしかするともしかするな、これは」
 何か勘づいたのかぼそりとラウダが呟く。
 霧の中に入るとすぐアラインもハッとした。
(この霧、誰かの魔法でできてる……?)
 何故?だって天界は消滅したのでは――。
 そう思っていたら目の前に転移の陣が現れた。いつの間にかラウダは海底火山の真上を飛んでいた。
「え、え、えええ!?」
 グン、と身体に負荷がかかってワープが始まったのを悟る。
 空間移動は一瞬だった。眼下には見覚えのある小島と神殿、薄水色の空が広がった。
「なんでや!? なんでまだ天界があんねん!?」
「それは直接あいつらに聞け」
 先行していたディアマントが前よりふた回り以上小さくなった結界の中へと飛び込む。
 魂を物質化する特殊な魔法はもう神殿周辺にしかかかっていないようだった。
「あ、ああ!?」
 その神殿からこちらを見上げているのは他でもないアンザーツ。傍らには賢者と聖女が控えている。
「い、生きてたんだ!?」
「落ち着けアライン! 生きてはおらん!!」
 バールのツッコミにラウダがふっとニヒルな笑みを零した。
 先代勇者はさっぱりとした笑顔で佇んでいる。



 魔王城の視察へ行くはずが、巡り巡ってここは天界。神殿の奥の一室でアラインたちはアンザーツのもてなしを受けることになった。
「ごめんね、お茶もお菓子もないんだけど」
 申し訳なさそうに先代勇者が詫びる。いやいやと平伏しながらアラインは頬の汗を拭った。
「というか三人とも無事だったんだ? 僕てっきり天界と一緒に旅立っちゃったもんだと……」
 円卓を囲んで向かいに座ったヒルンヒルトがうんうんと頷く。
「我々も小島の影に隠れていた神鳥たちが一斉に飛び立ったときは覚悟したな」
「ええ、間に合って良かったわ」
「ツエントルムだってもういないのに一体どうやって……」
 アラインの疑問にはアンザーツたちでなくノーティッツが答える。
「そうか、引き継いだんですね……?」
 ご明察だと賢者が笑った。
 ――あの後、崩れ落ちる天界を見つめてアンザーツが「このまま三人でいられたらいいのに」と呟いた瞬間、彼らの目の前に白い法衣の彼が落っこちてきたらしい。ピンときたヒルンヒルトが勇者の肉体を回収し、ゲシュタルトに回復をかけさせ、神殿に残る天界維持の魔法陣の中へ放り込んだのだ。あとは文字通り死ぬ気でその魔法を解析し、アンザーツに発動をやり直させたというわけだ。
「ぼくがツエントルムの子孫だったからできた荒技だね」
 ヒルトには感謝してるよとアンザーツはご機嫌だった。賢者の言によれば「今は三人で非常に穏やかに暮らしている」そうだ。
「へえ……非常に穏やか。へえ、そうだったの……知らなかったわ……」
 ゲシュタルトの放つギスギスしたオーラは見なかったことにした。いや、できればそうしたかった。
「なんだ。君にとって今の我々の関係は穏やかでないと言うのか?」
 憂慮すべき事態かもしれないぞアンザーツ、とヒルンヒルトは先代勇者に耳打ちする。誰がどう見ても不自然な至近距離だが、辺境の都で合流した頃からちょくちょく目にした光景だ。
「言ってるそばから……! あなたアンザーツに近寄りすぎなのよ! ベタベタする意味がわからないわ!!」
「仕方ないだろう、闇魔法を頻繁に使っていた頃の癖なのだ。何かあるたびにこうして自我を確かめていたから……」
「悪い癖なんだから直しなさいよ!! 目ざわりなの!! 鬱陶しいの!!!」
「ふむ……アンザーツ、君は嫌か?」
「ぼくは別にヒルトにベタベタくっつかれるの嫌いじゃないよ」
「だそうだが、ゲシュタルト」
「ああああああ!!! もううううううううううう!!!!!」
 どんどんとテーブルを叩く聖女の肩を宥めつつアラインは胸中で慰めの言葉をかけた。マイペースふたりに振り回されて苦労していそうだ。
「盛り上がってるところ悪いんですけど、ぼくら聞きたいことがあるんです。実は魔王城の神具がなくなっていて……」
「――え?」
 ノーティッツがそう助力を乞うとアンザーツたちは目を丸くした。
 アラインもベルクやウェヌスを襲った「魔法に拠らない穴」について説明する。
「ふむ、ここの文献で見覚えがあるな」
 唇に手を当てながらヒルンヒルトが立ち上がり、書庫へ行こうと歩き出した。
 ちゃんとふたりを助けられるか不安だが、情報があるだけでも今は有り難い。
「……。大丈夫だよノーティッツ、ベルクは神具も持ってるんだし」
 笑顔の消えている隣国の友人に気づいて笑いかける。「だといいけど」と返す彼に普段の余裕はなさそうだった。
「あのふたりのしぶとさは君が一番よく知ってるだろ?」
「……そうだな」
 ノーティッツは苦く笑って嘆息した。いつでも平常心なのかと思っていたが、ベルクたちと引き離されるのは彼にも堪えるらしい。震えてしまうのを抑えるためか、ノーティッツはずっと腕を抑えていた。



