未来編 北の森の悪魔






 人の手がまったく入っていない自然など今時は珍しい。外海の大陸であればまだしも、対岸に王都を臨むこんな土地では尚更だ。
 三日月大陸の北の果て。かつては毒沼と断崖絶壁の岩山だったとされるそこには鬱蒼とした森が広がり、人類の侵入を固く拒んでいた。天まで枝葉に覆われた、陽光もろくに届かぬ大森林だ。地図もなければ当然まともな道もない。時折空の彼方から鳶の鳴き声が聞こえてくるくらいである。
 森の入口に乗り捨ててきた愛車を思い、バイトラークは嘆息した。タイヤが滑るかもなどと案ぜず中まで乗って入るのだった。それか小型飛行機で上空の探索を済ませておけばもう少しましな道程を辿れたかもしれない。ここ一帯は原因不明の墜落事故が絶えぬ区域でもあるのだが。
「あー、くそ、ここまでか……!」
 濃灰色の短髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜ、力尽きましたとばかりに湿った土に四肢を投げ出す。天を仰いだ青い瞳に青い空など映らなかった。この数日探し回った悪魔の館も。
(ネルトリヒなんてやっぱり実在してなかったんじゃないのか?)
 ああもうそんなことより腹が減った、喉が渇いた。高熱のせいで節々が痛むし思考がぶつ切りになる。
 森林の水が毒性だったのが第一の誤算だ。湧き出る清流は清らかに見えるだけで、煮沸には少しの効果もなかった。その時点で引き返せれば良かったのだが流石「悪魔が棲む」と称される森だけはある。数メートル刻みでつけてきたはずの目印は霧によって隠され、視界が晴れる頃にはその微毒の霧のせいでかなり朦朧としていた。気づけば自分が東西南北どちらを向いているかもわからなくなる始末。そうなるともう行くのも帰るのも絶望的だった。
 軍服には名前の刺繍がしてあるから運良く誰かが拾ってくれれば死体の身元くらいわかってもらえるだろう。こんな場所では墓もなく朽ち果てるしかないと言われればそれまでだが――。

「……、んあ……?」

 意識が失われる寸前、何か濃い影がバイトラークを覆った。
 大きな鳥の羽音を耳にし、最後の力を振り絞って薄目を開く。ぼやけた視界には銀と青に輝く光が映った気がした。






 ******






「……ッ!!」
 次にバイトラークが目を覚ましたのは二枚の毛布がかけられた祭壇の上だった。
 祭壇だと思う。寝台にしては背中が固すぎたし、ブランケット越しでも石の冷たさは誤魔化せなかった。
「えっと……」
 戸惑いつつ顔を上げれば天井は高くアーチを描いている。見下ろした階段の先には出口らしき長方形の穴があった。どう見ても近代の教会や聖堂ではない。岩を削り、或いはくり抜き造られたらしい神殿は静まり返って人の気配はどこにもなかった。唯一バイトラークの右腕に繋がった点滴だけが異彩を放っている。
「どこだここ……?」
 誰かが助けてくれたのだろうか。でもどうやって?
 熱や関節痛は引いていた。空腹感はあるにはあるが、森を彷徨っていたときほどではない。
 ともかくも恩人を探して礼を言わねばと祭壇を降りかけたところでバサバサというあの大きな羽音が響いた。