 心当たりがあると賢者の言った文献は、神殿地下の広大な書庫の一角に綺麗に整理され並んでいた。
 すべて魔道書かと思いきや芸術関連の本、歴史関係の本、果ては料理本や園芸本までジャンルは多岐にわたっている。ヒルンヒルトによれば「もといた国の図書館の一部をそのまま持って来たのだろう」とのことだった。例の破滅の魔法から最後に身を隠したのがここだったのかもしれないと。
「ツエントルムはよっぽど暇を持て余していたらしくてな。編み物の本に付箋がついているのを見たときはうっかり人間味を感じてしまったよ」
「こんなところに何百年もいたせいで性格歪んだのね、きっと」
 賢者の長い指が本のページをパラパラめくる。「これだな」と手を止めた部分には魔力と生命の循環について長々記述されていた。
「ざっくり言えば、魔力の噴き出すポイントと吸収されるポイントがあるのと同じで、生命も噴き出すポイントと吸収されるポイントがあるという話だ。命を吸い込む真っ黒な大穴を塞いだのはオリハルコンでできた魔道具――どうだ? 合致していそうか?」
「そ、それや!!」
 バールが叫んで飛び回る。
「落っこちた人間を助ける方法は?」
 ノーティッツも俄然食いついた。
「神具がなくなっててって言ったよね? それは確かなのかな?」
「私がこの目で確かめた。魔王の間へは一度行ったことがある。玉座はどこにも見当たらなかった」
 アンザーツの問いに答えたのはディアマントだ。
 それならと勇者は推測を口にした。
「多分、アライン君の神具みたいに玉座も変化したんだ。オリハルコンの力を借りて穴を開けちゃった犯人がいるんじゃないかと思うけど――」






 ******






 とてとてと軽い足音が闇に響く。
 常夜の魔界の湿原よりなお暗い、ここは一体どこなのだろう。
 足元には短い草しか生えておらず、ユーニはときどき石ころに躓いて転んだ。

「ふええ……イデアールさまどこぉ……」

 小さな身体の半分はある大きな鍵をぎゅうと抱きしめ、わけもわからず前へ進む。
 すれ違う男も女も人間も魔物も見知った者はいなかった。
 ただみんな、ユーニと違って少しだけ宙に浮いている。