「軍人が何の用だ」


 若い男の冷ややかな声が心臓を射抜く。足元から真横に戻した視線の先で真っ赤な炎が揺らめいた。
「うわッ!?」
 信じ難いことに先程まで何もなかった空間に熱い火の輪が浮かんでいる。そしてそれは今にもバイトラークの鼻先を焦がそうとしていた。
「痛っ!!」 
 仰け反った拍子に祭壇の縁で後頭部をぶつける。ちかちか星の瞬く視界には更に信じ難いものが映った。
 白に近い逆向きの銀髪。暗褐色の肌。血と同じ色の瞳。そして青銀の両翼――。空中から舞い降りてきた男の容姿は異形と呼ぶに相応しかった。長い前髪で隠してはいるが、変色した顔の左半分は皮膚が醜く爛れている。袖口から覗く手も甲は青い羽毛に覆われていた。
 物語で見る怪物の姿そのものだ。あとは尖った長い耳か尻尾でもついていれば完璧だったろう。
「あ、あんたがネルトリヒの悪魔?」
「……」
 問いかけに返答はない。ただ冷たい双眸がチラとこちらに向けられただけである。否定しないということはおそらく推測が正しいのだと思うが。
「こっちのことはどうでもいい。お前の用事はなんだと聞いてる。どうしてあんなところで倒れてた?」
 正直に答えなきゃ殺すぞと悪魔は火輪の威力を増した。バイトラークが逃げられぬように祭壇をひと巻きして炎は流れる。 仕掛けらしい仕掛けは見当たらないし、ガスや油の匂いもしない。まさか本当に本物の「魔法」なのかと息を飲んだ。
「アラインの命令か?」
「……!!」
 四百年もの長きに渡り世界を治める王の名にバイトラークはギッと唇を引き結んだ。そうだ、忘れてはいけない。何を目的にこの未知なる森へと訪れたのか。
「違う」
 短くはっきりした否定の声は悪魔の炎を僅か和らげた。「じゃあなんだ?」と重ねられた問いには逆だと答える。まったくの正反対だと。
「アライン・フィンスターを玉座から引き摺り下ろす。そのためにあんたを探してたんだ、俺は」
 ネルトリヒは一瞬瞠目し、それからすぐ背を反らし大笑いした。
「アラインをお前が? はは、そりゃすごい。ははは!」
 神殿の天井まで笑い声は響く。相手にされていないのか、はたまた冗談だと思われているのか、ともかく馬鹿にされていることだけはわかった。ムッとして悪魔の顔を睨みつけるも男はまだおかしそうに腹を抱えている。
「笑うなよ、こっちは本気なんだ。もうあの王様には世界を任せちゃおけねえ。少なくとも辺境の軍はそう考えてる」
「無駄な目論見だな。軍隊をいくつ動かそうと勇者は殺せない」
 くっくっと残った笑みを噛み殺し男は翼を広げた。そのまま祭壇の角に踵を引っ掛け細い足を組む。
「何百年と生きている大魔法使いだ。普通の人間が敵うわけないだろ?」
「あんただってその魔法使いじゃないのかよ。ネルトリヒっつったら相当昔から戯曲や物語の題材にされてるぜ」
「それで悪魔の力を借りようと? ただの人間たちだけじゃ憎い王に勝てないから?」
 ネルトリヒはまた口元に嘲るような薄笑みを刻んだ。小馬鹿にされているようで感じが悪い。見たところバイトラークよりひと回りは若そうなのに。
「魔法も信じてないくせによく言う」
 そう呟くや否や、悪魔は天井高く舞い上がった。真っ黒な上掛けがふわりと浮いて、緑と薄緑を基調としたツートンカラーのチュニックが覗いた。
 あれは何世紀か昔に流行った兵士の装束だ。着込んでいるのか端は擦り切れボロボロになっている。裾から突き出た灰色のズボンも相当年季が入って見えた。だが単に古めかしいと言うだけで他におかしな点は見当たらない。
「どうやって飛んでるか仕掛けを探してるんだろう? 同じようにアラインが起こす奇跡や長寿にも納得のいくタネがあると思ってる」
「……!」
 胸中を見透かされバイトラークは押し黙った。事実その通りだ。自分がネルトリヒを探していたのは魔法のいんちきさを証明するためだった。アライン・フィンスターが自分たちと同じ人間だとわかりさえすれば、民衆の心は間違いなく王の元を離れていくのだから。
「人間というのは本当に仕方のない生き物だな。自分で確かだと実感できるものしか信じない。地上に魔法使いがいなくなっただけでこれだ」
 冷たい声が神殿に響く。ネルトリヒは「さっさと出て行け」と言い放ち飛び去ろうとした。
 思わずその背を呼び止める。肩甲骨と繋がっているようにしか見えない両翼を睨みつけながら。
「おい待てよ!! 魔法使って飛んでるって言うならこれは何だよ!?」
 右腕から点滴の管を引っこ抜き、バイトラークは空中の悪魔に投げつけた。ポリパックに入った薬液はどう見ても現代医学の産物だ。おまけにご丁寧に工場名まで印字されている。
「毒消しに使ったに決まってるだろ? お前魔法は万能だって勘違いしてるんじゃないか?」
 出て行く気がないなら送ってやるとネルトリヒはこちらに向き直り間合いを詰めた。一瞬で懐まで飛び込まれ、腕を掴まれる。
 引き剥がそうともがいたが無駄だった。そもそもが病み上がりのバッドコンディションだ。力も入らず成されるがまま神殿の外へ連れ出されてしまう。こんなところで任務を諦めるわけにいかないのに。


「――……」


 風がバイトラークの頬を撫でた。
 目の前にあるのは青銀の羽。眼下に広がるのは深緑の森。
 真昼の太陽はこれが夢でも幻でもないことを語りかけるようである。
 ――飛んでいた。それも鳥のように自在に。或いは悪魔が自ら気流を生み出しながら。
 そんな馬鹿なという呟きは風に流れて霧散した。科学の力をまったく借りず、こんな真似できるわけがない。
「二度とこの森に立ち入るな」
 そう言うとネルトリヒはバイトラークを樹の上に放り出した。止める間もなく男は飛び去る。
 足元の茂みには見慣れた銀のバイクがあり、少し先にはちらほら民家が見えていた。
 だが日常の営みを垣間見てもバイトラークの心はまだ戻らない。たった数分間の飛行がこれまでの価値観を引っ繰り返してしまった。
(……魔法、使い……)
 本当に存在するのか。そんな生き物が。






 ******






「よしフェルナー、もう一度言ってみろ。これが最後のチャンスだ」
「ウッス。ネルトリヒの悪魔に会ってきました。あいつ本物の魔法使いでした」
 真顔で答えるバイトラークに上司の鉄拳が返される。寸でのところで攻撃をかわすと「避けるんじゃねえ!!」と怒鳴られた。なんて理不尽な。
「だから魔法なんてものありゃしねえって常日頃から言ってんだろうが! コロッと騙されて帰って来やがって!!」
「騙されてねぇっつってんだろ!! 俺ァ空飛んで森を出てきたんだぞ!?」
「そういうのが魔法使いっつう詐欺師のやり口なんだ!! あいつらが肝心な問題を片付けねえで放置してるのは本当は魔法なんか使えねえからだってお前も認めてたじゃねえか!!」
「だーかーらーそーれーはー!!!!」
「あぁッ!? なんだ? やんのかァ!?」
 厳めしい悪人面を凄ませて迫る上司にバイトラークも負けじと額を突き返す。慣れたやりとりを微笑ましげに見つめているのは辺境の国を取りまとめる初老の男だ。人格者として知られる議会長は穏やかな笑顔で間に入ってくる。
「まぁまぁ、フェルナーの話は無益なものでなかったと思うぞ。魔法を実在のものとみなす記録は寧ろこちらの地域の方が豊富に残っているぐらいだし」
「しかし議会長、それでは我々の計画ってもんが……!」
「ともかく彼は魔法を体感したということだよ。王都に暮らす民衆は日々その恩恵に預かっているわけだから、やはりクーデターは容易でないだろうなあ」
 嘆息は小さなものだったが、ぶつかっている壁の大きさは測り知れない。一刻も早くアラインを退けねばならぬのに対抗手段は見つからないままだった。自分が色よい報告を持って帰るはずだったのにと歯痒くなる。
「もういっぺん、今度は全軍使って森の探索をしてみましょうか? ネルトリヒをとっ捕まえて魔法の仕掛けを白状させるんです」
「や、だから仕掛けなんかなかったって言ってるっしょ。俺の話聞いてました?」
「そうだな、今は少しでも情報を集めたい。我々は魔法について知らなすぎるし、そこを解明できない限り、王と対峙することは不可能だろう」
「けど無茶な探索なんかしたら確実に兵力削がれると思いますよ? 今までだってあの森で何人も死んでるじゃないっすか。第一俺以外誰もネルトリヒを探そうなんて気概ある奴いなかったでしょうに」
 上司と議会長は同時に黙り込みがっくり肩を落とした。国王に不信感は抱いていても、得体の知れぬ魔法や奇跡に尻ごみする人間は少なくない。だからこそ確実な攻略法が必要なわけだ。皆を鼓舞し、勇気づけてくれるような勝利への確信が。
「もうワンチャン貰えませんかね? 俺、あいつのこと説得してみます。仲間になってほしいって」
 ぽかんと開いた四つの瞳がバイトラークをまじまじ見つめた。お前は何を言っているんだと上司は呆れ、その発想はなかったと議会長は驚きを露わにする。
「本物の魔法使いならすげえ戦力になるでしょう? それにあいつ、悪魔なんて呼ばれてる割にそこまで悪い奴には見えなかったんすよ」
 とにかくもう一度行ってきますと主張するバイトラークに議会長は無言で頷いた。
 人類は追い詰められている。正直なところ、打てる手があるならなんでも打っておきたいのだ。