「イデアールさまあ……!」

 ぐすぐすと泣きべそをかきながらユーニは大切な男の名を呼んだ。
 返事はまだ聞こえない。






「ベルク殿、ベルク殿、起きてください!」
「う……ううん……カーチャン俺だけ朝飯あとにして……」
「もう! ベルク殿!!」
「ん……んん? ええっ!?」
 寝ぼけ眼をカッと開き、ベルクは素っ頓狂な声を上げる。妙に聞き覚えのある声がするなと夢から目を覚ましたら、もう二度と会うことはないと思っていた人物がこちらを覗き込んでいた。
 心配性の黒い瞳、憎らしいほど爽やかな面立ち、すらりと長い手足に誰もが振り向く高身長――。
「お、オーバスト!?」
 名前を叫ぶとオーバストはほっとして息を吐いた。
「良かった。突然あなたが空から落ちてこられたので本当に心配したんですよ」
「え、え、え!? 何ココ!? 俺死んだのか!!!?」
「残念だがまだ死んでいない。穴に落ちただけで命を失くしはしないさ」
「うえええええええ!? な、オーバストお前なんで増殖してんだ!!!?」
 そっくり同じふたつの顔に挟まれてベルクはにわかに混乱した。
 だがよくよく見れば分け目が違うし、表情も一方は皮肉っぽい。
「ここは地脈の裏側――魂が旅をする死後の世界なんです。どういうわけかベルク殿はこの流れの中に紛れ込んでしまったみたいですね」
「……へっ!?」
 し、死後の世界?それはまたえらいところに来てしまったのではなかろうか。
 というか死後の世界というのは生きたまま入れるものなのか?
「呆れた間抜け面だな。神具もウェヌスももう少しこましな若者を選べば良かったのに」
「ツエントルム、ベルク殿を悪く言うのは……」
「わかったわかった。お前はすぐ他人に情を移す」
「ツ……ツエントルム?」
 何か失礼なことを言われているのはわかったが、それよりも驚きが勝った。
 このオーバストにそっくりな片割れが苦心の末に打ち滅ぼしたラスボスだって言うのか?
「ふん」
 前髪を払ってツエントルムが不敵に笑う。神具に守られていて助かったな、と。
「普通の人間なら冥界の力に毒されて魂に何らかの影響を受けるのに。帰れなくなる前に精々頑張って出口を探すことだ」
「神具に守られて……って」
 言われてベルクは腰元の剣を見やった。白く透明な輝きを放つオリハルコンは今日もきらきら眩い。何度となく窮地を救ってくれた剣であるが、またも自分に加護を与えてくれたのか――。
「あっ! そ、そうだウェヌスは!? あいつも一緒に落ちたんだが」
「ええ!? ウェヌス様が!?」
 真っ青になって尋ねるが、オーバストたちもウェヌスを見かけてはいないようだった。それは大変です、とても大変です、とベルク以上に青くなってオーバストが慌てふためく。
「神具もないのにこんな場所をウロウロしていたら何があるかわかりません。つ、ツエントルム、あの、私しばらくベルク殿のお手伝いをしてきても」
「……まぁ仕方あるまい。好きにすればいいさ。止めてもどうせ行くんだろう?」
 そっくりふたりのやりとりをわけもわからず見守りつつ、ベルクはキョロキョロ周囲の様子を窺った。
 目を凝らさねばよく見えないが、そこいらを蠢く気配は都の人口に勝るとも劣らぬ数である。薄暗い夜の湿原といった雰囲気の場所で、道の先には街もあった。いわゆる幻術というやつかもしれないが。
「しかしウェヌスは我が娘ながら鈍臭いな。こちらの飲食物を口にしていなければいいが」
 ふう、とツエントルムは嘆息した。オーバストも心底不安げに頭を抱えている。
「こ、こっちの食いもん飲みもんって何かヤバいのか?」
 尋ねたベルクにふたりは息ぴったりで交互に喋り始めた。
 ツエントルム曰く、「聞いたことくらいあるだろう?死の国の果実を食べて一年の内四ヶ月は黄泉で暮らさねばならなくなった豊穣の女神の話を」だそうだ。そしてオーバスト曰く、「そうでなくても今はウェヌス様の身に何が起きているかわかりません。ベルク殿、早く探しにまいりましょう」とのことだった。
 とりあえず自分よりウェヌスの方が圧倒的に危険な状況だということは把握した。追いかけてきておいてこれなのだから素直に残っていろよと思う。またこちらが凄まじく心配にならないといけないではないか。
「行くのはいいが、困ったときはわたしを呼ぶようにね、オーバスト」
「ああ、頼んだよツエントルム」
 オーバストとツエントルムの間にはもう不穏な空気は流れていないようだった。元神様に対しては色々思うところもあるが、今は突っ込んでいる暇もなさそうだ。頭を切り替えスイッチを入れるためベルクは両手で己の頬をパンと叩いた。
「とりあえず、あいつがこっちのメシ食う前に見つけて連れ帰りゃいいんだな?」
 オーバストと共に駆け出すと、ベルクは一応「相方借りるぜ」とツエントルムを振り返っておいた。所有欲だの支配欲だの強そうな男なので、挨拶くらい入れておくかと気遣ったのだ。
 ふたりになってから容姿が瓜二つである理由を問うとオーバストは満面の笑みで「私、ここに来てから全部思い出したんです!」と教えてくれた。神とオーバストは友人ではなく双子の兄弟だったそうだ。
「我々はもう大丈夫だとディアマント様にもお伝えしたいです。生まれ変わりの順番待ちがすごいので、なかなか会いに行けそうにないですけど……」
 順番待ちがあると言われてベルクは「だろうな」と納得した。
 目が慣れてきたおかげもあるのか段々ハッキリ死者の姿が見えるようになってきている。
 きちんと列に並んでいる者、隅っこでお喋りに夢中になっている者、恋人同士イチャつく者、カード遊びに興じる者、とにかく至るところに魂が溢れている。
(終焉の国か――)
 一応平和そうな場所でまだ良かった。
 待ってろよウェヌス。すぐ見つけてやるから、何もせず大人しく、トラブルに巻き込まれないように待ってろよ。






「ああ、なんだかふらふらしますわ……」
 暗い水の流れる噴水の脇でウェヌスは男の肩に凭れかかった。
 何かとても大切なものを探してここへ来たような気がするのだけれど、それが何だったか思い出せない。
「大丈夫かい? ボクがついててあげるからね」
 男はそう言って鳶色の長い髪を掻き上げ、ウェヌスの腰に腕を回した。
 目が覚めたとき自分のすぐ側にいたのが彼だった。「忘れてしまったの? ボクたちは運命の恋人同士なんだよ」と教えられ、なんとそうだったのかと驚いてしまったのが申し訳ない。どうも自分は大事なことばかり忘れてしまっている気がする。
「まあ紅茶でも飲んでさ、落ち着いたら少し歩こうよ。変わり映えのしない景色だけど、君さえいれば天国さ」
 差し出された水筒を傾け香り良い液体を喉奥に流し込む。
 乾いた喉が潤されると少し元気が出たような気がした。
「とっても美味しいですわ――リユーゲさん!」
 微笑むウェヌスに爽やかな顔でリユーゲは白い歯を光らせた。
 それにしても何故彼の身体は少し浮かんでいるのだろう。いや、自分の身体が他の人間より沈んでいるのか。
「じゃあ行こう」
 手を取られ歩きながら、ウェヌスは行き交う人々の顔をつぶさに眺めた。
 あの人も違う。この人も違う。
(……私どなたを探しているのだったかしら……)
 繋がれた手にぎゅっと優しい力が篭る。
 熱っぽい目と見つめ合えば、忘れてしまった大切なことも思考から遠ざかる気がした。









(20120706)