 ――どこまで話を遡るべきだろう。アライン・フィンスターによる世界統治が始まったのは、アペティートとビブリオテークの争いに端を発する大規模戦争の終結から数ヶ月後のことだった。戦いの爪痕は深く、大国はことごとく指導者を欠いた。その頃既に勇者の称号を不動のものとしていたアラインは多くの民にとって正義の象徴たる存在であり、彼の取った英雄的行動はどこへ行っても大絶賛の的だった。
 疲弊しきったアペティートとその属国、ビブリオテーク、ドリト島には三日月大陸からの使者が頻繁に遣わされた。名目は復興や生活の支援だったかもしれない。しかしこれらの国々は三日月大陸の管理下に入ったも同然だった。
 今日に伝わる「破滅の魔法」による危機が真実であったかどうかは不明である。だがこの時期、アペティートのヴィルヘルム帝王やビブリオテークのアヒム首長、ヒーナの皇帝レギが相次いで戦死し、三日月大陸も政治上・軍事上の重要人物を幾人も欠いているのは確かだった。世界は他に類を見ない混乱に見舞われていたのだ。
 力ある者が民衆を束ねていくのは自然の摂理である。アラインの台頭は至極当然の出来事だった。彼は善政に努めたし、どの国でも人気があった。人類はこの偉大な王の元でより良い方向へ進んでいくかに思われた。
 異変が発覚したのは二年後だ。当初それは三日月大陸のみの問題として表出した。
 辺境の王が言う。昨年は珍しい年になったと。辺境の国では魔力を持つ赤子が生まれた場合、必ず届け出る義務があった。その届け出が一年間ひとつとしてなかったのだ。
 その頃辺境の国には宮廷魔導師たちの一軍があったという。そんな魔法国家で魔法使いの出生がなかったと聞かされたアラインは即刻自国でも調査を開始した。兵士の国もこれに追従し、結果、三日月大陸全体で新たな魔法使いは誕生していないことが判明した。
 だが問題はそんなことではなかった。魔法使いが生まれていなかったどころか、新生児の数自体が昨年の半分以下まで落ち込んでいたのである。
 神の祟りか伝染病か、原因には諸説あったが今なお不明だ。出生数の低下は続いてヒーナでも起こった。有効な対策を講じられぬまま三日月大陸とヒーナの人口は五十年余りで激減し、アペティートやビブリオテークから多くの移民を受け入れることになった。墓場へ行けば水子と老人の墓標が交互に並んでいる有様だった。
 悲惨なのはここからだ。今度はついに中央の二大陸においても出生数の低下が始まった。人が減れば働き手が減る。働き手が減れば耕作地は荒れ、食糧の確保が困難になる。弱体な村や集落、時には大きな街にさえ飢えは容赦なく襲いかかった。肥沃な大地と王の加護を求めて人々は三日月大陸、とりわけ勇者の国に集まった。こんな移住傾向がそれから三世紀に渡り続いたのだ。
 初めにヒーナから民が姿を消した。次にドリト島、ビブリオテークから。フロームとエアヴァルテンも暮らしが成り立たなくなり、ついにアペティートは最後の航空便を出すことになる。ビブリオテーク北方に位置する国々では独自文化を貫いた遊牧民たちがひっそりと滅んでいった。
 今や三日月大陸は人類最後の砦だ。アラインの庇護下にさえあれば、次代はともかく己の生命は保障される。王の魔法が飢餓からも災害からも守ってくれるのだ。おまけに発達した都市での暮らしは快適だった。勇者の都に移り住んだ人々は誰もが国王を持て囃し褒めそやした。人という種が生き残るか死に絶えるか、直面した問題に未だ答えを出さずにいる愚鈍な王だと謗る者はひとりもいない。嘆かわしいことに。
 辺境の国では一昨年ついに出生数がゼロになった。昨年もゼロのままだった。議会長は「今こそ奇跡を」と嘆願したけれど、王は首を横に振ったそうだ。加えてとんでもないことが発覚した。胎児の命を奪い続ける悪の根源を突き止めるべく設立された研究機関が、実際には何の活動も行っていなかったのだ。国の最高権力者が調べても無駄と諦めきって、国民向けには架空の研究者たちが努力しているとでっち上げているのである。これは許し難い悪行だった。
 しかしどれだけ証拠を握ったところでアラインを弾劾するのは難しい。現在流通している食料の大半は国王が管理している広大な農園の生産物だった。アラインは天候を操り、未然に不作を防止していると市民たちは信じている。彼が雨や雷を呼ぶ姿を実際目にした人間も多数いる。何百万という人間が国王の「奇跡」に依存し生活している今、彼に反旗を翻すのは非常に危険なことだった。それで辺境の軍隊が隠密に動くことになったのだ。
 アライン・フィンスターは出生数の大幅な減少に関して何らかの情報を握り潰そうとしている。辺境の上層部には数人だがこれを確信している人間がいた。彼らはこのままでは人類が滅亡するだろうことを憂いていた。
 全滅を免れるには王の秘密を暴くことが不可欠であり、王の秘密を暴くには魔法に関する知識が不可欠である。科学的説明が困難な事象もアラインの周辺では日常的に起きていた。例えば一瞬で遠くへ移動したり、他人の心を読んだりなど枚挙にいとまがない。
 もしそこにトリックがないのなら、どうあってもネルトリヒに力を貸してもらわねばならなかった。






 こつんと硬質の音を響かせて、手にしたバインダーをデスクに突き立てる。蛍光灯の明かりが遮られできた影の中、白衣を纏った青年が顔を上げた。作業の邪魔をするなと注意するつもりであったのだろう。だが彼は両目を瞠って言葉を失くした。虚を突けたらしいことに満足し、バイトラークはにやりと笑う。
「言われた通り森には立ち入ってないぜ、ネルトリヒ」
「……何の話?」
 声をかけた青年はポリパックに記載されていた工場に勤める研究者のひとりだった。何らかの形で出入りしているだろうとは思ったが、まさか人間に化けているとは驚きだ。職権乱用して盗難被害の捜査から始めるつもりだったけれど、おかげで手間が省けた。
「しらばっくれんなよ。森の神殿で会っただろ? もう俺の顔忘れたのか?」
「よくわからないけど人違いじゃない? ネルトリヒって悪魔の名前だぜ?」
「はー、成程ねェ、そうやってシラを切ると」
 最初にこいつだと思ったのはほぼ直感、野性の勘だ。大きな翼や青い羽毛は痕跡すらなかったし、皮膚の色も違っていた。だが声と眼だけは誤魔化せていない。血よりも赤い双眸は。
「火傷の痕浮いてるぜ」
「!」
 ネルトリヒが一瞬しまったという顔を見せる。思わず左頬に指を伸ばしかけたせいだ。
 彼の変化は完璧だった。こちらが少々カマをかけただけだった。
「……人が多すぎる。外へ出よう」
 外野から無言の関心が寄せられているのに気づいて男は顔を顰めた。どうやらこの場は観念したらしい。
「やだよ。人気のないとこ行ったらあんた逃げるかもしれないだろ」
「話ぐらい聞いてやるさ。馬鹿ではないみたいだしな」
 デスクから立ち上がるとネルトリヒはラボの外へ歩き出した。後を追いつつ机上の名札を一瞥すればノルト・ヴァールトという名が見える。
「あれ本名?」
「違う。ネルトリヒもぼくの名前じゃない」
 男は憮然とした態度で答えた。苛立ちは後ろ姿からも見て取れるほどだ。
 喫煙所を通り過ぎ、コンクリートの庭を横切って誰もいない倉庫の裏へ出る。バイトラークを振り返りながら悪魔はようやく青銀の羽を広げた。
「見破られたのは初めてだよ。用件は何だ? 改めて魔法使いに頼みごとか?」
 風にはためく白衣の下には獣の腕があり、爪先は宙に浮いている。バイトラークの訪問を予期していたわけではなさそうだから、仕込む時間はなかったはずだ。
 ということはやはり本物の魔法なのだ。まだ半信半疑な面はあるが。
「その前に自己紹介しようぜ。俺はバイトラーク・フェルナー、辺境の陸軍に身を置いてる」
「……フェルナー? ふぅん、ならあいつの子孫か。道理でしつこいわけだな」
「え? うちの家系のこと知ってるのか?」
 この質問は無視された。自己紹介をと言ったのも必要ないと断られてしまう。勧誘するなら互いのことをもっと知り合ってからと考えていたのに。
「それで用件は?」
 高圧的な口ぶりで悪魔は話を急かした。このまま相手にペースを持って行かれるのはまずい。はいそうですかで交渉が終わってしまう気がする。共感や好意を覚えてもらうには少しでも長く会話をもたせるべきだ。
「あ、そういやじきに昼だな。飯でも食べながら話さねえ? 腹も減ってきたし」
「お前が簡潔に話してくれればすぐ昼食にありつけるさ。ぼくも戻って仕事ができる」
 希望は敢え無く切って捨てられた。ネルトリヒはこちらの思惑などお見通しだと言わんばかりだ。小手先の策は通用しそうにない。記録が事実なら彼もアラインと同じく数百年の時を生きる稀有な存在だ。やはり正面からぶつかるしかないかとバイトラークは意を決した。
「俺たちと一緒に戦ってくれないか?」
 依頼は想定の範囲内であったようだ。悪魔はハッと鼻で笑うと呆れ気味に肩を竦める。アライン・フィンスターを玉座から引き摺り下ろすと言ったときとほぼ同じ反応だった。
「わかってないな、勇者は殺せないと言っただろ? ぼくが手助けしたところで結果は変わらない」
「……そんなに強いのかよ? あの王様」
「強いよ、魔王でも神様でも敵わなかった。それに今じゃ膨大な魔力の器になってる。頭を落としても心臓を潰しても甦る正真正銘の化物だ」
 生憎自分にそこまでの力はないとネルトリヒはあっさり言い放つ。外見だけなら彼の方が余程怪物じみて見えるのに、現実はそうでないらしい。
 だがここで大人しく諦めるわけにはいかなかった。クーデターを目論んでいるとは言え国王を殺すつもりまではない。無力化してどこかに幽閉しておくとか、監視付きで一般人として暮らしてもらうとか、そういう路線で皆も考えている。とにかく玉座から降りてもらいたいだけだ。出生数の減少について知っていることを吐かせた上で。
「けど何か方法があるんじゃないのか? たったひとりの英雄に頼って生きて、先のことから目を逸らしたまま死んでくなんて俺は御免だ。アラインのやり方は間違ってる。こんな治世は終わらせなきゃならねえんだ」
 バイトラークは滾る思いをぶつけるようにネルトリヒの腕を掴んだ。このままじゃいけない。突破口を開きたい。ただその一心で。

「教えてほしいんだ、ネルトリヒ。一緒に来てくれなくてもいい。――知恵を貸してくれよ」

 振り払われた勢いでバイトラークは倉庫まで吹き飛ぶ。壁に叩きつけられた背中がしばし鈍痛を訴えた。
 これは交渉決裂かと思いきや、悪魔はまだその場を動かぬままでいた。苦痛に耐えるような表情が網膜に焼きつく。何故そんな顔をするのか推し量ることはできなかったけれど。
「……悪魔と取引するってどういうことかわかってるか?」
「えっ。た、魂を取られるとか?」
 それは嫌だなと怯んだバイトラークを見てネルトリヒは赤い眼を細めた。顔の左側を抑えながら、そんなもの要るわけないと一笑に付す。
「一週間だ。その間だけお前に協力してやる。魔法のことも一から十まで教えてやるよ」
「……い、一週間経ったら?」
「お別れさ、バイトラーク。ただしお前がぼくの名前を言い当てられたら、お前が死ぬまで面倒見てやる」
「!!!!」
 トントン拍子とまでは行かないが、願ってもない方向に話が進んでバイトラークは飛び上がった。
「一週間以内にあんたの本名当てれば仲間になってくれるんだな? 一応聞いておくけどできなかった場合どうなるんだ?」
「ぼくは静かに暮らしたい。二度と会いに来ないでくれ」
 ついでに言うとこれは個人との契約であって軍に協力するわけじゃないぞと釘を刺される。ケチなこと言うなよと文句は喉まで出かかったけれど、贅沢を言える身ではないので引っ込めた。代わりに翼をしまった悪魔に尋ねる。軍人には手を貸せても軍には手を貸せぬ理由は何なのかと。
 ネルトリヒが寄越したのはまったく意外な返答だった。そういう可能性を考えていなかったこちらもこちらだが――。
「アラインは古い友人だ。彼がぼくに害をなさない限り、ぼくも彼に害はなさない」







(20130317)